うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 ~ 長い凪の終わりに ~ 第十七話 積み上げてきた過去の結実 A Fate root

第十七話 積み上げてきた過去の結実 (A:fate root)

 

必死でしがみついた果てには、必ず相応の結果が待っている。

例えその対象が過去であっても、そのルールは変わらない。

 

 

「響! 聖杯をこちらに! 」

「―――はい! 」

 

叫ぶと聖杯にたどり着いた彼女は、迷わずそれを私の方へと放り、剣を抜いて言峰の方を向いてその場に構えた。その一連の動作があまりに自然すぎて、一瞬思わず疑問を抱けなかったほどだ。

 

「響! 何を! 」

「時間を稼ぎます! その間に、なんとかしてください! 」

 

私が何をしようとしているのか予想もできていないだろうに、迷いなく言い切った言葉には信頼があった。こちらに向けられた小さな少女の背中は、いつか見た青い英霊の彼女のように絶対の覚悟が備わっている。

 

「―――っ!」

 

ならばその献身に最大の返礼で応えるためには、行動で示すしかないと思った。だから駆ける。殆ど動かない右腕を必死に聖杯へと伸ばす。放物線を描いて空中を進む銀の器は、暗闇の中最も明るく光を発していて、対象へと近づくほどにその姿が見えなくなる。

 

「邪魔をするな、小娘……! 」

「―――っあぁぁぁ! ……っぅあ!!」

「どけ! 」

 

目が潰れそうなほど眩い光の向こう側、すぐ近くで言峰と響が相対したのがわかる。けれど、どれだけ勇ましく、また、近接戦闘の才能があろうとも、長い年月を費やして積み上げられた技術と実力の差を埋めることは出来ず、彼女は一合を防がれたのち、一打の元に打ち払われ、響が地に倒れこんだのが打撲音からわかった。

 

―――早く……!

 

焦燥感が脳内の興奮物質を発生させて、時間の流れを遅く感じさせているのか、空中を進む聖杯との距離を詰めるも、私とそれが近づく速度は酷く遅く見えた。

 

「……まだ、行かせない……! 」

「―――よかろう、ならばまずは貴様から死ね」

 

打ち倒されても己の行動を阻害しようと試みる響のしつこさに、言峰はついに怒りの感情が分水嶺を超えたのか、それまでの感情が乗った声とは一転、冷酷さのみを孕んだ声を発すると、振りかぶった。その拳が振り下ろされた瞬間、彼女の命は尽きる事となるだろう。

 

だから。

 

「―――聖杯よ! 」

 

伸ばした手が光の向こう側の杯に触れた瞬間、残った指で必死に掴んで、思い切り叫んだ。

 

「我が願いを聞き届け、眼前の奴らを打ち払う力をよこせ!」

 

瞬間、手中に収まった銀の器は、私の指先から体に残る全ての熱を奪い去っていった。そして不足していた魂を補い、ようやく真なる完成に至った聖杯は、熱とともに受け入れた私の願いに呼応して世界を新たな法則で書き換えそうな光量で周囲を覆い尽くすと、その秘められた力を発揮した。

 

 

「―――よかろう、ならばまずは貴様から死ね」

 

地面から敵の顔を見上げると、殺意に満ちた瞳が向けられていて、そのさらに上では、拳が天に掲げられていた。あれはエミヤさんの胸を貫いた一撃だ。どうにかして防ごうにも、先ほど剣を弾かれた際の衝撃で両手は動かないし、なにより、胸を強打したことで全ての空気が肺の中から漏れてしまっていて、まともな回避の命令を体に出すことができないでいる。

 

―――でも

 

諦めない。負けるものか。命の危機に陥るピンチなんて、今までに何度もあった。その度に、私は、みんなに助けられてきた。自分の力で乗り越えたことだってある。だからめげない。一秒でも抗って生きる瞬間を伸ばせる可能性があるなら、その可能性にかけてやる。

 

動かない体に必死で命令を送りながら振り上げられた拳から目をそらさないで足掻いていると、彼は無表情の中に私の態度が心底気にくわないというような感情を張り付け見下ろしてきた。

 

―――ざまぁみろ……!

 

実力及ばない強敵に一矢報いた事が嬉しくて、精一杯の虚勢をはり、真っ直ぐ見つめ返してやると、言峰は私の目線を見てトドメを指す決心を固めたようで、その拳が思い切り振り下ろされた。

 

―――ああ、―――死んだか

 

それは今までとは違う、私の実力が上がった分、その攻撃を避けてやることは不可能と見切れたが故の、確信だった。確信の直後、全ての情報を拾い上げる器官が動くのをやめて、記憶と経験から生存方法を探ろうとして、走馬灯が脳裏を流れてゆく。映像は瞬時に両親が生きていた過去を通り過ぎると、仲間と共に迷宮へと挑んだ日々のものになる。

 

彼らと共に迷宮に初めて潜った日。死にそうになって帰ってきた初回。何もできなかった時の悔しさ。褒められた時の嬉しさ。必要とされた時の。役に立てると実感した時の、助けられた時の、気をかけてもらった時の、喜び。そして。

 

シンと過ごした日々。

 

不躾な願いを聞いてもらって、不器用なところを目撃して、馬鹿みたいな強さに憧れて、常識のないところに怒って、そして、知らぬうちに好いていたそんな彼を失った瞬間の痛み。命の危機に瀕して湧き出たそれらの思いの中にこの場を乗り切る為の手段はなかったけれど、最後の時、そんな好いた人の思い出を胸に抱いて死ねるなら、決して悪くないと思った。

 

そして迫る拳に強く死を意識した時、最後にシンの死んだ瞬間、後に聞こえた幻聴までもが頭の中で再現された。

 

『―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる』

 

痛みに復活する感覚。生臭く、すえた匂い。眼前に迫る拳。そして。

 

「悪いが、今度もお前の邪魔をさせてもらうぜ、言峰! その心臓、貰い受ける!」

 

幻聴であった声がすぐ近くで聞こえて、確定していた私の死の運命は覆る。

 

 

「―――貴様、ランサー……! 何故ここに……!」

「へっ、その理由はお前が一番よく知っているだろうよ! 」

「奴の先ほどの叫び……そうか、聖杯か! 完成させた聖杯は、浄化機能の他に、願望器と召喚器としての機能をも発揮したのか! 」

 

青い装束に身を包み、しなやかの体から繰り出される神速の突きを、言峰は己の持てる技術と身体能力を駆使して回避する。向上した身体能力など、積み上げてきた戦闘技術などの、全ての持てる力を回避に注力しているが故に致命の一撃を食らう事はないが、それでも神話時代の英霊の一撃を回避しきる事は叶わず、カソックが裂かれて鮮血が舞う。

 

「よくもまぁ、俺を散々利用してくれたもんだなぁ、おい! 第五次の時からお前のせいで溜まりに溜まった鬱憤、ここで存分に晴らさせてもらうぜ! 」

「ふん……、貴様の都合になど付き合っていられるか」

「……ち、面倒なことしやがる」

 

やがて言峰は聖杯の光によって散らばり群がっていた魔のモノを己の周りに集結させて、己の身を守る盾として活用。人の胴体よりも一回りも二回りも大きな肉厚の触手の前には、神速と剛胆併せ持つランサーの一撃とて、貫通しきることなく中途にてその勢いが止まってしまう。

 

「そら、返せよ。贋作の贋作とはいえ、それでもてめぇにゃもったいねぇ代物だ。……くそ、数だけは立派に一丁前だな」

 

ランサーは貫かれた触手より槍を引き抜くと共に、湖底の戦場に立つ己めがけて集う暗黒の魔物どもを避けるためだろう、跳躍を行う。

 

「げ……、まじか」

 

そして着地地点と定めていたのだろう場所に、既に魔のモノが集結し始めているのを見つけて、間抜けな声を漏らすと、気怠げに槍を振るおうとして―――

 

「あら、情けない声を上げるわね」

 

やがて直上より落ちたランサーが魔のモノと接触するその寸前に、白く輝く光弾の群れが、暗闇もろとも魔物どもを貫き、あるいは着弾と同時に爆裂し、その場全てを吹き飛ばした。僅かな時が経過したのち、吹き荒れる風が晴れた後、ランサーは土煙にむせながら、煙の中より姿を表した。

 

「ぺっ、ぺっ、……おい、キャスター。今の、俺ごと吹き飛ばそうって魂胆だったろ!」

 

暗闇の先に文句を言うと、周囲の黒と近い色合いの紫のローブを纏った細身の女が現れる。頭上に向けた先端が円を描いている魔術杖を持った彼女は、荒々しく吠えるランサーの抗議を受けて、ローブの下に隠した顔から舌打ちを漏らすと、気怠そうに言った。

 

「あら、ちゃんと調整したわよ。ランサークラスの対魔力があれば余裕を持って弾ける程度にね。むしろ感謝してほしいくらいだわ。雑魚を始末する手間を省いてあげたのだから」

「……ちっ、女狐め」

「あら、犬ころに言われたくないわね」

「なんだと―――」

「なによ―――」

「やめろ、キャスター」

 

殺し合いの最中、悪態の付き合いから始まった男女の仲違いは、別の本気の殺し合いにまで発展しかけていた。毛色の違う殺意が一触即発の空気の中を作り上げる中、常人なら気絶しそうな空気をまるで無視して、妙に透明感のある静かな声が女を窘めた。

 

「今、私たちが聖杯によって記録より再現されたのは、魔のモノとアンリマユを打ち倒すため。ランサーとの内輪揉め行為は、的外れというものだ」

「―――はい、申し訳ありません、宗一郎様」

「謝罪の対象先が違う。頭を下げて謝るべきは私ではないだろう?」

 

キャスターは宗一郎に指摘されると、一瞬躊躇って見せたが、やがて渋々とランサーの方を振り向き、頭を下げた。

 

「―――私が悪かったわ。ごめんなさいね、ランサー」

「―――そういうわけだ、ランサー。そして連れ合いの失言は、私の失態でもある。後ほど正式に詫びを入れる故、ここは一先ず、鉾先を納めてくれないだろうか?」

 

まるで気持ちの入っていない棒読みなセリフが、ランサーの苛立ちを促進させる前に、宗一郎は頭を下げていた。キャスターは、己のマスターがランサーに対して頭を下げるという事態に、目を白黒させて怒りの感情を全身より噴出させたが、すぐさま自制して宗一郎の後ろに控えた。

 

元はと言えば、非はフレンドリーファイアを躊躇わなかった己にあるわけだし、問答したところで真面目を形にしたかのような男の前では何を言っても、さらに彼が頭を下げて謝るという逆効果にしかならないと判断したのだろう。

 

「……あー、わかったよ」

 

殺意を滾らせていたランサーは、真面目を形にした男の真摯な謝罪に、一旦はキャスターの無礼を赦そうという気になったようで、気怠そうに頭を掻きむしりながら、了承を返した。

 

「礼を知るあんたの顔に免じて、キャスターの件については、一旦、目をつぶっておく。―――おい、あんた、名前は?」

葛木宗一郎だ」

「そうか、じゃあ、葛木。―――お前、その女の旦那なら、きちんと手綱を握っとけよ」

「……承知した」

「―――〜〜〜!!」

 

旦那、というランサーの言葉に反応して満面の笑みを浮かべたキャスターは、手綱を握れという言葉をまるきり無視して喜んで見せると、その後、夫であることを当たり前のように肯定した葛木宗一郎の返答に、身をくねくねと悶えさせて恍惚の表情で、今が絶頂の気分にあることを周囲に知らしめていた。

 

「――――――」

 

ランサーのよそ見と葛木の謝罪、そしてキャスターのその隙を狙って、触手は地面よりキャスターに迫る。そして触手の太い胴より繰り出された一撃は、花枝のように細いキャスターの胴体を容易く引きちぎる一撃を放ち―――

 

「悪いがそれは通せんな」

 

ゆるりと空間を切り裂く三筋の光に身を細かく分断されて、ばらけた胴体が勢いをそのままに空中に散らばる。大半の質量を失い軽量化された魔物の体は、攻撃の威力をまるで失ってキャスターの体に降り注ぎ、せめてもの抵抗として、彼女が身にまとう紫色のローブの端を別の色にて汚してゆく。

