うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 ~ 長い凪の終わりに ~ 第十四話 文化は違えども、人の悩みは変わる事なく

第十四話 文化は違えども、人の悩みは変わる事なく

 

莫逆、水魚、刎頚、断琴、心腹、管鮑。

相手の信頼を欲するなら、曝け出し、尊重し合うことが必要だ。

 

 

薬品の匂いが満ちる治療の場は、闘争を禁ずる静寂の法則が敷かれているにもかかわらず、剣呑な気配に満ちていた。治癒の施された一人の患者を見守る四人の男の周囲を、武装した兵士が囲んでおり、一切の無駄な会話と余計な行動を許容しないだろうことが見て取れる。

 

さて、咎人を閉じ込め尋問を行うには清潔にすぎる牢獄は、時代を私の生前の時代にまで遡れば、ジュネーブ条約は捕虜の項に記された思慮に則って作られた人道的な施設である、と、反戦意思に富んだ連中が賞賛したかもしれないが、もちろんそんな殺戮と闘争を常とする世界とは無縁の彼らが、有名無実な効力に等しかった法を気にしてこのような部屋を用意したわけではないのは、部屋の内外を隔てる扉と窓が余りにも薄いことからも明らかだ。

 

なんてことはない、長く平和の時代を謳歌したこの世界において、罪人をきちんと閉じ込めておく部屋はもはや無用、一昔前に改築され、今や存在していないが故、我々はこうして治療のための部屋に閉じ込められているに過ぎないのだ。

 

「やー、困りましたねぇ」

 

部屋の中央で左右に均等の数の衛兵に守護されたクーマの壮年の顔には、軽妙な口調とは裏腹に、困惑と混乱の様子がありありと浮かんでいた。我々の目の前に立つ彼は常とは異なり、部屋に着飾ってあった鎧兜を着込み、槍盾を装着した完全武装の状態で我々の前に立っており、両脇を彼と同様クラスの手練れが固め、こちらの一挙手一投足に注意を配っていた。

 

もし少しでも敵対的な態度を取れば、即座に取り押さえる。兵士らのそうした毅然泰然とした防備に対する意識が露わな態度は、平時ならば賞賛に声をあげていたかもしれないが、いざ彼らの注視対象となった今では、少々鬱陶しい。いや、罪を犯した罪人に対して然るべき対応なので、文句のつけようないのではあるのだが。

 

「一応、規則なので、定型文で聞いておきます。なぜこんなことを? 」

 

クーマの問いかけに、男たちの視線が私に集中した。無意識の行動だったのだろう、三人は一人に責任を押し付けたかのような己の行動に、それぞれ居心地悪さを覚えたらしく、すぐさま視線を逸らしたが、彼はそれを見逃さなかった。

 

クーマの真剣な視線が私に投げかけられる。彼の目線の向かう先に気がついた衛兵達も私に鋭い視線を向けるようになり、我が身に降り注ぐ圧力は、より重いものへと変化した。

 

三人の態度より己に集中した疑問の視線を、けれど私は当然と思い、受け入れる。携帯磁軸を使った詳細な事情を知るのは、私だけであるからだ。彼らに非は、ない。あえていうなら、その手段を提案し、実行した罪はあるかもしれないが、そのきっかけとなったのは、私の言葉が原因だ。すなわち、こうして閉鎖空間に隔離され、尋問にて責められるべきは、進んで法を破る指示を出した私だけなのだ。

 

―――さて

 

向けられる監視の視線に、私は己の知る真実の情報を言うべきかどうか瞬間だけ悩んだが、もしこのまま口を閉ざしていた場合、私を信じて行動を起こし、拘束の扱いを受けている彼らが謂れなき罪により罰せられるだろう事を嫌って、話す決意をした。

 

「わかったよ、クーマ、話そう。だが事情は、例の件にも関している」

「――――――いいでしょう」

 

私の口調と態度から、内容が魔のモノ関連である事を察ってくれたのだろう、クーマはハンドサインで周囲に指示を出し、屈強な兵士たちに部屋の外で待機するように指示を出した。

 

兵士たちはその、犯罪者の意見を素直に受け入れ、司令官を守りもない状態で対面させろ、と言う指示が出た事に驚愕し戸惑ったのか、少しばかり困惑に身を揺らしたが、やがて彼を疑った事実を自戒したのか真剣な表情へと変化させた上、恭しく礼をクーマに返すと、大きな体躯で小さな扉をくぐり抜けて外へ出ていった。

 

私は彼らが理不尽を含む命令であるにもかかわらず、文句一つ言わずに従う様に、クーマという男に対しての絶対の信頼を見つけるとともに、整然とした身のこなしに弛まぬ練兵の証を見つけて、小さく感心の吐息をついた。

 

クーマは彼らが出て行ったのを確認すると、己も扉の外へと顔を出し、部屋の入り口の両脇を抱える彼らに他言無用の指示を出した。流石に見張りまで退去させることができなかったが故の処置なのか、あるいは、見張りの彼らは事情を知る相手なのかもしれない。

 

彼らから了承の意を含む鎧兜が擦れる金属音が静かな空間に響き、遅れて承知の返答が返ってくる。クーマは満足そうに頷くと、扉を閉めて、わざわざ鍵までをかけて、振り返ると、笑って言った。

 

「さて、では、詳しい事情を聞かせてもらいましょうか」

 

 

魔のモノの成り立ちから、言峰綺礼という男のあれこれ、魔術のなんたるかまでを予測含めて、知る限りの知識を一切合切話し終えた私は、全てを話し終えた際、大きく息を吸い込んだ後、長い安堵のため息を吐いた。一人で抱え続けてきた重荷を下ろせた事で、多少心持ちが軽くなったのだ。

 

「―――事情はわかりました」

 

私とは逆に余計な重荷を背負い込んでしまったクーマは、しわを寄せた目元を揉みほぐしながらなんとかその一言を吐き出した。

 

重苦しい吐息は、今話した荒唐無稽の内容をどうにか理解してやろうと言う気概から生じる思考が、しかし、如何にもこうにも彼の知る常識からすれば内容があまりに非現実的すぎて、完全な理解と受け入れを拒む脳みそにて沸騰し、その蒸気が漏れているようだと感じる。

 

熱の吐息に誘引されるよう視線を周囲に移してみれば、仲間の四人のうち、戦闘後より眠りについている彼女は別として、一人は椅子に背を預けて小さな頭を抱え天井を向き、一人は長身の体を小さく纏めた状態で前かがみ気味の姿勢で両の太ももに置いた両腕で顎を支えて地面に視線の向け、一人は静かに瞑目したまま自然体の状態で唇を緩ませていた。

 

前者男二人の方は、おそらく必死の理解を試みているのだろう事が、お手上げの見本のような姿勢から見て取れる。そんな二人とは別に、後者の一人は今の話の内容を聞いて心を躍らせたようだった。体全身から溢れる喜びが抑えてきれていないのが、上向きの三日月に形成さられた口角と、小刻みに揺れる体の様子から見て取れる。

 

おそらく、彼の閉じた柳眉の奥にある脳内では、今しがた私が話した過去の物語を忘れぬよう、何度も反芻しているのだろう。きっとそのうち装飾をして、寝物語や詩吟の題材にでもするつもりなのだ。いやはやなんとも呑気と言うか、豪胆というか、独特な感性と性格をした男である。

 

「―――それで、君は法を破った私に対してどんな判断を下すつもりだ? 」

 

私は彼らの様子を尻目に、クーマへと己の罪状を問うた。彼はしばらくの間、瞑目したまま手を、額に、後頭部に、顎に、頬に、せわしなく移しつつ、頭の居場所を定めないまま懊悩を隠そうともせずに深く考え込む様子を見せていたが、やがてようやく結論を出す事を決めたようで、一つ大きく頷いて見せると、吸って肺の中を一杯に満たし、吐き出した。

 

結論に達するまでに削ぎ落とされた思考の余分が漏れていくかのように、月明かりに照らされた室内の地面へと吐息が落ちて、吸い込まれてゆく。やがて吐息の行方が不明になる頃、彼はもう一度、今度は静かに首を振ると、瞼を開けてこちらを向いた。

 

「―――、事情は、確かに伺いました。また、聞かせていただいた話にあった、伝承に則らねば倒せないという敵の特徴からは、あなたが違反をしてでも大地を破壊し、転移装置で敵を地上へと送らねば倒せなかったと判断した理由も理解できます。エミヤという男がくだらない嘘をつくようなタイプでないことは承知していますし、光を浴びて悶え苦しんだようだ、との衛兵からの報告もありますゆえ、おそらくその話も真実なのでしょう。―――ですが、何があろうと、貴方達は多くの人の前で重大な規約違反を行いました。この事実はどうあがいても、覆す事が出来ませんし、これを見過ごす訳にはいきません」

 

なるほど、彼の言い分は一々最もだ。なんと言い繕おうと、違反は違反。法の多少の弛みを見逃すは日常を楽しく生きるための清涼剤になるかも知れないが、かといって街やそこに住む人達の重大と呼ばれる不法を疎かにすれば、その先にあるのは荒廃した世の中だ。

 

最低限守るべき法があり、良心を持った人々がそれを遵守するからこそ、その場所に住む人々は緩い縛りの中で安寧の時を謳歌できるのだ。かつての世にはついぞ存在し得なかった平和という絵空事に過ぎぬ空想を求め、生前は正義の味方を目指すものとして、死後は英霊として戦場を駆け抜けた私は、クーマという男の判断を間違っていないと考える。

 

「―――天井だけなら戦いの余波で生じた意図せぬものであった、などとでも言い繕えたかもしれませんが、転移装置を用いての、無断での生きた魔物の転移は、明らかに意識しなければ出来ない所業であり、また、結果の目撃者が多数います。しかも、転移した相手は番人です。可能性は低いと思いますが、この案件を放置すれば、いつか、同様の掟破りによって、地上の衛兵や冒険者達に被害が出るかも知れません。あるいは、街の住人にまで被害が及ぶかも知れない。私はなんとしてでもそれを避けねばなりません。……ですから、エミヤさん。と、異邦人の皆さん。申し訳ありませんが、私はあなた達を―――」

 

歯の上下を合わせて左右に大きく伸びた唇が次の言葉を発する前に、彼は歯を噛み締めて、口は固く結んだ。そして少しばかりモゴモゴと口を動かした後、咳払いをして改めて述べる。

 

「追放しなくてはなりません」

 

さて、そこで私だけの罪でなく、異邦人の彼らをも巻き込んで罪状を宣言したのは、あるいは、罪科の責任を分散させる事により、私の罪を少しでも軽くしようとする、クーマという男の優しさのなのであろう。

 

また、先程の口籠もりの際、「い」に属する言葉を発しかけた口の動きと、今しがた発せられた追放という言葉から察するに、おそらく本来、言葉は、処断とか、処分とか、処刑とかの、命を奪う罰則に関するものだったのではないかと予想した。

 

おそらく、私―――否、我らの罪科をエトリアの法に照らし合わせた時、罪人の命の摘み取りが最も適当な罰であると無意識のうちに理性は弾き出したが、その理性が言葉となりて世に生まれ、もはや後戻り出来なくなる寸前で、彼は感情の力を使って、それを腹の中に収め、直前で己の結論を、民衆が納得するであろう範囲で変換したのだ。

 

しかしそれでも、追放という、常日頃は使用する機会もそうそうないだろう言葉を発するのはよほど重圧だったと見える。胸の裡の真意を語らない彼だが、唇を食み、目線を泳がさぬようあえて強固にこちらを見つめる眼差しからは、為政者として初めて下す判断故の戸惑いと、知り合いを裁かねばならぬ苦渋と、しかし街を守るものとして引けぬという確固たる決意が映っていて、追放の宣告が本心から生じた発言でないという事が見て取れた。

 

「―――、そうか」

 

