うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第1話 現れた男

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第1話 現れた男

 

無くしたものを探しに行こう。

腐っているよりかはマシな結果が出るはずだ。

 

 

 

青臭い草木の香りが脳内を強く刺激した。太陽と土と風の匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。瞼が開くと同時に雲の切れ間から差し込んだ太陽の光が瞳孔に飛び込んだ。眩しさに思わず腕を差し出す。何度か瞬かせたのち、ようやく血が脳内を巡ったのか頭が冴えてきた。首を動かしてぼんやりと辺りを確認するも、ここが何処かを知ることはできなかった。

 

「……寒いな」

 

露わになっている顔面と掌の表面から冷たい風が温度を攫ってゆく。このままこうしていては体温低下で動けなくなる予感がした。まずは上半身を起こそうと手を地面につくと、雑草の湿り気ある冷たさや、砂土の乾いた暖かさが掌から伝わる。しっとりとした自然の刺激。

 

季節は春頃だろうか。周囲を眺めた。足元に広がる若葉色をした草は丘の向こうまで絨毯のように広がり、控えめに点在する花々が敷物の単調さを拒むかの如く色を添えている。方々自由に伸びた草花の絨毯に沿って、視線を地平の彼方まで送る。

 

やがて地平線に到達した視線は青空を通って、頭上へ戻ってくる。見上げると空は私を境目にして、半分蒼穹、半分曇天であった。私は、白で彩られた方へと視線を向ける。雲がいつもより近い。ならば私がいるのは平原ではなく高原か。しかしわからない。ここはどこだ。

 

考えを巡らせていると、天空を広々と覆う白い雲に切れ間が生まれ、隙間から覗いた太陽の光が地面を一部だけ照らした。陽光のスポットライトが当てられた部分に注目してやると視界の端に複雑な色合いをした複数の物体が動いたのが目に映る。それぞれ異なる色をしたそれらの動く先を見やると、森林の鮮緑に混じって、孔雀緑の切妻屋根をした石造りの家々が立ち並んでいた。あれは街だ。ならば、細々と動く点は、人か。

 

「……! 」

 

途端、飛び跳ねるように立ち上がった。意識の覚醒と重力の影響により脳内の酸素濃度が低下し立ち眩みが発生。平衡を失いそうになるが、意思の力でそれを抑え込み、背筋を伸ばして目を細めると、片手を額に添えて目に飛び込んでくる明光を遮り、遠く街の方を眺めた。

 

「――――――――――――なにも起きていない? 」

 

眉の片方をひそめた。視線を戻し、改めて周囲を見渡す。天高くには変わらぬ太陽。清澄な晴れた空には白い雲が稜線にまで伸びている。山の端から視線を手前に戻してぐるりと首を半周させ、続け様に全身を百八十度回転させて、同様に光景を眺めるも、広がっているのはどこまでも続くのどかな光景。疑問を表情に貼り付けて首をかしげる

 

―――なぜ何の争いが発生していないのか。

 

争いがない。それは私にとって「異常」な状態である。なぜならば、私は「抑止力の守護者」と呼ばれる存在であり、人類の存亡に関わる問題が起きた際、「霊長の抑止力」という存在によって破滅を招く原因がいる現場に派遣され、そこにある一切合切を排除することで世界の破滅を防ぐ正義の味方とも言える存在だからだ。

 

即ち、私が「霊長の抑止力」によって召喚されたその時、その場所は、弾丸が飛び交い、刃が交差し、硝煙と血が舞い、命が呆気なく散ってゆく、そんな阿鼻叫喚の地獄が広がっている光景こそ「正常」である。……はずなのだが。

 

「――――――」

 

しかし今、いくらあたりを見渡そうが、戦いなく、諍いなく、争いもない。言うなれば、「何の異常もない」という平穏を意味する状態だけが、そこにはあった。困惑した私は自らの周囲にまで引き戻した目線の先を両掌に移してじっくりと眺める。続けて前腕、上腕を経て胸部、腹部、大腿から下腿、足指へと移動させると、両足間に落ちている封筒に気がついた。

 

――――――正義の味方へ

 

宛名として刻まれた言葉は、脳内を暴れ馬のごとく駆けまわり、胸をひどく高鳴らせる。動悸は心に間断を生み、真っ白になった頭と震える手は躊躇しながらも、自然に封筒の端を摘んで拾い上げていた。指先で宛名をなぞり、息を呑む。使われているインキの感触には覚えがあった。ぞくりとしたものが背筋に走る。戸惑いながら、封筒をひっくり返す。

 

――――衛宮凛

 

二度目の衝撃は裏書に刻まれた差出人の名前によって引き起こされた。瞳より飛び込んだたった三文字の名前は後頭部より頭部中央、脊髄を通って全身を駆け巡り、体に瞬間の痙攣を引き起こす。呆然としたのはどれほどか。体の表皮を舐めるようにして吹き抜けてゆく風が意識の覚醒を促したのをきっかけに、思わず呟いた。

 

「凛……、君は――――」

 

衛宮凛。衛宮性の、遠坂凛。おそらく、いや、間違いなく、そういうことなのだろう。

 

彼女の名がトリガーとなり、奥底に収納されていた記憶が引きずり出される。セピアよりも更に朧となり色味を失っていた白黒の記憶は触媒を得て結集し、凛という優れた騎手を得た記憶は駄馬から駿馬へと生まれ変わり、荒涼とした脳内を颯爽と駆け巡る。

 

刺激は長い年月の果て錆びつき磨耗した記憶が復元され、当時の感傷まで引き出してゆく。首根っこを掴んで揺さぶって無理やり思い出させられた気分だ。だがその強引さはいかにも彼女のやり方らしく、変なところに共通点を見出した私は思わず気を緩めて、口元を緩めさせる。緊張感の抜けた瞬間、私は無防備にも過去の記憶の濁流に飲み込まれていた。

 

 

聖杯戦争。それはあらゆる願いを叶える願望機、「聖杯」を巡って行われる魔術儀式。魔術師と呼ばれる存在が己らの悲願を達成すべく人為的に作り上げられた願望器は、完成の代償に7人の英雄の魂を必要とした。

 

だが人の輪廻と常識より外れた偉業覇業を行いし英雄の魂は、通常の人よりも霊質が彼ら寄りな存在である魔術師にとっても桁外れの存在だ。どれほど優秀な魔術師であっても英霊の降臨は一人一体が限界。すなわち英霊7体の召喚には7人の魔術師が必要だった。

 

しかして彼らが力を合わせて作り上げる聖杯は、ただの一度しか願望機としての機能を果たしてくれない。故に集う魔術師達はそれぞれの譲れぬ願いを叶えるため、召喚した英霊と協力して争う事となった。

 

―――、聖杯戦争の初まりである。

 

