うさヘルブログ

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世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜   第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

神の与えた試練を乗り越えるなら、それ相応の代価が必要だ。

お前が神の祝福なき非才の身であれば、当然、相応の損害を覚悟しろ。

 

 

白く巨大な扉を覚悟を伴った掌で押してやると、手に込められた討伐の意思を拒むかのように、扉は重苦しい音を立てて内に開いてゆく。二つの白が互いの結びつきを遠ざけてゆく中、向こうから飛び出してくるかもしれない三千の人津波を想像して、私たちは警戒を密にした。

 

「――――――」

 

しかしその懸念は無用の長物となったことを知る。ひらけてゆく視界に見えたのは、地を埋め尽くすほどの敵軍ではなく、血を敷き詰めたように六方とも真赤な壁に囲まれた空っぽの空間の、そのガランとした部屋の中心にたった一匹の魔物がいる光景だったからだ。

 

眼前に広がる、平たい天蓋の何処かより壁面の成分が剥がれ落ち、やがて粉塵となった赤の塵芥が舞う光景は、これが例えば雪の色を伴っていれば、あるいは真夏も盛りを迎えそうな時期の今この頃、避暑のため訪れる場所として目に涼しい光景となったかもしれない。

 

だが、こうも不気味と興奮を誘う色ばかりが漠と広がる光景は、吹雪舞い散る雪原に佇むとは真反対の滑りとした気味の悪い印象を私に与えて、漣だっていた神経を鎮めるどころか、荒らしてやろうと侵食する効能を所持していた。

 

さてはこうして、神経を逆撫で苛立ちを引き起こしミスを誘発するのが眼前に広がる景色を作り上げた人物の目的であるとすれば、果たして製作者の底意地の悪さが見て取れるな、などとも思ったが、よくよく考えてみれば、この迷宮の構築に言峰綺礼という男が関わっているのを思い出して、素直に納得した。

 

人の嫌がることを進んで行いなさいという文言を聞けば、嬉々として他人に苦痛を与えるために動こうとする、人の醜いを己の快楽として認識する、なんともあの男らしい所業である。

 

「……」

 

 

考察を重ねながら、私は強化を施した眼球で五百メートル先に佇む、ゆらゆらと輪郭を崩しながら身体をくねらせ続ける敵を見る。その部屋の中にたった一匹だけで佇む敵は、透明なフォルムをしていて、さながら撥水性の布に水滴を垂らしたが如く姿であり、くわえて粘性をも備えた流体の体であった。

 

その粘度の高さと透明なボディに、赤い粉雪が舞い落ちて、そして粘度の高い体の表面をゆっくりと移動する様は、場違いな形容ながらも、梅雪色に着色したきな粉を振りかけられたわらび餅のようだ、と例えるのが相応しいように思える。

 

しかしそうして巨大な菓子箱の中央に、ぽつねんと笹舟に置かれた主菓子の如く存在を主張するそのなんとも場違いな魔物の異様さに、私たちはより一層警戒心を強めた。

 

「エミヤ……お前の予想と大分と違うようだが」

 

槍盾を構えて緊張していたダリは、その警戒をさらに密にして、囁き声で尋ねてくる。事前に彼らに伝えてあった私の最悪の予想では、扉を開けた途端、かつての玉虫の如くアマゾネスが蠢いているかもしれぬと伝えてあったため、そうして三千はいるだろうと脅していた敵の数が、その実たった一匹であった事に、彼は余計に不審の表情を深めているようだった。

 

「そのようだな」

「……どうする? 」

「……十秒待ってくれ。ダリは警戒と防御、サガとピエールは索敵、響は道具の準備を」

 

指示を出すと、四人はそれぞれが一瞥で目を合わせ、己の役割を果たすべく動き出す。周囲の警戒と対処を彼らに託した私は、眼前に観察の視線を送りつつ、考える。

 

これまで攻略してきた層番人との戦闘において、初見から一体であったのは、一層の一匹だけであった。だがそれとて、その無防備さに油断し突撃したところ、不意の増援に無用の手間をかける羽目となった。

 

一方、二層では最初から複数だった。遠距離から迎撃してやろうとすると、彼女がメディアと言う女の能力を持たぬと知らぬが故の油断であるとはいえ、後ろに玉虫を転移され不意打ちを食らった。

 

三層では雑然とした部屋の中心に一匹と五匹の魔物がいた。彼らは直線的であったものの、その能力には特異性があり、油断はしていなかったつもりではあったが、過信の代償として多大な犠牲を支払うこととなった。

 

そして四層。これまでの層の傾向と、ヘラクレスの試練が残り四つか五つ残っていると考えるならば……、やはり、敵は複数いる可能性の方が高い。とすれば―――

 

「―――、まず私が先行して部屋に入る」

「……それで? 」

「おそらくその動きに反応して、どこかから増援がくるだろう、数はわからんが、千を越す数がいるかもしれん。あるいは、一度に増援として出てくる数は五、六かもしれんが、あるいは十、二十の数が出てくるかもしれん。―――もし、敵の質が高い場合、あるいはその数があまりに多い場合は、私も即座に切り札を使用する。サガ、響、その際は各々のやり方で足止めを、ピエールは補助を頼む。ダリは悪いが、私を中心に守ってほしい」

「りょーかい」

「わかりました」

「仰せの通りに」

「了解だ」

 

各々が特徴をあらわにした確かな信頼の返事を返したのを聞いて、私は満足に頷いた。

 

―――よし

 

「では行くぞ」

 

完全に開閉を果たした役目を果たした扉の敷居を踏み越える。敵はまだ動かない。周囲に異常は起こらない。境界線を越えて一歩二歩と歩を進めても、何も異変は起こらない。敵に動きがないというのは、なんとも不気味なものである。

 

先制攻撃を仕掛けてやりたいが、万が一そのアクションに反応して、二層のように大量の敵が突如背後より現れた場合、彼らが最も被害を受ける。それだけは避けねばならぬと、警戒したまま前へと進む。

 

姿を一向に安定させない不定形の敵は、未だに敵意すら露わにせず、方針の方向性すら定かにしてくれない。不安を押し殺すようにして足を前に押し出し、ジリジリと距離を詰めていると、迷宮の何処よりか入り込んでくる暮色を帯びだした光が、背後の扉からすぐ眼前の足元の赤の空間の一部までを切り取り、占有している光景が視界の端に映る。