私は彼の様子を眺め、ひどく不憫に思った。同時に、彼に対し、罪悪感を抱く。彼が本来ならそのような判断を下したくないのだということは、その所作から十分すぎるほどに読み取れた。彼は今、真実と現実の、個人の判断と街の守護者としての立場を天秤にのせて出した結論に、どうにか折り合いをつけようと必至に悩んでいる。

 

彼は、私の語った内容が真実と理解し、私たちが違反せざるを得なかった理由は納得できているけれど、その、魔のモノという存在を前提にした内容を現実に生きる街の住人に語るわけにいかないという事実のため、私たちを罰せざるを得ないという状況に苦しんでいる。

 

法の番人ではあるけれど、法が他人を害するようならば、多少のお目溢しは構わないだろうと考え、そして実際に委細問題なきようなら迷わず実行する、裁きの天秤の秤に悪意という錘が乗っていなければ、針が善の側に傾くよう調整してある、彼という善人らしいと悩み方だと、私は思う。

 

「それで、エトリアからどこのあたりに追放されるのですか? なるべくなら、刺激に満ちた場所であれば嬉しいのですがねぇ」

 

クーマの懊悩を推測していると、ピエールの涼やかな声が夜の闇を割いて静かな部屋に響いた。皆の視線が彼の元へと集中する。彼は集まった熱に反応して反射的に楽器を鳴らそうとし、しかし指先が空を切った事からようやく竪琴を取り上げられている事実を思い出したらしく、少しばかり不服そうな顔を浮かべた。

 

「―――そうか……」

 

ピエールの茶々からクーマは何かを思いついたらしく、暗澹の顔に歓喜の色を取り戻した悲喜半々ほどの複雑な顔で、己の発見を喜んでいた。

 

「何か名案でも? 」

 

すると彼は悲喜交々の表情の中にさらに真剣味を加えて、静かに口を開いた。

 

「―――、ええ、一応。まぁあくまで、私にとって利のある提案、でしかないのですが」

「……聞かせてもらおうか」

「では。―――皆さん。執政院冒険者担当政務官クーマは、貴方達の追放場所を、新迷宮の五層に致したいと思います」

「―――は? 」

 

彼の言葉に間抜けな声を出したのは誰だったのか。私は彼の言った言葉をすぐさま咀嚼し終えると、疑念と抗議の視線とともに、言葉を送る。

 

「君は馬鹿か? 」

「おや、手厳しい」

 

悪辣な批評に対して、クーマはしかし先程とは一転して飄々とした態度で、笑っていた。

 

「いや、元の上役に言うのもなんだが、エミヤの言う通りだ。罰というは、本人に厚生の機会を与え、犯した罪の反省を促し、同時に、周囲の人間には、法を破った場合に己の身に降りかかる被害を示し、再発の事態を防ぐ事を目的とするものだろう? ならば、法を破った冒険者を、違反したその場所へただ送り込むだけの処置を、罰則と呼べるかは甚だ疑問であるし、無理があるんじゃないか? 」

 

そのクーマに私と同じような感想を述べたのは、ダリだ。実直と不器用を形にしたかのような男は、やはり法というものに対してはどこまでも誠実なようで、先のクーマの提案の問題点を指摘した。己を裁くものに対して物怖じせぬその態度は見事なものだと思う。

 

「ええ、確かに、ただ迷宮に送り込むだけの処置なら追放、ということにはならないでしょう。ですから、こうします。―――アリアドネの糸を取り上げ、転移装置の携帯を禁じ、樹海磁軸の使用を禁じ、その上で五層に追放し、さらには樹海磁軸を用いてのエトリアへの帰還も禁止します。もし仮に戻ってきた場合は、申し訳ありませんが、即刻、追放より重き厳格たる処置を取らせていただきたいと思います」

「―――なるほど、事実上の死刑宣告か」

「ええ、そう受け取っていただいて間違いありません。ただし―――、迷宮の奥にて五層を攻略した場合、すなわち魔のモノを封印した場合、報告のため、一時的に帰還の制限は無視して構いませんし、磁軸の使用をしてもらって構いません。また、その折に攻略の事実が確認できれば、つきましては情状酌量も考慮致しましょう」

 

告げられた条件を聞いて、私は彼が我々に何を求めているのかを悟る。なるほど回りくどいが、彼の望みは、先日の対談の時と初対面の頃と何一つ変わっていないというわけだ。

 

「なるほど、せっかくの戦力だ。どのみちどこかへと放たねばならぬなら、ついでに敵の心の臓を貫く鉄砲玉に仕立て上げてしまおうというわけか」

「まぁ、早い話がそうなりますねぇ。私としては、撃てば戻ってこない弾丸ではなく、貴方達には、是非、ザミエルのようになってほしいと思っているわけですが」

「と言うことは、親玉を倒せば、自らの胸を貫く必要もなく、使い捨てにならずに済むと? 」

「いえ、別に倒さなくとも、魔のモノを封じてくださるだけで構わないのです」

 

ピエールが割り込んで尋ねると、クーマは苦笑しつつも頷いた。そうして私の例えに得心の様子を見せる二人とは別に、視界の端でダリとサガが、会話の意味を理解しかねて、首を傾げるのが見えた。そうして彼らは小声で何かを話し合う。

 

さて何が彼らに秘密の囁きをしようと言うきっかけを生んだのかと聞き耳を立てると、どうやら鉄砲玉、ザミエル、と言う例えの意味がわからないのを恥と思ったらしい。なるほど、そういえば銃という概念はこの世界では珍しく、また、遠き過去の物語を知る者も少ないのだ、ということを今更ながらに思い出す。

 

おそらくその概念に纏わる人物の逸話と伝承をクーマとピエールが知っているのは、クーマは過去のことを詳細に収集している人物だ彼だからであり、ピエールは吟遊詩人という過去の物語を収集する人物だからであろう。

 

なるほど、本来ならこう言った点にも気遣いながら、日々、徐々に常識の擦り合わせをしていくべきだったのだ、と、文化の差異と擦り合わせる事に鈍感かつ無頓着であった己の醜態に気付き、軽く苦笑する。

 

いやはや、迷宮を攻略し、死病を無くすために宿と施薬院と執政院、道具屋と迷宮の五つを往来するだけの日々を過ごした代償とはいえ、こうも世間知らずの状態に陥っている事に今更気付かされるとは思わなんだ。

 

かつては魔術を使えぬ人間はご同類でないと見下し、隠遁と隔絶の生活を基本とした傲慢な魔術師を笑えもしない、我ながらなんとも大した世捨て人っぷりではないか。

 

「―――それで、如何でしょうか? 」

 

クーマはその強制追放令を、まるで提案であるかのように、こちらの意思を問うてくる。いやきっと、真実彼は、こちらの意思を確かめようとしているのだ。おそらく、ここで否と返答すれば、彼は単なる国外への追放令に、その命令内容を変更するに違いない。

 

そこで、クーマという人間が門番などの衛兵たちの間で好かれている理由が理解できた気がした。どちらかといえば机上にて最大の人間を救うために最小の人間を切り捨てる判断を机上にてあっさりと下す司令官ではなく、目の前にいる全てを救うために思考し、行動し、対応してやろうと苦慮する、現場の下士官にいるタイプ。

 

彼のその夢見がちな性質は位の高い役職に向いていないだろうが、どうにかして目の前にいる人間の事情を汲み取って、出来る限り全ての人に助力や救済の手を差し伸べてやろうとする態度は、それこそかつて、全ての困っている人に手を差し伸べる正義の味方というものを目指した私の目には好ましく見えた。

 

だが。

 

「ダリの言った通り、ルールを破った罪にしては罰の方向性が少々ずれている気がするが、本当に、それで君はいいんだな? 万が一の事が起きた際、その責任を取る覚悟があるのだな? 」

 

仮にも住人の生命や財産を脅かす行動をとった罪人に対する罪に対する罰としては、再犯防止のための思考の矯正や行動の制限といった処置を含まない帰還の条件が、やはり少々的を外れている罰則で、エトリアの秩序と平和を保つためには緩すぎる。

 

問いかけると、は続く無言の中に、私の知る過去の常識に則った抗議の意思をこめて疑問を呈すると、彼は、にこりと笑って、彼は迷わず返答する。

 

「ええ、勿論です」

 

短くも断固とした不退転を示す言葉は、為政者が法を破る態度にしてはあまりに勢いが良すぎて、思わずまじまじと見つめてしまう。

 

「―――昔のことです」

 

彼はそして、私が視線に込めていた正気を問答する意思を受け止めて苦笑いを浮かべると、ため息を一つ吐いて独白を始めた。

 

「かつて私の前任者は長きにわたって、いわゆるヴィズル式で冒険者たちのまとめ役の職務を執行しておりました。つまりは法を犯した人間はいかなる理由があろうと処断する、簡単に言ってしまえば、法を人の上に置く主義の人間でした。……、あまり詳しくはお話しできませんが、当時、エトリアの住人であった私の両親は、そうして情を挟まない、一切の情状酌量をしない彼の判断により、二人ともに亡くなりました」

 

両親の死を語る彼の口調は淡々としていて、感情を努めて込めないようにしているように見受けられた。つまり―――、彼は、この世界の人間にしては珍しく、己の過去に起きた出来事に対して負の感情を抱いき続けている人間なのだ。

 

しかし、かつて響達の言っていた言葉を思い返すに、彼は同時にその出来事に対して好意的な感情を抱いているという事にもなる。両親の死をもたらしたという事実のいったいどこにそんな感情を抱く余地があるというのか。

 

「それで、その事が気に食わず、意趣返しのために今回の判断を? 」

 

はしたなくも彼に対する興味がむくりと湧いた私は、思わず聞き返した。

 

「―――、ああ、ええと、すみません。今の言い方ですと、前任者を乏して、そのように言っているように聞こえましたか。―――いえ、違います。こう言っては薄情に聞こえるかもしれませんが、私は別に彼のことを嫌っていたり、その判断を間違っていたなどとは思っていません。……まぁ、両親の死についてはもちろん、残念だったとは思っていますが」

「――――――」

 

予想外の返事に戸惑う。少し拍子抜けした気分をも味わった。

 

「ええ、ですが、やはりあの時の彼が下した判断が間違っていたと、私は思っていません。ただ、結果として、法をきちんと遵守した結果、私の両親が死んだという結果だけが残った。それだけのことなのです。前任者の方は、法を至上とすることでエトリアと街の人々を守ろうとし、しかし完全な守護を達成する事は叶いませんでした。彼はそのことで悩んでいました。そして、己の悩みが消える事実にもまた、悩んでいました」

 

彼は虚空を見つめて目を細めた。そうして過ぎ去りし昔の時を思い出す彼の瞳には、過去の出来事を愛おしく懐かしむ念だけが秘められていて、クーマが、その両親の死の原因となった前任者に対して負の感情を抱くどころか、敬意を抱いている事を、私は確かと理解する。

 

「日を跨いだ際には消えてしまうそんな後悔と反省の思いを、しかしなんとかもちこそうと、その日の心情と進捗を日記に毎日つけて読み返し、どうにか街を今より良くしようとしていました。彼は本当に必死で、法と職務に忠実で、またエトリアという街を愛した男でした。そんな彼の姿を見てきた私が、どうして、彼のことを憎いと思えるものですか。誰がいい悪いとかでなく、ただ、誰もが正しくあろうとした結果、不幸な事が起こったというだけの話なのです。―――そして、だから、私は、少しだけやり方を変えることにしたのです」

 

彼は瞑目すると、我らの方へと背を向けて、入り口扉の上に頭を向ける。彼の言葉を遮るものは誰一人としていなかった。私情を語り、思想の変遷に対して余計を挟まない思慮分別を持ち合わせた者達の思い遣りが、牢獄となった白き部屋を柔和さで満たして、居心地の良い空間へと変遷させていた。

 

