うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第三話 始まる冒険者の物語 

第三話 始まる冒険者の物語

力だけでは届かない。
自信だけでは入り口に立てすらしない。

 

 

エトリア中央に位置するベルダの広場は、相変わらず汚れた冒険者と清潔な格好をした一般人で賑わっていた。ギルドを後にし、衛兵と別れてから、そろそろ小一時間が過ぎようとしている。私はその間、こうして広場の隅行き交う人をじっと眺めていた。

暗闇の中、真剣な表情で一人に視線をやってはじっと眺め、しばらくして視線を外す。そんなことをもう数十回も繰り返している私は、一見してどう考えても不審人物であるのだが、一人としてそのことを咎める人間は存在しなかった。

私が不信がられなかったのは、ひとえにこのベルダの広場が待ち合わせ場所として利用されるからだろう。彼らは此処を起点として、執政院ラーダへ報告に行ったり、冒険者ギルドへ登録へ行ったり、金鹿の酒場へ食事や依頼を請けに行ったり、ケフト施薬院に仲間を迎えに行ったりする。だからこの場所で小一時間ほど、人の顔を眺めていても私は不審者扱いされずに、お陰で強化した耳で人の話を立ち聞きし、様々な情報を収集する事が出来たのだ。

……さてもう十分だろう。最後にもう一度、五人組の冒険者集団に視線を送り、彼らの持つ道具を解析し、記憶の中に保存されている情報と照らし合わせる。照合は問題なく完了した。

準備が整ったこと確信した私は迷宮に向かうべく、街の出入り門に向かう。途中、人の気配と視線のない場所を選んで裏路地へと体を滑らせると、道の窪みを見つけて身を隠す。窪みは夕暮れのぼやけた光の下でもはっきりと汚いと認識できる程、雑多なゴミと壊れた道具に溢れていた。気圧されて少しばかりたたらを踏むと、ゴン、と瓶を後ろ足に蹴ってしまう。まさに足の踏み場もないと言う奴だ。

廃棄場か何かだろうか。こんな場所に人がいるとも思えないが、万が一のことがあってはたまらないので、一応視力と聴力に強化魔術をかけて、人の有無を確認する。ふむ。

―――念を入れて正解だったか。

周囲のゴミ山を見渡すと、くぼみの一番奥に扉があり、その扉の上には「マギ&アム道具店」と左から右に向かって記載されている看板がかけられていることに気がつく。おそらくここは道具屋の裏口で、廃棄する予定の物を置いたりする場所なのだと見当をつける。きっと捨てる道具だから扱いも雑なのだろう。

そうして無秩序に置かれた道具を眺めたのち、裏口の扉の上部にはめられている透明なガラスに目をやる。その向こう側、すなわち道具屋の内部は、分厚い生地のカーテンに拒まれて確認することは出来なかったが、ガラスとカーテンの隙間から灯りが漏れていないことを確認して、道具屋は現在無人であると結論づける。

―――ならば問題もなかろう。

一応、もう一度具に周囲を探ったのち、魔力を魔術回路へと流し込み、励起させる。

―――投影開始/トレース・オン

魔術はなんの問題もなく発動し、即座に手中へと薄茶色の皮のショルダーバッグが現れた。旧迷宮に出現するネズミとモグラと牛の皮と植物の蔓の加工品から作られているらしいバッグの表面を撫で皮を引っ張り、バッグの内側より強めに拳を叩きつける。拳に込められた薄い皮なら破れてしまうほどの威力が内張の皮に吸収されて、表面が軽く撓み波打つ。手を引っこ抜いてバッグの口を開いて強めに伸ばすと、元の二倍程度にまで広がった。

続けてその辺に落ちている薄い瓶を拾って中へ入れると、バッグの上蓋を閉じて多少手荒に石畳へと叩きつける。ぼふん、とバッグは地面に落ちて、一切バウンドしなかった。拾い上げて中を見てやると、薄いガラスの瓶は内張の皮の中で先程と変わらぬ姿を保っている。

なるほど、柔らかくも頑丈。おまけに伸縮性に富んでいる上、多少なら衝撃も吸収してくれる、と。これは頼もしい。冒険者である彼らが愛用する理由もわかると言うものだ。

続けて鞄の中に突っ込んだ拳を開くと、再び詠唱を唱える。すると空っぽであった鞄の中がみるみると音を立てて雑貨に溢れてゆく。投影により鞄の中へ量産されて行くそれらは、外傷を癒す薬や、血液を増やす薬、毒や麻痺、石化といった状態異常を治す薬に、身体能力をあげる薬といった、迷宮に潜る冒険者なら持つ道具である。これが小一時間における観察の、もう一つの成果だ。

投影により生み出したものは真の品よりもランクの劣る模造品ではあるが、良品ばかりを選んで投影したがゆえ、どれも実用に耐えうる効力を発揮するだろう。金や時間の余裕はないが取り急ぎ代用品が必要になるという、投影魔術を本来の使用用途として使うこの時ばかりは、己の持つ魔術の利便性を素直に認められる。

生み出した道具同士がぶつかって壊れてしまわぬようバッグの中を整理すると、最後にラーダにてもらった地図道具一式を放り込んで、肩に引っ掛け、細かい調整を済ませると満足して踵を返し、カツカツと石畳を叩きながら、雑踏の中へ混じる。

さて、ではこの腹がもう一度音を立てて空腹を主張する前に、急いで迷宮に向かうとしよう。

迷宮、と聞いて人はどのような光景を目に浮かべるのだろうか。私同様、ニ十世紀の感性を持つ人間なら、例えばそれは、遊園地にあるミラーハウスやお化け屋敷のような迷路を思い浮かべるのではないだろうか。

あるいは東京へ行ったことのあるなら、新宿駅と答えるかもしれない。工事の人間なら下水道と答えるかもしれないし、海外に目を向ければ、カタコンベと答える人間がいれば、インドの階段井戸を上げるひねくれものもいるだろう。

あるいは魔術をかじっていたり、オカルトに傾倒したものなら、クレタ島にあったとされるミノタウロスを閉じ込めるためのラビリンスを思い浮かべる人間もいるはずだ。

そう、例えば、私のように

世界樹の新迷宮、という単語を聞いた時、アリアドネの糸という名前の道具がある事実と、この大地が人間によって造りあげられた大地であるという事前情報から、私はてっきり、迷宮が人工的に作り出された迷宮だと思い込んでいたのだ。

それが大いなる勘違いだと気づかされたのは、エトリアの街、入り口に立っていた衛兵に教えられた道なりをたどって、黄昏の空の元、入口にたどり着いた後の事だった。

新迷宮はエトリアという街から一時間ほど歩いた先、こぢんまりとした森の中に入り口が存在する。いや、森の中、というのは適当な表現ではないか。なぜなら入口は、地滑りでも起きたかのように縦にずれた地面の狭間にあるからだ。

森と森を二つに分断するその断崖中に土をくり抜かれた空間こそ、新迷宮の入り口なのだ。地面と地面の間に存在するその空いた間には、不思議なことに、上下に生え揃った樹木と同じ種類のものが天井に向けて成長し、その頂点が天井にぶつかる直前で成長を止めている。

地滑りにより生じた縦割れが年月をかけてやがて川になるというのは聞いたことがあるが、こうもぽっかりと横に開かれたくり抜かれた土穴の中に森が広がるというものは見たことがない。なんとも珍しい光景だ。

いや、それよりも特筆すべきは、この視界に映る一切合切が赤い景色か。前評判は聞いていたが、地面の土から花草、樹木に至るまで、全てが赤の装いをしている光景というのは、まずお目に書かれるものではない。

例えるなら一面の山肌が紅葉に染まっているのが近いだろうが、四季が巡る都度に目撃する事が出来るその光景とは違い、樹木から地面までの一切が真紅に染まった光景というのは、あまりにも色味が純粋にすぎていて、人の入る余地がまるでない。赤く塗ったキャンバスに別の色を乗せてやれば、それだけで色の調和の不自然さが目立つのと同じだ。

―――なるほど、人を拒む土地、か

噂に聞いた誰かの例えが適当な表現だと感心しながら亀裂の方へと足を運ぶと、近くには兵屯所がポツンと一つ立っており、また、屯所近くにある石碑の周囲には、幾人もの冒険者と兵士がたむろしていた。おそらくここは待ち合わせ場所か何かなのだろう。私は石碑を横目に通り過ぎると、私は屯所の兵士に話しかけて探索許可の書類を提出する。

無愛想なもので、彼はただ名前と許可のサインの部分が入った部分だけを一瞥して、判を押して目線も合わせる事なく突っ返してくる。エトリアの入り口にいた衛兵とは違う、横柄とも思わせる態度。だが私は、彼を責める気にはならなかった。

額に滲む汗と早い呼吸から、必死に恐れの感情を押し殺した結果の態度であることを見破ったからだ。彼はおそらく、この異常な場所に怯え、しかし、兵士としての矜持があるゆえ逃げ出さず、応対を行なっているのだ。それだけでも彼は十分立派に兵士としての役割を果たしていると言える。だから私は、その震えを見なかったことにした。

書類を受け取ると一礼をして、大地の隙間の前に陣取っている無表情を保つ兵士に許可が下りたことを伝え、そして早速迷宮の内部へと足を向ける。そして迷宮との境目に立つと、一度足を止めて、新迷宮の入り口を仰ぎ見た。

大地の隙間に生えた樹木は隆々そびえ立ち、地上との境である土の天井を支えている。吸い込まれるようにして洞穴に足を踏み入れると、途端、樹木の幹、枝、葉はもちろん、地面の土に至るまでの真赤なという光景は異常な刺激となって、私を威嚇する。

これが世界樹の新迷宮。てっきり上下左右を石壁でおおわれた、人工の遺跡か何かこそが新迷宮なのだろうと思い込んでいた私は、少しばかり当てが外れて、心中にて、こっそり気を落とし嘆息。周りに悟られないように、静かに頭を振るう。

迷宮が人の手によって作り出されたものであるならば、私は迷宮に解析の魔術をかけることによって地形を一気に把握し、地図に転写することで完成させてやろうと目論んでいたのだが、自然が作り出した結果生まれた迷宮とあっては、解析の魔術で一気に地形を把握してやることが出来ない。

