うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

一撃で断つのが難しい?
ならできるまでやれ。

赤い部屋の悪夢は続いている。平穏を享受する私を責め立てるように、部屋は血の赤で満たされ、六方向の壁面には苦痛と憎悪の顔が浮かんでいる。普通の人間なら避けたいと思うだろう罪悪感の発露なのだろう悪夢を、しかし私は毎夜に望んで、彼らとの逢瀬を繰り返す。

私はまだ、君達の事を忘れてはいない。私はまだ、卑怯者に落ちていない。私はまだ、過去に行った己の行いの罪深さを忘れていない。私はまだ、己の原点を忘れてなどいない。私はまだ、なぜ己がそれを目指しているのか忘れてなどいない。

誰一人として知り合いのいなくなったこの未来世界において、この悪夢だけが、私という存在が、たった一時、胡蝶の見た夢幻でない事を保証してくれている。この胸を軋ませる痛みがなくならない限り、私はいつまでも私であり続ける事ができる。

そう。この痛みは、誰もかれもがあまりにも優しいこの未来の世界において、はるか別の場所からやってきた己が、確固として存在しているという証明なのだ。だから私は、この悪夢を見るたびに、己の過去を思い出して、安寧の気持ちを得る事が出来る。

―――だが。

夢はいつだって儚いものだ。どれだけ恋い焦がれようとも、一度夢より覚めてしまえば、その内容は泡沫の中に冷めていってしまう。どれだけ同じ夢を見ようとしても、脳裏の中より壁面に映し出された過去の刻印を思い出そうとしても、目覚めてしまえば、二度と同じ夢を見る事が出来ない。二度と、同じ悪夢の続きが見られない。

赤い部屋の壁面に張り付く顔は、私が犠牲にしてきた人々のモノだ。しかし、その苦悶の表情の中には、一つとして見覚えのある顔はいないのだ。いや、ないのではない。はるか夢幻の先にまで続く壁面は、よくよく見てやれば、一部が白に染まっている事に気が付ける。


その清潔に切り分けられた白の領域をさらにまじまじと眺めてやると、輪郭のはっきりとしなくなった壁面に、昨日やそのさらに前日の悪夢の主役であった人々の顔を見つける事ができる。彼らは変わらずさまざまに目元口元を歪ませて、己の味わった苦痛を、それを与えた張本人である私に伝えようとしているが、私はそれを見ても、何も思えないのだ。

そう、ここにいるのは、私の悪夢での演劇の役割を終えた人々の墓標だった。過去の中でさらに記憶の片隅に追いやられた彼らは、感情より切り離された場所に隔離されていた。

墓標に刻まれたデスマスクは、過去になった我らの痛みすら忘れようというのかと訴えている。眺めた私は、せめてその最後の遺言を果たしてやろうと、必死に、彼らの末期を思い起こす。しかし、そうして思い出した記憶の中身は、もはや完全に感情というものが漂白されていて、脳裏の中で一切の化学反応をしてくれない。

過去に置き去りにした亡霊の切なる願いをせめて叶えてやろうと苦慮していると、やがて、赤の壁は崩れて、再び、何者かが私の夢の中へと足を踏み入れたことに気がついた。以前ははっきりと見えなかったその姿は、人間の脳味噌のような形をしていた。

その存在は、脳の正面中心に携えた赤色の単眼の周りに触手としか表現しようのない棘を伸ばすと、大きくその脳体を揺さぶらせた。直後、壁面の赤は奴の蠢く眼球の中へと吸い込まれ、忘却の色へと変貌してゆく。

私はその所業をどうにか止めてやろうと、体を動かそうとしたが、背後より現れた黒い人影に邪魔されて、その場から一歩も体を動かす事が叶わなかった。解放を求めて暴れる私を、後ろの影が慈愛に満ちた優しい力強さで引き止める。

―――あれはお前の苦悩を処分してくれる、お前の味方だ。なぜそうまでして、苦痛の記憶を抱えたがるのかね? やり直しを望むのなら、罪など不要なものだろう?

影は、どこまでも優しい口調で、諭すように私に話しかけてくる。その反吐が出そうなほどの説教を無視して抗ってやろうとしたところで、私は、一向に動く事が出来ない。そうしている間にも、私の罪は奴の蠢く瞳の中へと吸い込まれてゆく。

やがて部屋の一角の赤をある程度吸い込んだそいつは、げっぷ、と満足したかのように体を揺らすと、部屋より離れてどこかへと消えてゆく。気がつくと、後ろで私を抑えていた影も、もとよりいなかったかのように消え去っていた。

望み通り解放された私は、赤の部屋の中の一角が清潔になってしまった光景を眺めて、重くため息を吐く。もう何も感じない。奴が息を吸い込んだその一角だけが、まるで再誕の門出を祝うかのように、曙光に満ち溢れていた。

夢の侵食は終わらない。悪夢もまだ、終わりでは、ない。

―――終わらせてたまるものか。

さて、十日前のことである。騒ぎからの避難先として新迷宮の一層一階の行き止まりを選んだ私は、望み通り誰とも会う事なく、一日をやり過ごす事が出来ていた。おそらく、新迷宮の二層に進もうという連中は、そもそも一層一階の地図は完成させている連中で、一層一階の行き止まりには目もくれない輩なのだろう、という私の予想が当たったのだと推測。

ともあれ一日を魔物の暗殺と処分と解体という作業に費やした私は、明朝、迷宮の隙間から日が昇るのを確認するとともに、アリアドネの糸を使用してエトリアに戻り、一応は身を隠しながら転移所より執政院に出向くと、受付で確認作業と手続きが終わったのかを尋ねた。

だが受付の彼は、廊下の暗闇の中に私の顔を見つけた途端、申し訳なさそうにペコペコと、「なにぶん、四層分もの地図をこちらが持っていない状態で未踏の迷宮が攻略された前例がありません。また、ギルド長率いる調査隊の方も戻ってきていないので、もう少々お待ちください」と、深々と頭を何度も下げてくるだけで、結局、執政院への訪問は、事態が何の進展もしていない事だけを理解するに終わった。

私が「では、とにかく何か進展があったら連絡をくれ」と言うと、青年は再びペコペコと頭を下げながら、「おそらく番人復活の調査も兼ねているでしょうから、一週間ほどお待たせする事になります」と返してきた。

私はまず、調査の期間などよりも、あれほどの死闘を繰り広げて倒した番人が復活する、という情報を聞いて大いに驚き、「一週間!? 」と多少大きな声を荒げてあげる事となった。

その番人復活に対する驚愕によって生み出された言葉を、しかし受付の青年は期間の長さに対する憤怒の念が籠もった罵倒と捉えたのか、「お待たせして申し訳ありません。すみません、すみません」、と、水の勢いの調整を誤ったししおどしのように、そのぎゅっと閉じた瞳の端に微かな涙を漏らしながら、音の聞こえてきそうな勢いで謝罪を行うのだ。

急かす脅すの意図がなかったとはいえ、別段なんの責任もない彼をこれ以上何度も怯えさせてしまったわけだし、調査隊が戻るまでの間、私の来訪毎にいちいち恐縮させるのも不憫だと思ったので、結局私は、受付の彼より報告があるまでの間を大人しく宿で待つ事を決心した。我ながら甘っちょろいとは思う。

そうして謝罪を続ける受付の彼に対して、多少強引に今日の探索の処理を行ってもらうと、「では何か進展があったら連絡を頼む」、と伝え、その場を後にする。素材の処分ついでに番人復活の剣をヘイにでも尋ねるか、などと考えながら執政院よりベルダの広場に出ると、院の入り口には野次馬が大いに集まっていた。

さては先ほどの己があげた大声に反応したのだろうか、と思ったが、遠慮なく向けられる視線の中にあるのが、おっかないもないものを見るそれではなく、物珍しいものに対する好奇心が多分に含まれているのを見つけて、昨日より己が彼らより注目を浴びる存在になっていた事を思い出した。

迂闊に舌打ちの一つでも漏らしたい気分の中、勧誘大会でも始まるか、と失態に眉をひそめながら身構えたが、視線を送る彼らは執政院の前に立てられた立て看板とこちらの様子を交互に見比べるだけで、結局何もしてこようとはしなかった。

彼らの視線から立て看板を見つけた私は、一瞬あれに何が書かれているのだろうかと思い悩んだが、少しばかり歩いて立て看板の前まで進み、それを覗き込んだ際に、そこに書かれている「お触書」とその内容を見て、ヘイが望み通り依頼を果たしてくれた事に感謝した。

しかし、私が生前の頃の社会であるなら、このような罰のないお触れなんてもの、無視してでもすり寄ってこようとする輩がいたものだが、どうもこの未来世界では、きちんと嫌と言った者に対しては、無理強いをしないという事が常識として浸透しているらしい。いやはや、抜け駆けを考える輩がいないとは、なんとも甘く、しかし平穏な世界だ。

その後、ヘイに礼をいうことを目的に追加して、私は彼の道具屋へと向かったが、その入り口に貼られた「留守にします」の文字を見て、すごすごと宿屋へ引き返す事になる。初めての無駄足に、少しばかり時間が無駄に動く。

宿に戻ると、集った冒険者が散った宿では、女将がニンマリとした喜色の笑みを浮かべて、「やったね、アンタ」と迎えてくれた。年季の入った笑顔にさらなる喜びの線を増やして無邪気に喜んでくれる様に、多くの歓喜とやはり一抹の居心地の悪さを感じながら、私は女将の歓待を受けて、その後、衛兵からの連絡のあるまでの間、数日の大半の時間を共に過ごす事となった。

私がそうして足止めを食らっている間に、何組もの冒険者が二層へと到達したとの噂を聞いたが、私には正直どうでもよかった。新迷宮の謎を解けば正義の味方になれるかもと思ってはいたが、同時に、別に死病の謎なんてものは誰かが解いてもいいと思っていたからだ。

―――そう、私はあくまで、人が赤死病などという病で理不尽に死ぬのがいやだから新迷宮に潜るのであって、正義の味方になりたいが為に誰よりも先に新迷宮踏破を成し遂げたいのではない

何日か前に自らが抱いた早く踏破したいという願いが、またもや贖罪を求めて身勝手より生じた願いなどでないと強く否定するかのように、私は自らに強くそう言い聞かせる。そうして心中のどこかで燻る熱を、理性の冷静で無理やり抑え付けて過ごす日々は、しかし胸を軋ませる矛盾の思いとは裏腹に、静寂に満ちた日々だった。

おそらくこの、平穏の時の流れの中に痛みが癒されてゆく事象に逆らおうとする、氷炭の相容れぬ理性と感情の鍔迫り合いこそが、忘却の救済を押し付けられる悪夢の正体ではないかと私は推測している。人の身に堕ちたこの私に、もはや無限に等しい罪科を抱え続けるなど不可能だという理性の忠告こそが、あの脳の化け物で、影はその手先なのだろう。

身勝手さに身を震わせ、どうか忘れさせてくれるなと己の身に強く呼びかけても、悪夢が強制的に塗りつぶされていく忘却の日々は、一向に変わってくれなかった。

宿屋のインという白髪の彼女は、元々ハイラガードという場所で料理屋を営んでいたらしく、和洋中と実に様々なレパートリーを毎日披露してくれる彼女の腕は実に見事な味で、私の三食を喜びで満たしてくれていた。

そうして彼女の作る豪勢な料理が、ちゃんこ風の鍋だったり、味噌を使った煮しめだったり、桜肉のしゃぶしゃぶだったり、猪肉の豚汁だったり、くるみ羊羹だったり、いちご大福だったりしたことから、もしやハイラガードとは元は日本のあった場所なのだろうか、と考えた。

しかし、その次の日に出てくる料理が栗月餅だったり、野牛肉拉麺だったり、包子だったり、回鍋肉だったりするで、すわもしやそのハイラガードというのは日本と中国の狭間あたりにあるのだろうか、などと考えて、しかしさらに次の日に出てくるメニューがステーキのリンゴソース添えだったり、タルタルステーキだったり、鹿肉のステーキだったり、ストーンガレットだったりと、一転して洋風に切り替わったのをみて、そのハイラガードとやらが旧世界に当てはめるとどこにあるのかと推測する事をとうとう諦めた。

ただ、そのあまりにも節操のないメニューが、かつての相方と妹分と私の得意料理と重なり過去の記憶を刺激したようで、女将は果たしてどこで節操なく料理を修めたのだろうかという疑問がむくむくと湧いてきた。