 

―――もう黄昏時が近い。敵の能力がいかなるものかは知らないが、夜の闇の中、戦闘手段も何もかもが不明な奴と戦う事だけは避けたい

 

また、未だに光の照らし出す空間の中にいた私は、この全身を温める暖気が緊張の糸を緩めてしまわぬうちに早く敵を仕留めないとならぬとも感じたのだろう、理性と感覚に急かされるようにして少しだけ進行速度を早める。

 

やがて私が赤色の空間を微かに侵食する茜色の光の領域より足を踏み出した途端、敵の体に変化が生じた。一定の周期を保って蠢いていた奴の体は、箍を外したかのように大きく波打ち、ふわりと重力に逆らって宙に浮くと、地面との距離をとりはじめた。浮き上がった奴の体は、元々の質量や密度などとは無関係に、色濃い体のまま、身体を膨れ上がらせてゆく。

 

―――さて、鬼が出るか、蛇が出でるか

 

出てくる可能性があるとすれば、十二の試練のうち、未だに制覇していない試練に登場する敵か魔物か。すなわち、鹿、アマゾネスの群れ、ラドンに、ケルベロス、そして。

 

ヒュドラか……! 」

 

巨大化した体は徐々に形を作ってゆく。グネグネと蠢く体からは、触手のようなものが伸びたかと思うと、やがてその先端よりは見覚えのある形へと変化してゆく。やがて直径三十メートルほどの大きさにまで膨れ上がった不定形生命体は、その波打つ頭部を九本も生やすと、その頭部に備え付けられた一対の瞳を全てこちらへと向け、その憎悪を露わにする。

 

―――よりにもよって、これが最初に出てくるとは……!

 

もちろんこの敵との遭遇を想定して対策に毒を無効化するアクセサリーを装備してきたが、果たしてヘラクレスの窮地を幾度となく救い、しかしその果てに彼や彼と親しい人間の命をたやすく奪い去った地上最強と名高い毒相手に、果たしてこの無毒化を謳うアイテムがどこまで効力を発揮してくれるかは、まるきり未知数である。

 

ともあれなるべく、毒をくらわぬよう相手をせねば―――

 

「―――、エミヤ! 」

「…………! 」

 

懸念の最中、切羽詰まったサガの叫び声を聞いて、不定形の奴より視線を外して即座に後ろを向く。振り向いた先にいたのは、黄金に輝く身体を持つ獣。軽やかな足取りで、しかしまっすぐ迫り来るその獣の姿に、私は見覚えがあった。

 

「鹿か!? 」

 

私は振り向き目に奴の姿が映った瞬間、その勢いのままにその場から離脱する。強化を施した肉体は迫り来る獣が繰り出す強烈な速度の体当たりを、すんでのところで回避する事を可能とした。寸前まで私のいた場所を黄金が通り過ぎてゆく。

 

かつてヘラクレスという大英雄が捕縛するのに一年の時をかけたというその鹿の脚力が生み出す速度は凄まじく、すれ違いざまの鹿が纏った金色の疾風の威力だけで地面は風に切り刻まれ、威力の証が深々と刻印された。奴の動作により生じた風圧が、空気と直に接する私の皮膚を、ヤスリがけでもするかのような粗雑さを伴って、乱暴に削り取ろうとする。比喩でなく、肌がひりつく感覚を覚えた。

 

―――サガの助言がなければ死んでいたかもしれん

 

私はサガに心中で礼を述べると、即座に体勢を立て直しと、助言をくれた彼へと向かって跳躍する。約二百メートルの距離を数歩の助走からの跳躍で零としたことに彼らは驚きを見せたが、すぐさまそのような些細に気を取られている場合ではないと思ったらしく、意識を敵の方へと集中してくれる。そんな彼らが見せる手練れの反応が、この場においてなによりも好ましく、そして頼もしいと感じる。

 

敬意に近いものを抱いた瞬間、背後より大きな音がした。扉が閉じられたのだ。そうして私たちは、いつものように、この閉鎖空間の中に閉じ込められる。此度目の前に現れた番人は、ヘラクレスの神話に基づく、不定形の魔物に、鹿。すなわち、ヒュドラと呼ばれる最強の毒と不死性を保有する化け物と、黄金の角と体、青銅の蹄を持つケリュネイアの五頭目の鹿だ。

 

―――まずは二つの試練が同時か

 

試練が五つ同時でなかったことに、私はひとまず安堵のため息を漏らした。

 

「すまん。警戒していたが、動きが早すぎて対処しきれなかった」

 

するとその吐息に反応して、ダリが視線を敵から離さず謝罪を送ってくる。おそらくは先のため息を、対処できなかった自身に対する抗議と受け取ったのだろう。彼はその実力とは裏腹に、多少自分の実力を低く見積もる癖がある。

 

石橋を叩く慎重を持ち合わせている人間特有の己を卑下する悪癖は私にも覚えがあるので文句は言いづらいが、こと目下戦闘の状況において、戦力の正確な判断が出来ていないのは死に繋がりかねない。だから私は、直せぬ我が振りに目を瞑る事に多少むず痒い感覚を抱きながらも、その思い違いを修正してやることにした。

 

「いや。あの速度での不意打ち、早々反応できるものではない。だが、敵の姿を捉えた状態である今、君になら防げると信じている」

 

同じく敵に目を向けたまま返すと、予想外の賞賛が照れくさかったのだろう、彼は少しばかり頬を赤らめて、しかし素直に受け取り、力強く頷いてみせた。思いのほか純情なところもあるのだな、と場違いながらも驚く。

 

加えて彼がそんな乙女の如く恥じらいを見せた事は初めてだったようで、周囲を見渡すと、サガ、響のみならず、ピエールという男までが、目の前で起きた理解不能の光景を必死に咀嚼してやろうと試みていた。人のことは言えぬが、皆、なんとも呑気なものである。

 

「――――――」

 

そうしてそんなやりとりをして隙を晒している最中、それでも私は警戒を怠っているわけではなく、こちらの油断に対して何かの反応をして見せれば即座に反応して見せる算段だったが、しかし眼前の二体の魔物は、こちらへの殺意を備え付けたまま動こうとしなかった。