私の使用する解析魔術というものは、その対象が無機物である場合は、その物体の構造から、作成年数、誰が作り、用い、どのような経緯を経てそこにあるのかまで読み取ることも出来る。そう、対象が無機物であった場合は、だ。

しかしその解析対象が、無機物ではなく何らかの命を持った生命体である場合、私は途端にその構造を把握してやることが困難になる。生き物の内側は、無機物のそれとは違い、外界から隔離された固有の土地だ。そこに解析のために力を注ぎこもうとすると、当然、その土地の所有者は別の土地から無作法に入り込んでくる力に反発し、ひどい抵抗にあう。

要するに、解析とは、他人の家に土足でずかずかと入り込み、部屋の状態を無遠慮につぶさに調査して、情報を盗み取る行為なのだ。そこに家主がいれば、家主が盗人相手に抵抗して硬く戸締りするがために、私の「解析魔術」は家の中に入り込めないようになり、結果、情報を読み取ることが非常に難しくなるというわけだ。

―――となれば、やはり中に入って直接確認し、地図を作りあげるしかないか

覚悟を決めてさらに足を踏み入れてゆくと、すぐに周囲より闇が押し寄せてきた。私は背後から入り込んでくる煦々たる黄昏の光が絶えてしまわないうちにランプを取り出すと、着火。すると視界に映っていた深い赤、緋、朱の色は、炎の発する柔らかな光を帯びて、少しだけ淡い色を取り戻した気がした。私はその柔和な炎に癒され少し気を取り直すと、炎の揺らぐ輪郭に守られた空間の明るさを頼りに、さらに奥へと足を踏み入れてゆく。

一歩、また一歩と進むごとに、強化した感覚が違和感を訴える。目の前の赤が、鼻腔をくすぐる腐臭混じった甘ったるい臭いが、不自然なまでの静けさが、肌を撫ぜていく生暖かい風が、分泌された唾液の苦さが、お前なんて招いた覚えはないと断言して、迷宮の中への侵入を試みようとする者の拒否であるかのように感じる。

そう、違和感はまさに、新迷宮の警告なのだろう。

ここは人の来て良い場所でないから早々に立ち去れという警告を無視して、私はバッグより筆記用具と用紙を取り出すと、この場所に来た目的を果たすべく、紙面の上に記入を開始する。多少ふやけた紙を引っ掻く不快さも、迷宮の警告かもしれないな、などとくだらない事を考えながら、私はひたすら記入するとともに、新迷宮の奥へと進んで行った。

世界樹の新迷宮
一層 真赤の樹海
一階「来訪者を拒む赤に染まりし異界」

闇の中を駆ける。強化を施した身体は時速四、五十キロの速度での疾走を可能とするが、その速度があっても、地形把握と地図製作の作業は予定とは異なり、捗らない。新迷宮は名の通り内部が迷路のように入り組んでおり、何度も行き止まりにぶち当たっては来た道を引き返す工程を繰り返し行う羽目になるからだ。今までに六度。それが無駄足を踏んだ回数だ。

また、この大地と大地との狭間にある空間は、天井の隙間から落ちてくる月の光を周囲の赤土と赤樹木が反射して不気味な赤さで満たしており、その朧げな赤さは侵入した者の気を昂らせ、些細なことに気を揉ませ、そして苛立たせる効果を発揮する。

それは例えば、索敵の際などに神経質なまでに周囲の警戒を行い無駄に気を揉んでしまう結果を生み、そういった細々とした出来事の積み重ねが、私にいつも以上の疲労感を呼んでいるのだ。

それでもなんとか元英霊としての意地を以ってして己を律し、能力をフルに活用して迷宮の中を静かに駆け巡り、私は紙面の四割程度を埋める事に成功した。地図を片手に胸元より投影しておいた機械式の懐中時計を取り出し、蓋を開いてやると、迷宮に潜入してからおよそ六時間の時間が経過していることがわかる。

―――たった六時間でこれか

己の疲労具合を考えるに、一日の半分ほどは費やしたのではないかと思っていたが、どうやら、たったそれだけの時間とはいえ、いつも以上に気を張りながら、赤の森の中を駆け回る強行軍は、私に時間の経過を遅く感じさせるほど、私の体力と精神力を削っていた事に気がつく。肩腰を回してやると骨の鳴る音が聞こえ、両腕を広げ、胸を張ると、縮こまっていた筋肉が伸びる感覚を覚えた。ああ、なるほど、だいぶ疲労がたまっているのだな、と思う。

ただし、地図はその苦労の甲斐があったと言えるだけの出来栄えだった。区画ごとにきちんと区切られ、迷いやすい場所は何を目印としてすれば良いかを書き込み、次の分かれ道や三叉路、丁字路までどのくらいの距離があるかをきちんと書き込んだ地図は、たとえ迷宮の事を知らぬ者が迷い込んだとしても、脱出を可能とするだろう。私は自らが作り上げた地図を見て、満足の吐息を漏らす。そして私は前方を見た。

暗い闇の中、赤い地面には直径二メートル程の穴が斜めに空いている。斜度は二、三十度といったところだろうか。穴の中にランプを入れてみると、それは光が奥を照らしきれないほど長く続いており、この洞穴が何処かに繋がっているのだろうという直感を得た。

私は手近にあった石を握ると、地面に不自然に空いた穴めがけて投擲した。洞穴の斜度と平行に投擲された石は、間闇の中へと消えてゆくと、しばらくのちに地面とぶつかり、反射音を上げた。少なくとも、この先幾らか進んだ場所までは地面が存在するらしい。おそらくこれが次の層に続く階段なのだと見定める。

さて、クーマの指定にあったのは、迷宮一層一階分の地図。だとすれば、次の層に続いていそうな道も見つけている今、おそらくこれで一階の地図は完成なのだろう。クーマより請けた依頼は、一層一階の地図を持ってくる事であったわけであるし、私はそろそろ撤退時であると判断する。まだ接敵もしないうちから帰るなど多少慎重にすぎる気もするが、英霊時代と違って無茶の効かない体だ。臆病なくらいで、丁度よいだろう。

決心をしてランプを持ち直し、踵を返すと、今まで通って来たはずの道が今度は通せんぼをしているような雰囲気を醸し出していた。侵入など許可していない。そして、許可なく侵入したものが勝手に出ていく無礼も許していない。きっとそういう事なのだろう。

強まる不快感。どうやら新迷宮は私をここで仕留めておくべきであると判断したようだ。やれやれ、狭量な事だ。無視して来た道を引き返していると、周囲から重圧は徐々に強くなってゆく。重圧は己が彼らにとって招かれざる客なのだという異物感を私に強く感じさせた。

異物感。自らが思ったその言葉は、とてもしっくりとした表現である気がした。そう私は今、まさに迷宮という巨大生物の腹の中に迷い込んだ異物なのだ。蔦は毛細血管、砂は細胞とすれば、樹木は静脈か、動脈か。ぼうっと突っ立っていれば抗体に退治されるか、体液に溶かされてしまう。そんな馬鹿げた誤認を確信と思わせるような気配がこの異界にはあった。

―――人が溶かされる、赤き異界

自らの言葉に引っかかりを覚える。二つの言葉は結びつき、光景と共に大脳新皮質と側頭葉を刺激し記憶を掘り起こす。あれはいつのことだったか。生前、否、もっと直近の……

「―――悠長に考えている場合ではないか……」

ポツリと漏らす。思考は周囲より漂ってくる荒々しい気配に妨げられた。敵の数は……四。

先ほどから私が無駄に精神をすり減らしている原因の一つが、これだ。奴らは一、二時間ほど前、瞬間だけ気配を露わにして以降、ずっと私に付き纏い続けてくる。正体を確かめようにも、近寄ろうとすれば、その気配を断ってどこかへと消えてしまうので、奴らの正体は未だにわかっていない。だが少なくとも私が彼らに歓迎されていないことだけは、闇の向こうより放たれる剣呑な気配が、その予感が真実である事を証明していた。

―――また今度も、近づくと離れてくれるのだろうか……?

そう思って、地面を摺り足でゆっくり進むと、闇の向こうで気配が増大したのがわかった。視界に映らない敵が一瞬だけ投げつけてきた全身を舐めるような値踏みの視線伴う気配と、直後に気配を消した動作からは、戦闘の意思を感じとることができる。引き返すという行為がトリガーになったのか、私はついに仕留めておくべき相手として敵に認識されたらしい。

すぐに戦闘が始まる。判断と同時に素早く筆と地図をバッグへしまい込むと、地面にランプを置くと、揺らぐ炎の輪郭が闇の中に自分の領域を作り出してくれた。呼吸を正して力を抜き、己の身体に強化の魔術をかけると、強化を施された耳が地面をこする音を捉えた。これはおそらく―――

「ちっ―――!」

ランプに照らされた赤の森の中で、周囲の樹木の陰から飛び出して来た奴らは、果たして予想通り蟒蛇であった。その数は四。周囲と同じく全身が赤く染め上げられた体を持つ蛇は、一口で人を丸ごと飲み込む事が可能な程の巨大な口を大きく開けて、獲物を仕留めるべく、四方より炎の輪郭の中心にいる私へ突撃してくる。

その際、炎の灯りに大きく開かれた口腔の外でキラリとした何かが光を反射した。無数に宙に散る黄色く輝くそれは、口腔内に几帳面な感覚で生え揃えられた数十もの牙から排出され飛び散った液体である事がわかる。

その液体と蛇の巨体とにより、私は三百六十度の進路と退路を塞がれている。液体は状況と敵の姿から予測するに毒だろう。どうあれ、敵の進路を防ぐようにして嫌がらせのごとく撒き散らかされた液体に触れれば、ろくなことにならないだろう事は確かだ。

―――ならば真正面より突っ込んで斬り伏せるのは悪手か

なるほど、毒液とその巨体で逃げ場を奪うとは、獣ながら見事なコンビネーションだ。だが、舐めてもらっては困る。いかに包囲しようが、所詮は二次元的な包囲陣。ただの人になら通用したかもしれぬが、仮にもこの身は元々英霊という高次の存在であったのだ。

