うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 幕間5 長き神話の果てに

幕間5 長き神話の果てに

腰まで伸びた長い黒髪は櫛にて梳いてやれば抵抗を感じないだろう程に細く、しなやかで、艶やかだ。靡かせた髪の台座である頭部にある顔面は、大人の蠱惑と少女の奔放のいいとこ取りをしたかのような、大理石彫像の持つ美に近い完璧さに近いものを持つが、しかしとっつきにくさはないという、西洋の完璧主義と東洋の融和主義が共同戦線を組んで作り上げたかのような、“いい女”の造形をしていた。ドイツの血が四分の一混じったクォーターであるという事実がなせる業なのか、彼女の均整のとれた美貌は奇跡的だ。

―――彼女の名は、凛。永遠という縛鎖に囚われていた私を解き放ち、死人であったはずの私に再びの生を与えてくれた、私の恩人。格調高く、潔い状態を表現したい場合によく用いられる名を冠する彼女の登場は、続く異常事態により硬直していた周囲の空気を軟化させ、緊張に満ちた空間を弛緩させてくれた。私の体からは自然と力が抜け、全身の筋肉が弛緩してゆく。

「―――だれだ、あれ……」
「さぁ……、エミヤの知り合いみたいですけれど……」
「エトリアでは見たことない人ですね……」

話の中心人物であった私の心持ちが柔らかくなったことが影響をもたらしたのだろうか、沈黙を保っていた周囲の人物からも声が漏れだした。良い傾向だ。先ほどまでの糸が張り詰め身動きの取れない様な状態であるよりはよほど健全だ。

「ちょっと……、なによ、この空気」

しかし、そうして不穏な空気を振り払った当の本人である凛は、先ほどまでの堂々とした態度は何処へやら、借りてきた猫の様に全周囲に警戒の意識を飛ばしながらビクビクとしていた。おそらく彼女の予定ではギルガメッシュにやり込められている私を救う真打ち登場で喝采を浴びるはずだったところが、実際のところ自分の身に降りかかってきたのが陰口にも聞こえる潜み話だったため、後ろ指を指されている気分になった、といったところだろう。頭脳明晰な人物に有りがちな、予定外の出来事に弱いというやつだ。

「クッ……」
「ちょ、ちょっと、アーチャー! 笑ってる暇あったら、アンタも援護くらいしなさいよ! 」
「ああ、悪い悪い。そうして呆気にとられた君に顔を見るのも久しぶりだから、つい、な」
「―――ああ、もう、腹たつくらい変わってないわね。アンタ……!」

自信満々に登場し、しかし予定外の事象に戸惑い、味方を求めて不満げな表情を浮かべ、皮肉に眉間に皺を寄せ怒りを露わにする。負の感情が悪徳のように扱われるこの世界において、自己の裡に湧き出た感情を隠さない人間というものは珍しい。すなわち目の前の彼女のように周囲や私の言葉を受けてコロコロと千変万化の様子を見せる凛の素直さはとても珍しく、そしてそんな彼女の反応は私にとって、とても好ましいものだった。

―――相変わらず、揶揄いがいのある反応をしてくれるものだ

「き、貴様―――」

一方、エトリアにおいて見かけない不審人物が登場するという戸惑いによって警戒を発する人々の中で、たった一人だけ、驚きと怒りを伴った戸惑いの様子を見せる男の姿があった。

―――ギルガメッシュだ。奴は珍しく、いつもの横柄かつ尊大な態度を潜めさせ、凛に指を向け、瞼を大きく見開くと共に細かい瞬きを繰り返し、口を細かく開閉させながら、体の震えさせるといった、幽霊でも見たかのような反応をしている。

私から視線を外してギルガメッシュのそんな態度を見た凛はなんとも意地の悪い唇の釣り上げかたをすると、細い体を逸らして胸を張り、挑発するような視線を奴へと送った。それはいつものギルガメッシュの傲慢な態度に対する意趣返しであるかのようだった。

そこで疑問に思う。ギルガメッシュはたしかに第五次聖杯戦争において私や凛の敵であったが、凛は奴に対して強敵以上の思い入れなどなかったはず。しかし今の彼女の所作は、どう見ても子供が気に入らない相手に対してやるようなものだ。果たしていったい、何故彼女はそのような事をしたのだろうか……?

「あら、久しぶりね、ギルガメッシュ
「貴様ぁ―――、イシュタル! よくもまぁ、ぬけぬけとその気配ひっさげて我の前に姿を表せたものだな! 貴様のせいで我が友を失った怒り、我が忘れたとでも思うたか! 」

凛から自らの名前を聞いた瞬間、ギルガメッシュは瞬時に何もない空間を歪ませるとそこへと手を突っ込み、内部より自らの宝具「天地乖離す開闢の星/エヌマ・エリシュ」を取り出した。「天地乖離す開闢の星/エヌマ・エリシュ」、通称エアは、その刀身に秘められた力が解放されると共に、先端が潰れたドリルのような特殊な形状をした刀身が高速回転をはじめる。同時に凄まじい魔力が辺りに奔流し、密閉空間の中に熱を伴った暴風が吹き荒れた。

「き、きゃぁぁぁぁ! 」
「な、なんだあの剣は……!」
「熱量測定不能。風の動きも不規則すぎてまるで予測できん……。カオス理論を理解することのできる演算能力が必要か……!」
「まるでフォレストセルと戦った時みたいな威圧感を感じる……」

「天地乖離す開闢の星/エヌマ・エリシュ」はかつて巨人ウルリクムミを倒すために知恵神エアがバビロニアの宝物庫より取り出した剣であり、まだ地球がガスの状態であった頃、マグマの海とガスとに覆われた表面を分離させ、安定させた、まさに天地を創造した剣でもある。おそらくギルガメッシュはその剣に秘められた権能、すなわち大地を切り裂き、安定させる力を用いて、世界樹の層と層を造り上げ、維持しるのにつかっているのだろう。

―――そして、今、その創世神話において用いられた剣の威力は、己の友人の死の原因となったイシュタル、すなわちイナンナでもあり、その現し身でもある凛が目の前に現れた事により、過去の怨みより生じる憤怒を爆発させたギルガメッシュの手によって最大の威力を発揮されようとしていた。

「わ、ちょ、ちょっと、タンマ、タンマ! 冗談! 冗談だから、勘違いしないで頂戴! 今の私はイシュタルというよりも、凛の成分の方が強い……、というかほとんどなんだから! 周りの人達よりは神の成分がだいぶ強いから、アンタに取って私の気配はあれかもしれないけど、私はイシュタルじゃなくて、ほとんど衛宮凛! イシュタルと違う! 別よ、別! 」
「――――――、チィッ!」

大きな舌打ちと共に奴の右手の中で全力稼働をするエアから魔力が抜け、回転が緩やかになってゆく。今にも全力の一撃を凛へと叩き込みそうだったギルガメッシュは、凛の言葉を聞いて、非常に不承不承といった顔ではあるが、彼女にたいしての攻撃の手を止めたのだ。

「たしかに貴様の体からイシュタルの匂いはするが、内面は別物。奴とは似ても似つかぬ性格をしておる。―――どうやら貴様の話は真実のようであるから、一度は見逃す。だが女。次にイシュタルのフリをするなどというくだらぬ真似をやってみよ。瞬間、貴様が偽物であろうと、我が王国の民であろうと、我は迷いなくエアを解放して貴様の存在を完全に消滅させてやる……!」
「はいはいわかりましたよ。―――まったく、冗談が通じないんだから……」

ギルガメシュはイラつきを隠そうともしない態度でエアに収束していた魔力を発散させて歪んだ空間の向こう側に放り込むと、そっぽを向いて、イシュタルから目線を外した。背後より放たれるオーラからは、『話しかけるな!』という拒絶がありありとにじみ出ている。あれではしばらくの間、奴から話を聞くことは不可能だろう。今のギルガメシュの態度から察するに、話しかけるだけで先ほどの宝具を取り出す事すら奴はやりかねない。一旦は放っておくのが得策か。ならば―――

「―――久しいな、凛」
「……、あ、仕切り直しってわけね。―――ええ、久しぶりね、アーチャー。元気にしてた?」
「ああ、おかげさまでな。―――しかし、どうして君がここに? 」

素直な疑問を投げかけると、凛はバツが悪そうな顔を浮かべて懐から小瓶を取り出した。空っぽとなった小瓶の底には微かに七色にかがやく液体が残っている。私はその特異な色彩に見覚えがあった。

「私がギルガメッシュから受け取った―――小瓶か?」
「ええ。その、ごめんなさい―――衛兵の人たちがあなた達の荷物を整理している時に、その小瓶を見つけた私―――、その時の私は私じゃないんだけど―――が、だいぶイシュタルの記憶に引っ張られていてね。小瓶を見つけた瞬間、勝手にくすねて飲んじゃったのよ。なんか自分の姿が老婆だったのがよほど気に食わなかったみたい」
「は、相変わらず手癖の悪い女狐よ! 他人の物を欲しがる癖は神話の頃から変わっておらぬな! 大方、先のくだらぬ理由に加えて、我への意趣返しも含んでおるのだろうよ! ええい、忌々しい! あの高級娼婦風情が!」

しゅんとした様子で語られた凛の言葉に、ギルガメッシュが非常に苛立った口調で文句を吐き散らかした。イシュタルはギルガメッシュの出典でもあるバビロニア神話において、ギルガメッシュを自らの愛人として手篭めにしようとして失敗したが故に復讐を企み、ギルガメッシュと奴の友人エンキドゥに返り討ちにされた経歴を持つ。