 

敵もこちらの出方を観察しているのだろうか、金鹿の鋭い眼は、特に私とダリを捉えたまま放さずおり、また、ヒュドラの巨大な九つの頭部にお行儀よくはめ込まれた一対の眼球は、誰を視認しているのか分からぬほど透明さで、俯瞰の姿勢を保っている。

 

やつらと同じように、私が奴らの一挙手一投足に注目していると、やがて、丸いだけの不定形の体に九つの頭部を携えた透明な魔物から、不自然にも突然生じた紫煙がゆらゆらと漏れ出した。そうして空気中に放出された紫煙は、重力に従って下へと垂れ流されてゆく。

 

判ずるに空気よりも重いらしいその煙は、そのままゆっくりとした動作で空気を押しのけて地に落ちると、赤の地面と接触した瞬間、地面に生えた赤草をグズグズに溶かし、さらには土の地面すらも融解させた。混じった液体は煮沸したかのように波打ち、その液体の領域を広げてゆく。

 

その光景は私に、あれこそが伝説に名高い、全ての生物を触れただけで殺す猛毒、「ヒュドラの猛毒」であることを即座に理解させた。胸元のタリスマンを見る。胸元で怪しく光る宝石は、腕輪と合わせて一層に出現した蛇の毒を見事に無効化してくれたが、あの地面すら液状化させてしまいそうな毒液の前には無力であるかのように感じてしまう。

 

なるほど、この階層の地面だけ、時間が固定化されたかのような状態である理由は、あの毒が即座に地面を殺して迷宮を瓦解させないための処置かもしれぬと思いつく。

 

「気をつけろ……、ヒュドラの毒煙に触れれば、おそらくタダではすまない」

「さっき言ってた、なんでも死なせる猛毒ってやつか? 」

「ああ。一応、タリスマンを装備しているから煙に触れた程度なら大丈夫だと思うが、思い切り吸い込んだり、溜まった液体を一定量以上浴びると、その限りでない可能性が高い」

 

一同は、その言葉に視線を不定形の下に溜まる液体へと向けた。こうして対峙しているだけでも赤黒紫のマーブルは、紫の煙を表面張力で浮かせながら、その範囲を広げてゆく。

 

煙を放出するヒュドラは、その透明な体より伸びる全ての首の口先から大量の放出を行いながらも、身体の大きさを常に一定の大きさに保っていた。誰かが唾液を嚥下した音がやけに大きく聞こえてくる。

 

「なぁ、もしかして、このままこうしてると、まずいんじゃね? 」

 

サガの言葉に、確かにその通りだと思い至る。敵はどうやら呼吸をするかのように、あの紫の毒霧を無限に生み出せるらしい。ならばこのまま時間が経過した時、この部屋が毒霧に満たされた空間へと変貌するのだろう事は、容易に予測ができる。流石に地上最強の猛毒に満ちた空間の中で生きる自信があるほど、私は豪胆ではない。

 

「お前の話によると、ヒュドラってやつは、首を切った後、傷口を焼けばいいんだったよな」

「ああ。奴の首を切り落とすのは、私に任せておけ」

 

サガは籠手を展開させて、スキルの発動準備に入る。私は彼の動きを背中越しに感じて頷くと、弓と剣身体を戦闘の状態へと移行する。初めは宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグ」で奴を吹き飛ばそうと考えていたが、あの一秒ごとにその密度と量が増えてゆく毒の量を見てそんな気は失せてしまっていた。

 

確かに「偽・螺旋剣/カラドボルグ」なら奴の体を宝具で吹き飛ばす事もできる可能性は高いく容易いかもしれぬが、着弾直後、紫の煙や液を切り裂いた際に、奴の体ごと煙や液体が飛び散り、それらがこちらに風に流され飛来し、そして我々の体に侵入してしまうかもという可能性を考えると、易々と用いて良い手段でないように思えたのだ。

 

故に私は、今回、首だけを切り落とす手段として、宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する事とした。この一度放てば剣に籠められた魔力の続く限り敵を追い詰めて殺す剣ならば、奴の煙を避けて明後日の方向に放っても、九つ存在する全ての首を切り落とし続けてくれるだろうと考えた。

 

―――わけだが

 

敵はそうして、奴にとって不埒な行動を企む私を前にして、しかし未だ大きな動きを見せない。地上最強の猛毒を持つ獰猛なはずのヒュドラは九つの首を揺らして、泰然と不動を保ち、先程あれほどの速度を誇ったケリュネイアの金鹿もヒュドラから少し離れた場所を闊歩するだけで、積極的な攻撃姿勢は見せていない。

 

その静観。その傍観が、ひどく不気味に映る。本当にこのまま攻撃を仕掛けて良いものか。そんな不安が脳裏をよぎる。しかし記憶に残っている伝承を漁ってヒュドラの特徴を考えても、「首を切り落として、その傷口を焼く」「岩をもって核を封じる」以外に有効そうな手段を思いつくことができない。

 

ならばそうして、思いついた手を一つずつ試して有効打を探るのは相対する敵を打ち倒すには道理の手段なはずで、間違いなく正しい選択のはずである。にもかかわらずこうして戸惑うのは、おそらく、導き出された答えを正しいと知っているに由来するものであろう。一人だけが解答を知っているというのは、かくも間違えた場合の事を懸念する様になるものなのだ。

 

―――しかし随分とまぁ、臆病になったものだ

 

生死をかけた戦闘において不測の事態は当然、敵が能力を隠すのも、敵の能力が完全に把握できない状態で戦いを始めるのも常の事だ。そうして互いがカードを隠した状態で始める戦闘を尋常な勝負と表現するなら、情報量の天秤が片一方に傾いているこの状況など、卑怯千万の謂れを受けても反論できぬ状況だ。敵の情報が万全に揃っている戦いに一抹の不安を抱くというなら、もうそれは腑抜けと称するより他に呼びようがない臆病ぶりではないか。

 

―――は、この様が元は英霊と呼ばれる守護者の末路だというのだから、我ながら笑わせてくれる

 