「およそ完全とは程遠い人間が変化を当然とする世界で生きてゆく以上、心に、体に、傷を負うことは避けては通れません。掌に掬った水はどれだけきつく力を込めようが、やがて指の隙間より幾分か溢れて落ちゆく定めにあるように、どれだけ正しくあろうと人を締め付けても、過ちは思わぬところから起こってしまうものなのです。しかもそんな場合に限って、当事者たちにとって、まともな手段では手遅れな事情が絡んでいたりするのです」

 

今のあなた達のようにね、と彼は笑う。私はその寂寞を含んだその笑みに、同病者を憐れむ感情を見つけて、おそらくそれは、彼が言っていた両親の件があったらこその情けなのだろうと思った。ならばきっと、この独白は我らに対する説得でなく、彼自身が懊悩する己を納得させるための羅列なのだ。

 

彼は今、私たちの事情の中に過去の己の無力の嘆きを見つけ、そんな我らを救うことによって過去の己を救えると思っているのか、必死になって我らを救う理由と理屈を見つけ、個人と為政者の立場の間に手迷う己が納得いくような結論を得ようとして、言葉を重ねている。

 

故に私は何も言わない、答えない。悟りの境地に至るのに他人の言葉は無用のものだからだ。

 

「そんな、本人たちの意思に関係なく起こってしまった出来事を、悪意なんて介在しない出来事をわざわざ裁くなんて、馬鹿らしいじゃないですか。だって、この世界においては、心身共に早々大抵のことは取り返しがつくのです。例えば肉体が損失するような怪我だって、ハイラガードに存在する高度な医療施設を利用したり、あるいは、アーモロードに多く住まうアンドロという彼らの手を借りることができれば、今まで以上の力を持った機械の肉体を手に入れることもできます。心的な傷だって、意識しなければ基本的にはその日のうちに消えてしまうのです。そう、ですから、大抵の出来事は、この世界においては、完全でないけれど、完全といえるほど取り返しのつく事なのです。そんな、取り返しのつく事にいちいち目くじらを立てて、街を守るためとはいえ、雁字搦めに他者の定めた理屈を強要して誰かを不幸にするというのは、いかにも真面目過ぎて、愚かしくて、好ましくない」

 

長くて紡がれた言葉には、今までで一番の力強さがあった。きっとそれが彼の本心からの思いなのだ。彼は他者の定めた法によって、両親を失った。今の話の内容から察するに、その前任者が法に基づいて下した判断はたしかに正しくて、また、彼の両親は法を破らざるを得ない理由をなにか抱えていたのだろう。

 

そして、結果、望まぬ事に、彼はエトリアに敷かれている法によって両親を失った。それは、街と街に住む人を守るために正義を執行した結果と理解はしているけれど、しかしだからといってそんな理外の事態に弱い普遍の正義を信奉しすぎる事によって生じる犠牲を良しとしておらず、嫌っている。

 

だからこそ彼は、多少の横紙破りを許容し、他者を出来る限り拾い上げようとする人間になったのだろう。

 

「―――、ん、んんッ、失礼しました」

 

彼の独白から彼という人物の背景と性格を推し量っていると、彼はようやく己の話が本筋から脱線して、己の判断に対する言い訳になっている現状に気がついたようで、熱弁に込められていた想いを発散させてやるべく二度ほど大きくわざとらしく咳払いすると、襟首を正して場を仕切り直す。

 

「ええと、何のお話だったのか……、ああそうです。罰が本来の意図とずれているかもという話でしたね。―――、ええ、構いません。別に構わないのですよ」

「それはなぜ? 」

 

今度こそ脱線せぬように、疑問にて話しを継いでやると、意図を汲み取ったのか、彼は赤面を誰もが好ましいと思うような微笑みに塗り替えて、続けた。

 

「……、エミヤ。我々は森羅万象と共存し生きる人間なのです。自然と、誰かと、共に生きることを決めた私たちは、そして自然のエネルギーというものを自己生産する事が可能となった私たちは、その生業経済の余剰で市場経済を行なっているに過ぎないのです。先に言った通り、元通りにならないものは殆どない。だから余計なものを溜め込まないし、そしてまた、魔のモノによってではありますが、負の感情を溜め込めない特性を持つ。この世界に住む全ての人にとって―――もちろん個人の感性や街の文化によって行動や物品に多少の価値の差異と大小こそありますが―――、起きた出来事によって生じた損失を補填できないような代替不可能は、命以外に、ほとんどないのです」

「―――だから、法を犯したとして、その行為が悪意や害意のうちに行われたものでないのならば、等しく厚生の機会を与え、反省を促し、損失したエネルギーによって崩れた天秤の釣り合いを、別の代価にて補填させる事によって、その罪を赦すべきである、と」

 

罪には罰を。しかして、取り返しのつかないことが少ないこの世界、咎人がその事実を大いに大いに反省し、その後、犯した罪に見合うだけの功を積み上げたのなら、その時は彼らを赦して受け入れるべしというのが、彼の信ずる正義のあり方というわけだ。

 

「はい。ですから、貴方たちの天井の破壊行為や、無許可での携帯転移装置利用というもの

は、たしかに意図的に行われた重罪ではありますが、とはいえそうせざるを得ないだけの事情はありましたし、故に同じくらいの功労でかき消すことの出来るものでもあると私は判断しました。幸いな事に取り返しのつかない犠牲も出ていません。であれば、貴方がたが、もし追放された先で、魔のモノの拡大、すなわち赤死病の拡大という問題を解決し、迷宮で謎とされているものを解明してくださるなら、間違いなくエトリアの住人は貴方がたを再び受け入れるでしょう。―――いや、まぁ、魔のモノ云々の真実の部分は、もちろん隠さなくてはならないのですが」

 

なるほど、財と資本に基づく威信社会というよりは、原始的な豊かさを前提とベースにした世界。だからこそ、あらゆる行動は平等の天秤の重りとして釣り合う価値を持ち、例えば此度の場合だと、生存を脅かした罪は、生存を脅かしているものを排除する事で、功罪の等価交換が成立するという事か。

 

「―――改めて、いかがでしょうか」

 

そうして司法取引を持ちかけてくる彼の顔を見つめる。真剣を態度には私がどう答えようと、己の信念は曲げぬし、なんという返答であろうと恨まぬという清々しさがあった。

 

その清涼の心意気に愉快の念を感じてさらに踏み込んでその瞳を見つめると、しかしその長閑な瞳の奥に多少の暗い寒星の如きものが混じっていることに気が付ける。それはかつてこの世界にくる以前、その感情を己の身に宿し続けていた私だからこそ気が付けるほど小さなものだった。

 

その感情の名前は憎悪と執着と後悔だった。おそらく、憎悪の感情は、彼が必死に抱え込んでいる前任者に対する鬱屈としたものより生じたもので、残りは、しかし彼の責任ではないと理解しているが故に生まれた、御しきれぬ己に対する怒りより生じたものなのだろう。

 

かつての世で多くの人の原動力となった感情は、やはりこの負の感情の貯蓄が難しい世界においても、その、小さな量でも人を大きく動かし頑固にする特性は健在のようである。

 

そうして清濁合わさった、しかし矛盾した必死の想いを抱え続けた結果こそが、彼の頑なさの源なのかと私は納得した。ならばもはや、これ以上の詮索は野暮というものであり、その必死から導き出された彼の提案に答えぬは無情が過ぎるというものだ。

 

私はもはや彼の提案を受けることを腹に決めていた。ただ一つだけ、聞いておきたい事がある。それは―――

 

「クーマ。もし仮に、私が断ったのならば、君はどうするのかね? 」

「―――べつに、どうもしませんよ。残念だなと思いながら、あなた方をエトリアから追放するだけです。その場合、おそらく二度と会う事は叶わないでしょう……」

 

彼はこともなさげ、そして寂しげに言った。

 

「魔のモノを封じる必要があるのだろう?」

「ええ。ですが、だからと言って人に無理を強いてまでやっていただこうとは思いません」

 

やはり彼は為政者の長たるに向かぬ性格だ。彼のその甘きところはいつか彼に後悔の事態を招きかねない。余計なお世話とはわかっていながらも、私は犠牲に対して甘い見通しを持つ彼の性分に対して、ついつい口を出してしまう。

 

「なぜだ? それをせねば、人が多く死ぬのだろう? 解決を望める人材がいるのであれば、多少強引にでも実効を要するのが正しい判断だと思うが」

「ええ。ですが、だからといって相手の意思を尊重せずに無理を強いて死地に追いやるというのなら、そんなもの、死病の残酷さと何一つ変わらないじゃないですか」

「その果てにあるのが滅びであっても、君たちは受け入れるというのか? 否、君は、君だけの判断で、エトリアという土地が滅びゆくのを良しとしようと考えているのか?」

「いえ、もちろん、そんなことは考えていませんよ。断られた場合は、私たちが直接足を運んで、封印の作業に取り掛かるまでです。もちろん、我々はあなたやあなた方よりも力がありませんから、成功の確率は低いでしょうし、かといって迷宮の特性上、人海戦術はかないませんから、戦力の逐次投入する愚を繰り返すこととなりかもですが、まぁ、潜入と撤退を繰り返して情報を集めるうちに、成功するでしょう」

「もう一度聞く。多くの犠牲が出るかもという愚行に頼らなければならぬを自覚していながら、なぜそれを覆せる力に強いようと、利用して頼ろうとしない」

「もう一度同じことを言います。強いるのでは意味がないからです。大義とか使命とか、そういう他人の事情を理由にして履行される行動は、成功するにしろ、失敗するにしろ、結果を与える側にも、与えられる側にも、言い訳の余地を残します。だからダメなのです」

「それは強者の理屈だ。大抵の人はそこまで辿り着く前に諦める」

「ええ、かもしれません。ですが、この世界では、望めば、誰もが強者足り得るのです。そこに至る苦痛の大半はその日のうちに消滅する。己の世界を変えたいと貪欲に願い、至誠に力を尽くせば、誰だって好きなように生き、やがて満足のうちに死んでゆける―――、誰か知り合いにそんな人がいた覚えはありませんか?」

「―――」

 

クーマの言葉に、かつて自分勝手に生きた結果として、我らを守り、死んでいった男のことを思い出した。彼は様々なものを抱えながら邁進し、そして笑いながら死んでいった。もし果てにあるのが避け得ぬ死の未来だとしても、あるいは彼らもそのように満足の感情のうちに冥府へと旅立てるのだろうか。

 

―――いかん、呑まれるな

 

この問答に明確な回答はない。他書の事情を汲み、己の正義を押し付ける事なく、その上で交渉に臨む高潔な態度は人として尊敬出来る態度であるが、彼は学習と経験からか、彼は、頑ななまでに、己の出した答えは他者にも適応できる事を正義であると信じている。

 

その無気力や諦観とは異なるものより生じた絶対の強固さは、もはや信仰といっても過言でない。楽観を極めた果ての妄信は破滅を招きかねない。万人に適応する正義などありえないのだが、おそらく彼はまだ、己と属性の異なる正義の衝突により致命的な失敗をした経験がいないのだ。いや、もしくはしているからこそ、こうも強固な態度をとるのかもしれない。

 

ともあれ、目の前にいる彼は、私らが提案を拒否した場合、間違いなく、先の宣言通りの事を実行する。そして犠牲を厭うことなくやり遂げるか、あるいは、失敗するだろう。

 

―――これは断れんな

 

「私は構わないが―――」

 

言って、仲間三人の方を向く。元々は私の無茶な提案に素直に従ってくれたが所以の、追放令だ。仲間の暴走を止められなかった点は罪に値する部分もあるかも知れぬが、だからといって、私に付き合い、この世界おいて唯一代償の効かない命というものを投げ出すような真似をする必要はない―――

 

「もちろん俺も、いくぜ! 」

「それが罰というなら、粛々とこなすだけのことだ」

「ま、未知の刺激があるのですから、引くという選択肢はありませんよねぇ」

 