また、“メ”という神具をイシュタルがエンキ神から盗んで自らの治める国まで逃走したという伝承も残されている。イシュタルとは、バビロニア神話において、非常に厄介なトラブルメーカーであり、ギルガメッシュもその被害者の一人なのだ。

そういった面から考えれば、ギルガメッシュの暴言はその辺りの出来事により溜まっていたフラストレーションより生じた、ある意味では正当な怒りによる文句であるのだろう。だが。

ギルガメッシュ。気持ちはわからんでもないが、今の君のそれは、単なる八つ当たりだ」
「―――フン……」

今の凛は、イシュタルという女神の記憶を受け継いだだけの残滓の被害者。ギルガメッシュの言い方を借りるなら、ただのフェイクに過ぎない。奔放かつ我儘なイシュタルという女神に乗っ取られる形で行動させられた凛に罪を求めるのは酷というものだろう。

とはいえそんな事はイシュタルの被害者でもあるギルガメッシュ本人が一番承知だったらしく、私が文句を言っても珍しく奴の口から反論はなく、鼻息を荒げながらそっぽを向くだけだった。

「―――ともかく、ギルガメッシュがよこした小瓶……、確か奴は万能薬と―――」
「若返りの薬だ! 」
「―――若返りの薬を凛は飲んだわけだな?」

尋ねると、凛は首を縦にふる。

「ええ。そうしたら途端に、体が熱くなって……、気がついた時には、昔の姿を取り戻していたってわけよ」
「なるほど。……、ところで、凛。若返ったということは、君、元の姿と名は―――」
「ええ。多分貴方の思っている人物であってるわよ。ハイラガードで発見された時、頭文字のRが潰れてたらしくて、“in”、としか読めなかったらしいのよね」
「そうか……、やはり彼女が君だったか」
「あら、気づいていた?」
「薄々な……」

私にとってインの宿屋という場所は、エトリアという別世界に等しき土地において、唯一心が休まる場所であった。異国の地、異なる文化習慣が蔓延する世界において、あの宿屋のみが、異なる時代より来訪した私と適合していたのだ。それ故にの直感。おそらくインという女性は凛となんらかの関係がある人物なのだろうなという予感はあった。

「無論、インが凛本人であるなどとは思っていなかったが―――」
「ま、当然よね。当人の私ですら、覚えていなかったんですもの」

凛は快活に笑う。陽気な笑い声は彼女が抱いた愉快という感情を周囲に伝播させ、彼女の登場とギルガメッシュの暴走により戸惑いと困惑に満ちていた鬱屈とした雰囲気が払われてゆく。凛と言う名の女性は、まるで神楽鈴のように、周囲の神の名を持つ人物たちを落ち着かせていた。この世界では、名は本人の資質をよく表すらしいが、なるほど、「凛」と言う名は、なんとも彼女に似合っている。

「あのー、久方ぶりの再会で盛り上がっているところ申し訳ないのですが……」

久方ぶりの記憶と姿取り戻しての再開に、郷愁の思いを抱きつつ交誼を深めていると、クーマが話に割り込んできた。彼はひどく申し訳なさそうな顔で切り出した。

「そろそろ、本題に戻ってもよろしいでしょうか? 」

私と凛は顔を見合わせると、互いに苦笑して、了承の返事をする。なに、焦る事はない。本来ありえなかった出会いを喜ぶなど、これから何度だってできるのだから。

「では、YHVHの後を追って滅殺すると? 」

クーマは本題に戻ると、私の話を要約して、ひどく物騒な物言いをした。物腰柔らかな彼の口から飛び出すにはあまりに物騒な単語だったので聞き間違いかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。インド神話の神々は見敵必殺を地で行く性質を持っているが、これも名前の影響という事だろうか。

「ああ。でなければ、この世界の安定が崩れる可能性が高いらしいのでな」
「高くなどない! 可能性があるというだけだ、この痴れ者め! 」

ギルガメッシュは相変わらずの物言いだ。だが、ギルガメッシュの言を聞いたクーマは目元を歪めて、ひどく億劫な様子で深いため息をついた。

「彼が完全な否定をしないという事は、確かに大地崩壊の危機は事実であるようですね」

なるほど、クーマがヴィシュヌとやらの記憶をどのくらい継いでいるのかは知らないが、幾分か以上はその記憶があるというのは確かに本当であるらしい。クーマはギルガメッシュの高いプライドというものをよく理解している。

「事情は了解しました。―――エトリアの民も連れ去られた事ですし、そういう事であればたちも協力は惜しみません。私やゴリンはエトリア守護のため残る必要がありますが、残った人の中から探索や戦闘に役に立ちそうな人物を選定し、エミヤに同行させましょう」
「それはありがたい。これだけの異常事態だ。人手はあるだけ有難い―――」
「いや、要らぬ」

世界の崩壊を防ぐためのクーマの援助申し出は、しかしギルガメッシュの一言によって切り捨てられた。驚きギルガメッシュの方を見ると、奴は周囲から向けられた非難と困惑の視線を鬱陶しそうに手で振り払うような仕草をすると、不満げながらも説明のために口を開いく。

「―――クーマ。YHVHに関する名を持たぬ貴様らが“一応”肉体、精神共に一定以上の強さを持っておるのはわかっている。だが、貴様たちが強いのは、あくまでこの世界においてのみだ。すなわち、貴様らの強さは、この世界に蔓延しておる“スキル”とやらの強さに依存しておる。―――あの空間の先にどのような世界が広まっているのかはしらないが、貴様たちの強さは所詮スキルありきなのだ。旧人類と比べれば、霊的知覚能力が高い、霊能力者と呼ばれる分類に属するかもしれんが、修行をしていない霊能者など、トラブルを引き寄せるだけの単なる足手纏いにすぎん」
「―――なるほど」

クーマはギルガメッシュの言葉を受け取ると、ゆっくりと首を縦に振った。彼は周囲を見渡すと、部屋の真ん中から隅の方に群れているエトリアに残った人間を見渡して、ため息を吐いた。

「そういう目線で選定しようとすると、まぁ、ほとんど残りませんねぇ。どうやらこうなる以前の経験や強さがそのまま覚醒の度合いになっているようですし、私とゴリン以外に一定の能力や異能に目覚めた人たちは見当たりません」

クーマは残念そうに首を振ると、ふと何かに思い至ったようで、異邦人の彼らの方を眺めた。

「そういえば、あなた達は如何なのでしょうか? 中心地にいた人物であり、今、このエトリアにおいて最も強い人たちです。であるならば、なんらかの異能に目覚めていてもおかしくは―――」
「阿呆。こやつらはYHVHが降臨した当時、概念を広める側であったのだ。そして奴が降臨したその瞬間も、奴が自らの民を選定した瞬間も、我が領域にて庇護下であるジグラットの内側におった。すなわち、こやつらはなんの影響も受けておらん」

ギルガメッシュの宣言に、サガが首を傾げた。籠手のはまった両腕を器用に組んで唸っていた彼女は、やがてゆっくりとまぶたを開くと、重苦しく口を開く。

「―――ちょっと、まて、じゃあ、俺たちは……」
「この度、エミヤ達に同行できないということか……」
「然り」

ギルガメッシュは不遜な態度で彼らの言葉を肯定する。二人は返ってきた言葉を聞いて、悔しそうに顔を歪めると、サガは地面を蹴りつけ、ダリは腕を組んで大きく唸り声をあげた。

「―――確かに私たちは戦術も肉体の動かし方もスキルのあっての前提で動いていますからねぇ……。それがいきなり使えないとなるのでは、むしろ、今までの積み重ねてきた経験が邪魔となるでしょう。あって当たり前だったものが失せるという経験、なかなかに慣れるものではありません」

一方、ピエールはひどく落ち着いた様子だった。どうやらピエールという男は、現実を受け止める能力に秀でているらしい。

「其奴のいうとおり。加えて、YHVHがこの大地から数百の人間どもを連れて行った事実と、この先で数千に増えているかもしれん奴の信徒のことを考えれば、今回の事態の解決に必要とされる人材は正面からぶつかるための特技などではなく、YHVHを探し出し、暗殺することのできる技術を持った人間―――すなわち、そこの元掃除屋のような輩こそが相応しい、と言うわけだ」

ギルガメッシュは好き放題言ってくれるが、確かにYHVHが向こう側の世界で戦力を整えているかも、ということを考えれば、卑劣かもしれないが、隙を見つけてからの暗殺、という手段は間違っていないのだろう。

「―――だが、それの理屈からすれば、私は問題ないわけだな」

納得しかけた時、暗がりに包まれかけた雰囲気を電子合成された音声が切り裂く。人工的に作られた声には、しかし意思ある生物のみが生み出せる迷いのない魂というものが存分に含まれていた。

「幸いにして私の体は機械になったが故、スキルに頼らない。そして、敵の隙を見つけてその一瞬をつくというのは、私が長年やってきたブシドーの戦い方に通づるところもある……。うむ、すなわち私ならばエミヤに同行しても問題ないわけだ。―――名前の共通点といい、なにかエミヤとは運命じみた繋がりのようなものがあるのかもしれないな」

続く言葉には、迷いない信頼がこもっていた。彼の言葉を嬉しく思い、礼の言葉を述べようとした所―――、寒気が背筋を走った。振り返ってみればそこには、冷たい圧を発している響がいた。

彼女は視線に実体というものがあるなら、圧力で射殺せたのに、と言わんばかりの鋭い視線を私の方へと送ってきている。前々から思っていたのだが、どうやら響はシンという男性に並々ならない感情を抱いているらしく、恋慕なのか愛情なのか知らないが、彼が親しい感情を見せる相手や、性的なアプローチに見えなくもない態度を目撃すると、このような威圧を所構わず発露するところがある。