 

「性悪の上、性格が捻じ曲がっているとはいえ、一応は婦人が伴侶との逢瀬を楽しんでいる場面に水を差すなど無粋にすぎる。もちろん、武人としても見過ごせんよなぁ」

 

周囲の警戒を怠るキャスターを魔の手から守護して見せたのは、紺色の雅な陣羽織に身を包む、涼やかな声の男だった。飄々と現れた彼が、片手に握る三尺ほどの長い刀身に僅かばかりひっついた血糊を飛ばすためだろう、刀を軽く中にて振ると、微かに地面の上を、雫が叩く音が鳴る。

 

「―――何をしていたのです、アサシン。私たちの守護は貴方に任せると言ってあったのに、なぜこれほど敵の接近を許したのですか?」

 

やがてその音にキャスターは気を取り戻した後、見渡して素早く状況を確認すると、己の体に魔物の血肉が僅かばかり付着している痕跡を見つけて、一気に機嫌を悪くして、アサシンを問いただす。

 

「おや、これは心外な。いや何、その男の隣に立つお主があまりに幸せそうだった故、邪魔しては悪いと思ってな。久方ぶりに場所の束縛もなかったことであるし、席を外して周囲の掃除に出払っていたのが、逆効果となってしまったようだ。許せよ、キャスター」

「―――減らず口を。ですが、一応は主人を思う気持ちを口にした事と、その嘘をしゃあしゃあと言ってのける度胸に免じて、一度は無礼と無様を許します。―――次はありませんよ」

「はいはい、寛大な処置に感謝いたしますとも、葛木夫人殿」

「―――ふんっ!」

 

アサシンの言葉に、わざとらしいくらい大きく不機嫌の返事を返すと、葛木の方へと近寄り、そしておずおずと手と肩を葛木に近づけると、彼は仏頂面の奥にてキャスターの意を汲んだらしく、抱き寄せる。

 

力強い抱擁に、キャスターの頭部を覆うローブがはらりと捲れて、美麗かつ上品な顔立ちが現れた。彼女は葛木の行動に一瞬驚いた顔をして見せたが、すぐさま先ほどまでのヒステリックが嘘のように、乙女の顔を曝け出して、隠そうともせずに幸せに浸っていた。

 

「よう、アサシン。おたくも大変だねぇ」

「ああ、ランサー。いや、これがなかなかどうして、悪くはないものだよ。我儘と気紛れは女を彩る化粧の一種だ。感情の躁鬱も、愛した男との逢瀬を他の輩に邪魔されたくない一心故と考えれば、それはそれで可愛げと趣があるものだ」

「わからねぇなぁ。女は組み敷いてこそだろう」

「ま、お主の気持ちもわからんでもないが、酒の肴に楽しむならこれもまた乙というものよ」

 

アサシンがカラカラと笑うと、ランサーはその酔狂っぷりに呆れた表情を浮かべ、ようやく完全に毒気を抜かれたのか、冷静な態度で周囲を見渡した。あたりにいた触手は全て消え失せていて、空白地帯となっている。

 

「ち、様子見ってわけか」

「まぁ、多少なりと戦の心得があり、兵法をかじっていれば、強敵相手に戦力を逐次投入しての消耗という下の下の策を行わないだろうよ」

 

緊張感のない空気の中は、一応、意味のあるものであったらしい。

 

「で、どうするつもりだ。あちらさんも、どうやら一息ついたようだが」

「そりゃ、一旦はあいつと合流する方がいいんだろうが……」

 

抜き身の獲物を構えた彼らは、多少静けさを取り戻した空気の中、先ほどまであたりを満たしていた剣呑な雰囲気とは、真反対の空気を生む二人を見る。

 

「キャスター、そろそろ彼らと合流を」

「もう少しだけ、このままでお願いします、宗一郎様」

 

珍しく葛木の言葉を遮るキャスターからは、胸焼けしそうなほど甘ったるい、その場にまるでふさわしくない、別種の空気が発散されていた。ランサーとアサシンはそれぞれ顔を見合わせると、野生的な苦笑いと皮肉混じりの涼やかな苦笑を交わして、彼らの様子を見守った。

 

どうやら、召喚者との合流は少し遅れることになりそうだ。

 

 

聖杯に願いを告げた途端、願望器から飛び出したサーヴァントと人間の群れが現れたのを前に、しかし私は、そんな奇跡よりも、願いを叶えて砕けた聖杯の中から最後に目の前へと現れた彼女に目を奪われて、一切の身動きが取れなくなっていた。

 

彼女は艶やかな黒髪を頭部にてリボンで二つに纏めて胸元の方へと垂らされている。さらりとした髪が張つく肌は瑞々しく十代の若々しさを保ち、クォータである彼女の日本人離れした端正な美貌をさらに輝かせるに一役買っていた。

 

そうして凛々しさの中に幼さ残した子供と大人の特性を両立する美しい顔から視線を下ろしてゆくと、襟元は女性らしく赤のリボンが行儀よく飾られている。それは同色の布を基調として身を包む彼女の凛然さを引き立てていた。

 

―――これは夢か?

 

否、決して見まがうはずがない。どれだけ時が経とうと、どれだけ世界が変わろうと、生前の私も、死後の私も、そして死後、蘇った私を、合計にして三度も、衛宮士郎/エミヤシロウという存在を救済して見せた彼女の姿を、他ならぬ当人である私が間違えるはずがない。

 

「あーあ、まったく、やんなるわね、あの腐れ外道。人の管理してた土地をこうもめちゃくちゃにしてくれちゃって。ほんっと、腹たつわ。……ま、とは言っても、冬木が私の管理下だったのなんて遥か昔だから、言う権利も消失してるかもしれないけど、こうまでされると、元管理人としては、やっぱり一言くらいは文句を言ってやらないと気が済まないわよね」

「―――凛……」

 

彼女らしい強気な言葉に、その存在が間違うことなく本人であることを確認すると、私は混乱のあまり、呆然と彼女の名を一言を呟くしかできずにいた。そうして気をやっている私を見た彼女は、ニンマリと、お淑やかな外見に似合わない凶暴な笑みを浮かべた。

 

「ええ、その通りよ。久しぶりね、アーチャー。まさか、こんな形で再開できるなんて思ってもいなかったわ」

「――――――」

「うわ、あんた、服、背中のところボロボロじゃない。半分以上露出するパンクな格好、貴方には似合わな―――くもないわね……。うん、いや、むしろ似合ってるかも……」

「――――――」

「あら? まだ腑抜けちゃってる? らしくないわねぇ。いつも余計な一言で他人を揶揄うあなたはどこへ行っちゃったのかしら?」

「―――なに、目の前に現れた顔が、あまりに淑女の嗜みと程遠いものだったのでね。まったく、写真に写る君は年相応の落ち着きとお淑やかさを身につけていたのに、まさか若返ってそれらを失ったお転婆の姿で現れるとは……、まったく予想外のことをやらかしてくれるよ、君は」

「―――あら、ようやくらしくなったじゃない」

 

いつものように互いに益体のない会話と苦笑いを交わし合うと、笑いが漏れた。可笑しくて仕方がない。気がついたら全身の傷は無くなっていて、失った肉体が擬似神経の魔術回路に至るまで元通りで、過去の時代の英霊が揃って召喚されていて、加えて、かつての時代の人間が若かりし頃の、あるいは生前の姿で呼び出されているのだ。一体どういう理論が働けば、このような奇跡が働くのか、まったく理解ができない。

 

「おかげさまでな、しかし何がどうなっているのだ?」

「それは……」

 

そんな思いが素直に漏れて出た。聞くと、彼女は私の足元を見つめる。つられて彼女の送る先に私も視線をやると、この現象を引き起こした願望器が粉々に砕けて、銀の砂が地面に散っていた。

 

「壊れちゃったか……。ま、そうなるわよね。なんせ、通常の枠を超えた数の再現をしたんだから」

「枠を超えた再現……?」

「ええ。第五次聖杯戦争において召喚された七騎に、私と、葛木。それで九人。全ての五次サーヴァントの他に人間二人。昔の姿で呼び出された理由は、おそらくは、サーヴァントとして参加したあなたにとって印象深く残った相手が、当時の印象のまま呼び出された形なんでしょうね。だから、私も昔の姿で再現された。ついでに言えば、他の人たちと違って、唯一わたしだけ肉体が存在しているのは、上にいる本人のものをそのまま利用されているからなんでしょうね」

 

彼女のいう意味を完全に理解することはできない。わかるのは、今目の前で起きている出来事が、私の使用した聖杯の引き起こした奇跡であるという事実だけ。ともかく、細かな理由や過程はどうあれ、こうして再びかつての姿である彼女と再開できるというのであれば、それだけで今までの苦労の釣りが来るくらい、喜ばしい出来事である。

 

「ん……、まて、今、全ての五次サーヴァントといったか?」

「ええ。あの怪物を倒すのに全戦力が投入されるのは当然でしょ? だから―――」

「ええ、ですから、もちろん私もいます」

 

凛の言葉を引き継いでしっかりとした意思が込められた力強い声を聞いて、月の光が明り取りの窓より差し込む蔵の光景を思い出した。鉄の足鎧で地面を踏みしめ、近寄ってくる彼地面をかつて地獄に落ちようと忘れないだろうと、風景と共に脳裏へ焼き付いた声。それは。

 

「セイバー……」

「その通り。久しぶりですね、アーチャー。……いえ、シロウの肉体をベースに召喚され、この世界の中で一人の人間として生きている貴方の場合、シロウ、と呼ぶ方が正しいのでしょうか? 」

「あ、ちょっち、まって、セイバー。それの呼び方はやめて頂戴。貴方にその呼ばれ方でアーチャーのこと呼ばれると、なんかすごく複雑な気分になるから」

「―――ええ、承知しました、リン。たしかにそれは、貴女とシロウ、それとアーチャーに対する気遣いと配慮も足りないものだった。申し訳ありません」

 

私は、旧友と久方ぶりにあったかのような会話を交わす彼女らの親交を深める態度に呆気を取られ、喜びを通り越して困惑していた。

 

「あ、またフリーズした。……、もう、しっかりしてよね。話の主役がそれじゃあ、らちが開けられないじゃない」

「リン。ご歓談の最中申し訳ありませんが、できれば話は全てが終わった後で。どうやら、周囲の掃討が一旦終わったようです。―――散っていた皆が戻ってきた」

 

セイバーの進言と共に、大小様々なバリエーションに富んだ、迫る複数の足音が聞こえた。

 

「よぉ、嬢ちゃん……、とアーチャー。すまねぇな。言峰を取り逃がしちまった」

「いいわ。あの性悪神父のことだから、一筋縄でいくとは思ってなかったもの。ありがとう、ランサー手間かけさせてごめんなさいね」

「なに、いいってことよ。美人の頼みを聞くのは男の甲斐性だ。それが歳食って相応以上に色気を醸し出すようになった良い女ならなおさらな」

「ランサー。お主、先ほどと言っていることが違わないか?」

「あぁん? アサシン、馬っ鹿、お前、性悪でヒステリックな女と、口がキツイだけで思い遣りのある良い女の価値を等価にしちゃいけねぇよ」

「―――そう、ランサー。そんなに早死にしたかったのね?」

 

集まってくる彼らが生み出す空気は、この場所が死地であることを忘れるくらい、賑やかで日常の雰囲気があった。戦場において明るく振る舞う彼らは、まさしく英雄と呼ぶに相応しい豪胆な性格をしていると言えるだろう。

 

「……エミヤさん?」

「……響か」

 

英雄達が歓談と乱痴気に興じる中、おずおずと聞こえてきた声に振り向くと、いつもの三人の姿を見つけて、少しばかりほっとした。どうやらいつのまにか、全身を覆う鎧に槍盾を持つ男に、未来じみた巨大な機械籠手を身につける男。そして、エプロンドレスに刀を背負うという如何にも妙ちくりんな格好の彼らは、私にとって日常の風景となっていたようだ。

 

「アーチャー」

「……! ―――ライダー……、とバーサーカーもか」

 

