うさヘルブログ

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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜   第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

神の与えた試練を乗り越えるなら、それ相応の代価が必要だ。

お前が神の祝福なき非才の身であれば、当然、相応の損害を覚悟しろ。

 

 

白く巨大な扉を覚悟を伴った掌で押してやると、手に込められた討伐の意思を拒むかのように、扉は重苦しい音を立てて内に開いてゆく。二つの白が互いの結びつきを遠ざけてゆく中、向こうから飛び出してくるかもしれない三千の人津波を想像して、私たちは警戒を密にした。

 

「――――――」

 

しかしその懸念は無用の長物となったことを知る。ひらけてゆく視界に見えたのは、地を埋め尽くすほどの敵軍ではなく、血を敷き詰めたように六方とも真赤な壁に囲まれた空っぽの空間の、そのガランとした部屋の中心にたった一匹の魔物がいる光景だったからだ。

 

眼前に広がる、平たい天蓋の何処かより壁面の成分が剥がれ落ち、やがて粉塵となった赤の塵芥が舞う光景は、これが例えば雪の色を伴っていれば、あるいは真夏も盛りを迎えそうな時期の今この頃、避暑のため訪れる場所として目に涼しい光景となったかもしれない。

 

だが、こうも不気味と興奮を誘う色ばかりが漠と広がる光景は、吹雪舞い散る雪原に佇むとは真反対の滑りとした気味の悪い印象を私に与えて、漣だっていた神経を鎮めるどころか、荒らしてやろうと侵食する効能を所持していた。

 

さてはこうして、神経を逆撫で苛立ちを引き起こしミスを誘発するのが眼前に広がる景色を作り上げた人物の目的であるとすれば、果たして製作者の底意地の悪さが見て取れるな、などとも思ったが、よくよく考えてみれば、この迷宮の構築に言峰綺礼という男が関わっているのを思い出して、素直に納得した。

 

人の嫌がることを進んで行いなさいという文言を聞けば、嬉々として他人に苦痛を与えるために動こうとする、人の醜いを己の快楽として認識する、なんともあの男らしい所業である。

 

「……」

 

 

考察を重ねながら、私は強化を施した眼球で五百メートル先に佇む、ゆらゆらと輪郭を崩しながら身体をくねらせ続ける敵を見る。その部屋の中にたった一匹だけで佇む敵は、透明なフォルムをしていて、さながら撥水性の布に水滴を垂らしたが如く姿であり、くわえて粘性をも備えた流体の体であった。

 

その粘度の高さと透明なボディに、赤い粉雪が舞い落ちて、そして粘度の高い体の表面をゆっくりと移動する様は、場違いな形容ながらも、梅雪色に着色したきな粉を振りかけられたわらび餅のようだ、と例えるのが相応しいように思える。

 

しかしそうして巨大な菓子箱の中央に、ぽつねんと笹舟に置かれた主菓子の如く存在を主張するそのなんとも場違いな魔物の異様さに、私たちはより一層警戒心を強めた。

 

「エミヤ……お前の予想と大分と違うようだが」

 

槍盾を構えて緊張していたダリは、その警戒をさらに密にして、囁き声で尋ねてくる。事前に彼らに伝えてあった私の最悪の予想では、扉を開けた途端、かつての玉虫の如くアマゾネスが蠢いているかもしれぬと伝えてあったため、そうして三千はいるだろうと脅していた敵の数が、その実たった一匹であった事に、彼は余計に不審の表情を深めているようだった。

 

「そのようだな」

「……どうする? 」

「……十秒待ってくれ。ダリは警戒と防御、サガとピエールは索敵、響は道具の準備を」

 

指示を出すと、四人はそれぞれが一瞥で目を合わせ、己の役割を果たすべく動き出す。周囲の警戒と対処を彼らに託した私は、眼前に観察の視線を送りつつ、考える。

 

これまで攻略してきた層番人との戦闘において、初見から一体であったのは、一層の一匹だけであった。だがそれとて、その無防備さに油断し突撃したところ、不意の増援に無用の手間をかける羽目となった。

 

一方、二層では最初から複数だった。遠距離から迎撃してやろうとすると、彼女がメディアと言う女の能力を持たぬと知らぬが故の油断であるとはいえ、後ろに玉虫を転移され不意打ちを食らった。

 

三層では雑然とした部屋の中心に一匹と五匹の魔物がいた。彼らは直線的であったものの、その能力には特異性があり、油断はしていなかったつもりではあったが、過信の代償として多大な犠牲を支払うこととなった。

 

そして四層。これまでの層の傾向と、ヘラクレスの試練が残り四つか五つ残っていると考えるならば……、やはり、敵は複数いる可能性の方が高い。とすれば―――

 

「―――、まず私が先行して部屋に入る」

「……それで? 」

「おそらくその動きに反応して、どこかから増援がくるだろう、数はわからんが、千を越す数がいるかもしれん。あるいは、一度に増援として出てくる数は五、六かもしれんが、あるいは十、二十の数が出てくるかもしれん。―――もし、敵の質が高い場合、あるいはその数があまりに多い場合は、私も即座に切り札を使用する。サガ、響、その際は各々のやり方で足止めを、ピエールは補助を頼む。ダリは悪いが、私を中心に守ってほしい」

「りょーかい」

「わかりました」

「仰せの通りに」

「了解だ」

 

各々が特徴をあらわにした確かな信頼の返事を返したのを聞いて、私は満足に頷いた。

 

―――よし

 

「では行くぞ」

 

完全に開閉を果たした役目を果たした扉の敷居を踏み越える。敵はまだ動かない。周囲に異常は起こらない。境界線を越えて一歩二歩と歩を進めても、何も異変は起こらない。敵に動きがないというのは、なんとも不気味なものである。

 

先制攻撃を仕掛けてやりたいが、万が一そのアクションに反応して、二層のように大量の敵が突如背後より現れた場合、彼らが最も被害を受ける。それだけは避けねばならぬと、警戒したまま前へと進む。

 

姿を一向に安定させない不定形の敵は、未だに敵意すら露わにせず、方針の方向性すら定かにしてくれない。不安を押し殺すようにして足を前に押し出し、ジリジリと距離を詰めていると、迷宮の何処よりか入り込んでくる暮色を帯びだした光が、背後の扉からすぐ眼前の足元の赤の空間の一部までを切り取り、占有している光景が視界の端に映る。

 

―――もう黄昏時が近い。敵の能力がいかなるものかは知らないが、夜の闇の中、戦闘手段も何もかもが不明な奴と戦う事だけは避けたい

 

また、未だに光の照らし出す空間の中にいた私は、この全身を温める暖気が緊張の糸を緩めてしまわぬうちに早く敵を仕留めないとならぬとも感じたのだろう、理性と感覚に急かされるようにして少しだけ進行速度を早める。

 

やがて私が赤色の空間を微かに侵食する茜色の光の領域より足を踏み出した途端、敵の体に変化が生じた。一定の周期を保って蠢いていた奴の体は、箍を外したかのように大きく波打ち、ふわりと重力に逆らって宙に浮くと、地面との距離をとりはじめた。浮き上がった奴の体は、元々の質量や密度などとは無関係に、色濃い体のまま、身体を膨れ上がらせてゆく。

 

―――さて、鬼が出るか、蛇が出でるか

 

出てくる可能性があるとすれば、十二の試練のうち、未だに制覇していない試練に登場する敵か魔物か。すなわち、鹿、アマゾネスの群れ、ラドンに、ケルベロス、そして。

 

ヒュドラか……! 」

 

巨大化した体は徐々に形を作ってゆく。グネグネと蠢く体からは、触手のようなものが伸びたかと思うと、やがてその先端よりは見覚えのある形へと変化してゆく。やがて直径三十メートルほどの大きさにまで膨れ上がった不定形生命体は、その波打つ頭部を九本も生やすと、その頭部に備え付けられた一対の瞳を全てこちらへと向け、その憎悪を露わにする。

 

―――よりにもよって、これが最初に出てくるとは……!

 

もちろんこの敵との遭遇を想定して対策に毒を無効化するアクセサリーを装備してきたが、果たしてヘラクレスの窮地を幾度となく救い、しかしその果てに彼や彼と親しい人間の命をたやすく奪い去った地上最強と名高い毒相手に、果たしてこの無毒化を謳うアイテムがどこまで効力を発揮してくれるかは、まるきり未知数である。

 

ともあれなるべく、毒をくらわぬよう相手をせねば―――

 

「―――、エミヤ! 」

「…………! 」

 

懸念の最中、切羽詰まったサガの叫び声を聞いて、不定形の奴より視線を外して即座に後ろを向く。振り向いた先にいたのは、黄金に輝く身体を持つ獣。軽やかな足取りで、しかしまっすぐ迫り来るその獣の姿に、私は見覚えがあった。

 

「鹿か!? 」

 

私は振り向き目に奴の姿が映った瞬間、その勢いのままにその場から離脱する。強化を施した肉体は迫り来る獣が繰り出す強烈な速度の体当たりを、すんでのところで回避する事を可能とした。寸前まで私のいた場所を黄金が通り過ぎてゆく。

 

かつてヘラクレスという大英雄が捕縛するのに一年の時をかけたというその鹿の脚力が生み出す速度は凄まじく、すれ違いざまの鹿が纏った金色の疾風の威力だけで地面は風に切り刻まれ、威力の証が深々と刻印された。奴の動作により生じた風圧が、空気と直に接する私の皮膚を、ヤスリがけでもするかのような粗雑さを伴って、乱暴に削り取ろうとする。比喩でなく、肌がひりつく感覚を覚えた。

 

―――サガの助言がなければ死んでいたかもしれん

 

私はサガに心中で礼を述べると、即座に体勢を立て直しと、助言をくれた彼へと向かって跳躍する。約二百メートルの距離を数歩の助走からの跳躍で零としたことに彼らは驚きを見せたが、すぐさまそのような些細に気を取られている場合ではないと思ったらしく、意識を敵の方へと集中してくれる。そんな彼らが見せる手練れの反応が、この場においてなによりも好ましく、そして頼もしいと感じる。

 

敬意に近いものを抱いた瞬間、背後より大きな音がした。扉が閉じられたのだ。そうして私たちは、いつものように、この閉鎖空間の中に閉じ込められる。此度目の前に現れた番人は、ヘラクレスの神話に基づく、不定形の魔物に、鹿。すなわち、ヒュドラと呼ばれる最強の毒と不死性を保有する化け物と、黄金の角と体、青銅の蹄を持つケリュネイアの五頭目の鹿だ。

 

―――まずは二つの試練が同時か

 

試練が五つ同時でなかったことに、私はひとまず安堵のため息を漏らした。

 

「すまん。警戒していたが、動きが早すぎて対処しきれなかった」

 

するとその吐息に反応して、ダリが視線を敵から離さず謝罪を送ってくる。おそらくは先のため息を、対処できなかった自身に対する抗議と受け取ったのだろう。彼はその実力とは裏腹に、多少自分の実力を低く見積もる癖がある。

 

石橋を叩く慎重を持ち合わせている人間特有の己を卑下する悪癖は私にも覚えがあるので文句は言いづらいが、こと目下戦闘の状況において、戦力の正確な判断が出来ていないのは死に繋がりかねない。だから私は、直せぬ我が振りに目を瞑る事に多少むず痒い感覚を抱きながらも、その思い違いを修正してやることにした。

 

「いや。あの速度での不意打ち、早々反応できるものではない。だが、敵の姿を捉えた状態である今、君になら防げると信じている」

 

同じく敵に目を向けたまま返すと、予想外の賞賛が照れくさかったのだろう、彼は少しばかり頬を赤らめて、しかし素直に受け取り、力強く頷いてみせた。思いのほか純情なところもあるのだな、と場違いながらも驚く。

 

加えて彼がそんな乙女の如く恥じらいを見せた事は初めてだったようで、周囲を見渡すと、サガ、響のみならず、ピエールという男までが、目の前で起きた理解不能の光景を必死に咀嚼してやろうと試みていた。人のことは言えぬが、皆、なんとも呑気なものである。

 

「――――――」

 

そうしてそんなやりとりをして隙を晒している最中、それでも私は警戒を怠っているわけではなく、こちらの油断に対して何かの反応をして見せれば即座に反応して見せる算段だったが、しかし眼前の二体の魔物は、こちらへの殺意を備え付けたまま動こうとしなかった。

 

敵もこちらの出方を観察しているのだろうか、金鹿の鋭い眼は、特に私とダリを捉えたまま放さずおり、また、ヒュドラの巨大な九つの頭部にお行儀よくはめ込まれた一対の眼球は、誰を視認しているのか分からぬほど透明さで、俯瞰の姿勢を保っている。

 

やつらと同じように、私が奴らの一挙手一投足に注目していると、やがて、丸いだけの不定形の体に九つの頭部を携えた透明な魔物から、不自然にも突然生じた紫煙がゆらゆらと漏れ出した。そうして空気中に放出された紫煙は、重力に従って下へと垂れ流されてゆく。

 

判ずるに空気よりも重いらしいその煙は、そのままゆっくりとした動作で空気を押しのけて地に落ちると、赤の地面と接触した瞬間、地面に生えた赤草をグズグズに溶かし、さらには土の地面すらも融解させた。混じった液体は煮沸したかのように波打ち、その液体の領域を広げてゆく。

 

その光景は私に、あれこそが伝説に名高い、全ての生物を触れただけで殺す猛毒、「ヒュドラの猛毒」であることを即座に理解させた。胸元のタリスマンを見る。胸元で怪しく光る宝石は、腕輪と合わせて一層に出現した蛇の毒を見事に無効化してくれたが、あの地面すら液状化させてしまいそうな毒液の前には無力であるかのように感じてしまう。

 

なるほど、この階層の地面だけ、時間が固定化されたかのような状態である理由は、あの毒が即座に地面を殺して迷宮を瓦解させないための処置かもしれぬと思いつく。

 

「気をつけろ……、ヒュドラの毒煙に触れれば、おそらくタダではすまない」

「さっき言ってた、なんでも死なせる猛毒ってやつか? 」

「ああ。一応、タリスマンを装備しているから煙に触れた程度なら大丈夫だと思うが、思い切り吸い込んだり、溜まった液体を一定量以上浴びると、その限りでない可能性が高い」

 

一同は、その言葉に視線を不定形の下に溜まる液体へと向けた。こうして対峙しているだけでも赤黒紫のマーブルは、紫の煙を表面張力で浮かせながら、その範囲を広げてゆく。

 

煙を放出するヒュドラは、その透明な体より伸びる全ての首の口先から大量の放出を行いながらも、身体の大きさを常に一定の大きさに保っていた。誰かが唾液を嚥下した音がやけに大きく聞こえてくる。

 

「なぁ、もしかして、このままこうしてると、まずいんじゃね? 」

 

サガの言葉に、確かにその通りだと思い至る。敵はどうやら呼吸をするかのように、あの紫の毒霧を無限に生み出せるらしい。ならばこのまま時間が経過した時、この部屋が毒霧に満たされた空間へと変貌するのだろう事は、容易に予測ができる。流石に地上最強の猛毒に満ちた空間の中で生きる自信があるほど、私は豪胆ではない。

 

「お前の話によると、ヒュドラってやつは、首を切った後、傷口を焼けばいいんだったよな」

「ああ。奴の首を切り落とすのは、私に任せておけ」

 

