うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 ~ 長い凪の終わりに ~ 第十六話 過去より出でし絶望と希望

第十六話 過去より出でし絶望と希望

 

誰もが私を否定する。

だから私も貴様らに理解など求めない。

 

 

「おい、大丈夫か? 」

「……あ」

 

気遣いの言葉に目が覚める。瞼を開くと、飛び込んだ光に瞳孔が調整を試みて、視界がぼやけた。やがて気持ちの悪い瞳の収斂が収まった頃、眼球がいつもの仏頂面を捉えて、安堵の気持ちが湧いて出る。

 

「こ……、こ……は」

 

見渡すと、洞穴の中に私たちはいた。土臭く、口の中は砂利まみれ。肌と顔に張り付いていた砂を落として、何度か咳き込んで体内に入り込みかけていた砂を吐き出すと、改めて周囲を見回す。すると、すぐ近くに見覚えのある仲間の顔がもう二つあるのに気がついて、安心のため息を吐くとともに、疑問を呈した。

 

「どこ、なんでしょうか? なんで……わたし達、こんなところに……?」

「わからない。竜の体当たりの衝撃が予定外に前方の地面と接触して土石流となったため、完全防御で竜の体当たりの威力を防いだのち、フルガードを発動した。お陰で竜の突撃をまともに受けずに済んだはいいが、その際に生まれた衝撃で、私たちは地面の掘削に巻き込まれて、奴ごと地下に埋もれたのだと思う」

 

言うと、ダリがわたしの背後を指差した。

 

「え―――、うわっ」

 

つられてそちらを向くと、示す先に、先ほどまで死闘を繰り広げていた竜の巨体を見つけて、驚き後ずさる。それを見ると、サガが笑って言った。

 

「大丈夫だって、死んでるよ。そんなに怖がるなって」

「言いますが、貴方だって、急に起き上がった奴が、最後にあらぬ方向めがけて吐息を吐き出した時、頭を抱えて身を縮こめたじゃないですか」

「おま……、ピエール、別に、それを言う必要はないだろうが! 」

 

やりとりにホッとする。胸をなでおろすと、ダリが言う。

 

「すまない、傷を治してもらえると助かるのだが……」

 

よく見ると、彼の体は全身が青アザだらけだった。そういえばフルガードを使用したと言っていたが、その特技は攻撃を完全に無効化するものではなく、一定時間、周囲の仲間が負うダメージを一身に引き受けて軽減する効果のスキル。

 

つまり彼は、この地下の空間に掘り抜けてやってくるという凄まじい衝撃を三人分余計に、全てその身で受け止めたと言うことになる。偉業を為して私たちを守った恩人の傷に、わたしは慌てて回復薬を取り出すと、振りかけた。

 

「―――よし、助かった」

「いえ、こちらこそ」

 

傷が癒え、己の体の不備がなくなったのを確認すると、彼は近くの地面に落としていた松明を拾う。その柔らかな赤い光は、周囲に拡散すると、ようやく周囲の暗がりに対応した瞳が、照らしだした洞穴の奥の光景を捉えた。改めて先ほどと同じ疑問を口にする。

 

「……ここは? 」

「位置的に、柳洞寺という建物のあった山の奥深くだろう。―――ああ、なら、つまり、そうなのか?」

「……? 」

「つまりここが、エミヤの言っていた、目的の大空洞であるかもしれないと言うことですよ」

 

ダリが一人納得した様子で頷くのを見て首をかしげると、内容をピエールが補足する。

 

「―――たしかに、集中してみると、尋常じゃない気配が奥からするな」

 

サガが真剣な表情を浮かべて呟く。真似をして目の前に広がる暗闇に意識を集中してやると、腹の底から不快感がこみ上げてきた。本能的に吐き気を催してしまうような感覚を覚えてえずくと、むせて唾を地面へと撒き散らしてしまった。

 

―――たしかに、気持ち悪い何かが、この先にいるんだ

 

この闇の空間の奥に、本能に干渉して不快の感覚をもたらす何かが潜んでいる。気分を悪くするものの存在を意識すると、自然とその名前が浮かび上がってきた。

 

―――魔のモノ……

 

そう、ダリとピエールの言っていたことはおそらく正しいのだ。この先にきっと、魔のモノがいる。不思議な確信を得ると、みんなを見回す。全員が同じ所作で肯定に首を縦に振ったのを合図に、ダリを先頭としたいつもの警戒態勢で、私たちは闇の中へと歩を進めた。

 

 

「――――――」

 

小さな空間を抜けた先、突如として広がった地下の大空洞に言葉を失った。地下のはずなのに不自然に明るいその空間は、しかし、奥行きが把握できないほど遠くまで広く、どこまで続いているのかわからない。それでも見える部分に目を配ると、数十メートル先の下の大地には、暗い闇色の池がそこから奥まで続いている。

 

地底湖を見た瞬間、不快感を覚えた。胸を圧迫するような、濃密な感情が心の中に生まれ、思わず身震いして自分の体を抱き寄せる。それは、悲しいとか、腹がたつとか、そういった、ドロドロとした負の感情をいっぺんに合わせたものだった。

 

わたしがそれでもなんとか倒れることなく胸の中で無茶苦茶に暴れる痛みに耐えられたのは、多分、常にシンの痛みを抱えているからなのだろう。

 

見れば、ダリとサガは、押し寄せたその負の感情を受け止めきれなかったからなのだろう、地面に片方の膝をつき、あるいは四つん這いの姿勢で涙と涎を垂らしながら、その奔流に耐えている。唯一ピエールだけが、多少つらそうながらも、なんとかその場に立っていた。

 

「なるほど、あれが魔のモノという奴で……」

「はい。きっと、あの奥にある杯が、その封印のための制御装置なんでしょう」

 

ピエールに回答に視線を再び前へと向ける。その邪悪の気配に満ちた池の上では、ポツンと小島が浮かんでいた。それは、人の手が入っていると一目でわかる不自然な三角錐型をしていた。頂点は平たく均されており、その平面の上には祭壇があり、台座の上では静かに杯が光を放っている。

 

人の頭ほどもある大きさの杯の表面は脈動しているかのように発光しており、周囲の暗黒とは別種の昏い光を周囲にばらまいて存在感を主張していた。その冥光は、魔のモノとの繋がりがあると確信ができる禍々しい外見と雰囲気だった。

 

―――なら、あれに宝石を投入すれば、魔のモノを封印できるのか

 

予感はほかの人に先んじて一歩を踏み出させた。あるいは、熟練の彼らよりも先に足を踏み出せたのは、魔のモノを封じると言う、この赤い宝石を持っていたからなのかもしれない。

 

彼より託されたルビーを手にして表に取り出すと、宝石は松明の光を反射して、暖かい光が周囲にばらまいた。宝石より生じた光は、抑えきれぬ悪意が満ちた暗黒空間の中、それらを抑制し、浄化するかのように、柔らかい領域を生成する。

 

そのかつての宝石所有者の慈愛の表れであるかのような光に導かれるように、まずピエールが私の後に続き、その後ようやく立ち直ったダリとサガが遅れて足を踏み出した。通常とは違う硬さを持つ地面を、金属の靴底が叩く独特の甲高い音がなり、目的のモノへとどんどん近づいて行く。

 

やがて暗闇色の池の前までたどり着いた。湖面から水底を見ることはできない。多少躊躇したが、足を踏み出すと、地底湖は思った底が浅くて、すぐさま湖底に足がつく。この汚泥の中を泳がなくて済む。その事実にひとまず安堵した。

 

「慎重にな」

 

向こう見ずな先行を窘められるも、そこに私を引き止める成分は含まれていなかった。認められている。自然と気持ちが昂ぶった。さらに前に進もうとして改めて一歩を踏み出す。踏み出した部分を見ると、真っ黒だった湖面の自分の足から数メートルほどの範囲だけが透明な色となっている。

 

これは浄化だ。きっと宝石が力を発揮して、魔のモノを封じ込めたのだ。確信が胸に去来し、抑えきれない興奮が、言葉になって口元からこぼれた。

 

「これなら魔のモノを封じられる―――」

「なるほど、かもしれん。だが、そんなことをやらせるわけにいかないな」

 

そうして明るい未来の光景を予測した時、冷たい声が心の隙間から入り込んできて、意識が今という現実の薄暗い空間の中に暗澹たる気分とともに引き戻される。

 

「聖杯の作成に百数十年の時を。核を埋め込み、完成した聖杯の器に魔力を溜め込むのに、更に六十年近くの時を費やしたのだ。いくつかの工程を省き、予定を多少繰り上げる羽目となったが、時をかけ再開した聖杯戦争もようやく最終段階に達した。それを、貴様らなぞに邪魔されるわけにはいかんのでな」

 

背後より聞こえた声に反応して、皆で一斉に振り向くと、私たちがやってきた小さな洞穴の奥から、一人の男がカツカツと靴音を立て、ズルズルと重い袋を引きずるような音とともにやってくる。私たちは、その声に聞き覚えがあった。確か―――

 

「言峰……、綺礼」

「ほう、私の名を知っているか」

 

輪郭すら見えない暗闇の奥で、声が愉快そうに笑う。その声はとても心地よい低音で、油断すればするりと引き込まれてしまいそうな昏い魅力に満ちていたが、だからこそ、私は恐ろしいと感じて、考えるより先に武器を構えていた。

 

続く金属音。ダリは槍盾を前に構え、サガは籠手を解放し、ピエールは楽器の弦に手を当てる。どうやら心を切開して領域に侵入されたような感覚を抱いたのは私だけではなかったらしく、三者も同様に緊張した面持ちで戦闘態勢を取っていた。

 

「嫌われたものだな。ほとんど初対面の相手に対してなぜそうも敵意を露わにする」

「お前は―――言峰綺礼という人物は、魔のモノと一体化した存在だとエミヤが語っていた。それはすなわち、私たちにとっても敵であるということだ。たとえそれが元人間であったとしても―――」

「―――ほう、奴がそう語ったのか?」

 

告げると、言峰は意外だとばかりに言葉尻をあげた。

 

「そうだ。彼は私たちに、魔のモノとかつての世界のことを語ってくれた。だから貴様という人物が悪辣な存在であるという事もよく理解している」

「―――く、は、はは、理解。貴様が私を理解しているだと?」

 

ダリが珍しく敵意の感情を露わにした言葉を他人に投げかけると、言峰という男は言葉の成分よりも内容が気にかかったらしく、息を詰まらせたかと思うと、広い空間に響き渡らんばかりの哄笑を撒き散らす。それはダリのぶつけた敵意感情などとは比べ物にならない密度の感情の発露だった。

 

私は言峰という男が、ダリの理解という言葉に、どんな感情を抱いたのかは理解した。反応した彼が、声とともに発散した嫌悪や憤怒、感情が、はたしてどんなモノを起源として生み出されたのかも、ぼんやりではあるものの、理解することができた気がした。

 

おそらく私がそんな彼の発露した感情に微かな共感しかできなかったのは、他者に対する失意と絶望というものが、私たちの普段の日々にはほとんど存在しない、特別な感情であるがためだろう。

 

 