まだ少女の体躯にしか見えない彼女から放たれるそれは、しかし、殺し合いの戦場での殺気に慣れた私や、モンスターとの戦闘で命のやり取りを当たり前に行う彼らすら、一瞬ばかり怯えさせるのだから、げにおそろしきは女の嫉妬。すなわち、情念というやつか。

私は場の空気を一転させるべく、話題の転換を目論んだ。

「―――ともかく、そういう事情があるのならば、話は早い。YHVH討伐のため向かうのは、私とシン―――」
「あ、私もいけるわよ。刻印は受け継がせちゃったからか復活しなかったみたいだけど、魔術回路自体はあの薬のおかげで生き返ってるから、ガンドとか基礎的な魔術なら私も使える。直接戦力には数えられないかもしれないけど、サポートくらいならして見せるわ」
「有難い」

凛は溌剌とした笑みを浮かべて、私の礼に頷いた。私は彼女からの礼を受け取ると、もう一人のアンドロであるオランピアの方へと向けた。同じアンドロならば彼女も戦力になるとの期待を込めてのことだったが―――

「私はいかない。このような異変が起きたのだ。仮初めとはいえ深都を治めるものとして一度、都の方に戻らなければならない。元々は食料支援の要請のためにこちらにきたのだ。―――そうだ、クーマ……」
「ええ、食料の支援は当初の約定通り行いますとも。―――というよりも、人数が減った分、持って行ってもらった方がありがたいです。日持ちするの、足が速いのと合わせて、たっぷり持ってっちゃってください」
「感謝する」
「ああ、シララも同じようにモリビトの里に戻った方がよろしいでしょう。早馬をお貸ししますから、先行して里の方へ向かってください。食料は後で護衛と馬車とともに送ります」
「わかった」

クーマの手際よい指示によって各々の方針が定まってゆく。彼らより戦力が借り受けられなかったのは残念であるが、誰にだって譲れないものというものはある。それを優先して動こうというのであるから、文句をつけられようはずもない。

いや、むしろ、このような状態の最中、同行者が二人もいて、片方は現エトリア最高戦力かつ私の魔術では及ばない科学の面をサポートしてくれる人物であり、片方はかつて最高のパートナーであった人物であることを考えれば、僥倖と言えるかもしれない。

「つまり、この三人で―――」
「わ、私も行きます! 」

結論下そうとすると、再度遮られた。声は断固たる確信から出たものでなく、咄嗟の判断から出た焦燥が多分に含まれているようだった。

「―――響。だが、君は……」

シンがアンドロ特有の能面のような顔を保ったまま、声色で不満を露わにした。周囲の人々も遅れて同意の意思を示す。当然だ。

「先ほどの話を聞いていたか? 響。スキルが使えないのだぞ? 君では―――」
「わ、わたしに剣の才能があると言ってくれたのはあなたでしょう、シン。足手纏いにはなりません! 」
「しかし―――」
「よいではないか。連れてゆくがよい」

思わぬ場所からの援護射撃に驚く。振り返れば、ギルガメッシュが真剣な目線で響の事を見つめていた。奴が響に向ける目にはいつものような遊びや傲慢は無く、相手の価値や言動を探ろうとする見極めの色に染まっていた。

ギルガメッシュ―――? 」

驚く、というよりも戸惑う。奴がそのような視線をするのを見た事はほとんどないからだ。見定めようとする、という事は、相手の真意や在り方が理解できていない、ということの証明である。すなわち、英雄王は、今、響という少女の存在を見極めきれていないのだ。

「行きたいというのであるから、行かせてやるが良かろう。見たところ、まだ冒険者として経験の浅い尻の青い小娘。ならば引っ張られるような経験も持つまい。猫の手程度には役にたつだろうよ」
「あ、ありがとうございます! 」

この場にておそらく最も状況を理解しているギルガメッシュが同行許可を出したという事は、もはや響が我々と共にYHVHを討伐する旅路に加わる事は確定したようなものである。響は私たち―――というよりも、シンについていける事がよほど嬉しかったのだろう、目を輝かせてギルガメッシュに頭を下げた。

「フン……」

しかしギルガメッシュは響の礼に対してなんとも形容しがたい視線を向けると、もはやこの場にていう事はなくなったと言わんばかりに背を向けて、離脱の姿勢を見せる。

「フェイカー。話がある」

その際、背を向けたまま私に呼びかける声は私の耳朶のみを打つようにひどく小さく調整されたものだった。ギルガメッシュという目立つ事を隠そうとしない男がそのような語りかけを私にしたという事実は、奴が今抱えている何かが相当面倒であるという事を私に悟らせた。


一旦解散し、各々準備を整えようという流れの段階になった。周囲では道具屋に向かい自らの装備を万全にしようとするシンと響、そんな彼らを手伝おうとする残る三人が衛兵に話しかけていた。支援物資送付手筈調整のために別れたクーマ、オランピア、シララは残った衛兵や冒険者の中から街の護衛や荷馬車の護衛のために話し合っており、人員を選定するために彼らの元へと向かったゴリンが別の場所で指示を出している。

「アーチャー。去り際にあの金ピカ、あんたに話しかけてたみたいだけど、どうしたの?」

私がギルガメッシュの元に向かおうとすると、凛が話しかけてきた。どうやら彼女は耳ざとく先ほどのギルガメッシュが小声で私に話しかけた事に気がついていたようである。

「先ほど、君―――つまりイシュタルの名を持つ君に、勝手に薬を使われたことをたいそうご立腹のようでな。管理不十分であった私に対して文句があるのだとさ。……あれを怒らせると、YHVHの影響以前に、この大地が崩壊しかねん。つまり、少しばかり不満を聞いて、機嫌をとってやらねばならない、というわけだ」

流石に正直にいうわけにも言わないので、彼女の罪悪感を煽るような内容とともに、ギルガメッシュなら言いかねない内容の言葉をでっち上げ、彼女の同行を防ごうと試みる。

「―――なら私も」

するとそれが凛の罪悪感を無駄に煽り過ぎてしまったらしく、彼女は殊勝な顔つきをして肩を下ろしながら、そう提案してきた。その気持ちはありがたいが、今受け取るわけにはいかない。

「やめておけ、凛。イシュタルの気配を漂わせる君が行くとまた話がこじれかねん」
「う……」
「そういうわけだ。お気遣いは感謝する。だが、悪いが私一人で行くとするよ。これ以上待たせると奴が、また癇癪を起こしかねん」
「そう……、悪いわね」
「何、君が気にすることではないさ」

凛に背を向けて手をひらひらと振ると、一人宙に佇むギルガメッシュの元へと向かう。部屋の端、暗がりの壁の方を向き、腕を組んだ姿勢で宙に浮かんでいた奴は、私がやってきたことに勘付くと、宙に浮かんだままゆっくりと反転し、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。その瞳には不遜の色こそあれど、積極的な傲慢や見下しの態度はなく、奴が今内心に抱えていることの重要さがうかがえる。

ギルガメッシュ。何用だ」

意識的に礼を失した言い方にて問いかける。挑発じみた言い方をすればギルガメッシュも多少は気分を取り戻すかと思ったが、奴は先程とまるで変わらない様子で私の方を睥睨するばかりだった。その頑なな態度が、余計に不安を煽る。

「手短にすませよう。これ以上、あやつらと組むのはよせ」

そしてやがて口を開いた奴が言った言葉は、果たして予想通り不吉さを孕む内容だった。

「どういうことだ、ギルガメッシュ
「―――」

問いかけても奴は口を閉ざすばかりで、それ以上は一言も発しようとはしない。焦燥感が沸々と湧き上がる。ギルガメッシュの態度がいつもの傲岸不遜で相手を揶揄うものであったならば、私はこのような気分にならなかっただろう。

ギルガメッシュ―――」
「たわけ。沈黙の意味を察さぬか」

そして沈黙の末に奴の口から出た言葉の意味を考えて、さらに焦燥感が増す。胸の中に生まれつつあった処理しきれない感情は、やがて重量を増して脳髄に達すると、知恵と脳で言語に処理されて口から言葉が漏れた。

「―――まさか」

振り向いて今しがた別れた仲間たちの様子を見る。遠目に見える彼らは、まさに真剣そのものの表情を浮かべて、各々に課せられた役目を果たすための準備を行っていた。彼らの態度に偽りはないように見える。しかし―――

「フェイカー。貴様、バイブル、と聞いて何を思い浮かべる? 」
「―――は?」

もしやあの中に私たちにとってのユダがいるのか。そんな面白くもない冗談のような考えが浮かんだ際、突然すぎる質問に思考が停止する。

「バイブルと聞いて何を思い浮かべるかと聞いておるのだ」

しかしそれは聞き間違いではなかったようで、英雄王は苛ついた様子でもう一度同じことを尋ねてきた。一体何が目的か、とも思ったが、私を贋作者/フェイカーと呼んで嫌う男が、わざわざ私に問いかけるからには、なんらかの意図があるものだと推測して、その話に乗ることにした。

「それはもちろん聖書だろうが―――」
「では、それの語源は知っておるか」
「確か、エジプトの紙/パピルスが訛って本/ビブリオという意味になり、書物の一般名詞が、代名詞でもある聖書/バイブルになったと聞くが―――」
「相変わらず、貴様は与えられた知識でしか物事を考えぬな」