サガは籠手を展開させて、スキルの発動準備に入る。私は彼の動きを背中越しに感じて頷くと、弓と剣身体を戦闘の状態へと移行する。初めは宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグ」で奴を吹き飛ばそうと考えていたが、あの一秒ごとにその密度と量が増えてゆく毒の量を見てそんな気は失せてしまっていた。

 

確かに「偽・螺旋剣/カラドボルグ」なら奴の体を宝具で吹き飛ばす事もできる可能性は高いく容易いかもしれぬが、着弾直後、紫の煙や液を切り裂いた際に、奴の体ごと煙や液体が飛び散り、それらがこちらに風に流され飛来し、そして我々の体に侵入してしまうかもという可能性を考えると、易々と用いて良い手段でないように思えたのだ。

 

故に私は、今回、首だけを切り落とす手段として、宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する事とした。この一度放てば剣に籠められた魔力の続く限り敵を追い詰めて殺す剣ならば、奴の煙を避けて明後日の方向に放っても、九つ存在する全ての首を切り落とし続けてくれるだろうと考えた。

 

―――わけだが

 

敵はそうして、奴にとって不埒な行動を企む私を前にして、しかし未だ大きな動きを見せない。地上最強の猛毒を持つ獰猛なはずのヒュドラは九つの首を揺らして、泰然と不動を保ち、先程あれほどの速度を誇ったケリュネイアの金鹿もヒュドラから少し離れた場所を闊歩するだけで、積極的な攻撃姿勢は見せていない。

 

その静観。その傍観が、ひどく不気味に映る。本当にこのまま攻撃を仕掛けて良いものか。そんな不安が脳裏をよぎる。しかし記憶に残っている伝承を漁ってヒュドラの特徴を考えても、「首を切り落として、その傷口を焼く」「岩をもって核を封じる」以外に有効そうな手段を思いつくことができない。

 

ならばそうして、思いついた手を一つずつ試して有効打を探るのは相対する敵を打ち倒すには道理の手段なはずで、間違いなく正しい選択のはずである。にもかかわらずこうして戸惑うのは、おそらく、導き出された答えを正しいと知っているに由来するものであろう。一人だけが解答を知っているというのは、かくも間違えた場合の事を懸念する様になるものなのだ。

 

―――しかし随分とまぁ、臆病になったものだ

 

生死をかけた戦闘において不測の事態は当然、敵が能力を隠すのも、敵の能力が完全に把握できない状態で戦いを始めるのも常の事だ。そうして互いがカードを隠した状態で始める戦闘を尋常な勝負と表現するなら、情報量の天秤が片一方に傾いているこの状況など、卑怯千万の謂れを受けても反論できぬ状況だ。敵の情報が万全に揃っている戦いに一抹の不安を抱くというなら、もうそれは腑抜けと称するより他に呼びようがない臆病ぶりではないか。

 

―――は、この様が元は英霊と呼ばれる守護者の末路だというのだから、我ながら笑わせてくれる

 

心の裡に生じた臆病をあえて責め立て自身を奮い立たせると、あえて無駄に大きく一歩を踏み出しながら、動作の最中で流れるようにカーボン製の黒弓と宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する。

 

世に姿を表したその気性の荒さを象徴するかのような刺々しい金属板が打ち付けられた剣を、歩きの流れの動作の中で弓に番えると、私はやがて敵正面に向けていた体を横に構えなおして立ち止まり、弦を弾きながら弾となる刀身へ魔力を籠める。

 

刀身に流し込まれた赤銅色の魔力は、剣自身が持つ荒々しい赤の暴力と混じり合うと、その体より緋色の魔力を空気中に放出した。漏れ出した魔力は刀身と添えた手を辿って、剣の柄より赤の地面へとゆらゆら落ちてゆく。その様はまるで、存分に餌を与えられた素直でない猟犬が、しかし嬉しさを隠しきれず尾を振っているかのようだった。

 

そうして攻撃の準備を整える間も敵は動かない。奴がまるで動きを見せない異常は、不気味と感じる心に不安を煽り、平生の天秤を揺らす要素に拍車をかけ、鏃の狙いをぶれさせた。私はその臆病の表れの動作を無理やり押さえ込みながら、迷いを振り切るようにして、一度だけ視線を後ろへと送った。

 

「――――――」

「――――――」

 

彼らと視線が合う。サガはすでにスキルの準備を終えている。ダリは盾を構えて前傾姿勢になり、響はバッグの中に手を突っ込んで弄っている。やがて全員の準備が整ったことを察したピエールが、竪琴を鳴らすとともに大きく歌を吟じ始め、そして戦いは口火を切られた。

 

「さぁ、それではいきなり閉幕を宣言するのは恐縮でございますが、四層におけます戦いの最終章を始めましょう! 」

 

彼は、叫ぶとバードである己のフォーススキル「最終決戦の軍歌」を高らかに歌い出した。白魚の手の先にある弦タコにて硬くなった指が、弦楽器に負けはせぬと堅ながらもしなやかな糸を強く弾き、共鳴箱を通じて艶やかな、しかし荒々しい音を周囲に撒き散らす。

 

楽器の音色に乗って、ピエールは己の喉を大きく動かしながら声を張り上げて、勇ましい曲調に言葉を乗せ、周囲に流麗な音を濁流の如く散布した。そうしてあたりに渦巻いた音色は、混じったスキルと共に周囲の味方を体に飛び込むと力となり、私は己の身体能力が引き上げられるのを感じる。

 

強化の魔術を最大限施した上での補助に、肌の感覚は空気中を舞う埃の一粒すら感じるようになり、指先より剣へと流し込む魔力の量を、限界のさらに先の極限にまで詰め込むことを可能とした。ミクロン単位での魔力流入調整を施され、忍耐の限界に達していた宝具は、もはや我慢がならぬと解き放てと、私を急かしてくる。

 

私は吠える堪忍袋の小さな猟犬の要望を叶えるかのように、己の指という首輪から宝具を解放し、己が体に秘められた威力を存分に発揮しろと、その名を高らかに叫んでやる。

 

「赤原猟犬/フルンディング! 」

 

放たれる暴虐。途端、刃先にて風を切り裂いて一直線に敵へと向かう姿は、まさに卑しくも大きな牙を押し出しながら暴走する狂犬のそれを形にしたような荒れ狂う突進だった。魔力による身体強化の上にさらにスキルによる強化を乗せられた威力は、赤光の絵筆にて、不定形の敵との空気の間に一条の飛行機雲を描きながら飛翔する。

 

その速度はもはや音速を超え、彗星に等しくすら見えた。敵との距離は五百メートル。そう、たったの五百メートルしかない。今の赤原猟犬なら、瞬きを終える前に、彼我の距離を零にしてくれるだろう。その瞬間。その刹那。

 

魔力とスキルによる強化を施された眼球は、その一瞬にすら満たない時間の間に、不定形の生物と剣の間に、するりと入り込んでくる生物の存在を視認した。一秒を数千もの瞬間に分断した短い時の最中、最大限まで強化された瞳が捉えたそいつは、なんとも優美な動きで、空間引き裂き直進する魔剣のデッドラインへ軽々と身を晒す。

 

ケリュネイアの鹿がとったその所作のあまりの自然な優雅さに、私は一瞬その挙動を不信と思えず、秒を万に分断された意識の中に空隙を作ってしまった。呆然の直後、危険を察知して、あらん限り鳴りの警鐘が脳内に鳴り響く。

 

―――あれはまずい

 

奴の思惑は知らぬが、己の身をわざわざ暴虐の前に持ってきながら、しかし奴はまるでなんて事のないように振る舞う。死線に身を晒しながら、そんなつまらぬ些事、気にもしませんよと言わんばかりの、その態度の異常、その慮外の動作が、私の直感と戦闘経験に基づく心眼が最大限の警戒を訴える。

 

―――……、ならば

 

迷いは一瞬。しかし、剣が金鹿と接触しかける直前、奴がその優美な口元に浮かべた笑みを一切崩さない様を見て、私は即座に魔力が最大限に籠められたその剣をこの世から抹消させる事を決意する。

 

―――投影破棄……!

 

命令が光の速さで剣に伝わるが、猟犬が挙動を止めたのは、刃先が鹿の喉元に到達したのと同時だった。消去の意思を受け取り剣が消滅するまでの間に、待ての命令を遵守しきれなかった剣は、少しだけ鹿のその緩やかな曲線にて構成される喉元に直進し、そして吸い込まれるようにして刃先だけをめり込ませた……ように見えた。

 

その瞬間、私の喉元に違和感。強化された感覚の中、表皮が熱い熱気を感じ取ったかと思うと、ぷつり、皮膚が押されて裂かれた。そして、じく、と肉を割り異物が入り込む感覚がしたかと思うと、瞬間の間に甲状腺を割き、気管を割り、食堂までに到達する。

 

「……っ、かッ……、はッ……! 」

 

突如我が身を襲った理解不能の事象に対して、反射的に異常の起きた喉元を抑え、地面に両膝をつく。なにを言おうとしたわけでもないが、呼吸のために動かそうとした喉元は、閉じた場所をかき分けられた事を主張するかのように、ひゅう、と呼吸が気管より喉元に漏れた。

 

通常はありえない体内の血肉と皮膚と内臓器官に外気が触れる異常を察知した神経が、遅れて敏感に異常の信号を脳へと送る。ようやく訪れた鋭い痛みは、脳内の余計な悩みを払拭し、頭を一点の出来事に集中させる効力を持っていた。

 

「……、エミヤ!? 」

「おい、なんだよ!? 」

「エミヤさん!? 」

 

サガと響が叫ぶ声が聞こえる。答えてやろうと思ったが、隙間の出来た喉元は肉の割れ目より間抜けに空気を漏らす音をたてるばかりで、その後、蠕動し声を出し損なった痛みだけを訴えてくる。

 

筋繊維の動作により、切れた周囲の血管が時間の流れを取り戻して、喉元から大量の出血

生じた。血液は、気管と食堂を上に下にと蹂躙し、口内にまで登ってきた生暖かきが舌下と触れることで鉄の味を感じさせた。

 

そして逆流した流体の氾濫にむせ返ると、その挙動が一層、喉元の出血を促し、私は傷口、口腔、鼻から赤の色を漏らすこととなる。その様を見た瞬間、響は過剰なくらい敏に反応し、バッグの中で遊ばせていた片手を取り出すと、二つの瓶を私に向けて振りまいた。

 

彼女がもはや神速とも言える速度でヒステリックな反応によりばら撒かれたそれは、ネクタルと呼ばれる、気付けと造血、微かながら傷を塞ぐ効果を持った薬と、メディカと呼ばれる肉体の損失を補填し、再生を促す効能の薬である。

 

二つの薬剤は私の体に触れた途端、瞬間的に光の粒子になったかと思うと、傷口を塞ぎ、皮膚より浸透した成分は失った血液を補填し、アルコールに匂いで嗅覚を、ネクタルの名を冠する薬に相応しいような甘ったるさをもってして味覚を強烈に刺激し、気付けの効果を遺憾なく発揮し、同時にメディカが傷を元の通りに修復する。

 

「……、ハッ、ッァ、アァッ―――、カッ、グッ! 」

 

治癒の作業により、即座に正常な状態へと傷口が塞がってゆくという異常にむせ返りながらも、喉元を裂かれる攻撃にて意識までも侵食した不快の感覚は終わりつつあった。命の天秤が生の側に傾けてくれた存在に存分に感謝しつつ、私はしかし、その感謝の言葉を発せないほどに心中の坩堝で暴走する不快な感情を宥めるのに必死だった。

 

喉元を切り裂かれた直後、灼熱の痛みと共に訪れたのは、極寒の中に裸で投げ出されたような、寒いのに暑いという、矛盾に満ちた痛み。それは、全ての生物が必ず一度は経験する、根源的な感覚。沈んでしまえば二度とは戻れぬ、そんな抗えぬ闇に沈む感覚、私はたしかに何度か生前味わったことがある。なるほど。

 

―――そういえば、死の感覚とはこのようなものだったか

 

この世界においても命の危険を感じたことは幾度もあるし、命を賭して戦って来たことは数度ほどあるが、三途の川にて駄賃を渡す寸前まで行ってしまったのは初めてだ。

 

しかしそうして生身の体にて賽の河原に足までを踏み入れてしまった経験は、そのたった一瞬だけで、頑丈な体の内側までをも、冥界の魂が削れるような極寒の寒さをもってして私の心中に凍傷の火傷を残していったのだ。

 

呼吸をすると共に心に生じた余計を押しのけるべく、手で顔の下半分を拭い、体の正常を取り戻してやると、しかしそうして端に追いやろうとする動作が逆にその存在を強く認識させ、先程の感覚を改めて思い出してしまう。

 

喉元をさすると、死水を飲み込んだかのようななんとも気持ちの悪い生暖かさと、精神から来たのであろう冷たさが湧き上がってくる。体に纏わり付き、心中に残る熱を奪ってやろうとする冷たい死神の手を振り払うかのように、改めて強化の魔術を使用して全身に熱を発生させて、身体能力を向上させる。

 

そうして永遠の安楽に身を任せかける無様を晒したこの身に喝をいれて準備を整え、警戒の念とともに部屋の中央を見てやれば、ヒドラは未だにその場から動かず己の領域を拡大している最中だった。また、私を死の淵に追いやった金鹿は、その紫死毒に満たされつつある空間の内側で、しかし、平然とその優美な曲線美を見せつけながら闊歩を続けている。

 

「大丈夫ですか!? 」

「ああ……、助かった」

 

響に短く礼を述べると、立ち上がり、喉元を抑えていた手を解放して、常の戦闘態勢へと移行した。だらりと両手の力を抜いた体勢で敵の姿を見やるも、敵はこちらの戦意など知ったことかと言わんばかりに、悠々と赤の領域を紫で侵食している。

 

「な、なんだったんだ。どうしたってんだ、エミヤ!」

 

サガが混乱して喚き散らす。

 

「恐らく、鹿の反射だ」

「反射ぁ?」

 

私は敵を見据えながら、しかし一切の攻撃を仕掛けてこようとしない敵の余裕から、恐らく積極的な攻撃はないだろうと判断し、しかし油断しないように目線を奴らより切らないまま、淡々と記憶を述べる。

 

「十二の試練の伝承の一つに、アルテミスがケリュネイアの牝鹿を欲する場面がある。ヘラクレスという英雄が彼女の願いを受けてこの牝鹿を捕縛しようと試みるのだが、この鹿は狩猟の女神の力をもってしても捉えられないほど速く、また、傷つけられることを禁じられていた。おそらく、その伝承が転じて、己を傷つけようとする攻撃には須くの事象として反射を行う、という性質を持つようになったのだろう」

「なんだ、そのインチキ!」

 

籠手の中の発動直前のスキルを取りやめながら、サガが喚く。

 

「では、その伝承とやらで、彼はどのようにしてその試練を乗り越えたのだ? 」

 

理不尽に怒りを露わにするサガを押さえつけるようにして、彼の頭を抑えたダリが冷静に尋ねてくる。

 

「……、ヘラクレスは一年の時をかけて、鹿を疲れさせ、追い込み、捕縛した」

「――――――、奴の疲労を待つしかないというのか? 」

 

理不尽な現実から、結論を先読みしたダリは、それでも冷淡に絶望の事実を口にする。

 

「―――、分からん。傷さえつけなければ、あるいはいけるかもしれんが」

「わかった。―――、響」

 

