うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
両者が背水を背負うなら、より死を恐れず足を踏み出す方が、勝つ。

赤い部屋の色が白くなってゆく。心中に溜め込んだ感情を伴った記憶が失われていく。そうして白くなってゆく部屋を前に、私はしかし、以前のように残念の感情を抱くけなくなってきていた。

一角を見渡す。白く清潔なこの部屋の、その病的なまでな空白には見覚えがある。あれは……、そう、あれは、生前。かつて己がまだ無垢に正義の味方という存在になれると信じきっていた頃、そうして過ごした武家屋敷の中にあった己の部屋だ。

誰かに空っぽの部屋と称された、そのいっそ己は何も得てはいけないのだという執念すら感じられる、余計という言葉とは無縁の部屋は、今この白く漂白されつつある部屋のあり方とよく似ていた。

赤い部屋。他人が向ける感情を自分の裡に押し込めて、そうして部屋が血の色に染まってしまうくらい、目に見えない憎悪と悔恨と絶望とを蒐集してきただけの部屋は、そういった他人の感情を失ってしまえば、己というものが感じられないくらいに、無謬に自己の不在を証明し尽くしていた。

この先に一体何がある。他人の残念の想いだけを蒐集してきた部屋が空っぽになった時、果たして己の中には一体何が残ってくれるというのか。先のことなど考えたくはない。しかし、その答えを見せつけられてしまう時はすぐそこまで迫っている。

時計の針を無理やり進める、己の無様をとことん露わにしてゆく怪物を見る。奴はこの世界に来てから二ヶ月近くでそのだらしない体を大きく肥大化させている。単眼携えた脳からは、頭足類の足ばかりの巨体が出来上がってきている。赤を吸い込んでばかりのそいつの体は、その赤に秘められた真の感情を反映してか、驚くほどに真っ黒く染まってきている。

あれが己の理性の顕現だとしたら、あまりにも醜悪すぎる肥大化した体には果たして、己はどんな寓意を込めているのか。あるいは自己嫌悪の象徴こそがその醜悪な外見に現れているというのか。

部屋はもうほとんどが白くなっている。後どれくらいの時が残っているのだろうかはわからないが、限界は近いと思えた。この赤い部屋が、まるでかつての自分の部屋のような世界が再び空に満たされた時、果たしてその無情の部屋の中で、私は何を、誰を思えるのか。

限界は近い。ああ、もういっそ、このまま、奴の与えるこの忘却の救済に身を任せてやるのが正しいとすら思えてくる。そんな弱気を抱く自分に怒りを感じることすら出来なくなってきている。なら。そう、ならいっそ―――

―――ふむ、薬が効きすぎたか

そうして全てを諦観の彼方に追いやろうかと考えた時、混濁した頭の芯にすら滑り込んで不快を呼び起こす、そんな、醜悪さを兼ね添えた低い声が聞こえた。相変わらず、望んでいない時にばかり現れる奴だ。

「―――何の用だ」

抱いた不快を吐き捨てるようにいうと、影はその様を愉快とばかりに笑い、そして言う。

―――何、悩める仔羊の告解でも聞いてやろうかとおもってな

不快。それ以外で表現するのも憚られるその影は、やはり不快な声で、不快な事を言う。

「は、貴様に心の裡を明かすくらいなら、壁にでも語りかけた方がまだ建設的というものだ」
―――良く言う。先ほどまでよりもよほど饒舌になったではないか。
「貴様にだけ喋らせておくと碌な事がないからな。その機会を損失させるためには、いやでも自らから語りかけるしかあるまい。全く、余計な手間だけ増やしてくれる」
―――減らず口を。

なるほど悪意の記憶が失せてゆく部屋で、相手を否定する言葉を交わし合うその不毛は、しかし自身の気持ちを苛立たせ抵抗の意思を奮い起こさせる効果は持っていたようで、私は自然と饒舌を取り戻していた。

「―――改めて聞こう。貴様、何者だ? 何の目的でこの場所にいる? 私の分身ではないのだろう? 」

やはり吐き捨てるように言うと、その言葉を聞いた男は、それが心底おかしいとでも言うかのように、哄笑し、嘲笑し、そして痛烈に言ってのけた。

―――くく、いやいや、そんなことはないとも。私と貴様は方向性こそ真逆だが、そのあり方は同一の存在だよ、エミヤシロウ。―――そうだな……

その黒い影の男は心底愉快そうに私の名前まで述べると、少しだけ輪郭を露わにした。その長身で、背筋に芯の通った、ガタイのいい体格に私はどこか見覚えがある気がした。

―――お前が私の名を当てたのなら、そうだな、その時は、報酬の代わりに講話のひとつでもくれてやろう

哄笑。反転。

久しぶりに最悪の気分で目がさめる。起き上がり窓より覗く空を見上げれば、昨夜に引き付き暗雲が立ち込めていて、糸雨がはらはらと空を舞っている。窓に近寄って地面を見下ろしてやると、すでに一雨がきていたらしく、石畳のあちこちに水たまりが生まれていた。

どうやら一晩の間続いた雨はよほどひどかったようで、この時間、常ならそれなりの人で溢れている表通りは、驚くほどに人の姿がなく、街の静けさに誘われるようにして狭い枠から覗ける漆喰の壁と壁面を見てやれば、温度を失った街はいつになく暗鬱な色を携えている。人気を失って殺風景を体現した空っぽの街が、そうして別の色で染め上げられていく様は、まるで今の私の状態をそのまま映し出したかのようだった。

赤い部屋を白に侵食する、化け物と影。影と化け物に重点を置くならフロイト論で考えるのが正しいだろうか。もはや理性の化け物ではなどではない、影のことが過去の何かの象徴であるとするならば、あの影が言っていた言葉そのものがヒントであり答えの筈だ。

―――方向性こそ異なるが、似て日なる存在

方向性。英霊エミヤの方向性。在り方。正義の味方。他者の救いに比重の重きをおく、人格破綻者。それと同一かつ、真逆の存在。悪の味方。悪の容認する、人格破綻者。ならそれは。

「……まさか」

そんなはずはない。そもそもここがあの時より何年先の未来の話だと思っている。否、そもそもかつては英霊であった私の精神という場所に、ただの人間であったあの男が、巣食えるはずもない。ありえない。そうだあり得るはずがない。そんなことあり得るはずがないのだ。

―――しかし

言峰綺礼―――? 」

疑念を形にした瞬間、雨風が強く窓を叩く。一度その勢いを弱めていた雨足が元の強さを取り戻し、盆地であるはずのエトリアに嵐のごとき風雨が逆巻き、街の温度をさらに下げてゆく。天空を覆う灰色がその色の濃さに比例して、一層街の雨化粧も過剰を増してゆく。

虚空に問いかけを漏らしても、疑念の答えは出ない。光彩の薄れた孔雀緑の屋根から落ちる雨だれがその数を増やしてゆく中、湧き上がる疑念は雨樋を流れる水量の如く増えてゆく。

夕刻。答えの出ない問いの答えを探すなど無駄と知っていながらも、思考は勝手に余計の袋小路に迷い込みたがる。気分を晴らすために外を彷徨こうにも、己を宿に閉じこめるかのように、太く重い間断のない雨の檻が外出の選択を奪っていた。

―――結局、時間を無意味に消費してしまったか

ため息混じりにベッドから腰を浮かすと、首を左右に振る。姿勢を強要されていた骨が悲鳴をあげ、硬くなっていた繊維が伸びる音がした。どうやら昨夜、迷宮より帰還したばかりの疲労は一日では取れなかったらしい。疲労を露わにする音は、疲れを自覚させるきっかけとなって、もう一度重苦しいため息が漏れる。

同時に午後五時を告げる鐘の音がなった。雨中を切り裂いて鳴り響く金属同士のぶつかる音は、多少の重苦しい空気を払う効果を持っていて、誘われるようにして扉をあけ、いつもよりも機嫌の悪い木造の床を軋ませながら階下へと降りる。

「やぁ、寝坊助だね」

すると、受付にて女将のインがいつものように話しかけてきた。青みがかった緑色の瞳を携えた顔が意地悪く歪む。

「ああ、そうだな」

皮肉を返してやる気分でもなかったので素直に返答してやると、女将は異常を見つけたとばかりに片唇を捻じ曲げて、

「エミヤ。今日は随分とまた素直じゃないか。さては今日のこの雨はあんたの仕業だね」

などと返してくる。私のお株を奪うその行動は、なるほど、多少は落ち込んだ気分を発揮する効果を表して、私に何かしら言い返してやらないといけないなと思わせる効力をも発揮した。

「おや、心外だな。私の記憶が正しければ、この雨は昨夜から続いていたはずだが。昨日のことも思い出せぬほど耄碌したというのなら、施薬院に行くのをオススメするが」

多少強めに言ってやると、女将は「それでこそエミヤだ」と言って顔に皺の数を増やして見せて、上機嫌に椅子より立ち上がり、食堂の方へと向かう。ついてこいという無言の指示を飛ばすその背中に続くと、やがて様々な料理が所狭しと立ち並ぶ机の光景が現れた。

十品目ほども小皿に並ぶ包子や焼売、炒飯などの中華は、おそらくは鐘の音がなる頃には出来上がっていたのだろう、すでに少しばかり温かさを失っていたが、それでも製作者の腕の良さを示すかのように、整った姿を保っていた。

「うっかり作りすぎたのさ」

彼女は言うと、奥のイスに腰掛けると、机に伏せて顔を隠した。彼女が照れた時に見せる所作だ。おそらくは、昨日、宿屋に帰還した途端、倒れこむようにして部屋に入ったのを見て、気を利かせてくれたのだろう。

「感謝する」

料理に端をつける。並ぶ中華の品々は、多少の熱を失ってべたついたが、それでも女将の気遣いと言う熱で温められて美味しく仕上がっている。

「美味い」
「当然よ」

短く交わすと食事に戻る。しばらく時間をかけて片付けると、彼女は空いた小皿を纏めて奥へと持っていき、しばらく水の音を響かせたかと思うと、小さな平たい急須を多少深い皿の上に乗せて、ひとつの壺に二つの、とお湯の入ったヤカンを持ってやってきた。茶壺に、茶海に茶筒。どうやら今日の食後の一杯は台湾茶と決めたらしい。

聞香杯はいらないね」

言うと、乱雑に湯を皿の上の急須に注ぎ、その淵まで溢れたのを見て頷くと、蓋をして、そしてもう一度湯をかける。湯が皿の上に外と内より温められて、中の茶葉が空いた蓋の隙間から零れ落ちた。甘い香りが漂う。

一、二分ほどして余った湯で器を温めると、湯を壺に捨てて小さな茶杯に茶を注ぐ。器に注がれたほんの一口ほどの薄緑の液体を口に含めると、ちょうど良い甘さが考え事で疲れていた頭を解してゆく。

しばしの無言。手のひらで遊ばせていた湯杯は、すでに部屋の中へとその温かさを共有している。話すきっかけを失って、手持ち無沙汰になった頭で呆然外の様子を眺めていると、インが呟くように言った。

「雨、やまないねぇ」
「ああ」

言うと再び無言の帳が落ちる。外に降る雨は二人から会話の熱までも奪うかのように、闇色に染まりつつある地面を打ち付けていたが、外の冷えた温度に反して、二人の間にある沈黙は、不思議と柔らかなものだった。

「よぉ、エミヤ」

柔らかな沈黙の時を破ったのは、受付に現れた「異邦人」の一行だった。迷宮より脱出直後、強く打ち付ける雨の中をやってきたのだろう、五人の体は頭から足元までが新迷宮三層に潜った証であるかのように濡れていた。

女将が小さな悲鳴をあげながら奥へと引っ込むと、大きなタオルも持ってきて、四人の男に文句を言いながら乱雑に一つずつ投げつけると、入り口近くで服の水気を絞っている響にだけにだけは優しさを発揮して、濡れた頭を拭ってやっていた。

「どうした、こんな時間に」

受付に備え付けられた機械式の時計を見る。もう時刻は八時を回っていた。電気文明の世界なら、まだ宵の口とも言えないような時間だったが、早朝と夕刻の五時を基準に動き出す冒険者たちにとっては、そろそろ迷宮へと旅立つか、寝る準備をする時間帯だ。

「いや、その、なんだ」

他の男三人が大荷物の水分を拭う中、体が小さい分だろう、真っ先に手隙となったサガは、ひどく体を悶えさせた後、決心したかのように頷いて、口を開く。

「エミヤ。ちょっと、相談があるんだが、いいか」
「なんだ」
「あー、いや、あんまり人に聞かれたくない」

言うと彼は、目線を階上の部屋へと移した。密談がお望みということか。

「私は構わんが……」

少女の面倒を見ている女将の方に目線をやると、彼女はため息を吐いて受付から宿帳を出すと、めんどくさそうに言った。

「宿泊するってんなら、中で何をされようと私は関与しないよ。後、エミヤ。やるってんなら、その間、あんたの部屋の掃除をすませちまうがいいかね」

私は静かに頭を下げて、彼女の提案に感謝を返した。

案内された部屋は、冒険者用の広い部屋だった。私が常の寝床としている一人用の部屋とは違い、部屋の中央端にはダブルのベッドが二つ並び、一人がけの椅子と机は、三人がけのソファと丸椅子と三個の金属椅子に変化していた。

また、部屋の端っこにあった鎧がけも、大きな棚と箪笥に変化しており、窓の数とカーテンの数とその大きさも約二倍ほどに増えていた。机の上に聖書がない事だけが、あるいはこの世界における全ての部屋における共通項だろう。

これが一泊百イェンと、三百五十イェンの部屋の違いということか。

「あー、やっと、落ち着けるー」

言いながらサガがシーツへと飛び込んだ。真っ白なシーツは体重を受けた場所からシワを作り、無礼者を受け止める。ダリはそれを咎めるような視線を送りながら棚に鎧兜を置くと、盾を壁に立てかけて奥のソファへ腰掛け、ピエールは竪琴を持ったまま静々ともう一つのベッドの端に腰掛けた。響は無手で、シンは刀を持ったまま、仲良く並んで、丸机前の椅子に腰掛けている。

「それで、なんだ」

改めて問うと、一同は見合わせて、そして無言の帳を下ろす。いつもなら率先して話しかけてきそうなサガや、ダリ、シンまでもが口を噤んで黙っていた。

「……らちがあきませんね」

ピエールがため息を吐いた。薄い唇から漏れた吐息が、明るさを帯びて宙をゆく。

「エミヤ。単刀直入にいかせていただきましょう。―――私たちと組みませんか? 」
「――――――」

突然の申し出に驚愕。その衝撃を受けた所作をどう捉えたのか、ピエールを除く男三人は顔を見合わせて、そうしてそれぞれに歪めた。

「なぁ、ほら、やっぱり。こういう反応になるだろ」
「うむ。この申し出は、あまりにも不躾が過ぎるというものだ」
「まぁ、突然すぎたからな」

どうやら一同は、己のそれを拒絶の反応と捉えたらしく、それぞれに失敗の予感を口にする。そんな中で、ピエールと響だけが、違った反応を見せていた。

「それで、どうです、エミヤ」

ピエールが問う。私は一瞬その提案を聞いて思考を停止させたが、すぐさま脳の血の巡りを良くすると、反応して聞く。

「一体、どういう意図があってその結論に達したのかね? 」
「ええ。実は、私たち、三層の番人の部屋の前までたどり着いたのですが、まぁ、ちょうど手持ちの道具などが心許無くなりましてね。そこでダリとサガが撤退して準備を整えてから番人に挑もうと提案したのですが、シンは貴方に先を越されたくないからさっさと挑みたいと聞かなくて」

ピエールはそこまでいうと、一気に喋りすぎたとばかりに喉元をさすって、咳払い一つ。

「まぁ、そうして二人と一人。特にダリとシンが互いの意見を押し通そうとして譲らない。ダリは一週間は準備に欲しい。シンはそんな期間あったら、貴方が三層番人を倒して突き進むという。まぁ、どっちのいうことも最もなので、折衷案として、私が最初から協力を要請して一緒に倒してしまえばいいじゃないですかと頼んだわけですよ」
「……」

折衷というにしては、あまりに明後日の方角を向いている案のように思える、とりあえずは二人の意見を確かに汲んではいる。要は、こういうことだろう。

「つまりあれか? 君たちは、一週間という期間の後、私とともに番人の部屋に挑みたいということか? 」

口から出した言葉に反応して、ランプの光が揺れた。まるで、一同の意思を問うかのようにその身を震えさせると、彼らの影をゆっくりと順に伸縮させてゆく。

「ええ、その通りです」

ピエールが最初に反応した。

「私としましては、ついでにその後の、多分あるだろう四層、五層の探索も協力してもらえればと思っているんですがねぇ」
「お、お前何をバカな」
「ピエール、それは流石にいくらなんでも……」

ダリとサガが続いた。シンだけは一切反応せず、こちらの出方を伺うような視線を向けている。おそらくは、間違いなくその通りなのだろう。

「なぁ、やっぱあれだって、こんな寄生みたいな真似良くないって」

サガが眉をひそめて言う。

「まぁ、我々も何度か同じような輩に辟易とさせられてきたわけであるしなぁ」

ダリがしみじみと言う。

そして。

「――――――、了解だ。その提案、受けよう」

二人の懸念をバッサリと断ち切って、私が提案を受託する。答えた瞬間、二人の反応は劇的だった。二人ともピエールに抗議の姿勢をとったまま動かない。まるで石像にでもなってしまったかのようだ。

「おや、よろしいので? 」

ピエールは少しばかりの驚きを顔に貼り付けて言ってのける。その、いかにも一応礼儀として驚いておきましたよという態度からは、実のところ、私の回答が彼の予想通りだったのだろうことが読み取れた。

「良く言う。その反応から察するに、私が受けるのは君には読めていただろう? 」
「ええ、まぁ。これでも、人を見る目は持ち合わせているつもりですよ」

ピエールはやはりいつものように涼しげに笑い、意地悪く目元を逆三日月にして、誇らしげにそう述べた。

「―――、いいのか、エミヤ」

結論を述べると、ようやくシンが訪ねてくる。黒曜石のように済んだ瞳には真意を図ろうとする意思に満ちていた。

「エミヤ。悔しいが、今の私たちより、君個人の方が、実力は上だ。だからこれは、言ってみれば、格下が、格上である君を、利用したいという宣言だ。私たちは、以前響を利用しようとした彼らとやろうとしたことを、以前、そんなことはやらないといったことを、我らは今、進んで行おうとしている。唾棄に値する行為だ。他人の情を見込んですがり、自分の実力以上のことをなしとげようなど、あまりに厚顔無恥な提案だと思いはしないのか? 」

シンはなんともまっすぐ、饒舌に、馬鹿正直に聞いてくる。多分、何か過去の経験で、実力が格上だの格下だのといった事で嫌なことがあったのだろうか、己を乏す原因になっていることが読み取れる。

しかしなにが琴線に触れているのかは知らないが、ともあれ、私は言ってやる。

「ふむ……悪いがシン。私としては、正直、そういう、誇りだのなんだのは、どうでも良いことでね。この身を誰に利用されようが、誰がをどんな結果だそうが、私にはあまり関係ない。私にとって重要なのは、謎が解明されて、人が死なないようになってくれれば、それでいいのだよ」

