うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 Unlimited Future 〜 長い凪の終わりに 〜 第二話 理想を目指し、未知を行く

世界樹の迷宮 Unlimited Future 〜 長い凪の終わりに 〜

第二話 理想を目指し、未知を行く

満月が浮かんだ夜は、あの夜を思い出す。
伽藍堂の炉に火が入った、静かな始まりの日のことを。

 

 

 

抜けるような蒼天の下、川の支流の如く伸びた道を遡って辿って行けば、盆地の中央を横断して流れる川を中心に、外側へと向かって切り開かれた街が目に入る。川を中心として円に広がっている人の街の領域以外は鬱蒼とした森林が山の端の方まで広がっており、この街がおそらくは森林地帯を切り開いて作られただろうことが予測できた。

森の街は、鮮やかに存在を主張する孔雀緑の切妻屋根と白漆喰が目立つ東欧風の街並みをしており、いかにも異国情緒に満ちている。また、川を挟んで二つに分かれた街を橋で繋ぐ様は、かつての故郷冬木を思い起こさせ、私は少しばかり郷愁に駆られる気分を得た。

まぁ、とはいえこの場所は冬木のように海と近くない。海辺の町であった冬木は、日中海から冷たい風が流れ込んできて、冬になるとそれこそ肌を切り裂くような冷たい風が襲いかかってきたものだが、盆地であるこの場所にはそれがない。盆地の中央に位置する街に向かうごとに風は弱まっていって、ただ身を凍えさせるような肌寒さだけがそこにある。

とはいえ、太陽の角度から察するに春愁のどちらかだろうに、この身の芯まで冷え込む寒さは異常だ。これでは冬の季節にどれほどの寒さになるのか、考えただけでも恐ろしい。などと詮無きことを考えていると、そろそろ太陽が山の端に姿を近づけて、身を隠す準備を始めている。大気層に反射されにくい長いが波が周囲を茜色に染めて闇が訪れる前にやるべき事をやらねばならない。

―――まずは観察と情報収集が必要か

街の様子を詳しく探るべく、眼球と関連する筋肉、そして血液に強化の魔術を叩き込む。眼球の持つ「見る」という概念の強化に伴い、機能が強化され、視界は軽く十キロは離れた街の石畳の数を数えられようになる。それだけ聞くと便利に聞こえるかもしれない。だが決してそんなことはない。強化と言うものはその対象となる箇所に魔力を込めるほど機能が上がる特性上、その分、操作に繊細さが必要となる基本ながら厄介な魔術である。

例えば眼球の場合、僅かに一度程度動かすだけで視点が十数メートルはすっ飛んで行く。そうなれば元見ていた場所に視線を合わせるのに縮めていた視界を広げて、もう一度、元の場所を確認し、再びピントを合わせるなんて面倒が必要になる。そんな面倒を体験しないためにも、肝心なのは最初である。集中し、ミスがないようにじっくりとしかし手早く意識と視界を絞り、焦点を全景から区画、広場、路地へと移し、人の様子を観察する。

街は中心部へ近づくにつれ、人数が増えて行く。行き交う人々はシャツとパンツ、あるいはスカートの上に厚い外套を纏ったものが大半だ。宗教の匂いを感じさせる町の外見に反して、宗教の規律の匂いがする格好をしたものは見当たらない。いやそれどころか。

―――なんだ、あの頓狂な格好は

街中では私の持つ常識では考えられない格好をした人間が多く闊歩していた。

分厚い鉄鋼のプレートを着込み一人位ならを完全に覆い隠すほど巨大な金属盾を背負う男性の側には、レザーボンテージを纏い、鞭を腰に携えた水商売風の女性がいる。彼らの前を人の頭ほどもある巨大な近未来的なフォルムの機械籠手を片手に装着した少年が横切ったと思えば、その後ろに服としての機能を放棄したとしか思えぬ一枚の布切れを頭から被り胸と股間の一部をかくしているだけの痴女然とした少女や、サラシと腰履き、肩当だけを身につけて日本刀を腰に携える女が堂々と続いていた。羞恥心をどこかに置き忘れたかのような、見ているだけで、あちこち寒くなりそうな格好は、私の鋼の心をもたいそう驚かせた。

二十世紀あたりの感性を持つ私からすれば一見して異常に思えるそんな格好の彼らだが、しかしこの時代ではまるで珍しいものではないようであり、街は布の採寸を一桁間違えたかのような格好の人間であふれている。はたしていったい、どのような文化の歩みと収奪を辿れば、自由に過ぎる服装で闊歩してやろうと思える文化が花開くというのだろうか。

「……ん?」

自らの持つ常識とはかけ離れた光景に驚き、人々の服装に目を滑らせながら真人類たる彼らがどのような歴史を歩んだのだろうかと考察していた時だ。衣服の衝撃など彼方へと吹き飛ばすような異常が、強化した視界を通して脳裏に飛び込んできていた。

「……、いや、まて、なんだ、それは」

視線の先に映るのは、一民家の窓から覗ける調理場とエプロンをつけた女性の調理姿だ。彼女は、一枚肉をフライパンに敷くと、ボウルに入った透明な液体をひっかけ、そして、当たり前のように虚空より火を生み出して、ストーブの内部に放り込んでいた。

何もない場所から火を起こす程度なら私はあまり驚かなかっただろう。例えば魔術で同様の現象を起こすならは、アンザスのルーンを刻むだの、四大属性や五行の法に則った手順をふむ事で再現できる。

また、魔術なんぞ使わずとも、ちょっと器用な者であるなら、発火や着火のための道具を人から見えないように隠し持ったり体内に埋め込んだりしてやれば、まるで虚空から突然出現したかのように見せることだって可能だろう。いわゆる手品というやつだ。

ただ、どちらにせよそれらは、意識的に行われる行動なのだ。しかし彼女は、どこまでも自然な動作で、呼吸をするかのように、ものを取ろうと腕を伸ばすかのように、日常の動作の延長上の作業として自然に火を生み出して、使用した。

意識的な行動を無意識レベルまで落とし込めて日常行う動作のごとく落とし込めてやる事も不可能ではないが、実現するためには気が遠くなるほどの訓練や、あるいは生まれ持った才能が必要となる。特殊な才能を持つ人間などそうは生まれないことを考えると、おそらくは、彼女のその異常は訓練によって身につけたと考えるのが普通だ。

しかし私にはどうしても、大した身のこなしをみせない彼女がそのような経験を積んでいるようには見えないのだ。フライパンを握る彼女の姿は、どこまでも普通で、どこまでも当たり前で、どこまでも平凡だった。

となれば、結論は一つだ。恐るべきことに虚空より火を起こす程度の出来事は、彼女が持ち得る才能により引き起こされた現象で、彼女にとって日常の出来事なのだ。無より有を生み出すという奇跡をまるで自然と行って見せる彼女は、まるで魔法使いの様だ。

無から有を生み出す。己の脳裏に浮かんだ言葉に引っかかりを覚え首をひねると、自在に操る凛の手紙に魔力も魔術回路も無しで、世界に現象を引き起こす真人類たる存在が現れたと書いていた事を思い出した。ああ、彼らがそれなのか、と嫌が応にも納得させられる。

驚愕の最中にも調理は続いていた。火を放り込んだのち、しばらく炉の中を眺めていた彼女は、満足げな表情で扉を閉める。彼女はフライパンを天板に固定すると、もう片方の手で、鍋を取り出し、先程と同様に虚空より氷を生み出すと鍋の中にぶち込んだ。そして、檻を鍋の取っ手を握ると、何処よりか取り出したサングラスをかけて真剣な表情で鍋を注視する。

すると、鍋が赤みを帯びた白光を発した。突然飛び込んできた予想外の光に、私は思わず目を瞑り視線をそらした。瞳孔の収縮が収まった頃、苦労してピントの外れた目を調整して、再び視線を彼女の部屋に合わせると、サングラスを外した彼女は鍋を放置して、菜箸で肉を抑えつけながら薪ストーブの天板に置かれていた材料の入ったフライパンを弄っていた。

鍋はどうしたと見てやれば、鍋の中では液体がグツグツと湯気を上げて煮えたぎっているのがわかる。その現象が意味する所を考えて、私は何度目になるかわからない驚きを得た。

―――まさか今の一瞬で氷を溶かし液体にした上で、沸騰までさせたというのか?

呆然とする中で、彼女の動作に目線を移してやると、手元のフライパンのなかでは肉は煙を出しながら血の気を失い、あっという間に赤身は変色して茶色になってゆく。これもまた私を驚かせた。肉が焼けるのが早すぎる。天板に穴がない事から察するに、彼女の使用しているストーブは、天板に伝わる余熱のみで調理を行うタイプなのだろう。

余熱を利用するタイプのかまどで調理が可能ではあったのは確かだが、それにしては熱の伝播が早すぎる。ストーブの熱効率で、あの速度が達成できると思えない。

火を放り込んだということは、おそらくストーブは薪を必要とするタイプ。その利点は、ゆっくりと時間をかけて熱を伝えられる事だ。あの速度で肉が焼けてしまうと、肉全体に熱が伝わりきらず、余計な焦げや味ムラが生じてしまう……ああ、いや、違うそうではない。見た目も味もひとまずどうでも良い。相当混乱している。ひとまず落ち着かねば。

努めて冷静を保つべく、意識を手元から彼女の周囲へと拡散させる。現象の起こった所と別の場所の観察をした所で原理を知らぬ出来事の謎が解ける訳ではないのだが、そんなことが考えられないほど、やはり私は混乱していた。

精神の動揺は体に影響を与え、瞳孔を大小させる。少し酔った感覚。ようやく、己の体の異常に気がつく。いかん。この程度で驚くな、死ぬわけでもない。努めて落ち着けと己に呼びかけて冷静を取り戻させると、外れてしまったピントと視界を彼女の部屋に合わせてやる。

そうしてもう一度調理を行なっていた彼女の部屋を覗けた時、彼女はフライパンの取っ手を握って部屋の奥へと消えてゆくところだった。彼女が去ったのち、フライパンのあった場所に目をやると、天板の下部には太く短い金属コイルが幾重にも輪を作っているのが見えた。私は納得した。肉の焼ける速度が早い理由はここにあったのだ。

あれは薪ストーブの天板に電気コンロだかを取り付けた、いわば火と電気を使って加熱を行うハイブリットストーブなのだ。フライパンにはかまどの炎熱と電気コイルから生じる熱が二重に伝導していたがゆえ、あれだけの早さで肉は焼成し、鍋は巻きつけられたコイルに熱が発生したから、発光現象が起こったのだ

とはいえ、熱を伝える天板と伝えられる側のフライパンとの設置面積が減れば、その分熱の伝導する面積も減ってしまうし、鍋の方も、金属の劣化や疲労が激しそうだ。適切な温度と電気量の管理ができていなければ余計に熱の伝導効率が悪くなり、結局、消費エネルギーあたりに使用できる量が低くなりそうに思えるが、どうなのだろう。

……ん?

