うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第四話 歳はまさに甲子となりて

世界樹の迷宮  〜 長い凪の終わりに 〜

 

第四話 歳はまさに甲子となりて

 

過去の経験と記憶と感傷は背を押す原動力だ。

例え日に吠え月に喘いだ経験でも、経験に憂いた記憶でも、記憶が生み出す不安と恐怖の感傷でも、ないよりはあるほうがいい。

 

 

 

身体中を這い回る違和感に澹蕩の気分を邪魔される。白光に満たされた空間に赤光が差し込んだかと思うと、すぐさま部屋を生々しい血の色に染め上げた。やがて赤の部屋は壁面が蠢き、腐臭が漂うようになる。

 

原因を突き止めてやろうと、不快さに耐えてよくよく壁面を見てやると、つるりとした壁面に生じた凸凹が、人の顔の形をしている事に気がつく。私はその幼い顔に見覚えがあった。当然だ。だってそれは、私が、かつて、犠牲として容認し、この手で命を奪った、少年だ。

 

彼は苦悶の表情で口をパクパクとさせて、なにかを訴えようとしている。だが壁面には発声を行うための喉が付いていないので、言葉は小さき口より出てこない。しかし、私はその彼の声なき声がなにを訴えているのか、即座に理解できた。

 

―――どうして僕を殺したの

 

純粋な問いかけから逃げるようにして、隣の窪みに視線を逸らす。するとそこには、私が悪と断じて処分した魔術師の顔があった。魔術実験のために多くの村人を攫い、しかし私に討たれるその時すらも、なぜ私が殺されねばならないのかと叫んでいた奴は、苦悶の表情を浮かべながら、しかし恍惚とした目で語る。

 

―――所詮、俺とお前は同類なんだよ

 

ああ、知っているとも。そんな意思を込めて怜悧な視線で見下してやると、卑屈に視線を逸らす奴から興味が失せて、再び目線を隣へと移す。隣にいたのは、いつか救えなかった少女がいた。その隣には、救えなかった家族が揃って張り付いていた。

 

壁面には張り付く無数の、男の、女の、子供の、老人の顔は、私と関わり、結果、命を落とした人間たちだ。彼らは一様にして私に声なき声に暗澹とした感情を乗せながら、投げかけてくる。そうだ、これが辿った道の結果。たとえ未来へと逃されようと、忘れてはならない、私の無知と疑心が招いた罪科。

 

彼らの動かす口は何の言葉も語らない。しかしそこから漏れる感情は赤光に照らされた空気を振動させ、やがて私の肌にまでまとわりつき、皮膚の上を蠢く。やがてその圧は熱を持ち、肌の上に生温い水を生み、口腔より肺腑に入り込んで呼吸を乱す。

 

身体を包み込む不快に、しかし抗う気は起きなかった。やがて酸素が足りなくなった頭は、周囲の光景を黒白の二色でしか認識することが出来ないようになり、意識が混濁に飲み込まれてゆく。

 

そうして意識が消え失せる直前、黒白の中で蠢く彼らの姿の向こう側に、見知らぬ生物が私を覗いているのを見つけた。そいつは私の方を見て口から下品に涎を垂らすと、私の体を丸ごとを吸い込んで、咀嚼し始めた。

 

ああ、もう、どうにでもしてくれ。

 

 

「っはぁ! 」

 

横たわっていたベッドから上半身を飛び起こし、呼吸を荒げる。空気を振動させる音がはっきりと聞こえるほど、大きく何度も喉元を動かして空気を取り込んでやると、鍛えあげてある体はすぐさま落ち着きを取り戻してくれた。最後にもう一度大きく息を吐くと、シーツに枕と掛け布団だけが置かれた簡素なベッドの上から辺りを見回す。

 

入り口から、鎧掛けに、ハンガー掛け。机と椅子、大鏡と続き、そして窓で終わる十五畳ほどの部屋に、私は見覚えがあった。

 

―――そうだ、宿を借りたのだった

 

そして私は、昨日のことを思い出す。

 

 

新迷宮を駆けて逆走し、入り口に戻った私を迎えたのは、隊伍を組んで槍を前方に構える衛兵の群れだった。彼らは一様に怯えと緊張を備えながら、私にまるで怖いものを見るかのような視線を向けてくる。

 

一旦足を止めて、迷宮とそうでない場所の境界線付近に立ち止まり、頭を支えとして運搬していた蛇を地面に放り出す。すると、彼らは、

 

「蛇の化け物が人間になった」

「蛇人間だ! 」

 

などと言って大いに騒いで見せてくれた。どうにか落ち着いてもらい、話を聞くと、どうやら彼らには、迷宮の奥から蛇を運んでくる私の姿が蛇の体の下に人間の体が生えた新手の魔物に見えたのだとか。

 

失礼な、と思いながらさらに話を聞くと、彼らから見た私の姿は、頭を支えとしてクタリ垂れた蛇を運搬していたが故に私の頭は見えず、胴体だけが判別できる状態であり、その上、迷宮の色に似た赤い外套と蛇の返り血で赤く染まった黒いパンツという出で立ちは、如何にもこの迷宮に出現する魔物としていて、真に魔物と思うことしかできなかったのだとか。

 

言われて私は先ほどの自分の状況を思い起こし、少し想像する。赤い樹海を仄かに濡らす朝霧の中、上に乗る蛇の体は滑空するように霧を切り裂いて、その下に生えた首なし人間の下半身は土煙を起こし、地響きをあげながら入り口にいる自分たちのところへ、時速二、三十キロの速度で迫ってくるのだ。

 

―――なるほど、化け物と見られても仕方ないか。

 

不満を抱きながらも納得。その後、落ち着いた衛兵たちに地図が完成したので照合をお願いしたい旨を伝えると、彼らは驚いた様子を見せて、しかしきちんと私の地図を受け取り、そしてもう地図を見た瞬間、先程よりも大きな驚きとともにざわめき、暫しの騒動の後、私はやっと、迷宮の新迷宮一層一階地図完成を証明してもらうことができた。

 

その後、私は衛兵の好意によりアリアドネの糸を使わせてもらい、エトリアへと転移する。糸による転移という現象は、私の体を分解したりして時間や空間を跳躍するわけでないらしいと理解する。令呪を用いた転移や英霊として召喚される際とは違い、召喚酔いや体がバラバラになる嫌悪感を引き起こすことがなかった。代わりに体の節々が軽く痛んだ

 

瞬間的にある場所からある場所に移動する、というよりは、見えない水路の中の激流に身を任せてその勢いで目的地まで一気に運ぶ、というイメージが近いだろうか。おそらくは、転移というよりも超高速移動なのではないかと推測する正しいのだろう。

 

ともあれ、私はアリアドネの糸の力により、エトリアの転移所に移動した。蛇の死骸を執政院に持って行くまでの間、住人が驚かないようにと転移所の衛兵から貰った布で蛇の体を覆ったり、執政院に持ち込んだ蛇の死骸に受付が腰を抜かして悲鳴をあげるほど驚いて、ラーダ内に駐在する衛兵たちが集まってくるなどの一悶着もあったが、それでも私は、なんとかラーダの受付で新迷宮の拾得物報告と地図完成の報告をすませる。

 

クーマが応対するものと思っていたが、彼は別件で席を外しているとの事で会うことはできなかった。だが、それでも彼の手によってキチンと報酬は用意されていて、私が依頼達成の証として、森の入り口衛兵の手によって判を押された契約書を見せると、受付の彼に差し出されたクーマの用意していた契約書にギルド名や職業の名前も併せてサインし、引き換えに報酬五百イェンを受け取る。

 

また、蛇の全身標本はラーダが研究材料として買い取りたいと申し出てきたので、私は快く申し出を受けて、追加の報奨金を受け取る。その額は三万イェン。ただし、いきなりその額は用意できないとのことで、半値を現金で、もう半値を一時手形で受け取った。これで金は先の報酬と合わせて、現金は一万五千五百イェンになった。残りは明日の朝、鐘が鳴るまでに用意するので、それまで待っていてほしいとの事。急ぐ理由もないので了承する。

 

受け取った一万五千五百イェン高いのか安いのかわからないが、以前ヘイという男が牛串を十五イェンという価格で売っていた事から察するに、日本円にして四十から五十万いかないくらいだろうか。となると、三万イェンは間をとって、九十万くらいと見なせるか。

 

なんにせよ、袋一杯に硬貨が詰め込まれたものが三つはあるのだ。第一次大戦後のドイツのようなハイパーインフレでも起きない限り、その相場がいくらにせよ、これで当分の間は資金面に困るまいと、多少楽観視する。

 

そうして報酬と新迷宮探索許可証、冒険者証明書を受け取り、多少の安心を得た私は、受付にラーダ推薦の宿屋を教えてもらい、そして訪ね、長期逗留の契約を結んだ。

 

冒険者がこの街で転職し、そして戦闘職についた場合は、レベルというやつに応じて宿泊代が減額されるが、代わりに一日分の契約しか結べない、チェックアウト時間に確実に追い出されるという縛りがあるらしいのだが、私はこの街において転職を行なっていない為、その縛りを受けることがなかった。ちなみにその場合、一泊百イェンである。

 

女将は訪問者である私の、火傷と水膨れだらけの顔を見た瞬間、軽く悲鳴を上げ、簡単な治癒スキルで応急手当だけでもしようかと提案してきてくれたが、もしも回復薬の時のように、スキルが効かなかった場合、何者かと疑われ面倒なことになるかもと考えて、丁重にお断りさせていただいた。好意はありがたいが、厄介は御免だ。

 

でもひどい怪我だよ、と渋る女将に前金で宿泊代三千イェン即全額を支払い、部屋を一月借りる。その後、女将に頼んで簡単な食事を出してもらい、それを胃の中にかっこむと、案内された部屋に置かれたベッドの上へ倒れこむようにして寝たのだった。

 

 

ぼやけた頭で昨日のことを思い出すと、窓の外へと目を向けた。陽光が作る窓枠の影は元々の大きさよりもずっと短く、今がおそらく昼時であることを知らしてくれる。私は首元と顔の寝汗を拭うと、火傷のピリとした痛みから逃れるよう、陽光の清潔に誘われるよう窓に近づき、ガラス窓の鍵を開け、開放する。

 

外側と内側を区切る境界が無くなった途端、部屋に溜まっていた湿気と淀んだ空気が飛び込んできた風に撹拌され、その密度が薄められる。部屋の中を荒らした風はやがて入り口の扉に押し返されて戻ってくると、出戻りの風が窓より退出してゆく。

 

その涼やかさを含む風は通常なら心地よいと感じるものなのだろうが、全身に火傷の痕跡が残る今のこの身には、少しばかり刺激が強すぎるようで、寝汗に濡れた上半身の水膨れが残っている部分がヒリヒリとジクジクと痛みを訴えた。反応して思わず火傷跡に触れようとする手をなんとか止める。

 

おそらくこの全身を包み込むじくじくとした痛みと、寝汗の気持ち悪さとが、昨日潜入した迷宮の不気味な外見の記憶と混じり合い、さらに痛みと気持ち悪さが私の古き過去の記憶と結びつき、あのような悪夢を見せたのだろうと思う。

 

しかし、夢を見るなど、どのくらいぶりだろうか。睡眠を必要としない英霊は、基本的に夢など見ない。夢とは浅い眠りの時に、その日に起こった物事を脳が整理して記憶として残す際に起こる現象だ。つまり、私が最後に夢を見たのは、生前ということになる。

 

私の生前というと、もはや幾億千万の彼方、その遥か昔の出来事だ。だから、もはや、夢を見て起きた後、どういう感覚を抱くのが生身を持つ人間として正解なのかなどわかろうはずもない。だがこうも獰猛な悪夢を見た場合、本来もっと最悪に近い気分を抱くのが当たり前の反応だと思うのだが、今の私はむしろ真逆に、不思議な解放感だけが心中にあった。

 

悔恨に満ちた悪夢の内容は今でも鮮明に思い出せる。しかし、思い出した所で、不思議と何の感慨も湧いてこない。空虚になってしまった想いがどこに行ったのだろうと、胸の裡を探りあれこれと思案していたが、しかしやはり結論は出ることなはかった。

 

そうして私が時間だけを無為に浪費していると、やがて無駄を責めるように、窓よりもう一度乾いた涼しい風がひゅうと入り込み、体の表面を撫ぜていった。寝汗に濡れた火傷跡の残る体は、風に体温を奪われて、寒さとこそばゆさと軽度の痛みを訴える。

 

私は刺激に促されるようにして窓を閉めると、今来ている汗を吸って湿気ったシャツを脱ぎ、新たなシャツを投影すると着込む。普段着として投影した黒シャツの柔らかい布地が火傷の跡残る肌を優しく包み込み、外の空気と遮断されたことにより、痛みが微かに和らぐ。

 

そうして生まれた心地よさの上に防寒として赤い外套を羽織ると、靴を履いて、部屋の反対側、入り口の扉へと向かう。さて、何にせよ、まずは食事で活力を満たすとしよう。

 

 

起き抜けに女将が用意してくれた食事をいただいている最中、火傷の治っていない状態をみた女将は、「まずはその全身についた火傷を施薬院で治したらどうだい」とため息混じりにアドバイスをくれた。その言葉に従い、食事が済んだ後、私はベルダの広場にあるというモスクのような外見の建物の前にやってきた。

 

円形の広場より少しだけ離れた場所にあるそこの内部は、すぐ近くにある広場の喧騒などとは無関係の場所だと主張するかのように、シンとして静けさを保っている。一見祈りを捧げるべく作り上げられたに見えるこの建物の名前は、ケフト施薬院。いわゆる、エトリアの治療施設である。

 

薬院の内部に入ると、まず空高くまで吹き抜けるような高い天井が私を出迎えてくれた。両側の壁に設置されている棚が嫌でも目に入る。棚の中には美術調度品ではなく、ビーカーやフラスコが所狭しと並んでいて、様相はまるで病院というよりも、教会。教会というよりも、古い時代の化学実験施設のような雰囲気を漂わせている。

 

棚に沿って奥まで目をやり、縦に等間隔で並ぶ三つの窓を辿って視線を上へと持っていくと、丸みを帯びた天井までは二十メートルはあるだろうことがわかる予測できる。壁に立ち並ぶはめ殺しの窓からは、朝昼晩どの時間帯でも院内を明るく保ち、清潔感を出そうとする設計思想が見て取れた。

 

絵画の煩わしさを嫌って真っ白く染め上げられた天井から一気に視線を下ろしてやると、出っ張り半円にくり抜かれた空間の中心に、直径二メートルほどの盃が地面に置かれているに気づいく。なんだろうと立ち止まって見ていると、施設に入った人間はまずそこへと進み、手を洗っているのがわかった。多分、大きめのフィンガーボウルなのだなと推測。私は周りにいる彼らに習って、奥へと足を進めた。

 

少し奥へ進むと、左右の扉から傷だらけの人間が扉の向こうに消えたかと思うと、戻ってくる頃には傷一つない状態になっているという光景が出迎えてくれた。なるほどたしかに、「いかなる病気や怪我でも治して返す場所」と自慢げに述べた女将の言は嘘でないらしい。

