うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 ~ 長い凪の終わりに ~ 第十五話 夜にある、それぞれの運命は

第十五話 夜にある、それぞれの運命は

 

あれは、私の/私たちの、宿敵だ。

だから、殺す/倒す。

 

 

新迷宮の第五層は、かつて己が生まれ育った街、冬木そのものだった。階層の仕組みは今までのものとは異なり、本来なら五階分の階層があるだろうところを全てぶち抜いて、冬木という街がまるごと保管されている。

 

今、かつて第五次聖杯戦争が行われた街は、世界樹の大地のはるか下、現在の人間や世界の時間軸などとは関わりを断絶するような深い霧を全景に纏い、しかし過去の時代を記憶からすら風化した遺物などにはしてやらぬと主張するかのように、そのまま形を残していた。

 

私の知る過去の冬木と異なる点といえば、街全体が謎の結晶化を起こしている点と、暗がりの中にある街を覆う霧と、夜の中にあっても点灯の様子を見せぬという当然と、街中を魔物共が堂々と闊歩する異常な光景だ。魔物どもの正体を確かめるべく強化した視力でかつて繁栄した文明の痕跡を気ままに歩く魔物の姿を確認してやれば、それらはたった二種類であることに気が付ける。

 

二種類のうちまず目に飛び込んでくるのは、街中に多くいる、四足歩行を行う犬型の獣だ。人間一人くらいなら丸呑みに出来そうな真っ黒の巨体の前方に、全ての生命に対する嫌悪感が籠った一対の瞳をもち、霧の乱反射を貫かんばかりの濃い赤色の瞳の視線を街にばら撒きながら、奴らは闊歩する。

 

人間の抱える負の感情というものから、憎悪や暴虐といった攻撃的な成分だけを抽出し、煮詰めたような黒色で身体を形成する奴らは、主に冬木の西側、つまりは深山町の住宅街から表通りに面した付近を中心に位置を取っている。町を這いまわる様は、まるで血管の様だ。

 

さてそんな清々しいまでの生命に対する憎悪を撒き散らす毒潮の行方を追っていると、やがて方々の街の交差点に別種の魔物が生息している事に気が付ける。そいつは、かつて私の脳内に現れたような、頭足類の触手だけを切り取って、子供が接着剤で適当に組み上げたような稚拙な姿形をしていた。それこそがもう一種の魔物である。

 

先の犬が男の持つフィジカル的な攻撃性の象徴だとすれば、こちらは女のメンタル的な攻撃性の象徴のようだ。ヘドロ色をしたそれは、刺々しい雰囲気をもたない代わりに、体に纏わり付いてくる情念と言うものを具体化したかのような、生理的嫌悪感を引き起こす見た目をしている。

 

一呼吸ごとに、丸みを帯びた触手の全身が、うぞりと霧を纏って艶めかしく蠢く姿は、真正面より鋭利な攻撃性を主張する先の獣とはまた別種のおぞましい嫌悪感を保有しており、東洋人たる私にも、西欧の人間が何故タコを悪魔と嫌うのかを否応無しに感覚で理解させてくれた。

 

人類文化の垣根を超えて、不快の感情を根源的な部分から理解させるそいつは、まさに「魔のモノ」と呼称されるに相応しい人類の敵対者の姿の具現化であると言って過言でない。

 

犬の群れが血管であるなら、奴はリンパ節だ。血管の分岐部分に重なるようにして存在するそいつは、体を構成する触手の先が犬の黒々とした体と触れ合うと、途端全身を大きく震わせる。まるで快楽の宴に溺れているような暴走ぶりを見せる。

 

そして接触のたびに、犬は数を増やし、あるいは触手はその体を大きくする。あれが餌付けなのか、あるいは交尾なのかは知らぬが、今は一旦おいておく。異形共が交わり増殖し拡大するのを観察したところで事態の収拾は測れない。必要であるのは、宝石により魔のモノを封じる場が何処にあるか、だ。

 

―――おそらくそれは

 

本来なら分からぬ、奴ら、すなわち魔のモノにとってアキレス腱となりうる場所を、しかし私は、この冬木という街において聖杯戦争を戦い抜いたという過去の経験から、その弱点となり得る場所の予測をすることができていた。

 

―――柳洞寺の地下大空洞にある、か

 

冬木の街より少し離れた場所にある円蔵山。その山中にある柳洞寺の、さらに奥にある池の地下に存在する大空洞「竜洞」。その場所こそが、おそらくは街に這い巡らされた血管とリンパのごときが帰結する脳髄であり、心臓部でもあるはずだ。

 

大空洞は、冬木の街という土地に流れる最大の霊脈が存在する場所であり、かつて大聖杯と呼ばれる聖杯戦争の核が保管されていた場所でもある。

 

ならば、霊脈に沿って人の負の感情を吸い取る魔のモノが身を休める場所として選ぶに最も相応しい拠点であり、また、聖杯戦争の再開を謳う言峰綺礼が反撃の用意を構えるに最も適した居城であるといえるだろう。

 

その証拠に、もはや奴らの胎内となった冬木の街の魔物の流れに沿って全体を俯瞰すると、奴らは西側の深山町側にばかり数が集中していることがわかる。さらに詳細に見れば、円蔵山を中心に放射状に広がり、かつ外側の扇行くほどその密集密度が薄くなっている事もわかる。つまりは私の予想通り、円蔵山こそ、奴らの拠点であると考えて良いだろう。

 

一つ懸念があるとすれば、今までの世界樹の迷宮の傾向から察するに、その場所の最奥地に待ち受けているのは、おそらく魔のモノだけではないだろうことか。おそらく最優の名を冠するセイバーと関連する獣もまた、番人として身を潜めているはずだ。加えて、そして言峰綺礼という男もまたこの街のどこかで、我々の命を狙っているに違いないのだ。

 

―――まあ、いい

 

奴の行動について考え出すときりがない。一旦はおいて、ともかくまずは見える問題を片付けるしかない。敵の拠点の位置を暫定的ながらも定めた私は、眼下にある階段の行方が繋がる冬木のセンタービル屋上から柳洞寺までを俯瞰する。

 

直線にすれば目算ざっと二十キロメートルないだろうその道は、しかし往来する二種類の魔物の群によって埋め尽くされていて、まるで地面が見えない。その往路だけで千。街全体を見れば数は優に万を超えだろう。

 

それだけの数生息している魔物をどう対処するか。最初の問題はそれだ。馬鹿正直にあの数を真正面から捌くことも決して不可能ではないが、千、万の数を全て鏖殺して進むというのは、無駄な消耗だけを招く、いかにも非効率で愚かしい行為だ。

 

不特定多数との連戦は間違いなく疲労を招き、疲労は判断ミスと軽率な行動の呼び水となり、死に直結する。共に追放された身分である以上、今更かもしれないが、私だけならともかく、彼らに死線の上を歩かせるのは最低限度にしてやりたい。傲慢と言われようと、それは譲れぬ分水嶺だ。

 

あるいはこの場所から宝具の狙撃にて、一方的に街中や、あるいは円蔵山を攻撃するという手段がないわけでもないが、攻撃に反応して奴らが思いも寄らぬ行動にでる、あるいは、攻撃で祭壇の様なものが崩壊してしまっては、本末転倒だ。

 

ならばこの際における最善の手段は、暗殺者よろしく魔のモノに悟られぬように心臓部へと近づき、宝石にて封印してしまう事だろう。とはいえ、この場より最短距離にて柳洞山地下にあるだろう封印の場まで駆けつけようと考えたのならば、まるで血栓の如く目詰まった奴らの監視を掻い潜って柳洞寺に辿り着かねばならない。

 

新都を隠れて散策するだけならまだしも、それは難しい。新都の側から円蔵山ある深山町の方へと向かうには、二つの街を繋ぐ唯一の場所である冬木大橋をわたる必要がある。しかし橋の上では、犬型の魔物が我が物顔で闊歩しているし、また、その先にある深山町は、道という道に奴らが這いずり回っていて、もはや巣窟だ。

 

地形に沿って真正直に進むなら、まずもって戦いは避けられない。といって川を渡るのも悪手だ。幅のある川はそれなりの深さがあり、私とて一足飛びにて超えられない。渡河のさなか足をつくことのできない状態で奴らに気づかれたのなら、死はまぬがれられるまい。

 

また、群体じみた奴らの事だ。一匹にでも姿を認識されれば、情報は一瞬のうちに共有される可能性もある。獣ごときにいくら襲われようと負けぬ自信はあるが、ぐずぐずしていると、この層の番人や言峰綺礼、魔のモノが直々に円蔵山より出てくる可能性も考えられる。

 

アーチャーの名を冠する私ならば、高度と視界さえ確保できれば、見つかった時点で、その地点から敵の本拠地にまで一挙に宝具を打ち込むことも可能であるが、もし万が一、言峰や魔のモノが彼女の宝具を再現していたのならば、遠距離による宝具を用いての勝負に持ち込むのは悪手だろう。

 

前回のバーサーカーの宝具の再現において、十二あるはずの試練が一つ足りなかったことから、流石の奴らも、格の高い英霊の宝具や能力は完全に再現できないのだろう、と楽観気味な推測もできる。

 

だが、それでも、アーサー王たる彼女の宝具、魔力を光に変換し、超高密度な光の断層を生み出して敵を討つ神造兵装「約束された勝利の剣/エクスカリバー」と、次元遮断により物理攻撃をシャットアウトする、無敵の完全防御兵装「全て遠き理想郷/アヴァロン」が、ある程度以上の性能を再現されているとすれば、私の遠距離射撃など無力化され、返す刀で私はおろか、彼らごと消滅してしまう危険性もある。

 

セイバーすなわちアーサー王の伝承から、この度いかなる獣が出現するかのおおよそ予測が付いたので、対策として有用そうなアクセサリーを持ってはきたが、果たしてそれが彼女の攻撃にどこまで耐えてくれるかは、それこそ天のみぞ知る話である。

 

―――とにかく、それも彼女と対峙しなければ意味のない話。

 

話を元に戻そう。まず目的地にたどり着くことこそが肝要だ。

 

かつてのように、この身が英霊というエーテルで構成された体で、また、未知なる敵という存在がなければ、パラシュートでも投影してこの天高き場所から柳洞寺目掛けスカイダイビングよろしく飛び降りるという強引な突破を試みても良かったかもしれない。

 

だがあいにく、私は現在、生身の肉体となっており、また、同様に生身の体である仲間がいる今、空中で身動きの取れない状態に陥る、あるいは着地の際に衝撃を殺しまでの瞬間、無防備な時間を作る事になるその案は、いかにも下策であるように思える。

 

一人で考えるも、まるで名案というものは思い浮かんでくれない。私にとって、状況が特異かつ常識はずれすぎて、知識から答えを引っぱり出せないのだ。

 

―――さて、どうしたものか……

 

「どうした、進まないのか? 」

 

安全な暗殺の方法を考えていると、ダリが後ろから話しかけてきた。振り向けば地上の様子を眺めていた彼等は、いつの間かすっかり元の調子を取り戻している。

 

「いや……、あれをどうするかと思ってな」

 

眼下の霧の街の適当な場所を指差すと、彼等は不思議そうに首を傾げて尋ねてくる。

 

「あれ……とはなんだ? 」

 

―――ああ、そうか、通常の視力では街の詳しい様子を見て取ることができないのか

 

「―――、今、君たちが一望していた街の中、特に片側の方、霧の中を赤い光が蠢いていただろう? あれらは全て魔物だ」

 

告げると彼等はすぐさま言葉の意味を理解すると、それが示す答えを予測して顔を顰めてみせた。唯一、楽師の彼だけが、涼やかな常と変わらない笑みを浮かべている。

 

「おいおい、まじか。灯りじゃなかったのか……。どんだけいるんだよ……」

「なるほど……、確かに目凝らしてみれば、動物の動きをしている。目的地もわからんのにあれ全てを相手にしての探索は馬鹿げているな。まずは方針を立てるのが先決か」

「そうですね……、今の私たちは手持ちの道具も限られていますし……」

 

一同は、私の告げた言葉を当然のように事実として受け入れた。その行為に、彼等から私に対する無条件の信頼を感じて、私は少しばかりの歓喜の感情を抱いた。

 

「いや、目的地なら検討がついている」

「……なに?」

 

だから、私も彼らを信じて、素直に情報を提示することにした。

 

「あそこだ。東西に広がる街の、田園が多く広がっている方の山の上を見てくれ」

「―――少し離れた場所に、池らしきものがあるな」

「ええと、でかい平屋の建物もある」

「そうだ。その場所だ。街の全景を見ると、その場所を中心に放射状で敵の数が増えていっているのが分かるだろう? おそらく、その密度の最も濃い場所の中心地、つまりはダリの言った、円蔵山にある池の、その地下にある大空洞―――通称「竜洞」に、敵の親玉が潜んでいるものと思われる」

 

柳洞寺の裏手を指差してみせると、彼等はその場所を目視して大まかな場所のみ確認したのち、私の方に向きなおして尋ねてくる。

 

「本拠地の見当をつけた理屈はいいとして、君はなぜ地形の名前を知っていて、地下の空洞があり、そこに潜んでいるといいきれるのだ?」

「簡単な話だ。それは、ここは私が過去の時代において育った土地であり、そしてかつて同じように街中を戦場として潜む敵と戦った経験があるからだ」

 

ダリの問いに、私はやはり素直に答えた。彼等は返答を聞いてようやく全員が驚きの様子をみせたが、すぐさまそれぞれに笑いを浮かべた。

 

「なるほど、そりゃ詳しくて当然だ」

「では、頼りにしていいのだな?」

「―――ああ、勿論だ。存分に頼りにしてもらって構わない」

 

サガとダリは普通なら問い返してくるのが普通であろう事情を耳にして聞いて、なお無邪気に尋ねてくる。信頼を覆さない彼等の態度に、ようやくもって私は、不信や侮りを含まない、信頼の感情のみを返礼の中に込めて返すことができた。

 

「で、さしあたってどうするのが最も効率がよろしいのでしょうか? 」

 

ピエールが楽器を鳴らす事なく尋ねてくる。敵地、眼下に無数の敵が群がる中で大きな音を立てる愚行は避けたのだろう。飄々と皮肉を述べるだけでなく、きちんと話を前に進めるあたり、中立と傍観者の立場を謳うだけのことはある。

 

「単純化して考えよう。まずは、真正直にあれを突っ切るのを良しとするか否かだ」

「勿論、否だ」

「同じく」

「私も反対です」

「まぁ、まともな神経をしているのであればそうなりますよねぇ」

 

返ってくる否定の意思に苦笑いしながら、私は再度問う。

 

「さて、ではどうする? この階段を下った先、新都より本拠地に向かうためにはあの川を渡過してやる必要がある。装備を脱いで無防備な状態で川を泳ぐは悪手であるし、敵の屍山血河を築く覚悟がなければ、あそこまで辿り着けんだろう?」

 

我ながら意地悪く聞くと、全員が律儀に思考を開始する。その様子を微笑ましく見守りながらも、私も最高の答えを編み出すべく、しばしの間、己の思考に没頭する。

 

やがていくつかの応答の後に編み出された彼等の回答を得て、なるほど、奇策とは常に己の常識の慮外に存在するのだなと感心する。同時に、私の常識からすれば外れた事実を前提とする案を提出する彼等は、私とは似たようで異なる感性を持つ存在であることを認識させられた。

 

 

「本当に、いいんだな? 」

 

投影した弓を構えつつ尋ねる。彼等より提案された策には、正直、今でも多少の不安を抱えているが、彼等を完全に信じるならば、今のところ最善の策であるように思えた。

 

「大丈夫だって、お前の能力とこいつのスキルがあれば、いける、いける」

「うむ、この距離で、というのは初めてだが、まぁなんとかなるだろう」

 

サガの軽口とダリの言に嘆息すると、足元よりどこまでも長く伸びた鉄の鎖の行方を追いかける。頭上に開いた穴の奥にまで伸びたその蛇腹の鉄鎖は私が投影したものだ。

 

穴へと伸びた鎖の先端は百に分離しており、先端の剣には簡単に抜けないよう返しを大量に施し、その上でステンドグラスの間と、この場所へと続く短い洞窟の、あらゆる場所に埋め込んである。そして洞窟の中から私の手元へと続く鉄鎖は、私と洞穴の段差の上に数十往復ものしていて、重なり合って山脈を作っていた。

 

「じゃ、ちょっくら、仕事してくる」

 

言うとサガは洞穴の中に消える。

 

「氷結の術式!」

 

そして聞こえる彼の声とスキルの名称。その後、大気中の水分を急激に凝結した際の、擦れた耳障りな甲高い音がしたかと思うと、天井が多少揺れる。その後何度か同じことが繰り返されたかと思うと、やがて彼が出てきて、もういちど同じことを行い、洞窟は完全に氷にて完全に封鎖されてしまった。

 

「おまたせ。上の方は特に念入りに氷を張っておいたぜ」

「フリーズオイルをばら撒いて、鎖にも塗ったので、多分、強度も……うん、大丈夫です」

 

サガはアムリタという己の精神力を回復すると言う秘薬を飲みながら、軽くいう。フリーズオイルとは、本来武器に塗り込むことで、切った部分を凍らせる力を持たせる道具だ。それを今回、鎖と杭に塗ることで、より二つがより強固に土壁面とくっつくようにしてあるのだ。

 

響は鎖に塗り込んでいたオイルの効力が発揮を確認する。やがて準備完了の合図とともに、彼女は通常なら矢羽のある部分が先の鎖と繋がっているその矢を、凍りついた洞窟より伸びている細く頑丈なザイルと共にダリに渡した。

 

彼は特別製のそれらを受け取ると、ザイルを強く己の腹の装備に括り付けたのち、頷く。

 

「―――よし、やってくれ」

 

ダリの言葉を受けて、私はもう一度全員の顔を眺め、その瞳に覚悟の光があることを確認すると、私は不安を一旦別の場所へと押しやるとともに、攻撃用の矢―――すなわち剣を投影し弓に番えた。

 

視線を足元へ。はるか下にある街の中へと移す。目線を移動する際、最中、目的の場所である冬木センタービル隣の公園から少しばかり外れて、東南方向にある丘とそこにある建物が目に入る。

 

―――冬木教会……

 

因縁の敵が拠点としていた場所。私の聖杯戦争の序幕が始まった場所。私が凛によって眠りについていたという場所。そして言峰綺礼という男が凛を処分したという場所。それを目にしたことで、私の心中にあるテンションのボルテージは一気に上昇する。

 

そう、これだ。今必要なのは、敵の急所を気取られず静かに貫く為の冷静さではなくて、戦意を叩きつける挑戦的な烈火の意思だ。

 

「了解だ……!」

 

湧き上がった憤怒の思いを矢に乗せて、鏃の先端を目的の場所へと修正する。やがてその先端が寸分違わず公園の中心をさしたと同時に、私は弦持つ手から力を抜いて、矢を解放した。

 

射出された無名の宝具は、私の強化魔術と重力の力を受けて、瞬時にはるか眼下の地面に突き立つ。投影した武具が懐かしの大地と接触したのを見切った瞬間、一言を呟いた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

この度矢として使用した剣は、ランクの低い宝具に過ぎなかったが、それでも夏の短夜に支配された街の闇を、一瞬だけ光で支配する程度の効力は持っていた。やがて響き渡った爆裂の音色と広がった光が失せた時、大地に蠢く魔物どもは異常事態に気がついた。

 

「――――――!」

 

真っ先に反応したのは、公園周辺の魔物どもだった。己の領域に対する突然の暴力行為に、怒り狂った雄叫びがあがる。それはやがて橋から深山の街を遡って、柳洞寺の間にいる魔物どもへと伝播し、奴らは次々と活性化してゆく。

 

しかし異常信号が山に到達した後、魔物たちは一斉に山側から静まり返ってゆく。そして赤の光の波が、深山に街から新都の方へと動き出す。異常の報告を受けた司令部が侵入者排除の命令を出したのだろう。

 

しばらくの間、血液が循環する如き様をしばらく眺めていると、やがて強化した視界に、深山の街にいた多くの魔物が新都に進行しながら、攻撃が具体的には何処より行われたものであるか探る視線を周囲に向けているのが映る。

 

頃合いを見計らって、剣にショックオイルを塗った後、先ほど同様に数度も矢を連続して叩き込む。雷の属性を身にまとった矢は、空気との接触により尾を引いて夜の闇に輝きを残すと、すぐに地面と接触する。それと同時に剣を爆裂させた。

 

「――――――!」

「―――!」

「―――――――――、―――!」

 

闇の中を切り裂きながら下降する矢は、奴らにこの暴行を行った下手人が、冬木にて最も高いビルの屋上、その天井より続く階段を登りきった場所にいると悟らせた。視線の集中を感じて、わざとらしいまでに殺気をばら撒いてやると、直後、近場にいた奴らは、怒り狂って結晶化したビルの内部へと飛び込んだ。

 

闇の中、奴らをその内部に取り込んだビルは、振動と赤い光で奴らの進行状況をつぶさに知らせてくれる。ビルがうねる場面など、大地震か解体現場以外でお目にかかれるまい。

 

「―――来た……!」

 

奴らの殺到により屋上の扉が障子紙のように突き破られた瞬間、彼らに合図を送る。ダリは先ほど仕掛けを施した矢を私に手渡し、そして自らは伸びた矢より伸びている鎖の連環を軽く手に握った。

 

響とピエールは、鎖を掴むダリの体が、手すりのない階段からずり落ちないよう、片手でしっかりと彼の足を掴み、もう片方の手でつるりとした階段の断面を持ち、己の体を固定した。サガは一人、彼らのさらに下の段の部分で解放した籠手を、眼下へと構えていた。

 

「ではいくぞ……!」

 

彼らの準備が滞りなく終わっているのを確認すると、私は矢羽の部分に鎖のついた矢を番え、過剰と思えるほどに強化を施すと、弦より射出した。過剰な重さを後方に加えられたそれは、しかし空中を三秒かけて十キロ程度直線に進み、やがて自重と後ろに続く鎖の勢いに負け、放物線を描いての落下を開始する。

 

「―――ぬ、……ぐぅ、……っ! 」

 

ダリの役目は釣り竿のリールのそれに近い。作戦は、射出した矢に繋がる鎖が絡まってしまえばそこで終わりである。故に決してそんな事態にならぬよう、ダリはその両手と全身にて鎖が円滑に矢の後ろについていけるよう、己のスキル、フルガードによって鎖がスムーズに宙へと飛び出せる様、サポートを行っていた。

 

だが彼の足元はつるりと滑る階段であり、踏ん張りが効きにくい。ジャラジャラと音を立てる鎖の勢いに、ダリの全身はガタガタと揺れて、今にも滑り落ちそうだ。そこで、響とピエールの出番だ。

 

二人は、彼の体が決して動かぬようにと彼の金属鎧に包まれた足を抱え込み、さらには二人が使用できる日常レベルの氷術にて彼の足元を階段ごと凍らせ、固定の状況を保っている。彼らが必死の形相でダリが滑落しないよう、振動を抑えていた。

 

やがて彼らの献身の甲斐もあって特別製の矢が地上へと着弾すると、後部にひっついていた鎖ごと地面に深くめり込み、鎖がぴんと張り詰めたくらいで停止する。固定化がうまくいったのは、フリーズオイルが、矢が地面へと突き刺さった瞬間、その周辺を凍らせたおかげでもあるのだろう。

 

そしてこの場所と目的地であるかつて穂群原学園と呼ばれた学び舎の校庭との間に出来上がったのは、一辺だけが多少歪んだ直角三角形だ。

 

「炎の術式!」

 

直後、サガが巨大な機械籠手を装備していない方の手でスキルを発動した。籠手の力を利用せずに放たれたそれは、それでも氷を蒸発させる威力は十分に持ち合わせていて、すぐさまダリの足とサガ、響の手の氷は溶かされ、彼らは自ら作り出した氷の戒めより解放される。

 

「―――っ!」

 

ダリが少しばかり苦い顔を浮かべた。炎の余熱が鎧を伝わって多少彼に害をもたらしたのだろうか。だが彼はその痛みを転機とすると、天井より地面にまで伸びた鎖の上に自らの槍を引っ掛けると、鎖を跨がせた柄の部分をしっかりと握りしめ、命綱となる紐もカラビナも付けず、階段より中へと身を投げ出した。

 

「はっ! 」

 

私はすかさず彼の体に巻きついているザイルを手に取り、確保し、そしてダリの背中を強化した脚で、おもいきり蹴り飛ばした。金属鎧と靴底の鉄板がぶつかり合い、鈍い音をたてる。蹴りにより勢いを増した彼の体は一瞬真横に進むが、すぐさま重力の影響を受けて下方向へと落下すると、槍が鎖の上を滑り、グラインドを始めた。

 

「―――ぐぉ、お、……おぉ、…………おおおおぉぉぉぉぉ―――」

 

そして彼は、冬木の夜の闇の中を滑空する。背後よりの衝撃に流石に声を抑えきれなかったのか、彼は声を漏らしながら、角度のついた鎖の上を滑りゆく。事前にフリーズオイルを塗り、槍と鎖の間に生じる摩擦と抵抗は極限まで減らしてあるためだろう、その動きは思ったよりもずっと滑らかだった。

 

「っ!」

 

同時にダリの落下エネルギーが速度に変換され、彼の下降に伴って、ザイルが飛び出る勢いも増してゆく。今度は私がリールの役目をする番である。彼を蹴り飛ばした後、階段を踏みしめた足には、響とピエールが先ほどと同じ様にひっついていた。ダリと違い、金属製の鎧で足を覆っていないため多少足が冷え込むが、まぁ、必要経費というものだろう。

 

彼らの援護もあって、体が階段より滑り落ちることはない。また、ザイルにはフリーズオイルが塗られているため、摩擦と熱の痛みは軽減され、滞りなくその細身は宙に飛び出していく。わけだが、そのフリーズオイルのおかげで私は、手が削られ、焼かれながら、瞬時に凍りついてゆくという、初の体験を味わうこととなった。今更ながら厚手の手袋を投影しておけばよかったと後悔するも、もはや遅い。

 

振動と共に訪れる不可思議な痛みを感じた脳は、手中にある理解の及ばぬ存在であるザイルを手放せと警告を鳴らしてくるが、彼が地面に着くまでの間は絶対に放してやるものかとその命令を無視する。また、手中にて行われている、凍った端から溶けて、また凍るという行為により、私の手は見る間に薄く赤い氷に包まれてゆく。

 

「あの、すごいことになっていますけれど、本当に大丈夫ですか……?」

「ああ、なんてことはない……それより見ろ……」

 

その光景はこの世界の住人である響にも異常と映ったらしい。気遣ってくれた彼女に強がりを返し階段へ視線を向けると、私の視線に意識を誘導された彼女は、気づき、叫ぶ。

 

「敵が! 」

「任せろ、一直線の階段なら、いくらでもやりようがあらぁ! 氷の術式! 」

 

すぐさま階段より押し寄せてくる敵に対してサガが氷の術式を解き放った。彼の眼前より前方に巨大な氷塊が生まれ、それは綺麗に階段を沿って転げ落ちてゆく。

 

それはやがて登ってくる獣どもを押しつぶしてセンタービルの屋上にまで移動すると、屋上の一部壁面を粉砕しつつさらに向こう側に飛び出して、地面へと落下してゆく。まるでハリウッド映画のワンシーンの再現だ。

 

「すごい……、敵が見る間に落ちてく! 」

「はっはっはぁー! 遠距離から狭い場所で一方的に嬲れるならこっちのもんよ! 」

「それ、自慢げに言える事ですか? 」

 

どこぞの考古学者味わった様な苦しみを経験した獣は、悔しさに遠吠えをあげながら落下してゆく。そんな光景を目前にして繰り広げられる緊張感のないコントのバカバカしさに、多少苦痛が軽減されるのを感じていると、やがてその衝撃は唐突に消え去った。

 

ダリだ。おそらくザイルの結びつけてある彼が、落下による凄まじい衝撃をパリングのスキルで受け流したのだろう。つまり今、彼は地面に降り立ったのだ。そして眼下、獣どもが蠢いていた冬木の街を見てやると、今や魔物のほとんどが新都にやってきていて、ビルの下にて群がっている光景が目に映る。

 

ただ敵の一部ではあるが、ダリが山の近くにある穂群原学園に降りたった所業を見て、慌てて身を翻して山側の方へと引き返している魔物もいた。獣の移動速度は速いが、とはいえ、これだけの距離があれば、我々が彼に続く時間くらいは稼げるだろう。

 

「そら、順番が来たぞ! 」

 

とはいえ時間が惜しいのも確かだ。急がせなければならぬと三人に呼びかけると、サガは先ほどと同じような動作で二人の氷の縛を解除すると、サガとピエールは己の体につけたカラビナと安全綱を地面にまで伸びたザイルに引っ付けて、二人は迷わず飛び出して行った。

 

「では、お先に失礼」

「後でな! 」

 

事前に薬にて物理の耐性を上げてあるとはいえ、よくもまぁ、四キロもの上空から迷わず身投げを行うものだ。スキルというものに絶対の信頼を置く態度にはやはり感心してしまう。彼らにとって、スキルが効力を発揮するのは、呼吸をした際、肺が酸素を取り込むのと同様に当たり前のことであると知りつつも、驚きの感情が生まれるのを抑えられない。

 

などと考えていると、残る一人の少女がザイルに身を確保した状態で飛ぶのを躊躇っていることに気がついた。彼女は足元を見て体を震わせ、目を瞑って天井を見上げ首を振ると、力を込めて無理やり目を開けて眼下に視線を落とし、そしてもう一度全身を震えさせて階段にへたり込んだ。

 

「―――怖いか」

「あ……、はい」

 

問うと彼女は思いの外素直に返答してくれた。

 

「無理もない、この高度だ。よくも彼らは、ああも戸惑いなく飛び降りられるものだ」

「迷宮の外では大地にぽっかりと穴が開いているので、深い場所にでも調査のために降りていく機会もあると聞きます。彼らにはその経験があるから、迷わずいけるのでしょう……」

「ふむ」

 

なるほど、そういえば迷宮にて探索と戦闘と地図作成ばかり繰り返していた故忘れていたが、冒険者とは本来、そういう外部での活動こそが本来の彼らのあるべき姿だったと習った事を、今更ながらに思い出して納得する。

 

「なるほど、そういえば、君は正式な戦闘職とやらではなかったな」

「ええ、ですからこういったことには慣れていなくて……」

 

震える彼女は、しゃがみこんだ体で下を見ると、己の体を支えているものが、透明な素材で作られて薄い板である事を今更ながらに思い出したようで、余計に全身を大きく小刻みに震わせる。

 

気丈にも弱音だけは吐かない彼女に何か声をかけてやろうかとすると、雄叫びが耳朶を打って不快な遠吠えが耳の中に入り込んでくる。音量に反応してそちらを見れば、階段の半分以上を奴らは行儀よく並びながら進軍して近づいて来ていた。

 

私はいつもの双剣、干将・莫耶を投影すると、振りかぶって思い切り奴らに投げつけた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム―――、そら、行くぞ!」

「え、きゃっ! 」

 

爆裂が敵を包み込むと同時に、私は彼女を抱えて空中に身を翻す。フリーフォールというには角度が柔らかすぎるそれは、しかし背後にて起こった爆発の勢いと私の強化した足の勢いにより最高の初速度を伴っての滑り出しによりすぐさま風切る速度となる。

 

「きぃやぁあああぁぁぁーーー、んむぅ……」

「黙ってろ、舌を噛むぞ」

 

突然の暴挙に口を閉じるのも忘れて悲鳴をあげていた彼女の口を、顎を抑えて無理やり閉じてやると、再び意識を前方に集中する。

 

―――ふむ

 

そうして自由垂直落下よりは大分安全な空中散歩の途中、眼下に広がる深山の街中に見覚えのある豪華な屋根を見つけて、ひどく懐かしい気分を抱く。

 

―――そういえば、凛に呼び出された直後も似たような体験をしたものだったか

 

うっかり家中の時計の針をずらした事を忘れたせいで、己のコンディションが最高になる時刻を間違えるというミスをやらかした彼女に呼び出された私は、一体彼女がどういうミスをやらかしたのかは知らぬが、眼下にある丘の上に目立つ、遠坂家のはるか上空へと投げ出される羽目になったのだ。

 

やがて落ちた衝撃にぶち壊れた居間の清掃を彼女に命ぜられた私は、次の日、彼女の望み通り普段通りの生活をこなしながら英霊ひしめく戦場へと赴き、そして、その夜、この度目的の場所としている穂群原学園の校庭にてランサーと戦闘をしたのを皮切りに、私と彼女の聖杯戦争は本格的に始まった。

 

―――これもまた縁というやつなのだろうか

 

冬木の中でも特に縁ゆかりある場所に想いを馳せながら、最終決戦の火ぶたを切るというのはなんとも運命的だ。そんなセンチメンタルに駆られた私は、直後、我ながら似合わないなと自嘲し、内心にて笑い飛ばす。

 

「見えたぞ」

「ん……!」

 

現実に意識を戻すと、彼女の顔に添えていた手を動かし、到着の時が近いことを教える。硬く閉ざされていた響の目がうっすらと開かれ、直後、彼女はその目を大きく見開いた。おそらく、凄まじい速度で景色が過ぎ去ってゆく光景に驚いたのだろうと推測。

 

やがて四十秒ほどの滑空の終着地である校庭に、ダリの姿が目に入る。二秒ほどもしないうちやってくる衝撃の瞬間に備えて姿勢を整えると、彼は盾を構え、防御の姿勢をとった。

 

「――――――パリング! 」

「――――――」

 

物理攻撃をシャットするこのスキルを駆使して、己が着地の際の衝撃をかき消し、またこうして味方を受け止めるというのが、今回の大幅ショートカットの肝だ。スキル発動直後、我々の体が彼の盾に触れた瞬間、すでに音速の速さを超えていた我々の体に秘められていた威力は全て消え去り、彼の盾の前にて自然に停止した。

 

なるほど、調査や探索を行う衛兵という職業につくものの、大半がパラディンのように盾持つ理由がよくわかる。不意の事態、つまりは、落とし穴だの足を踏み外した際にも、生存の確率を大いにあげることが出来るが故のものなのだろう。

 

やがてスキルにより動きの自由を奪われていた私が、己の体に重力が正常に働いたのを自覚すると、身を預けていた盾を離れて地面に降り立つと、腕の中にいる響が一瞬ぐらついた。

 

衝撃はなかったはずだが、あるいはこの長距離空中スライダーの速さに酔ったのかと、体を支えようとするが、彼女はよろめいた体をふらついた一歩で踏みしめると、己の意思で見事に地面の上に体を固定した。

 

「いけるか?」

「勿論です」

「では早速」

 

そうして彼女が戦意を失っていない事を確認すると、ピエールがスキル「韋駄天の舞曲」を発動する。我々の全身を巡る血液の循環が早くなり、酸素の運搬量が増え、行動速度が上昇する。

 

「―――よし、では行こう。案内は……」

「ああ、任せておけ―――、こちらだ」

 

身体能力向上を確認したダリの言葉を受けて、私は校舎裏の林を指差した。すると、背後より連鎖する獣どもの遠吠えが共鳴して、我々の身を包み込んだ。そう易々と行かせてたまるものかと、叫んでいるようだった。我らを取り囲んでいる湿った空気に、進軍を阻んでやると言わんばかりの圧力が伴った。

 

「目的地はすぐそこだ―――、行くぞ」

「まてまて、そう慌てるな」

 

その不快感を無視して宣言すると、彼らが頷くより先に、獣どもの咆哮よりもはるかに小さな低く重く、そして不快な声が、反響する高音の中をも通り抜けて、耳朶を打った。計画通り高所より無事に着地し、大幅な時間と手間の短縮に成功した喜びは瞬時に消え去り、常とは真逆のベクトルを持つ感情の波が心中に溢れだす。

 

「つれないではないか。客人の来訪に備えて大勢を引き連れて歓迎の準備を整えていたのに、主賓に会場を素通りされてしまっては、白けてしまうというものだ」

「貴様―――」

「他人の善意を己の都合で無碍に台無しとするのは、正義の味方らしからぬ、恥ずべき行為だと思わんかね? なぁ、エミヤシロウ」

言峰綺礼……! 」

 

奴の語る巫山戯た内容の話など頭の中に入ってきていなかった。振り向き眼球が奴の実体を目に収めた瞬間、一気に沸点を通り越して爆発した殺意は、一秒でも早く眼前の不快を取り除けと間断なく命じてくるが、溢れんばかりの膨大な感情の奔流を意思の力をもってして抑え込む。

 

瞬時に敵めがけて飛びかからんとする己の不用意な行動をそうして抑制できたのは、生まれた感情を殺すという作業が、生前も、死後も、心の外殻が擦り切れ、抱えていた理想を磨耗して見失ってしまうほど繰り返してきた手慣れたものであるからだろう。

 

―――焦るな、奴の言動と性格を読めば、何らかの罠が用意されているのは明白だ……!