―――電気。そうだ、金属の抵抗を用いて熱を生じさせるなら、電気が必要なはずだ。

ここで不自然に気づく。見たところ部屋に電気の通る線はなく、鍋や天板に電気を送るための配線が見当たらない。だが実際、電気を利用すると思わしき作りの製品がそこにある。そこで私はこう結論付ける。つまり彼女は、火や氷と同様に、虚空より電気を、それも相当量の電気エネルギーを瞬時に、そして継続して生み出すことができるのだ。

これが手紙にあった「スキル」なのかと直感する。私はその後、強化した眼球で観察を続け、いくつか別の家と施設らしき場所を覗き込み、彼らが「スキル」を使用しているのを見つけて、確信を得た。

―――しかし改めてとんでもないな。自在にエネルギーを生み出せるなど。

自らの目で確かめたことであるにもかかわらず、己の頭はまだ起きた現象を受け入れきれずにいる。魔術のごとく世界に働きかけて現象を引き起こすというその「スキル」は、火を起こすため、水を生み出すため、電気を生み出すため、あるいはまた、治療のためや食料の保存のために、当然の技術として行使されていた。

家中のみならず、道端でも「スキル」は使用されており、無より有を引き出すという奇跡の現象が一切誰の目を気にすることなく実行され、特別誰の注意を引くこともない。彼らにとって無よりエネルギーを生み出す奇跡は当たり前のことなのだ。

なるほど、便利なものだ。あれさえれば、火打ち石や水筒、発電機、または治療薬、その他多くの、過剰なエネルギーの生産と、貯蓄、維持を必要とする技術が不必要になる。そういえば凛の手紙には機械文明は世界樹の上に持ってくることが出来なかったと書いてあったが、街に立つ街灯や、炉、改良型の電化機材、水道の整備された街並みなどを見る限り、機械文明、というよりも、電気を使って半自動的に動くもの、すなわち、携帯や自動車、通信機材などの、道具の作成や、それを動かすためのエネルギーの生産、貯蓄、維持に高度な技術とコストを必要とするものを持ち込めなかった、というのが正しいのだろう。

携帯の操作すらおぼつかない、機械に弱い凛らしい勘違いだ、と、苦笑する。左の口角が自然と上がり、気が和らいでゆき、混乱する頭が収まっていくのを感じた。いい傾向だ。

そうしてしばらく観察を続けていると、急に視界がぼやけだした。同時に眼球の後ろに鈍い痛み。驚いて目を瞬かせると、涙腺から出た水分が表面に潤いをもたらし、瞼の渇きを癒しだしていた。限度を超えて酷使され続けた眼球が、痛みと苦しみを訴え、反応した肉体が訴えに応答したのだ。

―――眼精疲労というやつか。なるほど、そういえば今は生身の肉体だったな。

今更ながらに生きていること実感する。英霊でいる間は肉体の不便が起こらなかったので、そんな不便と痛み、長らく忘れていた。生じた疼痛を抑えるために深い呼吸をすると、体の中に冷たい空気が入り込んだ。肉体は環境の変化を素直感じ取って、自然に身震いが出る。息を吐くと、視界が白く濁る。数度呼吸を繰り返すと、冷えた空気が体の内部に入り込んで、熱を帯びた体内が冷却されてゆくのを感じた。その急激な温度変化に耐えかねて、もう一度肉体は身震いを起こした。腕組みした両手で思わず己の体を抱え込む。

寒い。冬木の街も山から吹き下ろす風が冷たかったが、ここはそれ以上だ。よく考えてみれば、この足元はマグマの蠢く大地よりはるか上空に作られた天蓋であり、熱を放出する宇宙に近いのだ。言ってみれば、高い山の中にいるようなものなのだから、当然、気温が低い。

温度の低さに対して、私の服と装備は英霊時代のままである。魔術防護を兼ねた、聖骸布より作り出した赤い外套。物理防護に長ける、カーボンを織り交ぜた黒いボディアーマー。身体に張り付くよう、動きを阻害せぬように仕立て上げられた防刃のシャツとパンツ。悪路を走破し、敵に叩きつけるため鉄板を仕込んだ靴は、どれも一級品とよんで差し支えのない私の戦いを支えてくれる品々であったが、自然の寒さの前にはまるで無力だった。

懐かしむより先に分厚い布地を投影すると、体に巻きつける。首を覆い、素肌を隠し、それでもなお体に入り込んだ冷気は外へと逃げていこうとしない。努めて体内の冷気を追い出すべく内腑を意識してやると、ぐぅと腹の虫が騒いだ。そこで自身の身が何を求めているかを真に察する。

震える体は消費した熱と体力を回復させるべく、食料を欲していたのだ。なるほど、そういえばこんな不便もあったな。いやはや、生きるということはなんとも不便なことだらけだ、と再び苦笑。

さてどうしたものか。少しの間考えて、街に向かう事を決意する。なんにせよ、動かねば何も変わらないのだ。そして行動するには食料が。指針を決めるには情報がいる。食料程度ならその辺を捜索すれば見つかる気もするが、情報の収集には他者との接触が必要だ。

不審に思われることなく、彼らとの接触を果たし、食料と情報を手に入れる。これを第一の目標としよう。強化した視力でもう一度街を眺める。街中は相変わらず個性に富んだ格好をした人間が大勢うろついている。ならば、今の自分がその姿のまま向かっても怪しまれる可能性は低いだろう。私は足早に街へ向かった。

川を跨いで作られた街の入り口まで伸びるアーチ状の石造りの橋が存在感を増すにつれて、街の全容が見えてくる。盆地の最も低い中央の土地に建築されたが故だろう、橋の上周辺は、最も低い場所から丘の上へと戻ろうとする風が強く吹き荒れている。また、入場制限のためか狭く作られた入り口は、風を一纏めにする役割を果たして丘より上からの吹き降りてくる風の勢いを増加させていた。丘の方へと吹き戻される風と、丘より降りてくる風はちょうど門のあたりでぶつかり、行き場を失った風が上空へと抜けてゆく。

激突した風は人の服や荷物を強くはためかせている。門より街に入ることを望む人々は列をなして快適とは程遠い乱気流に耐えながら、恨みがましく入り口の衛兵と旅人のやり取りを睨みつけ、今や遅しと順番を待っていた。門を見て、違和感を得る。なんだろうか。

橋の手前まで近づくと、そこから入り口にまで伸びる百メートルほどの道は往来の人々と仮店舗にて商売する人とで賑わっているのがわかる。ただ突っ立っているだけでも、自然と人々の会話が聞こえてくる。そうして耳に入り込んでくる言語が日本語であることを確認して、まずは一安心した。スキルの存在は生活様式を変化させ、衣服を別次元のようなデザインに仕立て上げたが、言葉にまでは強烈な変化を及ぼさなかったらしい。

人の営みの喧しさが耳に入り、懐かしい気分になる。さらに進んで上品下品が入り混じった喧騒を肌で実感した頃には、日がすでに姿を隠しかけていた。太陽が沈む速度が生前より微かに早いと感じる。これも足元の大地が天空に押し上げられた影響なのだろうか。

寒さに凍える住人や旅人をなだめるかのように、橋の両側では商人どもが声を張り上げ、腹の虫を刺激する香ばしい匂いの肉や湯気を発するパン、スープなどを売りつけようとしている。誘惑に負けた者が数枚の硬貨と引き換えにそれを手に入れて頬張るなか、私は人波から離れた場所で腕を組み目を閉じると、意識を行き交う人々の会話に集中して耳を傾けた。

「今日はどうする?」「さあ、迷宮の野牛の一番美味いところを選別した焼き串だ!一本たったの15エン!メディカを買うよかよっぽどいいよ!」「最近、病気の人増えたよねー」「腕利きだけがなるやつでしょ?怖いけどあたしらには関係ないでしょ。心配なら施薬院で診てもらいなよ」「うーん、依頼の期日が迫ってるから、今日はそれを片そうか」「冒険者たるもの、未知の発見こそを喜ぶべきである!最近の冒険者はーー」「はいはい、じゃあ明日の発見のために、今日も迷宮で一稼ぎしましょうねー」「新しい迷宮、また冒険者が帰ってこなかったんだってな」「一層番人が強すぎるんだと。旧四層うろついてるのが死ぬんだから相当だな。ラーダがまた規制をかけるかもな」「あんた、まだ登録済ませてないの?」「アーモロードからエトリア行きの馬車がなかなか捕まらなくて、着いたばかりなんだ。新迷宮の莫大な褒賞目当てのご同類がわんさかでな」「ま、いいわ。一回戻ってギルド長のところに行きましょう。登録しなきゃ活動できないもの」

会話の内容を聞いて軽く目眩がする思いをした。もはや自分が持つ常識が通用しない場所である事を再度認識する。常識の齟齬を理解し、都度の擦り合わせが必要になことになる予想をして軽く嘆息した。億劫だが、文化の違いによる衝突を回避しようと努力することなど、生前ようようやってきた作業である。必要経費だと諦め、私は収集した情報を確認する。

冒険者。新迷宮。一層番人。旧四層。ラーダ。登録。エトリア。褒賞。ギルド長。活動。

さて情報の整理だ。

見た目広く、清潔で、活気があるこの街の名前はエトリア。街はラーダという機関が行政を仕切っているようで、彼らによって定められ法が存在する事、それを敷き人々に周知し恭順させるだけの力や信頼も持ち得ている事が伺える。

また、街には病気の治療や予防を行う機関として、施薬院というのが存在し、一定以上の、少なくとも行けば病気を治してもらえると信じられる程度には効果のある治療を施してくれる。事前に病院に行く、すなわち予防という考え方が根付いていることから、それなりの高度教育がなされているのだな、とも予想ができた。

しかし。

―――迷宮……?