遠坂凛という少女は五度目の戦争に参加した魔術師の一人で、私は彼女に召喚された英霊の一人だった。私は彼女の従僕として、あるいは、相棒として共に戦った。聖杯を求めて戦争に参加した彼女は、しかし、己の願いのために聖杯を使おうとは考えていなかった。

 

「では聞こう。凛、君の願いはなんだ?」

「―――ないわよ」

 

願いは自らの力で叶えてこそ価値がある。他人に叶えてもらう願いに意味はない。欲しいものは自らの力で手に入れてこそ価値があると言い切った彼女は、名を体現するかのごとく、凛として強く美しかった。

 

願いは自らの手で叶えてこそという点、私は大いに共感した。私も彼女と同様、自らが抱く悲願の達成を己の手以外で成し遂げられたりしたくない。英霊は召喚者と似た性格の者が呼ばれる運命にあるというが、なるほどそう考えると、たしかに私と彼女は非常に似た考えと願いを持つ者であり―――

 

―――ただ、彼女の願いが白紙の未来に栄光を刻みたいという希望より生じたものであった点に対して、私の願いが私の辿ってきた恥辱に満ちた過去を全て白紙にしてしまいたいという絶望より生じたものであるという点だけが、決定的に違っていた。

 

 

生前、私は正義の味方になる事を目指していた。誰もが憧れる、悪を挫き、弱きを助け、どんな困難にも負けない、世界に完全な平和をもたらす、完全無欠の英雄。元々は養父の目指した理想であったものを受け継いだ私は、彼と同じように正義の味方を目指して奔走した。

 

正義の味方、という理想は、多くの人を見殺しにして生き残った私にとってとても眩しく映った。幼い頃、私は戦争に巻き込まれ、燃え盛る炎の中、助けを求める手を全て振り払い、救いを求める声も聞かぬふりをして、そうして生き延びた命がつきる直前に養父に拾い上げられ生き延びた。私の持つ原初の記憶だ。

 

だが、助けを求める意思の全てを無視して生き延びた私の命は、その時点より、私だけの命で無くなっていた。死にたく無いと願っている彼らの意思を知っていながら、死ぬたくないと懇願する彼らを見ないふりをして生き残ったという事実は、まるでそれ自体が彼らの怨嗟であるか様に罪悪感となって私の心にへばりつき、琴線を掻き鳴らし、心を乱す。

 

何故お前だけ生きている。何故誰も彼も見捨てたお前だけが一人のうのうと生きている。何故お前だけが。何故私たちでは駄目だったのか。何故。何故。何故。何故――――――

 

人の命は尊いという。人の命は重いという。ならば、大勢の人の命を糧として生き延びてしまった私の命はどれほどの価値を持てば、失われた彼らの重みと等しく釣り合ってくれると言うのか。己の罪悪感から生じる重圧は、逃げても、どこまでも追いかけてくる。

 

そんなおり聞かされた養父の純粋で綺麗な願いは、どこまでも清浄で、美しい理想だった。争いのない世界を作ると言う願いは、救済を望む他者を全て拾い上げると言う理想は、他者の命を背負いこんだ私にとって、これ以上ないほど眩かった。

 

私の背中にのしかかる人の命の重さ。自分が見捨てた分と同じかそれ以上の命を拾い上げれば、自分一人が生き残った理由になるかもしれない。そうして養父の独白は私の希望となり、正義の味方という道に進むことを決意させた。

 

そう――、正義の味方という理想は、私にとって、とても都合のいい、贖罪だったのだ。

 

やがて歳を経て身長が伸びて、違った世界の風景を見られるようになると、私はがむしゃら戦場を渡り歩き、紛争終結のため力を尽くすようになっていた。初めは、ただ、個人同士の争いを止めるだけだったその作業は、いつしか規模が広がり、ついには国家や民族間の紛争に介入するほどのものになってゆく。

 

憎悪し合う両者の間に発生した争いを止めるためには、あるいは、止めた後に争いが起こらぬよう望むのならば、禍根が残らないようにどちらか一方の一切合切を無に帰すしかない。私はやがて、多くを助けるために出る犠牲を許容し始めた。

 

見捨てられた誰かのために、救いの手を差し出す。一方で見捨てられた両者のうち、より多くを助けるため、少ない方を犠牲に選定し、処分する。作業の果てに得られるものは、あらたな罪科と胸糞の悪さだけ。だが終わらない。今更ここで終わりにできようはずもない。

 

私の背中を追いかけて来る罪悪感は、坂道を転がる雪玉のごとく日に日に速度を増して背中に追いかけて来る。その雪玉は私の進んできた道に打ち捨てられた犠牲者を内部に取り込みながら、文字通り雪だるま式に膨れ上がってゆく。一度でも足を止めれば、速度を緩めれば、罪悪感は私を圧殺するだろう。だから進む。このいつ終わるともしれない偽善と矛盾に満ちた作業の果てに、いつか正義の味方になれる日が来ると信じて。

 

そうして戦場を渡り歩いていた私は、やがて自らのみ力で救えぬ人々を助けるため、私は抑止力に魂を売り渡した。抑止力に魂を取り込まれた者は、死後、魂は現世の輪廻から外され、永久に人の滅びを阻止するための力、すなわち霊長の守護者と成り果てる代わりに、願いを叶えてくれる。

 

永遠に滅びを阻止し続ける。それすなわち誰かを永久に助け続ける正義の味方と同義ではないだろうかと考えた私は、死にゆく運命にあった彼らの救済を望み、己の魂を売り渡した。

 

やがて死に、霊長の守護者、すなわち英霊と成り果てた私は、その死後、望み通り、人々を滅びから救う存在となり、そして――

 

地獄を見た。

 

争いはいつの世でも発生した。争いは憎悪と狂気を呼び、悪意に満ちた争いを終わらせるための手段が生まれた。争いを止めるための手段はいつも劇的かつ短絡的で、しかし効果のあるものだった。私の役目は、争いにより発生する悪意と手段がやがて伝播、拡大して人の世を終わらせぬように、その場にある全てを消滅させて事態の収拾を図ることだった。

 

その場にある全てとは文字通り、全ての悪意を発する者と手段とそれらに関わった人間のことだ。関わった、という人間の中には当然、手段の犠牲者となった人間もいる。理不尽にまきこまれ、訳も分からぬまま傷つけられる者たち。私が真に救いたかった人達。

 

だがそうして犠牲となる人達を、霊長の抑止力は救おうとしない。霊長の守護者の判断基準は人類が滅亡するか否かのみだ。抑止力はあくまでも人類の滅亡を回避するためだけに用意された機能で、その手先たる守護者はその判断に従い滅亡の可能性を綺麗さっぱり無かったことにするだけの掃除屋にすぎなかった。

 

―――ああ、なるほど。だから私が選ばれたのか

 

落胆と同時にひどく納得した。期待が破れて落胆する最中も続く煉獄。人が人である限り争いは続く。終わらぬ煉獄。犠牲を強いる作業。強要される殺戮。磨耗してゆく精神。しかし意思を奪われ体の自由が効かない私にできることは、せいぜい己自身を省みることくらいだった。