が、そうして私に付き合わされただけの彼らは、なんの迷いもなく死地への旅路のチケットを受け取って見せた。おそらく三者三様の信念や正義に基づいただけの考えがあるのだろうことが、それぞれの表情から伺える。

 

以前までの私なら、その判断を誤った物だと決めつけ、引き止めるために言葉を尽くそうとしたのだろうが、今の私はそんな無粋をしようという気にはならなかった。彼らには彼らの意思があって、彼らは己の意思で道を選んだのだ。ならば、そこにケチをつけると言葉は、それだけで彼らの決意を汚す醜悪になる。

 

ただ、三人のそうした迷いの判断にどうにか報いたいと考えた私は、瞼を閉じて、静かに会釈した。一瞬の礼の後、瞼を開けて、再び月とランプの灯火が照りつける室内に視界を戻すと、三人はどこまでも自然体で、私の方を見て、やはりそれぞれ固有の笑みを見せていた。

 

「まったく、揃いも揃って馬鹿ばかりだな」

 

彼らの返礼に、私らしく皮肉げな笑みと言葉を返して。

 

「―――そして、もちろん私もいきます」

 

そんな私の言葉に遅れて聞こえた声に、我々は視線を部屋の中央に置かれたベッドの上へと移し、十の眼が寝台の上で上半身を起こした少女を捉えた。

 

「……、しかし、君は―――」

 

ダリがそこまで言って、言葉を詰まらせた。彼の言わんとしていることは、なんとなくわかる。おそらく彼は、先程私が葛藤したように、己らの我儘に他者を死地へと付き合わせたくないのだ。しかし今、そんな無垢たる存在である彼女は、自らたちと同罪である彼女は、そんな選択を許される立場にないし、また、待機を強要できる謂れもない。

 

できることなら、平和と言える場所で安穏としていてほしい。だが、そんな事を言える立場でないし、状況でもない。その相反する思いが彼の思いを、続く言葉ごと取り上げているのだろう。

 

「大丈夫です。私、これでも覚悟できてますし、ご存知の通り、そこそこ強いですから」

「―――そうか」

 

去勢ではない言葉に、彼は黙り込む。ダリの思いやりはしかし、単にそれだけの所作だと、このように力不足を懸念しての口籠もりだと勘違いされてしまうだろうと思えた。いっそ思いの丈をそのまま言うか、あるいは素直に釈明の言葉を吐いてしまえば勘違いもなくなるだろうに、なんとも不器用な男である。

 

―――まぁ、生前他者の理解を求めようとしなくなった私が言える台詞ではないか

 

結局、唯の一度も己の真意の理解を求めず、相互理解を諦めて処刑された私が言えた事ではないか、と内心自嘲する。そして私は、彼の代わりに断言した彼女の顔をもう一度だけ覗き込んだ。その瞳に少しでも躊躇の色があれば引き止めてやろうと思ったのだ。

 

「――――――」

 

だが、返答を待って無言を貫く彼女は、寝起きに体をふらつかせながらも、その小顔の中央上部の瞳はランプの炎を写したかのように、しっかりと希望の色に輝いていた。しかし暗がりの中、月明かりがによって照らし出された少女の姿には、この世界に生きる人間にしては珍しく、狂気の色が宿っている事にも気が付ける。

 

光の加減により紫がかっても見える顔色に、、私は一瞬、やはり彼女を引き止めるべきかと考えたが、忠告したところで彼女も追放の処置を受けることには変わらないわけであるし、こうして罪を彼女にまで被せてしまった私にどうこう言う資格はないかとも考え、やめた。

 

「―――では、全員の意見は一致ということでよろしいだろうか? 」

 

あるいは口を挟むだけ、彼女のその狂気を膨れ上がらせるだけかもしれぬ。故にこの判断は間違っていないのだと己に言い聞かせるように、他の仲間を見渡して、最後の意思確認をした。そうして、彼らが一斉に頷いたのを見届けると、私はクーマの方を向いて告げる。

 

「―――、というわけだ。その話、ありがたく受託させて頂こう」

「承知しました」

 

了承の返事にクーマは安堵のため息を吐くと、少しの時間だけ瞑目し、やがて言う。

 

「では準備が整い次第、早速追放の処置を実行させていただきたいと思います。―――貴方がたの装備の修理修復の作業と、道具の整理のため、本日この時より二日間の猶予を与えます。つまり追放の時は、明後日の今頃。準備が出来次第の出立となります。貴方がたの装備品はこちらで預かり、我々で整備を行う予定ですが、修繕におきまして懇意の場所があるようでしたら、おっしゃってくださればそちらに依頼することも考慮いたします。また、不足の道具があれば、一部を除いて出来る限るご用意しましょう。―――ああ、そうだ。衛兵に言ってくだされば、親しい人を呼び寄せることも可能ですが、如何致しましょうか? 」

 

共同体からの追放という、かつての時代であるなら死刑宣告にも等しいそれに似つかわしくない手当ての厚さと親切に、私たちは揃って苦笑すると、それぞれが願望を申し出るため、口を開く。

 

「―――そうだな」

 

各々が己の意見を述べる中、私は脳裏に一人の人物のことを思い浮かべて、目の前に彼へと要望を言う。やがてその願いが問題なく受け入れられたのを見て、私は重罪の刑を待つ囚人にはとても似つかわしくないような静かな笑みを浮かべて、満足の心地を得た。

 

 

クーマが去った後、再び解放されていた扉は閉ざされ、部屋には病人が休む場所に相応しい元の静けさが戻ってくる。しかしながら初夏を過ぎたこの時期、夜は寒さがあたりを支配する時刻とはいえ、先程までクーマが発散していた熱気も相まってか、部屋の中には暑風至る初候の雰囲気が満ちていた。

 

あたりに観察の視線を這わせてみれば、その服をはためかせたり、あるいは手扇にて体温を下げようと試みている人間が半数以上を占めているのを見つけて、熱気が私のみが感じたものでないことを確信すると、立ち上がる。

 

そうして部屋を横断し、換気を兼ねて窓を開けようとして、しかし固く閉ざされたはめ殺しの透明なガラスを見て、私はため息を吐いた。罪人の身分で牢獄の扉を開ける要請をできようもないわけであるし、どうやら部屋に満ちる温度を下げる願いは叶わないようだ。

 

「―――明後日かぁ」

 

部屋の温度に耐えかねてか、少しでも体内の熱を発散しようとしたのか、サガが湿度のこもった重苦しい短い言葉を発する。日時の経過だけを表すその言葉には、その間延びした吐息が消える迄に要した時間から、複雑様々な思いが秘められていることを私は感じとった。

 

「―――すまない」

「へっ? 」

「私の指示とミスでこんな事態なり、君たちを巻き込んでしまった」

「―――なんだよ、それ」

 

告げると彼は、途端、不機嫌の態度を露わに抗議の声をあげた。謝罪の意思に返ってきた思わぬ反応に、私はたじろいで、窓側に体を仰け反らせる。その折、外界との境となるガラスが体に触れて、この世界の住人である彼らと向き合う事から逃げるなと告げるように、私の体をその場に押し留めた。

 

「―――エミヤ、おまえさ。前から思っていたんだけど、傲慢すぎやしないか?」

「―――、……なぜ、そう思った 」

 

サガの忌憚のない非難の指摘に驚く。

 

「なんていうかうまく言えないけれど、お前、俺たちと目線が違いすぎるんだ。多分、お前が過去にいろんな経験して、沢山抱え込んできた分、視野が広くなっているんだろう。なんていうか、そうして広くを見つめて沢山のことが見えすぎてて足元の奴らのことが見えてない。今の俺たちと対等のところにいない。だって、そうじゃなきゃ、肩を並べて一緒に戦った奴に対して、俺だけの責任だなんて謝ったりはしないぞ」

「……いや、……いや、それは、違う、私が謝罪したのは、あくまで私の判断でやった行為の結果に君たちを巻き込んでしまったことであって―――」

「ああ、もう、だからそれが違うっていっているんだ! 」

 

サガは苛つきを露わに素手で頭を掻き毟ると、両の手で両足の膝頭を叩いて、叫んだ。

 

「お前が判断した結果、この結末になったのは、事実だ! 多分、もう少し時間をかけて戦略を練れば、もっと違った未来があったかもしれねぇ! でも、もうなっちまったんだ! お前がいけるって判断したことに、俺たちがのっかって、そんでもって、この結末になった! みんなで選んでお前にかけて、でもそうやって選んだ結果がこれなんだ! でもこれは、みんなで選んでの結末なんだ! お前だけの責任じゃない! お前はそうやって一人で何でもかんでも抱え込んじまおうとするけど、それは、俺たちの意思とかそういうのをまるきり無視して馬鹿にしているのと同じだっていうことに、なんで気がつかねぇ! 」

「――――――」

 

絶句。私は彼の叫びにようやく彼が何を言おうとしているのかを理解した。私は彼という存在を、彼らという存在をあまりに軽んじて扱っていた。

 

彼は私を肩を並べる相手として見てくれていたが、しかし今、告白により、私は彼らのことを、戦友というよりか、戦力として数えられるだけの便利な駒として扱っていた事実を知った。その齟齬が彼にとって耐え難かったのだ。

 

「だから視点が高すぎるっていうんだ! 大層な過去を持って馬鹿みたい強いスキルを使えるお前にとっちゃ俺たちは小さな存在かもしれないけど、だからといって、俺たちの失敗まで勝手に抱え込むな! それはお前だけのものじゃない! 俺たちはお前の人生の添え物じゃない! 俺らが、俺が、過去の感傷を持ちにくい人間だからって憐れむのは勝手だけど、だからといって、俺が考えて選択した事実まで勝手に抱え込んで、人生の一部を勝手に奪い取ってもらいたいとは思ってない! 俺から、俺の人生の大事を勝手に奪うな! お前のその謝罪は、俺にとって、お前なんか小さな奴だって馬鹿にされてるようで、ムカつくんだよ! 」

「――――――、私は……」

 

彼の叫びは、おそらく、私がこれまで正義の味方として活動し、勝手に救済を与えてきたかつての世界の人達の、そしてこの世界の人たちの代弁だったに違いない。小さな彼が身を必死に震わせて吐き出すその糾弾は、思い上がり増長していた私の体を叩きのめした。

 

人の命はかけがえのないもので、人の命が失われるということは、機会の損失に等しい。そして少なくとも私以外の人間は、多くの命を代償として生き残り、他人の機会を簒奪してしまい空っぽとなった私などよりずっと価値があるはずで、だからこそ私は、困難に陥っている人を助けたかった。

 

そうして、価値のある人間が、機会損失の危機に陥っている際に救済を与えることで、私は価値ある彼らを助けたという価値が付加される。それこそが、過去に多くの人間を犠牲に生き残った私の罪悪を打ち消してくれるはずだった。それが私の在り方だった。

 

そうして勝手に命を刈り取った罪と勝手に命を救った罪を己の倫理にて数値化し、命を救った数を具体化することで正義の天秤は一見善側に傾いていると見なす、己の倫理観のみで命の重さを決めるやり方こそが、私の憧れた衛宮切嗣という男の正義の在り方だった。

 

私は決して、彼らの存在を軽んじているつもりはなかった。

 

けれどそうして、他ならぬ己のために、自分の力だけではどうにもならないと悩んでいる人全てに救済を与えたる正義の味方になりたいと願っていた私は、その実、切嗣のように、彼ら一人一人を矮小な存在であると軽んじて、各々個人が持つ正義を軽々なる価値としか認識しない偽善者に、再びなりかけていたことを気付かされた。

 

彼の言う通り、広くなりすぎた高い視点から俯瞰的に眺める多数の命の存在は、人の目でその価値の全てを測るにはあまりに大きすぎて、私は数の多い少ないでしかその重みを判断することが出来なくなっていた。そうして、彼ら一人一人の価値を数というものでしか推しはからず、貶めて、勝手に救済されて然るべき対象であると見下して認識していたのだ。