ギルガメッシュの失望と侮蔑の入り混じった目線が浴びせられる。奴は明らかになにか別の結論を持っており、奴の持つ結論に私を導こうとだそうとしているようだった。ただ、その見下す視線があまりにもこちらを馬鹿にしたものであったので、私は少しばかり意地になって、持っている知識を披露並び立てる。語りながら思考をまとめようと思ったのだ。

「―――バイブルといえば、元は、とある民族の興亡や律法などを示した歴史書であったと聞く。創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記と言ったモーセ五書。それと―――」
「ああ、もう良い、貴様の蘊蓄が聞きたいわけではないわ。例えばそれがいかなる経緯を辿って作られたか想像してみよと言っておるのだ」

ギルガメッシュは呆れた顔を浮かべると、うんざりした様子で手を振るった。

「―――例え話をしてやろう。貴様はある宗教の指導者よ。今貴様は、自らが崇める宗教を大衆に広めたい。そのための紙束―――聖典が手元にある。聖典、すなわち、本とは当時、民草の手には届かぬ高級品であり、そして奴らの手元にあっても意味のない存在であった。文字が読めんからな。とはいえ、奴らも知識はないとはいえ、本の存在くらいは知っておる。さて、そのような条件下で貴様が信者を増やそうとした場合、貴様はどうする?」


奴の質問に少し思考を働かせたのち、応答する。

「それは―――、もちろん、人を集め、宗教の名を叫び、文字を理解できる私が、その本の名を述べて、聖典に書かれた教義を語るだろう」
「その通り。その際、聖典の名とは宗教の名前などよりもよほど重要なファクターとなる。なぜならば、それは民草の興味を引く名前でなくてはならないと同時に、神という神聖にして不可侵な存在との契約書でもあるからだ。―――では再び問おう、フェイカー。貴様が宗教指導者だとして、神との神聖な契約を示した聖典を“紙”であるだの、“本”であるだのと、大声で存在をわざわざ主張すると思うか?」
「―――」

想像してみる。十人から百人程度の信者の前で、唯一無二の聖典を高くかざしながら『これは“紙”だ。素晴らしいことが書いてある“本”なのだ』と、大声で高らかに聖典が紙や本であるという事実を主張する自分を。―――それは

「なんとも間抜けな絵面だな……」
「そうであろう? 紙だ本だ、などと当然の事実を主張したところで、信者どもが有り難がるわけがない。加えていうなら、そもそも信者でないものにとって“紙”が何を指し示すものが何を語っているのかわからぬのであるから、興味など引くわけもない」
「―――すなわち、聖書の言葉の起源は紙ではないと? 」
「惜しいな。さらに深く考えてみるがいい。……さて、キリスト教、―――当時はユダヤ教において口語口伝が当然だった頃、ある時奴らは、文字と紙を手に入れた。貴様の感覚に合わせてやるなら、紀元前千年から紀元前八百年と言ったところだ。その頃、ユダ王国の律法は、王たち、すなわち、ダビデ、ソロモンに使えた祭祀どもの手によって書き上げられた。これが聖典、すなわちバイブルの原典よ……。そして奴らにとってみれば永劫続くはずの王国は、紀元前五百八十七年、我が子孫、新バビロニア王国のネブカドネツァル二世によって占領され、配下に置かれた」
「バビロン捕囚、というやつだな」
「然り。当時、国とは、神が王に支配する事を命じた土地と人民であり、律法とは、“支配の約束はたしかに神との間に交わされたのだ”ということを示す契約書でもあった。すなわち、律法書とは国のすべてであった。故に、バビロンの配下に入ったユダ王国の律法は、その瞬間、バビロンの神との契約書、バビロン律法書へと書き換えられたのだ。つまりはバベル書よ」
「バベル書―――」
「やがて時代が降り、忌々しいことに、バビロンの力が弱まりローマが台頭してくると、それでも信仰を捨てなかったバビロン配下にあったユダの信者どもは弱まった隙を見計らって、自らの戒律―――YHVHの敷いた法―――を広めるために、自らの歴史が書かれたバベル書を手にあちこちへと出向いて、説教を行なった。無論、そのままの名前では単なるバビロンの歴史を語る書物に過ぎぬ。しかし、下手にバビル書に書かれたバビロン―――この場合はユダ王国であるが―――の歴史を自らの視点で語ると、民草を混乱させようとする悪人として処刑されかねん。されど、バビロンの名前をまるで別のものに変えてしまうと、ユダ王国小さな部族の新興国歴史と見られ、侮られかねん。―――さぁ、フェイカー。貴様はこの状況下において信仰を最大限広めようとするのであれば、どうする? 」

名前は多く変えられない。しかしそのまま名前を使用しては過去にあった大国の歴史の中の、さらに一部を語るに過ぎない。興味を引きはしないだろう。―――例えば、自分ならどうする……。

私の魔術は刀剣類を解析し、投影する、いわば模倣魔術。模倣品―――例えば、それが絵画や書物、刀剣といった美術品の贋作であるなら、人の興味を引くためには有名人の来歴か、物品自体に大きな名前が付いている必要がある。しかし、それを大々的に騙り、恣意的であることが判明したならば、罰則、国によっては死刑も免れまい。ならば―――

「名をぼやかした上で、真実を語らない……、これはあくまで、そうかもしれない、というだけであって、私はそうだとは断言していない……。鑑定書はない。オリジナルの原典は残っていない。これは名前の似ているだけの偽物かもしれない。私は初めからそう言っている―――だから私に罪はない。……日本の悪徳美術商人がよくやる手口だ、―――そうか! 例えば、美術品の来歴を持ち主の名前や作品の文字を入れ替えて誤魔化すように、文字の入れ替えた―――バベル、バビロンすなわち、バブ・イルの書を、バイブルとして騙ったのか! 」

私の持つ唯一の魔術「無限の剣製/unlimited blade works」は刀剣などを見た瞬間、固有結界という場所にその模造品が収められるシステムとなっている。私は自らの魔術の特性上、美術館や資産家の家、魔術師との戦闘などにおいて、大量の刀剣類含む美術品を見てきたという来歴を持つ。通常ならばそうして真贋を見極める情報を取集するだけの魔術は、今まさにその経験が役に立って、ギルガメッシュとの問答において、奴の問いかけに、奴が満足する答えを導き出すことができたのだ。

ギルガメッシュは己の意が伝わったことを理解して、珍しく満足げに頷くと、両腕を大きく広げて、導きがあったとはいえ、自ら考え答えを捻り出した私を祝福するかのように、大きく高く掲げた。

「その通り。すなわち、バイブルとは、バベルの物語である。しかしバイブルとは、存在した大国、バビロンの歴史などではなく、バイブルという架空の国の物語である。故に、我々は歴史を騙っているわけでない―――当時の宗教家たちは役人どもにはそうやって言い訳しながら、その実、自らにとって都合の良い歴史を語り、世に広めたのよ。―――当時、大国の歴史とは詩人などの口からしか語られぬ、民衆にとって数少ない娯楽。バイブルはな。神の教えが優秀だったからよく広まったのではなく、歴史ある大国、バビロン興亡を基にした二次創作の娯楽作品として優秀だったから、世界に広まったのだ。紙や歴史とは、文化人のみが持てるもの。長い目で見るならば、重要なのはな。紙面の修正ではなく、まず、口語で話が世間に広まることなのだ。当初は単なるアナグラム的な入れ替えでしかなかったそれは、やがて俗習の間にて騙りこそが真実の呼び名となり、後世、手を加えて書物を編纂する理由となる。そして編纂の際に改竄し、その後それらしい起源をでっち上げ、いらなくなった書物を処分してしまえば、後世の奴らにそれを確認するすべはなくなる。すなわち後世においては、その騙りこそが歴史的事実ともなるのだ。そして、奴らにとってはそれこそが狙いであったのだ―――自らの民族を貶めたバビロンという国を自らの歴史の中に取り込み、そして、自らにとって都合の良い事の刻んであるバイブルこそが、正しく歴史を語るものである、と広めるために、奴らは神との契約書を自ら歪める事を良しとしたのだ」

宙に浮かんでいるギルガメッシュはバビロン=バイブルである説を高らかに主張し、広げた腕の中央から私を見下した。その様はなんとも荘厳な気配に満ちており、なるほど、奴がかつて神と呼ばれた王であり祭祀であった事を納得させる光景だった。

「―――ギルガメッシュ。それが事実だったとしてわからないことがある」
「なんだ、申してみよ」
「仮にバイブルとは、バビロン王国の興亡書であった、というのが真実だとして、今お前は、何故この場においてそれを語る?」

たしかにそれは私たちが知る歴史的に見れば重要な事実だったかもしれない。けれど、このエトリアという土地においてはなんの関係性もないはずだ。そう問いかけると、ギルガメッシュは私の質問を鼻で笑い飛ばすと、あからさまにこちらを馬鹿にした態度で失笑を漏らした。

「我はこの土地をバブ・イルの土地であると言った。すなわちそれは、YHVHにとって、バイブルの土地であるということでもある。やつにとってのバイブルとはすなわち、キリスト教における聖書ではなく、奴ら主人公である旧約聖書と呼ばれる書物だろう。この騙りも奴が復活することに一躍かっている。貴様ら―――もとい、新人類が歩んできた道のりはな。YHVHにとっては、自らの功績が刻まれた長き神話だったのだ。そしてその“長き神話の果て”、YHVHが主神として登場する新たな神話の歴史の第一歩を刻んだのが貴様というわけよ。言うなれば貴様は、“YHVHを原典とする新約聖書”作成のために利用されたのだ」