言峰綺礼という男は、人間として欠陥品だった。他人の不幸の中にしか、己の幸福を見出せない感性は、表向き平等と平和を重んじる人間社会において、間違いなく悪の側に属するものだった。

 

どうしても他者の喜びの中に己の幸福を見出すことができない。他人が美しいと思うモノを見て、美しいと思うことができない。その機能がないのだ。人間として感性が故障しているのでなく、そう思う機能が欠落している。それこそが、綺麗という言葉を名に授かった男が皮肉にも生まれ持った業だった。

 

教会という場所に生まれ落ちた私は、神の教えを受けて成長するとともに、己の生まれた意味を問うた。私の感性は、人の世において、望まれていないものである。ならば私の生まれた意味とはなんだ。聖書によれば悪魔と呼び蔑まれる彼らですら、世に悪という存在を知らしめる敵対者として、聖職者や、他ならぬ神に存在を許容され価値を認められている。

 

しかし、私の場合は違う。世の中において、他人の不幸を喜ぶ男を何処の誰が許容するというのか。何処へ行っても、他人の幸福を醜いと感じ、その不幸を喜ぶ私の感性と存在は、悪魔などと呼ばれる彼らとは違い、その存在意義と価値の全てが否定されていた。

 

この世に生まれてきてはならぬ存在。そんなものがこの世にあることが耐えられない。人は全てなんらかの意味を持って生まれてくる。そんな綺麗な世界の中で、ただ一人、己という存在だけが無意味無駄無価値の烙印を押されていて、そんな己を追い詰めるかのように、己の感性は、世間が醜いと断じるものであると知る良識を、私は理解することが出来ていた。

 

若かりし頃、私は己のその悪を尊ぶ感性の発露を、己が未熟ゆえのものであると断定した。他人とは違う感性を発端とする苦痛と懊悩は、己が未だ神の愛に気づかず、意図を汲取れぬがゆえの未熟の証であると理解した。

 

なぜなら己は、悪魔どもと違い、人の倫理と道徳を理解することができる。生命の誕生を尊いものであると祝福し、死にゆく命を憐れみ慈しむことができる。だからこの苦しみは試練なのだと受け取った。神という偉大なるお方が、なんらかの意図を以ってして我が身に課した、試練。

 

あるいはかつて、恐れ多くも苦難の道を歩み殉教し聖人の座に列席した方々と同じように、この苦悩と共に歩む道の果てにこそ、いつかは己の空虚たる心を満たす意味と価値が見つかるのかもしれないと、伽藍堂で虚無の心を埋めるべく、我慢と忍耐の道を歩み続けた。

 

やがてその行為が空虚であると真に悟ったのは、いつのことだったのか。積み重ねた石の塔を見つめては、それは違うと世間の常識に拒絶され、再び石塔の建築を試みる。その全能たる神の意図を完全に理解してやろうという傲慢な挑戦は、まるでまさに、バベルの塔を建設して天の頂に到達してやろうという無謀な試みそのものであると言えた。

 

私は価値が欲しかった。この世に生まれた意味が欲しかった。全知全能と讃えられる神が

この身を人の世に生まれ落としたからには、その誕生と命にはなんらかの意図があり、意味と価値を持つはずだ。そう、決して私の存在は間違いなどではない。無意味で、無駄で、無価値な命なんてあっていいはずがない。

 

―――無意味に生まれ、無駄に命を消費して、無価値に死んでゆくだけの命など認めない

 

生きる目的が欲しかった。楽しく幸福に生きてみたかった。いつかは完全になりたかった。否、だが、真実、私の生涯は「無」だったのだ。他人の価値感を、己を図る物差しとして利用し、己を否定し続ける行為は、どこまでも私を磨耗させ続けた。認めない。認めない。認められない。己の生涯がただの徒労に過ぎないなどと、断じて認めるわけにはいかない。

 

他人は、己が死地に向かい、体を虐め、無駄な努力に足掻く行為を苛烈と呼び、信仰に厚いと賞賛し、褒め称える。だがそんなものに、感性の違う存在の賞賛などに、なんの意味がある。それどころか、己が裡に押さえ込んだ感性に気付かず、己の醜い本性を改めようと足掻く行為に歓喜されるたび、己が本来持つ感性はやはり完全に間違って、お前の人生は無価値であると拒絶されているようで、余計に腹が立った。

 

ただそれを発露して周りを絶望させる行為は、人間社会において悪と呼ばれるであると行為と認識できる思考と常識を、当時は持ち合わせていた。故に、抑え、仮面を被った。人間社会において悪として拒絶される本性の、抑制と抑圧。そしてそんな醜い感性の己を苛烈に虐め抜き、崇高な目的を見出すための鍛錬を続ける日々こそが、若かりし頃の言峰綺礼の生涯の全てであった。

 

 

「貴様が私を理解できているというのか……。この醜いものだらけのモノに満ちる世界で、平凡に生涯を終える事が許されるのに、それを捨てて他人の幸福のために命を捨てて生きるという、そんな私の苦悩とは程遠い世界の住民の一人である貴様が、私という存在を悪と断じることが出来るほど理解できたと! そういってのけるのか! 」

 

ただ拒絶されただけでは、ああも激昂することはないだろう。その言葉には、今ダリが「言峰綺礼という人物を理解した」という述べた事象に対しての、嫌悪感と憤怒と憎悪がありありと乗せられていた。

 

己の生まれ持った感性を絶対と信じて、他人の事情を汲まず、上っ面、与えられた情報だけを聞いて理解したつもりになって、相容れないモノと感じたものを悪と断ずる行為。言峰綺礼という男は、おそらくその全てを嫌って感情を露わにしたのだろうと、私は理解した。

 

これまで経験したことのない、格別質の高い濃密な負の感情を真正面から生のままに叩きつけられた私たちは、一切の反応をする事が出来なかった。やがて彼は己を律して、それを抑え込むと、一転して静かな気配を漂わせて、言う。

 

「この土地に残っていた記憶を読み解いて、儀式を再現し、手順の乗っ取り、正しく聖杯を降臨させるために時をかけて、奴の望みを叶えるために準備を整えてきたのだ。そしてそれは私の望みでもある。―――易々と封印などしてもらっては困るな」

 

吐き捨てると、言峰は暗闇の向こうから、なにかを前方に放り投げた。手荒く投げ込まれたそれは、彼の数メートル先の地面に叩きつけられると、軽くバウンドして、呻き声を上げた。その掠れてほとんど聞こえない小さな声に、私たちは、目を見張った。だってそれは。

 

「エ、エミヤさん!? 」「エミヤ!?」「嘘だろ!?」「まさか……!」

「その通り」

 

奴が前に進み出て、何かをつぶやいたかと思うと、奴の周囲がポッと明るくなった。そして地面に現れた彼の姿を見て、私たちは絶句して、声も出せなくなる。

 

エミヤは、ボロボロと言う形容詞が陳腐に思えてしまうほど、瀕死の重傷を負っていた。正面から倒れ伏した彼の逞しかった背中はひどく焼け爛れ、肉と煤が衣服と融合して、赤だか黒だか茶色の地肌だかわからない色に変わっている。

 

深い火傷は背中どころか頭にまで到達していて、白髪は頭頂部近くまで燃えて、白いモノが見えている。力なく前に投げ出された右腕は、右は二本の指を切断され、左の手腕骨は砕かれていた。

 

―――早く手当を……!

 

心臓が高鳴った。本能が告げるままに足を湖底から引き上げて、倒れた彼へと近づこうとする。しかし、その動きよりも早く、誰かの手が前に進もうとする私の肩を強く掴み、妨げられた。その力は思いの外強く、直後、ぐいとその彼の元に引き寄せられた私は、私の体をその場に押し留めたのが誰であるかを知る。

 

「なんで……?」

「……近寄るな、響。奴に近づくんじゃあない」

 

呆然と呟くと、彼は、倒れ伏したエミヤ―――ではなく、そして地面に体を横たえさせた張本人である言峰から視線を離さないまま言った。それは冷静さがもたらす慎重……だけではなく、人が、理解しがたいものと遭遇した時に見せる、未知に対する恐怖という感情の表れだった。

 

「でも、それじゃエミヤさんが……!」

 

ダリはそのまま無言で私を自分の側へと引き寄せると、私を抱きかかえるようにして動きを封じて、やはり言峰を注視したまま動かない。その頑なな態度からは、なにがあろうと言峰という男の前に仲間を出すわけにはいかないという内心が伝わってくる。

 

「――――――」

「だ、誰かなんとか……」

 

力が強く、体が動かない。私では彼の拘束を解けない。助けを求めるようにして周りを見ると、サガはダリよりも彼に怯えているようで、彼を見つめるその目はいつもより少し目尻が撓み下げられていて、口を固く結んでいる。口内からは、歯をカチカチと鳴る音が聞こえた。

 

少しでもつつくと、今にでもスキルを暴発させてしまいそうだ。サガは完全に、目の前の言峰という男の迫力に呑まれていた。パーティーの中では小さな彼が、いつもより小さく見える。言ってはなんだが、今の彼は頼りにできないそうだ。

 

最後の望みをかけてピエールの方を向くと、どんな危険な状況下であっても微笑を浮かべて皮肉の一つでも言ってのける彼は、珍しく一切の表情を浮かべないで、じっと言峰の方を見つめている。彼の意地悪と喜びと驚き以外の顔を浮かべたのを見たのは、シンが死んだ夜以来の出来事かもしれない。

 

わからない。彼がなにを考えているのか、わたしにはさっぱりわからない。ただ、その細身の体から立ち上がる静かな気配と、動かない瞳の奥にある確かな灯火からは、今、そうしている彼が、己以外の何物の干渉があろうと、その態度を貫くという意志が感じられた。

 

つまりは彼も頼りにできない。結局、この場にエミヤを助けるに当たって、協力を仰げそうな人物はいないということだ。

 

「存外に冷静なのだな。もう少し、他人の救済に直情的な行動とるものだと思っていたが」

 

迷いの中、気がつくと言峰はエミヤのすぐ側まで近寄っていた。地上にいた大量の魔のモノを側に付き従わせた彼は、エミヤの頭を握ると、持ち上げて、顔をこちらへと向ける。

 

仄かな明かりの中浮かぶ意識のないエミヤの顔は、その細く独特な眉目も、整った顔も健在だったが、顔色だけが常と違い、不自然な色合いをしていた。エミヤの顔は、かつてみた両親やシンの死骸のように、白くなっていた。言峰が蝋燭の様になったエミヤの頭を揺する。

 

「―――う……、ぁ……」

 

途端、エミヤの閉じられた口が微かに開き、与えられた衝撃に対して反応して見せた。

 

―――彼はまだ生きている

 

「エミヤさん! 」

「駄目だ!」

 

叫んで近付こうとするも、ダリが力強く私を抱きとめて離さない。

 

「なんで!? 」

「あれは罠だ。たまにFOEなどの獣もやる、エミヤという生き餌を利用した罠。わかるだろう、響。奴は今、エミヤの生死を利用して我々を誘い出し、あわよくば我らを全滅させようと企んでいるのだ……」

 