 

手を洗い、さて、どうすればその自慢の治療を受けることができるだろうかと辺りを見渡すと、ひとりの白衣を着た少女が先に見つけた扉の向こうから出てくる姿を見つけた。まだ幼さの残る容貌に反して、しっかり結い上げられた黒髪と、まっすぐとした顔つき。私は多分、彼女はこの施薬院の関係者なのだろうとあたりをつけ、少女へ声をかける。

 

「すまない。少しよろしいだろうか? 」

「あ、はーい、……、うん、なるほど。わかりました! 今すぐの治療がご希望ですね! 」

 

私の声を聞いて視線を上にあげた少女は、私の顔を視界に収めた途端、静かな怒りの感情

を含んだ笑顔で断言した。予想だにしなかった反応に、少しばかり気圧される。

 

「そうだが……」

「見た感じ、火傷を半日ほど放置していましたね!? なんでですか! 」

「ああ、いや、その、なんだ、新迷宮に潜って疲れていたのでな…… 」

「じゃあ余計にダメですよ! 特に新迷宮なんて、まだまだ謎が多い場所なんですから、何が原因で体調が悪化するかわからないじゃないですか! 次からは、怪我や体調不良になったら、すぐにここにきてください! いいですね! 」

「あ、ああ、了解した」

 

その威勢の良さと押しの強さに気圧されるがまま、肯定の返事を返す。そうして言われるがまま返した答えを聞くと、彼女は満足げに頷いて立ち上がった。

 

「では、早速治療室までご案内します。ついてきてくださいね! 」

 

宣言すると、彼女は逃がさんとばかりに、強引に私の腕を掴み、そのまま引きずるようにして施薬院の奥へ向かおうとする。色々と言いたいことはあったが、何かをいったところで火に油にしかならないだろうなと感じたので、私はなされるがまま、その案内に従って、足を小刻みに歩幅を彼女に合わせて動かした。

 

 

薬院の両側より奥の場所は、図書館のような場所だった。扉をあけて中に入ると、大きく十字に開かれたその四方の壁には棚が張り付き、その棚に囲われるようにして、部屋の中央には多くの長机と、それに合わせた数十脚もの椅子が並んでいる。棚に収められているものがビーカーでなく本であったなら、まさしく図書館といって差し支えないだろう。

 

少女はその机と棚との間を縫うようにして進むと、適当な空いている場所を見つけ、彼女は椅子を引いて私に座るよう促した。指示に従い、私が机を正面にして腰をかけると、彼女はその隣に座って、机を横目にこちらを向く。

 

「では、脱いでください」

「……は? 」

 

そしていきなりの言葉に驚き、半身を捻らせながら、彼女の顔を見た。

 

「え、ですから脱いでください。治療が出来ないじゃないですか」

「治療……? 君が……? 」

 

私は彼女の言葉を聞いて、思わず首を前にしてその小さな顔を覗き込んだ。彼女はその失礼に驚く様子も見せず、もう一度繰り返す。

 

「そうですよ。私が治療します。私もこの施薬院のメディックですから」

 

言って彼女は胸を張ると、羽織った白衣が揺れて、胸元のプレートが目に入った。そこには「ケフト施薬院所属メディック サコ」という文字と多分証明のだろう判が記載されている。驚く事に、この小さな少女は本当にこの場所で医療行為を行う医師であるらしかった。

 

「あ、ああ、すまない。その意外だったものだから」

 

そこまで言って、今の自分の謝罪が君は医者に見えないとの侮蔑を多分に含んでいることに気がついた。失礼を恥じて私が眉をひそめると、彼女はそんな自責を見抜いたのか、「いえ、いいんですよ」と言いながら、にっこりと笑った。

 

「さ、わかったら脱いでください。火傷は上半身だけですか? 」

 

私は外套を机の上に置いて、シャツを脱ぎながら答える。露わになった肌は、ある面は腫れ、ある面は表皮がなく、ある面は水膨れがあり、ある面は体液が滲んでいた。彼女はそれを見て物怖じするどころか、憐憫と怒りと呆れの目を向けてくる。その眼差しは、医療従事者が患者に向ける特有のものであり、そして私はようやく彼女が医者だと言うことを確信した。

 

「ああ、おそらく、肌を晒していた部分だけが熱風でやられたのだと思う。上半身がひどい分、逆に、腰部から下にかけては一切火傷はない。靴はブーツ型、ズボンは足首の裾を靴の中に入れ、さらに腰から靴との接触部分近くまでをベルトできつく締めて、隙間が生まれないようにしてあるからだろう」

「それでも上がこれだけひどいのですから、下も多少は跡がありそうなものですが……まあどのみち治せますから、いいです。とにかく、状態はわかりました。では、ちょっと失礼」

 

いうと彼女はラテックスの薄いゴム手袋を着用し、肌蹴た胸元に手を当てて、ペタペタと

触る。彼女が触るのは、火傷の深度が浅い部分か問題ない場所ばかりで、無事な場所の神経はむず痒いさを、それ以外の部分を微かな痛みが這い回る。

 

少しばかり二つの感覚に耐えていると、彼女は立ち上がり私の周りを半周して背中側に回り込み、やはり火傷の跡の上をなぞってゆく。

 

「あー、すごい、こんなところにまで。随分広範囲にまあ、法則性もなく広がってますねぇ。これ、敵の攻撃によるものですか? 」

 

正直に答えるなら、投影魔術で生み出した宝具の爆発の余波によるものなのだが、魔術の事も宝具の事もバカ正直に言う事が憚られた。それは魔術が多くの人に知られるほど威力と効力が弱まるという特性以上に、スキルではなく魔術、という異端が、彼らに受け入れてもらえるかわからないという、臆病の葛藤によるものだった。私は少しだけ考えて、答える。

 

「いや……、違う。敵を処分しようとして爆発を起こしたら、思いのほか、威力が強くてな」

「あー、火力の調整を誤りましたか。なるほどねー」

 

上部だけを取り繕った意見に、彼女は納得したと言わんばかりに大きく首を上下に動かして頷いみせる。受け入れられたことに、少しばかり胸をなでおろした。しかし、この浅い説明で納得されるということは、スキルでも宝具の爆発と同じような事象を引き起こす事が可能で、この手の事故はよくあると言う事なのだろうか。

 

「あ、すみません。少し待っていてくださいね」

 

私の顔が疑問に歪んだのを、苦痛のそれと勘違いしたのか、彼女は駆け足に壁面の棚へ向かうと、そこから一つの三角フラスコを取り出して戻ってくる。瓶の中には薬草と液体。そうしてその蓋を開けると、フラスコを振って中の黄色の液体を少し撹拌させ、言った。

 

「では、いきますよー。皮膚がすでに薄く再生していますから少し痒かったり痛かったりがあるかもですが、我慢してくださいねー」

 

呑気な声とともに、体に液体がかけられる。生ぬるさと痛みの感覚が、ごちゃごちゃと雑多に上半身を駆け巡る。迷宮でメディカを被った時のような、アルコールと薬液の匂いが鼻腔に広がった。そして。

 

「ヒーリング」

 

宣言。彼女の放った癒しの意味を持つ言葉と共に、私の体は柔らかい光に包まれた。かけられた液体は彼女の言葉に反応して光の粒子になると、全身を薄く包み込み、皮膚の下へと潜り込む。直後、上半身の火傷を負った部分に違和感。

 

彼女が言った、くすぐったいような、かゆいような刺激が上半身のあちこちを襲ったかと思うと、みるみるうちに、浅黒い肌に残る傷が消え、元の平坦さを取り戻してゆく。

 

やがて数秒ほどして異常な感覚が収まった頃、追うようにして発光現象も薄らいでゆき、光が完全に消える頃には、私の体は十全な状態に戻っていた。痛みのまるでなくなった肌の上を強めにさすってみても、何の違和感もない。その手際のあまりの見事さに、私は感嘆のため息をついた。

 

「見事なものだな」

「いえいえ、それほどでも。この程度。市販のメディカでも同じ事が出来ますからねー」

 

謙遜していうが、彼女は少し誇らしげだった。しかしすぐに疑問を浮かべた顔で続ける。

 

「それにしてもすごい無茶しますねー。痛かったでしょう? こんな火傷を放って一晩過ごすなんて。施薬院にくるのが億劫だったとしても、それこそ市販のメディカや普通のメディックの方にでも治してもらえばいいでしょうに」

 

彼女の言った疑問の言葉に、私はしかしその答えではなく、別の事を考えさせた。ああ、やはりメディカを使えば、この程度の傷は治ってくれるのか。私は解析結果が間違っていなかったことを安心し、しかし同時に、なぜ私の投影品は効力を発揮しなかったのだろうと思う。

 

私は首を傾げたままの彼女に、言葉を選んで回答するとともに、尋ねる。

 

「ああ、まぁ、そうなのかもしれないが、ちょうど手持ちが心もとなかったのでな」

「ああ、なるほど」

「……そうだな、ところで、そのメディカ、と言う薬なのだが、どのような仕組みで傷を治すのか聞いても良いだろうか? 」

「……? 別に、構いませんけど」

 

なんでそんなことを気にするのだろう。私は彼女の瞳に浮かぶそんな疑問の色に、あえて完全に気づかないふりをして、受け流した。

 

「なに、大した理由はないよ。単なる興味本位だ」

「ふぅん……、まあいいです。えっと、そう、メディカでしたね……、この薬にはアルコールと洗浄、殺菌作用をもった液体に薬草を加え、私たちがヒーリングのスキルを閉じ込めてやる事で完成します。ちなみに中に含まれている液体に何を溶かすかでそのスキルの効力も上がります。例えば、メディカⅱだと小さな花が必要になりますし、メディカⅲだと琥珀色の蜜結晶が必要になります。植物ではないですが、これに岩サンゴを混ぜれば、重傷でもたちどころに治る、メディカⅳが出来上がります。これが治癒効力の違いになるわけですね」

「……なるほど」

 

彼女の説明を受けて私は、細かい理屈はわからないにしろ、私の投影した薬がなぜ効力を発揮しないのか理解出来た気がした。私の投影品が効力を発揮しないのは、おそらく、彼女の言うところのスキルという奴のせいなのだろう。

 

私はそのスキルというやつを使うことができない。どのような理屈で発動しているのか、どこから力を引っ張ってきているのか、さっぱり理解出来ていない。だから、投影の際も、その部分を再現してやる事ができず、結果、効力を発揮しない薬が出来上がるのだろう。

 

「いや、興味深い話だった。感謝する」

「いえいえ、それほどでも」

「いや、治療の手並みといい、見事なものだった。お陰でこの通り、十全な状態に体を戻すことができた。……ところで、料金はいかほどだろうか? 」

 

尋ねると、彼女は少しぽかんとした顔を見せて、しかしすぐに笑ってみせると、言う。

 

「いえ、いりませんよぉ。ケフト施薬院はエトリアに住むみんなのための施設ですからねぇ。余程の事情がない限り、治療費はいただいていません」

「――――――、そうか」

「ええ。でも、そんなことも知らないなんて、あなた、やっぱりど新人さんですか?」

 

私は私の情報を開示して良いものだろうかと一瞬思ったが、どうせ言わなかったところでいつかはバレてしまう問題である。それに執政院という政府機関に相当する部署が知っているのだから、同じく公共施設だろう施薬院の職員に言ったところで問題あるまいと判断すると、頷いて答える。

 

「ああ、昨日こちらに着いたばかりだ」

「はぁー、なるほど。だから怪我してもここにこなかったんですねぇ」

 

納得して見せる彼女は、鷹揚に頷くと、ポケットから一枚の紙を取り出して、言う。紙には彼女の「サコ」 と言う名前とケフト施薬院という名前と印章が大きくが刻まれていた。

 

「では次からは、遠慮なくおいでください。怪我をしてやってくる事を歓迎するわけにはいきませんけれど、怪我をした人、病気の人たちを私たちは昼でも夜でも、いつだって門戸を開いて受け入れます。どうか忘れないでくださいね」

 

 

エトリアの鐘が昼の時を告げ終えた頃、無料にて治療を終えた私は、執政院にて残りの半金を受け取り、ベルダの広場より離れて、街の中心街より離れた場所へと向かっていた。

 

傷口と接して汚れたシャツをこっそりと投影しなおして、シミひとつない糊の利いたシャツに外套を羽織り、不快感のすっかり失せた体で、一朶の雲すら無い蒼天の下に広がる石畳の街を軽やかな足取りで進む。白の漆喰と木材で作られた街並みは、陽光を反射して綺麗な光沢を周囲に誇っていた。

 

その青さに負けないくらい晴れ晴れとした気持ちで、歩を進める。そうして十分ほども澹蕩の気分を味わっていると、やがて、人並みの少なくなった頃に、目的の場所を見つける事ができた。

 

住宅街と広場のその間に、人目を避けるようにしてポツンと置かれた立て看板には、「ヘイ道具屋」と書かれていた。さてあの男は雑貨店、と言っていたがと首を一捻り。私はその民家のようにしか見えない家の前に立つと、胸ポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出して、その面に書かれた紋様を看板のそれと比べる。

 

―――ああ、間違いない

 

二つの図形に相違がない事を確認すると、私は扉を開けて、その店内へと足を踏み入れた。

 

 

扉を開くと、軽やかな鈴の音が鳴った。そうして薄暗い店内に足を踏み入れると、そこに広がる光景は、道具屋というより、鍛冶屋を連想させた。鉄と土と焼けた木材と塗料の混じった独特の煤けた刺激臭がツンと鼻をつく。

 

まず目立つのは、奥にあるレンガで作られた、製鉄用の鞴と竃と炉だ。そこから視線を手前に戻してくると、生のまま広がった土の地面の上には、水桶に冶金台、ハンマー、てこ棒、火箸、レンチ、万力などが、所狭しと捨て置かれている。

 

そこからさらに入り口に近づくと、剣や槍が立てかけられた樽や桶、鎧盾に兜が立てかけられ、あるいは乗せられた木台が目に入る。こちらは多少見栄えに気を使っているらしく、一応の法則性に従って規則正しく並べられているが、それでも雑多という以外にこの場所を適当に表現する言葉が思い浮かばないほどには汚れていた。

 

「はいはい、どちらさん―――、っておお、来たか 」

 

そうして店の中を見回していると、やがて炉の横の通路から太めの大柄な男が呑気な声を上げてやってきた。忘れようもないその濃い顔は、二日前、エトリアにて私が始めて会話を交わしたヘイという男の顔に間違いがなかった。

 

「ご招待にあずかり参上させてもらったよ、ヘイ」

「やぁやぁやぁ、よく来てくれた、エミヤ」

 

彼は大業に両手を広げると、そのままこちらへと近寄ってくる。その抱擁を片手で胸元を押し返して柔らかく拒絶すると、彼はノリが悪いなぁ、と惜しげに呟いて指を鳴らした。私がその引っ掛けた作業用ツナギに引っ付いた油と鉄と塗料と土の汚れを一々指摘してやると、彼は大いに頷いて、悪かった、と頭を下げて来た所から奥へと引っ込むと、ドタバタとした音の後、すぐさま綺麗な身なりで姿をあらわした。