奴の断言に体から力が抜けた。脱力感は、自らが歩んできた苦難の道のりは、自らの意思によって選び取ったものではなく、他人によって用意された道をただただ歩んできたに過ぎないのだと知ったが故の徒労感がもたらすものだろう。

「―――私や、シン達は、YHVHが復活するための歴史書の一部として予定に組み込まれていた。つまりは、私や凛は初めから奴に利用されていた、と? 」

力なくうなだれながら聞く。私を見下す奴の目線を見やる気力は湧かなかった。

「いや、―――おそらく奴もそこまでは想定しておるまい。旧人類の思惑と願いによって歪んだ新人類どもがいかなる歴史を刻むかは、まるで不明。万能唯一を自覚するこの我ですら、見通せぬ出来事よ。―――だからYHVHはおそらく、やがていつか過去の記憶を持つものがバブ・イルの土地にて目覚めた時、その土地に住む自らの名と関係あるものと宗教的意味を持ったイベントを重ね、このグラズヘイムや他の半神半人が治める場所に置いて自らと関係のある寓意的事象を重ねることでやがて自らが復活する事を期待し、大量の仕掛けを施して世界中にタネを蒔いたのだ。つまり―――、貴様が奴を目覚めさせたのはただの偶然。奴は偶然にも手持ちん駒として舞い込んできた貴様を自らの復活に利用したに過ぎん。すなわち、貴様が復活しようと復活しまいと、いつしか事は起こっただろう、ということだ」

するとギルガメッシュは珍しく、私を気遣うようなセリフを述べた。ギルガメッシュの言葉に背中を押されるようにして奴の方を見上げれば、奴は王の言葉に偽りはないと言わんばかりの尊大な態度でこちらを見下している。不思議なもので、奴の自身に満ち溢れた視線を見た途端、“確かに奴の言う通りなのかもしれない”と思えて、体から力が湧いてくるのだから、なるほど、これがギルガメッシュなどの著名で強大な英雄のみが持ち得るカリスマという奴なのかもしれない。

「だが、解せないのはそこだ。預言者の名を冠する貴様がこのエトリアという土地において関わった人間のうち、多くはYHVHに関する名を持っていた。また、預言者の名を持つ貴様が組んだメンバーのうち、シンは神の現し身として一度死んで生き返るが役目。ピエールはいく先々において神の評判を上げるために説教を行う聖人、サガは戦闘の神であり人としては足りない部分のある神の欠損を埋めるべく伴侶神として奴を支える役目があった。それはよい。―――だが足りぬ。それでは四人だ。過去、貴様ら同様に、この土地において似たような事を行なったものがおった。其奴らは大抵五人で徒を組んでおり、一組においては貴様らと同様にこの地において復活の真似事なども行なったが、それでもYHVHの復活はなされなかった」

奴の言った事を整理する。どうやらこのグラズヘイムの土地にやってきて死者の復活といった出来事をやったのは私たちが最初ではなかったらしい。ギルガメッシュは四人、五人とすなわち、パーティーの人数を主張した。

私たちは六人―――いや、オランピアを数に入れるなら七人。六と七。六……。七……。奴と関連する数字で六と七というと―――いや、まて、それは確か……、創世神話において、YHVHが天地を想像するのに要した日数であり、その後一週間の起源となった数字―――

「―――ダリと響、オランピアを疑っているのか」

奴は話の手間が省けたことに喜色の色を浮かべて首肯する。

「無論、人数の問題でなく、寓意の質が影響して此度の出来事が起こった可能性も高い。だが、四人と五人、五人と六人、六人と七人の間には、年月を重ねるほど、等比級数的な差が生まれる。その量を馬鹿にできないものとなるだろう。即ち、一見、なんの関連もないような名前に見えるが、その三人が絡んでいないということは、貴様らは四人で奇跡を起こしたということになる。―――それは考えにくい」

人数が増える程、この場所にくるまで寓意的事象を重ねられる絶対量が比例して増大する。故に、儀式を行う人数も重要なファクターだ。だからこそ、奴を降臨させる儀式に関連する名前を一見は保有していない三人を疑っているのだ。

「無論、我の思い過ごしという可能性もある。我の慧眼さが余計な共通点までを見抜いて、奴がそこまで思い至っておらんところまで結びつけてしまったという可能性もある。だが、もし万が一、―――」
「エ、エミヤ! た、大変です! 」

ギルガメッシュとの話し合いの最中、響の声が飛び込んできて奴のセリフを遮った。ギルガメッシュは己の言葉が遮られたことに眉をひそめて不快感を露わにするが、やってきたのが響であることを認識すると、静かに瞼を閉じてそっぽを向く。なるほど、疑っている輩に会話の内容を聞かせるつもりはない、ということか。

「どうした? 」
「衛兵の人が、へ、ヘイが、ヘイがいなくなってるって……! 」
「ヘイが? 」
「は、はい! どうやらシンの体と一緒に街から消えたみたいで……」
「YHVHが? 直接彼を連れ去ったと言うのか? 」
「そうみたいです……」

ヘイ。そういえば彼は最後に会った彼は、やけにテンションが高く、不自然な様子であったことを思い出す。ああ、やはり何か心に抱えるものがあったのだろう。その心の隙を突かれ、YHVHの信徒になってしまったと言うわけか。

「だから、とりあえずヘイの店に行って、手がかりを探そうって……」

不安からだろう、小さくなってゆく響の言葉尻を耳にしながらギルガメッシュの方を向き直すと、奴はやはりそっぽを向いたままの状態だった。おそらく彼女がいる限りこれ以上話すことはしないだろう。

「ああ、わかった。こちらの話し合いが終わり次第、私も君たちに合流して、手がかりを探すとしよう。先に彼の店に行って手がかりを探し始めていてくれ。私より懇意の中だった君たちの方が多く手がかりを見つけられるだろうからな」
「は、はい! 」

そして多少強引な説得で響を追いやると、再びギルガメッシュの方を向く。

ギルガメッシュ――― 」
「興が削がれた。もう話すべきことはない」

ギルガメッシュはいつものようにいかにも途中で気が変わった暴君のようなセリフを吐いて捨てるが、奴の意識は遠ざかっていく響へと向けられていることが耳の動きなどの気配でわかる。奴は話し合いの最中、こちらへ疑念の人物が近寄ってきたことを警戒して、これ以上情報を明かさない決断をしたのだ。

「了解した。情報提供、感謝する」
「待て」

軽く頭を下げてその場を立ち去ろうとすると、奴から声がかかった。

「忠告を与えよう。」
「何かな?」
「今後貴様らがどのように動くかは知らんが―――、あの三人を一緒に行動させないように気をつけろ。できることなら、貴様らは個々に別れて動く方が望ましい」
「―――了解だ」

ギルガメッシュの忠告を脳裏に刻み込むと、翻して凛たちが屯っている場所へと向かう。いつもの仲間の元へと向かうだけだと言うのに足取りがひどく重く感じられるのは仕方ないことだろう。

「手がかり、見つからなかったな……」

エトリアから少し離れた草原の上で、サガが残念な声色で呟いた。サガは女であることを隠すことをやめたらしく、彼女は今まで通りアルケミストが纏っている様な中華服に似た服を着込んでいるものの、その胸部分は今までと異なりあからさまに膨らんでいた。

「はい……、結局見つかったのは―――」

響はひどく落ち込んだサガの言葉に共感した声を上げると、腰につけていた剣に手を当てて、鞘ごと自らの目の前に持ってくると、そのまま刀身を軽く抜き放つ。剣は僅かな内反りのある直刀に近く、波紋は直刃。柄巻きを解いて目釘を抜いて皮を取り去り、茎を見てやるも銘が刻まれていない。おそらく金属を削ることで強度が下がることを嫌ったのだろう、製作者が余分というものを一切無くした様な刀は、まさに“敵を斬る”という目的のためだけに鍛え上げられた殺傷のための兵器だった。

「薄緑……。ヘイが最後に打った刀……」
「うむ、見事なものだな。やはり奴は腕がいい。私たちの癖を知っているから、相性もいい。できる事なら私の刀も研いでもらいたかったが、―――残念だ」
「バカ、感心……、というか関心をはらう場所が違う! ……ってぇ!」

刀を覗き込むとどこかずれた事を感想を言うシンの頭をサガが杖でポカリと殴ると、シンではなく殴った方のサガが悲鳴をあげた。アンドロとなったシンの硬質な後頭部は強固になっているらしく、シン自身の姿勢をまるで崩さない常の心がけと合わさる事で、まるで鉄の壁を殴ったかの様な反動が杖を伝ってサガの手中に生じたのだ。

「―――そうか? まぁ、とにかく、ヘイが私に向けて打った刀だ。ならば多少癖はあるかもしれないが、私の教えを受けた君なら使いこなせるだろう」

一方叩かれたシンはピンピンして、再び戦闘方面へと目を向け、場違いとも思えるセリフを口にするのだから、注意したサガも報われない。サガは恨みがましい目をシンに向けるが、シンは平然とそれを受け流していた。

「は、はい……でも本当にいいんですか? 本来なら、この刀は、シン、貴方のための……」

響が刀身をしまってシンに問いかけると、彼は首を振って否定の意思を示した。

「見たところ、それは相当の切れ味を誇る刀。ただし、重心がずれたり過負荷がかかるとすぐに折れてしまうと見た。―――昔の居合をメインに戦っていた頃ならともかく、剛を選択し、また、アンドロのボディ伴った今の私では、使いこなせないどころか、無駄にしかねん。私に必要なのは、細身の刀ではなく、丈夫な剣なのだ。だからそれは君が使うといい」
「……はい」