述べた言葉は、シンにとって相当意外だったのか、雷を打たれたかのように彼は停止した。良く分からぬが、おそらくは名誉を重んじず、実利を優先する私の態度が以外だったのだろう。その黒曜の瞳には、明らかな動揺の色が浮かんでいた。そんな彼の様子を見てピエールがクスクスと笑いながらいう。

「だから言ったでしょう、シン。みんながみんな、貴方みたいに潔癖な考えの持ち主じゃあないんですよ。その表向きバッサリとしている癖に、何が出来る何が出来ないだけに価値の重きを見出して、わかりやすく他人の上下を評価する癖をやめた方がいいですよ」

言われてシンは、目を見開いてピエールの顔を注視した。高い戦闘能力に見合った威圧が周囲に撒き散らされて、隣に座っていた響がまるで極寒の吹雪の中にいるかのように、体を縮こめた。

普段のバトルマニアと称される彼からでは、とても想像もできないその動揺は、おそらくはピエールの言ったことが真実なのだろうことを何よりも如実に告げているようだった。

周囲の、特にダリとサガはピエールの言った言葉とシンの応対を見て、さも意外そうに驚いている。おそらくは、シンがそんな人間だとは夢にも思っていなかったのだろう。だが、私はそんな彼らとは逆に、ピエールが暴いたシンという人間の性質に、少しばかりシンパシーを感じていた。

―――ふむ、この世界の人間も、案外闇を抱えているものだ

入り口の衛兵や、ヘイだの、クーマだの、ばかりと接していたから、安穏で平和ボケしたような人間しかいないと思ってたが、ピエールといい、シンといい、この世界の人間の中にも、案外、かつての旧世界にいたようなひねくれ者や、鬱屈、侮蔑の感情を抱えた人間もいるらしい。

そうして隠していたところを暴かれた彼は、しばらくの間、燃え盛る炎のような気配を周囲に撒き散らしていたが、突如、ふっ、とその猛炎を鎮火させて、ピエールに言った。

「ああ―――、まいったな。さすがだよ、ピエール」

必死に心の中に押し込めて隠していた醜いものを晒しあげられたシンが、しかし顔に貼り付けていた無表情の仮面を落とし、全身から力を抜き、肩を落として述べたその言葉からは、気負いというものがまるで感じられない、まさに、まさに憑き物が落ちたという表現が合うものになっていた。

世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十五階「誓約と闘争に満ちた生涯を駆け抜けた英雄」

番人が待機する広場は樹木も岩石も滝も湖も浅瀬も無い、本当になにもない単なる広い空間であることが多い。だが今回、扉の向こうにあった光景はその常識とかけ離れた空間であった。ただしく「樹海」と表現するのが正しいのだろうか。いや、樹木が所狭しとばかりに視界どころか行く手も遮り、上下左右斜めの方向へ無造作に幹と枝葉を伸ばす様は、大樹海とか、密林樹海とか形容するのが正しく思える。

「まともに進めないな」

シンが鉈を振るって、樹木の上より垂れ下がっている蔦を切り払った。蔦はバサバサと地面に落ちて青臭い匂いが周囲に広がり、鼻腔に入り込んで不快を引き起こす。シンはそのまま身を屈ませて作業によって現れた樹木の幹と幹の下の通路を通ると、再び鉈をふるってバサバサと蔦を落として視界と進路を確保する。私達はそうして作ってもらった青臭い小さな通路に続く。そうして少しばかり進むと、シンが突如作業の手を止めた。

「どうしたんだよ、シン」
「……見ればわかる」

サガの質問に素っ気なく答えると、前に進み、膝を伸ばして背筋をピンと伸ばした。立ち上がったというからには、ついにはひらけた場所に出たのだろう。ダリ、サガ、ピエールに続けて樹木同士が重なってできた洞穴から抜け出すと、縮めていた身を伸ばして体の硬くなっていた部分をほぐした。自分の体からぼきりと鳴る感覚が、なんとも快感だ。

そうして呑気をした後、視線を前に戻した時、見えた光景に私は驚いた。

門の場所より四百メートルほど続いた閉鎖的空間の先にあったのは、先程よりずっと視界の開けた空間だった。半径五十メートルにも満たないその空間は、相変わらず幹が自由に振る舞うのを許容しているものの、それ以外の、例えば苔だとか蔦だとか、役割を終えた葉が落下するのさえ許容しておらず、地面は一様に茶色い砂と幹だけが自由に姿を晒している。砂地に樹木の絨毯が敷き詰められた様は、まるで人が歩くに適していない。

そうして砂と樹木の地面を追っていくと、その先にある、少しだけひらけている小さな広場の中心は、樹木と砂で構成された小高い丘の形に地面が盛り上がっている。樹木をさけて視線を送った先、丘の頂には一匹の身体の大きな獣が横たわり、彼を取り囲むようにして六匹の獣がこちらに視線を向けている。頂に寝そべる体の大きな獣は彼らの主人だろうか。

こちらに視線を送る獣たちの身体は中心に寝そべる獣よりは多少小さいが、それでも今まで戦ってきた多くの奴らよりも大きな体躯を持っていて、すぐさきに起こるだろう戦闘が苛烈なものになるだろうことを暗示しているようだった。

六匹の獣は皆同じ見た目をしている。全身を覆う短い黒毛は、彼らの呼吸ごとに光の反射方向を変えて、その滑らかの在り処を移している。水面に映ったかの如く反射する光の動きの滑らかは、毛並みが持つの滑らかさと艶やかさを証明するに一躍買っている。

敵であるというのにもかかわらず、思わず見とれてしまう美しさを持つ獣は、私の後ろからエミヤが現れた瞬間、ギルド「異邦人」の一同に注がれていた視線を一斉に彼の姿に集中させた。

「……、犬、か」

エミヤは一言漏らした。彼は明らかに目の前に何かしらの特別な思いを抱いている。言葉の抑揚から読み取れたが、それが何かまでは窺い知ることが出来ない。だが、その少しばかりうんざりした様子からは、私は犬に何か嫌な思い出でもあるのだろうか、と思う。

「――――――!」

エミヤが姿を表して呟くと同時に伏せていた犬が一斉に立ち上がる。お尻より伸びた赤い毛のウィップテールをピンと直立させてクネクネと左右に振らしていることから、犬たちがエミヤに対してただならぬ警戒を抱いていることがわかった。

「私達は眼中になし、か」

シンが不機嫌そうに、呟く。ああ、なるほど。たしかにエミヤを見た途端警戒を露わにしたということは、私たちは警戒に値する存在でないと思われていたことになる。シンはそれが気に食わないのだろう。でも仕方ないと思う。だって実際、彼はとんでもなく強いのだから。

周囲の獣どもの異変を感じ取ったのか、寝そべっていた犬がようやく動きを見せた。のっそりとした所作で身を起こすと、全貌を露わにして丘の頂からこちらを睥睨する。体躯の全身を露わにしたボス犬は、しなやかさを彫像化したかの如く美しい姿をしていた。

周囲の美しい毛並みの獣が霞んで見えるほど、全身を覆う毛並みは絹糸のような滑らかさと艶やかさを併せ持っている。巨大な体躯はだからといってゴツゴツとした雄々しさに満ちているわけでなく、引き締まった胴体と四足はすらりと伸びていて、犬が素早く動ける事を容易に想像させた。

下顎から頭部にまで繋がる透明に見えるほど細く薄い毛は、周囲の光を取り込んで七色に美しく輝き、周囲の獣との隔絶を表現している。七色に覆われた毛の中心にある顔にある瞳は同じように光を取り込み、七色に輝き雄々しい視線をこちら……否、エミヤの方へと向けようとしていた。

ボス犬の所作はとても自然で洗練された動きで、私は思わずその一挙手一投足に見惚れる。やがてボス犬とエミヤの視線がぶつかる。七色に輝く瞳がエミヤの向ける鷹の如き鋭い視線を捉えた瞬間、美しい瞳は獰猛さをも兼ね備えた凶暴なものへと変化する。

獣の瞳の変化は見惚れる私の気持ちを瞬時に萎えさせて、薄くなりつつあった敵に対する恐怖心が沸き、無かったはずの闘争心をも湧きあがらせる。変化は数秒後に始まる戦闘の予感となり、身を強張らせる。

「この場で誰が一番危険かを本能的に察知し、警戒態勢に入るか。なるほど迷宮を守る番犬に相応しい態度。まずは流石といっておこう」

だが敵意を向けられたはずのエミヤは、敵の意思など知った事かと言わんばかりの態度で、のんきに敵を褒める。エミヤは少し先、高い場所にいる犬を、高さの低い場所から大いに見下していた。その態度が気に食わなかったのか、ボス犬は大きく低い声で嘶くと、口を上に向け、口先をすぼめて吠える。遠吠えが広間大きく反響した。

後ろから扉の閉まる音が聞こえる。番人との戦いが始まったのだ。私たちは五人と一人のグループに分かれて戦闘体制をとる。続けて六匹の獣三匹づつに分かれて丘より駆け下りてくる。そして大きなボス犬が頂から一直線に、二つのグループの間を直進した。ボス犬が攻撃対象に選んだのは、嘲笑の表情を向けたエミヤだった。

「――――――! 」
「ボス格自ら率先して強敵の対処に当たる心構えは見事。だが驕るなよ、駄犬―――! 」

エミヤは言って前に身を乗り出した。遅れて私たちも続く。加勢しようとした私たちは残りの六匹に動きを邪魔される。六匹は今まで戦ってきた犬達よりも格段に早く、そして力強い。その上、乱立する樹木の間を飛び回り多角的な攻撃をしかけてくるので、毒が使えない。

飛び回る犬達に有効な量の毒を吸い込ませようとするならば、空気中に広く散布する必要がでてくる。それだけの量をあたりにばらまくと、間違いなく味方にまで被害が出てしまう。毒は一定量を体内に取り込むだけで、骨肉を溶かす猛毒だ。間違っても味方が吸入する事態は避けなければならない。ならどう動くべきか。私は答えを求めて周囲を眺めた。

「ではまず、体をリラックスさせましょうか」

真っ先に目に入ったのは、敵から殺意を一身に浴びせられているピエールだ。ピエールは敵がエミヤに突撃をかました瞬間に、スキル「軽業の戦慄」をを歌い上げていた。楽器が奏でる高低音は、喉元を細く白い喉元から生まれる声に調律されて、周囲の味方の反射神経を上昇させ、回避力を引き上げる力のある音色となる。ピエールの生み出す音色は、地面に生えた樹木が行く手を遮る場所においても、あたりを賑わすだけの力を持っていた。

大きな音を立て、そして声を張り上げるピエールは、他の人よりもよりいっそう犬の注意を引く。おそらく人間よりも高い可聴領域を持つ彼らにとって、ピエールの出す音色は不快なものを含んでいるだろう、ピエールが歌うと犬どもはこぞって彼を狙った行動をとる。目を閉じて一心に歌い上げるピエールに前方の六方向から少しずつ時間を空けて不快を露わにした殺意を纏った犬の攻撃が迫るも、彼はその場から一歩たりと動こうとしない。

「ピエール!」

牙爪が彼の柔肉に食い込む直前、ダリはスキル「フルガード」を発動した。物理防御を高める光がダリの周囲を包み込み、同時にピエールのに向けられた獣の攻撃がその光によってダリの方へと誘導され、彼はそれを盾と全身に着込んだ鎧兜で受け止める。

金属音。そうして己の攻撃が不発に終わったことを知ったやつらに対して、ダリがダマスカス製の大身槍を振りまわすと、と、奴らは素早く跳躍してその場から離脱する。ダリを全身に攻撃を受けながらも、予定通りに攻撃を防げて満足気だ。

これまでの戦いで犬達は歌い上げるピエールを率先して狙うことを、私たちは知っている。彼らはその不快な音を生み出す輩を始末してしまおうと躍起になるのだ。だからこそ、私たちは、ピエールは率先して歌い出す。そして、敵より最優先の排除目標として認識された彼をダリが守ることで、被害を彼らにのみ集中することができるのだ。

先ほどまでの戦闘において、私は彼らがそうして生み出した隙を狙って、毒を散布することができた。攻撃を防がれた犬達は、大抵警戒心を強めて、少しばかり距離をとってこちらを観察する行動に移行する。その隙を狙い、毒を地に伏せる犬達にのみ有効な程度地面に向けて適当に撒き散らせば、敵はすぐさま狂ったように悶えて死に絶えてくれた。

だが、今回はその手段が使えない。一番の障害は、周囲の地形だ。鬱蒼と上下左右に向けて生える樹木の幹が、地面に無造作に生えているそれが、平坦な地面を立体的な場所へと変えている。断絶する空間と空間の間を縫うようにして攻撃を仕掛けてくる犬達は、今までのように地面を絶対の待機場所としていない。

また、立体的な動きで縦横無尽に駆け回る彼らは、樹木と樹木の間に一定でない風を生み出して、不均一な空気の流れを生み出している。改めて、このような環境において、今の自分の力量では毒を犬達にのみ有効となるように散布するのは不可能だ、思い知る。

この場をどうにか出来るなら、多分現状最高戦力のエミヤか、と思って周囲を見渡すも、彼はいつのまにか私たちのそばから消えていた。引き離してくれたのか、引き離されたのかは知らないが、遠くで断続的な、不規則な剣戟の音が聞こえる。どうやら彼は、私たちと少し離れた場所で、一人で戦っているらしい。私たちが付いていくのがやっとの犬と、たった一人で対等に戦えている彼が羨ましい。

自らの力量不足を悔しく思っていると、ピエールに群がっては、ダリに蹴散らかされている犬が突然、不自然な挙動を見せた。犬の予定していただろう進路上に赤茶の月光が数度煌めいたかと思うと、犬は連続した弱い悲鳴をあげながら体を何度も折り、予定進路とまるで別の方向へと吹き飛ばされる。

「シン!」

犬のいなくなった後には、刀を振り下ろした状態のダリが名を呼んだシンが立っている。ブシドーのスキル、「ツバメ返し」を繰り出したのだ。繰り出した連撃を全て当てたシンは、だが、苦々しい表情を浮かべて犬の方向を見ていた。

「今までのようにはいかんか」

視線の先を追うと、シンが完全に不意をうって繰り出した刀技を体で受け止めた犬は、ピンピンとした状態で樹木の上に衝撃を殺しながら着地しているのが目に入った。犬は全身を大きく身震いさせて状態を確認すると、忌々しい、と言わんばかりの視線をシンに送り返している。

シンの一撃が効いていない。その事実に驚き、シンの方を見ると、彼の刃先は珍しく足元の地面、この場合は樹木へとめり込んでいる。さらに注視すれば、彼の足元の樹木の表面の茶色が剥がれて落ちて、瑞々しい樹木内部が見えているのもわかった。

―――なるほど、滑ったのか

シンは足場が悪くて、力を発揮しきれなかったのだ、崩れた体勢で繰り出した一撃は、敵に有効打を与えることができなかった。樹木の地面の高低差と周囲の地形に苦戦しているのは自分だけでないというわけだ。

「またか!」

シンは続けてピエールに向かう敵めがけて一直線に向かうと、上段に構えた刀を振り降ろす。が、敵は近くに生える樹木を利用してその姿を隠す。敵の姿が見えなくなった事を確認したシンは、剣と体の軌道を無理矢理変更すると、身を翻して構え直す。

彼はいつものように追撃を加えることができず、やりにくそうだ。しかめっ面からと喜色の混じった顔からは、苦戦はいいが、全力を出せないのはいただけないという、彼らしい複雑な思いが読み取れる。

「なら、その樹ごと吹っ飛ばしてやる!」

そうしたシンをサガはフォローすべく、シンの一撃で体勢を崩した敵に対して、シンの攻撃に続けて「核熱の術式」を放っている。当たれば敵を分解して、超高温を生み出す光の柱は、三属性が効かない敵にも有効な一撃となって、敵にダメージを与える……はずだった。だが、やはり目の前にいる犬達相手には通用しなかった。

サガの籠手より直進した光の柱は、多量の水分を含んだ樹木にぶつかるまでの空間を白光で満たし樹木を巻き込んで爆発の柱を生み出すが、果たしてその時、すでにその場に犬の姿はないのだ。シンの一撃受けて、あるいは回避して体勢を崩しているはずの敵は、しかし、サガが攻撃を受ける前に、その場所から身を退けている。

「だぁ、くそちょこまかと!」

敵はこれまで私たちが倒してきたどの犬よりも、頑強で、速く、強い。歴戦の彼らが苦戦する中、私には一体何ができるのか。毒以外に持ってきているのは大量の回復薬と、麻痺や盲目の状態異常を引き起こす香。それと各種採取ツールに、敵の体を縛るための道具だ。

敵の動きが早すぎて捉えられていない現状、有効な援護として思いつくのは、敵の動きに制限をかける香を使うか、足を縛る糸を使うかだ。だが、麻痺は毒と同じ理由で周囲に有効な分量をばらまくことができないし、足を縛る糸もうまく当てる方法が思いつかない。

だが、援護の可能性があるとしたら、縛る糸の方だと思った。糸は使用すると、鞠となった糸玉から一直線に長く手を伸ばして敵の拘束を試みる。また、香とは違い、糸は敵味方を選別してくれるうえ、糸の一部でも引っかかってくれれば効力を発揮する。そうして敵の行動を制限してくれる糸は、この状況下においてうってつけだと思う。

けれど、粒子の集まりである香とは違い、塊で、発動後も目測可能である縺れ糸は、俊敏な敵や警戒心の高い敵には回避されやすいという弱点を持つ。敵は私たちのパーティでもっとも速いシンが捉えきれないのだから、なお当たる可能性は低いように思える。

私のフォーススキル「イグザート・アビリティ」を使用すれば、真価を発揮した糸は、広範囲に糸を飛ばして普通より長い間追いかけてくれるけれど、糸がきちんと真価を発揮するためには、この環境が邪魔だと感じた。速い敵を追いかける糸が生い茂る樹木に絡め取られて、効力を失う未来まで幻視できる。

どうすればいい。どうしたらいい。繰り返し頭の中に響く言葉は結論を出すことをせかす。焦りは悩みとなり、脳の邪魔をする。焦燥と懊悩を排除して集中を試みるも、過敏になった感覚がピエールの歌声やダリの盾が生み出す衝突音を拾い、音に反応した体はとっさに周囲の様子を探ろうとして、鬱蒼と茂る風景ばかりを目に写す。

―――ああ、なぜ、樹木はこうも鬱陶しく茂っているのだろう。樹木があんな縦横斜めの方向に伸びて空間を狭く制限していなければればもっと楽に戦えるのに

一方的な怒りを樹木に対して向ける。思い通りにいかないという事に対して怒りを覚えた。

―――樹木も自由気ままに生えるなら、いっそのこと空間を満たして、私たちと敵を隔絶する位に生えてくれていればいいのに

……空間を、満たす――――――、これだ!

