うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 ~ 長い凪の終わりに ~ 幕間 4 力を得ようとも、望みは遠く

幕間 4 力を得ようとも、望みは遠く

 

 

―――道具屋店主、ヘイの迷走―――

 

朝、開店の表示に看板をひっくり返してから三時間になるが、未だに入り口の扉に取り付けた鈴の音は聞こえてこない。立地が悪い。「商人組合の中でも上位に数えられるほど儲けられる商才がありながら、なぜこんな場所に店を構えたのか」、とは最近散々言われてきた言葉だが、あいにく俺に商売の才能なんてものはかけらほどもない。そんなことは誰よりも俺自身がよく知っている。元々長年の間、俺の店は初心者の世話をするだけの零細だったんだから。

 

 

幼い頃から人の言うことをよく聞く子だと言われて育ってきた。小さな頃は楽だった。ウチは古くから牧羊が仕事で、俺の役目はただ柵の向こうに消えそうになる羊を追い回して、柵の内側に入れるだけの仕事だった。そのうち、油を羊の耳に塗る仕事が増えて、毛を刈る仕事が増えて、屠殺の仕事が増えて、いつしか家を継いで結婚までした。妻は従順な女で、子供たちは従順な子供で、周りから見れば順風満帆な家族そのものに見えていただろう。

 

気がついたのは、暦が数十度も同じ月の同じ日を示したあたりだったか。いつものように起きて、いつものように洗面場へと向かい、いつものように食事をして、いつものように仕事に出かけた俺は、いつも同じように働いている最中、いつもとは違う光景を見た。

 

季節は夏。強く照りつける陽光の熱に、負けるものかと風が広い草原の上を駆けて、荒地へと抜けてゆく。羊たちはメェメェと声をあげながら、我先にと豊かさの象徴が多く残る草原へと足を運んでは、まだ露の残る草を食み出していた。

 

宿舎の外へ出てゆく羊を数えていた俺は、一匹足りないことに気がついた。またか、と思いながら獣と糞尿と据えた匂いの混じる宿舎の中に足を踏み入れた俺は、そろそろ改築の必要があるかなと考えながら宿舎の奥へと進み―――、そこで外へ出ることを拒んだ一匹の羊の姿を見つけた。

 

そいつはデカイ体を持っているわりに、何もできない奴だった。俺が餌場まで連れて行って、俺が毛を刈って、俺がそいつの寝床を整えて、俺が見回りをした際に声をかけないと眠ろうともしない、そんな奴だった。

 

いつものように横に転がって眠っているそいつを起こそうとして近づくと、俺はそいつの寝息が聞こえなきことに気がついた。よく見ると腹も上下していない。

 

―――ああ、死んだのか

 

そう思った。そいつはデカイ体を晒して死んでいた。他の羊たちとは違って、締まりのない間抜けな顔をして、くたばっていた。別に感慨なんてものはなかった。命あるもの、いつか死ぬ。だから、いつものように、死体となったそいつの処理をしないといけないなと思って、裏口から運び出そうとした時、宿舎の端にあった鏡が目に入った。

 

そこにはデカイ体をした、デカイ面をたずさえた男が、なんとも締まりのない顔をして、間抜けに俺を見つめ返していた。汚れて曇ったガラスの向こうに映る俺の姿を見て、俺は

こう思った。

 

―――ああ、あの羊は俺だ

 

突然怖くなった。あの羊は生まれた時俺が取り上げて、俺が餌と世話をして、そして今、死んだ後まで、俺の手を煩わせる存在だった。俺は親から羊と家と土地を受け継いで何一つ不自由することなく、ただ循環する時の中を生きているだけだった。ぐるぐると繰り返される時の中、ただ漫然と生きて、目的もなく死んでゆく。ああ―――

 

―――俺はこの世にいてもいなくても変わらない

 

嬉しいような、悲しいような不思議な気分を抱いた。噴出した思いは次の日になっても変わることなく、翌日、俺は全ての仕事を息子たちに譲って旅に出ることにした。息子も妻も文句を言わなかった。それは当然だ。だってあいつらは俺の、俺の家族の、俺の先祖たちの分身なんだから。

 

 

あてがあるわけじゃなかったが、少し離れた場所にあるエトリアまでやってきた。冒険者と呼ばれる自由人たちが集う街にくれば何か変わるかもと思ったのだろう。俺はこの街にやってきた冒険者たちと同じように、ギルドと執政院で手続きを行い、周りと同じように幾人かのメンバーと臨時のパーティーを組んで、数度ほど世界樹の迷宮へと足を運んだ。

 

幸い、スキルは皆と同じように使えるし、どのようにスキルを取得すれば効率いいかはギルドマスターが助言をくれるので、割と苦労することなく迷宮の一層程度なら探索できるようになった。ただやはりこうも思った。

 

―――ああ、ここでも俺は、生きていない

 

今では旧迷宮と言われる場所は、すでに迷宮の地図が完成していて、俺たちは彼らの辿った道筋を後から追うだけで良かった。効率の良い方法はすでに完成していて、他人の作った地図の上を迷わないで歩くだけで良かった。

 

―――俺はここにいてもいなくても一緒だ

 

だから冒険者もやめた。きっと続けていれば深い層まで行けただろう。人のいうことを聞くのは得意なのだ。おそらく完成した地図と完成した手順の通りに行けるだろうけど、けれどそこまでなんだろうなとも思った。

 

冒険者をやめて何をしようかと迷っている時、俺は街の入り口でオドオドとしている奴を見つけた。俺の息子より小さなまだガキのそいつは、大した装備は持ってないし、荷物も最低限しか持っていない。おそらく、後先考えず見栄を張って飛び出して、大した手持ちもないのに装備を買い揃えたあたりで手持ちの金が尽きたんだろうな、と思った。

 

ぼーっとそいつのことを見ていると、空と地面の間で視線を彷徨わせながらをずっと途方にくれた様子だったので、気になって話しかけてみると、果たして俺の予想通りだった。どうやら一念発起して出てきて、商人の口車に乗せられて最低限の装備を整えたはいいものの、これからどうすればいいかわからない、という話だった。

 

街に入って登録済ませればいい、というと、その方法がわからないという。その辺のやつにればいいじゃねえかと聞くと、それは怖いという。よくもまぁ冒険者になろうと思ったもんだと呆れたが、見捨てるというのも夢見が悪い。

 

仕方がないので、執政院とギルドマスターの元へと連れて行って、登録所の一階部分で知り合いに頼んで面倒を見てもらうことにした。金だけは結構潤沢にあったから、ついでに道具屋で適当にそいつの装備を見繕って奢ってやると、そいつにひどく感謝された。

 

「絶対にこの恩は忘れません」

 

その時は適当に聞き流して別れたが、宿に帰ってぼーっと横になっていると、その言葉が頭から離れないことに気がついた。もしかすると、自分は彼にとっての唯一になれたのだろうかと思うと、胸が踊った。