 

なるほど、先程の謝罪に憤怒の感情をぶつけられて当然だ。私は彼らのことを、単なる戦力の数という点でしか見ていなかった。彼は私のことを肩を並べて戦う人間だと考えていたが、私が彼らのことを単なる補助機材と考えていたとの宣言に等しかったのだから。

 

―――傲慢、だな

 

ようやく彼らと同じ場所に立とうという決意をしたというのにこのざまなのだから、なんとも笑えない。なるほど、かつての世界において、私が嫌っていた魔術師たちという存在が、己らこそは特別な存在であると傲る理由がよくわかった気がした。

 

そうして他人の持たぬ先んじた能力を持つことで他者よりも広くなってしまう視野は、己の価値観を酷く捻じ曲げ、己以外の他者という生き物の価値を下げてしまうのだ。

 

いやはや、そういった意味では、魔術を使った果てに英霊という存在に成り果てたエミヤという存在は、正しく「魔術」を極めた先にある存在としてまっとうな姿だな、と、今更ながら、馬鹿みたいに納得した。

 

「―――、すまねぇ、今のは言いすぎた」

 

やがてそうして彼の雄叫びによって己の歪みを気付かされた私がだんまりの態度にて自戒を続けていると、私の失言により瞬時に沸騰した頭は、溜め込んでいた負の感情が無かったからこそ、そうして発散した後すぐさま冷却できたのだろう、彼は素直な謝罪をしてみせた。

 

どうやらエトリアの真夏の夜の冷気は、火照る体をすぐさま湯冷めを通り越した状態にまで持っていったようで、頭を下げてくる彼の顔は、少しばかり青くなっている。

 

「いや……」

 

私は首を振るって、彼の謝罪の受け取りを拒否する。

 

「いや、謝罪を行う必要はない。君の指摘は正しい。言われてみればなるほど、たしかに、先程までの私は、たしかに、あまりに傲慢が過ぎていた」

 

そうやって数で他者の命を大小の数で判断し、ひいては人生を預かるなんていうのは、市政の中で生きる私の役目ではなく、例えば、他者より信を預けられた王とか、そういった為政者たちの役割だ。

 

他人から人生を預けられて当然と傲慢に振る舞うことを自然と行える、カリスマと呼ばれる能力を保有する綺羅星の英雄たる彼らならともかく、己の人生すらも己の願いを満足に抱えきれずにここまで来た私が、他人を数の一つにするなどという傲慢を一人勝手にやっていいはずもない。

 

私は所詮、他人より多少魔物と戦う力があるだけの凡百の存在に過ぎないのだ。そんなこと、他でもない私が他の誰よりも自覚していることである。私は入り口近くに佇む彼の元へと近寄り、そして、己の傲慢さを認めて頭を下げる事にした。

 

「―――すまなかった」

 

謝罪はそれが心底のものであったからだろう、常に簡単な言葉と皮肉の態度だけで謝意を示す私にしては、随分と素直に行えた。しばらくの沈黙の後、もういいよ、と許可の言葉が出たのを確認して、やはり素直に頭をあげた。

 

するとそうして私に謝罪の意を促した逆光に照らされて見え辛い状態の彼は、しかし酷く居心地悪そうにバツが悪そうな顔を浮かべているのがわかる彼はおそらく、怒りを露わにぶつけた対象の私がその感情を素直に受け止めて、はてには謝罪まで返されたことで、逆に己の中に生まれた感情の置き場を失って扱いに困っていた。あるいはこれがこの世界の住人のスタンダードな性質なのかもしれないが、馬鹿正直なものである。

 

私はそんな彼が、こうして私が見つめている限り気持ちが落ち着くことはないだろうと察して、彼に背を向けた。四角く切り取られた窓から満天の夜空より月光と星空の飛び込んでくる光景は神々しく、なるほど、かつてはこの光景に神の祝福を見つけて、イコンの中に祈りを閉じ込め、捧げた、東方正教会の信者達の気持ちがわかったような気がした。

 

東の果ての天空の大地の上、かつては最大の信徒数を誇った宗教の一分派に思いを馳せながら、夜空を見上げる。やがてくる救世主の存在などなかった世界の上では、かつての時代とまるで変わらぬ形を保つ眩さだけが、過ぎた年月を感じさせぬままに、足元を這う矮小なる有変の存在たちの営みを見下ろしていた。

 

 

問答よりしばしの時間が流れた。喧騒の雰囲気は自然と収まり、異文化との共存のために衝突があった跡地では、気まずさだけがあたりの空気を支配している。雰囲気に耐えかねて、響という少女が布団を頭から被って眠りの姿勢を見せたのを皮切りに、病室は本来の、休息の場としての役目を取り戻した。

 

その後、我々は二日後の出発に向けて英気を取り戻すべく、各々のやり方で睡眠の安息に身をまかせる事となる。椅子の上で部屋の壁に背を預けて眠る私は、もうあの赤い部屋の悪夢を見ることはなくなっていた。

 

やがて朝日が山脈の稜線を照らす頃、就寝の時は過ぎ去った事を告げる鐘の音が周囲一帯にばら撒かれた。大きな鐘楼のある中央広場に近いこの施薬院の中は、もちろん防音対策が施されているのだろうが、それでも耳をつんざく程の大きな金属音が部屋中を暴れまわり、壁面とガラスの設置部分を揺るがしている。

 

鼓膜を破らんとばかりに飛び込んでくる無礼な音を、己の三半規管と全身の筋肉でどうにか抑え付けて処理してやると、鐘楼の衝撃が脳裏の不愉快にならないうちに耳を塞ぎ窓の端に移動して遮光カーテンを開け、外の光景を眺め、第一の刺激の在り処を眼球へと移す。

 

常とは違う部屋の中から眺めた早朝のエトリアはまだ寝ぼけているようで、翡翠色をした屋根が覆う街のあちこちには、まだその下に多くの残影を残していたが、高い部分に存在する壁面と植物の葉はすでに陽光の恩恵を受けているらしく、十分な熱気を吸収させられたとでもいうかのように玉の汗を書き、多数の水滴を表面に生み出していた。

 

建物との間を縫うようにして窓より飛び込んできた日光の心地よき熱を全身に浴び、先の鐘の音により生じた不快を澹蕩の気分で癒していると、やがて遅れて起きる仲間四人の彼らが寝ぼけた面をしゃんとさせる前に、ノックの音が響き、再び室内にこだました。

 

「―――回診の時間だ」

 

無遠慮に扉を開いた衛兵は、一方的に用事を宣言して、その身を部屋の中から引いた。やがて職務に忠実な彼に変わって罪人の部屋に足を踏み入れたのは、見覚えのある小さな白衣を着込んだ彼女だった。

 

「―――どうも」

 

サコ。医者と言うには少々頼りなく見える彼女は、けれどこの医療機関において高い実力を保有している人物であり、同時に、他人の都合よりも治療を優先する胆力を持っている、医に関わるものとして十分な資質を兼ね備えた医師でもあった。

 

彼女が数歩中に足を踏み入れると同時に扉の閉まる音が鳴る。そうして外界と完全にシャットアウトされた部屋の中を迷いない足取りで進むと、彼女は響の寝ているベッドの前に立った。さて、どうするのだろうと皆が注視する中、やがて彼女は大きなため息を吐いて、近くの白いカーテンのついた衝立を手元に寄せると、言った。

 

「女の子の検診を行いますので、壁の方を向いていてもらえますか? 」

「―――、ああ、これは失礼した」

 

私含む男一同は慌てて椅子を持ち上げると、揃って入り口扉の方へと赴き、そちらを向く。男女の居場所を分ける境界が引かれた音がして、部屋の領域が二分された。入り口近くに罪人が密集すると言う異常に気がついたからだろう、扉の外の衛兵が足踏みをした音が聞こえたが、どうやら会話の内容から事態を察したようで、何も言ってはこなかった。

 

衣摺れの音が響く中、サコの問診と響の返事と微かに呻く声が聞こえる。

 

「―――、はい、もう結構ですよ」

 

しばらく続いた居心地の悪さは、そうして終わりの時を告げる。やがて挙動の許可が降りて私たちが振り向くと、サコは小さな体で衝立を端に退けて、衣服の乱れを正しているところだった。

 

「響さんの体にはなんの異常も見られません。―――、健康体です」

 

告げられた声に、我々一同は安堵の声を漏らす。口々に礼を言うと、サコはしかし、常とは異なった堅苦しい余所余所しさを含む返事を返してきた。

 

やがてそうしてその場から去ろうとした彼女は、男どもがたむろっていた入り口付近で足を止めると、戸惑った様子でその場で何度か両足を遊ばせ、やがて決意をしたらしくぎゅっと地面を踏みしめると、振り返った。

 

「―――やはりこれは、貴方がたが持つに相応しいものでしょう」

 

彼女は言ってメディックの治療具が収められている腰のバッグに手を突っ込むと、他人を癒す事を生業とする彼女に似つかわしくない刺々しい宝石を取り出して差し出してくる。金平糖のような形をしたそれは、部屋に差し込む光を反射して、魂を凝縮したものであるかのように眩く青い光を反射する。

 

「―――それは? 」

「わかりません。ですがこの宝石は、貴方がたの仲間の遺体を修復した際、体内から発見したものです」

 

言葉に、陽光の暖気で満ちていた部屋が、数時間ほども時を巻き戻されたような状態となる。冥漠と冷然の空気を生み出したのは、部屋の中心奥で、今まさに言葉を発した彼女のすぐそばにいる、彼女同様に小さな体躯の少女だった。

 

「―――彼の体内から発見した? 」

 

静かな繰り返しの言葉は、静かながらも荒々しい念が含まれていた。サコという少女が発した言葉は、響の心中をよほど強く揺さぶり、大事な場所を無造作に弄ったようだった。背後より聞こえてくる呪いの怨念すらも篭ったようなその言葉に、サコと相対し扉を向いている私を含めた男どもは、一切の身動きを封じられていた。

 

ただ、そうして激情を迸らせる彼女の情念を正面から浴びせられているはずの、サコという少女だけがその激しいパトスを受け止めたらしく、彼女の方へと物怖じする事なく近寄った。職業柄、そのような念を浴びることに慣れているのかもしれないが、それにしてもなかなかの度胸である。

 

「ええ。以前、貴女方から死化粧の依頼を請け負った際、見つけたものです」

「そうですか。……ではなぜその時に言わず、なぜ今更それを言ったのですか? 」

 

振動しながらも平坦の様子を己に強いて発する声には、サコの答えを聞くまではなんとか己の感情を律して押し殺してやろうとする努力の跡があるように感じられた。ただし、サコの答えに満足を得られなかった場合、すぐにでも襲い掛からんとするような、危うい雰囲気も内包されていた。

しかし、その平坦な害意含む問いかけをサコはやはり真正面から受け止めると、少しだけ口ごもって吐息の行方を遊ばせたのち、答える。

 

「―――その時、これが何か、私にはわからなかったからです。そして誰もその正体を知る者はいませんでした。それが私たちにとって、つまりは、施薬院の医者にも、執政院の鑑定士にもわからない未知のものである以上、たとえそれが貴女方の仲間の遺体から見つかったものであっても、おいそれとその存在を知らせるわけにいきませんでした。……しかし、その後の調査の結果、この宝石は、やはり私達には未知のものであるという結果しかわからなかったのです。―――だから迷いました。正体がわかるまでこちらで預かっておくべきか。知らせるだけでもするべきか、それとも渡してしまうべきか」

「――――――」

 

響は無言を保っている。彼女はおそらく、必死に理性と感情にてサコの言葉の意味の理解に努めているのだろう。だからこその圧を保ったままの沈黙だ。

 

私としては、彼女の判断は当然だと思う。新迷宮を探索した者の体内より見つかった未知なる物質を、彼が死んだという事実があるからといってその仲間に安易に渡す方が、街の衛生と安全を司る者としては失格とうものだ。