考えたところでわかろうはずもないので、三種類の料理の特徴に触れながら、女将に「いったいあなたはどこで修行したのだろうか」と素直に尋ねると、

「私はハイラガードのレジィナという女性が、迷宮料理を家庭でも提供出来るように改良してくれたレシピの通りに作っているだけだよ」

という回答をくれた。

やがて己の技術に興味を持った事に機嫌をよくした女将は、「料理の手順や作り方、素材に着目して興味を持つ冒険者は珍しい。アンタもやってみるかい? 」と、私に包丁と鍋を差し出してきたが、私はその突き出された鍋にコイルが巻きついているのを見つけて、非常に心揺さぶられる提案ではあったのだが、丁重にお断りした。スキルを使用する事前提の料理なんて、私には出来そうもないからだ。

そうして辞退する私の顔の中に何を見つけたのかは知らないが、女将は少しばかり気の毒そうな顔を見せて、以降、私はそれより一週間と少しほどの時を、鍛錬から戻った途端、満漢全席を思わせるような料理の群れに遭遇したり、彼女の調理を見て思うところを指摘させられたりと、さまざまな形で料理に携わりながら過ごす事となった。

それはまさに平穏を形にしたかのような日々だった。

エトリアの街が一時の騒がしさを見せてから、一週間と三日の時が経過した。

ようやく調査が終わったようで、インの宿屋に「迷惑をかけた」とラーダの受付がわざわざ詫びにやってきた。彼は相変わらずクーマが不在で担当の者と直接会えない事を丁寧に告げると、番人討伐の認定証を置いて、ようやく胸のつかえを下ろせた、と言った顔で帰ってゆく。

彼を見送りがてら、街中を歩くと、エトリアの街が不穏な空気に包まれている事に気がついた。街をゆく人々のうち、特に手練れの冒険者と思わしき人ほど、その様々な装束の上に乗る顔に等しく焦燥と不安を浮かべながら無言で街角に消えてゆく。

そのようにエトリアに暗澹の雰囲気が漂っているのは、一週間で復活すると噂の、層ごとの門番、すなわち今回の場合、一層の番人であった巨大蛇が復活の兆候を見せておらず、未だに層の境界は沈黙を保っているのが主な理由であった。

私としては、命懸けで倒した敵が復活するという理不尽が起こらずに胸をなでおろしてやりたい気分だったのだが、番人が復活しないという事態は、熟練の冒険者や彼らに関わってきた街の人々からするとただらなぬ異常であるらしく、彼らの行動に多大な影響を及ぼしたのだ。

験を担ぐ彼らの間では、この事態が「不吉な現象」、「悪い事が起こる予兆」として扱われ、新迷宮の一層番人の部屋が敬遠の対象とされるようになっているという。また、彼らの放つ鬱屈とした感情や、未知に対する怯えを敏感に感じ取った現役や新米冒険者たちの間でも同様に、その出来事を縁起の悪いものとして扱う者が出てくるようにもなっているらしかった。

一応、「そんな迷信は信じぬ」と、意気揚々に迷宮二層へと向かう冒険者もいなかったわけではなかったのだが、勇敢な彼らも帰ってくる頃には精魂共にくたびれ疲れ果てて帰ってきては、「もう二度と新迷宮の二層なんぞに行きたくない」という輩が続出するようになり、結局、つい十日前に気炎を上げた迷宮二層探索の情熱は、たった三日の間で早くも最低温度にまで下げられていた。

今、エトリアは、死病以外に、新迷宮の探索者が減るという、新たな悩みを抱えつつあった。

今朝のメニューは、「鹿肉と樹海野菜のすき鍋」と「東国伝来の煮しめ」だった。朝からボリュームのありすぎる食事だと思ったが、体が資本なんだからしっかり栄養をつけておきな、という女将の言葉も最もだと思ったので、ありがたく全てを平らげることとした。

迷宮の鹿より切り出したという鹿肉のツミレはそのままだと独特の臭みがあったが、その野性味はお椀に鍋の汁と共に入れた途端、味も匂いも程よくスープとマッチして口の中で気持ちよく崩れてゆく。

また、煮込んだ後に時間を置いたカボチャと肉厚のキノコ、レンコンは、口の中に放り込むと、あっさりとした食感と共に胃の中へと落ち込んでくれ、安心した味を提供してくれる。最後に鍋のスープを長ネギと共に飲み込むと、不思議と体が軽くなった気さえした。

女将の料理に背を押されるようにして、街が抱える一切の不安を無視しながら、揚々とエトリアを出立する。轟々と水色を垂らしていた空は、十日前に見かけたような積乱雲がいつのまにか方々に散っていた。

生ぬるい空気の中、彼らが湿らせた地面に靴の跡を残しながら進むと、やがて晴れた空に天気雨が振るのを見かけて、今回の旅路の不安定を感じ取る。

―――さてこの雨を、狐の嫁入りと取るべきか、悪魔の嫁入りと見るべきか。

晴れた空に迷信を見つけて不安に陥る私を、以前よりも大口開けて嘲笑うかのような赤さで私を出迎えてくれた新迷宮の入り口は、一時の騒ぎが嘘のように人気が少なかった。屯所の付近にたむろっていた微かばかりの冒険者たちは、一人でやってきた私を見つけると、珍しい生き物を見つけたかのように、少し離れた場所から霧雨のようなはっきりとしない視線をちらちらと送ってくる。

体を濡らす不快の視線を無視してやって私は衛兵へと地図と証明証を出すと、彼らは次に入り口へ行こうとしていた冒険者たちを押しのけて、私を最優先で迷宮へと案内してくれる。兵士はついでとばかりに、「この先、二層の樹海磁軸までご同行いたしましょうか」と問うてきた。

さて、樹海磁軸とはなんぞや、と思い、彼らに尋ねてみると、まず私が樹海磁軸を知らないことに驚き、けれどすぐにその無礼を詫びて、それの説明をしてくれた。

彼らの説明によると、なんでもその樹海磁軸というのは、いわゆる迷宮内に設置された転移装置であるらしかった。青く屹立する柱に手をかざしてやれば、次からは屯所近くの石碑からそこへの移動が可能だとか。いやはや、なんとも便利な代物である。

そうして迷宮の内部にある攻略を楽にするだろう設備を考え、果たして迷宮は攻略されたくないのか、攻略されたいのだろうか、どちらなのだろうか、などと考えていると、衛兵たちは恐縮したかのようにもう一度、「それで、どう致しましょうか」と尋ねてくる。

一瞬ぽかんと首を傾げて、しかしすぐさまそれが自分を連れてその二層の磁軸に連れて行ってやろうかという提案だと気づく。しかしなぜそうも親切にしてくれるのか、と尋ねると、こちらの事情で足止めをしてしまったお詫びです、と答えられた。

私は考え、そしてなんとなく受付の彼のことを思い出した。おそらく、彼の指示なのだろう、と勝手に思う。断る理由もないが、もし断った時彼が恐縮する姿を幻視して、私は静かに頷いた。直後、一人の衛兵が前に足を踏み出して、恭しく案内をしてくれる。

衛兵から特別扱いされた事で、冒険者たちから向けられる視線に羨望が混じった気がしたが、その全てを無視して、私は都合三度目になる迷宮踏破の旅を、衛兵という見知らぬ誰かと共に踏み出す。

衛兵が石碑に触るとすぐさま効力を発揮して、赤い光を放った。衛兵は、こちらの手を強く握ったまま放さない。その多少汗ばんでいる感触を頼りに赤い光の輝きに身を任せていると、一瞬の浮遊感の後、全身を強く押される、アリアドネの糸を使った時の感覚がこの身を襲いかかり、やがて瞬間的にその場から消え去った。

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

体を押す力が全身のあちこちに影響を与えたかと思うと、一瞬の浮遊感の後、私は誰かに背を押されるようにして迷宮の中へと押し出される。すると途端、重力は正常に働いて、肉体を地上へとおろしてくれる。その勢いは思ったよりも強く、私はつんのめらないように、思い切り両足に力を入れて踏ん張って見せる。

降り立ちまず感じたのは、肌に生ぬるい水を塗りたくったような蒸し暑さ。一層を攻略されて迷宮も多少の焦りを見せた証拠なのか、二層は体を火照らせたかのような温度と湿度を保っている。粘っこい空気には、濡れた薄布を口元に当てているかのような錯覚を覚えさせる程だ。梅雨の時期を思わせる不快さに、思わず苦笑い。

その不快に耐えて軽く一歩を踏み出すと、足裏から伝わってくる湿潤の粘土が靴裏に纏わりつく感覚に、さらに不快さを煽られる。もしこの高い不快指数が、迷宮が侵入者を拒む仕掛けなのだとしたら、なるほど、集中を欠かせる効果を覿面に発揮しているといえるだろう。

やがて目が樹海磁軸とやらが放つ紫の光に慣れた頃、瞼を何度かしぱたたかせながら、ぼやけていく視界の中身を吟味すると、眼前に広がったのは、今までと変わらぬ赤き異界だった。

何処かより侵入した寂寞の光は、赤に染まった亜熱帯風の樹木と草花が萌ゆる一面を暗く照らし、地面より生えた触手のような樹木は、見上げれば高い土の天井にまですらりと伸びて、樹々の枝が重なりできる林冠よりさらに先端、すなわち樹木の頂では、大地と接した幹と枝と葉が地面の中にまでその手を伸ばして突き刺さり、天井の支えとなり、天井の崩落を防いでいる。

その大樹が天地を支える光景だけ見てやれば、なるほど、ここが世界樹と呼ばれる場所で、周囲一帯に鬱蒼と茂る樹木が大地を支える偉大さを保有していることを十分に理解できるが、だが偉大だからといって目の前の光景に敬意や好意を抱けるかというと、決してそんなことはない。一層同様、赤死病の「赤」の侵食によるものだろうか、一面に広がる赤の景色というものは、見るものの神経を昂らせ、苛立たせる効力を持っている。

加えて一層の赤を「鮮烈な」と表現するなら、こちらの赤は「暗い」と表現するのが正しい。そう、例えていうなら、その紫が混じったような燻んだ赤は、緋色に近いものだった。一層の突き放すような赤さとは異なって、二層の赤は多少柔らかさを帯びていたけれども、二層に来ても赤の光景が変わらなかったという事実は、この先三層、四層に進もうが、同じような赤の光景が広がっているだろう事を想像させ、少しばかり気が滅入らせる。

「エミヤさん、まずは磁軸に登録を行いましょう」

そうして周囲の光景に観察の視線を送っていると、私をこの場所へと導いた衛兵は私の手を引いて、そう告げた。彼の言葉に従い後ろをふりむくと、まずその周囲の樹木に負けない勢いで天井にまで届かんとする勢いで屹立する光の柱に視線を奪われる。

屹立するその柱は、紫の光の粒子によって構成されていた。地面よりするりと生まれ出でた光の粒子が、その頼りなさを保ちながらゆらゆらと天井に向かって進み、しかしやがて力尽きたかのようにか細く虚空に消えてゆく光景に、まさに釈迦尊より垂らされた蜘蛛の糸が罪人の重みに千切れた光景というものを見つけて、私はまさに死病の蔓延する地獄に相応しい光景であると、不謹慎ながらに考えた。

「エミヤさん」

冥々のうちに柱へと近寄っていた私の腕を衛兵が引く。私は馬鹿な考えを霧散させて、彼の方を向くと、彼は「アレに触れれば登録完了です」と言ってのけた。彼が指差したのは、もちろんその光の柱である。

私は光の柱に、魂を抜かれるかもという覚悟をしながら、そっと触れてやる。すると光の柱は、思った以上の暖かさで私の手をその身の内に迎え入れて、触れた場所から表面の粒子をその全身に向けて漣立たせた。

「はい、これで登録完了です。あとは戻りたいと考えるだけで、今のところへと戻ります」

兵士は言うと、「では実演しますね」といって同じように手を触れて、光の柱に消えてゆく。私は彼の後に続いて、同じようにすると、先ほどまでいた石碑の前に転移し、そして、一連の事の礼を彼に告げると、もう一度石碑に触り、熱気と不快さが支配する大密林へと戻ってきた。大きく息を吸うと、吸った以上の量を吐いて、全身を戦闘、探索用へと切り替える。

―――さて、では、二層探索を始めようか

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」
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世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
七階「愛に狂った王女が弟をばら撒いた海辺」/「雅を覚えた青年が修行をした山中」
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世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
八階「旅路の果て裏切りの報いを受ける女王」/「剣士が飛燕を捉えた瞬間」
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世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
九階「愛に絶望した魔女が蛇竜に乗り消えた空」/「満足に剣を振る機会を得られなかった剣聖が生涯を終えた場所」