 

次の日、いつものように起きた俺は、いつものようにベッドから起き出して、いつものように身だしなみを整えようとして洗面台に近づいて、気がつく。鏡の向こう側、映るでかい顔した自分は、とても清々とした顔つきをしていた。そして俺は、その日のうちに俺は近くの安い家を買い取って、道具屋に改築する許可をもらっていた。

 

 

店舗の方は、あまり繁盛しなかった。当然だ。格差こそが商売の種、とはよくいったもので、俺の店で扱う品はどこでも売っているような迷宮初心者用の、単価が安く、多く売らないと儲けが出ないモノばかりを多く取り揃えていたからだ。その上、店をちょくちょく開けるものだから、客は別の店へと移動してしまうし、取引の機会は少ないしで、俺の店はいつだって低空飛行で、赤字線の上下を行き来していた。

 

けどそんなことはどうでも良かった。儲けが欲しくて始めたわけじゃない。俺は門の入り口に陣取って、出店で食べ物を売りさばくことを商売の主軸にしていた。そうして入り口付近で食べ物を売りさばいては、入り口で途方にくれているやつに声をかけて、おんなじように導いて、適当に道具を取り揃えてやって、感謝されて、満足していた。

 

そんな風に儲けを度外視してそんなことばかりするものだから、あの頃の俺は、面倒見のいいが商売下手な道具屋、などというあだ名が結構広く定着していた。今となってはあの行為は信用を稼ぐ行為だったんだろうと揶揄する奴もいたが、奴らは何にもわかっちゃいない。

 

俺は唯一の存在になりたかったんだ。その辺普通に存在するお金様にご執心のお前達と一緒にしないでくれ。

 

 

そんな日々を過ごしながら少し時間が経った頃の事だ。代替わりしたギルドマスターからある奴らを紹介された。

 

「シンだ」

「サガ」

「ピエールです。よろしくお願いします」

 

そいつらは今までの奴らと違って、見たこともない大馬鹿だった。シンという男は平気でこちらに無茶を請求する男で、サガは女なのに男として扱えと無茶を言うやつで、ピエールはこっちの痛いところをついては喜ぶ無茶苦茶なやつだった。

 

まあ多分、こいつらもそのうち俺の店から離れていくんだろうなと思っていたが、不思議とあいつらは俺から離れなかった。特にシンは俺の店の何を気に入ったのか、店を離れて出店をしている時はわざわざそちらまでやってきては、自分たちのフルオーダーメイドを明日までに制作しろとか無茶を要求してくる奴だった。

 

一度、あまりにも酷い請求が続くものだから、代価として当時の奴らにしては高い要求を突きつけた時も、あいつは「よし、わかった」と二つ返事で俺の要求を飲み込んで、平然とこなす奴だった。ひどく我儘で、身勝手で、でも、だからこそ、俺は必要されているのだと感じていた。

 

―――ああ、俺の居場所はここにある

 

心底そう思えたのはきっと、あいつらが他の店など目もくれず俺の店だけを利用してくれたからだろう。その理由は知らないが、あいつらは、シンは、俺にとって希望そのものだったんだ。

 

そしてあいつらは周りの団栗どもをあっという間に抜き去って、エトリア随一のギルドになった。奴らの無茶に引き摺られる形で、俺の店も有名になり、繁盛するようになっていった。俺の店にはあいつらが持ち込んで来る深層で取れる素材のものが溢れるようになり、宣伝など行わなくとも、道具を求めてやって来る奴らで溢れるようになっていた。あいつらと俺の飛躍は結びついていた。異体同心という奴だろう。一心同体じゃないのが少しだけ残念だった。

 

 

ただそんなあいつらでも、抗えないことがある。いや、運が悪かっただけなのだ。彼らは味方を病気で失ってしまった。病気の名前は赤死病。エトリアに広がりつつある死病で、罹患したら死亡率百パーセントの恐ろしい病気だ。

 

夢を叶えようと突き進んでいた彼らにとって、頼りになる味方を失ったことは相当な衝撃となったらしく、あいつらはふさぎ込んでいた。俺はそんなあいつらを見るのが辛くて、逃げるようにして入り口に出店を開き、いっときあいつらの事を忘れるため、食料品販売に勤しんでいた。

 

そんな時、エミヤという男が現れた。不思議な雰囲気の男だったが、入り口で例に漏れず目を瞑って途方にくれている様子だったので声をかけると、そいつは今までの奴らとは異なっていて、とても堂々とした、そして強い気配を体から発散する男だった。

 

あいつは―――、あいつは、なにもかも別格だった。飄々としていたくせに、赤死病の話題をふった途端、まるで自分ごとであるかのように怒り、冒険者になる宣言をした。

 

そしてたった数日で超高難易度と言われ、死傷者すらも出した新迷宮を単独攻略し、その存在感を露わにした。唯一という立場に憧れる俺は、たちまち虜になった。正直に、シン達よりも上だったかもしれない。だってエミヤは個人で完結しているのだ。

 

そのうえ、エミヤは俺の店にやってきて、見たこともない品を提供して俺の胸を高鳴らせ、俺を骨抜きにした。見た途端、心の全ての部分を侵食して満たす、美しい鱗と皮だった。そんなものを手に入れた俺は、まるで自分が世界で唯一の存在になったかのような感覚を味わった。俺はその時、絶頂だったのだ。

 

不安が心の中に芽生えたのはその直後だった。そんな時、シンらがやってきたので、俺は手に入れたばかりの鱗と皮を見せびらかした。あいつらの視線が鱗と皮に奪われるのを見て、俺はとても満足した。あいつらはどうやって手に入れたのかと聞いてきて、俺はエミヤから手に入れたのだと、あいつらに正直に話した。その頃からだろう。シンはエミヤのことばかりを口にするようになっていた。いや、シンのみならず、あいつらの話題はいつだってエミヤという男のことばかりになっていった。そしてあいつらは徐々に俺の店に寄らなくなっていった。

 

不安の正体が明らかになったのは、エミヤが新二層を攻略した後だった。シン達が俺の店に持ち込んだのは役にも立たないものばかりだったが、エミヤが持ち込んだものは、俺の店にとって、先日買い取った鱗と皮レベルの品だった。シン達の意識は、完全にエミヤの方へと向けられていた。ふと感じる疎外感。その場にいるのに一人だけ異なる存在であるかのような、その感覚には覚えがあった。当然だ。

 

―――だって、自分だって、エミヤという強い存在に心奪われ、彼らを軽んじたのだから

 

 

 

ああ、自分は家を出ると決意した頃からなにも変わっていない。この世で一番美しい鱗と皮を手に入れて唯一の存在になった気分でいたけれど、それを手に入れたのは自分の力ではない。エミヤが仕方なく譲ってくれたからなのだ。今回の羽だって、エミヤが持ち込んでくれたから、俺はそれに関わることが出来ただけなのだ。

 