 

「ですから、迷っていましたが、ここに来て貴女と、彼らの様子を見て、貴方がたが仲間を思う人物であると感じました。それゆえの判断です。―――これは貴女方が持つに相応しい」

 

結論にようやく響の禍々しい気配が霧散し、私らはやっと彼女らの方を向くに成功した。

 

確保した広い視界の中、サコは部屋の真ん中を横断すると、中央奥で存在感を撒き散らす響に宝石を手渡していた。響はその宝石を受け取ると、優しく胸元に抱き寄せる。その小さな少女が見せた嫋やかな所作に、私はようやく彼女がシンという彼に対してどのような感情を抱いていたのかを悟ることができた。

 

―――なるほど、あれは、憤怒と嫉妬の感情の発露だったというわけだ。

 

「でも、いいんですか、勝手に決めちゃって? 」

 

そうして想い人の遺産を手に入れた彼女は、宝石に熱意を封じ込められたのか、打って変わって落ち着いた静かな声でサコに尋ねる。

 

「……どうせ危険度のわからない新迷宮原産のものなのです。なら、そこに追放される貴女方に持たせてしまえば、処分もできて一石二鳥というものでしょう」

「―――そうですか」

 

自分を納得させるかのようにいちいち区切りながら言うサコの言葉には、無理やり取り繕ったかのような不自然な間があったが、私はあえて指摘をしなかった。おそらく周囲の彼らも同様なのだろうと、男衆の発する気配から私は悟る。死出の旅路に向かう我々に対する、彼女なりの餞別を送る理屈にけちをつけるほど、無粋な所業を嫌ったのだ。

 

「―――無礼な態度、申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございます」

 

受け取った響は深々と頭を下げると、サコは静かにそれらの言葉を受け取って、踵を返して部屋の出口へと向かう。やがて小さな彼女が部屋より退出したのち、その場にいる全ての人間の意識は響と、彼女の持つ宝石に集められたが、所有する彼女が、年と不相応な慈愛と情を宝石に注いでいるのを見て、私たちはしばらくの間何も言いだすことができずに、一様に黙りこくっていた。

 

 

「なんだ、籠の中の鳥になって落ち込んでるかと思ったら、案外元気じゃない」

 

やがて続く居心地の悪きを、軽口とともに現れたインが切り裂いた。外出の為に赤い外套を纏った彼女は、夏の太陽が振り下ろす光の鉄槌には決して負けぬと言わんばかりの赤色を周囲にばら撒きながら、しかしそれでも平然と涼やかな表情を保っていた。

 

「ああ。だが見たまえ。先ほどまで平生を保っていた顔が嫌味ったらしく歪んでしまった。さて或いは、誰かさんの余計な皮肉を耳にしたせいかもしれん」

「あら、ご挨拶」

 

馬鹿を言い笑い合うと、周囲からも笑いが漏れた。そうして空気の悪さを持ち前の凛然さで払拭してくれた彼女は、やがて後ろの衛兵に抱えさせていた風呂敷包みを両手で引き取り、差し出して言う。

 

「じゃあ、これも余計なお世話だったかしら? 」

 

彼女はそうして部屋の片隅にある机の上に抱えたものを置くと、藍染の中から黒塗りの見事な花見重箱を取り出した。かつて江戸の時代に花見用に作られたが最初と言われるその重箱の外側側面の漆塗り黒地には巨大な樹木の金細工が施されている。

 

また、正面より見た際、二段に別れた上の棚には、料理を取り分ける用の盆が数枚入れ込まれており、下の段の左方には三段の重箱の上に徳利が乗っかっており、右方には五段の重箱がはめ込まれていた。

 

そうして料理を詰め込まれた箱を正面から見てやると、やはりそれぞれの重箱に施されている鮮やかな螺鈿の細工に目が吸い込まれる。

 

まず右方の重箱に目をやると、上段一段目より、翠緑の樹々に色とりどりの花。二段に、濃緑の樹海を飛び回るホトトギス。三段目には、漆は藍色を下地に、金の砂浜と幽玄なる月が一つ。四段目には、変わって、枯れ木に貝細工の雪が撒き散らされている。そして重箱の最下段の五段目は、無地の黒の上、けぶる霧のごとく虹色の貝殻のかけらがばら撒かれていた。

 

変わって左方の三段重箱に目をやると、一段目と三段目に翡翠緑の建物群が描かれ、二段目の重箱に描かれた橋が、二つに別れた街を繋げていた。重箱の上に置かれている徳利の表面六分ほどは、淡い緑釉がかかっている。重箱と徳利、盆を収納している外箱の内塗りは、紫の色にて統一されていた。

 

そうした重箱の意匠を見て、私はようやくこの重箱の製作者が、作品にこめた意図を読み取れて、私は思わず感心のため息をついた。

 

「なるほど、エトリアと世界樹、それを取り巻く世界を作品に閉じ込めたか」

「ご明察。なんでもこの地に古くから伝わる伝統に則って作り上げた逸品らしいわ」

 

彼女は私の答えを聞いて満足気に笑いながら、箱を分解して店を広げてゆく。重箱は我らの押し込まれている場所に合わせてだろう、多少法則を無視して中身が詰め込まれていた。

 

一段目にはいなり寿司と巻き寿司。二段目には、玉子焼きや梟の軟骨の唐揚げ、猪のステーキなどが所狭しと詰め込まれ、三段目には、魚の焼き物や刺身が、四段目には、猪肉を用いての煮こごりや世界樹の芽を用いてのサラダなどが色鮮やかに納められている。

 

また、本来なら空っぽのはずの五段には、これまたご丁寧に、重箱に収まる小さなぐい呑が六つ、仲良く揃って座している。彼女はそうして今度は左方の重箱を開くと、一段目から平たい皿と茶瓶を取り出し、二段目から茶葉と袱紗を取り出すと、三段目から湯捨てを取り出して私の方へと差し出した。

 

「何ぼさっとしてんのよ。か弱い年寄りに全部準備させる気? 料理はしてあげたんだから、茶坊主の役目くらい進んでやりなさいよ」

「―――、くっ、了解だ」

 

差し出されたそれらを徳利ごと受け取ると、もう一つあった机の方へと移動して受け取った道具を広げる。私と彼女以外の人間は、突如やってきた老女のいきなりの行動に頭がついて言っていない様子だった。

 

呆ける彼らを尻目に、私たちは息のあったコンビネーションで膳の中身を取り分けてゆく。最中、彼女が小声で話しかけてきた。

 

「少しは打ち解けられたみたいじゃない」

「誰かさんと違って、素直に欲しい情報を差し出してくれるのでな」

「お仲間が出来た途端、減らず口が冴えるようになったわね……」

「おかげさまでね」

「はぁ……、もうちょっと仲違いさせてた方が、私の平穏のため良かったかしら」

「かもしれんが手遅れだ」

 

不毛の応酬を互いの肴に苦笑し合うと、一足先に用意を整え終えた彼女は盆を置いて言う。

 

「ねぇ」

「なんだ」

 

呼びかけに応じて返事をするも、その先に続く言葉がないのを不審に思って彼女の方へと顔を向けてやると、インはいつもの苦笑いは何処へやら笑顔の表情を浮かべて重箱を撫でながら言う。

 

「この箱、見事なものでしょう? 有名な造形家の逸品なのよ」

「ああ、漆の上に塗られた金と螺鈿の繊細な造形には執念すら感じさせるな」

「そうね。この重箱の作者だけど、はるか昔、まだスキルの体制が整っていない頃、人よりもスキルの扱いが下手で、色々と苦労したらしいの。きっと、その時の鬱憤とかを自分の中で制作に対する情熱に昇華したからこその作品なのよね」

 

彼女は言うと、歴史あるという重箱を優しく撫でながら言う。私は彼女の乾いた手の行方を追いながら、スキルというものが日常のこの世界において、その扱いに長けていなかったという重箱の作者の姿に勝手な姿を当てはめながら想いを馳せる。

 

この世界においてスキルというものが使えない私には、作者たる彼が、その生涯においていかなる苦労をしてきたのか、手に取るように理解する事が出来た。料理一つするにもいくつものスキルを必要とするこの世界においてその有様では、彼はさぞかし生き辛かったに違いない。

 

「でも聞くところによると、そんな彼は普通に生きて、こんな風の人並み以上にステキな作品を作り上げて、有名になったわ。別にスキルの使える使えないなんて関係なく、生きようと思えばどんな風にだって生きていけるのよ」

「……、そうか」

 

そこでなんとなくではあるが、彼女がなにを言わんとしているのか、その意思を私は読み取れた。スキルの使えない私に対して、スキルの使用が下手であった人物の生き様を語るのだから、狙いなど一つしかない。彼女は私に、冒険者以外の生き方を提示してくれている。

 

「――――――」

「―――、そう」

 

しかしそして、インは、彼女の提案に頑として首を縦に振らない私の態度に、確かな拒否の意思を見つけだしてくれて、悲しく微笑んだ。

 

「まぁいいわ。どんな風に生きようが貴方の勝手。私はそれを強いようとは思わないわ。そんな資格もないしね」

「すまない」

「でもね」

 

彼女は目を細めて言う。

 

「だからこそ私は、たとえあなたがどんな選択をしても、別にその事を否定しないわ。どんな風に生きようと、人生なんて所詮は積み重ねてきたようにしかならないわ。一人で生きるも、みんなと共に生きるも自分次第。だからせいぜい、自分勝手に好きなよう生きて、そしてその果ての結果に満足して死んでいきなさい」

「……、承知した」

 

事情を詳しくも知らぬ相手に対する思いやりに反応して、先程までの決意を覆さんとする挫折の念が喉元までやってくるが、なんとか言葉と共に腹の中へと戻して、承知の返事を返すと、彼女は寂しさに目を曇らせながら言った。

 

「まったく、本当に、馬鹿で頑固なんだから」

 

私は彼女の罵声に返せる言葉を真実持たず、ただ無様に閉口するばかりだった。

 

 

密室にて食事に舌鼓を打ったのち、交友を深める原因となった青嵐も過ぎ去り、やがてエトリアを出立する最後の時が訪れた。重苦しい空気の吹き飛んだ部屋のあちこちでは、装備を整える彼らの姿が目に入る。準備などほとんどなかった私が、そんな彼らを尻目に窓より空を眺めると、茜色の空を雲が流れてゆくのが見えた。

 

空模様はかつて私がこのエトリアにやってきた時と変わらぬものであった。いや、季節柄なのか、上空をゆく雲の流れる速度が多少緩やかである気がした。あるいはかつてと違うその速度こそ、かつての時と今の自分が生きる速度の違いを表しているのかもしれぬと無理やり意図を見出してみたのは、今日、そうして訪れたこの街を去るのだ、と言う感傷が生み出したものなのだろう。

 

「―――準備、終わりました」

 

自然の流れの中に己の過ぎ去りし時を重ね合わせて浸るという詮無き行為にて暇を潰していると、背後より静かな声が投げかけられた。自己憐憫の無意味をやめて振り向くと、窓より飛び込んだ夕日を浴びた四人の姿が目に入る。

 

武器が取り上げられている事を除けば、常の迷宮探索に向かう際と変わらぬ装備に身を包んだ彼らは、頑丈な鎧と服に包まれた外殻とは裏腹に、内面は常と違う緊張と恐れを孕んでいた。それはおそらく、このエトリアの土地に対する郷愁、惜別といった思いなのだろう。

 

この土地にやってきて半年も過ごしていない私と違い、彼らは人生の長い時間、エトリアにて生活の基盤を置いていたと聞く。それゆえに、追放の事実は彼にとって重く、処置を受け入れてはいるものの、しかし理性にて抑えきれぬ情念の部分が裡より迸り、顔面という最も変化を生み出しやすい部分に出てきてしまっているのだろう。

 