 

「それで、どうだった。冒険者にはなれたのかい? 」

「ああ。おかげさまで、昨日、正式に新迷宮で活動して良いとの許可をもらえた。……これが証明だ」

 

言って胸元から書類を引っ張り出す。ヘイはその書類の上から下にまでご丁寧に目を通すと、感心していいのか呆れていいのかわからない、といったような、なんとも不思議な顔を浮かべて、こちらに謎の視線を向けた

 

「いや、へへ、馬鹿だたぁ思っていたけど、まさかここまで突き抜けた馬鹿だとは思ってなかったんでね」

「ヘイ、それはどういう意味だ」

 

遠慮のない直接的な罵倒に少しばかり腹を立てて応対の口調を強める。普通の人間なら怖気づく程度の圧に、しかしヘイは平然としながら、やはり呆れた口調でいう。

 

「いやさ、お前さんが新迷宮をクリアするだろうな、ってこたぁ予想してたんだよ。だって、お前さんの纏う雰囲気や空気はそこいらの一般冒険者が出せるもんじゃあなかったからな。ただまぁ、お前さんが、どこのギルドのも所属しないで、エトリアで定められている戦闘職に就くこともなく、一人で新迷宮に突っ込んだ挙句、クリアするような実力ある馬鹿だたぁ、思っていなかったんでよ」

 

彼はひらひらと手中で踊らせていた紙をこちらへ弾きながら言った。私はそれが地面につく前に素早く拾い上げると、折りたたみ、胸元へとしまい込むと、ため息を吐く。

 

「君は結局、馬鹿にしているのか、褒めているのか、どっちなんだ」

「いや、別にばかにゃぁしてないよ。むしろほめてらぁ。ただ、ただ、そう、知り合いの馬鹿を凌ぐ程の馬鹿がいるもんだなぁ、と感心していただけさ。いやはや、世界は広いなぁ」

 

どう聞いても馬鹿にしたとしか思えない態度で、ヘイは間の抜けた声を漏らす。

 

「ほぉ、だが、馬鹿を凌がない程度の馬鹿という私のご同類とお知り合いな君も、きっとご同類なのだろうね」

「ああ、その通りさ。いや、あいつらもお前さんよりずっと未熟な状態でエトリアに来て、俺の店にやって来たと思ったら、たった三人で旧迷宮に挑んで、たった三日で地図を完成させた奴らなんだよ。あん時は、まぁ、無鉄砲な奴らだと呆れたもんだが、まさか上がいるとは……普通思わんよなぁ? 」

 

嫌味をさらりと受け止め、そしてもう一度わざわざ貶す言葉をニヤリと大げさに言ってのけるヘイ。そのあまりにこちらを馬鹿にしたような態度にカンに触ったので、その怒りを大げさに表現するかのように一つ大きな咳をかますと、木台を強く叩いてやった。衝撃に台の上に乗ったさまざまな物品が、一瞬浮遊をみせる。

 

「ああ、悪かったよ。言いすぎた。そう怒らんでくれ」

「……まあいい。今日はこんな話をしに来たのではない」

 

言って道具を整えるヘイを尻目に、腰に引っ掛けたバッグから硬貨の入った袋を取り出すと机の上に投げ置いた。重い金属音が細かく重なって、大きな音をたてる。ヘイはその袋を見ると、一気に目元口元を引き締め、剣呑な雰囲気を漂わせながら聞いてくる。

 

「これは? 」

「昨日執政院からもらった報酬の一部だ。これで道具を売ってもらいたい」

 

ヘイはその袋に手をつけようとしないまま、木台の向こうへ行くと、年季の入った紐で製本された紙束を持ってくる。

 

「ほれ。これが売ってる道具の目録だ。んで、今のお前さんに売れるのは、ページの枠に色が付いていない部分のもんと、糸だけだ」

 

パラパラとめくると、カタログには街中をあるく冒険者が装備している装備品や、物品、そして一昨日がた自分が投影し、しかし効力を発揮しなかった薬などが、製作に必要な材料や、仕立て直しの際にかかる料金、調合調整期間、値段などと共に掲載されている。

 

私は枠が白く、色のついていないページだけを選別してパラパラと眺めると尋ねる。

 

「全体の量に比例して、随分とまた私が買える商品が少ないようだが」

「そりゃそうだ。そもそもメディカとかの基本的な薬やアリアドネ以外は、迷宮の中でしか取れない材料を元に製作しているからな。冒険者ってなぁ基本的に自給自足が原則。自らの力で勝ち取ったものでない力は手に余るからな。だからそこに乗っている、無色のページ以外の道具や武器防具が欲しいなら、目録にある道具の素材を自前で用意してくんな」

 

ふむ、なるほど。このエトリアという街は、いかなる不審者も冒険者として受け入れる、随分と大らかで大雑把な性格の街だと思っていたが、力に対する考え方や、締めるべきところと緩めるべきところの線引きはきちんとしているらしい。これが住む人々全員に共通する考え方だとするなら、大したものだと思う。

 

「了解した。ではまず、そうだな。……アリアドネの糸を五個とメディカを十個ほど頂けるだろうか」

「ん、ちょっと待ってろ」

 

言うと彼は、奥へと引っ込み、かちゃかちゃ、ガチャガチャと音を立ててあたりを騒がすと、木箱を二つ持ってくる。彼が机に置いたそれを覗き込んで見ると、一つには凧の糸巻きに似た姿のアリアドネの糸が雑多に詰め込まれ、もう一つにはメディカと呼ばれる薬の入った細瓶がきちんと等間隔な状態で綿に突き刺さっていた。

 

ヘイはそれから私の指定した数を取りだすと、糸は机の上に並べ、メディカはゴムで薬瓶の上下両端を縛り固定して、それらをこちらの方へと押し出した。

 

「合わせて七百イェンだ」

 

指定の額を袋からとりだして渡すと、彼はそれを受け取り、乱雑に近くの桶へと放り込む。桶の中には結構な額の硬貨がたまっているらしく、硬貨が桶の中に姿を消した直後、薄暗い店内に涼やかな金属音が細切れとなって鳴り響いた。金に無頓着なところがまた、彼らしい。

 

「他に何かあるか? 」

 

ヘイの言葉に、私は少し考え込む。もうこの時点で必要なものは最低限入手した。後はその旧迷宮という場所に行って材料を手に入れなくてはならないものばかりと言うなら、もう用はない。さて、あとは……、ああ、そうだ。

 

「そうだ、ヘイ。質問があるのだが、よろしいだろうか」

「ああ、まぁ、答えられる範囲内でなら答えてやるよ」

「感謝する。ヘイ、この中に、毒と石化を防ぐ装飾品はあるか?」

 

カタログを片手に持ち机に差し出すと、ヘイは無言でカタログの紐を解き、パラパラとページをめくる。やがて枠が濃緑色のページと枯草色のページを取り出すと、私の前にそのページが正面になるよう揃えて並べて差し出し返してきた。

 

「ほら、これだ。一つは毒祓のタリスマン。一つは石祓のバングルだな」

「ふむ、これを作成するための素材入手方法は? 」

「毒の方は旧迷宮の二層六階あたりに出現するポイズンウーズをぶん殴って倒した際に出る、毒の凝集された粘液を持ってきな。石の方は四層二十階前後に出るアークピクシーを石化させて服を剥ぎ取れ」

 

……殴って倒すはいいとして、服を剥ぎ取れとは、また凄まじい事を言う。服を着ていると言うことは、そのアークピクシーとやらは人型、ないし、知性のある生き物なのだろうか? そうだとすると、少しやりにくい。しかし。

 

「ところで、石化と、いうのはどうすればいいのだろうか」

「ああ、そりゃオメェ、ダークハンターかカースメーカーに手伝ってもらうか、それか最近開発された石化の香を使うかだな」

 

手伝ってもらうのは論外として、石化の香を使う、か。名前とこれまでの流れから察するに、使うと敵を石化させる香なのだろうが、しかし一体どういう理屈で……、いや、もう問うまい。どうせスキル関係しているのだろう。ならそれはもう、自分の理解の及ぶ範囲ではない。

 

「ふむ、では、その石化の香、というのを手に入れるにはどんな素材が必要なのだ? 」

「ああ、うーん、それがこれ、割と素材の入手に面倒があってなぁ。盲目、麻痺、混乱

睡眠の香の材料をちょっとずつ混ぜて作るから、旧迷宮のあっちこっち飛び回らんと手に入らんぞ。―――ほらこれが必要素材の書いてあるページ。そうだな、でも、新迷宮一層一階を一人で攻略したアンタなら、三ヶ月もあれば集められるだろう」

 

言いながら三色のページをこちらへと差し出した。私はそれを受け取ると、素材の入手場所が二層、三層、四層とかかれたのを見て嘆息した。三ヶ月。それは流石に、準備期間としては長すぎる気がした。そもそも、新迷宮を攻略するのが目的なのに、旧迷宮に潜るというのが、なんとも本末転倒である気がする。

 

―――あの研究員の忠告を無視し、危険を承知でも先に進むべきだろうか

 

思いがけない壁の出現に頭を悩ませていると、ヘイは机を叩き、尋ねてくる。

 

「ちなみにその二つが必要なのは、新迷宮一層の蛇対策かい?」

「そうだ」

「ふぅん、しかしなんでまた毒まで必要なんだい? 一層の蛇が使うのは石化毒だけと聞いていたけれど」

「いや、蛇の毒は、生物の体を融解させる猛毒と石化させる毒が混ざったものらしくてな。片方だけだと効果がないとは言わないけれど、敵の毒を完全に防いでくれはしないらしい」

「へぇ、それは初耳だ。エミヤ。アンタ、それをどこで知ったんだい? 」

 

少し逡巡。しかし、別に隠しだてするほどの事ではないと判断して、口を開く。

 

「今朝方、執政院で、だ後だ。蛇の体を丸ごと執政院の研究機関に提供し、その報酬の半値を受け取る際、事務処理にやってきた研究員が嬉々として教えてくれたよ。いや、今朝訪ねた際、やけに手続きに時間がかかるなとは思ったが、まさか受け渡したからずっと解剖と調査と研究とをしていたとはね。まぁ、お陰で対策がわかったわけだが」

「……蛇って、おまえ、あそこの蛇は人間一人なんかより余程でかくて重いって聞いた事があるんだが」

「まあ、それなりに巨大で重くはあったな」

「それ、正式な冒険者になる前の話だろ? てことは糸なしで持って帰ってきたのか? 」

「……、まぁ、そうなるな」

 

人ごとのように告げると、ヘイはぽかんと口を開けて停止した後、木台に上半身を預け、腹を抱えて大笑いしだした。振幅する腹より生じるその声は、陰鬱な店内の雰囲気を吹き飛ばすような空気をも揺らす声量があり、私は少しばかり耳の中にダメージを受け、思わず両手で耳を塞ぐ。

 

やがて彼の馬鹿デカイ笑い声が収まった頃、彼は抑えていた腕を木台の上に移動させて身を起こし、目元に浮かんだ涙を拭いながら言う。

 

「うん、いや、あんた、やっぱりとびきりだな。あいつら以上だ」

 

具体的な事を何一つ言わない言葉には、多分な感心と呆れと喜色が混じっていた。私はもう反応してやる気にならなかった。するとヘイは、私のその態度を見て、さらにもう一つ笑いを漏らすと、呼吸を整えながらいう。

 

「うん、じゃあ、その馬鹿さ加減に免じて、少し裏技を教えてやろう」

「裏技?」

「ああ。実はな。さっき言ってた素材は自分で集めにゃならん、ってのには抜け穴があってな。素材を自分で入手しなきゃならんのはそうなんだが、別にその素材を手に入れるために迷宮に潜って自らの手で取ってこなきゃならんと言う条件はないわけなんだよ」

 

ヘイの言葉を聞いて、私は途端、閃く。なるほど。

 

「つまり、買取や交渉で素材を手に入れても構わないと? 」

「その通り。とはいえ、その場合交渉の相手は道具屋じゃなくて、冒険者になるから、多少の余計な出費は覚悟せにゃならんがな。その際は、金鹿の酒場の掲示板に依頼を張り出すのが一番手取り早い。適正価格がわからなかったり、交渉に自信がないなら、あそこの女将に相談すれば、大体相場位の値段で張り出してくれるぞ。まぁ、こっちは余計な出費が抑えられる分、多少運と時間を要するが、まぁ、自分で全部の素材を集めるよりは金も時間も節約できるだろう」

 

私は聞いて考える。確かにそれは魅力的な提案だ。別段金を惜しむ気は無いし、その女店主とやらに相談した上で、適正価格の倍程度の金額を張り出しておけば、すぐさま手にはいるのではないだろうか。

 

「有益な情報の提供、感謝する」

 

言って荷物を纏めて立ち去る準備を始めると、ヘイは慌てて引き止めてくる。

 

「おっと、まちな。その顔は、とにかく金を積んででも、素材を手に入れようって顔だな」

「……、それがなにか?」

「いやなに、確かに金を惜しまにゃ素材はすぐに手にはいるだろうが、その後、素材から装飾品に加工する際には、また別に手数料が必要となる。それにお前さんの欲している素材ってぇのは、四層の一番奥に潜む奴をさっき言った特殊な手順で倒してやらにゃならん。そもそも旧迷宮四層到達者の数は限られているからを受けられる冒険者は少ないだろうし、そう言う奴らはほかに一杯の依頼を抱えているから、金を積んでもすぐに順番が回ってくるとは限らねぇ。金を積むほど、順番は早く回ってくるかもだが、そうなると今度は装飾品を作る手数料が足りなくなりかねねぇ」

「……回りくどいな、何が言いたい? 」

「へっへ、だからよ。その素材を手に入れられる冒険者に、俺の方から依頼しといてやろうかと思ってな」

 

ヘイの提案に、私は荷物を纏める手を止めた。ゆっくりと彼の方に顔を向けると、出会った時見せたような、いたずらに成功した悪餓鬼のような意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。

 

「……助かるが、またどうして急に? 自給自足が基本ではなかったのか? 」

「なに、新迷宮一層にでる蛇の化け物を一人で片して持ち帰る奴なら、旧迷宮の四層だろうと一人で問題なく踏破出来るだろうからな。そんな人材をわざわざ足止めするなんて勿体無い事、見過ごせないのさ。それにそれだけの実績があるなら、あいつらも素材を提供するのに嫌とは言わないだろうしな」

「―――、そうか。気遣い、感謝する」

 

言ってもう一度頭を下げると、ヘイはからからと笑って、言う。

 

「いいって事よ。しかし、お前さん、今日は随分とまた、素直だね」

「……そうか?」

「おうよ。前にあった時は、もっと、色んなものを抱え込んで一杯一杯みたいな顔をしてたけど、今日はやけにスッキリとした顔をしている。何か嫌なこと忘れられるくらい、吹っ切れる出来事でもあったのかい? 」