思えばこの店が繁盛するようになったのだって、シン達が俺の店を訪ねるようになってからだ。別に彼らほどの実力なら、俺の店じゃなくたって、同じように無茶をやって、同じように成功していただろう。俺は結局、周りにいる優秀な奴らの尻尾にひっついて彼らの評価をかすめ取っているだけのやつだった。

 

自覚した時、胸に去来したのは、悲しいでも悔しいでもなく、納得だった。受け入れてしまった。俺はそんな自分をあっさりと受け入れられてしまった。それがなによりも悲しくて悔しかった。胸が痛い。もう還暦も近い男が抱える悩みでないことはわかっている。

 

けれど、俺は他でもない、代替物のない俺になりたかった。でも俺には、人に誇れるものはなにもなかった。だから初心者相手に他人の開拓した地図と知識を使って偉ぶって、いい品を手に入れて自分たちより実力のある前向きな奴らにいい気分になっていたんだ。

 

自分の醜さが嫌になる。辛い。死んでしまいたいとも思うけれど、そんな度胸もない。ああ、ならせめて、エミヤ唯一の存在になれなくても、シン達の為に注力すれば彼らという強者にとってもの特別にならなれるかもしれない。そんな邪な気持ちで奴らから託された虫の羽を加工して、今自分にもてる全ての技術を注ぎ込んで薄緑を作り、異邦人のメンツを待っている矢先―――

 

シンの訃報を聞いた。それから体が動いてくれない。彼が死んだというショックで動けなかったのではない。彼が死んだと聞いて、それを涙目で語るシンの仲間達の様子を見て、羨ましいと思ったからこそ、俺はそんな自分にショックを受けて動けなくなったのだ。

 

シンはエミヤと仲間達をかばって、新迷宮三層の番人と相討って、死んでいったのだ。その話を聞いた時、悲しい、と思うよりも先に、羨ましいと思った。シンはそして、永遠になったのだ。シンの経歴と死に様はとても常人に真似できるようなものではない。エトリアに長く語り継がれる伝承になるだろうし、少なくとも、エミヤや異邦人の連中の心にはいつまでも唯一の存在として残ることだろう。俺はそれを羨ましいと思ったのだ。

 

それが決定打だった。その時から、店の奥、椅子の上で俺は一歩も動けていない。ぼうっとしていると気が狂いそうになる。でも、一歩も動く気力がわかないんだ。ああ、俺は妬むばかりで、欲するばかりで、俺は自分からは人様に誇れるようなことをなにも成し遂げていない。いつだって与えられるものを与えるがまま貪るばかりで―――

 

『そんなことはない』

 

チリンチリンと、鈴がなり、扉が開く。そして現れたのは、死んだはずのシンだった。シンの体は少し土にまみれて汚れている。しかしそんな汚れが気にならないほど、シンの体からは光が溢れていた。

 

「シン? お前死んだんじゃ……」

『ああ。だが、生き返った。エミヤ達のおかげでな』

 

俺の意識を深淵より引き上げたシンは、店の中をまっすぐ進み俺の目の前までやってくると、手を差し伸べてこう言った。

 

『共に歩こう、ヘイ。私には君の力が必要だ』

「お、お前、どういう……、それに俺の力が必要ってどういう……」

『君だけなのだ、ヘイ。唯一、君でないとダメなのだ』

 

―――ああ

 

シン。お前はなんて甘い誘惑をするんだ。唯一だなんてそんな嬉しい言葉を聞いて、俺が断れるわけないだろう? 行くよ。俺はお前について行く。どうかお前と一緒に歩かせてくれ。

 

 

―――施薬院メディック、サコの秘匿―――

 

 

私には双子の兄がいました。兄はとても優秀で、勉強ができる上に、体力もあり、いろんなスキルの使い方に秀でており、人当たりもよい人でした。一方、同じ日の、数秒遅れた時間に生まれ落ちた私は、普通の人より頭が悪く、体力が足りず、スキルのうまく使えず、人と上手く付き合うことすら出来ない人間でした。

 

何をやっても上手くいかない私は、いつだって兄の後ろにひっついていました。同い年の兄は、普通の友達よりも鈍い私をいつだってかばってくれました。成長が遅く、運動音痴でもある私を庇って、兄は体に沢山の細かい傷を負っていました。兄がいたおかげで私は仲間外れにならず、兄がいたおかげで私は、兄がいたおかげで、私は“足りない子”だと気付かれずに済んだのです。兄はわたしにとって、光そのものでした。

 

 

そんなある日、兄は唐突にいなくなりました。忽然と、みんなの前から消えたのです。わたしは混乱しました。両親も友達も、みんな初めからそんな人間はいなかったといい、まるでわたしだけだったかのように振る舞うのです。誰に聞いても返ってくるのは、知らないという返事ばかり。兄が書いた勉強やスキルの使い方をまとめたノートを見せても、私のものとして扱われてしまいます。周りのみんながひどく困惑したのを覚えています。

 

私は変な目で見られるようになりました。兄が私のためにとやってくれたことは無駄になってしまいましたが、それでも私はめげずに聞き続けました。しかし、一年経っても、二年経っても、結局兄の手がかりを見つけることはできませんでした。

 

幼い頃はそれでもよかったのですが、一年二年も同じ質問を違った形で続けていると、私はすっかり厄介者のような扱いを受けるようになりました。しかし私はそんなことどうでもよかったのです。私にとって、私の評判なんかよりも、兄がどこに消えたのかということの方が重要でした。

 

とはいえ、その頃になって周りの人の感覚が理解できるようになってきて、変人相手にはまともな返事をもらえないのだと気づいた私は、次第に兄のことを質問する事をやめるようになりました。無駄だとようやく悟ったのです。

 

やがて私は勉強やスキルの使い方を積極的に学ぶようになりました。兄のことを諦めたわけではなく、無駄な質問をするくらいなら、人に頼らない別の手段を取ろうと思ったのです。

 

手段を探すうち、私は人の体や行動について特に学ぼうと考えました。きっかけはむかし兄と一緒に忍び込んだ村の書庫にありました。ミズガルズ図書館と近い場所にあったこの村には、古い時代の医学書の写本がたくさん書庫に置いてあったのです。

 

スキルというものがあれば大抵の病気や怪我は治せるので、昔の難しい本に興味を示す人は村にあまりいません。その割に書籍は本棚に収まりきらないほどの数の蔵書があったので、私は一人で勝手に入っては、兄の行方を追うために、書庫に置いてあった医学書に目を通しはじめました。人の行動や心理がわからないというなら、過去の知恵から学ぶのが兄への一番の近道だと考えたのです。

 

書庫通いをはじめた頃、周りの人はそんな私の様子を見て、ようやくこの子も落ち着いたのか、といってホッとしていたのを覚えています。やがて私のそれは、妖精でも見ていたのだろうということで落ち着きました。私はそれがとても不服でした。

 