ダリは言うと、下唇を噛み締めた。白い歯に隠された口の部分からは、血がにじみ出て、顎下より地面へと垂れる。血液が垂れるのを気にもせず、彼は一切視線を言峰とエミヤから外さずにいる。目には、無念さと悔しさが同居していた。

 

それでよくわかった。彼もエミヤを助けたい。助けたいけれど、助けて他の仲間を命の危機に晒すわけにはいかない。仲間を助けるために、仲間を見殺しにすると言う、その矛盾、その歯痒さを必死で押しとどめている。

 

「死なれても困るので多少治療を施してやった。が、後もって数分、と言ったところか」

 

ダリが感情を押し殺しての冷静を保つ中、言峰は冷酷に言ってのける。感情のない声は、彼が淡々と告げた事が事実であることを示している様だった。その言葉に、私を抱き止めているダリの腕の力が強まる。挑発に耐えようと、彼は必死なのだ。

 

「―――さて、このままこの男を縊り殺してしまうのは楽だが、この男の死によって貴様らが発奮し、魔のモノを封じられる様な事態になっては元も子もない。遠目に見れば魔力の篭った宝石にしか見えんが―――万が一という事もある」

 

言峰は、エミヤの頭をそれまでとは違った丁重な手際で地面に戻すと、油断のない瞳でこちらを見据えた。昏い色をした瞳からは、なんの感情も読み取ることができない。

 

「まずは試してみるか―――、やれ」

「――――――!」

 

やがて言峰は静かに短く命令を下した。控えていた手下―――すなわち魔のモノである獣たちが、背後の闇より飛び出して私たちに襲いかかってきた。咄嗟の出来事であるということと、負の感情が体の反応を鈍らせていて、対応が遅れる。

 

―――ダメ。間に合わない

 

「―――、―――!?」

 

頭の中、やけにあっさりとした諦めの言葉が浮かんだが、周囲の闇たちは、そんな私たちの死の予想を覆すかのように、私たちの周囲を照らす赤の光に触れた途端、まるで誤って火に手を突っ込んでしまった際に起こる生理的な反応であるかのように、驚きの表情を浮かべて飛び退いた。獣は光と触れた鼻っ面をかきむしって、怯えた所作を取る。

 

「―――なるほど、魔のモノを封じる、というだけのことはある」

 

けれどそして、配下の攻撃が通じなかったのを見た言峰は、なんとも愉快そうに口元を歪めた。陰鬱な笑い声とともに彼が浮かべる笑顔は、なぜか慈悲に満ちたものだった。

 

「ならば取引といこうではないか。―――宝石をその場で砕け。そうすれば、この男をそちらへと引き渡そう。速やかに治癒してやれば、万全の状態で一命を取り留めることも可能だろうよ」

 

そして発せられた言葉はなんとも選択に困るものであり、私たちを騒つかせた。ダリの腕にこめられた力が微かに抜け、サガも驚きに体を弛緩させ、ピエールですら顔を多少歪めた。そうして動揺が広がり苦悩と迷いが全員の心に行き渡った様を見て、言峰はさらに口元を引き上げて、心中の愉悦を露わにした。

 

 

他者が嫌う己の本質を認めたのは、第四次聖杯戦争の折だった。当時教会から派遣される魔術師という体で参戦。その実、父、言峰璃正の友人であり、我が魔術の師でもあった遠坂時臣聖杯戦争の勝者とすべく、補助に徹しての活動をしていた私は、師の召喚したサーヴァント、「ギルガメッシュ」と出会った事で、私は長きに渡る軛より解き放たれたのだ。

 

「無意味さの忘却。苦にならぬ徒労。即ち、紛れもなく「遊興」だ。祝えよ綺礼。お前はついに「娯楽」の何たるかを理解したのだぞ?」

 

己以外の全てを見下し、天上天下唯我独尊を体現する半人半神の英雄たる男は、しかしたしかにその傲岸不遜に見合っただけの実力を有しており、また、己の感性のみを絶対の基準として万物すべての事象の真贋を詳細に見抜き、気に食わぬモノに裁きを下す、暴君ながらも王と呼ばれるに相応しい男であった。

 

奴は私が長年誰にも明かさず、己の裡にて抑制してきた、他人が醜き姿をさらすのを見て美しいと思う感性を、短い観察の期間にて見抜き、そして、当時は罪深いと断じて見て見ぬ振りをしてきた苦悩を、愉悦を求める魂の渇望を拒むがゆえの痛みである事を見抜き、そして、私の魂の在り方を肯定した。

 

誰もが嫌い憎む本性を己で肯定し、あるいは他者に肯定される。奴との出会いにより、私は、一般的に悪と呼ばれる側に属する感性を持つ、無意味に生まれ、やがて無価値に終えるはずだった己の生涯を、せめて無駄と切り捨てず、愉悦にて楽しく彩る手法を覚えたのだ。

 

 

エミヤが助かる。しかも完全な状態で。言峰綺礼という男の言葉は、驚くほど素直に私の心を切開して、中に入り込んできた。声は先ほどとは一転、慈愛に満ちていて、言葉が絶対の事実であるかの様に思わせる。

 

「―――あ」

 

思わず手が伸びて、体が前に出そうになった。けれどその動きは、やはりダリの腕に体を抑えられて、足を動かせずに終わる。間違いなく罠だ。言峰が述べた甘い言葉は、エミヤが語った彼の人物像を思い出させて、遅ればせながら私はダリと同じ判断をする。

 

おそらくそれなら、砕いた瞬間、言峰はエミヤを殺す。けれど、砕く事を拒否すると断言しても、やはりエミヤは殺される。エミヤが今、瀕死ながらも彼の掌の上で生きながらえているのは、この宝石に取引の材料として価値があるからだ。だから、宝石を決して砕いてやるものかと固く握りしめる。

 

「―――ほう」

 

すると言峰は関心の一言とともに、私に観察の視線を送ってきた。おそらく、彼の予想では、もっと私の心が揺れるはずで、けれど、違った反応を見せたことに興味と好奇心を抱いたのだろう。嬉々とした様子で揺れる心の天秤がどちらに傾くのか、判断しようとする態度が、少しばかり気にくわない。

 

「おい、どうする?」

「――――――わからん」

「わからん……って、だってこのままだとエミヤが死ぬんだぞ!」

「だからといって、みすみす見えている罠に嵌ってやれるわけないだろう! 砕こうが砕くまいが、どちらを選んでも、魔のモノを封じようとする我々を奴が見逃すわけがないだろう! 砕けばその時点我々ごと! 砕かなければその時点で、エミヤが死ぬ! 殺されるんだ! わかっているんだ、そんなこと! だからどうすればいいかわからんといっているのだ!」

 

もちろん、奴の言葉に心を揺さぶられたのは、私だけじゃないし、エミヤが置かれている状況を見抜いたのも、私だけじゃない。サガの素直な問いに、ダリはまじめに正直な思いと考えを返し、睨み合う。そして、こんなときまで、それぞれの性質は変わらない。あるいは、こんな時だからこそ、それぞれの本質が出ているのかもしれない。

 

彼らの問答に導かれて、話の主役であるエミヤを見る。ボロボロの彼が微かな呼吸の身動きだけをする中、こちらの方へと伸びた右腕の、その先の二本がない怪我から、その半身の爛れた傷を眺めて、私は改めて息を呑んだ。

 

―――どう見ても、この場で全ての治癒が可能な傷じゃない

 

癒着した肉と服を綺麗に剥がして、失った体の一部を復活させるなんていう完全な治療のためには、エトリアに戻って施薬院に運び込むくらいしか思い浮かばない。けれど、エトリアに戻る手段を取り上げられ、その上、エトリアから追放されている私たちがその場所に戻るためには、魔のモノを封じて、来た道を引き返し、階段を戻るしか手段がない。

 

けれど、今、エトリアへの道は、魔のモノによって封鎖されている。つまりはどのみち、魔のモノを封じることが、エトリアに戻るための絶対条件だ。そしてそれを可能とする様な手段の手がかりは、今この場において宝石しかない。

 

宝石が魔のものに対して効力を発揮するのは、自分の目で先程確認したばかりだ。また、エミヤが言うには、魔のモノの手先であるという言峰綺礼が、宝石を砕け、とわざわざ交渉するからには、宝石にはたしかに、魔のモノの全てを封じこめる力がある可能性も高い。

 

なら、クーマの言った通り、宝石を制御装置らしきものへと当てれば、魔のモノを封じられるのかもしれない。どのみち、前も後ろも魔のモノに囲まれている状況で、全員を助けるなんていう芸当は、不可能だ。ならいっそ―――

 

―――彼を犠牲にして、宝石を杯に使用するべきか

 

「―――なるほど、瀕死の仲間を前にして動かないのは、こやつの言動により、私の信用が地に落ちているゆえか。そうだな、交渉を行うならば、互いの間に相手は必ず約定を守るという信頼関係か状況がなければ取引不可能だ、―――ならば、まずは材料を作るとしよう」

 

理性が損得を計算し、判断の天秤を最低損失での勝利条件へと傾かせにかかった瞬間、私の心情の動きを見透かしたかの様に、言峰は言い放ち、エミヤの爛れた背中へと手を当てる。そして彼の手が光ったかと思うと、見る間に血肉が服と切り離された。

 

皮膚と一体化して癒着したモノを剥離した途端、剥がしたものから血が滴り、肉と骨、筋繊維が見え、そして言峰が放つ光によって盛り上がりを見せたかと思うと、怪我は癒えてゆく。

 

思いがけないところから差し伸べられた治癒の手に、呆然とエミヤの傷が少なくなっていくのを眺めていると、やがて言峰は、スキルとは違う―――おそらく魔術―――技術によってエミヤの背中と頭部の大半の怪我を治癒すると、再び話しかけてきた。

 

「譲歩をしてやろう。宝石をこちらに渡せば、この男の傷ついた部分を治して返してやる。ついでに貴様らをこの冬木の土地から地上に送り返してやってもいい」

「え―――」

 

その言葉は、まさに魅惑の一言に尽きた。死力を尽くした私たちは道具も尽きかけていて、もはや魔のモノを封じる賭けに出るほかに生きて帰る道はない。けれど、そこに救いの手がもたらされた。

 

今、言峰の手によって、エミヤと言う男の瀕死の怪我は治癒されて、彼の顔には赤みが戻りつつある。血液の循環が正常に機能し始めた証拠だ。そうしてエミヤが回復する様を見せつけられると、如何にも彼は誠実かつ公正に取引を行い、寛大にも私たちを見逃してくれる人物なのだと思えて来てしまう。

 

「どうした? 侵入し暴れた不届きものを許す条件としては破格だろう? 宝石を渡すだけで、この男に治癒を施し、貴様らとともに五体満足の状態で返してやろうというのだ」

「―――どうやって、我々を地上へと送り返すつもりだ」

「この男から聞かなかったのか?  エミヤシロウは、私がこの冬木の土地から送り出したのだ。私の根城たる教会へと戻れば、転移のための装置が万全の状態で残してある」

「彼の指がないが―――」

「ああそれなら―――、そら、受け取るがいい」

 

答えると、奴は服のポケットから取り出したものを乱雑にこちらへと放り投げた。私たちの目の前の地面に着地した棒状のものが、二本、転がってくる。

 