 

長い時間を費やした自省の果て、やがて私は自身の過ちに気づく。

 

万人に共通する普遍的で絶対の正義などない。誰もが譲れぬ正義を持っていて、自己の正義を貫くために、争いが起きる。世界平和や万人にとっての正義の味方とは、決してこの世に存在しないからこそ、多くの人間が惹きつけられる理想なのだ。

 

その時、決して叶わない理想を追い求めた私の生涯は、砂漠でオアシスの幻影を追いかけるが如く無意味なものであったと知る。しかもその理想は自らの裡より湧き出たものでなく、自らの罪の減刑を求めて他人より借り受けた紛い物の願いにすぎないのだ。

 

結局、私のやってきたことは、私が平和を乱すものと断定し切り捨ててきた彼らのやっていた、他人の綺麗事を隠れ蓑に使いながら己の独善を押し付ける行為と変わらない、砂上の楼閣を積み上げるよりなお無意味な自慰行為にすぎなかった。偽善どころか醜悪。ああ、耐えられない。愚かだ。こんな無様で醜悪な結果の果て生まれた己など、一秒だって見たくない。

 

己の浅ましさが嫌になる。他人を醜く思う己が嫌になる。醜いそんな彼らを後生大事にして守ろうと足掻いてきた事実が、磨耗しきっていた精神をいっそう磨り減らす。自らの信じる正義のために果てなく争いと殺し合いを続ける人類の醜さと、そんな醜い人間たちまで必死になって守ろうとした自身の愚かさに絶望して、私は自らの存在の消滅を切望した。

 

自らの存在をなかったことにして、私が過去に起こした全てを消滅させる。それこそが多くの命を踏み台にして拾い上げられた命を、空想に過ぎないものを追い求めるというひどく無意味な生涯として使い込んだ私に残された、ただ一つの真なる贖罪であると信じて。

 

 

……私にとって存在の消滅とはすなわち、抑止の輪よりの離脱を意味する。だが、過去現在未来にまで手を伸ばして人類の存続を管理する霊長の抑止力という機能は、歴史の整合性を何よりも重んじ、抑止の輪より人類の代表かつ守護者たる英霊がいなくなるという何よりの矛盾を認めない。

 

英霊本人がどれだけ願おうと、その消滅の望みは決して聞き届けられない。

 

続く煉獄の中で私は考え、そして思いつく。彼らが矛盾を嫌うのであれば、輪廻より外れた私が、輪廻の中にいる私、すなわち英霊となる前の私を殺すという矛盾に満ちた行動を起こせば、あるいは解放されるかもしれないと。思想だけより導き出した結論は穴だらけだったが、その時より私は、正義の味方になる以前の自分をこの手で殺す事を切望する様になった。

 

やがて世界の走狗として扱われるさなか、聖杯戦争において遠坂凛という少女に召喚された私の目の前には、果たして生前の私である衛宮士郎が存在した。僥倖に身が震える思い、というものを味わった。やっと会えた。やっと殺せる。裡より涌き出でる歓喜と憎悪という正負の念は乗算され、脳髄の中身を負の感情のみで満たして行く。

 

衛宮士郎は自身の運のなさ故に聖杯戦争へと巻き込まれ、正義の味方を目指すが故に殺し合いを当然とする聖杯戦争を見過ごせず参加を決意し、自らの意思で渦中に飛び込んだ。これで奴を殺す正当なる理由ができた。参加者となった奴はすなわち敵であり、聖杯戦争が進むにつれて正当な理由に基づく殺害の機会はやってくる。

 

そのはずだった。

 

誤算だったのは、自らの召喚者である遠坂凛衛宮士郎に好意を抱いた事だ。何が決め手になったのかはわからない。生来の高潔さと面倒見の良さが故に未熟さな男を放っておけなかったのか、魔術師という秘密を共有する本性を隠す必要のない年相応の異性である事が理由になったのかもわからない。ともあれ遠坂凛衛宮士郎を愛するようになっていた。

 

男を愛する女は、当然、彼と敵対することをよしとしなかった。ならば私が彼女の従僕であるかぎり、私は私の目的を果たすことが叶わない。故に私は、衛宮士郎という男を自らの手で殺すという己の悲願を果たすため、彼女を裏切った。彼女を利用し、目的達成のために彼女の敵と手を組み、彼女の身柄を利用して衛宮士郎殺害の場を整え、そして衛宮士郎に決闘を挑んだ。

 

戦いは終始私の優位に進んだ。そも、衛宮士郎という存在の終着である私に、過去の未熟な私が勝てる要素などありはしない。真正面からぶつかり合えば、即座に殺傷せしめることが可能だった。しかしただ殺すのでは意味がない。

 

――ー一息に殺しては飽き足らぬ、というだけではない。

 

長きに続く永劫の果て、何故私がそうなったのか、何故貴様がそうなるのかを知らしめて、私と貴様の違いを、俺とお前の距離を、世界が輪廻の内外を混同するほど同一の存在であると誤認せしめるまでに縮めてから殺さねば、消滅は望めないからだ。

 

―――だが、それが大半だ。あっさり殺したのでは、幾年月もの間、焦がれ、耐え、懊悩し、悔やみ、妬み、憎しみ、溜め込み続けた感情を晴らせない。これが八つ当たりだということはよく知っている。貴様が私である限り、こんなものはどこまでいっても自傷だ。そして自傷など所詮、自慰行為以外のなんでもないだ。だがそれでいい。貴様にも同じ苦しみを味あわせ、魂が擦り切れるほど後悔させ、自ら死を懇願する程に苦悩させてやらねば気がすまぬ。死ね。死ね。死んでしまえ。お前が、俺がこの世に生きている価値などない。

 

私は奴に俺の記憶を見せつけた。貴様では救えぬ存在がいる。貴様には救えぬ存在がいる。貴様だから救えぬ存在がいる。貴様が己すら救えない存在で、自己犠牲に基づく他人の救済という代償行為と偽善に生きる意味を見つける愚昧である限り、たとえ貴様が手を差し伸べたところで救われぬ者が大勢いる。他人による救いなど真の救いではない。

 

その事実に奴が気付き、気持ちが折れた瞬間こそ、長きに渡る鬱憤と贖罪を果たす時なのだ。

 

一合、剣を叩きつけた。記憶が流れ込み、奴の顔が痛苦に染まった。

一合、剣を叩きつけた。奴の剣に皴が入り、受けきれぬ衝撃が指をあらぬ方向に曲がる。

一合、剣を叩きつけた。奴の剣は砕け、崩れた体を思い切り蹴り飛ばした。

 

飛んでいったやつの体は瓦礫にぶつかり、着用している衣服が赤黒く染まった。内臓のどこかが破裂したのか、吐瀉物には喀血とも吐血とも思える血反吐が混じっている。もはや奴の体は死に体で、息も絶え絶えだ。