街の外には迷宮と呼ばれるなにかが存在するのは流石に予想の範疇を超えていた。聞くに迷宮は複層構造であり、敵性生物が存在し、時には死人も出るという。番人、という呼称からは迷宮に複数の敵性生物が群をなしているだろうことが推測できた。

そしてこの迷宮は複数の、少なくとも、新旧二つが存在する。エトリアの街で戦闘用の装備を携えた「冒険者」と呼ばれる職の人間は、迷宮を探索し、持ち帰ったモノを売り買いすることで生計を立てているらしかった。

加えて今、最新の迷宮には莫大な報酬がかけられている。何を対象とした賞金なのかはわからないが、事実として、その褒賞を目指して多くの「冒険者」がエトリアを目指しているようで、ギルド長とやらに登録をしてもらえれば、冒険者としての活動ができるとの事。

――まるでおとぎ話の中に迷い込んだよう

我ながら発想がメルヘンがすぎる、と自嘲した。しかし改めて周囲を見渡すと、浮かんだ言葉が今の自分の状況をぴったりと表し過ぎていて、なるほど的を射ているなと思い直す。

彼らは当たり前のごとく、風の寒さに耐えるために虚空より火を生み出し、喉を癒すために虚空より生み出した氷を、自ら生み出した電気で機械を稼働させて熱を利用し、液体にする。

エネルギー生産や貯蓄のために一切の手間をかけないそのやり方は、私が「人類」と定義して付き合ってきた者たちでは到底成し得ないことだ。

―――やっていけるだろうか

不安が頭をよぎったと同時に、いやまて、と考え直す。よく考えれば、魔力を使用する上、手法は異なるが、自分も彼らと同様、投影魔術により虚空より物を生じさせることが出来る。エネルギーの変換効率の高さを考えれば、私もかつての人類からすれば、十分に範疇外の生き物だ。であれば、私はむしろかつての「人類」よりも彼らは近い存在なのかもしれない。

などと考えてやると、彼らの存在がいきなり身近に感じる気がしてくるのだから、我ながら現金なものである。少し頰の強張りが緩まった。気の緩みは思考にだけ注いでいた力を別の感覚に分散する役割を持っていて、嗅覚は、擽る香しい匂いが近くにあるに気がつかせてくれた。自然と鼻腔がひくつき、香りを深く吸い込む。ゆっくりと瞼を開けて横を向くと、両手に串肉を持った男と視線があう。

「何か用かね?」
「いや、何も。ただ、長いことそうやって何もしないもんだから、どうしたのかと思ってね」

言われて今の自分の格好と状況を思い出した。顔や体を布で隠した長身の輩が、何するわけでもなく、長時間ぼうっと突っ立っていたのだ。目立つに決まっている。それが良い意味での注目でないことが自らの周りからは人が離れ、遠巻きに奇異の視線を送っていることからわかる。人々は私の視線を感じると、照れ臭そうに、あるいはばつが悪そうに、そそくさと退散して行く。とんでもない失態だ。いきなりこれでは先が思いやられる。

道行く人が様々な反応を見せる中、私が顔の布を取り払っていると、不審者へと言葉をかける事を選択した串焼きを両手にもった恰幅のいい中年男は、弛んだ腹と顔を揺らしながら片手の串肉にかぶりつく。頬張った口からは収まりきらない肉汁がこぼれて、地面へと落ちる。食事の光景と匂いは生理的な反応を呼び、自然と腹の虫を騒がせた。

―――そういえば腹が減っていたな

胃は痛みをして空腹を訴えており、胃の痛みを受けて他人事のように腹減りの事実を思い出す。まるでどこぞの騎士王のようだ。などと呑気に考えていると、男はガツガツと景気良くかぶりついて片手のものを平らげ、そして口元を拭って尋ねてくる。

「待ちぼうけでもくらったかな?」
「……初対面の人間には関係なかろう」
「まぁ、そうだわな。だかまぁ、そうつっけんどんな態度をとりなさんな。……はいこれ」

私の前に男性が串を差し出す。よくある押し売りだろうか、と訝しむ。

「金はない」
「いらんよ」
「借りでも売る気か?」
「違う違う。発想が突飛だねぇ、あんた」

男性は食べ終えた方の串で自らの店を指し示す。店とはいっても立派なものではなく、簡素な基礎組みの周囲に布を張り巡らせただけの簡単な作りだ。七輪が数個並ぶ軒先の奥にはいくつかの箱の一つの中には、湿気た紙切れと何十本もの串が無造作に放り込まれていた。

「今日はよくはけた。店を閉めたいが、最後がさばけん。処分を手伝ってくれると助かる」

ならば自分の口に収めればよいだろうに、との意思をこめて、視線を先ほど男が空にした手元の串へ向けると、男性はそれに気づいてか、イタズラがバレた子供のように空いた串を体の後ろに隠すと、照れた表情を浮かべた頬を赤らめた。

「まぁなんでもいいじゃねえか。ほれ」

無邪気な照れ笑いを見せると、手元の串をさらにこちらへと寄せる。その行動に悪意は見えず、彼の行動が純粋な善意からくるものであることが伺えた。言ってはなんだが、彼は悪巧み出来る人間ではないと直感する。警戒していた自分が馬鹿のようだ、と嘆息。

「……、ではありがたく頂戴する」
「おう、そうしろ」

顔を上げて受け取ると、今更ながら様々な疑問が浮かんだ。肉をしげしげと眺める。新人類たる彼らと同じものを食べても大丈夫か。そもそもなんの肉かわからない。解析の魔術を使用することも考えたが、人前で堂々と使うのも憚られた。少しばかり悩み、そして、そも自らの常識が通用しない世界であるので、解析しきれない毒の成分があるかもしれないし、色々と悩むだけ無意味な、結論の出ない悩みである事に気がつく。

―――ええい、ままよ。

覚悟を決めてかぶりつき頬張る。……美味い。すっかりと冷めてはいたが、中まで程よく火が通っている焼けた肉、固すぎず柔らかすぎることなく程よい質感。西洋の人間は血の滴る肉の方が好みで不満を抱くかもしれないが、日本で生まれ育った私には丁度良い焼き加減である。噛み千切るごと溢れる炭の香が鼻腔を擽り、肉の汁が舌を通して旨味を伝えてくる。腕と素材、そのどちらもが良くないとこの脳を蕩けさせる美味さは出ないだろう。

口を開け、もう一切れを頬張り、口を動かす。数度同じ動作を繰り返しあっという間に一本を食べきった。体に異常はない。杞憂だったか。己の葛藤の無意味さと疑り深さを自嘲して、鼻息を漏らす。熱を得て暖気を帯びた吐息は、空中に茶色みを帯びた霧を生んだ。唇と口についた汁気を掌で拭い地面に払うと、男の方を向く。彼は先ほどの宣言通り、店の奥で撤退の準備をしていた。大きな背中に声をかける。

「美味しかったよ。ごちそうさま、店主殿」
「そりゃよかった。ああ、口元の汚れにはこれを使うといい」

男は振り返るとにっかり笑い、手から串を取り上げてゴミの入った箱へ放り込むと同時に、一枚の柔らかい紙を差し出してきた。それを有り難く頂戴して口と手を拭うと、彼はそれも回収してゴミ箱に放り込む。そうして一杯になったゴミ箱を外に放り出すと、すっかり空になった店の天布をひっぺがし、かちゃかちゃと基礎を崩しながら店主は尋ねてきた。

「あんたも、家を飛び出して冒険者になりにきた口か?」

言葉を選びながら、嘘とならないよう答える。

「その口ぶりから察すると、ご同類はやはり、最近多いのか」
「そのとおり。御触れが出てからは、新迷宮へと挑むのが本当に増えたよ。もちろん報酬や名声が目当ての連中さ。中には噂が本当なのか確かめようとする奴もいるけどね。」
「噂?」
「あんたは報酬目当てにきた方かな。……最近の流行病は知っているかい?」

流行りも何も、先程呼び出されたばかりの私が知るはずもない。だが、何か引っかかりを覚える。今少し前、確か聞いたような気がする。少し考え込んで、思い当たりを告げた。

「……腕利きの奴がかかると言うあれか?」
「おう、それだ。赤くなったが最後、必ず死んじまうから赤死病たぁ直球だが、分かり易い名前だよなぁ。んで、赤死病なんだが、広まった原因が新迷宮にあるって噂が回り始めてな」
「……新迷宮に?」
「大体半年ほど前になるかなぁ。病気でおっ死ぬ奴が増えてきた時を境にして、あの辺りに生えてる木の葉っぱが赤く染まりだしたのが見つかってな。周りが緑一色の時期に、真っ赤っか。地面の土まで赤くなっちまった。んでもって、その直後に同じ場所から迷宮が見つかった。で、その直後に院が迷宮の踏破に懸賞金をかけるってな御触れをだしたもんから、あの迷宮の奥に病気の謎が隠されているに違いない、なんて噂が広まってるのさ」