探索を開始してから早一ヶ月が経過し、私は都合四度目となる探索を行っていた。天空に広がる地面の中にある二番目の迷宮である大密林は、非常に意地の悪い構造をしている。謎の解明を求むなら地下深くを目指すべし、と謳われるその場所は、しかし地面に地下へと続く無数の穴が空いており、一見して階下を目指すのは容易く思えるだろう。

しかし嬉々としてその穴を潜ってやると、その先にあるのは、周囲を土砂で囲まれた猫の額程の空間であったり、あるいは水たまりの洞穴だったり、または結局どこにも繋がっていない行き止まりの空洞であったりするので、引き返さざるをえなくなる場合が多い。

これが例えば寺院の山門前によくある急な階段の上り下り程度であるならまだしも、湿気った地面に広がる直径二メートル程の穴の中の斜度は、七十度から九十度はあるだろう絶壁で、かつ、ホールドできる岩もなく、掴める樹木の根もなく、その上で柔らかい土を相手にしてやる必要があるので、心底たまらない気分になる。

下りは柔らかく不安定な両側面に投影した剣を突き刺して、土の柔らかさにて速度を調整しながら滑るようにして降り、登りは英霊としての身体能力を遺憾無く発揮して、湿り気を帯びた柔らかい地面が崩れないうちに、両手に持った剣をピッケルのごとく交互に突き刺しては、足で壁を鉛直方向へと蹴って、崩れる前に駆け上がるよう登攀してやる必要がある。

そしてまた、そのどこに続くともしれぬ穴は浅かろうと深かろうと、先が見えないのだ。一度は二十メートルで次の層の天井に出たこともあれば、百メートルほども無意味に降り登りをしたことすらある。

一度や二度ならともかく、流石にそれが数十回も続くとなると、もう、気の利いた例えを使ってやろうという気にすらならないくらいに、私は体力と精神を消耗する羽目になるのだ。

しかしそれでもめげずに、私はこの一月の間で、二層大密林の五階から九階までの四フロアにおいて、地面の上から天井の下までを駆け抜けて、この絶壁とも言える洞穴の中を含めた地形の往復を繰り返し、二層九階までの八割近くを地図にしてやる事が出来ていた。

とはいえ、すでに一週間近くに渡る強行探索を三度も繰り返して、数十度もクライミングを繰り返す羽目になったというのに、それでもまだ次の番人の部屋は見つかっていない。

この暑さ、この湿度、この高低差、この広さ。広大な山の中、馬鹿みたいに敷き詰められた熱帯林を延々と歩かせ体力を奪い、そして見つけた穴を苦労して進んだ先に、しかし道はどこにも繋がっていないという状況を作る事で精神を疲弊させるこのやり方。

刑罰の中に延々と穴を掘っては繰り返すことで、己のやっていることがいかに無意味であるか、転じて、己がいかに無意味な存在であるかを悟らせるやり方があるらしいが、この徒労感はまさにその刑罰のそれ等しいだろう。いや、なるほど、きっとこれが、探索しようと考える冒険者が少なくなり、さらにはその後、その原因を語らないで口を閉ざす理由なのだ。

さてはこの新迷宮というものが如何なる理由で生じたのかは知らないが、少なくともこの新迷宮二層を作り上げただれかは、人の苦労や不幸を見ると暗い喜びのうちに甲高い声で哄笑する、性格の捻じ曲がった魔女のような性格をしているに違いない。

「―――来たか」

異変を感じた瞬間、穴より上に飛び出て、腐葉の入り混じった土を靴で叩く。意識を集中させ、地面から帰ってくる柔らかく神経を刺激する余分な感覚を取り除くと、必要な感覚だけを研ぐように細く鋭くして周囲にはりめぐらせる。

そうして周囲一帯の異変を感じ取ることだけに殊更意識を集中させると、湿気を帯びた空気の中、周囲に散らばっている、ヴンヴンと重なる羽音が、私の鼓膜を絶え間なく叩き続けている事に気が付ける。いかにも不愉快さを想起させる、蚊蝿のごとき輪唱の音色は、大量の薄羽根が自らのすぐ近くで細かく振動している証拠だ。

これだ、この不愉快に満ちた密林での活動不快指数を跳ね上げる、もう一つの要因である。

全身を嬲る合唱は段々とその数を増やしてゆき、体の内部にまで侵食した不協和音が脳髄もろとも攪拌を始め、やがて私の三半規管内である程度の音色の統一がなされると、不快を増幅させる音波となる。湧き出る不愉快と煩わしさを余計と断じて努めて落ち着くよう心がけていると、プゥン、と一層大きい音が頭の中に鳴り響いた。

苛つきに片目を痙攣させながら多少足を前に出しつつ嫌々の視線を向けてやると、待ってましたとばかりに、やがて一帯の草葉の陰から飛び出したものが集まり、密林の隙間を埋め尽くす巨大な醜い虹色の霧となってこちらに敵意を向けてくる。

子供が絵の具をかき混ぜたかのようなその七色の霧は、胴体が人の頭ほどもある巨大な羽虫の集まりだ。色とりどりの羽の蝶々、七色の斑点を持つてんとう虫、針が複数回使える構造をした熊蜂、爪を携えた蛾、オニヤンマと蟷螂が合体したかのような名称不明の敵が、その巨大な姿を密集させながら、うぞうぞ、うぞうぞ、と湿気が蔓延る密林の空中を蠢く様は、とても醜悪の一言では表せない。

また、百を超える虫共の揺れる色とりどりの表皮に注目してやると、警告を与えるには十分過ぎるほどの悍ましさに満ち溢れていて、なんとも汚らわしく毒々しく見える。実際、その奴らの人の頭ほどもある肢体には、侵入者に対する悪意が融解や麻痺、睡眠や混乱、盲目を引き起こす効力の毒が多く溜めこまれているのだ。

その悪意を無視して歩を進めようとすると、奴らは近寄ってきて、こちらにさまざまな攻撃を仕掛けてくる。昆虫の無機質な複眼からはその意図が読めないが、こちらを挑発して怒らせ、行動を単純化させようとする意図を含んでいるのか、その鋭い初撃は必ず私の頸や胸、急所などを掠めるようにして放たれる。その一撃はまるで熟練の剣士のそれだった。

行為に反応して、投影してあった登攀に使用した剣を投げつけると、剣は勢いよく刃先より飛びかかり、直線上にいた虫を数匹切り落とし、瞬間だけ霧に切れ間を作ってくれる。だが、虫は私の霧払いの反撃を確認すると、一気にその上下運動を早めて、無機質さの中に殺意を露わにして本格的に襲いかかってくるのだ。

嫌悪色をしている虫霧が、その体積を大きく膨らませながら、包囲するようにして迫ってくる。色とりどりの蝶々共がその羽を広げてやるたび、周囲を焼き尽くさんばかりに炎が、樹木を打ち倒さんばかりの氷が、森の隙間を縫うようにして雷が広範囲にわたって撒かれ、青蜂が薄羽を高速で動かすたび、生まれた風は蝶々どもが巻いた毒鱗粉を周囲に撒き散らし、進路と退路塞ぎ、蜂どもは攻撃の隙間を縫うようにして毒々しい尾針を飛ばしてくる。

―――まともに相手などやってられん

いつも通りに撤退を決意した私の身が翻される直前、視界に収めた悍ましい彼らの数は、そろそろ目算で数えられなくなっていた。見るに密林の隙間を埋め尽くす勢いで増える、通常の虫よりも巨大な奴らは、もう百を越す勢いだ。

あの数程度、倒しきれない、などと言うことは間違いなくないが、双剣、弓矢のどちらの手段を使おうと、あの数を悉く殺し尽くすとすれば、相当の手間と時間がかかってしまうだろう。かといって宝具の爆裂を使用して消し飛ばしてやるのも悪手だ。

多少高度を下ってきたとはいえ、ただでさえこの場所は高度が高く、酸素の薄い場所なのだ。加えてこの穴ぼこだらけとはいえ、虫だらけの閉鎖空間の中で燃焼や爆発を起こす魔術なんぞ使えば、やがて酸欠になるのが目に見えている。

―――だれが自らの首を絞めるような真似をしてやるものか

増殖する敵を前に、自らの刻んだ足跡を追って道を引き返すと、色取り取りの警戒色に塗れた霧は、逃げた獲物たる私を追い詰めてやろうと相変わらず集団で迫ってくる。感受と反射しかないはずの昆虫は、しかし、私を排除すべき敵として認識してか、迷宮に対して悪影響を及ぼす敵であると評価してか、逃げた私を延々と追いかけながら攻撃を仕掛けてくる。

虫どもはそんなどこか人間じみた行動をする割には、けれど見た目通り感情というものが感じられなく執拗で粘着質なのだ。どこまでも獲物を追いかけて敵を殺す、まさに冷徹な始末屋。などと考えて、自らの思考より染み出て来た言葉に養父とかつての自身を思い起こさせた事実が、煩わしさの熱にて沸騰しかけていた頭を、蒸発せん勢いで湯立たせる。

逃走の最中、一人勝手に敵に対する怒りを高めていると、周囲の敵対的な気配が加速度的に増えていくのを感じた。おそらく奴らが仲間に敵愾心を伝播させたのだろう。どれだけ来られようが敗北などあり得ないが、細かい敵を一々相手にするのも馬鹿らしい。数の暴力を前に退散するのを歯がゆく感じながらも撤退の判断を下すと、速度を早めて密林を駆け抜けて、奴らとの距離をあけると、糸を解いて迷宮九階より離脱する。

昆虫たちはエミヤがいなくなったのを確認すると、蜘蛛の子のように霧散していった。

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
九階「愛に絶望した魔女が蛇竜に乗り消えた空」/「満足に剣を振る機会を得られなかった剣聖が生涯を終えた場所」

「敵、出ないなー」

サガが呟く。気の抜けた一言にダリが戒めの視線を投げかけるが、サガは気にすることなく地図に情報を書き込んでいた。ダリという男の視線は感情に欠けているようなところがあり、私なんかは見つめられると震え上ってしまうような冷たく鋭い視線をしているが、それを気にしないサガの胆力は大したものだと思う。

「シン、お前もそう思うだろ?」
「そうだな。二層に潜り始めてからはや一ヶ月と十日。既に両の手を超える程探索に出ているが、未だにFOEを除けば、魔物と遭遇したのは十回に満たない。いつもなら、一回の探索でいく数……。いや、これはあまりにも少な過ぎる」

いや、普通の冒険者は一ヶ月に十回近くも探索に向かわないし、一回の探索で十回も魔物との戦闘を重ねないだろう。そんな言葉が喉元まで出かかったが、なんとか飲み込む。その普通でない事をやるのが彼らなのだ。彼らの常識は世間の一般とかけ離れている事を、私、すなわち響は、この四十日で嫌という程思い知らされている。

「良いじゃないですか。その分探索が順調なんですから。それに、この順調と呼べるペースで進んでいるのにも関わらずまだ十階への通路が見当たらないのです。はしゃぐのはそれを見つけてからにしましょうよ。でないと、彼にまた先を越されますよ」

しんがりを務めていたピエールが上機嫌に言う。ピエールのいう「彼」というのは、エミヤという人物のことだ。単独で一層攻略をした事で有名人となり、そして勧誘の禁止令が出るほどの人気ものであり、そして新迷宮に長く潜入し、しかし戻ってくる際、常に無傷の彼と、噂に欠かない彼は、今やエトリアで一番有名な冒険者である。

「そう、そうだな。その通りだ」

彼の名前を聞いて、シンが少しばかり悔しそうな表情を浮かべる。目の奥に宿る自省の念から察するに、エミヤという男が自分より活躍しているのが気にくわない……というわけでなく、これほど順調に進んでいるのに彼に追いつけていないという事実が自分の未熟さを露わにしているように感じて、恥じる気持ちを抱いているのだ。うん、きっと間違いない。

ピエールはそんなシンの懊悩を見て、さらに機嫌を良くする。彼は誰かの感情が動くのを見て、刺激を喜ぶのだ。とてつもなく性格が悪いが、あれが彼の平常運転である。

「しかし私たちも、もう四階も階層を進めて地図も結構埋まってきたというのに、未だに彼と遭遇していないな。はたしてエミヤは一体、今、どこにいるのだろうか? 」

シンはふと思いついたかのように言った。ああ、それは確かにそうだ。たしかに今エミヤという男も、この迷宮にいるはずなのに。そう思ってサガの書いている地図を覗き込む。

歩きながらの記入で少し文字や線がぶれているが、それでも半分くらいが綺麗に埋められた地図には、密林の下の方に生える低い庭木の中に隠されていた獣道や、深い濁った湖の向こう側に見える行き止まりの壁面や、落ちれば死んでしまいそうなほどぽっかり地面に空いた落とし穴など、今までの足跡が几帳面に記されている。

そんな地図を見直せば、たしかに多少見つけにくい道や、出てくる魔物が気持ち悪くて怖い思いをする場所、ちょっとした仕掛けみたいなのもあったけれど、いくつかの障害を除けば割と綺麗な一本道が浮かび上がってくる。

旧迷宮四層にある、流れる砂の上を行くことや、転移装置だらけでどこにいるのかわからなくなる仕掛けを思えば、ずっと単純な道なのだが、颯爽と現れてて一層を疾風の如く駆け抜けた彼は、いまこの地図のどこらへんをうろついているのだろうか?