 

悪辣の権化たる性格の男が、なんの策もなしに、敵前へと姿を晒す事など考えられない。

 

―――だから、奴を殺したければ、急くな、焦るな。条件が整うまで、その時を強かに待て。

 

「―――くくっ、心地よい殺気だ。お前の苦悩が手に取るようにわかるぞ。……どうした? 目の前に貴様のマスターを殺した憎っくき仇がいるのだぞ? その身の内に溜め込んだ激情のままにこの体を切り裂けば、今、貴様は本懐を遂げる事ができる。さらにはその上、主人に忠実なサーヴァントとして、義理も果たせる。そんな絶好の機会だろうに」

「――――――っっっ! 」

「ああ、それとも、やがて目的達成による快楽をより良きものにするため、限界まで我慢をするタイプであったのか? 排泄行為は、対象を溜めこむほど、多ければ多いほど、その後、体外に排出する際に一層の快楽をもたらすからな。―――く、く、くく、はは、ははははっ」

「―――貴様……!」

 

怒りに歯軋りをすると、高笑いが返ってくる。奴の一々全ての行為が、私の脳裏にて不快の感情の源となり、キリキリと万力で締め上げられたような痛みが頭全体に響き渡る。

 

絶え間なく押し寄せる不快の感情を押しとどめるべく、上下の歯が互いに押し合う力で突き抜けてしまいそうなほどに噛み締めると、挙動から私の内心を見破った奴はさらに愉悦の感情を増幅させたようで、高らかに笑って見せる。その事実に私は不快の感情をより高めた。

 

「―――エミヤ。あれはなんだ」

 

投げかけられる疑問の声。我々の不毛の問答に割り込んだダリの冷静な声に答えるべく、脳は怒りの感情を沸騰させることにのみ利用していた熱量を思考に割り振り、お陰で私は少しばかり冷静さを取り戻す事ができていた。

 

言峰綺礼―――、他者の絶望と苦悩を己の喜びとする男であり、私の仇敵であった人間であり―――いまは、魔のモノの手先となっている奴だ」

「そうか。つまりは我々の敵という事だな」

 

ダリの、戦闘移行動作がスムーズに行われる。彼が言い切ると、応じて全員が戦闘態勢に入る。一様に注意の視線を集めた言峰は、その場にいる敵対者全ての目線が己に集中した途端、薄ら笑いを浮かべた。

 

思い通りに事が進んでご満悦と言った言峰の表情から不穏の空気を読み取ると、奴が登場した時の台詞を思い出して、納得した。

 

―――なるほど、これが狙いか

 

「そう、私が倒すべき、最悪の性格をした敵だ。だから、君たちは先に進め」

「なに? 」

「……」

 

返ってくる疑問の声を一旦保留して視線を言峰の方へと送ると、奴は先ほどの笑みは能面に貼り付けたかのような不自然な無表情のものへと変化していて、それが私が看破した予測の正しさを証明しているようだった。

 

「私たちの勝利条件は、宝石にて魔のモノを封印すること。対して、魔のモノの手先になっている奴の勝利条件は、それを防ぎ我々を殺害すること。慎重を期して裏方に徹し姿を隠してきた男が姿を舞台に現れたというなら、それは我らの進んでいる方向が間違っていないのを示しており、我々の行おうとしていることが奴、すなわち魔のモノにとって都合の悪いことでありのだと認識してよかろう。―――、受け取れ」

 

言いながら赤い宝石を胸元より取り出すと、響という少女めがけて投げる。彼女は少し戸惑いながらもその巨大なルビーをしっかと受け取った。放物線を描いて空中を進んだ宝石を見た言峰は、私が彼女の宝石を手放した事が意外の事態だったのか、驚く様子を見せた。

 

「エミヤさん、これは……」

「行け。それを使う場所は、おそらく大空洞にある」

 

円蔵山の方向を指差して断言すると、言峰と真正面から対峙する。奴は能面の表情を崩さない。互いが不倶戴天の敵とする相手に向ける双方向の殺意が満ちる中、言峰の背後の闇の中から雄叫びと咆哮が響き、地面を揺らした。それは背後の彼らを動かす合図となる。

 

「……、作業を終えたら、すぐに戻ってきます」

「ああ。―――いや、不要だ。私もすぐに因縁にケリをつけてそちらへと向かうさ」

「了解だ―――死ぬなよ、エミヤ」

「ご武運を」

「負けたら承知しねーぞ! 」

 

彼らそれぞれの思いをこちらに投げかけて遠ざかって行く。私は気配と声が遠のく様を聴覚と触覚で捉えながら、他の感覚全てを言峰へと向けていた。

 

奴が彼らの進行を防ぐため動こうというそぶりを見せた瞬間、その隙を狙って即座に斬り捨てる予定であったが、予測に反して奴はまるで動かず、ただじっとこちらを見たまま、姿勢を崩さない。その予想外の挙動がひどく不気味だ。奴の目論見が読めない。

 

「―――何が狙いだ」

 

やがて校庭から彼らの足音が聞こえなくなったのを見計らい、私は奴に問いかけた。するとは奴は、ようやく顔面の筋肉を動かして、抑えきれない愉快を表すかのように、くっくっ、と唇を歪めて、呼気を漏らしながら言う。

 

「今しがたお前が見事言い当てたではないか。その通り、私の目的は足止めだ」

「ならば彼らが進むのを見逃した」

「見逃した……? 」

 

言葉に奴は、笑みを深める。

 

「何がおかしい」

 

自然体に開かれていた両肩を左右に揺らした。暗がりの中、奴の笑い声はやがて整った腹式呼吸のものとなり、自然体は徐々に戦闘を見据えたものへと変化する。カソックの奥で、体の揺らぎが徐々になくなって行く。

 

「いや、なに、獲物が思い通りの罠に嵌ってくれたのだ。思い通りにいった愉快を笑うなとは、酷と言うものだろう。……なぁ、エミヤシロウ。なぜこう考えようとはしないのかね? 私は今、予定通りに、奴らと貴様分断し、そのうえで貴様を足止めできているのだと……!」

「……! 」

 

思いがけぬ言葉に意識が彼らの方へと向かった私の一瞬の隙を狙って、奴は私に襲いかかってくる。聖堂教会の代行者たる奴が収めている戦闘のスタイルは、八極拳。傷を開く事が得意な奴にぴったりの、相手の守勢を打ち崩し、急所への門を開かせる武術だ。

 

奴は丹田に溜め込んだ気を胸の中にて爆発させ、一息でこちらの間合いに飛び込んでくると、両腕を左右の掌を上に独特の構えから、左足にて地面に踏み込むと同時に、その勢いに乗じて縦拳が突き出される。

 

「―――っ!」

 

発勁とともに顔面めがけて繰り出された右拳による点の攻撃を、強化を施した片手で払ってやろうとすると、奴の拳が開き、私の左腕に絡み付こうとしてきた。蛇の絡みつくような所作に悪寒を感じて、無理やり体を後ろに逸らして引っこ抜くと、崩れた体制のところ私の無防備な脇腹へと左の拳が突き入れられる。

 

「―――ぐっ!」

 

本来ならば、振り払った私の手を掴み、体を引き込んでからの左崩拳、右拳、右肘の連撃だったのだろう攻撃は、私が手を体ごと後ろに引いたことにより、不完全な一撃に終わっていた。右の脇に鈍い痛みを感じつつも、強化をした足で数十メートルほど後ろへ跳躍し、奴と距離を取る。奴は怪訝な顔を浮かべたが、すぐさま納得の様子で頷いた。

 

「これを避けるか……―――そういえば、貴様は凛の弟子でもあったか」

「おかげさまでね」

 

己の連続攻撃の仕掛けが見破られた要因に思い当たったようで、呟いた言葉に対して、律儀に予測が正解であることを答えてやると、奴はつまらなそうに舌打ちを一つ漏らした。少しばかり胸のすく思いがした。

 

かつて私のマスターであった凛という少女は、目の前にいる言峰綺礼という男から八極拳の手ほどきを受け、その戦闘技術を習得していた。そんな彼女が魔術の秘奥を研鑽するためにロンドンに留学していた頃は、しょっちゅう練習がわりの組手に付き合わされたものだから、八極の散手の基本的な流れくらいなら私も読み取れる。

 

とはいえ奴が人体破壊のため独自にアレンジを加えた八極拳は、凛のそれとは比べ物にならない修練と功夫の積み重ねにより、彼女より更なる達人の域にあるものだが、とはいえ基礎的な部分は変わらない。師より受け継がれた流れと呼吸というものはどうしても似通ってくるものだ。

 

つまりは、皮肉にも、奴が戯れに凛に武術の手ほどきをした事が原因で、私は今の攻撃を最小限の被害にてやり過ごす事が出来たというわけだ。

 

「投影開始/トレース・オン」

 

即座に常の武器を両手に投影して両腕をだらりと落とした戦闘体勢に構えると、奴も呼応して、再び肩幅を開いて自然体に戻り、丹田に気を練り始めた。奇襲による一撃を防がれたからだろう、やがて片手を前に突き出す、徒手空拳多くの武術に共通する構えへと移行する。

 

「不意の一撃故遅れをとったが、二度目はない」

「どうかな、わからんぞ。武は矛を止むるを以ってすとは、かつて春秋左氏伝の誤解が多く世に広まったが、本来、矛にて困難を切り開いて荒々しく突き進むことこそが武の語源だ。ならば、鍛錬を積み重ねれば、あるいは武術が強者を打ち崩す矛となるのは道理だろう? 」

「は……、外道に堕ちた神父が道理を語るとは笑わせる」

「道理、真理というものは常に人の属性、在り方などとは別のところにある超然としたものだ。その程度のことも理解していないとは、さては貴様、外道に属する悪人の私などより、余程、人という存在から遠き場所にいるのではないかな?」

「ふん……」

 

罵声の応酬は、互いが呼吸を整えるための時間稼ぎに過ぎない。存在を否定し合い、敵意が一欠片も減じていないことを確認し合うと、やがて奴の攻撃が繰り出される前に、自らの両腕と刃先が届く間合いを確認して、体の中心を軸とした球の範囲に迎撃の意識を集中する。

 

交差する夜闇の中、攻守のどちらが有効になるか考えていると、それを遮るようにして、耳の中に遠吠えが飛び込んでくる。敵の群れが近い。意識を微かにそちらへ配ると、地面を揺らす赤い大軍はもう橋を渡り、山へと続く商店街への道を直進しつつあった。

 

「よそ見とは余裕だな」

「ちっ」

 

出された沖捶からの一撃が己の制空圏に侵入する前に、刃を振るって侵攻を阻止して迎撃すると、先程よりも大きく背後に数度跳躍し、校舎の壁面に到達。そのまま窓枠に足を引っ掛けて数歩ほどで時計台の上にまで駆け上り、屋上へと到達する。

 

一旦奴から大きく距離をとったことで、状況確認の余裕ができた。すぐさま深山町を軽く一瞥すると、街中を疾走する獣どもが、波濤のごとく家々を覆いながら進む姿が目に映る。

 

―――あれを放っておくわけにはいかない

 

遡上する黒の濁流を放置しておけば、私と奴の決着がつくよりも以前に、柳洞寺に辿り着き、彼らと鉢合わせる可能性がある。広い場所でならともかく、大空洞のような閉鎖空間で中にあれが殺到すれば、先に行った彼らを待ち受ける暗い未来がたやすく予想できてしまう。

 

即座に両手の剣を腰に引っ下げると同時に、弓と矢を投影して、一旦奴らに向けて射出する。音速をはるかに超える殺意を秘めた弓と化した剣は、街中の私の思い通りの場所に着弾すると、同時に爆発を引き起こし、獣どもの尖兵を消しとばした。奴らの意識がこちらへと集中する。

 

「正義の為なら、不意打ちにて一方的な命の略奪することを躊躇わぬとは、なんとも非道だな。流石は衛宮切嗣という男の息子なだけはある」

「は、魔のモノという悪辣の権化たる存在を殺すのに、手加減と遠慮をする必要などあるまいよ。そして貴様が切嗣の正義のあり方を語るな! 不愉快だ! 」

 

いつの間にやら、屋上、時計台よりも一段低い場所にまでやってきていた言峰が、私の眼下でこちらの所業に文句をたれた。見れば、奴のそばには、先程己が吹きとばし殺した獣の同種が、数匹たむろっている事に気が付ける。やつらは赤い瞳に爛々とした殺意をたたえて、今にでもこちらに襲いかからんと、四肢の力を溜め込んでいた。

 

「さて、そろそろ処刑の時間だ。顔見知りのよしみで、最後の祈りの言葉と懺悔の時間くらいはくれてやろうか?」

「戯けたことを。貴様の口から漏れるのは、祝福の言葉ではなく、虚言と呪詛だろう。聞いたのなら耳が腐ってしまう。懺悔にいたっても、貴様なんぞに聞かせるような言葉はないさ」

「では力尽くにて無力化したのち、無理やり恩寵を与えるとしようか、エミヤシロウ……!」

「裏でこそこそ動く卑怯卑劣が本分の貴様如きにそれが出来るか、言峰綺礼! 」

 

そして戦闘は再開される。校舎の屋上にてはりめぐらされたフェンスが端々より吹き飛び、結晶化したコンクリートだった地面は余波であちこち崩れてゆく。やがて屋上を作り上げていた成分が残らず瓦礫の山になると、天井を失い露わとなった一つ下の階に降り立って、互いの殺意を込めた武器を押し付け合う。

 

かつての学び舎は、破砕音響き、瓦解して崩れ、その機能を悉く失ってゆく。崩落ごとに敵の数が増し、戦いは苛烈さを増してゆく。雑魚相手の一対多の戦闘は馴れたものだが、そこに不倶戴天の天敵が混じることで、全ての攻撃が厄介なものへと変化している。

 

戦闘は、しばらくの間終わりそうにない―――

 

 

背後より聞こえる身を竦ませる咆哮の合奏と、時折それを掻き消すかのように聞こえてくる爆発音。山の方めがけて進むたび遠ざかってゆくそれらは、自らしんがりを申し出たエミヤという男が未だに生存している証だといえる。

 

「くそっ、長いんだよ、この階段! チビな俺への嫌がらせか!」

「バカ!自虐をしている間があったら走れ! 早く! 」

 

ダリとサガは文句を言い合いながら急な階段を駈け上がっていた。山の斜面に建築された石の階段は斜度が三十度どころか四十五度はありそうな階段で、しかも所々結晶化し、柔らかく、あるいはツルツルとした表面になっているため、走って登るのに非常に神経を使う。

 

常ならそんな彼らに皮肉なツッコミを入れるピエールは、「韋駄天の舞曲」という素早さを向上させる歌スキルを効果が切れる直前を見計らって発動させ続けているが故に、詩歌以外の言葉を発する余裕はないようだった。また、私も、そんな彼らについて行くのに精一杯で、言葉を発している暇なんてまるでない。

 

「―――見えた! 門だ! 」

 

―――やっと着いた!

 

先頭を走るダリが叫ぶに反応して顔を上げると、あと五十段ほど先の石段の終着地には門が構えられていた。ようやく目的地目前までやってきた私たちは、進む速度を上げて最後の斜面を駆け抜ける。

 

「これが柳洞寺、というやつか…… 」

 

石段を登りきった後、元木造の結晶化した門を潜ると、かつては良く整備されていたのだろう敷き詰められた白石の上に、しかし長い年月の間放置されたことによって砂土と樹木の残骸が積もり荒れ果てた境内が現れる。ゴミ溜めのようになった場所の奥には、結晶化した元木造の建築物が佇んでいた。

 

「確か、この裏にある池の下に行くんだよな?」

「ええ、その付近に地下大空洞へと続く入り口があると言っていました」

 

私がサガの質問に答えると、サガは一瞬カバンに入った地図と筆記用具を取り出そうとして、しかし今は悠長に地図の製作なぞをしている場合でないことに気がつき、首を横に振って己の行動を改めると、率先して前に進む。

 

「じゃあ、とっとと行こうぜ! さっさと済ませてあいつの元にも戻らねぇと! 」

 

サガは街を見た。振り向くにつられて、私も山門の向こうに広がる街の光景へと視線を送る。暗闇の中、薄っすらと見える大地と建物が広がる街を、黒い波が飲み込んでゆく。波の正体は、赤い瞳を持つ四足獣と触手の魔物の集合体だ。

 

そんな悍ましい波打ち際より少し離れた場所にある、先程私たちが着地した広い場所であり、そして側にある崩壊しつつある側の建物の瓦礫が積もった最も上部分では、時折鋭い数条の閃光が飛び出して、押し寄せる波に呑まれる寸前の街中に等間隔に刺さると、爆発し、瞬時の間だけ短い光の柱を生み出す。

 

夜の闇に一瞬広がる閃光は、爆発で敵の進行を抑え込み、柵のように黒い波の進行を少しだけ送らせる効果を発揮した。それはエミヤという男が行なっている、敵がこの場所に達するのを防ぐ為の、妨害行動だ。

 

彼はあの瓦解する建物のある場所で、言峰という男や獣と戦いながら、私たちを守り、私たちが宝石を使って魔のモノを封じ込める時間を稼いでくれている。

 

敵と戦いながら、千を優に超える群勢を単騎で抑える手腕は、流石としか言えないものだ。しかし、そんな彼であっても、やはり万に匹敵しそうな魔物の進軍を留めるのが手一杯らしく、波は徐々にこちらへと迫ってきていた。

 

「響! 何をしている、早く! 」

 

私を呼ぶ声に振り向くと、彼らはすでに建物の方へと駆け出していた。建物はとても立派な木造建築だったようで、高さこそないものの、大きい。

 

「い、今行きます!」

 

慌てて彼らの後に続くと、建物と樹木の間を通って、かつて人の営みがあった痕跡を残す建物を横目に、裏口の方へと回る。現れたのは、闇色に染まる、黒々とした大きな池だった。

 

「で、どこなんだ、その入り口は! 」

「ちょっとまて、確か……」

 

ダリが叫び、サガが頭を片手で支える。

 

「……いえ、待ってください。どうやら、その前に一仕事終えねばいけないようです」

「なに? 」

 

サガが記憶の中から必要な情報の検出を行なっていると、ピエールは一旦歌を止めて、目の前に広がる池の水面を指差した。目を凝らすと―――

 

「……揺れてる?」

「ええ、しかもみたところ、どうも揺れは周期的であり、さらに振動は徐々に大きくなっている。これが指し示すところはつまりは―――」

 

彼がそのしなやかな指で湖面を指す。動きにつられて私たちがその先を追うと、やがて地が大きく揺れて、私たちがその対応に気を取られている最中、池の水面が大きく膨れ上がったかと思うと、爆発。

 

「なんだ!? 」

「敵襲!? 」

 

散らばった水蒸気と土砂の派手な演出とともに現れたのは、今まで見てきた敵の中でも、非常に大きな、それこそエトリアの街一つくらいの大きさはありそうな、巨大な赤い竜だった。

 

頭部の左右側頭部より伸びた山羊のごときツノは、天を貫かんばかりに雄々しく黒々とそびえ立った後、内に秘めている感情の重みで成長を阻害され、己の顔面すら傷つけてしまいそうなほど自らの顔に向けてねじ曲がっている。

 

反逆を企てるツノの生える赤き顔面には、彫りの深い憎しみに満ちた人面の様相が浮かんでいる。強烈な憎悪を過不足なく全身に伝えるべく張り出した太い首には、秘めたる凶暴さを表すかのよう白き骨棘が生えており、背骨に沿って尾の端にまで他者への害意を露わにしていた。

 

蜥蜴の胴体に似た胴体から生えた四つ足はその巨体を支えるには少々慎ましいサイズであったが、その四つ足の不足分を支えるべく背より広がった蝙蝠のごとき翼は、奴の巨体をまるごと包み込むほどの巨大に悠然と空に羽を広げ、奴がどのようにして巨体を動かすのかを明らかにしていた。

 

やがてその巨体を全て露わにしたやつは、私たちのはるか頭上にある二つの双眸にはめ込まれた、凶暴な外観に似合わぬ翡翠色の眼にてこちらを睥睨すると、己に比べて矮小な侵入者たちを嘲笑うかの如く大きく口を開き、咆哮を轟かせた。上顎より生えそろった牙から涎が地面と下顎へと垂れ落ちる。

 

「強敵出現の合図です。おそらくは、この階層の番人なのでしょう」

 

掲げた指を敵に向けて冷静に告げるピエール。敵の形を見た私は、思わず呟いていた。

 

「偉大なる……、赤竜」

 

言葉にハッと反応したのは、おそらく全員だったのだろう。

 

「エミヤの言うことは本当だったな……」

「あ、た、たしかに……、じゃあ、まさか、いや、やっぱりあれが……」

「ええ、我々が長年追い求めてきた、伝説の三竜の一つ!」

 

そして集中した視線を鬱陶しいと感じたのか、闇の中、赤い鱗の表面にて水気を蒸発させているその巨大な竜は、大きく息をすいこみながら首を真上に掲げた。唾液が汚れた滝を作る中、その洞窟がごとき喉の奥で、赤の光が闇色の口腔内を照らして、外に漏れてゆく。

 

瞬間、背筋を冷たいものが垂れ落ちる。同じ予感をダリという男もしたようで、彼は咄嗟に盾を前に構えると、その場にいる全員に向けて叫んだ。

 

「炎の吐息が来る! 私の後ろに! 」

 

ダリの忠告に、皆が飛びつくように彼の背後へと回り、迷いなく身を小さく屈めた。

 

「――――――!! 」

「ファイアガード! 」

 

ダリがスキルを発動したのは、まさに竜の喉元から煉獄の火焔が口腔の外部に吐き出された瞬間だった。光線と見紛うが如きその焔は、竜の巨大な口より吐き出された瞬間、私たちを呑み込んだ。

 

炎は温度が高くなるほど、赤、青、白と変化していくが、竜の炎は、赤をはるか通り越して、青に近い白光を放っていた。ダリのスキルによりその炎の威力を受けずにすんでいるとはいえ、彼のそれは、目眩しの如き光まで防ぐ機能は持ち合わせていないのだ。

 

私は腕を用いて、周囲より眼球に飛び込んでくる眩しすぎる光を遮断した。火除けの加護を持つ赤玉石のはまったアクセサリー、「ファイアリング」を装着し、スキルの効力による癒しの光が私たちを包み込んでいなかったら、目が潰れていたかもしれない。

 

「―――っ、ぐ、ぅぅぅぅぅぅ……!」

 

目眩すら引き起こす炎が全てを消し飛ばそうとする中、ダリという男は、目を細めながら必死に、炎の勢いに負けぬように槍を地面に突き立てて三本目の足とし、全身を引き締め、死線の最前線にて私たちを守ってくれている。

 

ダリの発動したそのファイアガードというスキルは凄まじい効力を持っており、スキルを最大まで極めた彼であれば、敵のその攻撃に利用されている威力を利用することで、傷や怪我の回復に当てられるスキルだ。

 

いかなる炎であろうとも遮断し、あまつさえは敵の攻撃の炎を利用して対象となっている味方の回復までするスキルを使用している彼は、けれど、ひどく苦しげな様子で歯を食いしばっており、その様子から、現在彼は、心身に多大な負荷を強いられているのがわかる。

 

彼の身に何が起こっているのかと目もくらむ光の中、無理に観察を行うと、私たちを取り囲んでいるスキルの光とは別種の、メディカなどを使用した際に発せられる回復光がダリの全身を取り巻いていることに気が付けた。

 

―――さっきまで傷なんて負っていなかったはずだけど……

 

「……ぐ、―――」

 

ダリの足と体がガクガクと揺れている。耳を済ませれば、骨が軋み、嫌な音を立てているのがわかる。そこで彼はその炎のもたらす破滅を完全に防ぎつつ、しかし奴の火焔の吐息が生み出す、炎に依らない圧力によりダメージを受けているのだということに思い至る。竜のブレスは炎の威力だけでなく、物理的な威力を伴っていたのだ。

 

おそらく、彼は炎を防ぎながら、その吐息の風圧で体にダメージを負い、その傷をスキルの効力で癒している。どれだけの苦痛と負荷が彼を襲っているのかは、そんな経験をしたことのない私にとって、想像の範疇外だ。

 

現状何も出来ぬ歯痒さと合わせて、敵の攻撃がもたらす目眩と炎の勢いが生み出す独特の風切り音に耐えていると、やがて竜が己の攻撃の無意味を悟ってか、ブレスの発射を止めた。

 

閉じた瞼の裏側にまで飛び込んでくる光芒の眩いが収まるとともに、ようやく目をまともに開けて、慌てて周囲の光景を確認。

 

「――――――」

 

すると、現れた光景にピエールですら、呆然として皮肉の声を上げることも忘れて、周囲を見渡してやはり絶句し、顎を下にだらしなく落としていた。端正な顔と飄々とした態度を続ける気概は、先の光の光線によって鎧袖一触に吹き飛ばされてしまっているようだった。

 

「……、嘘……」

「―――、なんだ、これ」

 

いやそれどころか、竜の吐き出した光の柱は、質実剛健だった寺院も、道と砂利にて景観整えられていた境内も、内外の境界を敷いていた山門も、この場所に続いていた長い階段も、さらにはこの場所に続く商店街の一部までも、吹き飛ばしていた。

 

炎の光線が通り過ぎた後の地面は、放射状でなく、まるで光の通過地点にあった障害物が消滅させられたかのように削り取られていた。地面に融解や炭化の様子がないことから、実際にこの世から姿を消されてしまったのかも知れないと思う。

 

「ファイアブレス……、事前に聞いていた動作をしてくれたから反応できたが、まさか、これほどとは思わなかった……! 」

 

ダリが息も絶え絶えに言う。彼は防御の後、巨大な槍盾を、体を立てて支えるための補助として使っていた。スキルの特性上体に傷は残っていないはずだから、つまりその所作は精神的負荷が故の疲労がもたらしたものなのだろう。

 

「いやぁ、人知を超えた存在と言うものは、やはり迷宮の奥に潜むものなのですねぇ」

「ピエール、呑気に言ってる場合か! お前はどうして、そう、緊張感がないんだ! 」

「……ぷっ」

「……ふっ、くくっ」

 

この期に及んでやはり常ごろと変わらない惚けたピエールの言葉に、怒りを露わにするサガを見て、私は可笑しいと感じて吹き出してしまう。ダリもつられてか、笑いを漏らした。

 

ピエールはそれを見てニヤリと笑い、サガはおそらくピエールが己を道化として利用して場に満ちつつあった緊張の空気を弛緩させたのだと言うことに気がついたのだろう、少し不満げな表情を浮かべたが、すぐさま、溜息を吐いて苦笑いを浮かべた。

 

「ダリ? もちろん、まだまだいけますよね? 」

「ああ、当然だ」

「炎の竜なら、弱点は氷術だったよな」

「ああ。だが、あのデカさなら、範囲の方がいいかも知れん。いけるか?」

「もちろん! 俺ぁ元々、そっちのが得意なんだ! 任せとけ! 」

「私はどうしましょうか? 」

「回復を最優先。奴に隙があれば、頭か足を狙って縛るのを優先の目標として、状態異常が狙えるようであれば、それでも狙ってくれ。麻痺でも石化でも毒でも盲目でも構わない」

「はい」

「ピエールはダメージ軽減を優先。その次は速度を重視。後は状況に応じて臨機応変に頼む」

「指示が雑ですねぇ……、まぁ、事細かに手取り足取り言われるよりかマシですが」

 

私たちはすでにいつもの調子に戻っていた。目線を合わせて頷き合うと、揃って竜の方を見る。敵は私たちが作戦を終えるのを律儀に待っていたのか、あるいは、単に吐息を放った後に反動がくるのかは知らないけれど、静かに私たちの方を見下ろしていた。

 

火竜と私たちの視線は闇の中に見えない火花を散らして、戦端を開く合図となる。

 

「――――――! 」

 

竜が己を鼓舞するかのように咆哮した。大気を震えさせ、地面を揺らし、闇に響く雄叫びは、巨大な己の必殺の一撃を受けて、なお怯まない私たちを敵と認めて、全力を出すとの宣言のようだった。

 

「やるぞ! 」

「おう!

「さて、では、伝説に挑むとしましょうか!」

 

負けじとこちらも三者三様の気合を入れる声を響かせ、戦闘が再開される。私は胸にしまいこんである彼の遺品である刺々しい宝石をぎゅっと握りしめると、シンの残した剣を鞘より解き放つ。ダマスカス鉱にて作られた刀は、独特の波紋を浮かび上がらせて、闇の中に輝いた。

 

薄緑は修復のための素材が足りなくて、結局はこれを持ってくることになったわけだけれど、そうなってくれて、本当に良かったと思う。だって、三竜を相手にするにあたって、これほどまで適した剣は、私にとって存在しない。

 

―――だって、この剣を三竜に突き立てて欲しいと言うのが、彼の望みだったのだから

 

私はもう一度宝石を握り、私の中の彼の存在を大きくする。そうして痛みと喜びの混じる、過去になってしまった彼の記憶と思い出から大きな勇気を貰うと、私は三竜の中でも最も強いと噂される竜に向かって、まっすぐ刀を構えた。

 

 

ブリテンの赤き竜……」

 

―――それに約束された勝利の剣/エクスカリバー、か……

 

宿敵との戦いの最中、竜が街に刻んだ真っ直ぐな破壊の痕跡に、私は彼女の宝具の発動した際の光景を思い出して、戦慄した。言峰との遭遇により忘却していたが、冬木も世界樹の新迷宮の五層であると考えれば、奥地に番人がいて当然と想定していたことを思い出す。

 

「舐められたものだ」

「っ、ちぃ……!」

 

輝く光が強制的に意識の在り処を奪った一瞬の隙をついて、奴の一撃が繰り出された。

 

私が両手に握る双剣の間合いの内側に入り込み、守りを抉じ開けようとする一撃を、干将・莫耶という宝具の持つ、互いを引き寄せあうという特性を用いて、無理やり両手を交差させてやることで防御すると、それを見越してだろう、すぐさま手を引っこ抜いた奴は、その場にて体を半身だけよじらせ、足を地面に強く踏みしめて、体当たりの一撃を繰り出す。

 

「がっ……」

 

鉄山靠。門を開くどころか力尽くでぶち壊してやろうという牙城の一撃を咄嗟に盾とした両腕でガードしてやるが、足場の悪い瓦礫の上でも奴の弛まぬ訓練と鋼の心が生み出すそれは常と変わらぬ威力と衝撃を生み出していて、発生した力を防ぎきれず、私は後部へ数メートルほど弾き飛ばされる。

 

「―――ち……」

 

直後、体勢が崩れた所に追撃の一撃を加えようと近寄ってくる奴の進路上に、多重投影した剣を生み出して進撃を封ずる。あわよくばそのまま剣に刺されば大ダメージが入るかもと期待しての防護壁は、しかし、奴の危機管理と慎重さの前に敢え無く狙いを看破され、元の狙い通りの役目だけを果たして地面へと突き刺さった。

 

「あいかわらず、わざと隙を見せて攻撃を誘う戦い方は上手いものだな」

「ふん……、貴様相手に手の内を晒した覚えはないのだがね」

 

私の狙いを見通した皮肉に返すと、奴は空虚に笑って言った。

 

「そうだとも。しかし、私は、かつてランサーの目を通じて、いや、あるいはそれ以上に土地と聖杯の記録を通じて、貴様の戦い方を熟知している」

「―――なに?」

 

戦闘の最中告げられた言葉に、片眉を上げて訝しむ。言峰綺礼の方を観るも、少しばかり離れた場所に遠ざかった奴の顔からは懸念の答えを何も読み取ることができなかった。

 

―――土地と聖杯の記録を通じてとはどういう意味だ?

 

「いったい―――」

「悠長だな。私に問いかけている暇などあるのか? 」

 

疑問が口より出て意味をなす前に、私の周囲に配備された触手型の魔物の数匹がこちらへとその手先を投擲し、まるで網のようになってこちらに迫ってくる。

 

触れればろくなことにならないであろう粘液に塗れた投網から逃れるべく、網目が大きい部分を狙って脱出しようとすると、隙間には獣型の魔物が配備されており、こちらに向かって直線的攻撃を仕掛けてくる。古典的な、逃げ場を限定し、その先に本命の槍を置く戦法。

 

「は……」

 

網目の隙間から半身乗り出して喉元めがけて真っ直ぐとやってくるそいつの、獲物を求めて馬鹿みたいに開いた口に、望み通り肉体の一部、すなわち剣を握った手を突っ込んでやると、そのまま口腔内部より上唇から頭部までを斬り払う。

 

そして奴の口が閉まる前に、突っ込んだ手を四分の一ほど回転させて敵の体の内側から横のベクトルを発生させやると、体内部分に殴打を繰り出し進路をずらしてやる。奴の体を利用して隙間が小さくなりつつある触手の網目を無理やり広げると、広がった部分より脱出。

 

敵の体から腕を引っこ抜きつつ、死体を振り払って腕を露出させると、唾液と体液にまみれた腕の汚れを軽く払う。

 

「無論、その暇があるから、こうして聞いたわけだが」

「ふん……」

 

奴の挑発に余裕をもってして返答してやると、悪意のこもった短い鼻息交じりの短い言葉が返される。同時に襲いかかってくる魔物ども。醜悪な存在の襲来は、奴がこちらの望む答えをわざわざまともに教えてくれはしないという証であるようだった。おそらくは、答える気は義理などないし、義務も無い、とそういうことなのだろう。

 

しかし。

 

「侮ってもらっては困るな。仮にもこちらは元英霊。数が多いとはいえ、この程度の化生どもに遅れをとるわけあるまい」

 

校舎横を通過した一撃に気を取られた先ならともかく、意識が万全な現在、一層の蛇どもの様な狡猾さも持ち得ず、三層の犬どもの速度に遠く及ばない程度の身体能力しかない魔物など、いくら群れようが、私の敵になどなりえない。

 

やがて総じて二十ほどの獣を切り捨てた時点で、一旦は打ち止めになったのを見計らって、もう一度奴に問いかける。

 

「さて、では、答えてもらおうか、言峰綺礼

 

味方の獣どもがやられてゆくのを黙って眺めていた奴に片手の剣の切っ先を突きつけてやる。返答なき場合は次は貴様を屠るというメッセージ。死刑執行の宣告を受けた罪人たる奴は、しかしそうして罪人を前にした神父らしく悠然と佇み、空虚な眼差しをこちらへと向けるばかりだった。

 

相手が己より格上の半神半人の存在であろうと饒舌と虚言を織り交ぜて煙に巻くのを得意とする言峰綺礼という男が、私との問答を避けて戯言すら言わないというのならおそらく答えは一つ。

 

「なるほど、土地と聖杯の記録とやらは、魔のモノとかいう輩に関係している事か」

 

無言と無表情を保っていた奴の仮面が崩れた。奴自身の怒りによるものなのか、あるいは、正体を暴かれた上位者によって意思に介在された結果なのか、積み上げてきた苦労と経験が年輪として刻まれた、黙っていれば端正かつ男前ともいえる顔面の、その頬と額、目元の先に不自然な数本のひび割れが現れた。

 

強面が憎悪を露わにしたおり、これ以上は何があろうと語ってやるものかという意思にてか、口元は固く結ばれている。もはや問答は無用ということか。

 

―――ならば、早々に決着をつけ、力尽くで聞き出すまで

 

強引な手段での問答を決心すると、残骸と成り果てた校舎の跡地横を再び閃光が切り裂いた。夜の闇を切り裂く光の柱は、先に描かれた円弧の上を掠めるようにして通過し、やはり先と同じように、闇色の魔物どもを打ち払いながら、大地を削ってゆく。

 

番人の攻撃に、早期決着の理由を一つ増やしながら、双剣を携えると、所作に反応するかのように奴の羽織るカソックが揺れ、背後より周囲に魔物どもが群れとなって現れる。その数はざっと五十。およそ先ほどの倍以上の数だ。

 

兵の数が倍になればその分取れる戦術も多数となり、それの処理するための手間は、先の魔物たち以上にかかることは必定だ。加えて、魔物の残数にまだまだ余裕があることは、奴の背後より迫る敵津波の存在からも明らかだ。

 

情けなくも口惜しいことだが、どうやら過去の時代から持ち込まれた因縁に決着をつける時は、思いとは裏腹に、早々に訪れてはくれないらしい。

 

 

「ファイアガード!」

 

発動直後に訪れた灼熱の閃光を、ダリのスキルが防ぐ。周囲を焦がす熱線を受けとめるのはまだ二度目であるというのに、物理的な圧力すら含む破壊の光を防ぐ彼は、先程よりもずっと余裕を持っていた。ダリはすでに炎の息に対して完全攻略の片鱗を見せ始めている。

 

どれだけの傷や衝撃が襲いかかる事態であろうと、それ自体が予想外でないのなら、覚悟を決めて平気で死地へと進むその様は、まさに守護騎士の名前を戴くに相応しい姿であると言えるだろう。

 

とはいえ熱線を防ぐのはやはり重労働らしく、彼は滝のような汗を額から流している。汗は熱線の生み出す風圧によりすぐさまファイアガードの効果範囲外へと吹き飛び、そして瞬時に蒸発して姿を消す。その様を見て、事態の深刻さを改めて思い出し、気を引き締め直す。

 

「姿が見えなくとも、位置さえ分かっていれば―――」

 

ダリの盾の陰に隠れたサガが、籠手を解放して氷の術式を発動させる。機械籠手よりはなたれた冷たい輝きが私たちの周囲を取り囲んでいる光に突撃して消えてゆく。

 

「今回のは一切加減なしだ! 大氷嵐の術式! 」

 

そしてすぐさま周囲の暴力的な光は弱まって、やがて消えていった。露わになった目の前を見てやれば、ダリに防御の姿勢を、私たちに不動を強いていた赤い竜の巨体の背中には、エトリアにある建物一つどころか、先程街中で見かけた天井より階段の続いていた巨大な建物を潰せるほどの、大きさの巨大な氷塊がのしかかっていた。

 

真球を縦に細長く潰したような楕円型の先端が尖った氷塊は、奴の背中に触れた途端、火花を散らしながら、溶けてゆく。奴の高温の滑らかな鱗が剥がれ落ちて、その下にある皮膚が、どす黒い皮膚に水膨れとなって、爛れてゆく。

 

氷が瞬時に蒸発して水蒸気となり、その煙に混じってこちら側に白煙が流れてきた。肌と服の間を肌寒い空気が駆け抜ける。多分、本来なら異臭も混じっているのだろうが、生憎初撃の熱線が地面を溶かした際、地面がガラス化したり、建物や樹木が燃焼したりの混じった匂いがあたりに充満したおり、鼻の機能は潰されていて役立たずとかしているため、匂いがわからなく、おかげで体はいつもと変わらず動いてくれる。運がいいのか悪いのか。

 

「―――っしゃあ、ザマァ見ろ! 」

 

地獄の光景に見紛うような事態を引き起こしたサガは、竜にダメージが入ったのを喜んで、今にも小躍りしそうな雰囲気だった。身長の小ささと合わさって、まさに子供のようだと思ったが、言わない。多分、いえば彼の怒りがこちらに向くだろうことが予想できたからだ。

 

それよりも、疑問に思うことがある。

 

「氷……、大氷嵐の術式にしちゃ、大きすぎやしませんか?」

 

戦闘の最中、我ながら呑気に体積だけ見てやれば竜と同じ大きさの大塊を指差していうと、サガは頷いて答えてくれる。

 

「ああ、いつもは手加減をしてる分と、風に回している分のエネルギーも氷に回したからな」

「手加減? ほんとは作れるのに、やらないんですか? どうして?」

「だって、大きく作ったって、小さい奴、早い敵にゃ当たらないし、効かないやつにゃとことん効かないし、効くにしてもあれだけデカいの作る意味ないし、下手に作成位置を間違えれば自分たちが危険に陥るし、何より、デカいの作ると地形をぶっ壊しちまうからな。法に触れる事はご法度って事で、通常なら適当な大きさに作るのが普通なんだが……」

 

サガは悶え苦しむ巨大な竜を指差していう。

 

「あれだけのデカさを仕留めるってんなら、相応のデカさが必要で、そんでもって地形の破壊なんて気にしていられる状況でないからな。そもそもあいつが周りをぶっ壊してるし、言い訳効くだってな事で、全力全開のスキル発動をしたわけだ。いやそれにしても多分この湿った空気が助けてくれたんだろうけど、確かに我ながらよくもああデカいのを作れたなぁ」

「おい、話をしている暇があったら、この隙に水分と塩分を補給して体温を適当に調整しておけ。さっきから熱の変化が急激だ。熱中症にならんように注意しろ」

 

自らの行為に感心しているサガと彼の説明を聞く私に、ダリが注意を呼びかけてくる。敵が目の前で苦しんでいる隙を見計らって、さっさと継戦の準備を整えているあたり、手筈の良さに驚くが、言われて汗が滝のように出ている事に気がつく。

 

軽く汗を拭って払うと、水滴が先の攻撃にて熱を帯びている地面に触れた瞬間、もはや高温に支配されたこの大地にお前の居場所なんてないとでも宣言されたかのように、蒸発し水蒸気となり、空気中を漂う冷気を帯びた同種の存在に混じる。

 

途端、不全に陥っていた肌が機能を取り戻して、実際の周囲の温度に対応しようと、再び汗を流し始めた。地面の中に収まりきらない熱が大気に上がって温度が水蒸気に伝播し、涼しげだった空気が熱を帯びた不快なものへと変わる。

 

木桃の蜂蜜漬けと塩と水を含んでから熱を生み出した元凶である竜を見ると、奴は体内にめり込んでいた氷の大半の処理を終えたようで、触れていたもう氷はもう半分以下の大きさになり、傷口から押しだされていた。宙に浮いて支えを失った氷が、地面に落ちて、大地が微かに揺れる。

 

その衝撃が竜の体を揺らした事で、傷口の痛みがぶり返したのか、竜は微かにその身を揺らして悶えた。しかし氷術により生まれた傷口は、ピンク色の肉が盛り上がり、すでに再生が始まっている。このままでは遠からぬうちに、奴の怪我は治癒しきってしまうだろう。

 

「畳み掛けるぞ」

「任せろ! 」

 

不利になるのを分かっていながら悠長に待っていようと思えるほど、私たちは自信家でもないし、そんな時間も残されていない。ダリがいうと同時に、私も足用の縺れ糸を取り出して準備を整えた。

 

ブレスは無効化とともに、反撃の機会に転じる事が出来る有効な機会が訪れるものであるとわかったことだし、残りの攻撃、移動手段である足と翼を防ごうという魂胆だ。竜の翼は見たところ爪が生えているし、おそらく、「足」の一部であると見て間違い無いだろう。

 

準備を整え終えた瞬間、奴も身動きが取れるくらいには回復したらしく、癒えきらない傷を負いながらも、四足を小刻みに動かし、両翼を羽ばたかせて、移動の準備を行なっている。おそらく先ほどまでのように、巨体に見合わない速度での突進を企んでいるに違いない。

 

「縺れ糸を使って、移動の制限を試みます!」

「援護する! 大氷嵐の術式!」

 

いうとサガは先んじて籠手を解放して術式を発動した。サガが術式の解放をすると、大気中に散っていた水分が彼の意識した場所に凝縮され、圧縮されたエーテルは凝固して巨大な氷の塊となり、奴の体の後方部分に出現する。制限を外された氷は奴の退路を断つとともに、傷つけるにも十分な大きさを持っていて、重力によって落下した。

 

そして私は奴の正面に向けて、縺れ糸を投擲する。力を解放された糸が奴の身動きを制限しようと、巨大な竜に向けて果敢に突撃する。前後のどちらを選ぼうと自らの身に害を被るこの状況。さぁ竜がどう動くのか―――

 

「え……」

 

しかし奴はこちらの思惑とは裏腹に動かない。その場で翼を大きく上下にはためかせたまま、前方の糸にも、体の上より迫る氷塊もまるで気にせず、その場で優雅に佇んでいる。その悠然とした態度がわたしにはなんとも不気味に映る。

 

同様に思ったのは、皆も同じだったようで、一同はそれぞれがすぐに動ける体勢に移行した。ダリは術式を発動直後の反動で少し動きの鈍くなっているサガを庇える位置に移動し、ピエールは皆と少しだけ離れた場所で竜の動き全体を観察している。

 

私はピエールのすぐ近くで、自分が放った糸の行方だけを意識的に追っていた。何か異変があった際、すぐさま動けるようにするためだ。そして。

 

「――――――」

 

私たちの短いやりとりの後、竜は翼の羽ばたきを強めた。形として見えそうなほど具現化した風が奴の体を鎧のように覆ってゆく。やがて私たちの放った攻撃が竜の纏った風の外套と接した時、その風鎧からは天井にまで貫かんばかり勢いで竜巻が生じ、巨大な氷塊は細かな砕氷となり、糸はあえなく風の渦中に消えていった。

 

「くそっ、そんなんありかよ!」

「どうやら奴も、私たちの攻撃に対して対抗策を見つけたようだな」

「――――――来ますよ、構えなさい! 」

 

激昂するサガと、冷静なダリがそれぞれ述べると同時にピエールの口から忠告が発せられる。竜が風の鎧を纏ったまま、前足を片方だけ地面に叩きつけたのだ。砕かれる大地。衝撃が私たちの方にまで伝わって身動きを微かに封じ、それと同時に、奴の灼熱の体温と熱線の余熱にて高温に加熱された土砂は、奴の纏う風によってこちらへと強烈な速度で飛来し、体を叩く熱砂の礫となる。

 

「っ……」

 

とっさに頭と重要な器官を装備品で庇ったけれど、その折に表に出ていた手腕部と皮膚が焼かれた砂によって傷つき、ヤスリで擦ったかのような傷跡が出来る。サガはダリに庇われて二人とも無傷だったけれど、ピエールは、私と同じような傷を負っていた。

 

楽器と喉、手、頭を庇うために装備で固めた背中を盾として使った彼は、竜の方を振り向くと、楽器の弦を鳴らし、言葉を漏らす。

 

「手間取るのはよろしくないのですが……、どうやら一筋縄ではいかないようですねぇ」

 

熱に満ちた空間に涼やかな声が響くと、彼の言葉は真実であると答えるかのように、竜は咆哮して戦意の十分を撒き散らした。見るともう傷口はすでにふさがっている。どうやらたしかにまだまだ戦闘は続きそうだ。

 

ピエールの言葉にすでになくなった山門の方に目を向ける。すると開けた視界の先、街を覆いこちらに迫っていた黒い波が、山のすぐ近くにある場所まで侵食を進めているものの、ある地点から放たれる矢がその波打ち際で爆発し、打ち寄せる魔物を払い、それらの侵攻を遅行させていることに気づける。

 

エミヤだ。彼は場所を移動しながら言峰や魔物の群れと戦いつつ、その上ああして足止めをして、私たちが宝石を収めて魔のモノを封じ込める時間を稼いでくれている。しかしそんな偉業をなす彼でもやはり数の暴力に耐えて動きを遅らせることで精一杯なようで、波は刻一刻と山へ迫って来ている。先程よりもずっと近い。時間的猶予はあまり残されていない。

 

―――早くしないと、不味いのに

 

急く気持ちを抑えながら、私はエミヤから託された宝石を握りしめると、冷静になれと訴えるかのように宝石は熱を吸収した。

 

 

周囲を取り囲む魔物の群れは絶えることなくこちらへと襲いかかってくる。奴らはすでに私の周囲の地面のほとんどをその姿で覆い隠していた。新都の方面からやってくる折り重った敵影をざっと見積ってやれば、未だ万は下らない数はいるだろう事が推測できる。

 

勿論その全てをまともに相手などしていられないので、飛びかかってくる奴らを迎撃したのち、投影した剣を投擲しては爆発させて敵を押しのけて短い間だけ安全地帯を生み出し、深山の街を侵食する奴らめがけて矢を数回ほど射出すると同じように爆発させる。

 

これで十程度の数は片付けられる。とはいえ、最低万はいるだろう数を相手にするなら、この程度の撃破など、微小誤差の範囲にしか過ぎないだろう。

 

何より、本命である言峰綺礼は、この作業を繰り返す最中、獣どもの波の中に姿を消してしまっており、余計に神経を尖らせて周囲を警戒しないといけない原因となっている。おかげでいつもよりも疲労のペースが早い。とはいえ焦り殲滅を試みて、そこに付け込まれるわけにもいかない。それでは奴の思う壺だ。

 

―――ん?