異常に満ちた非日常も、やがては慣れて平凡へと移り変わる。そんな当たり前のことを今更ながらに実感していると、背後より聞こえてきた後ろ驚いた。

 

顔面を半分ほども覆って目を隠すバイザーで顔を覆い、紫色の露出度の高いボンデージに身を包んだ長身妖艶な美女が、地面にまで届く長い髪を垂らしながらこちらへと近寄ってくる。彼女の細い片腕に胴体を抱えられた男は、大事そうに楽器を抱えながら気絶していた。

 

傍には、長身な彼女よりもさらに二回り以上も大きな巨漢で筋肉質な大男が、無言にて付き添っていた。握る巨大な石斧は大きく、人の体ほどもあり、その剣の無骨な刀身には黒い液体が滴っていた。

 

「祭壇に倒れていた貴方の仲間と思わしき人間を回収してきました」

「……ああ、ありがとう」

「いえ。ついででしたので」

 

ライダーはぶっきらぼうに告げると、抱えていた男を地面に下ろし、これ以上話すのも面倒とばかりに身を引く。バーサーカーは何も言わずにその後に続いた。私は横たえられたピエールの首に手を添えると、きちんと生きていることを確認して安心し、頬を軽く叩いて彼の意識の覚醒を促す。

 

「―――ぅん……、ぁ、あ……」

「ピエール! よかった! 無事だったのか」

 

呻き声を上げながらもピエールが目を覚ましたのを見て、サガが喜びを露わにしながら彼に飛びつき、両手で抱きしめた。ピエールはサガの抱擁をされるがまま受け止めていたが、やがてサガの背中をタップしてそれをやめさせると、周囲を見渡した。

 

「……見覚えのない方が大勢いらっしゃいますが、どちらさまで? 」

 

問いに答えられるものは、ダリ、サガ、響の三人の中にはいなかった。だが彼らの正体を知る者の検討はついていたようで三人は揃ってこちらを向くと、期待に満ちた目が私に集う。

 

「―――信じ難いかもしれないが、彼らは、過去の時代の英霊たちだ。はるか昔、私の生きていた時代において、偉業を成し遂げて神話や伝承に名を馳せた存在」

 

私の返答に、揃って彼らは首を傾げた。

 

「はぁ……、ええと、それで、なぜそんな彼らが此処に?」

「それは―――、むっ」

「なんだぁ」

地震……?」

 

問答は地面の揺れによって中断させられた。大地の振動は体を目に見えて揺するほど大きく、洞穴の天井からはパラパラと砂埃が落下する。このままでは遠くない未来、洞穴は完全に崩落するだろう。

 

「―――細かい部分は、地上に戻ったのち説明するとしよう。とりあえず、彼らは敵でなく味方だ」

「―――ええ、了解です」

「―――凛。奴が何処に行ったかわかるか?」

「ごめん。わからないわ。でも、見当はつく」

「ほう」

「ここは大空洞。かつて冬木の土地において最大の霊地であった場所よ。つまり、この下の地面には、大きな霊脈が流れている。そして、魔のモノは霊脈にひっつく存在。即ち―――」

 

凛が言葉を言い切る前に、再び地面が大きく揺れた。振動はやがて大地にヒビを生じさせ、生まれた亀裂から大地は瓦解し、崩落していく。岩塊が地底湖のさらに下へと落下していく中、やがて湖のあった場所はすべて底抜けて、地の底より現れた赤い光が天井にまで広がって、暗闇を照らした。

 

「―――下よ。くるわ!」

 

凛の忠告と同時に、崩落した湖底より影が伸びた。影は人の体が塵に見えてしまうほどの巨大さで、同時に、頭足類の足の様に吸盤を持ったものだった。高層ビルほどもある触手は、空中に長く、天井へと至るまで伸び上がると、やがてゆっくりとその伸縮する体を湖の際の大地にゆっくりと置いてゆく。

 

「―――地面が……」

 

巨大な触手と接触した部分は、焼成の音を立てて汚され爛れてゆく。元は茶色の地面が、奴に触れた途端、その存在ごと汚染されたかの様に、赤と入り混じった色合いになる。

 

地面は変わらず振動し、地底湖だった場所は崩落を続けている。湖底からは変わらず巨大な触手が伸びてきては、湖面跡の際に触手を置いて地面を掴み、その端の部分を侵食する。やがてその振動が収まり、繰り返される行為が収まり、触手の繋がっている先の本体の全容まで明らかになった頃、現れたものを見て、サガは呆然と呟いた。

 

「おい、どんだけでかいんだよ……」

 

やがて姿を現したそれは、全長にして十キロメートルはあろうかという巨大な化け物だった。黒く染まった全身を構成する多量の触手に、規則正しく配列されている吸盤と思われた部分は、よく見ると全てが目玉であった。やがてその触手が絡まりできた胴体を辿って彼方奥まで視線を移動させると、一部分だけが周囲の触手とは違う色合いと形状をしていることがわかる。

 

「―――あれは……」

 

その姿を見たとき、ようやく私は奴に見覚えがあることを思い出した。マグマの色に赤く染まる部屋の一区画、瓦解した部分に取り付き占有する、巨大な人の脳の形をした部位の中心に、巨大な目玉がはめ込まれたその姿。目玉の周りには口を形作るかの様に牙が生え、その下半分の部分には目玉が等間隔にて配備されている。

 

「そうか、貴様が夢の―――」

「ああ、そうだ。貴様が精神の裡に宿していたものは、魔のモノという負の感情を食らう生き物にとって、今や味わうことの出来なくなった極上の供物であったからな―――そして、これこそ、魔のモノの本体。遠き過去、宇宙より飛来した、負の感情を食らう生命体。そして世界樹により昏き海の淵に封ぜられてしまった禍ツ神。―――しかし今、その神は、残念なことに、アンリマユの力に耐えきれず、意識をそちらに飲み込まれてしまった」

 

脳の中央に配されたまなこがカッと開く。すると、かつて我が心の裡にて見た際は黄色かった単眼は、その色をどす黒く染め上げられていた。そして黒い瞳の周辺からアンリマユの暗黒色が広がると、すぐさま魔のモノの体を侵食し、全体を黒く染め上げる。

 

やがて全身がアンリマユで染まった魔のモノは、身体中の目を見開かせて、その全ての視線をこちらへと向けてきた。巨大な目玉から集中する視線の量は、地上、エトリアにて浴びせられたものに匹敵する程度だったが、その中に含まれる負の感情の成分は桁違いだった。

 

身体中の毛をぞくりと逆撫でるような感覚を覚えた瞬間、もはやアンリマユとなった魔のモノの瞳は上下の瞼が狭められ、じっくりとこちらを凝視したかと思うと、次の瞬間にはその瞳がついた巨大な触手をこれでもかというほど震えさせて、大地を大きく揺らした。

 

「―――これは……、何を……!?」

「まあいい。盛者必衰が世の常ならば、非情無情もまた、世の理―――それより、アンリマユは誕生したばかりでとても腹が減っている―――故にどうやら、目の前にいる豊富な魔力を持つ貴様らを食料として認識したようだな」

 

言峰が言うと共に、奴の巨体の地下にあるマグマが吹き上げられ、触手が動くたびに局所では吹雪が巻き起こされ、そして触手の先からは雷が落とされる。巨大な触手からは小さな触手と先の冬木の土地で見た黒き獣が生え、奴が体を揺らすごとに、ドドメ色の瘴気が辺りに撒き散らされる。

 

奴が戦闘の意思を露わにした瞬間、我々は身構えた。サーヴァント七騎と、六人の人間が揃って巨体を前に怯まない。言峰はそんな我らを見てつまらなそうに視線を後ろの魔のモノへと向けなおすと、こちらに背面を見せたまま慈愛に満ちた声で言い放つ。

 

「さぁ、食事の時間だ、アンリマユ。有象無象悉く、貴様の腹の中に収めるがいい。」

 

言葉と同時に迫る、過去の世界から連綿と受け継がれ残されていたかつて人類が保有していたこの世の全ての悪は、異星よりやってきた侵略者の体を乗っ取ったモノ。広がる絶望に立ち向かうは、悪意詰まった魔力の中より飛び出した英雄達。

 

そして最終決戦の幕は、ここに切って落とされた。

 

 

広い大空洞の空間では通常とは異なる性質を保有した嵐が全ての場所を占拠しようとしていた。暗闇の中をマグマと雷が舞い、それ以外の空間を埋めるようにして巨大な氷の礫まじる吹雪が吹き荒れ、それでもなお余る空間部分を、触手と獣が埋めている。

 

暗黒の空間は、いまやアンリマユに体を乗っ取られた魔のモノの体内そのものと言っても相違ない有様だった。大空洞を明るく照らすのは、大地の底に存在するマグマのみ。かつて人が住まい麓に沿って街が発展を遂げた穏やかな山の内側は、魔のモノや言峰の長年の霊脈改造により、死地へと化していた。

 

今や死地の同義となったその場所に置いて、しかし、アンリマユが空間を満たそうとするのを邪魔する者達がいる。

 

「―――、――――――、―――!! 」

 

それはサーヴァントと呼ばれる過去の時代の七騎の英霊達と、四人の人間と二人の亡霊からなる、十三人の集団だった。

 

その中で最も目立つのは、二メートルをはるかに越す巨大な石の斧剣を振り回す男の存在だろう。常人では持つことは愚か、その剣を支えることすら不可能な剣を軽々と振り回す男は、そんな剣よりもさらに大きな体を持っている。

 

「―――!! 」

 

比喩でなく丸太より太い腕が一度剣を振るう度、敵のが塵芥となって飛んで行く。薙げば巻き起こす一撃は敵に満たされた空間の一部を削り取り。振り下ろせば、眼下にいる敵全てを叩き潰し、余波にて大地が悲鳴をあげ、地面ごと陥没し大穴が開く。

 

まさに人間重機とでも言おうか、目の前に移る全てを破壊して、破壊して、破壊しつくして押し進むバーサーカーという巨漢の男の戦い方は、腰に獣の皮を纏っただけのワイルドな外見に似合った、災害のごとき暴走の様をみせていた。

 

「――――――!」

 

しかしそんな暴力と死の具現を前にしても、もはやアンリマユと化した獣と触手は一切怯む様子を見せない。獣は黒の中に、爛々と赤の目を輝かせてバーサーカーへと襲いかかり、触手はその後に続く。

 

黒く染まった命を、空間ごと抉り取るバーサーカーが残した破壊の痕跡は、すぐさま彼らによって穴埋めが行われ、切り開いたはずの道は閉ざされる。獣たちにとって、体を吹き飛ばされることは死ではないのだ。

 

一が全、全が一であり、アンリマユという悪意によって共通する意思を以って生まれた彼らにとって、個というものは存在せず、その全てが己であるのだ。故に、バーサーカーの攻撃により一や十、百や千の数の味方が吹き飛ぼうと、構わない。

 

体は霊脈と繋がった魔のモノが無限に調達し、精神というものは常にアンリマユによってバックアップされる奴らにとって、個の死は決して死という絶対的な恐怖の対象でない。そう、群体で、無限の再生を、無限に匹敵するほど行える奴らにとって、この戦いは包囲殲滅戦であり、持久戦。

 

否、己の腹の中にいる敵が、その体の内に秘めたエネルギーを切らし、いつか我らの殺到と奔流に耐えきれなく時を待つだけの、戦ですらない、単なる命を借り終えるまでの待機時間に過ぎないのだろう。

 

「いいねぇ、どいつもこいつも直線的で純粋な殺意に満ち溢れていやがる」

 

そうして恐れることなく破壊の化身に突っ込む彼らが性懲りもなく復活と再生を繰り返すのを見て、ランサーという男は口角を上げて獰猛な笑みを露わにした。

 

「そういうわかりやすく己の勝利を確信して見下し、素直に侮りを表現する態度は嫌いじぁない。少なくともあのクソ神父やアーチャーみたいな捻くれた男どもを相手にするよりかは百万倍マシだ。―――引いても臆しても死ぬようなこの環境。まさに最悪といっていいくらい、状況は明らかに不利だが、けれども、体の状態は制約が一切なく、万全、と。いや、こんな都合のいい限定的な逆境の戦場、そう体験できるもんじゃあねぇ。だから―――」