もしや。

「エミヤも私たちと同じく魔物があんまりでないのなら、もしかしてもう、二層の番人がいるところまで到達しちゃったんですかねぇ」
「いや……いや、それはどうだろうか。エミヤはむしろ、大量の魔物が出現して困っているらしい。入ってしばらくすると処理しきれない数の敵が出現するから、対処できなくなって撤退せざるをえなくなる。お陰でまだ九階から先に進めていない、とぼやいていたらしい」

疑問を呈すると、シンがさらりとそんなことを言った。誰から聞いたのだろう、と一瞬思ったが、ピエールが口を挟んで答えを言ってくれた。

「ヘイが口を滑らせましたか。あの人は、しっかりしてるようで、案外間の抜けたところがありますからねぇ。……しかし不思議ですねぇ。私たちはあまり魔物と遭遇しないのに」

いやはや、同じ迷宮を探索しているのにもかかわらず、一方ばかり集られるとは不可解な現象だ。もしやエミヤは魔物に好かれそうな匂いでも出しているのだろうか。そうだとしても、一方に集中しすぎている気がするけれど。

「他のギルドはどうなのでしょうか? やはり、魔物と遭遇しないので?」
「うん、そうらしい。ただ、魔物はいなくても、道が見つけづらかったり、落とし穴が多かったり、強い魔物が群れている場所とか、行き止まりにぶつかって、全然先に進めないし、地図作成も捗らないんだと」

ピエールが言うと、サガが己の持つ地図の広範囲にぐるぐると円を描くと、適当に指差して言う。それは当然だと思う。だってこの新迷宮の二層は、旧迷宮の四層を攻略し尽くした「異邦人」というこのギルドの彼らですら、少し手こずるような場所だ。私はサガ持つ地図の、狭い範囲を指で囲って、続ける。

「多分その強い魔物って、この辺の虫のFOEだらけの場所ですかね。たしかにあそこはFOEの動きの法則性を見つけるまでちょっと怖かったです」
「まぁ、近づいても一切攻撃しなければ素通りさせてくれるとはいえ、初見でああも狭くて近い通路の奥からいきなり威嚇射撃を飛ばされると、つい反撃したくなりますよねぇ。まぁ、私は攻撃手段に乏しいのでそもそもそんな野蛮なことできませんが、……ねぇ」

ピエールは言いながらサガを見た。やろう、よくもやったな先手必勝だ、と勇ましく属性攻撃を虫に仕掛けて、その周囲にいたFOE全てに追いかけられ、逃げ帰る羽目になったことを、未だに根に持っているのだ。

サガが少し恨みがましそうな、しかし自分のミスなので何も文句を言えないでいるのを見て、ピエールは楽しそうに竪琴をかき鳴らそうとして、しかし糸が湿り気を帯びていていい音が鳴らないことに気がつくと、ため息を吐いた。

サガはその様子を見て、ザマアミロ、と大人気なく上機嫌に笑うと、こちらを向いて先ほどの話題を続ける。

「しかし、響。お前、あれが転移装置だなんてよく一目でわかったな」
「ああ、そうだ。あれは響のお手柄だったな。あれがなければ二層は階層の移動も出来んのだから、この迷宮の二層は、なんとも意地の悪い仕掛けをしている。しかし、石碑以外の転移装置など旧迷宮の十九階にしか存在していないし、ともすれば見落としがちなのだが、響、よくわかったな」

サガの言葉を受けて、シンが褒めてくる。彼の言葉は他の人が言うような回りくどさがなく、真っ直ぐなので、すごく照れ臭くなる。私はおもわず口元をにやけさせた。

「いえ、だって、地面に不自然にあった、あれ、携帯磁軸と同じようなつくりでしたから」
「ふむ、そういえば君、本職はツールマスターだったか」
「あー、そうだった、そうだった。戦闘中はふつーに道具使うし、なんか採取とか解体ばっかの活躍だったから、ちと勘違いしていたわ……」

地図を弄りながらサガがそんなことを言う。うん、その点は指摘しないでほしい。私も最近、自分の職業がツールマスターなのか、補助専門のファーマーなのかわからなくなってきているのだから。などといじけていると、サガは持っている地図を広げて言った。

「地図といえば、エミヤの地図はすげーらしいな。受付の兄ちゃんから聞いたんだが、なんでも広い範囲を俯瞰視点ですげー細かい所まで作り込んであるとかで、落とし穴がどこに繋がっているかまで書いてあるらしいぜ。いやぁ、ご苦労な事だよなぁ。歩ける場所だけでいいのにさ」
「それはすごいな。戦いだけでなく、空間把握にも秀でているのか。大したものだ」
「サガの地図は几帳面な割に字と線がぶれていて見にくい――――、いえ、醜いすからねぇ」
「ピエール、おい、お前、今わざわざなんで言い換えた」

サガとシン、ピエールは本格的に雑談を始め、命がかかった真剣な場面とは思えないほど軽薄な空気が漂う。もはやまじめに迷宮探索を行おうという空気は完全に死んでいた。会話は二転三転としてゆき、結局、魔物はなぜエミヤにばかり集中するのか、という議論に発展する。以前、迷宮のでおしゃべりを自制した人たちとは思えない現状だ……、うん?

―――そういえば、以前、誰がこの状態を断ち切って彼らを進ませたのだっけか?

過去が脳裏をよぎった途端、ぬたぬた、ガチャガチャと金属が地面をめり込む音が近くで聞こえた。大きな声の会話に負けぬくらい大きな不穏な音につられて目を向けると仁王立ちをしたダリが不機嫌そうに三人を注視していた。新調した兜の伸びた板金から覗く視線は感情が抜け落ちたかのように冷たく、怖い。

―――ああ、何故こういう事に真っ先に気がついてしまうのか。

細かいところに気がつくのは命がかかっている冒険者として優れた点で、母譲りの良い癖だとよく褒められるが、こういった要らぬ所まで気がついてしまうのも早いので、結局、利害の収支はトントンだと思う。万事塞翁が馬というが、こんな場合、馬でなくとも逃げ出したくなるものだ。

「―――お前ら……」

耐えかねたダリが口火を切ろうとする。

「なぁ、ダリはどう思う?」

直前に、滾る炎に向けて、サガが平静の声をかけた。突如話題を振られたダリは、怒りの眼に戸惑いを浮かべながら、驚いた表情でサガを見つめ返す。

「……どう、とは? 」
「だから、魔物がエミヤばっかに集中する理由。衛兵の経験も合わせりゃ、ギルドの中で一番迷宮経験の長いだろ、お前。ギルドしかしたことない俺らと違って、知識豊富じゃん。お前なら何かわかるかとおもってさ? 」

突然の質問とお褒めの言葉は好奇心と自尊心を擽って、怒りの火種が、別の種類の焔に変えてゆく。そうして考え込みだしたダリは、すっかり溜め込んだ感情を思考のエネルギーへと変換させて、激しく燃え盛りあたりを焼き尽くすほどの怒りの業火が、その燃やす対象がそれた事で、私は、はぁ、と大きくため息をつく。

サガが悪戯っぽい笑みを浮かべてシシッ、と笑った。どうやら狙ってのものらしい。普段のくだらないやりとりにも不満を抱き、鬱憤を溜めてゆくダリのガス抜き……、なのだろう。多分。シンは他人の機敏を気にするタイプでないし、ピエールは溜め込んだ感情が爆発するのを見て楽しむタイプなので、自然とサガがダリの手綱を取るようになったに違いない。しかしサガは気配りが本当に上手い。

上手いと思うが、出来る事ならもう少しこちらがハラハラとしない方法でやって欲しい。こう、彼的に重要なこと以外は、普段から小まめに処理するのでなく、溜め込んで一気に処理する乱雑さは、なんともそれらしいんだけれども、非常に心臓に悪い。そうして私が心臓の動悸を乱れさせていると、私の臆病になど露ほども気づかない様子のダリが口を開いた。

「―――迷宮が発見された当初の頃のことだ。当時はまだ、未開の場所だった旧世界樹の迷宮の奥に秘められたその謎を自分たちの手で解くために、執政院は大量の人間―――百人単位の人間を一度に調査隊として送り込んだ」
「ああ、そうだったみたいだな。なんでも謎を解明すれば、当時はしょぼかったらしい林業の町エトリアがすげー発展するかもって、張り切って送り込んで全滅したってやつだろ? 」
「その後、めげずに幾度か小規模な調査隊を送って、それでも謎は解明されず、結局極端に人手が足りなくなったため自分たちで謎を解き明かすのを諦めて、お触れを出して他の国の人間に迷宮の謎を解いてもらおうと冒険者を集ったのが、その後のエトリアの発展に繋がったとは、なんとも皮肉ですよねぇ」
「ふむ、そういえば旧迷宮は当時の冒険者たちに踏破されたという話ではあるが、未だにその謎とやらは具体的には開示されていないな」

ダリの話を聞いて、各々が追加で情報を述べる。私はあまりその辺り詳しくないので、黙って聞いていることにした。

「まぁ、皆のいうことはどれもその通りだ。未だにラーダが明かそうとしない謎の内容も気になるだろうが、今回重要なのは、そこではない。大事なのは、何故、それだけの戦力を持った調査隊が全滅したのか、という点だ」

ダリは一旦そこで切って、咳払いをすると、指を上に向けて、くるくると回しながら続ける。

「調査隊が全滅した理由は簡単だ。最初に送り込んだ大量の調査隊の戦力を上回るだけの敵戦力が彼らの前に現れたのだ。探索の当初は大規模の人数を送り込み、普通に歩ける迷宮の部分はもちろん、上は天井から下は地面を掘りぬいてでも調べようとしたらしいが、そうして道無き道を切り開き、樹木の上に登れば敵が殺到するし、地面を掘って調べてやろうとすればある程度掘り進めてみると、そのうち魔物が迷宮の外にまで出てきてしまうほど湧き出てくる始末で、精鋭だった筈の彼らはあえなく全滅したのだ」

ああ、それで、「迷宮内で無闇に人の通れない道を無理やり通る事を禁ずる」とか、「無闇に迷宮を傷つける事を禁ずる」とか言った内容の不思議な探索のルールがあったのか。

「以後、数度の小規模な調査隊の投入と帰還を経て、六人だろうと七人だろうと、それこそ百人以上だろうと、帰ってくるのが五人以下、という経験から、「最大五人」という人数で、「徒歩で移動できる場所」を最低限だけ探索するのが、迷宮を長く探索する際の鉄則になったという。冒険者を目指す初心者にたいして、最初に「徒歩で歩ける場所」の地図だけでよいと指示するようになったのもこれが原因だとか」
「へぇ、なるほど。五人の方は知っていたが、地図の製作範囲が限定されている理由がそんなだったのは知らなかったな。確かに、「歩ける部分だけでいい」って最初に強調して言っときゃ、わざわざ他の部分を歩いてまで面倒な部分を書き出そうとする奴はいないだろうからなぁ」
「土の掘削なんていうのは元々、エトリアどころかどこの地域でも許可制ですから普通やりませんしねぇ。いやぁ、上手いやり方だ」

サガとピエールはダリの言葉にしきりに感心の声を上げる。私もおもわず、「はぁぁぁ……」と長く間延びした声を上げさせられた。いや、歴史というものは何処にでもあるものだなぁ。