その巨体と毒液のコンビネーションによる包囲網など、こうして強化を施した足で宙に逃げてしまえば、恐れるに足らない―――

「―――なにっ!」

と、思い切り地面を蹴って回避を試みたその先に奴はいた。跳躍の先、樹木の上より大口を開けて落ちてくるのは、今しがた地上で見たのと同種の蟒蛇だ。下のやつらよりも一回り大きな姿をしたその蛇は、しかし下のやつらと同様に、大きな口から黄色い毒液を散布しながら落下してきていた。また、牙より勢いよく飛沫される毒液は奴の落下速度より早くこちらに迫っている。

強化魔術のかかった思考は高速で動き、頭上より落下してくる毒液の雨が体に触れた場合の被害を予想する。結果、広範囲に撒き散らされたそれを、宙に跳躍したばかりのこの状態から全てを避けきることは不可能であると告げた。どれだけ楽観的に結果を見積もっても、少なくとも一雫は触れてしまう。

どうする。思考が打開策を思案し始めた時、じゅう、と強化した耳は何かを焦がす様な音がした。反射的にそちらへ視線をやると、外套の端が溶けているのが映る。どうやら地上の方の蛇どもの毒が掠めていたらしい。思わず舌打ちをする。

いかなる理屈かは知らぬが、奴らの毒は聖人の加護を受けて防御力を増した布を貫くほどの猛毒であるらしかった。聖人の防護で耐えられぬならば、当然元は凡夫である私程度がその毒に耐えられようはずもない。困ったことに、明らかになった事実は、益々、この毒液に当たるわけにはいかないという事実だけを明白にしてしまっていた。

しかし諦めず逃げ場を求めてあたりを見回すと、眼下では四方向より凄まじい勢いで迫ってきていた奴らが見事な姿勢制御で激突を避けた状態で固まっている事に気がつく。奴らはそして、じっと鎌首を擡げてこちらを見つめている。

敵の野暮ったい瞼の奥、その向こうにある赤い瞳と細められた瞳孔からは、感情の色が読み取れない冷徹な視線がこちらに向けられていた。その刃物の鋭利さを思い起こさせる視線からは、獲物がどこに逃げようと食らいついて見せるという意思を感じる。思わず舌打ち。

―――獣と思って侮っていたか

初めから地上よりの攻撃は囮だった。否、地上より繰り出す気配を感じ取れぬ相手ならそれでも十分に仕留められるし、たとえ気がつくほどの手練れでも意識をわざとそちらに集中させることで、気配を消した上空からの攻撃を気づかせないようにする、二段構えの作戦。

―――そして油断している相手を仕留めるのは、どちらにせよ必殺の毒液というわけか。

上の敵が散らす悪意の結晶片がこの身と接触するまであと幾秒もない。空中ではろくな身動きは取れない。絶体絶命か。そう考えた瞬間、頭上より落ちてくる敵の口角が天の方向に引き上げられたのが見えた。口腔内より外に出ている舌の先がチロチロと蠢く。

その動作は、獲物である私の苦悩を見抜き、絶望の未来に抗おうと無駄な努力を重ねている、と嘲笑う意図を含んでいる気がして、私をひどく腹立たせた。

「舐めるなぁ! 」

生じた怒りを雄叫びに乗せて、それと共に両手の中へ一対の短剣を投影する。対称的に黒白の意匠が施されたそれは、宝具と呼ばれる、「干将・莫耶」と呼ばれる中華の宝刀―――を模した物に私が改良を加えた投影品だ。

私はその黒白の双剣の一本ずつを上下向かって投擲した。宝具と呼ばれる二つの短剣は毒液の障害を跳ね除けて、蛇に向かって突撃する。続けて私は、自らが纏う赤い聖骸布を即座に多重投影すると、膝を抱きかかえ、全身を丸く縮こめながら、自らの肉体にきつく巻きついてくれるよう、力一杯己の体に叩きつけた。全身を布が覆っていく。そして布が口元まで覆い隠す直前、世界に向けて一言呟いた。

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

放った言霊により離れた連理の双剣はすぐさまそれぞれの刀身から光を放って同時に点滅し、直後、膨大な熱エネルギーを放ちながら崩壊、そして爆発した。上下の離れた二点で生み出された膨大な熱の奔流はまず周囲を照らす白光となり、続けて圧を生み、さらには不規則な暴風を呼んで、敵である蛇たちはおろか、生み出した張本人である私さえもその嵐の内部に飲み込んで荒れ狂った。

その暴威や凄まじく、布で覆われ暗転した視界の中にまで光が飛び込んでくるほどだった。固く瞑った目でそれでも眩しいと感じた光は、全身を襲う熱と衝撃により頭が悲鳴をあげた結果だった。事前に聖骸布をぐるぐると巻きつけたは良いものの、体の関節の動きを阻害せぬ柔らかさを保持された布は、宝具が崩壊する際に発生するエネルギーが生み出す熱と衝撃を全て防ぎきれる程の頑強さを持っていなかったのだ。

少しばかり見積もりが甘かったが、とはいえ五体は満足の状態で残り、感覚も死なずに済んでいるのだ。あの聖骸布の守りすら貫く毒液を浴びれば、血肉が融解して今より酷いダメージを被っていただろうことを考えれば、安い損害といえるだろう。そう、この程度の損害は、状況を切り抜けるための必要経費だったのだ。

全身を揺さぶる熱と衝撃に口元を強く噛み締めて耐えていると、やがて投影した聖骸布の表面が大きく削られて、薄くなった部分が破けた。同時に投影された物体はその形を崩されたことで空気の中に消えてゆく。守りを失った全身を熱風が舐めるように通り抜けてゆき、露わとなっている皮膚に痛みが走った。私は熱気と痛みに促されるようにして、瞼を開ける。

開けた目は天と地とを交互に映し出す。世界がぐるりと回っていた。否、私は未だに宙を舞っていたのだ。ただ、もうゴールはすぐそこである。私はもう一度聖骸布を投影すると、空中で勢いよく広げ、勢いを殺しながら落下の方向を調整し、地面に着地した。

けれどやはり、布と両の足を使っただけでは宝具が爆発した際生じた衝撃を受け流しきれず、私は着地後多少地面を転がり、全身を使って衝撃を分散しながら地面へと逃ししてやる。

やがて起き上がって、すぐに肺の中の息を吐くと、着地と回転の衝撃で逆流してきた胃液が本来関係な部分へと到達し、私は思わずむせてしまった。ツンとした酸味が鼻の中に広がるが、無視して大きく一度咳き込むと、煙の方へと目を向ける、眼球の表面を異物が襲った。

目をしぱたたかせると眼球に入った埃が涙に流れて落ちてゆく。そこでようやくまともになった眼球を用いて周囲の光景を確認、状況を把握しようとするが、爆発の際ランプが吹き飛んでしまったため、目の前には赤暗い闇が広がるばかりである。私は再度ランプを投影し、地面に置くと、周囲の気配を探った。

直後、赤い土砂と樹木の破片と葉が視界一面に広がる中、私の耳に地面を叩く大きな音が煙の向こうから聞こえてくる。音の発生源はなにか探るべく煙幕の方へと凝らすも、わからない。警戒を解かないまま、布の投影を破棄すると、先と同じ黒白の双剣を投影する。意識は周囲に散らしたまま、体は意識に反応してすぐに動けるように弛緩させておく。

気配を探っていると、火傷した肌を風に乗った埃が叩き、あちこちの部分がじくじくと痛んだ。どうやら痛覚はまだ死んでいないようだ。己の体の頑丈さに感謝しつつ、痛みを無視し、周囲に気を配ったままに待機する事、十数秒。やがて煙は風に撒き散らされてゆき、目の前に自らが起こした結果が広がった。

まず見えたのは、上空にいた大蟒蛇……の残骸だ。すぐ近くにまで飛ばされて来ていた蛇の骸は、剣より生じた爆発により頭部と胴体の大半を消し飛ばされ、そして尻尾に近い部分だけがまともな形で残り、地面に叩きつけられたのだ。先程の音はおそらくこれだろう。

蛇の骸は尻尾から先も熱が体内に侵入したようで、ちぎれ飛んだ断面に焼け爛れた跡が目立った。見るも無残な死骸を見て、これは間違いなく死んでいると判断する。さて、これで空中のは片付いたとして、地上に残っていた四匹は―――

「こちらも死んでくれていたか…… 」

自分が生んだ光景とはいえ、四匹の死骸は酷い有様だった。頭上より熱波と衝撃、暴風を叩きつけられた奴らは、原型こそ留めているものの、ランプの光を受けて美しく赤く輝いていた鱗は、殆どが真っ黒に焦げて、剥げて、周囲にひどく飛び散っている。鱗剥がれた場所より覗く肉や内臓は、こちらも元の色がわからなくなるほど炭化し、あるいは爛れていた。

おそらく死んでいると見て間違いはないだろう。とはいえ、こちらはまだ原型を留めている。蛇といえば死と再生の象徴であるし、油断はできない。確認のために数本の剣を投影して奴らの頭に投げつける。

焼かれ柔らかくなった肉は一瞬の抵抗を見せたが、しかし、すぐに抵抗をやめて異物を体内に受け入れ、四匹の頭に赤い血の花が咲く。その血飛沫が見せた血液の赤だけは、この異なる赤色だらけの世界で、唯一自分の知る赤と同じだった。たったそれだけのことで、何故だか不思議と気持ちが落ち着いてゆく。そして冷静になった頭で考える。

蛇は剣が刺さった際、びくん、と剣が飛来する勢いに負けて体が跳ねたが、それだけだった。これが演技だというなら大したものだが、おそらくそれはないだろう。先の一匹と合わせて、これで五体。他に敵のいる気配もない。多少隙を見せても、襲いかかってくる様子もない。

しばらくした後、残心を解いて、ようやく戦いは終了したのだと判断を下す。安堵に長く重い息を吐きだすと、たったそれだけの動作で全身に鋭い痛みが走った。緊張の糸が切れると同時に、脳内の興奮にて抑圧されていた神経が騒ぎ出したのだ。髪を揺らす程度の風が吹くだけで全身に剣山を刺されたかのような痛みが走ることに、思わず苦虫を噛む。

省みれば自業自得の怪我とはいえ、これは少し代償が大きすぎる。宝具の爆発に身を晒すという無茶をやったせいで、身体中のあちこちに軽度の火傷が残っている。爆風の大半は聖骸布が防いでくれたものの、殺しきれなかった衝撃と炎熱はこの身に少なくないダメージを残していった。さて回復の必要があるが……そうだ、丁度いい。試してみるか。