 

一合、剣を叩きつける。それでも奴は、新たに剣を作り出し、俺と、俺の出した結論を否定すべく、抗い続ける。やがて奴は積極的に私の記憶を読み取り、自らの血肉として受け入れ始めた。痛苦にまみれた記憶だとしても、その経験を糧として利用し受け取らねば、目の前の未来の自分に勝てぬと判断したのだろう。

 

私の絶望を味わい、己の目指す道の無意味さを知り、己の願いの歪みを理解しただろうにもかかわらず生に執着する様は、何とも無様で醜く愚かしく見える。過去の己が見せる醜悪は、未来の同一存在である私にとって汚点以外のなにものでもなかった。よかろう。己の過ちと歪みを知りながら、それでも生にしがみつきたいというなら、望み通りにしてやる。

 

私は同化の速度を速めるべく、苛烈に攻撃を早め、一合にのせる思いの質を高める。受けるやつの顔がより苦痛に歪んだ。私と奴の距離が縮まり、予想通りに、私と奴との境界が薄れてゆく。私と奴の距離は確実に近づいている。しかし私の絶望を受け止める奴は、予想外にも折れることなく、抗い続ける。

 

私は困惑した。なぜ折れぬ。なぜ立ち上がる。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ―――

 

疑問に満ちる頭と身体は、しかし冷静に奴の攻撃を軽く捌く。遠い未来の可能性の集大成であるこの私に対して、有限の、それもごく僅かな時間の未熟な経験しか持たない過去の私の刃が届くことは無い。そんなこと、戦っている奴本人が一番理解している筈だ。いくら続けたところで貴様に待ち受けるのは死という絶望のみ。なのになぜ貴様はそうまでして折れないのか。

 

過去の私と目が合う。血に霞む視界はもはやまともに私の姿を捉えてはいない。奴の眼中にもはや私の姿はなかった。奴のどこまでも愚直な視線が見つめているのは、私の背後よりさらに先。奴は無限に遠い未来の果て、あるいはやがて近くの将来、やってくるもの絶望を真っ直ぐに見据えて、それでも必死に抗っていた。私は起源を同一とした二人の人間が、ここへきて完全に別の存在へと成り変わっていると気づく。

 

それは未熟で経験が無い故の選択だったのだろう。だが私は奴が絶望を知ってでもなお愚直にその未来を選択する判断を尊いと思ってしまった。奴は私の抱えた絶望を一身に受け、だが尚も折れず刃に想いを乗せて、未来に絶望なんてしてやるかと抗い吠える。

 

―――それは

 

過去の私は愚直だった。

過去の私は向こう見ずで、無鉄砲で、短慮かつ、知恵のない子供だった。

過去の私は現実を知らないが故に理想に燃え、理想に裏切られるという未来/結末を知っても願いを捨てず、偽善と知って尚も正義の味方という理想を諦めていなかった。

 

―――それは、おそらく私が最も求めていた希望/救い/同意だった。

 

永遠という名の檻に囚われ、絶望を抱いた私が忘れてしまった、やがてくる死や理不尽に対して限りない命の必死に燃やして抗うという行為に、私は思わず見とれ、動きを止めた。それはあまりに眩く、尊い幻想だった。生じた隙を逃さず奴の剣は私を貫き、奴は理想に絶望した未来の己を超えてゆく。そうして私は奴に敗北した。

 

敗北という結果は長きに渡り抱き続けた私の願いが叶わなくなったことを意味するものであったが、私にとってどうでも良い事になっていた。私が真に求めていたのは、獄からの抜け出すため手段でなく、偽りに満ちた己と、その生涯を肯定されること。

 

そう。私は誰かに認められたかったのだ。否、「誰か」などではない。他でもない自分自身に認めて欲しかったのだ。認めてやりたかったのだ。

 

私の生涯は間違っていなかった。理想を抱き、理想に溺れ、理想に絶望したけれど、尊いと思った理想を追って駆け抜けた私の生涯は決して間違いなどではなかった。そう言い放った過去の衛宮士郎の言葉に、未来のエミヤシロウは救われた。なるほど、自分を救えるのは自分のみであるということを嫌という程思い知らされた瞬間だった。

 

 

その後、衛宮士郎の相棒により遠坂凛は敵手中より救い出され、紆余曲折ののち、私は聖杯を手に入れようとする敵との戦闘により深く傷ついた。這々の体で逃げのびた私は、陰ながら彼女が目的を達成するためのサポートし、やがて存在のために力までを使い果たす。そして消えゆこうとする私の前に彼女は現れた。余りにもぼろぼろである姿に思わず苦笑する。

 

赤く輝く空の下、彼女は私に契約の続行を申し出た。自らを裏切り、傷つけ、敵に売り払い、そして、愛する男の殺害を目論んだ私を、しかして彼女は赦そうというのだ。同情か、憐憫か。そうだとしても優しすぎる彼女の提案は、とても魅力的ではあったけれど、彼女を裏切った私にその権利はないだろうし、何よりもう残ってまで叶えたい望みがこの身にはない。

 

端的にそれを告げると、彼女は何かを言おうとして、言葉を詰まらせた。赤くなった目からは透明な雫が溢れかけている。続きを聞くことはできなかったが、この身を案じた想いが言外に伝わってくる。

 

―――ならばあなたは、一体、いつになったら救われるのか。

 

ああ、凛。君はどこまでお人好しなのか。

 

参った。未練などなくなったが、私の救いを案じて君が悲しむというのならば、それが未練となってしまう。なにより、私が彼女の重荷になる事だけは避けたかった。

 

「私をよろしく頼む。知っての通り頼りのない奴だからな。君が支えてやってくれ」

 

私を救ってくれ、彼が私にならなければ、私など生まれず、私はこの永遠の牢獄から解き放たれるかもしれない。少女は涙をこらえて返答する。私がいる限り、あいつはあんたみたいにならない。あいつが自分を好きになれるよう頑張るから、理想に絶望する衛宮士郎なんて生まれない。少女の誓いに、私の気持ちは救われ、自然と笑みを浮かべて答えていた。

 

「答えは得た。大丈夫だよ、遠坂。俺もこれから頑張って行くから」

 

消え去る直前に夕暮れの最中交わしたと約束は、今なお鮮烈に、心と魂に刻まれている。私

英霊エミヤシロウはそして、心からの満足を得て世界から姿を消し、私の聖杯戦争は幕を閉じたのだ。

 

 

遠坂凛の召喚した英霊、すなわち、私、エミヤシロウへ向けて書かれた手紙を手にして、濁流の如く押し寄せた記憶に身体を弛緩させ無防備な隙を晒していた私は、記憶の終焉を切っ掛けに意識を取り戻すと、手にした封筒の封を破りにかかった。だが、開かない。

 