 

ヘイの言葉に私は今朝方の事を思い出す。そして、悪夢を見ている際に感じていた感情を思い出そうとして、やはり出来ないことを確認した。何故だろう、人より指摘されてその事を再確認すると、今更ながら、怒りがこみ上げてきた。

 

この胸を焼く怒りは、自己嫌悪の炎だ。己の犯した罪と彼らの怒りに対して、何も感じなくなってしまったと言う事に、私は腹を立てている。私は、それほどまでに、身勝手な人間に成り下がってしまったと言うのか。

 

思った途端、胸の裡に不快の感情がさらに走った。正義の味方になると言う目的から遠ざかってしまったと言う感覚が湧き上がる。やがて、そのドロドロとした汚泥は静謐な状態を保っていた心中を塗りつぶして、鬱屈とした気分をもたらした。胸が苦しい。

 

湧き上がるモノを抑え込むようにして胸元を握りしめると、柔らかなシャツの縫製が悲鳴をあげた。その軋みが胸の苦しさとリンクして、余計に私の心の軋轢となる。

 

「お、おい。なんかまずったことでも聞いたか? 」

 

ヘイは私の変化を見て、あたふたと慌て聞いてくる。私はそれを聞いて背筋をしゃんと伸ばし直すと、胸元に置いていた両手を分離させて、二つを拳にして強く握りしめた。

 

「いや、大丈夫だ。問題ない」

「問題ないって、お前さん、それ」

「問題ない。それより、ヘイ。出来ることなら。彼らとのコンタクトを頼む。連絡にはどのくらい時間を要するだろうか? 」

「お、おう。そうだな―――、昨日新人引き連れて潜ったばかりだから、多分、一週間、いや、三日、かな? それくらいで限界になって戻ってくるんじゃねぇかな」

「―――では三日後、また来る。それ以前に手に入るようなら、インの宿屋に連絡を頼む」

 

諸々合わせてどうかよろしく頼むと念を押すと、前金だと言って、硬貨の詰まった袋を一つ丸々置いて店を出る。暗がりより街中へ戻ると、空はすっかり曇天になっていた。今に雨の降り出しそうな天気に、私は辟易とした気分で、宿の方へと急ぐ。

 

店に入る前にあった安穏とした気分は何処へやら、今や私の心中ははやる気持ちと不安で満たされている。それは、私が、身勝手に落ちた私が、正義の味方になれないかもという不安から生じたものだった。

 

いけない。このままでは、私が私でなくなってしまう。この身勝手な楽観が私の心を食い破る前に、早く迷宮を攻略して正義の味方にならないといけない。

 

早く。

そう、出来る限り、早く。

 

曇天はやがて黒さを帯びて、空より雫を落とし出す。無風の街に降る雨は、真っ直ぐに地面へと落下し、石畳の上にいくつもの水たまりを作った。その水が石畳に拒絶される様に、私は理想に拒絶された自分を見つけ、余計に不安さが増して、戻る足を早めた。そして思う。

 

三日待つ。その間に、体調を整え、己の能力を把握し尽くす。その後、ヘイからの連絡がない、あるいは色よい返事が帰ってこなかったらのなら、物が手に入らなかったのなら、しかしそれでも、行こう。私は覚悟を決めて、雨の降りしきる街中を早足で駆け抜けた。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層「真赤の樹海」

第一階「来訪者を拒む赤に染まりし世界」

 

 

一度目の迷宮探索から五日が過ぎた。新迷宮を訪れると、一層の赤い異界は相も変わらず毒々しい見た目で訪問者に警告を促し続けている。すなわち、「さっさと帰れ」だ。

 

だがそうはいかない。エトリアでは病による人死が増加しており、増加の原因がこの迷宮にあるという。ならば正義の味方を目指すものとしては何が何でも迷宮の最深部に到達し、真偽を確かめ、事実であるなら解決を図らなくてはならない。

 

これは私の矜持だ。私という存在が衛宮切嗣に助けられてから、この世界に衛宮士郎という存在として生まれ落ちた時から抱え続けている、私を私たらしめる、忘れてはならぬ誓い。そう私は過去、私が生きるためあの地獄に置き去りにしてきた人達の為にも、私が犠牲として切り捨ててきた人達の為にも、その誓いを果たすと誓ったのだ。

 

だが、今、私は、その誓いの根幹が揺らいでいる。私は、過去に私が切り捨ててきた人達の事を忘れ、平穏を手にしようとしている。その悪夢のような身勝手さは、私の存在理由を揺るがし、私の不安を煽るのだ。ぼやぼやしていると、この不安すらも忘却の彼方に消えてしまうかもしれない。

 

急く気持ちと不安を抑え、しかしそれに後押しされる形で私は己の作成した地図に従って進む。地図にこれより先は特に地図を完成させろとの指示もなかったわけであるし、もうこれより先は、最低限の地図だけ書いて進もうと決意する。そうして私は一層を駆け抜けると、目の前に開いた穴へと身を滑り込ませて、世界樹の新迷宮第二階へと到達した。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層 「真赤の樹海」

第二階 「神に翻弄された少女が変貌したその身を隠した場所」

 

 

世界樹の新迷宮の第二階は、やはり一階と変わらぬ赤の異世界だった。天井見上げると、一切の隙間はないのに、周囲の空間は何処かより入り込んで来ている光に満たされて、地上と変わらぬ明るさを保っている。

 

変わらぬ赤さに辟易としながら進む私は、しかし前回とは違う装備を身につけていた。胸元ではポイズンウーズという魔物の体内で凝縮して作られた粘液を加工して作り上げられた濃紫のタリスマンが妖しく光り、腕には石化したアークピクシーの花服より切り出された硬い紫石のバングルがその重さで存在を主張する。

 

二つのアクセサリーの効力は―――

 

「……早速、お出ましか」

 

遭遇したのは、以前と同じ巨大蟒蛇だ。赤い鱗は太陽の光を反射して鈍く輝く。周囲と同じ色に蠢くその細身は、迷彩のような効果を発揮して周囲の光景に溶け込み、敵の動きを見えづらいよう隠していた。数は一。問題ないが、前回の轍がある。油断はできない。

 

「―――――――――!!」

 

巨大な蛇は、最大限に口を開けて迫って来た。あまりに直線的すぎる行動に少し驚く。だがなるほど、貫通と石化効果を持つ毒液を撒き散らしながらの突進は確かにそれだけでも十分な脅威である。彼らにとって、毒液は信じるに足る絶対の武器なのだ。

 

逃げ場がない……わけではないが、私はカーボン製の弓を投影すると、あえて巨大な蟒蛇の毒液充満する口に自ら飛び込んでゆき、腕ごと弓を捻じ込んだ。毒液が弓とねじ込んだ私の体に付着する。蛇は馬鹿め、と言わんばかりに開いた口を勢いよく閉じようして―――

 

だが、それは叶わない。触れた途端即座に融解と石化の複合反応を引き起こすはずの毒は、タリスマンとバングルの力により効果の発揮を封じられている。蛇にとってそれは当然予想外の出来事だったのだろう、毒液で解けるか弱るかしたはずの弓を思い切り噛み砕こうと皮算用をしていた蛇は、その自らの力によって尖ったカーボン弓の先端が上顎と下顎を傷つける事となった。弓は口腔の上下の皮膚を突き破り、刺さり、つかえとなる。

 

―――これで口の開閉は行えまい。

 

馬鹿みたいに開いた大口より素早く自らの身を引くと、軽く跳躍して投影した巨大な石の大剣を蛇の頭めがけて叩きつけた。重量と膂力に任せて振り下ろされた剣は重力を借りて蛇の頭を瞬時に粉砕する。蛇はびくんと体を跳ねさせると、力なく残った部位を横たえた。

 

動かなくなった敵の骸を前に、周囲の気配を探る。二の轍を踏む気は無い。警戒していたが、果たして敵は現れなかった。どうやら本当に一匹だけであったようだ。投影していた弓と斧剣を消すと、効果が十全に発揮されたバングルを眺め、感心の息を漏らす。

 

「なるほど、施薬院での回復のスキルを見るに、信じていないわけではなかったが……」

 

胸元と腕に身につけているアクセサリーは、それぞれ毒祓のタリスマンと、石祓のバングルという名称だ。その効果は読んで名の如しである。ちなみに値段はそれぞれ二千イェンと、四千五百イェン。もっとも、これはアクセサリー本体だけの価格だ。

 

それ以前に、アクセサリーの素材となる道具を他の冒険者から仕入れてもらい、手に入れたそれを一度ヘイに売り渡して、そこからさらに製作してもらうという面倒な工程を踏んだ為、諸々の手数料を含むと、これらの入手に総額一万イェンは吹っ飛んでいる。ヘイ曰く、組合との価格カルテルとの兼ね合いでそれ以上の額にならなかったらしい。

 

一般的な回復薬一つが二十イェンであるのを参考にすると随分高く思えるが、身につけるだけで毒と石化に対する耐性を飛躍的に上昇させ、破損しない限り二つの効力が持続してくれる事を考えれば、それだけの価値は十分にある。

 

―――なんにせよ、これでさっさと先に進める

 

私は金になる部分だけを選定して素材の剥ぎ取りをさっさと済ませると、大きく跳躍し、迷宮の奥へと足を急がせる。こんなところで手間取っている場合では無い。早く深層に辿り着き、謎の解明をしなければ。

 

焦る気持ちで赤の空間を駆けたところで、私のポテンシャルは変わらない。私は無駄と知りながらもはやる気持ちを抑えきれず、赤い異界の中で不安だけを募らせてゆく。

 

 

エミヤが急いて新迷宮一層奥へと進む一方、ギルド「異邦人」一行は新迷宮の入り口付近にいた。新迷宮は噂通りおぞましい雰囲気に満ち溢れており、普通の感性を持つ人間なら探索を躊躇うような見た目をしている。その光景は旧迷宮四層を縄張りとする「異邦人」の彼らでさえも多少の躊躇を覚えさせるものだった。そしてそれは当然、新入りの響も同様だ。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層「真赤の樹海」

第一階「来訪者を拒む赤に染まりし世界」

 

 

 

「すごい見た目だよな、これ。木とか枝とかウネウネしてて、まるでなんかの足みてぇ」

「造形もだが、赤さも酷いな。血飛沫や血溜まりの方がまだ大人しい」

「シン。お前は相変わらず物騒な表現ばかりするな」

「目が痛い。ああ、煩わしい」

「おい、ダリ。手続き終わったんならさっさとこいよ」

「書類をしまったらすぐ行く。少し待ってろ」

 

サガの言い分を一蹴すると断言し、先んじて迷宮へと突入した仲間に続く。新迷宮の入り口は噂通り赤に満ちた場所だった。とはいえ、今更その程度で怯む我々ではない。軽口を叩きながら、臆せず迷宮の深部へと歩を進める。迷宮の探索に必要なのは、適度な緊張と弛緩。

 

我々四人のうち三人が一組となり、互いに気を配りながら奥に進めば、大抵のことはなんとかなるし、一人は休息にする事ができる。それを交代で繰り返せば、休みながら、迷宮を探索できる。長く迷宮の最前線で生き延びて来た我々が、経験から身につけた、迷宮で最も長く生存できる術だった。

 

「なぁ、響はどう思う?」

「え、あ、はい。ええと、なんでしょうか?」

「この光景だよ。こんな気持ちわりーの見たことないだろ?」

「そう……ですね。赤さはともかく、この、なんとも言えない生々しさはちょっと……」

「だよなー」

 

唯一その術を身につけていない響はまだ緊張が解れていない。あれでは周囲に気を配る事も、休息も上手くはいくまい。だが、そんな彼女には、サガが対処して、気をほぐそうとしてくれている。さすがエトリア随一のアルケミストは細かいところにまで気をやれる。奴と話していれば、響もそのうち余計な肩の力が抜けていくだろう。それまでの間は、てすきの我々でカバーすれば良い。

 

そうして戯れる二人から目を放すと、シン、ピエールと目線が合った。どうやら同様の事を考えていたようで、目配せ一つで互いに頷くと、周囲に対する警戒を強める。すると、体にまとわりつくような粘っこさを感じた。耳を立てれば微かに草木が擦れる音だけが周囲を取り巻く全て―――

 

だった。

 

「―――今のは!」

「誰かがどこかで戦っているな。だがこの爆発の音は……大分遠いな。階層が異なるかもしれん。しかし爆発ということは、この音を出した奴は……アルケミストか?」

 

シンの問いかけに、サガは少しの間考え込んでから言った。

 

「んー、ちょっと違うと思う。あたりに炎を撒き散らすだけにしては五月蝿すぎるし、周囲の全てを巻き込んでぶっ飛ばす核熱にしてはお上品だ」

「サガにしては洒落た言い回しですねぇ」

「ピエール。お前は皮肉なしに褒めることが出来ないのか?」

 

二人のやりとりに笑いが漏れた。サガの感覚はパラディンである私にはわからないが、彼がそういうのであれば、聞こえてきた音はアルケミストが原因のものではないのだろう。

 

「では敵の攻撃によるものか? これほどの音を出すとなると四層の主くらいしか思い当たらないが、そんなものが徘徊していたら、それこそ洒落にならないな」

「あるいはもしかしたら、二層のワイバーンみたいなのがいるのかもしれませんね。私、一度だけあの竜がブレス吐くところに遭遇しましたけれど、確かこんな感じの音だった気がします」

 

響の発言に、彼女以外の皆が緊迫する。頭部に鋭い、側頭部に鈍い頭痛が走る。腕がじくりと痛んだ。記憶が詳しく姿を表す前に、体はすでにあの時感じた恐怖を思い出していた。まとわりつく空気を切り裂く鋭い視線。眼前に並ぶ獲物の群れを睥睨する見下した視線。閉じた口腔から漏れる赤く輝く光。そして。

 

体の一部が炭化し灰となって風に散っていった時、痛みよりも早くやってきた喪失感。あの時、とっておきとして買い揃えておいた大量のメディカとネクタルと縺れ糸がなければ、私たちは五体満足の状態で迷宮から帰ってこれなかっただろう。

 

「ああ、そういやそうだな。……ない、とは言い切れないけど、多分、ないだろ。酒場の情報では聞かなかったぞ」

「新迷宮が見つかってからしばらく経つが、ワイバーンのような魔物がいるなら、噂に聞こえるはず。いや、ないとおかしい。だからいない証拠と見て良い……と思うが」

 

サガが受けてシンも続くが、告げる二人は、心底そうだとは言い切れずにいた。私よりも痛みや不条理に強い耐性を持つ彼らですら、経験が思い出させて裡より漏れてくる不安を押し殺せずにいるのだ。二人のその気持ちは、奴の攻撃を受け止めて一時的に両手を失ったわたしにはよく理解できた。

 

一方、事情を知らない響は何故空気が凍りついたのか察することが出来ず、あたふたと手を彷徨わせては一同の顔を見て目線を行ったり来たりさせている。自分の一言で、パーティーの様子が一変したのだ。そうなるのも無理はない。