突如名案を思いついて、バッグより薬液の入った瓶を取り出す。それはメディカⅢという、この世界で一般的に外傷に使われる回復薬の上位版だ。信じ難い事に、この薬は、振りかければすぐさま効力を発揮して切創、擦過傷、火傷といった外傷を癒してくれるらしい。

勿論、投影品であるが故に多少効果の低減は見られるだろうが、それでも冒険者たちの話によれば、切断された腕や抉れてしまった肉すら再生させる効力を持っているらしいので、相当の効力を発揮してこの程度の怪我なら完治を望めると判断する。

私は期待して、回復薬を体に振りかけた。冷たい液体が全身を濡らし、薬液が持つアルコールや独特の香りがあたりに広がる。いつ効果を発揮するのだろうかとしばらく待ってみるも、しかしなにも起きない。

首をかしげる。おかしい。私はたしかに冒険者が持っていた回復薬を解析し、そしてそれを投影したのだ。解析結果を確認し、そしてもう一度その解析結果に基づいて新たに薬液が入った瓶を投影し、中身を全身に振りかける。

二度目の薬液はすでに濡れた肌の上の液体と混じり、その水量や水路を増やしながら垂れていくだけで、やはり怪我になんの効力も発揮してくれない。

私はどういう事かと考えようとして、やめた。どうせ今考えてもわかるものでない。投影したアイテムが効果を発揮しないという事だけを知れただけでも儲け物と考えておこう。

全身についた火傷が液体に濡れて、少しだけ温度を奪って行く。風が吹いて、濡れた火傷の跡が痛む。ただ、その痛みは、少し柔らかくなっていた。投影した品は、回復効果はもたらさなかったが、消毒効果と傷口を洗浄する効果だけは確かにもたらしたのだ。

―――とりあえず、火傷をアルコールで消毒できただけでもよかったとするか

そして私はバッグの中身が全て役立たずになった事に少しばかりの無常を覚えながら、それらの投影品を破棄する。さらさらと形が崩れて、バッグの中で静かに消えてゆくそれらを眺めながら、決心する。

―――やはり撤退すべきだな

万全に近い状態だったのに、たった一度、道中の敵と戦闘しただけでこのザマだ。久方ぶりの生身の体に文句をつけるつもりは最早ないが、やはり勝手が違う。色々と過剰に強化を施し過ぎたせいで、身体中のあちこちも痛んでいる。英霊だったころはこの程度の傷や痛み、魔力を注ぎ込んで治癒魔術をかけてやればすぐに治ったものだが、やはり、生身とエーテル体は勝手が違う。もう少し慎重に、その辺りの分水嶺を把握してやる必要があるか。

ともあれ、痛みがあるままでは不便である。私は回復魔術を使用しようとして、しかし失敗。首を傾げて、もう一度同じように魔力回路に魔力を流し込んで、気づく。ああ、そういえば、もう私は英霊ではなく、衛宮士郎という男の肉体を得た状態なのだ。

この男の魔力回路は、たった一つ、「己の心象風景で世界を侵食する事」に特化している。ならば、もう回復魔術が使えなくなっていて当然か。いや、己の戦力すらも正しく把握できていなかったとは、なんともお笑い種だ。

自身の能力の把握と、この世界の回復薬とやらが自分に効果を及ぼさない理由を考察するのが課題か。増えた問題に自嘲気味なため息を吐くと、バッグより地図を取り出して眺める。己の性格を表すかのように精巧に書き上げられた地図は、全体の四割程度しか埋められていないが、往復を繰り返して、通常の人間が通行可能そうな道は全て記載しつくしてある。

だからおそらくは完成と見て問題ないだろうし、また、問題があればラーダに提出した際指摘してもらえるだろう。もしかしたらこれでも問題なしと、甘く見積もってくれるかもしれない。私はクーマの顔を思い浮かべて多少楽観的にそう思った。

地図に問題がなければ、これを提出する事で、私は冒険者として正式に活動することが出来る。幾許かの報奨金も出るといっていたから、まずはそれをもってして食料と拠点を確保しよう。幾ら貰えるかは知らないが、クーマという男の性格からして、少なくとも一泊と一食分位は出してもらえるだろう。となれば、現時点で懸念しておくべき事は―――

「その後、この地に留まってやっていくための金か」

金。銭。なんとも世知辛いが、何をするためにも等価交換が原則だ。大抵の厄介ごとを片付けてくれるそれを手に入れるためには、何かを持ち帰り、執政院に鑑定してもらい、その結果を道具屋に買い取ってもらうのが、この世界での冒険者の通常のやり方らしい。幸いにして素材となりそうなものはそこに転がっている。

―――本来は、このような目的に使う剣ではないのだが。

私は敵に近づくと、ランプを地面に置きなおして、毒液に触れないよう慎重に、しかし、急いで金になりそうな部分だけを選別して解体する。宝具は間違った用法にも文句を言わずその切れ味を発揮して、硬い鱗を苦もなく切断し、その巨大な肉と骨を切り裂いてくれた。

解体作業をつづける中、五匹のうち、一つは全身がまともに残っていることに気がついた。また、人間が丸々四、五人は軽く飲み込めそうな巨体は、思いの外軽く、強化した体なら容易に持ち帰ることが出来ることが判明したので、悩んだ末に、その全身を丸ごと全て持ち帰ることにした。これなら標本として高く売れるかもしれない。なに、いざとなれば捨ててしまえば良いのだ。

やがて気の使う作業を終えたころ、私は土天井の隙間から差し込んでくる光を浴びて、夜が明けた事に気がついた。朝霧の中、照らし出される黎明の光はまるで薄明のようにあたりを柔らく照らしている。

その光は赤の世界にあって、唯一暖かみを感じるものだった。その範囲は徐々に広がり、やがて森全体を明るく照らして、赤の世界を別の色で染めてゆく。眩い光の奔流は私に軽い酩酊感を齎した。陶酔の中で思う。

―――ああ、このまるで別のような世界の中で、私はこうして生きてゆくのだな。

そして私は光に導かれるようにして迷宮を引き返し、エトリアへの帰路を急いだ。

ここで時間が少し巻き戻る。エミヤがエトリアにやってくる日の朝、「マギ&アム道具屋」では一人の少女が悩み顔を浮かべていた。まだ幼さの残る顔並みに多くの皺を作ると、腕を組みながら、発達しきっていない未成熟な体を椅子に背を預けて体を前後に揺らしている。渋面の上で短く揃えられたセミロングの茶色い髪がまるで生き物のように跳ね回った。

彼女の名前は、響。「マギ&アム道具屋」あらため、「響道具屋」の現店主である。

さて、どうしたものだろうか。最近店の客が減ってきている。両親の残してくれた蓄えとアイテムはまだ残っているが、このままだと一月としないうちに廃業だ。そろそろ本気で身の振り方を考えないといけない。それはわかるが、どうすればいいか皆目見当がつかない。悩ましい。横で纏めた髪を弄って見てもまるで名案は浮かんでくれない。

大きなため息をついて机に突っ伏した。湿気を吸収した木製テーブルはさらりとした感触で頰をつるりと撫でて、落ち込んだ気持ちを慰めてくれる。その心地良さに身を任せていっそ眠ってしまいたかったが、昨日もそうやって1日を意味もなくだらだらと過ごしたばかりだ。そろそろ動かなければなるまい。なけなしの気力を込めて椅子から立ち上がると、ハタキを持って店の中へと向かう。

店に並んだ陳列物をどかし、はたきをかけると久しぶりに埃が空中に舞うのを見た。数日の間掃除をやらないとやはりこうなってしまうか。仕方のない事だとは言え、少々面倒くさい。

いつもより時間をかけて店内の掃除を済ませると、扉に貼った喪中の知らせをひっぺがし、木札をひっくり返して店の表に木製の看板を出す。看板には「マギ&アム道具屋」と書かれていた。慌てて店内に戻ると、サラサラと筆で自身の名前を冠した屋号を書いて、糊でぺたりと看板の上に貼り付ける。さぁ、数日ぶりの、いや、「響道具屋」の初開店だ―――

――――――と、なんとか空元気に笑顔を貼り付けて店を開けたのはいいものの、もうお日様が天高くに登る労働をしたというのに、客が一人もやってこない。この間、私のした事といえば、誰も訪れない店を綺麗にする事と、机の上で時間を怠惰に浪費する事くらいだ。

いや、この休業期間で客が少なくなるかもとは覚悟していたが、もとより大して期待していなかったツールマスターとしての仕事は当然として、まさか本業である道具屋の方までこれほど閑古鳥が鳴くような事態になるとは、予想だにしていなかった。これは少々まずい。このままでは蓄えが一月もしないうちに無くなり、干上がってしまう。

対策を考えないといけない。目を瞑り両手を合わせてやると、額に当てて光を遮り、考え事に意識を集中させようとするが、すると今度は表通りのざわめきを耳が拾って、うるさいと感じた。うん、まだ余計な刺激が邪魔だ。どうせ客は来ないのだから遠慮する必要もない。

仕方ないから両方の上腕の部分で耳を挟んでやり、机に肘をつく。そして瞼を閉じて机の方へ顔を向けると、そこでようやく外からの刺激を完全に遮断することができた。邪魔が一切入らなくなった状態で、私は意識を頭の中に集中し、現状を分析する。

現状、この響道具屋には全く客が来ていない。道具店の方に客が来ない原因は、この店が以前と違う点を考えれば、それが原因だと判断できる。つまり、多分は冒険者である両親が流行の赤死病で亡くなった事が原因で、この店に客が来なくなったのだ。

そもそも両親が建てたこの店は、現役冒険者であった二人が持ち帰ったもの売るだけの店であった。道具を製作するための炉はないし、両親は土を使う権利すら持っていなかった。それでも結構な繁盛を見せていたのは、この店が、装備を補修したり道具を作成したりする際に必要となる、例えば鍛冶や冶金の為の槌とか、薬を入れる為の瓶とかの材料をそこそこの値段で売っていたからだ。