ダリは言うと、ネクタルを使った後、近くで呆然と我々の話を聴講していた彼女へと声をかける。響はいきなり己の名が呼ばれたことで少し驚いた様子を見せたが、すぐに気を取直して、静かに返事を返した。

 

「はい 」

「聞いていたな? 状態異常や捕縛ならなんとかなるかもしれん……、いけるか? 」

 

短い言葉には、響という少女が己の意を読み取り的確な判断とともに返事を返してくれると言う、無言の信頼が込められているように感じられた。ここにきてダリという男は、ついに彼女を肩を並べて戦うに足る戦友として認めたのかもしれない。

 

「……、状態異常は無理です。ばら撒いたところで、あの紫の煙の広がる勢いに負けるでしょう。でも、糸を使えば、硬直ならあるいは……、けど―――」

「それが攻撃と認められなければ、か。どうだエミヤ」

 

言い淀んだ響の意思を汲み取ると、ダリは再びこちらを見て尋ねてくる。それでどうかと問う無言。私は彼女らの意見から導き出された結論を、私の記憶にある伝承と照らし合わせると、頷いて言う。

 

「鹿はヘラクレスによってを捕まえられた後、轡をかけられ女神の戦車を引く事になったという。ならば道具であっても、「拘束」「捕縛」という手段なら、あるいは有効かもしれん」

「ならそれでいこう。響。足を対象とした縺れ糸はいくつある? 」

「三個。それで打ち止めです。一回はフォーススキルで出来ますが、二つも同様にフォーススキルで使用するとなると、ちょっとだけ時間を稼いでもらうことになります」

「十分だ。ではそれでいこう」

 

ダリが話を纏めると、二人は合わせて頷き、ダリが私とサガ、ピエールに向かって宣言する。

 

「エミヤ。そういうわけだ、私たちが奴の足を止める。奴が足を止めた隙を狙って、君は首を叩き落とし、サガは超核熱の術式を叩き込んでくれ。ピエールは回避の補助を」

「よっしゃ、了解」

「了解しました」

 

サガは意気揚々と、ピエールは淡々と返すが、私はそんな彼らの選択に、彼の判断に一抹の不安を感じきれずに、質問を返した。

 

「……ダリ、一つ聞きたい」

「なんだ」

「響のフォーススキルを使って奴の対処を試みるのはいい。恐らく現時点では最良の手段だろう。だが、フォーススキルは一度使うと、二度目の発動に時間をかけなければならないという。ダリ。もし仮に、彼女が一度目の糸を外して、その後、こちらの意図に気がついて激昂して、その攻撃を反射する敵が、我々に襲いかかるという事態に陥った場合、全ての行動が反射する敵に対して、君はどう対処する気なのかね? 」

 

今彼が提案した作戦は、実行し目的を果たすまでの不慮のあれこれに目を瞑った、詰めの甘い、楽観の元に立てられたもので、冷静冷徹を信念とする彼らしくないと思えた。ダリは私の質問を真正面から受け止めると、静かに敵へと向き直した。

 

「決まっている。その場合は私が守りを受け持ち、時間を稼ぐために奴と対峙する。なにせ私はパラディンだからな。ギルドのメンバーを守るのは私の役割だ。何があろうと、どんな攻撃であろうと、絶対に君たちを守り切ってみせよう」

 

彼は当たり前のように断言する。迷いなきその言葉を発する彼の態度と言葉の裏には、シンを攻撃から守れず死なせてしまった己の無様な過去の行いに対して、必死に言い聞かせているような、精悍も裏側に悲嘆を混ぜた気配があるように感じられた。

 

それは、仲間を守りきってみせると宣言した男が、しかしその誓いを守りきれず、己の誇りを汚してしまったそんな自らなど認めぬとでもいうかのような、そんな懊悩より絞り出された決意のようだった。このままでは、恐らく彼は、そうして当たり前のように自分を投げ出して我々を守り、そして果てて行くだろう結末が眼に浮かぶ。

 

彼は生き急いでいる。いや、もしかしたら理屈やで理想が高く、完璧主義の傾向にある彼は、そうして自分の経歴に傷がついた事を嫌い、その汚点をかき消せるような誇り高き死を望んでいるのかもしれない。

 

その潔癖。その必死さ。己は己の信念以外を無駄として切り捨てる、その、頑固で、不器用で、病的で、馬鹿な男のあり方を、しかし私は決して否定する気にはなれなかった。

 

なぜならそれは、かつて私が辿ってきた旅路にて培った、自らは他人の気持ちを解せない異常者であると悩んだ事もある己の頑迷さによく似ていて―――

 

「……くっ」

 

思わず苦笑が漏れかけた。ダリはその漏れた声を聞いて不審げな、不機嫌そうな目線をこちらへと送ってくる。私はその不器用さに満ちた瞳を真正面から受け止めて、射返した。

 

「ダリ。君の覚悟は十分に理解した。だが、それはダメだ。恐らく君では奴の足は止めきれまい。あの反射に対応することはもちろん、おそらく気にも反射神経ではあの速度に反応しきる事が難しいだろう」

 

宣言。それに彼は不機嫌さを深め、しかし私の言葉に対する納得を、唇を噛む事で表現した。

 

パラディンの役目は守護だ。逃げる敵を追いかけ、追い込むことではない。ダリ。それは、弓を使い獣を追いかけるのは、レンジャーと呼ばれる職業の領分だ。そうだろう? 」

 

いうと彼はいかにも悔し気に目元を歪ませて、こちらを睨め付けてくる。

 

「ならば……ならば、どうしろというのだ!」

 

彼はここに来て初めて感情を露わに叫んだ。ピエールが感極まったかのように竪琴をかき鳴らす。恐らくその冷静を平生の態度とする彼が、憤怒と悔しいが混じった激情を発露するは私の前だけでなく、彼らの前でも初めてのものなのだろう。

 

「……私がやろう」

 

静かに宣言。迷いはもう消えていた。毅然と胸を張り、私は周囲の光景を眺めて言い切る。

 

「獲物を弓矢で追い詰めるのは、アーチャーの、この世界風にいうなら、レンジャーの役割だ。――――――私がやる。真の切り札を使用する」

 

切り札。その言葉は周囲の全てに影響を与え、時間を一瞬だけ停止させた。迫り来る紫の煙は行動を止めたかのようにその侵食をやめ、世界はまるで、十数秒先に待つ己の未来を予感するかのように、その身を震わせた。

 

「―――、固有結界を使う。久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

決断を覆さぬよう、はっきりと宣言する。

 

―――私は、この世界で、全ての手を明かす。

 

それは、私がついにこの世界に心の全てを晒し、自分自身と向き合う事を決めた瞬間だった。

 

 

「―――、固有結界を使う」

 

宣言とともに、周囲の温度が数度ほども下がった気がした。ただでさえ凍える寒さを秘めた環境は、まるで凍てつく吹雪の中にいるような肌を切るような、痛いほどの寒さへと変わる。周囲に降り積もる塵芥がまるで真なる氷雪であるかの様な、錯覚すら覚えた。

 

「久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

続く言葉には助けの手は出せないという意味と、だから私を守ってほしいとの信頼が込められている気がした。自然と両手に力が入る。私は全身が熱くなる感覚を覚えた。

 

「こゆうけっかい――― 」

 

サガが口をへの字に曲げながら首を傾げた。響も同様に少しだけ疑問の声を顔に浮かべている。私も同様の気持ちだった。違うのは、まだ知らぬ単語に胸を躍らせているのだろう、不謹慎にも目を輝かせているピエールだけだった。

 

先程も説明してくれたが、正直要領を得ることが出来なかったスキル。世界を心象風景で書き換えるとはどういうことなのか。質問をすると、彼は苦笑とともに、一目見ればわかるし、発動したからには必ず敵を倒せる手段だといっていた。

 

先程話を聞いた際には、正直なところ、眉唾に思う気持ちもあったが、今の彼の真剣な表情を見て、そんな不埒な思いは全て空気の中に霧散していった。

 

「そうだ、それは―――、む」

 

彼が言いかけた瞬間、今までまるで動きを見せなかった敵は、嘘のように凶暴さを露わにして暴れ出した。彼がヒドラと呼んだゼリーの亜種はその上部から生やした何本もの触手のような首を大きく悶えさせ、鹿はまるで落ち着きをなくして、ヒズメで地面を叩いている。

 

エミヤのたった一言の宣言は、敵を大いに慌てさせる効果を持っていた。おそらく、敵も言葉の意味は読みとれなくとも、彼がこれからやろうとしていることが自分たちに害なすものであることを読み取ったのだろう。彼が放った、たった一言が、そんな風に敵のみっともなさを表に引っ張り出したのを見て、私は決心する。

 

「エミヤ」

「ん? 」

「任せた」

「……、了解した」

 

最強の男から告げられた信頼の一言は、柄にもなく、冷徹を信条とする私の体を更に熱くした。信頼の想いを挨拶に短く乗せると、全員を庇えるように前に一歩進み出て、盾を構える。新迷宮一層の鉱石から作り出した薄い桃色の美盾「アイアス」を、敵の飛ばす混乱の意を拒絶するかのように私の前に差し出すと、敵はその行為に反応したかのように、攻撃を仕掛けてきた。

 

「――――――! 」

 

まず謎の足踏みにて地面を踏み荒らしていた鹿の姿がブレた。瞬間、危機を察知して、物理防御スキルを発動させようと試みる。敵の動きを察知していた私は、己の予測に従ってエミヤと鹿の直線上に身を捩じ込むと、

 

「パリ―――」

 

ング、といいかけて、盾ごと体が吹き飛んだ。左右の奥へと引っ込んでいた口角が変化する前に地面より離れた時の衝撃に、思わず奥歯ごと噛み締めると、すぐさま状況の把握に努める。

 

「――――――ッ……! 」

 

無様にも吹き飛んだ体は、天井を見上げていた。背中になんの感触もないことから、私は地面を背にした状態で浮いているのだなと判断。数旬後にくるだろう衝撃に備えて体から力を抜くと、予定通りにやってきたそれを盾を装着していない手を用いて受け流し、その手を使ってすぐさま立ち上がる。

 

自分の吹き飛ばされた方向から敵の位置を予想し、果たしてすぐさま敵を見つけると、敵はぶつかった瞬間に方向を変えて離脱でもしたのか、少しばかり離れた場所に佇んで、攻撃を仕掛けた私ではなく、私の後ろに自然体で立っているエミヤの方を向いていた。

 

「―――I am the born of my sword/体は剣で出来ている」

 

切り札というやつの準備だろう、エミヤが呪文を唱え出した。スキルとは似て非なる力が世界にむけて放たれる。直後、観察の視線を送っていた鹿が、その言葉を嫌ってか、狂ったかのようにその首を振って、地面を蹴り足踏みをした。

 

鹿に続けてヒュドラが首を伸ばして攻撃を仕掛けてくる。透明なより伸びた八つの首は、範囲外にいる私たちを攻撃するため三つの首を合体させてその長さを伸ばし、元のままの二つの首を待機させたまま、攻撃を仕掛けてくる。狙いはもちろん彼らを不快にさせている行動をとるエミヤだ。

 

「させん! パリング! 」

 

今度こそまともに叫んで、首の一つの前に立ち塞がる。幸いなことに、透明な奴の体の表面には、周囲の赤い土埃が白粉の如く塗りたくられていて、透明な姿の敵の輪郭をはっきりと認識させてくれる。

 

やがて、大きく開いた口の下唇が私の盾とぶつかり、攻撃を塞いでくれる。防御の感覚と共にひどい臭気が鼻をつく。物理の威力を完全に遮断してくれるスキルはその勢いを止めてくれ、タリスマンは毒の効力を無効化してくれたが、猛毒の効力を持った吐息の不快さまでは遮断してくれなかった。

 

吐息を避けてすぐさまその場から離脱すると、少しばかりつんのめった首の輪郭めがけて、響が薄緑色の刀を振り下ろした。それを確認して敵もすぐさま首を引っ込める。彼女の刀は奴の口から漏れた紫と赤の混じった空気だけを割いて緑の線が宙に描かれる。

 

敵が伸ばし引くその動作の最中、口から漏れた毒の吐息が、こちらとあちらの赤の空間に紫の線を引いては地面に落ちてゆく。落ちた地面は当然、奴の支配領域に成り代わっている。

 

その攻防の最中、もう一つの纏められた首はエミヤの方を向いていた。その首は目を瞑り詠唱するエミヤの方へと向かい直進する。

 

「させるかよ! 炎の術式! 」

 

奇しくも先の私と同種の台詞をサガが叫び、炎の術式を放った。最大限まで強化の施されている炎術は肥大化した頭すら飲み込む巨大な火炎球となり、敵の頭を包み込む。燃え上がった敵の頭は、火炎が敵の表面を焼くと共に、口腔に溜まった毒煙と反応して、微かな誘爆を引き起こす。

 

肌を焼く炎と口腔内の爆発に、ヒュドラの頭はエミヤとは違う方向にそれてゆく。エミヤは淡々と次の文言を告げる。彼は我々を信頼して、一歩もその場から動いていないようだった。その無言の信頼が、なんとも嬉しく感じられる。

 

「steel is my body,and fire is my blood./血潮は鉄で心は硝子」

 

仰け反ったヒュドラの頭が不気味に蠢いた。二つの纏まった頭はさらに一つにまとまり、視覚にすら凶暴さを訴えかけるほどにまで肥大する。百メートルはある天井を三往復は出来そうなその長く太い奴の口は、たとえパリングで攻撃を防いでも、毒液に満ちた口腔内が私たちを飲み込むだろうことを容易に予測させた。

 

「止まってくれたのなら、これで! 」

 

サガが核熱の術式を敵めがけて発動しようと試みる。鉄の籠手に収束した力が放たれた瞬間、鹿が動き、彼と敵との進路上へと割り込む。己の視線の先、ヒュドラへの攻撃を防ごうという目的だろう、悠然と割り込んできたその存在を見たサガは、心底悔しげに力の発動を止めた。無意味に浪費された熱が籠手から周囲に撒き散らされる。

 

「今なら !」

 

サガが苦慮の様子を見せた後、後ろに控えていた響が叫びながら飛び出した。サガの上空に向けての攻撃を受け止めるためだろう、跳躍した鹿は落下の最中である。

 

なるほど、敵の攻撃をその身を盾にして防ぐために緩やかな跳躍をして見せた鹿は、それ故に今、空中という逃げ場のない場所に全身を晒していた。その四肢が地を踏みしめ、先のような疾風の動きをするまでにはおよそ五秒程度はかかると見受けられる。その間を狙って捕縛を試みようというわけだ。

 

鹿の落下予測地点めがけて、響が進路上に縺れ糸を解き、道具の力を解放し、投げた。この瞬間にフォーススキルを使わなかったのは、鹿の反応の機敏さの咄嗟がすぎて、肉体と精神が反応しきれなかったのだろう。

 

そうして彼女が利用したことで当たれば確実に敵の足止めを効力を持つに至った糸は、緩やかな放物線を描いて進んだかと思うと、見事に鹿の落下方向と重なった場所へ落ちて、その糸を上空より落ちてくる鹿へとその身を伸ばした。

 

しかし、その糸は、今しがた鹿が庇ったヒュドラの太い首が、今度は鹿を庇うようにして割り込み、その巨大な頭部を以ってして攻撃を防ぐ。糸は敵に触れた途端、響の意図とは違う敵を対象として捉え、ヒュドラのその不定形の下部、およそ足とは言えるものが存在しない場所に巻きつき、そして毒に染まって紫になる。