私が人間について学んでいるのは兄の行方を追いたいからなのです。兄は確かにいました。それは空想上のお友達でも、解離性人格障害でもないことは、人の体や精神の仕組みについてまなんだ私が一番よく知っています。兄は確かにいたのです。しかし、なぜかそのことを皆は認めてくれないのです。

 

私は彼らのことがどうでもよくなりました。それ以来、私は、彼らと付き合うことなく、村での役割を終えた後は、一人で書庫にこもり、黙々と自己研鑽に励むようになりました。私は孤立したような状態でしたが、以前よりも良い雰囲気で村の中で過ごすことができるようになりました。

 

 

やがて成長した私は、エトリアという街にやってきました。兄がいなくなったのは私がまだ幼い頃で、また、兄はとても明るく人懐っこい人でしたから、もし仮にいなくなった兄がいるとしたら、村からの道が険しくない上、人の集まる、一番近くの街だと考えたのです。

 

残念ながらそこに兄はいませんでした。痕跡も残っていませんでした。しかし私はしばらくそこで兄の手がかりを探すことにしました。あちこち探し回ってすれ違いになるよりも、人ところで情報を収集した方が良いと考えたのです。

 

幸いにしてエトリアは、世界中から冒険者たちが集まってくる街で、施薬院はとても繁盛しています。だから私はこの街でメディックをする決意をしました。村で医学書を読み込んだお陰もあって、私は施薬院の中ですぐに頭角を表すことができました。

 

偉くなって裁量権が回ってくると、割と自由に動けるようになります。私は毎日やってくる傷ついた患者たちの手当てをしてはそれとなく話を聞くようになりました。ただ、また兄のことをしつこく聞き回って変人扱いされるのは、きっと兄を見つける遠回りになると思って、私はそれとなく聞くというだけに注力していました。

 

薬院で与えられた研究をしながら患者たちにそれとなく兄の事を尋ね、世界地図の地域に情報を書き込む日々は、村にいた頃よりずっと充実していました。研究は数値を追えば良いだけですし、大抵の患者はスキルで治せます。片手間で二つのことをこなして、残りの時間は患者より聞き出した兄がいないだろう地域の情報をまとめることができたからです。

 

私は幸せでした。兄が見つかってくれる日は着々と近づいていると思えましたから。

 

 

転機がやってきたのは新迷宮という存在が見つかって、エトリアの人死の数が増えてきた頃でした。ちょうどその頃より、赤死病という病気が流行りだしたのです。病気は罹患した際の死亡率が百パーセントという恐ろしい病でした。

 

興味を惹かれて研究を始めましたが、これまでのものと違ってまるでとっかかりが見つかりません。潜伏期間も出現場所もまちまちで、発生条件もよくわからなかったのです。唯一理解できたのは、冒険者に多い病であるという噂が真実だったことくらいです。

 

そんなおり、インという女性が施薬院へやってきました。ハイラガードよりやってきた彼女は、診察の結果、赤死病の兆候が出ていることが判明しました。しかし不自然なのです。話を聞くところ、今までの患者の症例から判断すると、彼女はとうに死んでいなければいけないのです。私は彼女に協力を求めました。彼女は二つ返事で了承してくれました。

 

私は百万の味方を得た気分でした。例外は手がかりになると確信していました。ましてやその手がかりは、死病であるはずの病気に負けず長生きしている患者なのです。私は彼女に情報の秘匿をお願いしつつ、研究を始めました。

 

治療や検査の最中、インは私の話をよく聞いてくれました。患者から話を聞くばかりで自分の事情を話さない私は、徐々に彼女といることが楽しくなってきました。やがて彼女の包容力にうっかりまけて兄を探していることについて口を滑らすと、彼女は真剣な表情で事情を聞き、参考になる意見をくれました。私は初めて協力者を得たのです。私はなんとしても彼女を助けたいと思いました。

 

私は兄の話の収集と並行して、病の治療法模索にも注力しました。しかし、どちらも手がかりはまるで一向に見つかりませんでした。病の情報は取れるのですが、インの体から取れる数値は異常値ばかりで、まるで参考になりません。

 

また、兄を探す作業の方も徐々に停滞して行きます。情報は多く集まるのですが、結局わかるのは人通りの多い場所に兄はいないだろうということばかりで、捜索の範囲円が狭まらないのです。

 

やがて問題解決の糸口が見えない迷路にはまり込んだ私は、胸に穴が空いたようでした。しかも空いた穴は、日に日に大きくなるのです。空いた穴が無力感で埋まってゆく中、相変わらず患者の数だけは相変わらずで、私はやがて、研究や兄探しよりもそちらの方が落ち着くという本末転倒な状態にまで陥っていました。

 

ある日、私が徹夜の研究から逃げるようにして施薬院内をさまよっていると、エミヤという男が話しかけてきました。彼は一日経って酷くなった火傷をしているにも関わらず、平然とした態度でした。異常値を放っていながら平然とする彼の態度は、行き詰まった私の気分を刺激し、寝てないがために高揚した気分も相まってでしょう、気付けば私は、彼を院内の治療室へと引きずり込んでいました。

 

彼はメディカの仕組みも知らない人でした。多分、エトリアに来たばっかりの初心者なんだな、と思いました。その割に体はしっかりしていたので、おそらくどこかの警護でもやっていたんだろうなとも思いました。

 

何も知らない彼に薬の説明をしてやると、彼は礼とともに治療費はいくらだ、などと尋ねてきました。本当に何も知らないまま迷宮に潜ったんだな、と気付くと、なんだか不思議と気分が軽くなりました。彼は私に初心を思い出させてくれたのです。

 

彼と別れた後、私は気分を改めて謎に挑むことができました。エミヤという別の土地からの来訪者は、私の悩みを解決してくれたのです。

 

 

やがて数日がたちました。研究は相変わらず捗りませんでしたが、私は以前より明るい気分で過ごせていました。そうして意識が上向きになったからでしょう、治療をする最中、患者同士の会話の中から兄の手がかりが飛び込んできました。なんと、兄の特徴に合致した人物がこのエトリアにいるというではありませんか。

 

「エミヤという男がギルド『異邦人』よりも先に新迷宮を攻略したらしい」「はぁー、意外だねぇ。俺はてっきり、シンとかいう男が率いるギルド『異邦人』の連中が攻略するものだとばかり……」「俺もだよ。あいつ、不愛想のようでいて素直だし、戦闘の時はいつもの不器用ぶりが嘘みたいに優しいし、戦闘以外興味なさそうな感じなのにどんなことでも人より器用にこなすから、おらぁてっきり、シン率いるあいつらがまっさきに攻略するとおもっていたんだけどなぁ」「エミヤもシンと同じく外からやってきた冒険者らしいが、やっぱりわざわざエトリアの外からやってくるやつは、根性決まってんなぁ」

 