赤く染まり死に至る病気の流行と同時期に、緑木が赤く染まるという異変が起きた。そしてその事実発覚直後下された迷宮踏破の御触書。なるほど、院のお触れとやらが発表されたタイミングもさることながら、赤く染まる、という共通項が二者の関連性をより強調する材料にとして働いているのだろう。しかし。

「それで、その噂が本当か確かめてやろうと、わざわざ死病の原因があるかもしれない場所に足を運ぶのか。物好きな奴らだ。自殺志願者の群れとしか思えん」
「わはは、言葉が強いなぁ。でもその通りだ。金目当ての奴らが多いのも確か。好奇心旺盛な馬鹿が多いのも確か。なに、つい最近発見されたばかりのあの迷宮は、世界中で最期の未踏の迷宮かもしれないわけだから、未知の体験に飢えている奴らが集まるのさ」
「……それで、君は本当に病の原因がその迷宮の奥にあると思っているのかね? 」

聴くと、大男は目線を上に回して、少し逡巡すると、答える。

「多分な。院の奴らの焦燥っぷり。そして、病気の広まった時期と死人の増える速度が、迷宮の発見や樹木や地面の赤化現象の拡大範囲と呼応してるのを見れば、あってもおかしくないと思う。ただ、まぁ、この前、知り合いの冒険者夫妻が亡くなっちまって一人残された娘が呆然としてたのをみちまうと、やっぱりどうしても、病の原因は迷宮の奥にあって、だれかが踏破してくれれば解決する問題なんだと信じてみたくなるってのはあるから、半々くらいかな。あったらよしってな感じだ」
「……そうか」
「そうともさ。さて、出来た」

店主は話を切ると、まとめ終えた荷物を背負った。

「俺はエトリアに戻るけれど、あんたはどうするんだい?」

しばし逡巡したが、心の裡はとうに決まっていた。人が死ぬ病がエトリアという場所で感染範囲を広げて流行りつつあり、その死病を撲滅する手段が迷宮の奥にあるかもしれないならば、正義の味方を志すものとして、やるべきことは一つだ。だから顔を上げてはっきりと宣言する。

「私はやはり、冒険者になろうと思う」

やるべきこととはすなわち、理不尽に怯える人々の一助となることである。つまりこの場合は冒険者と言う存在になり、迷宮の謎を解くこと。宣言を聞いて、男性はにんまりと笑った。

「なら迷宮探索の準備の際は、是非ヘイ雑貨店をご利用ください。勉強させてもらいますよ」
「……なるほど、抜け目がない。いい性格をしている」
「いやぁ、そう褒めなさいますな」
「皮肉だよ」
「存じてあげておりますとも」

ヘイと軽口を交わしながら、橋の中央に並ぶ列の最後尾につく。列は遅々としてなかなか進まない。雑談の最中、空を眺める。一朶の雲が流れる中、空一面に濃く広がる黄昏の色。耳をすまさずとも溢れる喧騒が鼓膜を刺激し、与えられた刺激に反応して街並みを眺めると、夕日に照らされた白と緑と茶色が醸し出す平穏の空気に包まれた光景が目に映った。

平穏の天幕が降りる中、行き交う人々の雑踏に混じるなど、いつ以来の経験だろうか。懐かしむ光景は古く稀となった記憶の扉を叩き、いつしか私を物思いに耽らせていた。

エトリア。凛と士郎が生存していた時代より、千年以上未来に存在する街。一度は絶滅の危機に瀕した人類が地上を捨て、空を塗り潰し造られた大地の上に建設された街は、そんな悲惨など知らぬといわんばかりに、活気で満ち溢れていた。人は機械文明と言う便利を失っても、失ったという事実を受け入れて代替となる物を生み出し、そして過去を乗り越えて生きてゆくことができる。それは私にとって、なんとも逞しく、そして、輝いて見えた。

―――敬意、というよりは羨ましいのか。

そうして私は人の強さを再認識するとともに、少しばかり疎外感を得た。己の選択してきた過去を嫌悪し、結果の結末を受け入れず、積み上げてきた過去を関わってきた全ての出来事と共に切り捨て無かったことにしようとした私には、彼らの存在は少しばかり眩しすぎた。

多くの羨望と少しばかりの嫉妬の感情を抱きながらヘイと会話する間にも列は確実に進み、やがて私の順番となった。ヘイは待ってるよ、と言って店の場所の書かれた紙を渡して門の先に消えてゆく。応対していた衛兵が人懐っこい笑顔を向けてきた。

「やぁ、こんにちは。ヘイさんの知り合いかな?」
「そうだ。と言っても先程知り合ったばかりだが」
「ああ、成る程。あの人らしいや。……早速だけれど、名前と、それと身分を証明できるものがあったら見せてくれ」
「エミヤだ。身分の証はない。冒険者志望だ」
「ああ、そういう。成る程ね。しかし、もしかして、目指すは新迷宮?」
「その通りだ。莫大な報酬と聞いてね」
「うん、まあ、そうだね。……一応聞いておくけど、新迷宮の噂って知ってるかい?」
「大層手強い迷宮で実力者の死人も出ているとも、流行病の源だとも聞いたな」
「ああ、知ってて来たのか。なら何もいうことはないよ」

衛兵は呆れたような、諦めたような顔でいうと、近くの屯所に合図を送る。すると体が大きく、胸板の厚い、髭面で、強面の、いかにも職業軍人と言った体裁の男を呼び出した。敬礼を交わすと、やって来た彼へ一言告げる。

冒険者志望だ。名前はエミヤ。新迷宮の方だ。執政院まで案内を」
「……冒険者志望ならギルド登録が先じゃないのか?」
「や、普通そうだけど、ほら、この時間だとあの人もう帰っちゃって多分いないし、ほら」

言って衛兵は私の方を指差した。後からやってきた衛兵は私の方へと遠慮のない観察の視線を向けていたかと思うと、何か納得したかのように、鷹揚に頷く。

「ああ、なるほど。着の身着のままか。確かに、これは早めに手続きを進めてやったほうがよさそうだ。……だが登録も無しに連れていって大丈夫だろうか? 」

……どうやら彼らが横紙破りの決心をしたのは、身一つで迷宮に挑もうとする私を憐れんでのことらしい。文句の一つでも言ってやりたい所だが、返せる言葉もないので、黙っておくことにした。仮に私が彼らの立場であるとしても、命を落としかねない場所へと足を踏み入れようとしているのに何一つ準備をしてきていない輩を見かけたら、同じような憐憫の目を向けるに違いないからだ。

「前の補佐官まではダメだったけど、あの人は順番が前後する程度、笑って許してくれるさ」「……そうだなクーマ様はそういうお方だ」
「じゃあ、他の奴にマスターの呼び出しを頼んでおくから、院の手続き終わったらそのままギルドの方へと足を運んでくれ」
「わかった」
「じゃあ、よろしく」

そうして少しばかり長い応答をすませると、物腰柔らかな男はこちらを向いて言った。

「彼が案内をする。諸々の手続きを済ませれば、君も立派な冒険者だ」
「……なにやらこちらの不備で横着をさせてしまったようだな」
「ん、ああ、聞いてたかい。はは、なに、よくあることさ。身一つで謎に挑もうと考えられるくらい豪胆な方が、生き残れるってもんだ。それじゃあ幸運を、エミヤ」

会釈の返礼をして、先導する兵士の後に続く。彼は無口かつ職務に忠実な男で、余計な話は一切振ってこなかった。お喋り好きな相手だったら、話の中でボロが出るかもしれないと考えると寡黙な男でよかったと思う。

安堵を抱いたのち、この世界のことについて考える。どうもこのエトリアという街は、随分と呑気な性格の街であるらしい。自分の常識からすれば、身分証も何も持たない不審な男を尋問や拘束すらしないで街へ迎えいれ、職を与えようと考えられるのがまず信じられない。

さらに加えるなら、上の判断を仰がずにきっとあの人なら許してくれるという憶測のもと、定められた掟を破って不審者の入国手続きを進めようとする彼らの防備観念の低さが、少しばかり気になった。

もし自分がエトリアを引っ掻き回そうと考えている悪人であったら、あるいは、余計ないざこざを起こす人間だったらどうするのだろうか。防衛という観点から考えれば、彼らの善意の行動は、思考と機会の放棄に等しい愚行と言えるだろう。

しかし同時に、それは確かに善意から生じた尊い行動でもある。他人の事情を慮り、率先して気を配ることのできる彼らの行いに対して私が不信と憤りの考えを抱いてしまうのは、偏に私が、彼らより汚れている証のように思えてしまう。居心地の悪さが、少し強まった。

暗澹たる気持ちから逃げるようにして、横目に街を眺める。エトリアは盆地の最も低い部分に流れる川を挟むようにして森を切り開いて作られた街だ。丘の上に向かうにつれて、平たく整地された広場がいくつか点在し、それらの広場を周囲には立派な家々が密集し、コミュニティを作っている。広場を行き交う人々は雑多なだが、大抵は体格と恰幅良く、身綺麗な服飾と装飾で着飾った者が多い。家はどれも年月の経過を感じさせないほど手入れが施されており、漆喰の表面は手入れの頻度を誇るかのごとく、太陽の光を眩く反射していた。

そうして蘭と輝くコミュニティ同士を繋ぐのは細い裏路地だ。細い道がうねって張り巡らされているのは、敵が侵入した際に侵攻を遅れさせる目的だろう。石畳の道は緩急のついた坂道になっており、道の両側には、広場にあるよりも背の高い建物が並び、建物の開いた窓からは洗濯物などが覗いている。一階の窓にすら鉄格子、鉄柵の守りがないあたり、治安の良さがうかがえた。