「う―――」

「奴の指だ。あとで治療してやるといい」

 

言峰が放り投げたのは、エミヤの二本の指はボロボロで、グチャグチャで、すでに血の気も失せていたが、なんとか原型は保っていた。これなら繋がるかもしれないという希望が湧いて出る。

 

「―――渡せば、本当に、見逃してくれるのか? 」

「確実に、地上へと送り返すことを約束しよう」

「宝石を渡した瞬間、ズドンなんてことは……」

「不安ならば、教会まで宝石を貴様たちが持ってくるといい。魔のモノの力を使わずとも、宝石程度の石ころを砕く手法などいくらでも思いつくし、それらを試すのは貴様たちがいなくなったあとでも構わんのだから」

 

言峰は、どこまでも疑問を丁寧に埋めてくる。疑問が解消されるたび、サガとダリは、徐々に彼との取引に応じる気になってきている。

 

かくいう私も、エミヤの顔色が戻り、助かるかもという可能性が浮上してゆくたび、天秤が、宝石を渡してこの度の冒険を諦める方へと傾いてゆく。エミヤの、言峰を信用してはならないという忠告は、目の前で積み重ねられた、他ならぬエミヤの傷を治療したという実績によって、その効果が薄れていった。

 

絶望に満ちかけていた心に、一筋の希望の光が射し込む。

 

―――みんなで生きて帰れるなら、それが一番いい

 

希望は、全ての疑念を脇に置かせて、胸の中で徐々に大きくなってゆく。私は言峰が欲している宝石を握りしめた。私は、そうしてクーマからエトリアの未来のためにと託された宝石を、これから犠牲となりうる多くの人を救うためでなく、今、私たちが助かるために手放そうとしている。

 

気がつけば、ダリとサガはじっとこちらを見つめている。その瞳は、言峰に宝石を渡してしまう事を良しとしろ、と、明白に語っていた。もう、ダリの腕による拘束は解かれている。おそらく、現在宝石を持っている私が首を縦に振れば、その時点で契約は成立する。

 

私は―――

 

「わかりました。宝石を―――」

「渡すわけには、いきませんねぇ」

 

いうと、今までだんまりを貫いていたピエールという男は、私の手から素早く宝石を奪い取ると、湖面に足を踏み出して、そのまま数歩ほど進み、言峰どころか、私たちからも距離を取る。彼の端正な顔は、不愉快の感情に歪んでいる。それは言峰という男に対して向けられたものであり、同時に私たちを対象に含んでいることも、こちらを睨みつける刺々しい視線から読み取れた。

 

私は、常に冷静を保っている彼の突然の蛮行に、文句を言うこともできずに驚くことしかできなかった。

 

 

私にとって、シンという男は、世界で一番大切な人間でした。彼が死んでしまった後、それでも生きてゆこうと思えたのは、ひとえに、シンという男の残り香がダリとサガの中にあったからであり、シンという男が願いを託した響がいたからです。

 

私は彼らの中に残ったシンの欠片が、私にとって良い刺激になることを確信していました。私は彼らの活躍を通して、シンという男の活躍を見ていました。私は彼らが活躍し、変化し、正しいと思える方向に成長するたび、シンが彼らに与えた影響を見つけて、喜んでいました。

 

やがて三人は、己の意志で、たとえ追放され無茶な条件をだされようと、エトリアという街と人のために戦うことを決意しました。シンが亡くなる前のサガなら、日和見な意見をだしたでしょう。ダリなら撤退を進言していたでしょうし、響なら周囲の意見に流されていたでしょう。

 

強敵であれ、難題であれ、迷いなく受託する彼らは、まるでシンのようでした。私はあの時、彼らの中に、シンを見つけたのです。まるで、シンがまだ生きているかのような気分を味わったのです。シンは、彼らの中に生きていたのです。

 

しかし今、そんなシンの意志をその身に宿す彼らは、強敵、難題を前に、楽な道を選ぼうとしました。判断難しい局面を前にした時、周囲に流されるがまま、他人の意見を採用しようとしました。

 

仲間は、敵と断言した男の甘言の心地よさに惑わされて、敵に屈しようとしていました。

 

私はそれが許せなかった。まるでシンを穢されたように感じて、気づけば私は、響の手から宝石を奪い取っていました。宝石を言峰に渡そうとしていた彼らは、当然、疑問の念を私に向けてきます。

 

さて、素直に私の気持ちを伝えてしまうと彼らにとって刺激が強すぎるでしょうし、ここは多少ぼかした表現を駆使して、差し出された毒餌の誘惑にまんまと引っかかった彼らに、私の気持ちと考えを伝える事といたしましょうか。

 

 

「おい! ピエール、どう言うつもりだ! 」

 

驚愕に言葉も発せない私の代わりに、サガが文句を言う。

 

「どうもこうもありません。だって、このままだと貴方達、宝石を奴に渡してしまいそうなんですもの」

「―――それの何が悪い」

「何が悪い……? 何が悪いですって……?」

 

言うと彼は、高らかに声を上げて笑い始めた。男性にしては高い音程の彼の声は、バードという言葉を武器とする職業の喉元から飛び出すと、薄暗い洞穴を満たすほども大きく周囲の地形に響き渡る。

 

「私はね。英雄が好きなんですよ。架空だろうと、実在だろう、世に残される物語に登場する果敢な彼らは、大抵、いかなる苦境に陥ろうと、諦めず、敵に屈することなく、最後まで自分の意思と信念を貫いて死んでゆくのです」

 

そして突然語り出した彼の独白に口を挟むものはいなかった。否―――、挟めない。語り部たる彼は今、言葉を武器とするこの戦場において、絶対の支配者と化していた。ただでさえ薄暗い闇の中、抗えないほど重苦しい空気が張り詰める。それはおそらく、彼の意図せずに発散している感情が生み出したものだったのだろう。

 

「英雄と呼ばれる彼らの生涯には、さまざまな苦難がありました。後悔があったでしょう。苦しみがあったでしょう。かつて人同士の諍いが戦いの理由であった時は、他者を憎み争いの種になる事だって珍しくもなかった」

 

彼が口を開き、長きにわたり滔々と語るのは、過去と彼にとっての事実を語る時だけだ。

 

「そうした彼らの苛烈な生き様、死に様は、私にとって、とても刺激的なものであり、美しく、快楽です。ただ、そのあまりの鮮烈さと過激さは、今の時代を生きる人たちにとって少々刺激が強すぎることもありますが―――、とにかく、バードはたる私は、物語を語る際、登場する人物がどのような思いを抱いて生き抜いて、そして死んでいったのかを再現し、己の解釈を感情に乗せて歌とするのです。そして、そんな英雄達が苦難を葛藤し乗り越えたのかを聴講者達に伝える事で、彼らに良い変化を与え、そして聞いたものが英雄達と同じように懊悩し、壁を乗り越えようとする様を、壁を乗り越えたのを、良質の刺激として楽しんでいるのです」

 

わからない。彼が何故今そのような己の性質を語り出したのか、その意図が読めない。ピエールはその視線を言峰綺礼という男に向けた。気圧されて静聴している私たちとは違い、言峰という男は、ピエールの話を聞いて、忌々しいと言わんばかりに、顔を歪めていた。

 

ピエールはそれを見て笑う。

 

「その反応。貴方がこの世界を醜いといってのけた時、もしやと思いましたが、やはりそうなのですね。私と貴方はよく似ている。私が他人の成長や、苦難を乗り越える姿を美しいと感じ良質の刺激とするのに対して―――貴方は、人が苦難や苦悩に絶望する姿を見て喜ぶ」

「―――」

 

言峰は一転して無表情となり、無言を貫く。

 

「―――私は今、一つ、気に食わないことと、一つ、気にかかっていることがあります。だからこうして宝石を取り上げたのです」

 

ピエールはそんな言峰の変化を、気にもしないで、話を続ける。話題をようやく本題へと戻したピエールの手中では、赤いルビーが、話の主役となることを喜ぶかのように輝いていた。

 

「気に食わないこととは、もちろん、私の仲間達のことです。苦難の道を歩むのは己が選択した結果なのだ、見くびるな、と言い張り、エミヤという男に真っ向から食らいついたサガや、常に誰かを守ることを密かな誇りとしていたはずのダリ。シンという男の意志を継いで、未知に挑むと誓った響は、あろう事か他人より差し出された安楽で破滅的な道を選ぼうとしていた」

 

突如こちらへと飛んで着た非難の刃が、私たちの心を容易く切り裂いた。言葉はそれぞれの心への侵入が容易となるように加工されていて、思わぬ痛みに、私も、ダリも、サガも、それぞれ呻き声のような声を上げさせられる。

 

心の痛みは、自らを甘やかしていると自覚させられた事によるものだった。

 

「くっ、くっ、くくっ」

 

そうして私たちが胸を痛めた様に、言峰は鼻を鳴らし、失笑を漏らした。顔には、思わぬ所

に面白いものを見つけた時などに生じる、喜びの感情が生まれている。間違いない。彼は今、私たちがそうして苦しんでいるのを見て、悦楽を得ている。

 

―――なんて性格の悪い

 

私はそして、エミヤの忠告と、ピエールの推論が正しかったことを、今更ながらに理解した。

 

「そして気にかかっていることとは、もちろん、貴方の言動です、言峰綺礼

「―――私の言動の何が腑に落ちないというのかね? 」

 

言峰は私たちの失態を見た事で機嫌を直したらしく、打って変わって私たちを言葉で傷つけたピエールとの会話を楽しむかのように聞く。

 

「だって貴方、実のところ、宝石を渡したところで、私たちを生かして返そうなんて気は、さらさらないのでしょう? 」

「―――さて、戯言を述べたつもりはないが、何を根拠にそう思う?」

「ええ、貴方はたしかに嘘をついていない。―――でも貴方、これまでの会話で、一言たりと、私たちを生かして返してやろうなんていう意味の言葉をいってないじゃないですか」

「―――く」

 

ピエールが指摘するや、言峰は、声を荒げて笑い始めた。己の性質を見抜かれ、企みを暴かれたというのに、心底愉快そうに、悦楽のままに、何度も息を切らしては、高笑う。それはまるで、長い時間をかけた末、鈍い両親に自分の意図をようやく少し読み取ってもらえた子供が、喜びのままに感情を表現しているかのような、純粋な喜悦に満ちたものだった。

 

 

ピエールは言峰綺礼が高笑いした直後、彼は杯に向かって駆け出していた。バードという補助職ながらも流石はエトリア随一の冒険者、その速度は決して他の近接戦闘職と比べても遅いものではない。少なくとも、彼はいつも以上の速度で湖底を駆け抜ける。

 

滑らかな黒い湖面は彼が持つ宝石の力によって、常にピエールから一定の領域だけ目に見えぬ境界が敷かれ、液体の侵入を完全に防いでいた。宝石は明らかに魔のモノを退ける強い力を持っている。

 

見た目では区別がつかないが、封印なのか、祓っているのかわからないけれど、どちらにせよなら、ピエールが言峰という男が馬鹿笑いしている隙に杯へと到達し、それに宝石を使用することができれば、魔のモノをどうにかできるかもしれないと、強く思えた。上手くいけば魔のモノである黒い影はだろうし、その配下である言峰も身動きが取れなくなるはずだ。