心の裡に生じた臆病をあえて責め立て自身を奮い立たせると、あえて無駄に大きく一歩を踏み出しながら、動作の最中で流れるようにカーボン製の黒弓と宝具「赤原猟犬/フルンディング」を投影する。

 

世に姿を表したその気性の荒さを象徴するかのような刺々しい金属板が打ち付けられた剣を、歩きの流れの動作の中で弓に番えると、私はやがて敵正面に向けていた体を横に構えなおして立ち止まり、弦を弾きながら弾となる刀身へ魔力を籠める。

 

刀身に流し込まれた赤銅色の魔力は、剣自身が持つ荒々しい赤の暴力と混じり合うと、その体より緋色の魔力を空気中に放出した。漏れ出した魔力は刀身と添えた手を辿って、剣の柄より赤の地面へとゆらゆら落ちてゆく。その様はまるで、存分に餌を与えられた素直でない猟犬が、しかし嬉しさを隠しきれず尾を振っているかのようだった。

 

そうして攻撃の準備を整える間も敵は動かない。奴がまるで動きを見せない異常は、不気味と感じる心に不安を煽り、平生の天秤を揺らす要素に拍車をかけ、鏃の狙いをぶれさせた。私はその臆病の表れの動作を無理やり押さえ込みながら、迷いを振り切るようにして、一度だけ視線を後ろへと送った。

 

「――――――」

「――――――」

 

彼らと視線が合う。サガはすでにスキルの準備を終えている。ダリは盾を構えて前傾姿勢になり、響はバッグの中に手を突っ込んで弄っている。やがて全員の準備が整ったことを察したピエールが、竪琴を鳴らすとともに大きく歌を吟じ始め、そして戦いは口火を切られた。

 

「さぁ、それではいきなり閉幕を宣言するのは恐縮でございますが、四層におけます戦いの最終章を始めましょう! 」

 

彼は、叫ぶとバードである己のフォーススキル「最終決戦の軍歌」を高らかに歌い出した。白魚の手の先にある弦タコにて硬くなった指が、弦楽器に負けはせぬと堅ながらもしなやかな糸を強く弾き、共鳴箱を通じて艶やかな、しかし荒々しい音を周囲に撒き散らす。

 

楽器の音色に乗って、ピエールは己の喉を大きく動かしながら声を張り上げて、勇ましい曲調に言葉を乗せ、周囲に流麗な音を濁流の如く散布した。そうしてあたりに渦巻いた音色は、混じったスキルと共に周囲の味方を体に飛び込むと力となり、私は己の身体能力が引き上げられるのを感じる。

 

強化の魔術を最大限施した上での補助に、肌の感覚は空気中を舞う埃の一粒すら感じるようになり、指先より剣へと流し込む魔力の量を、限界のさらに先の極限にまで詰め込むことを可能とした。ミクロン単位での魔力流入調整を施され、忍耐の限界に達していた宝具は、もはや我慢がならぬと解き放てと、私を急かしてくる。

 

私は吠える堪忍袋の小さな猟犬の要望を叶えるかのように、己の指という首輪から宝具を解放し、己が体に秘められた威力を存分に発揮しろと、その名を高らかに叫んでやる。

 

「赤原猟犬/フルンディング! 」

 

放たれる暴虐。途端、刃先にて風を切り裂いて一直線に敵へと向かう姿は、まさに卑しくも大きな牙を押し出しながら暴走する狂犬のそれを形にしたような荒れ狂う突進だった。魔力による身体強化の上にさらにスキルによる強化を乗せられた威力は、赤光の絵筆にて、不定形の敵との空気の間に一条の飛行機雲を描きながら飛翔する。

 

その速度はもはや音速を超え、彗星に等しくすら見えた。敵との距離は五百メートル。そう、たったの五百メートルしかない。今の赤原猟犬なら、瞬きを終える前に、彼我の距離を零にしてくれるだろう。その瞬間。その刹那。

 

魔力とスキルによる強化を施された眼球は、その一瞬にすら満たない時間の間に、不定形の生物と剣の間に、するりと入り込んでくる生物の存在を視認した。一秒を数千もの瞬間に分断した短い時の最中、最大限まで強化された瞳が捉えたそいつは、なんとも優美な動きで、空間引き裂き直進する魔剣のデッドラインへ軽々と身を晒す。

 

ケリュネイアの鹿がとったその所作のあまりの自然な優雅さに、私は一瞬その挙動を不信と思えず、秒を万に分断された意識の中に空隙を作ってしまった。呆然の直後、危険を察知して、あらん限り鳴りの警鐘が脳内に鳴り響く。

 

―――あれはまずい

 

奴の思惑は知らぬが、己の身をわざわざ暴虐の前に持ってきながら、しかし奴はまるでなんて事のないように振る舞う。死線に身を晒しながら、そんなつまらぬ些事、気にもしませんよと言わんばかりの、その態度の異常、その慮外の動作が、私の直感と戦闘経験に基づく心眼が最大限の警戒を訴える。

 

―――……、ならば

 

迷いは一瞬。しかし、剣が金鹿と接触しかける直前、奴がその優美な口元に浮かべた笑みを一切崩さない様を見て、私は即座に魔力が最大限に籠められたその剣をこの世から抹消させる事を決意する。

 

―――投影破棄……!

 

命令が光の速さで剣に伝わるが、猟犬が挙動を止めたのは、刃先が鹿の喉元に到達したのと同時だった。消去の意思を受け取り剣が消滅するまでの間に、待ての命令を遵守しきれなかった剣は、少しだけ鹿のその緩やかな曲線にて構成される喉元に直進し、そして吸い込まれるようにして刃先だけをめり込ませた……ように見えた。

 

その瞬間、私の喉元に違和感。強化された感覚の中、表皮が熱い熱気を感じ取ったかと思うと、ぷつり、皮膚が押されて裂かれた。そして、じく、と肉を割り異物が入り込む感覚がしたかと思うと、瞬間の間に甲状腺を割き、気管を割り、食堂までに到達する。

 

「……っ、かッ……、はッ……! 」

 

突如我が身を襲った理解不能の事象に対して、反射的に異常の起きた喉元を抑え、地面に両膝をつく。なにを言おうとしたわけでもないが、呼吸のために動かそうとした喉元は、閉じた場所をかき分けられた事を主張するかのように、ひゅう、と呼吸が気管より喉元に漏れた。