人々の平穏な生活の匂いが端々から読み取れる坂道通りは活気にあふれており、少しばかりのだらしない格好や汚れた衣服を纏う人々や、叫びながらはしゃぐ子供たちとすれ違った。なるほど、広場が高級住宅街であるのに対して、こちらは集合住宅というわけか。

街の様子を眺めていると、前を行く男が少し先で足を止め、こちらに視線を送っている事に気がつく。どうやら観察に夢中で少し歩調が遅れたらしい。純粋な心配の目線が向けられている事に慌てて駆け寄ると、彼はすぐさま顔を平静に戻して言う。

「……ここを登れば、ベルダの広場。そして、執政院ラーダだ」

無口な男は肩口に背負った槍の穂先を動かして坂を指し示す。坂はつづら折りの広いものであった。指で光景の一部分だけを四角く切り取って見てやると、日本の城の石垣に見えてくる。坂は今まで通り過ぎてきたどこよりも多くの人間が往来していた。

「前は門から大通りを直進するだけでベルダの広場に行けたんだがな。人が増え、勾配の急さで事故が多発したため、こうなってしまった」

先導する衛兵の解説を聞きながら、行き交う人々を縫うように進み、そして坂を登り切ると、ようやく目的地前の市街中央、ベルダの広場へとたどり着く。広場の中央に配置されたオベリスクから放射状に立ち並ぶ建築物は、どれも均整が取れていた。立ち並ぶ建物の石壁の面はどれも下品な光沢にならぬよう調整され磨かれている事、翡翠緑に塗られた切妻屋根の木材も同じく真新しく見えるほどに磨きあげられている事は、この場所がエトリアにとって重要で大切な場所であることを一目で理解させる。

とはいえ、特別なのは空間だけのようで、そこを行き交う人々は下で見た彼らと何の違いもない。まぁ、下の入り口よりも多少汚れた格好の冒険者が目立つか……待て。

普通街というものは、内外を区切る壁に近いほど、汚れた格好の人間が多いものだ。だというのに、何故、街の入り口よりも街中の方が着衣の汚れた者が多いのだ?

疑問を抱いた時、広場がざわついた。奥の建物から、四つの担架とそれを運ぶ衛兵が現れる。

「急げ! 早く、施薬院に! 」

担架に乗る者は一人として血に染まっていない者がいない。皆ひどい重体であり、腕や脚がもげた者、腹の中身が飛び出しかけている者、皮膚がなくなり筋肉と骨が露出し、体の一部が吹き飛んだ者もいた。思わず目を逸らしたくなる燦々たる惨状に、周囲の人々は目をそらし、口を抑え、息を飲み、彼らから遠ざかろうと道の中央から離れてゆく。

人波を割いて担架がモスクのような丸い屋根の建物に運ばれてゆく中、遅れて一人の男性が担架に乗せられ運ばれてゆく。先の四人に比べれば五体満足で怪我がない様に見える彼は、しかし、異様なことに両足の膝から先が石に変貌していた。およそまともな傷ではない。

石化というと、かつて聖杯戦争で敵として戦ったメデューサの魔眼を思い出す。彼女のそれは先程見たような完全な石化現象を引き起こすものでなく、視線のあった輩の挙動に強制的な制限をかける呪詛の類であったわけだが……、今は関係ない事か。

運ばれてゆく彼の身につけている装備と、負った無残な傷跡を見て、私は彼らの傷が、何者かとの戦闘によるものであることを確信した。だが、先ほどまで街中は平穏そのもので、戦いや異常の気配など一切なかった。争いの気配すらなかったはずである。ならば、いったいいつどこで彼らはあのような傷を負ったというのか。まさか、突然街中に出現したというわけでもあるまいに。

「驚いたか。無理もない。どこの迷宮も情報が出回った今、ああした重い怪我を負うものなど珍しくなったからな。……だが、あれが新迷宮だ。おそらく彼らは新迷宮一層奥の番人に挑もうとしたのだろう。だが旧迷宮四層を常の縄張りとする彼らですら、ああなってしまう」

思わぬところから解答を得て、思わず振り向く。そして疑問を抱く。何故、彼は急に新迷宮の話をふってきた。ここは街中で迷宮は郊外にあるはず。いや、まて、もしや新迷宮とは。

「聞きたいが、新迷宮というのはもしや街中にあるのか? 」
「……はぁ? 」

疑問に返ってきたのは、マヌケを見るかの様な視線と声だった。どうやら己の出した結論は余りに素っ頓狂なものであったらしい。

「……、ああ、お前はもしかして、糸の事を知らないのか」
「糸?」
「そうか、お前は一度も迷宮に潜ったことのない……いや、冒険者と関わった事がないのか。いや、そうか。―――あの建物を見てくれ」

指先を追うと、先程怪我人と衛兵たちが建物を示していた。周りにあるものより少しばかり背の高い建物であるが、それ以外に変わった作りをした様子はない。壁も屋根も窓も入り口の扉も何も変わらない、―――いや、違う。

「出てくるものの格好が小汚いな」
「言葉が厳しいな。いや、間違っていないのだが。……あそこは帰還所なんだ。エトリアで紡がれたアリアドネの糸を使用すると、どこにいようがあそこに戻ってくる事が出来る。それがたとえ迷宮の奥や遠くの場所であっても、だ」
「―――糸を使うと戻ってくる?」
「その通り」
「その、アリアドネの糸というのは、もしや、一般的に流通している道具なのか?」
「その通りだ。冒険者と衛兵なら誰しも持っているものだ。お前も正式に冒険者として認められれば、そこらの道具屋で購入する事が出来るようになる。一個百エンと少々値は張るが、命綱としては安いものだろう」
「――――――」

アリアドネの糸ギリシャ神話における伝承では、テセウスアリアドネより託されたクノッソスの迷宮から戻る際の目印として使用された糸玉だ。なるほどたしかに、迷宮と呼ばれる場所より安全に帰還することの出来る道具につけられる名前としてはふさわしいものだ。

いや、この際名前などどうでも良い。問題はその効力だ。どこからでも転移可能など、あまりにも馬鹿げている。英霊でも一部の―――神話の時代にまで遡り、なお一部のみが可能とする奇跡が、一山いくらの道具として売り出されているという事実は、魔術という異端の使い手である私にとっても理解の範疇をあまりにも超えていた。

「―――この程度でショックを受けるようでは、冒険者としてやっていけんぞ。迷宮はもっと不思議なことに満ちている」

衛兵の言葉は淡々としていて、だからこそ嘘偽りのない事実を述べていることが察せた。また、先程の無残な姿になりたくなければ帰った方がいい、と言外に告げているようにも聞こえた。先程無残な姿で帰還した冒険者達の姿が脳裏に浮かぶ。なるほど、下手を打てば私も彼らの仲間入りというわけだ。

転移という奇跡を軽々と引き起こす道具の助けがあって、なお簡単に攻略されていない迷宮。その攻略難度は入り口で飛び交っていた噂の通り、目の前の衛兵が忠告する通り、相当高いものであるらしい。だが。

「忠告はありがたく受取ろう」

こちらとしても引く気は無い。迷宮を攻略の奥に病の原因となる何かがいるかもしれない。その謎を解くか、あるいは道筋だけでも示してやらない限り、彼らのような犠牲者が出るかもしれない。ならば、いかなる困難が待ち受けていようとも、正義の味方を目指すものとして、決して引くことは許されないのだ。

「そうか。……こちらだ。ついてこい」

断言して、無言を貫いていると、衛兵は再び案内へと戻った。忠告はしてくれるが、意思を押し付ける気は無いらしい。なんともほどよい距離感に、少しばかり心地よさを感じながら、私はベルダの広場の周囲にある建物の一つの前へと案内された。

その建物の入り口とその扉は巨大なものだった。高さおよそ二十メートル、横に十メートルずつはあるだろう両開きの扉は、来訪者を迎え入れるべく左右に大きく開いている。開かれた巨大な扉をくぐると、真新しい外観とは裏腹に、厳かな雰囲気の内観が出迎えてくれた。

内部構造は西洋教会を模しているのか、四角く切り出された石材が積まれた柱が一定間隔ごと橋脚のごとく立ち並び、天井の敷石がアーチに支えられている。石材という建材に囲まれた空間は、外と比べて涼しく感じた。

ただ、政務を執行する機能を持つ割に、院は外部と比べて人の気配が異様に少なく、不気味なほどに静けさが辺りを支配している。教会というより、まるで地下墓地のようだ、と思う。

教会。地下墓地。――――――言峰綺礼。雰囲気と言葉は記憶の深層を刺激し、いけ好かない外道神父の顔を思い出させた。神の教えを説く立場である神父でありながら、人間の悪を容認し尊ぶという、正義の味方とは決して相容れぬ不倶戴天の天敵である破戒神父。

「喜べ、少年。お前の願いはようやく叶う。正義の味方には、対立すべき悪が必要だからな」

よりにもよって強く思い出されたのは、奴の言ったそんな言葉だった。手綱の握れない記憶と、それにいちいち反応してしまう自らの肉体が疎ましい。思い出される記憶の不快さに思わず顔をしかめて、無意識のうちに強く舌打ちを鳴らした。静かな空間に反響する音。

その音を聞いて、衛兵が、どうかしたのだろうか、という顔を向けた。はっとして、なんでもないと手を振ると、彼は首を傾げながらも先導へと戻ってくれた。自らの軽はずみな反応を反省すると、不快な存在を記憶の外に弾き出すべく、周囲の光景へと意識を集中する。

正面に目を向けると、石柱に刻まれた樹木と、その上に飾られた真実の口がこちらを見下ろしていた。衛兵はその樹木の根元に存在する照明の下で受付の人間と一言二言を交わすと、こちらへと戻ってくる。

彼が戻るまでの僅かな間に、受付の人間と目があった。受付の彼は、シャツとベストとパンツルックという、外に群がる異様な格好をした人間と比べれば平々凡々な格好をしている。その普通さは私の荒れていた心を落ち着ける効果を持っていた。自らの常識からかけ離れていない存在は、かくも平静をもたらすものなのである。彼は人懐っこそうに口の両端を上げて、上品に笑った。