 

そうすればエミヤを助けられるし、私たちも助かる。あとは、言峰の言っていた転移装置で地上に脱出すればいい。それで万々歳。万事解決だ。

 

しかし。

 

「なるほど、面白い事を言う。だが、惜しいな。確かに私と貴様は似ているかもしれないが、物語のような余分や絞りかすを楽しめるのであれば、貴様の感性は所詮二流のものにすぎん。私が娯楽とするのは、危機に追い詰められた人間が極限下において見せる、むき出しになった魂の炸裂だ。例えば―――」

 

言峰が言うと、私たちのいる入り口近くの湖の際から杯の間までの黒く滑らかだった湖面が蠢いて、液体は気味の悪い触手の群れへと変貌した。目と吸盤だらけの黒いそれらを、一目見て醜いと思ってしまったのは、その触手が全身より放つ怖気が、原始的な本能部分に働きかけられた結果だ。

 

あれは、およそ人の受け入れられる存在ではない。触手は、一度触れれば、瞬時に食われてしまいそうな、絶対的な捕食者を前にしたような感覚を私にもたらして、私はそれらから距離を取る為に離れた。周囲ではダリとサガも私と同様の挙動をしている。

 

「―――はっ、はっ、はぁっ」

 

そうして湖の中で際限なく増える触手の群れの中を搔き分けるよう、ピエールは杯目指して一直線に進んでいた。湖面に膨大な数現れた触手は、魔のモノを封じる宝石によって、彼に傷を負わせることが出来なくなっているようだった。触手はピエールから離れようとして蠢いている。

 

しかしそして、湖の中を安全に障害なく進めるようになっているはずのピエールは、触手出現直後、中心に進むにつれて進行の速度が遅くなってゆく。

 

「ああ、もう、煩わしい……! 」

 

原因は、湖面を覆い尽くした触手だ。触手は湖面全てを覆い尽くし、ピエールの周囲を隙間なく埋め尽くしていた。つまりは、魔のモノも己の苦手とすると力から逃げられないでいた。故に先ほどまでピエールの周囲空間はもはや余裕が一切なく、彼は全身余すことなく魔のモノに飲み込まれているような状況だ。

 

「援護にいかないと―――、っ……!」

 

私は慌ててピエールを追いかけようとして、触手の群れに行く道がないことを思い出させられる。不用意に伸ばした指先が地面から伸びた触手にふれて、灼熱の痛みが走った。引っこ抜いて指先を見ると、先が黒くなっていて、感覚が無くなっていた。

 

―――死ね、死ね、死ね

 

そんなことよりも恐ろしいのは、指先から入り込んでくる悪意。今までに味わったことのない、他人から向けられる純粋かつ濃密な負の感情は、おどろくほどの速度で心に到達して、その全ての領域を汚染してやろうと侵食してくる。

 

次の瞬間、薬を使ったのは、本能の動きだった。一刻も早く、それから逃れたい。そんな思いを込めて振りまかれた治療薬により、指先は浄化されてすぐさま色を取り戻す。黒の色が私の体から消えると同時に、その呪いはどこかへと消えていた。

 

「―――っ、……はっ、……はっ」

 

呪いから逃れたことに安心したのもつかの間、蠢いていただけの触手は能動的な反応を見せて、目の前の私に襲いかかってきた。一つならなんとかなったかもしれないけれど、湖から襲いかかる触手は、あまりに数が多すぎて、反応が間に合わない―――

 

「響! 」

 

顔が黒焦げになる寸前、ダリが私の体を引っこ抜いて、湖のそばから離脱してくれた。今まで私たちのいた地面をたくさんの触手が叩いた途端、じゅうじゅうと音を立てて、地面が焼かれて黒くなる。触手は共食いするかのように重なり合ったのち、獲物がいない事を確認すると、その触手を元の場所へと戻した。

 

そいつらがいなくなった後の地面は幾重にも抉れ、黒焦げになっている。一瞬でもダリの反応が間に合っていなければ―――

 

―――私は、本能の部分に嫌悪の感覚を叩き込んでくるあの触手の餌食になっていたのか

 

「―――っ!」

 

背筋に冷たいものが走って嫌な汗がブワッと額に浮かんだ。鼓動は嫌が応にも早まり、呼吸が荒く短くなる。そのまま顔を上げて、触手に襲撃の命令を出した張本人を見てやると、言峰は、命の危機に恐怖に怯えた私を見ると、彼は愛おしそうに笑っていた。

 

「そう、それだ。多少もの足りぬが、今しがたお前が見せた、その命の輝きと抵抗の先にあるものこそ、私の求める刺激の源なのだ」

「―――」

 

そして私は、エミヤが危険視し、ピエールが宝石を私から奪った理由を、完全に理解した。この男は、心底、他人の不幸と苦しみを喜び、糧とし、それのためなら、虚言に戯言、卑怯な謀だって平気でやる人間なのだと。

 

「―――その目。どうやら私と言う人物を正しく理解してもらえたようだな―――、しかし、そうか、目論見と私の性格を見抜かれ、宝石が貴様らの手になくなったのなら、もはやこれには完全なまでに価値がなくなってしまったな」

 

彼は笑って、先程己が治療を施したエミヤの頭を踏みつけた。大地が砕けるほどの衝撃。ゴキリと嫌な音がして、彼の体が大きく揺さぶられ、四肢が一瞬だけ跳ねて再び地に落ちる。伏せた顔面から、血がどくどくと地面に赤い水たまり作ってゆく。私は頭に血が昇って、湧き上がった怒りの気持ちで冷めた心がかっと熱くなった。

 

「何を―――」

「いらなくなったものを処分する。それだけのことだ。それに、そろそろあの男が聖杯に到達してしまう。流石に魔のモノを押しのける程度の力しか持たぬ宝石でアレを完全にどうこう出来るとは思えんが、聖杯に使われては多少の影響があるかもしれん事は否定できない。なにより器が完成する前に水を差され二百年近くにも渡る苦労を台無しにされては、興醒めどころの話でないのでな。異変が起こる前に、余計なゴミを始末してから、あの男の処分に向かうとしよう」

 

素直に答えたのは、私たちのことを侮っているからだろう。言峰は足をあげると、その靴底をエミヤの背中の真上に持ってゆく。先程よりも高く上げられた足は、無防備な背中の上で固定され、私は彼が何をしようとしているのか悟り、思わず叫んだ。

 

「やめてぇ――――――! 」

「――――――、ふ」

 

心からの嘆願の叫びは、けれど奴を喜ばせて行動を促進する材料にしかならなかったようで、言峰は憎らしいほど晴れやかな笑みを浮かべて、その足を振り下ろした。

 

 

「―――あと少し……!」

 

目の前を塞ぐ触手と触手の隙間に、両手を捻じ込んで二つの距離を大きくあけると、今度は体を捻じ込んで、つっかえとします。そして胴体を梃子がわりにして、隙間をさらに大きくすると、二つが再び仲の良さを取り戻す前に、足を通して、間を抜けるのです。

 

こじ開けては、抜ける。こじ開けて、抜けて―――そして、そんな作業を数十回繰り返したのち、ようやく私は、杯の手前までやってくることができました。

 

湖面を大量の触手が覆う中、杯が保管されている台座の周辺だけは、何事もないかのように平穏を保っています。やがてその群れを、これまでと同じように無理やり抜けて空白地帯に身を投げ出すと、転げて杯に近寄りました。

 

「――――――! 」

 

すると、守護を突破された触手の群れは、悔しそうに身をよじらせながら、手近の地面を叩き、地面はまるで呪われたかのように真っ黒く染まり、掘削されて砂埃が飛びました。

 

呪いを帯びた礫は、黒い散弾となり地面に横たわる私の全身を襲いましたが、それは私の周囲から数メートルほどの空間に入った瞬間、呪いを浄化されて、元の色を取り戻しました。

 

―――やはり

 

礫に見るだけで呪い殺されてしまいそうな毒の沼に全身を浸らせていながら生きていられたのは、この手にした宝石のお陰なのでしょう。その事実はつまり、この宝石を魔のモノが守る杯に直接接触させれば、何かが起こるに違いないと、私に確信を与えました。

 

埃を払いのけると立ち上がり、前へと足を進めます。あと数十歩。それであとは決着がつくはずです。そう、この宝石を杯に接触させてやれば―――

 

「―――う」

 

そして宝石を持った腕を台座の上に置かれた杯へと伸ばして、私は気がつきました。人の頭が入るほどの大きさの銀の杯の底には、酒の代わりに血液が薄く、しかし波紋で波を作る程度の量が注がれており、さらに、人間の心臓が、氷の代わりに入れられていました。

 

杯に心臓を収める意図も意味もわかりません。いかなる仕掛けなのか、杯にぽつねんと存在する心臓は、まるで未だ千切れた血管と神経の先が繋がっているかのように、血色よく脈打っているのです。

 

何という人知を超えた不気味な光景なのでしょう。多くの物語を蒐集してきましたが、ここまで常軌を逸した光景を語るものはありませんでした。不気味に怯えて、思わず嚥下すると、喉元を通過してゆく唾液の音が、やけに大きく体の中に響きます。

 

―――とにかく、これで全てが終わるはず

 

気持ちが黒く塗りつぶされる前に、私は宝石を持った手を杯の方へとのばし―――

 

「やめてぇ――――――! 」

 

背後より響いた悲痛な声に、気がつくと振りむいていました。暗闇の中、視線が触手蠢く湖の光景を乗り越えると、やがて水際の近くと少し離れた場所に、仄か光る二つの光源を見つけることが出来ます。一つは、仲間のもう一つは、言峰綺礼という男のものでしょう。

 

まず近くの明かりへと目線を送ると、膝から崩れ落ちて両手を地面についている響の姿が目に入りました。目線を送った直後、彼女は体を揺らして震えはじめました。おそらくは嗚咽しているのでしょう。

 

彼女の前方ではダリが体を傾かせて槍に体重を預け、彼の横ではサガが力の抜けた肩を落としてうなだれていました。

 

いつの日か見た、絶望を露わにする態度。シンが死んだときの記憶がよぎり、嫌な予感が脳裏を駆け抜けます。彼らをドン底へと叩き込んだ原因を早く探れと不安に急かされるまま、入り口近くの明かりの方へと視線を移動させて―――

 

「―――そんな」

 

そこに胸を貫かれたエミヤの姿を見つけて、私は仲間たちと同様の、暗く深い絶望の刺激を味わいました。覚悟しての出来事であるとはいえ、目の前にすると、やはりたまったものではありません。

 

―――また、仲間が死んだ

 

エミヤを殺した言峰綺礼という男は、彼の胸から足を引き抜くと、自らの行動によって絶望の淵に沈んだ三人の様子を見て満面の笑みを浮かべました。そして。

 

「――――――」

 

遠くにいる言峰と私の視線が交わります。三日月の笑みを浮かべた顔面の中、口元が静かに動きます。この数十メートルも離れたこの位置から私がその動きをはっきりと捉えることはできませんでしたが、言峰がこちらに向けて発した言葉は、不思議と理解することができました。