封筒の上部に鉄パイプ程度なら捻じ切れる力を籠めてみるが、切れ目ができるどころか、皺すら生まれない。なんだこの堅牢さは。まるで鋼鉄のようだ。疑問に首を傾げて、ジロジロと全体を太陽の光で透かせないかと空に向けて、そして気がついた。

 

防護の魔術がかかっている―――

 

直感は瞬時に肉体に存在する半霊的な擬似神経「魔術回路」を起動させた。魔術とは、魔力と魔術回路により世界に現象を引き起こす術理だ。励起した魔術回路の中を魔力という名の燃料が駆け巡り、魔術「解析」は、私に封筒にかけられた魔術の正体を知らしめる。

 

「これは……」

 

手紙にはかつて遠坂凛の家にかけられていたものと同様の防護魔術が施術されていた。解呪の呪文を唱えると、パキンという小気味の良い音と共に、封筒の上蓋が自然に開く。この解除が使えるのは彼女の家族と従僕であった私くらい。ああ、やはり私宛か、と思う。

 

開いた口を大きく広げて中身を取り出すと、数枚の白紙とフォトペーパーが現れた。かつては紙片の上にインクが踊り、意味のある文字と絵を残していたのだろうが、今やすっかり蒸発してしまっており、嫌でも年月の経過を感じさせた。淡い笑いが漏れる。

 

封筒と紙に保護の魔術をかけておいて、肝心の中のインクにだけうっかり対象から外す辺り、なんとも彼女らしい。口元から、嘲笑に似た笑い声に漏れる。苦笑いだ。そして確信する。いや、これは間違いなく、彼女からの手紙に違いない。

 

後世に情報を残すという意義を失っていた存在を前に、しかし慌てることなく、左手に掴んだ数枚の紙片に向けて、もう一度「解析」を使用する。手にした数枚の紙片に魔力が疾走する。紙は呼応して繊維が伸ばされ、ピンと背筋を伸ばした。

 

私の「解析」魔術は対象とした物体情報を過去の物まで読み取ることを可能とする。この程度の障害など、無いに等しいものだ。だから何も問題はない。

 

構成材質―――解明。

消失部分―――投影により補完可能

補完を開始―――――――

 

「――あ」

 

握っている紙は十秒ほど姿勢を正したまま魔力の奔流に耐えてはためいていたが、ついには力尽きてハラハラと粉雪のように舞い散り、風の中へと消えた。長い間、撚られた状態で固定され続けていた繊維は、魔力という異物が体を走り回る衝撃に耐えきれなかったのだ。かつての主人からの手紙が迎えた予想外の結末に、思わず間抜けな声が漏れた。

 

手中より崩れて風の中に消えてゆく粉粒を残念と思いながら一瞥すると、しかしすぐに気を取り直し、読み取った情報を元に、魔術「投影」を使用する。「投影」とはここにない物品を作り出す魔術だ。それは解析の魔術と組み合わせることにより、私が読み取ったモノの投影を可能としてくれる。

 

あと少し解析の時間があれば、手紙に込められた当人の気持ちを読み取り、読まずとも内容を把握することができたが、きっと時間があっても私はそれをしなかっただろう。その行為は手紙を書いた人に対して失礼な行為であるし、あまりに無粋だ。

 

空っぽの右掌に意識を集中すると、投影の魔術は当たり前のように成功し、手中に数枚の紙と一枚の写真が現れる。先ほどまでの紙束を十全な状態で再現したのだ。そうして最前列に現れた写真を手に取り、

 

「――――――」

 

言葉を失う。自らの魔術により再現された紙切れへと刻まれていた情報は、視界を通して体の動きの全てを支配した。息を大きく呑む。胸が膨らんだ。刺激を受けた臓器が熱を持つ。

 

内臓が感じた熱は脊髄を伝わると、脳の芯と前頭から生じた電撃と混ざり、そして回帰した電気信号は脊髄と神経を通して全身へと出戻り、体を震わせた。体を震わせる衝撃の名前は、歓喜であり、憧憬であり、羨望であり、喜悦であり、驚喜であり、感嘆であり、賞賛であり、そして、敬意であった。極まった感情は遅れて伝わってきた命令を肺と喉元に伝えて、馬鹿みたいに開閉と呼吸を繰り返していた唇から、万感の思いを込めた一言を漏らさせた。

 

「――――――、凛」

 

無意識のうちに写真の表面を撫で、その名を呼ぶ。写真の中では彼女が満面の笑みで笑っていた。皺の深くなった顔と傷だらけの手で隣に立つ伴侶を愛おしそうに支えながら、片手でピースサインを前に差し出している。彼女の持つ気品は年を経てなおも変わらない。

 

いやむしろ、若さも、肌の潤いも、烏の濡羽色の如き髪の色も艶やかさも失った彼女は、しかし、若い頃よりもずっと美しく見えた。それは得たもの失ったものを己の裡で受け止め、酸甘辛苦を味わいながらも未来に絶望せず突き進んだ人間のみが作り出すことの出来る魅力のおかげなのだろう。彼女は老いてますます、名の如く、凛としていて美しかった。

 

そしてそんな彼女隣で、老齢の男性―――衛宮士郎は同じように皺の深くなった、そして枯れ木のように細い身体を凛に預けながら、困った、しかしまんざらでもない顔を浮かべて、伴侶がするように片手でピースサインを作っていた。彼は瀕死の体で、否、死体と断じて構わぬような顔色をしていた。死体の段階を通り越して、まるで屍蝋だ。

 

彼の生涯がまともと言い難い、苦難に満ちた道のりであっただろう事が、顔や肌蹴た胸元に急所を避けるようにして刻み付けられた消えぬ刀傷や弾痕、そして袖の先から出た腕に伸びる火傷跡や不自然に盛り上がった状態で再生した皮膚などが無言に告げていた。

 

また、傷の後遺症なのだろう、前に差し出そうとする手が、しかし身体中に繋がった管に邪魔されて上がりきっていない事と、サインを作る親指と薬指、小指が曲がりきっていない事から、体がもうまともに動かない状態だろう様子も窺える。

 

彼が体に不自由を抱えている予想が真実であろうことは、男の隣に笑みを浮かべた、愛する女がいて、彼女に半身を抱きかかえられているのに、抱き寄せるどころか、腰もあげず、さらには手を伸ばすそぶりすら見せていないという不自然が、何よりも雄弁に語っている。

 

これが生来の愚鈍さによる醜態であったならば、どれだけ良かっただろうか。

 

しかしそうして苛烈な生涯を送り癒えぬ傷を体の節々に負って不自由を抱えているだろう老いた男は、彼と同じくらい老いた、愛する女の隣で幸せなそうな笑顔を浮かべて笑っていた。男の笑みは、己の信念を成し遂げた者のみが見せることのできる満足を含んでいて、艱難辛苦に満ちていただろう生涯の道のりの過程を一切後悔していないだろう事が、当然、理解できた。わからいでか。なにせ奴と私は始まりを同じとするのだ。