「こちらだ。ついてこい」

受付の人間が向けた笑顔に会釈を返すと、衛兵の後に続き、執政院の奥へと進む。廊下を行く途中では数人の人間とすれ違った。彼らは政治屋、と言うよりは図書館の司書でもやっている方が似合う、物静かで、おっとりとした人懐っこい雰囲気を身に纏っていた。大人しい気質の者が院内部の職員として採用されやすいのだろうかと、考えが浮かぶ。

とりとめなく辺りの様子を探りながら低い天井の廊下を進んで行くと、突如開けた空間に変わった。清廉かつ単調であった天井と床は、西洋の城玄関のごとく豪奢に彩られたものへと変化し、中央正面に存在する大階段と、大階段から両端に伸びる螺旋の階段が、豪華さを演出するのに一役以上の活躍をこなしている。

解析の魔術を使うまでもなく、元々は低い天井の建物であったのを増築したのだな、と理解した。内装に使われている素材の真新しい外見と漂う木材の香りから、つい最近追加で建築されたものだとも推測できた。

「執政院もエトリアの外からやって来た者。特にハイラガードやアーモロードの方面からやってくる奴らが執政院の建物が気に喰わないと言い出したので、執政院の機能を損なわない範囲で好きにしたらいい、と院長が許可を出したらこうなったそうだ」
「……その口調と言い方。彼らとこの建物を嫌っているように聞こえるが」
「―――そうか。注意しよう」

皮肉に対して素直な自省の言葉を返され、少し拍子抜けする。強面な見た目、口調の強さとは裏腹に誠実というか馬鹿正直な男だ。なんともからかい甲斐が無い。

くだらぬ事を考えている間にも、衛兵はペルシャ模様の絨毯が敷かれた廊下を進んでいた。慌てて足早に歩いて後ろに追い着くと、無言のまま豪奢に飾られた廊下を進んだ。しばらくして、衛兵はある扉の前で足を止める。

「ここだ。―――待っていろ」
「了解した」

衛兵は扉の正面に向かうと、籠手の甲で扉を叩いた。ノックの音が響く。

「クーマ様。冒険者志望の者を連れてまいりました」
「……どうぞ」

少し遅れて内部の声が入室許可の声を出した。失礼します、と言って衛兵はドアを開け中へと足を踏み入れ、私は後ろに続く。少しばかりの緊張。はたして冒険者の担当をする者とはどのような人物か。

華美に装飾が並ぶ廊下と違い、中はさっぱりとした上品な部屋であった。部屋には執務と関係のない道具はほぼ置かれておらず、木製の本棚、書類棚、机と椅子などは、どれも長い年月をかけてキチンと手入れをされてきたものである事が、その表面が飴色に光っている事実から推測できる。部屋の中に置かれた家具は暖かさを感じる濃茶色い木製のもので統一されており、大理石の床に敷かれた絨毯もそれらに合わせて濃茶の柔らかい色合いをしていた。

唯一、部屋の隅に存在する槍斧と盾と鎧兜が鈍色の光沢を輝かせて異彩を放っていたが、部屋の中央奥に存在する人間が部屋と武装の間を取り持つ存在となって、雰囲気は不思議と調和がとれていた。部屋と調度品は相応しい人間がそこにいてこそ、完成するのだ、と誇らしげに胸を張る設計者の意図が見て取れて、微笑ましく思う。

「クーマ様。こちら、新迷宮探索希望のエミヤです。ギルド登録はまだですが、ギルド長が捕まりそうになかったので、先にこちらへと連れてきました」
「ああ、わかりました。ありがとう。案内ご苦労様です。下がってもらって結構ですよ」

クーマと呼ばれた男性が机より顔を上げ、私と衛兵を一瞥すると、衛兵へと視線を向けて労いの言葉をかけた。衛兵は心遣いを受け取ると、一礼をした後、部屋より退室する。クーマは衛兵を見送った後、視線を私に向けなおして言う。

「エトリアへようこそ、エミヤ。私の名はクーマ。執政院ラーダの職員です。主に冒険者たちの管理を行なったり、依頼を出したりと、いわば窓口の役を請け負っています。どうぞよろしく」

クーマという男性の顔は、旧来の友人を迎えるかのごとく柔和な笑顔だった。幼さの残る顔立ちはまだ十代二十代の青年のように見えるが、顔に刻まれた皺の数と、頭髪に多く存在する白、物腰の柔らかさは、彼が外見よりも歳を食った油断ならない人物である予感をさせる。

予感を確信に近づけたのは、椅子に腰掛けているだけのはずの彼は身のこなしだ。そうして座っているだけの姿も中々見事なもので、一本芯が通っているかのごとく体の軸がぶれていない。少なくない戦闘の経験を積んでいる証拠だ。

ベージュ基調の変則型、ダブルのスリーピースを纏ったその外見と静かで、背筋の通った所作から察するに、おそらく三十後半から、四十代前半で、脂が乗っている、と表現するのにちょうど良い年頃くらいだな、とあたりをつける。

「まずは対応に感謝を。本来はギルド登録が先らしいからな。身分を証明できるものも、紹介状なども何もない。この場所で追い返される可能性も考慮していたが――― 」
「はは、新迷宮を攻略しようという気概ある来訪者にそんな真似はしないよ。この時間帯だとギルド長がいなくなるのは周知だし、多少順番が前後したところで、やってもらうことは変わらないからね。私が追い返すのは、エトリアに悪さをしようと考える人達だけさ。まぁ、少なくともここ数十年の間、一度たりともそんな人は来たことがないけどね」

彼は口調を馴れ馴れしいものに変え、親しげに述べた。丁寧な応対は初対面の礼儀で、言葉を交わせばすぐに知り合い、という手合いなのだろうか。別段悪い気はしないが、いきなりの態度の変貌と、そして今しがた述べられた事に、少し驚く。

「……あんな程度の警戒体制で数十年もの間、平穏が保てたのか」
「そうだよ。悪人なんてそうそういるものじゃあないからね。それがどうかしたかい?」

悪人などそうはいない。だから犯罪なんてまず起こらない、などという性善説論者の戯言を素直に信じられるほど、私は無垢ではない。何か隠しているのではとの疑問を瞬間的に抱く。けれど、見た目に似合わず無邪気に首を傾げて問い返す様からは嘘偽りを感じることができず、こちらに送られる瞳は無垢で純粋な赤子のように澄み切っていた。もしこれが演技だというのならば、よほどの役者だ。何を言ってもボロは出さないだろう。

だが、思考で疑いつつも、私が今まで培ってきた人物を見る眼と感が、彼のこの台詞が素直に事実を述べただけであると告げている。それはつまり、正直私の知る常識からは信じ難いのだが、このエトリアという都市は少なくとも、彼の生きている間は外部からやってくる敵からの攻撃を受けたことがなく、今現在、エトリアの周辺には、彼らに被害を与える人や生物が、赤死病を除いていないということを意味していた。

外部からの襲撃が起こっていないという事実に気がついた時、私はようやく入り口の門付近で抱いた違和感の正体に気がついた。エトリアの出入り口に存在した門は、城壁からではなく、民家の壁から直接伸びていた。民家の壁は薄く、また侵入口となる窓さえもあった。壁がアレでは、敵に攻め入られた際、窓は侵入口として利用され、真っ先に民家とそこに住む住民が犠牲になってしまう。

過去に一度でも敵からの攻撃を受けて住民に犠牲が出るような事態が起こっていたのであれば、手薄な壁面があのように放置されるはずもなく、必ずなんらかの対処がとられているはずである。つまりあの民家と城壁が一体化した構造が昔の姿のまま、今も改築されずにいるということが、クーマという人物のいう通り、一度たりとエトリアにそう言った事態が起こっていない事の確かな証なのだ。

未来世界の街という場所は、基本的に戦いとは無縁の世界であるらしい。

―――ああ、なんて平穏なのか

羨ましく思い、軽く目眩を覚えた。だが、同時に少し疑問を抱く。戦いなく平穏であるはずなのに、なぜ街の内部は作りは外敵に侵入された時のことを考慮した作りになっていたのだろうか。もしや街を作った当初は敵がいたのでは……いや、今考えても意味のない事か。

「いや……、いや、気にしないでくれ 」
「―――では本題に入ろう。エミヤ。君は新迷宮探索を希望している、そうだね?」
「その通りだ」
「うん、よし。さてエトリアでは迷宮での活動を望む者には、探索を行う力があることを示してもらうため、試練を受けてもらっている。試練はラーダからの正式な依頼として処理され、クリアの暁には君はエトリア公認の迷宮探索者となる。無論、幾分かの報酬もでる」

クーマは言って、机の中から数枚の厚紙と墨、筆、硯を取り出し、こちらへと差し出した。

「これは?」
「うん、依頼とはすなわち、迷宮、つまり樹海の地図を一部だけ作成してほしい、というものなんだ。私たちが迷宮の踏破に莫大な懸賞金をかけているのは、未踏の場所に何があるのかを確かめるためなんだ。私たちは魔物が出る、番人が守るその先に、何があるのかを知りたい。だから私たちは冒険者に、魔物を討伐しながら、地形や出来事を観察し、正確に把握する能力と、それを他人が見てもわかるように記録するスキルを求める。これは君達が冒険者を目指すものが、エトリアにおいて冒険者としてやっていけるかどうか、エトリアの益になるかを判断するための試練なんだよ 」

なるほど、院が冒険者に未開の地の記録を求めているのであれば、冒険者に地図作成能力があるか試す試練は、選別として必須なのだろう。最も、解析と投影の魔術が使用できる私にとって、基本的に迷宮というものは単なる進むのが多少億劫なだけの道に過ぎない。多少の罠があろうと、迷宮の情報を解析して、それを地図に投影してやれば済むのだから、あまり意味のない試練ではあるが、ともあれ、必要ならばやるまでだ。