 

毒に染まった繊維糸はすぐさま解れて溶けて消えてゆく。巨大すぎる敵の体躯を前に、縺れ糸は効力を発揮しきれなかったのだ。とはいえ、効力も何も、そもそもあの敵は動かないので足を捉えたところで無意味に等しいだろうが。

 

「響! 無駄撃ちはやめろ! 」

「ご、ごめんなさい」

 

サガが珍しく、味方に苛つきを露わにして叫んだ。三発中の一発を無駄にするというのは、たしかにこの状況下においては、大きな失態である。その自覚があるのだろう、響は恐縮して身を縮こめた。

 

「いや、いい。今ので、時間は稼げた」

 

私が彼女を庇う言葉をかけると、それはよほど彼らにとって予想外だったのか、ひどく驚いて見せて、呆気にとられた顔をした。確かに今までの私なら、サガ同様、ミスを責めていたかもしれない。

 

私はエミヤという男の傍で彼を観察し続けることで、多少の人らしい心というものを手に入れたのかもしれないな、と我ながらくだらない事を考えた。とはいえ、そんな私の事情など知らぬだろう、彼らが戸惑いの反応を見せるのは当然だと思うし、彼らの驚愕を意外と思わなかったので、私はあえて無視して続けた。

 

「エミヤがなんとかするといったのだ。私たちは彼が切り札とやらを使うまでの時間を稼げれば良い。最悪一つとフォーススキルが使える状態であれば、何があろうと、彼と私たちでなんとかすることができるだろう」

 

危機に近い状況でも冷静に全体を見渡して、しかし多少楽観の入った戦況予測を行うと、二人は真剣な表情の中にも多少の弛緩を含んだ表情で私の方を見やってくる。

 

お堅い人間の口から出た、なんとかなる、という言葉は緊張の空気を和らげてくれる効果を持っているようだった。私はそんな新たな発見を喜ぶとともに頷き、自らが話題に俎上させた人物の方を見やる。

 

「I have created over a thousand blades./幾たびの戦場を超えて不敗」

 

彼の詠唱はその間も続いている。意味のわからない言葉には、しかし、己に対する自戒と決意が込められているようだった。瞑目したその端正な顔の裏では一体いかなる思考が渦巻いているのだろうか。いや、いい。今は―――

 

「響、やり方を変える。まずはあのデカブツの頭を縛ってくれ」

「―――、はい」

 

ヒュドラの巨大化した頭部の上に降り立った鹿は、地面に降り立つと、再び地を蹴り突撃の準備をする。その真っ直ぐな敵意は、当然のようにエミヤの方へと向いていた。

 

「彼への攻撃を防ぐ。そのための足止めが最優先だ。ピエール。私たちの行動速度を上げろ」

「仰せの通りに」

 

ピエールがスキルを使用する。軽快な音調により吟じられた歌は、私たちの反応速度と神経を強化して、敵の速度に鹿の速度と私たちの速度が僅かながら近くなる。

 

「――――――! 」

「くるぞ! 」

 

ヒュドラが地に置いていた頭部をのたりと微かに持ちあげて、咆哮した。透明な体を持つ敵の眼球があるあたりから睥睨の視線が送られ、憎悪の意図が我々に向けられたと感じる。地面を這っている敵は、しかしその巨体さ故に、顔面を構成する要素の全ての位置は高く、我らよりも高い場所より口腔より毒液が飛び散った。

 

すでに敵の体を中心として三百メートルほどにまで広がったそれは、間違いなく引き込まれたのなら、即座に絶命してしまいそうな禍々しい気配を漂わせている。なるほど、エミヤが言っていた、世界の全てを溶かす毒液というのはあながち誇大広告ではないのだろうと直感する。見る間に広がる敵固有の領域。

 

「Unknown to Death./ただ一度の敗走もなく」

 

その死毒の領域を切り裂くかのようにエミヤの宣言が続く。己が神聖な領分を不快にも侵された敵は、その事実に怒り狂ったかのようにして、巨大な首を彼に伸ばして排除を試みた。

 

そうして部屋の天井を打ち破らんとばかりの大きさにまで巨大化した首は、もはや己の筋力では天高く持ち上げることも叶わないのか、奴は蛇が這い迫るかのように頭部を地面に数度も打ちつけながら、攻撃を仕掛けてくる。頭部の持つ巨大という概念があまりにも肥大化しすぎていて、一見して、防ぐことが不可能だと感じられてしまう。

 

「今度こそ! 」

 

そんな大なる敵の進行方向に、ピエールの歌と装備品によって身体能力と速度を強化されている響が真っ先に躍り出た。彼女は再びバッグから縺れ糸を取り出すと、解いてその進行方向に投げる。鹿は響の上げた声に一瞬反応を見せたが、援護の動きを見せなかった。

 

ヒュドラの巨大な頭の上にてそのつぶらな瞳は、一瞬だけ眼下のヒュドラの巨大な頭に視線を落とすと、忌々しげに目線を細めた。鹿の視線をヒュドラの巨体を貫通させたその先では、響という少女が攻撃体制に入っている。

 

恐らく今奴は、援護に入れないが故に不快を発露したのだろうと私は推測した。おそらく今しがた、鹿は先と同じようにして援護に入ろうと考え、しかしその直線上にある味方の巨体が邪魔をしていて援護に入り込めない事を悟り、味方のその愚行に腹を立てつつ、こちらのとった行動の小賢しきを不快に思ったのだ。

 

なるほど、その味方の動きが邪魔で援護に入れないという悩みはよくわかるとも。皮肉な事に、私も盾役だ。憎きはずの敵に不思議な共感を覚えると、自然、敵の動きから、私はさらに、鹿という存在がその速度を発揮し己が身を反射の盾として捩じ込むには、攻撃のする対象とされる対象の間に一定距離がある場合のみであると推測できた。

 

加えて一度その動きをした後は、何秒間かの間隔が必要であるとも予測できる。でなければ、奴が、ああも不安定な動く巨体という足場の上で待機している理由が見つからないからだ。

 

そうして鹿の邪魔を受けずに済んだ響の糸は、ここにきてようやくその威力を正しく意図通りに発揮する。敵の頭部に触れた糸は、すぐさま効力を発揮して、その巨大な頭に巻きついてゆく。瞬間的に大きく開いた口が閉じられて、頭部の進行の勢いが多少衰えた。

 

「Nor known to Life./ただの一度も理解されない」

 

だが、そうして縛して封じられたのは頭部が以降数秒動く事であり、それ以前に蓄えられていた奴の保有する運動量は多少の減衰を見せながらもその威力を発揮して、敵の巨体はこちらへと迫り来る。その様に、私は旧迷宮四層の番人、巨大怪鳥の突撃を幻視した。

 

「パリング! 」

 

慌ててすぐさま彼女の首根っこ引っ張って後ろに放ると、前に踊り出て、スキルを発動する。アイギスの盾の前に、薄い膜がはられ、直後、激突。口元を窄めた奴の巨大な唇が、女神の顔を嬲るように接吻をした。激突の運動量をスキルが消滅させ、巨体が眼前にて静止する。

 

盾が唇の間から、紫の煙が漏れる腐臭が漂う。同時に、ふれた場所から縺れ糸が撓み始めた。巨体に巻きついた糸の効力はすでに切れかけている事に気が付ける。仮にこの巨体がこの状態からでも動くというのなら、正直、止める手立てがない。

 

口が開き舌にでも巻き取られたら、その時点で終了だ。いや、そんな手間をかけずとも、軽く呼吸をするだけで呑み込まれるかもしれん。かといって味方が後ろにいるこの状況、盾を引いて一度体勢を立て直すのも難しい。こうして逡巡する間に鹿もやってくるかもしれん。

 

「―――どけ、ダリ! 」

 

どうする、と難問の選択を迫られ悩んでいると、眩い光が身体の背後より横を駆け抜けて、頼もしい声と共に私の懊悩をごと切り裂いた。

 

「サガ! 」

「へっ、へ、こっちからなら効くんだろうぉ! 」

 

どうやらサガも鹿の特性を見抜いていたらしく、彼はヒュドラの巨大な頭部を中心として、奴の頭上に乗る鹿と対角線になるよう位置を確保すると、先程不発に終わった核熱の術式を籠手より放っていた。私はその熱線が奴に直撃する寸前で響を抱えて離脱する。

 

直後、白光の柱が赤の空間を割いて、敵の巨大な顔の上半分を飲み込む。その際、生じた光はその場の全てに眩暈を生じさせるほど輝いて見せて、直後、爆裂。

 

「――――――! 」

 

火の術式とは違い、核熱の術式は対象と接触した瞬間、熱量を加速度的に増やして、周囲の目に見えぬ塵芥と反応し、大爆発を起こす。後方から続く光が連鎖的に反応を生み、サガに言わせれば、品のない爆発がその透明な皮膚を焼き、抉り、その内部を焦がして、ヒュドラは初めて苦しそうに身を悶えさせた。

 

「Have withstood pain to create many weapons./彼の者は常に独り、剣の丘にて勝利に酔う」

 

傷を負ったヒュドラは巨体を無理やり動かして鎌首をもたれさせると光の範囲外から離れたのを見て、サガはすぐさま術式の発動を取りやめて、放出していた光を消す。

 

照射し続ければいつまでもどこまでも爆発を起こし続ける光は、発動し続けるにはあまりに消耗が大きく、また、そうして連鎖する爆発によって生まれる土煙は視界を妨げる要因となり、巨大な敵との継戦の際には特に不利となる場合が多いからだ。

 

「―――がぁ! 」

 

そうして攻撃をやめたサガは、しかしいきなり苦痛の声を大きくあげた。苦しみ悶えるその声に驚き視線をむけると、彼の服は一切傷ついていないにもかかわらず、その体表の大部分が爛れて倒れ込んでいた。その現象に、私は心当たりがあった。すぐさま振り向いて、現象を引き起こした下手人の方を向く。

 

すると、収まりつつある灰色の煙の中から、予想通り、傷一つない鹿が現れた。風を纏いて煙を掻っ捌いて現れた鹿は、しかしその美しき金色の毛皮に灰一粒もなく、火傷の一つも負っていない存在しない状態である。おそらく、サガの起こしたその爆発の余波の炎熱を攻撃として認識し、反射という行動の糧としたのだ。

 

「サガ! 」

 

彼の悲鳴により異常を知覚した響が手に持っていた薄緑色の剣を投げ出して、慌てて叫びながらメディカⅲを使用した。瞬間的に普段より眩い大量の光の粒子が彼の体を覆い、次の瞬間には、サガの体を元の状態に戻す。サガは、すぐさま現状を認識したらしく、その負けん気を十二分に発揮して起き上がると、響に礼を言って、前を向く。

 

「ピエール、属性防御」

 

私の指示に、返事もなく、ピエールが属性防御の歌、聖なる守護の舞曲を歌う。体の皮膚を鈍色の物理防御壁と、赤青黄の三つの混合が、しかし混じり合わないまま我々の体を覆い、優しく包み込む。

 

あの反射の仕組みが如何なるものかは知らないし、核熱の術式は無色の力故、やつに直撃し反射された場合はその限り出ないだろうが、少なくとも余波による炎熱の傷や細かい傷はこれで多少軽減できるはずだ。

 

二の轍は踏んでやる気はない。

 

やがてサガの起こした爆発の煙が収まる事、ヒュドラは、その透明な双眸に、しかし怒りの感情を確かに携えながら、こちらを睥睨して、大きく咆哮した。巨大な身を大きく揺るがしての蠕動は、発生というよりも、衝撃波に近いものとなり、周囲の全てにその憤怒を分け与えた。壁に揺籃された大地と空気が撹拌され、肌と足元より奴の憎悪が伝わってくる。

 

そうして怒りに身を震えさせる奴は恐るべき事に、サガがつけた核熱と余波の傷の大半を再生していた。天地を揺るがす咆哮とともに、敵の毒領域が一気に広がる。もはや我らの五十メートル先の足元までが死の色に染まっていた。

 

「エミヤ、まだか! 」

 

サガが叫んだ。焦燥の声を聞いて、エミヤはしかし何も答えず、瞑目したまま続ける。

 

「Yet,those hands will never hold anything./故に、その生涯に意味はなく」

 

詠唱を続ける彼に焦燥の様子はない。彼は外界からの情報を完全に断ち切っていた。己という強敵との戦闘中、その存在をまるきり無視して己の内面に立ち篭る彼のその姿に腹を立てたのか、ヒュドラがエミヤに現実を教えてやろうかとするかのように、巨大な頭部を振り下ろした。口の端から漏れる毒の領域が宙までを侵し、尾を引きながら、彼に迫る。

 

同時に、着地し硬直の様子を見せていたのだろう鹿がその縛りから解き放たれ、四肢で地面を軽く蹴ってみせた。脚線美に満ちた細い四つ足が伸びるその先の胴体では、すでに筋繊維が隆起しており、力がこめられているのが理解できる。

 

「エミヤさん! 」

 

次に瞬きした間、敵はエミヤに向かって殺意を叩きつけるだろうその絶体絶命の危機を感じ取った響が叫ぶ。掠れるほど大なる悲鳴が響いたと思った次の瞬間、敵二体の意思が結果に反映されるその前に、彼はもう一節の言葉を発声した。

 

「So as I pray,unlimited blades works./その体は、きっと剣で出来ていた」

 

エミヤが呼応するかのように宣言。そして赤い牡丹雪と紫毒雨の降る、龍が吼え、金鹿駆け回る、死の気配に満ちた世界は一瞬にして瓦解し、新たな光景へと変貌した。

 

 

茜色の空。地平の彼方に浮かぶ巨大な歯車。世界の端まで続く剣の突き立つ荒野。他人の正義と願いを抱えてに、ただただ無意味に生涯を走り抜けた、贋作たる英霊エミヤと言う存在のもつ、唯一真作と呼べる、しかし皮肉の象徴のような宝具。

 

禁忌の大魔術、固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。

 

地面に突き立つ剣は、その全てが、私が生涯において一目見た際、この世界に登録され生まれ落ちた贋作に過ぎず、しかしこの世界においては真作に等しい存在である。

 

とはいえ、ただ剣を登録し贋作を生み出すだけなら、ただただ剣を無限にコピーし保管する世界を作り上げるというに過ぎなかったチンケで大業なだけの魔術は、生前と死後、私が、多くの英霊が集う神話世界をも含む戦場を渡り歩いてきたことで、聖剣、宝剣、魔剣等の、かつての人間世界におけるほぼ全ての伝説の武器を内包する、まさに大魔術と呼ぶにふさわしい奇跡となっていた。

 

しかして、世界を己の心象風景にて書き変える大魔術を、その、かつての世界に生きた多くの人の願いが込められた希望と絶望の力を借り受けて贋作として再現し、宝具本来の所有者当人すら、真なるものと勘違いせしめるほどの再現をして見せる、いかにも他人の想いを借りなければ所詮は空っぽの自らの心を見せ付けなければならないこの不遜な大魔術を、私は好ましく思っていない。

 

だからこそ、出し渋っていたわけだがともあれ、己の心象風景にて世界の一定範囲を書き換える魔術は、「異邦人」の全員と敵意を露わにする番人、その全てを飲み込んでいた。己の変化無き事の象徴を無言で眺めていると、空間に満ちる威と圧に呑まれたかのように、全員が動きを止めている事に気が付ける。

 