 

―――お前のせいだ

 

お前が暴走したせいで、エミヤが死んだのだ。遠目に見える微かな唇の動きは、けれど雄弁にエミヤの死が私の行動にあるという事を述べていました。奴が遠くより放った言葉の刃が、目に見えぬ矢となって、私の心を貫きました。

 

苦しむお前らの姿が愛おしいと言わんばかりの慈愛に満ちた満面の笑みを浮かべる言峰の所作を見るのが辛くて視線を下に落とすと、そこでは物言わぬ骸となったエミヤが、頭部から血を流しているのが目に入りました。

 

―――君の足掻きのせいで私は死んだのだ

 

死者は何も語らない。死体から言葉を発したのは、私の心が生み出した幻聴に間違いない。そんなこと、嫌という程理解している。けれど、心がどうしても認めてくれない。だって真実、私が響の手から宝石を奪って杯へと近寄らなければ、彼は今まだ生きていた可能性が高いのだ。あるいは、奴の言う通り、宝石を教会という場所にもってゆけば、そこまでの間に彼は意識を取り戻してくれて、もっと良い手が打てたかもしれない。

 

―――いやきっと、そうなったに違いない

 

他の選択の先にもっと良い未来があったかもしれないと思うと、胸がいっそう苦しくなりました。あったかもしれない、いう言葉は、確定していたのに、という言葉へと成り代わり、やがて、自らを痛めつける刃となります。

 

そんなもの、被害妄想に過ぎないと言い聞かせながら、しかし、外部より過剰に与えられた刺激は心の中をかき乱して、冷静な判断をさせてくれません。

 

―――あの時、宝石を渡す選択肢を取っていれば……

 

彼女から宝石を奪い取った時、エミヤが言峰に殺されるという未来を予測していなかったわけではありません。それどころか、そうして交渉を無視して、宝石にて魔のモノの封印を試みれば、交渉材料として価値のなくなったエミヤが殺されるそうなる可能性は高いとすら思っていました。

 

しかし私は、そんな仲間を切り捨てる覚悟をしてこの場所まで宝石を運んできました。覚悟。そう、私は仲間を見殺しにする覚悟を決めていたのです。……決めていたつもりだったのです。……決めていたつもりでした。

 

けれど実際、自らの行動により仲間を死なせてしまったという事実は、そんな上っ面だけの覚悟なんて軽く吹き飛ばして、心の中をかき乱します。後悔の感情は、未だに私が離さず色褪せさせず抱えている、かつてシンという男が死んだ時に味わった想いに辿り着き、掘り起こし、交わって、やがて一切の法則性を持たない無茶苦茶な信号となって、表現しきれない感情が全身を駆け抜けます。

 

チカチカと視界が明滅するのは、現実を直視したくない体が、拒絶反応として瞼を動かしている故でしょう。ごとりと音がして、初めて自分が楽器を地面に投げ出していることに気がつきました。強すぎる刺激に支配された体は、バードとしての誇りを放棄する事を選んだのです。

 

―――私は

 

やがて気がつくと、力が抜けて崩れ落ちてしなだれていて、それでも宝石から手を離さないのは、浅ましくも、生存本能がこれを離してしまうと、周囲の魔のモノが押し寄せてくると感じ取ったからでしょう。

 

―――私はなんて愚かなことを……

 

ごめんなさい、と謝罪の言葉が脳裏をよぎって、けれどいってしまえば彼の死の原因が自分の物だと確定してしまいそうで、躊躇いにぎゅっと手を握りしめました。すると、手中にて変わらず赤く輝く宝石は、そんな私の弱気を吹き飛ばすかのように、静かで強い光を周囲に撒き散らしました。

 

自然が作り上げた奇跡の塊が放つ、純粋で高貴な輝きは、まるで、やると決めた事をやり通すし、気にくわない奴はぶっ飛ばすとでもいうかのように、未だに力強く魔のモノたちを遠ざける光を放っています。

 

宝石は持ち主の魂と記憶を受け継ぐといます。ならきっと、その凛然とした強さは、この宝石のかつての主の意志を反映したものなのだろうと思いました。

 

―――そうだ、今は悲しみにくれている場合じゃない

 

石が放つ美しい心の光は、彷徨い闇に落ちかけていた心を正しい方向へと導いてくれました。先程誘惑に屈しそうになった彼らのことを責める資格は、私にもないな、と思いました。また、シンの在り方と異なる行動を取りそうになった自分自身に怒りが湧き上がります。

 

ただ、そうして怒りのままに行動するのは、いかにもシンらしくないと思いました。気がつくと、私の怒りは、一旦、その全てが行動のためのエネルギーに変換されていました。脳が動く命令を下すと、体は従順に思った通りに動作してくれる事に気づけます。

 

―――犠牲が出た。それでも初志を貫徹する

 

そう。正しいと思ったのなら、命をかけてでもやり遂げる。私の選択によって、犠牲が出た。仲間が死んだ。仲間を死なせてしまった。でもだからといって、足を止めることはできない。

 

後悔したところで現実は覆らない。人は血液を失えば、人は死ぬ。心臓を砕かれれば、人は死ぬ。何もせずとも、寿命で死ぬ。だから、せめて、嘘偽りなく生きる。他者との衝突を恐れず己を貫き、間違いを指摘されたのなら認め、犠牲をだしてしまったのならその死を悼み、抱え、そしてやがて訪れる最後の瞬間、己の生き様を認め、満足のうちに死んで行けば良い。

 

それが、私がシンという男から受け継いだ強さであり、シンという男が憧れたエミヤという男を私の判断にて死なせてしまった事に報いる唯一の術であり、残すべき財産なのだから―――

 

 

走馬灯のように圧縮された時の中で後悔と懺悔、改心と決心を一気に済ませ終えると、私は元々の目的のために動き出しました。起きた現実の出来事をきちんと見据えてやると、頭の中にこびりつくような幻聴はもう聞こえてきませんでした。声のある時に目を向ければ、彼は変わらず下を向いた骸の状態で、動く事はありません。

 

―――償いと弔いは後で必ず。ですが……

 

その前にやり遂げないといけないことがあります。それは選択の結果、犠牲にしてしまったエミヤの望みでもあった、魔のモノの封印―――それが出来るという宝石を、杯に当ててやる事。

 

「せめてそれくらいは―――!?」

 

やり遂げてみせよう。決意して振り向き、手中に収まっている宝石を器の中に収めるべく、手をかざしつつ振り向き、器の上に持っていこうとした瞬間、発生していた異常事態に目をむかされました。

 

「杯が―――」

 

人間の心臓を収めるという趣味の悪い意匠が施された杯は、その身が置かれ固定処置が施されていた台座から解き放たれて空中に浮いていました。宙に浮いた杯の上に空いた穴からは、やがて黒い汚泥が漏れ出し、下部の杯を満たし、溢れ、地面を焼きます。

 

銀の美麗な器から溢れてきたそれは、今までの魔のモノという存在が放っていたものとは別種の暗黒でした。やがて漏れ出た暗黒の水滴が一雫だけ地面に触れた瞬間、土は持っている生命力を奪い取られたかのように、溢れる汚泥と同種の黒い存在となり、直後、私の体へと襲いかかってきました。

 

「―――う、っつ、くぅ」

 

闇の群れはこれまでの触手どもとは異なり、宝石の守りなどまるで無視して、体に纏わりつこうとしてきます。体の周囲を覆う光と闇の境界線は瞬時に崩壊し、私は闇と接触。

 

「―――あ、が、う―――あ」

 

―――……死ね。……お前も死ね。……お前も一緒に死んでしまえ!

 

絶対零度の悪意。闇と触れ合った体は瞬時に温度を奪われ、内包する悪意の成分は心に侵食してきます。その現象は、体と心を徐々に己を傷つけるなどという生易しい次元ではなく、瞬時の同化と悟りでした。

 

「―――あ」

 

ぼきり、と、心が折れたのを感じました。単なる負の感情の奔流ならば、もう少しは耐えられたでしょう。ですが、私はもはやそれの一部でした。闇の中には、生きている限り逃れることのできない死の恐怖が齎すさまざまな感情が、極限まで圧縮されて詰め込まれていました。

 

触れた途端、もはや出来る出来ない、可能不可能の話しではなく、抗ったところで数秒後に訪れる一心同体になる運命からは、絶対に逃れる事叶わないのだという現実を、汚泥は伝えてきます。

 

―――ああ

 

なんで私はこうも弱いのでしょうか。少し前に心に決めたはずの抵抗の決意は、未知なる質と量の悪意によって、簡単に霧散してしまっていました。

 

折れた心に反応して、体から熱が失せていくのがわかります。体が失せてゆく感覚を覚えました。削られ、自由に動かせる部分が、痛み感じる神経が、それを怖いと思う感情が消えてゆきます。

 

―――……ああ

 

明日を夢見て眠りにつくのとは違う、希望のない底なし沼に沈んでゆく、暗闇と一つになる感覚。そして記憶も感覚も凄まじい速度で失せていく中で、私が最後に思い出せたのは後生大事に抱えていた、シンへの想いと、彼と関わった仲間たちの事でした。

 

―――自分が消えるのはいい。でも、シンの痕跡が全て消えてしまうのだけは耐えられない

 

せめて、彼が生きた思い出と行動理念を受け継いだ彼らくらいは救ってやりたい。一念は、自由にならないはずの体を動かし、宙に浮いた杯の中へ宝石を投擲させることを可能としました。

 

―――こ…れ……で……、……

 

宝石は浮かぶ杯の黒い汚泥の水面張力と勢いを破り、暗黒の中へと静かに呑み込まれて消えてゆきます。前方から怒涛の勢いで迫る泥が私の体を完全に呑み込み、背中がゆっくりと地面へと吸い込まれてゆきます。

 

意識を手放す前、ぼやける視界の中、入り口の近く湖の際で二つの光が合流する。それが、私が全てを手放す前、最後に見た光景でした。

 

 

「多少予想外もあったが、存外呆気なかったな」

 

エミヤという英霊を殺し、遠目に聖杯が完成したのを見る。第三次の聖杯を参考に、第五次の機能を組み込み完成した聖杯は、瞬時に予定通りの効力を発揮して、黒い泥―――すなわち、「この世の全ての悪/アンリマユ」を生み出し始めた。

 

―――ああ

 

「なんと美しい―――」

 

感嘆の声が漏れた。聖杯に付着した泥。すなわちアンリマユは、世界の全てを呪ってやまない闇を聖杯の中より吐き出して、その周囲を呪いで塗り替えてゆく。やがて溢れ出る暗黒は、奴と同質の存在である地底湖一面を覆う魔のモノと接触した。

 

アンリマユは魔のモノと接触すると、即座に触手を黒く塗り替えて汚染してゆく。すると、魔のモノは同化し黒ずんだ体を悦楽に震えさせて、悶えるのだ。魔のモノはアンリマユが内包する感情を存分に体内に取り込み、アンリマユは自らの血肉を分け与えながら、周囲の魔のモノ全てを己の属性で染め上げてゆく。

 