「……作成する範囲は?」
「ワンフロア分だけ。縮尺は紙の端に記載されている数値を使ってくれ。丁度その一枚に収まる範囲のはずさ。ああ、そんなに構えなくとも、君の作ったものを私たちの所有するものと比較した後、ざっと地形が合致していれば依頼は達成だ。何も微に入り細に入り情報を記載してもらう必要はないし、意地悪をする気もないから、安心してくれ」

渡された紙一メートル四方の厚紙には、マス目と縮尺が刻まれている。縮尺から逆算するに、迷宮のワンフロアはすなわち十五 × 二十 ㎢に収まる程度であるということか。

「ワンフロア、という言い方から察するに、積層構造の迷宮なのか? 」
「うん、そうだね。旧迷宮と同じ構造をしているとすれば、君の行く場所を含めて五つのフロアが確認出来るはずだ。フロア一つ五階に分けられていて、どこかにある階段を下ると、新たな階層へと繋がっている。二階の広さも、多分、一階のと同じくらいだろう。二階から五階までの地図は詳細なものが出来上がっていないから、こちらは多分としか言いようがないけれどね」

つまり少なくとも、十五 × 二十 ㎢ ×五のフロアを更に五つ探索しなければならないのか。……ざっと千五百 × 五 = 七千五百 ㎢ というと、かつての故郷である冬木が郊外まで含めて約五百 ㎢ であったから、冬木の街を十五回隅々まで探索する気概があれば踏破できるという事か。……まぁ、なんとかしてみせよう。

しかしアリアドネの糸が必要な迷宮というからにはもっとおどろおどろしいものを想定していたが、思ったよりも大したことがなかったな。広大とはいえ、範囲が限定されているというだけで、気楽を得るには十分な材料である。

そして余裕ができた頭は妙案を産んだ。院が地図を所有おり、これが全ての探索者に課される試練であるということは即ち―――

「ああ、言っておくけれど、他の人の地図を複写する等のズルはダメだからね? 最低限。迷宮に出現する魔物に対処する力があって、謎を解いて記録することが出来る、と言うことを証明してもらうための試練なんだから」
「―――もちろんだとも。私がそのような不正を働くように見えるかね? 失敬だな」

釘を刺されて乾いた笑いを返す。背中に冷や汗が流れるのを感じた。

「はは、そうだね。まぁ、今では地図にはこうして固有のナンバーを割り振り記載しているし、迷宮内に入る直前に地図がサラであることを衛兵が確認するから、そうした不正は基本的に防げるし、大昔そうした不正が判明して、当該ギルドが二度と迷宮に入れない様に罰を与えてからは一度も起こっていないんだけど、一応念のためにね」
「いや、そうか。では私も一応、感謝しておこう」

クーマは私の表情の変化に気づいていない様だった。助かった、と胸を撫で下ろす。

―――危うく始まる前に躓くところだった

内心が落ち着くのを待って、クーマの座る机の前まで進み出る。机の上に広げられた地図製作の一式を指して問う。

「ではこれらを頂いても?」
「構わないよ。ものを確認して問題なければ、この書類に受領のサインを頼む。」

サイン。言葉を聞いて、緊張で体が少しばかり強張る。日常の会話に使用されている言語も店に掲げられた看板に記載された文字も、私の知る日本語が使用されていたため失念していたが、果たして公用文字も同様なのだろうか?

差し出された用紙を受け取ると、覚悟を決めて一瞥し、そして安堵した。日本語で刻まれた文字へと目を通し、そして疑問の声を上げる。

「いいだろうか。職業、ギルド、と書かれた項なのだが……」
「ああ、本来は、先に決めてからくるからね。とはいえ、一旦は、そうだな、どこかの街で活動していたのなら、その前職とギルド名を記入してもらえれば構わない。ああ、でも、迷宮探索関係以外の職だったのなら、記入しないでおくれ。あくまでも、迷宮に潜る人用の書類だからね」
「……記入ができない際は、どうすれば良い?」

クーマは頷いて笑った。

「うん、その場合は空欄で。名前だけで書いてくれれば構わないよ。そうだね、依頼達成報告までに決めて、記入してくれればいい」
「……、このような立場で言うのもなんだが、少しばかり杜撰ではないかね」
「迷宮探索前、冒険者でない人たちとの契約の書類だからね。彼らは向かったまま、命を落としたり、逃げ出したりで、帰ってこない事だって珍しくない。意味のない書類になる可能性の高いもの、多少順序が前後したって誰からも文句はでないのさ」

役所にしては随分といい加減な気がするが、害はないので気にしないことにした。羽ペンを借りて、署名欄、と書かれた横にカタカナで名前を記入する。少し迷ったが、フルネームでなく苗字だけを記入することにした。ファミリーネームでないシロウ、という名前を記入するのは、全てを曝け出す気がして、少し気が引けたのだ。我ながら臆病なものである。

「うん、たしかに。ではこの後、冒険者ギルドに向かい、冒険者登録を行ってくれ。以降のことはそこの長に尋ねるといい」

たった三文字が記入された書類をクーマへ提出すると、彼は頷き、机の上に広げた一式を袋に一纏めにして差し出し、それらを差し出した。

「承知した」

私は受け取ると、一礼をして踵を返す。部屋から出る寸前、後ろから声が聞こえた。

「次に会うときは君が報酬を受け取りへやって来るときかな。成功を祈っているよ」
「感謝する」

礼を述べ、再度会釈をして静かに部屋の外へと退出すると、一息つく。呼気とともに少し肩の荷が降りた気がした。

「終わったか。では次だ。冒険者ギルドへ向かおう」

案内をしてくれた不愛想な衛兵は背を向けると、さっさと前を歩いてゆく。私は再び彼の後ろに続いた。長く豪奢な通路と質素な石壁に沿って先程歩いた道を通り、受付を通り抜けて広場へ戻る。広場にでた衛兵はやはり無言のままその端に沿って少しばかり進むと、三階建ての建物の前で止まった。建物は執政院と比べてしまえば小さく思えるが、街中に立ち並ぶ家々や建造物の中では十分大きな部類に属しており、そこへ年季の入った外観が加わることで立派な雰囲気を醸し出していた。

「ここだ」

衛兵が木製扉をあけて中へと入ると、物静かな執政院の雰囲気とは対照的で、喧々諤々としている活気に満ちた場所であり、足を踏み入れた途端、喧騒が耳の中に飛び込んで来た。言い合っている奴らは橋の上で見かけたような、一癖も二癖もありそうな奴らばかりだ。

数人が開いた扉に反応してこちらに視線を送ってくる。大半は興味を失い元の場所に視線を戻すが、一部は観察の目線を向けたまま離そうとはしなかった。彼らの眼差しは警戒と好奇、つまりは相手の利用価値を探るものであった。生前飽きるほど浴びたその懐かしい視線を前にして、少しばかり彼らに親近感が湧く。衛兵は纏わりつく視線を無視して、ロビーを通り抜けたので、私もそれに倣って部屋の中を堂々と横断し、彼の後ろに続いて階段を昇り、一番奥の部屋へと進んだ。

「―――失礼します! ギルド長はいらっしゃいますか! 」

衛兵は荒々しくノックをかますと、返事も待たずにドアを開ける。無遠慮の実例とでも言おうか、おそらくギルド長という存在は彼にとって上役なのだろうに、彼の態度には敬意というものが感じられなかった。

「ギルド長! 新しい迷宮探査希望者をお連れしました! ギルド長! 」
「大きな声を出しなさんな。聞こえてるよ」

低い声とともに、奥の部屋から全身に傷が刻まれた大柄な男が現れた。片目が眼帯で防がれた精悍な顔は、飄々としていながらも隙がない。塞がれていない方の右目は鋭くこちらを測る様な視線を送ってくる。ああ、強いな、と一眼で確信した。

首元は急所を隠すかの様にマフラーが巻き付けられ、また、骨や肉の稼働の邪魔をせぬよう、それでいて攻撃を受け流せるように皮鎧を着込んでいる。加えて、一切体軸のブレぬ幹と足運び。なるほど、長というのも頷けるというものだ。

「よお、新入り。俺は冒険者ギルドの纏め役をやっているゴリンってもんだ。それでお前さんが身一つで新迷宮に挑もうっていう大馬鹿か」
「エミヤだ。迷宮に潜るためにはこちらでの登録も必要だと聞いてやってきた」
「そう登録だ、登録」

嫌味を受け流して要求を突きつけると、ゴリンも対して反応もせずに奥へと引っ込み、子供の頭ほどもある水晶と数枚の紙、一冊の本を携えて戻ってくる。真球に近い形に研磨された水晶は、透明な内部に光を取り込み屈折させ、七色の輝きを見せている。

―――魔力……、か。

輝く水晶はその内部に膨大な量の魔力を蓄えていた。解析の魔術を使うまでもなく、内部に秘められた奔流から、その事実に気付かされる。また、水晶は外部を研磨されただけでなく、一定の法則に従って内部が魔力の通りを良くするように加工されており、その内部を循環する魔力は、水晶の取り込んだ光を七色に煌めき返す手助けをしていた。

―――まるで凛の宝石魔術だな。

共通項はふと彼女の事を思い出させた。ゴリンは近くのソファに腰を下ろすと、水晶を横に置き、こちらを手招き、机を挟んで正面のイスに腰掛けるようジェスチャーを送ってきた。

「エトリアにきたやつぁまず、ギルド登録が必要だ。他所で職業登録してるんなら、それを記入してくれてもいい。だが、戦闘職でないってんならここで登録しなおしていくことをお勧めするぜ」