「……ダリ、それで、その「探索人数限定」と「迷宮探索範囲指定」のルールが、エミヤだけに魔物が集中する状況と、どう関係しているのだ?」

そんな中、ただ一人、シンが疑問の声をあげた。ああ、そういえば、元々は魔物が一人に集中する理由を尋ねていたのだった。ダリの答えは、調査隊が魔物によって全滅させられた事実よりいくつかのルールが生まれた説明にはなっているが、エミヤにだけ魔物が群がり、ほかの冒険者がほとんど無視されている理由になっていない。シンの疑問はもっともだ。

「わからないか、シン。先程サガが、言っていただろう? エミヤの地図はまるで俯瞰したかのように、精巧なものであったと。加えて、単独で魔物を避けてさっさと進もうとしているというの仮定が正しいなら、答えはおそらく……」

ダリは静かに上を指差した。それの指し示す意味は、私にも読み取れた。

「なるほど、あいつ、まさか、木の上を行っているのか」
「おそらくな。一般に魔物は多くの場合、地上近くに現れる。蛇や羽虫はともかく、狼、土竜、鹿などの四足動物は地をゆくからな。加えて、エミヤは迷宮初心者と聞く。そしてこの新迷宮の一層において、襲いかかってくる魔物は殆ど地面からだった。その事実から考えるにおそらくこうだ。彼は敵と戦う煩わしさを避けるため、樹木の上を進む事にした。しかしその行動が先の「歩行可能範囲」ルールに抵触し、だからこそ、迷宮内の多くの魔物が彼の方へと寄って行ってしまう。その恩恵を受ける形で、私たちの方へは魔物が寄ってきていないのではないか、というのが私の推測だ」
「はぁー、なるほどなぁ……。しかしこりゃ思いつかんわ」

サガが大きく感心の声を上げる。シンもピエールも、もちろん私も同じく感心して彼の話を聞いていた。頭でっかちで理論先行の部分もあるが、思考は彼の得意分野だ。疑問を投げかけると、豊富な知識から、それらしい結論を導き出してくれる。他人の感情が絡まなければ、彼はとても頼りになる男なのだ。

ダリの返答に、シンは深く何度も頷いて納得を露わにする。

「なるほど、あるいは単独で番人を倒す実力のある男だからこそ、なのかもしれないな」
「……どゆこと?」
「それだけの実力があるのだ。もしかしたら彼はその説明を受けていて、しかしなお、樹木の上を行っているのかもしれんと思ってな。そう、その場合、おそらく彼にとって、その程度のことは「普通の人間が出来る範疇」なのだろう。実力が高く、木の上を軽々と行けるだろう事を、しかしそれが異常だと把握できていない。だから、そうだとしたら、上をいくという選択肢を取ったとしても納得が出来るだろう?」
「なるほど、無茶苦茶だけど、お前らしい結論だわ」

サガが違った意味での納得を見せる。その時だ。

「――――――来たか」

シンは呟き、静かに気配を鎮めた。彼の意を察知して一同が一斉に戦闘体制へと移行する。サガは巨大な鉄籠手を解放させ、ピエールは乱れた服装を整え帽子を深くかぶり直し、喉元を何度か優しく摩った。シンはパチンと鍔を鳴らして刀身を微かに露わにし、ダリは盾を構えながら猫背気味の前傾姿勢になる。

わたしは彼らに少しばかり遅れながらも、すぐさま道具を取り出せるように袋の口を解放させて、手を突っ込んだ。道具の配置を確認するためそれぞれの感触を確かめながら周囲に注意を配っていると、サガと目があった。彼は白い歯を見せつけるようにニッカリと笑う。

「動き、滑らかになったな」

褒められた。認められたという感覚が胸の中を擽って、こそばゆい。

「まだまだ、だがな」
「まだまだですけれどねぇ」

ダリとピエールが気の削がれるような事をいう。一聞にして嫌味のように聞こえるが、ダリにとってそれは悪気あって言っているのでなく、前よりは成長していると認めてくれているのであり、ピエールもやはり同様なのだ。私は最近、ようやく彼らの裏に隠された感情が読み取れるようになって来た。……気がする。

「響。フォーススキル、行けるか? 」

シンが流れを気にせず、そんな事を聞いてきた。相変わらずシンは戦闘のことしか頭にないが、その徹底して空気を読まない態度でこちらを頼りにしてくる態度はとても潔く、心地よかった。私は体の調子を確かめると、今まさに最高の状態であることを確認して頷いた。

「はい……、はい大丈夫です。やってみます。お望みとあれば、最初にぶっ放します」
「ではそれで行こう。羽虫系統、小さいのメインだったら香で状態異常。大きい場合は糸で行動阻害。判断が難しい場合は、ピエールに聞いてくれ」
「わかりました」
「ピエール、聞いての通りだ。サガ、ダリ。彼女のフォローは任せた」
「お任せを」
「あいよ、了解」
「承知した」

皆の言葉は力に満ちていて頼もしかった。期待に背を押されるようにして、各種香と縺れ糸を撫でる。敵の来るだろう方向に当たりをつけて、シンが視線と柄の先を向けた。意識を集中させると、羽が空気に擦れる音が重複して聞こえてくる。

―――そうか、羽虫の群れか。
―――なら香で

鞄の口を開けて複数の香を取り出すと、意識を集中させて能力を引き出す準備をする。人をはるかに上回る大きな体躯の魔物であっても、一息吸えば盲目、麻痺、睡眠、混乱の混じった調合の香は、人よりもはるかに小さい羽虫に対してであれば、驚くほどの効果を発揮し、敵を確実に石化させてくれるだろう。

ただし、敵を石化させる香は複雑な調合により非常に不安定な状態であり、それゆえに風向きを読んでの調整は難しく、また、身体能力の低い私では、基本広範囲の対象に向けての使用はできない。そう、それこそがツールマスターが準戦闘職である理由。

ツールマスターは集中してやる事で、一つの道具が確実に効力を発揮するように使うことはできるけど、その反面、身体能力や反応速度が低いから、戦闘中に道具を適切に使うことができず、例えば戦闘職の彼らが使えば広範囲に効果を及ぼすようなものであっても、一つの対象にしか使ってやることができない。

その身体能力と反応速度の違いが、戦闘職と準戦闘職を分ける確固たる証明。だから、常に複数の魔物に対処しなければならない迷宮において、ツールマスターという職業は、転移装置の手入れや、携帯磁軸の調整などの場合以外ではお呼ばれがない、準戦闘職なのだ。

けれど、今、私の神経は他人の感情の機敏に気が付けるほどに研ぎ澄まされているし、真意を見抜けるほどに落ち着いている。本当に初めの頃、最初に行われた旧迷宮四層における戦闘の連続で私はそこいらの冒険者に負けない身体能力を手に入れた。

そして、よほど、集中できている時―――いわゆる、フォーススキルを使える状態であれば、私はどんな道具だって、その効力を最大限に、適切に発揮させてやることができるのだ。

―――いける!

確信を抱いた数旬の後、果たして敵は現れた。威嚇的な形状と不愉快にさせる容貌が混ざった彼らを視界に収めた瞬間、私は香をカバンより取り出してフォーススキルを発動させた。

「イグザート・アビリティ!」

声高にフォーススキル名を叫ぶと同時に、発揮した石化の力は広範囲に散って魔物の群れに襲いかかる。それは開戦の狼煙となって、私たちは一斉に行動を開始した。

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

視界が赤に染まる。石碑より転移した体が、世界樹の迷宮二層六階に屹立する紫柱の前に広がる大地を踏みしめると、即座に足を動かして探索を開始する。探索は二層だけに限定しても、これでちょうど四回目。此度こそはなんとしてでも迷宮の番人を倒し、三層へと突き進んで見せようと、他でもない己の心に誓ってみせる。

脳裏に広げた皮算用ではとうの昔に三層を攻略しているはずだったが、なるほど、やはり世界樹について狐狸程度の知識しか持たぬ私では、予定通り上手くいかないのも無理はない。

例え獣であろうとも、かのギリシャの大英雄や気に食わぬケルトの英雄、絶望的にソリの合わぬメソポタミアの英雄王が持つような神性でも得て、正一位にでもなれるのなら話は別なのだろうが、あいにく元々、裏技的な手段で単なる人より英霊へと昇格しただけのこの身は、彼らの様に信仰を得られるほどの華々しい活躍を世に残せていない。

あるいはこれより奮起して、剣の解析と投影に秀でた魔術の特性を活かし、武器職人の道でも進み極めてみれば、あるいは金屋子神の末席には加えてもらえるかもしれないが、まぁ、こんな穢れた魂の男は、精錬という金属の純粋さを極める神聖な領域に相応しくはないし、荒ぶる神として禁足地に祭り上げられるのが精々の末路だろう。

「――――――ちっ、早いな」

くだらぬことを考えんがら、樹々の間を縫う様にして迷宮を翔ぶが如く進んでいると、すぐさま知覚が邪魔者の存在を感知した。五感と六感を発端とする信号は正常な進行を妨げるノイズとなり、肉体は否が応でも探索より戦闘の体制へと移行させられる。

魔術回路を強めに励起させて、進路を塞ぐ様にして陣取る敵の詳細を感知すると、いつもの毒虫が前後左右上下天地にまで群れて待機している事を理解させられた。

半球状に群れなす毒虫共はまるで茹で上がった釜の様だ。具材となる素材は飛び込んで仕舞えば、後は捕食者に喰われるまで身を任せるがままにするしかない。食材をいかにして調理してやろうと考えるのは得意分野であるが、己が調理をされる側に回るのは御免被る。

ぞっとしない結末を避けるために、強めに強化を施した足で太い木の幹を強く思い切り蹴り飛ばす。前方に進む運動エネルギーがそのまま負荷となり、内臓が押され、気持ちの悪い浮遊感が体を襲う。胃袋の内容物をぶちまけるほど柔な作りの体ではないが、強化された肉体でも体内を漂う空気は抑える事が出来ず、食い縛った口の端から、しぃぃぃぃ、と呼吸が漏れていく。

空中でくるりと身を翻して体の前後の向きを逆転させると、一目散に前進する。一瞬の後、背後より先ほどまで自分がいた場所の空気を何かが通り抜けた音が聞こえた。探索当初は初撃に挑発を挟んできた奴らも、最近は遠慮というものを忘れてしまったようで、こちらの姿を見つけると、嬉々として己の誇る武器をぶつけてやろうとしてくるようになっていた。

無作法の行いを無視しながら、脳裏に刻まれた地図の情報を最新に更新して、使用不可能となったルートに大きくバツをつけると、儃佪を避けるため、即座に迷宮奥地へ向かう次の探索進路を定め、迷わずそちらの方向へ身体を転換させる。

敵は多く、密林の隙間を埋め尽くすほど、まるで進路を塞ぐ様に湧き出てくるが、広大な空間体積を誇るラビリンスの隙間を全て埋める事ができるほどの数はいない。いや、もとより、そんな生態系を壊すほどの数がいるはずもないし、一気に出現するわけもない。はずだ。

ともあれ、迷宮が広く大きい、という事は、それは私にとって長い旅路を約束する不幸な事実であり、敵との戦闘を避けやすい幸運な事実でもあった。私は多大な不幸と幸運を携えながら、迷宮を進撃する。

世界樹の新迷宮
第二層「蟲毒の大密林」
第十階「全てを失った女が出会った伴侶と愛を誓い合った教会」/「空位に至った亡霊が望みをかなえた山門」

視界に痛い赤の密林と、肌に粘りつく空気を裂いて、迷宮の九層を飛び回る事を丸一日ほど続けると、密林の低い場所にある短い木の下に隠されていた水路を抜けた先に、ようやく十階との出入り口を発見する。そこをくぐると、二層十階というものは思ったより狭く、二時間ほども逃走と疾走を繰り返すと、すぐさま最奥に位置する、番人の部屋の前の白無地の門と壁にたどり着く事が出来た。

そうして周囲の赤との協調を拒む病的なまでの白き扉の前まで来てやると、今までの喧騒と乱痴気騒ぎが嘘の様に門前は静けさを保っていて、疲れた体を休ませるに適した場所へとなっていた。

……門の向こう側よりひしひしと伝わってくる、不愉快を隠そうとしない気配が漂っているのを無視すれば、の話であればだが。

門の向こう側から番人だろう相手がこちらに飛ばしてくる敵意は、女の妬み恨みを思わせる粘着質を保有していて、そのドロドロとした怨念が門と壁より一定の距離の空気を澱ませ、群がっていた魑魅魍魎を祓ってくれているようだったのだ。

その凄まじく恐ろしい冥漠とした感覚は、無生物であるはずの蔦も苔も埃塵もが情念を嫌って、門も壁もが汚れひとつ見当たらほどの潔癖さで白さを保っているといえば伝わるだろうか。