 

百を超え、千を超える獣を淡々と機械的に屠殺しおえた頃、その異変に気がついた。腐臭が満ちる中、土の匂いが風に混じってやってくる。匂いの中にそれを伝える成分が混じったということは、空気中の湿気の密度が増している証拠だ。

 

原因を探るべく肌の動きに気をやると、山の方から低地にむけて吹き降りてくる風が、ある時は真夏の時期であるかのように熱く、ある時は秋から冬にかけて吹くものであるかのように冷たいことに気がつく。

 

なにかと思い注意を背後に向けると、彼らの向かった先、すなわち柳洞寺の方を向いてやると、時折生まれる光の柱に混じって、四から五階建くらいの大きさはあろうかという氷塊が生まれては、細かく砕かれて宙に飛び散る光景を見つけて、驚くとともにどこか納得し、即座に目の前の戦闘へと意識を戻して―――

 

―――どうすればいいんですか!?

 

やれない。強化の魔術を施してある耳は、年若い女性特有の高温域に乗った声を捉えたからだ。私の生み出す爆発と破砕の音、獣どもの遠吠えなどを貫いてこの耳に届くその声からは、彼女らが今、切羽詰まった状況に置かれていることを、四キロは離れたこの場所までも伝えてくる。

 

「壊れた幻想!/ブロークン・ファンタズム」

 

自らの周囲に多少ランクの高い宝具の剣を突き立てて、今までより大きな爆炎の壁を作り、その中に身を完全に隠す。ほんの一時しのぎにしかならない上、せっかく攻撃と移動の誘導を容易くするため己の身に集中させていた敵の注意をバラバラに散らしてしまうことになるためやりたくなかったが、味方が危機に陥っているのだ。仕方がない。

 

―――む

 

一旦有利な状況を保つに見切りをつけて、自らが生み出した煙幕の中から山の方面へと飛び出すと、思い切り振り向く。竜の吐息によって山の上からこの場所まで障害物がなくなったのが幸いとなり、柳洞寺の方へと続く摩擦係数の少なそうな地面に沿って強化した視線をまっすぐ送ると、すぐさま彼女らの苦戦の様子が目に映った。

 

冬木の空を舞う巨大な竜が、その身に似合わぬ素早さをもってして、地面すれすれを滑空しては、不自然なほど滑らかな動きで再び宙へと舞い上がり、ダウン、スライド、アップ、の行動を繰り返している。巨体が赤の色を纏い力強く光の軌跡さまは、まるで夜空に指揮棒が三拍子のメトロノーム運動をしているかのような規則正しさがある。

 

やがてその軌道を追っていると、竜が一旦速度を急激に緩めて停止するポイントの前後に氷塊が生まれては、奴の生み出す竜巻によって砕かれ散るか、地上へと落下して、地面に突き刺さる光景が目に映る。突き立った氷柱は、炎熱を纏い奴の生み出す風圧にて竜がばらまく熱気にやられて、すぐさま溶けて小さくなってゆく。

 

私はその不自然な氷がスキルによって生み出されたものだということに気がつくと、彼らの狙いを看破してやる事ができた。

 

―――なるほど、炎熱の鎧を温度差と質量の槌で突き破る腹づもりか

 

セイバーという英霊を基にしているとはいえ、番人が生物である以上、先のような広範囲にわたって地面を削る威力の炎の息を吐くためには、それ相応の複雑な器官が体内に有り、また、体内のその部位は精密かつ、弱い構造をしている可能性が高い。

 

おそらく彼らは戦闘の最中そのことに気づき、その部位をどうにかして貫いてやればあの敵を倒せるとあたりをつけたのだろう。

 

「――――――!」

「ちっ、煙が晴れたか」

 

考察を重ねていると、背後より聞こえる威嚇の吠えに応じて即座に反転。飛びかかってくる奴らを思い切り蹴り飛ばすと、再び適当な場所に剣を差し込み、爆発させ、スペースを確保したのち、体を差し込んで、短い間の安全を確保する。

 

奴らがこの場所に押し寄せる前に、先程よりも高く宙へと飛び、津波の如き魔のモノ全体を俯瞰すると、すでに奴らは、柳洞寺のすぐ近くまで迫りつつある事がわかる。侵攻の境界線はジリジリ山の方へと押されつつあるが、未だに線を抜けて山へと向かうことは許していない事実だけが救いと言えるだろう。

 

―――もはや彼らだけに任せている時間はないか

 

とはいえ、援護に固有結界を使用して奴を巻き込むには射程が離れすぎている。弓にて宝具を射出してやるが最も効果的だろうが、あの高速で動き回る竜を仕留めるには、現状さっと思い付く手段では、不適当なものしか浮かばない。

 

「偽・螺旋剣」に「壊れた幻想」を併用してやればその動きを止められるかもしれないが、奴を仕留められるどの威力にするならば、爆発や宝具本来の威力で間違いなく味方も巻き込むだろう。かといって追尾機能のある「赤原猟犬」にて炎熱の鎧を貫いて竜を仕留めるには、威力を十分に発揮するだけの魔力を籠める時間が一秒程度では足りるまい。

 

加えて、巨体に殺意が迫った瞬間、攻撃の場所とタイミングを見通して回避をするあたり、どうも直感に優れているようであるし、よほど暗殺じみた一撃を飛び回る奴にめがけて放たねばならない。つまりは、射に集中する必要がある。

 

―――魔力を集め、集中し、宝具を放つという決定的な隙を、言峰が見逃すとは思えない

 

宝具というものが十全に威力を発揮するには、魔力を宝具にチャージした上で、宝具の真の名を呼ばねばならない。「壊れた幻想」を併用するなら、都合最低二、三度は、完全に竜の方へと意識を目の前の戦闘以外に集中する必要がある。そのような決定的な隙を、言峰綺礼という男が見逃すとは思えない。

 

己より優れた能力を持つ相手に勝利を収めるためには、相手の得意な土俵に上がらず、己の優位が確保できるまで待ちの姿勢を保つが良い事を知る奴は、その決定的な瞬間の訪れをどこかで伺っているに違いない。

 

奴は腐っても、元は神の教えに反する化け物の退治を専門とする代行者と呼ばれるエキスパート。化け物とは、人知を超えた、人間などよりはるかに身体能力を持つものが多い。奴は、己より身体能力が優れている者との戦い、殺す方法を熟知しているのだ。

 

さて、攻撃の下準備がいらない、隙を作らない程度の攻撃では竜を仕留められない。かといって隙を作ってしまうと、言峰綺礼により私が致命的な一撃を食らう可能性がある。死ぬ事に―――、今更恐怖など感じたりはしないが、これが聖杯戦争の再現であるというのなら、セイバーの代理たる竜を仕留め、直後に私が死ぬ事で、英霊の魂が七騎揃い、聖杯の完成に至るような事態だけは避けておきたい。もしやあるいは、それこそが奴の狙いかもしれない。

 

―――どうする

 

悩む間にも、敵の軍勢は波濤の如く山へと迫る魔のモノの大波は、微かな判断の時間すら私から奪って行く。やがてその波打ち際の境界線が、竜と彼らの元へと押し寄せるまでには、もうあまり時間が残されていない。

 

現時点における最優先事項は、魔のモノの封印。それさえ済めば、もしやその手先たる言峰や奴らもあるいは消えるやもしれない。ならば―――

 

―――己が身を削る判断無くして、この窮地を乗り越えることはできない

 

覚悟を決めると、私は弓を投影し、瞬時に剣を生み出すとともに、まずは第一射を山の方へと打ち出した。

 

 

サガの有効打を防がれて以降、ずっと竜の攻撃は続いている。奴は炎の吐息が無意味と悟った瞬間から、炎を吐息という攻撃手段を自ら封じて、巨体に見合った体力と頑丈さ、見合わぬ俊敏さを組み合わせての持久戦を選択した。

 

奴が翼をはためかせると、巨体を風の鎧が覆い、熱と竜の鱗の防御力に加わって、第三の鎧となる。直後、風圧とともに放たれる竜の体当たりは、吐息に劣らぬ威力の攻撃となり、私たちに襲いかかってくる。

 

「――――――!」

「させん! 」

 

それを防ぐはダリのスキル、パリングだ。パラディンの使用する物理攻撃遮断スキルは、彼のように極めれば、たとえ一撃の威力が大地を砕き、地面を十メートル以上削りとるような破壊の力であろうと数回なら防ぎきる効力を発揮する。

 

彼の盾の前に出現したスキルの光は、竜の体当たりやその余波にて生じる暴虐の威力を全て消滅させるが、だからといって竜の体が消え去るわけでも、飛んでくる岩の重さがずっと消えているわけではない。

 

やってくる攻撃を馬鹿正直に真正面から応対していたのでは、スキルの効力消失と同時に襲い掛かる敵の行動や物自体の重量によって、彼は潰されてしまう。だから逸らす。今ダリは、攻撃の瞬間、全ての敵の攻撃の方向を変えるためだけに、物理攻撃を完全防御するスキルを使用して敵の攻撃をいなし続けていた。

 

「――――――っ、あ、はぁ、はぁ……」

 

ただし、その、敵の攻撃の威力を完全に殺し切らず、なおかつ、味方に被害が出ないよう

見極めて防御スキルを使用するという、繊細かつ精密な作業は、その完全な安全の代価として、ダリの肉体はおろか、彼の精神に多大な負荷をかけるものとなる。

 

多少はピエールが歌スキルにて負荷を軽減し、疲労を起こして骨折や筋繊維がちぎれたり、内出血を起こした部位に、適切な量の薬を使用することによって、彼の体は常に万全の状態を保っているが、そんな無茶をすでに都合二十、彼は行なっている。

 

今、私たちは彼が己の役割を十全以上に果たし、神業に等しい絶技を連続して成功させるという綱渡りの上に無事でいるのに過ぎないのに、しかし守られている私たちは未だに敵を倒すための職業ごとの役割を果たせずにいた。

 

補助と指揮がメインのピエールは攻め手となってくれる誰かがいなければ、その実力を発揮しきれない。シンもエミヤもいない今、サガの錬金術スキルしか攻め手はないのだが―――

 

「ああ、もう、くそ、ちょこまかと動き回るんじゃねぇ! 」

 

彼の反射神経では、竜の動きに対応しきれず、この場において唯一奴に通用しうる氷の術式は当たらない。中には命中しそうになった攻撃もあるのだが、そんな時には、竜の翼が大きくはためき、風の竜巻にて氷の塊を打ち砕いてしまうため、彼の攻撃は未だに一撃たりとも当たっていないのである。

 

―――なら必要なのは、奴の動きをどうにか止めてやること

 

一瞬でもいい。体を張れば、四層の時のように、三竜相手でもなんとかなるかもしれない。

 

―――三竜

 

口の中に溶けて消えた言葉に、私は瞬間的に利き手の右が剣の柄を握った。シンの遺言通り、奴の体に彼の刀を突きたてろと、私の心が叫んでいる。同時に、左手がバッグの中へと突っ込まれていた。私の体が目的を果たすために、いつも通り道具を使って敵の動きを止めろといっているのだ。

 

―――フォーススキルを使えばあるいは……

 

「やめておきなさい」

 

どうにか足止めを、と思ったとした矢先、ピエールの声が耳に入り込んできて、私の行動を阻害した。

 

「糸も香も無駄です。あなたの道具は、先ほど風と熱に阻まれたばかりでしょう? 」

 

そうだ。糸も香も、質量が軽過ぎて、竜の風の鎧の前に吹き飛んでしまう。運良く風に乗ったとしても、熱が邪魔をして、その効力は全く発揮されないのだ。だからこそ、フォーススキルなら、と考えたわけだが、多分、彼のいう通り、風と熱の二重の守りをどうにかしなければ、無駄な行為に終わるだけだっただろう。

 

彼の指摘は、間違いなく正しい、冷静なものだ、しかし、この窮地の状況下において、ただ冷静なだけの正論は、追い込まれていた私にとっては、焦燥する精神を逆撫でる材料でしかなく、私は竜の攻撃が続く中、思わず激昂して叫んでしまった。

 

「じゃあどうすればいいんですか!?」

 

声に反応したわけではないだろうが、竜が体勢を立て直して、瞬時にこちらを向くと、翼を大きく上下に動かして推進力を生み出して、突撃をしてきた。

 

再びそれをダリが防ぐ。数回そんな動きを繰り返したのち、ようやく動きの法則性が読めたのだろう、サガが氷術を使用して軌道上に大氷塊を配置するも、するも、奴は急制動と風を利用して、その攻撃を回避する。空を切った氷の塊は、無念さを知らしめるかのように大きな音を立てて落下し、地面を揺らした。

 

「サガの術式も当たらないんですよ! ほら!」

「うるせぇ! 文句があるなら、まともな代案を出してみろってんだ! 」

 

ピエールの冷静な指摘に苛ついて半ばヤケクソ気味に叫ぶと、私の台詞は、その己の不甲斐なさを示す無情な結末に誰よりも苛ついていただろう、サガの心に突き刺さったのだろう。

 

私の感情に呼応したかのような、荒く短い返事がサガより返ってくる。いつもなら多少は効果の見込める回答をくれる彼が、今、たったそれだけ応答しかしてくれないという事実は、空中を飛び回る竜に氷の術式を当てようする彼が、いかに余裕のない状態であるかを克明に告げていた。

 

サガは再び、ダリが逸らした竜の体が向かう先に術式を発動させ、竜と同等の巨大な氷塊を作り出し、奴が持つ質量の暴力に対抗しようとした。先程よりも竜の体に近づいた氷は、瞬時に竜の生み出した風の集約した一撃―――すなわち竜巻に打ち砕かれて、あえなく破片と散る。

 

宙空に舞った氷片が、竜の撒き散らす炎熱にて一瞬キラリと光ったかと思うと、次の瞬間には蒸発させられて、夜空の藻屑と消え、サガは大きく罵声と奇声が入り混じった声を上げた。

 

「くそ、なんだ、あの回避は! あいつめ、事前にどこに氷を作るのか位置がわかってるような、未来予測じみた直感してやがる! 」

「落ち着け。当たらないのなら、大氷嵐の術式を本来の使い方で使用したらどうだ? あれなら攻撃の範囲が広いのだろう?」

 

興奮気味のサガに向かって、ダリが言う。私の時と同様に、苛立ちのままになにかを言い返そうとしたのだろうサガは、勢いよくダリの方を向くが、彼の全身が煤や土埃に汚れ、治療の際の煙が鎧の隙間から漏れているのを見て、口を開いたままの姿勢で一瞬止まった。

 

そしてサガは開いた口を閉じて、歯を強く噛み締めると喉元に出てきていたのだろう罵声を含む言葉を飲み込んで、火竜がダリの功績によって己の勢いにより空の上を滑空して遠くへ離れ、サガの放った氷の術式を打ち砕く為に翼の力を使ったが故に体勢を整えている最中で、今、討伐のための議論の猶予時間がある事を確かめると、多少思案し、言った。

 

「……たしかにそうすれば、氷は当たるかもしれない。上手くスキルを当ててやれば、スキルによって引き起こされる風が、やつの風と打ち消しあって、氷が奴の体に当たる可能性だってある」

「なら」

「けどだめだ。それじゃ奴の体を貫くほどのでかさの氷は作れねぇ」

「核熱は? あれなら防御も関係なく―――」

「それもだめだ。奴の動きが早過ぎて、絶対にあたらねぇ。あくまで、空中の移動を予測して、突然奴の進路上に不意打って出現させることができる氷の術式だからこそ、奴が風の鎧を解かざるを得ないくらい、つまりは緊急避難の状況にまで追い込めるんだ」

「なら、奴がこちらに突進してくる瞬間に核熱を合わせてやれば―――」

「上手く当たれば竜の体が爆発しながら迫ってくることになるな。仮に当たったとして巨大質量がものすごい勢いで風と熱を纏って突っ込んで来て爆発するわけだが、おまえ、爆発と物理の同時攻撃の影響、完全に防げんのかよ」

「フォーススキルで……」

「ほぉ、ついでに起こる酸欠と長時間の余熱も防げると?」

 

ダリはサガの返答に沈黙した。なるほど、打つ手がないというわけではない。けれど、現状、よくて全滅覚悟で相打ちに持ち込むことしかできないというわけだ。

 

「みんな死んじゃうんじゃあ、だめですね」

 

言うと、みんながこちらを見た。そうだ、全滅じゃあ、意味がない。それじゃあ、この宝石を使って魔のモノを封じることができない。それでは、エミヤと言う男の望みを叶えることができない。そうだ。私は絶対に、この宝石を使って魔のモノを―――あれ?

 

―――私、なんで、こんなに魔のモノを封じることに必死になっているんだろう?

 

「あ……、だって、それだと、魔のモノを封じて、赤死病を封じられないし、エミヤさん助けられないし……」

 

それは、誰に対しての説明だったのか、けれど自然と口から出た言葉に反応して、皆が反応を返してくれる。

 

「……そうだな。その通りだ」

「倒す、倒さないは別として、生きて帰らないと、この短い間に五層でたっぷりと味わった刺激が歌として残せませんからねぇ」

「ピエール、おまえ、そこは嘘でも、みんなのためにとか、エミヤ含めた全員で生きて帰りましょうとか言っておけよ……」

 

彼がいつもの調子に戻ったのを見て、少し嬉しくなる。これでいい。きっと、この空気が好きで、これの暖かさを失いたくないから、私はきっと、魔のモノを封じるのに必死なのだ。

 

「ええと、じゃあ、結局どうやって、あの竜を倒すのか―――」

「―――、――――――、――――――――――――!! 」

 

考えましょう、と、言おうとしたところで、安寧を咆哮が切り裂いた。咄嗟に反応して音の方を向くと、遂に空にて体勢を整えた竜が長いで天を仰いで、攻撃の準備が整った事を、正々堂々と告げていた。

 

「―――あ」

「やべえな。もう時間がねぇ」

 

この場所から円を描く様にして起こっている爆発に反応して、思わず竜の下に目をやれば、街の半分以上を覆い尽くす魔のモノの配下である黒い影が山のすぐ下にまで迫っているのが見えた。竜が生み出す風と吐息、そして侵攻を阻止する見覚えのある爆発がなければ、とっくにこの場所まで呑まれていた事だろう。

 

サガのいう通り、もう時間はない。早く突破口を見つけないと―――

 

「……え?」

 

迷っていると、竜の直下、台風の目となっているのか、無風である場所から暴風の中へと飛び出した銀色の光が、風の壁を突き破った直後、二キロはある距離から放物線を描きながら軽々と私たちの方へと飛んできて、そして斜めに地面へと突き刺さった。

 

「うぉ、なんだ」

「……剣? しかもなんだ、これは。随分とまあ―――」

「捩じくれてますねぇ。けれどなんだか、なんとも言えない厳かな雰囲気がある」

「あ、多分、これ、エミヤさんの「魔術」の剣ですよ。なんでも、二層の番人を仕留めるときに使った、自動で定めた敵を追っかける機能が付いているとかいう―――」

 

そこまで言って、はっと顔を上げた。剣の意図するところに気がついたのだ。すると皆も、同様に視線を地面と平行の位置に戻して、同様の顔を浮かべていた。

 

「―――どうやら彼は、今一番我々に欲しい援護をしてくれるらしい」

 

ダリが静かに言った言葉に一様に頷くと、私たちは全員で空を見上げる。そこには私たちを葬らんと、翼をはためかせて体を大きく上下に動かす竜の姿があった。そうして奴の胴体を包み込んで、なお余るほどの両翼を大きく広げる姿はとても威圧的だったけれど、不思議とその姿は、先程までよりも随分と小さなものに見えた。

 

 

竜がすぐ真上にいる。彼女の生み出す巨大な両翼は、直下除く周辺に凄まじい暴風を生み出し、私が方々に生み出していた爆発の煙を瞬時に払うと同時に、そこにいる全ての生物の動きを鈍らせる効果を持っていた。

 

かつてあの竜のモチーフであったセイバーという少女は、アーサー王を象徴する、有名すぎる聖剣「エクスカリバー」を隠すために、「風王結界」という風にて光の屈折率を曲げて姿を隠す鞘を刀身に纏わせながら戦っていた。今、竜は、まさにその秘された聖剣の様相を象徴するかのごとき有様だった。

 

先の動きから察するに、竜は彼女が持っていた未来予知じみた直感を持ち、一定以下の魔力攻撃をキャンセルするに似たような、一定以下の威力の攻撃を無効化する炎熱暴風の鎧を纏うと同時に、直情型の彼女と同じような直線的な性格をしていると見受けられる。

 

今、竜は、翼を以ってして己の周囲に張り巡らせていた風の鞘を、推進の力に変え敵を仕留めようと敵を真正面から堂々と叩き潰そうとしている。竜はその力の巨大さゆえに、そのネームバリューゆえに、注目されるのは当然である、と、己の力量を理解し、自信を持っているのだ。

 

しかし、目の前のことを解決するに懸命になるあまり、このように足元に蠢く弱者が目に入らなくなる事や、弱者が必死に罠を仕掛けているのに気づかないところまでそっくりだ。

 

―――おそらく、気配を消し、耐えている限り、彼女は私が攻撃するまで気づくまい

 

夜空に浮かぶ彼女が生み出す暴風は、味方であるはずの周囲に散らばる魔のモノ配下たちの進軍を阻止し、奴らはまるで彼女の発するカリスマにひれ伏したかのように、地面の密着を強いられている。

 

火竜が街中にまで威光を発する中、まるで彼女に付き従う円卓の臣下たちのように、その直下にて彼女の威と覇の恩恵を受ける私は、そんな彼女に背後から刃を突き立てるため、着々と準備を整える。

 

やがて敵元まで一直線に飛び、敵対者を仕留める準備が整ったのだろう彼女が、騎士が名乗りあげるかのごとく、天を仰いで己が誇りを雄叫びに乗せて叫んだ。

 

その隙をついて、頭上にてつんざく彼女の遠吠えに耳を潰されそうになりながらも、周囲の警戒を怠らないまま、宝具の外側だけを似せて作ったまさに贋作そのものと言える剣を、彼らの元へと射出する。風の壁を通り抜けた剣は、銃より打ち出した弾丸に似た軌跡を描きながら、そして柳洞寺の彼らの元へと着弾した。

 

彼ら―――、特に、私が二層にて使った宝具「赤原猟犬」の結果をスキルと勘違いし、魔術と明かしたのちは、宝具についての説明を食らいつくように聞いてきた彼女なら、意図に気づいてくれるだろう。

 

やがて竜が名乗りを終えて眼下の敵対者を睥睨する頃、私も攻撃の準備を整えて、宝具を生み出して、矢の先端を静かに、直上の竜と彼らがいる山の丁度中央あたりへと向けた。

 

皮肉にも、敵となった彼女が作り出す風の防壁に守られたこの時を最大のチャンスとして、目を閉じて完全に己の中の世界へと入り込む。弓の術において、的に当てるために必要なのは、意志だ。

 

的を見なくとも、心の中に当たるイメージを描くことさえできれば、放った矢は自ずと目的の場所へと到達する。必要なのは、常に必中するイメージ。先程までの戦いから算出したデータを頭に叩き込んで、寸分の狂いなく、宝具が、数秒後の未来において、竜の体に当たる事を想像する。

 

殺意を向けるは、数秒後の奴。未来予知じみた直感があろうと、竜は、今現在の己へと向けられていない殺意に気付けるはずもない。奴の動きに惑わされぬよう、閉じた視覚の代わりに、聴覚と触覚を過敏とする。

 

やがて肌が一層の風の強まりを感じ、風が周囲を壊す音が途切れたのが鼓膜にて感じた瞬間、その二つすら排除して、完全に己の世界に内没する。

 

「――――――!! 」

 

――――――咆哮とともに直進、――――――そこだ!

 

現実と想定がリンクする。奴の動きはどこまでも私の予想と同調していた。

 

―――喰らえ!

 

「赤原猟犬/フルンディング!」

 

未来の竜に向けて、矢を放つ。瞬間、前方に殺意を集中し直進した竜は、下方より放たれた、矮小ながらも、己の腹を割いて心臓を傷付けるに十分な威力を秘めた矢が迫ることに気がついた。突如として現れた伏兵の存在を視認した奴は、しかしすでに最大の加速を発揮し、刹那の間にも速度を上昇させ続けていて、自由な身動きは取れずにいる。

 

やがて私は、奴の進行方向に空気中の水分が凝結する予兆を見つけた。氷塊が生まれつつあるのだ。おそらく奴もそれに気がついたのだろう、高速で直進する奴の霞む顔に歪んだ表情が浮かぶのが見えた。

 

氷の術式と、私の宝具は、奴が完璧な対処を試みようとしたところで、確実にどちらかの刃にてダメージを負うように計算されている。おそらく奴は、それを直感したのだ

 

そうして意識を割いてしまったのも余計な工程で、奴の死期は益々近づいた。そのまま直進してくれると、氷が奴の頭を砕き、剣が奴の胸の心臓がありそうなあたりを貫くゆえに面倒がないのだが、当然奴は、抵抗の様子を見せた。

 

竜はすでに最高速に達して身動きが取れないという限られた状況において、その恵まれた身体能力を十分に発揮して、身を捩らせるバレルロールする事で、無理やり己の死の運命を強引に捩じ伏せようとした。

 

一秒を何分割もしてスローモーに切り取ったコマ割りの中、巨体の上部が数枚もフィルムを吹っ飛ばしたかのように、地面を向く。奴は滑らかかつ重厚ながらも、腹部側の柔らかさを感じさせる白い鱗でなく、赤く雄々しく硬度を主張する背の側で赤原猟犬の方を受ける道を選んだのだ。おそらくは背中側の方がより硬度が高いのだろう。

 

凄まじい速度で接近する剣といえど、その矮小さでは己の堅い鱗を貫くは叶うまいはしない、と判断しての選択だろう。竜の顔は不意打ちしか出来ぬ卑怯者の蛮族じみた攻撃などで、己の身の堅き部分を傷つける事など出来ないと言わんばかりの自信に満ちていた。

 

自ら身が傷つくことを厭わず、その場において被害を抑えるための最善の選択をとる。

 

―――そうだろう、己が民を愛し、信じ、しかし大を生かすために小を切り捨てる選択を迷わず行える君なら、そうしてくれると思っていたとも……!

 

だから、「赤腹猟犬/フルンディング」なのだ。はなから私は、大した魔力を込めていないこの剣の一撃で、奴を仕留められるなんて思っていない。これが仮に「偽・螺旋剣II/カラドボルグ」であっても、魔力の充填が十分でないその宝具は、せいぜいが鱗と肉を裂くくらいが関の山で、彼女の風と炎と鱗の三重に及ぶ守りを破り、その深奥まで到達できはしないはずだ。

 

つまりはどのみち、魔力というエネルギーの足りない宝具が、幻想種の頂点たる竜の鱗と肉、骨を貫けよう道理などない。精々、その薄い部分の皮膚を傷つけるのが精々だろう。そう。

 

―――例えば、その暴風を生み出す両翼の皮膜部分などの……だ!

 

「殺ったぞ……!」

「――――――!?」

 

赤原猟犬が当初の命令通り、奴の最も薄い守りの部分を貫く。いかに竜鱗とはいえ豪風を生み出すための部分はしなやかかつ柔らかでなければ自在に風を操れまいとの想像は、見事に予測通り的中した。

 

放たれた猟犬は竜の風生み出す翼布を往復すると、剣の残した残像が糸のように赤の尾を引いて両翼の間を往復し、美麗かつ荘厳な翼は、子供が塗った雑巾のように、見る間にみすぼらしくなってゆく。

 

狙い通りだった。もし、あの時点で竜の背中の鱗を傷つける程度には威力の高いカラドボルグを使用したのなら、竜は防御でなく、別の回避を試みたかもしれない。だからこそ私は、カラドボルグでなく、フルンディングを選択したのだ。

 

やがて己の体を制御する帆船の帆を失った竜は、自ら行った回転の勢いを止めることができずにきりもみしながら直進し、すぐさま氷の鋭角と激突した。

 

瞬間、光が発せられて、あたりを明るく照らした。予測していた私は、両腕を構えることにてそれを完全防御し、やがてすぐに光の幕が消え失せた後、竜の姿を確認すると、予想外の位置にて己の苦手とする属性を体で受けることとなった竜が、体内への異物の侵入を許してしまう光景を見た。

 

竜は信じがたい現実に、目を白黒させていた。その間にも氷は融解と蒸発を伴いながらも、固体の状態を保ち、体内への侵入を見事に果たして、傷口を抉ってゆく。やがてその透明な杭がその向こう側に、奴の心臓だか、炉心だかの内臓を映し出すほど侵入したのを見て、私は勝利を確信した。

 

―――よし……!

 

同時に、空中に突如として出現した大氷塊と背中側にて激突したことにより、竜の体は多少その勢いを落としたものの、それまでに秘めていた速度をほとんど緩めず、山に向かうのを見る。アハトアハトどころの騒ぎでない大質量の戦略兵器に等しき威力を秘めた体が彼らに迫るのを、しかし私は問題ないはずだと考えながらその行方を追っていた。

 

あれだけの巨大質量であるが、ヒュドラの巨大な頭部の一撃を受け止めて平然としていた、ダリの物理攻撃威力を完全に消滅させるというスキルなら、竜の体当たりにも同様に効果を発揮して、竜は彼らの手前で停止するだろうと、考えていた。しかし。

 

―――何……?

 

竜の巨体は私の予想と違う方向へと進路を変えて、柳洞寺の山門があった辺りの斜面に激突した。凄まじい勢いで土砂が掘削され、空中に飛び散る。竜との激突の折に生じた巨大な音は、竜の移動により遅れて生じた音速を超えた際の衝撃の破裂音と混じって、遥か昔に眠りについた深山の街を起こしてやろうとするかのように、重低音で街を包み込んだ。

 

体の芯まで震える音の衝撃は、内外より鼓膜を揺らして虐め、瞬間、私は身動きが取れなくなる。過振動を与えられた鼓膜は、一旦、全ての音を区別することができなくなる。無音の世界にて気を取り直し奴の方を見れば、竜は未だに勢いを止めることなく、土砂を巻き上げながら、地面に潜行する作業を続けている。

 

予想外の出来事に、多少ばかり焦りが生じた。竜の体が地面下を進む衝撃で、穴の真上にある柳洞寺の境内周囲が崩壊し、竜の開拓した進路を埋めてゆく。その勢いは止まらない。

 

―――いかん。生死がどうあれ、このままでは彼らは土崩の下に埋もれてしまう。

 

スキルの守りを考えるに、圧死はないだろうが、あのままでは窒息死してしまう可能性がある。さっさと掘り出してやらねばと考え一歩を踏みだすと、背筋に悪寒が走った。

 

「――――――っ! 」

 

飛び跳ねるようにしてその場を離脱。聴覚が潰されていたが故に、触覚が敏感に反応したのか、背後の空気が不自然に揺らぐのをしっかりと感じたのだ。体を捻りながら着地し、先程まで私がいた空間を見てやると、先ほどまでちょうど私の心臓があった辺りを、拳が侵食していた。伸びた腕を顔まで辿ってやれば、見覚えのある顔が渋面を作っている。

 

ようやく姿を表した仇敵を目にした途端、臨戦態勢へと移行する。双剣を投影すると、奴も呼応して周囲に魔のモノ配下を呼び寄せ、二十メートルほどの距離で、私たちは対峙した。

 

「まったく、彼らと同じ場所へと送ってやろうという親切心を無碍にするとはな」

「―――言峰綺礼……!」

 

不快な声が耳朶を打ち、機能を取り戻した鼓膜が声を処理して、脳裏に不愉快な言葉が聞こえてくる。奴の声に続けて、魔のモノの静かな唸り声が輪唱し、周囲の空間を悪意と殺意に満ちてゆく。

 

「やれやれ、セイバーと言うクラスは毎度のこと頼りないな。最優が聞いて呆れる」

「は、優秀な人材を適切に扱うならばそれ相応の実力が必要だからな。セイバーを頼りないと言うなら、それは純粋に、マスターに彼女と見合った実力がないと言う証拠だよ」

「――――――」

「――――――」

 

もはや返答はなかった。お返しとばかりに、奴から発せられる殺意の密度をましてゆく。周囲を取り囲み空気を侵食する息苦しささえ覚える意思を、不敗の意志にて迎撃してやると、彼我の間にある空気が軋み、悲鳴をあげて空間から正常の温度が逃げ出してゆく。

 

「―――」

「―――」

 

奴が片方の腕を天に向けた。応じて魔物の群れがいっせいに姿勢を低くする。奴らは自らたちを統率する指導者による攻撃命令を今かと待ちわびている。

 

「命ず―――」

 

敵対者が口を開く。

 

「全力で奴を殺せ!」

 

腕を振り下ろした直後、殺到した獣は瞬時に奴を埋め尽くすほどその側面と背後より現れて、前方の空間に殺到した。隊列の乱れなど気にしない、悪の獣の本性を曝け出したかのような荒々しい進軍に対応すべく、体より力を抜いて、激突の瞬間に備える。

 

そして。

 

「―――!? 」

 

剣を構え戦意を高めていた私は、気がつけば私は光の中に包み込まれていた。たっぷり十秒ほども続いたそれに私は一切の身動きを封じられて、気付いた時には、顔の前には地面が広がっていた。正面より倒れ伏したのだ。

 

―――何が……

 

状況を確認しようと立ち上がる行動の命令を腕脚に送るも、一つの指先すらまともに動いてくれない。それでも足掻くと、微かに顔面の筋肉だけが苦渋の形に動いた。口の端から土の煙が入り込んで、土の不愉快な苦味が口の中に広がる。

 

土食む不快さに、なんとか己はなんらかの攻撃によってやられたのだと言う現状を咀嚼すると、どうにか自在に動く眼球だけを動かしせめてもの状況把握に努めようとして―――

 

「ほう、やはり元英霊は頑丈だな」

「こ、……み……、き……」

 

髪を掴まれて動かない頭が前を向かされる。眼球が不愉快を体現する男の姿をとらえた。言い返してやろうとしたが、呂律が回らない。脳裏より送られる信号を体がまともに処理してくれていない。

 

「ああ、無理をしない方がいい。何せ貴様の体は今、その背面より背骨や内臓が露出するほど血肉が刮げ、消失しているのだからな」

「―――あ……」

 

言われて己の現状を正しく把握した。神経回路は異常を知らせる信号に占拠されてまともな命令を送ることを不可能とし、脳は全身から一方的に継続して送られる痛みの信号に許容できる処理範囲を超えてオーバーヒートを起こしていた。

 

今、その痛みを私が感じていないのは、そうして押し寄せる異常のシグナルを脳が正しく処理しきれないからだろう。言峰は私の現状を把握したのか、さも愉快と言う風に体を大きく揺らして、言葉にならない笑いを漏らした。

 

その振動は、奴がしっかりと握っている私の頭髪を通じて、瀕死の重傷を負った私の体を大きく揺らすことともなり、視界がガクガクと上下左右にブレた。抵抗しようにも、文句を言おうにも、体が動いてくれないので、私にできることはない。

 

やがてその動きが収まる頃、視界の中に、冬木の街が削れ、焼成され結晶化した部分が生じた地面を見て、私は己の身を襲った一撃がなんであるかを正しく理解した。

 

「か……りゅう、の……、と…………き、……か」

「その通りだとも」

 

エクスカリバーの一撃に等しい威力が無防備な所を直撃しても生き残れたのは、炎の加護を持つアクセサリーのお陰だろう。絶え絶えの言葉を耳聡く聞きつけた奴は、嬉々として私の答えを肯定する。

 

あの攻撃命令は、魔のモノに対してだけでなく、竜に対しての令呪がごとき指令でもあったのだ。眼前に大軍を用意し、濃密な殺気によって意識を集中させ、そして注意の薄れた背後より灼熱の一撃食らわせる。

 

そして己を呑み込む光の奔流が自らにもたらす威力と害は、魔のモノの軍勢を肉盾とする事で、熱も圧力をもシャットする。配下を、命を消耗品として扱うそのやり方は、なんとも悪を容認する奴らしくて、反吐が出そうだった。

 

「くくっ、良いざまだな、エミヤシロウ」

「……、はっ」

 

蔑む視線に、奴が大笑いした際、微かにだけ動く右腕を動かして人差し指と中指だけを立ててやる。先程まで戦っていたセイバーたる彼女に触発されてか、私がイギリスの弓兵式に挑発してやるも、言峰綺礼は無力化した男の向ける悪意など愉悦の糧にもならんといわんばかりに平然と受け流して、言った。

 

「おや、まだ動くか。では念のため、その行儀の悪い指を始末しておくとしよう」

「――――――っ」

 

迷いなく人差し指と中指が捩じ切られる。奴はそうして捩じ切った二本の細長いを地面に落とすと、その上めがけて勢いよく足を下ろして、震脚する。衝撃に体が揺れ、落ちた視線にてその黒の靴が上がった後を見ると、地面には、肉も骨も砕けて厚みを失った、かつて私の肉体だったかけらがめり込んでいた。これでもう弓は扱えない。

 

ついでと言わんばかりに、奴は五指残る左腕を思い切り踏みつけて骨と肉を砕き、抵抗の余力を削ぐと、言った。

 

「さて、では、貴様のお仲間が余計なことをしでかす前に、止めてやらねばな」

 

奴は、手中に握っていた私の頭髪を離し、自由落下を開始していた私の顎を蹴り抜く。顎下より凄まじい衝撃が頭部を支配し、視界が揺れたかと思うと、瞬時に刈り取られた意識は現実から乖離して、私は暗闇の中へと送り込まれることとなった。

 

第十五話 夜にある、それぞれの運命は

 

終了

 

世界樹の迷宮 ~ 長い凪の終わりに ~ 第十四話 文化は違えども、人の悩みは変わる事なく

第十四話 文化は違えども、人の悩みは変わる事なく

 

莫逆、水魚、刎頚、断琴、心腹、管鮑。

相手の信頼を欲するなら、曝け出し、尊重し合うことが必要だ。

 

 

薬品の匂いが満ちる治療の場は、闘争を禁ずる静寂の法則が敷かれているにもかかわらず、剣呑な気配に満ちていた。治癒の施された一人の患者を見守る四人の男の周囲を、武装した兵士が囲んでおり、一切の無駄な会話と余計な行動を許容しないだろうことが見て取れる。

 

さて、咎人を閉じ込め尋問を行うには清潔にすぎる牢獄は、時代を私の生前の時代にまで遡れば、ジュネーブ条約は捕虜の項に記された思慮に則って作られた人道的な施設である、と、反戦意思に富んだ連中が賞賛したかもしれないが、もちろんそんな殺戮と闘争を常とする世界とは無縁の彼らが、有名無実な効力に等しかった法を気にしてこのような部屋を用意したわけではないのは、部屋の内外を隔てる扉と窓が余りにも薄いことからも明らかだ。

 

なんてことはない、長く平和の時代を謳歌したこの世界において、罪人をきちんと閉じ込めておく部屋はもはや無用、一昔前に改築され、今や存在していないが故、我々はこうして治療のための部屋に閉じ込められているに過ぎないのだ。

 

「やー、困りましたねぇ」

 

部屋の中央で左右に均等の数の衛兵に守護されたクーマの壮年の顔には、軽妙な口調とは裏腹に、困惑と混乱の様子がありありと浮かんでいた。我々の目の前に立つ彼は常とは異なり、部屋に着飾ってあった鎧兜を着込み、槍盾を装着した完全武装の状態で我々の前に立っており、両脇を彼と同様クラスの手練れが固め、こちらの一挙手一投足に注意を配っていた。

 

もし少しでも敵対的な態度を取れば、即座に取り押さえる。兵士らのそうした毅然泰然とした防備に対する意識が露わな態度は、平時ならば賞賛に声をあげていたかもしれないが、いざ彼らの注視対象となった今では、少々鬱陶しい。いや、罪を犯した罪人に対して然るべき対応なので、文句のつけようないのではあるのだが。

 

「一応、規則なので、定型文で聞いておきます。なぜこんなことを? 」

 

クーマの問いかけに、男たちの視線が私に集中した。無意識の行動だったのだろう、三人は一人に責任を押し付けたかのような己の行動に、それぞれ居心地悪さを覚えたらしく、すぐさま視線を逸らしたが、彼はそれを見逃さなかった。

 

クーマの真剣な視線が私に投げかけられる。彼の目線の向かう先に気がついた衛兵達も私に鋭い視線を向けるようになり、我が身に降り注ぐ圧力は、より重いものへと変化した。

 

三人の態度より己に集中した疑問の視線を、けれど私は当然と思い、受け入れる。携帯磁軸を使った詳細な事情を知るのは、私だけであるからだ。彼らに非は、ない。あえていうなら、その手段を提案し、実行した罪はあるかもしれないが、そのきっかけとなったのは、私の言葉が原因だ。すなわち、こうして閉鎖空間に隔離され、尋問にて責められるべきは、進んで法を破る指示を出した私だけなのだ。

 

―――さて

 

向けられる監視の視線に、私は己の知る真実の情報を言うべきかどうか瞬間だけ悩んだが、もしこのまま口を閉ざしていた場合、私を信じて行動を起こし、拘束の扱いを受けている彼らが謂れなき罪により罰せられるだろう事を嫌って、話す決意をした。

 

「わかったよ、クーマ、話そう。だが事情は、例の件にも関している」

「――――――いいでしょう」

 

私の口調と態度から、内容が魔のモノ関連である事を察ってくれたのだろう、クーマはハンドサインで周囲に指示を出し、屈強な兵士たちに部屋の外で待機するように指示を出した。

 