 

「あの、わたし、何か不味いことでも―――」

「いや―――、いや、そういう訳じゃないんだ。君は何も悪くない。ただ、ワイバーンという魔物は私たちにとってちょっと特別でね。その、対峙して、そして這々の体で逃げ帰った経験があるんだ。―――なにせ、あれを倒すのが先日までの私たちの目標だったのだからね」

 

聞いた響はゆっくり、あんぐりと口を開けた。驚きと、呆れと、疑問とが混じった、ワイバーン退治を目標としていることを告げた際、よく見かける表情だ。だが、彼女のものには少し異質なものが混じっているように見受けられる。混乱した彼女は何かを言おうとして口ごもり、しかしやはり何かを言おうとして、だが発した言葉は宙に消えた。

 

「え……っと」

「おっと、無謀と笑わないでくれよ。一応その時はその時なりに、覚悟して挑んだんだ。結果、手も足も出ないで逃げ帰る羽目になったけどね。……響、三竜を知っているか?」

「あ、はい。ものすごい強さの魔物と言われている奴ですよね。世界中で目撃情報があって、噂ではエトリアにも潜んでいたとか。老舗のシリカ商店に鱗とか飾ってましたよね」

「そうです。雷鳴とともに現る者。氷嵐の支配者。偉大なる赤竜。それら三匹の魔物を討伐する事が私たちの目的。私たちは四層までをくまなく捜索しましたが、未だに奴らとは遭遇できていません。ああ、その姿を一度でもいいから見てみたい……!」

「残る希望は五層のみ。だが五層はラーダにより規制がかけられている。四層までの比ではないレベルの危険性である、という事でな。だが、私は彼らと戦ってみたいのだ」

「行くにはそれ相応の実力がある事を示さないとダメなんだとさ。その方法がワイバーン討伐だったわけ。新迷宮が発見されてからはそちらの攻略でも良くなったけどね。……あ、俺は興味本位。何十年経っても無くならない素材の現物を手に入れたくてさ」

 

捩くれた火竜の角。刺々しい氷竜の翼膜。瑞々しさを保つ雷龍の眼球。エトリアの老舗であるシリカの道具屋にあるそれらは、伝説にのみ語られる三竜が実在したということを、なによりも雄弁に語っている。そしてだからこそ、彼らはエトリアに集ったのだ。

 

響は馬鹿みたいに開けた口からさらに顎を落とした。気持ちはわからんでもない。かくいう私も、初めて彼らの目的を聞いた時は驚いて似たような反応したものだ。笑いを漏らすと、目を丸くした彼女がこちらを向いた。いかん、目が奴らと同類の者を見るそれだ。

 

「おっと、私は違うぞ。私は単にこの馬鹿どもが早計にもさっさと挑んでしまわないようにする、いわば騎手役だ。手綱を握る役目がいないとこいつらはどこまでも暴走するからな。―――話が逸れたな。ワイバーンの退治には君の父上の力を借りる予定だった。君の母上の力で道具の素材を用意してもらい、我々が装備の調達とレベルの調整をして、ワイバーンを討伐する予定だった……のだが」

 

言いかけて、言葉に詰まった。得意げに出した響の親の話題は、彼女の顔をなんとも形容しがたい複雑なものへと変える。しまった。二十日ほど前に死んだばかりの親の話を、なぜ私は口にしてしまったのか。私は自らの配慮なさに憤死してしまいたい気分になった。

 

助けを求めて皆を見回すと、シンは眉目の距離を縮め、ピエールが帽子に顔を隠す。サガが愚か者を見る目で非難の視線を向けていた。声には出していないが「ばかじゃねーの、お前」という口を動かしたのが見えた。的確すぎて、ぐうの音も出せない。

 

「―――、その、すまない」

「いえ、お気になさらないでください。その……、あの人たちは店よりも迷宮にいる時間の方が長い人たちだったので、いつかきっと唐突にいなくなるかもな、と思っていましたから。―――予想していた、いなくなり方では、ありませんけれど」

 

複雑な表情に陰りが混ざった。気にしていない、というのは半分が本当で、半分が気遣いなのだろう。機敏に疎い私でもそれぐらいは読み取ることができる。しかし空気が重い。それこそワイバーン戦の直前ですら、こんな切羽詰まった緊張はなかった。

 

―――だれか、どうにかしてくれ

 

切に願った時、助け舟を出しくれたのはサガだった。

 

「ま、そういうわけもあってワイバーン討伐が駄目になってね。うちら四人だけであれに挑むのはちと厳しい。そうなるともう、どっちを選ぼうが同じくらいに苦労する。さぁどうするって悩ましい時期に君がきてくれた。おかげで方向性が決まって助かったよ。まぁ、この馬鹿だけは、響も知っての通り、なんだかんだと反対していたけどね」

 

サガはこちらがぶっ倒れる勢で無遠慮にこちらの肩を叩くと、私の肩の高さを調整し、首元に小さな腕を回して抱え込む。その際、硬い金属の小手と私の鎧がぶつかり合い、ガンッガンッ、と大きな金属音を立ち、さらに、背の低いサガの体重と腕の力が私の首に負荷を与え、思わず咽せこんだ。なにをする、と、そんな文句が喉元まで出かかったが。

 

「ふふっ」

 

憂いた表情を見せていた彼女が幼さの残る顔に年相応の笑みを浮かべたのを見て、私はその全てを飲み込んだ。微かだが、気を取り直してくれた。その事実に少し胸がスッとした。生まれつつあった黒い気持ちが晴れてゆく。

 

「貸しにしとく」と、顔で訴えかけてくるサガに最大限の感謝を込めて、目を閉じて下がった頭をさらに下げる。礼を述べるのは後にしておこう。蒸し返すと、彼の気遣いが台無しだ。

 

「―――とりあえず」

 

ピエールは白魚のような指先で竪琴をかき鳴らした。視線が彼に集中する。

 

「お話は帰ってからにするとして、進みませんか? こんなところで呑気をしていれば、格好の的です。先ほどの爆発にしても、材料が足りない状態で推理をしても結論なんか出やしません。そんなもの、放置で構わないでしょう」

 

確かにいう通りだ。どうせ考えても結論は出せない。下手な考え、休むに似たり、か。ならば先に進むほうが建設的というものだ。

 

「―――行こう」

 

宣言をして大げさに手刀を切って行動方針を決めてやると、肩から力が抜けてゆくのを感じた。シンもサガもピエールも即座緊張を最大限に高め、しかし適度に薄らげてゆく。そうしてしばらくの間、周囲に気を配りながら太陽が頂点に達するまで迷宮を散策した時、響も私たちも、すっかりいつもの状態へと戻っていた。

 

 

迷宮に出てくる魔物は、見たことの無い新種ばかりだった。猪とか蝶とか土竜とか、知らないのとか多彩に出るが、特に蛇が多い。幸い、見た目は違えど、体の大まかな構成は既存の奴らと変わらないし、どいつもこいつも氷結が馬鹿みたいに効くから手間取りゃしない。

 

一番手ごわいのは、デカい蛇だが、奴らは体に氷が当たった瞬間、それこそ凍りついたみたいに動きを止める。そうすりゃシンがめった切って終了だ。あいつの乱撃で蛇の頭はミンチになるまで砕かれる。蛇は頭だけでも飛びかかってくる場合があるので、あれくらいは仕方ないとわかるが、それにしても原型を留めなくなるまで叩き潰す必要はないだろうに。

 

その点、響はいい。彼女、すなわちツールマスターは道具に望まれた効力を十二分に発揮することができる。例えば、敵の任意の部位を縛り付ける「縺れ糸」を使うと、対象の敵は糸の巻きついた部位がうまく動かせなくなるわけだ。そこをシンがスパンでハイ終了。いやー、便利だね。確定で封じ状態や状態異常に出来るって、やっぱつえーわ。

 

蛇に糸を使った際なんかには、鎌首をもたげることすら出来ず、地面をのたうち回っていたもんな。そりゃそうだ。蛇は体の左右に等しく力を分配して波打つことで、地面を這って進む力とする。その起点となる胴の筋肉を、縺れ糸で縛り付けて部分を抑えつけられたのだから、動けなくなるのも当然だ。

 

あれをさっと見抜いてやってのけるんだから、いやいや、流石はマギとアムの娘さんだ。二人は彼女を二層までしか連れていかなかったらしいが、きちんと教育されている。我を抑えられる心といい、基礎を応用する知恵といい、環境と資質が上手く組み合わさったゆえの実力というやつか。ほんと、末恐ろしいね。

 

しかし図らずとも、シンの直感の正しさがまた証明されちまったなぁ。あいつの野生的直線思考は、ほんっと頼りになる。それに比べて、ダリは少し頭でっかちがすぎるな。安定思考は守りの要としちゃ申し分ないが、普段の会話にまで正論と上手さを求めすぎている。

 

おかげでさっきみたいなざまだ。普段ならまだしも、命をかけた場所であれを繰り返されちゃたまらん。わだかまりも残っている様子だし、新迷宮踏破のためにもここはひとつサガ様が一肌脱ぐしかないか。

 

決意を新たに響の方を見ると相変わらず緊張がほぐれていない様子だった。続けてダリを見ると、やはりあいつも、いつもより肩に力が入っている。先ほどのことを引きずっているのだろう。終わったことなのだから気にしなけりゃいいのに、頭の片隅から離れていないのが丸わかりだ。バカ真面目な奴らめ。

 

さて、まずはどうしようか。こうも肩に力が入ったもの同士だと、いきなり二人をくっつけてさぁ話せとやったのでは意味がない。苦手意識を抱いた良い子ちゃん同士をくっつけても、ろくな結果は生まれないのだ。まずは硬くなった部分をほぐす所から始めようか。

 

と、思ったが、それ以前の問題が発生してる。まずはこっちかぁ。

 

 

「なぁ、そろそろ一旦もどらない?」

 

素材を剥ぎ取り終わったところでそんな提案をした。視線がこちらへ集まる。

 

「どうした、珍しく弱音を吐くな、サガ。まだスキルを使う余裕がありそうに見えるが」

 

シンの言うことは正しい。今までと同じ奴ら相手なら、三度の戦闘を行えるだろう余裕を残している。同じく、シンもピエールもダリもまで行けるだろう。だが響が限界だ。よくやってはいるが、やはり地力の差がそのまま現れている。おそらく、先ほどの戦闘で気力まで使い切ったのだ。

 

―――帰ったほうがいい

 

心中の囁き通り、ここは一旦引くのが最も正しい選択肢だ。とは思うのだが、彼女に疲れが見えるから戻りたい、と、声に出して指摘するのも躊躇われた。彼女は今の所、自らを足手まといと思っている節があるからだ。ここではっきりと事情を告げると、彼女が余計に無駄な罪悪感を感じてしまうだろうことが容易に予測できる。

 

―――さて、じゃあ、どうやって提案してやろう?

 

この大役を人に任せるとすると、彼女が一番信頼しているだろうシンが最も良さそうなものだ。しかし、あの数度の戦闘で気分の高揚が保たれている状態では気づくまい。いや、あの戦闘馬鹿は、仮に己が響の状態になっても戦うだろうから、あえて気づかないふりをしてやろう、などと考えて、無視しているのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。そうだとしたらとんだバカ野郎だ。皆がお前と一緒じゃあない。

 

ピエールなら気づいているかもしれないが、あの刺激馬鹿は、他人の苦労を見て喜び歌にする節があるから、帰ろうなどとは言い出さないだろう。本当に皆が危険に陥ったのなら撤退を進言するかもだが、きっとあの馬鹿は全滅直前まで何も言わないし、やらない。

 

んでもって、余計な事をいちいち口にするダリは論外だ。あの正論馬鹿は人の気を慮るに向いていない。今彼女の状態に気付いていない時点でもってのほかだし、そんなダリに頼んで余計な一言が飛び出せば、二人の仲が更に拗れてしまうだろう。そしてその後の尻拭いをするのは、多分俺の役目となるのだ。俺ぁ、そんな面倒は真っ平御免である。

 

仕方ないか。観念して俺は別口より切り出すことにした。

 

「いうけどさぁ。真っ赤っかな世界を突っ走ってきたもんだから、精神より目が疲れたんだよ。ずぅんと重くてやってられねぇ。これじゃあ、術式のブッパは出来ても、敵の攻撃を避けらんねぇ」

 

両瞼を上下に引っ張って全員に目を見せつけると、最後に響の方へちょいと視線を泳がせてから、シンへと向ける。シンはこちら側の目線に気がつくと響に目をやってその姿を観察し、そこでようやく彼女の状態と俺の意図に気がついたらしく、素直に頷いてくれた。機敏を読み取ってくれるだけダリよりマシだな。

 

「たしかに。その周りと同じくらい赤い眼では、攻撃筋をまともに見切れんか」

 

シンが阿吽の呼吸で話を合わせてくれる。これがダリなら余計な一言を発する事もないだろう。気づきさえしてくれれば、こういった気配りが自然と出来る点は、本当に頼りになる奴だ。ピエールを見ると、奴も色々察していたようで、肩を軽く一度浮かしてにこやかな笑みを見せた。あえて何も言わないのがなんとも奴らしい。

 

「だからさぁ、今回はもうやめようぜ。というか今後もせめて、目がこの真っ赤な世界に慣れるまでの間はちょっと慎重に行きたい。なぁ、そう思わないか、ダリ」

「そう……、そうだな。慎重に行くと言う意見には、私も賛成だ」

 

乗ってくれた。こういう時、行動方針がわかりやすいと本当に助かる。ダリが言葉を述べた直後、小さく土を掃く音が聞こえた。横目を送ると、響が両足を肩幅に広げて、重心を下げている。撤退の流れになり、披露した体から緊張が抜けてしまったのだろう。

 

―――ま、暫くは仕方ないか。そのうち慣れてくれるよな

 

「よし、決まり! じゃあ糸を使おう! 集まってくれ!」

 

いつもより少しだけ大きめに声を出す。腰のポシェットからアリアドネの糸を出して糸巻きより解くと、地面の一定範囲に境界が刻まれ、体が浮遊感に包み込まれる。続けて目の前の赤は一瞬にして遠ざかり、視界は白に包まれた。

 

 

欲しいものは日常を彩るスパイス。適量は人それぞれ違いますが、貪欲は貴族という家系に生まれた者の宿命なのでしょう。父は物の蒐集に命を賭け、母は金を浪費することを美徳としました。そして彼らの間に生まれた私、ピエールという人間は、普段という日常にはない新たな刺激に貪欲な人間だったのです。

 

多くを望まなければ生きるに不自由しないこの世界は、安全ですが退屈です。そんな退屈さに飽いた人間は、自ら望んで身を危険に晒す冒険者という職業を選択するものが多く……。

 

そして私も、通常得られない刺激を求め冒険に生涯を捧げると決めた一人だったのです。

 

冒険者とは自ら望んで危険に身を置く風来坊です。冒険とは自然災害と聞くと身を曝け出し、魔物が巣食っていると聞けば洞窟へ突撃し、未踏の地があると聞けば足を踏み入れようとする事……。