心の中で吐いた己の愚痴に、天啓の稲光が走る。思いつきを実行すべく、カバンに入れていた手が思考の最中から握っていた糸を取り出すと、いつかのように大きな声で叫んだ。

「フォーススキルを使用します! 」

干将・莫耶を振るう。鍛え上げられた白の刀身で獣の攻撃を捌き、黒い刀身は獣の肉を裂いて戦場に血が舞った。獣は唸り声をあげながら、身を翻して後方へ跳躍する。反射的に繰り出したであろうその反応の動作と速度は俊敏。あっという間に数十メートルの距離が開く。

目線を手元から前方、獣の跳躍した方向へとやると、獣の体から煙が上がるのが見えた。煙は傷口から上がっている。そうして獣の上へと昇った煙が元より赤い空間をより濃い血の赤で染め上げたかと思うと、すぐさま煙は収まり、獣の体から傷が消えていた。

獣は自己回復スキルを身につけているらしい。なんとも生き汚い奴だ。戦闘が予想より長引くと確信して思わず舌打ちをする。

犬の如き姿をした四足の獣は、世界樹と呼ばれる迷宮の中で出会ってきたどの敵よりも早い。強化魔術を叩き込み、味方のスキルでさらに強化された眼球ですらその姿をはっきりと捉えきれず、眼球の表面にぼやけた像を残しては消えてゆく。その速度たるや、あの神速の槍兵の動きに匹敵するかもしれない。

敵は強い。移動速度は一流の英霊に匹敵し、力は私に拮抗し、動作と反応速度に至っては私を超えている。加えて自己回復の能力。なるほど、強敵である。

だが。だがそれでも。

「それでも貴様ごときでは、私の脅威にはならんな」

呟き、挑発的な視線を送り、隙を作る。挑発に怒りを沸騰させた敵は、私の隙を見つけたと喜んでは死角から攻撃してくる。敵の動きには迷いがなく、最短の距離を最速の速度で駆け抜けてくる一撃は、どれもが必殺と呼んで過言でない威力を秘めている。

私は己の反応速度を大きく上回っている攻撃に反応しきれず、目線などはまだ、獣が攻撃の寸前までいた場所から動かせていない。戦いの最中、一方的に敵を見失うなど、死に体も良いところだ。獣はおそらく、仕留めたと確信して会心の笑みを浮かべたことだろう。

しかし。

「――――――!」
「動きが直線的、かつ短絡的に過ぎる」

好き放題に敵の弱点を述べる。獣が私の言葉を介していないだろうことは、その後も繰り返される直線的な連続攻撃からわかっていた。だから、あえて言葉にして私自らに言い聞かせる。五感より感じ取った情報は言語化され、私の脳内が認識したその言語は、私の中から挑発の姿勢と見下しの態度を引き出してくれる。

獣は言葉こそ感じ取らないが、私の向ける嘲笑を五感で不快と感じ、奴は怒りを抱く。そうして敵の攻撃はいっそう怒りに支配された単純なものへとなり、私はよりいっそう簡単に敵の攻撃を避けられるようになるのだ。

繰り出された、敵にとって最速の、私にとって致命的な視界外からの速撃を私は防ぐ。固いもの同士がぶつかる高い音が瞬間だけ鳴り、続けて金属同士が身を削りあった際に発生する不快さを含む音が聞こえた。

背後からの一撃を、右手剣を盾として配置し防いだのだ。獣の前足から伸びた爪を折らぬように方向を調整して置かれた剣は、その薄い剣腹で見事に五爪を受け流し、身を守ると共に獣の体勢を崩す役目を果たしていた。

胴から上を捻じ曲げて上半身だけ振り向かせると同時に、無防備を曝け出しただろう獣の胴体向けて一閃を振るう。確実に胴を切断すると思った横薙ぎの一撃は、しかし、虚空を通過するに終わる。後ろに向いた私の眼球は、敵が地面に両手の爪を突き刺した状態で伏せているのを見た。

敵は胴体が刃に裂かれるのを避けるため、両手の爪が地面に深く突き刺さったのを逆手に取り、腕力と膂力を利用して胴の進行方向を無理矢理に地面へと変えたのだろう。その行動は、敵にとって不服な選択であったことが、睨め付ける視線から見て取れた。

視線がかち合う。虚空を切った左腕に乗せられた回転の勢いを殺すことができず、私は傾いた竹とんぼのような姿勢を取ることとなった。無防備な胸が敵の正面にさらされる。敵はその隙を好機とみたらしく、敵は笑みを浮かべると、地面突き刺さった爪をさらに深く埋めて、力を溜めた。きっと地面にめり込んだ爪が自由になった瞬間、胸に爪を突き立てる気だ。

そうして私の上半身の勢いが腰の回転に影響を与えた次の瞬間、敵は先程深々と地面に突き刺さっていた爪は攻撃の用意を完了していて、既に半分程も姿を現していた。もはや一拍を置く猶予も残されていない。

ならばこうだ。腰に移った回転の勢いを殺さないまま、右足を浮かせて左足の踵を軸足とする。そうして左足の踵を軸としてグルンと下半身を反時計周りに回転させると、左足の指先がちょうど敵の真正面を捉えた時、左のつま先に力を込めて地面を踏みしめ、勢いが乗った右足に殺意を込めて敵の体めがけて思い切り振りぬいた。

一般の状態でなら敵の方が速いとはいえ、敵は未だ攻撃の体勢に移行している状態で、攻撃の速度は最高速に達していない。対して私は己の出すことのできる最高速度を繰り出した状態から、その勢いを加えての攻撃だ。どちらが速く敵を捉えることができるかといえば、それは間違いなく―――

―――私だ

鉄鋼靴の右足が敵の腹に突き刺さる。鉄板に保護されたつま先が柔らかいものを押し分けて、蹴りの衝撃を接触地点から敵の体へと伝えた。手応えを感じた瞬間、迷わずそのまま右足を振り抜く。敵の体が大きく折れ曲り、蹴足の先の方向へ飛んでいった。

「……浅いか」

見た目派手な飛び方をしたが、右足の甲と脛を通じて伝わってきた感触は途中から、まるでぬいぐるみを蹴っ飛ばした時のような軽い感触に変わっていた。血肉詰まった塊を蹴り飛ばした時特有の重みのなさは、蹴りの衝撃が十全に伝わっていないことを告げている。

蹴り上げた足の外側から爪の抜けた地面を見ると、敵の前足と後ろ足の後部の跡が残っていた。つまりは蹴りの衝撃が伝わりきるまえに、自ら後ろに飛んで逃げたのだ。素晴らしい反射速度だ、と敵ながら思わず賞賛の言葉が浮かぶ。

すぐさま気を引き締めて、振り上げた右足を下ろし、両手の力を抜いてだらりと垂らし、獣の吹き飛んだ方向へと正面を向ける。戦闘の構えをとって地面へ微かに残った血の跡を追ってやると、平然と体を起こす獣の姿が目に映った。

一撃を防がれ、なおかつ反撃まで食らった獣は、しかし七色の目を先程までより爛々と輝かせて、口元を凶暴に歪めている。閉じた口元の端から蒸気が漏れた。どうやら内臓系のダメージも回復できるらしい。そうして窄めた口元から血の塊を地面に吐き出すと、再び低く構えて闘志を削ぐどころか、火に油を注いでしまったようだ。なんとも面倒な性格をしている。

獣は七色の目を細め上半身を低く構えると、間をおかず再び突進。相変わらず愚直で単純な線の動きだ。一撃を防ぎ迎撃するも、やはり返しの一手は深手を負わす事は出来ず、敵に距離を開けられて仕切り直しとなってしまう。攻防は一進一退のまま停滞していた。

鋭い一撃を強化した身体能力と投影した剣で防ぐ。実際と予測の攻撃は軌道や威力が違うことが多い。ズレが生じる都度に、強化を施して、予想外を受け流すために使用する。

―――まずいな……

余分な魔力の消費が、思った以上に多い。状況が好転しないことに少しばかり焦りを覚える。三層の番人は予想外に強い。一層の様に巨大な体と特殊な能力を持つわけでなく、二層の番人の様に億千万にも群れているでもない。敵は単純に素早く、硬く、そして回復能力を持っているだけである。

だが私は、身体能力が低いため、搦め手と予想外と状況に応じた的確な判断を主な武器として使用する私は、強靭な身体能力を真正面から押し付けてくる相手を苦手とする。

ピエールの身体能力向上スキルの恩恵を授かっているからこそ、常より魔力消費を抑えてながら若干有利に立ち回れているが、スキルの効果が切れてしまえば、戦闘の流れの天秤が敵に傾く可能性の高くなる。一旦身体能力が自らより上の相手に戦いの流れを持って行かれれば、仕切り直しをするのは難しくなる。

―――多少無理してでも強引に仕留めに行くべきか

行くか引くかの判断に悩んでいたその時だ。

「フォーススキルを使います! 」

離れた場所から少女の声が戦闘の音に割り込んで聞こえてくる。何をするかをわからないが硬直した状況を打破できるという確固たる確信が、断言した言葉には含まれていた。天秤がどちらに傾くかはわかならいが、彼女がフォーススキルを使った瞬間、確実に状況が動く。

停滞した状況が進展するその時を確信して、私は周囲の変化にいっそう意識を集中させた。

「フォーススキルを使います! 」

断言して糸玉を取り出す。糸玉の名前は「縺れ糸」といって、使用すれば玉より解けた糸が周囲一帯の敵に向かって自動で追跡し、頭、胴体、足などの自由を奪ってくれるという便利な道具だ。しかしこの道具にはひとつ欠点があった。

「あいつら速いぞ! その上この地形だ。当てられるのか!? 」

すぐ近くで戦況を見守っていたサガが問いかけてくる。そう。自動で追尾する糸は、最短の距離で敵の体まで到達する作りとなっているため、素早い敵や、ゴチャゴチャと障害物の多い場所で使うために向いていない。サガの心配はもっともだ。でも。

「大丈夫です! 当てます! 」

宣言して糸玉に意識を集中させた。体内を巡っていた見えない力が両手を通じて縺れ糸の中へと移動する。そうして体内から残さず力を移し終えると、糸は周辺に微かな淡い橙光を放つ様になっていた。

特別化した糸玉片手で握り、周囲の状況を確認する。ピエールの周囲を飛び回る犬。犬を追い払うダリ。犬を追いかけるシン。そしてあたりに広がる鬱蒼とした樹海と、ついでに少し離れた場所で戦うエミヤ。敵味方の立ち位置と地形を把握すると、これだ、と思う場所めがけて思いっきり縺れ糸を投擲する。

「おい、響! なんでそんな明後日の方向に……! 」
「これでいいんです! 」

天井めがけて投擲した糸玉は、樹木に重なる枝と葉を突き抜けてすぐに見えなくなった。これでいい。サガは姿を消した糸玉の方向と私とを交互に見返しては困惑している。そうして彼が口を開こうとしたその瞬間、戦況は動いた。

「――――――!! 」
「―――!!」
「―――――――――!!」

犬達が吠える。複数入り混じる鳴き声にどの様な意図が込められているのかは知らないけれど、多分、今のサガと同じ様に困惑してのことだろうと予想する。そうして風切り音の代わりに、咆哮がいくつか響いたかと思うと、犬達はピエールの周囲で飛び回るのをやめた。

直後、犬達は統率を乱してめたらやったらに飛び回る。サガが不思議そうにその光景を眺めていた。犬はチラチラと後方を確認しながら、周囲を駆ける。犬の後ろでは橙の線がキラキラと輝きながら、犬の後ろを追いかけていった。

光の速さは遅く、今にも消えてしまいそうだが、全ての犬達は後ろから追いかけてくる足を縛る効力を持つ縺れ糸の存在を無視できず、逃げ惑っている。

「―――そうか、糸か! 響、君は、糸を敵の体を縛るためでなく――― 」
「はい、敵の行動を制限するために使いました。障害物にぶつかるごとに効力を失ってゆく縺れ糸ですが、あの糸には私がフォーススキルを使用しましたから……」
「質と精度が高まる分、少しの間なら持つ、か」

サガは言うと目線を犬達に戻した。橙に輝く糸は犬達を追いかけるが、犬の速度に到底及んでいない。そのうち力尽きて地面に落ちるだろう。でもそれでいい。重要なのは、今、犬がそれに気を取られて意識を糸に回しているという点だ。

「シン! 」

サガが叫んだ。呼応して樹木の間からシンが顔を出す。顔には凶暴な笑みが浮かんでいる。獲物に飛びかかる寸前の猛獣のようだ。彼はもう目の前の敵しか見えていない。

彼は動き回る一匹の犬に狙いを定めると、赤い地面に足跡を残してその場から跳躍した。疾風となった彼は、目にも止まらぬ速度で犬に迫り、真横より犬の意識の埒外の攻撃を加える。

防御の意が込められていない硬いだけの毛と皮と肉は、必殺の意思を込めた一撃の前にあえなく道を譲る事となる。

シンの攻撃の対象として選ばれた敵の首から先が、犬自身が保持していた速度と比例した勢いで前方に飛んで行く。司令塔を失った犬の体は、すぐさま力の抜けた前足から崩れて、地面を転がった。

首を失った胴体は、失くしたものを求めるかのごとく、ぬかるんだ地面をゴロゴロと転がって、少し先に落ちていた頭部へ接触するとその動きを止めた。ようやく一匹。まだ先は長い。

犬達は己の戦力が低下したことに気がついてか、連続攻撃の手を止めて距離を開けた周囲の樹木の上に立ち、固まっている私たちとシンを交互に眺め、睨めた視線を送ってくる。やがて視線は親しげなものに変わった。背筋に冷たいものが走る。それは恐怖だった。

私たちは、敵に親愛の情を抱かれた。だが、味方を殺した敵に対してなぜそのような感情を送るのかがわからない。不可解極まりない疑問が不安となり、不安が恐怖へと変わる

「次ぃ! 」

いつのまにか近寄って来ていたシンが剣先を犬の一匹に向けて雄叫びをあげると、彼の言葉を合図に犬達は私たちに飛びかかって来る。対処のために少しばかり体の大きな一匹の瞳を覗くと、七色に輝く瞳孔は爛々と闘志を燃やしていた。戦闘はまだ終わりそうにない。

「―――倒したか」

敵を思い切り蹴り飛ばした。直後の雄叫び。反応し、樹海の鬱蒼を避けて味方に目線を送ると、獣の一体が地面に胴と首が別れた状態で倒れている。ようやく戦況が動いたか。彼らの能力では一匹を仕留めるのも厳しいかもと考えていたが、存外やるものだと再評価を行う。

視線を外したのもつかの間、直後、番人に意識を戻すと、敵の動きに乱れが生じていた。最短の距離を最速で駆け抜けて攻撃を仕掛けるスタイルに変わりはないが、構え、跳躍し、攻撃し、離脱するその一連の動作が鈍くなっている。

―――部下の死に動揺しているのだろうか。なんにせよこれはチャンスだ。

なおも続く連続攻撃をいなしつつ時を待つ。やがて後ろから閃光が走ったかと思うと、耳をつんざく爆音が続き、砂埃と樹木と風が私と奴の身を叩いた。互いの姿が土煙の中に消える。
敵は襲いかかってこなかった。その隙をついて宝具の設計図を脳裏に描き出す。

設計図は、偽・螺旋剣。それに少しばかり手を加え、今回の使用に適した形にする。これで準備は整った。

風が弱まり煙が薄れて行く。周囲に解析の魔術をかけて、煙の空白地帯を把握。

―――そこか

先程までの敵の速度を思いかえし、互いの距離を割って接触までの時間を算出する。身を丸めている敵はまだ動かない。単に気がついていないのか、意図して動いかないのか判別つかない。なんにせよこちらから動くわけにはいかない。動いたところで私の速力では過剰な強化を施さないと敵に追いつけないし、何より、立てた目論見がご破算になる。

じっと敵の動きを待つ。数秒もしないうちに煙はほとんど消えた。周囲に広がる見慣れた赤色の光景に距離感が狂いそうだ。

―――来るか

敵はピクリ、と耳を動かした。すんと鼻を数度ひくつかせて索敵と確認をすませると、ジロリとこちらに首を動かして、私の方を向く。ニヤつき、伏せた。攻撃の体勢。大丈夫だ。余裕はある。落ち着いて計画通りにまずは宝具を投影しようとする。

―――投影開……!?

そうして頭にイメージを浮かべた瞬間、敵の牙が目前に見えた。その速度や今まで繰り出していたそのどれよりも速い。今までの速度の低下が嘘のようだ。まるで誓約や縛りから放たれたが如く速い。否、真実嘘だったのかもしれない。この速度を今まで温存していたのかと驚く。敵も敵で私を仕留めるべく策を練っていたのだ。やられた。だが迷っている暇はない。

計画の範疇外からねじ込まれた一撃を防ぐためには、重い双剣を振り上げたのでは防御が間に合わない。確信からその速さに少しでも追いつくために、両の手に握った双剣を放棄して両腕を頭の前で交差させる。頭と首を守るためのとっさの判断。悪くはない。だが。

――――――っ!

違和感が左腕に走った。平時と異なる感覚の訴えは神経を駆け巡り脳内に到達すると、脳は違和感を灼熱の痛みとして捉え、左腕の異常を知らせている。ぼとりと何かが地面に落ちた。赤い布に包まれた浅黒いものに私は見覚えがある。長い間使い込み続けた己の肉体なのだ。見覚えあって当然だ。そう。地面に転がっていたのは、私の五指が生えた手腕部だった。

―――もっていかれたか……!