兵士たちはその、犯罪者の意見を素直に受け入れ、司令官を守りもない状態で対面させろ、と言う指示が出た事に驚愕し戸惑ったのか、少しばかり困惑に身を揺らしたが、やがて彼を疑った事実を自戒したのか真剣な表情へと変化させた上、恭しく礼をクーマに返すと、大きな体躯で小さな扉をくぐり抜けて外へ出ていった。

 

私は彼らが理不尽を含む命令であるにもかかわらず、文句一つ言わずに従う様に、クーマという男に対しての絶対の信頼を見つけるとともに、整然とした身のこなしに弛まぬ練兵の証を見つけて、小さく感心の吐息をついた。

 

クーマは彼らが出て行ったのを確認すると、己も扉の外へと顔を出し、部屋の入り口の両脇を抱える彼らに他言無用の指示を出した。流石に見張りまで退去させることができなかったが故の処置なのか、あるいは、見張りの彼らは事情を知る相手なのかもしれない。

 

彼らから了承の意を含む鎧兜が擦れる金属音が静かな空間に響き、遅れて承知の返答が返ってくる。クーマは満足そうに頷くと、扉を閉めて、わざわざ鍵までをかけて、振り返ると、笑って言った。

 

「さて、では、詳しい事情を聞かせてもらいましょうか」

 

 

魔のモノの成り立ちから、言峰綺礼という男のあれこれ、魔術のなんたるかまでを予測含めて、知る限りの知識を一切合切話し終えた私は、全てを話し終えた際、大きく息を吸い込んだ後、長い安堵のため息を吐いた。一人で抱え続けてきた重荷を下ろせた事で、多少心持ちが軽くなったのだ。

 

「―――事情はわかりました」

 

私とは逆に余計な重荷を背負い込んでしまったクーマは、しわを寄せた目元を揉みほぐしながらなんとかその一言を吐き出した。

 

重苦しい吐息は、今話した荒唐無稽の内容をどうにか理解してやろうと言う気概から生じる思考が、しかし、如何にもこうにも彼の知る常識からすれば内容があまりに非現実的すぎて、完全な理解と受け入れを拒む脳みそにて沸騰し、その蒸気が漏れているようだと感じる。

 

熱の吐息に誘引されるよう視線を周囲に移してみれば、仲間の四人のうち、戦闘後より眠りについている彼女は別として、一人は椅子に背を預けて小さな頭を抱え天井を向き、一人は長身の体を小さく纏めた状態で前かがみ気味の姿勢で両の太ももに置いた両腕で顎を支えて地面に視線の向け、一人は静かに瞑目したまま自然体の状態で唇を緩ませていた。

 

前者男二人の方は、おそらく必死の理解を試みているのだろう事が、お手上げの見本のような姿勢から見て取れる。そんな二人とは別に、後者の一人は今の話の内容を聞いて心を躍らせたようだった。体全身から溢れる喜びが抑えてきれていないのが、上向きの三日月に形成さられた口角と、小刻みに揺れる体の様子から見て取れる。

 

おそらく、彼の閉じた柳眉の奥にある脳内では、今しがた私が話した過去の物語を忘れぬよう、何度も反芻しているのだろう。きっとそのうち装飾をして、寝物語や詩吟の題材にでもするつもりなのだ。いやはやなんとも呑気と言うか、豪胆というか、独特な感性と性格をした男である。

 

「―――それで、君は法を破った私に対してどんな判断を下すつもりだ? 」

 

私は彼らの様子を尻目に、クーマへと己の罪状を問うた。彼はしばらくの間、瞑目したまま手を、額に、後頭部に、顎に、頬に、せわしなく移しつつ、頭の居場所を定めないまま懊悩を隠そうともせずに深く考え込む様子を見せていたが、やがてようやく結論を出す事を決めたようで、一つ大きく頷いて見せると、吸って肺の中を一杯に満たし、吐き出した。

 

結論に達するまでに削ぎ落とされた思考の余分が漏れていくかのように、月明かりに照らされた室内の地面へと吐息が落ちて、吸い込まれてゆく。やがて吐息の行方が不明になる頃、彼はもう一度、今度は静かに首を振ると、瞼を開けてこちらを向いた。

 

「―――、事情は、確かに伺いました。また、聞かせていただいた話にあった、伝承に則らねば倒せないという敵の特徴からは、あなたが違反をしてでも大地を破壊し、転移装置で敵を地上へと送らねば倒せなかったと判断した理由も理解できます。エミヤという男がくだらない嘘をつくようなタイプでないことは承知していますし、光を浴びて悶え苦しんだようだ、との衛兵からの報告もありますゆえ、おそらくその話も真実なのでしょう。―――ですが、何があろうと、貴方達は多くの人の前で重大な規約違反を行いました。この事実はどうあがいても、覆す事が出来ませんし、これを見過ごす訳にはいきません」

 

なるほど、彼の言い分は一々最もだ。なんと言い繕おうと、違反は違反。法の多少の弛みを見逃すは日常を楽しく生きるための清涼剤になるかも知れないが、かといって街やそこに住む人達の重大と呼ばれる不法を疎かにすれば、その先にあるのは荒廃した世の中だ。

 

最低限守るべき法があり、良心を持った人々がそれを遵守するからこそ、その場所に住む人々は緩い縛りの中で安寧の時を謳歌できるのだ。かつての世にはついぞ存在し得なかった平和という絵空事に過ぎぬ空想を求め、生前は正義の味方を目指すものとして、死後は英霊として戦場を駆け抜けた私は、クーマという男の判断を間違っていないと考える。

 

「―――天井だけなら戦いの余波で生じた意図せぬものであった、などとでも言い繕えたかもしれませんが、転移装置を用いての、無断での生きた魔物の転移は、明らかに意識しなければ出来ない所業であり、また、結果の目撃者が多数います。しかも、転移した相手は番人です。可能性は低いと思いますが、この案件を放置すれば、いつか、同様の掟破りによって、地上の衛兵や冒険者達に被害が出るかも知れません。あるいは、街の住人にまで被害が及ぶかも知れない。私はなんとしてでもそれを避けねばなりません。……ですから、エミヤさん。と、異邦人の皆さん。申し訳ありませんが、私はあなた達を―――」

 

歯の上下を合わせて左右に大きく伸びた唇が次の言葉を発する前に、彼は歯を噛み締めて、口は固く結んだ。そして少しばかりモゴモゴと口を動かした後、咳払いをして改めて述べる。

 

「追放しなくてはなりません」

 

さて、そこで私だけの罪でなく、異邦人の彼らをも巻き込んで罪状を宣言したのは、あるいは、罪科の責任を分散させる事により、私の罪を少しでも軽くしようとする、クーマという男の優しさのなのであろう。

 

また、先程の口籠もりの際、「い」に属する言葉を発しかけた口の動きと、今しがた発せられた追放という言葉から察するに、おそらく本来、言葉は、処断とか、処分とか、処刑とかの、命を奪う罰則に関するものだったのではないかと予想した。

 

おそらく、私―――否、我らの罪科をエトリアの法に照らし合わせた時、罪人の命の摘み取りが最も適当な罰であると無意識のうちに理性は弾き出したが、その理性が言葉となりて世に生まれ、もはや後戻り出来なくなる寸前で、彼は感情の力を使って、それを腹の中に収め、直前で己の結論を、民衆が納得するであろう範囲で変換したのだ。

 

しかしそれでも、追放という、常日頃は使用する機会もそうそうないだろう言葉を発するのはよほど重圧だったと見える。胸の裡の真意を語らない彼だが、唇を食み、目線を泳がさぬようあえて強固にこちらを見つめる眼差しからは、為政者として初めて下す判断故の戸惑いと、知り合いを裁かねばならぬ苦渋と、しかし街を守るものとして引けぬという確固たる決意が映っていて、追放の宣告が本心から生じた発言でないという事が見て取れた。

 

「―――、そうか」

 

私は彼の様子を眺め、ひどく不憫に思った。同時に、彼に対し、罪悪感を抱く。彼が本来ならそのような判断を下したくないのだということは、その所作から十分すぎるほどに読み取れた。彼は今、真実と現実の、個人の判断と街の守護者としての立場を天秤にのせて出した結論に、どうにか折り合いをつけようと必至に悩んでいる。

 

彼は、私の語った内容が真実と理解し、私たちが違反せざるを得なかった理由は納得できているけれど、その、魔のモノという存在を前提にした内容を現実に生きる街の住人に語るわけにいかないという事実のため、私たちを罰せざるを得ないという状況に苦しんでいる。

 

法の番人ではあるけれど、法が他人を害するようならば、多少のお目溢しは構わないだろうと考え、そして実際に委細問題なきようなら迷わず実行する、裁きの天秤の秤に悪意という錘が乗っていなければ、針が善の側に傾くよう調整してある、彼という善人らしいと悩み方だと、私は思う。

 

「それで、エトリアからどこのあたりに追放されるのですか? なるべくなら、刺激に満ちた場所であれば嬉しいのですがねぇ」

 

クーマの懊悩を推測していると、ピエールの涼やかな声が夜の闇を割いて静かな部屋に響いた。皆の視線が彼の元へと集中する。彼は集まった熱に反応して反射的に楽器を鳴らそうとし、しかし指先が空を切った事からようやく竪琴を取り上げられている事実を思い出したらしく、少しばかり不服そうな顔を浮かべた。

 

「―――そうか……」

 

ピエールの茶々からクーマは何かを思いついたらしく、暗澹の顔に歓喜の色を取り戻した悲喜半々ほどの複雑な顔で、己の発見を喜んでいた。

 

「何か名案でも? 」

 

すると彼は悲喜交々の表情の中にさらに真剣味を加えて、静かに口を開いた。

 

「―――、ええ、一応。まぁあくまで、私にとって利のある提案、でしかないのですが」

「……聞かせてもらおうか」

「では。―――皆さん。執政院冒険者担当政務官クーマは、貴方達の追放場所を、新迷宮の五層に致したいと思います」

「―――は? 」

 

彼の言葉に間抜けな声を出したのは誰だったのか。私は彼の言った言葉をすぐさま咀嚼し終えると、疑念と抗議の視線とともに、言葉を送る。

 

「君は馬鹿か? 」

「おや、手厳しい」

 

悪辣な批評に対して、クーマはしかし先程とは一転して飄々とした態度で、笑っていた。

 

「いや、元の上役に言うのもなんだが、エミヤの言う通りだ。罰というは、本人に厚生の機会を与え、犯した罪の反省を促し、同時に、周囲の人間には、法を破った場合に己の身に降りかかる被害を示し、再発の事態を防ぐ事を目的とするものだろう? ならば、法を破った冒険者を、違反したその場所へただ送り込むだけの処置を、罰則と呼べるかは甚だ疑問であるし、無理があるんじゃないか? 」

 

そのクーマに私と同じような感想を述べたのは、ダリだ。実直と不器用を形にしたかのような男は、やはり法というものに対してはどこまでも誠実なようで、先のクーマの提案の問題点を指摘した。己を裁くものに対して物怖じせぬその態度は見事なものだと思う。

 

「ええ、確かに、ただ迷宮に送り込むだけの処置なら追放、ということにはならないでしょう。ですから、こうします。―――アリアドネの糸を取り上げ、転移装置の携帯を禁じ、樹海磁軸の使用を禁じ、その上で五層に追放し、さらには樹海磁軸を用いてのエトリアへの帰還も禁止します。もし仮に戻ってきた場合は、申し訳ありませんが、即刻、追放より重き厳格たる処置を取らせていただきたいと思います」

「―――なるほど、事実上の死刑宣告か」

「ええ、そう受け取っていただいて間違いありません。ただし―――、迷宮の奥にて五層を攻略した場合、すなわち魔のモノを封印した場合、報告のため、一時的に帰還の制限は無視して構いませんし、磁軸の使用をしてもらって構いません。また、その折に攻略の事実が確認できれば、つきましては情状酌量も考慮致しましょう」

 

告げられた条件を聞いて、私は彼が我々に何を求めているのかを悟る。なるほど回りくどいが、彼の望みは、先日の対談の時と初対面の頃と何一つ変わっていないというわけだ。

 

「なるほど、せっかくの戦力だ。どのみちどこかへと放たねばならぬなら、ついでに敵の心の臓を貫く鉄砲玉に仕立て上げてしまおうというわけか」

「まぁ、早い話がそうなりますねぇ。私としては、撃てば戻ってこない弾丸ではなく、貴方達には、是非、ザミエルのようになってほしいと思っているわけですが」

「と言うことは、親玉を倒せば、自らの胸を貫く必要もなく、使い捨てにならずに済むと? 」

「いえ、別に倒さなくとも、魔のモノを封じてくださるだけで構わないのです」

 

ピエールが割り込んで尋ねると、クーマは苦笑しつつも頷いた。そうして私の例えに得心の様子を見せる二人とは別に、視界の端でダリとサガが、会話の意味を理解しかねて、首を傾げるのが見えた。そうして彼らは小声で何かを話し合う。

 

さて何が彼らに秘密の囁きをしようと言うきっかけを生んだのかと聞き耳を立てると、どうやら鉄砲玉、ザミエル、と言う例えの意味がわからないのを恥と思ったらしい。なるほど、そういえば銃という概念はこの世界では珍しく、また、遠き過去の物語を知る者も少ないのだ、ということを今更ながらに思い出す。

 

おそらくその概念に纏わる人物の逸話と伝承をクーマとピエールが知っているのは、クーマは過去のことを詳細に収集している人物だ彼だからであり、ピエールは吟遊詩人という過去の物語を収集する人物だからであろう。

 

なるほど、本来ならこう言った点にも気遣いながら、日々、徐々に常識の擦り合わせをしていくべきだったのだ、と、文化の差異と擦り合わせる事に鈍感かつ無頓着であった己の醜態に気付き、軽く苦笑する。

 

いやはや、迷宮を攻略し、死病を無くすために宿と施薬院と執政院、道具屋と迷宮の五つを往来するだけの日々を過ごした代償とはいえ、こうも世間知らずの状態に陥っている事に今更気付かされるとは思わなんだ。

 

かつては魔術を使えぬ人間はご同類でないと見下し、隠遁と隔絶の生活を基本とした傲慢な魔術師を笑えもしない、我ながらなんとも大した世捨て人っぷりではないか。

 

「―――それで、如何でしょうか? 」

 

クーマはその強制追放令を、まるで提案であるかのように、こちらの意思を問うてくる。いやきっと、真実彼は、こちらの意思を確かめようとしているのだ。おそらく、ここで否と返答すれば、彼は単なる国外への追放令に、その命令内容を変更するに違いない。

 

そこで、クーマという人間が門番などの衛兵たちの間で好かれている理由が理解できた気がした。どちらかといえば机上にて最大の人間を救うために最小の人間を切り捨てる判断を机上にてあっさりと下す司令官ではなく、目の前にいる全てを救うために思考し、行動し、対応してやろうと苦慮する、現場の下士官にいるタイプ。

 

彼のその夢見がちな性質は位の高い役職に向いていないだろうが、どうにかして目の前にいる人間の事情を汲み取って、出来る限り全ての人に助力や救済の手を差し伸べてやろうとする態度は、それこそかつて、全ての困っている人に手を差し伸べる正義の味方というものを目指した私の目には好ましく見えた。

 

だが。

 

「ダリの言った通り、ルールを破った罪にしては罰の方向性が少々ずれている気がするが、本当に、それで君はいいんだな? 万が一の事が起きた際、その責任を取る覚悟があるのだな? 」

 

仮にも住人の生命や財産を脅かす行動をとった罪人に対する罪に対する罰としては、再犯防止のための思考の矯正や行動の制限といった処置を含まない帰還の条件が、やはり少々的を外れている罰則で、エトリアの秩序と平和を保つためには緩すぎる。

 

問いかけると、は続く無言の中に、私の知る過去の常識に則った抗議の意思をこめて疑問を呈すると、彼は、にこりと笑って、彼は迷わず返答する。

 

「ええ、勿論です」

 

短くも断固とした不退転を示す言葉は、為政者が法を破る態度にしてはあまりに勢いが良すぎて、思わずまじまじと見つめてしまう。

 

「―――昔のことです」

 

彼はそして、私が視線に込めていた正気を問答する意思を受け止めて苦笑いを浮かべると、ため息を一つ吐いて独白を始めた。

 

「かつて私の前任者は長きにわたって、いわゆるヴィズル式で冒険者たちのまとめ役の職務を執行しておりました。つまりは法を犯した人間はいかなる理由があろうと処断する、簡単に言ってしまえば、法を人の上に置く主義の人間でした。……、あまり詳しくはお話しできませんが、当時、エトリアの住人であった私の両親は、そうして情を挟まない、一切の情状酌量をしない彼の判断により、二人ともに亡くなりました」

 

両親の死を語る彼の口調は淡々としていて、感情を努めて込めないようにしているように見受けられた。つまり―――、彼は、この世界の人間にしては珍しく、己の過去に起きた出来事に対して負の感情を抱いき続けている人間なのだ。

 

しかし、かつて響達の言っていた言葉を思い返すに、彼は同時にその出来事に対して好意的な感情を抱いているという事にもなる。両親の死をもたらしたという事実のいったいどこにそんな感情を抱く余地があるというのか。

 

「それで、その事が気に食わず、意趣返しのために今回の判断を? 」

 

はしたなくも彼に対する興味がむくりと湧いた私は、思わず聞き返した。

 

「―――、ああ、ええと、すみません。今の言い方ですと、前任者を乏して、そのように言っているように聞こえましたか。―――いえ、違います。こう言っては薄情に聞こえるかもしれませんが、私は別に彼のことを嫌っていたり、その判断を間違っていたなどとは思っていません。……まぁ、両親の死についてはもちろん、残念だったとは思っていますが」

「――――――」

 

予想外の返事に戸惑う。少し拍子抜けした気分をも味わった。

 

「ええ、ですが、やはりあの時の彼が下した判断が間違っていたと、私は思っていません。ただ、結果として、法をきちんと遵守した結果、私の両親が死んだという結果だけが残った。それだけのことなのです。前任者の方は、法を至上とすることでエトリアと街の人々を守ろうとし、しかし完全な守護を達成する事は叶いませんでした。彼はそのことで悩んでいました。そして、己の悩みが消える事実にもまた、悩んでいました」

 

彼は虚空を見つめて目を細めた。そうして過ぎ去りし昔の時を思い出す彼の瞳には、過去の出来事を愛おしく懐かしむ念だけが秘められていて、クーマが、その両親の死の原因となった前任者に対して負の感情を抱くどころか、敬意を抱いている事を、私は確かと理解する。

 

「日を跨いだ際には消えてしまうそんな後悔と反省の思いを、しかしなんとかもちこそうと、その日の心情と進捗を日記に毎日つけて読み返し、どうにか街を今より良くしようとしていました。彼は本当に必死で、法と職務に忠実で、またエトリアという街を愛した男でした。そんな彼の姿を見てきた私が、どうして、彼のことを憎いと思えるものですか。誰がいい悪いとかでなく、ただ、誰もが正しくあろうとした結果、不幸な事が起こったというだけの話なのです。―――そして、だから、私は、少しだけやり方を変えることにしたのです」

 

彼は瞑目すると、我らの方へと背を向けて、入り口扉の上に頭を向ける。彼の言葉を遮るものは誰一人としていなかった。私情を語り、思想の変遷に対して余計を挟まない思慮分別を持ち合わせた者達の思い遣りが、牢獄となった白き部屋を柔和さで満たして、居心地の良い空間へと変遷させていた。

 

「およそ完全とは程遠い人間が変化を当然とする世界で生きてゆく以上、心に、体に、傷を負うことは避けては通れません。掌に掬った水はどれだけきつく力を込めようが、やがて指の隙間より幾分か溢れて落ちゆく定めにあるように、どれだけ正しくあろうと人を締め付けても、過ちは思わぬところから起こってしまうものなのです。しかもそんな場合に限って、当事者たちにとって、まともな手段では手遅れな事情が絡んでいたりするのです」

 

今のあなた達のようにね、と彼は笑う。私はその寂寞を含んだその笑みに、同病者を憐れむ感情を見つけて、おそらくそれは、彼が言っていた両親の件があったらこその情けなのだろうと思った。ならばきっと、この独白は我らに対する説得でなく、彼自身が懊悩する己を納得させるための羅列なのだ。

 

彼は今、私たちの事情の中に過去の己の無力の嘆きを見つけ、そんな我らを救うことによって過去の己を救えると思っているのか、必死になって我らを救う理由と理屈を見つけ、個人と為政者の立場の間に手迷う己が納得いくような結論を得ようとして、言葉を重ねている。

 

故に私は何も言わない、答えない。悟りの境地に至るのに他人の言葉は無用のものだからだ。

 

「そんな、本人たちの意思に関係なく起こってしまった出来事を、悪意なんて介在しない出来事をわざわざ裁くなんて、馬鹿らしいじゃないですか。だって、この世界においては、心身共に早々大抵のことは取り返しがつくのです。例えば肉体が損失するような怪我だって、ハイラガードに存在する高度な医療施設を利用したり、あるいは、アーモロードに多く住まうアンドロという彼らの手を借りることができれば、今まで以上の力を持った機械の肉体を手に入れることもできます。心的な傷だって、意識しなければ基本的にはその日のうちに消えてしまうのです。そう、ですから、大抵の出来事は、この世界においては、完全でないけれど、完全といえるほど取り返しのつく事なのです。そんな、取り返しのつく事にいちいち目くじらを立てて、街を守るためとはいえ、雁字搦めに他者の定めた理屈を強要して誰かを不幸にするというのは、いかにも真面目過ぎて、愚かしくて、好ましくない」

 

長くて紡がれた言葉には、今までで一番の力強さがあった。きっとそれが彼の本心からの思いなのだ。彼は他者の定めた法によって、両親を失った。今の話の内容から察するに、その前任者が法に基づいて下した判断はたしかに正しくて、また、彼の両親は法を破らざるを得ない理由をなにか抱えていたのだろう。

 

そして、結果、望まぬ事に、彼はエトリアに敷かれている法によって両親を失った。それは、街と街に住む人を守るために正義を執行した結果と理解はしているけれど、しかしだからといってそんな理外の事態に弱い普遍の正義を信奉しすぎる事によって生じる犠牲を良しとしておらず、嫌っている。

 

だからこそ彼は、多少の横紙破りを許容し、他者を出来る限り拾い上げようとする人間になったのだろう。

 

「―――、ん、んんッ、失礼しました」

 

彼の独白から彼という人物の背景と性格を推し量っていると、彼はようやく己の話が本筋から脱線して、己の判断に対する言い訳になっている現状に気がついたようで、熱弁に込められていた想いを発散させてやるべく二度ほど大きくわざとらしく咳払いすると、襟首を正して場を仕切り直す。

 

「ええと、何のお話だったのか……、ああそうです。罰が本来の意図とずれているかもという話でしたね。―――、ええ、構いません。別に構わないのですよ」

「それはなぜ? 」

 

今度こそ脱線せぬように、疑問にて話しを継いでやると、意図を汲み取ったのか、彼は赤面を誰もが好ましいと思うような微笑みに塗り替えて、続けた。

 

「……、エミヤ。我々は森羅万象と共存し生きる人間なのです。自然と、誰かと、共に生きることを決めた私たちは、そして自然のエネルギーというものを自己生産する事が可能となった私たちは、その生業経済の余剰で市場経済を行なっているに過ぎないのです。先に言った通り、元通りにならないものは殆どない。だから余計なものを溜め込まないし、そしてまた、魔のモノによってではありますが、負の感情を溜め込めない特性を持つ。この世界に住む全ての人にとって―――もちろん個人の感性や街の文化によって行動や物品に多少の価値の差異と大小こそありますが―――、起きた出来事によって生じた損失を補填できないような代替不可能は、命以外に、ほとんどないのです」

「―――だから、法を犯したとして、その行為が悪意や害意のうちに行われたものでないのならば、等しく厚生の機会を与え、反省を促し、損失したエネルギーによって崩れた天秤の釣り合いを、別の代価にて補填させる事によって、その罪を赦すべきである、と」

 

罪には罰を。しかして、取り返しのつかないことが少ないこの世界、咎人がその事実を大いに大いに反省し、その後、犯した罪に見合うだけの功を積み上げたのなら、その時は彼らを赦して受け入れるべしというのが、彼の信ずる正義のあり方というわけだ。

 

「はい。ですから、貴方たちの天井の破壊行為や、無許可での携帯転移装置利用というもの

は、たしかに意図的に行われた重罪ではありますが、とはいえそうせざるを得ないだけの事情はありましたし、故に同じくらいの功労でかき消すことの出来るものでもあると私は判断しました。幸いな事に取り返しのつかない犠牲も出ていません。であれば、貴方がたが、もし追放された先で、魔のモノの拡大、すなわち赤死病の拡大という問題を解決し、迷宮で謎とされているものを解明してくださるなら、間違いなくエトリアの住人は貴方がたを再び受け入れるでしょう。―――いや、まぁ、魔のモノ云々の真実の部分は、もちろん隠さなくてはならないのですが」

 

なるほど、財と資本に基づく威信社会というよりは、原始的な豊かさを前提とベースにした世界。だからこそ、あらゆる行動は平等の天秤の重りとして釣り合う価値を持ち、例えば此度の場合だと、生存を脅かした罪は、生存を脅かしているものを排除する事で、功罪の等価交換が成立するという事か。

 

「―――改めて、いかがでしょうか」

 

そうして司法取引を持ちかけてくる彼の顔を見つめる。真剣を態度には私がどう答えようと、己の信念は曲げぬし、なんという返答であろうと恨まぬという清々しさがあった。

 

その清涼の心意気に愉快の念を感じてさらに踏み込んでその瞳を見つめると、しかしその長閑な瞳の奥に多少の暗い寒星の如きものが混じっていることに気が付ける。それはかつてこの世界にくる以前、その感情を己の身に宿し続けていた私だからこそ気が付けるほど小さなものだった。

 

その感情の名前は憎悪と執着と後悔だった。おそらく、憎悪の感情は、彼が必死に抱え込んでいる前任者に対する鬱屈としたものより生じたもので、残りは、しかし彼の責任ではないと理解しているが故に生まれた、御しきれぬ己に対する怒りより生じたものなのだろう。

 

かつての世で多くの人の原動力となった感情は、やはりこの負の感情の貯蓄が難しい世界においても、その、小さな量でも人を大きく動かし頑固にする特性は健在のようである。

 

そうして清濁合わさった、しかし矛盾した必死の想いを抱え続けた結果こそが、彼の頑なさの源なのかと私は納得した。ならばもはや、これ以上の詮索は野暮というものであり、その必死から導き出された彼の提案に答えぬは無情が過ぎるというものだ。

 

私はもはや彼の提案を受けることを腹に決めていた。ただ一つだけ、聞いておきたい事がある。それは―――

 

「クーマ。もし仮に、私が断ったのならば、君はどうするのかね? 」

「―――べつに、どうもしませんよ。残念だなと思いながら、あなた方をエトリアから追放するだけです。その場合、おそらく二度と会う事は叶わないでしょう……」

 

彼はこともなさげ、そして寂しげに言った。

 

「魔のモノを封じる必要があるのだろう?」

「ええ。ですが、だからと言って人に無理を強いてまでやっていただこうとは思いません」

 

やはり彼は為政者の長たるに向かぬ性格だ。彼のその甘きところはいつか彼に後悔の事態を招きかねない。余計なお世話とはわかっていながらも、私は犠牲に対して甘い見通しを持つ彼の性分に対して、ついつい口を出してしまう。

 

「なぜだ? それをせねば、人が多く死ぬのだろう? 解決を望める人材がいるのであれば、多少強引にでも実効を要するのが正しい判断だと思うが」

「ええ。ですが、だからといって相手の意思を尊重せずに無理を強いて死地に追いやるというのなら、そんなもの、死病の残酷さと何一つ変わらないじゃないですか」

「その果てにあるのが滅びであっても、君たちは受け入れるというのか? 否、君は、君だけの判断で、エトリアという土地が滅びゆくのを良しとしようと考えているのか?」

「いえ、もちろん、そんなことは考えていませんよ。断られた場合は、私たちが直接足を運んで、封印の作業に取り掛かるまでです。もちろん、我々はあなたやあなた方よりも力がありませんから、成功の確率は低いでしょうし、かといって迷宮の特性上、人海戦術はかないませんから、戦力の逐次投入する愚を繰り返すこととなりかもですが、まぁ、潜入と撤退を繰り返して情報を集めるうちに、成功するでしょう」

「もう一度聞く。多くの犠牲が出るかもという愚行に頼らなければならぬを自覚していながら、なぜそれを覆せる力に強いようと、利用して頼ろうとしない」

「もう一度同じことを言います。強いるのでは意味がないからです。大義とか使命とか、そういう他人の事情を理由にして履行される行動は、成功するにしろ、失敗するにしろ、結果を与える側にも、与えられる側にも、言い訳の余地を残します。だからダメなのです」

「それは強者の理屈だ。大抵の人はそこまで辿り着く前に諦める」

「ええ、かもしれません。ですが、この世界では、望めば、誰もが強者足り得るのです。そこに至る苦痛の大半はその日のうちに消滅する。己の世界を変えたいと貪欲に願い、至誠に力を尽くせば、誰だって好きなように生き、やがて満足のうちに死んでゆける―――、誰か知り合いにそんな人がいた覚えはありませんか?」

「―――」

 

クーマの言葉に、かつて自分勝手に生きた結果として、我らを守り、死んでいった男のことを思い出した。彼は様々なものを抱えながら邁進し、そして笑いながら死んでいった。もし果てにあるのが避け得ぬ死の未来だとしても、あるいは彼らもそのように満足の感情のうちに冥府へと旅立てるのだろうか。

 

―――いかん、呑まれるな

 

この問答に明確な回答はない。他書の事情を汲み、己の正義を押し付ける事なく、その上で交渉に臨む高潔な態度は人として尊敬出来る態度であるが、彼は学習と経験からか、彼は、頑ななまでに、己の出した答えは他者にも適応できる事を正義であると信じている。

 

その無気力や諦観とは異なるものより生じた絶対の強固さは、もはや信仰といっても過言でない。楽観を極めた果ての妄信は破滅を招きかねない。万人に適応する正義などありえないのだが、おそらく彼はまだ、己と属性の異なる正義の衝突により致命的な失敗をした経験がいないのだ。いや、もしくはしているからこそ、こうも強固な態度をとるのかもしれない。

 

ともあれ、目の前にいる彼は、私らが提案を拒否した場合、間違いなく、先の宣言通りの事を実行する。そして犠牲を厭うことなくやり遂げるか、あるいは、失敗するだろう。

 

―――これは断れんな

 

「私は構わないが―――」

 

言って、仲間三人の方を向く。元々は私の無茶な提案に素直に従ってくれたが所以の、追放令だ。仲間の暴走を止められなかった点は罪に値する部分もあるかも知れぬが、だからといって、私に付き合い、この世界おいて唯一代償の効かない命というものを投げ出すような真似をする必要はない―――

 

「もちろん俺も、いくぜ! 」

「それが罰というなら、粛々とこなすだけのことだ」

「ま、未知の刺激があるのですから、引くという選択肢はありませんよねぇ」

 

が、そうして私に付き合わされただけの彼らは、なんの迷いもなく死地への旅路のチケットを受け取って見せた。おそらく三者三様の信念や正義に基づいただけの考えがあるのだろうことが、それぞれの表情から伺える。

 

以前までの私なら、その判断を誤った物だと決めつけ、引き止めるために言葉を尽くそうとしたのだろうが、今の私はそんな無粋をしようという気にはならなかった。彼らには彼らの意思があって、彼らは己の意思で道を選んだのだ。ならば、そこにケチをつけると言葉は、それだけで彼らの決意を汚す醜悪になる。

 

ただ、三人のそうした迷いの判断にどうにか報いたいと考えた私は、瞼を閉じて、静かに会釈した。一瞬の礼の後、瞼を開けて、再び月とランプの灯火が照りつける室内に視界を戻すと、三人はどこまでも自然体で、私の方を見て、やはりそれぞれ固有の笑みを見せていた。

 

「まったく、揃いも揃って馬鹿ばかりだな」

 

彼らの返礼に、私らしく皮肉げな笑みと言葉を返して。

 

「―――そして、もちろん私もいきます」

 

そんな私の言葉に遅れて聞こえた声に、我々は視線を部屋の中央に置かれたベッドの上へと移し、十の眼が寝台の上で上半身を起こした少女を捉えた。

 

「……、しかし、君は―――」

 

ダリがそこまで言って、言葉を詰まらせた。彼の言わんとしていることは、なんとなくわかる。おそらく彼は、先程私が葛藤したように、己らの我儘に他者を死地へと付き合わせたくないのだ。しかし今、そんな無垢たる存在である彼女は、自らたちと同罪である彼女は、そんな選択を許される立場にないし、また、待機を強要できる謂れもない。

 

できることなら、平和と言える場所で安穏としていてほしい。だが、そんな事を言える立場でないし、状況でもない。その相反する思いが彼の思いを、続く言葉ごと取り上げているのだろう。

 

「大丈夫です。私、これでも覚悟できてますし、ご存知の通り、そこそこ強いですから」

「―――そうか」

 

去勢ではない言葉に、彼は黙り込む。ダリの思いやりはしかし、単にそれだけの所作だと、このように力不足を懸念しての口籠もりだと勘違いされてしまうだろうと思えた。いっそ思いの丈をそのまま言うか、あるいは素直に釈明の言葉を吐いてしまえば勘違いもなくなるだろうに、なんとも不器用な男である。

 

―――まぁ、生前他者の理解を求めようとしなくなった私が言える台詞ではないか

 

結局、唯の一度も己の真意の理解を求めず、相互理解を諦めて処刑された私が言えた事ではないか、と内心自嘲する。そして私は、彼の代わりに断言した彼女の顔をもう一度だけ覗き込んだ。その瞳に少しでも躊躇の色があれば引き止めてやろうと思ったのだ。

 

「――――――」

 

だが、返答を待って無言を貫く彼女は、寝起きに体をふらつかせながらも、その小顔の中央上部の瞳はランプの炎を写したかのように、しっかりと希望の色に輝いていた。しかし暗がりの中、月明かりがによって照らし出された少女の姿には、この世界に生きる人間にしては珍しく、狂気の色が宿っている事にも気が付ける。

 

光の加減により紫がかっても見える顔色に、、私は一瞬、やはり彼女を引き止めるべきかと考えたが、忠告したところで彼女も追放の処置を受けることには変わらないわけであるし、こうして罪を彼女にまで被せてしまった私にどうこう言う資格はないかとも考え、やめた。

 

「―――では、全員の意見は一致ということでよろしいだろうか? 」

 

あるいは口を挟むだけ、彼女のその狂気を膨れ上がらせるだけかもしれぬ。故にこの判断は間違っていないのだと己に言い聞かせるように、他の仲間を見渡して、最後の意思確認をした。そうして、彼らが一斉に頷いたのを見届けると、私はクーマの方を向いて告げる。

 

「―――、というわけだ。その話、ありがたく受託させて頂こう」

「承知しました」

 

了承の返事にクーマは安堵のため息を吐くと、少しの時間だけ瞑目し、やがて言う。

 

「では準備が整い次第、早速追放の処置を実行させていただきたいと思います。―――貴方がたの装備の修理修復の作業と、道具の整理のため、本日この時より二日間の猶予を与えます。つまり追放の時は、明後日の今頃。準備が出来次第の出立となります。貴方がたの装備品はこちらで預かり、我々で整備を行う予定ですが、修繕におきまして懇意の場所があるようでしたら、おっしゃってくださればそちらに依頼することも考慮いたします。また、不足の道具があれば、一部を除いて出来る限るご用意しましょう。―――ああ、そうだ。衛兵に言ってくだされば、親しい人を呼び寄せることも可能ですが、如何致しましょうか? 」

 

共同体からの追放という、かつての時代であるなら死刑宣告にも等しいそれに似つかわしくない手当ての厚さと親切に、私たちは揃って苦笑すると、それぞれが願望を申し出るため、口を開く。

 

「―――そうだな」

 

各々が己の意見を述べる中、私は脳裏に一人の人物のことを思い浮かべて、目の前に彼へと要望を言う。やがてその願いが問題なく受け入れられたのを見て、私は重罪の刑を待つ囚人にはとても似つかわしくないような静かな笑みを浮かべて、満足の心地を得た。

 

 

クーマが去った後、再び解放されていた扉は閉ざされ、部屋には病人が休む場所に相応しい元の静けさが戻ってくる。しかしながら初夏を過ぎたこの時期、夜は寒さがあたりを支配する時刻とはいえ、先程までクーマが発散していた熱気も相まってか、部屋の中には暑風至る初候の雰囲気が満ちていた。

 

あたりに観察の視線を這わせてみれば、その服をはためかせたり、あるいは手扇にて体温を下げようと試みている人間が半数以上を占めているのを見つけて、熱気が私のみが感じたものでないことを確信すると、立ち上がる。

 

そうして部屋を横断し、換気を兼ねて窓を開けようとして、しかし固く閉ざされたはめ殺しの透明なガラスを見て、私はため息を吐いた。罪人の身分で牢獄の扉を開ける要請をできようもないわけであるし、どうやら部屋に満ちる温度を下げる願いは叶わないようだ。

 

「―――明後日かぁ」

 

部屋の温度に耐えかねてか、少しでも体内の熱を発散しようとしたのか、サガが湿度のこもった重苦しい短い言葉を発する。日時の経過だけを表すその言葉には、その間延びした吐息が消える迄に要した時間から、複雑様々な思いが秘められていることを私は感じとった。

 

「―――すまない」

「へっ? 」

「私の指示とミスでこんな事態なり、君たちを巻き込んでしまった」

「―――なんだよ、それ」

 

告げると彼は、途端、不機嫌の態度を露わに抗議の声をあげた。謝罪の意思に返ってきた思わぬ反応に、私はたじろいで、窓側に体を仰け反らせる。その折、外界との境となるガラスが体に触れて、この世界の住人である彼らと向き合う事から逃げるなと告げるように、私の体をその場に押し留めた。

 

「―――エミヤ、おまえさ。前から思っていたんだけど、傲慢すぎやしないか?」

「―――、……なぜ、そう思った 」

 

サガの忌憚のない非難の指摘に驚く。

 

「なんていうかうまく言えないけれど、お前、俺たちと目線が違いすぎるんだ。多分、お前が過去にいろんな経験して、沢山抱え込んできた分、視野が広くなっているんだろう。なんていうか、そうして広くを見つめて沢山のことが見えすぎてて足元の奴らのことが見えてない。今の俺たちと対等のところにいない。だって、そうじゃなきゃ、肩を並べて一緒に戦った奴に対して、俺だけの責任だなんて謝ったりはしないぞ」

「……いや、……いや、それは、違う、私が謝罪したのは、あくまで私の判断でやった行為の結果に君たちを巻き込んでしまったことであって―――」

「ああ、もう、だからそれが違うっていっているんだ! 」

 

サガは苛つきを露わに素手で頭を掻き毟ると、両の手で両足の膝頭を叩いて、叫んだ。

 

「お前が判断した結果、この結末になったのは、事実だ! 多分、もう少し時間をかけて戦略を練れば、もっと違った未来があったかもしれねぇ! でも、もうなっちまったんだ! お前がいけるって判断したことに、俺たちがのっかって、そんでもって、この結末になった! みんなで選んでお前にかけて、でもそうやって選んだ結果がこれなんだ! でもこれは、みんなで選んでの結末なんだ! お前だけの責任じゃない! お前はそうやって一人で何でもかんでも抱え込んじまおうとするけど、それは、俺たちの意思とかそういうのをまるきり無視して馬鹿にしているのと同じだっていうことに、なんで気がつかねぇ! 」

「――――――」

 

絶句。私は彼の叫びにようやく彼が何を言おうとしているのかを理解した。私は彼という存在を、彼らという存在をあまりに軽んじて扱っていた。

 

彼は私を肩を並べる相手として見てくれていたが、しかし今、告白により、私は彼らのことを、戦友というよりか、戦力として数えられるだけの便利な駒として扱っていた事実を知った。その齟齬が彼にとって耐え難かったのだ。

 

「だから視点が高すぎるっていうんだ! 大層な過去を持って馬鹿みたい強いスキルを使えるお前にとっちゃ俺たちは小さな存在かもしれないけど、だからといって、俺たちの失敗まで勝手に抱え込むな! それはお前だけのものじゃない! 俺たちはお前の人生の添え物じゃない! 俺らが、俺が、過去の感傷を持ちにくい人間だからって憐れむのは勝手だけど、だからといって、俺が考えて選択した事実まで勝手に抱え込んで、人生の一部を勝手に奪い取ってもらいたいとは思ってない! 俺から、俺の人生の大事を勝手に奪うな! お前のその謝罪は、俺にとって、お前なんか小さな奴だって馬鹿にされてるようで、ムカつくんだよ! 」

「――――――、私は……」

 

彼の叫びは、おそらく、私がこれまで正義の味方として活動し、勝手に救済を与えてきたかつての世界の人達の、そしてこの世界の人たちの代弁だったに違いない。小さな彼が身を必死に震わせて吐き出すその糾弾は、思い上がり増長していた私の体を叩きのめした。

 

人の命はかけがえのないもので、人の命が失われるということは、機会の損失に等しい。そして少なくとも私以外の人間は、多くの命を代償として生き残り、他人の機会を簒奪してしまい空っぽとなった私などよりずっと価値があるはずで、だからこそ私は、困難に陥っている人を助けたかった。

 

そうして、価値のある人間が、機会損失の危機に陥っている際に救済を与えることで、私は価値ある彼らを助けたという価値が付加される。それこそが、過去に多くの人間を犠牲に生き残った私の罪悪を打ち消してくれるはずだった。それが私の在り方だった。

 

そうして勝手に命を刈り取った罪と勝手に命を救った罪を己の倫理にて数値化し、命を救った数を具体化することで正義の天秤は一見善側に傾いていると見なす、己の倫理観のみで命の重さを決めるやり方こそが、私の憧れた衛宮切嗣という男の正義の在り方だった。

 

私は決して、彼らの存在を軽んじているつもりはなかった。

 

けれどそうして、他ならぬ己のために、自分の力だけではどうにもならないと悩んでいる人全てに救済を与えたる正義の味方になりたいと願っていた私は、その実、切嗣のように、彼ら一人一人を矮小な存在であると軽んじて、各々個人が持つ正義を軽々なる価値としか認識しない偽善者に、再びなりかけていたことを気付かされた。