さて、何を思っているのかは知らないが、そんな彼らには目もくれず、私はただ、久方ぶりに使用した己の世界を、ようやく自らの目で見渡した。瞼を開ければ、以前と変わらぬ景色が広がるこの心象世界を見て、私は落胆する。

 

―――ああ

 

変わらない。変わろうと決心しようが、負の感情を食われようが、知人の死に立ち会おうが、世界の真相を知ろうが、この光景は今も昔も何一つ変わっていない。

 

生の気配がまるでない生命の変化を拒むかのごとき一面枯れ果てた野も、荒野に犠牲にしてきた人を偲ぶ墓標の如く並ぶ剣群も、正義の味方になりきれず、されとて諦めきれない慚愧の境地にあることを示すかのような後悔色の黄昏空も、その空の中で必死に正義の味方として寸分狂い無く行動する機械たらんとの心がけを象徴するような歯車も、何一つ、昔のままだ。

 

―――ああ……、どんなに変化の決意をしても、やはりまるで、この風景は変わらない

 

残念の言葉を内心にて呟くとともに、周囲を一瞥して静かに目を閉じた。胸に到来する無念と寂寞と荒涼の思いに呼応して、荒野に一つの疾風が吹き抜ける。風に含まれる微熱の正体は、おそらく諦めきれない情念の証だろう。

 

感傷は一瞬。胸の裡に生じた切なきを薄れさせるかの如く大きく息を吸い込むと、到来した風に載せるかのようにして思いごと世界に言葉を生む。

 

「―――、これが私のもつ切り札。固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。己の心象風景であるこの世界において、私は文字通り、世界の支配者となる」

 

宣言に意味はない。詳しく説明してやる義理もない。ただ、これから死出の旅路に向かう敵に対して、己にトドメをさす魔術の名前くらいは教えてやってもいいかな、と思ったが故の、発言だった。

 

「――――――」

 

無言で片手をあげる。呼応して荒野より数百本もの剣が宙に浮かび、ヒュドラとケリュネイアの鹿の周囲だけが空白となる。地面より姿を表した刀身には、けれど土に塗れておらず、全ての刃先にも刀身にも、一切の曇りが見当たらない。そうして磨き上げられた裸身を晒す剣の群れは、次の命令を待って、宙に浮いていた。

 

「―――さて」

 

告げる。そのたった一言で、二匹の獣は止まっていた時を取り戻した。ヒュドラは首を振り下ろし、鹿は今度こそ力を発揮せんと、もう一度四肢に力を込めようと前傾姿勢を取ろうとする。恐らくは体当たりにてこの世界の主人たる私をぶちのめそうという魂胆だろう。

 

「―――では始めようか」

 

だが当然させない。私は瞬時に世界へと号令をかけて、鹿の周囲に棒を生み出す。柄なく反りなく刃なく。地面より逆しまに生えてきた単なる直線的な棒は、敵を傷つけることを目的としない、単なる棒切れであり、だからこそ、この場面においてはとても有効だ。

 

「――――――! 」

 

その棒切れを鹿の周囲に寸分なく配置する。単に囲いを作るのではなく、その優美な四肢の足元より一切の挙動を封じるべくグルグルと一部を体に沿わせ、その上で棒の側面を地面に差し込んだまま生み出し、体の線を覆ってゆく。一瞬の時すら経過しない間に、敵は棒により全身を固定されて、針金細工のような有様となった。

 

「いかに素晴らしい挙動と反射能力があろうが、マイクロ単位で挙動を制限してやれば、その身体能力は生かしきれまい」

 

敵はそれでも動こうと、体にぴったりと張り付く檻の中で、足掻き出す。鹿の皮膚が針金を押すたび、私の体において該当しているのだろう箇所が押されたむず痒き感覚を覚えるが、それだけだった。全身のどこかが常に押されるだけの感覚など、こそばゆいばかりでまるで脅威などではない。

 

―――ふむ?

 

と思ったのもつかの間、身体中のこそばゆさが瞬時に消えてゆく。棒に囲まれた内部の気配を探ってみれば、鹿の姿は跡形もなく消えて消滅していた。私は瞬時に理解する。

 

―――なるほど、捕縛されれば消える、か

 

どうやら鹿は、伝承の通り、一度捉えてしまえば、その無敵に近い能力を喪失し消滅するようだった。魔術もスキルも、基本は等価交換だ。さてはその不傷の伝承を再現しようとしたあまり、そうした己の不利になる特性まで再現せざるを得なかったのだろうと予測する。

 

そうして消えた奴の行き先が、果たしてアルテミスのもとなのか、はたまた魔のモノと呼ばれる存在のもとなのかは知らないが、一つの厄介ごとを消してまずは一息ついた。

 

―――これで鹿は無効化できた。後は……

 

見渡すと、鹿とともに時間を取り戻したヒュドラは、鹿が消える予想外に呆然としたのか、巨体の動きを止めていた。味方の消滅にしかし気を取り直した奴がもう一度その巨体を振りかぶると、その大なる首を振り下ろす。私はその透明な巨鉄槌をゆるりと見上げると、紫の死毒を口の端より尾を引かせながら迫る敵の重撃を、宙に出現させていた剣で迎撃した。

 

「――――――! 」

「チェックだ」

 

宙より射出された数百の剣が一つとなった敵の喉腹に突き刺さり、ヒュドラの首はその巨体が空中で動きを止めた。巨体の持つ質と重き質量の単体は、無数の剣群が持つ軽き軽量の群れと激突し、そこに秘められた正負のスカラー量の天秤が釣り合った結果である。

 

透明を貫いて体内に減り込んだ剣によりその場に縫いとめられた龍は、しかし攻撃を諦めず、力を込めた。突き刺さった停止の状態は解除され、敵の持つ力と位置エネルギーを伴った大質量の攻撃が頭上より降り注ごうとする。

 

その足掻きを、再び空中に出現させた多量の剣の突撃により防いで見せると、敵の堅牢な皮膚の防御を突き破った場所から紫色の毒液が空中より垂れ落ちた。遅れて、赤い血液が紫に混じって、紫檀色の液体が地面に滴れる。いかなる原理なのかは知らんが、向こう側すら見通せる体内のその中にはきちんと内臓や器官があるようだった。

 

ついでのように、傷口の一部から炎が漏れて、敵が自らの攻撃にて己の体内を焼いたのを見て、おそらく目の前の奴がラドンと呼ばれる怪物の特性も備えていると推測する。先の予測が正しければ、ヒュドラは炎に弱くなくてはならない。それを覆すために、おそらくラドンの特性を混ぜたのだ。

 

とはいえ、血縁の結びつきがあろうと、弱点を打ち消すにはヒュドラという規格外の力が優れすぎていて、せいぜい外皮に耐火の能力を有するのが限界だったのだろう。

 

ともあれ、この場にてやつが炎を用いなかったのは、周囲に散る細かい粉塵に反応して爆発が生じ、己が攻撃により体内より焼かれるのを恐れたのか、あるいはその広がる火炎と爆発の威力が鹿の反射により己が身へと降りかかり、自身が傷つくのを恐れたのかは知らんが、とにかくその透明の向こう側に、やはり中身があると言うのなら、話は早い。

 

「―――後、数手か」

 

勝利までの手筋の数を見直して、右手を振り上げる。ヒュドラの周辺の中空に再び現れる剣群は、その群れた剣の全ての刀身が、敵を切り殺すに最も適した、いわゆる西洋剣の太くたくましい形をしていた。伝承によれば、ヒュドラは全ての首を叩き落としてその傷口を焼いた後、不老不死の核となる部分に岩を乗せたことで退治されたと言う。

 

―――ならば、まずは素っ首を叩き落としてやるのが順当と言うものだろう

 

「―――」

 

無言で手刀を振り下ろすと、浮いた剣が宙を進軍。空を裂き、透明な首の背から侵入を果たした無機物たる剣は、全ての生物を殺すと称される毒など気にも止めず、血も肉も骨も神経も、その毒を発する器官を断ち切って、喉元に突き刺さった剣とかち合いながら反対側へと抜けてゆく。

 

「―――、――――――、―――、――――――――! 」

 

ヒュドラは喉元に異物が入り込んでくるその違和感に悶え、絶え絶えに息と悲鳴と毒と血液を撒き散らしながらその痛みから逃れようとして長い首に力を込めて動かそうとするが、しかし全方向より飛びかかってくる剣の群にて宙に動きを固定されてまともに動けない。

 

そんな奴の苦痛を逃れる逃避の願いを込めた行動は、その真摯の悲願とは裏腹に、己の肉が削れて死地への邁進を促す手助けとなってしまう。奴の透明な顔に、初めて絶望の色が塗りたくられたのが見えた。

 

「―――、―――」

 

そうして十秒ほどもそうして首元へ死刑執行ためにの鋭い刃を叩きつけていると、千切れつつあった肉が己が巨体の重さを支えきれなくなり、自然と首が大きく二分されてゆく。千切れた肉の破片とともに荒野の地面へと落ちる寸前になったのを見て、私は悟った。

 

―――これでチェックメイト

 

「サガ! 」

「――――――、え」

 

声を上げると、呆けた声が返ってきた。戦闘の最中であるのに、あまりにも気の抜けたその声に思わず視線を向けると、逃げの体勢を取ったまま固まっている彼と目があった。その弛緩具合から察するに、どうやら彼はこの世界が姿を現した時から、ただただ呆けていたらしかった。

 

「奴の首が落ちる! 直後、露わになる傷口に向けてフォーススキルをぶち込め! 」

「あ、ああ! 」

 

指示を出すと、さすがは一流の冒険者、呆けていたサガはすぐさま意識を正しく取り戻して、己の体内にて溜め込んでいた力を解放するべく、機械籠手を展開させて準備を始める。

 

籠手の外装が剥がれて露わになった内装の、その展開した円扇より伸びた五指の線が交わる場所に白光玉が生まれ、その大きさを増してゆく。準備にかかる時間はおよそ十秒と言っていた。ならばその間に、最後の一仕事の準備を終えておかねばならない。

 

「―――」

 

もはや呪文の詠唱など必要ない。己の心象たるこの世界では、私が思うだけでこの世界に在る全ての武器は我が意のままに操れる。そうして思った瞬間、現れたのは、使い慣れたいつものカーボン製の黒塗り洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」、だ。

 

私は矢を弓に番えると、鏃の狙いを定めるべく、正面を向きなおす。

 

「―――! 」

 

すると敵の瞳が私を捉えた。その透明な瞳には、予定外の事態を驚く気持ちと、自らをこんな目に合わせる敵に対する憎悪とが綯い交ぜにした気持ちが如実に現れていた。

 

―――はっ

 

「許さんときたか。いや、全く、さすがは最もヘラクレスの生涯に深く関与した獣は、プライドが高い。いや、その誇り高さ、見習いたいくらいだよ、全く」

 

吐き捨てると、敵の視線が強まる。その末期の一瞥を見届けると、敵の首は剣が待ち針の如く刺さった部分から見事に折れて地面へと落下を開始する。伝承によれば、ヒュドラは首を落とした後傷口を焼き、そして核となる部分を巨岩の下に敷く事で、無力化できるという。

 

―――だから

 

「サガ! 」

「おう! くらえ、超核熱の術式! 」

 

サガの咆哮共に、彼の手の前で直径一メートルほどにもなっていた球の形が崩れる。楕円はやがて潰れて生まれた平面より白柱を放出して、直進した光線が瞬時にヒュドラの体を包み込む。破壊の力を浴びた透明な肉を形作る液体は、瞬時のうちに反応し己の体を焼くエネルギーとなり、次の瞬間には蒸発してゆく。

 

落ちた首の断面の毒と液体とが熱によって焼成と気化とを繰り返し、灰と紫色の噴煙を周囲に撒き散らした。やがて十秒ほどしてサガのフォーススキルがその発動を終え、それにより引き起こされた毒々しい二色の煙が消えた時、渦巻く煙の隙間に、透明な敵の体の中に、核と思わしき物体が微かに目に映る。その一瞬で十分だった。

 

―――これでトドメだ

 

「―――偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ! 」

 

固有結界を解除すると同時に、過去、いつか時、墓地で大英雄の命を一つ屠った一撃をヒュドラの頭上めがけて放つ。手持ちの武器の中で最も貫通力の在るその改良型宝具は、竜巻の如き暴威周囲に振りまいて煙を引き裂いて突き進むと、迷宮の天井へと侵入した。

 

宝具により天井の削岩が進み、時の止まったような状態の砂土に減り込んで行く。刹那ののちに十分を認識すると、同時に放った幻想めがけてその威力の発散を命じた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

天井に穿たれた点より、噴煙が吹き出る。直後、点より広がった線が歪な円の亀裂が生じさせ、点と点がぶつかり合った瞬間、空間の断裂は時間にまで影響を及ぼして、平らなはずの天井の一部に段差が生じた。

 

「――――――! 」

 

もはや肉体の異常を感じ取れぬはずの断たれたヒュドラの首が、そのあり得ぬ光景を見て吠える。繋がっていない肉体の末路を拒んでの咆哮は、雄叫びを上げ続ける空気が足りず、すぐさま無音となり、音の発する機能を失った喉元は無意味に蠕動するだけの肉の塊に成り果てた。

 

「―――、くるぞ、備えろ!」

 

私は直後の光景を想定して、皆に注意を促した。一様に唖然とした顔を見せる一同の中で、すぐさま反応してみせたのは、ダリだ。彼はすぐさま私の叫んだ言葉の意味を理解したらしく、慌てて盾を前に構えてくれた。素晴らしい反応だ。

 

直後、天井に生じた段差はすぐさま大なるものへとなり、切り取られた大地、すなわち巨岩塊が重力の勢いを味方につけ、宙に浮いていたヒュドラの体とあっという間に接触すると、その巨体で敵を押しつぶさんと下の大地へ向かい、そして噴煙切り裂き落着した。

 

「―――ッ、大河を堰き止めるに相応の巨岩が必要なのは道理だが、これは流石に……! 」

 

自らが作った巨岩が大地に及ぼした影響は予想よりもずっと大きく、接地の際に生じた衝撃は迷宮の地面を数十センチも上下させる程の振動を生み、我々の体どころか世界樹の大地を大きく揺るがした。

 

同時に、破砕と衝突により生じた暴風により巻き上がった赤の土煙が、紫の毒の色など瞬時に吹き飛ばして、大小のカケラとなった石くれ、岩石が周囲に飛散する。

 

「うぉおおおおおおい、なんだぁああああ!」

「きゃあああああああ!」

「いやぁ、この事態は予想していませんでしたねぇ……!」

 

この光景を想定して踏ん張った私とダリはともかく、他の三人は迷宮の天井を破砕すると言う禁じ手を易々と行った暴挙に驚いた時から変わらぬ状態だったため、振動に耐えることができずに、地面に両手両足を踏ん張って、なんとかへばりついるような状態で悲鳴と文句を紡いでいる。また、この期に及んで楽器を離さないピエールの執念を、無駄に感心した。

 

「出来るだけ寄れよ! フルガード! 」

 

三人の近くに寄っていたダリは、味方がスキル「フルガード」の射程圏内にいることを確認すると、迷わずそれを発動した。光が周囲の味方に降り注ぎ、ダリは仲間を全ての攻撃からカバーする盾となる。私もその恩恵を受けるべく、踏ん張っていた足の方向を彼の方へと向けて、跳躍。

 

が。

 

「―――しまっ……! 」

 