そうして私は己が左前腕部から先を失ったことを知る。あって当然のものがなくなった、という喪失感は思ったほどなかった。代わりに胸に去来したのは、間抜けな選択の結果、彼女に与えられた彼の肉体を失ってしまったという己の未熟に対する怒りと失意。

瞬間的に沸き上がった二つの想いが体を支配するのを自制心で抑え込む。腹の中に生まれたエネルギーは感覚を通常より過敏にして、聴覚に微かな風切り音を拾わせた。感覚に導かれて首を上に傾ける。そうして私は、私の腕を噛み切った獣と目を合わせた。視線が交錯する。奴は私の視線に気がつくと、赤い瞳孔に喜色を浮かべて閉じた口を少し開いた。

一連の動作はスローモーながらもはっきりと見えた。口元の白い牙が上下に離れて行き、生暖かい吐息の煙が漏れ、見えた口腔には、赤い布に包まれた肉の切断面が見える。そうして獣は舌の上にのったそれを喉へと送ると、見せつけるようにゆっくり嚥下した。

喉元が大きく動いて、胃の中に私の一部が落ちて行く。一連の動作を素早く終えた獣は、口を大きく横に開けて、まるで人間の笑みのような顔をしてみせる。

己の牙が敵の守りを崩せた事がよほど嬉しいのだろう。これで戦況は大きく一変する。腕を一つ失った私は、間違いなく今までのように敵の攻撃を捌けない。いや実に見事だ。ギリギリまで己の力量を隠し、私の眼を見誤らせ、慢心につけ込んむその戦術はまさに見事の一言に尽きる。作戦成功の祝儀代わりに腕の一本くらいくれてやるとも。その代わり。

「腕の代価は貴様の命で支払ってもらう! 」

頭上を通過しながら地面に身を近づけつつある敵の方を向いて姿を視界に収めた私は、雄叫びをあげながら「偽螺旋剣/カラドボルグⅡ」を投影した。左腕部の消失により魔術回路の一部が欠損した状態での魔術行使と、過程をいくつかすっ飛ばした投影の影響で神経がひどく痛む。

加えて、不完全かつ粗雑な手順に従って生み出された投影は結果に影響を及ぼし、通常貫くことに特化させた姿で現れるはずの「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」は、あちこち粗だらけの姿で生み出される。先端に向かって細くなる円錐状の刀身からは鉄の棘が奔放に伸びて返しのようになっていた。これでは対象を貫くどころか、途中で止まってしまう可能性もある。だが、知ったことか。

「――――――つぁあっ!」

背後に移動しつつ宙に浮かんで身動きの取れない敵の胴体中心軸をめがけて逆手に握ったなまくら剣を叩き込んだ。鋭くない剣の切っ先が四足獣の左前腕部にめり込む。肉を抉る感覚が手を通じて伝わってくる。

同時に、肉体に負荷がかかる行為をとったことで、左腕の傷口から血が噴出した。噴出した血液と体液は、周囲の残った神経を刺激して、痛みの信号で肉体の異常を訴える。喪失に伴う痛みを無視して奥歯を噛み締めると、思い切り力を込めてさらに刀身をねじ込む。地面に近づきつつあった敵の体が、私の加えた力により、奴の予定より早く地面へと向かった。

獣の腹が地面に接触した瞬間する。その衝撃を感じた瞬間、切れ味の鈍い刃に体重を乗せて獣の肉体を無理矢理押し分けて貫通させると、刃の先端を地面に突き立てた。大地を穿つ衝撃が私と獣の全身に別れて走る。

獣は受けた衝撃に耐えきれず、体内の空気と体液を撒き散らすと同時に、胃の中へ収めつつあった私の前腕の一部も吐き出した。液に塗れた腕は少しばかり地面の上を転がると、砂を被りながら少しばかり離れた場所に落ちる。己の肉体が粗末に転げて行く姿に少し感じるものがあったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

続けて地面に刀身を隠していた干将を右腕で引き抜くと、文字通り胸を貫いた衝撃に、目を白黒させる獣の脳髄めがけて叩き込む。強化の魔術が限界以上にかけられている一撃は敵の硬い毛、皮膚、肉、骨を見事に貫通して、敵の頭を地面へ縫い付けた。手先から感じる感触と液体を浴びて敵の死を確信する。

「これでもはや動けまい……」

地面に縫い付けた獣の体を一瞥すると息も絶え絶えに一言呟く。一応反撃に備えて双剣の片割れ、莫耶を拾って右手に構えるが、敵は動きを見せない。敵の肩から腹にかけては、螺旋剣が突き立ち、頭部には干将が刺さっている。

―――即死だとは思うが……

予感を確信に変えるため解析の魔術を使って確かめたいが、あいにく腕の魔術回路が千切れている今の状態での魔術行使は危険度が高い。魔術の発動を自動車を動かす行為と例えるなら、一部魔術回路の千切れた今の状態での魔術行使は、いってしまえばガソリンが漏れ、CAN信号伝達が不完全な状態で自動車を動かすに等しい危険な行為である。

そして私は、進んで二度も危険な橋を渡ろうと思えるほど危うい性格をしていない。敵が動きを見せない今は、まずは傷の対処を済ませてしまおうと考える。確信のためにもう一撃加えてやろうかと思ったが、やめた。敵が生きていようが死んでいまいが、あの状態ではまともな動きはできないだろうと考えたからだ。

無駄に費やす時間があるのなら、怪我の手当てに割いた方がよほど建設的である。そうして改めて傷口を確認すると、切断面は獣の牙で切断されたと思えないほど予想外に綺麗で驚く。まるで達人が研磨された刃で切り落としたかのような切り口。

―――これならメディカとネクタルの使用でなんとか繋がるかもしれない

一縷の希望を抱いた私は、傷口を直接止血するのをやめて、脇の下の動脈を強く圧迫した。左腕の出血が少し収まる。多少の止血を確認した後、代わりにバッグを脇下に挟み、圧迫を続けたまま近くに落ちていた手腕部を拾う。垂れる指がぷらぷらと人形のように垂れる不気味を無視して切断面を見ると、こちらもやはり綺麗な断面。

―――いいぞ、希望が持てそうだ。

さらに続けて獣の頭の先に転がっている唾液と消化液にまみれたの残りの前腕部を拾い上げて切断面を見る。あいにくとこちらは獣のさまざまな体液と砂埃に汚染されているが、断面はやはり綺麗で滑らかなものだった。消化酵素が働く前に回収できたのが功をそうしたか。いける、と確信してバックに手をやる。

救急キットの中から水を取り出すと切断面に振りかけ、汚れを払った。水が足りなくなったので、水筒から飲み水もふりかけて切断面から目に見える汚れが取り除かれたことを確認すると、獣が吐き出した前腕部を傷口とくっつけてメディカをふりかけた。

一時的に感覚が麻痺していた傷口から白煙と肉の焼けるような音が生じ、切断箇所の神経が痛みとむず痒さを同時に訴える。回復の促進を行う際の疼痛だ。少しして切り離された肉同士がくっついたのを確認すると、続けて前腕部と手腕部の切断面を接いでメディカをかける。

先ほどと同様の痛みとむず痒さを感じたのち、力なく垂れ下がっていた指は五本が同時に跳ね上がる。唐突に送られてきた二度と送られてこないだろう信号が伝達されたことに驚いたのだ。腕を動かすと、多少麻痺の感覚が残っているが、きちんと動くことを確認して、まず一息。

そうして肉体の回復を見届けると、続けて魔術回路の状態を確認する。魔力を千切れた部位に流し強化を行う。滞りなく魔術が発動されるのを確認して、珍しくホッと二息目をついた。ああ、よかった。こちらには一切の異常がない。

安心して魔術回路を起動させると、地面に縫い付けてある獣の方へ解析の魔術を含んだ視線を向ける。魔力は滞りなく奴の体に入り込んで、その情報を持って来る。間違いない。死んでいる。奴は動かない。一応いつ起き上がって襲いかかられても問題ないように警戒はしていたが、やはり先の一撃で死んでいたのだろうか。

「―――なんだと……! 」

そうして魂のなくなった死骸にかけた解析魔術の結果を見て私は驚く。

―――どういうことだ……

瞳を開けると、先ほど見た赤い瞳の瞳孔が閉じている。七色ではなく、赤。やはりこの獣は、先ほど自分が戦っていた獣ではない

―――まさか影と入れ替わったとでも言うのか。

混乱する脳の思考を中断したのは、聞こえてくる戦闘音と、爆裂、そして歌。慌てて鳴り響く方を向くと、バッグに一つだけ詰め込んであったネクタルを使用して血液を増やし、地面に突き刺さった干将・莫耶を拾い上げて駆け出す。

なにが起こったのかはわからない。だがここにある偽・螺旋剣/カラドボルグⅡが刺さった死体が番人のものでないという事実は、未だ戦いが終わっていないという事を残酷に告げていた。

番人の取り巻きたちとの戦闘は最終局面を迎えつつあった。敵の数は最初の半分、三匹にまで減っている。響が策を練って仕留めたのが一。ダリがシールドスマイトを使用して敵を吹き飛ばすとともに退路を断ち、サガのフォーススキル「超核熱の術式」を上手く直線上にまとめて当てて仕留めたのが二。

対してこちらは一切の被害は出ていない。今のところは五人ともに五体満足で敵の攻撃を上手に捌けている。そう。今のところは、だ。だが近いうちにこの優位は崩れることとなるだろう。……認めたくはないが、敵と私たちの継戦能力の違いが原因だ。

敵は数こそ減ったが未だ無傷で、最初の頃と変わらぬ速度を維持するほど万全な状態である。いや、むしろ、六匹の時よりも、より速くなっている。たいして、私たちはもはや燃え尽きる寸前の蝋燭のような状態。

私はまだしも、サガは直前に消耗の激しいスキルを連発したのが原因で、もう立っているのが精一杯。身体能力の向上などを行なっているピエールの声には掠れが生じ始めているし、足止めと回復を担当していた響は、ほとんど道具を使い切ってしまっている。

三人をかばい続けているダリはまだ余裕がありそうな、すました顔をしているが、あれは自らの疲労に気がついていないだけだろう。敵の行動を予測して動くのではなく、視界に入った襲いかかる敵の攻撃を反射的に防ぐようになっているあたり、ダリの頭はもはや限界寸前なのがわかる。追い詰められると余裕をなくし視野狭窄に陥る。ダリの悪い癖だ。

一か八かの賭けに出るべきか。私はフォーススキルの解放を考える。ブシドーのフォーススキル「一閃」は、私が敵として認識している全ての敵対象に首刈りの一撃を放つスキルだ。スキルは相手が自分より弱いほど効力を発揮しやすい。

自分より強い敵と戦いたいと考えるお前の癖とは合わないスキルだな、とサガには茶化されたが、私は案外、この自らより弱いものの首を刈り取るスキルを気に入っている。そもそも憧れの彼が放ったスキルであったし、憧れを取り戻させてくれたスキルであり、そして、強い敵に「一閃」を放って通用してくれれば、敵より私の方が強いことの証明となるってくれるからだ。

だから私はFOEや番人など強敵との戦いにおいて、最後の一撃を放つ際には、どれほど死にかけの相手であろうと必ずフォーススキルを使うと決めている。そうして「一閃」が通用し、敵の首が刈り取られるのを見て、私は強敵を超えたという実感を得ることができるのだ。

そんなことを幾度となく繰り返してきた私だからこそ、直感できる。今「一閃」を放っても敵の首を落とせない事を。否、それどころか、繰り出した「一閃」の攻撃が当たってくれれば御の字だろう。だが、皆が消耗したこの状況で、万が一にでも勝てる可能性があるとすれば、即死を狙えるその一撃しかないのも確かだ。

―――どうする

迷っている間にも、味方の限界の刻限は迫りくる。直感はやめろと言っている。理性はやれと言っている。進退窮まる状態に陥るのは久しぶりだった。迷いは剣先を鈍くし、隙を生む。敵は迷いなく、隙へつけ込んでくる。

繰り出される爪の一撃をかわしきれず、防具の一部が壊れて落ちた。もう後は無い。覚悟を決めるしか無い。決死を思い定めた時、敵の攻撃の間隙を縫うようにして、森の奥から雄叫びが聞こえてきた。

「腕の代価は貴様の命で支払ってもらおう! 」

エミヤだ。彼の力強い声を聞いた時、私はエミヤの勝利を確信した。そして思う。あちらの戦闘が終了すれば、彼が助けにきてくれるだろう。死を覚悟するにはまだ早い。そうして敵の攻撃に集中していた意識を拡散させて周囲の様子を改めて見渡すと、一同も同様に希望を見出した表情を浮かべていた。

すぐさま来襲する敵に気を向けなおす。敵はエミヤの咆哮に気を取られたのか、代わる代わるに間隙ない一、二、三の連携は、一、二、の三へと攻撃の感覚を変化させていた。三匹目が来る寸前に三匹目の軌道を予測して、剣の軌跡を獣の進路上に合わせてやると、敵は慌てて引っ込み、距離を置く。

「さぁ、突撃を! 迷うなんて貴方らしくもない! 」

隙をついてピエールは最後の力を使って高らかに詩を歌い上げた。最後の力を振り絞っての歌唱は魂を震わせる熱演だった。フォーススキル「最終決戦の軍歌」が乗せられた旋律は、一定時間の間、敵に攻撃と防御を上げてくれる。

つまり彼はこう言っているのだ。やってしまえ、と。胸がざわついた。サガと響が武器を構えながら後ろに下がる。彼らの行動に迷いは見えない。ダリは彼らとは逆に、ピエールから離れて私の側へと寄った。ダリの行動は明らかに私だけを守ることを意識していた。

「好きにしろ。尻拭いはしてやる」

ぶっきらぼうなダリの言葉。笑みを返礼とすると、再び来襲した一匹目の獣めがけて剣を上段に構えて思い切り地面を踏みしめ、真正面から突っ込む。最高の威力を出すために脱力を必要とする上半身には、一切余計な力が入っていない。味方の最高の援護もあって、身体の能力も反応もこれまでの中でも最高の出来だ。もはや迷いはなかった。

腹筋から背筋にかけて思い切り力を込めて振り下ろす。脱力は最大の瞬発を生み、余計な力の発生を退けていた。上段の構えより繰り出すのは、ブシドー最大の威力を誇る「ツバメ返し」 。その威力は単体を相手とするなら、間違いなくフォーススキルよりも上だ。

刃が炎の吹き荒ぶ音を立てて振るわれる。遅れて甲高い金属音が響いた。それ以外の一切は静寂を保っていた。確信とともに刃の軌道を変えて、もう一度振り抜く。再び炎音と金属音。最後にもう一度無理やり軌道を変えて一閃。結果は見るまでもなくわかっていた。

突撃の刃に裂かれた敵は、体が跳躍の頂点に達すると、その勢いのまま直進し、後方頭上の樹木の幹にぶつかった。血肉が爆ぜる音。これは間違いなく即死だろうと言い切ることができる。まさに一刀両断、いやこの場合は三刀四断とでもいうえば良いのだろうか。ともかくこれまでで最高のツバメ返しが繰り出せたのは確かだ。我ながら見事な一撃。

だが私は攻撃の代償として隙だらけだった。これまで味わったことのない弛緩から緊張の急激な落差を経験した肉体は素直に驚き、戸惑っていた。想像を超えた肉体の稼働は脳が現在認識している肉体位置と実際に存在している位置に差異を生む結果となり、想像上と現実の齟齬を擦り合わせようと必死に稼働する脳は、思考より送る動けという命令を無視して、腕も胴体も脚も硬直を保っている。

舌打ちの一つでもしてやりたいが、それすら上手くいかない。経験から、硬直した体が元に戻るのにたったの数秒もかからないだろうと予測が出来た。だが、前方より迫り来る敵は、私が自由を取り戻すよりも前に、硬くなっている肉に食らいつくだろう。後ろからダリの気配を感じたが、援護には間に合うまい。いや、仕方ないか。むしろ鈍重な鎧盾を装着しながら、身軽かつ仲間内で最速の私に食らいついただけ、凄いと言える。

死の脅威が迫り来ているのに頭はやけに冷静だった。私の体は動かない。味方の援護は間に合わない。敵の攻撃は私と味方の行動より早い。だというのに自分は決してまだ死なないという確信があったからだ。ここはまだ自分の死ぬべき時でないという確信が。

死を恐れぬ心持ちが脳の回復を促したのか、眼球だけが動くことに気がつく。刃先に伸びていた視線を前方より迫り来る敵の方へと移すと、敵の爪がもうすぐそこまで迫っていることに気がついた。次に瞬きをすれば瞼を開けた瞬間自分の体はいくつかの肉片に切り裂かれているだろうという、自分での回避は不能。ダリでさえ防御も不能。そんな一撃だった。

「……、ッ―――!? 」

だが迫る致死の一撃を放つ敵は、私を裂く直前に突然真横へと吹き飛び、目の前より去っていった。代わりに少し先の視界を遮るようにして現れたのは、そこらに生える樹木の幹……ではなく、土煙にまみれた黒く強靭な足だった。エミヤだ。

姿を確認した瞬間、熱いものが胸に広がった。やはりこの男は期待を裏切らない、それどころか私の想像の上をゆく。まるであのブシドーのようだ。姿を重ねたのは一瞬。だが瞬間起こった現実からの乖離は脳を現実と空想の差異による混乱を鎮め、私の体は再び思い通りに動かせるようなっていた。

私が少しふらつく様を眺めたのち、エミヤは足を引っ込めて地面に下ろす。通った視線の先に後ろからやって来ていたもう一匹の敵が、即座に後方へと身を翻して距離を開けたのが見えた。挙動が他のやつよりも素早く見えたのは、まだ頭がうまく働いていない証拠だろう。

「間に合ったようだな。全く、後先考えないで限界を超えた一撃を放つなど無茶が過ぎる」

エミヤはやれやれ、と首を振りながら、私の行動を咎めた。

「いや、それは違う。ちゃんと考えていたとも」
「ほぉ……、それは興味深い」

目線はどのような案があったのか、と問うている。だから私は迷わず答えた。

「君が助けてくれるとな」
「……それは思考の放棄だ。そのような他人任せ、考えていたなどと言わない」

呆れたように言ってエミヤはそっぽを向いた。だが少しばかり照れが混じっているのを私は見逃さなかった。意外だがこの男にもまるで幼子のようなところがあるのだな、と思うとなんとも微笑ましく感じた。

「―――なぁ。言葉の定義を議論するのは後にして、番人に対処しようぜ」

いつのまにか近くにまで来ていたサガが口を挟んだ。他の仲間も追いついて周囲に固まっている。ピエールとダリと響は周囲を注意深く見回して視線を張り巡らせていた。自ら身を引いた敵のみならず、エミヤに蹴り飛ばされた方もいつのまにか姿を隠している。

敵の消えた森は静けさを取り戻していたが、あたりに広がる不穏な空気と肌のひりつく感じは健在だ。閉鎖空間に生え散らかされた樹木のせいで敵の正確な居場所はわからないが、残り二匹の獣はこの近くにいて攻撃の隙をうかがっているのが気配でわかる。

現状三人とエミヤが密な警戒をしているため何も起こっていないが、剣呑な状況は続いている。確かに、悠長におしゃべりをしている暇はなさそうだ。

「その通りだな、サガ。……皆の現状は? 」

ピエールは喉もとを数度指で叩くと、小さく首を振った。もう声も出ない、と言うことか。サガに視線を移すと、舌を出して両手を大業に上げながら肩をすくめた。

「悪いが俺もすっからかんだ」
「私の方はフォーススキルが一回。シン。お前は」
「ツバメ返しが数回とフォーススキルが一回。それで打ち止めだ。響。道具の残りは」
「あ、っと、アムリタ系と縺れ糸が無くなりました。メディカ系は三割。ネクタル系は五、あとは殆ど残っています」
「承知した。響。プレイナードを私とエミヤに頼む」

行って話題にあげると、エミヤは警戒を解かないまま問うてきた。

「プレイナード? 」
「一時的に攻撃の威力をあげる薬だよ」
「ああ、ギルド長が言っていたな。了解だついでにネクタルをくれ。血が足りん」

了承の返答を合図に、響が金属の筒を二本取り出して、エミヤに中身をふりかけた。即座に中身は揮発して赤い霧と白光の粒子になり、紅白入り交じらない状態で彼の体に纏わりついて消える。続けて彼女は私にもプレイナードを同じようにふりかけた。効力により高揚感と興奮が誘発され、刀を握る手に力がはいる。

「……来るぞ! 」

敵の気配が濃くなる。木の葉と枝が激しく揺れだした。おそらく敵が頭上を飛び回っているのだ。耳をすませて位置を探る。木の葉が擦れ合う音に加えて、徐々に近くなる足音。敵はもうすぐそこまで迫っている。

獣共は全身のしなやかな筋肉をバネのように使用して、まるで流星の如き速さで樹木の幹を蹴って周囲を飛び回る。赤い獣二匹はこちらの隙を見つけては、死角より飛来して命を刈り取る弾丸となる。まるで流星群の落つる夕空の檻に閉じ込められたようだ。