 

彼の言う通り、広くなりすぎた高い視点から俯瞰的に眺める多数の命の存在は、人の目でその価値の全てを測るにはあまりに大きすぎて、私は数の多い少ないでしかその重みを判断することが出来なくなっていた。そうして、彼ら一人一人の価値を数というものでしか推しはからず、貶めて、勝手に救済されて然るべき対象であると見下して認識していたのだ。

 

なるほど、先程の謝罪に憤怒の感情をぶつけられて当然だ。私は彼らのことを、単なる戦力の数という点でしか見ていなかった。彼は私のことを肩を並べて戦う人間だと考えていたが、私が彼らのことを単なる補助機材と考えていたとの宣言に等しかったのだから。

 

―――傲慢、だな

 

ようやく彼らと同じ場所に立とうという決意をしたというのにこのざまなのだから、なんとも笑えない。なるほど、かつての世界において、私が嫌っていた魔術師たちという存在が、己らこそは特別な存在であると傲る理由がよくわかった気がした。

 

そうして他人の持たぬ先んじた能力を持つことで他者よりも広くなってしまう視野は、己の価値観を酷く捻じ曲げ、己以外の他者という生き物の価値を下げてしまうのだ。

 

いやはや、そういった意味では、魔術を使った果てに英霊という存在に成り果てたエミヤという存在は、正しく「魔術」を極めた先にある存在としてまっとうな姿だな、と、今更ながら、馬鹿みたいに納得した。

 

「―――、すまねぇ、今のは言いすぎた」

 

やがてそうして彼の雄叫びによって己の歪みを気付かされた私がだんまりの態度にて自戒を続けていると、私の失言により瞬時に沸騰した頭は、溜め込んでいた負の感情が無かったからこそ、そうして発散した後すぐさま冷却できたのだろう、彼は素直な謝罪をしてみせた。

 

どうやらエトリアの真夏の夜の冷気は、火照る体をすぐさま湯冷めを通り越した状態にまで持っていったようで、頭を下げてくる彼の顔は、少しばかり青くなっている。

 

「いや……」

 

私は首を振るって、彼の謝罪の受け取りを拒否する。

 

「いや、謝罪を行う必要はない。君の指摘は正しい。言われてみればなるほど、たしかに、先程までの私は、たしかに、あまりに傲慢が過ぎていた」

 

そうやって数で他者の命を大小の数で判断し、ひいては人生を預かるなんていうのは、市政の中で生きる私の役目ではなく、例えば、他者より信を預けられた王とか、そういった為政者たちの役割だ。

 

他人から人生を預けられて当然と傲慢に振る舞うことを自然と行える、カリスマと呼ばれる能力を保有する綺羅星の英雄たる彼らならともかく、己の人生すらも己の願いを満足に抱えきれずにここまで来た私が、他人を数の一つにするなどという傲慢を一人勝手にやっていいはずもない。

 

私は所詮、他人より多少魔物と戦う力があるだけの凡百の存在に過ぎないのだ。そんなこと、他でもない私が他の誰よりも自覚していることである。私は入り口近くに佇む彼の元へと近寄り、そして、己の傲慢さを認めて頭を下げる事にした。

 

「―――すまなかった」

 

謝罪はそれが心底のものであったからだろう、常に簡単な言葉と皮肉の態度だけで謝意を示す私にしては、随分と素直に行えた。しばらくの沈黙の後、もういいよ、と許可の言葉が出たのを確認して、やはり素直に頭をあげた。

 

するとそうして私に謝罪の意を促した逆光に照らされて見え辛い状態の彼は、しかし酷く居心地悪そうにバツが悪そうな顔を浮かべているのがわかる彼はおそらく、怒りを露わにぶつけた対象の私がその感情を素直に受け止めて、はてには謝罪まで返されたことで、逆に己の中に生まれた感情の置き場を失って扱いに困っていた。あるいはこれがこの世界の住人のスタンダードな性質なのかもしれないが、馬鹿正直なものである。

 

私はそんな彼が、こうして私が見つめている限り気持ちが落ち着くことはないだろうと察して、彼に背を向けた。四角く切り取られた窓から満天の夜空より月光と星空の飛び込んでくる光景は神々しく、なるほど、かつてはこの光景に神の祝福を見つけて、イコンの中に祈りを閉じ込め、捧げた、東方正教会の信者達の気持ちがわかったような気がした。

 

東の果ての天空の大地の上、かつては最大の信徒数を誇った宗教の一分派に思いを馳せながら、夜空を見上げる。やがてくる救世主の存在などなかった世界の上では、かつての時代とまるで変わらぬ形を保つ眩さだけが、過ぎた年月を感じさせぬままに、足元を這う矮小なる有変の存在たちの営みを見下ろしていた。

 

 

問答よりしばしの時間が流れた。喧騒の雰囲気は自然と収まり、異文化との共存のために衝突があった跡地では、気まずさだけがあたりの空気を支配している。雰囲気に耐えかねて、響という少女が布団を頭から被って眠りの姿勢を見せたのを皮切りに、病室は本来の、休息の場としての役目を取り戻した。

 

その後、我々は二日後の出発に向けて英気を取り戻すべく、各々のやり方で睡眠の安息に身をまかせる事となる。椅子の上で部屋の壁に背を預けて眠る私は、もうあの赤い部屋の悪夢を見ることはなくなっていた。

 

やがて朝日が山脈の稜線を照らす頃、就寝の時は過ぎ去った事を告げる鐘の音が周囲一帯にばら撒かれた。大きな鐘楼のある中央広場に近いこの施薬院の中は、もちろん防音対策が施されているのだろうが、それでも耳をつんざく程の大きな金属音が部屋中を暴れまわり、壁面とガラスの設置部分を揺るがしている。

 

鼓膜を破らんとばかりに飛び込んでくる無礼な音を、己の三半規管と全身の筋肉でどうにか抑え付けて処理してやると、鐘楼の衝撃が脳裏の不愉快にならないうちに耳を塞ぎ窓の端に移動して遮光カーテンを開け、外の光景を眺め、第一の刺激の在り処を眼球へと移す。

 

常とは違う部屋の中から眺めた早朝のエトリアはまだ寝ぼけているようで、翡翠色をした屋根が覆う街のあちこちには、まだその下に多くの残影を残していたが、高い部分に存在する壁面と植物の葉はすでに陽光の恩恵を受けているらしく、十分な熱気を吸収させられたとでもいうかのように玉の汗を書き、多数の水滴を表面に生み出していた。

 

建物との間を縫うようにして窓より飛び込んできた日光の心地よき熱を全身に浴び、先の鐘の音により生じた不快を澹蕩の気分で癒していると、やがて遅れて起きる仲間四人の彼らが寝ぼけた面をしゃんとさせる前に、ノックの音が響き、再び室内にこだました。

 

「―――回診の時間だ」

 

無遠慮に扉を開いた衛兵は、一方的に用事を宣言して、その身を部屋の中から引いた。やがて職務に忠実な彼に変わって罪人の部屋に足を踏み入れたのは、見覚えのある小さな白衣を着込んだ彼女だった。

 

「―――どうも」

 

サコ。医者と言うには少々頼りなく見える彼女は、けれどこの医療機関において高い実力を保有している人物であり、同時に、他人の都合よりも治療を優先する胆力を持っている、医に関わるものとして十分な資質を兼ね備えた医師でもあった。

 

彼女が数歩中に足を踏み入れると同時に扉の閉まる音が鳴る。そうして外界と完全にシャットアウトされた部屋の中を迷いない足取りで進むと、彼女は響の寝ているベッドの前に立った。さて、どうするのだろうと皆が注視する中、やがて彼女は大きなため息を吐いて、近くの白いカーテンのついた衝立を手元に寄せると、言った。

 

「女の子の検診を行いますので、壁の方を向いていてもらえますか? 」

「―――、ああ、これは失礼した」

 

私含む男一同は慌てて椅子を持ち上げると、揃って入り口扉の方へと赴き、そちらを向く。男女の居場所を分ける境界が引かれた音がして、部屋の領域が二分された。入り口近くに罪人が密集すると言う異常に気がついたからだろう、扉の外の衛兵が足踏みをした音が聞こえたが、どうやら会話の内容から事態を察したようで、何も言ってはこなかった。

 

衣摺れの音が響く中、サコの問診と響の返事と微かに呻く声が聞こえる。

 

「―――、はい、もう結構ですよ」

 

しばらく続いた居心地の悪さは、そうして終わりの時を告げる。やがて挙動の許可が降りて私たちが振り向くと、サコは小さな体で衝立を端に退けて、衣服の乱れを正しているところだった。

 

「響さんの体にはなんの異常も見られません。―――、健康体です」

 

告げられた声に、我々一同は安堵の声を漏らす。口々に礼を言うと、サコはしかし、常とは異なった堅苦しい余所余所しさを含む返事を返してきた。

 

やがてそうしてその場から去ろうとした彼女は、男どもがたむろっていた入り口付近で足を止めると、戸惑った様子でその場で何度か両足を遊ばせ、やがて決意をしたらしくぎゅっと地面を踏みしめると、振り返った。

 

「―――やはりこれは、貴方がたが持つに相応しいものでしょう」

 

彼女は言ってメディックの治療具が収められている腰のバッグに手を突っ込むと、他人を癒す事を生業とする彼女に似つかわしくない刺々しい宝石を取り出して差し出してくる。金平糖のような形をしたそれは、部屋に差し込む光を反射して、魂を凝縮したものであるかのように眩く青い光を反射する。

 

「―――それは? 」

「わかりません。ですがこの宝石は、貴方がたの仲間の遺体を修復した際、体内から発見したものです」

 

言葉に、陽光の暖気で満ちていた部屋が、数時間ほども時を巻き戻されたような状態となる。冥漠と冷然の空気を生み出したのは、部屋の中心奥で、今まさに言葉を発した彼女のすぐそばにいる、彼女同様に小さな体躯の少女だった。

 

「―――彼の体内から発見した? 」

 

静かな繰り返しの言葉は、静かながらも荒々しい念が含まれていた。サコという少女が発した言葉は、響の心中をよほど強く揺さぶり、大事な場所を無造作に弄ったようだった。背後より聞こえてくる呪いの怨念すらも篭ったようなその言葉に、サコと相対し扉を向いている私を含めた男どもは、一切の身動きを封じられていた。

 

ただ、そうして激情を迸らせる彼女の情念を正面から浴びせられているはずの、サコという少女だけがその激しいパトスを受け止めたらしく、彼女の方へと物怖じする事なく近寄った。職業柄、そのような念を浴びることに慣れているのかもしれないが、それにしてもなかなかの度胸である。

 

「ええ。以前、貴女方から死化粧の依頼を請け負った際、見つけたものです」

「そうですか。……ではなぜその時に言わず、なぜ今更それを言ったのですか? 」

 

振動しながらも平坦の様子を己に強いて発する声には、サコの答えを聞くまではなんとか己の感情を律して押し殺してやろうとする努力の跡があるように感じられた。ただし、サコの答えに満足を得られなかった場合、すぐにでも襲い掛からんとするような、危うい雰囲気も内包されていた。

しかし、その平坦な害意含む問いかけをサコはやはり真正面から受け止めると、少しだけ口ごもって吐息の行方を遊ばせたのち、答える。

 

「―――その時、これが何か、私にはわからなかったからです。そして誰もその正体を知る者はいませんでした。それが私たちにとって、つまりは、施薬院の医者にも、執政院の鑑定士にもわからない未知のものである以上、たとえそれが貴女方の仲間の遺体から見つかったものであっても、おいそれとその存在を知らせるわけにいきませんでした。……しかし、その後の調査の結果、この宝石は、やはり私達には未知のものであるという結果しかわからなかったのです。―――だから迷いました。正体がわかるまでこちらで預かっておくべきか。知らせるだけでもするべきか、それとも渡してしまうべきか」

「――――――」

 

響は無言を保っている。彼女はおそらく、必死に理性と感情にてサコの言葉の意味の理解に努めているのだろう。だからこその圧を保ったままの沈黙だ。

 

私としては、彼女の判断は当然だと思う。新迷宮を探索した者の体内より見つかった未知なる物質を、彼が死んだという事実があるからといってその仲間に安易に渡す方が、街の衛生と安全を司る者としては失格とうものだ。

 

「ですから、迷っていましたが、ここに来て貴女と、彼らの様子を見て、貴方がたが仲間を思う人物であると感じました。それゆえの判断です。―――これは貴女方が持つに相応しい」

 

結論にようやく響の禍々しい気配が霧散し、私らはやっと彼女らの方を向くに成功した。

 

確保した広い視界の中、サコは部屋の真ん中を横断すると、中央奥で存在感を撒き散らす響に宝石を手渡していた。響はその宝石を受け取ると、優しく胸元に抱き寄せる。その小さな少女が見せた嫋やかな所作に、私はようやく彼女がシンという彼に対してどのような感情を抱いていたのかを悟ることができた。

 

―――なるほど、あれは、憤怒と嫉妬の感情の発露だったというわけだ。

 

「でも、いいんですか、勝手に決めちゃって? 」

 

そうして想い人の遺産を手に入れた彼女は、宝石に熱意を封じ込められたのか、打って変わって落ち着いた静かな声でサコに尋ねる。

 

「……どうせ危険度のわからない新迷宮原産のものなのです。なら、そこに追放される貴女方に持たせてしまえば、処分もできて一石二鳥というものでしょう」

「―――そうですか」

 

自分を納得させるかのようにいちいち区切りながら言うサコの言葉には、無理やり取り繕ったかのような不自然な間があったが、私はあえて指摘をしなかった。おそらく周囲の彼らも同様なのだろうと、男衆の発する気配から私は悟る。死出の旅路に向かう我々に対する、彼女なりの餞別を送る理屈にけちをつけるほど、無粋な所業を嫌ったのだ。

 

「―――無礼な態度、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」

 

受け取った響は深々と頭を下げると、サコは静かにそれらの言葉を受け取って、踵を返して部屋の出口へと向かう。やがて小さな彼女が部屋より退出したのち、その場にいる全ての人間の意識は響と、彼女の持つ宝石に集められたが、所有する彼女が、年と不相応な慈愛と情を宝石に注いでいるのを見て、私たちはしばらくの間何も言いだすことができずに、一様に黙りこくっていた。

 

 

「なんだ、籠の中の鳥になって落ち込んでるかと思ったら、案外元気じゃない」

 

やがて続く居心地の悪きを、軽口とともに現れたインが切り裂いた。外出の為に赤い外套を纏った彼女は、夏の太陽が振り下ろす光の鉄槌には決して負けぬと言わんばかりの赤色を周囲にばら撒きながら、しかしそれでも平然と涼やかな表情を保っていた。

 

「ああ。だが見たまえ。先ほどまで平生を保っていた顔が嫌味ったらしく歪んでしまった。さて或いは、誰かさんの余計な皮肉を耳にしたせいかもしれん」

「あら、ご挨拶」

 

馬鹿を言い笑い合うと、周囲からも笑いが漏れた。そうして空気の悪さを持ち前の凛然さで払拭してくれた彼女は、やがて後ろの衛兵に抱えさせていた風呂敷包みを両手で引き取り、差し出して言う。

 

「じゃあ、これも余計なお世話だったかしら? 」

 

彼女はそうして部屋の片隅にある机の上に抱えたものを置くと、藍染の中から黒塗りの見事な花見重箱を取り出した。かつて江戸の時代に花見用に作られたが最初と言われるその重箱の外側側面の漆塗り黒地には巨大な樹木の金細工が施されている。

 

また、正面より見た際、二段に別れた上の棚には、料理を取り分ける用の盆が数枚入れ込まれており、下の段の左方には三段の重箱の上に徳利が乗っかっており、右方には五段の重箱がはめ込まれていた。

 

そうして料理を詰め込まれた箱を正面から見てやると、やはりそれぞれの重箱に施されている鮮やかな螺鈿の細工に目が吸い込まれる。

 

まず右方の重箱に目をやると、上段一段目より、翠緑の樹々に色とりどりの花。二段に、濃緑の樹海を飛び回るホトトギス。三段目には、漆は藍色を下地に、金の砂浜と幽玄なる月が一つ。四段目には、変わって、枯れ木に貝細工の雪が撒き散らされている。そして重箱の最下段の五段目は、無地の黒の上、けぶる霧のごとく虹色の貝殻のかけらがばら撒かれていた。

 

変わって左方の三段重箱に目をやると、一段目と三段目に翡翠緑の建物群が描かれ、二段目の重箱に描かれた橋が、二つに別れた街を繋げていた。重箱の上に置かれている徳利の表面六分ほどは、淡い緑釉がかかっている。重箱と徳利、盆を収納している外箱の内塗りは、紫の色にて統一されていた。

 

そうした重箱の意匠を見て、私はようやくこの重箱の製作者が、作品にこめた意図を読み取れて、私は思わず感心のため息をついた。

 

「なるほど、エトリアと世界樹、それを取り巻く世界を作品に閉じ込めたか」

「ご明察。なんでもこの地に古くから伝わる伝統に則って作り上げた逸品らしいわ」

 

彼女は私の答えを聞いて満足気に笑いながら、箱を分解して店を広げてゆく。重箱は我らの押し込まれている場所に合わせてだろう、多少法則を無視して中身が詰め込まれていた。

 

一段目にはいなり寿司と巻き寿司。二段目には、玉子焼きや梟の軟骨の唐揚げ、猪のステーキなどが所狭しと詰め込まれ、三段目には、魚の焼き物や刺身が、四段目には、猪肉を用いての煮こごりや世界樹の芽を用いてのサラダなどが色鮮やかに納められている。

 

また、本来なら空っぽのはずの五段には、これまたご丁寧に、重箱に収まる小さなぐい呑が六つ、仲良く揃って座している。彼女はそうして今度は左方の重箱を開くと、一段目から平たい皿と茶瓶を取り出し、二段目から茶葉と袱紗を取り出すと、三段目から湯捨てを取り出して私の方へと差し出した。

 

「何ぼさっとしてんのよ。か弱い年寄りに全部準備させる気? 料理はしてあげたんだから、茶坊主の役目くらい進んでやりなさいよ」

「―――、くっ、了解だ」

 

差し出されたそれらを徳利ごと受け取ると、もう一つあった机の方へと移動して受け取った道具を広げる。私と彼女以外の人間は、突如やってきた老女のいきなりの行動に頭がついて言っていない様子だった。

 

呆ける彼らを尻目に、私たちは息のあったコンビネーションで膳の中身を取り分けてゆく。最中、彼女が小声で話しかけてきた。

 

「少しは打ち解けられたみたいじゃない」

「誰かさんと違って、素直に欲しい情報を差し出してくれるのでな」

「お仲間が出来た途端、減らず口が冴えるようになったわね……」

「おかげさまでね」

「はぁ……、もうちょっと仲違いさせてた方が、私の平穏のため良かったかしら」

「かもしれんが手遅れだ」

 

不毛の応酬を互いの肴に苦笑し合うと、一足先に用意を整え終えた彼女は盆を置いて言う。

 

「ねぇ」

「なんだ」

 

呼びかけに応じて返事をするも、その先に続く言葉がないのを不審に思って彼女の方へと顔を向けてやると、インはいつもの苦笑いは何処へやら笑顔の表情を浮かべて重箱を撫でながら言う。

 

「この箱、見事なものでしょう? 有名な造形家の逸品なのよ」

「ああ、漆の上に塗られた金と螺鈿の繊細な造形には執念すら感じさせるな」

「そうね。この重箱の作者だけど、はるか昔、まだスキルの体制が整っていない頃、人よりもスキルの扱いが下手で、色々と苦労したらしいの。きっと、その時の鬱憤とかを自分の中で制作に対する情熱に昇華したからこその作品なのよね」

 

彼女は言うと、歴史あるという重箱を優しく撫でながら言う。私は彼女の乾いた手の行方を追いながら、スキルというものが日常のこの世界において、その扱いに長けていなかったという重箱の作者の姿に勝手な姿を当てはめながら想いを馳せる。

 

この世界においてスキルというものが使えない私には、作者たる彼が、その生涯においていかなる苦労をしてきたのか、手に取るように理解する事が出来た。料理一つするにもいくつものスキルを必要とするこの世界においてその有様では、彼はさぞかし生き辛かったに違いない。

 

「でも聞くところによると、そんな彼は普通に生きて、こんな風の人並み以上にステキな作品を作り上げて、有名になったわ。別にスキルの使える使えないなんて関係なく、生きようと思えばどんな風にだって生きていけるのよ」

「……、そうか」

 

そこでなんとなくではあるが、彼女がなにを言わんとしているのか、その意思を私は読み取れた。スキルの使えない私に対して、スキルの使用が下手であった人物の生き様を語るのだから、狙いなど一つしかない。彼女は私に、冒険者以外の生き方を提示してくれている。

 

「――――――」

「―――、そう」

 

しかしそして、インは、彼女の提案に頑として首を縦に振らない私の態度に、確かな拒否の意思を見つけだしてくれて、悲しく微笑んだ。

 

「まぁいいわ。どんな風に生きようが貴方の勝手。私はそれを強いようとは思わないわ。そんな資格もないしね」

「すまない」

「でもね」

 

彼女は目を細めて言う。

 

「だからこそ私は、たとえあなたがどんな選択をしても、別にその事を否定しないわ。どんな風に生きようと、人生なんて所詮は積み重ねてきたようにしかならないわ。一人で生きるも、みんなと共に生きるも自分次第。だからせいぜい、自分勝手に好きなよう生きて、そしてその果ての結果に満足して死んでいきなさい」

「……、承知した」

 

事情を詳しくも知らぬ相手に対する思いやりに反応して、先程までの決意を覆さんとする挫折の念が喉元までやってくるが、なんとか言葉と共に腹の中へと戻して、承知の返事を返すと、彼女は寂しさに目を曇らせながら言った。

 

「まったく、本当に、馬鹿で頑固なんだから」

 

私は彼女の罵声に返せる言葉を真実持たず、ただ無様に閉口するばかりだった。

 

 

密室にて食事に舌鼓を打ったのち、交友を深める原因となった青嵐も過ぎ去り、やがてエトリアを出立する最後の時が訪れた。重苦しい空気の吹き飛んだ部屋のあちこちでは、装備を整える彼らの姿が目に入る。準備などほとんどなかった私が、そんな彼らを尻目に窓より空を眺めると、茜色の空を雲が流れてゆくのが見えた。

 

空模様はかつて私がこのエトリアにやってきた時と変わらぬものであった。いや、季節柄なのか、上空をゆく雲の流れる速度が多少緩やかである気がした。あるいはかつてと違うその速度こそ、かつての時と今の自分が生きる速度の違いを表しているのかもしれぬと無理やり意図を見出してみたのは、今日、そうして訪れたこの街を去るのだ、と言う感傷が生み出したものなのだろう。

 

「―――準備、終わりました」

 

自然の流れの中に己の過ぎ去りし時を重ね合わせて浸るという詮無き行為にて暇を潰していると、背後より静かな声が投げかけられた。自己憐憫の無意味をやめて振り向くと、窓より飛び込んだ夕日を浴びた四人の姿が目に入る。

 

武器が取り上げられている事を除けば、常の迷宮探索に向かう際と変わらぬ装備に身を包んだ彼らは、頑丈な鎧と服に包まれた外殻とは裏腹に、内面は常と違う緊張と恐れを孕んでいた。それはおそらく、このエトリアの土地に対する郷愁、惜別といった思いなのだろう。

 

この土地にやってきて半年も過ごしていない私と違い、彼らは人生の長い時間、エトリアにて生活の基盤を置いていたと聞く。それゆえに、追放の事実は彼にとって重く、処置を受け入れてはいるものの、しかし理性にて抑えきれぬ情念の部分が裡より迸り、顔面という最も変化を生み出しやすい部分に出てきてしまっているのだろう。

 

この期に及んで、その無念は己の選択の結果であるとして、追放の直接的な原因を作った私に文句の一つをもこぼさない彼らの執念と我慢に、魂の髄まで染み付いたこの世界における彼らの正義の頑固さを見つけて、私は苦笑した。

 

いやはや、彼らも中々人のことをどうこう言えない頑なさを持っている。なるほど、そうして己の失敗すらを他者から責められることもなく、全ての因果を己の中に見つけてなにもかも抱え込まれるというのは、そうして失敗をした人間にとって、中々どうして居心地の悪いものだと思い知る。

 

あるいはかつての養父や姉貴分。そして、凛や親友、周囲の人間、そして私が拾い上げて、しかし存在を軽んじてきた人々は、私にこのような思いを抱いていたのかもしれない。

 

「では行こうか」

 

思いが後悔となる前に、宣言すると、彼らが頷くのをみて、部屋の前の扉に立つ衛兵へと声をかけた。準備完了を告げると、錠前は解き放たれ、部屋の中の空気と共に我々は外へと足を踏み出した。同時に、両の手に鉄の鎖が落とされて、我々五人の前後に三人一組の衛兵がピタリとつく。

 

先導する彼らの手に引かれ、施薬院という清浄な場所に似合わない不穏の空気が充満する中を突っ切りると、やがて正面玄関前までやってくる。常ならば病人怪我人で一杯であるはずのそこは、罪人を受け入れた日から満員御礼の札を外されているようで、中央に一人の著名人が腰をかけているばかりであった。

 

「やぁ」

 

そしてその場にいた唯一の人が腰を浮かしてこちらへとやってくる。彼は安寧と非戦を常識と敷き、治癒を目的とするこの場には似つかわしくない、鎧兜を纏い、槍盾を構えた完全武装の状態であった。

 

彼は手錠に自由の身動きを封ぜられた我々の近くまで寄ると、我ら全員に等しく視界にお収められる場所にて立ち止まり、全員を一瞥した。そうしてクーマは我らの中に戦意の劣化を起こしている人間がいないことを確認すると、満足げに頷いていう。

 

「たしかに、準備は万全のようですね」

 

彼の問いに言葉を返すものはいなかったが、彼の問答に対して五人の冒険者が、内に秘める覚悟の密度を増やした気配を、クーマは敏感に感じ取って、もう一度強く頷いてみせた。

 

「よろしい。では」

 

クーマが片手をあげる。すると我らを連行してきた数人の兵士が金属音をたてながら正面玄関へと近寄ると、二人の兵士が大扉を開けた。両開きの扉は重厚な音をたてながら居場所を移してゆき、部屋を満たす涼しさと緊張の空気を弛緩させてゆく。

 

やがて施薬院の清涼と無臭の空気が、肌を舐めるような微熱と風の運んでくる生臭い自然の香りの中に消えていった頃、衛兵に導かれるようにして、施薬院の玄関より足を踏み出すと、途端、室内外の静寂の種類は別のものとなり、無言に等しい微かな騒めきの中、罪人である我々に好奇の視線が注がれた。

 

「あれが例の……」「ああ、街一番のギルドと、その次のギルドの奴らだ」「なんでも迷宮をぶっ壊したんだって! 」「え、魔物を連れて転移したんでしょ? 」「悪人には見えないけどなぁ」「でも、俺、この前、あいつにいきなり脅かされたんだって! 」「あんた、彼の死んだ仲間の悪口言ってたって聞いたわよ……、怒られて当然じゃない」「しかし死にに行くってのに、堂々としたものだなぁ」「まぁ、多分、勝算があるんでしょ」「一発で迷宮の最下層を攻略する? 」「おい、ちょっと、見えない。どいてくれよ」

 

ひそひそ話と視線に含まれる成分は、大半が好奇で、残りが理解の及ばぬ未知を見た際に湧き上がるものだった。しかしそうして一身に注がれる視線の中に憎悪や憤怒、怨恨や軽蔑の視線がないのを理解して、私はかつての世界との差異を感じ取り、この街においては最後になるかもしれない驚愕に心を躍らせた。

 

―――やはり彼らは、我々とは違う

 

彼らはかつての世界に蔓延っていた、すぐさま他者の悪意や情報に感化される人種とは違う、無色の思考の持ち主だ。大衆になった際に増長されてしまうほどの悪意を溜め込まぬ彼らは、悪意の増幅という身体技法を継承せずに過ごしている。

 

だからこそ、こうして法を犯した罪人を前にしても感情的に騒ぎ立てる事なく、ただ、己の好奇の赴くままに観察の視線を送り、己の思考で我々を判断しようとしている。

 

そんな彼らの態度に、かつては絵空事に過ぎなかった世界平和の兆しを見つけて、私は浴びせられる彼らの視線の心地良きを堪能しながら、衛兵の後に続く。堂々と進む私に続いたのは、ダリとピエールだ。その後に、サガと響が続く。

 

やがてベルダの広場を抜けてつづら折りの階段をゆっくりと降る頃、響はポツリと呟いた。

 

「あ、……」

 

背後より聞こえる言葉に導かれて振り向き彼女の顔を見ると、その視線が向けられている先を追って、私は目の焦点位置を彼女のそれと一緒にした。するとそこに、エトリアの街に来てから私が始めて出会った人物の顔を見つけて、私は思わず呟いた。

 

「ヘイ……」

 

ポツリとした言葉は静けさの支配する空間によく響いて離れた彼の耳元にまで届いたのか、我々の意識が向けられた事を感じ取った彼は、直後、視線をふいとそらして群衆の影に消えていった。

 

そういえば、我々の道具の修繕と修復に忙しかったからかもしれないが、この二日間、彼は訪ねてこなかった。人なつこい彼がみせたそんな毛嫌いの態度に不思議の念を私が抱えると、側にいた響はやはり誰にいうでもない様子で、ポツリと呟いた。

 

「やっぱり、気にしてるのかな……」

「何がかね? 」

 

聞くと彼女は驚いた様子でこちらを見て一瞬躊躇い、しかし意を決した様子で言う。

 

「ええ、その、ヘイはどうやらエミヤさんに負い目を感じているようでして」

「ヘイが……? 私に? 」

 

並んで歩く彼女の言葉に首をかしげる。彼と出会った三ヶ月ちょっとの時を思い返すも、まるで原因が思い当たらない―――、ああいや。

 

「そういえば、手形を預けていたか」

 

そういえば、一層の皮膚と鱗を売り払った際の契約が未だに完遂に至っていない事を今更ながらに思い出す。律儀な彼のことだ。そうして修理修繕修復の仕事をやった結果、契約の履行機会を失って、それをバツが悪いと感じたのがああした態度になったのだろうか?

 

「いえ、その、多分、エミヤさんが考えている理由とは違うと思います」

「君は彼の態度の訳を知っているのかね?」

 

質問に彼女は口ごもったが、意を決したのか、軽く唇を舐めて滑舌を改善した後、告げる。

 

「ヘイは……、あの人は、自分の想いは軽いから貴方には届かないと言っていました」

「―――、意味が……」

 

わからない、といいかけた言葉の行方を遮って、響は続けた。

 

「なんでも、歳を重ねて来たにもかかわらず、積み重ねた想いがないから、自分じゃ貴方の心配をする資格がない、と。ヘイはそう言っていました」

「――――――、そうか」

 

彼女が口にした言葉の意味をじっくりと噛み砕き、理解するとともに先程までの楽観はどこかへ去っていくのを感じ、腹の中に溜まった忸怩は彼が他者にああも親切に振る舞う理由に肉付けをしてゆき、結果として口元から彼の行為に対する納得の言葉が漏れた。

 

―――だからこその己の心を掴んだ物に対する執着と、興味ないものああも無頓着なのか

 

長く時を重ねているのに、負の感情がない。悔恨も嫉妬もない代わりに、執着の感情を持ちづらく、ゆえに心の中を埋めつくす程の充足感を得る機会も少ない。その足りぬ部分を満たす焦燥感と不安と劣等の感覚が、彼の面倒見の良さと全てを投げ出す熱意となったわけだ。

 

私はそうして親切と笑顔の裏側に隠されていた、ヘイという男の、己は矮小と侮る卑屈の感情を見過ごした。おそらく出会って最初のうちは警戒心から深く踏み込もうとせず観察を怠ったが故に、そして、最近までは忙しさにかまけ、また、彼らがそう言った負の感情だけを溜め込めないという性質を知ったが故に、彼らを負の感情と無縁の存在であると侮ってしまっていた。

 

溜め込めない性質があるからと言って、完全でない以上、何の悩みもなしに生きることができるわけじゃない。誰にでも悩みというものは尽きることなく押し寄せる。そんな当たり前の事実を私は己の思い込みで、俯瞰の視線で観察する事で、見逃していた。

 

―――その結果がこれか

 

おそらく、私たちが罪を犯してまで迷宮の探索に挑もうとしているのを、執政院直々の道具の修理依頼から悟った彼は、そうして無謀と愚行の果てにある追放される私たちの処遇に、だからこそ情熱の証を見て取り、私たちに劣等感のようなものを感じたのかもしれない。

 

故に、粛々と道具の整備を引き受けて、しかし顔を見せに来なかった。

 

―――己の焦燥と正義を示すために突き動かされ、突き進んだ結果がこれか

 

結局私は、この世界の多くの人間と対等の対話を行うテーブルに付いていなかった。全ての人の性格を「きっとこうであるに違いない」と決めつけて、現実において誤差の修正を怠った。このすれ違いという後味の悪い結末は、己が積み重ねてきたことの結末に過ぎないのだ。

 

―――いつか、機会を設けて話をしよう

 

決意すると、未だに好奇の視線に満ちた人波の煩わしさを避けて空を見上げる。まだ明るさを残す空には己の怠惰のツケを示すかのように、夕映えの中には黒々とした雲が視界の端に固まっていた。

 

 

物々しい警護、というには少なすぎる見張りを伴って一時間程歩くと、もはやすっかり見慣れた新迷宮入り口へとたどり着く。夜の闇が落ちた星の海の中、切り立つ崖の上空あたりに紫雲が漂い彼方へと流れてゆくさまに、私は語源である仏の来迎の比喩を思い出して、振り払うかのように首を横に振るう。私は仏の手自ら引導を渡されるほど、徳の高い人物でないし、まだそちら側に旅立つ予定もない。

 

清浄なのか邪念なのか分からぬ思いに侵された視線で、崖の中にぽっかりと開いた入り口を見ると、洞穴の入り口は、先の戦闘にて私が四層最奥地の天井を崩した際、その両端が崩れたようで、横一線に引き裂かれた傷跡は、口角上がり、笑んだ唇のようになっていた。

 

その様はとても侵入を拒んでいるとは思えないほどの友好的な雰囲気を醸し出していて、まるで魔のモノが、人の世より隔離される事となった我々を迫害のご同類として歓迎しているようだった。

 

さて、そんなおり、仏と悪神の存在が私の脳裏にて神仏習合を果てして怨霊となり、ふと、三層にて犬に腕を引きちぎられた経験を思い出して、だれか高貴な人が死ぬか、あるいはエトリアが崩壊するかもしれないと考えた。馬鹿馬鹿しい。恐れ多くも崩御の前兆と言われる伝承に、エトリア崩壊の予見を重ねるなど、誰にどちらにたいしても、あまりに不埒かつ不敬が過ぎるというものだ。

 

「いらっしゃいましたね」

 

非礼な想像を行なっていると、罪人を迎えるには相応しくない歓迎の言葉に視線を向ける。夜空をさんざ照らす星の明かりとは異なる、灯篭の柔らかき炎の揺らめきが、赤に満たされた周囲一帯をより一層濃い色合いに塗り替える中、そして照らし出される空間の中心、規則正しく並ぶ衛兵の装備が反射する光の交差する中心に、クーマは佇んでいた。

 

そうして厳重な守護の敷かれている光の中に、トリカブトの花が群生しているのを見つけて、私は彼らのいる場所がどこであるかを明確に察する。花に触発されて少しばかり視線を動かすと、予想通り石碑が見つかる。警戒テープにて区切られた石碑の前には、四名の屈強な兵士が配備されており、各々が緊張の面持ちを浮かべていた。

 

私が視線を向ける先に目敏く気がついたクーマは、淡々と述べる。

 

「迷宮はあなた達が帰還して以降、調査の名目で一旦入場を不許可とし、保全してあります。この処置は、あなた方の五層への放逐、およびその通路の閉鎖を行うまでの間、保たれます。番人部屋までは護送の兵士が一名ずつの転移を石碑より行い、直接あなた方をその場所まで転移させます。その後、あなた方を番人部屋にあります階層を区切る階段に追い出し、放逐いたします。装備はその際、受け取ってください。あなた方が階段の奥に姿を消したのを確認次第、五層入り口の階段は封鎖されます。以上、何かご質問はございますか?」

 

我々が何も言わずにいるのを見て彼は頷き言った。

 

「よろしい。では、早速、刑の執行とまいりましょう」

 

 

衛兵とともに四層の番人部屋へと転移すると、我らが死闘を繰り広げたその場は、私のもたらした破壊の痕跡をそのままに残していた。部屋の中央にはモニュメントのように巨大な一枚岩が地面に突き立っており、その周囲には細かい岩石がばら撒かれている。

 

拓けた荒野の中に巨岩が鎮座する光景は、オーストラリアはエアーズロックのそれを思い出させた。それはこれより先、魔物たちにとってみれば神聖なる対象であろう、魔のモノの領地に向かうのだという隠喩に見えて、やはり少しばかりうんざりする。

 

さて私が破壊の痕跡を眺めていると、近場に設置された携帯磁軸から次々と仲間が衛兵とともに転移されてくる。やがて五人揃った後、クーマという男が転移してきて、彼の指示に従い我々は中央を通り過ぎると、番人部屋の奥にある出口へと手荒く案内された。

 

部屋の奥にひっそりと配されていた地下へと続く洞穴の周囲には、わかりやすく数名の衛兵が配備されている。四層の最奥地に配備されている彼らは、地上にいた兵士達より屈強である事を示すかのように、あからさまに装備の質と纏う空気が違っていた。

 

「ご苦労様です」

 

クーマが声かけを行うと、番人の間を守護する事に緊張をしているのか、冷や汗を浮かべる彼らはしかし忠実に敬礼を返し、封鎖していた道を開けた。現れた洞穴は宵闇という事を差っ引いてもこれまで以上の暗黒に支配されている。

 

私は、この階層を守る番人がケルベロスであった事実と、周囲の赤く仄暗い光景から、まるでこの場が冥界そのものであるかの如く錯覚を覚えて、ならばそんな死者の国よりさらに奥へと繋がるこの穴の通ずる先は果たして煉獄より深き場所かも知れぬと思い至った。

 

―――くだらん

 

先程からやけに沈鬱な想像が浮かぶのは、おそらく柄にもなく追放の事態に緊張しているのだろう。己が脳裏に浮かんだ他愛もない隠喩を霧散させ、眼前に広がる現実の暗闇に意識の在り処を戻すと、ランタンを片手に洞穴の中に一歩を踏み出す。手にしたランプの明るさは、一寸先を照らした瞬間、すぐさま暗闇に吸い込まれてゆく。

 

貪欲に光すらも吸収する闇のあり方は、まさにかつて私の胸のうちに巣食っていた負の感情を残らず吸収した魔のモノの特性を明確に隠喩しているように感じて、私はこの先に奴と、その協力者である言峰綺礼がいる事を確信した。

 

「――――――」

 

無言でさらに一歩を踏み出す。数歩ほども闇の中に身を進ませると、遅れて四人が次々と私の後ろに続いた。我ら五人が直線となって洞穴の中に足を踏み入れた頃、後ろより道具と装備品がしんがりを努めるダリに渡され、その入り口は屈強な兵士達の槍によって斜め十文字を描かれ、封鎖された。

 

「ご武運を」

 

区切られた境界の向こう側から、クーマが私たちに短い激励の言葉を送る。私たちはそれを振り向く事なく受け取ると、斜角の鋭さに足を取られぬよう、注意しながら狭い洞穴の中を邁進した。

 

 

「お、出口か」

 

やがて十分ほども注意深く進むと、背後より前方の明るき空間を確認したサガが声をあげた。前方にいる私に先んじて空間の変化に気がつけたのは、手元にて煌々と輝くランプの灯りの焦点距離が彼の視界あたりにてちょうど釣り合ったからだろう。

 

言葉に対して促され前方への警戒を密にして、歩みの速度を少しばかり慎重なものへと変化させる。私の挙動の変化に呼応して、後方の彼らもその態度をより戦闘に適した重厚なものへと対応させた。

 

「――――――」

 

やがて道なりに進むと、一気に視界がひらけて、現れた光景に私は目を見張った。

 

「なんだ、こりゃ? 」

「綺麗……」

「ステンドグラスに囲まれた……施薬院か何かの施設の跡地か? 」

「いやぁ、荘厳ですねぇ……おとぎ話のようだ」

 

一同が思い思いに疑念や感嘆の言葉を述べる中、私だけは彼らと別種の感情を脳裏に浮かべていた。憤怒。そして、驚愕と郷愁。負の感情と、どちらかに分別するのが難しいそれらの感情は、目の前に広がる荘厳と華麗な現実の景色より生み出されたのではなく、全く別のところに格納されている、記憶という過去より引き出されたのだった。

 

闇の中に光り輝く天井地面に敷かれた色とりどりガラスは、中心となる黒点から直線状に伸び、その最中にいくつかの同心円を描きながら、最外殻にて円弧を作り、巨大な花弁を模していた。

 

そうして雄大に一輪の薔薇を形作る様は、まるでフランスはパリのセーヌ河岸シテ島に存在するノートルダム大聖堂のそれを思い起こさせる。かつて過去の世界に生きていた私なら、あるいはその寺院にいたならば、壮美の様子に感心のため息をついていたかもしれないが、この世界では、この場においては事情が違う。

 

大聖堂が―――、すなわち唯一神という存在を讃える、我らが貴婦人たる施設が目の前にある。この宗教というものが消失した世界において、そのかつての時代の施設を知るという共通項こそは、我が憎むべき宿敵の存在を瞬間的に想起させたのだ。

 

言峰綺礼

 

呟き、不倶戴天の天敵の存在に気がつくと、この荘厳華美な場所には人払いの結界もかけられていることに同時に気がつける。なるほど結界が我々を拒絶の対象としていないため気付くのに遅れたが、衛兵たちが居心地悪そうにしている理由がよくわかった。ここから先は、魔術をかじったものか、あるいは奴に贄として選ばれた人間以外を拒む領域になっている。

 

―――遂に自ら動くか

 