人当たりが良くて、全ての面に優れる、外部からの来訪者。それは私の求める情報に全て合致していました。名前は記憶のものと多少異なる気がしますが、私の古い記憶が村の連中の心無い行いによって劣化したのかもしれませんし、あるいは、エトリアに来る際に捨てて別の名を名乗ったのかもしれません。

 

ああ、なんということでしょう。エトリアは私が最初に調査を行い、まっさきに捜査と聞き込みの範囲から外した場所でした。周りの事を気にしない私は、すでに調査範囲外として認識した場所で冒険者の誰が活躍しようと知ったことではなかったので、意識から外していたのです。

 

私は早速彼に会いに行きました。しかし、彼はいつも不在でした。当然です。迷宮に潜る冒険者は、いつ帰ってくるのかわからないのです。加えて、「異邦人」というギルドの彼らがほとんど怪我を負わずに帰ってくることも拍車をかけていました。さらに面会の約束を申し込もうと執政院に申し込むも、今彼らは依頼を受け付けてないと言われてしまうし、声をかけることタイミングがなかったのです。

 

―――いえ、嘘です。私は恐れていました。

 

数年かけてやっと手に入れた兄の手がかりです。それは真実であってほしい。きっと真実に違いない。特徴は間違いなく兄のもので、人物相も兄が持つものと同じなのだから、きっと間違いがないはずだ。

 

―――ああ、でも、もし違ったのならどうしよう

 

そう考えると、業務をほっぽり出してギルドハウスに張り込んだり、施薬院職員として強権振り回してまで、兄に似ているという人物の元へ押しかけるだけの勇気は私にはありませんでした。いえ、それどころか、満足すらしていたのです。

 

兄の噂を探せども、出てこない。そんな遠いようで近い距離感に慣れきってしまっていた私は、躊躇して一歩踏み出す事を恐れていたのです。もし、シンが兄でなかったのならば、それはおそらく、私から、再び同じ事を繰り返すだけの気力を奪い、二度と立ち上がれなくなるほどのダメージを負うだろうから―――

 

だから、私は積極的にシンという男性との接触を求めはしませんでした。長い間探していた兄がすぐ近くで活動していて、その噂が聞こえてくる。ならいずれ会える。その宙ぶらりんの状態でいい。そう。私は、現状維持バイアスに負けてしまって、ぬるま湯に浸かる事を選択してしまったのです。

 

 

「―――嘘」

 

そして湯から出て寒いかもしれない空気に身を晒す事を恐れていた罰は、すぐにやってきました。私は望み通り、シンと面会することができました。

 

―――解剖室の、冷たい台の上で

 

シンは―――、たしかに兄の面影がありました。血の気の失せた白い顔は穏やかで、兄が健やかに成長したならば、このような顔に成長するだろうな、というイメージの通りでした。死斑のあるちぎれた体は繋げて傷口を整えてやれば均整がとれています。全身にはスキルによる治療ではなく、自然治癒に頼ったのでしょう、細かい傷がたくさんありました。

 

それだけなら、別人と断定することもできたかもしれません。ですが―――

 

「あぁ……―――」

 

彼の体から出てきた不思議な結晶体。光を浴びて柔らかい青色を放つそれを見た瞬間、私の体から力が抜けてしまいました。感染症のことなど気にすることもできずに、シンの体に抱きつきました。

 

石が放つ清廉な光の前に、自己満足という名の逃避で必死に埋めようとしていた胸の空洞から、その全てが抜け落ちて行きます。堪えていたものが一つ二つと落ちると、もうあとは惰性です。

 

「ああ……、あぁ……」

 

水滴はシンの遺骸を叩くと、幾分か乾いた肌が潤いました。その当然の物理現象が、何より辛い。目の前にあるのはもはやただの変質したタンパク質の塊で、魂のこもっていない、死体に過ぎないのです。抱きついたところで昔のように反応は帰ってこない。それが悲しくて、私はシンの死体の胸の中、ただただ脱力して、目の前にある死人の裸体に張り付いたまま、涙流すことしかできませんでした。

 

―――せめてあの時、もっと必死になっていたら

 

水分がこれまで兄を探すため積み重ねてきた年月の間に巨大化した空洞は、後悔と未練と自己嫌悪で埋まって行きます。やがてそれらの負の感情は、溜め込んできた欺瞞を吐き出してすっかり空っぽになった空洞を満たして、灼熱で身体中に広がりました。

 

―――後のことはよく覚えていません。ただ、もう二度と願いが叶うことはないのだと絶望した事だけは、痛いくらいによく覚えています

 

 

剖検にて摘出した石を提出した後、私は部屋に閉じこもっていました。

 

―――もう前に進めない。

 

いや、進みたくない。進みたいと思えない。だって自分の人生はもう終わってしまった。最大の目標はもう、最悪の形で達成してしまったのだ。ならばあとはただただ惰性で過ごすだけの日々。身を焦がす後悔と罪悪感だけが私の隣に立つ永遠の伴侶となったのです。

 

胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。胸が痛い。ああ、痛い。痛い。痛い。こんなに痛いなら。

 

―――ああ、なら、いっそ

 

『やぁ、サコ』

「―――お兄ちゃん?」

 

短くも鋭い解剖用の刃物を手にしたその時、聞こえてきた声は私の脳裏を蕩かす甘さを持っていました。声の主人の姿が見えることはありませんでしたが、それはたしかに、はるか過去私の目の前から去ってしまった兄の声でした。

 

『さぁ、おいで』

「―――お兄ちゃんなの?」

『こっちだ』

「まって! 」

 

声に誘われるがまま、私は部屋の扉を開けて、声の後を追いかけます。追いかけても、追いかけても、声の主人はわたしから一定の距離を保って消えていってしまうのです。

 

「お兄ちゃん! お兄ちゃん! ねぇ、なんで答えてくれないの? お兄ちゃんなんでしょ!」

『サコ……おいで』

 

導かれるがまま、光の後を追いました。そうしてどのくらいの時間が経ったのでしょう、気がつけば私は、不思議な場所へと辿り着いていました。

 

目の前には不思議な歪んだ空間が広がっています。世界から隠されるようにこっそりと息づいている空中に渦巻くそれは、どう見てもまともな代物でないことが、一目でわかります。

 

『サコ……』

「―――」

 

兄の声はやがてシンのそれと重なりました。その事実は私から迷いを消し去りました。もう迷いません。私は、何があろうと、シンを追って、彼にこう尋ねるのです。

 

―――シン。貴方は私の兄でしょうか?