だが私は牢獄の中で死刑を待つ罪人のように、大人しく死刑の執行を待つ程、行儀はよろしくない。両手の剣を用いて敵の攻撃逸らす。百キロは優に超えているだろう敵の体重が乗せられた体当たりは、たとえ強化を施したこの身体でも真正面から相手などしていられない。

攻撃をいなした後、不自然に見えないよう、身体の姿勢を崩す。体制の立て直しに手間取り、焦ったかのような風を装って、意識的に頭、首、胸などの急所に意識の隙を作る。獣は喜んで隙に一撃をねじり込んでくる。予定通りの一撃をいなし、そうして生まれた敵の隙に反撃を叩き込むのが私のやり方なのだが……あいにく今回の敵の場合、反撃に転じることは不可能だった。

敵の重たく鋭い一撃をきちんと受け流すためには、とてもでないが片手ではこと足りない。強化の魔術でもどうにもならない。なぜなら足りないのは腕力ではなく、体重だからだ。まともに受ければ大樹すら粉々にしてしまうだろう一撃は、とても一刀と半身では受け流しきることができない。何より先程、くっつけたばかりの左腕の反応が鈍い。

仕方なく二刀と全身を用いる。二刀にて敵の差し出す爪が急所に突き立つのを防ぎ、しかし敵の勢いを受け止めないよう、全身を使って力の向かう方角だけを変えてやる。すると敵は来た時の勢いのままに疾走し、再び樹木の中へと消えてゆく。通常、交差の瞬間にどちらかの刀を叩き込んでやるの常だが、両手を使っての作業をしている今、反撃のしようがない。

ちらりとすぐ隣を見た。そこでは私と同じように、ギルド「異邦人」のメンバーが敵の攻撃に耐えている。彼らは私のように単体で敵を捌くでなく、集の力で攻撃にたちむかっていた。

敵が彼らに襲いかかる。ダリという盾を持ったとなる男が見事にこれに反応して前に出た。彼の後ろに控えていた三人の男女が機敏に反応して続く。彼らが動くその間にも敵はすぐ近くまで迫っている。接触の寸前、盾を構えた男が地面に足腰を踏ん張り衝撃に備えた。同時に後ろについて来ていた三人がその身体に纏わりつき、支える。

自動車同士がぶつかったかのような衝突音。そして盾一枚を挟んで四人と一匹は対峙する。四人は地面に靴の擦ったを跡を残して後退させられながらも、見事に敵の攻撃に耐え抜いていた。彼らは集まり一つの塊になることで、重く早い敵の一撃を受け止められるだけの体重を補ったのだ。なんとも見事な機転である。

加えて注目すべきは、盾を構えたダリの技術だ。彼らが攻撃に耐えられているのは皆で体重の帳尻を合わせているからなのは事実だが、しかし、敵の突撃はその程度で止めることが可能なほどやわなものでない。

大樹を砕くほどの一撃を秘めた衝撃を、彼が接触の瞬間、前方からの衝撃と後方からの支えの力をうまく利用して相殺しているからこそ、彼らの被害は地面を削る程度ですんでいるのだ。素晴らしい才能と技術に感嘆させられる。

とはいえあれも長くは持たないだろう。一回の衝突ごとに彼の体は、前後から受ける衝撃によって大きなダメージを蓄積しつつある。攻撃を防いだ直後にシンが放つ神速の三連撃は、敵の体を捉えるも全身を固くした敵の命を奪うには至らない。そして敵は離脱し、傷を回復して再び襲いかかってくる。まさに徒労だ。

そんなことを繰り返しているうちにダリの疲労はさらに溜まりつつあるのが見てとれる。あと十も繰り返さないうちに彼の体に限界がくるだろう。そうなれば、彼らの運命がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。考えている間にまた一匹と四人は衝突。そして離れる。

敵の攻撃は交錯ごとに苛烈さを増してゆく。敵は徐々になりふり構わず速度を上昇させて、体当たりを仕掛けてくるようになってくる。それはあきらかに、己の出す一撃がこちらの弱体を生むことを見抜いての行動だった。強化魔力の消費が激しい。長く叩くほどに不利になるのを実感して、決着を急く気持ちが湧く。それを冷徹な意思で胸の奥底に押し込めた。

ただでさえ敵の攻撃は苛烈で徐々に鋭さを増しているのだ。余計な考えは死を招く。私はただいつものように、敵の攻撃を正確にさばいて攻撃のチャンスを待つ機械となればよい。いつも通り。そう、いつものように、一人で、機会を待ち、耐え忍ぶ。私はこれまでそうやってチャンスをモノにしてきた。私にはそれが出来る。

―――しかし彼らの限界を計算に入れるなら、もう時間はない

ダリの守りが瓦解すれば、私は生き残れるだろうが、彼らは間違いなく死ぬ。他人の確定している不幸な未来を黙って見逃せる性分をしていたなら、私はもとよりこんな迷宮に潜ってなどいない。

彼らを助けるためには、勝負に出る必要がある。目算はすでに立てている。勝算は低いが、分の悪い賭けを強いられるのは、いつものことだ。僅かでも勝率があるのなら、この命をベットに勝利への扉をこじ開けてみせよう。

私は敵が離脱した僅かな隙を狙い、ダリに声をかけた。

「賭けに乗らないか」
「なんだ」

ダリは響に薬を浴びせられながら、ぶっきらぼうに答える。回復と問答の隙をついて、二匹の獣は再び攻撃を仕掛けてきた。二匹は私と彼らの集団をそれぞれ一つの敵として扱っているのか、常に一人と五人に攻撃を仕掛けてくる。獣は几帳面というか馬鹿正直な性格らしく、私と彼らを真正面から力ずくでキチンと叩き潰したいらしい。好都合だ。

「一度だけ、奴らの攻撃が私に到達するのを防いでほしい」
「奴“ら”? 」
「そうだ」

奴らに悟られないためにも、それ以上は言わない。ダリは周囲の気配を怠らないまま、一瞬だけこちらの方を向いた。真剣な表情には私の意図を推し量ろうとする意思が籠められている。私は黙って返答を待った。彼はすぐに周囲の警戒に戻り、そして言う。

「一回。それで奴らをどうにか出来るんだな」
「少なくとも片方くらいは仕留めてみせよう」

断言。彼は鼻を鳴らすと、そっぽを向いたまま答えた。

「一回だけなら何とかしてみせよう」

ダリはそれだけ言うと、押し黙った。私と彼のやり取りを聞いていた彼の仲間たちは、ダリの言葉を聞いて体勢を整えた。彼らはダリの判断と私の言葉を疑っていない。甘いと思う。だが、状況打破のために差し出された提案を受け入れた味方の意思を尊重し、迷う事なく彼の判断に命を預ける覚悟は嫌いでない。

―――だから期待には結果で応えさせてもらうとしよう。

先程と同じように双剣を構える。しかし今度は一切の隙を見せてやらない。呼吸や脈動により生まれる隙にすら、都度意識を割いて対応する。私が一切の隙を排除した結果、敵は戸惑い、攻撃のタイミングを逃したようで、彼らは姿を見せることなくしかし、意識だけは立派に向けて、こちらを牽制しよう試みている。

今、敵と味方の間にある空間では、互いの視線と意図が何度も交錯していた。意識の戟による無音の戦いを続けながら、私たちはジリジリと出口に向かって歩を進める。そうして繰り広げられた無数の矛先が千をゆうに超えた時、私たちは敵が最初寝転んでいた場所に到達し、瞬間、敵意が途端に濃厚なものへと変化した。

周囲より降り注ぐ敵意から牽制の意を含むものがなくなり、全てが直接的な殺意に変わる。体を突き刺すような殺意はこれまで送られていたものと比べて、あまりに直線的だ。無遠慮に叩きつけられる殺意は、私たちの本能を強く刺激し、敵の居場所を知らせる。

「――――――――――――!! 」

そうして敵の方向を振り向いた瞬間、敵はすでに攻撃を開始していた。私の強化した眼球ですら光の突進としか映らない敵影。それはまさに、防御も回避も捨てた、捨て身の一撃。我が身がどうなろうと敵を仕留めるとの覚悟が込められているようで、これまでの攻撃が児戯に等しく思える速度のものだった。

そうだ。部屋の番人たる貴様らにとって、侵入者をこれ以上先に進ませることは、耐え難く、許容出来ないことなのであろう。だからこそ、私たちが貴様らを無視して先に進もうとすれば、阻止のために攻撃を繰り出すことは読めていた。だが。

―――しかし、この速さはあまりに予想の範疇外だ。

痺れを切らした敵が攻撃に転じるまでにかかった時間と、その後の繰り出された攻撃の速度が速すぎる。英霊であった私すら咄嗟に反応して投影の詠唱をするので手一杯だ。

不安がよぎる。対応に遅れる一撃を、果たして人間たる彼が認識し、そして神速の二撃から私を守護することが果たして出来るのか。そうして湧き出た余計な疑念は、次の瞬間、目の前に現れた光の粒子の壁により取り除かれた。

これが何かはわからない。だが、これがどういう効果を及ぼすものであるかは、自らを包み込む光の放つ柔和さと暖かさにより直感できた。これはおそらく、ダリの言っていた一回だけの防御手段なのだ。

獣たちはそのような薄い光の靄など知ったことかとばかりに直進する。光は瞬時に獣たちと接触。そして二匹はまるで映像の一時停止のごとくその動きを止めた。変わらず背筋を極寒に叩き込む殺意を向けたままの姿で空中に停止した姿は、滑稽にすら思える。

そうして私は、直前抱いた懸念が非礼に等しいものだと知らされた。

「完全防御! 」

ダリの低い声がスキルの発動と敵の到来に遅れて聞こえてきた。声には微塵の迷いも憂いも含まれていない。彼は敵が攻撃に転じると察知した瞬間、自らのスキルが敵の攻撃を完全に防ぐことを確信してスキルを使用したのだ。

―――見事だ

彼は見事に私の要望に応えてみせた。ならば今度はこちらの番である。私は当初の予定を変更して、思い描いていたものと違う武器を投影した。空中に現れたのは、人間一人の正面姿よりも大きな斧剣。それは、かつてギリシャの神殿の一柱から切り出した、ただただ巨大で無骨な、敵の肉を斬って殺すよりもむしろその重量をして敵の肉を潰し殺す事を目的とした、まさに圧殺のための道具である。

二匹の獣は目の前にいきなり現れた異常事態を前に驚いた様子を見せたが、すぐに現実を受け入れ、抗いを試みていた。光の粒子に捕らえられた獣たちの体が細かく震えた。離脱を試みているのだ。そんな事は許さない。お前らはここ仕留めきる。回避などさせない。回復可能な傷も与えない。

獣の驚異的な回復力の源は、獣の胸に収められている特殊な器官である。私は先の戦闘において、偶然にも敵を地面に縫い付けるつもりの一撃がそれを打ち砕いたが故に、生き残れたのだ。おそらくこの二匹の獣も同様の身体構造のはず。であれば、この一撃で頭部も胸部の器官も押しつぶす。それで決着だ。

私は申し訳程度に巻きつけられた滑り止めの布の上から柄を両手で握りこむと、己の身長よりも大きな斧剣を持ち上げて振り上げ、二匹の真横に回り込む。そして彼らを睥睨できる位置に跳躍すると、二匹の横幅を補って余りある長さの斧剣を大きく振りかぶり、刃の重さに自重を加えながら思い切り刃を振り下ろしつつ落下した。重い斧剣が鈍重な唸り声をあげながら空気を掻き分けながら無防備な頭部に向かってゆく。

獣の体は揺れる。筋肉が小刻みに震え、硬い体毛同士がぶつかり、耳障りな音を立てた。その行動が功を奏したのか、はたまた、単に完全防御とかいうスキルの限界時間だったのか、光の粒子は薄れて消えてゆく。敵の体が落下を開始した。このままでは一秒もしないうちに敵は地面に着地するだろう。無論、そんなことは許さない。

私は握り込んだ両手を強化して振り下ろしの速度を上げた。すると刃先の方が一匹の獣の頭部に触れた。敵は抵抗を見せたが、上からやってくる重さを躱す術を持っていないようで、遠心力の乗った刃先から逃れる事は叶わない。振り下ろされる斧剣の勢いが加わり、刃先に接触している敵の落下速度が増した。

斧剣の刃は続けて手前にいる獣にも迫った。敵は斧剣の刃先がもう一匹と戯れている間に体を捻っていた。

―――何をする気なのかしらんが、もう地面はすぐそこだ。諦めて死ぬがいい。

一瞬の攻防の後、遠心力の乗った刃先が最初に地面に到達した。地面は過重を受け止めきれず爆ぜ、刃の両側に土石を撒き散らす。続けて肉の詰まった腸詰に切れ味の悪い包丁を叩きつけた時のような感触がして、赤とピンクと白色が飛沫が宙に舞う。一匹の獣を仕留めたという確信。だが浮かれるのはまだ早い。勝利に酔ってよいのは、もう一匹を仕留めた後だ。

意識をもう一匹に集中すると、根元近くの刃は四足中の抵抗により頭上より首の根元にずれている事に気がつく。たが、問題ないと判断する。要は敵の胸にある回復機構を破壊できれば、頭部の破壊など、回復不能な手傷を負わせたその後で良い。

刃が地面にめり込む領域が私の手元へ近づき、もう一匹の獣の頭上と地面の距離が狭まる。センチはミリになり、マイクロからより小さくなってゆく。そして、ゼロ。超重の斧の刃が獣の体の抵抗を強引に突破して……ゆかない。

獣は刃によって地面に押し付けられた瞬間、四足にて思い切り地面を蹴り飛ばして、斧剣の根元の方、すなわち剣を振り下ろす私の方へと逃げようとしていた。斧剣が地面に姿を隠してゆく速度は、満足いく状態での四肢の力の解放が出来なかった獣の離脱速度よりも上であり、獣の体は少しずつ剣に圧し広げられてゆく。それでも敵は死んでたまるかと足掻いていた。何という本能。何という生き汚なさだ。

剣を振り下ろして敵を圧し潰す事に全身全霊で注力していた私は、獣の抵抗を目で追う事はできても、動きに対応する事が出来なかった。柄を握っている両手は地面を砕いた衝撃を逃がすために働かせ、両足は着地の衝撃を逃すべく硬直と弛緩を繰り返している。

やがて敵は右半身を断たれながらも剣の根元にまで到達し、剣を握る私にぶつかった。勢いは凄まじく、敵の傷口より多くの血飛沫が宙に舞う。衝撃は私の硬直していた手を柄から引き剥がし、体当たりの勢いに負けた私は背中より地面に大きく打ち付けられた。

「―――ぁっ、は、あ」

肺の空気が漏れる。敵の突撃に続けて、地面との衝突による衝撃が背中より全身を貫いた。衝撃は背骨を通じて脳に到達すると、異常の信号を出して脳裏に光と音のノイズを発生させる。眼球の中で光が明滅した。続けて耳鳴り。遅れて脳は痛みを訴えた。

痛みは無意識の境に旅立ちかけていた私を現実に引き戻し、私はすかさず腹筋のバネを利用して起き上がる。急激な位置変化は脳を揺らして平衡感覚と視界が揺れたが、即座に喝を入れて周囲を見渡す。仕留め損ねた敵はどこへ行ったのだ。

そうして意識を周囲に拡散させると、離れた地面の上に構えていた目標を視界内へ収める事に成功する。獣は胸部の右側を断たれて動かなくなった右足をぶらりとさせながらも、残りの三足で地面に伏して構えていた。獣は息を荒げている。傷口からは、微かな回復煙を上げているものの、その傷が瞬時に癒える事はない。こちらの目論見は成功を確信する。

「やったな、エミヤ!」

シンが仲間と共に称賛の言葉と共に駆け寄ってきた。ダリは無言ながらもこちらの肩を叩き、笑顔で攻撃の成功を祝ってくれている。サガとピエール、響の三人は三者三様に感嘆したり呆れた声をあげたり、目を白黒させて驚いたりしていた。

「これで残るは一匹。エミヤ。行けるか? 」
「勿論だ」

私は深く呼吸をして体の状態を整えると、獣に視線を送った。もはや死に体に等しいだろう姿。しかし、それでも獣は今のこの状況が楽しくて仕方ないとでも言うかのように、獰猛な笑みを浮かべて、未だ衰えぬ敵意を向けてくる。その表情からはこの状況下において未だ己の勝利を疑っていない事が読み取れた。

敵はいっそう深く地面に体を傾けた、敵はただ体を地面に近づけただけである。だがたったそれだけの動作は、私の体に悪寒を走らせ、本能に警鐘を鳴らさせた。いかん。何かはわからないが、このままでは全滅する。最悪の結末が、強化し千里眼に近い機能を持つ眼球を通して見えた。即座に防御用宝具の設計図を心の裡より引っ張り出す。

獣の低く伏せられた頭とは逆に、高く天を貫くかのごとく掲げられた赤い尾がゆらりと揺れた。すると獣の周囲に五つの死骸が現れた。宙に浮く骸のうち、二つには見覚えがある。先程己が仕留めた奴なのだ。も覚えがあって当然だ。

それらは先程この部屋で私たちが倒した獣どもの骸だった。彼らの死骸は傷口から体液を地面に垂らしながら、宙にじっと待機している。何が起こるのか、と頭が結論を求めて回転しだしたが、やめた。現状、とにかく情報が足りない。ただ一つ、何が起ころうと、おそらくはろくな事にならないだろう予感を信じ、いつでも動ける様に意識を集中させる。

私と同じ結論に至ったのだろう、シンらも警戒を強め、構えた。私たちがそれぞれに構えたのを見て、地上に伏せた獣は笑う。敵は回復器官を損傷し、傷口の治癒が望めない状態になりながら、それでもなお、こちらを真正面から叩き潰そうとしているのだ。野生の獣とは思えないバトルジャンキーっぷりである。

獣が獰猛な笑みを浮かべると共に、宙に浮いていた死骸の群れに異変が起こった。胴体より頭部と四肢が離れたのだ。頭部と四肢は宙に浮いたまま動かない。

一方、胴体はこちらに射出された。だがその速度は遅い。どういう意図があるのかは知らないが、近接職の三人が迎撃を試みた。すると、寸前で胴体は内部より爆発。私たちは内臓と血肉と骨片と体液の散弾を浴びる。

血肉は対したことがないが、細かく散った骨片は多少の痛みを与え、私たちのからだに傷を作った。骨は頬と首元にいくつかの赤い筋が走り、ダリは瞬時に反応して盾で防ぎきるも盾の表面に傷を作り、上半身を露わにしていたシンはもろに食らって、体のあちこちに傷を負っていた。骨片が刺さっている部分もある。敗血症にならなければいいが。

そうして改めて敵の方を見てやると、嫌がらせが成功して嬉しいのか、獣がニヤリと笑みを深める。その動作が多少カンに触る。

赤の空間に突如として起こった血肉の散乱により、さらに私たちはひどい臭気と不快感を与えられる。血と肉と骨片と内臓のかけらは大半が地面にぶちまけられるも、勿論いくらかは私たちの体にも付着し、熱気と湿気、生暖かい感触と臭気が辺りに拡散される。

悍ましい。そんな言葉では表しきれない光景が広がった。

「うぇ、なんだよ、これ……」
「生ぬるい感触と、臭さが……」

サガと響が不快に顔を歪める。獣はそれを見て笑う。そうして尻尾の先端が指揮棒の様にくるりと一回転させると、こちらに向けた。同時に宙に浮いていた頭部の牙と手足の指先がこちらに向く。頭部だけとなった獣の口が開き、爪が伸びた。まずい。これはまさか―――

悪寒は脳内を駆け巡り、攻撃よりも防御を優先させた。瞬時に魔術回路を励起。最大限の強化を全身に施すとともに、右手を前に掲げて敵に半身を向ける姿勢となり、両足で地面を硬く踏ん張る。そして脳裏の投影設計図から、私の持つ中でも最大の防御用宝具の物を引っ張り出す。

―――そうして引き出したのは、ギリシャ神話はトロイア戦争の大英雄「アイアス」が所持していた、ヘクトールの投擲攻撃を防ぎきった盾

そうして敵の頭部と四足は予想通り、宙より私たちに向けて弾丸の様に射出された。血飛沫の尾を引いて彗星の様に飛来する合計三十の魔弾は。どれも当たれば必殺の威力を秘めている事が一目で理解できる。牙や爪の鋭さはいうまでもないが、あの質量と速度はまずい。直撃を食らわずと、掠めただけで我々の体を抉ってゆくに違いない。

私は敵の攻撃と同時に右腕を前方に掲げ、防御用宝具を投影した。

―――その名は

「熾天覆う七つの円環/ロー・アイアス! 」

投影により生まれた七枚の花弁が、我々の身を守るべく差し出した右手の向こうに展開される。向こう側が見えるほど薄く儚く見える人間大の大きさの桃色は、その一枚一枚が古代の城壁の防御力に匹敵するという、私の持ちうる中で最も堅牢な防御手段だ。

宝具を投影した直後、掲げた腕のすぐ前方の空間で、アイアスが飛来した大きな彗星群と激突した。桃色の壁に牙や爪が散弾の如く突撃したその衝撃は凄まじく、掲げた右腕を伝わって全身に広がった衝撃は私の体を激しく揺さぶる。

桃色の壁が甲高い悲鳴をあげながら一枚砕けて散った。膝をつきそうになる程の衝撃を、大地をさらに強く踏みしめることで抵抗する。なんという威力だ。だが最大の威力であろう攻撃の最初の一撃は防げた。あとは牙と爪が威力の速度が落ちるのを待てば良い。

―――
――――――
――――――――――――?