響はそして刀を腰に収める。彼女は今、「ソードマン」と呼ばれる女性がするような、長袖の麻の上着に、下半身に動きやすいレギンスを履き、道具や剣をぶら下げるためにスカートとベルトを身につける着こなしをしていた。セミロングの髪を纏めるため、大きな三角巾で頭を覆い、靴は動きを重視した軽装の革靴。長袖の肩の下にはブシドーの金属編み込みの肩当がひっそりと着用し、刀や道具袋を隠すために薄いマントを羽織っている。

これからこの穴の先に通じている場所がどの様な場所が不明であるため、全天候にたいおうできるようにと考慮された格好だ。YHVHや信徒が転移したわけであるから、転移先が深海の底や冬山の頂上、宇宙であると言うことはないだろうが、奴がメソポタミア、すなわちイランからエジプトあたりの出身である事を考えるに、砂漠や砂山の上であることは十分に考えられる。それ故の、肌を晒さず、いつもと変わらない身動きが取れ、そのうえで目立たない様にと考慮された格好だ。

そして隣にいるシンも響と同様の格好をしている。ただしシンは、比較的軽装である響と比べると、白塗りと黒の関節で構成された目立つ機械の全身を隠すため、関節や機械仕掛けの腕などを服で覆い、もろに機械である耳部分を耳あてで隠し、頭に響と同じ様な布当てをして、首元をマフラーで覆うという重装備であった。また、明らかに人体ではない胸部や細すぎる下半身を隠すため、長袖長ズボンを身に纏い、分厚い革靴を履いている。なんとも暑そう―――いや、熱そうだ。

機械の体を隠すために全身を覆うということは、熱が逃げない仕様ということを意味する。そして熱は機械の体である彼にとって天敵であるはずだが、その辺りは腹部に装備している排熱ユニットでなんとかしているらしい。それ故、不自然に彼の分厚いクリーム色のマントの下がはためいてもいるが、まぁ、あれくらいなら許容範囲というものだろう。

「さて、じゃあみんな。準備はいいかしら」

シンの返答に躊躇の姿勢を見せる響の様子をまるっと無視して、凛はその場によく通る声で全員に意思を確認した。全員とはすなわちこの歪みの向こう側に旅立つ私、すなわちエミヤと凛、シンと響である。

ちなみに凛もシンや響と同様に全局面に対応できる様、肌を晒さない格好をしている。かつてよく着て赤い服を上半身に纏い、黒の長い丈のパンツを履き、長い黒髪を纏めてフード帽の中に突っ込み、地の厚い革靴を履いている。それはミニスカートにレギンスというかつての記憶の中にある少女の頃よりずっと大人びていた格好だ。

また、彼女はそれの大人の格好に見合った落ち着いた振る舞いも見せる様になっていた。外見こそ私の知る凛本人であるが、内面は私の知らない歴史を重ねた凛である。そんな小さな差異に少しばかり寂寞を感じた。我ながら女々しいが、仕方のないことだろうと勝手に納得する。

「いつでも」
「大丈夫です!」

そうして一抹の寂しさを感じていると、シンと響が凛の問いかけに応答した。凛の目が私へと向けられる。碧眼である目に宿る意思は、かつての少女の頃から変わらない真っ直ぐさを保っていた。目線はいつかかつての様に、私が肯定の返事を返すことを待っている。その真っ直ぐさに、先ほどのくだらない悩みが消えてゆく。なんともくだらない事を考えていたな、と自嘲した。

「勿論だ―――、行こう」

そして彼らより先んじて歪みの中に一歩を踏み出す。足先が歪んだ空間に触れると、その場所から体が分解される様な違和感を覚えるも、不安はなかった。私はいつもの赤い外套を翻させながら格好をしたまま、勢いよく飛び込む。全身が解かれる様な感覚を覚えると同時に、私の体はこの世界から消え去ってゆく―――

全身に感じるのは浮遊感。いや、解放感か。自らの体を縛り付ける全ての束縛から抜け出る感じがする。上も下も左も右も確かでない。頭も腕も胴も足もまるでなくなったかの様に感覚がない。しかし、動かしてやれば確かに何もない虚空の中をプラプラと動いてくれる。

辺りを見渡すと、宙に板が浮かんでいる。身を寄せて掴むと、それは指先から確かな感覚を伝えてきた。油断していると全身がばらけてしまいそうな解放感に耐えるため、その板を強く掴む。無意識のままに全力で腕を稼働させると、板を胸元に引き寄せて、その上に身を乗せた。

「―――ここは? 」

やがて確かな存在をこの腕の中に得て、バラバラになっていた意識が一つにまとまってゆく。ぼやけた視界がはっきりして行くとともに、板は一枚の小さなものでなく、幾重にも積み重り、廊下の様になっていることに気がついた。回廊、というのが正しい表現だろう。

「―――みんなは……」

やがてはっきりとした意識がようやく自らの存在を意識できる様になると、他人の存在に気を回せる様になる。見回してみれば、自分が身を寄せている回廊のあちらこちらでは、自分たちと同じ様に宙に浮いた回廊の床にしがみついている彼らの存在を認識出来る。

私は安堵のため息をつくとともに、彼らを回収すると、彼らから意識の混濁がなくなるまで周囲の警戒にあたった。そうしてようやく、自分たちがいる場所の異常性に気がつく。

「壁も天井もなし、か」

回廊は床以外の面を持っていなかった。便宜上我々のいる場所を中心と定めるなら、乱雑に板が積まれて中央より前後に長く伸びているばかりで、それ以外に何もない。さらに周囲に目を配ると、回廊廊下より少し離れた場所に、歪んだ空間がある。おそらくそこが自分たちが今飛び込んできた場所なのだろう、と予測する。

さらに歪みの観測を続けると、歪みから続く薄く白い光が、回廊を通って、別の場所に通じている事がわかる。魔力を持ってして目を強化し、千里眼を用いて遠くまで眺めると、やがて白い光は出てきた場所と同じような歪んだ空間の先に消えている事がわかる。

「―――ここは? 」
「わからん。だが、奴の向かった先なら、予測がつく」

遠くの歪みに目線を送ると、シンは頷いて応答する。やがて再起動を果たした女性陣二人に同様の説明をすると、納得の表情を浮かべて彼女らも頷いた。

「じゃあ、あの先に……」
「ああ、おそらく奴が―――、YHVHと奴が連れ去った人間がいるはずだ」
「―――行きましょう」

響の宣言に、我々は一様に頷く。白光の道はYHVHの持つ聖性を主張するかのように、不安定な空間の中をしっかりと照らして我々を導く。その事実にもしやこの選択も、奴の思惑通りなのだろうかもしれない、と不安を抱く。

そんなはずはないと首を振るも、ギルガメッシュとの問答により心に生まれていた不安は白紙に垂れた一滴の墨汁のように染み付いていて、私の心から消えてくれはしなかった。

大正二十一年。黒船の来航により西洋文化の侵略を受けた帝都は、和洋折衷というよりか、無理やり西洋文明の侵略を受けたような街の造りをしていた。川と堀、海は埋め立てられ、銀座、晴見町と言った港近くの町には西洋建築とビルヂングが並び、帝都中心にそびえ立つ江戸城を中心として真逆の位置にある北西の郊外に位置する築土町にも、パーラーが開店したり、ビルヂングが建てられたりと、進んだ西欧文化に遅れまいとする涙ぐましい努力の痕跡が認められる。

しかし日の本の国が完全に西洋に膝を屈したかというと、そういうわけでもない。深川には昔ながらの侠客や遊女が集い、銭湯、見世物小屋遊郭の区画などが残されている。彼らのような西洋文化の波に負けぬと意地を張り日本の風俗を愛する人々や、あるいは帝都に住まいし文明開化の波を受け入れて郊外に散ることなく残った人々の手によって、日の本の国はその文化を残しながら、今なお脈々と生き続けているのだ。

帝都はこれまでに幾度か国家反逆者におけるガス事件、爆発事件などによって甚大な被害を受けてきたが、それにもめげることなく立ち上がり発展を見せる街だった。深川の町の外れに紡績工場が建築され、街中に電波塔が立ち、街の灯りが消える寸前まで、夜の街中には最新のエレキの力により運用される電車が走っていることがその証拠と言えるだろう。

ただし夜の闇の中を走る電車の風がまき散らす瓦斯灯の硫黄じみた匂いや、銀座のビルヂングを照らしあげるカーボン弧光燈の眩しさのような、いかにも西洋文化の兆しが侵略のようで鼻をつくと嫌い、田舎に引っ込んでしまうものも多い。そんな西洋文化とはかけらほども関わりを持たない、帝都の郊外、田舎方面に目をやれば、家々のうすらぼんやりとした灯を除けば、田畑の向こう側にまで、月明かりの下、ぼやけた宵闇がどこまでも広がり、風が土の匂いを濃く運んでくる。

そうして古き日本を愛する人々のように帝都から志乃田の方へと足を運び、暗闇深くなる山の方へと向かうと、感の良い者ならやがて靄の中少しばかり明るいモノが見えてくることに気付くだろう。石畳を叩いて規則正しく並べられた石灯篭を数基通り抜けると、ウカノミタマの化身であるお稲荷様が二体並んでいる。さらに足を踏み出すと、稲荷の後ろには古ぼけた建物があり、入り口の前には賽銭箱が置かれていることに気が付ける。手入れがされている様子はない。