とはいえ、そのおどろおどろしい様が群がる敵を退け、門前に安全な空白地帯を作り出しているのだから、番人戦に備えて薬などを使い、準備を整えている今この瞬間だけは、門の向こうにいる奴が放つ気配の迷惑有難さに感謝せざるを得ないだろう。

―――まぁ、これからそのありがたい存在の排除を積極的に試みるわけではあるが。

さて、一層の番人が層の中で一番強い魔物の長である様な姿をしていたのだから、此度もおそらくは同じだろう。とすれば二層の番人の姿として一番あり得そうなのは、巨大な羽虫だろうか。なら装備は、道中と同じこれでよかろう。

そうして胸元にしまいこんである品の表面を撫でる。この度身につけてきた装備品は、鬼の護符、と言う名の状態異常を防ぐアクセサリーだ。符には大きな角と牙を持つ四角顔の鬼が厳つく口を開けて威嚇しているのが、紅を用いて白紙に刻まれている。

紋様を変えれば攻撃の力を上げてくれるときいたが、この毒虫蔓延る迷宮においてはこちらの方がいいと判断ししたため、そうしてもらった。

護符は双剣に刻んだ魔除けと聖骸布の加護とが持つ魔除けの効力と合わさる事で、大抵の状態異常、すなわち、盲目、毒、麻痺、石化、混乱などの異常を防いでくれるありがたい代物だ。タリスマンやバングルと同じく値は張る代物だったが、命に代えられる程ではない。

魔を払う護符は、よくある姿として効力とは対称的に禍々しい姿をしているが、威嚇的な姿で悪を祓おうとするのはよくある手法である。悪をもってして悪を討つ、という点に、似た者同士というシンパシーを感じて表面を撫でると、頑固さと異常を拒む性質を表しているかの様にごわごわした紙質が、同類を歓迎するかのように優しく皮膚を擦る。

戯れも程々に、番人と対峙する前に道中で乱れた身だしなみを整え汗を拭き、体の疲れを持ち込んだ薬剤で取り除き、事前にいくつかの装備品を投影する。生み出した双剣を腰に携え異常に対する守りの備を強化すると同時に一手分の短縮を行う。

そうして守りが万全である事を確認すると、一層の番人を倒した際に使用した黒塗の洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグ」を投影し、番えて構えた。前回は馬鹿正直に門の中に踏み込んでしまったため苦戦を強いられたが、此度はそうはいかない。番人の姿が何であれ、門の外から、速攻の一撃で決める。

決心とともに、はしたなく扉の下側に足をひっかける。ここに来るまでに溜まった鬱憤を晴らすかのように、少し強めに足裏で押してやると、ピタリと閉じられた門が両扉ごと綺麗に後ろに引くのを確認。

同時に、此方も身を引いて弓の弦を引く力を強める。改めてノッキングポイントに捻れ剣を番えなおすと、魔力を込めて射の構えをとる。一度経験した作業は、スムーズな行動を可能としていて、以前より手間取る事なく、滑らかな動きで作業は完了した。限界ギリギリ迄魔力の込められた矢は力を撒き散らす事なく身を震わせ、雷霆鳴り響く直前の気配だけを漂わせている。

「――――――、ふん、やはりか」

そうして開いた扉の向こう、はるか先に現れたのは、曲線に尖った身体を様々な色で雅に彩った、玉虫の群れだった。その大きさは私の常識の範囲内に収まる小さなものだったが、その数があまりにも異常だった。

部屋の中心に浮く、直径三、四十メートルの球体の表面が色鮮やかに蠢く様から想定するに、千万匹を下らない数がそこに潜んでいるのだろう。中までぎっしりと詰まっていると考えると、下手をすれば億すらも越しているかもしれない。あれが如何なる手段でその生態系を保っているのかはしらないが、あの数が敵に一斉に襲いかかる姿を想像すると、それだけで身のあちこちが痒くなる。まさに蝗害だ。

だがこれなら殲滅は容易である。濃淡鮮やかな緑水色に光る奴らが、たとえその色と等しくエメラルドほど硬度持っていたとしても、宝具と呼ばれる兵装の一撃を耐えられるはずはないし、範囲外に半径百メートル程度までなら宝具の崩壊による熱の一撃、すなわち、「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」による追撃で焼き払う事が可能だ。

また、仮に奴らが鮮やかな警戒色が示している様に即効性の毒を持っていて、爆発により離散するだろう毒液、体液が、護符と魔術的防護による守りを貫けるほどの強毒や強酸を持つとしても、五百メートルほども距離があるここからであれば、大した余波を受けずにすむはずだ。後はこの距離から射撃と宝具の織り交ぜにより潰してゆけば、手間かもしれないが安全に戦闘を終わらせる事ができる。

算盤を弾いて利害を算定すると、自然と決意も固まった。後は一撃でかいのを叩き込んで、さっと瓦礫を除去するだけの作業に過ぎない。

「――――――、……ぅ」

宝具の真価が発揮するには名を呼ぶため必要がある。発音のため少しばかり息を大きく吸い込むと、瞬間、敵の群意がこちらに向いた。だが遅い。

己に近づきつつある死の気配に気がついた彼らは、開きつつある扉のはるか向こうで、球体となっていた緑球体の表面を激しく波打たせる。私は攻撃の瞬間がわからないよう、濃厚に殺意だけを放ちながら、しかし攻撃の気配を殺してやる。

濃密な殺意を球体に叩きつけるは風船に突き立った針を引くに等しい行為であった。殺意の針により空いた大穴から、玉虫が硬い羽音を立てて飛び出した。その光景に屍肉に群がる蝿群のそれを思い出して、多少集中が害される。

―――だが、問題はない。こちらの一撃を止めるべく最短の距離を進む敵群の動きは直線的で、矢を放てば巨大蛇の如く薙ぎ払えるだろう。ならば……!

「偽・螺旋剣/カラドボルグ!」

切っ先を進軍する群の先端に向けて真名と共に一撃を放つと、弓より放たれた雷霆をあげる極細の竜巻が、周囲の空間を捻る切りながら、迫る虫をもかき消して進んだ。刹那の後、球体の中心に到達するだろう宝具を崩壊させ、虫をもろとも焼き払うべく、世界に意を伝えようと声をあげる。

「壊れた/ブロークン―――!」

口より溢れた声が意思を伝え切る直前の瞬間、強化された眼球は、虫の密度が薄れた球体の奥に、異端を見つけた。それは七色に輝く玉虫色の中にあって、毒々しくも柔らかな高貴さを放つ藤色の何か。正体不明の悪寒が背筋を貫く。直感が攻撃の中止を訴えて信号を発するが、喉元は既に意に反して震えて、残る音声を世に生み出していた。

「幻想/ファンタズム―――!」

直後、爆発。―――そして背後に気配。

「なぁ―――」

前方に向けて大きく跳躍。背後より虚空を切り裂く三条の光を避けられたのは、偏に、異変を察知した感覚が警戒を密にして、周囲の空間の異常を捉えたからだ。戦闘経験が導き出した警告が遅れて頭に鳴り響く。だが、その正体がわからない。

考える間もなく続けて背筋を悪寒が襲い、自然と体を前に逃走させる。背後より追いかけてくる空気を裂く音が、足を止めてその正体を確かめるべく振り向くことを不許可し続けていた。

―――まずはこの連撃をやり過ごさねばなるまい……、あれだ!

己の起こした爆風によって生じた土砂入り混じった風が、部屋の中央から迫りつつある。数秒後、迷わず前方より風に運ばれ来やる土砂壁の中に飛び込み、砂塵に身を隠した。宙に吹き荒ぶ石土は己にとっては小さな障害に過ぎぬが、僅か数センチの体積しか持たぬ敵にとっては、巨岩が舞うに等しい嵐なのだろう、そこで漸く敵の目を撒けたようで、背後より迫っていた攻撃が一時的に止んだ。

安堵の息が漏れる。呼吸と共に、散布する土砂が口に飛び込んで、味蕾が要らぬ土の味を感知する。血潮の鉄気を帯びていなかっただけでも有難いと思うべきなのだろうが、不快だ。腕布を口元周辺に当てて、鼻と口元からの侵入を防ぐも、面倒見きれない耳孔に砂が侵入し、鼓膜を掻きならす。不快さが増した。

しばらくそうして呼気を整えていると、土煙が薄れて行く。晴れてゆく砂塵に中で、気を入れ直して周囲の気配を探ると、己の周囲に緑の線が幾重にも張り巡らされていることに気が付いた。球を解いた虫どもが、獲物を逃さぬようする為、煙を中心として半球に取り囲んでいたのだ。

「―――ちぃ!」

互いが土煙より敵の姿を視認した途端、玉虫たちは攻撃を再開した。地を蹴り、即座に現所より離脱。蠢く球内殻の面から玉虫が針の如く次々飛び出たかと思うと、直前の瞬間まで私のいた空間を弧なる翡翠色の刃が軌跡を残して、土煙に跡を残しながら去って行く。先程の攻撃はこれか!

回避をするも、避けた先に次なる刃が置かれていた。強化した筋繊維と反射神経に任せて強引に身を捻り躱す。しかし、その先には更に飛燕の如き速さで飛ぶ刃が配置されていた。

―――避けきれんか!

腰に当てていた双剣を逆手に握り、首元を狙う玉虫色の刃の進行に合わせて黒白の双剣を交差の比翼にして突き出し、防御を試みる。楔型を取った双剣は敵とかち合った刃は耳障りな鈍重音を立てて幾分かの玉虫の流れを逸らすことに成功し、幾ばくかの敵を切り裂くが、散弾となった敵を防ぎきるにはとてもではないが、面積が足りなかった。鍛え上げられた細き刀身の真横を数センチの弾丸通り過ぎ、流れの先にあった両手の聖骸布に亀裂が走り、素肌の頰と左右の首筋に赤の線が幾筋も走る。

直線に走ったが線は、失態の代償の痕だ。遅れてやってきた痛みに続けて、痕を撫ぜるように痒みが走るが、それは傷口が生きている証だ。毒も……、ない。大丈夫だ。

どれほどの裂傷がついたのか確認する間も無く、三つの刃が再び同時に繰り出され、散弾で構成された刃は再びこちらの命を刈り取ろうと、車のエンジン音にも似た羽音を立て迫りくる。

―――だが、遅い

同じように繰り出される三つの連撃を最小の動きで回避する。繰り出される玉虫の刃は決して早いわけでなく、忠実に同じ行動が繰り返されるばかり、かつ、体崩しと不意打ちが組み合わさった心の隙を突く攻撃で、それはまるで意思のない暗殺者の一撃のように機械じみていた。

―――なるほど、大したものだが、相性が悪かったな。

体を崩し上下の回避方向を固定するため繰り出される横薙ぎを身を沈めて避け、左右の回避方向を決定付けるための唐竹を地を這うような格好で避け、死角から繰り出される首への刺突を剣に突き立てた刃の制動によって避ける。敵の動きを計算に入れての連撃は見事だが、私を仕留めるには速度の見積もりが甘すぎる。

敵の戦術は、質を補うため数の優位と未来予測に頼った、いわば弱者の戦い方だ。見下すつもりなど毛頭ない。隙を作り出して活路を見出す戦術は私もよくやる手法であり、敵ながらに親近感すら覚えてしまう。だからこそ、相手の行動の予測が手に取るようにわかるし、そのような相手に負ける気はしない。

―――とはいえ

回避は可能だが、有効となる反撃の手が思いつかない。おそらく、あの異端たる宙を飛ぶ藤色の蛇がこの玉虫どもの親玉であり、あれをどうにかすれば硬直した状況を好転させられる予感がある。

だが。

「ち、届かんか」

攻撃の隙を見て投影した剣を蛇目掛けていくつも投擲するも、大抵は玉虫の壁に敗れて弾かれるし、通り抜けた所で、蛇は転移をして別の場所に消えてしまう。なるほど、突如として玉虫の群れが私の背後に現れたのは、こやつの仕業かと直感する。

攻撃の正体と敵の情報が揃ってきた所で、対策が思いつかない。いかんせん、飛燕の連撃を避けながら、視界すら遮る厚さの敵の虫条網を抜けて、飛翔に、恐らくは転移までこなす敵を攻撃する有効な手段が思い浮かばない。

―――どうするか……、ん?