つまり私たちは冒険者向けではなく、迷宮に向かう彼らを補助する道具屋を相手に定めて商売をしていたのだ。

道具屋は飽和しているから、道具屋が必要とする物を狙う、という両親の狙いは、冒険者へ依頼し手数料を払うという手間を省けるという点が特に道具屋の間で評判となり、商売は繁盛をみせた。また、道具屋が冒険者への依頼の手間や手数料を惜しんで迷宮に不法侵入するという事態の数を激減させた為、執政院の方からもお褒めの言葉を頂いた事もある。

ただまぁ、やっかみもあって、あまりに道具屋らしくない、という文句がどこかから出た。そこで迷宮探索の折、戦力にならない私がツールマスター、すなわち、道具の力を引き出したり、道具を修繕したりする職業に就き、店の一角でこっそりと装備品や衣服、携帯磁軸の修繕などの依頼を受けて、道具屋としての体裁を保っていたりもしたのだが、まぁ、私の稼ぎは雀の涙だったし、今は関係ないだろう。閑話休題

そんなわけで繁盛していた店はでも、旧迷宮の深層にも潜れる冒険者であった両親が赤死病で死んでしまった事で、事態は一変したのだ。両親が死んでしまって素材が手に入らなくなった、というのだけでも結構致命的だけど、それ以上に赤死病で死んだというのがまずいのだろう。

験を担ぐ冒険者の間では、赤死病という運が悪いとかかって死んでしまう病気は敬遠される傾向にある。ここ最近腕利きの冒険者の間で増えているという噂のお陰で、多少、その具合が緩和しているところもあるけれど、基本的に、赤死病にかかって死ぬ奴は運が悪いし、それと関わるのは縁起が悪いというのが、冒険者たちの間での認識だ。

だから冒険者にとって、赤死病で死んでしまった両親が取ってきた素材から作られた道具を使って作られた品は敬遠されるようになる。つまり売れなくなる。そして道具屋もそれを嫌って、この店で取れた材料を使って作られた道具を使わなくなるし、買おうともしなくなる。だから在庫もはけないし、そもそもそんな縁起の悪い店に訪れようとしなくなる。

まぁ、死と隣り合わせの職なのだから、その辺敏感になるのはしょうがないとは思う。かかる確率の低いと言われている流行病に二人とも罹患して死んでしまったのだから、むしろこの店や、この店の品は厄を寄せるものとして扱われて然るべきなのかもしれない。

うん、なら、いっそ開き直って呪いの品として売り出せば、呪術を得意とするカースメーカーあたりが買ってくれるのではないか。などと思ったが、そうすると今度は呪いの品を売っていたのか、このやろう、と叩かれる未来が見えた為、やめた。目先の利益に囚われて、これまでの積み上げてきた信用と、今後一切のそれを失うなんてなんとも馬鹿らしい。

しかし、道具が売れないのはしょうがないにしろ、ツールマスターとしての依頼でやった仕事の完成品すら取りに来てもらえないのが、少し気になる。両親が亡くなるまでの間は、少なくとも日に一度くらいは、ツールマスターとしての仕事が舞い込んできていたが、今やこちらの方も一人として客足がない。その上、いくつかの荷物が溜まったままだ。うーん、と考え込んで、頷く。

うん、やはりこれも、冒険者の両親が病で亡くなった影響なのだろう。きっと彼らは、運の悪い冒険者が作った店に来訪して、運が悪い両親を持つツールマスターに依頼した品物を受け取りたくないのだ。少しばかり不満に思うがそれ以上に、自らの腕ではなく、両親の威光によって仕事を得ていただけだったのだと突きつけられた気がして、悲しかった。

そうして湧き上がってくる思いが心中を満たして行き、気持ちが塞ぎがちになる。いけない、このまま気弱になってしまうのだけは避けないと。両頬を掌で叩いて気合いを入れると、先ほどまでと同じ格好に戻り、もう一度考え込む。さて、自分には何ができるだろうか。

ギルドにツールマスターとして登録してある自分にできるのは、道具の力を引き出す事。劣化した道具を元どおりに直したり、修繕したり、道具を作ること。道具を直す、作る。その辺りを強調した作りに内装を変えてみようかしら。

いやでも、変えたところで、立ち退いた客足が戻ってこなくては意味がない。客足を戻すための何かが必要だ。声かけ、呼び込みなどが必要だ。でも、赤死病で死んだ両親を持つ自分が宣伝をしたところで、果たして人が呼び込めるのだろうか?

うん、まずは赤死病の悪評を払うのが優先かな?

あれも違うこれもだめ、と頭を悩ませていたおり、空腹が意識を彼方より現実へと引き戻した。顔を上げて、表通りに面したガラスの向こうの闇を街灯の灯りが照らしているのを見て驚いた。加えて、朝方より店を開けてから半日の間、だれも来ないという事実が、否が応でも現在が切迫した事態であることを告げていた。

―――ほんと、早急に、本格的な対策を練らないといけない

とりあえずは店を閉めて二階の自室で集中しよう。立ち上がると、あまり意味はなさそうだが表の立看板をひっくり返して閉店の文字を表にし、期限の切れた道具を袋に詰めて一纏めにする。そうして出来上がったゴミを捨てるべく、私は裏口に向かおうとして、気付いた。

裏口へと続く扉の向こうから、カツン、と音が聞こえた。誰かが裏口付近にいる。来訪者だろうか。もしかして、依頼の品を取りに来たとか? でも、なんでわざわざ裏口から?

疑問は体を硬直させる。やがてなにやら色々な音が聞こえたかと思うと、誰かは石畳を叩く足音を立てながら遠ざかってゆく。突然出来事にしばらく固まっていた私はその音を聞いて、ハッ、と意識を取り戻し、廊下をかけて裏口を開け、音の消えていった方を眺めた。

すると赤い外套を引っ掛けた長身の男性の姿が眼に映った。ピンと立った白いツンツン頭に真っ直ぐに伸びた背中。左肩には冒険者の証ともいえるショルダーバッグを腰の後ろに来るように引っさげ、そして細身ながらもがっしりとした男は堂々と立ち去ってゆく。しゃんとした後ろ姿に少しの間見惚れたが、気を取り直すと、周囲の地面を見渡して、安堵のため息を吐く。

なんの異常も見当たらない。いや持っていかれたところでなんの問題もないものばかりだが、とりあえずその事実に安堵した。しかしなんでこんなところにいたのだろう、と不思議に思ったが、表通りより聞こえてくる威勢のいい掛け声を聞いて、なんとなく予想がついた。

見たところ腕利きの冒険者のようであったし、大方、しつこい依頼者や商人の要求を避けて人通りの少ない裏路地に逃げてきたのだろう。腕の立つ冒険者を安く使おうとするケチな人や、高価なものを買ってもらおうと働きかける路上の商人も、最近めっきり少なくなったが、いないわけではないのだ。

しかし人に追われる、か。それは避けられている状況の自分にとって、少しばかり羨ましい状況だな、と思う。なにせ、なにもしなくとも、向こうから勝手に人が寄って来る―――

その時だ。脳裏に雷光が走った。

―――そうだ、冒険者だ。それも腕利きのそれになれば良いのだ。

両親や彼の様に一級の冒険者として活躍すれば、宣伝せずともあちらから客はやって来るだろうし、売るための道具も手に入れる事が出来る。いやいやそれどころか、もし新迷宮を攻略できるほどの冒険者になれれば、今の悪評など吹っ飛ぶであろうし、褒賞金も手に入る。それで全部の問題が解決だ。

まぁ、とはいえ旧迷宮の四層を活動拠点とする冒険者ですら苦戦する新迷宮を攻略したりする事が出来るのは、一握りの冒険者の中の更に選りすぐりが適切な徒党を組んだ場合だけだろう。また、冒険者になろうとする事自体は容易だが、単なるツールマスターに過ぎない女一人が思い立ったからといってすぐに新迷宮で活動する冒険者として認められる訳でないし、目的を達成できるだけの実力が身につくわけでないし、頼りになる仲間が出来るわけでない。

けれど、幸いにして私には少なくとも、その新迷宮を攻略出来そうな一握りで、新迷宮の探索許可を持っていて、仲間になってくれるかもしれない頼りのある人たちに心当たりがあった。それは亡くなった両親がかつて所属していたというギルドの人たちだ。

もしかしたら彼らを頼れば、なんとかなるかもしれない。見出した希望は落ち込んでいた気持ちを上向きにしてくれた。よし、熱が冷めないうちに、すぐ実行といこう。

店の中に戻ると割烹着を脱いで椅子に引っ掛けると、コートを羽織る。そして短絡的かつ直感に任せて出した答えを抱いたまま裏口より飛び出すと、私は裏路地をかけて賑わう雑踏の中へと突撃した。

通常エトリアにおいて、冒険者たちは身支度を整える拠点として、ラーダ推薦の宿屋を利用する。宿屋はラーダの協力により、荷物預かり、強さに応じた宿泊代金の減額、いつでもチェックインが可能といった、冒険者向けのサービスを提供できるようになっているので、冒険者たちはこぞって推薦の宿屋を利用する。宿屋はエトリアの外部よりやってきた冒険者たちにとって大事な拠点なのだ。

そんな冒険者たちに多くの奉仕を行ってくれる推薦の宿屋であるが、いくつかの厳格に守らなければならない決まり事があり、その中の一つに、退出時刻の厳守というものある。冒険者たち宿泊の際に次の朝か夕方の五時まで休むのかを選択させられ、そして選んだ時刻になると、問答無用で宿屋を追い出されてしまうのだ。

どれだけ疲れていようが、半日か、一日たつと、時刻きっかりに部屋にある物ごと外に追いやられる。それを嫌った人間たちが集って資金を出し合い、エトリアの土地を借りたのが、ギルドハウスの始まりと言われている。

冒険者であるなら一度は考える拠点、ギルドハウスであるが、維持のためには宿屋へと泊まるより多分に金を食い潰す。背後に潤沢な資金を持つ支援者がいる冒険者か、相応の稼ぎをひねり出すことが可能な冒険者でなくては持つことを許されないそれは、一定の信用や実力を証明してくれるまさに、冒険者たちが垂涎する、憧れの城。

のはずなんだけれど。

―――あいかわらず、質素というか……

目の前にある選ばれた一部の実力者のみが保持できるという謳い文句のギルドハウスは、木造建築の二階建て一軒家だった。飾りっ気というものがない玄関先に義務として定められているギルド名を記す看板がなければ、この建物は民家と区別がつかなそうだ。清貧で質素な木造の外見は、ある意味で、はるか昔林業で生計を立てていたエトリアらしさを持ってはいるが、好奇心と無駄を好む冒険者らしくない造りである。