―――そう、この場所は多くの人の記憶のうちより忘れ去られた神社なのだ。

「にゃーん/『消えぬ歪みの調査? 』」

しかしその忘れ去られた神社の境内に響く声があった。それは猫の鳴き声だ。しかし、霊能というもの持つ余人には、それは低い声であると認識できるだろう。

「はい、その通りですゴウトドウジ。かつてあなたがラスプーチンと戦った天王教会において、二つの空間の歪みが発生しました。報告を受けてヤタガラスの雇ったダークサマナーを先行して調査に向かわせたところ、片方はまるで歯が立たない結界が張られているものの、片方には侵入可能であったとのことです」
『なぜいの一番に我らに知らせることなく、ダークサマナーを利用した?』

着物を着た藤色の紅を唇にさした女性の静かな声に応答して、ゴウトドウジと呼ばれた猫の声が響く。霊能を持たないものは認識できないはずの声の内容を、しかし女性はしっかりと理解したらしくはっきりと形の良い頭にて首肯すると、薄く紅の塗られた唇を開いた。

「現時点であなた方に課せられた役目は、クラリオンの残した影響の調査―――、すなわち空間の異常の証たる異界の調査と人心への影響の調査です。孤独な客人/コドクノマレビトが残した被害は甚大です。それらの調査を優先させた方が帝都のためになると判断したが故の、ダークサマナーへの調査依頼でした」
『フン、ま、理解できなくはない』

ゴウトは不機嫌そうな鳴き声を上げる。宵闇の中に黒猫の一声が吸い込まれて行き、場には再び静寂の時が戻った。

「―――その歪みは異界なのか?」

やがてその沈黙を破ったのは、猫の横に立つ、白皙の少年だった。学帽を被り全身を隠すほど大きなマントを羽織った彼は、無色透明な声色で質問を女へと向ける。

『そうだ。話を聞くところによると、消えぬとはいえ、単なる空間の歪み。たしかに放っておけぬ事態ではあるが、我らが今行なっている、異界の殲滅を放り出して行うほどの事態ではないと思うが』
「いいえ。―――侵入したダークサマナーの報告によりますと、歪みの中には床板のみが存在する回廊のような空間が広がっていて、その場には強力な悪魔どもが群がっていたようです。但し、回廊に敷かれていた白い光―――聖に属する光の中には侵入しようとしないらしく、また、その光をおった先の空間には、歪みがあったと聞きます」
「歪みの空間の中の―――、歪み?」
『おそらくその回廊とやらは我らが迷い込んだアカラナ回廊で間違いあるまい。……、しかし、回廊には時の狭間に入り込んだものしか侵入不可能であるはずだが……』
「ダークサマナーはあなた方と同様、ラスプーチンと戦闘し、逃げ帰った経歴を持ちます。『なるほど、ならばおそらくその際、魔トリショーカの作り出す閉鎖空間から逃げ出し、時の狭間に入り込む資格を得たのか……』

女とゴウトドウジは流暢に会話をかわしているが、霊能というモノを持たない側から見れば、宵闇の中、黒い学生帽と学生服をきた少年の前で、頭巾をかむって顔を隠した着物女が、一人で一拍を置いて話し続けるだけの不気味な光景だ。

「―――アカラナ回廊の中にあった歪みの先には何があったんだ?」

やがて脱線しかけた話を戻すかのよう、少年は彼らに語りかけた。女は少年の問いかけに静かに頷くと、その紅の塗られた薄い唇を再度小さく動かす。

「ダークサマナーは調査員として優秀な男でした。彼が意を決して歪みの先に身を投じたところ、―――その先には、この世界とはまるで別の異界が広がっていたと言います」
「まるで別の、異界? 」
「はい。彼の調査によりますと、そこには我々と同じような背丈の西洋の格好をした人間や、人面ながら頭部に獣の耳を生やしている者、あるいは御伽噺の中に登場するような悪魔のように耳が異様に尖った者や、コロポックルドワーフと呼ばれる妖精のように小さな者が街に広く生息していたと言います」
『街に広く生息……、というと―――』
「ええ。人と、おそらく悪魔どもは、アカラナ回廊の先に街を作っていたのです。人と悪魔の共存する異界―――、それに気がついた瞬間、ダークサマナーはそこで身の危険を感じて調査を打ち切り、報告のために戻ったとのことです」
『アカラナ回廊の先にある、人と悪魔が共存せし異界、か』

ゴウトは低いうなり声をあげた。ゴロゴロと低い音が暗闇に響く。

「はい。歪みが消えぬというだけならまだしも、その先が異界に繋がっており、さらにその先の場所にて人と悪魔が手を組んでいるというのであれば、話は別。ダークサマナーからの報告を受けた時点で、本件の優先度は最高に引き上げられました」
「―――了解だ」

白皙のまだ幼さの残る顔をした少年は首肯すると、身を反転させる。闇夜にマントが翻り、腰に備え付けられた刀鞘とガンホルスターが露わになった。学生服の胸元には改造されたベルトが巻き付けられており、銀色の管が一定の間隔ではめ込まれている。

「天王教会だったな―――。十四代目葛葉ライドウ。これより『消えない歪み』の捜査に向かう」

少年が迷いのない口調で告げると、女は静かに一礼して、少年の任務受託を諒解した。やがて少年が神社の狐の像脇を抜け出る前、女は思い出したかのように、一言を付け足した。

「ダークサマナーによりますと、そこに住まう者共は、その地のことをアルカディアと呼んでいたそうです」
アルカディア……たしか、西欧の方の言葉では理想郷とかいう意味だったか』

女の言葉を受けると、黒猫は少年同様、身を翻して彼の後を追う。気がつくと女も闇の中に消えており、後には元どおり、古ぼけた神社だけが残った。

昼間。直近、クラリオンという宇宙生命体の襲来―――一般的には大規模なガス漏れ事故として処理されたが―――によって荒れた帝都において、古来日本の風情が残る長屋などとは異なる雰囲気を醸し出す建物があった。

その建物のある領域に足を踏み入れるためには、わざわざ川を小船で渡らねばならないよう建築されている。元々は晴見町にて貿易商を営む外国人有力者、エルフマンの私有地に建てられた、―――教会だ。

天王教会。それは帝都に住まう耶蘇教徒のために建てられた、オーソドックスな白塗りの、ステンドグラスが目立つ建築物である。外見は聖なる館として相応しい荘厳ながらも質実な見た目をしており、いかにも聖なる気配を漂わせている。

「―――」

ライドウがその木製の両開き扉を押すと、本来ならば迷える子羊や信徒のみに開かれる扉が、黒塗り学生帽の異国の少年の手によって静かに開かれてゆく。重厚なる音を立てながら木製の扉は開き、やがて彼らを迎え入れると、再び内部へと侵入した少年の手によって閉じられた。

教会の中はシンとしており、人の気配はない。当然だ。元々小船を使わねば辿り着けないところを、歪みの気配を察知したヤタガラスの手によってさらに封鎖処置されているのだから、人の気配などあろうはずがない。―――しかし。

「やぁ、よくきたね」
「―――! 」
『お前は―――!』

無人の状態が保たれているはずの教会の中には、しかし、人の姿があった。彼は灰色と白の入り混じったハンチング帽を被り、帽子同様、白の上品な絹の高襟シャッツと、胸のダーツが大きく取られた灰色のシングルのジャケットを着込んでいる。チェック柄のロングソックスといい、よく鞣された黒皮の手袋とロングノーズカントリーシューズといい、一目で彼の生まれと育ちの上品さをうかがわせる格好をしている。

だが、最も特筆すべきは、その人形じみた美しくも印象的な顔面だろう。帽子から覗く、輝く金髪のした、彼の顔面へと目線を向ければ、彼の肌はまるでイタリアはカッラーラの大理石から直接切り出したかのごとき白磁の色をしており、シミひとつとして存在していない。また、顔面を彩る目鼻口の比率も黄金比を保っていて、神の手による造形としか思えない顔立ちの中心では、ブルーサファイアのような高貴さと知性に満ち溢れた瞳が静かに光を携えていた。

「ルシファー! 」
「かつてアカラナ回廊で七つのラッパの音を三度鳴り響かせた時以来かな。……久しぶりだね。ライドウ」

金髪の青年の名はルシファー。混沌と自由を愛し、唯一神YHVHの支配に反逆して堕天した、かつては十二の羽を持つ最も高貴な天使であった悪魔である。

『貴様ほどの大悪魔がなぜここに……、もしやこの歪みは貴様の―――』
「―――!」

ゴウトの言葉に反応して、ライドウは構える。右手は瞬時に刀剣「赤光葛葉」へと伸び、左手は胸元の細かいホルスターに収められた管を掴む。相手が大悪魔であろうと返答次第では、斬る。帝都の守護者たるライドウは、まさに必至の覚悟を決めて両腕に力を込めていた。まさに一触即発の空気である。

「ああ、違う、違う。勘違いしないでもらいたいな……、僕はただ、この場所でひどく懐かしい気配を感知したから、惹かれてやってきただけなんだ」
「―――懐かしい気配?」

ライドウが問いかけると、ルシファーは首肯する。ルシファーはその美術品のような顔をまるで変化させず、平然とした様子で述べる。

「―――YHVH。平和のためになら人々から自由と意志を奪うことを良しとする、僕なんかよりもよっぽど傲慢で嫉妬深い、唯一神
『YHVH―――耶蘇教の最高神ではないか! なぜそのような大物が帝都の教会に―――』
「さぁ? まぁ、でも、考えられる理屈としては―――、そうだね……。君がクラリオンを倒した際の強大なmag/マグネタイトに惹かれたんじゃないかな」
『―――オメノオハバリのアレか。たしかに奴を倒した一瞬、奴が帝都の皆から奪った強大なマグネタイトが放出されたが―――』

―――あるいはその魔力の余剰によって、最高神が呼び出されたと言うのか?