この期に及んで、その無念は己の選択の結果であるとして、追放の直接的な原因を作った私に文句の一つをもこぼさない彼らの執念と我慢に、魂の髄まで染み付いたこの世界における彼らの正義の頑固さを見つけて、私は苦笑した。

 

いやはや、彼らも中々人のことをどうこう言えない頑なさを持っている。なるほど、そうして己の失敗すらを他者から責められることもなく、全ての因果を己の中に見つけてなにもかも抱え込まれるというのは、そうして失敗をした人間にとって、中々どうして居心地の悪いものだと思い知る。

 

あるいはかつての養父や姉貴分。そして、凛や親友、周囲の人間、そして私が拾い上げて、しかし存在を軽んじてきた人々は、私にこのような思いを抱いていたのかもしれない。

 

「では行こうか」

 

思いが後悔となる前に、宣言すると、彼らが頷くのをみて、部屋の前の扉に立つ衛兵へと声をかけた。準備完了を告げると、錠前は解き放たれ、部屋の中の空気と共に我々は外へと足を踏み出した。同時に、両の手に鉄の鎖が落とされて、我々五人の前後に三人一組の衛兵がピタリとつく。

 

先導する彼らの手に引かれ、施薬院という清浄な場所に似合わない不穏の空気が充満する中を突っ切りると、やがて正面玄関前までやってくる。常ならば病人怪我人で一杯であるはずのそこは、罪人を受け入れた日から満員御礼の札を外されているようで、中央に一人の著名人が腰をかけているばかりであった。

 

「やぁ」

 

そしてその場にいた唯一の人が腰を浮かしてこちらへとやってくる。彼は安寧と非戦を常識と敷き、治癒を目的とするこの場には似つかわしくない、鎧兜を纏い、槍盾を構えた完全武装の状態であった。

 

彼は手錠に自由の身動きを封ぜられた我々の近くまで寄ると、我ら全員に等しく視界にお収められる場所にて立ち止まり、全員を一瞥した。そうしてクーマは我らの中に戦意の劣化を起こしている人間がいないことを確認すると、満足げに頷いていう。

 

「たしかに、準備は万全のようですね」

 

彼の問いに言葉を返すものはいなかったが、彼の問答に対して五人の冒険者が、内に秘める覚悟の密度を増やした気配を、クーマは敏感に感じ取って、もう一度強く頷いてみせた。

 

「よろしい。では」

 

クーマが片手をあげる。すると我らを連行してきた数人の兵士が金属音をたてながら正面玄関へと近寄ると、二人の兵士が大扉を開けた。両開きの扉は重厚な音をたてながら居場所を移してゆき、部屋を満たす涼しさと緊張の空気を弛緩させてゆく。

 

やがて施薬院の清涼と無臭の空気が、肌を舐めるような微熱と風の運んでくる生臭い自然の香りの中に消えていった頃、衛兵に導かれるようにして、施薬院の玄関より足を踏み出すと、途端、室内外の静寂の種類は別のものとなり、無言に等しい微かな騒めきの中、罪人である我々に好奇の視線が注がれた。

 

「あれが例の……」「ああ、街一番のギルドと、その次のギルドの奴らだ」「なんでも迷宮をぶっ壊したんだって! 」「え、魔物を連れて転移したんでしょ? 」「悪人には見えないけどなぁ」「でも、俺、この前、あいつにいきなり脅かされたんだって! 」「あんた、彼の死んだ仲間の悪口言ってたって聞いたわよ……、怒られて当然じゃない」「しかし死にに行くってのに、堂々としたものだなぁ」「まぁ、多分、勝算があるんでしょ」「一発で迷宮の最下層を攻略する? 」「おい、ちょっと、見えない。どいてくれよ」

 

ひそひそ話と視線に含まれる成分は、大半が好奇で、残りが理解の及ばぬ未知を見た際に湧き上がるものだった。しかしそうして一身に注がれる視線の中に憎悪や憤怒、怨恨や軽蔑の視線がないのを理解して、私はかつての世界との差異を感じ取り、この街においては最後になるかもしれない驚愕に心を躍らせた。

 

―――やはり彼らは、我々とは違う

 

彼らはかつての世界に蔓延っていた、すぐさま他者の悪意や情報に感化される人種とは違う、無色の思考の持ち主だ。大衆になった際に増長されてしまうほどの悪意を溜め込まぬ彼らは、悪意の増幅という身体技法を継承せずに過ごしている。

 

だからこそ、こうして法を犯した罪人を前にしても感情的に騒ぎ立てる事なく、ただ、己の好奇の赴くままに観察の視線を送り、己の思考で我々を判断しようとしている。

 

そんな彼らの態度に、かつては絵空事に過ぎなかった世界平和の兆しを見つけて、私は浴びせられる彼らの視線の心地良きを堪能しながら、衛兵の後に続く。堂々と進む私に続いたのは、ダリとピエールだ。その後に、サガと響が続く。

 

やがてベルダの広場を抜けてつづら折りの階段をゆっくりと降る頃、響はポツリと呟いた。

 

「あ、……」

 

背後より聞こえる言葉に導かれて振り向き彼女の顔を見ると、その視線が向けられている先を追って、私は目の焦点位置を彼女のそれと一緒にした。するとそこに、エトリアの街に来てから私が始めて出会った人物の顔を見つけて、私は思わず呟いた。

 

「ヘイ……」

 

ポツリとした言葉は静けさの支配する空間によく響いて離れた彼の耳元にまで届いたのか、我々の意識が向けられた事を感じ取った彼は、直後、視線をふいとそらして群衆の影に消えていった。

 

そういえば、我々の道具の修繕と修復に忙しかったからかもしれないが、この二日間、彼は訪ねてこなかった。人なつこい彼がみせたそんな毛嫌いの態度に不思議の念を私が抱えると、側にいた響はやはり誰にいうでもない様子で、ポツリと呟いた。

 

「やっぱり、気にしてるのかな……」

「何がかね? 」

 

聞くと彼女は驚いた様子でこちらを見て一瞬躊躇い、しかし意を決した様子で言う。

 

「ええ、その、ヘイはどうやらエミヤさんに負い目を感じているようでして」

「ヘイが……? 私に? 」

 

並んで歩く彼女の言葉に首をかしげる。彼と出会った三ヶ月ちょっとの時を思い返すも、まるで原因が思い当たらない―――、ああいや。

 

「そういえば、手形を預けていたか」

 

そういえば、一層の皮膚と鱗を売り払った際の契約が未だに完遂に至っていない事を今更ながらに思い出す。律儀な彼のことだ。そうして修理修繕修復の仕事をやった結果、契約の履行機会を失って、それをバツが悪いと感じたのがああした態度になったのだろうか?

 

「いえ、その、多分、エミヤさんが考えている理由とは違うと思います」

「君は彼の態度の訳を知っているのかね?」

 

質問に彼女は口ごもったが、意を決したのか、軽く唇を舐めて滑舌を改善した後、告げる。

 

「ヘイは……、あの人は、自分の想いは軽いから貴方には届かないと言っていました」

「―――、意味が……」

 

わからない、といいかけた言葉の行方を遮って、響は続けた。

 

「なんでも、歳を重ねて来たにもかかわらず、積み重ねた想いがないから、自分じゃ貴方の心配をする資格がない、と。ヘイはそう言っていました」

「――――――、そうか」

 

彼女が口にした言葉の意味をじっくりと噛み砕き、理解するとともに先程までの楽観はどこかへ去っていくのを感じ、腹の中に溜まった忸怩は彼が他者にああも親切に振る舞う理由に肉付けをしてゆき、結果として口元から彼の行為に対する納得の言葉が漏れた。

 

―――だからこその己の心を掴んだ物に対する執着と、興味ないものああも無頓着なのか

 

長く時を重ねているのに、負の感情がない。悔恨も嫉妬もない代わりに、執着の感情を持ちづらく、ゆえに心の中を埋めつくす程の充足感を得る機会も少ない。その足りぬ部分を満たす焦燥感と不安と劣等の感覚が、彼の面倒見の良さと全てを投げ出す熱意となったわけだ。

 

私はそうして親切と笑顔の裏側に隠されていた、ヘイという男の、己は矮小と侮る卑屈の感情を見過ごした。おそらく出会って最初のうちは警戒心から深く踏み込もうとせず観察を怠ったが故に、そして、最近までは忙しさにかまけ、また、彼らがそう言った負の感情だけを溜め込めないという性質を知ったが故に、彼らを負の感情と無縁の存在であると侮ってしまっていた。

 

溜め込めない性質があるからと言って、完全でない以上、何の悩みもなしに生きることができるわけじゃない。誰にでも悩みというものは尽きることなく押し寄せる。そんな当たり前の事実を私は己の思い込みで、俯瞰の視線で観察する事で、見逃していた。

 

―――その結果がこれか

 

おそらく、私たちが罪を犯してまで迷宮の探索に挑もうとしているのを、執政院直々の道具の修理依頼から悟った彼は、そうして無謀と愚行の果てにある追放される私たちの処遇に、だからこそ情熱の証を見て取り、私たちに劣等感のようなものを感じたのかもしれない。

 

故に、粛々と道具の整備を引き受けて、しかし顔を見せに来なかった。

 

―――己の焦燥と正義を示すために突き動かされ、突き進んだ結果がこれか

 

結局私は、この世界の多くの人間と対等の対話を行うテーブルに付いていなかった。全ての人の性格を「きっとこうであるに違いない」と決めつけて、現実において誤差の修正を怠った。このすれ違いという後味の悪い結末は、己が積み重ねてきたことの結末に過ぎないのだ。

 

―――いつか、機会を設けて話をしよう

 

決意すると、未だに好奇の視線に満ちた人波の煩わしさを避けて空を見上げる。まだ明るさを残す空には己の怠惰のツケを示すかのように、夕映えの中には黒々とした雲が視界の端に固まっていた。

 

 

物々しい警護、というには少なすぎる見張りを伴って一時間程歩くと、もはやすっかり見慣れた新迷宮入り口へとたどり着く。夜の闇が落ちた星の海の中、切り立つ崖の上空あたりに紫雲が漂い彼方へと流れてゆくさまに、私は語源である仏の来迎の比喩を思い出して、振り払うかのように首を横に振るう。私は仏の手自ら引導を渡されるほど、徳の高い人物でないし、まだそちら側に旅立つ予定もない。

 

清浄なのか邪念なのか分からぬ思いに侵された視線で、崖の中にぽっかりと開いた入り口を見ると、洞穴の入り口は、先の戦闘にて私が四層最奥地の天井を崩した際、その両端が崩れたようで、横一線に引き裂かれた傷跡は、口角上がり、笑んだ唇のようになっていた。

 

その様はとても侵入を拒んでいるとは思えないほどの友好的な雰囲気を醸し出していて、まるで魔のモノが、人の世より隔離される事となった我々を迫害のご同類として歓迎しているようだった。

 

さて、そんなおり、仏と悪神の存在が私の脳裏にて神仏習合を果てして怨霊となり、ふと、三層にて犬に腕を引きちぎられた経験を思い出して、だれか高貴な人が死ぬか、あるいはエトリアが崩壊するかもしれないと考えた。馬鹿馬鹿しい。恐れ多くも崩御の前兆と言われる伝承に、エトリア崩壊の予見を重ねるなど、誰にどちらにたいしても、あまりに不埒かつ不敬が過ぎるというものだ。

 

「いらっしゃいましたね」

 

非礼な想像を行なっていると、罪人を迎えるには相応しくない歓迎の言葉に視線を向ける。夜空をさんざ照らす星の明かりとは異なる、灯篭の柔らかき炎の揺らめきが、赤に満たされた周囲一帯をより一層濃い色合いに塗り替える中、そして照らし出される空間の中心、規則正しく並ぶ衛兵の装備が反射する光の交差する中心に、クーマは佇んでいた。

 