私はそんな木造建築の入り口扉前に立つと、控えめに数度扉を叩いて声をかけた。

「ごめんください 」

しばらくそのまま待っていると扉が開き、細身であるがしっかりと出来上がった上半身をさらけ出した艶やかな黒髪の男性が姿を現した。疲れた顔で、瞳の下に隈も見えるが、それでもしっかりと背筋を立てて応対してくれる彼は、このギルドハウスを所有するギルド、「異邦人」のギルドマスター、シンだ。

「どなただろうか……、いや、ああ、君か」
「はい。その、ご無沙汰しております。生前は両親がお世話になりまして……」
「いや、こちらこそ彼らには世話になりっぱなしだった。感謝してもしきれない。……しかし、この度は御愁傷様だったな。まさか帰ってきて早々に訃報を聞くことになるとは……、っと、こんなところでする話ではなかったな。入ってくれ」
「ではお言葉に甘えて」

中に入り廊下を曲がると、そこはすぐに居間だった。大きな机が部屋の中央に鎮座しており、その周囲には椅子が。更に外側は、壁に沿って様々な道具の入った棚が並んでいる。

ギルドハウスは静まり返っており、人の気配がない。いつもならこの空間に他のメンバーも揃っているのだが、今日のところは彼一人のようだ。

「あいつらなら修繕依頼を出した道具の回収に出ている。二週間ぶりに迷宮から帰ってきたのが一昨日でな。昨日は身を綺麗にするのと挨拶回りと修繕依頼を出すので1日を潰した……ああ、好きにかけてくれ」

言われるがまま、近くの椅子に腰を下ろす。彼はリビングの奥に消えたかと思うと、ヤカンと湯のみ茶碗を二つ持って戻り、机を挟んで向こう側の椅子に座った。ヤカンの口から湯気を放つほのかに色付いた水が二つの湯飲みに注がれる。シンは一つをこちらへと差し出して言った。

「見た目は悪いが、とりあえず毒ではない。安心してくれ」

シンは言いながら自ら入れた飲み物を口にする。

「そんな事、言われるまで思いもしませんでした」

笑い、私は湯飲みに入った液体を口にする。ほのかな酸味と甘さが口の中に広がる。微かなほのかな甘みと、口当たりの良くさらりと喉を通る爽やかさは、私がよく知る味だった。

「これ……」
「君の母、アムから教わった、四層で取れる木桃と樹蜜とを合わせた物だ。採取が下手な我らでも作れ、かつ、胃もたれが起きないようにと、少ない素材であっさりとした風味に仕上げたと言っていた。現ギルドのメンバー全ての人間の活力剤だよ」
「やっぱり。でもいつもとちょっと違う気がします」
冒険者用だからな。体力回復のために多少塩を追加している分、甘く感じるのだろう」
「なるほど」

感心して笑い、手の中にある湯飲みに視線を下ろす。いなくなった父母の痕跡がこんなところにある。疎まれた彼らがこうして受け入れられている。その事実は暖かい気持ちを抱かせてくれた。彼の気遣いが嬉しい。

余韻に浸っていると、トントン、と彼が指の腹で机を叩く音が聞こえた。面をあげてシンの方を見る。目線が合うと同時に彼は頭を下げた。驚く間も無く彼はそのまま喋り出す。

「悪かった。本来なら彼らが亡くなってすぐに君の元を訪ねるべきだったのだろうが、その時我々は迷宮に潜っていて知らなかったのだ。訃報を聞いたのは昨日夕方、ヘイの道具屋へ行ってから……。 驚かされたよ。まさか二人共赤死病で亡くなるとは思わなんだ……」
「一緒に過ごしていた私が気づかない程、アッサリかかってポックリでしたからね……。迷宮に長く潜っている実力者ほどかかる可能性が高いとはいえ、ビックリです」
「その理屈でいうと我々こそかかってもおかしくないのだがな。わからないものだ」

シンは目を細めてしみじみと呟く。彼は意外だと思っているようだが、私はいつかこんな日が来るだろうとは思っていた。いや、まさか赤死病で死ぬとは思っていなかったが、多分、迷宮関連の何かで命を落としてしまうのだろうな、という予感はあった。

彼らからみれば両親は迷宮に行った回数が少ないかもしれないが、私からすれば、両親も彼らに負けないくらい迷宮に足を運ぶ冒険者だった。両親は家の道具が売れたと思えば、すぐさま迷宮に潜る予定を立てて、当たり前のように二人で出かけて二、三日家を留守にする。

もしかすると彼らは家にいない期間の方が長かったかもしれない。だからなのか、正直、今、二週間前に死んだばかりの両親の話をしても、思っていた程の動揺はない。死んだと知ったその時はびっくりして気絶してしまうほど嫌な気持ちが押し寄せたものだが、今はそんなことはないのだ。そう、あの時、気絶から起きた時、私はやはり今と同じくらいには冷静だった覚えがある。

きっと私は、今でもひょっこりと両親が帰って来る気がしているのだろうと思う。予定を立てていなくなる彼らは、そのうち帰ってくると思っているのかもしれない。無論、そんな事起きないことは理解しているのだけれど。

「君のご両親は優れた冒険者だった。君の父のマギは我々に戦い方を教授してくれ、アムは迷宮での過ごし方や日常での改善してくれた。彼らは我々にとって、恩人であり、戦友だった。だからこそ、今回彼らがいなくなった事は非常に残念だ。本当に、残念極まりない」

シンは目を閉じて、長く、思い息を吐く。心底の落胆だ。彼の言葉に嘘偽りはないと思えた。

「ありがとうございます。父母もあなた方の様な知り合いを持てて幸運だったと思います」
「そう言ってくれると有難い。……ところで今後、どうするのだろうか」

身の振り方を聞かれて、ハッと思い出す。そうだ、それが目的だった。

「それなんですけど、私、冒険者になって新迷宮に挑もうかと思いまして」

さらりと述べた言葉は彼の琴線に触れてしまった様で、シンの顔つきが変わった。憐憫の形相は鋭い冒険者のモノに変わり、真剣な目線が向けられる。浮わつきつつあった心情が一気に地に落ちて、心臓が締め付けられる感覚を味った。額に汗が出る。胸が圧迫されて苦しい。

「……どうしてわざわざ新迷宮の冒険者に? 」

喉が乾く。湯飲みに残った液体を飲み干すと、懐かしい味が少し気分が落ち着せてくれた。

「その、両親が死んでから道具は売れないし、仕事の依頼は来ないし、多分、両親が赤死病で死んでしまったから、験を担ぐ冒険者の方が寄らなくなったのかなって。それで、解消するなら、冒険者として活躍すればいいか、って思って、それで……」
「……」

しどろもどろの言い分に耳を傾けながら、シンは無言を貫いている。口元は固く結ばれ、視線はまっすぐ、目線は鋭い。

「それで、その、新迷宮を攻略出来るほどの冒険者になれば、色々解決するかなって思って。でも、新迷宮攻略できる様なギルドって考えた時、私が頼りにできそうで、思い当たるギルドがここだけで、それで」
「つまり君は、新迷宮を攻略したいから、我々と行動を共にしたいと考えているのだな? 」
「……はい」

シンは顎を掻くと静かに目を閉じた。彼より迸る気配が強まり、思わず唾を飲み込んだ。

緊張感が高まる。威圧に逃げ出したいと言う思いがフツフツと湧き出して来る。考えてみれば、いきなりすぎるし、あまりにも失礼な頼み事だった。頼みというより、妄言に近い。素人に毛が生えた程度の人間が一級線の人に言う事ではない。ああ、失敗した。どうしよう。

不安に押しつぶされそうだ。鼓動が早まり額に汗がにじむ。唾液をゴクリと飲み込む。ざわざわして落ち着かない気分が心中に広がった。頭の中ではすぐ未来にかけられるだろう罵倒の言葉を予想して、それに対する言い訳を考え出している。ああ、どうすればいいのだろう。馬鹿にしていると思われただろうか。うう、なんでもいいから、早く―――

「―――いいとも」
「――――――」

答えて欲しい。そう思っていると、突如として帰ってきた快い了解の返事に驚き、息を詰まらせた。胸の鼓動は最高潮になり、空気が喉元でつっかえて言葉が出てこない。

「いいとも、響。ギルドの代表である私は君の入団を認めよう。これからよろしく頼む」

机の上に片手が差し出された。握手を求めているのだ。呆けていた頭が動き出す。そうして壊れた人形の様に頭を上下させると、両手で握りしめて言葉を胸の奥より絞り出した。

「―――よ、よろしくお願いします!」

「というわけで、今日から加入させる事になった響だ」

シンの言葉に、一人が頭を抱えて前にのめり込み、もう一人は興味なさげに頭を抱えると椅子に背を預け、一人は腹を抱えて大きく笑う。知り合いが返してくる三者三様の反応にどう返せば良いか分からず、私はとりあえず当たり障りのない言葉をひねり出した。

「よ、よろしくお願いします……」
「こちらこそよろしくお願いします」
「よろしくー」

三人のうち、二人からは色よい挨拶が返ってくる。だが、一人は未だに頭を抱え込んだまま、徐々に机に突っ伏し両拳を机に立てた姿勢に変わって行く。よく見ると彼の体が小刻みに震えていることがわかる。あれは悩んでいるのではない。怒りに身を震わせているのだ。

「お前は、一体、何を、考えているんだ……!」

それは腹の底から絞り出された重低音。一言と一言の間にいちいち息継ぎが入っているあたり、よほど腹に据えかねていると見える。短く刈り上げられ油で固められた髪の一本一本を逆立たせながら、渋面に大量の皺を生んだ状態で、その大柄な長身が目の前の机をガタガタと震えさせる様は、なんとも迫力満点だ。先ほども思ったのだが、一級冒険者の生み出す威圧感というか、気配というか、そんな感じの空気というものは体に悪い。圧迫感だけで過呼吸になりそうだ。怖い。