悩む間にも敵の一撃の速度が上がっていることに気がついた。先ほどまで避ける事の出来た速度での回避が叶わない。強化を重ねがけしながら識を巡らせると、敵の敷いた陣が縮こまっている事に気がついた。

―――やってくれる。

己を中心とした半径二十メートルの空間は、内部の核となる敵を確実に仕留めるべく、距離を詰めていた。惨殺か、圧死か。手をこまねいているままでは、運命が決まってしまう。全方向の敵との距離が狭まる中、縮まる半円空間内部を三筋の緑光が煌めいた。

両手の甲と頰と首にさらにいくつもの筋が走って、赤の雫が溢れて舞う。痒みはもう痛みを帯びて、頬と首より流れる服の胸の方にまで血が流れ込んでいる。もはや猶予はない。近づく刻限と極限の状況は、己の魔術の真髄を思い起こさせた。あまりにも想定外であるが、仕方ない。

―――切り札を使用する

数秒後、雄叫びとともに空間を割く鈍色の光が一面を走りぬけ、世界はその姿を一変した。

私は近くに穏やかな水源があり、周辺を腐らぬ程度に草木が足元の一帯を覆い、少し離れた場所に行けば樹木林の広がる山が広がる環境で生まれ育った。天気が荒れることはほとんどなく、凪の様な静けさが特徴といえば特徴になるだろう、これといって特筆することの無い、閑静な村だった。エトリアという街から、迷宮という余分を引っこ抜けば、ああなるのだろう。

辺鄙な場所に位置し、近くに迷宮も何もない静かな村には、冒険者が訪れることはまず無い。穏和な人格の者ばかりである為日々は穏やかに過ぎて行く。諍いは少なく、勃発したとしても、スキルという日常発生しうる全ての不足をカバーする存在が、決定的な損失になりうる取り返しのつかない事態が発生させないので、諍いの原因はその内なくなってしまう。互いに気の置けない人間が集まっているのも大きかったのだろう。

―――障害がない。幼い頃よりそれが不満だった。

私は、スキルと身体能力において、他者より秀でた才があった。ただでさえ不満のない生活に過剰な能力が与えられたならば、それは余裕を通り越して退屈となる。同種の経験と苦労があるからこそ、相互理解に繋がる。周囲より優れた能力を持つ私は、優れているが故に他者と話が合う筈もなく、十になる以前に手の届く全ての範囲の雑事をこなせる様になっていた私は、十になるより以前、早々にして人生に飽いていた。

さて、飽いたとはいえ、残りの生涯を文句だけで過ごすのも馬鹿らしいと考えた私は、己の進行を妨げる障害を求めて、あえて物事に力一杯取り組むという事を生活の退屈を紛れさせる趣味として生きていた。

退屈の中、いつかは自らの力では解決不能である難題に出会えるだろう事を懸想する日々。転機は数年に一度ほどの頻度で発生する、草食動物の大量発生時期に訪れた。

増えすぎた動植物は、放っておくと翌年以降の食糧事情に影響を出す。同年代の中でも身体能力に優れていた私は、村長より、増えた草食動物を処理する為に訪れる数人の冒険者たちの補助を依頼されていた。

普段おとなしい相手とはいえ、争いとなれば荒々しい抵抗を見せるし、数増えて群をなせばその分脅威度は更に増す。数人の人間で、数百越す動物を狩る。それは明らかに、無理難題なものだった。だが、村長は彼らならそれが出来ると信じてやまない態度だった。

難題を求めていた私は、村長の信頼を不思議に思った私は、当時、冒険者という職ではなく戦闘用スキルというものを使用出来なかったが、それでも狩りも、解体も、食肉加工も、鞣しの経験も持ち合わせていたため、十分やれると判断し、承知の返事を返す。

次の日、村長に指定された村の広場に行くと、いたのはブシドー、パラディンアルケミスト、メディック、カースメーカーが一名ずつだった。彼らは弓も銃も持たず、杖と剣と刀と盾ばかりを持った、とても狩り人に見えない集団だったが、彼らを目にした瞬間、村長が信頼して任せた理由が理解できた。

彼らならやれる。およそ一度たりと外した事のない自らの直感がそう告げたのだ。合流直後、外部より招き入れた彼らとともに草食動物の狩りを始める。

雌の気をひくための装飾角や、重い身体を支えている強靭な四足の一撃を避けるためには、不意の一撃で全員を仕留められるのが一番効果的だ。だが群れている場合は、その手法は不可能だ。少しずつおびき出して処理する事も可能であるが、警戒心を抱かれて途中からうまく行かなくなるに違いない。

平原を呑気に歩く草食獣の群れを前にして、さて彼らはどうするのだろう、と期待を込めた視線を送っていると、我々の殺意に敏感に反応した獣が、一斉に立ち上がった。

私はその時、初めて絶望というものを知った。

平原を黒に覆い尽くす獣は、数百どころか、三千―――数は後で知った―――を超える数がいたのだ。私が見たのは、その一部でしかなかった。

そうして私が当時は理解不能だった感情に襲われていると、怯える私の頭をその籠手を装着した腕でガシガシとなでて、ひとりのブシドーが前に出た。彼は刃を腰鞘に収めたまま、中腰の姿勢で構える。

―――何をする気だ

答えはすぐに示された。彼の放った一撃によって、眼前にいた草食動物は全て死に絶えた。それが私の原点。冒険者という職業を目指すきっかけ。そう、あの時彼の放った強烈な一撃は、私の寤寐に塗れた日常をも切り裂いて、私を俗界に引き戻してくれたのだ。

「――――――」

在りし日を思い出したのは、私の常識が再び切り裂かれたからだろう。言葉が出なかった。眼前にて繰り広げられている戦いは、それほどまでに私の知識にある戦闘とかけ離れたものだった。

ウォンウォンと耳障りな低音を上げる百万を優に越えるだろう翡翠虫の球の中は、土砂の赤と弧の緑の光に満ちている。光は才ある近接職がようやっと追いつけるほどの速さで動く玉虫が繰り出す体当たりが連続して起こっているものだった。加えるなら、瞬間の光が実は三連であると捉える事が出来るのは、この場において私以外にいないだろう。

この場にいるのは、一人を除けば、歴戦の強者である。エトリア中を探しても、私たちほど熱心に迷宮探索に取り組んでいるものはいないだろうし、熱心に取り組む輩の中でも飛び出たギルドという自負もあり、事実として、私と彼らは強い。

だが、その我らをしても対応出来ないかもしれない程の戦いが目の前で繰り広げられている。その事実は、私をひどく興奮させ、そして、彼らと彼女の意識を奪っていた。

緑球の檻の向こうで強者が舞う。彼は繰り広げられる連撃を軽々といなしている。周囲全方向から繰り出される斬撃を、一度たりと正面から受けることなく、身のこなしと予測にて最小の動きで避けるその様は、「見事」の一言以外で表現する事が出来ない。

ブシドーとして頂に近い実力を持つ自負はあるが、その私がピエールや響に強化されたとて、彼のような動きはできない。私の動きは動物のそれに近く、己の直感を完全に頼り、反射に任せたからこその動きであるが、彼のそれは、どちらかといえば、ダリのような、思考に基づき計算されつくしたものである。

肉体の反射のみで戦う利点は迷いを捨てられることにあり、欠点として一切の迷いがないので行動を見切られやすい性質を持つ。対して、思考を中心に戦闘を組み立てる戦闘方法は、行動を見切られにくい安定の利点を持つが、思考にて迷いが生まれた瞬間や、戦術を切り替える最中に隙が出来るという欠点を持つ。二つの戦闘方法は氷炭なのだ。

通常相反する性質の戦闘方法を、しかし彼は見事に融合させた戦いを行なっている。ダリの思考が直接反映された状態で私が動いている様なものなのだから、なるほど、強くて当然だ。

「……ん?」

どれほど呆然としていたのかわからぬが、眺めているうちに異変に気がつく。中で剣を振るう男が焦燥の様を見せている。何故だろう、と考える前に、気がついた。彼の姿が見えにくくなっている。球が縮小をしているのだ。

助けなければ、彼は死ぬ。思った時には体が動いていた。前に出た肉体は自然と鞘から刀を抜き、上段に振りかぶった状態で突撃をしている。なるほど、直前に見た過去は、これを予兆していたのだ。

思考を排除して、感覚を研ぎ澄ます。エネルギーを余すことなく行動へと回すと、丹田に溜まっていた力に気がつく事が出来る。フォーススキル使用可能を示す合図だ。

気付きと瞬きの間に、既に体は数十メートルも進んでいる。上半身より力を解いて、弛緩させる。必要なのは繊細な体捌きではなく、心持ち。己は必ずその現象を起こせるという確信があってこそ、フォーススキルは現に絶大な現象を発揮する。

かつて百を越す草食動物の群れを一刀の元に斬り伏せたブシドーがいた。彼は今の私よりも劣る実力と、はるかに劣る武装しかもちえず、とても三千の獣を倒せるだけの条件など整っていなかった。

しかし、彼は、いや、だからこそ、己の実力以上を必要とする難題に挑める事を喜び、にぃ、と両の口角をあげ、楽しんだのだ。あの時、あの瞬間、彼が魅せた快楽を抑えきれぬ表情は、今でも私の心底に張り付き、褪せぬ指標となっている。

羨ましい、と今でも思う。冒険者になってから、彼を上回る実力を身につけた私は、しかし、一度たりと、百を超える群れを一刀の元に斬り伏せる所業を越す事が出来ていない。

だが、今、その機会が転がり込んできたのだ。眼前に群がる玉虫の軍勢は質こそたいした事ないが、量はあの時を遥かに凌駕する。如何なる理由があればこれ程までの数が集まれるのかは知らぬが、おそらく球中にいる彼が関係しているのだろう。

―――確か、エミヤという名だったか。

心中で最大限の感謝送りつつ、次の瞬間にはそれすら排して、身体の燃料と化す。

あとは数歩。球体は近づく私を脅威と認識したらしく、球外殻の表面に高波が生まれ、羽虫たちは円錐状のトゲとなりつつある。だがその程度、何の問題にもならない。いける。確信は力となり、極限まで研磨された感覚は、私と敵以外の紛たる存在を排除し、世界は窮屈さを無くして光闃たる姿を取り戻す。

身体中が不思議な感覚とともに光になる。体は空のように軽い。これだ。この感覚を求めていたのだ。さあ、いくぞ。今こそ望みの時。眼前に存在する全ての魔物の首を叩き落とし、過去に見た憧れの光景を我が手で再現してみせよう。

「一閃! 」

発声と共にダマスカスの刀身を静かに振り下ろすと、黒白の世界に幾万星霜の赤金色が宙を飛び交い、私を俗界に呼び戻す。数秒後に広がるだろう光景を幻視して満足を得た私は、愚昧にも己が振り下ろした剣の柄を離して、心ごと地面に預けてしまった。

「一閃! 」

誰かの叫びと共に、空中に閃光が走る。赤銅色の線は宙に在った玉虫と混じって深碧色の光景を辺りに広めると、次の瞬間、頭部と胴体の意思疎通を不可とされた羽虫が粛々と落下し、半球のあった場所には翡翠色の村雨が起こる。

―――何事だ。誰の仕業だ。助かったのか。

浮かんでは消える懸念を中断させたのは、落下する幾百万の複眼と目があったからだ。私の体は攻撃を避けた直後の予想外についてこれておらず、硬直してしまっている。

―――非常にまずい。

虫の手足は頭部をもいでもしばらく動き続ける。それはすなわち、億万匹の玉虫の胴体が、うぞうぞと手足を無意味に蠢かせながら落ちてくる事を示していた。

なによりその数がまずい。四、五階程の高さから落ち来る厚さ二メートルの内外殻は、間違いなく小高い丘程も積もり、二メートルに満たないこの体を埋もれさせるだろう。

圧死か、窒息死か。理想に溺れたこの身であるが、蠢く虫共に溺れて無様を晒すのは御免だ。大きく息を吸い込み肺に溜め込むと、覚悟を決めて、落下物の霰に身を飛び込ませる。身体に叩きつけられる虫の身体は豪雨の如く、多分の不快さと共に私の体を流れてゆく。

重い。加えて戦闘の相に変態していた玉虫どもの体は硬く、接触部分が石壁に体当たりをかましたように痛む。手足が聖骸布や繊維の上を刷毛で撫ぜながら落ちて行くので、痛みに加えて、背筋にぞわりとしたむず痒さが混じる。最後に、頭部と同の断面より青臭い汁が身体の其処彼処を染めて肌に張り付き、痛し痒し所に臭気、纏わりつき、不快さが混じった状態になる。