「――――――!! 」

「ハナっから全力全開! エンジンフルスロットルで行かせてもらうぜ! 」 

 

バーサーカーの破壊跡地に勢いよく赤い槍を片手に掲げたランサーが飛び込んで行く。

 

青い独特な戦闘装束を着込んだ男は闇の中、手前に踏み込み、赤い槍を突き入れ、そして引く。突き、敵を居抜き、絶命を確認したのち、引く。突き、引く。時たま、敵が数を利としてやらんとその鍛え上げられた躯へ群がろうとする際、それらの敵を払う動作が加わる事もあるが、基本的にランサーが行うのはただそれだけの二つの動作の積み重ねである。

 

文字としてみればとてもシンプルなたった二工程の作業は、しかし、神速を以ってして行われることで、槍の刺突は黒のキャンバスを槍の軌跡で一瞬だけ煌めかせ、緋色に塗り替える。

男はたったそれだけの動作で、周囲三百六十度すべてが敵という絶望の暗黒空間の中において、一人、己の生存を確保していた。

 

実体がある穂先が霞となり、再び見える時も置かず、また消える。たった一本の槍で己の体に緩急を持ってして驟雨のごとく、一秒の間に都合十以上も押し寄せる敵をことごとく討ち払い、己が間合いに侵入しようとした敵を貫いて血の雨を降らせる光景は、人類史の中を紐解いても可能とするものは三指に数えるほどだろう。つまりは眼前の光景は、ほとんど再現など不可能な、神話という御伽噺に語られて当然の、信じがたい奇跡の光景だった。

 

「ランサーのいうこともわからんではない―――が、無限に匹敵する畜生の群れを、ただただ切り払うだけの作業、不毛すぎてやはり興が乗らんな。水田や村に霞のごとく飛来した昆虫の群れを追い払っているかのような気分だ」

 

そしてランサーより少し離れた場所では、端正な着物を身に纏った風雅な男が、一般人より高い身長の彼自身よりも長い刀を振るって獣どもを切り払っていた。

 

「望むなら彼のような気持ちのいい益荒男と獲物と技術を存分に競わせたかったが―――ま、アサシンではなくセイバー、否、佐々木小次郎として全力で剣を振るうことのできる機会などこれ以降望める機会もあるまいし―――、精々存分に力を振るうとしよう」

 

言葉とともに剣が夜の闇に滑る。光を発した「物干し竿」は虚空に極端な湾曲の軌跡を描くと、次の瞬間、敵対した獣や触手は刀の通過した部分より体が綺麗にずれ落ちて、やがて臓物血肉が地面へとぶちまけられる。

 

バーサーカーという巨漢の戦い方が地形全てを巻き込む剛なる竜巻、ランサーのそれを狙いすましたかのように対象のみを襲う暴風と例えるなら、アサシン、佐々木小次郎の戦い方は、たなびく美しき死神の吐息だ。彼は必要最小限の力を持ってして、敵を切り裂いている。

 

敵という存在が彼の剣の存在に気がつくのは、地を駆けて、跳躍し、宙を進む彼らが、男ながらに優美かつ妖艶な雰囲気を持ったアサシンとすれ違い、空間に描かれる優雅な曲線光が彼らの体を透過したのち、体が幾重にも腑分けされて、命が刈り取られた後にのみだ。

 

日本の伝承において佐々木小次郎という経歴を紐解くと、確かにアサシン/暗殺者というよりはセイバー/剣士の職に当てはめるのが妥当だろうが、彼のその死神の鎌を思わせるような怜悧な剣の冴えを見ると、いや、アサシンこそが彼にとって正しく適職であると言えるのかもしれない。

 

「全く、数を減らしたところでたいした意味もないというのに、野蛮な男どもときたら……。素直に相手の思う通り、挑発に乗ってやるところなんて、ほんっと、馬鹿みたい。まったく、単純な性格で羨ましいこと……宗一郎様の謙虚さと落ち着きを見習ってほしいものだわ」

 

口ではなんと言いつつも、敵愾心旺盛な敵溢れる戦場に呼応して、内心血の滾りが湧いていることを抑えきれず意気揚々として戦場に向かう男たちを見て、キャスターは呆れた口ぶりで文句を漏らした。

 

男三人がそれぞれの性質にあった風となる中、悪意をまとった獣と魔物が暴れ狂う妖乱暴風が嘘のように、魔術師というクラスを与えられた彼女から半径数十メートルの空間は静けさを保っている。

 

静寂と騒乱。その彼我の境界線となっている場所に目を向けてやれば、なにか薄布一枚のようなものが領域を区別していることに気がつけるだろう。

 

「まぁ、ここに残った貴方たちは、あの脳筋馬鹿三人組とは違って、戦略と戦術を練る知能があるということで満足すべきかしらね。人払いと防護と静音を組み合わせた私の結界がある限り少なくとも作戦と対策を話し合って共有する時間も取れるわけだし……、―――あら、そう考えると、直線的なのや、手綱握りづらい馬鹿がいなくなって大助かり、ということになるかしら」

 

キャスターが神世の魔術師としての真髄を遺憾無く発揮し、速攻かつ簡易的に張った結界は、それでもかつての私の生きていた時代に存在していた魔術師としてとは比較の対象にするですらおこがましいような出来のもので、悪意ある獣の侵入を一時の間だけ完全に塞ぐ神殿と化していた。

 

もちろん周りが無限の物量を誇るような敵の数であるのでその内放置すれば打ち破られるかもしれないが、それでも一夜城は彼女のいう通り、多少の時間の確保を実現してくれるはずだ。

 

「キャスター。どのような理由であれ、戦士が戦さ場において昂ぶるのは当然です。また、言峰という男の掌の上で転がされ、獣へとこの身をやつし、いいように使われて溜まっていた鬱憤というものは、私にもある。―――それに、一人で勝手に盛り上がり先走るのは、男のサガというものでしょう。仕方ありません」

「セイバー。貴方のその、まだ発達途上の体である貴女に男の性質について語られると、なんだかとても犯罪チックな気分になるのですが……」

「な、ライダー! 私を侮辱するのか! 」

「あ、いえ、決してそんなつもりは……。ただ私は、少女然とした貴女に言われると……」

「私は王だ! 女という性別は王として国に尽くすと決めた時から捨てている! それに私だって好き勝手でこのような姿をしているのではない! 成長すれば私だって……! 」

「ああ、もう、興奮して前後の文脈が矛盾してて支離滅裂だけど、怒った顔もお人形さんみたいで可愛いわねぇ……」

 

周囲の嵐など気にもせず、隔絶した空間で女三人は姦しく騒いでいる。その様子を傍目に呆れながら見つめつつも、私はいつもの仲間の四人に凛を加えて、話を進めることとした。

 

「それで、どうすれば良いのかね?」

 

凛に問いかけると、彼女は口角を上げて意地悪い笑みを浮かべながら、言った。

 

「あら、気付いてたの?」

「勿論。わたしが聖杯に願ったのは、「奴らを打ち払う」事。ならば、その聖杯によって召喚された君たちが、あれらの対処方法を知らぬわけがあるまい」

「ま、もっともね」

 

彼女はそしてカラカラと、しかし楚々に笑う。その快活さはかつて聖杯戦争の最中において平穏な日常を謳歌する彼女が見せたものと変わらないものであり、しかし、お淑やかさを含むそれは、年月の経過というものを否が応でも感じさせるものだった。

 

「そうね……、あのデカブツ。つまり魔のモノは、アンリマユという存在に乗っ取られたところで、言ってしまえば冬虫夏草とかの寄生虫みたいなものよ。もちろん規模は桁違いだけどね。―――世界樹の一撃により霊脈という大動脈と一体化してしまっている奴は、静脈瘻とか動脈瘤みたいなもの例えるのが正しいかも。……ま、いずれにせよ、奴のあの巨体を用いて、霊脈と接して人々に己の体を飛ばして、負の感情を吸収しているってわけ」

「それは言峰から聞いた。私が知りたいのは、あれらの処分方法だ」

「せっかちねぇ……まぁいいわ。―――結論から言っちゃうと、あの魔のモノという存在に気づいた私たちは、その討伐の方法を模索して見つけた。魔のモノは言うなれば、寄生虫であり、霊脈の表面と癒着した腫瘍なのよ。なら、いたってシンプルにそれを引っぺがして殲滅してやればいい」

「なるほど……」

「けど私たちの時代じゃ、霊脈の表面に引っ付いた巨大な魔のモノを全部余すことなく剥がして、隔離して、その上で殲滅するって手段がなかったから、その手段は取れなかったんだけどね。過激派の意見として、当時魔術科学の融合により生まれた戦略破壊兵器「グングニル」で世界樹も霊脈も、魔のモノもろとも吹き飛ばせなんて案も出たんだけれど、霊脈ごと吹き飛ばしちゃうと世界中にどんな影響出るかわからないって事で見送られたし―――ま、結局、私たち旧人類は人類の足跡を残すために魔のモノと世界樹との共存を選び、緩やかに滅びを受け入れて、後の新世代に繁栄のバトンを引き渡すことを決めたわけだけれど……」

 

言葉を一旦切った凛は、ダリやサガ、響やピエールの顔を見渡すと、脳裏にいかなる感情が生まれたのか、柔らかな苦笑を浮かべた。やがて凛は、己らへと向けられる優しい目つきを見つめ返していた彼らから視線を外すと、再び顔の向ける先を私へと戻して続ける。

 

「とにかく、剥離と、隔離と、殲滅。それであいつはなんとかなるはずだわ。―――魔のモノは霊脈とほとんどくっついているような状態だから、本来なら剥離と隔離は非常に難しい問題だけれど、アーチャー、あんたの宝具、つまり固有結界なら―――」

「―――確かに、結界発動時、範囲内に奴の本体があるのであれば、奴の巨体ごと、まとめて引きずりこむことが可能だ」

「そう言うこと。そしてあれほどの巨体とはいえ、打ち滅ぼすだけなら―――」

 

凛はそこで再び言葉を切って、今度はその場にいる英雄たちを見渡した。アーサー王クーフーリンメデューサ、メディア、佐々木小次郎ヘラクレス、そして、私、エミヤ。

 

「これだけの戦力があるんだもの。十分可能でしょうよ」

 

彼女の言葉には、自信がたっぷりと含まれており、確信があった。

 

「当然です。一度は場所の不利に押し切られ不覚をとりましたが、二度目はない」

「潤沢な魔力が確保できるなら、デカいだけの輩を消し去るのくらい、なんてことないわ」

「気乗りはしませんが……」

 

そして英雄たちはそれに肯定の意を返す。戦場にいてこの場にいない男どもとて、ここに居合わせたのならその意見に肯定して見せただろう。―――ああ、いや、強さが対人戦に特化しているアサシンは口渋ったかもしれないが、ともあれ頼もしいことは確かだ。

 

そして私も彼女の意見と、彼らの意見に同意だ。私の真なる宝具「無限の剣製」は、数限りなく宝具の複製を行えると言う性質上、戦闘技術を極めた達人との一対一の対戦には不向きであるが、実力遥か劣る多数の敵を相手とするいわば殲滅戦に向いている。綺羅星のごとき彼らのもつ経歴に比べればはるか見劣りする程度の経験しか持たぬ私であるが、こと此度の戦いにおいては、彼らに勝るとも劣らない戦いぶりを発揮することが出来るだろう。

 

 

「―――じゃあ、アーチャー。さっそくだけど、セイバーの剣、投影してもらえるかしら?」

「……は?」

 

かつて名高き英霊たちと肩を並べて叩く機会を得て、また、そんな彼らよりもこの度私の力が役立つという事実に、柄にもなく自惚れていると、彼女の口から飛び出した言葉に驚き、突如として横っ面を殴られた気分になった。不意打ちにもほどがある。私の魔術の特性は、彼女だって知っているはずだからだ。

 

「凛。過去の私の伴侶であった君ならばよく知っていると思うが、私の投影魔術は万能でない。確かに剣の投影は我が魔術の得意とするところであるが、投影が可能であるのは、人の手で作り上げられた物のみ。神や星によって鋳造された聖剣を複製するというのはとても……」