ゴウトはルシファーの言葉を受けて、深く思考の渦を展開させ始める。こうなるとゴウトはテコでも動かないことを知っていたライドウは、戦闘の体勢を崩さないまま、目の前の悪魔に対して尋ねる。

「―――お前は敵か?」
「いいや、ライドウ。僕は君の味方さ。―――いや、君と言うよりも、これから君たちと遭遇する彼らの味方、と言う方が正しいかもしれない」
「―――これから遭遇する彼ら? 」

それは誰だ。どこからやってくる。問い質すより先に、ルシファーは山羊のレリーフがついたカバンを開くと、中から金属板を取り出した。金属板には、五芒星が刻まれている。―――いや、ルシファーという大悪魔が取り出したという事を考えれば、それは破邪の効果を持つ五芒星ではなく、集魔の力を持つ、逆五芒星だろう。

また、ルシファーと呼ばれる奴の取り出した、その金色にも虹色にも見える輝きにライドウは見覚えがあった。おそらくはヒヒイロノカネと呼ばれる超特殊な硬質を持つ合金で出来た物だろう。元を辿れば、神代の時代、金屋子神が鋳造した貴重品であり、同様に異国の神が鋳造した金属、例えばオリハルコンミスリルなどの金属はそう呼称されている。

ルシファーはその貴重なはずの金属をバッグの中から次から次へと取り出すと、やがて丁寧に一つの麻袋に詰めて、ライドウの方へと放り投げた。意図が読めないが、敵意を感じられないので、ライドウは思わずそれを受け取ってしまう。

「―――これは?」
『僕からのプレゼント。破邪―――ではなく、YHVHから身を隠すお守りさ。サタンの力が込められている。それがあれば、YHVHの目から身を隠すことが可能だろう』

麻袋を揺らすと、金属板はジャラリと硬質な音を立てる。

「これからくる彼らに君から渡してやるといい。彼らもまた、別の世界での君と同じく、自由を求めて束縛を打ち破り、混沌を好む冒険者たちだ」
「―――意味がわからない」

ライドウが学帽下の双眸を冷徹に光らせると、ルシファーは意味ありげな笑みを深めて数度首肯し、カバンの口を閉じて、動きによって乱れた襟元を正した。

「そのうちわかるよ。―――さて、それじゃあ、そろそろ、時間のようだ」
「―――まて」

帝都に何が起こっているのか詳しい事情を問いただしてやろうとしたライドウは、しかし次の瞬間、ルシファーはその場から消えていることに気がつき、困惑した表情をうかべた。

辺りを見渡しても、目に映るのは白塗りの柱や壁。まだ新しい雰囲気の残る木製の椅子に、中央の祭壇が映るばかりで、不審な影はどこにも―――

『ライドウ! 中央、祭壇の上だ! 』
「―――!」

周囲の探索に意識を置いていたライドウは、ゴウトに言われて中央祭壇の少しばかり上の空間に目線を向ける。するとそこには、ヤタガラスからの報告にあったように、歪んだ空間が二つ、壁と中央の祭壇より等間隔で並んでいた。空間はその場にある静寂すら飲み込むような渦を作り、それぞれ右巻き、左巻きにぐるぐると回転している。

『―――くるぞ! 右だ!』
「―――!」

やがて注意は右の渦へと吸い寄せられた。ある意味で教会という場所に似つかわしい、聖なる属性を含んだ光が教会内を照らしあげた。思わずマントで顔を覆う。黒マントが影を生み、光が遮られる。ライドウは柱の陰に身を隠した。

同時に殺気を抑えながら、剣を抜いて下段に構えつつ、胸元の管へと手を伸ばす。何が起こるかはわからないが、帝都に仇をなすモノが現れたのなら、即時に処分しようという考えだ。

そして―――数人が着地した音が耳朶を打つ。

「っと、危ない。―――大丈夫かね、凛」
「―――お尻打った……、ちょっと、アーチャー。なんで助けてくれないのよ! 」
「この程度の高さ、君なら問題ないと思ったのでな。―――君も高所から叩きつけられる気分を存分に味わうがいい」
「あんた、絶対、大昔の召喚時のこと根に持ってるでしょ……」
「さて?」

足音を立てた奴らのうち、二人は仲が悪い男女のようだ。彼らは軽口を叩きあいながら、その後も舌戦を繰り広げている。しかし不思議なことに殺伐とした言葉が飛び交っている言葉の戦場は、しかし険悪な空気を感じられなく、ライドウは少しばかり首をひねった。

「―――大丈夫かね、響」
「あ、はい……、おかげさまで、助かりました」

一方、未だ口論を続ける彼らの傍に遅れて降り立ったのは、先の彼らと同じく、一組の男女のようだっただ。足音が重いもの一つであったこと、また、会話の内容から察するに、こちらは、男性が、女の事を腕の中には女性を抱きかかえて自然落下を阻止し、その二つの足で降り立ったのだろう。

「ねぇ、アーチャー。あーゆーのを、ジェントルマン、っていうのよ? 知ってた?」
「勿論だとも、凛。隣に相応の淑女がいるならば、男は誰だってジェントルマンになるだろうとも―――だが、さて、残念ながら、私の知識において、落下の際に人のことをクッションとしての使用を試みる女性を淑女とは言わん。お転婆ガールと呼ぶのだ」
「相変わらず口の減らない……!」

アーチャー、すなわち、弓兵という西洋の名称で呼ばれた男性と、凛と呼ばれた少女は西洋のモダンな言葉を使いこなして会話を行なっている。あの歪みの穴はアカラナ回廊―――すなわち、時空の捩れた空間に繋がるものである事を思い出したライドウは、おそらく彼らがこの時代と関連する時代よりやってきたのだろうと推測した。

『ライドウ―――、こやつらは―――』
「―――誰かそこにいるのか!?」
「―――どうやら柱の陰に誰かいるようだな。刀を構えている」
「え……、え……、い、いきなり敵ですか!?」
「まったく、どこの時代も剣呑な雰囲気ねー、って、げっ……。ここって教会じゃない……。まったく、どうして私の所には教会がらみの厄介ごとばかり雪崩れ込むのかしら……」

ゴウトの声に反応して、彼ら全員が各々個別の反応をしてみせる。その数は四人。ゴウトの声は霊能を持つものしか聞こえない特殊なものである。ということは、柱の向こう側にいる四人は全員が全員、霊能を持つものであるということか、とライドウは判断した。

『まて、我らは敵ではない!』

足元、マントの下に隠れていたゴウトが、柱より飛び出して教会の中央通路へ姿を晒していた。ライドウはゴウトの突然の動きに驚き、彼を制止することもできなかった。

「ふむ……?」
「ね、猫?」

やがてゴウトの姿を捉えた後発組は、疑問の色に満ちた声を発した。

「―――使い魔か」
「猫を使い魔に選択するなんて古風ねぇ」

一方で、先んじてこちらへと降り立った二人、アーチャーと凛は、ゴウトという存在がどのようなものであるか理解しているようで、それぞれに納得の声をあげる。

『使い魔ではない! 目付役のゴウトドウジだ! 』
「うっわ、普通に喋った!」
「ふむ、インテリジェンスを持つ生命体を操るとは、このゴウトドウジとやらの使役者の腕前、相当に高いようだ―――、そうだろう?」

ゴウトの怒りの雄叫びを涼しげに受け流したアーチャーという男は、誰もいない場所めがけて声をかけた。―――いや、その男は、明らかに柱の陰にいるライドウめがけて声をかけたのだ。

ライドウは一瞬逡巡したが、ゴウトが姿を堂々と表しているのを見て意を決すると、刀を抜いた状態のまま、柱の影より歩み出た。

「―――ほう」
「……シン? なんか見惚れてません? 男の人ですよ? 」
「うっわ、なにあれ、耽美系ってやつ? 見て見てアーチャー、すごい美少年よ」
「……なぜいちいち私の顔と見比べる。―――凛、君はどうやらギルガメッシュの薬によって、若さだけでなく、昔の頃の落ち着きのなさまで取り戻してしまったようだな」
『なんだこやつら……、まるで緊張感がない。芸人か?』

ゴウトの言葉にライドウも思わず納得した。四人は刀剣を構えたライドウが現れたというのに、まるで緊張した様子を見せることなく、ライドウの外見をみて盛り上がっている。かたや陽気、かたや真剣な表情で剣を構えるライドウの様子を側面より切り取ってみれば、劇場舞台の上でチャンバラをする芸人達のように見えるかもしれない。

「―――お前たちは何者だ?」

しかし自らのことを滑稽かもしれないと自覚したライドウは、それでも真剣な表情と態度を止めることはなかった。自分は超国家機関ヤタガラスに属する帝都の守護者であり、悪魔召喚師/デビルサマナーであり、十四代目葛葉ライドウの名を継ぐ男。たとえ周囲の人間にどう思われようと自分は自分の役目を果たすだけである、と余分な感情を切り捨てる強さがライドウにはあった。

「―――人に名を訪ねるならば、自ら名乗るべきではないかね? 」

アーチャーと呼ばれた男は、皮肉げな口調でそう述べた。その口調は明らかにライドウを挑発して出方をうかがうものだったが、ライドウはアーチャーの思惑を無視するかのごとく、素直に口を開いて答える。

「―――ライドウ。十四代目、葛葉ライドウ」

―――かくて世界樹の大地に降り立った月とその仲間たちは、巨人の世界にさらに深くその身を投げ入れる。照らしあげる光が巨人の世界をどう照らしあげるかは……、まだこの先、誰にもわかっていない。