 

幼い頃、屋敷を訪れた冒険者の語った探検譚は、胸の奥底に隠れていた私の琴線を見事に掻き乱し、その夜、私に冒険者になろうという決心をさせました。

 

彼らが去った次の日、両親に溢れんばかりの心情を真っ正直に告げると、とてもあっさり了承され、冒険者としての装備一式を贈られました。彼らはきっと私の性質を見抜いていて、けれどあえて何も言わなかったのでしょう。しかしそんな回りくどさも、悪い刺激ではないな、と思った瞬間でした。

 

心に従うがまま、私を冒険者として導いた彼に憧れて、私はバードという職業につきました。バードの役割は二つあります。一つは戦闘時、味方を鼓舞し、彼らの能力を引き出すこと。もう一つは非戦闘時、すなわち日常において我らや彼らの冒険譚の語り部となること。

 

語り部たる我々バードは、自らが五感を通して得た感動を、時に雄々しく、時に軽やかに、時には切なく声高に語りかける事で、多く人に感情の波紋を呼び起こし新たな刺激を生み出します。

 

そう、新たな刺激を。刺激。ああそれは、なんと甘美な響きなのでしょう……。身をもって素晴らしさを教わった私が、それを生み出す職業を選択する事は、まさに必然、いや運命だったのです。

 

 

やがて冒険者となり、エトリアで登録を済ませた後、行くあてのない私はギルド長よりシンとサガを紹介されました。出会った瞬間、彼らと旅することになる、と直感しました。シンの大きな目はギラギラと輝いて、とても蠱惑的でした。サガの小さな目はいかにも好奇心を抑えられぬ宝石のような煌めきを放っていて、なんとも素敵でした。

 

彼らは一目で私の求める冒険者であることが見て取れます。ああ、彼らは一体、どんな男たちなのか。逸る気持ちを抑えきれず、第一声にて私は尋ねました。

 

「お二人の目的は?」

 

顔を見合わせて彼らは迷いなく告げます。

 

「「三竜」」

 

三竜。それは歴史に名を残すような英雄たちの前に現れると言われる魔物。それが目的であると言う事はすなわち、彼らが未知の危険も、未踏の土地も、見たことも聞いたことも魔物をも踏破し、艱難辛苦を乗り越える、刺激的な冒険をこなす人間である事を意味していて―――

 

ああ、なんと僥倖な事なのでしょう!

 

冒険者たちの宣言を聞いた瞬間、希望が世界を彩りました。緩やかな第一楽章は第二楽章へ移り変わり、曲調が一気に激しい音色へと移り変わります。彼らという弓を得た棹は私の蔓を激しく掻き立てて、心音を高らか反響させます。ギルド長は陶酔する私の顔を見やると、指揮者のように手を広げて、新たな楽章の始まりを歓迎し、祝福を告げてくれたのです。私の人生はあの瞬間より、緩急激しい胸踊るものへと生まれ変わりました。

 

三竜は世界各地で目撃されていますが、エトリアの場合、目撃情報に加えて、シリカ雑貨店という店に竜より剥ぎ取ったと言われる素材が飾られています。世界で初めて見つかった迷宮の近くと言うこともあってか三竜の目撃情報も最も多く、だからこそ、シンとサガはこの街を中心に活動する事を決めたようでした。

 

二人と行動をともにすることにした私たちは、しばらくの間は三人で迷宮に挑んでいました。迷宮は五人まで同時入場を許可されていますので、出来ることならあと二人の仲間が欲しかったのですが、我らの他に三竜に挑もうと考える享楽者がいなかったのです。

 

人数の足りない探索当初の頃は、加えて連携も何もなく、とにかく酷い有様で、ですがだからこそ、胸の踊る旅でした。迷宮の障害といえば襲いかかる魔物が主ですが、シンは彼らに対して連携も何もなく最速で刃を通そうと突っ込んで行きます。当時は自身で大道芸と断言して憚らない居合を、しかし好んで使っており、敵の止まった一瞬の隙をついて首を飛ばすのが彼の得意技でした。

 

戦闘になった際、可能な限り素早く敵の数を減らそうと試みる彼の行為は、間違いなく正しいことなのでしょう。素早く戦闘力を削げば、その分、こちらが被害を被らず済みます。

 

ですが迷宮の魔物は、多くの場合、複数での出現が常。一体を仕留めたとしても、戦闘は終わりません。そんな時、突撃脳のシンをフォローしていたのはサガでした。

 

サガは彼の撃ち漏らした敵を適当な属性攻撃で吹き飛ばします。彼は三属性により弱点を突くことに優れたアルケミストでした。そして生まれた隙を見逃さず、シンは敵に再び切り掛かり……。あとはそれの繰り返しです。大抵二十秒もしないうちに終わるので、私の出番は殆どありませんでした。

 

今考えればよくもまあ、それだけの連携でやっていけたモノだと思います。冒険者だと言う事を差し引いても、無謀もいいところの挑戦でした。それでも生き残れたのはシンが一切迷わずその行動を繰り返し続け、しかし勝てないと感じた敵からは逃げる感性があってこそでしょう。彼は戦馬鹿ですが、愚かではないのです。

 

当時、戦闘後などはサガの文句を垂れる日常でしたが、シンが生き残りと目的達成のために真摯なだけ、という事を理解してからは愚痴も減りました。

 

私にとって三度目の、ギルドにとって二度目の転機が訪れたのは、互いのことを理解しだした、そんな頃です。ギルド長より招集のかかった私たちは、二人の人物を紹介されました。待望の入隊希望者です。楽章は三番目へと突入し、再び曲調はゆるやかなものになります。

 

彼らは、それぞれドクトルマグスのマギ、ファーマーのアム、と名乗りました。彼らが身に纏う装備は華美と剛健さを兼ね備えており、また、彼らの動きや仕草までもが装備に見合うほど洗練されていて、まさに優美と読んで差し支えない強さと品格を備えていました。

 

やがて、何度か冒険するうちに、私たちは、ハイラガード出身より訪れた彼らが予想通り只者でなく、あちらの迷宮三層を拠点とする実力者だったことを知ります。

 

「なぜ、このような出来たばかりのギルドに?」

 

問うと、彼らはおずおずと、しかし恥ずかしそうに告げました。

 

「「刺激が欲しくて」」

 

前後にそれぞれの思惑やそれ以外の事情を語る言葉があった気がしますが、はっきりと耳に残ったのは、その言葉でした。彼らもまた私と同じく、刺激を求めてエトリアへとやってきた冒険者だったということです。それだけで十分でした。ハイラガードより放逐された云々は瑣末な事情に過ぎません。

 

彼らを迎え入れた私たちは、破竹の勢いで迷宮攻略を進める事が出来ました。ドクトルマグスのマギは搦め手と回復を、ファーマーのアムは迷宮探索と素材の収集と得意とするプロフェッショナルで、彼らは戦闘面、探索面、生活面で我々の足りなかった部分を全て補う人材だったのです。

 

足りないものが埋まるどころか一気に突き抜けたのですから、当然の結果と言えましょう。彼らが加わってからたった一ヶ月で、一層の番人を攻略し、二層に行くことができました。

 

しかし、仲間を得て勢いよく一層を攻略し天狗になっていた我ら三人は、ある日彼らがいなくとも二層を進めるだろうという過信を抱き、八階にてワイバーンという脅威に遭遇し高い鼻をへし折られました。

 

二層八階。樹木がひしめくその密林の中央には、地平の彼方まで広がるような錯覚を覚える場所が存在します。それこそが奴の支配領域。何も知らず入場した私達は、その途端、奴より炎の洗礼を受けました。

 

なんとか回避した直後、その炎が飛んできた先に視線を写せば、雄鹿の角を携えた頭部、腕部と一体化した両翼を大きく広げ、巨大な尻尾を垂らして宙に浮き、こちらを睥睨する深緑の御姿は、まさに密林の支配者と呼ぶにふさわしい風格を揃えていました。加えて、視界に入った邪魔者を完膚なきまでに焼き尽くさずにはいられない烈火の気性。その時の胸の高鳴りはといったら、もう言葉では言い表せません……!

 

奴は門より入った全ての侵入者に対して攻撃的でした。我々は入り込んだ途端、煌々と紅く輝く火焔の球で歓迎を受け、そしてそれは、我々が広場より脱出するまで続くのです。恥も外聞も捨て去って、装備も道具も使い切って、なんとか逃げ切れたその魔物は、しかし最強の魔物ではありません。私たちの目的である三竜はあれより強いと謳われる魔物なのです。

 

「あれに勝てないようでは三竜討伐など果たせない」

 

ギルド長のその言葉は正しかった、と我々は悟らされました。現実という鋭き刃が喉元に突き立てられ、シンとサガは堅実さを習得しました。ようやくです。そしてシンは戦闘の際の構えを居合から上段に変え、サガは無属性で超高火力の術式と定量分析を取得し、二人の戦術に慎重と様子見という選択肢が加わりました。才能もそうですが、やはり負けた経験も重要ですね。おそらくその辺りからなのでしょう、自覚を促したワイバーンは私たちにとって特別な魔物になったのです。

 

その後、ボロボロの姿で逃げ帰った我々は、マギとアムに大変叱られながらも、彼らよりハイラガードに伝わる職業ごとの奥義、フォーススキルの使用方法を伝授されました。無我といいますか、程よく心身がほぐれているときにしか繰り出せない代わりに、通常のスキルより強力な効果を持つ技を繰り出せるのです。

 

制限こそあれど強力なスキルの習得と、心構えを変えた二人、熟練者二人の加入により、私たち「異邦人」の迷宮攻略は破竹の勢いさを増し、私たちはワイバーンという魔物を除いて、四層までを暴き尽くしました。しかし、残念ながら、三竜は影も形も見当たりません。残る可能性は、四層の更に下―――

 

五層を目指したい事をラーダに訴えかけたところ、ワイバーンの討伐をすれば、ミッション攻略の報酬として五層の探索を許可すると言われました。私たちは恐れながらも、今の自分たちの力なら勝てると発奮して、情報を集め、対策のために自らを鍛え上げ直し、武器防具を揃え、戦略を練る事を始めたのです。

 

ギルド長から、討伐を目的とするなら、火炎球を防ぐ事のできるパラディンがいた方が良いという事で、ダリを紹介してもらいました。ダリは許可なく迷宮に入るものを追い出したり、迷宮で迷った人間を見つけ出したり、迷宮に消えた人間の遺品を見つけたりする、迷宮探索に慣れた衛兵でした。第四楽章の始まりです。

 

彼は衛兵やパラディンという守りの要たる職に就くだけあって、頭でっかちで正論で人を説き伏せようとする部類の人間です。悪気がないのはわかるのですが、少し、私たちとは相性の悪い人間でした。最初の頃、直感で動くシンや、私とは衝突が絶えませんでしたが、意見をぶつけ合ううちに、本音を言い合える仲となり、互いに認め合えるようになりました。

 

そうして守護役としてダリを加えた私たちは、魔物との戦闘において安定した状態で戦えるようになりました。防御というカードが増えたことで、層ごとに存在する、いかなる言語化にてかfield of enemyと称される、通称F・O・Eという強敵も安定して倒すことが可能となったのです。何度かワイバーンに挑み、しかし敗走、を繰り返しながら、やがて四層のFOEを安定して狩れる様になった時、私たちは時が来たことを確信しました。

 

ワイバーンを討伐し、五層に向かう権利を得る。対峙と打倒の覚悟を決めた私たちは、戦術を練り、対策を立て、敵に対して効果的な装備と道具を整え出しました。炎耐性の高い防具を整え、連携を強化し、いざという時の道具を用意し、いざという時の対処法も用意して、今まさに、密林の王者に対して挑戦状を叩き込もうとしていました。

 

決意の日から、半年ほど経過した時のことです。さぁ、全ての準備が整った。あとは、マギとアムが店の都合で離脱している間、私たちは勘が鈍らない様にと、迷宮の四層でFOEと戦っていました。その頃には私たちは十分に強くなっており、オウガだろうとデモンだろうが、たとえ四層の番人だろうが、四人で倒すことが可能となっていました。

 

その日の私たちは最高の出来でした。なにしろ番人を無傷に近い状態で倒し切ったのです。揚々と湧き上がり、軽口を叩き会いながら素材を剥ぎ取り、さぁ一週間後に挑もうと息巻いていて縷を解いてダンジョンよりエトリアに戻った際。

 

―――マギとアムの訃報を転移所の兵士より耳にしました。

 

交響曲は突如として終わってしまったのです。聞いた途端、拍子抜けして、はぁん、と間抜けな声が漏れました。兵士の口から告げられた呆気ない死の知らせは、取り繕う余裕の全てを奪っていったのです。二度と彼らが戻らない、という喪失は我が身を裂かれる思いでした。

 

ダリのような堅物が一瞬、意識を飛ばしたくらいの現実味のない衝撃を受けて、五感は正気を失い、感覚器官により入ってくる全ての刺激を荒々しいものへと変貌させます。色は、音は、光は、ぐにゃぐにゃと荒々しく波打ち、正気と狂気との輪郭が綯い交ぜに変わり、失意が身を包み込みました。夢抱いていたものが遠ざかって行く絶望と、望んだ未来が手に入らないだろうという焦燥の混じった喪失感は、立つという機能さえ体から奪い去ったのです。

 

知らせを聞いた直後より、私は寝たように起きていました。近づいた結末が遠くに去ってしまう。彼らの死という予想と違う形での大きな刺激は、しかし私にとって好ましいものではなく、望んだ未来が手に入らないという大波と合わさって、私の心の海に高波を起こします。

 

その時私は、第三者でなく、当事者でした。浜辺から荒れる海を眺めていた私は、気がつくと荒れる大海原に小舟で投げ出されていたのです。寄る辺も対策も指針も知らぬ私は、荒れ狂う波にさらわれるがままでした。

 

やがてそんな私の元にいつの間にやら目覚めていたダリはやってきて、「とりあえず動こう」と言って、私を片手に抱えこみ部屋より強制的に連れ出しました。部屋で腐っていると、気持ちまで腐ってくる、と此の期に及んでまで正論を吐く彼に、私は流石に少し文句を言おうとしましたが、彼の目と鼻先が赤らんでいるのをみて、何も言えなくなりました。彼は、彼らの死を受け止め、悼み、それでも前に進んでいたのです。

 

ギルドハウスから出る際、消沈したシンとサガがリビングで顔を伏せて何もしていないのを見かけました。目線も向けない彼らに見送られ、私は引きずられるがままヘイの店に連行されました。

 

出迎えてくれたヘイは、型にはめたような冷静さで私に忠告してきます。

 

ひと昔前なら珍しくない事で、冒険者なら死体がまともな状態で残っているだけ有難い死に様だ。知り合いにも何人か、そうなってしまった奴がいる。だから、今回のはまだ運が良い方だ、と慰めにも嘲りにも聞こえる言葉を投げかけてきます。彼は諦観していました。道具屋として数多の冒険者接してきた彼は、人死や理不尽に慣れていたのです。