馬鹿な……、―――威力が落ちないだと!?

腕より伝わる感覚は初撃の時から変わらぬ力強さを保って、私たちに喰らいつこうと前進を続けている。私はわずか数秒もしないうちに、自らの楽観的期待が大いに外れたことを知らされた。二枚目の花弁が散る。しかし牙と爪は威力を一切落とさないまま前に進み、私たちに食らいつこうと試みる。

続く勢いに押され、私は地面を削りながら後退させられる。靴で地面を抉る感触は
いつもと違うぬるりとした感触。……まずい、先ほどの血飛沫が地面の摩擦係数を低下させている。このままでは踏ん張りが効かなくなる。そうすれば待っているのは、死だ。

先ほどの無意味に見えた胴体の爆破はもしやこれが狙いか。ずるずると後退させられる体。血と体液でぬかるんだ地面を踏みしめる足裏には泥が付着し、いっそう踏ん張りを効かなくする。

「力を貸そう、エミヤ 」

そうして後退させられる体を後ろから支える者がいた。ダリだ。彼は盾を地面に放り出すと、半身となっていた私の体に片手で抱きつくと、もう片方の手に握っていた槍を逆手に地面へと突き刺して支えとした。支点が増えたことにより私の体は衝撃の逃げ場が増え、安定性を増す。

「わ、私たちも! 」
「手伝いますよ」
「無論だ! 」
「当然! 」

ダリの後ろに四人がひっつく。ダリの後ろにはシンが背中合わせにひっつき、地面に刀を突き立てる。ダリの鎧が大きすぎて、シンの回した片手が彼の胴体を掴みきれないための処置だ。ピエールはダリとシンが離れないよう、二人をしっかり固定するように腰を抱きとめながら地面に膝をつけている。背の低い響とサガはダリの足にしがみき、地面に足と膝をついて接地面積を増やしていた。

「助かる……! 」

五人がそれぞれ衝撃を受け持ってくれたおかげで体を伝わる衝撃は軽減し、後退速度は低下する。だが、そこまでだった。結局、牙と爪の威力が低下しないので、手詰まりなのに変わりはない。

―――どうすればいい。何をすれば止められる? 仮に魔術でこれほどの力を発揮するとしたら、何が必要か。考えろ。思いつかなければ近似する攻撃手段から解決案を見出せ。敵は直前、何をした?

考える間に三枚目の盾に亀裂が走り、その身を散らせてゆく。それを見て敵は笑みを深める。迫る魔弾。近く死期。焦燥を誘う行動をしかし、無理やり抑え付けて思考を続ける。

―――さっと思いつくのは、二つの行動。尾っぽを振るう行動と、胴体を爆発させたそれ。前者はこの攻撃を操るものだとして、後者には何の意味がある? ただ地面との摩擦を奪うだけのものか? 本当に?

四枚目の盾が悲鳴をあげている。敵の悍ましい魔弾は衰えを見せない。その牙で、その爪で敵の体を食い破ってやろうと変わらぬ殺意を讃えて薄板の向こうで暴れている。ギシギシと全身が揺さぶられ、意識が中断させられそうになる。

瞬間、敵の攻撃の力に負けて盾をかざす方向が微かにずれた。正面に掲げられた盾にできた一瞬の斜めの空間に、アイアスの盾の端にて力を発揮していた五爪が滑り込んで、盾の内部に入り込む。必殺の一撃の一部を通したことに、悪態の一つが漏れる。

「―――くそ! 」

―――やられる

思った瞬間、しかしその牙は我々六人をまるきり無視して先程ダリが放り投げた盾の表面に直進すると、その堅牢な盾に突き刺さった。理解不能の行動に、我々は揃って混乱。しかし、そうして盾を食い破った爪が満足そうにその動きを止めたのを見て、天啓を得る。

―――感染呪術

「それか! 」

思わず声をあげた。同時に三枚目の花弁が散った。

―――奴の血肉によって生まれた傷こそが、呪いの源か。胴体を割いて血肉をばら撒いたのは、足元から摩擦を奪うためではなく、呪いの発動条件を整えるためだったのか!

だがどうする。呪いの発動条件がわかったとして、感染呪術であるとするならば、接触してしまった時点で、傷をつけられた時点でどうしようもない。ほかに方法があるとすれば、呪いを発動している術者の命を絶つあたりだろうが、そのような強硬手段を取る暇などない。多重投影に力を回そうものなら、瞬間、今の守りは砕けるだろう。

もはや花弁は残り二枚。ヒビの進行が少しでも送れるよう強化の魔術を重ねがけするが、硬度を増したところで死ぬ迄の時間稼ぎができるだけで、事態の解決が図れるわけでない。最後の一枚ははそれまでの六枚よりやや硬くできているが、だからといって発動し続ける呪いを解呪するような機能はついていない。まさに絶体絶命の窮地というやつだ。

「エミヤ。なにか気がついたのか? 」

誤魔化すように溜息を吐くと、すぐ後ろを支えるシンが問うてきた。言葉は真剣みを帯びていて、彼はこの状況下において、未だに諦めていないことがわかる。そしてまた、彼は私なら何か突破口を見つけてくれるかもしれないと思っている節がある。面映ゆさを感じながらも、私は出来る限り正直に現状を伝えることにした。私は踏ん張りを一層強めながら言う。

「この攻撃は、おそらく呪いの類だ。おそらく先程散布された獣の血肉がつけた傷に到達するまで、この一撃は止まらん。呪いの詳しい内容はわからんが、牙や爪が指定した場所に到達するまで一定の威力を保ち、止まらない、という条件は含まれていそうだな」
「傷に、呪いか。一般的な呪いならテアリカβで治るものだが……」

呪いが一般的に存在するのかと驚く間も無く、シンの言葉でダリの足元にしがみついていた響が素早く動いた。彼女は地面に投げ出されていた己の鞄を引き寄せると、二つの瓶を取り出して直上めがけて中身の液体を振りまいた。

散布された白い液体はきらきらと光を反射して薬液の霧雨が頭上より落ちる。液体が触れた途端、体に張り付いていた血生臭さが薄れ、傷が癒され、幾分か楽になった。しかし。

敵の攻撃は止まらない。

「ダメです! 効果がありません! 」
「おい、呪いじゃないのかよ! 」

傷を治しても、呪いを解除する道具を使用しても、敵の攻撃は止まらない。支え役が一人減ったことで、少しばかり後退の速度が早まった。慌てて響は再びダリの足にしがみつき、地面に跪く。私たちが地面を抉る速度は低下したが、やはり牙と爪の勢いは変わらない。

「おそらく既に発動してしまっている呪いには効果がないのだろう」
「エミヤ。呪いに詳しいようだが、この呪いを解除する方法はわかるか? 」

シンは、再び尋ねてくる。私は踏ん張りながら、少し考えたのち、答えた。

「発動している呪いに対処する手段はいくつかある。例えば、呪詛返し。呪詛の儀式を中断してやれば、契約の違反により、呪いは発動させた本人の元へ戻り、当人を呪う。他にも、例えば、発動している術者を殺せば、儀式の不成立ということで呪詛の発動が止まる事が多い。あとは呪具の道具、この場合だと牙や爪を破壊や…… 」
「なるほど。十分だ」

言ってシンは私の言葉を遮った。彼は地面に突き刺していた剣を引き抜き、体を起こす。大きく負担を受け持っていた一人分の支えが減ったことにより、私は少しバランスを崩した。慌てて全身の力配分を調整し、倒れぬよう魔力配分を調整する。

「おい、シン。十分って何がだよ! 」

サガが悲鳴のような声をあげて問う。

「やるべき事が分かったという事だ」

シン静かな表情を浮かべると、今までとは違う、剣を冗談ではなく、横に構えた居合の構えをとる。薄手となった彼は剣を握ると、私の横に並び立った。

「……おい、シン、まさか」
「儀式の邪魔をしてやるか、術者の殺傷、呪具の破壊でどうにかなるのだろう? ならこれが一番手っ取り早い」

シンが何を行おうとしているのか察したらしいサガが呆然と言うや否や、シンは身体を地面の方向に傾け、腰を落として前傾姿勢に構える。しなやかな蛸足の指先が地面をがっちりと捉えており、シンの体はぬかるんだ地面の上でも安定した姿勢を保っていた。私は彼の姿に獲物を求めて飛び出す直前のチーターの姿を想起した。

「何をするつもりだ」

ダリが礼儀のように聞いてやると、彼も礼儀のように義務的に返してくる。

「一閃を使用する。弱ったあれ相手ならいける」
「……この際、結果を楽観するのには目を瞑ろう。だとして、目の前のあれはどうする気だ。あの速度と威力を見ただろう? 断言してやる。かいくぐって攻撃するのはお前でも不可能だ。私の援護をあてにしているならやめておけ。いまの私では、あの数は防げん」

シンは無言で告げる私の方に目を向けてきた。少しばかり眉間にしわを寄せた顔には、お前ならなんとかできるのではないか、という期待が混じっている。私は逡巡した。

確かに牙爪の侵攻を止める手段は思いついている。だがそれは呪いの前にどれほど通用するかわからないし、通用したとしてどのくらいの時間有効かもわからない。そんな無い無い尽くしの手段を、私は命を賭ける者に献上する策として提案したくはなかった。だから迷う。

しかしシンは言った。

「進言を迷う程度の効果しか望めないにしろ、突撃を止める手立てがあるんだな? 」
「……、効くかわからん。もっても一瞬から数秒だろう」
「了解した」

それだけ言うと、シンは正面を見据えて、下半身に力を入れた。袴の裾から、肉が隆起して太くなっているのが見てとれる。彼の中ではもはや私がその手段を実行するのは決定事項で、おそらく何を言っても止まる気はないのだろう。私は今日何度目になるかわからない溜息を吐いた。

「諦めろ。こいつはそういうやつだ」
「……苦労を察するよ。―――カウントから五秒で盾を消す。同時に大量の剣をあれにぶつける。一瞬くらいは拮抗が望めるだろう。その隙にシンが仕留めれば勝ち。出来なければ、その後どうなるかは分からん。せいぜい自分の身を自分で守る覚悟を決めておけ。……五秒後にカウントを開始する」

断言した直後、背後を支える力が弱まるのを感じた。彼らもシン同様準備に入ったのだ。私は全身の力のバランスを調整しながら、盾に注力していた魔力の一部を別の投影に回す。

――ー体は剣でできている/I am the born of my sword

剣を盾の前方に射出するイメージ。質ではなく数を重要視して、百を超える数の剣の投影を準備する。いかに威力と速度を一定に保つ呪いといえど、ある程度以上の堅牢さを持つ物体の前にしたとき、その進行を止めることができる事は、アイアスが目の前で明らかにしてくれた。

ならば、別方向から力を与えてやれば、その矛先を逸らすことが出来る可能性もある。と、考えたわけである。巨大な質量のものを一つ用意するのではなく、一般的なサイズの剣を多数用意したのは、単純に私の魔力が尽きかけているからである。アイアスの強度を保ち続け、かつ全身に強化を使用し続けているという行為は、私から悉く魔力を奪っていた。

魔力が尽きれば、当然私を待つ運命は死である。もはやシンの一撃が通用することに賭けるしかない状況なのだ。運の悪さを自覚している私としては、完全に運否天賦な勝負は避けたかったが、仕方ない。

「―――五、四、三」

こうなればベットの対象である彼が、間違いなく敵を仕留められるという確信を持っている事に希望を見出すしかないかと思いながら、私はカウントの数字を進めた。さて、ご破算にならなければ良いのだが。

すでに準備は万端だ。力を込めた下半身は力の解放を今や遅しと待っている。

「―――二、一、―――全投影連続層射/ソードバレルフルオープン! 」

エミヤの勘定が進み、零の言葉が発せられる時を前にして、エミヤが前方に突き出す腕と桃色の壁の前の十メートルほど上空に無数の剣が出現した。数を数える暇はないが、目算ざっと百は超えていると思われる。剣群は壁が消えるよりも早く上空より壁の前に陣取る敵の牙と爪に猛然と襲いかかり、口を大きく開けた頭部と爪の伸びた四肢を地面に叩きつけた。

衝撃により生じた爆風は目の前の壁によって上空と敵へと向かい、桃色の壁の前に巻き上げられた土砂が舞う。同時に壁が消えた。私は風と土砂が私たちの元へ到達する前、迷わず下肢より力を解放し、煙の中に飛びこんだ。肌の晒してある部分を、土と風が強く刺激する。

一足飛びで煙の中を抜け、着地。牙と爪が密集する危険地帯を飛び越えると、力の勢いが全て地面と平行の方向へ向くようにして地面を蹴る。鉛直方向への力が最低限であることを確認すると、抵抗を少しでも減らすため地面に向けていた顔を上げて、敵を見る。

敵は変わらず尻尾を立てたまま地面に伏せていたが、煙より飛び出して近寄る私を見て少し仰け反らせた。警戒を露わにしているが動く気配はなく、エミヤがつけた首の傷は未だ健在である。素晴らしい。これなら間違いなく首を落とせる。私は勝利を確信した。

直後、背後から聞こえると無数の金属音と男女の悲鳴。加えて、背後から殺意が迫っている。多くの牙と爪がこちらに迫っているのがわかる。恐らく残り二十九のうち、その大半がこちらに向かっている。先ほどのエミヤの説明から聞くに、最も多く傷を負った私が、最も多くの呪いを受けているからだろう。だが知ったことか。

腰の力だけで上半身を起き上がらせると、多少胸板に風の抵抗がかかるのを無視して剣を上段に構え、大きく息を吸い込みながら腕を振り上げた。そうして剣の腹が背中に着く直前まで振りかぶると、次の着地の際、右足で地面をおもいきり踏み込み、肺の中の息を全て吐き出しながら技の名前を叫ぶとともに、必殺の意思を込めて剣を振り下ろした。

「一閃! 」

体の中に溜め込まれていた力が腕を通じて振り下ろした刀に伝わると、剣は微かに発光する。刀身より生まれた光は瞬時に周囲一帯に広がり、敵近くの空間に断裂が生じた。断裂より現れるのは、私の刃そのものだ。振り下ろした刃は彼我の距離をゼロにして、切り上げの一撃となる。

フォーススキル「一閃」は使用すると、一定範囲内の敵全てに対して使用者の刃の一撃をおみまいする事の出来るスキルだ。刃は幾重にも分裂して、敵のすぐ近くの場所に現れる空間の断裂から敵を狙う。空間の断裂が出現する場所はスキル発動者の認識に依存する。私の場合、敵の急所を死角から切断できる場所を常に意識するようにしている。

例えば今回のように首と胴を切り離せば死んでくれる獣相手の場合は、敵の視界範囲外となる真後ろから無防備なうなじに刃を叩き込める位置に空間の断裂を出現させて、頭部と胴体を切り離す一撃が首元めがけて放つようのが常のやり方だ。

だが今回、私はあえて通常の場合とはイメージをずらして、刃の出現位置を変えた。今回空間の断裂が現れたのは、右胸部にぱっくりと開いた切り傷の近くだ。エミヤがつけた傷は未だに煙を上げながらは血を滴らせながら周囲の肉が蠢いている。硬い毛も外皮も脂肪も筋肉も快癒していない部分は、まさに敵の急所と言えるだろう。

この一撃がうまく傷口から刃が侵入してくれたならば、敵の傷口から体内入り込んだ刃が内部より外部に向けて直進し、侵入と真反対の部分までを切り裂いて敵の体を両断してくれる確信がある。そうなれば私たちの勝利である。当然私の狙いはそれだ。

当たれば勝ちの勝負にはしかし懸念もあった。敵は私を見て構えてみせた。ならば敵がこちらを警戒して動く可能性もある。動けば当然、傷口の位置はズレてしまう。そうなれば、攻撃は敵の硬い皮膚や毛にあたり、弾かれる可能性が高くなってしまう。

そう。敵が動くか否か。それが問題だ。敵が警戒して見に徹してくれれば私の勝ち。敵が警戒してその場からの離脱を試みた場合、勝負の決着はお預けの可能性が高くなる。

考えている間にも振り下ろした刃は空間の断裂の向こう側に現れ、傷口に迫っている。さぁ、どうする。どう動く。迫る刀身に動かない敵。意識のほとんどが両手とその先に集中する中、微かに残っている五感は視覚が敵の口元の歪みを捉えた。

敵の七色の瞳は怪しく輝き、覚悟と殺意に満ちている。間違いない。敵は私の狙いに気がついている。先の先を取ったことに気がついている。だが敵は動かない。なぜ。どうして。嫌な予感。心に陰りが生まれた。

刹那よりも短い時の中で、疑問が湧く。疑問は不安となり、敵への斬気で満たされていた心中に落ちて動揺の波紋を生む。間違いなく敵はなにかを狙っている。それはこちらにとってロクでもない事であるのは想像だに容易い。だがもはや手遅れだ。振り下ろした刃の勢いは止まらない。心中に生まれた動揺は焦りとなり、剣を振る速さは上昇すらしている。

直感は己の命の危機を訴えて、懸命に停止の警鐘を鳴らす。しかしもう遅い。

敵の胸元の傷口に剣が吸い込まれた。敵の数に呼応して多重に分裂する刀身の先から感触が伝わる事はない。刀身が敵と衝突したさいの衝撃と感触が伝わるようなら、私の手は先の番人戦において鋼のごとき硬さの虫共億匹を斬り裂いた際に使い物にならなくなっている。

だが断裂した空間の先で刀身が敵を裂いたと直感が告げた。生まれてこのかたこの感が外れた事はない。勝った、と私は確信した。硬い敵の柔らかい内側への侵入を果たした刃は肉と骨を切り裂き、反対の肉体より抜け出る。

剣を振りながら、しかし視線をまっすぐ敵に向けて見守っていると、遠目に敵の硬いが盛り上がったかと思うと、見覚えのある形をした刀身が皮を突き破って現れ、消えた。

骨肉を断たれた敵の胸元から上側が、ずるりと新たに生まれた傷口に沿って下方向へ滑る。支えを失った首はあとは落ちるが定めである。後ろから迫る殺意が消えている事からも、結果など見なくともわかりきっている。だが先程胸に湧いて生まれた悪寒は、敵の首が落ちて動かなくなるまで視線をそらすなと告げていて、私は敵から目が離せない。

赤一色で見にくい視界の中、敵の挙動を注視する。司令塔からの命令を失った敵の四肢から力が抜けたのがわかった。地面に低く伏せた胸と腹はすでに地面へ向かって落下を開始している。脳から一番遠い尻尾だけが、未だ雄々しくピンと天を向いていた。

視線をもう一度敵の頭部へと戻す。敵の頭部は胴体に先んじて落下を開始しており、先程ついたばかりの傷口から肉と骨が見えた。敵の鼻先から頰、目元を見ると敵の生気を失った赤い瞳が私の眼に映る。

―――赤い瞳……?