 

通常はありえない体内の血肉と皮膚と内臓器官に外気が触れる異常を察知した神経が、遅れて敏感に異常の信号を脳へと送る。ようやく訪れた鋭い痛みは、脳内の余計な悩みを払拭し、頭を一点の出来事に集中させる効力を持っていた。

 

「……、エミヤ!? 」

「おい、なんだよ!? 」

「エミヤさん!? 」

 

サガと響が叫ぶ声が聞こえる。答えてやろうと思ったが、隙間の出来た喉元は肉の割れ目より間抜けに空気を漏らす音をたてるばかりで、その後、蠕動し声を出し損なった痛みだけを訴えてくる。

 

筋繊維の動作により、切れた周囲の血管が時間の流れを取り戻して、喉元から大量の出血

生じた。血液は、気管と食堂を上に下にと蹂躙し、口内にまで登ってきた生暖かきが舌下と触れることで鉄の味を感じさせた。

 

そして逆流した流体の氾濫にむせ返ると、その挙動が一層、喉元の出血を促し、私は傷口、口腔、鼻から赤の色を漏らすこととなる。その様を見た瞬間、響は過剰なくらい敏に反応し、バッグの中で遊ばせていた片手を取り出すと、二つの瓶を私に向けて振りまいた。

 

彼女がもはや神速とも言える速度でヒステリックな反応によりばら撒かれたそれは、ネクタルと呼ばれる、気付けと造血、微かながら傷を塞ぐ効果を持った薬と、メディカと呼ばれる肉体の損失を補填し、再生を促す効能の薬である。

 

二つの薬剤は私の体に触れた途端、瞬間的に光の粒子になったかと思うと、傷口を塞ぎ、皮膚より浸透した成分は失った血液を補填し、アルコールに匂いで嗅覚を、ネクタルの名を冠する薬に相応しいような甘ったるさをもってして味覚を強烈に刺激し、気付けの効果を遺憾なく発揮し、同時にメディカが傷を元の通りに修復する。

 

「……、ハッ、ッァ、アァッ―――、カッ、グッ! 」

 

治癒の作業により、即座に正常な状態へと傷口が塞がってゆくという異常にむせ返りながらも、喉元を裂かれる攻撃にて意識までも侵食した不快の感覚は終わりつつあった。命の天秤が生の側に傾けてくれた存在に存分に感謝しつつ、私はしかし、その感謝の言葉を発せないほどに心中の坩堝で暴走する不快な感情を宥めるのに必死だった。

 

喉元を切り裂かれた直後、灼熱の痛みと共に訪れたのは、極寒の中に裸で投げ出されたような、寒いのに暑いという、矛盾に満ちた痛み。それは、全ての生物が必ず一度は経験する、根源的な感覚。沈んでしまえば二度とは戻れぬ、そんな抗えぬ闇に沈む感覚、私はたしかに何度か生前味わったことがある。なるほど。

 

―――そういえば、死の感覚とはこのようなものだったか

 

この世界においても命の危険を感じたことは幾度もあるし、命を賭して戦って来たことは数度ほどあるが、三途の川にて駄賃を渡す寸前まで行ってしまったのは初めてだ。

 

しかしそうして生身の体にて賽の河原に足までを踏み入れてしまった経験は、そのたった一瞬だけで、頑丈な体の内側までをも、冥界の魂が削れるような極寒の寒さをもってして私の心中に凍傷の火傷を残していったのだ。

 

呼吸をすると共に心に生じた余計を押しのけるべく、手で顔の下半分を拭い、体の正常を取り戻してやると、しかしそうして端に追いやろうとする動作が逆にその存在を強く認識させ、先程の感覚を改めて思い出してしまう。

 

喉元をさすると、死水を飲み込んだかのようななんとも気持ちの悪い生暖かさと、精神から来たのであろう冷たさが湧き上がってくる。体に纏わり付き、心中に残る熱を奪ってやろうとする冷たい死神の手を振り払うかのように、改めて強化の魔術を使用して全身に熱を発生させて、身体能力を向上させる。

 

そうして永遠の安楽に身を任せかける無様を晒したこの身に喝をいれて準備を整え、警戒の念とともに部屋の中央を見てやれば、ヒドラは未だにその場から動かず己の領域を拡大している最中だった。また、私を死の淵に追いやった金鹿は、その紫死毒に満たされつつある空間の内側で、しかし、平然とその優美な曲線美を見せつけながら闊歩を続けている。

 

「大丈夫ですか!? 」

「ああ……、助かった」

 

響に短く礼を述べると、立ち上がり、喉元を抑えていた手を解放して、常の戦闘態勢へと移行した。だらりと両手の力を抜いた体勢で敵の姿を見やるも、敵はこちらの戦意など知ったことかと言わんばかりに、悠々と赤の領域を紫で侵食している。

 

「な、なんだったんだ。どうしたってんだ、エミヤ!」

 

サガが混乱して喚き散らす。

 

「恐らく、鹿の反射だ」

「反射ぁ?」

 

私は敵を見据えながら、しかし一切の攻撃を仕掛けてこようとしない敵の余裕から、恐らく積極的な攻撃はないだろうと判断し、しかし油断しないように目線を奴らより切らないまま、淡々と記憶を述べる。

 

「十二の試練の伝承の一つに、アルテミスがケリュネイアの牝鹿を欲する場面がある。ヘラクレスという英雄が彼女の願いを受けてこの牝鹿を捕縛しようと試みるのだが、この鹿は狩猟の女神の力をもってしても捉えられないほど速く、また、傷つけられることを禁じられていた。おそらく、その伝承が転じて、己を傷つけようとする攻撃には須くの事象として反射を行う、という性質を持つようになったのだろう」

「なんだ、そのインチキ!」

 

籠手の中の発動直前のスキルを取りやめながら、サガが喚く。

 

「では、その伝承とやらで、彼はどのようにしてその試練を乗り越えたのだ? 」

 

理不尽に怒りを露わにするサガを押さえつけるようにして、彼の頭を抑えたダリが冷静に尋ねてくる。

 