「アーチャー、それはおかしい。あなたはあの教会で、自滅覚悟であれば、私の聖剣も投影できるはずと述べたはずだ」

 

暗に、自滅覚悟で聖剣を投影しろ、というセイバーの言に苦笑しつつも、私は言葉を返す。

 

「それは……、言ったかもしれんが、あくまで真に迫ることが出来るというだけのもの。どうあがこうが、本物には及ばない。何より、英霊として召喚された本人である君がここにいて、君がその剣を持っているのだ。私がわざわざその模造品を投影する必要はあるまい」

「いえ、それは違うのです、アーチャー」

 

セイバーは少し物憂げな表情で、しかし、私の言ったことを否定した。

 

「何が違うというのかね?」

「凛も言っていた通り、私たちは基本的に再現なのです。土地に残っていた聖杯が収集していた記憶より再現された存在。聖杯戦争に呼ばれた英霊たちがその側面の一部を取り出して元の人格を再現した複製であったとするなら、私たちはそのコピーから言峰の作り上げた聖杯によってさらに複製された存在。コピーのコピーです。聖杯を作り上げた言峰綺礼という男が心霊医療の術を収めていたためか、私たちの体こそはサーヴァントであったころと遜色ない構造を持つことができていますが、その武器に至っては……」

 

いうとセイバーは己の聖剣「エクスカリバー」を虚空より己の手中に取り出して見せてくる。風王結界を解かれ、鞘を失っている剣は、その光り輝く刀身が惜しげもなく晒されているが、なるほど―――

 

「これは酷い」

「ええ。これには魂がこもっていない。ガワだけを真似て作られた贋作のそれです。これにはオリジナルに対する敬意も、近づけようと理解を試みた形跡も見受けられない。模倣品ですらない、贋作にはるか劣る、単なるデッドコピーだ」

 

彼女はいうと、己の聖剣に似た剣を投げ捨てた。その斬れ味だけは再現できていたらしく、剣は地面に深々と突き刺さる。その様は、まるで己の痴態を恥じらって姿を隠そうとしているように見えなくもない。

 

「ですから貴方の力が必要なのです。かつて貴方の世界にあった剣は、貴方は贋作と言って断言していたけれど、そのどれもが胸を打つ輝きを放っていた。どの剣も、製造者のそうあれかしと鋳造されたと理念を宿し、誇り秘めていた」

「過分に賞賛の言葉を頂いたところで申し訳ないのだが、しかし私にはやはり出来ない。いや、確かに真に迫った投影品は出来るかもしれないが、おそらく生み出したところで、無茶の代償に生み出したもの神造兵装は、おそらく数秒も世に残らない―――」

「いえ、問題なく出来るし、残るはずよ、アーチャー」

 

提案の拒絶を遮って凛は述べる。断言に近い言葉には確信に近い思いが含まれていた。

 

「何を根拠に……」

「もともと投影とは、本来失われたオリジナルを数分間だけ自分のいる時間軸に映し出して代用するだけの魔術。そうして出来上がる品は、大抵ガワだけを真似た劣化だわ。そう言った意味では、言峰の作り上げた聖杯が模造したセイバーの剣は、正しく通常の魔術による投影品と言えるでしょうね」

「……それで?」

「そう、そして普通ならそうして投影した魔術の劣化品は、それでも「世界」という存在が、オリジナルが二つ存在するという事態を拒絶するため、修正によりこの世から消え去る運命にある。また、投影をした本人のイメージに破綻が起きた場合も矛盾で消えるけれど……ともかく、本来、投影品は、「世界」の修正により、この世界から消え去るのよ」

「そうだが、それが―――」

 

どうした、と聞きかけて、ようやく彼女の言わんとしていることを理解した。それは、元から投影した品が基本的に世界からの修正を受けず、消滅しない特異な投影魔術を使える私には、思いもよらぬ部分からの指摘だった。

 

「そうか、人類カテゴリの起こす事象において、「世界」とはつまり霊長の抑止力が相当する。即ち、それが代替わりして過去が刷新された今、もはや投影の修正は起こりえない―――、そうか、だから、あの言峰の投影品も、今なお消えずに残っているのか」

「ええ、きっとね」

「――――――」

 

投影という魔術に特化し、もとより消えぬ投影を可能とし、誰よりも造詣が深いと思い込んでいた私は、だからこそ投影がもはや世界からの修正を受けない魔術になっているといことに気がつかなかった。

 

「凛。確かにそれはその通りなのかもしれない。だが、だからといって、私が神造兵装を投影する事が基本的に不可能である事に変わりはない。理解しきれないからだ」

 

思いもかけず、元からできるが所以に気づかないという天才にありがちな弊害を、まさか基本的には凡人と変わらぬ才能しか持たないこの身が体験することになった事実を驚くが、しかし、そんな真実をしった今でも、私の結論は変わらない。

 

「たとえ世界の介入がなかろうと、世界の拒絶がなかろうと、私が投影を行うためには、その投影となる対象品の理解が必要だ。すなわち、創造の理念を鑑定し、基本となる骨子を想定し、構成された物質を複製し、制作に及ぶ技術を模倣し、成長に至る経験に共感し、蓄積された年月を再現し、あらゆる工程を凌駕し尽くし、幻想を結び剣と成す。―――故に、世界という理解が及ばぬ存在が理解の及ばぬ理論理屈を用いて作りあげた聖剣、私のような贋作者如きでは投影したところで、とても真作のそれにとても及ばない―――」

「あのねぇ、アーチャー。貴方の、その、自分や自分のやった結果を贋作として卑下する態度が一番の問題なのよ」

 

聖剣の投影が無理である理由を述べていると、私の言葉を遮って、凛は呆れた顔で言った。

 

「一口に贋作っていったって、本人が真作と断定しても贋作より評価が低いものもあれば、贋作と知られても評価の高いものもあるわ。例えばフェルメールの贋作製作に注力し、ピカソ風の絵を描いてほしいとの依頼に激怒したメーヘレンのように、誰かの贋作を作ることに情熱を注いで、はては英雄と扱われた画家。後年贋作であると本人が発表したにも関わらず、作品の出来が良すぎたために評価され続け、自分の真作を作り贋作であることの証明をしようとして失敗したバスティアニーニのような彫刻家。キリコのように過去の評価が高かった頃の自分の作品を贋作と言い切って切り捨てた画家だっている」

 

諭す物言いの彼女には、口を挟ませないだけの静かな迫力があった。

 

「周りの人がどう言おうと、世の中のものを贋作であるか否か。評価に値するかしないかなんて、決めるのは結局、自分。己の価値観による判断が全てなのよ。たとえそれが、他人の作品を模倣して作り上げたものであっても、いえ、だからこそ、作り上げた本人が本物と認めてやればそれらは製作者の生きる世界においてはなにより真なる作品となるし、そうでなくとも、贋作や模造品それじたいが評価を浴びることだってありうるし、はたまた、真作が本人にとって贋作になりうる事だってある―――」

 

諭す口調はやがて厳しいものとなる。

 

「アーチャー。あなたは、己の持つ魔術の奥義を「模倣した剣を収集するだけの下らない魔術」と言い張り、受け継いだ正義を「借り物の偽物」と言い切る。だからこそ、それらは、貴方にとって贋作の、偽物に過ぎないものになったのよ。そしてかつての人間と彼らが形作る世界という存在も、オリジナルのみを尊重し、それ以外を否定し自分の価値観以外を認めない極端なゼノフォビアに走っていたから、貴方もそう信じるようになった」

 

否、彼女は事実、怒りを抱いていた。凛という女性は私が自らを偽善者、贋作者、すなわちフェイカーと揶揄して卑下するような言動を責めていた。

 

「―――でも、この世界とそこに住まうひとたちは違う。この世界に生きてみてわかったでしょう? 基本的にこの世界の人たちは、他人や人をそうやすやすと否定しない。負の感情というモノの保存や記録が難しい彼らにとって、真作だろうと贋作だろうと、目の前そこにある己が感じた気持ちがなにより大切で全てなのよ」

 

負の感情の貯蓄ができないという特性は、図らずとも、他人の不徳を許容し、足るを知る、徳の高い人間を自ずと増やすこととなった。そしてそんな人間たちによって作られる無意識の集合体である霊長の抑止力は、同様に、彼らと同じく、真贋どうあれそこに存在するものを許容するに至ったと言う事か。

 

「だから人も世界も、真剣さが込められたものなら、過去の誰かの思想や品物こそがオリジナルだと言い張って、比較して、一々否定しない。だからこそ貴方も、貴方の生涯や培ってきた技術によって作り出す模倣の品を、一々、偽物、借り物と言って他人に主張する必要はないし、否定しないで。そうして貴方が己を信じる限り、貴方はこの世界で神造兵装に決して劣らない品を作れる人になる。それこそ、今ここで星が鍛え上げた聖剣に匹敵する投影だって可能とするはずよ」

 

いつかかつて埃かぶった部屋の中、彼女が衛宮士郎の信じる道と私の生涯を肯定して叫んだように、彼女は私という存在全てを許容して語りかけいた。それは、私と同じ時代を生き、私という存在と全く同じになる可能性を秘めた男を、肌身通して愛し続けてきた女だからこそ発することのできる、重みと説得力のある言葉だった。

 

「当時の私は言わなくてもわかると思っていた。いえ、素直じゃない性格だったから、いうなんて恥ずかしことできないし、だからせめて私が信じた道を貫くことで貴方が自分の生涯を誇れる時が来てくれれば、って思ってた。でもやっぱり、思いはせめて言葉にしなきゃ伝わらないわよね。―――あの人、つまり私の夫、衛宮士郎は、私を守ることができたから、俺は正義の味方でいられたって言って胸を張って死んでいったわ。だったら、その士郎の行き着く先であり、技術の集大成である貴方にそれができないはずがないじゃない。それを思えば、いつかきっと、いえ、今すぐにでも、貴方が自分を認めれば、その生涯を他人に誇ることの出来る男になる」

「――――――」

 

言葉に一筋の涙が溢れ落ちた。人前で無様だとか、男が女の前で泣くものじゃないとか、そんな強がりを思う余裕もなかった。ただ歳を重ねて経験を積んできた彼女の言葉に含まれる暖かな成分は、不思議なくらい容易に鉄の血潮を貫いてガラスの心を満たしていた。

 

命がかかった戦場において、己の役割を忘れたかのように、女に己の歪みを諭され、許容され、歓喜に滂沱の涙を流す私に対し文句を言うものは誰一人としていなかった。

 

この世界に人間である彼らも、かつての世界に生きた人間である彼女らも、ただその様子を静かに見守っている。それが、遂に私と言う存在が、現在と過去、その全てに受け入れられたと言う気がして、私はなんとも言えない清香の境地に至ることが出来た。

 

 

「いや、まったく、キリがねぇ。千は殺したのに、まだ際限なく出てきやがる。やっぱあの手の化け物は本体を叩かなきゃダメだな」

 

戦場に似合わない淑やかな空気を切り裂いたのは、今しがた戦場にて存分に力を振るってきた男だった。誰よりも先に戦場へと突入した男は、他の誰よりも速く見切りをつけてさっさと帰還したのだ。

 

 

おそらく大暴れしたのだろうことがランサーの言葉から分かるが、それだけの大立ち回りをしたにもかかわらずその体に傷一つなく、服にシミ一つ残っていない手並みは、流石、最速の名前に恥じない働くぶりであるといえよう。

 

「それで、あのデカブツと言峰をどうにかする算段は立ったのか?」

 

ランサーは赤い魔槍―――よく見れば、これも酷い出来の贋作だ―――気分良く振るって穂先に付着していた体液を払うと、乱雑に地面へと突き刺しながら軽く凛にはなしかけた。そして我々の一同を見渡した彼が、そうして彼女に話しかけたのは、おそらく彼なりに空気を読んだ結果なのだろう。

 

「手段はとっくに。ただ、今、それを補うための武器調達の手を相談してたところ―――ま、というわけで、私の愛した夫、今の貴方の投影魔術に比べれば遥かに技術面で劣る士郎だって、そうして勝利すべき黄金の剣/カリバーンの投影をして見せたのよ。貴方にだって出来ないわけないわ」