揺れと暴風により多少の着地予定ポイントがずれ、あやうく彼のスキル範囲外に吹っ飛びかける。しかし次の瞬間、その事態を見こしてだろう、彼が差し出してくれていた槍の穂先が煙を切り裂いて体の横を抜けて行く。

 

私がその指標をしっかりと捕まえると、かかった過重に反応して彼が私を引き寄せ、そして私は無事にそのスキルの中に収まると同時に、彼は穂先を地面に突き刺して自らの体の固定を強固にした。

 

「助かった……、感謝する……! 」

「礼はいい……。が、無茶と馬鹿をやりすぎだ! あとで一発殴らせろ……! 」

「は……! 」

 

彼にしては珍しく激情を伴った殴打の許可を求める宣言に、ニヤリと笑って承諾の返事を返してやると、彼はそれを心底不愉快そうに背中で受け取りながら前方からやってくる全ての障害を防ぐべく、槍の穂先を地面に突き刺して完全に防御の体勢へと移行した。

 

周囲に颶風と礫と岩石の暴力が舞う中、眼前にて防御を一身に引き受ける彼の姿は、まさしくパラディンの名に恥じぬ素晴らしき堅牢の象徴のように見えた。

 

 

「や、ったのか」

「おそらくヒュドラは、な……」

 

やがて彼の守りが解けて土の煙が晴れた頃、先程フォーススキルをぶっ放したサガは、未だに周囲の光景を気にしながら、呆然と問う。私はその感情のない言葉に一応の同意を返しながら、しかし、心中には敵を倒したという確信があった。その中で考える。

 

―――さて、これで残るは

 

記憶の中で伝承を漁る。これで十二の試練のうち、十。残るは二つ。後は―――

 

噴煙が揺らぐ。ちり、と全身に熱を伴う痛みが走った。違和感は即座に直感に異常を訴え、瞬間的に体が戦闘体勢へと移行する。やがて脳内の記録の中よりその存在を思い出せたのと、敵がその噴煙の中より姿を現したのは同時だった。

 

三つ首に、黒い体躯。三叉にわかれたその姿が、黒百合が斃れた姿を想像させる、麗しさの中にも恐怖を含んだ姿は、プラトンによればそれぞれの首が保存、再生、霊化を表し死後、魂が辿る順序を示すという獣は、まさしく地獄の代名詞と呼ぶに相応しい外見をしていた。

 

ケルベロス! 」

 

叫ぶと同時に双剣を容易。その両手に握り、真っ直ぐ直進するやつを切り裂こうとする。だが剣を握った途端、全身を刷毛で撫ぜられるかのようなくすぐったさを感じ、瞬時にその行為を中断する。

 

―――まて、伝承によれば確かケルベロス

 

「ハデスにより殺傷を禁じられている……! 」

 

慌て直進する獣を捉えようと、再び鹿を捕縛した棒を生み出し、その全身を覆ってやろうと試みる。しかし、鹿の時とは違い、固有結界下にない状態での投影という行為は、通常世界に現出するまでの間に微かな一瞬の隙が生まれてしまう。また、先の鹿とは違い、すでに最大の速度での挙動を許しているというその差異が、その後の結果に大きな違いを呼んだ。

 

「―――ッ! 」

 

投影により生まれた棒が奴の体と接した瞬間、頭部と肩部に殴打の痛みが走る。棒と敵がぶつかった部分のダメージがフィードバックしてこちらへと帰ってきたのだ。その衝撃は凄まじく、全身を巨大なハンマーで殴られたかのような痛みに、私は思わずよろめく。

 

「――――――!」

「――――くぉっ! 」

 

次の瞬間、跳躍した敵は私の肩を押して上にのしかかり、その三つある口の牙を全て私に向けてくる。瞬時にその三つの口の撃を防げるほどの巨大なダリの盾を彼我の間に投影して、なんとかその三撃を防いだ。

 

「―――ちぃっ……! 」

 

高い金属音が鳴り響く。金属の盾の向こうでは、獣が憎々しげに特有の獣臭と腐敗臭を漂わせながら、牙をかち鳴らして、こちらの喉元を噛み切ろうと、盾の隙間に口をねじ込んで来ようとする。

 

「小汚い口を近づけないでもらいたいものだがな……! 」

「エミヤ! 」

 

悪態を着くと、ダリが叫びながら近寄り援護に入ろうとする。彼は私の投影した盾を見て、一瞬驚いて見せたが、瞬時に知識の採集などよりも現状の打破を優先して、その獣に体当たりをかます。だが。

 

「がぁ! 」

「いかん! こいつに手を出すな! こいつは鹿と同じく、攻撃を反射する! 」

 

ダリはケルベロスに攻撃を仕掛けた瞬間、それ以上の勢いで元来た方向へと吹き飛ぶ。忠告が荒野に吹き荒れる風に乗って全員の耳に届いた頃、私は必死に現状を打破すべく、ケルベロスの伝承を思い出していた。

 

―――思い出せ。何がいい。伝承だと、どうやってヘラクレスはこの試練を乗り越えた

 

伝承では、ハデスに生け捕りのみを許可されたヘラクレスは、素手でその首を絞めて太陽の元に引きずり出したという。記憶の中にあるあの鉛色をした巨体の大英雄なら、確かに己の肉体に反射のダメージがあろうと、平然と無視してそんな偉業をやってのけるのかもしれないが、あいにく彼のような丸太のような腕脚と、巨木のような鋼の体を持たない私には、そんな剛勇ぶりを発揮するなど、到底真似できそうもない。

 

「――――――、――――――、―――! 」

「く……そ……」

 

考えている間に、盾が押し込まれる。盾にこめた必死の抵抗の力はそのまま、私の方へと跳ね返り、いつもの倍以上の速度で私の肉体は疲労してゆく。固有結界という世界を書き変える大技の反動で魔力は空っぽに近く、強化魔術の限界時間もすぐそこまで迫っている。

 

「ダリ……!? お、おい、エミヤどうすりゃいいんだよ! 」

 

吹き飛んだダリの側に寄って、彼の体を起こしたサガが、こちらに言葉を投げかけてきた。

 

「反射する……って、あ、あれ? さっきの眩しい鹿は? 」

 

反射という言葉でその存在を思い出したのか、サガが状況にそぐわない間抜けな声を漏らし、煙の散る周囲を見渡した。すぐさま失せた煙の中に、目当ての獣がいないことを確認すると、一層困惑して、見渡しては、こちらの様子を伺ってとを繰り返す。

 

「―――くっ、くくっ……」

 

その、戦闘とは似つかわしくない様があまりにおかしく、危機的状況であるにもかかわらず、私は思わず失笑を漏らしてしまう。瞬間、ぶれた視線の先、煙の晴れた広間に黄昏色の光が広がった。

 

見覚えのある明かりに、思わず目がそちらを向く。迷宮を照らす光は戦闘直前と違い、すでに暗く部屋の片隅を照らすばかりだった。途端、盾を揺らす衝撃が少しだけ軽くなる。

 

違和感に眼前の獣を見やると、目の前の障害を無視して私が別の場所に視線を向けたのが気になったのか、ケルベロスの三つの首のうち、一つが私と同じ方を向いていた。そうして太陽の光を見つけた獣は、闇色の瞳の中に嫌悪の感情を露わにして、睨め付けている。

 

そして私は天啓を得た。

 

―――太陽の光か……!

 

確かヘラクレスは、首を締め上げた状態で、ケルベロスを太陽の元へと連れ出した。する途端、奴は悶え苦しんだというそれは打倒、殺傷の伝承ではなかったが、今この無敵の獣に通じる唯一の手段であるように思われた。

 

―――だがどうする……!

 

ケルベロスに押し倒された現状、あの太陽の光が照りつける場所まで奴を引きずり出す手段が思いつかない。運動エネルギーの反射を行うという無敵の鎧を纏った猛獣を、縛り付けて首根っこ引きずるための鎖を私は持ち合わせていなかったのだ。

 

ケルベロスは一向に力を弱めないまま私を地面に抑えつけ、己を追い込んだ下手人を食い散らかそうと臭い口を開閉して牙を鳴らし、盾の向こうで歯を鳴らす。敵は余裕の態度だった。敵は己の絶対的優位を知って、動こうとはしていない。

 

そうして奴の吐く吐息に、唾液が混じった。途端、投影品の縦にヒビが入り、そこから植物の球根のような根が伸びてくる。信じがたいことに、その植物は金属の盾の上に発芽し、分厚い金属をかち割って、根っこをその金属板の中に伸ばしたのだ。

 

―――植物……!? なんだ、なんの―――

 

ヒビの入った盾の向こう側に、紫色の烏帽子が見えた。かつての日本の貴族が被っていた折れた冠に似た紫色の花を持つ植物といえば、思い当たるものは一つしかない。

 

―――トリカブト

 

そうか、そういえば太陽に当たって悶え苦しんだケルベロスの唾液が地面に触れた瞬間、そこから生えた植物がトリカブトになったとい伝説があった。記憶の続きが現実で再現された事実に思わず舌打ちをする。

 

―――くそ、こんな隠し球を持っていたのか……!

 

そうこうしている間にも盾は植物によって次々とその領域の侵攻を受けていた。盾という特性ゆえか、ある程度の傷が入っても投影品のそれは崩れて消えはしないが、それでももう、半分以上は植物により役目をはたせない状態に陥っている。おそらくはあと十数秒も持たないだろう。

 

そして盾が砕けたあと、再投影する時間がないのは、先のケルベロスという魔物が見せた速さから考えても明らかだ。かといってこの攻防を繰り広げている最中、投影という余計な工程に意識を割けば、その時点で私の喉元にその牙は突き立てられるだろう。

 

唾液が即効性の効力を持つ猛毒の植物を生むとわかった今、即座に引き剥がしたところで、牙を突き立てられた場所からそれが発芽し、根を張り、体内に侵食する。猛毒の根が体内に根を張ってしまえば、毒を防ぐアクセサリーがあったとしても高確率で死は免れまい。

 

そうこうしている間に、部屋の隅を照らす希望の光は失せてゆく。絶望の闇は周囲に広まりつつあり、夜はすぐ背後にまで迫っていた。この時私は、やがて時計の長針が一つ二つ進む間にあの光が完全に失せてしまう事を悟りながら、しかし何もできずにいた。

 

―――絶体絶命か……!

 

この時点で、私たちは詰みに近い。倒すには太陽の光が必要であるだろうに、数百メートル離れた部屋の隅に落ち込む光が失せかけている今、もはや倒すには、そこから千、二千メートルに上空の大地に足を運んで、直接光を当てるしかない。

 

しかし敵は攻撃を反射するのだ。それが拘束であってもその力を反射する相手を、どうやれば地上まで運べるというのだ。まさか大英雄のように、いく日もかけて洞穴をひたすら逆走してやれとでもいうのか。

 

―――そんなところまで伝承通りにしなくとも良かろうに……!

 

悪態を吐くも、状況は変わらない。押し迫る敵は、その絶対的優位を知って自分を嬲っている。例え己の身を捕らえたところで、倒す手段がないと知っているのだ。その愉悦を多分に含んだ憎たらしい表情を見たとき、思わず言峰綺礼という男のことを思い出した。

 

―――なるほど、ここまで奴の筋書き通りか……!

 

おそらく奴は、私が鹿やヒュドラという相手に固有結界を使用することを読んでいた。そうしてどうにかしてヒュドラを倒し、鹿を捕縛し、そうして精魂疲れ果てたところで、本命の獣を登場させる。

 

獣を登場させるタイミングが今であるのも、奴の思惑通り出る気がした。そうして、やった、倒した、と安堵したところに、討伐の手段がない獣を送り込み、一転して最高の状況から絶望の底に叩きこむ手腕は、なるほど、人が何をすれば一番嫌がるかを驚くほど正確に読み取る奴だからこその手練れの嫌がらせだで。

 

―――本当に、あの、言峰綺礼という男はどこまでも性格が捻じ曲がっている……!

 

「エミヤ、どうすればいいんだよ! 」

「……! 」

 

近くでサガが叫んでいる。ダリはこちらの様子を観察したまま手が出せずに戸惑い、ただ見に徹している。何とかしようとはしているが、心底手出しができずに悔やんでいるのが、彼の巨体が起こす憤怒の発露の揺れから見てとれた。

 

「弱点は……、恐らく、太陽だ……! そこまで連れて行けば、悶え苦しむはず……! 」

「た、太陽って……ここでかぁ!? 」

 

解決手段を求めての言葉に答えをやると、サガが頓狂な声をあげて天井を見上げた。口をぽかんと開けて間延びした声をあげたのは、策として提案された手段があまりにも非現実的だったからだろう。

 

―――私だってそう思うとも

 

などと考える間にも、獣の口が迫っていた。その勢いは先ほどのものよりも強く素早くなっている。おそらく己の弱点を露わにされたことで怒ったのだろう、怒気にその勢いを増す三つ口を防ぐ盾をどかそうと、龍頭のついた尾っぽまでを動員して敵は一枚盾の向こう側で暴れている。

 

私がそうして盾で敵の行動を阻害する抵抗すら反射の対象とみなされているようで、先程からもう両手ともに掌の感覚は殆ど残っていない。もう後数十秒も持たない。

 

「エミヤ、太陽が弱点なんだな? 」

「―――ああ! ダリ、どうにかできるのか! 」

 

聞くと彼は静かに頷いて、響の方を見た。彼の視線の先にいる、ピエールとともに戦況をお見守っていた彼女の方へと向けられた。私は彼の視線を見て、ここにくる際、直前に使用したアイテムの存在を思い出した。

 

「携帯磁軸か! 」

 

必死の叫びが一帯に木霊し、彼女の小さな体がびくりと震えた。

 

 

「携帯磁軸か! 」

 

深みのある重低音の叫び声が周囲に鳴り響いた。その声に、あまりの非現実的な光景に停止していた思考が再稼働を果たす。

 

―――携帯磁軸……?