 

彼の浮かべた満足の表情を見て、私は悟る。

 

―――ああ、彼女は約束を果たしたのだ、と。

 

写真の向こうにいる衛宮士郎は英霊エミヤになどならなかったと確信した。彼の身体中に残る急所に近く残る傷跡や体の不自由さは、彼の人生が苦難の道のりであった事を示すと共に、それだけの傷を負っても死なせまいとした誰かが常に傍にいた事を告げている。

 

その誰かとは、凛と考えて間違いなかろう。彼女は、おそらく、未来の己の無様を見てしかし尚も正義の味方を目指し馬鹿と無茶を繰り返す衛宮士郎の傍で、彼が彼以上の力を求めて世界と契約などしないよう見守り、奮闘し続けたのだ。

 

強気で、意地っ張りで、無鉄砲で、それでいて情の深い凛は、きっと愛する男を世界なんかに取られてたまるかと意地を張り続けた。だからこそ、馬鹿で、無鉄砲で、無茶をやる、回復魔術もまともに使用できない未熟者はそれでも生き残り、死が枕元で待機している様な状態であっても、己を愛してくれた女と並んで、満足の笑みを浮かべていられるのだ。

 

男は己の矜持を守り抜くために死地への突撃を繰り返し、女は己の忠告を無視して破滅へと一直線な馬鹿の手綱を絶対に離すものかと握りしめ、彼と共に地獄を踏破し尽くした。言葉するとたったそれだけに集約する二人の生涯の、なんと重く、尊いことか。私は知らずのうちに彼女と彼の生涯を想って黙祷を捧げていた。

 

二人への祈りにより暖かさが全身に満ちてゆき、裡に抑えきれなくなった感情は口元に笑みを作った。大きく息を吸い込んで、吐き出す。呼吸ごとに、心の裡にへばりついていた負の感情が余さずこそぎ落とされて行く、体が生まれ変わるかの如き錯覚を覚える。

 

今の私なら、あらゆる困難を打ち砕いてゆけそうだ。

 

―――ああ凛。君に頼んで本当に良かった。

 

もう一度、目を閉じて、胸を大きく開き、深く呼吸を繰り返す。目の前に広く続く草原がその身を揺らしながら運んでくる風は、どこまでも清涼だった。風が運んでくる青臭さを含む香りは、肺腑の中に詰まったモノを新鮮なものへと取り替える。気持ちと同じよう上向きに瞼を閉じて顔を空に向けると、自然と口角も上がった。たまにはこうして、しばしの間、万感の思いを胸に浸らせていても罰は当たるまい。否、誰にも文句など言わせるものか。

 

 

しばらくして、雲間からのぞいた太陽の光が閉じた瞼を柔らかく刺激した。陽光の生み出す熱は純な感情で満たされた水へ投ぜられた小石となり、脳裏の表面に波紋を広げて意識を現実に引き戻す。冲融の気分を惜しみながら、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、写真を封筒の後ろに回すと、投影により再現された手紙を前へと持ってくる。

 

投影魔術は、手紙が劣化する前の状態を完全に再現していた。真新しい質感のする三つ折りに畳まれた紙の表面を軽く擦り、折れた状態から解放して文字を露わにすると、現れた見覚えのある字をひと撫でして、インクの乗った紙へと目を落とす。

 

「正義の味方へ」

 

封筒のおもて面にも書かれていた表題に、なんと皮肉な文言だろうか、と苦笑する。宛名を見た際にも思ったが、正義の味方になり損ねた私に対してこの文言を使う辺り、多少恨みの念でも籠められているのだろうか、と邪推する。まぁ、それだけのことはしてしまったし、いかにも強気な彼女らしい仕草かもしれん、と妙な納得をして、手紙の続きに目を通した。

 

「正義の味方へ。

 

堅っ苦しい書き方は性に合わないから、口頭形式で書かせてもらうわ。ですます調で書くよりも、この方がきっと私らしさが伝わると思うから。いいわね、アーチャー。

 

貴方がこの手紙を貴方が読んでいる頃、私はもうこの世にいないはずよ。色々と伝えないといけないことはあるけど、まず一つ、とびきりのニュースを教えてあげる。

 

私、貴方との約束を果たしたわよ。衛宮士郎は世界なんてものと契約しないならないまま、正義の味方として生き抜いて、幸せだって言って、笑って逝ったわ。まるで寝てるみたいに穏やかに、ほんとに死んだのかって思っちゃうほど静かに。

 

全く、勝手よね。好きに生きて、一人でさっさと逝っちゃうんだから。まぁでも仕方ないか。惚れた弱みってやつね。無茶やるあいつの伴侶として、やんなるくらい苦労をさせられたわけだけど、士郎が愛し続けてくれたから、苦労がチャラになるくらい幸せだったわ。

 

アーチャー。衛宮士郎遠坂凛、改め、衛宮凛は、聖杯戦争で貴方と出会えたおかげで、貴方が私のサーヴァントとして戦ってくれたおかげで、貴方が士郎と戦ってくれたおかげで、貴方が私を守ってくれたおかげで、幸せに暮らすことができました。ありがとう」

 

ありがとう。聖杯戦争に呼び出されて以後、その一言を最後に聞いたのはいつだっただろうか。言葉は心に沁み入り、胸に暖かさをもたらした。嬉しさと同時にむず痒くもなる。心持ちを誤魔化すように、時間の経過は私と同一の彼の性質を変えはしなかったけれど、彼女の素直でない性質を和らげはしたようだ、と無理やり皮肉気に苦笑する。だが苦笑のため右片方だけを歪めた唇は、すぐさま両端を上側に持っていこうとするものだから、まるで痙攣を起こしているような有様を面に作っていた。なんとも無様なものである。

 

「そしてアーチャー。ここからが本題よ。まずは貴方が置かれている状況を正しく理解してもらうわ。正直、どれも嘘くさいと聞こえるかもしれないけれど、これから書くことはどれも真実なの。信じてもらわないと話が進まないから、どれだけ疑わしくても、まず提示された情報はすべて正しい、と信じてちょうだい」

 

書き記している彼女自身、かつては相当信じ難かったのだろうことが文面から見て取れる。優秀な魔術師である彼女がこうまでいうのだから、これより先に記された内容は、よほど現実離れしているものなのだろう。では乱れた襟元を正して拝見させてもらうとしよう。

 

「まず貴方が召喚されたのは、私達の出会った時代から数千年未来の世界よ。そしてあなたの足元に広がる大地は、世界樹という巨大な植物の上に人類が造り上げたもの。大地の上では、私たちが「真人類」と呼称した、魔力も魔術回路もなしで世界に働きかけて現象を引き起こすことを可能とする人類が繁栄しているはずよ」

 