そうして厳重な守護の敷かれている光の中に、トリカブトの花が群生しているのを見つけて、私は彼らのいる場所がどこであるかを明確に察する。花に触発されて少しばかり視線を動かすと、予想通り石碑が見つかる。警戒テープにて区切られた石碑の前には、四名の屈強な兵士が配備されており、各々が緊張の面持ちを浮かべていた。

 

私が視線を向ける先に目敏く気がついたクーマは、淡々と述べる。

 

「迷宮はあなた達が帰還して以降、調査の名目で一旦入場を不許可とし、保全してあります。この処置は、あなた方の五層への放逐、およびその通路の閉鎖を行うまでの間、保たれます。番人部屋までは護送の兵士が一名ずつの転移を石碑より行い、直接あなた方をその場所まで転移させます。その後、あなた方を番人部屋にあります階層を区切る階段に追い出し、放逐いたします。装備はその際、受け取ってください。あなた方が階段の奥に姿を消したのを確認次第、五層入り口の階段は封鎖されます。以上、何かご質問はございますか?」

 

我々が何も言わずにいるのを見て彼は頷き言った。

 

「よろしい。では、早速、刑の執行とまいりましょう」

 

 

衛兵とともに四層の番人部屋へと転移すると、我らが死闘を繰り広げたその場は、私のもたらした破壊の痕跡をそのままに残していた。部屋の中央にはモニュメントのように巨大な一枚岩が地面に突き立っており、その周囲には細かい岩石がばら撒かれている。

 

拓けた荒野の中に巨岩が鎮座する光景は、オーストラリアはエアーズロックのそれを思い出させた。それはこれより先、魔物たちにとってみれば神聖なる対象であろう、魔のモノの領地に向かうのだという隠喩に見えて、やはり少しばかりうんざりする。

 

さて私が破壊の痕跡を眺めていると、近場に設置された携帯磁軸から次々と仲間が衛兵とともに転移されてくる。やがて五人揃った後、クーマという男が転移してきて、彼の指示に従い我々は中央を通り過ぎると、番人部屋の奥にある出口へと手荒く案内された。

 

部屋の奥にひっそりと配されていた地下へと続く洞穴の周囲には、わかりやすく数名の衛兵が配備されている。四層の最奥地に配備されている彼らは、地上にいた兵士達より屈強である事を示すかのように、あからさまに装備の質と纏う空気が違っていた。

 

「ご苦労様です」

 

クーマが声かけを行うと、番人の間を守護する事に緊張をしているのか、冷や汗を浮かべる彼らはしかし忠実に敬礼を返し、封鎖していた道を開けた。現れた洞穴は宵闇という事を差っ引いてもこれまで以上の暗黒に支配されている。

 

私は、この階層を守る番人がケルベロスであった事実と、周囲の赤く仄暗い光景から、まるでこの場が冥界そのものであるかの如く錯覚を覚えて、ならばそんな死者の国よりさらに奥へと繋がるこの穴の通ずる先は果たして煉獄より深き場所かも知れぬと思い至った。

 

―――くだらん

 

先程からやけに沈鬱な想像が浮かぶのは、おそらく柄にもなく追放の事態に緊張しているのだろう。己が脳裏に浮かんだ他愛もない隠喩を霧散させ、眼前に広がる現実の暗闇に意識の在り処を戻すと、ランタンを片手に洞穴の中に一歩を踏み出す。手にしたランプの明るさは、一寸先を照らした瞬間、すぐさま暗闇に吸い込まれてゆく。

 

貪欲に光すらも吸収する闇のあり方は、まさにかつて私の胸のうちに巣食っていた負の感情を残らず吸収した魔のモノの特性を明確に隠喩しているように感じて、私はこの先に奴と、その協力者である言峰綺礼がいる事を確信した。

 

「――――――」

 

無言でさらに一歩を踏み出す。数歩ほども闇の中に身を進ませると、遅れて四人が次々と私の後ろに続いた。我ら五人が直線となって洞穴の中に足を踏み入れた頃、後ろより道具と装備品がしんがりを努めるダリに渡され、その入り口は屈強な兵士達の槍によって斜め十文字を描かれ、封鎖された。

 

「ご武運を」

 

区切られた境界の向こう側から、クーマが私たちに短い激励の言葉を送る。私たちはそれを振り向く事なく受け取ると、斜角の鋭さに足を取られぬよう、注意しながら狭い洞穴の中を邁進した。

 

 

「お、出口か」

 

やがて十分ほども注意深く進むと、背後より前方の明るき空間を確認したサガが声をあげた。前方にいる私に先んじて空間の変化に気がつけたのは、手元にて煌々と輝くランプの灯りの焦点距離が彼の視界あたりにてちょうど釣り合ったからだろう。

 

言葉に対して促され前方への警戒を密にして、歩みの速度を少しばかり慎重なものへと変化させる。私の挙動の変化に呼応して、後方の彼らもその態度をより戦闘に適した重厚なものへと対応させた。

 

「――――――」

 

やがて道なりに進むと、一気に視界がひらけて、現れた光景に私は目を見張った。

 

「なんだ、こりゃ? 」

「綺麗……」

「ステンドグラスに囲まれた……施薬院か何かの施設の跡地か? 」

「いやぁ、荘厳ですねぇ……おとぎ話のようだ」

 

一同が思い思いに疑念や感嘆の言葉を述べる中、私だけは彼らと別種の感情を脳裏に浮かべていた。憤怒。そして、驚愕と郷愁。負の感情と、どちらかに分別するのが難しいそれらの感情は、目の前に広がる荘厳と華麗な現実の景色より生み出されたのではなく、全く別のところに格納されている、記憶という過去より引き出されたのだった。

 

闇の中に光り輝く天井地面に敷かれた色とりどりガラスは、中心となる黒点から直線状に伸び、その最中にいくつかの同心円を描きながら、最外殻にて円弧を作り、巨大な花弁を模していた。

 

そうして雄大に一輪の薔薇を形作る様は、まるでフランスはパリのセーヌ河岸シテ島に存在するノートルダム大聖堂のそれを思い起こさせる。かつて過去の世界に生きていた私なら、あるいはその寺院にいたならば、壮美の様子に感心のため息をついていたかもしれないが、この世界では、この場においては事情が違う。

 

大聖堂が―――、すなわち唯一神という存在を讃える、我らが貴婦人たる施設が目の前にある。この宗教というものが消失した世界において、そのかつての時代の施設を知るという共通項こそは、我が憎むべき宿敵の存在を瞬間的に想起させたのだ。

 

言峰綺礼

 

呟き、不倶戴天の天敵の存在に気がつくと、この荘厳華美な場所には人払いの結界もかけられていることに同時に気がつける。なるほど結界が我々を拒絶の対象としていないため気付くのに遅れたが、衛兵たちが居心地悪そうにしている理由がよくわかった。ここから先は、魔術をかじったものか、あるいは奴に贄として選ばれた人間以外を拒む領域になっている。

 

―――遂に自ら動くか

 

奴は私同様、基本的に機能美以外に興味を持たぬ人間だ。まさか野にあまた散る芸術家よろしく、己が心酔の赴くままに外見の美を追求したとも思えないし、果たして奴は何を思ってこの空間を作り上げたのか。ただそれだけは知っておく必要がある。

 

「解析開始/トレース・オン」

 

見惚れる仲間を放って一人しゃがみこむと、手を当てて地面に解析の魔術をかける。通常とは異なる人が乗ってもビクともせぬガラスは、予想通りこの世に存在する物資により形作られたものでなく、エーテルという、霊質と物質の特性を併せ持つモノでできていた。

 

四大元素たる地水火風の源である力を得る以前の状態の存在たるそれは、かつて聖杯戦争においてサーヴァントと呼称される英霊の使い魔達の肉体を形成されていたモノでもある。すなわち、そんな物質に囲まれたこの空間はもはや奴の腹に等しく。

 

「―――先を急ごう」

 

何が起こっても不思議でない。私と正反対の、奴の心象を表すかのような領域にいるがゆえ、私はすぐさまこの、世界の全てを美しくも儚く脆いものと表現するかのような、奴の価値観を転写したかのごとき場所からの離脱を提言し、奥に見える出口へと足早に進む。

 

夜という時刻の助けを借りて一層暗澹と周囲を包み込む闇は、奴が心中に抱える醜悪の性質と底知れぬ絶望の暗喩に見えて、なんとも気味の悪い湿度を伴っていた。

 

 

どうやら四層とは異なりこれより地下にある場所は湿度が濃いらしく、空気中に散る水分は周囲の地面の中にまで染み込み、その成分をあたりにばらまいているためだろう、温く、土の香りが満ちる洞穴を抜ける。

 

「――――――」

「―――おー、こりゃすげぇ」

 

そうして進んだ先、多少の肌寒さを感じるとともに現れた光景によって、私は再び心を奪われた。二度目の衝撃は、やはり目の前に広がる光景と記憶にある知識の一致により引き起こされたものだった。

 

「街が丸ごと埋まってる……」

「有様は旧迷宮の五層シンジュクと似通っているが、規模が桁違いだな」

「真相を求めた罪人共が追放されたのが切り取られた古代の街とは、趣がありますねぇ」

 

眼下約四キロ程度下にある濃霧を抜けた先、濃霧の中を赤と黒が蠢く中、微かなだけ見える地面。その場所より東に二キロほど行った地点にある赤き橋の、さらに四キロほどの位置に屹立する、他よりも頭抜けている一つの高層ビルが見える。

 

黒板のよう真っ平らに整地された天井であるより伸びた、取手も何もないこのシンプルな透明な階段は、まるで戦争への参加者を誘うように、ビルの屋上へと伸びていた。かつて誘導灯だったものが、夜の闇の中、微かに他と違う光を反射しているのが見える。

 

かつてはセンタービルと呼ばれた新都という街の中心より、乱立する中堅程度のビルの密集円の外周に沿って視界を広げて行けば、ビルのある駅前中心街から離れた場所には、高層階からの景観を楽しむためだろうか、夏野の緑豊かな公園が広々と隣接している。

 

そうして視界を中心街より遠ざけてゆくと、街の端に、見覚えのある海浜公園と、港が目に入った。港と接する川の終点から、街を丁度二つに分断して南北に流れる未遠川を俯瞰すると、河川の部分は特に視界を遮る霧が濃いことに気がついた。

 

私は、街中をぼやかす霧の一因がこの河川にもあり、おそらくは地下という熱のこもりやすい場所であることと、地上よりか地殻に近く水の温度が高いため、川霧が発生しやすく、それが街にまで散っているのかもしれないと推測した。

 

俯瞰をやめて区画整備されたその波打ち際から未遠川をもう一度遡ってゆくと、二つの街を結ぶ唯一の赤い大橋の存在が、改めて目に入る。片側二車線、歩道と車道がきちんと別に分けられた、眼球に強化を施せばタイルの数を数えられるだろう状態を保つ橋は、やはり黒と赤の濃霧に満ちていた。

 

その後、一旦視界を外して川沿いに栄えた深山町の街中から商店街を通り抜け、閑散とした山の方へと目を滑らせると、丘の頂上に立つ見覚えのある懐かしの遠坂亭、西洋風ながら割れた窓ガラスの放置がお化け屋敷の様相を生み出している間桐亭、そして純和風の平屋である衛宮亭を視界に収めたのち、西端の山、長き階段を経た先にある柳洞寺へと辿り着く。

 

そうして東西南北に広がる街の全景を長く俯瞰し、過去の記憶とほとんど変わりなき姿を確認した私は、そこでようやく目の前に現れた現実を受け入れた。

 

冬木市―――」

 

かつて長い時を過ごした街の名は、やがて過去より持ち込んだ因縁に決着をつける時がきたのだと言わんばかりに、強風に乗って眼下にある街の中へと消えてゆく。そして冒険の日々は終わりを告げ、運命の夜を駆け抜ける時は再来した。

 

第十四話

 

終了