 

「響! 」

 

ダリが叫んだ。白紙の思考とは裏腹に、体が勝手に低い声に反応して上下する。

 

「響! 磁軸だ! 携帯磁軸を使ってくれ! 」

「じ、磁軸を? 」

 

いきなりすぎる提案に、思わず聞き返してしまう。

 

―――何を言っているのだ。なんでこの戦闘の非常事態の際に、そんなことをいきなり言い出すのだ。だって、そんな、できるわけがないだろう? 携帯磁軸は。

 

「だ、だめです! 携帯磁軸の設置は安全な場所でないと! 」

 

そう、携帯磁軸は設置場所が厳密に決められている。層の出入り口の、衛兵が見張っている場所。それ以外に設置した場合は、設置した人間と、所属する団体に厳しい罰則が与えられるのだ。

 

「ましてやここは、番人部屋ですよ!? 」

「その番人を倒すための手段がそれしかないから言っている! 」

 

ダリはこちらに近寄ってくると、声を荒げて言った。常に冷静を基本とする彼の顔には珍しく焦燥の色が混じっていて、まさに必死、という体で両肩を強く掴んでくる。痛みを振り払うように彼の手を払いのけると、悲鳴を上げるかのように叫んだ。

 

「じ、磁軸でどうやって倒すんですか!? 」

「わからんがエミヤが言うには太陽の光が弱点らしく、ここでは倒せないというんだ! 」

 

ダリは叫ぶと私のバッグの方へと目線を向けた。あの中には、彼のいう携帯磁軸が入っている。もしも彼が自分で使えたのなら、迷わず使用していただろうと思わせるその視線には、必死以外の余分な感情はなくて、真剣さだけが彼の中を占めていた。けれど。

 

「わ、わからない……、らしく、って……」

 

返ってきたあやふやさを含む答えに躊躇する。携帯磁軸の規定場所以外での使用は、無断での土を掘削するレベルの禁則事項だ。

 

迷宮を故意に破損させたという現状、ただでさえ、危うい立場の私たちが、番人の部屋で、それも戦闘中に使用すれば間違いなく私は追放を免れないし、おそらく所持ギルドの彼らも、それと協力したエミヤも追放を間違いなく同じ処分を受けるだろう。

 

―――そうなれば、私たちは二度とエトリアの土地を踏むことができなくなる

 

いや、あるいはそれ以上の罪が―――つまりは処刑の判決が私たちに下されるかもしれない。死を命ぜられた罪人になるかもという怖気が、全身を貫いた。犯罪者と可能性の未来を恐れて体が震える頼りない全身を支えてくれる止まり木を探して周囲を見渡すと、今まさに敵に食い殺されそうなエミヤの姿が目に映った。

 

いつも傍若無人なくらいに自信満々で、でも実際にそうするだけの強さと頭の良さを兼ね備えて、先程などは破天荒にも、世界というものを変貌させて、そして平然と禁忌を破ってみせた彼は、しかし今、弱々しくけれど必至に抗っていた。

 

そうして迫り来る敵の牙をなんとか避けている彼の姿を見て、私は初めてエミヤが一人で平然となんでもこなせる超越者なんてものでなく、私と同じ人間であることに気付かされた。彼もまた私と変わらぬ人で、今私の力を必要としてくれている人なのだ。場違いで不謹慎ながらも、私は今更ながらに気づいたその事実が嬉しいと感じた。

 

「響! 」

 

私の躊躇を煩わしいと言わんばかりに、ダリが叫ぶ。彼は心底怒っていて願っていた。そんな彼の態度も、私に罪を犯す決意を促すための材料となる。

 

「―――わかりました! 」

 

そして私はエミヤがいう、今後を賭けるにはあまりに不確定すぎる、倒せる「らしい」という言葉を、素直に信じることにした。よくよく考えてみれば、エトリアを追放されるから、死刑になるかもだからなんだというのだ。

 

―――そうだ。どうせエトリアにほとんど未練なんてない

 

父母は死んでしまったし、いつものみんなとヘイ以外の知り合いは赤死病を恐れてだろう、最近まで店に寄ろうともしないかった。いまじゃ私の知り合いは「異邦人」のみんなと、ヘイとエミヤとヘイだけだ。

 

仮に追放されて店を畳むことになっても、他でやっていけるだけの経験と技量も付いている。それに死ぬかもなんて、嫌という程味わった感覚だ。そうだ、追放も死ぬこともまるで怖くない。なにより―――

 

―――シンが生きていたら、彼らを救うために迷わず掟などは無視しただろうから

 

胸を締め付けられる思いに浸るのも一瞬。そうして天秤の針は記憶に浮かんだ彼の意志に導かれ、片側に振り切った。カバンに手を突っ込むと、必要と言われる装置を取り出す。

 

携帯磁軸。迷宮の内外の移動を可能とする、一部の許可が降りている人間にしか利用する事のできない本当に特殊な道具。設置や使い方自体はとても簡単だ。縦横五十センチの四角い箱の蓋を適切な方法に則って解き放ってやれば、収められた機材が自動的にその場に磁軸を生み出してくれる。

 

ただし、樹海磁軸が登録した人間が移動の意志を示した場合にしか起動しないそれと違って、この簡易的な装置は、起動させた際、一定範囲内にいる生物と、その生物が身につけている物を全て巻き込んでの転移を引き起こす。

 

勿論使い方次第ではとても便利利なのだが、仮に悪意を持った人物が悪用した場合、例えば、己らの手に負えない魔物を石碑の前に送り込むという事も可能なそれは、あまりに危険すぎるということで、執政院ラーダの初代院長ヴィズルが使用を厳しく制限されていた。

 

そして今、私たちは、そのヴィズル元院長が危惧した通りの使い方をしようとしている。

 

「それだ! 響、早く! 」

「エミヤがもうもたねぇ! 」

 

ダリに急かされて視線を彼に向けると、エミヤは必死でダリの盾―――の複製品?―――を使ってその攻撃を防いでいる。だが、彼がそうして三つ首の獣の攻撃を抑えていられる時間も、もう限界だ。

 

彼の盾には涎が垂れ落ちた部分から、植物が生えて、半分以上の部分に茎と根が絡まっている。よく見てみれば、それは附子と呼ばれる、猛毒の植物であることまで見て取れた。

 

道具屋の娘である私は、当然その危険性はよく知っている。シンの意志と、エミヤの危機と、植物の危険性は合わさることで、私のぼやっとしていた頭を高速で再起動させる。

 

慌ててバッグを持ち直すと、磁軸を持ったまま、エミヤと敵から少し離れた場所に携帯磁軸の蓋を取り外し、多少弄って地面に設置した。途端、内部の仕掛けが飛び出して、瞬時にその性能を発揮しようと作動する。

 

「十秒ほどで転移します! 必要な持ち物は身につけておいてください!」

 

装置がみせたいつもの所作に、お決まりの台詞が口から飛び出る。そんな暇などないのがわかっていながらも、身についた習慣というものはふと出てしまうものだな、と呑気に思う。己の言葉に反応して見渡せばダリもサガもピエールも装置に目線を向け、そして必死のエミヤも、多分はその装置に意識を向けているのがわかった。

 

―――あ

 

彼らの動きにつられて周囲を見渡すと、先の振動でこちらの方まできたのか、先程サガの治療の際、放り出してしまった刀「薄緑」が近くに転がっていることに気がついた。幸運に感謝しつつ、慌てて刀の元へと駆けつけ、その軽い刀を拾いあげると、再び転移の範囲内へ戻るために振り返る。

 

すると獣は私と同様に、あるいは私の動きによって周囲を見渡そうという気になったのか、エミヤにのしかかっていたケルベロスは、一つの首で周囲の三人をそれぞれ一瞥して彼らの意識の先を確認すると、意地悪く口角を上にあげて嫌らしい笑みを浮かべ、エミヤを抑え付けていた体をのそりと動かした。嫌な予感。全身に悪寒が走った。

 

―――まずい

 

「―――おい、なんかやべぇぞ……! あいつ、どこを見てやがる」

「あれはこちらではなく―――、いけない、ダリ! 装置を守って! 」

 

―――なんて迂闊をやらかしてしまったんだろう……!

 

そうしてケルベロスは、転移装置に向けて疾走の準備をし、そして駆け出そうと試みる。初速こそ遅いが、その速度だと、数秒もしないうちに装置へとたどり着くだろう。

 

「ダリ! 」

「任せろ! パリング! 」

 

そうしてダリは装置と犬との間に立ちふさがり、スキルを発動させた。どのような物理攻撃も数回は防ぐ光の粒子が彼の盾を覆い、その効力の発揮の時を待つ。私も慌てて装置に近づくべく、呼吸をやめて限界以上の速度を出した。

 

「―――っ。ぐぅ」

「ダリ! 」

 

ダリの呻き声とピエールの叫び声。前傾姿勢からすこしだけ顔を上げて声の方を見ると、ケルベロスの三つ首の攻撃を防御のスキルで防いだ彼は、しかし、その後の奴が動く事を防ぐことができずに押し倒されていた。

 

おそらくは、ケルベロスの反射によって、奴の突進の勢いを押し付けられたのだ。獣が憎々しげに唸り、その際に飛び散った涎が彼の盾にかかり、戦いの中も清廉の雰囲気を保っていた盾に亀裂が生じた。直後、破損。

 

これでもう守りの力を発揮するのは不可能だ。しかし、そんなダリの献身の甲斐あって、三秒ほどは稼げている。見た感じ装置の軌道まであと五秒ほど。それだけの時間があれば、装置は起動するはずだが―――

 

「ダメだ、間に合わねぇ」

 

サガが叫んだ。ケルベロスはすでに押し倒したダリの体の前で装置に飛びかかるべく、力をその黒々とした逞しき四肢に溜めている。そう、その通りだ。このままでは間に合わない。

 

五秒という時間があれば、携帯磁軸が起動する前に奴は間違いなく装置に到達する。起動前に破損の不具合があれば、もちろん転移は起こらない。そうすれば、私たちの負けは確定だ。

 

すると私はもちろん、彼らは死ぬ。そう、まるでシンのように―――

 

「―――! 」

 

気がつくと私は限界を超えた走りのさらに限界を超えて、手にした「薄緑」を振りかぶっていた。その足先は、迷うことなく装置の前に向かっている。すでに最高速に達しているこの体なら、奴が装置と接触する前に、装置とダリの間に体を滑り込ませる事が可能だろう。

 

「―――響!? 」

「いかん、だれか彼女を止めろ! 」

 

ピエールが驚きの声を上げ、ケルベロスの後ろで立ち上がり、そいつの行動を止めるためにだろう、体勢を整えていたエミヤが大きく叫んだ。多分、私の意図に気がついたんだと思う。

 

ケルベロスは奴の背後から発せられたエミヤの声を聞いた瞬間、その三つの口を大きく開けながら、装置に向かって駆け出した。だが、一度ダリにその勢いを止められているため、先程までの速さは奴にない。

 

―――大丈夫だ、間に合う

 

冷静な理性は熱さを保つ感情と協力して、私の体は今までにないくらい最高の状態を保ってくれている。このままいけば、奴の口が装置に触れる前に、この体を装置の前に持っていくことが可能なはずだ。そうすれば、ダリのようにスキルは無くとも、血飛沫と捩じ込んだ体は多少の時間を稼ぐことができるだろう。それで十分、装置は起動してくれるはずだ。

 

反射をする相手に対して迷わず刀を振りかぶれたのは―――、多分、シンだったらこうしたのだろうと思ったからだと思う。

 

今の私と同じように、彼がどのような恐ろしい敵にだって、自分のため、ひいては仲間のために迷わず突っ込んでいくのを私はすぐ近くで見ていたからこそ、同じように剣を振りかぶって、恐ろしい敵との間に身をねじ込ませる覚悟ができたのだ。

 

敵が磁軸と接するまであと二秒。限界以上の速度での全力疾走をしていた私は、奴と装置との間に体をねじ込ませた。飛び込んだ瞬間、右足を先に地面につけて、遅れてついた左足にもその衝撃を分担させてやり、両足で地面をしっかりと踏みしめる。

 

一秒。瞬時に肩口を占めて、左の肩を前に出す。奴が跳躍の姿勢をとった。その身を縮こめて次の瞬間には全力で飛びかかってくるだろう。私は迷わず振り上げた刀をさらに振りかぶった。

 

零秒。奴は飛びかかる寸前、その対象を確認すべく前を向いた。六つの瞳が機材の前にいた私に向けられ、奴は地面スレスレから私を注視する。その睨め付ける視線には、愚か者を見下す視線が含まれていて、少しばかり腹が立った。

 

―――反射の鎧を纏った相手に攻撃をしようとするなんて、愚かな奴

 

そんな、こちらを見下す考えが読み取れた。だが知った事か。時間さえ稼げれば、お前の負けだ。私は迷わず刀を振り下ろしてやろうと、真っ直ぐその漆黒の瞳を見つめて両手に力を込めた。少しでも時間が稼げればいい。

 

反射に体が切れて、そして血飛沫が舞って、それが目くらましにでもなれば、装置が動くまでの一秒くらいは稼げるかもしれない。

 

そんな、私にしては似つかわしくない決死の覚悟を決めて、奴の嘲笑に真正面からの視線を返してやると、私と視線があった瞬間、驚くことに奴はその場で跳躍の動きを一瞬だけ躊躇って、停止してみせた。

 

私の動作の中に奴の苦手とする成分が含まれていたのだろうか、奴の瞳からはこちらに対する嫌悪の感情が見て取れる。何が原因かはわからないが、止まってくれたのだ。文句はない。これで転移装置は間違いなく作動する時間は稼げただろう。

 

だが―――

 

「―――よせっ! 」

 

エミヤがこちらに手を差し出して叫んだ時、私はすでに奴に向けて全力で刀を振り下ろしている最中だった。わずかな時間だけ足止めた代償を踏み倒すにはもう遅い。奴の動きを少しでも止めようと振りかぶった両腕に溜めてあった力はすでに解放されている。

 

この剣の軌跡だと、間違いなく、敵の首元に剣はその刀身を吸い込まれるだろう。そして首元への攻撃がそのまま反射されるとすれば、それはおそらく―――

 

―――あぁ、死んじゃうのか、私

 

直前に起こった意外な出来事は決死の覚悟など霧散させていて、私はいつもの思考を取り戻していた。研鑽を重ねて鋭くなった己の振り下ろした一撃は、皮肉な事に間違いなく私の首くらいなら軽くすっ飛ばす威力を秘めているのがわかった。

 

―――最後の死に方がこれとは、なんともしまらないなぁ

 

馬鹿げた死に様だと思ったけれど、不思議なことにまるで恐怖はなかった。最初に旧迷宮の四層に潜った時は、凄く死ぬのが怖くて、何度も泣いたけど、何もわからなかったあの時とは違って、今、私は私の意思で、こうして自分で決めて死に向かっている。

 

だからだろうか、私は、自らの手で自らの人生に幕を下ろそうとしているのに、まるで恐怖というものが心に湧いてこなかった。これは私が強くなった証なのだろうか。それともあるいは、シンのように、仲間を守って死んでゆけるという思いが心中の不安を麻痺させたからなのだろうか。

 

―――ああ、あの人も、こんな気持ちだったのかな

 

そんなことを考えながら刀を振り下ろす。さなか、後ろにあった転移装置は直ちに作動してみせて、私たちは敵ごと光の中に包み込まれていった。

 

 

夜を間近に控えた黄昏時。一面を雲の絨毯が覆い尽くし、一条の光すら帳より落ちてこない空の下、エトリアより一時間ほど歩いた郊外にあるこの染め上がれた紅の森林地帯は、以前ほどではないにしろ、確かな賑わいを見せていた。通常なら多くとも十人から十五人程度の冒険者しかいないその場所には、今、百に近い数の冒険者が押し寄せている。

 

冒険者たちの多くは手練れの雰囲気を漂わせていたが、同時に、迷宮の深部へと探索の足を延ばし一線級として活躍する彼らとはまた別の、ギラギラとした屍肉を貪る獣のような空気を纏っているものも多かった。

 

そうして死地に赴く覚悟よりも、好奇心や射幸心、義務感の様なものを優先して心の裡に抱え込んだ彼らの正体は、番人討伐という面倒を避けて、誰よりも先に深部階層を探索してやろうと企んでいる、所謂、屍肉を漁るような連中だ。

 

最近に至るまで一層すら攻略されることなく謎とされていた迷宮も、三層までが完全攻略され、四層も現在のところ、残すは番人がいるだろう状態になっている。そして現在、件の番人の層もアタックをかけられている最中だ。

 

攻略を試みているのは、新迷宮の番人どもを悉く駆逐してきた二つのギルドの同盟軍だ。ならば、この度も当然番人を討伐して帰ってくるに違いないと信じた輩が、今、新迷宮の周りには多くうろついているというわけだ。

 