「……、ヘラクレスは一年の時をかけて、鹿を疲れさせ、追い込み、捕縛した」

「――――――、奴の疲労を待つしかないというのか? 」

 

理不尽な現実から、結論を先読みしたダリは、それでも冷淡に絶望の事実を口にする。

 

「―――、分からん。傷さえつけなければ、あるいはいけるかもしれんが」

「わかった。―――、響」

 

ダリは言うと、ネクタルを使った後、近くで呆然と我々の話を聴講していた彼女へと声をかける。響はいきなり己の名が呼ばれたことで少し驚いた様子を見せたが、すぐに気を取直して、静かに返事を返した。

 

「はい 」

「聞いていたな? 状態異常や捕縛ならなんとかなるかもしれん……、いけるか? 」

 

短い言葉には、響という少女が己の意を読み取り的確な判断とともに返事を返してくれると言う、無言の信頼が込められているように感じられた。ここにきてダリという男は、ついに彼女を肩を並べて戦うに足る戦友として認めたのかもしれない。

 

「……、状態異常は無理です。ばら撒いたところで、あの紫の煙の広がる勢いに負けるでしょう。でも、糸を使えば、硬直ならあるいは……、けど―――」

「それが攻撃と認められなければ、か。どうだエミヤ」

 

言い淀んだ響の意思を汲み取ると、ダリは再びこちらを見て尋ねてくる。それでどうかと問う無言。私は彼女らの意見から導き出された結論を、私の記憶にある伝承と照らし合わせると、頷いて言う。

 

「鹿はヘラクレスによってを捕まえられた後、轡をかけられ女神の戦車を引く事になったという。ならば道具であっても、「拘束」「捕縛」という手段なら、あるいは有効かもしれん」

「ならそれでいこう。響。足を対象とした縺れ糸はいくつある? 」

「三個。それで打ち止めです。一回はフォーススキルで出来ますが、二つも同様にフォーススキルで使用するとなると、ちょっとだけ時間を稼いでもらうことになります」

「十分だ。ではそれでいこう」

 

ダリが話を纏めると、二人は合わせて頷き、ダリが私とサガ、ピエールに向かって宣言する。

 

「エミヤ。そういうわけだ、私たちが奴の足を止める。奴が足を止めた隙を狙って、君は首を叩き落とし、サガは超核熱の術式を叩き込んでくれ。ピエールは回避の補助を」

「よっしゃ、了解」

「了解しました」

 

サガは意気揚々と、ピエールは淡々と返すが、私はそんな彼らの選択に、彼の判断に一抹の不安を感じきれずに、質問を返した。

 

「……ダリ、一つ聞きたい」

「なんだ」

「響のフォーススキルを使って奴の対処を試みるのはいい。恐らく現時点では最良の手段だろう。だが、フォーススキルは一度使うと、二度目の発動に時間をかけなければならないという。ダリ。もし仮に、彼女が一度目の糸を外して、その後、こちらの意図に気がついて激昂して、その攻撃を反射する敵が、我々に襲いかかるという事態に陥った場合、全ての行動が反射する敵に対して、君はどう対処する気なのかね? 」

 

今彼が提案した作戦は、実行し目的を果たすまでの不慮のあれこれに目を瞑った、詰めの甘い、楽観の元に立てられたもので、冷静冷徹を信念とする彼らしくないと思えた。ダリは私の質問を真正面から受け止めると、静かに敵へと向き直した。

 

「決まっている。その場合は私が守りを受け持ち、時間を稼ぐために奴と対峙する。なにせ私はパラディンだからな。ギルドのメンバーを守るのは私の役割だ。何があろうと、どんな攻撃であろうと、絶対に君たちを守り切ってみせよう」

 

彼は当たり前のように断言する。迷いなきその言葉を発する彼の態度と言葉の裏には、シンを攻撃から守れず死なせてしまった己の無様な過去の行いに対して、必死に言い聞かせているような、精悍も裏側に悲嘆を混ぜた気配があるように感じられた。

 

それは、仲間を守りきってみせると宣言した男が、しかしその誓いを守りきれず、己の誇りを汚してしまったそんな自らなど認めぬとでもいうかのような、そんな懊悩より絞り出された決意のようだった。このままでは、恐らく彼は、そうして当たり前のように自分を投げ出して我々を守り、そして果てて行くだろう結末が眼に浮かぶ。

 

彼は生き急いでいる。いや、もしかしたら理屈やで理想が高く、完璧主義の傾向にある彼は、そうして自分の経歴に傷がついた事を嫌い、その汚点をかき消せるような誇り高き死を望んでいるのかもしれない。

 

その潔癖。その必死さ。己は己の信念以外を無駄として切り捨てる、その、頑固で、不器用で、病的で、馬鹿な男のあり方を、しかし私は決して否定する気にはなれなかった。

 

なぜならそれは、かつて私が辿ってきた旅路にて培った、自らは他人の気持ちを解せない異常者であると悩んだ事もある己の頑迷さによく似ていて―――

 

「……くっ」

 

思わず苦笑が漏れかけた。ダリはその漏れた声を聞いて不審げな、不機嫌そうな目線をこちらへと送ってくる。私はその不器用さに満ちた瞳を真正面から受け止めて、射返した。

 

「ダリ。君の覚悟は十分に理解した。だが、それはダメだ。恐らく君では奴の足は止めきれまい。あの反射に対応することはもちろん、おそらく気にも反射神経ではあの速度に反応しきる事が難しいだろう」

 

宣言。それに彼は不機嫌さを深め、しかし私の言葉に対する納得を、唇を噛む事で表現した。

 

パラディンの役目は守護だ。逃げる敵を追いかけ、追い込むことではない。ダリ。それは、弓を使い獣を追いかけるのは、レンジャーと呼ばれる職業の領分だ。そうだろう? 」

 

いうと彼はいかにも悔し気に目元を歪ませて、こちらを睨め付けてくる。

 

「ならば……ならば、どうしろというのだ!」

 

彼はここに来て初めて感情を露わに叫んだ。ピエールが感極まったかのように竪琴をかき鳴らす。恐らくその冷静を平生の態度とする彼が、憤怒と悔しいが混じった激情を発露するは私の前だけでなく、彼らの前でも初めてのものなのだろう。

 