「―――かもしれん……、ああ、いや、―――そうだな」

 

強引に話を変えた彼女に、私はいつものように否定を含んだ肯定の言葉を返そうとして、それでは今までと変わらぬと気がつき、強い肯定の言葉へと変化させた。それだけで、確かに己は神造兵装に匹敵するものを投影する事だって可能だとおもえてくるのだから、人間心理というものは不思議なものである。

 

「固有結界の発動と神造兵装の投影、どちらも大役だ。だが、確かにやり遂げてみせよう」

 

言い切ると、凛が気持ちよい満面の笑みを浮かべ、セイバーも負けないくらい柔らかな笑みを浮かべた。二人の女性が浮かべたベクトルの違う柔和な笑みに、私は癒されながらも、大役を担う覚悟を決めていた。

 

面はゆさもあるが、それ以上に気分が昂ぶっていて、恥じる思いがあるならさっさと行動にうつせと心が叫んでいる。我ながら青臭いと思うが―――いや、悪くない気分だ。

 

「おっし、じゃあ、やるとしますか。おいアーチャー。宝具の複製ができるってんなら、俺の槍の投影も頼まぁ。これじゃ魔槍の名が泣くぜ」

「であれば私の物干し竿も頼みたい。流石にこの強度では竿というより爪楊枝だ」

「―――」

 

そう言って獲物を各々の獲物を差し出す二人に比べ、バーサーカーはすでに徒手であるが、こちらに向けられた暴走の名を冠するに似合わない静かな目線は、二人と同様に、己の獲物の投影を依頼しているのがわかった。おそらく彼の膂力に耐えきれなくなった時点で、砕けてこの世なら消滅したのだろう。

 

「ああ、わかった。実物に劣らぬものを投影してやるから、話し合いが終わるまで大人しくしてろ」

「おう、大人しく待ってるわ。―――なぁ、アサシン……いや、コジロウ。暇潰しに一手付き合わねえか」

「どうやらお主の「大人しく」の意味は一般のそれとは大分ズレているようだが……、まあいい。その提案には賛成だ」

「お、オタクいけるクチか。ノリがいいやつは好きだぜ、俺は」

「好かれるなら女子の方が良いのだがね。まぁ、益荒男相手ならその次程度に悪くはないか」

「ますます気に入った。じゃあ、早速あっちで挨拶がわりに一手組み交わそうぜ」

「心得た」

 

謎の意気投合をした男どもは、いって結界内の外壁近く、離れた場所まで進むと、文句をつけたばかりのそれぞれの獲物、即ち槍と剣を手にして相手へ刃を向け、決闘―――彼らにとっては組手なのかもしれない―――が始まった。

 

繰り広げられる戦いは、文字通り神技の応酬といって過言でなく、どの一撃にも露骨なまでに殺意がありありと乗せられている。流星のような刺突。闇を切り裂く刃。二人の繰り出す攻撃には相手に対する遠慮というものが一切なく、そうして相手の命を真剣に狙ってやるのこそが礼儀であると言わんばかりに、冴えていた。

 

彼らの頭の中ではおそらく、「この程度で相手が死ぬはずないし、相手が死んだとしてもそれはまぁ事故みたいなもので仕方ない」ということなのだろう。

 

「バカ二人」

「あのノリには流石についていけませんね」

 

いきなり繰り広げられた身内の殺し合いに、ギリシャ神話の女神二人が酷評を下した。セイバーは気持ちよく互いの技の応酬を楽しんでいる二人に少し羨んでいる様子が伺えたが、流石にこの場でそれを素直にいってしまうほどに空気が読めないわけではないようだ。

 

「なんなのでしょうか、これは」

 

ふと気がつくと、意識をとりもどしていたピエールが彼の仲間の側で呟くのが聞こえた。魔のモノどもに囲まれ、決戦を控えた直前の場面において、味方であろう男どもは同士討ちを開始し、それを止めようともせずに眺める者たちがいる。

 

確かに言葉にすれば、見る者全てを混乱の渦中に陥れてしまいそうな光景は、基本的にあらゆる物事を己独自の解釈のもと理解する彼にとっても、形容しがたいものであったらしい。

 

「さてね」

 

疑問をバッサリと切り捨てると、目の前繰り広げられる光景を前に、ともかく己に出来ることをしてやろうと、早速投影の準備に取り掛かった。

 

 

「突き穿つ死翔の槍/ゲイボルグ! 」

 

宝具の名が叫ばれるとともに、全身全霊の速度にて空中へと飛び上がったランサーの手から赤き魔槍が放たれ、槍はその真価を発揮した。手から離れた槍の穂先は瞬時に分裂し、三十の鏃になると、着弾した地点より百近くの獣と触手を吹き飛ばす。

 

速度換算すればマッハ二に匹敵する分裂魔弾の威力や絶大で、地面は剥がれ、土砂と敵がまとめて宙を舞い、地面に大穴を開ける。まるで隕石の着弾とも勘違いしかねない現象を引き起こした槍は、己が主人の意向に沿った威力を発揮したことに満足すると、すぐさま着地した主人の手中へと収まった。

 

「これだよ、これ。多少手ごたえは違うが、やっぱ俺の槍はこうでなきゃいけねぇ! 」

 

遠く離れた場所でランサーの満足げな声が聞こえたかと思うと、すぐさま手中の槍を独特の低い姿勢に構えて、再び集まってきた魔物どもの掃討を開始する。そして彼は愉快げに己が思い切り駆け抜けるスペースを再び確保すると、思い切り助走をつけて跳躍し、再び宝具の名を叫びつつ、槍を投擲。繰り返し魔のモノは吹き飛び、あとはそれの繰り返しだ。

 

確かに陽動のために目立つ行為をしろとはいったが、何もあそこまで暴れなくても、と思うのは、私だけではないと思う。

 

「キャスター。ではこちらも始めようか」

 

一方、そんな彼に私同様の思いを抱いていただろう、少し冷たい目線をランサーに向けていたキャスターは、宗一郎の意思に同意を返した。すると宗一郎の拳が強化の光に包まれ、キャスターと呼ばれた彼女はゆっくりと宙へと浮き上がってゆく。

 

「ええ、お任せください、宗一郎様。―――アサシン。わかっているわね?」

「おうとも、援護は任されよう。お主は存分にその力を発揮するがいい」

 

キャスターはアサシンの言葉を努めて無視すると、戦場に似合わない細身の美女は緩やかに複雑な紋様の魔法陣を己の周囲に展開させ、手にした魔杖をふるい、魔法陣より光の矢を発射した。

 

「アーチャーたちがいうには、ここは柳洞寺直下の洞穴で、奴らは寺を山ごと破壊してこの土地を穢すような輩と聞く。ならば遠慮は無用。寺の彼らは望まぬだろうが、弔い代わりに、奴ら悪鬼の命を吹き飛ばすことで存分に報いを受けさせるとしよう」

「ええ。もちろん。それがあなたの願いだというのなら」

 

光の矢は魔物に直撃すると、己の存在理由を存分に発揮して魔物を焼き尽くし、消しとばす。キャスターはそんな威力を秘めた魔弾を生み出す魔法陣を次々と虚空に描いては、マシンガンのごとく光の矢を発射する。

 

凛ほどの魔術師であっても、一つの形成がせいぜいだろう攻撃能力を秘めた魔法陣は、次々と生み出され、魔のモノをアンリマユごと焼き払う。それはまさに、神代の時代でも一部の優れた魔術師しか可能としない、奇跡の未技だった。

 

キャスターはその奇跡を、高速神言という己の技量と、すぐそばの地下を走る霊脈から膨大な魔力を汲み上げることで成立させている。

 

「魔術師は己の陣地であるのならば、有利にことを進めることができる。そしてここはかつての本拠地、柳洞寺の地下で、霊脈という魔力タンクのすぐ近く。―――負ける要素がないわ。だからせいぜい、あの人の願いの達成と私の鬱憤ばらしに付き合いなさい!」

「おお、怖い。とはいえ、たしかにあの気持ち良い御仁たちの眠る場所が穢され、この身が怒りを感じたのも事実。―――なら精々、この怒り、貴様らのその身を削ることで、晴らさせてもらうとしよう!」

 

宗一郎の腕より拳が振るわれ、彼の後ろをアサシンが守る。僧侶が眠る場所の猊下、僧たちが身を置く寺で世話になった三人は、それぞれの思いを胸に、派手な戦闘を開始した。

 

「では私はバーサーカーと」

「――――――!」

 

キャスターの奮戦を見物していたライダーも、緩々と動き出した。女性にしては長身の美女乗せた巨漢の男は、それでもそんな彼女を大きく見せないほどの巨大な体を瞬時に最高速まで加速すると、ライダーを乗せたバーサーカーはまるで戦車のように結界の外へと飛び出して、外の有象無象を蹴散らして遠ざかってゆく。

 

やがてすぐさま遠方へと孤軍にて進撃した灰色の重戦車は、周囲の的全てをわかりやすく蹴散らし、吹き飛ばし、蹴散らしていた。巨人はライダーという騎手を得て、益々盛んに暴走の様子を見せている。

 

「凛。アーチャー。では私たちも」

「ええ、続くとしましょう。―――そちらの貴方達も覚悟はいい?」

 

凛は自然な優しさを伴って、「異邦人」の彼らに問いかけた。かつてそんな如何にも優雅な所作は、あまりにも完璧すぎて猫を被っているに違いないと感の鋭い者に見抜かれて突っ込まれたものだが、今の彼女には、それを演技だと思わせないだけの自然さがあった。

 

おそらくその淑女の嗜みの現れは、彼女のそれが長年続けられたことにより洗練され、真実彼女の自然な動作として培われたからだろう。こんなところを見ても、なるほど、偽物であっても、続けることに意味はあるのだなと感心し、納得した。

 

「は、はい、もちろん!」

「無論だ」

「最終決戦を前におめおめとひきさがれねぇからな」

「いやぁ、どの戦いも素晴らしく目移りしますねぇ。正直、ここでずっと眺めていてもいい気分なのですが」

「ピエール。お前、だから、こういう時くらいは―――」

「―――ですが、先ほどの話を聞くに、貴方がたについていった方がもっと凄いものが見られそうだ。あの時見せた固有結界とかいうもの以上の衝撃を、見られるのでしたら、それはもう、勿論、覚悟してついていきますよ。―――それに、それを抜きにしても、仲間が死地に向かうのです。ついていかないという選択肢はありませんよ」

「―――は、そうだなその通りだ」

 

最終決戦を前にして、ようやく仲間を気遣う台詞を吐いたピエールに、サガは一瞬呆気にとられた表情を見せたが、すぐに満足な笑みを浮かべると、その内容に同意を返した。

 

「上でもいったけど、いい仲間を持ったじゃない」

「ああ。悪くな―――、いや、そうだ。いい仲間だよ、彼らは」

「そ。良かったわ。それで、ここからどうやって言峰の元まで行くの、アーチャー?」

「無論、彼らと同じ手段を取る。やるからには、徹底的に、だ。奴らの骨の一欠片すらなくなるまで殲滅し尽くしながら進軍するとしよう」

「あら過激ね。……でも気に入ったわ。喧嘩を売られたからには、二度と歯向かう気が起きないくらい後悔させてあげないといけないわ。相手があの言峰だっていうなら、加えてボコボコにしてやらないと私の気もすまないし―――、OK、アーチャー。じゃあ、この馬鹿騒ぎを終わらせにいきましょう」

 

彼女の物騒な言葉に応じて、復活していた魔術回路を励起させ、失った赤い外套を投影する。常ごろ投影した本人からすら贋作の扱いを受けていた聖骸布の外套を纏い翻すと、布切れは持ち主同様、初めて己の存在を誇るかのように夜の闇に赤の色を主張した。

 

「勿論だとも、凛。最終決戦の狼煙はドカンと一発、ド派手にぶちかまして、君の義侠と義理と流儀に答えるとしようじゃないか」

「あいかわらず律儀ね。でも気に入ったわ。それじゃアーチャー。音頭をよろしく頼むわよ」

「……私が、か?」

「当然じゃない。この集団は、貴方が歩んできた道で結ばれた縁の結果なのよ? 」

「そうか。そうだな……、では」

 