彼らが番人討伐を終えて帰ってきた途端、彼らに先んじて五層へと足を踏み入れてやろうと企んでいる。そうして一足早く彼らが帰ってきた瞬間、あるいは、糸を使って戻ってきたよとの連絡が入った瞬間、我先に入ってやろうと考えているのだ。

 

「―――ん?」

 

卑の属性を帯びた緊張感が辺りに満ちる中、異変に気がついたのは、珍しくも正しく己の実力を発揮するため迷宮に挑まんとしているギルドの冒険者だった。彼は四層への冒険を控え、後数分もすれば石碑を使用して迷宮にゆくという状況だったが故に、石碑が淡い光を発していることに気がついたのだ。それは誰かが戻ってくる合図だった。

 

彼がそれに気がついたことを皮切りに、周囲にいた人間もその変化に気づき、少し遅れて兵士たちが一定の区画への出入りを制限する。転移し戻ってくる人間との接触を防ぐためだ。

 

やがて淡い光は通常よりも濃い光を発して、周囲に白光りをばら撒く。この通常よりも明るい光は、樹海磁軸ではなく、携帯磁軸が利用された証だ。加えて、今現在、新迷宮において携帯磁軸の登録許可が下りているグループは数少なく、現在アタックをかけているのは、たった二組のみ。すなわちギルド「正義の味方」と「異邦人」の二つのみである。

 

つまりこの目をつぶさんばかりの眩い光は、番人討伐に出向いていた彼らが戻ってくるという証であり、同時に彼らが番人討伐を終えて戻ってくるという証明に他ならないはずなのだ。その事実を悟った辺りの人間が勇者の帰還を察知して緊張に身を固め、周囲を支配する緊張感が濃くなる。

 

そんな周囲を取り巻く欲望の霧を払うようにして、光の密度も、うんと濃さを増してゆく。

 

やがてそうして石碑の光が収まる直前、隔離された空間の中に現れたのは、まず地獄の奥より響いてくるような獣の唸り声と、必死の怒号だった。遅れて地面を叩くと金属の砕け擦れる音が聞こえ、光の幕が上がった先に、信じがたい光景が彼らの目に飛び込んだ。

 

それは人を三人ほども束ねた胴回りを持つ巨大な三つ首の獣だった。周囲にある生きる者全てが呪われてあれと憎々しげなに声を上げるその魔獣は、全身の機能の全てを一心に利用して、小さな少女を食い殺さんと飛びかかっていた。

 

対立する少女は、今まさにその獣めがけて剣を振り下ろそうとしている。区画の中、周囲に散らばる他の四人の面子は、それぞれに驚愕と絶望の表情を浮かべて彼女の行動を止めようとする挙動を見せている。

 

しかし、そんな彼らの制止も虚しく、決意を秘めた薄緑の波紋美しい刀は見事な所作で振り下ろされ、そして、遠心力の乗った切っ先が体当たりをしかける獣の鼻先を見事に捉えた。

 

そうして獣の体を纏う漆黒と刀の緑光が接触を果たした次の瞬間、見事に刃先は獣の鼻先に切り傷をつけたが、直後、体当たりを仕掛けてくる獣の勢いと少女の振り下ろした刀自身に込められた少女の膂力と伴われた遠心力の勢いに負けて、甲高い音をたてて鍔元からポキリと折れてしまう。

 

やがて勢いのままに獣と少女は激突。少女は左の肩当を用いて咄嗟の防御体制をとったが、体の薄い少女は巨体の突進に耐えられず、数秒ほども地面と水平に吹き飛ばされると、樹木の幹へと叩きつけられる。激突の際骨が折れ血肉に刺さる音が不気味なほど周囲に響き渡った。

 

やがて獣が唸り声をあげた途端、襲いかかってきた現実が一帯を通り抜けて、隔離された空間以外の止まっていた時間を動かした。空の雲間から時計の針の如き鋭き光がその空間を照らして、眩さに遅れて怒号が舞う。

 

「―――ま、魔物だ! 」

「逃げろ! 」

 

押すも引くもできない大混乱。我先にその悍ましい姿の敵から遠ざかろうと、有象無象の衆が離散する。騒ぎが拡大する中、その中心部にいる獣と対峙する彼らの動きに異変が起こっていた。

 

冒険者の一人を軽々と吹き飛ばし優位を確保したはずの獣が、身悶えだしたのだ。獣は全周囲にあるその全てが己の苦痛を齎すのだといわんばかりに身を捩り、捻り、悶え、苦しむ。吹き飛ばされた少女は、伏した状態でなんとか上半身だけを起こして見せると、獣の苦悶を見た瞬間、少女に似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべて、血を吐きながらも言ってのけた。

 

「ざまあみろ……!」

 

気がつくと、空の雲は何処かへと姿を隠していて、切れ間から太陽の光が周囲を黄昏色に染め上げている。やがてその光が再び雲間に消える前に、硬直していた彼らの時は完全に再起動を果たしていた。

 

 

白い光の輝きが私たちを包み込んだかと思った次の瞬間、飛び込んできたのは世界樹の深層に満ちている霞がかった偽りの光が散乱する光景ではなく、同じ様に赤の着色が広がる中、しかし雲の繚乱する黄昏の天と、赤光が裾野の遠くまでを支配する光景だ。

 

そうして出現した澄んだ空気と絢爛な陽光により、私は転移の成功を確信する。と同時に、飛び込んできた五感の変化は戦闘の現状をすぐさま把握させて、私は慌てて迫る激突の場面へと目を向ける。

 

そうして視覚が二者を捉えるのと、彼らの接触は同時だった。彼女の振り下ろした刀は彼女の予定外に獣の鼻先に切り傷を生じさせ、次の瞬間、そうして獣に傷跡を刻みこんだ彼女はケルベロスの体当たりを受けて吹き飛んだ。

 

「響! 」

 

―――よくやってくれた……!

 

声では心配の言葉を叫びながら、しかしそうして彼女がやられながらも反撃の一撃を加えた光景を眺め、私は己の思惑の正しさと、我らの勝利を確信した。太陽の元に引きずり出された冥府の番犬は、見事にその反射の力を失っていたのだ。

 

かくて領分を超えた事で冥界の加護を失った魔獣は、薄緑色の刃を見に受けた瞬間、己の身に起こった不幸を察した様で、一瞬の戸惑いを見せたのち、太陽神の怒りを一身に受けて苦痛を全身で味わう事となる。

 

ギリシャ神話において残酷と称される太陽神の恵みたる陽光は、なるほど奴にとっては伝承通りの残酷さを存分に発揮して、魔獣は金の一矢の元に即死させてもらう事も出来ずに、その身を触れて哀れにも飛び回り、身を悶えさせて苦しみを周囲に訴えていた。

 

地獄の番犬はそうして身体中を反する属性の光に焼かれながらも、しかし死ぬ事が出来ずに苦しんでいる。おそらくは魔獣らしく超回復能力か不死性でも備えているのだろう、奴の体は焼かれ燻り皮膚が剥ける端から、次々と新たな皮膚が生まれえては、黒く焦げたそれが垢の如く落ちて、周囲に黒塵をばら撒いていた。

 

今まで我らを苦しめてきた敵にかける情けなどないのが当然と思いながらも、そうして灼熱の痛みに苦しむケルベロスを哀れにも思い、思わず眉をひそめた。同時に遠くから小さな声がソプラノボイスが耳朶を打つ。

 

「ざまあみろ……! 」

 

そのあどけない声色とは裏腹に、心底、奴のその様はひどいものではなく、当たりまえの報いを受けているのだという残酷な感情を多分に含む台詞を聞いて、私は即座にあの獣を仕留めて介錯してやろうという気分になった。それは苦痛に悶える獣への情けではなく、あの年若い少女に憎悪の仮面は似合わないと判断しての行動だった。

 

「―――投影開始/トレース・オン」

 

そうして私が不死の特性を持つ獣を処刑する道具として自然と投影したのは、ハルペーという鎌の宝具だった。ギルガメッシュの宝物庫に収められていたそれは、ケルベロスと起源を同じくして、ギリシャ神話においてペルセウスメデューサという女怪を葬り去る際に使用した、「屈折延命」の効力を持つ神剣……の贋作だ。

 

かつてケルベロスと近しい親族を屠るならこれ以上ない剣を投影した私は、しかし、そうやって神造兵装を大した反動もなしに容易く投影してみせた己の所業に驚き、自ら投影した品を見つめ直した。

 

―――これほどの格を持つ剣をこうもあっけなく投影できるとは、どういう理屈だ

 

長柄の先にくの字に折れ曲がった刃がついた、鎌とも剣とも区別のつけにくいそれは、刃先から内側に入ったものの命を枯れ草のように摘まみ取る冷淡な光を携えて、妖艶に光を放っている。

 

そうして内側から醸し出された気品と風格は、名を高らかに叫び使用してやれば、伝承の通りの効果を発揮するだろう気配を伴っていて、此度の投影が姿形ばかりを真似た張りぼてのそれではない事を告げている。

 

真作、というには内包する神秘と輝きがちと足りないが、かといって贋作と断ずるには、神剣が持つ奇跡の成分は真に迫り過ぎている。神々と呼ばれるような超越者達のみが生み出せる輝きは、通常、己の使用する投影魔術ではなし得ないものだった。

 

私の使用する投影魔術とは、あくまで真作の代替たる贋作を作り出す魔術。その魔術は、矛盾を嫌う世界の特性上、真作と同一のものを作り上げるのは不可能とされている。

 

それは通常の世に生み出されてから数分で霞の如く投溶けて消える投影魔術とは違い、魔力の続く限り永久に残る事という特性を持つ、投影魔術の中でも異端、異常、異様と称される私のそれも例外ではない。

 

材質構成から内包する歴史に至るまでがまるで同一のものが同じ時間軸において同時に存在するという矛盾を世界は許さない。そのため、投影魔術において架空のそれを現実に持ち込むためには、世界からの修正を避けるため、真作と異なる証明のために必ず劣化か改良かの道を選ばねばならぬのが、常である。

 

そうして、世に数多存在する単なる一振りの剣でしかないものにすら、そうやって細かすぎるほどの気を配らなくては存在を許容しない狭量の持ち主たる世界が、ましてやその己自身たる世界のあり方すらを変革しうる神造兵装の投影などを認めるはずはない。

 

それに何より、このような人の手以外にて作り上げられた、それ自体が一個の神格を保有するような宝具、私は自滅覚悟でもなければ投影が出来ないはずである。しかし今、その伝説上に置いて不死殺しを体現する神具は、確かにこの手の中で鋭利に、己の存在は現実のものであると、声高らかに主張していた。

 

―――いったいどうして……

 

己の魔術によって生み出しされた神造兵装を前に、私はしばし呆然とする。やがてそうして彼方にいた意識をこちらの側に引き戻したのは、男達の叫び声だった。

 

「エミヤ! 何をしている! 早くトドメを! 」

「エミヤ! 」

 

ダリとサガの声が響き渡る。重低音と中音の二つに正気を取り戻した私は、慌てずその矢を投影した弓に番え、曲がった刃の峰を悶える敵に向けた。その刃先は常とは異なる使用方法を拒否するかのように、地面を捉えて離さない。

 

その、出来る事なら同郷の出身者を害したくはないとでもいうようなささやかな抵抗を踏みにじって、私は弦を思い切り引き、極限の状態にまで到達させる。引き絞られた細い糸は、カーボン製の西洋弓の剛性の弾性限界を試すかのように、キリキリと横溢して解放の時を待っていた。

 

やがて狙いを暴れまわる獣の心の臓あたりに定めて細かく位置を調整していると、雲間より山の端に身を隠しつつあった太陽の残光が、ケルベロスの姿を一層明るく照らした。残照は勢いを止め、燐光に変わりつつある。この日が途切れる前にこの一矢で奴を仕留めねば、この場にいる全ての人間が餌食となってしまう。

 

外せない理由が明確化したことにより、覚悟は完全に決まった。彼と我。赤に染まった世界はその二つだけの成分となり、時の流れすらも排して狙いを定める手が止まる。あとは弦と剣の関係を断ち切り、名を叫べば、動作は完了する。

 

「不死身殺しの鎌/ハルペー! 」

 

息を吸い、必殺の意思を込めて言葉と共に放たれた神造兵装の魔弾は、赤紫を纏う銀矢となりて真っ直ぐに進み、悶える獣の胴体を直撃した。下向きに放たれた刃は獣の体を貫通すると、その鏃たる鎌の峰が地面に突き刺さるのを抵抗して、鎌の柄は獣の体を通り抜けきらず、その場に縫い止めるに終わる。

 

しかし、そうして抵抗を受けながらも奴の体を通り抜けた刃は、たしかに臓器の最大重要部分、すなわち心の臓府をごと貫いていて、全身に血液を送る機能を潰された獣は、その代わりと言わんばかりに、溢れんばかりの血潮を貫通部分より地面へと垂れ落として、ハルペーによって宙に固定されているケルベロスの体の下に血の海を生成する。

 

直後、そうして毒々しい色を撒き散らす赤潮から、烏帽子が天を目指して生えてきた。陽の光と血潮を浴びて赤紫色に映える植物は、神族の一員たる己が高貴さを誇るかのように高貴の色を高らかに主張して、ケルベロスの体を覆い尽くし、奴の死を彩った。

 

やがてすぐさま稜線よりの残照も途切れ、アポロンがアルテミスに出番の時を譲る頃、死闘の跡地には、戦士達の健闘を讃えるかのように、紫色の花畑がそこには生まれていた。

 

天空に輝く月の光を浴びて輝くトリカブトは、藤色の柔らかさに似た穏和さを周囲に散らしていて、その場にいる誰もが息を飲む。地獄の門番がその死と引き換えに出現させた花畑は、しばしの間、戦いに疲れた私たちを慰めるかのように、静かに夜の闇に咲き誇っていた。

 

 

天に広がる星々が辺りを彩りはじめた頃、そんな夜花見の中、命の花散る末期の別れの時を破って無粋にもいち早く動いたのは、私でなく、仲間四人の誰でもない、兵士たちだった。

 

彼は我らと番人の間にある関係などまるで知らぬとばかり、無遠慮に突き進むと、五人それぞれの前に立ち、手に持った鋭い刃先を我々に突きつけて、告げる。

 

「―――、魔物を連れての転移は、重大な規約違反です。例えどのような理由があろうと、見逃す訳には参りません。―――ご同行願います。どうぞ無駄な抵抗は致しませぬよう、よろしくお願いします」

 

兵士たちは丁寧に言うと、夜の闇の中で刃先をこちらに向けて淡々とした態度で、我らの反応を待っていた。私はそんな彼らの規律違反者に対する敵対の態度に、この善性を基本の軸とする世界においてもきちんと法が敷かれ機能しているのだという証明を見つけて、なんとも場違いなことに、頼もしさを感じていた。

 

―――さて、どうなることやら

 

私は両手にはめられた手錠の感触を確かめながら、せめて彼らの無実だけでも証明してやらねばならぬと思い、空を眺めた。天に近い場所に輝く夜空は、雲一つなくなっている。そうして浮かぶ月だけが目立つ夜空の向こうにエトリアの街の灯を見つけて、私はいつぞや彼女と共に駆け抜けた運命の夜を思い出す。

 

私は静かに物思いにふけるとともに、今だ騒動を知らぬ街は月が天の頂に達しないうちにこの度騒がしくなるだろうことを予測して、私は、如何にすれば冒険者の元締めたる彼に無謬性のある説明ができるかと、疲労の溜まった頭を働かせるはめになった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

終了