奴は私同様、基本的に機能美以外に興味を持たぬ人間だ。まさか野にあまた散る芸術家よろしく、己が心酔の赴くままに外見の美を追求したとも思えないし、果たして奴は何を思ってこの空間を作り上げたのか。ただそれだけは知っておく必要がある。

 

「解析開始/トレース・オン」

 

見惚れる仲間を放って一人しゃがみこむと、手を当てて地面に解析の魔術をかける。通常とは異なる人が乗ってもビクともせぬガラスは、予想通りこの世に存在する物資により形作られたものでなく、エーテルという、霊質と物質の特性を併せ持つモノでできていた。

 

四大元素たる地水火風の源である力を得る以前の状態の存在たるそれは、かつて聖杯戦争においてサーヴァントと呼称される英霊の使い魔達の肉体を形成されていたモノでもある。すなわち、そんな物質に囲まれたこの空間はもはや奴の腹に等しく。

 

「―――先を急ごう」

 

何が起こっても不思議でない。私と正反対の、奴の心象を表すかのような領域にいるがゆえ、私はすぐさまこの、世界の全てを美しくも儚く脆いものと表現するかのような、奴の価値観を転写したかのごとき場所からの離脱を提言し、奥に見える出口へと足早に進む。

 

夜という時刻の助けを借りて一層暗澹と周囲を包み込む闇は、奴が心中に抱える醜悪の性質と底知れぬ絶望の暗喩に見えて、なんとも気味の悪い湿度を伴っていた。

 

 

どうやら四層とは異なりこれより地下にある場所は湿度が濃いらしく、空気中に散る水分は周囲の地面の中にまで染み込み、その成分をあたりにばらまいているためだろう、温く、土の香りが満ちる洞穴を抜ける。

 

「――――――」

「―――おー、こりゃすげぇ」

 

そうして進んだ先、多少の肌寒さを感じるとともに現れた光景によって、私は再び心を奪われた。二度目の衝撃は、やはり目の前に広がる光景と記憶にある知識の一致により引き起こされたものだった。

 

「街が丸ごと埋まってる……」

「有様は旧迷宮の五層シンジュクと似通っているが、規模が桁違いだな」

「真相を求めた罪人共が追放されたのが切り取られた古代の街とは、趣がありますねぇ」

 

眼下約四キロ程度下にある濃霧を抜けた先、濃霧の中を赤と黒が蠢く中、微かなだけ見える地面。その場所より東に二キロほど行った地点にある赤き橋の、さらに四キロほどの位置に屹立する、他よりも頭抜けている一つの高層ビルが見える。

 

黒板のよう真っ平らに整地された天井であるより伸びた、取手も何もないこのシンプルな透明な階段は、まるで戦争への参加者を誘うように、ビルの屋上へと伸びていた。かつて誘導灯だったものが、夜の闇の中、微かに他と違う光を反射しているのが見える。

 

かつてはセンタービルと呼ばれた新都という街の中心より、乱立する中堅程度のビルの密集円の外周に沿って視界を広げて行けば、ビルのある駅前中心街から離れた場所には、高層階からの景観を楽しむためだろうか、夏野の緑豊かな公園が広々と隣接している。

 

そうして視界を中心街より遠ざけてゆくと、街の端に、見覚えのある海浜公園と、港が目に入った。港と接する川の終点から、街を丁度二つに分断して南北に流れる未遠川を俯瞰すると、河川の部分は特に視界を遮る霧が濃いことに気がついた。

 

私は、街中をぼやかす霧の一因がこの河川にもあり、おそらくは地下という熱のこもりやすい場所であることと、地上よりか地殻に近く水の温度が高いため、川霧が発生しやすく、それが街にまで散っているのかもしれないと推測した。

 

俯瞰をやめて区画整備されたその波打ち際から未遠川をもう一度遡ってゆくと、二つの街を結ぶ唯一の赤い大橋の存在が、改めて目に入る。片側二車線、歩道と車道がきちんと別に分けられた、眼球に強化を施せばタイルの数を数えられるだろう状態を保つ橋は、やはり黒と赤の濃霧に満ちていた。

 

その後、一旦視界を外して川沿いに栄えた深山町の街中から商店街を通り抜け、閑散とした山の方へと目を滑らせると、丘の頂上に立つ見覚えのある懐かしの遠坂亭、西洋風ながら割れた窓ガラスの放置がお化け屋敷の様相を生み出している間桐亭、そして純和風の平屋である衛宮亭を視界に収めたのち、西端の山、長き階段を経た先にある柳洞寺へと辿り着く。

 

そうして東西南北に広がる街の全景を長く俯瞰し、過去の記憶とほとんど変わりなき姿を確認した私は、そこでようやく目の前に現れた現実を受け入れた。

 

冬木市―――」

 

かつて長い時を過ごした街の名は、やがて過去より持ち込んだ因縁に決着をつける時がきたのだと言わんばかりに、強風に乗って眼下にある街の中へと消えてゆく。そして冒険の日々は終わりを告げ、運命の夜を駆け抜ける時は再来した。

 

第十四話

 

終了

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜   第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

神の与えた試練を乗り越えるなら、それ相応の代価が必要だ。

お前が神の祝福なき非才の身であれば、当然、相応の損害を覚悟しろ。

 

 

白く巨大な扉を覚悟を伴った掌で押してやると、手に込められた討伐の意思を拒むかのように、扉は重苦しい音を立てて内に開いてゆく。二つの白が互いの結びつきを遠ざけてゆく中、向こうから飛び出してくるかもしれない三千の人津波を想像して、私たちは警戒を密にした。

 

「――――――」

 

しかしその懸念は無用の長物となったことを知る。ひらけてゆく視界に見えたのは、地を埋め尽くすほどの敵軍ではなく、血を敷き詰めたように六方とも真赤な壁に囲まれた空っぽの空間の、そのガランとした部屋の中心にたった一匹の魔物がいる光景だったからだ。

 

眼前に広がる、平たい天蓋の何処かより壁面の成分が剥がれ落ち、やがて粉塵となった赤の塵芥が舞う光景は、これが例えば雪の色を伴っていれば、あるいは真夏も盛りを迎えそうな時期の今この頃、避暑のため訪れる場所として目に涼しい光景となったかもしれない。

 

だが、こうも不気味と興奮を誘う色ばかりが漠と広がる光景は、吹雪舞い散る雪原に佇むとは真反対の滑りとした気味の悪い印象を私に与えて、漣だっていた神経を鎮めるどころか、荒らしてやろうと侵食する効能を所持していた。

 

さてはこうして、神経を逆撫で苛立ちを引き起こしミスを誘発するのが眼前に広がる景色を作り上げた人物の目的であるとすれば、果たして製作者の底意地の悪さが見て取れるな、などとも思ったが、よくよく考えてみれば、この迷宮の構築に言峰綺礼という男が関わっているのを思い出して、素直に納得した。

 

人の嫌がることを進んで行いなさいという文言を聞けば、嬉々として他人に苦痛を与えるために動こうとする、人の醜いを己の快楽として認識する、なんともあの男らしい所業である。

 

「……」

 

 

考察を重ねながら、私は強化を施した眼球で五百メートル先に佇む、ゆらゆらと輪郭を崩しながら身体をくねらせ続ける敵を見る。その部屋の中にたった一匹だけで佇む敵は、透明なフォルムをしていて、さながら撥水性の布に水滴を垂らしたが如く姿であり、くわえて粘性をも備えた流体の体であった。

 

その粘度の高さと透明なボディに、赤い粉雪が舞い落ちて、そして粘度の高い体の表面をゆっくりと移動する様は、場違いな形容ながらも、梅雪色に着色したきな粉を振りかけられたわらび餅のようだ、と例えるのが相応しいように思える。

 

しかしそうして巨大な菓子箱の中央に、ぽつねんと笹舟に置かれた主菓子の如く存在を主張するそのなんとも場違いな魔物の異様さに、私たちはより一層警戒心を強めた。

 

「エミヤ……お前の予想と大分と違うようだが」

 

槍盾を構えて緊張していたダリは、その警戒をさらに密にして、囁き声で尋ねてくる。事前に彼らに伝えてあった私の最悪の予想では、扉を開けた途端、かつての玉虫の如くアマゾネスが蠢いているかもしれぬと伝えてあったため、そうして三千はいるだろうと脅していた敵の数が、その実たった一匹であった事に、彼は余計に不審の表情を深めているようだった。

 

「そのようだな」

「……どうする? 」

「……十秒待ってくれ。ダリは警戒と防御、サガとピエールは索敵、響は道具の準備を」

 

指示を出すと、四人はそれぞれが一瞥で目を合わせ、己の役割を果たすべく動き出す。周囲の警戒と対処を彼らに託した私は、眼前に観察の視線を送りつつ、考える。

 

これまで攻略してきた層番人との戦闘において、初見から一体であったのは、一層の一匹だけであった。だがそれとて、その無防備さに油断し突撃したところ、不意の増援に無用の手間をかける羽目となった。

 

一方、二層では最初から複数だった。遠距離から迎撃してやろうとすると、彼女がメディアと言う女の能力を持たぬと知らぬが故の油断であるとはいえ、後ろに玉虫を転移され不意打ちを食らった。

 

三層では雑然とした部屋の中心に一匹と五匹の魔物がいた。彼らは直線的であったものの、その能力には特異性があり、油断はしていなかったつもりではあったが、過信の代償として多大な犠牲を支払うこととなった。

 

そして四層。これまでの層の傾向と、ヘラクレスの試練が残り四つか五つ残っていると考えるならば……、やはり、敵は複数いる可能性の方が高い。とすれば―――

 

「―――、まず私が先行して部屋に入る」

「……それで? 」

「おそらくその動きに反応して、どこかから増援がくるだろう、数はわからんが、千を越す数がいるかもしれん。あるいは、一度に増援として出てくる数は五、六かもしれんが、あるいは十、二十の数が出てくるかもしれん。―――もし、敵の質が高い場合、あるいはその数があまりに多い場合は、私も即座に切り札を使用する。サガ、響、その際は各々のやり方で足止めを、ピエールは補助を頼む。ダリは悪いが、私を中心に守ってほしい」

「りょーかい」

「わかりました」

「仰せの通りに」

「了解だ」

 

各々が特徴をあらわにした確かな信頼の返事を返したのを聞いて、私は満足に頷いた。

 

―――よし

 

「では行くぞ」

 

完全に開閉を果たした役目を果たした扉の敷居を踏み越える。敵はまだ動かない。周囲に異常は起こらない。境界線を越えて一歩二歩と歩を進めても、何も異変は起こらない。敵に動きがないというのは、なんとも不気味なものである。

 

先制攻撃を仕掛けてやりたいが、万が一そのアクションに反応して、二層のように大量の敵が突如背後より現れた場合、彼らが最も被害を受ける。それだけは避けねばならぬと、警戒したまま前へと進む。

 

姿を一向に安定させない不定形の敵は、未だに敵意すら露わにせず、方針の方向性すら定かにしてくれない。不安を押し殺すようにして足を前に押し出し、ジリジリと距離を詰めていると、迷宮の何処よりか入り込んでくる暮色を帯びだした光が、背後の扉からすぐ眼前の足元の赤の空間の一部までを切り取り、占有している光景が視界の端に映る。

 

―――もう黄昏時が近い。敵の能力がいかなるものかは知らないが、夜の闇の中、戦闘手段も何もかもが不明な奴と戦う事だけは避けたい

 

また、未だに光の照らし出す空間の中にいた私は、この全身を温める暖気が緊張の糸を緩めてしまわぬうちに早く敵を仕留めないとならぬとも感じたのだろう、理性と感覚に急かされるようにして少しだけ進行速度を早める。

 

やがて私が赤色の空間を微かに侵食する茜色の光の領域より足を踏み出した途端、敵の体に変化が生じた。一定の周期を保って蠢いていた奴の体は、箍を外したかのように大きく波打ち、ふわりと重力に逆らって宙に浮くと、地面との距離をとりはじめた。浮き上がった奴の体は、元々の質量や密度などとは無関係に、色濃い体のまま、身体を膨れ上がらせてゆく。

 

―――さて、鬼が出るか、蛇が出でるか

 

出てくる可能性があるとすれば、十二の試練のうち、未だに制覇していない試練に登場する敵か魔物か。すなわち、鹿、アマゾネスの群れ、ラドンに、ケルベロス、そして。

 

ヒュドラか……! 」

 

巨大化した体は徐々に形を作ってゆく。グネグネと蠢く体からは、触手のようなものが伸びたかと思うと、やがてその先端よりは見覚えのある形へと変化してゆく。やがて直径三十メートルほどの大きさにまで膨れ上がった不定形生命体は、その波打つ頭部を九本も生やすと、その頭部に備え付けられた一対の瞳を全てこちらへと向け、その憎悪を露わにする。

 

―――よりにもよって、これが最初に出てくるとは……!

 

もちろんこの敵との遭遇を想定して対策に毒を無効化するアクセサリーを装備してきたが、果たしてヘラクレスの窮地を幾度となく救い、しかしその果てに彼や彼と親しい人間の命をたやすく奪い去った地上最強と名高い毒相手に、果たしてこの無毒化を謳うアイテムがどこまで効力を発揮してくれるかは、まるきり未知数である。

 

ともあれなるべく、毒をくらわぬよう相手をせねば―――

 

「―――、エミヤ! 」

「…………! 」

 

懸念の最中、切羽詰まったサガの叫び声を聞いて、不定形の奴より視線を外して即座に後ろを向く。振り向いた先にいたのは、黄金に輝く身体を持つ獣。軽やかな足取りで、しかしまっすぐ迫り来るその獣の姿に、私は見覚えがあった。

 

「鹿か!? 」

 

私は振り向き目に奴の姿が映った瞬間、その勢いのままにその場から離脱する。強化を施した肉体は迫り来る獣が繰り出す強烈な速度の体当たりを、すんでのところで回避する事を可能とした。寸前まで私のいた場所を黄金が通り過ぎてゆく。

 

かつてヘラクレスという大英雄が捕縛するのに一年の時をかけたというその鹿の脚力が生み出す速度は凄まじく、すれ違いざまの鹿が纏った金色の疾風の威力だけで地面は風に切り刻まれ、威力の証が深々と刻印された。奴の動作により生じた風圧が、空気と直に接する私の皮膚を、ヤスリがけでもするかのような粗雑さを伴って、乱暴に削り取ろうとする。比喩でなく、肌がひりつく感覚を覚えた。

 

―――サガの助言がなければ死んでいたかもしれん

 

私はサガに心中で礼を述べると、即座に体勢を立て直しと、助言をくれた彼へと向かって跳躍する。約二百メートルの距離を数歩の助走からの跳躍で零としたことに彼らは驚きを見せたが、すぐさまそのような些細に気を取られている場合ではないと思ったらしく、意識を敵の方へと集中してくれる。そんな彼らが見せる手練れの反応が、この場においてなによりも好ましく、そして頼もしいと感じる。

 

敬意に近いものを抱いた瞬間、背後より大きな音がした。扉が閉じられたのだ。そうして私たちは、いつものように、この閉鎖空間の中に閉じ込められる。此度目の前に現れた番人は、ヘラクレスの神話に基づく、不定形の魔物に、鹿。すなわち、ヒュドラと呼ばれる最強の毒と不死性を保有する化け物と、黄金の角と体、青銅の蹄を持つケリュネイアの五頭目の鹿だ。

 

―――まずは二つの試練が同時か

 

試練が五つ同時でなかったことに、私はひとまず安堵のため息を漏らした。

 

「すまん。警戒していたが、動きが早すぎて対処しきれなかった」

 

するとその吐息に反応して、ダリが視線を敵から離さず謝罪を送ってくる。おそらくは先のため息を、対処できなかった自身に対する抗議と受け取ったのだろう。彼はその実力とは裏腹に、多少自分の実力を低く見積もる癖がある。

 

石橋を叩く慎重を持ち合わせている人間特有の己を卑下する悪癖は私にも覚えがあるので文句は言いづらいが、こと目下戦闘の状況において、戦力の正確な判断が出来ていないのは死に繋がりかねない。だから私は、直せぬ我が振りに目を瞑る事に多少むず痒い感覚を抱きながらも、その思い違いを修正してやることにした。

 

「いや。あの速度での不意打ち、早々反応できるものではない。だが、敵の姿を捉えた状態である今、君になら防げると信じている」

 

同じく敵に目を向けたまま返すと、予想外の賞賛が照れくさかったのだろう、彼は少しばかり頬を赤らめて、しかし素直に受け取り、力強く頷いてみせた。思いのほか純情なところもあるのだな、と場違いながらも驚く。

 

加えて彼がそんな乙女の如く恥じらいを見せた事は初めてだったようで、周囲を見渡すと、サガ、響のみならず、ピエールという男までが、目の前で起きた理解不能の光景を必死に咀嚼してやろうと試みていた。人のことは言えぬが、皆、なんとも呑気なものである。

 

「――――――」

 

そうしてそんなやりとりをして隙を晒している最中、それでも私は警戒を怠っているわけではなく、こちらの油断に対して何かの反応をして見せれば即座に反応して見せる算段だったが、しかし眼前の二体の魔物は、こちらへの殺意を備え付けたまま動こうとしなかった。

 

敵もこちらの出方を観察しているのだろうか、金鹿の鋭い眼は、特に私とダリを捉えたまま放さずおり、また、ヒュドラの巨大な九つの頭部にお行儀よくはめ込まれた一対の眼球は、誰を視認しているのか分からぬほど透明さで、俯瞰の姿勢を保っている。

 

やつらと同じように、私が奴らの一挙手一投足に注目していると、やがて、丸いだけの不定形の体に九つの頭部を携えた透明な魔物から、不自然にも突然生じた紫煙がゆらゆらと漏れ出した。そうして空気中に放出された紫煙は、重力に従って下へと垂れ流されてゆく。

 

判ずるに空気よりも重いらしいその煙は、そのままゆっくりとした動作で空気を押しのけて地に落ちると、赤の地面と接触した瞬間、地面に生えた赤草をグズグズに溶かし、さらには土の地面すらも融解させた。混じった液体は煮沸したかのように波打ち、その液体の領域を広げてゆく。

 

その光景は私に、あれこそが伝説に名高い、全ての生物を触れただけで殺す猛毒、「ヒュドラの猛毒」であることを即座に理解させた。胸元のタリスマンを見る。胸元で怪しく光る宝石は、腕輪と合わせて一層に出現した蛇の毒を見事に無効化してくれたが、あの地面すら液状化させてしまいそうな毒液の前には無力であるかのように感じてしまう。

 

なるほど、この階層の地面だけ、時間が固定化されたかのような状態である理由は、あの毒が即座に地面を殺して迷宮を瓦解させないための処置かもしれぬと思いつく。

 

「気をつけろ……、ヒュドラの毒煙に触れれば、おそらくタダではすまない」

「さっき言ってた、なんでも死なせる猛毒ってやつか? 」

「ああ。一応、タリスマンを装備しているから煙に触れた程度なら大丈夫だと思うが、思い切り吸い込んだり、溜まった液体を一定量以上浴びると、その限りでない可能性が高い」

 

一同は、その言葉に視線を不定形の下に溜まる液体へと向けた。こうして対峙しているだけでも赤黒紫のマーブルは、紫の煙を表面張力で浮かせながら、その範囲を広げてゆく。

 

煙を放出するヒュドラは、その透明な体より伸びる全ての首の口先から大量の放出を行いながらも、身体の大きさを常に一定の大きさに保っていた。誰かが唾液を嚥下した音がやけに大きく聞こえてくる。

 

「なぁ、もしかして、このままこうしてると、まずいんじゃね? 」

 

サガの言葉に、確かにその通りだと思い至る。敵はどうやら呼吸をするかのように、あの紫の毒霧を無限に生み出せるらしい。ならばこのまま時間が経過した時、この部屋が毒霧に満たされた空間へと変貌するのだろう事は、容易に予測ができる。流石に地上最強の猛毒に満ちた空間の中で生きる自信があるほど、私は豪胆ではない。

 

「お前の話によると、ヒュドラってやつは、首を切った後、傷口を焼けばいいんだったよな」

「ああ。奴の首を切り落とすのは、私に任せておけ」

 

サガは籠手を展開させて、スキルの発動準備に入る。私は彼の動きを背中越しに感じて頷くと、弓と剣身体を戦闘の状態へと移行する。初めは宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグ」で奴を吹き飛ばそうと考えていたが、あの一秒ごとにその密度と量が増えてゆく毒の量を見てそんな気は失せてしまっていた。

 

確かに「偽・螺旋剣/カラドボルグ」なら奴の体を宝具で吹き飛ばす事もできる可能性は高いく容易いかもしれぬが、着弾直後、紫の煙や液を切り裂いた際に、奴の体ごと煙や液体が飛び散り、それらがこちらに風に流され飛来し、そして我々の体に侵入してしまうかもという可能性を考えると、易々と用いて良い手段でないように思えたのだ。

 

故に私は、今回、首だけを切り落とす手段として、宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する事とした。この一度放てば剣に籠められた魔力の続く限り敵を追い詰めて殺す剣ならば、奴の煙を避けて明後日の方向に放っても、九つ存在する全ての首を切り落とし続けてくれるだろうと考えた。

 

―――わけだが

 

敵はそうして、奴にとって不埒な行動を企む私を前にして、しかし未だ大きな動きを見せない。地上最強の猛毒を持つ獰猛なはずのヒュドラは九つの首を揺らして、泰然と不動を保ち、先程あれほどの速度を誇ったケリュネイアの金鹿もヒュドラから少し離れた場所を闊歩するだけで、積極的な攻撃姿勢は見せていない。

 

その静観。その傍観が、ひどく不気味に映る。本当にこのまま攻撃を仕掛けて良いものか。そんな不安が脳裏をよぎる。しかし記憶に残っている伝承を漁ってヒュドラの特徴を考えても、「首を切り落として、その傷口を焼く」「岩をもって核を封じる」以外に有効そうな手段を思いつくことができない。

 

ならばそうして、思いついた手を一つずつ試して有効打を探るのは相対する敵を打ち倒すには道理の手段なはずで、間違いなく正しい選択のはずである。にもかかわらずこうして戸惑うのは、おそらく、導き出された答えを正しいと知っているに由来するものであろう。一人だけが解答を知っているというのは、かくも間違えた場合の事を懸念する様になるものなのだ。

 

―――しかし随分とまぁ、臆病になったものだ

 

生死をかけた戦闘において不測の事態は当然、敵が能力を隠すのも、敵の能力が完全に把握できない状態で戦いを始めるのも常の事だ。そうして互いがカードを隠した状態で始める戦闘を尋常な勝負と表現するなら、情報量の天秤が片一方に傾いているこの状況など、卑怯千万の謂れを受けても反論できぬ状況だ。敵の情報が万全に揃っている戦いに一抹の不安を抱くというなら、もうそれは腑抜けと称するより他に呼びようがない臆病ぶりではないか。

 

―――は、この様が元は英霊と呼ばれる守護者の末路だというのだから、我ながら笑わせてくれる

 

心の裡に生じた臆病をあえて責め立て自身を奮い立たせると、あえて無駄に大きく一歩を踏み出しながら、動作の最中で流れるようにカーボン製の黒弓と宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する。

 

世に姿を表したその気性の荒さを象徴するかのような刺々しい金属板が打ち付けられた剣を、歩きの流れの動作の中で弓に番えると、私はやがて敵正面に向けていた体を横に構えなおして立ち止まり、弦を弾きながら弾となる刀身へ魔力を籠める。

 

刀身に流し込まれた赤銅色の魔力は、剣自身が持つ荒々しい赤の暴力と混じり合うと、その体より緋色の魔力を空気中に放出した。漏れ出した魔力は刀身と添えた手を辿って、剣の柄より赤の地面へとゆらゆら落ちてゆく。その様はまるで、存分に餌を与えられた素直でない猟犬が、しかし嬉しさを隠しきれず尾を振っているかのようだった。

 

そうして攻撃の準備を整える間も敵は動かない。奴がまるで動きを見せない異常は、不気味と感じる心に不安を煽り、平生の天秤を揺らす要素に拍車をかけ、鏃の狙いをぶれさせた。私はその臆病の表れの動作を無理やり押さえ込みながら、迷いを振り切るようにして、一度だけ視線を後ろへと送った。

 

「――――――」

「――――――」

 

彼らと視線が合う。サガはすでにスキルの準備を終えている。ダリは盾を構えて前傾姿勢になり、響はバッグの中に手を突っ込んで弄っている。やがて全員の準備が整ったことを察したピエールが、竪琴を鳴らすとともに大きく歌を吟じ始め、そして戦いは口火を切られた。

 

「さぁ、それではいきなり閉幕を宣言するのは恐縮でございますが、四層におけます戦いの最終章を始めましょう! 」

 

彼は、叫ぶとバードである己のフォーススキル「最終決戦の軍歌」を高らかに歌い出した。白魚の手の先にある弦タコにて硬くなった指が、弦楽器に負けはせぬと堅ながらもしなやかな糸を強く弾き、共鳴箱を通じて艶やかな、しかし荒々しい音を周囲に撒き散らす。

 

楽器の音色に乗って、ピエールは己の喉を大きく動かしながら声を張り上げて、勇ましい曲調に言葉を乗せ、周囲に流麗な音を濁流の如く散布した。そうしてあたりに渦巻いた音色は、混じったスキルと共に周囲の味方を体に飛び込むと力となり、私は己の身体能力が引き上げられるのを感じる。

 

強化の魔術を最大限施した上での補助に、肌の感覚は空気中を舞う埃の一粒すら感じるようになり、指先より剣へと流し込む魔力の量を、限界のさらに先の極限にまで詰め込むことを可能とした。ミクロン単位での魔力流入調整を施され、忍耐の限界に達していた宝具は、もはや我慢がならぬと解き放てと、私を急かしてくる。

 

私は吠える堪忍袋の小さな猟犬の要望を叶えるかのように、己の指という首輪から宝具を解放し、己が体に秘められた威力を存分に発揮しろと、その名を高らかに叫んでやる。

 

「赤原猟犬/フルンディング! 」

 

放たれる暴虐。途端、刃先にて風を切り裂いて一直線に敵へと向かう姿は、まさに卑しくも大きな牙を押し出しながら暴走する狂犬のそれを形にしたような荒れ狂う突進だった。魔力による身体強化の上にさらにスキルによる強化を乗せられた威力は、赤光の絵筆にて、不定形の敵との空気の間に一条の飛行機雲を描きながら飛翔する。

 

その速度はもはや音速を超え、彗星に等しくすら見えた。敵との距離は五百メートル。そう、たったの五百メートルしかない。今の赤原猟犬なら、瞬きを終える前に、彼我の距離を零にしてくれるだろう。その瞬間。その刹那。

 

魔力とスキルによる強化を施された眼球は、その一瞬にすら満たない時間の間に、不定形の生物と剣の間に、するりと入り込んでくる生物の存在を視認した。一秒を数千もの瞬間に分断した短い時の最中、最大限まで強化された瞳が捉えたそいつは、なんとも優美な動きで、空間引き裂き直進する魔剣のデッドラインへ軽々と身を晒す。

 

ケリュネイアの鹿がとったその所作のあまりの自然な優雅さに、私は一瞬その挙動を不信と思えず、秒を万に分断された意識の中に空隙を作ってしまった。呆然の直後、危険を察知して、あらん限り鳴りの警鐘が脳内に鳴り響く。

 

―――あれはまずい

 

奴の思惑は知らぬが、己の身をわざわざ暴虐の前に持ってきながら、しかし奴はまるでなんて事のないように振る舞う。死線に身を晒しながら、そんなつまらぬ些事、気にもしませんよと言わんばかりの、その態度の異常、その慮外の動作が、私の直感と戦闘経験に基づく心眼が最大限の警戒を訴える。

 

―――……、ならば

 

迷いは一瞬。しかし、剣が金鹿と接触しかける直前、奴がその優美な口元に浮かべた笑みを一切崩さない様を見て、私は即座に魔力が最大限に籠められたその剣をこの世から抹消させる事を決意する。

 

―――投影破棄……!

 

命令が光の速さで剣に伝わるが、猟犬が挙動を止めたのは、刃先が鹿の喉元に到達したのと同時だった。消去の意思を受け取り剣が消滅するまでの間に、待ての命令を遵守しきれなかった剣は、少しだけ鹿のその緩やかな曲線にて構成される喉元に直進し、そして吸い込まれるようにして刃先だけをめり込ませた……ように見えた。

 

その瞬間、私の喉元に違和感。強化された感覚の中、表皮が熱い熱気を感じ取ったかと思うと、ぷつり、皮膚が押されて裂かれた。そして、じく、と肉を割り異物が入り込む感覚がしたかと思うと、瞬間の間に甲状腺を割き、気管を割り、食堂までに到達する。

 

「……っ、かッ……、はッ……! 」

 

突如我が身を襲った理解不能の事象に対して、反射的に異常の起きた喉元を抑え、地面に両膝をつく。なにを言おうとしたわけでもないが、呼吸のために動かそうとした喉元は、閉じた場所をかき分けられた事を主張するかのように、ひゅう、と呼吸が気管より喉元に漏れた。

 

通常はありえない体内の血肉と皮膚と内臓器官に外気が触れる異常を察知した神経が、遅れて敏感に異常の信号を脳へと送る。ようやく訪れた鋭い痛みは、脳内の余計な悩みを払拭し、頭を一点の出来事に集中させる効力を持っていた。

 

「……、エミヤ!? 」

「おい、なんだよ!? 」

「エミヤさん!? 」

 

サガと響が叫ぶ声が聞こえる。答えてやろうと思ったが、隙間の出来た喉元は肉の割れ目より間抜けに空気を漏らす音をたてるばかりで、その後、蠕動し声を出し損なった痛みだけを訴えてくる。

 

筋繊維の動作により、切れた周囲の血管が時間の流れを取り戻して、喉元から大量の出血

生じた。血液は、気管と食堂を上に下にと蹂躙し、口内にまで登ってきた生暖かきが舌下と触れることで鉄の味を感じさせた。

 

そして逆流した流体の氾濫にむせ返ると、その挙動が一層、喉元の出血を促し、私は傷口、口腔、鼻から赤の色を漏らすこととなる。その様を見た瞬間、響は過剰なくらい敏に反応し、バッグの中で遊ばせていた片手を取り出すと、二つの瓶を私に向けて振りまいた。

 

彼女がもはや神速とも言える速度でヒステリックな反応によりばら撒かれたそれは、ネクタルと呼ばれる、気付けと造血、微かながら傷を塞ぐ効果を持った薬と、メディカと呼ばれる肉体の損失を補填し、再生を促す効能の薬である。

 

二つの薬剤は私の体に触れた途端、瞬間的に光の粒子になったかと思うと、傷口を塞ぎ、皮膚より浸透した成分は失った血液を補填し、アルコールに匂いで嗅覚を、ネクタルの名を冠する薬に相応しいような甘ったるさをもってして味覚を強烈に刺激し、気付けの効果を遺憾なく発揮し、同時にメディカが傷を元の通りに修復する。

 

「……、ハッ、ッァ、アァッ―――、カッ、グッ! 」

 

治癒の作業により、即座に正常な状態へと傷口が塞がってゆくという異常にむせ返りながらも、喉元を裂かれる攻撃にて意識までも侵食した不快の感覚は終わりつつあった。命の天秤が生の側に傾けてくれた存在に存分に感謝しつつ、私はしかし、その感謝の言葉を発せないほどに心中の坩堝で暴走する不快な感情を宥めるのに必死だった。

 

喉元を切り裂かれた直後、灼熱の痛みと共に訪れたのは、極寒の中に裸で投げ出されたような、寒いのに暑いという、矛盾に満ちた痛み。それは、全ての生物が必ず一度は経験する、根源的な感覚。沈んでしまえば二度とは戻れぬ、そんな抗えぬ闇に沈む感覚、私はたしかに何度か生前味わったことがある。なるほど。

 

―――そういえば、死の感覚とはこのようなものだったか

 

この世界においても命の危険を感じたことは幾度もあるし、命を賭して戦って来たことは数度ほどあるが、三途の川にて駄賃を渡す寸前まで行ってしまったのは初めてだ。

 

しかしそうして生身の体にて賽の河原に足までを踏み入れてしまった経験は、そのたった一瞬だけで、頑丈な体の内側までをも、冥界の魂が削れるような極寒の寒さをもってして私の心中に凍傷の火傷を残していったのだ。

 

呼吸をすると共に心に生じた余計を押しのけるべく、手で顔の下半分を拭い、体の正常を取り戻してやると、しかしそうして端に追いやろうとする動作が逆にその存在を強く認識させ、先程の感覚を改めて思い出してしまう。

 

喉元をさすると、死水を飲み込んだかのようななんとも気持ちの悪い生暖かさと、精神から来たのであろう冷たさが湧き上がってくる。体に纏わり付き、心中に残る熱を奪ってやろうとする冷たい死神の手を振り払うかのように、改めて強化の魔術を使用して全身に熱を発生させて、身体能力を向上させる。

 

そうして永遠の安楽に身を任せかける無様を晒したこの身に喝をいれて準備を整え、警戒の念とともに部屋の中央を見てやれば、ヒドラは未だにその場から動かず己の領域を拡大している最中だった。また、私を死の淵に追いやった金鹿は、その紫死毒に満たされつつある空間の内側で、しかし、平然とその優美な曲線美を見せつけながら闊歩を続けている。

 

「大丈夫ですか!? 」

「ああ……、助かった」

 

響に短く礼を述べると、立ち上がり、喉元を抑えていた手を解放して、常の戦闘態勢へと移行した。だらりと両手の力を抜いた体勢で敵の姿を見やるも、敵はこちらの戦意など知ったことかと言わんばかりに、悠々と赤の領域を紫で侵食している。

 

「な、なんだったんだ。どうしたってんだ、エミヤ!」

 

サガが混乱して喚き散らす。

 

「恐らく、鹿の反射だ」

「反射ぁ?」

 

私は敵を見据えながら、しかし一切の攻撃を仕掛けてこようとしない敵の余裕から、恐らく積極的な攻撃はないだろうと判断し、しかし油断しないように目線を奴らより切らないまま、淡々と記憶を述べる。

 

「十二の試練の伝承の一つに、アルテミスがケリュネイアの牝鹿を欲する場面がある。ヘラクレスという英雄が彼女の願いを受けてこの牝鹿を捕縛しようと試みるのだが、この鹿は狩猟の女神の力をもってしても捉えられないほど速く、また、傷つけられることを禁じられていた。おそらく、その伝承が転じて、己を傷つけようとする攻撃には須くの事象として反射を行う、という性質を持つようになったのだろう」

「なんだ、そのインチキ!」

 

籠手の中の発動直前のスキルを取りやめながら、サガが喚く。

 

「では、その伝承とやらで、彼はどのようにしてその試練を乗り越えたのだ? 」

 

理不尽に怒りを露わにするサガを押さえつけるようにして、彼の頭を抑えたダリが冷静に尋ねてくる。

 

「……、ヘラクレスは一年の時をかけて、鹿を疲れさせ、追い込み、捕縛した」

「――――――、奴の疲労を待つしかないというのか? 」

 

理不尽な現実から、結論を先読みしたダリは、それでも冷淡に絶望の事実を口にする。

 

「―――、分からん。傷さえつけなければ、あるいはいけるかもしれんが」

「わかった。―――、響」

 

ダリは言うと、ネクタルを使った後、近くで呆然と我々の話を聴講していた彼女へと声をかける。響はいきなり己の名が呼ばれたことで少し驚いた様子を見せたが、すぐに気を取直して、静かに返事を返した。

 

「はい 」

「聞いていたな? 状態異常や捕縛ならなんとかなるかもしれん……、いけるか? 」

 

短い言葉には、響という少女が己の意を読み取り的確な判断とともに返事を返してくれると言う、無言の信頼が込められているように感じられた。ここにきてダリという男は、ついに彼女を肩を並べて戦うに足る戦友として認めたのかもしれない。

 

「……、状態異常は無理です。ばら撒いたところで、あの紫の煙の広がる勢いに負けるでしょう。でも、糸を使えば、硬直ならあるいは……、けど―――」

「それが攻撃と認められなければ、か。どうだエミヤ」

 

言い淀んだ響の意思を汲み取ると、ダリは再びこちらを見て尋ねてくる。それでどうかと問う無言。私は彼女らの意見から導き出された結論を、私の記憶にある伝承と照らし合わせると、頷いて言う。

 

「鹿はヘラクレスによってを捕まえられた後、轡をかけられ女神の戦車を引く事になったという。ならば道具であっても、「拘束」「捕縛」という手段なら、あるいは有効かもしれん」

「ならそれでいこう。響。足を対象とした縺れ糸はいくつある? 」

「三個。それで打ち止めです。一回はフォーススキルで出来ますが、二つも同様にフォーススキルで使用するとなると、ちょっとだけ時間を稼いでもらうことになります」

「十分だ。ではそれでいこう」

 

ダリが話を纏めると、二人は合わせて頷き、ダリが私とサガ、ピエールに向かって宣言する。

 

「エミヤ。そういうわけだ、私たちが奴の足を止める。奴が足を止めた隙を狙って、君は首を叩き落とし、サガは超核熱の術式を叩き込んでくれ。ピエールは回避の補助を」

「よっしゃ、了解」

「了解しました」

 

サガは意気揚々と、ピエールは淡々と返すが、私はそんな彼らの選択に、彼の判断に一抹の不安を感じきれずに、質問を返した。

 

「……ダリ、一つ聞きたい」

「なんだ」

「響のフォーススキルを使って奴の対処を試みるのはいい。恐らく現時点では最良の手段だろう。だが、フォーススキルは一度使うと、二度目の発動に時間をかけなければならないという。ダリ。もし仮に、彼女が一度目の糸を外して、その後、こちらの意図に気がついて激昂して、その攻撃を反射する敵が、我々に襲いかかるという事態に陥った場合、全ての行動が反射する敵に対して、君はどう対処する気なのかね? 」

 

今彼が提案した作戦は、実行し目的を果たすまでの不慮のあれこれに目を瞑った、詰めの甘い、楽観の元に立てられたもので、冷静冷徹を信念とする彼らしくないと思えた。ダリは私の質問を真正面から受け止めると、静かに敵へと向き直した。

 

「決まっている。その場合は私が守りを受け持ち、時間を稼ぐために奴と対峙する。なにせ私はパラディンだからな。ギルドのメンバーを守るのは私の役割だ。何があろうと、どんな攻撃であろうと、絶対に君たちを守り切ってみせよう」

 

彼は当たり前のように断言する。迷いなきその言葉を発する彼の態度と言葉の裏には、シンを攻撃から守れず死なせてしまった己の無様な過去の行いに対して、必死に言い聞かせているような、精悍も裏側に悲嘆を混ぜた気配があるように感じられた。

 

それは、仲間を守りきってみせると宣言した男が、しかしその誓いを守りきれず、己の誇りを汚してしまったそんな自らなど認めぬとでもいうかのような、そんな懊悩より絞り出された決意のようだった。このままでは、恐らく彼は、そうして当たり前のように自分を投げ出して我々を守り、そして果てて行くだろう結末が眼に浮かぶ。

 

彼は生き急いでいる。いや、もしかしたら理屈やで理想が高く、完璧主義の傾向にある彼は、そうして自分の経歴に傷がついた事を嫌い、その汚点をかき消せるような誇り高き死を望んでいるのかもしれない。

 

その潔癖。その必死さ。己は己の信念以外を無駄として切り捨てる、その、頑固で、不器用で、病的で、馬鹿な男のあり方を、しかし私は決して否定する気にはなれなかった。

 

なぜならそれは、かつて私が辿ってきた旅路にて培った、自らは他人の気持ちを解せない異常者であると悩んだ事もある己の頑迷さによく似ていて―――

 

「……くっ」

 

思わず苦笑が漏れかけた。ダリはその漏れた声を聞いて不審げな、不機嫌そうな目線をこちらへと送ってくる。私はその不器用さに満ちた瞳を真正面から受け止めて、射返した。

 

「ダリ。君の覚悟は十分に理解した。だが、それはダメだ。恐らく君では奴の足は止めきれまい。あの反射に対応することはもちろん、おそらく気にも反射神経ではあの速度に反応しきる事が難しいだろう」

 

宣言。それに彼は不機嫌さを深め、しかし私の言葉に対する納得を、唇を噛む事で表現した。

 

パラディンの役目は守護だ。逃げる敵を追いかけ、追い込むことではない。ダリ。それは、弓を使い獣を追いかけるのは、レンジャーと呼ばれる職業の領分だ。そうだろう? 」

 

いうと彼はいかにも悔し気に目元を歪ませて、こちらを睨め付けてくる。

 

「ならば……ならば、どうしろというのだ!」

 

彼はここに来て初めて感情を露わに叫んだ。ピエールが感極まったかのように竪琴をかき鳴らす。恐らくその冷静を平生の態度とする彼が、憤怒と悔しいが混じった激情を発露するは私の前だけでなく、彼らの前でも初めてのものなのだろう。

 

「……私がやろう」

 

静かに宣言。迷いはもう消えていた。毅然と胸を張り、私は周囲の光景を眺めて言い切る。

 

「獲物を弓矢で追い詰めるのは、アーチャーの、この世界風にいうなら、レンジャーの役割だ。――――――私がやる。真の切り札を使用する」

 

切り札。その言葉は周囲の全てに影響を与え、時間を一瞬だけ停止させた。迫り来る紫の煙は行動を止めたかのようにその侵食をやめ、世界はまるで、十数秒先に待つ己の未来を予感するかのように、その身を震わせた。

 

「―――、固有結界を使う。久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

決断を覆さぬよう、はっきりと宣言する。

 

―――私は、この世界で、全ての手を明かす。

 

それは、私がついにこの世界に心の全てを晒し、自分自身と向き合う事を決めた瞬間だった。

 

 

「―――、固有結界を使う」

 

宣言とともに、周囲の温度が数度ほども下がった気がした。ただでさえ凍える寒さを秘めた環境は、まるで凍てつく吹雪の中にいるような肌を切るような、痛いほどの寒さへと変わる。周囲に降り積もる塵芥がまるで真なる氷雪であるかの様な、錯覚すら覚えた。

 

「久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

続く言葉には助けの手は出せないという意味と、だから私を守ってほしいとの信頼が込められている気がした。自然と両手に力が入る。私は全身が熱くなる感覚を覚えた。

 