 

帰ってくる答えが肯定であろうと、否定であろうと―――、私は彼の口から答えを聞かないかぎり、もう今の状態から抜け出すことはできない、呪いを負ってしまったのです。それは他でもない私自身に対する怒りの感情によって―――

 

 

エトリアの街は静まり返っている。真っ昼間であるというのに、美しい翡翠緑の屋根と白い漆喰の建物が連綿と続く中、気配だけがない状態というのはあまりにも異常で、まるで広い霊園の中に放り出されたような不愉快な解放感だけが空気から伝わってくる。

 

「―――待て」

「どうしたエミヤ」

 

執政院に進もうとするシンを引き止めると疑問の声が返ってくる。

 

「―――どうやらこの街は、―――いや、もはやエトリアという場所は君たちのしるエトリアの大地ではないらしい」

「……はぁ? それはどういう―――」

「サガ。エミヤの言葉を遮るな。……、すまない、続けてくれ」

 

ダリはいつもより優しくサガに言い含めると、サガはそのダリの豹変した態度がひどくお気に召さないようで、むくれっ面をすると、ダリの脛当てを蹴りとばす。ダリはそれを困った顔で受け止めると、首を左右に数回ふって、私の方を向き直った。

 

「ああ―――、執政院から魔力を感じる」

「魔力?」

「君たちが使う、スキルの力に似たような力だ。要はアレとは別種の、スキルの力と思えばいい」

「……、なるほど。そしてそんなものが執政院から感じるということは……」

「ああ、クーマやシララが危ない可能性が高い 」

 

シンの目が鋭く光る。彼は即座に刀を手にしようとして、しかしその手が虚空を切り、首を傾げた。そして自らの機械化した手を見ると、納得した表情で頷き、響の方を向いて、照れた様子で、しかし平坦な声色で告げた。

 

「すまないが、剣を返却してもらっても構わないだろうか? 」

「あ、はい、もちろんです! 」

 

そうして響腰布から分厚い刀身が収まった大きな鞘袋を取り出すと、シンへと投げてよこす。シンは器用にカチンとそれを受け取ると、引き抜こうとして、少し戸惑った。

 

「―――オランピア

「なんだ」

「剣を抜こうとした途端、脳裏の目の前に高周波ブレードとやらの名前が飛び出したんだが。フォルディングアームとやらの解放を尋ねる文章も浮かんでいる」

「アンドロの―――というより、左腕に私の戦闘ボディを参考に作り上げたからな。後、武装は右腕にコンダクター、リフレクターとクラッシャーアームが付いていて、いざとなれば大ばさみとしても大型ペンチとしても機能する―――」

「いや、すまないが、しばらくその機能を封印する方法を教えてもらいたい」

「―――なぜ?」

「邪魔だ。剣がまともに振れん」

 

言い切ったシンの返答に、オランピアは少しの間を置いたのちに、いかにも不承不承といった体裁で首を横に振って否定の意を示した。

 

「なぜ」

「調整は機械のある場所でないとできん。すなわち、グラズヘイムや、アーモロードの深都などといった―――」

「―――そうか。ならばしかたない。ありがとう」

 

いうとシンは剣を引き抜いて構えると、不思議な軌跡で剣を振り下ろす。

 

「シン? 」

「どうやら可動域が違うようだな。少し慣れるまでに時間がかかりそうだ」

 

そう言いながらも、もう彼は現在の自分の体の動きを把握して、一振りごとにその剣筋を鋭くしていく。なるほど、戦さの神の名は伊達ではないのだな、と今更ながらに納得する。そうしてさらに数度剣を振るったシンはようやく満足いく剣の振り方を見つけたのか、鞘に収めて、宣言する。

 

「さて、では行くか。エミヤ。索敵は―――」

「魔力なら任せろ。暗闇や通常視界である場合は―――」

「サーモと赤外線、その他複数種類のセンサを備えた我らがいる。いざとなった、相互間で通信も行える。―――そうだ、お前らに通信機を……」

 

オランピアは背負っている袋に手を突っ込もうとすると、手が袋へと吸い込まれる直前でその動きを止めた。一瞬の間を置いて、彼女は再起動を果たすと、真剣な表情をして自らの頭を叩いた。

 

「そういえば、シララやクーマに連絡子機を持たせたことを忘れていた」

 

―――どうやらアンドロという存在も、なかなかお茶目な面があるらしい

 

 

執政院に入ると、魔力によって敷かれていた結界は私たちを拒絶することなく足を踏み入れることを許容した。どうやら我々を拒むものでないらしいと気付くと、一旦完全な戦闘態勢を解除する。

 

執政院の中は、執務を行う場所というものはかくあるべきとでもいうかのように、相変わらず静かだった。ただしその静寂は、人が努めて行なっているが故の静音が齎すものではなく、人がまるで存在しないが故の無音が故のものでもある。それは昼間のこのような時間帯、受付や施設内に人がいないという異常を雄弁に示していた。

 

警戒しながら、一部屋ごとを解放して進む。廊下に響くのは、我々の足音と、オランピアとシンの体から聞こえる電気機械の稼働音くらいだった。やがて目的の場所、魔力の最も濃密な場所である結界の中心地までたどり着いた私たちは、武器を構えたまま、目の前の扉を軽く叩いた。返事は聞こえない。

 

「―――オランピアだ。指定の場所に着いた。シララ。クーマ。どちらでもいい。応答しろ」

「―――了解だ」

 

オランピアの頭部と、扉の向こう側からシララの声が聞こえてくる。多少共鳴が起こったのち、扉からは外部のものを強烈に拒む気配が解除され、その扉はゆっくりと開かれてゆく。

 

「―――どうやら無事だったようだな」

「やぁ、これはみなさん、お揃いで」

 

クーマは両手を大きく広げて私たちを出迎えてくれた。完全に開かれた扉の向こう、衛兵とシララが構える向こう側では、彼らに守られる形でクーマと百人程度の人間が集団となっている。集団は冒険者、研究者のような特殊な服装をしたものから、商人、一般の人のように普通の服装をしたものまで、雑多な人数が揃っていた。

 

「おい、さっさと入って扉を閉めろ」

 

衛兵たちを束ねるシララは警戒の意思を解かないままそう告げた。最もだと思った私たちは、彼女の言う通り部屋の中へと足を踏み入れると、最後にしんがりを務めていたシンが後ろ手に扉を閉める。クーマが何やら呟くと、扉の部屋の内側面には何やら密教系の印が生じて、再び人の出入りを固く禁じる結界が部屋全体を包み込む。

 

「―――どうやら、色々と話を聞かせてもらう必要があるようだな」

「ええ。お互い、話さなければならない議題には尽きないようですね」

 

 

執政院の中にあるその部屋は、どうやら緊急の避難場所であるようだった。部屋の中は電燈があちこちに灯されていて、常の一定の明るさをたもっている。また、そんな平均的な明るさを保つ部屋の隅の方では数人が交代しながら発電機だか蓄電器らしきものに向かって雷のスキルを放っている。どうやら彼らの涙ぐましい努力によってこの部屋の明度は保たれているようだった。

 

彼らによって一定の明るさが保たれている部屋は、周囲を総勢数百人程度は収まりそうだった。しかし大人数を収容することができる割に、施設の入り口は、正面と奥に頑丈な扉が一つずつだけという少なさだ。おそらく極限まで堅牢性を高める為なのだろう。加えて、窓は一つも存在しておらず、空気換気のための簡素な穴がいくつか空いているばかりだった。