「ダリ」

「ああ」

「サガ」

「おうとも」

「ピエール」

「ええ」

「響」

「はい」

「セイバー」

「はい」

「そして、……凛」

「ええ」

 

「過去の因縁に決着をつけるときがきた。とっととこの狂乱を終わらせて―――、今の時代を謳歌するため、地上に戻るとしよう!」

 

振り上げた拳と叫びに呼応して、六つの拳が天に突き出され、頼もしい雄叫びが地に響く。エトリアの土地より西のはるかの地下。その地下に存在する冬木という土地の、さらに深い地底にある場所において、正しくここに、最終局面の火蓋は切られたのだ。

 

 

「エクス……カリバー!」

 

美しき少女に似合わぬ、されど戦場を駆ける騎士としては正しく猛々しい咆哮をあげて、彼女は宝具を振り下ろす。目眩い聖剣から発せられた光は、我らの道を進む障害となりうる敵を全て打倒せんとの主人の意向に呼応して、獣と触手をまとめて打ちはらう。

 

否、彼女の聖剣が生み出した光の断層は、魔物どもだけでなく、その道にあった、マグマ、巨大な氷塊、雷撃の嵐すらもまとめて吹き飛ばし、しかし天井に直撃する直前でその効力を失い、我々の進路に安全を確保してくれていた。

 

小さな体の振り下ろした剣より直進した光刃は、大きな体の火竜が放つ拡散する吐息とは異なり、主人の邪魔となる獲物を仕留める以外には機能を発揮せず、目的とする敵は確実に仕留めるが、そうでないものは見逃すという、正しく英霊の武器にふさわしい権能を持っているかのように見受けられた。

 

光景を見て私は、多少誇らしい気持ちを抱く。今更隠そうことでもない、彼女の振るう聖剣は、私の投影したものなのだ。やがて彼女が作り上げた道を駆け抜けて、私たちが彼女に追いつくと、彼女は本来の脚力を少し抑えて私たちと並走し、私の横に並んだ。

 

「流石です、アーチャー。貴方には謝罪しなければなりませんね。正直、投影品と聞いて本来より性能が大分劣る事を覚悟していたが、貴方の投影したこの剣は、真作であるエクスカリバーにも劣らぬ性能を発揮する」

「いや、構わないよ、セイバー。投影したものが本来のものに劣るというのは、本来普遍の事実だ。その下馬評を覆した私が優れているというだけのこと。―――謝るほどのことではない。それに、そう言ってもらえると、必死こいて投影した甲斐があるというものだ」

「―――承知しました。それにしても、変わりましたね、アーチャー」

「……そうか? 」

「ええ。前に出会った時より刺々しさが減って、卑下ではなく謙虚でなく、他人の尊敬を素直に受け取る強さがある。以前の貴方なら、どう言おうと己の所業を誇ったりはしなかったでしょう」

「そうか……そうかも―――、いや、そうだな」

「ええ。本当に、変わりました。まるでシロウのようだ」

「あの小僧の……? 」

「ええ。―――いい出会いがあったのですね」

「―――ああ。その通りだ。周りの人間がいい人すぎて、毒されてしまったよ」

「む、ですがそういう物言いをするところは未だ変わっていませんね。こういうのもなんですが、その物言いは人に誤解を与えることが多い。注意すべきです」

「……善処するよ」

 

まるでお節介な友人のように口出しする彼女は、気の無い返事ながらも承諾の返事が返ってきたことに一応の納得して黙り込んだ。彼女には悪いが、この性分は治らないだろう。

 

我ながら性格が悪いと思うが、呆気にとられて驚く彼らを見たり、私の言動で喜怒と愕楽の表情をコロコロと変える他人の様子を見て面白がるのは、数少ない娯楽だ。その辺りは他人に迷惑がかからない範囲で楽しむので、どうか勘弁してほしい範疇だ。

 

「委員長気質だな」

「……なんですかそれは」

「生真面目ということさ」

 

揶揄われているのか、褒められているのか判別がつかない、という顔で素直に悩む彼女の様子を横目に楽しみながら、それでも疾走する速度は緩めない。先行する我々の少しばかり後ろでは、彼らがピエールのスキルにより強化された体を酷使しながら、不安定な魔のモノの体を駆け上ってくる。

 

―――そう、今私たちは、敵の本丸めがけて最短距離を進んでいるのだ

 

「ちょっと……、こちとら、生身の体、なのよ……。あんたたち、すこしは、手加減ってものを、しなさい……」

 

息もたえだえに凛は文句を垂れる。優雅さを常の心がけとする遠坂の心がけは何処へいったのやら、美麗な表情には疲労の色が濃く滲み、滝のような汗がその顔を流れている。

 

「そうですよ。お二人とも早すぎます」

「いやぁ、この先行する仲間を追いかける感じ、昔を思い出しますねぇ」

「ま、多少足場が不安定で厳しいものはあるが―――」

「二層や三層の樹海を思えばなんてことはないよな」

 

対して、平均して傾斜が二十から四十、時には絶壁のような安定しない険しい道を進んでいるにもかかわらず、迷宮探索を生業としている彼らは涼しげな様子で言いのけた。多少額に汗が滲み、空気に漏れる吐息が白さを帯びているが、彼らの息はまるで乱れておらず、なんとも余裕の様子である。

 

「だ、そうだが?」

「現役の冒険者と引退して長いロートル魔術師の体力を一緒にしないで頂戴……! 昔は習慣だった八極拳の練習だって忘れちゃって久しかったっていうのに……」

 

負けん気を存分に含む文句に、肩をすくめて返答してやる。すると。

 

「それはいけないな。技術は一日休むと、正しく取り戻すのに三日はかかる。日々のたゆまぬ鍛錬こそが緊急、咄嗟の際においても役立つ、正しく身についた技術となるのだ」

 

などと別方向から聞こえてきた思いもよらない指摘に、私は誰よりも早くその声の主の方を振り向いた。奴はアンリマユと同化した魔のモノの触手の上にたち、悠然とこちらを見下ろしている。

 

言峰綺礼……!」

「そのとおり。しかし貴様らは余程不遜な輩だな。こうも死人をホイホイと蘇らせられると、その行為になんのありがたみも無くなってしまう。さまざまな鍛錬の先にある技術を日常の中へと落とし込んだスキルの存在といい、この世界の人間や、それを守ろうとする貴様ら、そして、そんな貴様らを許容する世界という存在は、そのような奇跡の価値を地に落としてでも、私と魔のモノの存在を否定しなければ気が済まないらしいな」

「綺礼……、あんた、よくも、シャアシャアと私たちの目の前に姿を表せたものね」

 

足元が魔のモノの本体という状況下において、魔のモノと繋がった奴が姿を表すという異常事態において、こちら側の人物全員が咄嗟の警戒態勢をとる中、奴だけは凛の怨嗟の篭った声にも大した反応を見せず平然と私だけを見据えて、続ける。

 

「その最も顕著たる例が、貴様だ、エミヤシロウ……」

「……私?」

 

スキルや技術という話の内容から、唐突に何ら接点のないはずの私に話の焦点が当てられたことに内心多少動揺しながらも、それを露わにしないまま、奴の言葉の先を聞く。

 

「一度目の蘇生は良い。あれは私の見逃しと、凛の覚悟と技術、そして衛宮士郎の献身による成果だ。貴様の蘇生―――いや、転生か。ともあれその結果、転生という事態が起こったことはこの世界の理からすれば不自然かもしれないが、死者を蘇らせる為に生者が血肉を削っての行為の結果と考えれば、自然なものだった。―――だが、二度目は違う」

 

奴はカソックの下で振り上げていた足を振り下ろすと、途端、その下部に当たる魔のモノの表面が砕けてマグマの中へと落ちてゆく。常に能面のような作り笑いを浮かべ、冷静の態度を心がける奴にしては、珍しく感情的な行動だった。

 

奴は私を嫌悪している。否、奴が一言を発するたびに、目の周囲に険しいいくつものシワを増えてゆくのは、言峰という男が今、己の語る言葉にて、私という男への嫌悪を深めている証拠だった。

 

「貴様はもはや心臓を砕かれた死に体の状況から、謎の復活を果たし、聖杯を手にしたことでさらなる奇跡を成し得た。―――なぜだ。なぜ親子揃って、自ら平穏を捨て、要らぬ理想の為に戦場へ身を置き、その身に余る大望を抱き絶望の中を邁進する愚かな者ばかりが、死者蘇生という最高峰の奇跡までも幾度も手中に収めることができるのだ! そしてなぜ、世界はそんな貴様らばかりを贔屓するかのように、貴様らにばかり都合の良い奇跡を用意し、それを許容する。―――なぜだ、アーチャー……! 」

 

そして私のことを奴は今、エミヤシロウとではなくアーチャーと呼んだ男は、これ以上ないほどに憎しみの感情を全身から滾らせていた。その慟哭は、その戦場にいた全ての者から抵抗の意思を奪ってみせるだけの迫力を秘めていた。

 

奴がなぜ今しがた急激な心変わりを見せたのか、その理由はわからない。生前、衛宮士郎であったころの私は、奴は他人が醜いと思うことこそを美しいと思う性格破綻者であるということしか知らない。

 

私にとって奴は、切嗣という養父を殺した仇であり、私の真の両親と共に多くの無関係な民間人を殺した罪人であり、そしてそういった他者の悲しむ行為を容認する、単なる悪人に過ぎなかったのだ。

 

死後、英霊として聖杯戦争に参加した折も、同様だった。奴は己の立場と過去の経歴から得たものを利用して戦争をかき乱し、他者を欺き、陥れることを目的として動いていた。奴は己の行為の結果、無関係の人間が死ぬことを当たり前のように許容していた。無論、それを我が目的のために見て見ぬ振りをしていた私も同罪であろうが、ともあれ、言峰綺礼という男は、私にとって単なる悪人というイメージしかなかった。

 

しかしそれがどうか。目の前にいる悪を許容する大悪人は、まるで餓鬼のように己が心中を

叫び、吐露し、憎き敵である私に、なぜ己は世界に許容されないのに、貴様ばかりが許容されるのかというその問いの答えを求めている。

 

おそらく奴は、その問いの答えを求めるためだけに、採算を度外視してこの場へとやってきた。今までの企みも、積み上げてきたものも、全てを放り投げて、己を敵だとして殺そうとする、因縁の相手の前に姿を表した。

 

己が存在の価値と意義を求めて苦悩し、何とかしようとあがき、そしてそれが叶わぬと知ったときに絶望し、答えを求め、恥も外聞をも気にせず、憎いはずの敵にすら問いかけ、必死に答えを求める。その行為に、私は痛いほど覚えがあった。なぜならそれは―――

 

―――私がかつて、過去の衛宮士郎という存在に対して行ったこと

 

途端、奴はまるで私にとって鏡のような存在だと感じた。他人の美しい行為にしか価値を見出せない男と、他人の醜き行為にしか価値を見出せない男。普通の人間を愚かと感じて世界に絶望を抱いた男と、未だに普通の人間の暮らしに憧れて世界に希望を捨てられない男。

 

私の陽は、奴の陰。奴の陽は、私の陰。否、合わせ鏡とかいう生易しいものではなく、それはもはや、太極、両義の関係性。他者の中にしか己の存在意義を見出せないという点まで含めて、私と奴は、正しく表裏一体の関係にある存在だった。

 

―――ならば、答えてやるのが、せめてもの情けというものか

 

奴が敵であることに変わりはない。奴が今回の事態を引き起こした黒幕であることに変わりはなく、故に奴がこれから殺すべき相手であることにも変わりはない。

 

ただ―――、己の存在意義を、否定されるだろう事を承知の上で、私という正反対の存在に問いかけた、奴という存在の必死の叫びを見過ごすのは、正義の味方を目指すものとしてやってはいけない事であると感じたのだ。

 

「―――凛、セイバー、そして、ダリ、サガ、響にピエール」

 

呼びかけると、金縛りから解かれた一同が声に反応して身を震わせる。

 