「こゆうけっかい――― 」

 

サガが口をへの字に曲げながら首を傾げた。響も同様に少しだけ疑問の声を顔に浮かべている。私も同様の気持ちだった。違うのは、まだ知らぬ単語に胸を躍らせているのだろう、不謹慎にも目を輝かせているピエールだけだった。

 

先程も説明してくれたが、正直要領を得ることが出来なかったスキル。世界を心象風景で書き換えるとはどういうことなのか。質問をすると、彼は苦笑とともに、一目見ればわかるし、発動したからには必ず敵を倒せる手段だといっていた。

 

先程話を聞いた際には、正直なところ、眉唾に思う気持ちもあったが、今の彼の真剣な表情を見て、そんな不埒な思いは全て空気の中に霧散していった。

 

「そうだ、それは―――、む」

 

彼が言いかけた瞬間、今までまるで動きを見せなかった敵は、嘘のように凶暴さを露わにして暴れ出した。彼がヒドラと呼んだゼリーの亜種はその上部から生やした何本もの触手のような首を大きく悶えさせ、鹿はまるで落ち着きをなくして、ヒズメで地面を叩いている。

 

エミヤのたった一言の宣言は、敵を大いに慌てさせる効果を持っていた。おそらく、敵も言葉の意味は読みとれなくとも、彼がこれからやろうとしていることが自分たちに害なすものであることを読み取ったのだろう。彼が放った、たった一言が、そんな風に敵のみっともなさを表に引っ張り出したのを見て、私は決心する。

 

「エミヤ」

「ん? 」

「任せた」

「……、了解した」

 

最強の男から告げられた信頼の一言は、柄にもなく、冷徹を信条とする私の体を更に熱くした。信頼の想いを挨拶に短く乗せると、全員を庇えるように前に一歩進み出て、盾を構える。新迷宮一層の鉱石から作り出した薄い桃色の美盾「アイアス」を、敵の飛ばす混乱の意を拒絶するかのように私の前に差し出すと、敵はその行為に反応したかのように、攻撃を仕掛けてきた。

 

「――――――! 」

 

まず謎の足踏みにて地面を踏み荒らしていた鹿の姿がブレた。瞬間、危機を察知して、物理防御スキルを発動させようと試みる。敵の動きを察知していた私は、己の予測に従ってエミヤと鹿の直線上に身を捩じ込むと、

 

「パリ―――」

 

ング、といいかけて、盾ごと体が吹き飛んだ。左右の奥へと引っ込んでいた口角が変化する前に地面より離れた時の衝撃に、思わず奥歯ごと噛み締めると、すぐさま状況の把握に努める。

 

「――――――ッ……! 」

 

無様にも吹き飛んだ体は、天井を見上げていた。背中になんの感触もないことから、私は地面を背にした状態で浮いているのだなと判断。数旬後にくるだろう衝撃に備えて体から力を抜くと、予定通りにやってきたそれを盾を装着していない手を用いて受け流し、その手を使ってすぐさま立ち上がる。

 

自分の吹き飛ばされた方向から敵の位置を予想し、果たしてすぐさま敵を見つけると、敵はぶつかった瞬間に方向を変えて離脱でもしたのか、少しばかり離れた場所に佇んで、攻撃を仕掛けた私ではなく、私の後ろに自然体で立っているエミヤの方を向いていた。

 

「―――I am the born of my sword/体は剣で出来ている」

 

切り札というやつの準備だろう、エミヤが呪文を唱え出した。スキルとは似て非なる力が世界にむけて放たれる。直後、観察の視線を送っていた鹿が、その言葉を嫌ってか、狂ったかのようにその首を振って、地面を蹴り足踏みをした。

 

鹿に続けてヒュドラが首を伸ばして攻撃を仕掛けてくる。透明なより伸びた八つの首は、範囲外にいる私たちを攻撃するため三つの首を合体させてその長さを伸ばし、元のままの二つの首を待機させたまま、攻撃を仕掛けてくる。狙いはもちろん彼らを不快にさせている行動をとるエミヤだ。

 

「させん! パリング! 」

 

今度こそまともに叫んで、首の一つの前に立ち塞がる。幸いなことに、透明な奴の体の表面には、周囲の赤い土埃が白粉の如く塗りたくられていて、透明な姿の敵の輪郭をはっきりと認識させてくれる。

 

やがて、大きく開いた口の下唇が私の盾とぶつかり、攻撃を塞いでくれる。防御の感覚と共にひどい臭気が鼻をつく。物理の威力を完全に遮断してくれるスキルはその勢いを止めてくれ、タリスマンは毒の効力を無効化してくれたが、猛毒の効力を持った吐息の不快さまでは遮断してくれなかった。

 

吐息を避けてすぐさまその場から離脱すると、少しばかりつんのめった首の輪郭めがけて、響が薄緑色の刀を振り下ろした。それを確認して敵もすぐさま首を引っ込める。彼女の刀は奴の口から漏れた紫と赤の混じった空気だけを割いて緑の線が宙に描かれる。

 

敵が伸ばし引くその動作の最中、口から漏れた毒の吐息が、こちらとあちらの赤の空間に紫の線を引いては地面に落ちてゆく。落ちた地面は当然、奴の支配領域に成り代わっている。

 

その攻防の最中、もう一つの纏められた首はエミヤの方を向いていた。その首は目を瞑り詠唱するエミヤの方へと向かい直進する。

 

「させるかよ! 炎の術式! 」

 

奇しくも先の私と同種の台詞をサガが叫び、炎の術式を放った。最大限まで強化の施されている炎術は肥大化した頭すら飲み込む巨大な火炎球となり、敵の頭を包み込む。燃え上がった敵の頭は、火炎が敵の表面を焼くと共に、口腔に溜まった毒煙と反応して、微かな誘爆を引き起こす。

 

肌を焼く炎と口腔内の爆発に、ヒュドラの頭はエミヤとは違う方向にそれてゆく。エミヤは淡々と次の文言を告げる。彼は我々を信頼して、一歩もその場から動いていないようだった。その無言の信頼が、なんとも嬉しく感じられる。

 

「steel is my body,and fire is my blood./血潮は鉄で心は硝子」

 

仰け反ったヒュドラの頭が不気味に蠢いた。二つの纏まった頭はさらに一つにまとまり、視覚にすら凶暴さを訴えかけるほどにまで肥大する。百メートルはある天井を三往復は出来そうなその長く太い奴の口は、たとえパリングで攻撃を防いでも、毒液に満ちた口腔内が私たちを飲み込むだろうことを容易に予測させた。

 

「止まってくれたのなら、これで! 」

 

サガが核熱の術式を敵めがけて発動しようと試みる。鉄の籠手に収束した力が放たれた瞬間、鹿が動き、彼と敵との進路上へと割り込む。己の視線の先、ヒュドラへの攻撃を防ごうという目的だろう、悠然と割り込んできたその存在を見たサガは、心底悔しげに力の発動を止めた。無意味に浪費された熱が籠手から周囲に撒き散らされる。

 

「今なら !」

 

サガが苦慮の様子を見せた後、後ろに控えていた響が叫びながら飛び出した。サガの上空に向けての攻撃を受け止めるためだろう、跳躍した鹿は落下の最中である。

 

なるほど、敵の攻撃をその身を盾にして防ぐために緩やかな跳躍をして見せた鹿は、それ故に今、空中という逃げ場のない場所に全身を晒していた。その四肢が地を踏みしめ、先のような疾風の動きをするまでにはおよそ五秒程度はかかると見受けられる。その間を狙って捕縛を試みようというわけだ。

 

鹿の落下予測地点めがけて、響が進路上に縺れ糸を解き、道具の力を解放し、投げた。この瞬間にフォーススキルを使わなかったのは、鹿の反応の機敏さの咄嗟がすぎて、肉体と精神が反応しきれなかったのだろう。

 

そうして彼女が利用したことで当たれば確実に敵の足止めを効力を持つに至った糸は、緩やかな放物線を描いて進んだかと思うと、見事に鹿の落下方向と重なった場所へ落ちて、その糸を上空より落ちてくる鹿へとその身を伸ばした。

 

しかし、その糸は、今しがた鹿が庇ったヒュドラの太い首が、今度は鹿を庇うようにして割り込み、その巨大な頭部を以ってして攻撃を防ぐ。糸は敵に触れた途端、響の意図とは違う敵を対象として捉え、ヒュドラのその不定形の下部、およそ足とは言えるものが存在しない場所に巻きつき、そして毒に染まって紫になる。

 

毒に染まった繊維糸はすぐさま解れて溶けて消えてゆく。巨大すぎる敵の体躯を前に、縺れ糸は効力を発揮しきれなかったのだ。とはいえ、効力も何も、そもそもあの敵は動かないので足を捉えたところで無意味に等しいだろうが。

 

「響! 無駄撃ちはやめろ! 」

「ご、ごめんなさい」

 

サガが珍しく、味方に苛つきを露わにして叫んだ。三発中の一発を無駄にするというのは、たしかにこの状況下においては、大きな失態である。その自覚があるのだろう、響は恐縮して身を縮こめた。

 

「いや、いい。今ので、時間は稼げた」

 

私が彼女を庇う言葉をかけると、それはよほど彼らにとって予想外だったのか、ひどく驚いて見せて、呆気にとられた顔をした。確かに今までの私なら、サガ同様、ミスを責めていたかもしれない。

 

私はエミヤという男の傍で彼を観察し続けることで、多少の人らしい心というものを手に入れたのかもしれないな、と我ながらくだらない事を考えた。とはいえ、そんな私の事情など知らぬだろう、彼らが戸惑いの反応を見せるのは当然だと思うし、彼らの驚愕を意外と思わなかったので、私はあえて無視して続けた。

 

「エミヤがなんとかするといったのだ。私たちは彼が切り札とやらを使うまでの時間を稼げれば良い。最悪一つとフォーススキルが使える状態であれば、何があろうと、彼と私たちでなんとかすることができるだろう」

 

危機に近い状況でも冷静に全体を見渡して、しかし多少楽観の入った戦況予測を行うと、二人は真剣な表情の中にも多少の弛緩を含んだ表情で私の方を見やってくる。

 

お堅い人間の口から出た、なんとかなる、という言葉は緊張の空気を和らげてくれる効果を持っているようだった。私はそんな新たな発見を喜ぶとともに頷き、自らが話題に俎上させた人物の方を見やる。

 

「I have created over a thousand blades./幾たびの戦場を超えて不敗」

 

彼の詠唱はその間も続いている。意味のわからない言葉には、しかし、己に対する自戒と決意が込められているようだった。瞑目したその端正な顔の裏では一体いかなる思考が渦巻いているのだろうか。いや、いい。今は―――

 

「響、やり方を変える。まずはあのデカブツの頭を縛ってくれ」

「―――、はい」

 

ヒュドラの巨大化した頭部の上に降り立った鹿は、地面に降り立つと、再び地を蹴り突撃の準備をする。その真っ直ぐな敵意は、当然のようにエミヤの方へと向いていた。

 

「彼への攻撃を防ぐ。そのための足止めが最優先だ。ピエール。私たちの行動速度を上げろ」

「仰せの通りに」

 

ピエールがスキルを使用する。軽快な音調により吟じられた歌は、私たちの反応速度と神経を強化して、敵の速度に鹿の速度と私たちの速度が僅かながら近くなる。

 

「――――――! 」

「くるぞ! 」

 

ヒュドラが地に置いていた頭部をのたりと微かに持ちあげて、咆哮した。透明な体を持つ敵の眼球があるあたりから睥睨の視線が送られ、憎悪の意図が我々に向けられたと感じる。地面を這っている敵は、しかしその巨体さ故に、顔面を構成する要素の全ての位置は高く、我らよりも高い場所より口腔より毒液が飛び散った。

 

すでに敵の体を中心として三百メートルほどにまで広がったそれは、間違いなく引き込まれたのなら、即座に絶命してしまいそうな禍々しい気配を漂わせている。なるほど、エミヤが言っていた、世界の全てを溶かす毒液というのはあながち誇大広告ではないのだろうと直感する。見る間に広がる敵固有の領域。

 

「Unknown to Death./ただ一度の敗走もなく」

 

その死毒の領域を切り裂くかのようにエミヤの宣言が続く。己が神聖な領分を不快にも侵された敵は、その事実に怒り狂ったかのようにして、巨大な首を彼に伸ばして排除を試みた。

 

そうして部屋の天井を打ち破らんとばかりの大きさにまで巨大化した首は、もはや己の筋力では天高く持ち上げることも叶わないのか、奴は蛇が這い迫るかのように頭部を地面に数度も打ちつけながら、攻撃を仕掛けてくる。頭部の持つ巨大という概念があまりにも肥大化しすぎていて、一見して、防ぐことが不可能だと感じられてしまう。

 

「今度こそ! 」

 

そんな大なる敵の進行方向に、ピエールの歌と装備品によって身体能力と速度を強化されている響が真っ先に躍り出た。彼女は再びバッグから縺れ糸を取り出すと、解いてその進行方向に投げる。鹿は響の上げた声に一瞬反応を見せたが、援護の動きを見せなかった。

 

ヒュドラの巨大な頭の上にてそのつぶらな瞳は、一瞬だけ眼下のヒュドラの巨大な頭に視線を落とすと、忌々しげに目線を細めた。鹿の視線をヒュドラの巨体を貫通させたその先では、響という少女が攻撃体制に入っている。

 

恐らく今奴は、援護に入れないが故に不快を発露したのだろうと私は推測した。おそらく今しがた、鹿は先と同じようにして援護に入ろうと考え、しかしその直線上にある味方の巨体が邪魔をしていて援護に入り込めない事を悟り、味方のその愚行に腹を立てつつ、こちらのとった行動の小賢しきを不快に思ったのだ。

 

なるほど、その味方の動きが邪魔で援護に入れないという悩みはよくわかるとも。皮肉な事に、私も盾役だ。憎きはずの敵に不思議な共感を覚えると、自然、敵の動きから、私はさらに、鹿という存在がその速度を発揮し己が身を反射の盾として捩じ込むには、攻撃のする対象とされる対象の間に一定距離がある場合のみであると推測できた。

 

加えて一度その動きをした後は、何秒間かの間隔が必要であるとも予測できる。でなければ、奴が、ああも不安定な動く巨体という足場の上で待機している理由が見つからないからだ。

 

そうして鹿の邪魔を受けずに済んだ響の糸は、ここにきてようやくその威力を正しく意図通りに発揮する。敵の頭部に触れた糸は、すぐさま効力を発揮して、その巨大な頭に巻きついてゆく。瞬間的に大きく開いた口が閉じられて、頭部の進行の勢いが多少衰えた。

 

「Nor known to Life./ただの一度も理解されない」

 

だが、そうして縛して封じられたのは頭部が以降数秒動く事であり、それ以前に蓄えられていた奴の保有する運動量は多少の減衰を見せながらもその威力を発揮して、敵の巨体はこちらへと迫り来る。その様に、私は旧迷宮四層の番人、巨大怪鳥の突撃を幻視した。

 

「パリング! 」

 

慌ててすぐさま彼女の首根っこ引っ張って後ろに放ると、前に踊り出て、スキルを発動する。アイギスの盾の前に、薄い膜がはられ、直後、激突。口元を窄めた奴の巨大な唇が、女神の顔を嬲るように接吻をした。激突の運動量をスキルが消滅させ、巨体が眼前にて静止する。

 

盾が唇の間から、紫の煙が漏れる腐臭が漂う。同時に、ふれた場所から縺れ糸が撓み始めた。巨体に巻きついた糸の効力はすでに切れかけている事に気が付ける。仮にこの巨体がこの状態からでも動くというのなら、正直、止める手立てがない。

 

口が開き舌にでも巻き取られたら、その時点で終了だ。いや、そんな手間をかけずとも、軽く呼吸をするだけで呑み込まれるかもしれん。かといって味方が後ろにいるこの状況、盾を引いて一度体勢を立て直すのも難しい。こうして逡巡する間に鹿もやってくるかもしれん。

 

「―――どけ、ダリ! 」

 

どうする、と難問の選択を迫られ悩んでいると、眩い光が身体の背後より横を駆け抜けて、頼もしい声と共に私の懊悩をごと切り裂いた。

 

「サガ! 」

「へっ、へ、こっちからなら効くんだろうぉ! 」

 

どうやらサガも鹿の特性を見抜いていたらしく、彼はヒュドラの巨大な頭部を中心として、奴の頭上に乗る鹿と対角線になるよう位置を確保すると、先程不発に終わった核熱の術式を籠手より放っていた。私はその熱線が奴に直撃する寸前で響を抱えて離脱する。

 

直後、白光の柱が赤の空間を割いて、敵の巨大な顔の上半分を飲み込む。その際、生じた光はその場の全てに眩暈を生じさせるほど輝いて見せて、直後、爆裂。

 

「――――――! 」

 

火の術式とは違い、核熱の術式は対象と接触した瞬間、熱量を加速度的に増やして、周囲の目に見えぬ塵芥と反応し、大爆発を起こす。後方から続く光が連鎖的に反応を生み、サガに言わせれば、品のない爆発がその透明な皮膚を焼き、抉り、その内部を焦がして、ヒュドラは初めて苦しそうに身を悶えさせた。

 

「Have withstood pain to create many weapons./彼の者は常に独り、剣の丘にて勝利に酔う」

 

傷を負ったヒュドラは巨体を無理やり動かして鎌首をもたれさせると光の範囲外から離れたのを見て、サガはすぐさま術式の発動を取りやめて、放出していた光を消す。

 

照射し続ければいつまでもどこまでも爆発を起こし続ける光は、発動し続けるにはあまりに消耗が大きく、また、そうして連鎖する爆発によって生まれる土煙は視界を妨げる要因となり、巨大な敵との継戦の際には特に不利となる場合が多いからだ。

 

「―――がぁ! 」

 

そうして攻撃をやめたサガは、しかしいきなり苦痛の声を大きくあげた。苦しみ悶えるその声に驚き視線をむけると、彼の服は一切傷ついていないにもかかわらず、その体表の大部分が爛れて倒れ込んでいた。その現象に、私は心当たりがあった。すぐさま振り向いて、現象を引き起こした下手人の方を向く。

 

すると、収まりつつある灰色の煙の中から、予想通り、傷一つない鹿が現れた。風を纏いて煙を掻っ捌いて現れた鹿は、しかしその美しき金色の毛皮に灰一粒もなく、火傷の一つも負っていない存在しない状態である。おそらく、サガの起こしたその爆発の余波の炎熱を攻撃として認識し、反射という行動の糧としたのだ。

 

「サガ! 」

 

彼の悲鳴により異常を知覚した響が手に持っていた薄緑色の剣を投げ出して、慌てて叫びながらメディカⅲを使用した。瞬間的に普段より眩い大量の光の粒子が彼の体を覆い、次の瞬間には、サガの体を元の状態に戻す。サガは、すぐさま現状を認識したらしく、その負けん気を十二分に発揮して起き上がると、響に礼を言って、前を向く。

 

「ピエール、属性防御」

 

私の指示に、返事もなく、ピエールが属性防御の歌、聖なる守護の舞曲を歌う。体の皮膚を鈍色の物理防御壁と、赤青黄の三つの混合が、しかし混じり合わないまま我々の体を覆い、優しく包み込む。

 

あの反射の仕組みが如何なるものかは知らないし、核熱の術式は無色の力故、やつに直撃し反射された場合はその限り出ないだろうが、少なくとも余波による炎熱の傷や細かい傷はこれで多少軽減できるはずだ。

 

二の轍は踏んでやる気はない。

 

やがてサガの起こした爆発の煙が収まる事、ヒュドラは、その透明な双眸に、しかし怒りの感情を確かに携えながら、こちらを睥睨して、大きく咆哮した。巨大な身を大きく揺るがしての蠕動は、発生というよりも、衝撃波に近いものとなり、周囲の全てにその憤怒を分け与えた。壁に揺籃された大地と空気が撹拌され、肌と足元より奴の憎悪が伝わってくる。

 

そうして怒りに身を震えさせる奴は恐るべき事に、サガがつけた核熱と余波の傷の大半を再生していた。天地を揺るがす咆哮とともに、敵の毒領域が一気に広がる。もはや我らの五十メートル先の足元までが死の色に染まっていた。

 

「エミヤ、まだか! 」

 

サガが叫んだ。焦燥の声を聞いて、エミヤはしかし何も答えず、瞑目したまま続ける。

 

「Yet,those hands will never hold anything./故に、その生涯に意味はなく」

 

詠唱を続ける彼に焦燥の様子はない。彼は外界からの情報を完全に断ち切っていた。己という強敵との戦闘中、その存在をまるきり無視して己の内面に立ち篭る彼のその姿に腹を立てたのか、ヒュドラがエミヤに現実を教えてやろうかとするかのように、巨大な頭部を振り下ろした。口の端から漏れる毒の領域が宙までを侵し、尾を引きながら、彼に迫る。

 

同時に、着地し硬直の様子を見せていたのだろう鹿がその縛りから解き放たれ、四肢で地面を軽く蹴ってみせた。脚線美に満ちた細い四つ足が伸びるその先の胴体では、すでに筋繊維が隆起しており、力がこめられているのが理解できる。

 

「エミヤさん! 」

 

次に瞬きした間、敵はエミヤに向かって殺意を叩きつけるだろうその絶体絶命の危機を感じ取った響が叫ぶ。掠れるほど大なる悲鳴が響いたと思った次の瞬間、敵二体の意思が結果に反映されるその前に、彼はもう一節の言葉を発声した。

 

「So as I pray,unlimited blades works./その体は、きっと剣で出来ていた」

 

エミヤが呼応するかのように宣言。そして赤い牡丹雪と紫毒雨の降る、龍が吼え、金鹿駆け回る、死の気配に満ちた世界は一瞬にして瓦解し、新たな光景へと変貌した。

 

 

茜色の空。地平の彼方に浮かぶ巨大な歯車。世界の端まで続く剣の突き立つ荒野。他人の正義と願いを抱えてに、ただただ無意味に生涯を走り抜けた、贋作たる英霊エミヤと言う存在のもつ、唯一真作と呼べる、しかし皮肉の象徴のような宝具。

 

禁忌の大魔術、固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。

 

地面に突き立つ剣は、その全てが、私が生涯において一目見た際、この世界に登録され生まれ落ちた贋作に過ぎず、しかしこの世界においては真作に等しい存在である。

 

とはいえ、ただ剣を登録し贋作を生み出すだけなら、ただただ剣を無限にコピーし保管する世界を作り上げるというに過ぎなかったチンケで大業なだけの魔術は、生前と死後、私が、多くの英霊が集う神話世界をも含む戦場を渡り歩いてきたことで、聖剣、宝剣、魔剣等の、かつての人間世界におけるほぼ全ての伝説の武器を内包する、まさに大魔術と呼ぶにふさわしい奇跡となっていた。

 

しかして、世界を己の心象風景にて書き変える大魔術を、その、かつての世界に生きた多くの人の願いが込められた希望と絶望の力を借り受けて贋作として再現し、宝具本来の所有者当人すら、真なるものと勘違いせしめるほどの再現をして見せる、いかにも他人の想いを借りなければ所詮は空っぽの自らの心を見せ付けなければならないこの不遜な大魔術を、私は好ましく思っていない。

 

だからこそ、出し渋っていたわけだがともあれ、己の心象風景にて世界の一定範囲を書き換える魔術は、「異邦人」の全員と敵意を露わにする番人、その全てを飲み込んでいた。己の変化無き事の象徴を無言で眺めていると、空間に満ちる威と圧に呑まれたかのように、全員が動きを止めている事に気が付ける。

 

さて、何を思っているのかは知らないが、そんな彼らには目もくれず、私はただ、久方ぶりに使用した己の世界を、ようやく自らの目で見渡した。瞼を開ければ、以前と変わらぬ景色が広がるこの心象世界を見て、私は落胆する。

 

―――ああ

 

変わらない。変わろうと決心しようが、負の感情を食われようが、知人の死に立ち会おうが、世界の真相を知ろうが、この光景は今も昔も何一つ変わっていない。

 

生の気配がまるでない生命の変化を拒むかのごとき一面枯れ果てた野も、荒野に犠牲にしてきた人を偲ぶ墓標の如く並ぶ剣群も、正義の味方になりきれず、されとて諦めきれない慚愧の境地にあることを示すかのような後悔色の黄昏空も、その空の中で必死に正義の味方として寸分狂い無く行動する機械たらんとの心がけを象徴するような歯車も、何一つ、昔のままだ。

 

―――ああ……、どんなに変化の決意をしても、やはりまるで、この風景は変わらない

 

残念の言葉を内心にて呟くとともに、周囲を一瞥して静かに目を閉じた。胸に到来する無念と寂寞と荒涼の思いに呼応して、荒野に一つの疾風が吹き抜ける。風に含まれる微熱の正体は、おそらく諦めきれない情念の証だろう。

 

感傷は一瞬。胸の裡に生じた切なきを薄れさせるかの如く大きく息を吸い込むと、到来した風に載せるかのようにして思いごと世界に言葉を生む。

 

「―――、これが私のもつ切り札。固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。己の心象風景であるこの世界において、私は文字通り、世界の支配者となる」

 

宣言に意味はない。詳しく説明してやる義理もない。ただ、これから死出の旅路に向かう敵に対して、己にトドメをさす魔術の名前くらいは教えてやってもいいかな、と思ったが故の、発言だった。

 

「――――――」

 

無言で片手をあげる。呼応して荒野より数百本もの剣が宙に浮かび、ヒュドラとケリュネイアの鹿の周囲だけが空白となる。地面より姿を表した刀身には、けれど土に塗れておらず、全ての刃先にも刀身にも、一切の曇りが見当たらない。そうして磨き上げられた裸身を晒す剣の群れは、次の命令を待って、宙に浮いていた。

 

「―――さて」

 

告げる。そのたった一言で、二匹の獣は止まっていた時を取り戻した。ヒュドラは首を振り下ろし、鹿は今度こそ力を発揮せんと、もう一度四肢に力を込めようと前傾姿勢を取ろうとする。恐らくは体当たりにてこの世界の主人たる私をぶちのめそうという魂胆だろう。

 

「―――では始めようか」

 

だが当然させない。私は瞬時に世界へと号令をかけて、鹿の周囲に棒を生み出す。柄なく反りなく刃なく。地面より逆しまに生えてきた単なる直線的な棒は、敵を傷つけることを目的としない、単なる棒切れであり、だからこそ、この場面においてはとても有効だ。

 

「――――――! 」

 

その棒切れを鹿の周囲に寸分なく配置する。単に囲いを作るのではなく、その優美な四肢の足元より一切の挙動を封じるべくグルグルと一部を体に沿わせ、その上で棒の側面を地面に差し込んだまま生み出し、体の線を覆ってゆく。一瞬の時すら経過しない間に、敵は棒により全身を固定されて、針金細工のような有様となった。

 

「いかに素晴らしい挙動と反射能力があろうが、マイクロ単位で挙動を制限してやれば、その身体能力は生かしきれまい」

 

敵はそれでも動こうと、体にぴったりと張り付く檻の中で、足掻き出す。鹿の皮膚が針金を押すたび、私の体において該当しているのだろう箇所が押されたむず痒き感覚を覚えるが、それだけだった。全身のどこかが常に押されるだけの感覚など、こそばゆいばかりでまるで脅威などではない。

 

―――ふむ?

 

と思ったのもつかの間、身体中のこそばゆさが瞬時に消えてゆく。棒に囲まれた内部の気配を探ってみれば、鹿の姿は跡形もなく消えて消滅していた。私は瞬時に理解する。

 

―――なるほど、捕縛されれば消える、か

 

どうやら鹿は、伝承の通り、一度捉えてしまえば、その無敵に近い能力を喪失し消滅するようだった。魔術もスキルも、基本は等価交換だ。さてはその不傷の伝承を再現しようとしたあまり、そうした己の不利になる特性まで再現せざるを得なかったのだろうと予測する。

 

そうして消えた奴の行き先が、果たしてアルテミスのもとなのか、はたまた魔のモノと呼ばれる存在のもとなのかは知らないが、一つの厄介ごとを消してまずは一息ついた。

 

―――これで鹿は無効化できた。後は……

 

見渡すと、鹿とともに時間を取り戻したヒュドラは、鹿が消える予想外に呆然としたのか、巨体の動きを止めていた。味方の消滅にしかし気を取り直した奴がもう一度その巨体を振りかぶると、その大なる首を振り下ろす。私はその透明な巨鉄槌をゆるりと見上げると、紫の死毒を口の端より尾を引かせながら迫る敵の重撃を、宙に出現させていた剣で迎撃した。

 

「――――――! 」

「チェックだ」

 

宙より射出された数百の剣が一つとなった敵の喉腹に突き刺さり、ヒュドラの首はその巨体が空中で動きを止めた。巨体の持つ質と重き質量の単体は、無数の剣群が持つ軽き軽量の群れと激突し、そこに秘められた正負のスカラー量の天秤が釣り合った結果である。

 

透明を貫いて体内に減り込んだ剣によりその場に縫いとめられた龍は、しかし攻撃を諦めず、力を込めた。突き刺さった停止の状態は解除され、敵の持つ力と位置エネルギーを伴った大質量の攻撃が頭上より降り注ごうとする。

 

その足掻きを、再び空中に出現させた多量の剣の突撃により防いで見せると、敵の堅牢な皮膚の防御を突き破った場所から紫色の毒液が空中より垂れ落ちた。遅れて、赤い血液が紫に混じって、紫檀色の液体が地面に滴れる。いかなる原理なのかは知らんが、向こう側すら見通せる体内のその中にはきちんと内臓や器官があるようだった。

 

ついでのように、傷口の一部から炎が漏れて、敵が自らの攻撃にて己の体内を焼いたのを見て、おそらく目の前の奴がラドンと呼ばれる怪物の特性も備えていると推測する。先の予測が正しければ、ヒュドラは炎に弱くなくてはならない。それを覆すために、おそらくラドンの特性を混ぜたのだ。

 

とはいえ、血縁の結びつきがあろうと、弱点を打ち消すにはヒュドラという規格外の力が優れすぎていて、せいぜい外皮に耐火の能力を有するのが限界だったのだろう。

 

ともあれ、この場にてやつが炎を用いなかったのは、周囲に散る細かい粉塵に反応して爆発が生じ、己が攻撃により体内より焼かれるのを恐れたのか、あるいはその広がる火炎と爆発の威力が鹿の反射により己が身へと降りかかり、自身が傷つくのを恐れたのかは知らんが、とにかくその透明の向こう側に、やはり中身があると言うのなら、話は早い。

 

「―――後、数手か」

 

勝利までの手筋の数を見直して、右手を振り上げる。ヒュドラの周辺の中空に再び現れる剣群は、その群れた剣の全ての刀身が、敵を切り殺すに最も適した、いわゆる西洋剣の太くたくましい形をしていた。伝承によれば、ヒュドラは全ての首を叩き落としてその傷口を焼いた後、不老不死の核となる部分に岩を乗せたことで退治されたと言う。

 

―――ならば、まずは素っ首を叩き落としてやるのが順当と言うものだろう

 

「―――」

 

無言で手刀を振り下ろすと、浮いた剣が宙を進軍。空を裂き、透明な首の背から侵入を果たした無機物たる剣は、全ての生物を殺すと称される毒など気にも止めず、血も肉も骨も神経も、その毒を発する器官を断ち切って、喉元に突き刺さった剣とかち合いながら反対側へと抜けてゆく。

 

「―――、――――――、―――、――――――――! 」

 

ヒュドラは喉元に異物が入り込んでくるその違和感に悶え、絶え絶えに息と悲鳴と毒と血液を撒き散らしながらその痛みから逃れようとして長い首に力を込めて動かそうとするが、しかし全方向より飛びかかってくる剣の群にて宙に動きを固定されてまともに動けない。

 

そんな奴の苦痛を逃れる逃避の願いを込めた行動は、その真摯の悲願とは裏腹に、己の肉が削れて死地への邁進を促す手助けとなってしまう。奴の透明な顔に、初めて絶望の色が塗りたくられたのが見えた。

 

「―――、―――」

 

そうして十秒ほどもそうして首元へ死刑執行ためにの鋭い刃を叩きつけていると、千切れつつあった肉が己が巨体の重さを支えきれなくなり、自然と首が大きく二分されてゆく。千切れた肉の破片とともに荒野の地面へと落ちる寸前になったのを見て、私は悟った。

 

―――これでチェックメイト

 

「サガ! 」

「――――――、え」

 

声を上げると、呆けた声が返ってきた。戦闘の最中であるのに、あまりにも気の抜けたその声に思わず視線を向けると、逃げの体勢を取ったまま固まっている彼と目があった。その弛緩具合から察するに、どうやら彼はこの世界が姿を現した時から、ただただ呆けていたらしかった。

 

「奴の首が落ちる! 直後、露わになる傷口に向けてフォーススキルをぶち込め! 」

「あ、ああ! 」

 

指示を出すと、さすがは一流の冒険者、呆けていたサガはすぐさま意識を正しく取り戻して、己の体内にて溜め込んでいた力を解放するべく、機械籠手を展開させて準備を始める。

 

籠手の外装が剥がれて露わになった内装の、その展開した円扇より伸びた五指の線が交わる場所に白光玉が生まれ、その大きさを増してゆく。準備にかかる時間はおよそ十秒と言っていた。ならばその間に、最後の一仕事の準備を終えておかねばならない。

 

「―――」

 

もはや呪文の詠唱など必要ない。己の心象たるこの世界では、私が思うだけでこの世界に在る全ての武器は我が意のままに操れる。そうして思った瞬間、現れたのは、使い慣れたいつものカーボン製の黒塗り洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」、だ。

 

私は矢を弓に番えると、鏃の狙いを定めるべく、正面を向きなおす。

 

「―――! 」

 

すると敵の瞳が私を捉えた。その透明な瞳には、予定外の事態を驚く気持ちと、自らをこんな目に合わせる敵に対する憎悪とが綯い交ぜにした気持ちが如実に現れていた。

 

―――はっ

 

「許さんときたか。いや、全く、さすがは最もヘラクレスの生涯に深く関与した獣は、プライドが高い。いや、その誇り高さ、見習いたいくらいだよ、全く」

 

吐き捨てると、敵の視線が強まる。その末期の一瞥を見届けると、敵の首は剣が待ち針の如く刺さった部分から見事に折れて地面へと落下を開始する。伝承によれば、ヒュドラは首を落とした後傷口を焼き、そして核となる部分を巨岩の下に敷く事で、無力化できるという。

 

―――だから

 

「サガ! 」

「おう! くらえ、超核熱の術式! 」

 

サガの咆哮共に、彼の手の前で直径一メートルほどにもなっていた球の形が崩れる。楕円はやがて潰れて生まれた平面より白柱を放出して、直進した光線が瞬時にヒュドラの体を包み込む。破壊の力を浴びた透明な肉を形作る液体は、瞬時のうちに反応し己の体を焼くエネルギーとなり、次の瞬間には蒸発してゆく。

 

落ちた首の断面の毒と液体とが熱によって焼成と気化とを繰り返し、灰と紫色の噴煙を周囲に撒き散らした。やがて十秒ほどしてサガのフォーススキルがその発動を終え、それにより引き起こされた毒々しい二色の煙が消えた時、渦巻く煙の隙間に、透明な敵の体の中に、核と思わしき物体が微かに目に映る。その一瞬で十分だった。

 

―――これでトドメだ

 

「―――偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ! 」

 

固有結界を解除すると同時に、過去、いつか時、墓地で大英雄の命を一つ屠った一撃をヒュドラの頭上めがけて放つ。手持ちの武器の中で最も貫通力の在るその改良型宝具は、竜巻の如き暴威周囲に振りまいて煙を引き裂いて突き進むと、迷宮の天井へと侵入した。

 

宝具により天井の削岩が進み、時の止まったような状態の砂土に減り込んで行く。刹那ののちに十分を認識すると、同時に放った幻想めがけてその威力の発散を命じた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

天井に穿たれた点より、噴煙が吹き出る。直後、点より広がった線が歪な円の亀裂が生じさせ、点と点がぶつかり合った瞬間、空間の断裂は時間にまで影響を及ぼして、平らなはずの天井の一部に段差が生じた。

 

「――――――! 」

 

もはや肉体の異常を感じ取れぬはずの断たれたヒュドラの首が、そのあり得ぬ光景を見て吠える。繋がっていない肉体の末路を拒んでの咆哮は、雄叫びを上げ続ける空気が足りず、すぐさま無音となり、音の発する機能を失った喉元は無意味に蠕動するだけの肉の塊に成り果てた。

 

「―――、くるぞ、備えろ!」

 

私は直後の光景を想定して、皆に注意を促した。一様に唖然とした顔を見せる一同の中で、すぐさま反応してみせたのは、ダリだ。彼はすぐさま私の叫んだ言葉の意味を理解したらしく、慌てて盾を前に構えてくれた。素晴らしい反応だ。

 

直後、天井に生じた段差はすぐさま大なるものへとなり、切り取られた大地、すなわち巨岩塊が重力の勢いを味方につけ、宙に浮いていたヒュドラの体とあっという間に接触すると、その巨体で敵を押しつぶさんと下の大地へ向かい、そして噴煙切り裂き落着した。

 

「―――ッ、大河を堰き止めるに相応の巨岩が必要なのは道理だが、これは流石に……! 」

 

自らが作った巨岩が大地に及ぼした影響は予想よりもずっと大きく、接地の際に生じた衝撃は迷宮の地面を数十センチも上下させる程の振動を生み、我々の体どころか世界樹の大地を大きく揺るがした。

 

同時に、破砕と衝突により生じた暴風により巻き上がった赤の土煙が、紫の毒の色など瞬時に吹き飛ばして、大小のカケラとなった石くれ、岩石が周囲に飛散する。

 

「うぉおおおおおおい、なんだぁああああ!」

「きゃあああああああ!」

「いやぁ、この事態は予想していませんでしたねぇ……!」

 

この光景を想定して踏ん張った私とダリはともかく、他の三人は迷宮の天井を破砕すると言う禁じ手を易々と行った暴挙に驚いた時から変わらぬ状態だったため、振動に耐えることができずに、地面に両手両足を踏ん張って、なんとかへばりついるような状態で悲鳴と文句を紡いでいる。また、この期に及んで楽器を離さないピエールの執念を、無駄に感心した。

 

「出来るだけ寄れよ! フルガード! 」

 

三人の近くに寄っていたダリは、味方がスキル「フルガード」の射程圏内にいることを確認すると、迷わずそれを発動した。光が周囲の味方に降り注ぎ、ダリは仲間を全ての攻撃からカバーする盾となる。私もその恩恵を受けるべく、踏ん張っていた足の方向を彼の方へと向けて、跳躍。

 

が。

 

「―――しまっ……! 」

 

揺れと暴風により多少の着地予定ポイントがずれ、あやうく彼のスキル範囲外に吹っ飛びかける。しかし次の瞬間、その事態を見こしてだろう、彼が差し出してくれていた槍の穂先が煙を切り裂いて体の横を抜けて行く。

 

私がその指標をしっかりと捕まえると、かかった過重に反応して彼が私を引き寄せ、そして私は無事にそのスキルの中に収まると同時に、彼は穂先を地面に突き刺して自らの体の固定を強固にした。

 

「助かった……、感謝する……! 」

「礼はいい……。が、無茶と馬鹿をやりすぎだ! あとで一発殴らせろ……! 」

「は……! 」

 

彼にしては珍しく激情を伴った殴打の許可を求める宣言に、ニヤリと笑って承諾の返事を返してやると、彼はそれを心底不愉快そうに背中で受け取りながら前方からやってくる全ての障害を防ぐべく、槍の穂先を地面に突き刺して完全に防御の体勢へと移行した。

 

周囲に颶風と礫と岩石の暴力が舞う中、眼前にて防御を一身に引き受ける彼の姿は、まさしくパラディンの名に恥じぬ素晴らしき堅牢の象徴のように見えた。

 

 

「や、ったのか」

「おそらくヒュドラは、な……」

 

やがて彼の守りが解けて土の煙が晴れた頃、先程フォーススキルをぶっ放したサガは、未だに周囲の光景を気にしながら、呆然と問う。私はその感情のない言葉に一応の同意を返しながら、しかし、心中には敵を倒したという確信があった。その中で考える。

 

―――さて、これで残るは

 

記憶の中で伝承を漁る。これで十二の試練のうち、十。残るは二つ。後は―――

 

噴煙が揺らぐ。ちり、と全身に熱を伴う痛みが走った。違和感は即座に直感に異常を訴え、瞬間的に体が戦闘体勢へと移行する。やがて脳内の記録の中よりその存在を思い出せたのと、敵がその噴煙の中より姿を現したのは同時だった。

 

三つ首に、黒い体躯。三叉にわかれたその姿が、黒百合が斃れた姿を想像させる、麗しさの中にも恐怖を含んだ姿は、プラトンによればそれぞれの首が保存、再生、霊化を表し死後、魂が辿る順序を示すという獣は、まさしく地獄の代名詞と呼ぶに相応しい外見をしていた。

 

ケルベロス! 」

 

叫ぶと同時に双剣を容易。その両手に握り、真っ直ぐ直進するやつを切り裂こうとする。だが剣を握った途端、全身を刷毛で撫ぜられるかのようなくすぐったさを感じ、瞬時にその行為を中断する。

 

―――まて、伝承によれば確かケルベロス

 

「ハデスにより殺傷を禁じられている……! 」

 

慌て直進する獣を捉えようと、再び鹿を捕縛した棒を生み出し、その全身を覆ってやろうと試みる。しかし、鹿の時とは違い、固有結界下にない状態での投影という行為は、通常世界に現出するまでの間に微かな一瞬の隙が生まれてしまう。また、先の鹿とは違い、すでに最大の速度での挙動を許しているというその差異が、その後の結果に大きな違いを呼んだ。

 

「―――ッ! 」

 

投影により生まれた棒が奴の体と接した瞬間、頭部と肩部に殴打の痛みが走る。棒と敵がぶつかった部分のダメージがフィードバックしてこちらへと帰ってきたのだ。その衝撃は凄まじく、全身を巨大なハンマーで殴られたかのような痛みに、私は思わずよろめく。

 

「――――――!」

「――――くぉっ! 」

 

次の瞬間、跳躍した敵は私の肩を押して上にのしかかり、その三つある口の牙を全て私に向けてくる。瞬時にその三つの口の撃を防げるほどの巨大なダリの盾を彼我の間に投影して、なんとかその三撃を防いだ。

 

「―――ちぃっ……! 」

 

高い金属音が鳴り響く。金属の盾の向こうでは、獣が憎々しげに特有の獣臭と腐敗臭を漂わせながら、牙をかち鳴らして、こちらの喉元を噛み切ろうと、盾の隙間に口をねじ込んで来ようとする。

 

「小汚い口を近づけないでもらいたいものだがな……! 」

「エミヤ! 」

 

悪態を着くと、ダリが叫びながら近寄り援護に入ろうとする。彼は私の投影した盾を見て、一瞬驚いて見せたが、瞬時に知識の採集などよりも現状の打破を優先して、その獣に体当たりをかます。だが。

 

「がぁ! 」

「いかん! こいつに手を出すな! こいつは鹿と同じく、攻撃を反射する! 」

 

ダリはケルベロスに攻撃を仕掛けた瞬間、それ以上の勢いで元来た方向へと吹き飛ぶ。忠告が荒野に吹き荒れる風に乗って全員の耳に届いた頃、私は必死に現状を打破すべく、ケルベロスの伝承を思い出していた。

 

―――思い出せ。何がいい。伝承だと、どうやってヘラクレスはこの試練を乗り越えた

 

伝承では、ハデスに生け捕りのみを許可されたヘラクレスは、素手でその首を絞めて太陽の元に引きずり出したという。記憶の中にあるあの鉛色をした巨体の大英雄なら、確かに己の肉体に反射のダメージがあろうと、平然と無視してそんな偉業をやってのけるのかもしれないが、あいにく彼のような丸太のような腕脚と、巨木のような鋼の体を持たない私には、そんな剛勇ぶりを発揮するなど、到底真似できそうもない。

 

「――――――、――――――、―――! 」

「く……そ……」

 

考えている間に、盾が押し込まれる。盾にこめた必死の抵抗の力はそのまま、私の方へと跳ね返り、いつもの倍以上の速度で私の肉体は疲労してゆく。固有結界という世界を書き変える大技の反動で魔力は空っぽに近く、強化魔術の限界時間もすぐそこまで迫っている。

 

「ダリ……!? お、おい、エミヤどうすりゃいいんだよ! 」

 

吹き飛んだダリの側に寄って、彼の体を起こしたサガが、こちらに言葉を投げかけてきた。

 

「反射する……って、あ、あれ? さっきの眩しい鹿は? 」

 

反射という言葉でその存在を思い出したのか、サガが状況にそぐわない間抜けな声を漏らし、煙の散る周囲を見渡した。すぐさま失せた煙の中に、目当ての獣がいないことを確認すると、一層困惑して、見渡しては、こちらの様子を伺ってとを繰り返す。

 

「―――くっ、くくっ……」

 

その、戦闘とは似つかわしくない様があまりにおかしく、危機的状況であるにもかかわらず、私は思わず失笑を漏らしてしまう。瞬間、ぶれた視線の先、煙の晴れた広間に黄昏色の光が広がった。

 

見覚えのある明かりに、思わず目がそちらを向く。迷宮を照らす光は戦闘直前と違い、すでに暗く部屋の片隅を照らすばかりだった。途端、盾を揺らす衝撃が少しだけ軽くなる。

 

違和感に眼前の獣を見やると、目の前の障害を無視して私が別の場所に視線を向けたのが気になったのか、ケルベロスの三つの首のうち、一つが私と同じ方を向いていた。そうして太陽の光を見つけた獣は、闇色の瞳の中に嫌悪の感情を露わにして、睨め付けている。

 

そして私は天啓を得た。

 

―――太陽の光か……!