「……私がやろう」

 

静かに宣言。迷いはもう消えていた。毅然と胸を張り、私は周囲の光景を眺めて言い切る。

 

「獲物を弓矢で追い詰めるのは、アーチャーの、この世界風にいうなら、レンジャーの役割だ。――――――私がやる。真の切り札を使用する」

 

切り札。その言葉は周囲の全てに影響を与え、時間を一瞬だけ停止させた。迫り来る紫の煙は行動を止めたかのようにその侵食をやめ、世界はまるで、十数秒先に待つ己の未来を予感するかのように、その身を震わせた。

 

「―――、固有結界を使う。久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

決断を覆さぬよう、はっきりと宣言する。

 

―――私は、この世界で、全ての手を明かす。

 

それは、私がついにこの世界に心の全てを晒し、自分自身と向き合う事を決めた瞬間だった。

 

 

「―――、固有結界を使う」

 

宣言とともに、周囲の温度が数度ほども下がった気がした。ただでさえ凍える寒さを秘めた環境は、まるで凍てつく吹雪の中にいるような肌を切るような、痛いほどの寒さへと変わる。周囲に降り積もる塵芥がまるで真なる氷雪であるかの様な、錯覚すら覚えた。

 

「久方ぶりに魔術回路を全力稼働させる故、多少集中を要するだろう。悪いが、今までの様な援護は期待するな」

 

続く言葉には助けの手は出せないという意味と、だから私を守ってほしいとの信頼が込められている気がした。自然と両手に力が入る。私は全身が熱くなる感覚を覚えた。

 

「こゆうけっかい――― 」

 

サガが口をへの字に曲げながら首を傾げた。響も同様に少しだけ疑問の声を顔に浮かべている。私も同様の気持ちだった。違うのは、まだ知らぬ単語に胸を躍らせているのだろう、不謹慎にも目を輝かせているピエールだけだった。

 

先程も説明してくれたが、正直要領を得ることが出来なかったスキル。世界を心象風景で書き換えるとはどういうことなのか。質問をすると、彼は苦笑とともに、一目見ればわかるし、発動したからには必ず敵を倒せる手段だといっていた。

 

先程話を聞いた際には、正直なところ、眉唾に思う気持ちもあったが、今の彼の真剣な表情を見て、そんな不埒な思いは全て空気の中に霧散していった。

 

「そうだ、それは―――、む」

 

彼が言いかけた瞬間、今までまるで動きを見せなかった敵は、嘘のように凶暴さを露わにして暴れ出した。彼がヒドラと呼んだゼリーの亜種はその上部から生やした何本もの触手のような首を大きく悶えさせ、鹿はまるで落ち着きをなくして、ヒズメで地面を叩いている。

 

エミヤのたった一言の宣言は、敵を大いに慌てさせる効果を持っていた。おそらく、敵も言葉の意味は読みとれなくとも、彼がこれからやろうとしていることが自分たちに害なすものであることを読み取ったのだろう。彼が放った、たった一言が、そんな風に敵のみっともなさを表に引っ張り出したのを見て、私は決心する。

 

「エミヤ」

「ん? 」

「任せた」

「……、了解した」

 

最強の男から告げられた信頼の一言は、柄にもなく、冷徹を信条とする私の体を更に熱くした。信頼の想いを挨拶に短く乗せると、全員を庇えるように前に一歩進み出て、盾を構える。新迷宮一層の鉱石から作り出した薄い桃色の美盾「アイアス」を、敵の飛ばす混乱の意を拒絶するかのように私の前に差し出すと、敵はその行為に反応したかのように、攻撃を仕掛けてきた。

 

「――――――! 」

 

まず謎の足踏みにて地面を踏み荒らしていた鹿の姿がブレた。瞬間、危機を察知して、物理防御スキルを発動させようと試みる。敵の動きを察知していた私は、己の予測に従ってエミヤと鹿の直線上に身を捩じ込むと、

 

「パリ―――」

 

ング、といいかけて、盾ごと体が吹き飛んだ。左右の奥へと引っ込んでいた口角が変化する前に地面より離れた時の衝撃に、思わず奥歯ごと噛み締めると、すぐさま状況の把握に努める。

 

「――――――ッ……! 」

 

無様にも吹き飛んだ体は、天井を見上げていた。背中になんの感触もないことから、私は地面を背にした状態で浮いているのだなと判断。数旬後にくるだろう衝撃に備えて体から力を抜くと、予定通りにやってきたそれを盾を装着していない手を用いて受け流し、その手を使ってすぐさま立ち上がる。

 

自分の吹き飛ばされた方向から敵の位置を予想し、果たしてすぐさま敵を見つけると、敵はぶつかった瞬間に方向を変えて離脱でもしたのか、少しばかり離れた場所に佇んで、攻撃を仕掛けた私ではなく、私の後ろに自然体で立っているエミヤの方を向いていた。

 

「―――I am the born of my sword/体は剣で出来ている」

 

切り札というやつの準備だろう、エミヤが呪文を唱え出した。スキルとは似て非なる力が世界にむけて放たれる。直後、観察の視線を送っていた鹿が、その言葉を嫌ってか、狂ったかのようにその首を振って、地面を蹴り足踏みをした。

 

鹿に続けてヒュドラが首を伸ばして攻撃を仕掛けてくる。透明なより伸びた八つの首は、範囲外にいる私たちを攻撃するため三つの首を合体させてその長さを伸ばし、元のままの二つの首を待機させたまま、攻撃を仕掛けてくる。狙いはもちろん彼らを不快にさせている行動をとるエミヤだ。

 

「させん! パリング! 」

 

今度こそまともに叫んで、首の一つの前に立ち塞がる。幸いなことに、透明な奴の体の表面には、周囲の赤い土埃が白粉の如く塗りたくられていて、透明な姿の敵の輪郭をはっきりと認識させてくれる。

 

やがて、大きく開いた口の下唇が私の盾とぶつかり、攻撃を塞いでくれる。防御の感覚と共にひどい臭気が鼻をつく。物理の威力を完全に遮断してくれるスキルはその勢いを止めてくれ、タリスマンは毒の効力を無効化してくれたが、猛毒の効力を持った吐息の不快さまでは遮断してくれなかった。

 