手紙から目線を切って、空を仰ぐ。数千年先の未来。世界樹。人造大地。真人類。魔力も魔術回路もなしに現象を引き起こす人間。いきなり現れた力ある言霊の群れに、驚かぬとの決心はあえなく霧散する。額に片手をやると、重苦しいため息が漏れた。なるほど、彼女が念を押すはずだ。荒唐無稽というか、与太話というか、草双紙というか、寝物語というか、とにかく現実から乖離した単語の群れは、たとえそれが真実であるとしても、平仄の合わない小説の出来事かと思わせるに十分な力を持っていた。目元を揉みほぐして、再び目を落とす。

 

「―――以上の経緯で私たちに取って代わって真人類が霊長となった世界では、抑止力は真人類対応のものへと刷新されて、同時に英霊の座も新人類の英雄達は放棄されて、真人類の英雄達が身を寄せる場所となる。

 

もちろん新人類と真人類の抑止力が重なる瞬間もあるだろうけれど、とにかくこの瞬間を狙って、アーチャー、すなわちエミヤシロウという新人類の英霊を抑止の輪の拘束から隔離しておけば、その後あなたは解放されて自由になれるはず。具体的には……」

 

非現実と思える内容が続く中、様々な力ある言葉を押し退けて唐突に現れた「抑止の輪からの解放」という単語は、それまでとは別種の衝撃を生み、私の脳内をかき乱した。それは私が過去の己を殺してでも達成したいと望んでいてた願い。一瞬の呆然の後、慌てて紙面をめくって、詳しい説明が書かれている部分を探し出して目を通す。が。

 

―――……よくわからん

 

同じ魔術師同士ではあるものの、畑違いである彼女の説明はあまりに専門用語が偏っていて、半分以上の単語が私には正確に理解できなかった。専門的な用語は、知る人からすれば事象をピタリと言い表す便利なものかもしれないが、何も知らぬ側からすれば、解読不能の古代文字となんら変わらない。ともあれ、文句を言っても変わらない文面を睨んで認識の齟齬にけちをつけても始まらない。私は考古学者になった気分で、何とか単語と前後の文脈からニュアンスを読み取ると、己の理解の及ぶ範囲で知る言葉に当てはめて、私なりに理解を試みることとする。

 

まず、彼女曰く、霊長の抑止力とは文字通り、「霊長」のための抑止力であり、人類の存続のためだけに存在している力ではないらしい。そしてこの抑止力というものが持つ力が代替わりを起こすことは、最古の英雄と呼ばれる存在が証明していると彼女は続ける。

 

ギルガメッシュという英霊が神と人の世を分けたことにより彼は「最古の英雄王」と呼ばれるようになった。彼が最古となった時点から始まった「人という霊長」の歴史をβとし、それ以前にあった歴史をαとしたとき、我々が霊長の抑止力の力と呼ぶ英霊達は、βに当てはまる人類種とそれに関する時間軸を守るに過ぎない存在であると彼女はいう。

 

それ以前のαには、αを守護の対象とする霊長の抑止力の力や英霊が存在し、しかし、霊的に優れた「現行人類」が現れたことにより、霊長の抑止力は守護対象をαからβへと変え、αの抑止力の力、すなわち英霊達は消滅していったとの事。

 

αの英霊達と座が廃棄されてβに移り変わったからこそ、現存する人類の中で起源的存在として知られているアウストラロピテクスのルーシーが英霊の最古と呼称されず、召喚もできない理由であり、ギルガメッシュが人類最古の英霊と呼ばれる理由なのだ。

 

ならば、やがていつかは同様に、世が「真人類にとっての最古の英雄」によって新人類と真人類の歴史が分けられた時、我々の歴史が過去になり真人類の歴史=γが始まり、その真人類始まりの英雄が、最古の英雄として真人類の英霊の座に登録される日が来るはずだ。

 

その際は、先と同様に、βとγも歴史のどこかの時点で区切られ、βの英霊たちが廃棄され、座に登録されている英霊から新人類βのものから真人類γのものに刷新されるに違いない。

 

なら、我々新人類のシステムが消え去る瞬間、英霊エミヤの魂と情報を英霊の座とは別の場所、できる事ならこの世のどこかの場所に隔離し、真人類γの管轄になるまで存在の有無を誤魔化すことが出来れば、英霊エミヤを新人類の霊長の抑止力というシステムに捕らわれた状態から完全に解放する事が可能なはず。それが彼女の考えた理屈だった。

 

なんともぶっ飛んだ発想と滅茶苦茶な論理飛躍である。だが、こうして私が何の縛りも受けていない状態で存在している事が、彼女の出した結論の正しさを証明していた。そうして自らが抑止の輪より解放された自由の身である事を知った時、驚愕の連続により心中を駆け回っていた困惑は謀叛を起こし、情報の反乱を受け止めきれぬ脳は抵抗を放棄した。

 

 

衝撃の事実判明による茫然自失の状態に陥ってからどれほどが経過しただろう。ぼうっと天を眺めていた私は、体の熱を奪い去ろうとする涼風の刺激を受けてようやく再起動を果たし、残った手紙の部分に目を落とした。

 

以後の部分には、彼女が手段を実行に移す経緯と、案を実行する際心中に生じた己の心情が吐露されていた。英霊エミヤを救うためには、己の伴侶の身を英霊の魂を収める殻として改良し、英霊の座を観測するための装置として我が身を作り変える必要がある。加えて、自らの案は人類の滅亡を前提としており、それを是とするものだ。

 

それは自らの伴侶の矜持と私の誇りを汚しかねないものであり、しかし重々承知の上、それでも彼女は魔術師として思いついた理論を試したい性と、なにより己が彼を見捨てなかったという自己満足を得るために、英霊エミヤを英霊の座から解放する事を決め、実行した。

 

そこから先の文章には、己の業の深さと身勝手を醜いと思う心情がつらつらと綴られていた。なんとも彼女らしくない弱気と自責と激情の羅列は筆圧が乱れた状態で記されており、懊悩し、憂慮し、苦心惨憺した結果、告解や懺悔するかの如き精神で文章を筆記していたただろうことが一目で読み取れた。彼女の心情が書き殴られた文字の集合は、荒唐無稽とも思える内容が真実であると心から信じることができる。そして。

 

「私が思う救済の形を貴方に押し付けてしまってごめんなさい。それでも私は誰かの為に戦い続けた貴方には、幸せになってもらいたかったの。勝手だけれど、どうか赦して頂戴」

 

歪んだ文字は確信と共に混濁した心情をさらにかき乱す要素となった。機能を果たすことを放棄して久しい涙腺が再稼働を果たし、緩み、一雫が頬を伝って紙面の上に落ちた。滲んだ文字が新たに垂れ落ちる雫を受けて姿をボヤけさせる。

 

目の周辺で表面張力に負けた水が頬に数条の滝をつくり、顎下より垂れて手紙の染みをつくり、紙片上に生まれた湖は範囲を広げてゆく。そのうち文字は体裁を保つ事をやめ、インクは全て紙片の水に溶け出して、紙の上に混沌としたブルーブラックのマーブル模様を作ってゆく。