 

確かヘラクレスは、首を締め上げた状態で、ケルベロスを太陽の元へと連れ出した。する途端、奴は悶え苦しんだというそれは打倒、殺傷の伝承ではなかったが、今この無敵の獣に通じる唯一の手段であるように思われた。

 

―――だがどうする……!

 

ケルベロスに押し倒された現状、あの太陽の光が照りつける場所まで奴を引きずり出す手段が思いつかない。運動エネルギーの反射を行うという無敵の鎧を纏った猛獣を、縛り付けて首根っこ引きずるための鎖を私は持ち合わせていなかったのだ。

 

ケルベロスは一向に力を弱めないまま私を地面に抑えつけ、己を追い込んだ下手人を食い散らかそうと臭い口を開閉して牙を鳴らし、盾の向こうで歯を鳴らす。敵は余裕の態度だった。敵は己の絶対的優位を知って、動こうとはしていない。

 

そうして奴の吐く吐息に、唾液が混じった。途端、投影品の縦にヒビが入り、そこから植物の球根のような根が伸びてくる。信じがたいことに、その植物は金属の盾の上に発芽し、分厚い金属をかち割って、根っこをその金属板の中に伸ばしたのだ。

 

―――植物……!? なんだ、なんの―――

 

ヒビの入った盾の向こう側に、紫色の烏帽子が見えた。かつての日本の貴族が被っていた折れた冠に似た紫色の花を持つ植物といえば、思い当たるものは一つしかない。

 

―――トリカブト

 

そうか、そういえば太陽に当たって悶え苦しんだケルベロスの唾液が地面に触れた瞬間、そこから生えた植物がトリカブトになったとい伝説があった。記憶の続きが現実で再現された事実に思わず舌打ちをする。

 

―――くそ、こんな隠し球を持っていたのか……!

 

そうこうしている間にも盾は植物によって次々とその領域の侵攻を受けていた。盾という特性ゆえか、ある程度の傷が入っても投影品のそれは崩れて消えはしないが、それでももう、半分以上は植物により役目をはたせない状態に陥っている。おそらくはあと十数秒も持たないだろう。

 

そして盾が砕けたあと、再投影する時間がないのは、先のケルベロスという魔物が見せた速さから考えても明らかだ。かといってこの攻防を繰り広げている最中、投影という余計な工程に意識を割けば、その時点で私の喉元にその牙は突き立てられるだろう。

 

唾液が即効性の効力を持つ猛毒の植物を生むとわかった今、即座に引き剥がしたところで、牙を突き立てられた場所からそれが発芽し、根を張り、体内に侵食する。猛毒の根が体内に根を張ってしまえば、毒を防ぐアクセサリーがあったとしても高確率で死は免れまい。

 

そうこうしている間に、部屋の隅を照らす希望の光は失せてゆく。絶望の闇は周囲に広まりつつあり、夜はすぐ背後にまで迫っていた。この時私は、やがて時計の長針が一つ二つ進む間にあの光が完全に失せてしまう事を悟りながら、しかし何もできずにいた。

 

―――絶体絶命か……!

 

この時点で、私たちは詰みに近い。倒すには太陽の光が必要であるだろうに、数百メートル離れた部屋の隅に落ち込む光が失せかけている今、もはや倒すには、そこから千、二千メートルに上空の大地に足を運んで、直接光を当てるしかない。

 

しかし敵は攻撃を反射するのだ。それが拘束であってもその力を反射する相手を、どうやれば地上まで運べるというのだ。まさか大英雄のように、いく日もかけて洞穴をひたすら逆走してやれとでもいうのか。

 

―――そんなところまで伝承通りにしなくとも良かろうに……!

 

悪態を吐くも、状況は変わらない。押し迫る敵は、その絶対的優位を知って自分を嬲っている。例え己の身を捕らえたところで、倒す手段がないと知っているのだ。その愉悦を多分に含んだ憎たらしい表情を見たとき、思わず言峰綺礼という男のことを思い出した。

 

―――なるほど、ここまで奴の筋書き通りか……!

 

おそらく奴は、私が鹿やヒュドラという相手に固有結界を使用することを読んでいた。そうしてどうにかしてヒュドラを倒し、鹿を捕縛し、そうして精魂疲れ果てたところで、本命の獣を登場させる。

 

獣を登場させるタイミングが今であるのも、奴の思惑通り出る気がした。そうして、やった、倒した、と安堵したところに、討伐の手段がない獣を送り込み、一転して最高の状況から絶望の底に叩きこむ手腕は、なるほど、人が何をすれば一番嫌がるかを驚くほど正確に読み取る奴だからこその手練れの嫌がらせだで。

 

―――本当に、あの、言峰綺礼という男はどこまでも性格が捻じ曲がっている……!

 

「エミヤ、どうすればいいんだよ! 」

「……! 」

 

近くでサガが叫んでいる。ダリはこちらの様子を観察したまま手が出せずに戸惑い、ただ見に徹している。何とかしようとはしているが、心底手出しができずに悔やんでいるのが、彼の巨体が起こす憤怒の発露の揺れから見てとれた。

 

「弱点は……、恐らく、太陽だ……! そこまで連れて行けば、悶え苦しむはず……! 」

「た、太陽って……ここでかぁ!? 」

 

解決手段を求めての言葉に答えをやると、サガが頓狂な声をあげて天井を見上げた。口をぽかんと開けて間延びした声をあげたのは、策として提案された手段があまりにも非現実的だったからだろう。

 

―――私だってそう思うとも

 

などと考える間にも、獣の口が迫っていた。その勢いは先ほどのものよりも強く素早くなっている。おそらく己の弱点を露わにされたことで怒ったのだろう、怒気にその勢いを増す三つ口を防ぐ盾をどかそうと、龍頭のついた尾っぽまでを動員して敵は一枚盾の向こう側で暴れている。

 

私がそうして盾で敵の行動を阻害する抵抗すら反射の対象とみなされているようで、先程からもう両手ともに掌の感覚は殆ど残っていない。もう後数十秒も持たない。

 

「エミヤ、太陽が弱点なんだな? 」

「―――ああ! ダリ、どうにかできるのか! 」

 

聞くと彼は静かに頷いて、響の方を見た。彼の視線の先にいる、ピエールとともに戦況をお見守っていた彼女の方へと向けられた。私は彼の視線を見て、ここにくる際、直前に使用したアイテムの存在を思い出した。

 

「携帯磁軸か! 」

 

必死の叫びが一帯に木霊し、彼女の小さな体がびくりと震えた。

 

 

「携帯磁軸か! 」

 

深みのある重低音の叫び声が周囲に鳴り響いた。その声に、あまりの非現実的な光景に停止していた思考が再稼働を果たす。

 

―――携帯磁軸……?

 

「響! 」

 

ダリが叫んだ。白紙の思考とは裏腹に、体が勝手に低い声に反応して上下する。

 

「響! 磁軸だ! 携帯磁軸を使ってくれ! 」

「じ、磁軸を? 」

 

いきなりすぎる提案に、思わず聞き返してしまう。

 

―――何を言っているのだ。なんでこの戦闘の非常事態の際に、そんなことをいきなり言い出すのだ。だって、そんな、できるわけがないだろう? 携帯磁軸は。

 

「だ、だめです! 携帯磁軸の設置は安全な場所でないと! 」

 

そう、携帯磁軸は設置場所が厳密に決められている。層の出入り口の、衛兵が見張っている場所。それ以外に設置した場合は、設置した人間と、所属する団体に厳しい罰則が与えられるのだ。

 

「ましてやここは、番人部屋ですよ!? 」

「その番人を倒すための手段がそれしかないから言っている! 」

 

ダリはこちらに近寄ってくると、声を荒げて言った。常に冷静を基本とする彼の顔には珍しく焦燥の色が混じっていて、まさに必死、という体で両肩を強く掴んでくる。痛みを振り払うように彼の手を払いのけると、悲鳴を上げるかのように叫んだ。

 

「じ、磁軸でどうやって倒すんですか!? 」

「わからんがエミヤが言うには太陽の光が弱点らしく、ここでは倒せないというんだ! 」

 

ダリは叫ぶと私のバッグの方へと目線を向けた。あの中には、彼のいう携帯磁軸が入っている。もしも彼が自分で使えたのなら、迷わず使用していただろうと思わせるその視線には、必死以外の余分な感情はなくて、真剣さだけが彼の中を占めていた。けれど。

 

「わ、わからない……、らしく、って……」

 

返ってきたあやふやさを含む答えに躊躇する。携帯磁軸の規定場所以外での使用は、無断での土を掘削するレベルの禁則事項だ。

 

迷宮を故意に破損させたという現状、ただでさえ、危うい立場の私たちが、番人の部屋で、それも戦闘中に使用すれば間違いなく私は追放を免れないし、おそらく所持ギルドの彼らも、それと協力したエミヤも追放を間違いなく同じ処分を受けるだろう。

 

―――そうなれば、私たちは二度とエトリアの土地を踏むことができなくなる

 

いや、あるいはそれ以上の罪が―――つまりは処刑の判決が私たちに下されるかもしれない。死を命ぜられた罪人になるかもという怖気が、全身を貫いた。犯罪者と可能性の未来を恐れて体が震える頼りない全身を支えてくれる止まり木を探して周囲を見渡すと、今まさに敵に食い殺されそうなエミヤの姿が目に映った。

 

いつも傍若無人なくらいに自信満々で、でも実際にそうするだけの強さと頭の良さを兼ね備えて、先程などは破天荒にも、世界というものを変貌させて、そして平然と禁忌を破ってみせた彼は、しかし今、弱々しくけれど必至に抗っていた。

 

そうして迫り来る敵の牙をなんとか避けている彼の姿を見て、私は初めてエミヤが一人で平然となんでもこなせる超越者なんてものでなく、私と同じ人間であることに気付かされた。彼もまた私と変わらぬ人で、今私の力を必要としてくれている人なのだ。場違いで不謹慎ながらも、私は今更ながらに気づいたその事実が嬉しいと感じた。

 

「響! 」

 

私の躊躇を煩わしいと言わんばかりに、ダリが叫ぶ。彼は心底怒っていて願っていた。そんな彼の態度も、私に罪を犯す決意を促すための材料となる。

 

「―――わかりました! 」

 

そして私はエミヤがいう、今後を賭けるにはあまりに不確定すぎる、倒せる「らしい」という言葉を、素直に信じることにした。よくよく考えてみれば、エトリアを追放されるから、死刑になるかもだからなんだというのだ。

 

―――そうだ。どうせエトリアにほとんど未練なんてない

 

父母は死んでしまったし、いつものみんなとヘイ以外の知り合いは赤死病を恐れてだろう、最近まで店に寄ろうともしないかった。いまじゃ私の知り合いは「異邦人」のみんなと、ヘイとエミヤとヘイだけだ。

 

仮に追放されて店を畳むことになっても、他でやっていけるだけの経験と技量も付いている。それに死ぬかもなんて、嫌という程味わった感覚だ。そうだ、追放も死ぬこともまるで怖くない。なにより―――

 

―――シンが生きていたら、彼らを救うために迷わず掟などは無視しただろうから

 

胸を締め付けられる思いに浸るのも一瞬。そうして天秤の針は記憶に浮かんだ彼の意志に導かれ、片側に振り切った。カバンに手を突っ込むと、必要と言われる装置を取り出す。

 

携帯磁軸。迷宮の内外の移動を可能とする、一部の許可が降りている人間にしか利用する事のできない本当に特殊な道具。設置や使い方自体はとても簡単だ。縦横五十センチの四角い箱の蓋を適切な方法に則って解き放ってやれば、収められた機材が自動的にその場に磁軸を生み出してくれる。

 

ただし、樹海磁軸が登録した人間が移動の意志を示した場合にしか起動しないそれと違って、この簡易的な装置は、起動させた際、一定範囲内にいる生物と、その生物が身につけている物を全て巻き込んでの転移を引き起こす。

 

勿論使い方次第ではとても便利利なのだが、仮に悪意を持った人物が悪用した場合、例えば、己らの手に負えない魔物を石碑の前に送り込むという事も可能なそれは、あまりに危険すぎるということで、執政院ラーダの初代院長ヴィズルが使用を厳しく制限されていた。

 

そして今、私たちは、そのヴィズル元院長が危惧した通りの使い方をしようとしている。

 

「それだ! 響、早く! 」

「エミヤがもうもたねぇ! 」

 

ダリに急かされて視線を彼に向けると、エミヤは必死でダリの盾―――の複製品?―――を使ってその攻撃を防いでいる。だが、彼がそうして三つ首の獣の攻撃を抑えていられる時間も、もう限界だ。

 

彼の盾には涎が垂れ落ちた部分から、植物が生えて、半分以上の部分に茎と根が絡まっている。よく見てみれば、それは附子と呼ばれる、猛毒の植物であることまで見て取れた。

 

道具屋の娘である私は、当然その危険性はよく知っている。シンの意志と、エミヤの危機と、植物の危険性は合わさることで、私のぼやっとしていた頭を高速で再起動させる。

 

慌ててバッグを持ち直すと、磁軸を持ったまま、エミヤと敵から少し離れた場所に携帯磁軸の蓋を取り外し、多少弄って地面に設置した。途端、内部の仕掛けが飛び出して、瞬時にその性能を発揮しようと作動する。

 

「十秒ほどで転移します! 必要な持ち物は身につけておいてください!」

 

装置がみせたいつもの所作に、お決まりの台詞が口から飛び出る。そんな暇などないのがわかっていながらも、身についた習慣というものはふと出てしまうものだな、と呑気に思う。己の言葉に反応して見渡せばダリもサガもピエールも装置に目線を向け、そして必死のエミヤも、多分はその装置に意識を向けているのがわかった。

 

―――あ

 

彼らの動きにつられて周囲を見渡すと、先の振動でこちらの方まできたのか、先程サガの治療の際、放り出してしまった刀「薄緑」が近くに転がっていることに気がついた。幸運に感謝しつつ、慌てて刀の元へと駆けつけ、その軽い刀を拾いあげると、再び転移の範囲内へ戻るために振り返る。

 

すると獣は私と同様に、あるいは私の動きによって周囲を見渡そうという気になったのか、エミヤにのしかかっていたケルベロスは、一つの首で周囲の三人をそれぞれ一瞥して彼らの意識の先を確認すると、意地悪く口角を上にあげて嫌らしい笑みを浮かべ、エミヤを抑え付けていた体をのそりと動かした。嫌な予感。全身に悪寒が走った。

 

―――まずい

 

「―――おい、なんかやべぇぞ……! あいつ、どこを見てやがる」

「あれはこちらではなく―――、いけない、ダリ! 装置を守って! 」

 

―――なんて迂闊をやらかしてしまったんだろう……!

 

そうしてケルベロスは、転移装置に向けて疾走の準備をし、そして駆け出そうと試みる。初速こそ遅いが、その速度だと、数秒もしないうちに装置へとたどり着くだろう。

 

「ダリ! 」

「任せろ! パリング! 」

 

そうしてダリは装置と犬との間に立ちふさがり、スキルを発動させた。どのような物理攻撃も数回は防ぐ光の粒子が彼の盾を覆い、その効力の発揮の時を待つ。私も慌てて装置に近づくべく、呼吸をやめて限界以上の速度を出した。

 

「―――っ。ぐぅ」

「ダリ! 」

 

ダリの呻き声とピエールの叫び声。前傾姿勢からすこしだけ顔を上げて声の方を見ると、ケルベロスの三つ首の攻撃を防御のスキルで防いだ彼は、しかし、その後の奴が動く事を防ぐことができずに押し倒されていた。

 

おそらくは、ケルベロスの反射によって、奴の突進の勢いを押し付けられたのだ。獣が憎々しげに唸り、その際に飛び散った涎が彼の盾にかかり、戦いの中も清廉の雰囲気を保っていた盾に亀裂が生じた。直後、破損。

 

これでもう守りの力を発揮するのは不可能だ。しかし、そんなダリの献身の甲斐あって、三秒ほどは稼げている。見た感じ装置の軌道まであと五秒ほど。それだけの時間があれば、装置は起動するはずだが―――

 

「ダメだ、間に合わねぇ」

 

サガが叫んだ。ケルベロスはすでに押し倒したダリの体の前で装置に飛びかかるべく、力をその黒々とした逞しき四肢に溜めている。そう、その通りだ。このままでは間に合わない。

 

五秒という時間があれば、携帯磁軸が起動する前に奴は間違いなく装置に到達する。起動前に破損の不具合があれば、もちろん転移は起こらない。そうすれば、私たちの負けは確定だ。

 

すると私はもちろん、彼らは死ぬ。そう、まるでシンのように―――

 

「―――! 」

 

気がつくと私は限界を超えた走りのさらに限界を超えて、手にした「薄緑」を振りかぶっていた。その足先は、迷うことなく装置の前に向かっている。すでに最高速に達しているこの体なら、奴が装置と接触する前に、装置とダリの間に体を滑り込ませる事が可能だろう。

 

「―――響!? 」

「いかん、だれか彼女を止めろ! 」

 

ピエールが驚きの声を上げ、ケルベロスの後ろで立ち上がり、そいつの行動を止めるためにだろう、体勢を整えていたエミヤが大きく叫んだ。多分、私の意図に気がついたんだと思う。

 

ケルベロスは奴の背後から発せられたエミヤの声を聞いた瞬間、その三つの口を大きく開けながら、装置に向かって駆け出した。だが、一度ダリにその勢いを止められているため、先程までの速さは奴にない。

 

―――大丈夫だ、間に合う

 

冷静な理性は熱さを保つ感情と協力して、私の体は今までにないくらい最高の状態を保ってくれている。このままいけば、奴の口が装置に触れる前に、この体を装置の前に持っていくことが可能なはずだ。そうすれば、ダリのようにスキルは無くとも、血飛沫と捩じ込んだ体は多少の時間を稼ぐことができるだろう。それで十分、装置は起動してくれるはずだ。

 

反射をする相手に対して迷わず刀を振りかぶれたのは―――、多分、シンだったらこうしたのだろうと思ったからだと思う。

 

今の私と同じように、彼がどのような恐ろしい敵にだって、自分のため、ひいては仲間のために迷わず突っ込んでいくのを私はすぐ近くで見ていたからこそ、同じように剣を振りかぶって、恐ろしい敵との間に身をねじ込ませる覚悟ができたのだ。

 

敵が磁軸と接するまであと二秒。限界以上の速度での全力疾走をしていた私は、奴と装置との間に体をねじ込ませた。飛び込んだ瞬間、右足を先に地面につけて、遅れてついた左足にもその衝撃を分担させてやり、両足で地面をしっかりと踏みしめる。

 

一秒。瞬時に肩口を占めて、左の肩を前に出す。奴が跳躍の姿勢をとった。その身を縮こめて次の瞬間には全力で飛びかかってくるだろう。私は迷わず振り上げた刀をさらに振りかぶった。

 

零秒。奴は飛びかかる寸前、その対象を確認すべく前を向いた。六つの瞳が機材の前にいた私に向けられ、奴は地面スレスレから私を注視する。その睨め付ける視線には、愚か者を見下す視線が含まれていて、少しばかり腹が立った。

 

―――反射の鎧を纏った相手に攻撃をしようとするなんて、愚かな奴

 

そんな、こちらを見下す考えが読み取れた。だが知った事か。時間さえ稼げれば、お前の負けだ。私は迷わず刀を振り下ろしてやろうと、真っ直ぐその漆黒の瞳を見つめて両手に力を込めた。少しでも時間が稼げればいい。

 

反射に体が切れて、そして血飛沫が舞って、それが目くらましにでもなれば、装置が動くまでの一秒くらいは稼げるかもしれない。

 

そんな、私にしては似つかわしくない決死の覚悟を決めて、奴の嘲笑に真正面からの視線を返してやると、私と視線があった瞬間、驚くことに奴はその場で跳躍の動きを一瞬だけ躊躇って、停止してみせた。

 

私の動作の中に奴の苦手とする成分が含まれていたのだろうか、奴の瞳からはこちらに対する嫌悪の感情が見て取れる。何が原因かはわからないが、止まってくれたのだ。文句はない。これで転移装置は間違いなく作動する時間は稼げただろう。

 

だが―――

 

「―――よせっ! 」

 

エミヤがこちらに手を差し出して叫んだ時、私はすでに奴に向けて全力で刀を振り下ろしている最中だった。わずかな時間だけ足止めた代償を踏み倒すにはもう遅い。奴の動きを少しでも止めようと振りかぶった両腕に溜めてあった力はすでに解放されている。

 

この剣の軌跡だと、間違いなく、敵の首元に剣はその刀身を吸い込まれるだろう。そして首元への攻撃がそのまま反射されるとすれば、それはおそらく―――

 

―――あぁ、死んじゃうのか、私

 

直前に起こった意外な出来事は決死の覚悟など霧散させていて、私はいつもの思考を取り戻していた。研鑽を重ねて鋭くなった己の振り下ろした一撃は、皮肉な事に間違いなく私の首くらいなら軽くすっ飛ばす威力を秘めているのがわかった。

 

―――最後の死に方がこれとは、なんともしまらないなぁ

 

馬鹿げた死に様だと思ったけれど、不思議なことにまるで恐怖はなかった。最初に旧迷宮の四層に潜った時は、凄く死ぬのが怖くて、何度も泣いたけど、何もわからなかったあの時とは違って、今、私は私の意思で、こうして自分で決めて死に向かっている。

 

だからだろうか、私は、自らの手で自らの人生に幕を下ろそうとしているのに、まるで恐怖というものが心に湧いてこなかった。これは私が強くなった証なのだろうか。それともあるいは、シンのように、仲間を守って死んでゆけるという思いが心中の不安を麻痺させたからなのだろうか。

 

―――ああ、あの人も、こんな気持ちだったのかな

 

そんなことを考えながら刀を振り下ろす。さなか、後ろにあった転移装置は直ちに作動してみせて、私たちは敵ごと光の中に包み込まれていった。

 

 

夜を間近に控えた黄昏時。一面を雲の絨毯が覆い尽くし、一条の光すら帳より落ちてこない空の下、エトリアより一時間ほど歩いた郊外にあるこの染め上がれた紅の森林地帯は、以前ほどではないにしろ、確かな賑わいを見せていた。通常なら多くとも十人から十五人程度の冒険者しかいないその場所には、今、百に近い数の冒険者が押し寄せている。

 

冒険者たちの多くは手練れの雰囲気を漂わせていたが、同時に、迷宮の深部へと探索の足を延ばし一線級として活躍する彼らとはまた別の、ギラギラとした屍肉を貪る獣のような空気を纏っているものも多かった。

 

そうして死地に赴く覚悟よりも、好奇心や射幸心、義務感の様なものを優先して心の裡に抱え込んだ彼らの正体は、番人討伐という面倒を避けて、誰よりも先に深部階層を探索してやろうと企んでいる、所謂、屍肉を漁るような連中だ。

 

最近に至るまで一層すら攻略されることなく謎とされていた迷宮も、三層までが完全攻略され、四層も現在のところ、残すは番人がいるだろう状態になっている。そして現在、件の番人の層もアタックをかけられている最中だ。

 

攻略を試みているのは、新迷宮の番人どもを悉く駆逐してきた二つのギルドの同盟軍だ。ならば、この度も当然番人を討伐して帰ってくるに違いないと信じた輩が、今、新迷宮の周りには多くうろついているというわけだ。

 

彼らが番人討伐を終えて帰ってきた途端、彼らに先んじて五層へと足を踏み入れてやろうと企んでいる。そうして一足早く彼らが帰ってきた瞬間、あるいは、糸を使って戻ってきたよとの連絡が入った瞬間、我先に入ってやろうと考えているのだ。

 

「―――ん?」

 

卑の属性を帯びた緊張感が辺りに満ちる中、異変に気がついたのは、珍しくも正しく己の実力を発揮するため迷宮に挑まんとしているギルドの冒険者だった。彼は四層への冒険を控え、後数分もすれば石碑を使用して迷宮にゆくという状況だったが故に、石碑が淡い光を発していることに気がついたのだ。それは誰かが戻ってくる合図だった。

 

彼がそれに気がついたことを皮切りに、周囲にいた人間もその変化に気づき、少し遅れて兵士たちが一定の区画への出入りを制限する。転移し戻ってくる人間との接触を防ぐためだ。

 

やがて淡い光は通常よりも濃い光を発して、周囲に白光りをばら撒く。この通常よりも明るい光は、樹海磁軸ではなく、携帯磁軸が利用された証だ。加えて、今現在、新迷宮において携帯磁軸の登録許可が下りているグループは数少なく、現在アタックをかけているのは、たった二組のみ。すなわちギルド「正義の味方」と「異邦人」の二つのみである。

 

つまりこの目をつぶさんばかりの眩い光は、番人討伐に出向いていた彼らが戻ってくるという証であり、同時に彼らが番人討伐を終えて戻ってくるという証明に他ならないはずなのだ。その事実を悟った辺りの人間が勇者の帰還を察知して緊張に身を固め、周囲を支配する緊張感が濃くなる。

 

そんな周囲を取り巻く欲望の霧を払うようにして、光の密度も、うんと濃さを増してゆく。

 

やがてそうして石碑の光が収まる直前、隔離された空間の中に現れたのは、まず地獄の奥より響いてくるような獣の唸り声と、必死の怒号だった。遅れて地面を叩くと金属の砕け擦れる音が聞こえ、光の幕が上がった先に、信じがたい光景が彼らの目に飛び込んだ。

 

それは人を三人ほども束ねた胴回りを持つ巨大な三つ首の獣だった。周囲にある生きる者全てが呪われてあれと憎々しげなに声を上げるその魔獣は、全身の機能の全てを一心に利用して、小さな少女を食い殺さんと飛びかかっていた。

 

対立する少女は、今まさにその獣めがけて剣を振り下ろそうとしている。区画の中、周囲に散らばる他の四人の面子は、それぞれに驚愕と絶望の表情を浮かべて彼女の行動を止めようとする挙動を見せている。

 

しかし、そんな彼らの制止も虚しく、決意を秘めた薄緑の波紋美しい刀は見事な所作で振り下ろされ、そして、遠心力の乗った切っ先が体当たりをしかける獣の鼻先を見事に捉えた。

 

そうして獣の体を纏う漆黒と刀の緑光が接触を果たした次の瞬間、見事に刃先は獣の鼻先に切り傷をつけたが、直後、体当たりを仕掛けてくる獣の勢いと少女の振り下ろした刀自身に込められた少女の膂力と伴われた遠心力の勢いに負けて、甲高い音をたてて鍔元からポキリと折れてしまう。

 

やがて勢いのままに獣と少女は激突。少女は左の肩当を用いて咄嗟の防御体制をとったが、体の薄い少女は巨体の突進に耐えられず、数秒ほども地面と水平に吹き飛ばされると、樹木の幹へと叩きつけられる。激突の際骨が折れ血肉に刺さる音が不気味なほど周囲に響き渡った。

 

やがて獣が唸り声をあげた途端、襲いかかってきた現実が一帯を通り抜けて、隔離された空間以外の止まっていた時間を動かした。空の雲間から時計の針の如き鋭き光がその空間を照らして、眩さに遅れて怒号が舞う。

 

「―――ま、魔物だ! 」

「逃げろ! 」

 

押すも引くもできない大混乱。我先にその悍ましい姿の敵から遠ざかろうと、有象無象の衆が離散する。騒ぎが拡大する中、その中心部にいる獣と対峙する彼らの動きに異変が起こっていた。

 

冒険者の一人を軽々と吹き飛ばし優位を確保したはずの獣が、身悶えだしたのだ。獣は全周囲にあるその全てが己の苦痛を齎すのだといわんばかりに身を捩り、捻り、悶え、苦しむ。吹き飛ばされた少女は、伏した状態でなんとか上半身だけを起こして見せると、獣の苦悶を見た瞬間、少女に似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべて、血を吐きながらも言ってのけた。

 

「ざまあみろ……!」

 

気がつくと、空の雲は何処かへと姿を隠していて、切れ間から太陽の光が周囲を黄昏色に染め上げている。やがてその光が再び雲間に消える前に、硬直していた彼らの時は完全に再起動を果たしていた。

 

 

白い光の輝きが私たちを包み込んだかと思った次の瞬間、飛び込んできたのは世界樹の深層に満ちている霞がかった偽りの光が散乱する光景ではなく、同じ様に赤の着色が広がる中、しかし雲の繚乱する黄昏の天と、赤光が裾野の遠くまでを支配する光景だ。

 

そうして出現した澄んだ空気と絢爛な陽光により、私は転移の成功を確信する。と同時に、飛び込んできた五感の変化は戦闘の現状をすぐさま把握させて、私は慌てて迫る激突の場面へと目を向ける。

 

そうして視覚が二者を捉えるのと、彼らの接触は同時だった。彼女の振り下ろした刀は彼女の予定外に獣の鼻先に切り傷を生じさせ、次の瞬間、そうして獣に傷跡を刻みこんだ彼女はケルベロスの体当たりを受けて吹き飛んだ。

 

「響! 」

 

―――よくやってくれた……!

 

声では心配の言葉を叫びながら、しかしそうして彼女がやられながらも反撃の一撃を加えた光景を眺め、私は己の思惑の正しさと、我らの勝利を確信した。太陽の元に引きずり出された冥府の番犬は、見事にその反射の力を失っていたのだ。

 

かくて領分を超えた事で冥界の加護を失った魔獣は、薄緑色の刃を見に受けた瞬間、己の身に起こった不幸を察した様で、一瞬の戸惑いを見せたのち、太陽神の怒りを一身に受けて苦痛を全身で味わう事となる。

 

ギリシャ神話において残酷と称される太陽神の恵みたる陽光は、なるほど奴にとっては伝承通りの残酷さを存分に発揮して、魔獣は金の一矢の元に即死させてもらう事も出来ずに、その身を触れて哀れにも飛び回り、身を悶えさせて苦しみを周囲に訴えていた。

 

地獄の番犬はそうして身体中を反する属性の光に焼かれながらも、しかし死ぬ事が出来ずに苦しんでいる。おそらくは魔獣らしく超回復能力か不死性でも備えているのだろう、奴の体は焼かれ燻り皮膚が剥ける端から、次々と新たな皮膚が生まれえては、黒く焦げたそれが垢の如く落ちて、周囲に黒塵をばら撒いていた。

 

今まで我らを苦しめてきた敵にかける情けなどないのが当然と思いながらも、そうして灼熱の痛みに苦しむケルベロスを哀れにも思い、思わず眉をひそめた。同時に遠くから小さな声がソプラノボイスが耳朶を打つ。

 

「ざまあみろ……! 」

 

そのあどけない声色とは裏腹に、心底、奴のその様はひどいものではなく、当たりまえの報いを受けているのだという残酷な感情を多分に含む台詞を聞いて、私は即座にあの獣を仕留めて介錯してやろうという気分になった。それは苦痛に悶える獣への情けではなく、あの年若い少女に憎悪の仮面は似合わないと判断しての行動だった。

 

「―――投影開始/トレース・オン」

 

そうして私が不死の特性を持つ獣を処刑する道具として自然と投影したのは、ハルペーという鎌の宝具だった。ギルガメッシュの宝物庫に収められていたそれは、ケルベロスと起源を同じくして、ギリシャ神話においてペルセウスメデューサという女怪を葬り去る際に使用した、「屈折延命」の効力を持つ神剣……の贋作だ。

 

かつてケルベロスと近しい親族を屠るならこれ以上ない剣を投影した私は、しかし、そうやって神造兵装を大した反動もなしに容易く投影してみせた己の所業に驚き、自ら投影した品を見つめ直した。

 

―――これほどの格を持つ剣をこうもあっけなく投影できるとは、どういう理屈だ

 

長柄の先にくの字に折れ曲がった刃がついた、鎌とも剣とも区別のつけにくいそれは、刃先から内側に入ったものの命を枯れ草のように摘まみ取る冷淡な光を携えて、妖艶に光を放っている。

 

そうして内側から醸し出された気品と風格は、名を高らかに叫び使用してやれば、伝承の通りの効果を発揮するだろう気配を伴っていて、此度の投影が姿形ばかりを真似た張りぼてのそれではない事を告げている。

 

真作、というには内包する神秘と輝きがちと足りないが、かといって贋作と断ずるには、神剣が持つ奇跡の成分は真に迫り過ぎている。神々と呼ばれるような超越者達のみが生み出せる輝きは、通常、己の使用する投影魔術ではなし得ないものだった。

 

私の使用する投影魔術とは、あくまで真作の代替たる贋作を作り出す魔術。その魔術は、矛盾を嫌う世界の特性上、真作と同一のものを作り上げるのは不可能とされている。

 

それは通常の世に生み出されてから数分で霞の如く投溶けて消える投影魔術とは違い、魔力の続く限り永久に残る事という特性を持つ、投影魔術の中でも異端、異常、異様と称される私のそれも例外ではない。

 

材質構成から内包する歴史に至るまでがまるで同一のものが同じ時間軸において同時に存在するという矛盾を世界は許さない。そのため、投影魔術において架空のそれを現実に持ち込むためには、世界からの修正を避けるため、真作と異なる証明のために必ず劣化か改良かの道を選ばねばならぬのが、常である。

 

そうして、世に数多存在する単なる一振りの剣でしかないものにすら、そうやって細かすぎるほどの気を配らなくては存在を許容しない狭量の持ち主たる世界が、ましてやその己自身たる世界のあり方すらを変革しうる神造兵装の投影などを認めるはずはない。

 

それに何より、このような人の手以外にて作り上げられた、それ自体が一個の神格を保有するような宝具、私は自滅覚悟でもなければ投影が出来ないはずである。しかし今、その伝説上に置いて不死殺しを体現する神具は、確かにこの手の中で鋭利に、己の存在は現実のものであると、声高らかに主張していた。

 

―――いったいどうして……

 

己の魔術によって生み出しされた神造兵装を前に、私はしばし呆然とする。やがてそうして彼方にいた意識をこちらの側に引き戻したのは、男達の叫び声だった。

 

「エミヤ! 何をしている! 早くトドメを! 」

「エミヤ! 」

 

ダリとサガの声が響き渡る。重低音と中音の二つに正気を取り戻した私は、慌てずその矢を投影した弓に番え、曲がった刃の峰を悶える敵に向けた。その刃先は常とは異なる使用方法を拒否するかのように、地面を捉えて離さない。

 

その、出来る事なら同郷の出身者を害したくはないとでもいうようなささやかな抵抗を踏みにじって、私は弦を思い切り引き、極限の状態にまで到達させる。引き絞られた細い糸は、カーボン製の西洋弓の剛性の弾性限界を試すかのように、キリキリと横溢して解放の時を待っていた。

 

やがて狙いを暴れまわる獣の心の臓あたりに定めて細かく位置を調整していると、雲間より山の端に身を隠しつつあった太陽の残光が、ケルベロスの姿を一層明るく照らした。残照は勢いを止め、燐光に変わりつつある。この日が途切れる前にこの一矢で奴を仕留めねば、この場にいる全ての人間が餌食となってしまう。

 

外せない理由が明確化したことにより、覚悟は完全に決まった。彼と我。赤に染まった世界はその二つだけの成分となり、時の流れすらも排して狙いを定める手が止まる。あとは弦と剣の関係を断ち切り、名を叫べば、動作は完了する。

 

「不死身殺しの鎌/ハルペー! 」

 

息を吸い、必殺の意思を込めて言葉と共に放たれた神造兵装の魔弾は、赤紫を纏う銀矢となりて真っ直ぐに進み、悶える獣の胴体を直撃した。下向きに放たれた刃は獣の体を貫通すると、その鏃たる鎌の峰が地面に突き刺さるのを抵抗して、鎌の柄は獣の体を通り抜けきらず、その場に縫い止めるに終わる。

 

しかし、そうして抵抗を受けながらも奴の体を通り抜けた刃は、たしかに臓器の最大重要部分、すなわち心の臓府をごと貫いていて、全身に血液を送る機能を潰された獣は、その代わりと言わんばかりに、溢れんばかりの血潮を貫通部分より地面へと垂れ落として、ハルペーによって宙に固定されているケルベロスの体の下に血の海を生成する。

 

直後、そうして毒々しい色を撒き散らす赤潮から、烏帽子が天を目指して生えてきた。陽の光と血潮を浴びて赤紫色に映える植物は、神族の一員たる己が高貴さを誇るかのように高貴の色を高らかに主張して、ケルベロスの体を覆い尽くし、奴の死を彩った。

 

やがてすぐさま稜線よりの残照も途切れ、アポロンがアルテミスに出番の時を譲る頃、死闘の跡地には、戦士達の健闘を讃えるかのように、紫色の花畑がそこには生まれていた。

 

天空に輝く月の光を浴びて輝くトリカブトは、藤色の柔らかさに似た穏和さを周囲に散らしていて、その場にいる誰もが息を飲む。地獄の門番がその死と引き換えに出現させた花畑は、しばしの間、戦いに疲れた私たちを慰めるかのように、静かに夜の闇に咲き誇っていた。

 

 

天に広がる星々が辺りを彩りはじめた頃、そんな夜花見の中、命の花散る末期の別れの時を破って無粋にもいち早く動いたのは、私でなく、仲間四人の誰でもない、兵士たちだった。

 

彼は我らと番人の間にある関係などまるで知らぬとばかり、無遠慮に突き進むと、五人それぞれの前に立ち、手に持った鋭い刃先を我々に突きつけて、告げる。

 

「―――、魔物を連れての転移は、重大な規約違反です。例えどのような理由があろうと、見逃す訳には参りません。―――ご同行願います。どうぞ無駄な抵抗は致しませぬよう、よろしくお願いします」

 

兵士たちは丁寧に言うと、夜の闇の中で刃先をこちらに向けて淡々とした態度で、我らの反応を待っていた。私はそんな彼らの規律違反者に対する敵対の態度に、この善性を基本の軸とする世界においてもきちんと法が敷かれ機能しているのだという証明を見つけて、なんとも場違いなことに、頼もしさを感じていた。

 

―――さて、どうなることやら

 

私は両手にはめられた手錠の感触を確かめながら、せめて彼らの無実だけでも証明してやらねばならぬと思い、空を眺めた。天に近い場所に輝く夜空は、雲一つなくなっている。そうして浮かぶ月だけが目立つ夜空の向こうにエトリアの街の灯を見つけて、私はいつぞや彼女と共に駆け抜けた運命の夜を思い出す。

 

私は静かに物思いにふけるとともに、今だ騒動を知らぬ街は月が天の頂に達しないうちにこの度騒がしくなるだろうことを予測して、私は、如何にすれば冒険者の元締めたる彼に無謬性のある説明ができるかと、疲労の溜まった頭を働かせるはめになった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

終了