何かおかしい。疑問に思った瞬間、私の体は後ろからの衝撃を受けた。敵に向いていた視線が頭上の樹木と枝葉を捉える。なぜ、と思う間も無く、続けて胸元から飛び出した毛と肉と骨の塊が直進するのが見えた。

直前までの集中は、塊が先程まで自分が散々見ていた獣の頭部であることに気がつかせる。頭部の開かれた口と思わしき部分からはピンク色の脈動する管が伸びていた。管を追って目線動かすと、自分の腹より伸びている。

私は一瞬の間だけ馬鹿みたいに惚けると、唐突にそれの正体に気づいた。私はそしてなにが起きたのかを悟った。

―――ああ、胸元と腹を持っていかれたのか。

よく見ると右腕の一部も途中から断裂している。無事なのは、頭部と左腕と両足だけだった。さらに軽い衝撃のち、伸びていた腸の一部が切れた。振り下ろしている最中の右前腕は剣の柄を固く握ったままぐるりと半回転して私の左脇腹を叩いた。

右前腕の外側部分が左半身に触れるという異常は、止まっていた時を動かす働きを持っていたようで、私の体は地面に吸い込まれる。まず無事だった腰部から下の部分が八の字を描いて地面に倒れこんだ。そして肩部から上の部分が傷口の部分よりきれいに着地して泥を跳ね上げる。

息が喉元より漏れた。肺が機能停止しているため、空気は漏れていく一方だ。いやそもそもこの有様では肺が生きていたとして、酸素が全身に運ばれる事もないだろう、とどこか他人事のように思う。遅れて地面との激突により生じた衝撃が脊髄を通って脳内に到達し、胸より下と右腕を失った事実を認めて痛みの信号を脳内に発した。痛みの直前訪れたのは酷い喪失感。そして他には例えようもないほどに冷たく鋭い痛みが走る。

痛みは感覚を鋭敏にして、視界の先が自身の体内の光景を通り越して、宙にある回転する敵生首の横目を捉えた。

―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる

そんな言葉を幻聴した。憎々しげに歪む口元は私のことなんて見ていない。それがひどく悔しくて、私は自らに致命の一撃を与えた敵がやったように、にやりと笑って同じ意思を返してやると、敵は少しばかり不服の感情を深めたように見えた。

―――ざまあみろ

意趣返しの言葉を思ったと同時に視界が暗くなってゆく。頭はもうぼんやりだ。呼吸ができない。苦しい。急速に感覚が失われてゆく。視界がぼやけてゆく。痛みだけがはっきりと今の自分の意識を保たせていた。

失せてゆく視界の代わりに嗅覚と聴覚が敏感に反応した。すんと鼻を動かすと血と鉄と土の匂いが痛みを柔らげた。そして静寂を切り裂いて前方から大きなものが地面に落ちる音が聞こえた。続けて後方から聞こえる悲鳴と私の名前と泥の跳ねる音。

彼らの声を聞いて私は最後に何を言い残すべきかを考えていた。

シンという青年によって撹拌され広範囲に拡散した、世界樹特有の赤い土砂と敵の血肉のかけらが混じった煙がが薄れてゆく。多重投影によって生まれた視界がクリアになってゆく中、地面には突如として動きを止めた敵の牙と爪が散乱している。もう動く様子はない。どうやら完全に活動を停止しているようだ。私はシンという青年が上手くやったことを直感する。土煙がさらに薄れて、ぼんやりとした視界の向こうに彼のシルエットが現れた

そして気づく。赤い煙の向こうに見える彼の形の不自然さに。なぜ彼は浮いているのか。なぜぼやけた彼の体の真ん中から遠くの敵の首切り死体が見えているのか。思いつく限り最悪の想像が頭の中を駆け巡る前に答えは目の前に提示され、光景を目にして私は戦慄した。

シンの土手っ腹には大穴が開いている。半ば体を斜めに傾けた彼は、頭部と腰部から下が完全に分離して宙に浮いていた。彼の斜角からして、何か硬いものが一瞬だけ彼を背中から上方向に押し上げて、その直後突き抜けていった、というのが予想できる。私は彼が向ける視線の先を追うと、先程我々と相対していた敵のその頭部を見つける事に成功した。

奴は目元に微かな不快を浮かべながらも、血肉を食んだ口元には不遜な笑みを浮かべている。凶暴な笑みを浮かべる口元から覗く人の内臓の千切れた端が、この惨状の下手人が奴であることを明確にしていた。宙に浮いた彼の体が浮遊の不自然に耐えきれず落下する。

―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる

さっぱりとした声の、そんな幻聴を聞いた。聞き覚えのあるセリフに頭が硬直する。まて、そのセリフ。忘れもしない、私の盾を打ち破り腕をズタズタに引き裂いた一撃を放った男の言い放った言葉になぞった文句。まさか、では、もしやお前は―――

「―――ランサー?」

呟いた瞬間、どん、という間抜けな音が響き、私達の時間が動き出す。浮いたシンの体が落着していた。思考を現実に戻し、真っ先に響が耳をつんざく程の悲鳴をあげた。ダリが声がかすれるほど大きな声をあげてシンの名を呼び、駆け出す。私は彼の後に続いた。遅れて二人が地面を蹴る音が後方で聞こえる。

彼はばっさりと断たれた胸部の傷口が綺麗に地面と接触しているため、まるで胸像のようだった。私に先んじて近寄ったダリは、もはやどう対処していいのかわからないと言った体で視線と両腕を虚空に彷徨わせている。

私はその脇を抜けて彼の体を噛みちぎった敵の頭部の元へと駆け寄った。敵は瞼を落として満足気な表情で口角を上げて死んでいた。瞼をグイと押し上げると七色に輝いていた瞳は光彩を失い瞳孔が拡大して対光反射をなくしていた。

死亡を確認。意を決してすぐさま閉じられた口元を開けてやる。そしてその口腔に唾液にまみれ現れた破損した人体を見つけて、思わず眉をひそめて唇を噛んだ。シンの体と内臓は噛みちぎられた際の衝撃で大きく損傷したのち、更に何度か咀嚼されグズグズになっている。

この世界の技術と私の魔術があればなんとかなるかも、という淡い期待を抱いていた私は、ようやく彼はもはや手遅れである事を悟った。重苦しいものが胸に去来する。見知った誰かがもうすぐ死ぬという事実は、思った以上に今の自分にとってショックな出来事であるようだった。さて、いつからこんな感傷を抱くようになったのだろうか。

獣の口元を閉じて両手で抱きかかえる。そうしてその中身が崩れない様に注意を配ると、抱えた状態で地面についた自らの足跡を逆走した。物言わぬ骸になりかけている彼の周りでは四人の人間が地面に膝をついてどうしたものかと喧喧諤諤に言い合いをしている。

「おい、どうするんだ! どうすればいいんだ!? 」
「響! 喚いてないで回復薬を使え! どうにかなるんだろう!? 」
「傷は塞ぎます! 塞ぎますけど、こんなんじゃ傷が塞がらないじゃないですか! 」
「ネクタルはどうなんだ? 」
「真っ先に使いましたよ! もうありません! ダメなんです! 体がないんです! 顔が血の気を取り戻した端から白くなっていくんです! 血も止まらないし、そもそもこんな状態じゃどうすればいいっていうんですか! 」
「……シン、聞こえますか。まだ大丈夫ですか? 」

三人が騒ぎ立てる中、殊更冷静にピエールだけが彼の頬を叩いて意識を保たせる努力をしていた。ピシピシと頬を叩く行動は死体に鞭打つようであるが、効果はあったらしく、シンは閉じていた瞼を開けて、顎を微かに上下に動かした。

まだ息がある。そのことを確認すると、私は彼の周りにたむろった人を退けて、シンの眼前に狼の頭を置いた。一同、特に三人が息を呑む。私はもはや魔術を使うことを一切気を使うことなく剣を投影すると、狼の口を開けて、片側を大きく切り裂いた。

剣は口腔を抜けて口の端から後頭部まで通り抜けて、その間にある障害物を全て斬り裂く。そうしたのち平坦に伸びた前頭部から頭頂部までを掴み、眼球のあたりに親指を引っ掛けると、力任せに肉を引きちぎりながら敵の上顎と下顎を開口させた。

無理やりの衝撃に頬骨が破砕する音が聞こえたが無視する。周りが息を飲んだのがわかった。そうして現れたのがシンの失った体の一部は唾液でベトベトになり、内臓は腰側の胴体から飛び出して口腔内に飛び散っている。惨状に目を逸らす気持ちもわかるつもりだ。だが。

「シン。横にするぞ」

今は一分一秒も惜しい。返事も待たずに美術室に屹立する胸像めいた身体と頭部になった彼を抱きかかえて、獣の舌の上に乗っている彼の体の切断面に合わせる。上半身はバウンドした際、内臓がこぼれ落ちて土にまみれていたが、切断部分の敗血症や感染症の心配をしている暇などない。とにかく繋げることがまず第一だ。

汚れた面と唾液に塗れた面を強引に押し付けて、見た目の体裁だけ整えると、響に向けて言う。

「響。薬を彼に」
「……え、あ、うぅ」
「やれ! 死なせたいのか! 」

叱咤すると、響は慌てて地面に投げ出されていたバッグから薬の入った細長い金属瓶を取り出してふりかけた。瓶の口より溢れた光の粒子が宙を舞い、重力に従って彼の傷口に殺到する。光の粒子は傷口に触れる直前強く発光してみせると、彼の傷口から音と煙が上がり、薄いピンクの肉が盛り上がった。白くなりつつあった彼の顔が微かに血色を取り戻す。信号を取り戻した心臓は再稼働を果たし、腰部あたりからの出血が再開した。

……指示しておいてなんだが、この結果に驚いた。まさか動脈静脈神経骨その他の部分が綺麗に吻合されたということなのだろうか。切断面の汚染があるにもかかわらず、切断された両者の部位が重力に負けて多少のズレを生じているにもかかわらず、回復薬は傷を治癒してみせたというのか? なんという奇跡。何という威力なのだ。

驚愕をして疑問を考察しようと試みていた頭は彼が咳き込んだのを聞いて現実を思い出した。肺が機能を取り戻したのだ。呼吸の再開は生存の可能性が見えてきた証明であるとはいえ予断を許さぬ状況であることに変わりはない。

急いで獣の頭部顎下にあったシンの下半身を引きずり出すと、同様にすぐさま切断面同士をくっつけようと試みる。しかし。

「っつ、厄介な……」

こちらは上半身のように簡単に出来なかった。飛び散った内臓はぐちゃりと潰れ、あるいは牙にちぎられている。特にひどいのは腸だ。無造作に飛び散った消化器官はどれがどれだか区別がつきにくい。そうして内臓立体パズルを解いている間にも、出血は続き、血の気を取り戻した顔は再び白さを帯びてゆく。内臓を弄っているにもかかわらず血まみれにすらならない事態に焦りながらも、なんとか無理やり形を整えると、再び指示を飛ばす。

「響! 薬! 」
「はい! 」

すると今度は待ってましたとばかりに彼女は一瞬の間も置かないで先程から手にしていた薬剤を振りまいた。どうやらこちらが何をする気なのか理解して待機していたようだ。

薬剤がシンの体にかかり効力を発揮しだして傷口がざわめき出すのを見届けると、長く深いため息が自然に口より漏れる。荒く断面を合わせるだけの作業はしかし、先程までの戦闘とは別種の精神的な疲労をもたらして、全身から汗を吹き出させていた。肌にまとわりつくぬめりとした感触が周囲の湿気と入り混じって酷く不快な気分だ。

せめて顔の部分だけでも拭ってやるかと片手を持ち上げると今更ながらに両手が汗と血と脂に塗れて生温さとどろりとした不快さを帯びていることに気がついた。仕方なく右手の裾で額、頬、口元、顎と順に拭ってゆく。その間にもシンの体は傷口から再び煙を上げて塞がれつつあった。

響とダリとサガは期待に満ちた目でシンの肉体が修復されてゆく様子を見守っている。シンの肉体の傷口から見える内臓は、まるで収まるべき場所と帰る場所を知っているかのように勝手に蠢いては接合してゆく。治癒というより再生。再生というより復元、時間の巻き戻しに近いものであるように見受けられた。

ふと自らの左腕を上げて掌を覗く。狼の牙によって落とされた左腕は魔術回路まできちんと治療が及んでいた。メディカの効用が半霊的な器官にまで効果を及ぼすとなると、やはりこの薬は科学的な理論に基づいたものでなく、非科学の領域に足を突っ込んで作り上げられたものなのだ。

回復薬とは一体どういう成分なのだろうかと真剣に悩む。解析の魔術をかけてもわかるのは花蜜と蜜結晶と岩サンゴを砕いて混ぜて作られたという事実がわかるだけで、それ以外の事はさっぱりわからない。だがその不明な成分が先程私の左腕を繋ぎ、今瀕死の淵にいるシンの命を拾い上げようとしているのだ。効用ばかりは信頼できるな、と左腕の傷口を見て独り言つ。その時だ。

「失礼 」

ピエールは短く言ったと思うとすぐに私の左腕をジロジロと眺め、言葉を続けた。

「エミヤさん。もしかして左腕は一度千切れたのを回復薬で治したのですか? 」
「……その通りだ」
「やっぱり。でしたら、一度地上に戻った際、施薬院に行ったほうがよろしいでしょう。繋がっているように見えて、案外、応急手当て的なぞんざいさが残っていたりしますし、多分、転移の直後間違いなく、傷の影響が出ますから」
「そうだな、そうするとしよう。忠告感謝するよ。しかしなぜ見抜けた? 」

彼は飄々とした笑みの中に少し悲しげな雰囲気を加えて、答える。

「羽織っていらっしゃる外套の左腕の前部分だけ綺麗に破れています。この敵の攻撃でぐるりと腕を一周するような外傷ができるとしたら、先程シンが受けた噛みつきの攻撃しかないでしょうし、加えて、あの胴体を裂くレベルの攻撃をその細い腕の部分に食らったのなら、いかにあなたが強靭な肉体を持っていても、腕が千切れて落ちるが道理かと思いまして」
「よく見ているな」
「観察は楽師の性分ですから。後に物語る時、見て聞いて感じての出来事を自らの言葉と感性で語れないようでは楽師失格ですからね」

なるほど聞いてやればもっともらしい事をいう。しかし疑問が湧いた。

「なら私よりもシンの方を観察したほうがいいだろうよ。窮地に陥った仲間を颯爽と救った英雄だ。彼を主役にしたほうが話も盛り上がるというものだろう」

口から出た言葉には、私の事を物語にして欲しくないという考えも混じっていた。彼の職業柄、私の所業がその口から多少の誇張や華美な表現で語られるのは許容できるとしても、彼の語りによって名声が上がり以前のように一挙手一投足に注目を浴びるような事態になるのは避けたかったからだ。

「そう……そうですね」

私が言った懇願も含めた言葉を聞くと、彼の整った顔に含まれていた悲しみの色になんらかの決意が加わり、悲壮へと変化した。私は自らの吐いた言葉のうち、何が彼の胸の裡に変化を起こしたのか理解できず、尋ねた。

「……なにか気に触ることでも言ったかな? 」
「いえ。ただ、そう。あなたのおっしゃる通り、臆病を殺してでもシンを観察したほうが良いだろうな、と思っただけです。……多分これが最後の機会になるのでしょうから」
「……何? 」

聞き間違いか。そう思って彼の顔を覗き込むと先程よりも悲壮感が強くなっている。固く結び付けられた口元からは、覚悟と決意の現れが見て取れる。私は今の彼と似たような顔を何度も見たことがある。それは近しい人間の死を覚悟した人間が浮かぶべる表情だった。

「どういうことだ? 」

具体性を書く質問に、しかし彼はニコリと笑って意を汲み答えてくれる。

「そのままの意味です。シンはもう助かりません」

確かな断言は静けさの残る森の中によく通ったように思えた。言葉につられてちらりとシン方へ目をやると、傷の治療が行われている彼と、彼の側でその様子を見守る彼らが視界に入った。ピエールの言は彼らの耳には入らなかったようで、少し安堵する。私は振り返り反論を試みた。

「そうはいうが、怪我は治り、傷口は小さくなりつつある」
「ええ。怪我は治ります。傷も小さくなりそのうち完全に塞がってくれるでしょう。ですがそれだけです。薬は肉体の損傷を治してくれますが、失ったもののは補填してくれません」

言ってピエールはシンの横たえられている地面の周囲に視線を送った。そして理解する。元より赤く湿り気のある状態であった地面が黒く固く染めあげられた状態は、明らかに異物が土壌を侵食した証であった。地面の赤黒さは血液の乾いた後である。なるほど、血液が足りないのか。

「ネクタルは?」
「ああ、あなた見ていませんでしたね。彼に近寄った響が真っ先に手持ちのネクタルを全て使用したのです。過剰に注ぎ込まれた生命力の源は、上半身の一部だけの状態の彼が旅立つのを引き止めてくれました。彼女がそうして素早く対処してくれたからこそ、心臓も肺も破損した状態でも貴方が治療を行うまでの間生きて入られたのです。普通は即死ですよ、あんなの。しかし……、残念です。もう少しだけでもネクタルを持ってきていれば、あるいは残っていれば、彼も助かったかもしれないのに」
「まて。ならば今すぐ糸を使って施薬院で治療を受けさせればよかろう 輸血でも生理食塩水でも造血剤でも使ってやれば……」
「それも無理ですよ。糸が使えないのです。御覧なさい。あなたの的確な指示と対応で傷は塞がりつつあります。中も多分完治しつつあるのでしょうが、未だに顔に血の気が戻らない。おそらくあの状態で糸を使うと、彼はエトリアに到着と同時に死ぬ」
「……わからんな。なぜそう言い切れる」
「おや、ゴリンからお聞きになりませんでしたか? 転移の際、土や砂は自動回収されるのですよ。貴方のその左腕ぐらいならまだしも、シンは重要機関から臓器から神経、血管に至るまで、全てに砂が入った状態で切断面がくっつけられています。聞いたことありませんか? 世界樹の地面を構成する砂土は転移することが不可能なのですよ。あれでは恐らく、砂の入った部分は転移と同時に穴が開く。エトリアに着いた途端、失血死か、ショック死かでしょう。それにあの繋がったばかりの肉体じゃあ、そもそも、転移の際にかかる衝撃にも耐えられない可能性の方が高い。転移の最中に物を失うと、それはどこかに失せてしまいます。だから無理なのです」

私は土の話と転移の際の衝撃を思い出して、思わずエトリアに来た日ばかりの日の事を思い出していた。五人いた彼らは、足がもげ、腕がもげ、体の一部が欠損していた。

―――あれは、瀕死の状態で、なんとか糸を使って離脱したが故のものだったのか。

なるほど彼らは、そうして迷宮に体を忘れてきたのか。かつて見た光景に、彼の言った言葉が信用するしかないものだと、不承不承も納得する。しかし、いちいち大業な所作をとるピエールの言動に少しばかり腹を立てながら聞く。

「ではどうすれば彼を助けられるというのだ! 」
「だから無理だといっているでしょう! シンを助けたければ、この場から転移を使わず脱出するか、ネクタルの一つでも出して見なさい! さぁ、はやく! 」

ピエールが顔に陰りが生まれた。吐き捨ているように述べられた最後の愚痴は重苦しい。己の準備不足や不手際に対する慚愧の感情が多分に含まれているようだった。彼が生まれた感情を隠すかのように目元を片手で覆いしゆっくりと首を左右に振るのを見ていると、金属の筒が地面を叩く鈍い音が背後より聞こえた。

音に誘われて顔を向けると、地面に跪いた響が顔を真っ青な状態で体を震わせている。彼女の震える眼差しは、先程己が振りまいたネクタルの瓶の群に向けられている。

―――しまった……!