杯より黒いワインのごとき液体を無尽蔵に生み出し、飢えた衆目に血肉をパンのごとく与えながら前進するアンリマユはまさに、キリストのような聖なる存在であると言えるだろう。世間においては悪と呼称されるモノ同士の邂逅により、私は初めて、自己犠牲というものの尊さを理解することができていた。

 

―――長かった

 

珍しく感傷に浸る。魔のモノに必要とされ復活し、この時、この光景を見るため、二百年を超える時を過ごした。故に目的達成の喜びはひとしおだった。

 

 

かつてこの世界の人間に敗れ、ほとんど力を失い逃走した魔のモノは、その傷を癒しもとのとおりに復活するため、大量の人間の負の感情を必要とした。

 

魔のモノは迷うことなく、これまで以上の分量の負の感情を人間たちから吸い上げ己の傷を癒そうと試みた。しかし、皮肉にもその行為は、人間たちが、己に、互いに、負の感情を抱く事を妨げる事となり、世界は徐々に平和になってゆく。

 

摂取できる餌の質が低下し量までも減ってゆく中、魔のモノは己の存在維持が精一杯となり、一層必至に人間どもから負の感情を取り上げるようになるが、その行為はますます人間が負の感情を生み出さない生物へと退化させる原因となり、魔のモノは徐々に力を弱めていった。

 

やがて糧の量が減り、質が悪くなる中で、力を失っていた魔のモノは、世界のある場所で異常なものを見つけた。それは、かつての巨大な力を持つ自分では気がつかないほど小さな、けれど、その時代においては純度の高い悪意の感情だった。

 

生存の糧を求めていた魔のモノは、迷う事なく反応がある場所へと向かった。その場所こそが冬木の土地。円蔵山の地下、霊脈と近しい場所にある、大聖杯が設置されていた大空洞跡地である。

 

大聖杯という、世界の外側に干渉し、現在過去未来の英霊の召喚を可能とする魔術道具は、その内部の時間軸が全て等価の存在だ。また、大聖杯は、聖杯を現世に降臨させるため、その土地の霊脈を聖杯降臨にふさわしいものへと作り変える能力を保有していた。

 

アンリマユを宿していた大聖杯と接していた周辺の土地と霊脈は、その性質を一部受け継ぎ、大空洞跡地は、大聖杯がその場所に設置されてから以後二百数十年の歴史を保有し、悪意が溜まりやすいという特性を持つ場所に変貌していたのだ。

 

やがて第五聖杯戦争よりのちの時代、大聖杯の存在に気がついたある魔術師はその土地の異常に気づき、土地を霊脈から切り離して、封印処置を施した。おそらくは時の流れの果てに溜め込んだ力を失う事を期待したのだろうが、あいにく周辺より隔離された土地は、だからこそ皮肉なことに、魔のモノの到来と世界の崩壊からも無関係を貫く事を可能として、その場所は、長い間、一部の大聖杯の記憶と、純度の高い悪意を溜め込む事を可能とした。

 

やがて長い時間の果てに封印の効力は薄れ、土地の持つ悪意は外へと漏れるようになり―――

 

そして漏れた悪意を弱り切った魔のモノは感知して、奴はその場所へと足を運ぶ事となったのだ。魔のモノはその悪意を喰らい、そして喜んだ。残存している悪意は、質が、その時代とは比べ物にならないほど良質なモノであったからだ。

 

その悪意を喰らい尽くせば、自身はかつてほどでないものの、幾ばくかの力を取り戻すことができる。喜びそれらを喰らい尽くそうとした魔のモノは、しかし思った。

 

―――それでは駄目だ

 

今、世界樹という天敵の上に住む人間たちは、以前よりも繁殖し、力を蓄えている。そんな中、以前より力を増してならともかく、以前よりも弱い、中途半端な状態での復活を果たしたところで、やがて異常を感知してやってくる人間どもにやられてしまう可能性が高い。

 

思考する中、土地と一体化して物質化していた事で保有されていた悪意を取り込んだ魔のモノは、自然とその土地の記憶を読み取り―――、残された大空洞の記憶の中から、これほどまでに純度の高い悪意が世に現れ、残留していた理由、すなわち聖杯戦争という事象を知り、初めは己の力のみでそれの再現を試みた。

 

もちろん、それは上手くいかなかった。魔術というモノの仕組みを理解できないモノに、大聖杯という魔術の極地の結果に生まれた道具と、それを用いて英霊召喚を行い、聖杯の選定を行う奇跡の儀式、聖杯戦争を再現出来るはずもない。

 

やがて苦戦と懊悩の末、魔のモノは人間の中でも、悪側に属するものであり、聖杯戦争の監督者でもあった私に目をつけた。人間でありながら悪を容認し、他者の苦しみの中に喜びを見出す私と、負の感情を糧とする奴の出会いは、必然の運命であったと言えるだろう。

 

生前、己の持つ悪の性質により、無価値を決定づけられた私は、死後、初めてその性質を、心底、他者に必要とされたのだ。姿形こそ異なるものの、同種同類から必要とされ求められたという事実は、娯楽と無駄に費やした生涯にて積み上げてきた喜びなどとは比べ物にならない歓喜を私の中に生み出した。

 

悦楽を分かち合う同士と目的のできた私は、魔のモノの望み通り―――、そして、かつての私の望み通り、この世の全ての悪/アンリマユをこの世に下ろし、その生誕を祝福するため、私は聖杯戦争の再開を目的として動き出したのだ。その時、比翼連理の同士を得た私は、これまでにないほどの幸福な感情で我が身が満たされていた。

 

 

長い斎を強いられる時期は過ぎ去り、今や一対の翼は、もう一人の同類、否、同位体を得て、三位一体となった。そう、我らはもはやアンリマユという悪の神、魔のモノという悪の精霊、彼らと同一である悪の人間言峰は、神であり、精霊であり、神の子でもあるといえよう。

 

―――ならば世界樹の上に住まう無垢な民どもに祝福を与え、新たなる魂のステージに引き上げてやるが、上位者となったものの勤めと言えるだろう

 

自らの行いによって訪れる素晴らしい未来を予測して娯楽が生み出す快楽と悦に浸りながら美しい闇を生み出す聖杯を見やっていると、やがて聖杯の上部空間より漏れ出すアンリマユにて汚染された魔力の流出量が下がっていることに気が付いた。貯水と放水の機能を持つ聖杯の稼働が正常に行われていないのだ。

 

―――やはりあの聖杯の出来は、冬木にあったモノよりも数段性能が劣るか

 

大聖杯であり、小聖杯の機能を再現するために、土地の持つ過去の記憶より再現した第三次聖杯戦争の聖杯のレプリカは、聖堂協会の伝承にオリジナルの造形を噂に知り、魔術の知識を納めた私とはいえ、肝心の魔術の腕前が凡百である私の腕では再現が難しかった。

 

そこでレプリカの聖杯をすこしでも本物に近づけるため、自己改造により英霊の座の観測機能と地脈にアクセスしてマナ/外部魔力の調整機能を持っていた凛の心臓を抽出し組み込んだわけだが、やはりそれでも、かつての時代、神域の技術によって作り上げられた神秘の完全再現をすることは叶わなかった。

 

―――限界を見誤り、欲張って無茶な行使をしてしまったか

 

このまま稼働させ続けてもすぐに壊れるということはないだろうが、聖杯機能の中核となっている凛の心臓は、もはや代理となるものが存在しない貴重な品だ。機能不全に陥られると、再び穴を広げて再稼働をしてやるのに多少の面倒が発生するのは間違いない。

 

―――負担を軽くしてやるべく魔力流出の量を調整してやるか

 

不要のものとなったかつての仇敵の死骸を踏み越えると、湖へと近寄る。その際、未だ生きている三人の人間が視界の端に映った。アンリマユと魔のモノの交合を見た三人は、男二人は恐怖に怯え、女一人は呆然と全ての感情を失って、座り込んでいる。

 

―――もはやこやつらは敵となり得まい

 

この世界の住民は、精神構造が以前の世界に比べて特殊だ。悪意に対しての耐性が低く、全てのモノに対しての執着が薄く、脆い。己の怪我や生死に頓着しないくせに、他者の死や負の感情には過敏に反応して見せる。まるで子供のようだ。

 

中には、先ほど私に抗ったピエールとかいう輩のように、多少は堪え、悪意に抵抗するような者もいるが、それもすでに死んでしまった。

 

―――多少は抵抗してくれなくては、面白みもない

 

やはりこの世界とそこに住む住人は、私の娯楽の相手をつとめるに不適当だ。もはや奴らへの興味が失せた私は、三人の傍を通り抜けて水際へと足を進める。地底湖の中で狂気に乱痴気さわぎを起こしている彼らは、接近した私に歓迎の意を示すかのように、聖杯までの道を開けてくれた。黒い触手が大波のように蠢く美しい湖面は、私が足を踏み出すごとに割れてゆく。

 

エミヤの返り血により赤く染まったカソックを着用して、割られた湖底を歩く私は、まるで神に生涯を尽くした聖人になったような気分で、聖杯までの道を歩く。聖杯までの道のりは短いが、その間だけモーセの気分を味わうのも悪くない。

 

 

言峰が接近する最中、聖杯の中に沈んだ宝石は、込められた守りの魔術によって濃縮された呪いから己を守護し、ゆっくりと呪いを浄化しながら器の底へと身を沈めていった。聖杯の呪いがこれまでにないほど濃密さ故に、沈殿の速度は非常に緩慢ではあったが、宝石の魔のモノを祓う機能は未だ健在であった。

 

やがてそれは、杯の底に沈み、固着して張り付いた心臓に触れると、瞬間、まるでかつての主人との再会を喜ぶかのように打ち震えて、光の領域を拡大させながら効果を強めた。汚泥は聖杯との接触を遮断され、力の発生源となっていた核を失い、流出を停止させられる。

 

多少素材と手順と方法に逸脱はあるものの、基本的にはルールに則り、七つの魂を呑み込むことで完成した完全な聖杯は、銀という素材が持つ浄化の作用と、聖杯伝承に残る癒しの効果を最大限に発揮して、全ての暗黒を打ち払う。

 

暗黒の支えを失った聖杯は、光を放ちながら地面に落下すると数度地面を叩き、ピエールの体の側を通り抜けて、魔のモノ蠢く湖底へと転がり落ちてゆく。やがて触手が暗黒と魔のモノとが接触した瞬間、蠢くモノどもは宝石などとは比べ物にならない聖なる光による浄化の力を嫌い、あるいは、それに打ち払われ、聖杯が放つ光の領域から身を引き、逃げてゆく。

 

その折、触手が逃走する際の弾ける勢いに、聖杯は入り口近くの湖の際に跳ね飛ばされた。衝撃に反応してか、聖杯は一層強く輝く。その光の効力は凄まじく、聖杯通過部分の周囲数メートルの範囲の、アンリマユも、魔のモノも、絶対領域に変化させていた。聖杯は、浄化と癒しの力を静かに彼らと敵対者、そして遺体にまでばら撒いて、その力を存分に発揮する。

 