 

「お荷物をお預かりします」

「―――ああ、そうだな」

 

話し合いの前、一旦武装を解除すると、手持ちの武装や道具を一旦衛兵たちにあずける。差し出した荷物を恭しく受け取った彼らは、全てして荷物を全て衛兵たちに預けると、彼らはそれらを受け取ると、クーマの背後の集団の元へと駆け寄った。

 

集団の中からは数人の人間が歩み出て、道具らの鑑定を始める。おそらく外部からやってきた我々の道具に異常がないのか確認する為なのだろう。ご苦労なことだ。

 

「なるほど。グラズヘイムではそんなことが……」

 

衛兵たちより少し離れた場所でクーマやシララにグラズヘイムで起こった出来事を話すと、クーマはまるで疑うこともなく、私たちの経験を事実として受け入れた。シララは信じられないという顔で目をパチクリさせている。それも仕方ない。いや、むしろ彼女の方がまともな反応だと思う。突拍子も無い話であると言うのに、あっさり受け入れられるクーマの方がおかしいのだ。

 

「クーマ。こちらの事情は話したぞ。―――今度はそちらの番だ。聞かせてくれ。君は何者なんだ? どうして魔力を用いたこのような結界を張ることができる?」

「うーん、さて、なにから説明したものか……」

 

クーマは腕を組むと片方の腕で口元を抑え、眉をひそめた。一体何を悩んでいると言うのだろうか。

 

「そうですね……、とりあえず私の事情から説明するとしましょうか。私は―――」

「クーマ。アクーパーラとも呼ばれる亀王で、神々にアムリタを与えるのが役目の亀王。すなわちこのバブ・イルの土地においてその名を持つものは、人間どもの手助けを行うが役目を負う職につく場合が多い、維持の神、ヴィシュヌの化身よ」

 

クーマが口を開ききる前に、横から聞こえてきた声に驚く。静かな空間の中でも過剰なまでに主張をするかのような尊大な口調が誰のものであるか、間違えようはずもない。なにせそれは、つい先程まで激しく一方的にまくしたてられ、罵ってきた相手なのだ。

 

ギルガメッシュ!? なぜここに!?」

 

視線を横に送ると、黒のジャケットを着込んだ半透明な状態のギルガメッシュがそこにいた。どうやら意識体というか、霊体のようなものだけをこの場に送り込んできたのだろう。

 

「なに、貴様らが我が名を呼ぶまで待機する腹づもりであったが、違和感があったので観察をしてみれば、なにやら懐かしい気配がしたのでな。どうやら縛りも緩んだようであるし、我が幻覚を送り込むことにしたのよ」

「やぁ、これはギルガメッシュじゃないですか」

 

宙に浮いているギルガメッシュは、相変わらず睥睨する視線で私たちを見下している。そして驚く私とは裏腹に、クーマは冷静の姿勢を崩さないまま、奴の名を呼んだ。

 

「ヴィシュヌ―――!? どういうことだ、クーマ! 君はやつと知り合いなのか!? 」

「ええと、今までは知り合いでなかったけれど、昔は知り合いだったというか、ああ、うーん、そのですねぇ」

「ヴィシュヌは唯一絶対の存在である我とは異なり、その名が示す通り、『どこにでもいるがどこにもいない』もの。他者を助ける為ならば、人間や畜生に身をやつす事も躊躇わぬ酔狂な神よ。大方先ほど、『神はどこにでもある普遍的存在である』という概念が広がった瞬間、それ自体が其奴の名の中に眠っておったヴィシュヌの概念と結びつき、奴の知識と記憶の一部が目覚めたのであろう。―――だがこの世界に顕現する為、相当に神格を切り捨てたようだな」

「まぁ、私/ヴィシュヌが顕現するとなると、それこそ世界が破滅しますからねぇ」

 

ギルガメッシュはなんでもないよう事であるかのように、クーマがヴィシュヌである事を明かすと、クーマはさらりと物騒な返事とともに奴の言葉を肯定した。

 

「―――まぁ、そういうわけです。とはいえ、私は本人ではありません。先程、あなた方の行為によって目覚めた私は、ヴィシュヌの力と記憶を少しばかり継承したのです」

「それで結界を使えるようになり、ギルガメッシュのことを知ったと」

 

頷くクーマに、私は額を片手で抱えこんだ。この調子だと、他にも力や記憶に目覚めた人間がいるだろう。頭の痛い話であるが、どうやら先程私たちがやってしまった出来事は、世界に様々な火種を撒き散らしてしまったらしい。

 

「はい。そして今しがたあなたがお話を聞かせてくれたお陰で、エトリアに何が起こったのかも理解することができました」

 

クーマは深く長いため息をつく。渋面から吐息の成分を分析するに、不思議が解決したことに対する明朗を喜ぶ思いが二割と、億劫な事態が起こったことに対する鬱屈が八割といったところだろう。

 

「クーマ。聞かせてくれ。エトリアで何が起こったんだ? 」

「はい。そう、事の起こりは、つい一時間ほど前のことです。部屋で執務を行なっていた私の脳裏に、突如として不可解な頭痛が走りました。頭痛は一瞬で、多少めまいを感じる程度でしたが、思い出せばあれが全ての始まりだったのでしょう」

 

クーマは言って視線をいつの間にやら近くにまでやってきていたゴリンへと移す。すると彼は、いつもの不誠実な態度はどこへ言ったのやら、至極真面目な表情で口を開いた。

 

「俺ぁ、いつも通り口うるさい奴らから逃げて街中をぶらぶらとしてた時、突然頭痛がしてな。まぁ、クーマの言う通り一瞬だったんだが、その後、すぐさま街の様子がおかしくなっちまったんだ―――、街をいく奴らの目から生気が消えたのさ」

「生気が消える?」

「そう。辺りを見渡すと、ぼけーっと、空を見上げたり、地面を見つめる奴らばっかりでよ。声をかけても体を揺さぶってもまるで反応しないわけよ。そこいらの一般人どころか、手練れの冒険者みたいな奴らまで、こう、よだれを垂らした猫背みたいな格好でダランとしちまった」

 

ゴリンは少し大業に背中を曲げると、顎を前に突き出して、目線を上下に交互させた。多少誇張も入っているのだろうが、ゴリンの演技は、当時のあった出来事の異常さを知らしめるには丁度良いくらいの按配に仕上がっている。

 

「で、どうしたんだこりゃと思ってると、遅れて、今度はいきなり雷スキルでもくらったかのように一瞬背筋をピンとおったてた。直後、奴らはボケーっとしたまま、エトリアの街の外に向かって出て行ったんだよ」

 

エトリアから出て行ったという彼らの真似なのだろう、ゴリンはその場で姿勢を正すと、再び猫背に戻して、足踏みをする。彼はひどく真剣なのだろう事はその表情から分かるのだが、彼がそうして背を曲げてひょこひょこと歩く様子は少しばかり間抜けに見えて、笑いを誘う。―――というより、ギルガメッシュは隠そうともせず、指をさして失笑を漏らしている。奴らしいが、本当に遠慮というものがない男だ。