私は水晶から目を離さないまま、ゆっくりとその言葉に従って腰を下ろし、尋ねる。

「戦闘職とは?」
「あー、エトリアの場合は、ソードマン、レンジャー、パラディン、ダークハンター、メディック、アルケミスト、バード、ブシドー、カースメーカーだな。知っての通り、転職すると、職業に応じてのそれぞれ個別にスキルが使えるようになる。スキルはエトリアへの貢献ポイントが一定以上になる度、それがそのまま熟練度として計上されて、新たなスキルを習得することができるようになる。この辺りは普段職と変わらない」

職業につくと応じてスキルが使えるようになる。貢献ポイントがたまれば新スキル獲得やスキル熟練度を伸ばすことができる。なんとも単純で、管理する側にとっても、管理される側にとっても、都合の良いシステム。出来過ぎだ。

「……職業毎の特徴を知りたい」
「ほらよ」

ゴリンは私の問いかけに、本を投げつけて答えとした。宙をまっすぐ進んできた冊子を掠め取ると、上下を正して正面に向け治し、ページをパラパラと捲る。本の中には職業毎の特徴と、取得可能スキルの特徴、注意事項などが記載されていた。

「詳しくはそれに書いてある。勝手に見て参考にしろ。説明は面倒だ。……ああ、そうだ。一応言っとくと、転職すると今まで職業スキルが使えなくなるから注意しとけ」

ついでのように告げられた言葉にページをめくる手を止めて、ゴリンの目を見て聞いた。

「今までの特技が使えなくなる、と?」
「ああ、知らなかったのか? 転職の経験がない? それとも、お前さんのところじゃ違ったのか? まさか、そんな物騒な気配漂わせといて、なんかの戦闘職についていないかったってなぁことはないだろうが―――、基本的にその通りだよ。転職をした時点で以前のスキルは使えなくなる。普段の使うスキルは例外としてな」

返答に眉をひそめた。迷宮で活動するためには冒険者としての登録が必要だが、それをすると、今までの力を失ってしまう。私の使う魔術は、彼らのスキルと違い職業に寄らない技術であるため、力を失わない可能性の方が高いとは思うのだが、仮にそうでない場合、魔術の使えなくなるというデメリットはあまりにも大きい。

―――さてどうしたものか。

悩む私を見て、ゴリンは笑った。馬鹿にされたようで腹がたつ。少しムッとした顔で聞いた。

「何がおかしいのかね?」
「いや、たまにいるんだよ。お前さんみたいなのは。……以前のやり方や職業のがやりやすいってんなら、それでも登録してもらっても構わない。ただしその場合、こちらがあんたが本当にその職業の人間であり、スキルだのを使用できるのかって言う保証できないから、うちから他ギルドへの紹介は出来ないし、エトリアへの貢献ポイントも入らない。他にも、いくつか色々と不都合なことも発生するがまぁ、死ぬって程のことじゃあない」
「そうか」

少し悩んだふりをする。だが、答えは決まっていた。

「……いや、だがそうしよう。以前の職業のままでいく。それで登録させてもらいたい」
「了解だ。ならあとは、これにアンタの名前と職業、活動ギルド名を記入してくれ」

差し出された書類に目を通して、それぞれの項に記入をして差し出した。

「えー、名はエミヤ、職はアーチャー。ギルド名は……正義の味方? 随分とまあ、なんというか、個性的だな。間違いないか?」
「ああ、そうだ」

自らのギルドに冠した名前はかつての理想。理想は恥ずかしいくらい実現不可能と思えるほど無謀な位が丁度いい。冠した名前に負けないよう発奮することが出来る。何よりこれは誓いなのだ。かつて私を救った養父より託された想いは、長い時間の経過によって一度、一切の光を反射しないほど黒く濁ってしまったけれど、過去の自分と赤い宝石のような彼女より研磨し直され、再び胸の裡で煌々と輝いている。

―――彼女と彼に与えられた命を無駄にしないためにも、私はかつての理想を追いかける。

多少の無茶など承知の上だ。笑われようが知った事ではない。傷つく事なしに、本当に叶えたい願いなどを叶えることなどできない。理想の存在に少しでも近づくため、その名を背負う覚悟をこの場で決めてやるのだ。

記入を終えて広場に戻り、衛兵と別れて壁に背を預ける。夜の寒さに温度を奪われつつあった壁面は私の体から熱を収奪してゆく。その怜悧さに辟易として壁から背を浮かせると、ズボンのポケットに手を突っ込んで空を見上げた。かつての時代より天に近いこの場所では、数多の星が燦然と誇らしげに己を主張している。その中にあって一際目立ち、大きく輝く月は、かつて正義の味方になると誓ったあの夜のように、優しく儚げな光を放っていた。

―――いつか君たちのためにも、この誓いを、願いを、想いを、叶えてみせよう

夜空の下で誓いを新たに念ずると、病室で笑い合う二人が安心した、と笑みを向ける姿を幻視した。二人の笑みは、かつて養父が逝去したあの夜みせたものと同じ柔和なものだった。それを見て安堵を得た自分の心境を省みて、自嘲する。いつから私はこんなに弱くなったのだろうか。感情に意識を振り回されるこのような体たらくでは、とてもでないがまともに戦えまい。

そして気を張っていられるのは、そこまでだった。生身の体というものはどうしてこうも不便なのか。記憶と想いが混じった事で生み出された幻想は身体中に張り詰めさせていた緊張の糸を残らず断ち切って、全身を弛緩させてしまった。気の抜けた肺は溜め込んでいた想いを乗せて、口元より息を吐き出させた。想いは白色を帯びて靄に消えてゆく。

遅れて、神経を逆撫でる感覚が背筋を這い上がった。頭が痺れる。幻想により生じた想いがさらに遅れて薄れていた感情を刺激し、生まれた感情は半日前から緩んだままの涙腺を刺激して、眼から水がこぼれ落ちそうになる。ああ、全く、生身の体はなんとも度し難い。

―――文句言わないの。せっかく機会共々用意してあげたんだから、せいぜい活用して頂戴。

追憶と感傷に浸り侮蔑と哄笑が漏れそうになったとき、広場を行き交う人々の中から涼やかな声が細い風に混じってするりと脳髄に入り込んできた。まるで、凜が存命してこの場にいたなら返ってきそうな悪態に、思わず息を呑んで声の聞こえてきた方へと意識を向ける。

―――そうはいってもよ。三層の番人限定の素材を二人で回収はきつくねぇか?
―――あんたのミスでみんなに被害が出たのよ。これくらいの罰は当然でしょ。
―――そうかもだけど……っくしょぉ、だりいなぁ。
―――文句言わない。さ、私も手伝うんだから、やな事はさっさとすませちゃいましょ。

目線の先では仲睦まじそうにやり取りをする二人が雑踏の中へと消えてゆく。会話の内容から、彼はなんらかのミスを犯し、彼女はそれを挽回する機会を彼に与えてやったのだと言うことがわかった。そして私にはそれが、いつかの未来、彼が己のミスで自責する事が無いように、きちんと罰してくれたのだと言うことがわかった。彼女はそうして失敗を犯した彼が、再び胸を貼ってスタートラインに立てるように気遣っている事も、理解できた。

その甘すぎると思う程に厳しく、しかし優しい気遣いと言葉は、かつて凛という少女が持っていたものと良く似ている。どこまでも正しい彼女の言葉は、まるで凛の言葉であるかのように私の心中に染み入り、自己憐憫と自嘲にはやめようと思わせる効力を発揮した。

―――そうだ、私は、誰かのためではなく、私のために正義の味方になるのだ

先程幻視した彼らの笑顔と、それに基づいての誓いや願いや想いが、他者に救いの理由を求めるという脆弱さを孕んだ自己完結であることに気づき、やはり人はすぐには変われないのだと苦笑する。だがもう気づいた。だからいつかは変われる日も来るだろう。急ぐ必要はない。時間は有限であるがまだカレンダーを捲るのが億劫になる程度には残っている。まずは彼らのようにゴールの瞬間を焦らず、外れた道からを戻って、スタートラインに立ってやることが重要だ。

己よりずっと年若く未熟な彼らは、今まさにスタートラインに戻ろうとして寒い春の夜を駆け抜けていった。彼らの目指す先がどこかは知らないが、私も彼らに習おうと素直に思えた。私が今回ゴールと定めた迷宮の踏破という目的が、正義の味方という願いにつながっているのかはわからない。ただ、それでもゴールを自ら定めて、走る過程に意味を見出せれば、たどり着けないとしても、その生涯はどれだけ幸せな事なのだろうと思えた。

人は、終着にある届かない理想に、憧れて届かぬと知りながら手を伸ばしている、その瞬間が何より幸福な時であるのだ。いつかは届くかもしれないと微熱にうなされながら祈り、有限の時間を必死にもがいて灼熱の中を泳いで生きるからこそ、美しいのだ。

無限に続く時間と空間の檻外にいた私を、有限で終着点のある檻の中へ閉じ込めなおしてくれた凛と士郎へ何度目になるかわからない感謝を送る。追想の中に浮かぶ彼らは私に向けて微笑んではいない。しかし、いつか、理想を駆け抜けようとして力尽きた時、その微笑みが追憶の中で養父が私に向けた笑みと重なってくれる事を夢見て、私は体を前に動かす。

私はこの未知の満ちる未来世界で、理想に生きて死ぬための一歩を踏み出した。足裏は高らかに石畳を叩き、大きな音を鳴らした。そのまま大業に、大股で闊歩して見せると、人波が己の存在を気遣って割れてゆく。たったそれだけのことに、少しばかり救われた気がした。

昼間のように日光の影を選んで裏を歩くのではなく、月光と街灯の照らす街を堂々と歩く。いつかは描いた理想に辿り着いて見せると、他の誰でもない私自身に誓った私は、胸を張って歩くことにもはや何の躊躇も抱いてはいなかった。

世界樹の迷宮 Unlimited Future 〜 長い凪の終わりに 〜

第二話 理想を目指し、未知を行く 終了