白光が暗闇を切り裂いた時、全てのものの動きを停止させて、空間から時を奪い去る。やがて静寂と厳粛の法が敷かれた場にて、最も早くその掟を破り場をかき乱したのは、過去より来訪した、屍となったはずの男であった。

 

それはこの場にいる誰もが知らぬ、インという彼女が作成した料理に秘められた効力が聖杯の癒しの力と組み合わさった結果だった。

 

かつてハイラガードにおいて世界樹の魔物の血肉を使って調理した料理は、食べた者にさまざまな恩恵を与えたという。インが受け継いだ調理本とはそれの、劣化コピー。味を落とさず、一般に溢れる食材での作成を可能とした代わりに、与える恩恵をほとんど失ったものだった。しかし、彼女はそれを、大量に作成し、彼らに振る舞った。

 

つまりインの料理は、質がダメならば量で補うという、ひどく当たり前の方法により、食したものに恩恵を与えるというかつての効果を微かに取り戻していたのだ。聖杯の癒しの力によって誘発されて発揮したその効果は―――

 

捕食者が死した際、一度だけ、復活の効果を与えるという奇跡に等しきもの―――

 

 

「馬鹿な―――、聖杯が元の「聖なる杯」としての機能を発揮しただと!」

 

遠くより聞こえた不快な声の叫びに遅れて、炉心を失い、擬似神経回路を壊され、もはや熱なんてない体の中に暖かい熱が降り注いだ。それでも生きために必要な重要機関を失っている体は入り込んでくる癒しの光を受け止めきれず、浴びる端から熱は地面へ抜けてゆく。

 

「―――そうか、あの宝石……、姿が見えんと思ったが、奴め、聖杯の器の中に投げ込んでいたのか……! 」

 

言峰は己が気付いた事実に困惑し、奴にとって想定外の自体を引き起こした敵を嫌悪し、憎々しげな声を上げていた。

 

―――っ……!

 

生まれた敵愾心が反射的に身を動かそうとするも、思い叶わず、その上ひどい頭痛が走った。指を切り落としたが故、放置されたのが為だろう、微かにだけ動く右腕を動かして頭に持っていくと、皮膚がいつもより動いて、頭の中を不自然な感覚が駆け巡った。

 

残った指先で頭部を撫でると、亀裂を確認して、ようやく頭蓋が割れていることに気がつく。撫ぜた髪と皮膚からパリ、と音がする。出血はもう無く、乾きかけている。皮膚だけ再生している理由はわからないが、どうやら短くない間放置されていたようだ。

 

「冬木の聖杯を完全に再現できなかったが故、オリジナルに似せて作ったのが仇となったか。まさか穴を広げ、保ち、魔力を溜め込む以外に、そのような余計な機能まで発揮するとは……!」

 

体が軽い。体が寒い。そんなこと、当然だ。だって心臓がない。本来なら瀕死を通り越して、死んでいる状態こそが正しい有様だ。頭は破損し、血は空っぽ、心臓はない。体に熱を巡らせる機関がないそんな状態を生きているなんていったら、それこそ世界中の医者と宗教家と魔術師から研究対象にされ―――ああ、そうか。

 

―――もう世界が違ったのだった

 

かつての世の摂理に反している状態で体が動く理由はわからない。ただ、体のあちこちがガタガタのポンコツになっているのに、動くのなら何かをしなければならないという気持ちだけは、空っぽの体に満ち溢れていた。

 

体の状態を確かめる。不思議と痛みはなかった。右腕は感覚が微かだが残っていて、動く。左腕はまるで動かない。足の指先に力を入れると、開いた頭と空っぽの胸から微かな体液が噴出したが、地面を踏ん張る力が残っていることに気がついた。前に進むための足はまだ動く。体は行けと言っているのだ。

 

―――ぅ……、ぉ……

 

右腕をテコと支えにして上半身を起こそうとするも、背中から肩にかけての筋肉は中の神経ごと抉られていて上手く動かず失敗する。微かに持ち上がった体で右腕を見ると、肘から肩にかけてズタズタに引き裂かれた己の肉が目に入る。中の擬似神経回路である魔術回路はどうあがいても使用不可能だ。おそらく言峰が私の魔術回路を破壊すべく、この体に心霊医術を施したのだろう。

 

―――ん……、ぐっ……、ぬぅ……

 

起き上がるために足りない力を、腹筋と背筋より拝借する。寒さはいつのまにか、転換して暑さに変わっていた。感覚はまだ完全に死んでいない。どこからか滲む汗を無視して右腕の肘を支点に左半身を起き上がらせると、あとはもう流れで座った状態にまで持っていけた。

 

すると呼吸をして酸素を取り入れなくとも不思議と明朗な視界は、まず眩く輝く光を捉え、次にその向こう側、光に照らされた中、目立つ黒の色に視線を奪われた。

 

「―――悪あがきを……、お陰で穴が閉じてしまった。……だが、いや、もう手加減は必要ない。これまでだ。先ほどまでの会合で、魔のモノはアンリマユの力を体内に取り込み、もはや多量の汚染された魔力を浴びても耐えられるだけの力を得ている。ならば―――」

 

悪態をついた言峰が聖杯に向けて進み出す。一歩歩くごとに密集した触手が蠢き、奴の前方が割れてゆく。奴の仲間が白い光に身悶える動きは制御できないらしく、向かう奴の速度は非常に緩慢だ。あるいは奴が勝利を確信しているが所以の余裕なのかもしれない。であればおそらく。

 

―――これがラストチャンス……!

 

「―――っ……!」

 

足の指先に力を入れて体を前に動かすと、歯を食いしばって立ち上がった。何もかもが足りなくなった体はたったそれだけの動作で限界を迎えていて、もう一度休んでしまえと囁くかのように、ふらついている。

 

―――なら、倒れさせてやろうじゃないか

 

体のわがままを聞いてやり、揺らぐ体が前に倒れこもうとした瞬間、胴体が傾いたと同時に右足を前に踏み出した。ざくりと湿った地面を踏みしめて前に進むと、泥をかいた音が一帯に響き渡る。音は光が周囲一帯を支配して静寂の掟を強いている中によく反響して、全ての生き物の視線が私に集まったのがわかる。

 

「―――エミヤさん!」

「バカな―――、貴様の心臓はたしかに破壊した。魂は杯に吸収され、聖杯は完成したのだ。なぜ動ける―――」

「知ったことか!だが、大方、必死でこの世にしがみついたのだろうよ! 言峰綺礼! 貴様に一矢報いるためにな!」

 

驚く二人の叫びを無視して、私は誰よりも早く一歩を踏み出し駆け出していた。目的は決まっていた。聖杯に触れる。おそらくこの状況の突破口はそこにある。言峰は言った。

 

『馬鹿な―――、聖杯が元の「聖なる杯」としての機能を発揮しただと!』

 

聖杯が元の機能を発揮した。聖杯。かつての世界において、さまざまな英雄達が探し求め伝説を作った、神の子の血を受けし聖遺物。

 

『冬木の聖杯を完全に再現できなかったが故、オリジナルに似せて作ったのが仇となったか。まさか穴を広げ、保ち、魔力を溜め込む以外に、そのような余計な機能まで発揮するとは……! 』

 

しかし冬木にあったのは魔術師達の悲願を達成するべく願望器としての機能だけ発揮するように超一流の魔術師どもによって作り上げられた模造品で、さらに、目の前にあるそれは、そんな冬木の模造品を参考にして魔術師としては二流の、しかし、聖職者である奴の知識を動員して聖杯オリジナルの姿を模して作り上げられたという模造品の改造品だという。

 

―――コピーを真作に近づけようと改良を重ねたが故、別の機能を持つに至る、か

 

それはまるで私の使う多重投影魔術のようだと思った。奇妙な共通点は不思議と憎悪の対象でしかなかった仇敵との間に共感と信頼感を生み、それ故に奴の作り上げた聖杯は、間違いなく「聖なる杯」として癒しの力のほかに、冬木本来の聖杯としての機能、願望器としての機能も兼ね備えているに違いないと私に確信させていた。

 

駆ける。ただ前へ。体が地面に倒れこむよりも早く、一直線に白く清浄な輝きにて奴らの接近をはねのけて、神聖領域を確保している聖杯へ。

 

「―――させるか! 」

 

遅れてようやく私の目的に気がついたのだろう、言峰が動き出した。聖杯との距離はすでに相当近いくらいまでに詰められている。しかし、こちらは強化魔術も使えず、両腕のふりを速度に変換できない状態であるのに対して、あちらは万全の状態だ。

 

だが。

 

「邪魔だ! 暴れるな! 」

 

苛つき混じりに言峰は叫びながら、己が進路を塞ぐ触手をかきわける。聖杯に近寄ろうとする奴の意思とは裏腹に、蠢く魔のモノとアンリマユは、聖杯の放つ光から少しでも遠ざかろうと聖杯からの集団避難行動をとっていて、その挙動が奴の進撃を邪魔する壁となっている。お陰で今、奴との聖杯争奪戦において、私は有利な立場にあった。

 

「退け! 」

 

だがそれでも、強化魔術が使えず、体内のあちこちがガタガタで、腕の振りを速度に変換できない私とは違い、奴は万全の状態だ。言峰は一喝にて聖杯の光に怯える魔のモノとアンリマユを退かせると、願望機までの道を確保して駆け出した。

 

するとこちらとあちらのダメージの差は顕著に現れた。言峰は現在既にトップスピードを保っていた私の速度など瞬時に越して、猛然と聖杯へと近寄る。あれだけあった距離の差は見る間にゼロに近づいてゆき、競争が加熱する。しかし。

 

―――、後一手足りない……!

 

やはり体調の差は如何ともし難く、このままでは言峰の方が先に聖杯へと到達することが予測できた。血の巡っていない頭を回転させるも、栄養足りなくなった頭が導き出す答えはどれも、「奴の方が先に聖杯へと到達する」という認めがたい答えのみ。

 

聖杯とその先にいる奴を見据えながら、己の無力と非力を悔しく思い微かに唇を噛むと、言峰の不機嫌を露わにしていた唇の口角が上がり、笑みを浮かべた。

 

「貴様には焦らされたが、どうやら貴様の最期のあがきも無駄に終わりそうだな! 」

「――――――っ!」

 

嫌味に返してやる余裕もない。そんな事に回すエネルギーがあれば、一秒でも早く聖杯にたどり着くための力へと変換する。私の所作からそんな必死の思いを読み取ったのだろう、奴は私の顔を見て不快な笑みをいっそう濃いものにすると、しかし速度を緩めず聖杯へと近づく。

 

―――くそ、間に合わないのか……!?

 

「エミヤさん! 」

 

心中に弱気が走った時、掠れるくらい大きな声がその不穏な空気を払拭した。発声の直後、地面を連続して蹴る音がして、まだ年若い少女特有の甲高い声を発した響が聖杯に向けて駆け出していた事を察する。

 

「―――この……!」

 

一転、奴の顔に陰りが生じる。水際、最も近場にいた彼女は、今、私よりも奴より聖杯に近い立場にあった。ならば私は―――

 

「響! 」

 

 

A:聖杯をこちらに!

B:聖杯を使え!

 

 

第十六話 過去より出でし絶望と希望

 

終了