「何でしょうか」

「何かしら?」

 

どうやら凛の負けん気と意地よりも僅差で不測の事態に慣れたセイバーの方が早かったようで、出遅れたことを無駄に悔しがる彼女の変わらない気質を微笑ましく思う。他のみんなは二人より出遅れて、もはや台詞もなく次の言葉を待っていた。

 

「―――あの男との決着は、この手で直接つけたい。悪いが、固有結界の展開後、しばらくの間、自由にやらせてほしい」

 

言うと、彼女らは口を、目を大きく開き、あるいは、息を飲んで体を後ろにのけぞらせて、たいそう驚いた事を表現した。けれどすぐさま半月になるまで口角を上げて、満面の笑みで言い放った。

 

「いいわ。その我儘、聞いてあげる。滅多に聞かない、貴方の願いだもの」

「因縁というものは、己の手で最後までやり遂げてこそ、正しく終わらせることができるもの。アーチャー。その行為が貴方にとって救いとなるというなら―――、それは是非とも貴方が自らの手で成すべき事だ」

 

そして私の過去を知る二人は、それぞれの理由で私の我儘/願いを許容した。

 

「―――我々の目的であった三竜のうちの一つ、火竜討伐は君の力があってこそだ、エミヤ。いや、それ以前に、ここまで私たちが生きてこられたのも、君の助力があってこそ。なら、その借りを少しでも返すために、ここらで一つ、君に恩を売っておくというのも悪くない」

「ダリ。どうしてお前にもピエールの素直じゃない部分が移っちまったかなぁ。こういう場面では、好きにやってこいって、笑顔で送り出すのが思いやりってもんだぜ?」

「おや、堅物がとっつき易くなったのですから、その変化は喜んで然るべきなのでは?」

「あ、はは、あはは」

 

そして、いつもと変わらない三人のやりとりを繰り広げる彼らと、それを見て苦笑する小さな少女。やがて始まった男の馬鹿騒ぎに笑っていた彼女は、ひとしきり笑い終えると、姿勢を正して、こちらを向いた。

 

「エミヤさん。―――シンを失った私たちが、それでもここまでやってこられたのは、貴方の尽力と献身があってこそです。―――だから、私たちに憚ることなく、存分に、思う通りにやっちゃってください」

「―――了解した」

 

肯定の意見を受け、私は奴の方を向き直した。鳴動する魔のモノの体という大地の上で、言峰綺礼という男は、私たちのやりとりを見て心底嫌悪の感情を抱いたのだろう、目元に視線だけで誰かを射殺せそうな殺意を携えながらも、静かに私の返答を律儀に待っていた。

 

奴の頭には、もはやアンリマユや魔のモノの事情など関係ないのだろう。奴の興味はもはや、私が口からこれより出てくるはずの答えにのみ注がれている。その真摯さに応えてやるべく、私は奴の向ける熱量に劣らぬだけの意思を込めて、見返した。

 

「決着をつけよう。貴様の望む答えは、その先にのみ存在する」

「―――よかろう。ならば、その求めに応じるまで」

 

そして私は世界を変えるべく詠唱を開始した。

 

 

「―――I am the born of my sword/体は剣で出来ている」

 

エミヤの口から言葉が発せられる。エトリアの言葉とはまるで違うその音の羅列は、けれど不思議と周囲に響く力を持っていて、その場にいる誰もがその詠唱に釘付けとなる。

 

「steel is my body,and fire is my blood./血潮は鉄で心は硝子」

 

続く言葉に凛とセイバーという女性らは、少しばかりその綺麗な顔立ちを曇らせた。多分、彼女たちは彼の発する言葉の意味を理解できて、そしてその内容が悲しいものであることがわかる。だってそうでなければ、エミヤさんの背中を見て、あんなに優しくも悲哀に満ちた目を向けるはずがない。

 

「I have created over a thousand blades./幾たびの戦場を超えて不敗」

 

言葉は続ける彼の背中は、大きくて、頼り甲斐のあるものだ。彼のお世話になったのは三層の番人戦から、駆け抜けた四層、そして特殊な五層と、とても短い間だったけれど、その間私は、この逞しい彼に、数え切れないほどお世話になってきた。

 

「Unknown to Death./ただ一度の敗走もなく」

 

エミヤはとてもいい人で、強い人だ。ただ、彼は強すぎるから、いろんなことを自分一人で抱え込んで、全部自分の中で処理しようとする。そして失敗した時も、自然と全ての責任を自分だけで取ろうとする。

 

「Nor known to Life./ただの一度も理解されない」

 

彼はまるで、過去のシンだと思った。もちろん私はどちらの昔のこともよく知らないのだけれど、他の人より力と心が強すぎて、だから目指す目標が高すぎて、追いかけようとする人もそんなにいなくって。きっとだから、みんなの中にいてもずっと一人の気分で過ごしていたんだと思う。

 

「Have withstood pain to create many weapons./彼の者は常に独り、剣の丘にて勝利に酔う」

 

そうか、だから、全部一人で抱え込むようになったのかもしれない。いつからか、彼は諦めたんだ。強いからじゃなくて、周りの誰もが彼のことを追いつこうと、理解しようとしないから、彼もそれを周りに強いることなく諦めた。彼は他人に嫌なことを強いてまで、自分の理解を求めなかった。自分の理解者を求めなかった。

 

「Yet,those hands will never hold anything./故に、その生涯に意味はなく」

 

そしてますます彼は一人になった。目的の場所まで迷わず走り抜ける人は少ない。色々な誘惑があって、大抵は寄り道をしたり、途中で挫折しそうになったりして、足を止める人も多い。けれど、彼は、気がつくと一人、目的の場所めがけて迷わず突き進んでいる。

 

それができる人は本当に少ない。だから、彼のそばにいて、そしてそれが出来ない人は、それが出来ないという劣等感が湧いてくる。多分、ヘイもそんなうちの一人だったのだろうと思う。そしてそんな彼と距離を置こうとするようになる。

 

―――そして

 

「So as I pray,unlimited blades works./その体は、きっと剣で出来ていた」

 

彼の言葉が終わると同時に、暗く死の気配に満ちていた暗く狭い世界は、黄昏の光が周囲に満ちる広大な世界へと置き換えられる。

 

固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」

 

それが確かこのスキル―――いや、魔術の名前だったと思う。

 

すごい技だと思う。周囲の一定範囲を全て自分の心の世界と入れ替えるなんて、本の中のお話の中ですら聞いたこともない。多分、この世界においてこんなすごいことができるのは、それこそ彼一人なんじゃないかと思う。

 

―――だからこそ、ますます彼は孤立する

 

私は以前この世界を見た時、唐突に、彼という人物のことを理解できた気がした。

 

一面に広がる茜色の夕焼け空。黄昏色の行方を地平線の彼方まで追ってやれば、空の向こう側では大きな歯車が不規則ながら、けれど規則的に動いている。天と地の狭間で蠢いている魔のモノを無視して目線を地面にまで下ろせば、枯レ森の雰囲気とは違った感じの、命の気配が感じられない荒野には、植物の代わりに剣が乱雑に突き立っている。剣はどれも凄まじい雰囲気を放っていて目が離せない。

 

剣は多分、彼が他人との接点なんだろうと思う。彼はそうして、誰かが困っている時、剣を手に取り助ける時だけ、誰かに近づいて問題の解決をして去って行く。問題っていうのは、悩んで時間をかければかけるほど、他人から見れば、被害が大きくなって行くように見える。

 

当人からすればそれも必要な犠牲だとか思っていることでも、彼みたいな強い人からすればそれが無駄だと思えてしまうから、強引にでも問題の解決を図って、無理やりにでも解決へと導いてしまう。

 

でも当人が納得してない結末は、どれほどその被害が少なかろうが、決して問題の解決にならない。結果として優しすぎてつい手を出してしまう彼は、周りからすればとても傲慢な人間に映るようになってしまった。

 

きっと、それを端的に表しているのが、この悲しいくらい心の中に誰も命の気配が宿っていない、自分は常に理解されない人間であることを主張する世界なんだ。

 

 

随分と久しぶりにその世界を見た。私が目にしたのはたった一度、あいつが過去の自分を殺そうとして私たちと完全に敵対したその時だった。

 

その時、私は、この世界を殺風景だと思った。一目見てその歪みが理解できた気がした。もともとあいつはすごく根っこの部分がすごく歪んでいて、それが性格にも影響しているのだろうとは思っていたけれど、ここまで酷いとは思っていなかった。

 

あいつは誰とも繋がっていない。血反吐を吐いて正義の味方になる努力をして、誰かを助け続けて、誰も泣いてない世界を求めた少年が、果て手に入れたものがこんな荒野に鉄と灰色の空が広がるだけ孤独な世界だなんて、あまりに馬鹿げている―――

 

過去の自分を憎んで当然だと思った。でも当時の私じゃ彼の望みは叶えられないし、助けられない。だからせめて心だけでも救ってやりたいと思った。だから私は、聖杯戦争終結した後、あいつが役目を終えて消え去る前に、あいつにこの世に残らないかと提案した。

 

少しかもしれないけれど、あいつの歪みを理解して、あいつの鬱憤を理解した私たちのそばで、ほんの少しの間だけでも滞在することで、あいつの傷ついた心を癒してやれればと思ったのだ。

 

けれどあいつはそれを拒絶した。それは一時しのぎに過ぎないことを知っていたからだと思う。たとえ先延ばししたところで、待っている結末は変わらない。だから立ち向かう道を選んだ。どれほど望まぬ結果が待ち受けている道であろうとも、己で選んだ道だから逃げ出すわけにはいかないと、さっさと地獄へと舞い戻ることを選択したのだ。

 

馬鹿な男だと思った。だけどそれ以上に、彼のそんな無言の選択をさせてしまったことが、何より悔しかった。そしてその苦しみはどれだけ年を重ねようと消えることはなく、むしろ、年を重ねてできることが増えてゆき、立場と力が増すにつれて、重いものへと変わってゆく。

 

あらゆる事柄に人並み以上の才能があり、苦労と程遠い立場にあったと自覚するこの遠坂凛という女は、しかし、ただ一人、地獄にて苦悩する男を救えない。少女の頃に突き刺さった楔は、年をとり、他の全ての苦悩を大抵処理してきた私にとって、だからこそ決して忘れ得ぬ膿んだ痕となる。

 

そしてやがて年をとって、膿んだ傷を見ないふりするのも限界に達しそうな頃、私の妄執は彼を助けるための手段を思いつかせたのだ。それはとても外法な手段だった。下劣と言い換えてもいい。

 

けれど、私は私を苦しめてきた全てを取り除くために、その機会に飛びついた。夫は多分そのことを見抜いていた。だから自分の命ごと身を差し出せというような無茶苦茶な要求も迷わず呑んでくれたんだ。

 

だって私の愛したあの人は、そんな私の我儘な部分も知っていて全て受け入れてくれた、正義の味方を目指した優しい人だったから。

 

 

全部の準備を終えて、後は私が観測装置となるだけという段階になって、ようやく本懐を果たせるというのに、私の中には少し不安が生まれつつあった。

 

果たしてこれで、本当に彼は喜んでくれるのだろうか。誰かの犠牲の果てに己が身の解放が行われるという行為を、彼は許容するのだろうか。己が身を呈してでも誰かに泣かないでほしいと願った彼は、果たしてこんな形での救済を、救いとして受け取ってくれるのだろうか。

 

それが己の罪悪感がもたらす杞憂に過ぎなかったのだということを思い知ったのは、己が過去の記憶を取り戻してからの期間、彼が私の前で幾度となく見せてくれた、屈託のないけれど困ったような笑顔見せてくれたからであり、そして今しがた、己の心象風景を一望して眺める彼の顔を見たからだ

 

―――ああ、自分のやったことは、決して無駄ではなかった

 

それはなんて素晴らしい奇跡なのだろう。私は自らの選択が間違っていなかったことを確信し、過去にその判断を下した私と、そんな私の選択を受け入れてくれた夫を思い、深く感謝の念を天に送った。

 

第十七話 積み上げてきた過去の結実 (A:fate root)

 

終了