 

その時、ダリも同じようなことを述べました。元衛兵である彼は、死人や、死人の出たギルドと立ち会うことが多かったらしく、やはりヘイ同様、死に慣れていたのです。だからこそ、誰よりも早く立ち直り、引きこもる私をどうにかしようと思い至ったのでしょう。

 

……まぁ、後ほど、彼らが冷静な態度を崩さずにすんでいるのは、それだけでないのではないことを、あとで知りましたが。

 

ともあれダリとヘイによる説得は一晩続き、二人の説得により、私は漸く平静を取り戻しました。途中より道具屋にやってきて参戦したサガもその輪に加わり、私たちは今後の事について話し合いを始めました。兎にも角にも、一旦予定は中止だ。まずはシンと話し合って、今後どうするかを決めなければならない。

 

ギルド長へ相談し人員を補充してもらう。望めない場合は、四人のまま攻略するか、あるいは別の場所で三竜を探すのか。そう言った事のあれこれを話し合い、結局、シンの意見を聞いてからでないと、話が纏まらないというなんともお粗末な結論を出して、ギルドハウスに戻った時。

 

――――――天が私たちを見捨ててはいなかったことを知ったのです

 

なんと、そこには彼らの娘である響がいました。両親を突如として失い、私たちよりも余程悲嘆にくれていただろう彼女は、しかし健気にも新迷宮を探索する為に、私たちと同行したいと願っていると、シンは語るのです。

 

「新迷宮を攻略する」

 

ああ、その言葉のなんて刺激的なことか。二人の息吹を感じさせる彼女の輝きは、荒波に悶える私を照らす小さな灯台の光でした。それはかつて私が冒険者を目指した原点であるバードの与えてくれた刺激に似ていて、私は再び夢の地図を手に入れることが出来たのです。

 

喪失とそこからの立ち直りという落差は、今までにない刺激を私に与え、マギとアムの死

もたらした悲しみを一旦保留にしようと考えるほどの力を持っていました。私はその時、五度目の、人生で味わった事のない刺激を体験することが出来たのです。

 

曲は終わりを告げたのではなく、中断していただけで、新たに五楽章が続いていたのです。彼女は―――、私にとって七人目になる、初めて味わう刺激を与えてくれた人でした。その彼女は今、様々な不安と期待とで緊張しています。おそらくこれは時間によってしか解決を見せないでしょう。

 

だから、しばらくの間、待とうと思います。それが、私が夢を見続けられるようにしてくれた彼女に対する礼であり、恩返しだと信じています。ああ、いつか成長した彼女にこの気持ちを語った時、あるいは勝手に気が付いてくれた時、いったいどんな反応を見せてくれるのでしょうか。ああ、なんとも楽しみです。

 

 

異様。その一言に集約される森の中、不規則に響く音があった。音を発生させている主は、緋色の残像を残したかと思うと、次の瞬間には数メートルも先の場所にて着地音を立てている。音の中には、周囲を揺るがすほどの大爆発すらあった。

 

森に残された足跡を戻って行くと、飛び交う赤や森の深い赤とは別の、鮮やかな赤や肉片が破壊の痕跡と共に一定間隔で残されている事に気付けるだろう。それはエミヤが切り払った魔物と呼ばれる脅威どもの残骸であり、戦闘痕である。

 

 

世界樹の新迷宮

第一層「真赤の樹海」

第二階「神に翻弄された少女が変貌させられたその身を隠した場所」

第三階「姉妹を思った少女達が呪いに苦しんだ土地」

第四階「人と獣の間で家族を守らんと努力する化け物が住まう領域」

第五階「姿を消して襲いかかる卑怯者に裁きを下す女神のおわす宮殿」

 

 

明るい光の下でよく見てやれば、頭足類―――特にタコの足を思わせる不気味な樹木が生え並ぶ樹海は、血をぶちまけたかのような赤さで来訪者の気概を削ぎにかかる。何処より侵入したのか分からぬ光に照らされ明るさを保つ森は、地上のものと全く変わらないからこそ、一層不気味で奇妙だ。不思議の仕組みを解明してやろうと天井を眺めてみても隙間など存在せず、土が一枚板のようになっているばかりである。まったく、理解不能だ。

 

疑問を浮かべながら、しかし、迷わず樹木を蹴って、地面と体の正面を平行にしてやると、樹海の中を翔ぶが如く進む。目の前に現れる獣は、いずれも脅威となり得ない。一番の脅威であった蛇は、もうすでに対抗策を講じてある。

 

それ以外のやつなど、大した強さを持っていない。猪、蝶々、土竜、牛、羽虫、駱駝、その他植物、そのどれもが蛇ほどの狡猾さも身体能力の高さも、毒液のような脅威も備えておらず、一刀の元に斬りふせることができる。

 

初見の際のも多少手間取るが、二度目以降の遭遇は単なる処理作業にまで落とし込める。私は出現した魔物を決めた手順通りに狩り、屠り、解体し、迷宮の中を進んでゆく。

 

唯一の懸念事項は、魔物などではなく、執政院に怪しまれない地図を作れるか否かだ。英霊の能力で迷宮を縦横無尽に駆け抜けて探索してしまっては、もはやそれは他人が見た際に、地図と呼べない代物に成り下がってしまう。そうすれば今後、再び地図の提出を求められた場合、獣道ですらない場所をどうやって踏破したのかと疑われ、余計な苦労を背負い込むのが容易に予測できる。

 

だから私は、可及的速やかに、しかし、人の通れそうな道を駆け抜けて、迷宮を駆け回った。三日ほど徹夜の状態で、保存食と水を食み飲む休憩と、体力、魔力の回復時間だけを挟みながら、二階、三階、四階を放たれた矢の如き迷いのなさで駆け抜けると、やがて区切りと教えられた五階の一画でこの迷宮にそぐわない異物を発見し、足を止め、目線を送った。

 

―――門?

 

超然的な自然が広がる最中、突如現れたのは、明らかに人の手が加えられている白き石の扉だ。大理石に似た素材で作られた観音開きだろう二枚扉は、自然の樹海と土を押しのけて胸を張り己の存在を誇っている。扉は同じく手の加えられた壁の横から伸びていた。

 

高く見上げれば天井に。横に視線を移せば、遠くの樹海までを切り開いて伸びる壁は、異様を誇る樹海の中で、なお異様を主張し、厳かな威圧感を放っている。

 

しかし、真に警戒すべきは、目の前に映る人工物ではない。白い門の向こうに存在するだろう何かが飛ばしてくる、この門をくぐる物は一切の希望を捨てよと声高に主張する何のかが飛ばす敵意。それが門の生み出す威圧感を助長させているのだ。

 

――――――、さて

 

警戒のレベルは自然と最大限にまで引き上げられる。門より離れてしばらく様子を見る。何も起こらない。少し近づくと、向こう側の住人は敏感に反応して、肌を突き刺す様な冷たい害意は飛ばしてくるものの、やはり何も起こらなかった。

 

どうやら扉の向こうにいる存在は、この門を開けてまでこちらに襲いかかってくる気はない様だ。警戒を解かないまま、脳裏より地図の情報を紙に記載し、これまでの道程を整理する。そうして少しの時間をかけて出来上がったものを眺めると、億劫にため息が漏れた。どうやら扉の向こう側にいる存在との争いは避けられそうにない。

 

世界樹の迷宮と呼ばれる場所は、地下に深く続く構造だ。広い迷宮は探せば必ず何処かに奥へと進むための隙間や下り通路が存在し、それを通過することで冒険者は奥へと進むことが可能となる。らしい。

 

実際、これまで一階、二階、三階、四階はその法則に従って、下へと進む道が広いフロアのどこかに存在していた。しかし、この五層というフロアは、一から四階までの広さや迷い道がなく、グネグネと曲がった一本道が続き、それを行儀よく辿ってやった後、見つかったのはこの門だけ。

 

もはやここ以外の人間が通れそうな場所は、残っていない。そして、今までの迷宮の特性から考えるに、ここ以外の、獣すら通れない道の先に、下へと進む道があるとは思えない。

 

―――ならば、結論は一つしかあるまい

 

おそらくこの先にその道があるのだ。静かに立ちそびえる門に手をやり、表面を撫ぜる。つるりとした表面からは、その美しさとは裏腹に、何者かの侵入を防ごうとする意思を感じ取れた。解析を試みようとしたとき、扉は思った以上の軽やかな音を立てると、奥へと開きゆく。開閉は招かざる客人を仕方なく迎えるかのように、重く、緩やかだ。

 

―――仕方あるまい。進むか。

 

誰かの作為と諦観に背を押される形で決意を固める。扉の開閉とともに視界がひらけて行く。門の先は思いの外広く、一キロ四方程度に区切られていた。あからさまに人の手が入ったとしか思えない正方形の四角に、しかし、意識は割かれなかった。それよりも、目立つ存在が門の対角に鎮座していたからだ。

 

「――――――」

 

それは黒き巨大な紫白蛇だった。全長は五十メートル程。獲物を食ったばかりであることが、蠕動している大きな腹の様子でわかる。しかし、その鱗と蛇腹のなんと美しい事か。

 

蛇の紫鱗と真珠色の肌は周囲の光を乱反射して、蕩ける様な色を惜しげも無く振り撒き周囲を魅了する。色香に惑わされた周囲の赤は、惜しげもなく己の存在意義を提供することで、彼女の輪郭は艶やかな黒で彩られていた。神々しい、と形容しても過言ではない。意識へ滑り込んでくる美貌は、なるほど、部屋の主人と呼ぶに相応しいだけの風格と品を備えていた。

 

蛇の体の一部が浮いた。一体化していた風景が崩れた事で、ようやく意識が戻ってくる。

 

―――いかん、見惚れている場合でない。

 

己の醜態に喝を入れ、即座に己の身を戦闘態勢へと移行させられたのは、鎌首をもたげた蛇と視線が合うのと同時だった。邪視。魔眼は石化の呪詛を多大に含んでいた。蛇の視線は全身を貫き、冷静さを保っている筈の心が、さらに凍てついてゆくかの様な悪寒を走らせる。

 

―――防ぎきれない。

 

瞬間、石像と成り果てた己の身を幻視した。だがその未来予想は覆えされる。寒気が全身を包み込む直前、彼を救ったのは腕に装備されたバングルだった。右腕に装着された冷たく輝く装備は効力を十分に発揮して、石化の呪いを防ぎきる。石で作製されたバングルの冷たさは、零度に落ち込みかけた心情を引き戻すに十分な熱を持っていた。

 

こちらが石化しない様を見て、蛇が瞼を細める。唇より二つに割れた舌がチロチロと動いた。腹を満たして揺蕩うていた蛇は、己の意を無視して侵入した私に対し、そして、自らの権能を打ち破られた事に対して、不快感を露わにしている様に見える。

 

―――うっとうしいですね

 

ハスキーな女性声の幻聴が脳裏に聞こえる。彼女は気怠そうに半身を起こすと、細めた瞼をさらに縮めて閉じ、次の瞬間、ギョロリと見開く。ズンッ、と背後より音が聞こえた。背の高い扉が閉じたのだ。

 

そこでようやく、自身が蛇に向けて数十歩近づいていた事実に気がつかされた。どうやら蛇の美貌に意識を奪われた際、彼女の方へと引き寄せられていたらしい。

 

「いや、君の怠惰な気質には感謝するよ。でなければ私はとうに死んでいただろう」

 

ニヤリと笑って述べた皮肉の言葉の意を介した訳ではないだろうが、浮かべた表情と所作は冷血とされる彼女をイラつかせるに十分な効力を発揮した様で、蛇は全身に力を込めて戦闘体制へと移行した。それでいい。頭に血が上った獣相手の方が、私としてもやりやすい。

 

戦いは避けられぬ。ならば、先手必勝、攻撃あるのみだ。

 

全身に強化を走らせる。ついで双剣を左右の手中に投影すると、両の腕をだらりと垂れさせた常ごろの戦闘体制へと移行しながら、まっすぐ蛇へと突撃した。石化を撒き散らし、異なる生物をも魅惑する魔性の蛇など、生かしておく理由など、ない。この魔物は仕留めておかねばならぬ相手なのだ。

 

だが。

 

「―――ちぃ!」

 

必殺の意思を持っての直進は、前方上方向より落ちてきた招かざる客によって中断させられる。来訪者は迷宮で幾度なく遭遇した蛇の群れであった。彼らはその身を盾として己らの女王を守るべく壁を作る。それはなんともおぞましき、赤蛇の滝壺であった。

 

その数なんと十と八。今更、恐るるに到底足らない存在は、だがしかし、いかんせん数が多すぎる。別段、迎撃することは不可能でないが、裂けば舞う血飛沫は目を眩ます霧となり、散る肉片は行動を制限する重石となるだろう。

 

正面突破は下策だ。かといって、今更つけた勢いを殺すだけの距離もない。舌打ちと共に右足に力を込めて地面を思い切り蹴ると、蛇滝の横を斜めに通りぬけた。直後、赤一面の景色に白が混じる。蛇の牙だ。強いられた跳躍の先では、巨大蛇が大口を開けて待ち構えていた。

 

―――まんまと乗せられた

 

迂闊な自分の行動を呪うが、今更どうなるものでもない。

 

さてどうする―――

 

いや待て、これはチャンスだ。他の蛇同様の複合石化毒なら、タリスマンとバングルで防げるだろう。ならば飛び込んで、口腔内部よりその余裕こいた面ごとをブチ抜けば良い。

 

浮かんだ起死回生のアイディアは、鷹の目が牙から滴り落ちる黄色の液が容易に煙を上げて地面を溶かしたのを見た瞬間に霧散した。

 

地面をも溶かす酸―――!