「あ、……、あ、あぁ……、あ、う……」

シンの容体を見るのを投げ出した彼女は頭を抱えて地面に蹲った。かたかたと震える小さな体をさらに小さく丸める様は、まるで感じる悪意から身を守ろうと必死な幼子のようだ。

「――――――シ、シンさん、助からないんですか? ネク、ネク、ネ、ネクタルが足りないから? 私。私が、使い切ったから? 」

絞り出された声には気の毒なほどに悲痛と後悔が混ざっていた。その有様を見て、私はピエールと目線を交わすと、互いに苦い顔を浮かべて己らの不注意と迂闊さを呪った。

「わた、わ、わた、私がもっと上手、う、上手く、く、やって、や、やれれば……」
「それは違います、響さん。シンが今まだこうして生きているのは、貴方があの時適切な処置をしてくれたおかげです。あの即死にも等しい状態のシンを前に、ネクタルを使うという判断を下せたのは貴方だけです。むしろ熟練を自称しているにもかかわらず、あの場面で動けなかった私たちこそ、罪深いというべきでしょう。貴方は何も間違ってなどいないし、下手を打った訳でもありません。ただ……、そう、ただ、彼の運が悪かっただけなのです」
「う、うぅ、うぁ、うぇ、う、うぅぅーーー! 」

ピエールの慰めは響の心に聞こえる事なく、彼女は大きな声を上げて喚き始めた。静かな森の中、死にゆく定めにある彼の傷が塞がる無意味な音と彼女の大きな泣き声が響く。呼吸困難に陥りながらも続けられる嗚咽は、その場にいる全ての人間の感情を刺激するように、周囲に残響しては消えてゆく。悲鳴にも似た声を聞いて私は思わず彼女から目をそらした。

そして。

「ずいぶんと、―――っ、……うるさいな、は、ぁっ―――」

甲高い声は死の淵に瀕していたシンの意識を刺激したらしく、咳き込みながらもゆっくりと目を開けた。ようやく繋がった胸は酸素を求めて小刻みに上下に動かされている。

「シン! お前! 」
「シン! 」

ダリとサガが揃って名を呼ぶ。響は大きく泣くのを止めて、呼気を荒げながらも顔を上げて恐る恐ると言った体で彼の方を振り向いた。

「……っく、ひっ、ひっく、シ、シン、さん」

そして、シンの顔を見た響は体をゆっくりとシンの方を向きなおして膝で地面を擦りながら前進すると、彼のもとに近づいた。

「だ、だ、だ、大丈夫、だいじょ、大丈夫ですか」

響の言葉を聞くと、シンは剣を握って離さぬ左腕を動かしてみせて、そして肩と首元付近を動かして、止まった。彼は左腕を動かして自らの体をペタペタと撫でて見せると、乱暴に叩きながら、上半身の傷口より上の部分だけを身悶えさせた。

彼の顔は必死の形相で脂汗がにじみ出ている。彼は頭を一回りさせると大きく天を仰いだ。瞳を静かに閉じると、小さく息を吸って、弱々しくもらした息で天を突く。顔に覚悟と諦めの混じった表情が浮かんだ。

その所作で私は彼の体の状態を悟った。己の不甲斐なさが怒りとなり腹の中で蠢いた。憐憫に似た情が心中に湧き、目の前の悲惨を嘆いて目線を逸らしてしまいそうになったが、弱気の湧いた自分を叱咤するとともにあえて彼の体に視点を固定する。いかに望まぬ、希望が無いものでも、これは彼の出した結論が生んだ結果であり、私の選択した判断の結末だ。

一度きり、いや、前回の番人戦を勘定すればたった二度の戦闘を行っただけの短い付き合いではあるが、数度ほどの日常でのやる取りと合わせて、彼が後ろ暗い部分を持ちながらも、真っ直ぐな性質を併せ持つことは理解できている。そして彼は今、己の行いのその結果を確認し、そして受け入れた。

ならば、私も関わって生まれてしまったその結果を受け入れないのは、彼の行いに対する侮辱であると感じたのだ。

「ああ……うん、……いや、これは、ダメだな 」

彼の声はどこまでも冷静だった。そして冷徹な口調で横たわっている己の体にダメ出しをした。ピエールが目をそらした。ダリが唇を噛み、サガが親指を咥えて爪を齧る。響は彼の言葉をどう捉えたのか、呆然とした顔でシンの全身を上から下まで眺めていた。

「腹から下が動かん。胸から下は叩いても感触がない。目の前はぼやけて黒い。呼吸をするのも一苦労だ。右腕は肘から先が動かない。だが痛みはない。静かで、ひどく眠い。眠いんだ。―――、ああ、これが死、か」

彼はどこまでも透明で、なんの感情ものせず、ただ近い将来に起こるだろう淡々と事実を告げた。開かれた彼の目は、その黒い瞳孔がただただ虚空をさまよっているだけで、もうどこも見ていない。

「ば、か、をいうな! 」
「もう薬はないんだろう? 」

彼は静かに聞き返した。響がびくりと震えた。彼女の様をいかなる感覚で感じ取ったのか、シンは力なく笑うと、

「そら見ろ」

と言った。笑いはもう息が漏れているだけのものだった。ひと笑いごとに生命が抜けていくかのように、息が弱まっていく。サガが地面を叩いて憤慨した。

「今すぐ戻れば助かるに決まってるだろぉ! 」
「そのとおりだ! おい、糸! 」

ダリが荒く叫ぶ。だが道具を管理している響は全身を震わせながら泣きじゃくり、そしてしゃっくりを含めた呼吸を繰り返すばかりで彼の指示に従わない。未だに現実の咀嚼ができていないようだった。

ダリはイラつきを露わに舌打ちをして響を押けのけると、ひったくったバッグに手を突っ込み、そして漁り、糸を取り出した。ダリの押した反動により後ろから地面に倒れそうになった響をピエールが抱きとめる。

「やるぞ! 」

そうして糸先を摘み解こうとしたダリの手から、ピエールが糸をさっと取り上げた。

「何をする! 」
「やめておきなさい。どうせ助かりません」
「お前! シンが死んでもいいってのか! 」
「いいわけないでしょう! 」

ピエールは大きな、しかし掠れた声をあげた。その行動は彼の声帯を傷つけたようで、大きく咳き込んだ。楽師の命とも言える豊かな高音重低音を生み出す喉を傷ついてまでの叫び声は、その事をよく知るダリとサガの行動を止める効果を持っていた。

「……、いいわけ、ないでしょう」

ピエールは掠れる声で小さく漏らし、そして喉を痛めたのか、激しく咳き込んだ。ピエールは片手で口を抑えながら唾液が飛散する防ぐ。ダリとサガは吟遊詩人がその喉を痛めてまで吠えるその所作を見て、ピエールは自分たちに知らない何かを知っているからこそ、糸を取り上げる強行を取ったのだと事情を悟ったようだった。

「――――――、この状態で糸を使うと、シンはエトリアに戻った途端、全身に穴が開いて失血死するかか、あるいはそれ以前に、五体が迷宮と転移室にバラバラに撒かれることとなるかもしれません。今すぐ彼にトドメを刺したいと言うのでしたら、どうぞおやりになってください」

ピエールはシンを一瞥して少し躊躇っていたが、短い間瞼を閉じて意を決っしたらしく、掠れたしかしはっきりと通る声でシンの死を告げる。サガとダリは狼狽えて視線を泳がせた。

「―――本人を前にはっきり言ってくれるな、ピエール」
「ええ。小賢しいのと回りくどいのは、貴方、お嫌いでしょう? 」
「そうだな。助かるよ。残り少ない時間を無駄に使わなくてすむ」

シンは言うと、視線の先を天井に移した。

「いや、しかし相討ちか。途中までは良かったんだが、最後で油断してしまった。……いやしかし、エミヤという男の片腕を損傷せしめる相手と引き分けに持ち込めたと考えれば、戦果としては悪くないか」

シンは左腕に固く握られた剣を持ち上げて眼前に持ってくると、刀身を眺めながらしみじみと言った。唇から漏れた彼の呼気で刀身が曇る。持ち上げられている剣の刀身、その反り返った部分から剣に付着していた血液が集結して雫となり、彼の顔に落ちた。

一滴の雫は彼の瞼に落ちて端から端正な顔立ちを伝い地面へと紅涙のごとく流れるが、彼は一切の反応を見せなかった。ああ、もう触覚すらも失せてしまっている。仲間の男性陣も私と同様に死期が近い事を感じ取ったらしく、目を伏せて、あるいは目線を逸らさず、静かに彼の言葉に傾聴の姿勢を正す。場にいる全ての人物の挙措が全て彼に支配されていた。

「うん、なるほど。そう考えると、まぁ、最期の相手として不足はなかったが……、しかしダリの用意してくれたこの剣と、今作ってくれているもう一本を伝説の三竜に叩き込めなかった事は残念だ。倒せるかどうかは別として、せめて一閃がどこまで通じるかどうかくらいは試してみたかった。……、ああそうだ」

シンはくるりと剣を回して刃先を地面向けると、ぐさりと刀身を突き立てた。仲間に対して、何より、剣に対してあまりに遠慮がない。もうそれが限界なのだろう。刀身に付着していた血と脂が飛び散り、近くにいた仲間達の服と、彼の一番近くで両手をついていた響の顔を汚した。刺激に驚いてか、彼女は背を軽く浮き上がらせて、ひっ、と声を漏らす。

「響。いるか」
「――――――、え、は、はい!! ここに!! 」

声をかけられた響は顔の血を拭うと、周囲に残響するほどの大声で反応して見せた。やかましいくらいの大声はだが、今の五感が失せつつあるシンにとっては丁度良い位の声量だったのか、微笑を浮かべて静かに続ける。

「君はこのメンバーの中で一番剣の才能がある、と私は思っている。だから、もしよければこれと上のを使ってやってくれないだろうか」

彼は突き立てた剣の腹を拳で叩いて、刀身を軽く打ち鳴らす。金属の撓んだ音が響いた。

「あ、え」

申し出に困惑した様子の響。意味ある言葉を返せずにいると、シンは優しく続けた。

「無理にとは言わない。邪魔だったら売り払ってもらって構わない。ただ、まあ、できるなら、この先迷宮でやっていくというなら、受け取ってもらえないだろうか。私とサガとダリと、君のご両親で集めた素材を鍛えて作り上げてもらった剣だ。きっと君の役に立つ」

そこまで言って彼は大きく咳き込んだ。体内に残された血液量では十分量の酸素を循環させることが出来ていないからだろう、力なく胸を上下させて必死に呼吸をするシンの顔は死人のように白い。しかし彼はまだ果てるわけにはいかないと、必死に耐えている。彼は響の返事を待って耐えている。

「――――――」

その台詞は卑怯だ、と他人事ながらも思った。言葉は地面に突き立てた刃の代わりと言わんばかりに、彼女の心に突き立ったようだった。彼女は幽鬼のようなシンとは対照的な赤ら顔を動かして、彼の横にしっかりと身を立てている刀剣へと視線を移す。

刀身は柄から刀身にかけての表面が赤い血液で濡れそぼり、重力に従って地面へと向かっている。あの血液全てが貪婪に地面へと吸収されるよりも早く、シンの命は消えて無くなるだろう。血液の砂時計が刻限を告げるのを否定するかのごとく、響は立ち上がり、両手で刀身の柄を握ると、地面より引き抜いて泣き叫ぶように宣言した。

「はい! 」

威勢のいい返答は薄れつつあった意識の中にも明朗に聞こえてきた。声は夕霧の中へと隠れつつあったぼんやりとした意識を痛みに満ちた此岸へと引き戻してくれる。瞼を開けると、薄暗くぼやけた視界に柄を両の手で逆手に握った姿勢で固まっている響の姿が映った。

その姿はまるで、死にかけた私を楽にしてくれる執行人のように見えて、私の笑いを誘ってくれた。その震えた状態ではまともな死刑執行は行えまい。

「響、刃を人に向けるのは良くない」

口からそんな言葉が漏れた。かつてサガに言われた言葉を言うと、バカヤロウ、とサガの小さな声が聞こえた。かつてその対象であった響は慌てて柄を握りなおして刃先を天へと向け、両手でぎゅっと絵を握って剣を天高く掲げた。ああ、いやそうではなくて。

「構えるなら八相か正眼に。迷宮での乱戦なら八相の方を基本にした方が良かろう。右足を引いて、刀を右に振りかぶって」
「え、あ、はい」

足が地面を引きずる音が聞こえた。響の足が生じさせた音は、彼女が腕と胴を動かした際に生じた空気の揺らぎと合わさって、赤と黒に霞む視界の先に剣を構える彼女の姿を幻視させてくれた。

「ああ、力を入れすぎた。左足はもうすこし前に。肩口をしっかりと締めて左の肩当で攻撃を受け止めるイメージを……ああ、そうだ、いいぞ、さすがだ」

多少の口出しで彼女は見事な構えをとって見せる。自然体、には程遠いが、最初に剣を握ったにしてはなかなか様になっている。ああ、やはり私の目に狂いはなかった。彼女こそ私の剣を有効活用してくれるに違いない。

安堵は全身に広がりつつある痛みを和らげて、瞼が落ちてゆく。視界が徐々に狭まってゆく。だが、懸念が湧いた。彼女は素晴らしい才をもつかもしれないが、私がいなければ師となる人物がいなくなってしまう。サガもピエールもダリもダメ……ああ、そうか。彼がいた。

澌尽し霧散しかけていた意識が、少しだけ役目を思い出したかのように脳みそを動かしてくれる。最後のひと踏ん張りだ。このままでは瞑目することができなくなる。

「―――、エミヤ。一つ、頼まれてくれないか」

彼は多分、少し驚いたのだろう、私の言葉に少し遅れて反応した。

「なんだ」
「彼女を頼む。剣の才能があるんだ。指導して欲しいとは言わない。ただ、使えるようになるまで見守ってやってくれないか」

彼が息を呑んだのがわかった。突然すぎる不躾な願いに戸惑ったのか、うんともすんとも帰ってこない。ああ、でも、この頼みだけは、聞いて欲しい。遠くへ旅立とうと急かす意識を宥めて返事を待つ。あと少し。あと少ししたら行くから待っていてくれ。これで本当に最後だから―――

「了解した。最後の依頼、承ろう」
「―――ああ、安心した」

また彼の息を呑むのがわかる。いつもより過敏な感じがしたが、一体なんだというのか。靴が地面を引っ掻く音まで聞こえた。

―――ああ、なんだ、何に反応したというのか。……まぁ、いいか。今更…………、知ったところで…………、む、い、み……――――――

旅立ちを急かしていた意識がついに待ちきれなくなって、彼岸へ向けて走り出す。制御はもはや不可能だった。駆け出した意識に手を引きずられて白い霞の中に飛び込むと、かつての旅路の光景が走り去ってゆく。

彼に憧れ、彼らと出会い、彼らと共に歩んだ刺激と苦節の道は、彼と彼女との別れという忸怩と苦難と挫折へと続き、やがて縁による出会いは三か月の期間における満足と誉の旅路へと自らを導いた。生涯からすればたった三か月に満たないだろう、この期間を生きられただけでも、悔いはない。

「サガ、ピエール、ダリ、エミヤ」
「―――――――――」
「――――――」
「―――、―――――――――、―――」

呼ばれた三人は三様に反応したのだろう。一人だけ無言なのがなんとも彼らしいと思った。だがもう言葉を捉えることはできなかった。ただ、込められた言葉から熱を感じることだけはできた。暖かい。ああ、この暖かさに包まれて逝けるのならば、冒険者の死に様としては上等すぎる。

命の燃料が尽きてゆく。だから、しかし、こんな身勝手な私を受け入れ続けてくれた仲間たちに対して最後に万感の想いを込めて言う。

「あ、……………と……」

最後の言葉は紡げなかった。ただそれだけが残念だと思った。霞を抜けた先は、冥とした澹蕩の闇だった。導かれるままに闇に身をまかせると、どこまでも暗く深く静かなところへと落ちてゆく。光なく、音なく、匂いなく、刺激なく。

―――ああ

「――――――」

闇の中、誰かの声が聞こえた気がした。聞き覚えのない声であるのは、感覚が機能を放棄しているためだろう。最後、冥漠の闇を貫いてまで聞こえたのは誰の声なのだろうと思いながら、返事くらいしてもいいかと考えた私は、ああ、とだけ返して、とうとう意識を手放した。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