「私か? 私が考えているのは、勿論、迷宮攻略に巣食う強者との戦いのみだ。それ以外の事には基本的に興味がない。お前も知っての事だろう、ダリ」
「……よし、よし、そうだな。お前はそんな奴だ。わかった。わかったよ。じゃあ、説明しろ。なぜ彼女を我々のギルドに加入させた」
「それは勿論、彼女が迷宮攻略の役に立つと感じたからだ」
「それはどういう風に?」
「わからん」

シンのきっぱりとした断言に、ダリは今度こそ顔を両手で覆って、指の間から深く長いため息を漏らした。喉元から甲高い声を漏らしながら、さらに肺の中の空気を全て吐き出してもなお続けられるその行為からは、心底の落胆と諦め、そして、呆れが混ざっている気がした。

そのやりとりに他の二人が反応して笑い声をあげる。私と同じくらい小柄な体のサガは、両手を数度叩き、その細く小さい指先でシンとダリを交互に指差して。ダリと同じくらい背が高く、しかし彼とは対象的に細身のピエールは、口元に白魚のような手を当てて必死で笑いが漏れるのを堪えようとしながらしかし堪えきれず、不連続に体と長い金髪を揺らしては、端正な顔のその口元から、息を漏らしていた。

私はもはやどうしていいか分からず、オロオロと突っ立っていることしかできなかった。

「―――おま、お前、おまえ、おまえは、おまえ!」
「落ち着け、ダリ。言語中枢が馬鹿になっていてまともな言葉になっていない」
「お前! サガ! お前は何も思わないのか!?」

荒ぶるダリを諌めようと試みたサガは、小さな肩をすくめると唇を片方釣り上げて言う。

「うん、まぁ、思わないところがないわけじゃないけどさ」
「なら!」
「でも、いつものことだろ?」

サガの言葉はなんとも言えない諦観のそれに満ちていた。

「シンの奴は言う事やる事突飛だけど、それは決して考えなしの言動じゃあないんだ。辛抱強く聞き出してやると、きちんとあいつなりの理論と根拠があって、常人には理解しづらいものだけど、割と良い結果が出るんだ。あいつ単に言語化が苦手なだけで、考えなしのノータリンじゃあないのさ。だよな、ピエール」
「彼のあれは、頭の回転と見切りと判断が早い事と、ハイリスクハイリターンを好む性格
合わさったものです。さもなければ一撃と回避に特化するブシドーなんていう職で四層までやってこれないでしょう」

ピエールの援護なのか裏切りなのか分からぬ言葉に、サガはケラケラと笑って、ダリを指差して言う。

「ま、被害の抑制を基本方針とするパラディンのお前と被害を無視して最大の効率を優先するシンとじゃ、職業上の相性がよくても、性格の相性は悪いだろうさ。でも、いつもは誰かと組んで行動することに反対するシンが賛成するんだから、案外響は本当に掘り出し物なのかもしれないぜ。シンの迷宮に関する感性と実力だけは信頼できるからな。ピエールと違ってな」
「なぜ私に流れ弾を飛ばしますか。私は面白い方を選ぶだけですよ」
「……そうかもしれないな」

茶番を見て溜飲が下がったのか、ダリは荒げた息を整えるためか、数度深呼吸をした。目元を揉みほぐし、肩と首に手をやり首を回すと、私の方を向き、言う。

「いくつか聞いても良いだろうか?」
「はい! どうぞ!? 」

いきなりの出来事に、上ずった声が出た。醜態を見てダリは頰を緩める。うう、恥ずかしい。

「すまない、無様なところを見せた。気にしないでくれ、といってもそうはいかないだろう。……響。私も心情として君がギルドに加わる事に文句はない。だが、私の職業はパラディン。襲いかかる脅威から皆を守る役だ。その観点からいうならば、君という不確定な―――どちらかといえば駄目と思える要素をギルドに加える事に反対すべきだと考えている」
「それは―――当然だと思います。私自身、驚きましたし、そう思いましたから」
「そうか……、いや、まともな感性を持ってくれていて助かった。いままでのやりとりでわかったと思うが、此処にはまともである奴の方が少なくてな」

ダリは少し胸をなでおろしたようだった。しかし本人を前にして駄目と言い切るとは、なんともハッキリと物を言う人だ。だがわかりやすい。物怖じせずに好悪をハッキリと述べるその態度は潔いと感じるし、嫌いではない。

「マギとアムのご息女でもあるわけだし、そういった意味合いだけで判断すれば、君がこのギルドに入るというのは賛成したい気分なんだがな。まぁ、だが仮にもギルドの代表であるシンが加入を許可したのだ。ならば私としてもこれ以上文句を言うつもりはない。だがいくつか質問させてほしい。―――響。迷宮に潜った経験は?」
「はい、あります。といっても、親について回っただけですが」
「マギとアムに連れられて、か。君、今の職は?」
「ツールマスターです」
「……ツールマスター? ああ、確かそう言えばそうだったな。しかし、戦闘職ではなく、準戦闘職ではないか。此処に来る前に転職はしなかったのか? 」
「はい」

ダリは怪訝な顔をしてシンを見る。視線を向けられた彼は鷹揚に頷き、その反応をみたダリは首を傾げながらも響の方を向き直した。続きを促されている。そんな気がした。

「なぜ、とは聞くまい。それで、君、ツールマスターは迷宮で何が出来るのかね? 」
「道具の力を目一杯引き出したり、物を修理したり、後は目利きが出来ますので、回復や採取採掘伐採。それと一応、道具を使っての補助もできます」
「それだけ聞くと君の母親、アムが就いていたファーマーみたいに思えるな……、ところで道具を使っての援護といったな? それは、戦闘中の? 戦闘以外の? 」
「ええと、主に戦闘以外ではありますけど、多分、戦闘の援護も出来ます」
「多分? 響、君は迷宮で敵とは戦った経験がないのか?」
「はい。ああ、いいえ、そうではなく、相対した事はあるんですけれど、ほとんど私が倒す前に両親が倒してしまうので、戦いが始まる前に終わってしまうと言うか」
「彼らが二人でさっさと片付けられるあたりというと―――二層くらい……か?」
「その通りです。三層以上の時は私、連れていってもらえませんでしたから」

そこまで聞くとダリは目を閉じて考え込む。しばらくの間、沈黙の帳が落ちた。

そして。

「……響、君、道具の力を引き出せるんだな? それはどんなものでも最大限に? 」
「あ……はい、そうです」

答えると、ダリは目を瞑って、考え込み、しばらくして口を開いた。

「……わかった。では響。明朝、鐘がなるまでの間に迷宮用の装備と道具を用意して探索時の格好で来てくれ―――明日はこの場所で集合。ヘイの道具やで準備を整え、彼女の装備を見繕い次第、旧迷宮の四層へ行く」

ダリの宣言を聞いた男どもは各々のやり方で応答をすると、部屋より出て行った。いきなりの指示に驚いたが、皆が忙しく動き出すのを見て、慌てて家へと戻る。こうして私は冒険者としての一歩を踏み出したのだ。

世界樹の迷宮(旧)
第四層 枯レ森
十六階 「流れる砂の上で進む道を求めた場所」

「――――――!!」

獣のあげる末期の雄叫びが枯れ木の乱立する森の静寂を切り裂く。上段より繰り出された刃は、猪の鼻先より侵入すると、左右に鼻孔を切り離しながら頭蓋骨までを断ち切り、獣を即座に絶命させた。巨大な黒猪の突進合わせた一撃を耐えた剣の耐久力に感謝をしつつ、周囲の気配を探る。何者かが動く気配がした。

―――そこか!

猪の鼻っ面を蹴っ飛ばして刃を力任せに引き抜くと、即座に気配の方へ体を向け、刀を上段に振りかぶる。摺り足で地面を進みながら、腰をひねり、全ての力を込めた一撃を即座に敵へと繰り出す――――――

「おい、バカ。もういねぇぞ」

そして声と共に背後よりガツンと頭を小突かれた私は、前方につんのめった。数歩足を前に出して、転げないように姿勢を整えようとすると刀身が宙を切り、切っ先が力なく地面に刺さる。ダマスカスの大爪より鋳造された刃はそれでも威力を発揮して、すくと地面に吸い込まれて行く。うむ、相変わらず、愛刀カムイランケタムは切れ味が良い。

突き立った刃の横には響が地面に手を投げ出していた。先ほどの気配は彼女だったのか。地面に解体用のナイフが放り出されているのが見える。なるほど、戦闘終了を察して素材を剥ぎ取りに来たのか。悪いことをした。

突き刺さった刀を抜き、刃についた土埃を払い刀身を眺める。茶色く波打つ波紋にはほとんど血糊と余計な脂が残っておらず、刃こぼれも見当たらない。うむ、委細問題なし。さて残りの汚れも拭き取ってしまうか。

「順序がちがーう」

拭紙と袱紗、油を取り出そうとしたところ、再び頭をポカリと杖で叩かれた。叩いたのは、小さな体に不釣り合いなほど大きな籠手に杖をもったサガだ。握る枯れ木の杖の先端では、深緑の勾玉が煌煌と輝いている。丈の長い、小さな背の足元まで覆う黒のチュニックの裾が暴れ、きめ細やかな意匠の凝らされたハットが大きく上下していた。

サガは杖の先端を左右に振ると、先端で響の方を示す。なるほど、確かにその通りだ。

「すまない響。殺しかけた」

率直に謝罪の言葉を述べて頭を下げると、乾いた笑い声と共に言葉が返ってくる。

「いや、いいんですよ。ふふ、ええ、気にしていません」

嘘だな、と思った。腰を抜かしたのか地面にへたり込む様からも、気を使ってくれている事が簡単にわかる。無下にしないため、その心遣いをありがたく頂戴し、気づかないふりをして手を差し出した。だが彼女はショックから立ち直っていないのか、差し出された手を呆然と眺めたまま動きを見せない。うむ、では分かりやすく言葉にするとしよう。

「手を貸そう」
「バカ。手に持った刀をしまってからにしろ」

サガの言葉に自分がどのような状態で彼女に手を差し出しているのかを認識する。ああ。それで。なるほど、片手に抜き身の刀を持ちながらもう片方の手を差し出されるというのは、相手に良くない心象を与えてしまうのか。私は指示通りしまい込もうとして、しかし気づく。