 

女王の口液は迷宮に一般に出現するそれに当てはまらない特殊なものだった。おそらくは、石ころとなった敵を食べるためだろう。硫酸か、フッ化水素酸か。いや、この際名称や細かい成分などどうでも良い。ともかく、あの液体に当たるとロクな結果にならないことだけはハッキリと分かった。ならば口腔内からの攻撃など、とんでもない。

 

口に飛び込まんとする刹那の間に思考を巡らせる。跳躍したこの身の方向を変える手段など、そうはない。以前のように爆発で方向をそらすか―――

 

考えていると、鷹の目と巨大蛇の片眼がかち合った。奴の視線はこちらに対する優越感に満ちている。まるで、どうとでも足掻いてみろ、と訴えかけている視線は自信に満ちていて、しかしこちらが足掻きを見せれば、即座に噛み砕くという油断なき意思に満ちている。

 

ダメだ、爆発では遅い。経験から直観できた。手にした投影物を投げるのに一つ。聖骸布を投影するのにまた一つの工程が必要であり、それを纏い、最後に威力と方向を調整しながら剣を爆発させるとすれば、余計に数工程必要だ。

 

おそらく、それだけのもがきを見せれば、奴は素っ首を伸ばして噛み付きに来る。先の奴の反応から噛み付きの速度は私が一定の動作を行うよりも早いことが予測できている。

 

奴が今それをしないのは、ひとえに、奴が自らに無礼を働いた下賤を嬲り殺す心情であるからだ。なるほど、奴は女王なのだ。世界樹の迷宮の主にして、大蛇どもを統べる女王。自らに無礼を働いたものは、恐怖に絶望させてから砕くが女王としての誇り――――――

 

―――女王、か。ならばそこに存分に付け込ませてもらおう。

 

奴の立場がわかった途端、対策が閃いた。一種の賭けでもある。だが、勝算は十分にある。

 

「投影開始―――!」

 

両手に握った双剣を放すと、楔のついた鉄鎖を投影する。名のある宝具ではなく、ただ頑丈なだけの、楔と鎖。一工程のあがき。蛇はピクリと反応を見せた。

 

続けて腕と足を思い切りふるって体を回転させる。これで二工程。女王が足掻きを見せた愚か者を罰しようと、開いた口を窄めてこちらへと近づけて来る。女性からの口づけならば歓迎したいところだが、獣臭と腐臭を漂わせる貴様のそれなど、真っ平御免だ。

 

全力で雌からの接触を避けるべく、強化した回転の勢いに任せて、楔を赤蛇の群れ目がけて思いきり投げつける。鉄鎖の先端は鈍色の光線となり、落下する蛇の体内を蹂躙しながら突き抜けると、そのまま勢いを殺しながら数匹を貫いたところで止まった。

 

鉄鎖の勢いが死ぬ。と同時に、あちらとこちらの体が、空中で一瞬の停止を見せた。大蛇数匹の落下エネルギーがこちら側の勢いに勝ったのだ。これで三。女王は予定外に配下を傷つけられ、大層ご立腹だ。突撃の勢いが増す。―――ここだ。

 

腕力を強化をして鉄鎖を引っぱると、時間は思い出したかのように動き出し、私の身体は落下する蛇に近づく。異物にぶつかり微かな撓みを見せていた鉄鎖はピン、と伸びて、そして再び撓んだ。これで四工程。奴の口までもう僅か。だがもう遅い―――

 

―――届いた!

 

身体が赤蛇の体と接触する。ぐにょり、と気持ちの悪い感触が伝わった。中途半端に冷めたい暖かさを持つ蛇のクッションは、私という敵を拒絶出来ずに衝撃を受け止める。女王は接吻を取りやめて頭を身ごと後ろに引いた。

 

数匹の蛇の体をクッションがわりに使用して落下のダメージを軽減すると、私と地面の間で圧力に負けた蛇の体から体液が散る。血液は暖かく、生臭い。液体には複合石化毒も混じっていたが、それは今の私にはなんの意味もなさなかった。

 

己の体を貫かれて自由な身動きを封じられ、あまつさえは衝撃を殺すための道具として使用された蛇は潰れた部位の痛みを周りに訴えるかのごとく、身をのたうち回らせ、悶え苦しんでいる。私は十分な余裕を見せつけるように、ゆっくりとした動作で体に付着した体液を払うと、口を吊り上げて女王に告げる。

 

「流石に身を呈して己を守ろうとした部下を、自らの牙で砕くのは気が引けたようだな。いや、冷血動物などと侮って悪かった。君は十二分に情のある生物であり、上に立つものとして下々に配慮も行える優秀な統率者だ。―――だから」

 

両手に刃が二メートルはある巨大な刺突剣を投影すると、悶える蛇の頭部目掛け投げつける。剣は蛇の頭蓋もろとも脳を貫くと、蛇の体を地面へと縫い付けた。そして絶命。それを見た女王が、忌々しげな視線をこちらへと向けた。

 

「―――だから、存分に君のそれを利用させてもらう!」

 

 

後はただの殺戮ショーだった。周囲に群がる大蛇を生かしたまま盾として使えるとして、後十枚以上は有る。巨大蛇は己の身を守ろうと出現した大蛇を自らの手で仕留めるのを躊躇う。また、動かなくなった大蛇を障害物としてばらまくと、彼女の進路を防ぐストッパーとして働いてくれるので、私は彼らが死なぬよう気を配りながら、生き長らえるよう加減をして、大蛇の機動を削ぎながら、有る時は大蛇の体を盾にして飛び回る。

 

巨大蛇は大蛇を人質ならぬ蛇質にとられ、身動きを制限されたまま、その身を削られてゆく。美しい鱗は見るも無残に輝きと色味を失い、生命が蛇の体より抜け真珠肌は朱に染まり、身体が不自由になってゆく巨大蛇の冷めた顔には、絶望感に身を浸し焦燥感が湧き上がりつつあるのが見て取れる。

 

―――いやはや、どちらが悪役か分かったものではない

 

だが、引けぬ。

 

貴様が迷宮の奥へ行くための障害であり、人に害なす魔獣で有る以上、私の願いに相反する存在だ。獣ながらその情、その誇りは素晴らしい。だが。貴様は私にとって、障害以外の何者でもない存在だ。

 

だから。

 

―――悪いが貴様はここで死ね。

 

都合十枚以上はあった盾を殺しきった頃、巨大蛇はもはや息も絶え絶えであった。魅了をばら撒いていた紫白は一転して周囲と同じ赤に染まり、長く伸びた肉体の所々からは血と内臓と体液とその他未消化物―――すなわち、石となった被害者の一部が―――漏れていた。

 

もはや死に体の巨大蛇は、しかし、その双眸だけは爛々と感情を蓄え、射殺さんばかりの視線をこちらへと送ってくる。鶯色眼球の中で大きな金の縦瞳孔がきゅうと細くなり、広がった。見るものを極寒の寒気に叩き込む石化の瞳には怒りと憎悪と使命感とを綯い交ぜにした感情が広がり、貴様だけは許さぬ、という意思がありありと伝わってくる。

 

視線が交差したのは一瞬のち、巨大蛇は身を翻して部屋の隅、私のいる位置より対角となる場所まで移動した。尾より先の半身でグルグルと巻いてバネを作ると、壁に押し付けて顔を頭部をこちらへと向ける。細かく位置を調整しながらも、瞳は私を注視して離さない。いざ行かんと瞳を輝かせる様に、突撃前の軍馬の姿を幻視した。

 

―――なるほど、それが貴様の切り札というわけか。

 

五十メートルの巨体を動かす筋力から繰り出される一撃は、小さな山や丘程度ならを吹き飛ばす程の威力を秘めているだろう。ならばあれは、牙城を門ごと粉砕する破砕槌に等しく。

 

―――生半可な手段では止められない

 

そう判断を下すと、手持ちの投影品を全て破棄した。続けて取り出したのは、以前は口を縫い付けるつっかえ棒として使用した黒塗の洋弓だ。カーボン製で作られたそれは、多少頑丈で有るものの、先ほど投影した鉄鎖と変わらぬ、単なる弓である。それ単体では眼前の敵に傷一つ負わせることなどできはしない。

 

そんなことは百も承知だ。そもそも弓において、敵を害する剣となるのは、矢だ。それも小山に等しい巨大な魔獣を打ち倒すのなら、それ相応の強力なモノを用意せねばならぬ。

 

「―――我が骨子は捻れ歪む/I am the bone of my sword. 」

 

動きを察知して、敵が動いた。引き絞られた体に蓄えられた力が壁めがけて放たれる。飛翔。蛇は地を這うではなく、空中を真一直線に直進する。

 

遅れて、パン、と小さな音が鳴った。それは彼女が巨体を動かした際に発生する音だった。それは巨体により生まれたにしては、あまりに小さく、彼女の通常よりもずっと小さい音だ。

 

壁を叩いた際発せられる音とは、すなわち、エネルギーのロスである。叩いた際、振動が発生し、余剰のエネルギーが音源となり、発せられる。それを解すればつまるところ、巨大魔物が生み出した音が小さすぎるという不可思議な現象は、彼女がほとんどロスなく、巨大な体に蓄えていたエネルギーを飛ぶという現象に使用したということを意味していた。

 

敵には覚悟があった。いかなる妨害があろうと、いかに体を傷つけられようと、この不届きものだけは誅さんという必殺の意思が込められた五十メートルの弾丸は紫白の残像を撒き散らしながら迫り来る。防御など、とんでもない。回避を試みたところで、もはや手遅れだ。

 

否―――、もとより、そんな選択肢を取るつもりなど毛頭無い。石化させる能力を持ち、群れて人に襲いかかる巨大蛇など、この世から消滅させておかねばならぬ魔獣だ。来ると言うのならば、迎撃するまでの話。直線にくるというなら、都合がいい。必殺の好機を見逃すほど、私はお人好しではない。

 

彼女に攻撃を仕掛けられた瞬間、すでに準備は終えている。弓に装填したのは、捩じくれた歪んだ矢だ。それは知る限り、最も手軽で、最も信頼のおける、最も貫通力と威力に優れた

―――剣だ。

 

接触まで三秒。彼女より発せられた殺意は、私の裡に秘めた決意と衝突し、乾きという現象を生む。緊張に喉がひりつくなど、幾年ぶりのことだろうか。そういえば生身であったな、と何度目になるかわからない気付きを得る。

 

久方ぶりの全力稼働に魔力回路と言う名の後付けの擬似神経が軋む。背骨を中心に痛みを伴う熱が身体の隅まで広がってゆく。未熟な頃はよく、背骨に鉄の棒を差し込むような痛みに耐えながら魔術を行使したものだ。懐かしい。

 

思い出に浸る私を責めるかのように、チリッと、指先が刺されたかのように鋭く痛んだ。魔力の逆流である。番えた剣が刀身に溜め込める魔力の分水嶺を超えて、悲鳴をあげている。もはや我慢ならぬとばかりに、余剰に注ぎ込まれた魔力が剣の特性を先走らせて発揮させ、身体の周囲に暴風と雷光が生まれては逆巻く。

 

後二秒。十分だ。後は番えた剣の真名を開放すれば良い。剣はアルスターの古い伝承に有る黒き雷の意味を関する名の宝具―――に私が手を加え、弓よりの射出に適した形状へと変貌させた、改良型の投影品。その名は―――

 

「偽・螺旋剣/カラドボルグ―――! 」

 

一秒。矢の切っ先を憎悪に歪む眉間に定めて、熱を帯びる右の指先から力を抜く。真名を発せられた宝具は秘められた真なる性能を発揮して射出され、強化の施された弦は役目を終え、びぃん、と蔓のたわむ音が間抜けに響いた。

 

零コンマ数秒。放たれた矢は音速をはるかに超える暴力となり、目前十メートルまで迫った蛇の頭部に襲いかかった。切っ先に生じた衝撃波が先んじて牙を突き立て、紫の鱗を剥ぐ。直後、宝具は体内への侵入を果たすと、巨大蛇の肉体を抉りながら直進した。頭部を守る役目の頭蓋は釘を前にした豆腐程度の役割も果たさず、彼女の頭部は瞬時に血煙に消えた。

 

つまりは即死である。さもありなん、あれをまともに食らって生き残る手段などありはしない。頭を砕かれた彼女の亡骸は、それでもエネルギーを保有したまま直進する。頭蓋を砕き脳漿をぶち撒けた剣の切っ先は、残る血肉も飛沫へと変換し、周囲に撒き散らしてゆく。

 

零秒。

 

―――っと、いかん

 

剣が蛇のほとんどを消し去った頃合いを見計らって、投影を破棄する。巨大蛇の体躯という障害を消し去った宝具は、影響だけを残して空気に溶けるように消えてゆく。遅れて一面に空気の弾ける音が盛大に鳴り、さらに遅れて、捻じ曲がった空気が壁を叩く音が聞こえた。

 

これでいい。これ以上宝具を現出させておくと、迷宮にまで破壊を生じさせる事となる。迷宮内での戦闘は許可されているが、必要以上の破壊と、故意に害することは執政院より禁じられている。私としても、いかなる技術をもってして作られたのかわからぬ代物なのだから、下手に刺激を加えたくはない。

 

肩の力を抜いた。重く深いため息をつく。常ごろより多少強めに強化を施した箇所が、無茶な過労に耐えかねて悲鳴をあげていた。痛い。生身での長時間戦闘は久しぶりだから仕方がないのだろうが、我ながら情けなく思う。

 

汗が抑えきれず、額に滲んだ。高速戦闘は体が冷える。冷えて感覚が鈍るとそれが命取りになるので、いつもは調整して戦っているのだが、今回はそんな余裕もなかった。自らの見通しの甘さに反省を促しつつ、体温の上昇を抑えるべく、呼吸を多めにとった。

 

久方ぶりの生きている証に手間を感じる。投影で汗を拭うものを生み出そうかと思って、しかし魔術回路が未だに灼熱を帯びているのを感じて、やめた。下手に使おうものなら、魔術回路は今以上の熱を生じさせ、体に余計なダメージを与える事となる。本末転倒だ。なんの意味もない。こう言う場合、自然に放熱を待つのが一番の近道なのだ。

 

気がついたかのようにバッグよりメディカを取り出してふりかけた。投影品の際は一切効力を発揮してくれなかった液体は、私の火照った体に触れた途端、光の粒子となって拡散して、体全体を包み込む。疲労が残らず消えてゆく感覚が心地よい。

 

そうして光が消えるまでの間、衝突―――というより、一方的な虐殺の余波により生じた荒れる空気の流れに身を任せた。もちろん、残心は解かない。強化により敏感になった肌と感覚は暴走して周囲の情報を取り込もうとするため、それの選別に意識を割く。やはり生身の肉体も良し悪しだ。

 

昂ぶった精神が落ち着くのを待っていると、執政院へ報告するために、倒したという証明が必要であることに思い至った。しまった、多少加減をするべきだったか、と思うが今更遅い。仕方なくあたりに視線を配ると、撒き散らされた巨大蛇の尾っぽ部分が残っていることに気がつき、胸をなでおろした。

 

これでよかろう。一応、残骸に剣を突き立てて動かないことを確認すると、まともに残っていた人の頭ほどもある大きさの麗しい紫鱗を数十枚剥ぎ取り、真珠色の皮を一メートル四方ほど丁寧に切り取る。これだけ持ち帰れば、討伐報告も納得してもらえるに違いない。

 

切り取った報酬を水分を通さぬ布に包むと、予想外に大荷物になってしまった。先に進もうかと逡巡したが、まずは増えた荷物の処分と情報の共有を先決させた方が、効率が良いだろう。自己と他者、そのどちらの二次被害を抑える意味でも、二層に行くのは手持ちを減らしてからで良い。

 

腰に装着したポシェットよりアリアドネの糸を取り出すと、縷を一気に引く。飛行機が離陸した時の浮いた感覚が体を包み込んだかと思うと、次の瞬間には視界は白に染まり、体も意識も迷宮より離脱させられた。

 

迷宮には彼の残した熱と残骸だけが取り残される。そしてしばらく経った頃には、その熱と残骸さえも風の中に消えていった。

 

世界樹の迷宮  〜 長い凪の終わりに 〜

 

第四話 歳はまさに甲子となり

 

終了