 

「追っかけようとも思ったんだが、まぁ、急にクーマの元へと行った方がいいってな天啓が降りてきてな。慌てて執政院にやってきたら―――」

「ちょうど結界を敷く作業中の私たちと出会ったというわけです。その後、ゴリンには衛兵たちと一緒に、街に残った人たちを連れてきてもらって―――、こうして、緊急施設に移動した後、湧き出た知識を用いて結界を発動させて、残った住人と一緒に避難していたわけです」

 

クーマとゴリンは、顔を見合わせると、互いに苦笑いを浮かべた。

 

「よくわからないが、どうして君たちは街の外に出て行ったという彼らのようにならなかったんだ? 」

「それは……」

「……、わからねぇな。こっちでも状況を把握しようと、それぞれに事情を聞いては見たんだが、どうもさっぱり共通点が見当たらねぇ。どっちかってぇと一般の奴らのが多く消えたから、肉体的に弱い奴から消えたのかとも思ったが、ラグみたいな優秀な衛兵も、ザークみたいな指折りの冒険者までいなくなってたからなぁ……。他にも、ラミ、ソル、ヘイに、トバルにサコといった、優秀な商人だの、料理人だの、道具屋だの、鍛治職人だの、医者だの……、数えてりゃきりがねぇ。さて、どんな共通点で俺らだけ無事だったのか……」

 

どうやらヴィシュヌの自覚といっても、本人の申告した通り、神としての権能や全能性に目覚めた訳でないらしく彼らは事態を把握できていないようだった。

 

「それはこやつらが、YHVHとは異なる古き神話軸であるからよ」

 

そこへギルガメッシュが割り込んでくる。不機嫌な態度から察するに、自分という高貴な存在がこの場にありながら、自らに注目が集まっていないという状況に耐えかねたのだろう、と推測できた。

 

「神話軸? 」

「大雑把に、奴とは異なる系統であるという事よ」

「神話が旧約聖書と関連しているか否かということか? 」

「そのような認識で良い。―――、一度目の頭痛とやらはそこなフェイカーどもが起こした事象によるもので間違いない。そして二度目の異変とやらは、おそらくYHVHの甘言だったのだ。―――奴は、手っ取り早く自らの力となる信仰、すなわち、自らを信ずる人間を獲得するため、微かな神力を使って周囲―――すなわちエトリアという街に住む人間へと呼びかけた」

「二度目の異変の際、クーマやゴリンは何も感じなかったようだが―――」

「ほとんどの人間は弱く、醜い生き物だ。新人類になってもそれの性質は対して変わっておらん。他人が自らより優れていれば嫉妬し、劣っていれば見下す。先も述べたようにこのバブ・イルの土地において、名というものは本人の資質に関連したものが自然と付けられる。すなわち、弱い人間であるほど、あるいは、強くとも嫉妬などが強さの原点であるものには、嫉妬の神であるYHVHと関連した名前が付けられやすい。弱体化した奴にとって、自らと相性の良い、自らの神話と関連する名の輩どもに語りかけるのが精一杯だったであり―――、そしてそれでも十分と言える数が、このエトリアという街には蔓延っていた」

「―――棘のある言い方だが、なるほど、だから、クーマのようにインド神話を基にする名前の人間にはその異変は起こらなかった、というわけか」

 

ギルガメッシュが鷹揚に頷く。相変わらずほとんど情報ない状態から物事の真実を見抜く奴である。破滅的に独尊的な性格さえなければ、さぞ王として讃えられただろうと思うと、少しばかり勿体無い気もした。

 

「はぁ、それで私やゴリンは無事だったのですね? 」

「まぁ、俺もヴィシュヌ系列の名前だからなぁ」

 

クーマは、数度首を縦に振り納得に仕草を見せ、ゴリンは呟いた。インド神話の場合、活躍すれば自動的にヴィシュヌ扱いされる側面もあったし、スキルを収める、武術に関係したゴリンとくれば、五輪書か、五輪塔あたりで、仏舎利仏陀となって、ヴィシュヌ……、といったところだろうか。

 

ということは、ここに残っているメンツは、中国やインド、エジプトにバビロニアといった、古く歴史のある名前のものしか―――、……ん?

 

「―――ふむ、ギルガメッシュ旧約聖書と関連するというのであれば、あれのオリジンである貴様の神話の名前も多分に影響していると思うのだが、その名を持った人間も連れ去られたのだろうかということか? 」

「は、なんともフェイカーらしい、間抜けな意見だな、この戯けが! フェイクとオリジナルには隔絶して超えられぬ差がある! そして我が属する神話こそ全ての神話の頂点! たとえ世界を席巻しかけた宗教とはいえ、原点たる我が属する神話の名を超えられるわけあるまい! そも―――」

「なるほど。それでこの世界で付けられた名前が影響して、私はアンタの顔のことを、昔以上に思い出したってわけね」

「―――」

 

ギルガメッシュが罵倒の言葉をさらに紡ぎだそうとした途端、それから私を守るかのように奴の言葉を遮ったのは、鈴の音のような高く涼やかな声だった。側面より飛んできた声を聞いた途端、衝撃が背筋を貫いた。体が震えた。瞬間的に脳裏へと聖杯戦争の記憶が蘇る。

 

冬木という因縁深い場所において、赤の外套よく似合う彼女と共に駆け抜けた夜の日々。それはたった二週間に満たない期間であり、自ら望んで正義の味方になろうと駆け抜けた生前や、望む、望まないと関係なく世界の走狗としてこき使われた死後の期間と比べれば、あまりにも短い期間だ。

 

しかし、そのたった二週間に満たない期間において起こった出来事は、全てにおいて、私、英霊エミヤ、すなわち、衛宮士郎という存在と深く結びつきあう運命へと導いたのだ。やがて過去の私は彼女と十本結切を贈られる仲となり、未来の私は彼と彼女の手によって救われた。

 

「あら、アーチャー。あなた、この声を忘れちゃったの? まったく薄情なんだから」

 

―――いやそんなことはない。ああ、覚えているとも。忘れられるはずがない。忘れられるはずがないだろう? だって君は―――

 

「―――自らの失態により屋根の上へと叩きつけるという斬新な召喚方法によって呼び出した英霊という最高位に位置する存在を、所詮は使い魔と言い切り、小間使いや茶坊主代わりにするその厚かましく図太い根性と神経を持っていなければ、とても出来ない言い草、忘れるはずもなかろう、凛」

「―――なんだかすごく含んだ紹介されたようだけど、まぁいいわ……、久しぶりね、アーチャー。相変わらずの仏頂面で残念だけど、ある意味安心したわ」

 

―――君は私を救った、私にとってかけがえのない恩人なのだから