 

いけない、このまま文字が滲んで読めなくなってしまう。水の流れ落ちるのを止めるか、拭うか、いや、それ以前の対応として水分を飛ばして手紙を遠ざけなければいけないのはわかっていたが、心中より生まれた激情が駆け巡っている身体は動いてくれなかった。

 

紙面に広がりつつある混沌とした様は、私の心情によく似ている。彼女がそうまでして救いたいと考えた事実は、彼女の伴侶が妻の行動を許容した事実は、私の心象に広がる荒れた荒野を癒す天の恵みとなって降り注ぐ。ああ、凛、士郎。君たちは、なんて愚かな事を考え実行に移したのか。彼らの献身に比べれば、ああ、なんて。なんて。なんて無様なのだ、己は。

 

私はまた衛宮士郎遠坂凛に救われた。彼らは私の精神のみならず、肉体と魂まで救ってみせたのだ。そして己らの肉体を差し出してまで救ってやりたいと思われていたという事実は、はるか昔地獄の中で切嗣という男によって助けられた時感じた歓喜と憧れと感謝を想起させ、彼らに対する負い目や自己嫌悪の感情と混ざって、心を無茶苦茶にかき乱す。

 

凛は愚かな女だ。愛すべき夫がいて、愛する子供もいて、親しい友人たちと過ごしていたのに、その幸せな日々の果てに、選択したのが、愛する夫に手をかけて装置に改造し、夫が愛した自らの身を弄って装置として命を断つ最後だなんて、なんとも馬鹿げている。

 

賢い彼女にそんな決心をさせてしまった、己の存在が憎くてしょうがない。しかし、救われたという事実は、胸に憎しみが塵と思えるほど怡々の水気を生み出すのだ。やがて混じり合うそれらは津波の如く心の荒野に押し寄せて、乾いた土地を潤してゆく。

 

津波に含まれる自己嫌悪という名の成分は、塩害の如く枯れた土地に被害を与えるかもしれないが、それ以上に、彼女の暖かな想いにより生まれた温水は、この地を肥沃な大地へと変える幻想を思い起こさせた。ここはいつか馬の背のような草原になるとまで思える。

 

衛宮士郎は愚かな男だ。愛する妻が過去に出会った男を救いたいというわがままを聞いて、唯々諾々と承諾してしまうのだから。正義の味方を目指すと言っていた彼は、なぜ愛する妻が別の男を救おうとする行動を許容してしまったのか。

 

正義の味方を目指すものとしての矜持か? 起源を同じくする人間とはいえ、こうまで離れてしまうと、もはや彼が何を考えているかわからない。だが彼が自らの命を狙った相手を助けるという行動を許容したという事実に、私は大いに嫉妬した。

 

しかし同時に、敵対者を、裏切り者を、自らを殺そうと目論んだ私の救いを許容した彼の寛大さに、嫉妬以上に救われた、と思った。彼の起こした沢風は、私の生んだ嫉妬の風に煽られながらも、悠々と砂塵舞う荒野の空気に吹き荒れて、荒野は耿気に満ちて行く。風は赤い夕空の色すら変えるのではないかと思うほど、雄々しく吹き荒れ続けていた。

 

正と負の矛盾する感情は電気信号に変換されると、心中を暴れまわり、共鳴と乗算を繰り返して大きな感情の波紋を生み、軋轢に心が軋んだ。不変のはずの風景が変化してゆくのを感じる。英霊エミヤと呼ばれていた私は、その時確信を得た。

 

今この場において私という存在は、不変を常とする英霊ではなく、彼女の手によって人の肉体を与えられ、変化を常とする人間として生まれ落とされたのだ、と。

 

私は与えられた救済を喜んで、哭いた。英霊だった頃の私を哀れんで、哭いた。彼女の苦悩を思って涙を流し、彼の献身を尊んで叫んだ。記憶にかつてと彼話した場面が蘇る。何が、救いなど金貨と同じ、だ。何が自助努力で掴み取らねば意味がない、だ。

 

それが贖罪によって生じた偽善というものによって与えられた救いだったとしても、与えられた救いが決して当人のためにならないなんて事はない。決してだなんて、そんな事はない。決してだなんて事はなかったんだ。だって、そうだろう?

 

他人に与えられた救いは、こんなにも、私の未来に希望の光を与えてくれているのだから。

 

 

「――愚痴っぽいことも書いたけど、私の選択を士郎が受け入れてくれたから、私は私のやったことに満足したわ。悪いけど、あんたは私のその自己満足に救われて、せいぜい自由に生きて頂戴な。ただし、生前みたいに自分を犠牲にする生き方をしちゃダメよ。正義の味方として生きても文句は言わないけど、そのときは自分の事を勘定にいれるのも忘れないように。約束よ。これは別れの際に難題ふっかけたアンタへのお返しも兼ねてるんだから、守らなかったらぶっ飛ばす。宝石剣での一撃をおみまいしてやるんだから、覚悟しときなさい。

それじゃ、さよなら、アーチャー。あなたのこと、士郎の次くらいには好きだったわ。

あなたの未来に多くの幸があらん事を。                             ――衛宮凛 」

 

手紙はそんな言葉で締めくくられていた。最後に記された彼女の願いを受けて、燻っていた心の裡が燃え上がるのを感じる。こぼれ落ちる透明な雫が止まらない。生み出される熱は血流に乗って全身を駆け巡り、彼女の望み通り自らを守る原動力となるだろう。

 

嫌っていたあの男の懐の深さと覚悟、生涯に敬意を送り、凛に限りない感謝を送る。彼女は自分に返せないほどの借りを作っていった。ならばせめてその意を十全以上に汲み取り果たすのが、なによりの恩返しとなろう。そのためにも私は、自由に生きてみせる。そう。

 

「当然だ。・・・・・・当然、その約束、叶えてみせるとも」

 

正義の味方になると誓ったあの夜を思い出す。別離の夜、月下の元で私は、養父と他でもない私自身に対して、彼の願いを綺麗だと思った衝動に導かれるままに誓った。この誓いは、あの夜と同じものだ。私は彼女の願いを尊いと感じた己の心に従って自由に生きる。他者への贖罪を存在理由と糧に生きてきた私にとって難しいオーダーだが、その達成を彼女らと他でもない、自身の矜持にかけて誓う。

 

―――私は正義の味方を目指して生きつつ、しかし自由に生きる。

 

覚悟を胸に改めると目元を拭い、遠くにのぞむ街を一瞥して、深呼吸をする。折り重なっていた一朶の雲たちは気がつくとどこかへ消えていた。抜けるような青空の下、そして私は街へ向かう。何をするにしても、まずは情報が必要だ。人が集まる場所にはそれが自然と集まる。私は彼女の望み通り、私の思い通り、自由に生きてみるべく、動き始めた。