一秒を零で割ったかのような無限大の不快を我慢しながら、数秒ほどかけて虫の霧を抜ける。感覚が途切れた瞬間を頼りに顔を覆う布を取り払うと、赤い世界が目に飛び込んだ。目に痛い筈の赤をなんとも好意的なものに感じる。開放感が着色されたためだろう。

すぐさま視線を下に移すと、足元を落下する虫の死骸が山となり、積もって行くのが映った。あの様子だと、全て死んだか。意識を辺りに配ると、晴れた視界の先、冒険者一行と、藤色の蛇を見つける事ができた。意識的に冒険者達を排除して、いまや眼下となった空中の蛇の方へと注目する。

すると、何者かの攻撃によって配下を全滅させられた女王蛇は、なんとその蛇口の中から金毛の羊が姿を表したではないか。驚いたが、そうして真の姿を晒した彼女が己の身に起こった事の理解に努めているのか、配下の全滅に気を取られているのかしらんが、空中でつんのめったまま停止しているのを見て、これはチャンスだと悟る。

「投影開始/トレース オン」

詠唱と同時に手中へといつもの黒洋弓を生み出す。まだ蛇は動かない。続けざまに、もう一度同じ詠唱をして、一メートルほどの真っ黒い刀身を持つ捻れた外見の剣を生み出した。

刺突に適した中心の芯に幾重にも巻き付けた鉄板の意匠は、貫いた敵の部位を少しでも多く抉り取るためのものである。弓に番えて剣に魔力をこめると、矢となった剣に秘められた力が解放されてゆき、余剰が血の赤となり零れ出た。赤は魔術回路の熱が冷やされた際に現れる赤銅色と混じって、空中に緋色の尾を垂れさせる。

ゆっくりとした跳躍が頂点に達した頃、空中に撒き散らした熱が伝播し覚醒を促したのか、金の羊があたりを見回して冒険者たちを一瞥した。かぶりを振って辺りを見回したのち、柔らかい上顎を見上げさせて、眠たげな細い瞳に驚愕が現れる。

自らの身に迫る脅威を今更悟った所で、もう遅い。十秒程をもかけてチャージした魔力は貴様を射殺すに十分な量を上回っている。此度投影した剣はイングランド叙事詩に登場する英雄、ベオウルフが使用した剣。

銘は―――

「赤原猟犬/フルンディング! 」

叫び、魔弾を射出する。同時に敵が空間より消え去った。落下の最中、つい、と首を動かして視線を上げれば、先より三百メートルほど彼方の後方の空間に姿を現したのが映る。入り口の時、虫どもを転移させたよう、己の不利を知った羊は矢による攻撃を回避するべく転移したのだ、と直感した。

強化した視線は、羊の口元がニヤリと上がるのを捉える。それは思惑が上手くいって勝ち誇っている女の笑みを思い起こさせた。かのようだった。此方の必殺を回避し、仕切り直しに成功したと確信できたのが余程嬉しいのだろう。

―――だが甘い

赤光を纏った矢は音速を超えた速さで敵のいた空間を食い破ると、地面に接触する寸前で、カクンと折れて遠くへ逃げた敵に鏃の先を向けなおすと、再び一直線に羊の元へと突き進む。一度放たれた矢にあるまじき挙動を見せた宝具は、射手が生存する限り、籠められた魔力が空っぽになるまで追跡し続ける特性を持っている。

折れ曲がる異常に気がついた羊は、再び何処かへ姿をくらました。直後、刃は再び奴のいなくなった虚空を通り抜けると、切っ先を羊の転移した先へと姿を転身させて突き進む。曲がった刃の先を目で追うと、四百メートル程離れた位置で、羊は驚いていた。

意趣返しが上手くいった子供のような、気分を抱く。すなわち、ざまあみろ、だ。一度目の転移から距離が落ちた事実から察するに、もう長くは持たないだろう、という予想は的を射ていたようで、十秒としないうちに追いかっこは終了し、放たれた猟犬は獲物を食い破り、脳髄に突き立った刃は頭部から上を消しとばす。

はずだった。

やがて予想外にも蛇の抜け殻が、羊の前に立ち塞がる。まるで身を呈して伴侶を守るようなその姿。蛇の抜け殻の行動に、なぜか羊まで驚いているようだった。

抜け殻に迫る緋色の刃。羊は慌てて己の身をその前に転移させると、直後、二匹の獣は仲良く刃に貫かれて、体の半分を消滅させ、空中より落下してゆく。

―――今回は、一緒にゆけるか
―――ええ、あなた

なぜかそんな幻聴を聞いた。

羊の絶命を見届けると、それでも獲物にしつこく絡みつく剣を消滅させて、自然に任せて落下してゆく。下を眺めれば、動かなくなった玉虫の死骸の山が勝者の私を出迎える。少し後に虫山の中に埋もれるだろう未来を想像して、私は深いため息とともに空目した。

番人の部屋の中にあった、高さ二十メートル程の表面波立つ蠢く緑虫の半球体を見て、私達の思考が停止したのも束の間に、シンが抜刀しながら駆け出した。慌てて皆で追いかけると、次の瞬間には、シンがフォーススキルを発動させていた。疾る一閃は瞬きの間だけ球の緑を深く染めあげて、薄さを取り戻した緑の球が崩れてゆく。瓦解始めの直後、円の中心から赤い男―――多分エミヤという人だろう―――が飛び出した。

跳躍した彼は部屋の半分ほどの高さまで飛び上がると、何処よりか弓と矢を取り出して、一矢を発射する。彼の射た矢は、まっすぐと飛び出して、数度の不自然な角曲がりを見せると、遠くで何か……多分、敵を撃ち抜いた。

使ったのは「一度放った矢の方向を変化させる」スキル……だろうか。聞いたことがないけれど、きっと他の国の職業スキルなのだろう。

敵を葬り去ったエミヤは、地面に落ちてゆく。五十メートルほどの高さから落ちるにしても、落下地点に広がるのは十メートルほど積み上がった虫の死骸の丘なのだから、まぁ、即死はしないだろうが、あの骸の山に全身を埋もれた時の心境を考えると、いっそ死んだ方がましと思わないでもない。自己に置き換えて、少しばかり鳥肌が立つ。

たった三秒ほどで彼は虫の山に落着した。虫の骸が空中に舞って散る。虫の死骸は光を反射して綺麗な雫のようにも見えたが、彼の衝撃を受け止め切れず砕けた虫体の破片が飛散して私の顔を叩いたのを切っ掛けに思い直した。綺麗というか、悲惨だ。

皆で呆然としていると、突如、その死骸のうちより、数匹の玉虫が飛び出した。その中から彼らはボロボロの小さな体に、けれど静かな意思を携えて、宙に浮かんでいる。

「―――下がっていろ、みんな」

刀を地面より抜いたシンが上段に剣を構える。それを見て虫の群れは嬉しそうに上下に震えると、やがて静かに空中で停止した。

緊張が走る。ブシドーと虫の群れは、なぜか武芸者同士の対峙に見えた。二人はそれぞれ口元と、身振りで薄く喜びを交わし合ったかと思うと、瞬時に風となり交錯する。

「ツバメ返し!」

シンが叫んだ。焔をまとった剣が目にも見えない三連続で繰り出される。その刃は同様に虫群が瞬間の間に放った薄緑の三連とぶつかり、火花を散らし、あたりに光をばら撒いた。

やがて瞬間の光が消える頃、虫は全ての体を燃やされて消えてゆく。勝者であるはずのシンの体には、二つの傷跡がついていた。首から血が流れ、右肩当が半分の大きさになって地面に落下する。

―――いやはや、同じ技の撃ち合いに負けるとはな

涼やかな声が迷宮の中に消えてゆく。シンもその幻聴を聞いたのか、とても悔しそうに敵を仕留めた刃の柄を握りしめると、宙に向かって呟いた。

「何を言う。貴方が万全であったなら、負けていたには私の方だ」

誰に向かっての哀悼の言葉かは知らないが、その言葉を笑うかのように、周囲から戦闘の熱が消えていく。やがてその光景と出来事を理解できずに、呆然と周囲を眺めていると、凄惨な死骸の中心からひょいと赤い影が飛び出した。

中央抉れた分端が高くなった周りの壁をこともなげなに飛び越えると、私たちの近くへと着地する。音を殺して地面に降り立つまでの一連の動きは洗練されていて、少し見惚れてしまった。

赤い外套。黒い軽鎧。白髪を刺々しく固め、鷹のような鋭い視線を持つ、浅黒い肌の長身の男性。纏う雰囲気は、シンなどが持つ歴戦の冒険者のそれで、なるほど、彼が一人で番人を倒したといわれても納得の出来るものだった。

「―――、これは君たちの仕業か?」

半信半疑、より、警戒態勢に寄っている問いかけ。虫の全滅という現象を引き起こしたのは私たちかと問う声には刺々しさを多大に含んでおり、一切の油断が感じられない。

「そうだ、私がやったのだ。―――すまない、邪魔をしてしまったか」

寒気すら感じさせる意思がぶつけられる中、シンが平然と一歩前に進み出て言った。邪魔とはどういう事だろうか、と疑問に思ったが、彼の性格から察してにすぐに納得した。彼の戦人としての価値観では、あの場面での手助けは、余計なお世話なのだろう。

「―――いや、そんな事はない。君の行動で硬直していた状況が好転したのは確かだ……そうだな、助かった。礼を言う」

エミヤは帰ってきた言葉が予想外だったのか、戸惑いながらも礼を述べた。

「そうか、それなら良かったよ。エミヤ……で、よかっただろうか」
「……なぜそうだと思った? 」
「何、我らより先に単独で迷宮を攻略しようとする御仁など、一人しか思い浮かばなかっただけだよ。エミヤは、今やエトリアで一番の有名人―――その様子だと、自覚もしているようだが……」
「嫌という程にな」

エミヤは腕を組むと、重苦しいため息をつく。気負いが全て徒労に終わった、と心中から吐く仕草はダリのそれに似ていて、なんとなく理知的な人間なのだろうな、と感じた。

「私の名はシン。ギルド「異邦人」のギルドマスターで、ブシドーだ」
「エミヤ。……アーチャーだ」
「聞かない職だな。だが先ほどの技といい、練度が凄まじい。何処で修練を積まれたのだ?」
「ん……、まぁあちこちを転々としてな。……そういう君の技こそ見事だった。あれだけの数の玉虫を瞬間に葬り去るとは、並みの手際ではない。鮮やかなものだった」
「そうだろう。私も初めてだったが、結果が出て満足だ。そも、あれだけの敵が集まるなどそうはない事であるし、おそらくあの規模に対して「一閃」のスキルを繰り出す機会を得られたのは私が初めてやもしれないからな。いや実にめでたい。こちらこそ礼を言うとも。それに、その後の一騎打ちも心躍るものだった……いや、負けたのは少し悔しいが、とりあえずは生き残れたのだ。実にめでたい」

エミヤは少しばかり困った様子で喜んだり悔しがったり、また喜んだりするシンから目線を外すと、こちらを見た。真っ直ぐにこちらを見る視線には、戸惑いが混ざっている。

「あー、エミヤ。気にする事ないからな。そいつのそれ、正常なんだから」
「……バトルマニア、戦闘狂というわけか、了解した。心中察するよ。手綱を握るのにはさぞかし苦労するだろう。……ええと」
「はは、ありがとう。サガだ、よろしく。ところで察しついでに相談があるんだがいいか」
「……内容次第だが」
「んじゃ、単刀直入に」

サガはニンマリと口角を上げると、階段の方を指差して言った。

「この先多分、樹海磁軸があると思うんだけどさ。俺たちも一緒についてって構わないか?」

腕を組んだ彼はサガの目をじっと見つめた後、少しばかり考えこむ仕草を見せると、シンを見て、こちら含む他のメンバーを見て、答える。

「好きにするといい。その程度で借りを返せるならお安い御用だ」
「よっしゃ、なら話は早い。あんたの素材回収が終了し次第進もう……、こっちも準備を整えておくからさ」

あれよあれよという間に話が決まってしまったが、文句を言うものは誰もいなかった。ダリはエミヤの職を聞いてから顎に手を当てて考え込んでいるし、ピエールも先ほどの戦いか感銘を受けたらしく、目を開いたまま口をぱくぱくと動かして考え込んでいる。シンは何か言いたげな様子だったが、エミヤが賛同したのを見て、何も言わなかった。

「わかった。そうさせてもらおう」

言ってエミヤは己が撃ち落とした敵の方へと向かう。向けられた彼の背は、鬼神の活躍を見せたと思えないほど、普通のものだった。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

終了