「確かに……、いやまて、だが拭わず鞘に納刀すると剣が傷む―――」
「―――響ちゃん、ごめんね、こいつバカでさ。悪気はないし……、ああ、だから余計にタチが悪いんだけど、許してやってくれ。戦いと探索では役に立つからさ。……ところで本当に大丈夫? 腰とか抜けたりしてない? 怪我は? 気分は? 」

サガは矢つぎ早に質問を響に質問を浴びせ、それに対して彼女が人形のように響がこくこくと頷くのを確認すると、持っていた杖を地面に突き立て、半ば強引に彼女の手を取って体をぐいと引っ張り上げて立ち上がらせた。

「で、お疲れのところ悪いけど、こいつらが消える前に素材の剥ぎ取り、頼んでいいかな?」
「あ、はい。もちろん」

響は自らの尻を叩くと、近くに落ちていた解体のナイフを拾い上げ、倒れた黒猪の元へと向かった。顔の割れた獣の死体を怖気づく事無く丹念に調べ、そして少しがっかりした様子を見せると、気を取り直した様子でナイフをしまい小さなノコを取り出して、巨大なツノに当てて前後に動かし始めた。牙が不快な音を立てながら、ノコによって根元を削られてゆく。

「やるな、あの子」

私が彼女の様子を眺めながら刀の汚れを拭って手入れをしていると、いつのまにかこちらに来ていたダリが感心の声をあげた。

「目立つ牙の前に皮膚の方を調べるとはな。黒猪は突進に合わせて思い切り殴りつけて仕留めると、その部分の皮はとても滑らかで柔らかい物となる。最初のあれはそれを知らんとできない動きだ。二層までしか経験がないと言っていたが、素材や道具の知識は四層まで修めている。流石は二人のご息女だ」
「そうだな……。それに戦闘での動きも見事だった。己の力量不足を即座に判断し、自分の攻撃が通らないだろうと見るや、私たちの邪魔にならないよう自らの立ち位置を調整し、さらに奴らの中でも一番厄介な叫び声をあげる奴に対して縺れ糸を使い行動を封じる手並み。身のこなしと言い、手練れと言い、実に見事なものだった」
「あれで剣が使えたら、フーライになれるんじゃね? 」
「ああ、何処かの国に単独での探索と生存に特化したそんな職業があるらしいな。だがまぁ、あの子にそれは必要あるまい。別に単独で戦える強さは必要ないしな。剣ならシンがいる。それに、そんなものがなくとも役立ってくれそうなのは確かだ」
「そうですねぇ。バードとしての役割を果たせなかった私よりは役に立つのでしょうねぇ」

ピエールの自重で私たちの間に軽い笑いが広がる。ピエールが就いているバードという職業は、我々の身体能力を引き上げることを得意とする。だが四層に出てくる魔物を鍛錬の相手として戦い続け、そこの魔物を真正面より簡単に屠る事が出来るようになった我々にとって、四層の雑魚共相手如きに彼が我々の能力を向上させるスキルを使うのは、死んだ敵の骸をさらに切りつけるが如き愚行だ。

だから彼の力は活躍できなかったのではなく、活躍の必要なかっただけのことなのだが、それを知りながら奴はあえてこうした皮肉を述べて、周囲の笑いを誘う。どうにかして他者の気持ちを動かしてやろうと画策し実行するのはバードとしての性分なのだろう。

「まぁ、そういうな。新しい方では四層の奴より強いのが発見されつつある。あそこに行けば、お前の好奇心と満足も満たせるだろう」
「そうすればあなたの闘争心も満たせる、と言うわけですか、シン」

ピエールは唇を釣り上げて私の言葉の返答にすると、手にした―――確か「キタラ」と言う銘の―――下部に共鳴箱とやらを備えた四角い竪琴を鳴らして、柔らかい笑みを漏らした。細くしなやかな指と見た目に反して厚い指先から生まれる静かな音は、一奏でごとに闇色の衣とブーツのキルト飾りが揺れ、戦闘で多少なり昂ぶっていた気持ちを和らげてゆく。

音色の心地よきに身を委ねていると、それに重い物が地面を削る音が混じる。発生源は響だ。

「いい音ですね」

彼女の手には猪より切り落としされた二つの牙の先端が握られている。地面にまで続く切り落とされた牙の姿をよく見ると、その全体に墨で線が引かれていることに気が付いた。

「それは?」
「あ、はい。ばらけさせる前に一応確認をと思いまして。枠で囲った部分がイキです。それ以外は多分値がつきません。なので、捨ててしまっても構わないでしょうか? 」

黒く囲まれた部分をよく見ると、他より濃厚な色味をしていた。なるほど道具に使える部分を選別したというわけか。質の良い部分のみを抽出し、他を切り捨てる判断といい、博識、解体のスキルレベルといい、ダリのいうとおり、両親によって良い教育が施されている。私は数度頷いて返事をした。

「構わない。では、そのように頼む」
「はい。では遠慮なく」

言って彼女は線を引いた部分にノコを入れ、ギシギシと音立てながら切り分けて行く。手際には迷いも淀みも少ない。彼女自身がどう思っているのかはわからないが、それは間違いなく達人の仕事であった。

ダリとサガ、ピエールまでもが感心した目でそれを眺めている。その目には彼女の仕事に対する敬意があった。これならば―――

「では彼女の作業が終わり次第、下層に向かおう。目指すはアークピクシーだ」

予想通り、彼女を連れて行くことに反対する者はもはや誰もいなかった。

私が連れてこられた旧迷宮の四層は、朽ちた灰色の世界だった。瑞々しさを失った太い大樹の幹は天を目指す事が出来ず中途で成長を止め、彼らの代わりに、細い身なりの樹木だけが捻れながらなんとか天井に身を到達させる事を成功させている。それでもその負担は相当のものらしく、層を支える彼らのその身からは、傷ついた己の傷を癒すための橙色の樹液があちこちで漏れ出していて、それがひどく甘ったるい匂いを生み出している。

樹木がしっかりとした体躯で天井を支えているため、私達は探索をする事が出来る。けれど、天井からはパラパラと支えきれない土が、上から下に向けて雨のように降ってくるため、空気中は土埃だらけだ。そのせいで目は異物に反応して涙を流すし、口に布を当てないといけないため、息苦しい。服や靴の中は砂が入り込んで、痛いし気持ち悪い。辛い。

舐めていたつもりはないが、侮っていた。二層の密林も始めて訪れた時は酷い蒸し暑さに死ぬ思いを味わったが、これはその上を行く。やはり世界樹の迷宮は人を拒んでいる土地なのだ。深部に潜った今、私はその事をひどく実感していた。

そんな手酷い環境下にもかかわらず、ギルド「異邦人」のメンバーは見事な動きを見せていた。シンは疾風となり汚れた空気を吹き飛ばしたかと思うと刃を振るって敵を切り裂き、サガは機械のように正確な動きで敵の弱点を的確に突いて対応した炎氷雷と無属性の錬金術スキルで敵を倒し、ダリはパラディンとして鉄壁となり彼らが活躍する隙を作り出し、ピエールはバードとして彼らが戦い易いように場を整え、敵を屠ってゆく。

これは戦闘ではなく、屠殺だ。視界に入った敵はもはや決まった手順で処理されるだけの家畜に過ぎないのだ。これが迷宮最強と名高いギルドの実力―――

私に出来るのは、精々、戦闘中邪魔にならないように彼らから離れる事と、獲物から素材を剥ぎ取る事、そして、道中で素材を回収することのみだ。それでも出来る事をやるしかない。

私は覚悟を決めると、彼らの後ろに必死でついてゆくのだった。

そうして必死の思いで彼らに食らいつき、底が抉れて向こう側が見えるほどに体力を使い果たした私が迷宮より戻ってきたのは、なんと三日後のことだった。実力のたりない冒険者がギルドに加入した際、その実力を無理やり押し上げるため、一定期間の間迷宮に篭りきりになって戦闘を繰り返し、無理やり実力をつけるというやり方を聞いたことがあるが、それなのだろう。

その、新迷宮に潜るにあたって、私の実力だけが足りていないのは明白なので、やる必要性があるのはわかるのだが、まさか加入翌日からいきなりやらされるとは思わなかった。帰還したのち、本当は一週間から二週間、ぶっ続けで迷宮四層を往復する予定だったと聞いて、心底ゾッとした。

あの時、もう解体したり採取したりの素材で持ち物がいっぱいだから一旦帰ろうと、サガとダリが提案してくれなかったら、きっと、シンは本気で、ピエールは興味本位で、本当にあの地獄を続けていただろう。理性的な二人には心底感謝している。そして、素材を必死で回収していた私自身を本当に褒めてやりたい。それくらいには三日間は地獄だった。

彼らからすれば、たった三日。そのたった三日の間に、私は死ぬかと思う出来事と、死んだと思った出来事と、死んだほうがマシと思う出来事とがあったわけだが―――もはや思い出すのも億劫だ。否、徹夜でも普段と変わらない活動を当たり前とする彼らに薬を使いながら必死で食らいつき、恥も外聞も乙女の尊厳もかなぐり捨てて活動した続く連日連夜を、もう積極的に思い出したくもない。今や私の頭の中を支配しているのは、惰眠を貪りたいとの願いだけなのだ。

そうして迷宮潜入後の処理を終えて、驚くほどの報酬と経験と実績を手にして家に帰ると、私は二階の自室へと飛び込み、手にした荷を全てその辺に放り投げると、汗と泥と血とその他諸々にまみれた服を脱ぐのも忘れて、私はベッドへ飛び込んだ。硬貨が高い金属音を奏でて地面を転がる音がするが、それを気にする体力も残っていない。店のことも、赤死病とか、一流の冒険者とかのことも、今はもうどうでもいい。とにかく眠りたい。

シミのないシーツが顔にこびりついた汗と吹いた塩と汚れを優しく包み込み、意識がすぅっと消えてゆく。その刹那の中で、今まで感じたこともないような深い眠りにつく直感を覚えた。少し怖い。でも。

―――大丈夫。私はまだ生きている。生きて、この世界に帰ってこれた。

自分に言い聞かせて、すっかり意識を飛ばす。そして私は次の日の夜、肌寒さに体が震えるまでの間、ずっと、朝昼夜三回鳴り響く鐘の音も無視するほどの深い眠りについていた。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 

第三話 始まる冒険者の物語 

終了