吐息を避けてすぐさまその場から離脱すると、少しばかりつんのめった首の輪郭めがけて、響が薄緑色の刀を振り下ろした。それを確認して敵もすぐさま首を引っ込める。彼女の刀は奴の口から漏れた紫と赤の混じった空気だけを割いて緑の線が宙に描かれる。

 

敵が伸ばし引くその動作の最中、口から漏れた毒の吐息が、こちらとあちらの赤の空間に紫の線を引いては地面に落ちてゆく。落ちた地面は当然、奴の支配領域に成り代わっている。

 

その攻防の最中、もう一つの纏められた首はエミヤの方を向いていた。その首は目を瞑り詠唱するエミヤの方へと向かい直進する。

 

「させるかよ! 炎の術式! 」

 

奇しくも先の私と同種の台詞をサガが叫び、炎の術式を放った。最大限まで強化の施されている炎術は肥大化した頭すら飲み込む巨大な火炎球となり、敵の頭を包み込む。燃え上がった敵の頭は、火炎が敵の表面を焼くと共に、口腔に溜まった毒煙と反応して、微かな誘爆を引き起こす。

 

肌を焼く炎と口腔内の爆発に、ヒュドラの頭はエミヤとは違う方向にそれてゆく。エミヤは淡々と次の文言を告げる。彼は我々を信頼して、一歩もその場から動いていないようだった。その無言の信頼が、なんとも嬉しく感じられる。

 

「steel is my body,and fire is my blood./血潮は鉄で心は硝子」

 

仰け反ったヒュドラの頭が不気味に蠢いた。二つの纏まった頭はさらに一つにまとまり、視覚にすら凶暴さを訴えかけるほどにまで肥大する。百メートルはある天井を三往復は出来そうなその長く太い奴の口は、たとえパリングで攻撃を防いでも、毒液に満ちた口腔内が私たちを飲み込むだろうことを容易に予測させた。

 

「止まってくれたのなら、これで! 」

 

サガが核熱の術式を敵めがけて発動しようと試みる。鉄の籠手に収束した力が放たれた瞬間、鹿が動き、彼と敵との進路上へと割り込む。己の視線の先、ヒュドラへの攻撃を防ごうという目的だろう、悠然と割り込んできたその存在を見たサガは、心底悔しげに力の発動を止めた。無意味に浪費された熱が籠手から周囲に撒き散らされる。

 

「今なら !」

 

サガが苦慮の様子を見せた後、後ろに控えていた響が叫びながら飛び出した。サガの上空に向けての攻撃を受け止めるためだろう、跳躍した鹿は落下の最中である。

 

なるほど、敵の攻撃をその身を盾にして防ぐために緩やかな跳躍をして見せた鹿は、それ故に今、空中という逃げ場のない場所に全身を晒していた。その四肢が地を踏みしめ、先のような疾風の動きをするまでにはおよそ五秒程度はかかると見受けられる。その間を狙って捕縛を試みようというわけだ。

 

鹿の落下予測地点めがけて、響が進路上に縺れ糸を解き、道具の力を解放し、投げた。この瞬間にフォーススキルを使わなかったのは、鹿の反応の機敏さの咄嗟がすぎて、肉体と精神が反応しきれなかったのだろう。

 

そうして彼女が利用したことで当たれば確実に敵の足止めを効力を持つに至った糸は、緩やかな放物線を描いて進んだかと思うと、見事に鹿の落下方向と重なった場所へ落ちて、その糸を上空より落ちてくる鹿へとその身を伸ばした。

 

しかし、その糸は、今しがた鹿が庇ったヒュドラの太い首が、今度は鹿を庇うようにして割り込み、その巨大な頭部を以ってして攻撃を防ぐ。糸は敵に触れた途端、響の意図とは違う敵を対象として捉え、ヒュドラのその不定形の下部、およそ足とは言えるものが存在しない場所に巻きつき、そして毒に染まって紫になる。

 

毒に染まった繊維糸はすぐさま解れて溶けて消えてゆく。巨大すぎる敵の体躯を前に、縺れ糸は効力を発揮しきれなかったのだ。とはいえ、効力も何も、そもそもあの敵は動かないので足を捉えたところで無意味に等しいだろうが。

 

「響! 無駄撃ちはやめろ! 」

「ご、ごめんなさい」

 

サガが珍しく、味方に苛つきを露わにして叫んだ。三発中の一発を無駄にするというのは、たしかにこの状況下においては、大きな失態である。その自覚があるのだろう、響は恐縮して身を縮こめた。

 

「いや、いい。今ので、時間は稼げた」

 

私が彼女を庇う言葉をかけると、それはよほど彼らにとって予想外だったのか、ひどく驚いて見せて、呆気にとられた顔をした。確かに今までの私なら、サガ同様、ミスを責めていたかもしれない。

 

私はエミヤという男の傍で彼を観察し続けることで、多少の人らしい心というものを手に入れたのかもしれないな、と我ながらくだらない事を考えた。とはいえ、そんな私の事情など知らぬだろう、彼らが戸惑いの反応を見せるのは当然だと思うし、彼らの驚愕を意外と思わなかったので、私はあえて無視して続けた。

 

「エミヤがなんとかするといったのだ。私たちは彼が切り札とやらを使うまでの時間を稼げれば良い。最悪一つとフォーススキルが使える状態であれば、何があろうと、彼と私たちでなんとかすることができるだろう」

 

危機に近い状況でも冷静に全体を見渡して、しかし多少楽観の入った戦況予測を行うと、二人は真剣な表情の中にも多少の弛緩を含んだ表情で私の方を見やってくる。

 

お堅い人間の口から出た、なんとかなる、という言葉は緊張の空気を和らげてくれる効果を持っているようだった。私はそんな新たな発見を喜ぶとともに頷き、自らが話題に俎上させた人物の方を見やる。

 

「I have created over a thousand blades./幾たびの戦場を超えて不敗」

 

彼の詠唱はその間も続いている。意味のわからない言葉には、しかし、己に対する自戒と決意が込められているようだった。瞑目したその端正な顔の裏では一体いかなる思考が渦巻いているのだろうか。いや、いい。今は―――

 

「響、やり方を変える。まずはあのデカブツの頭を縛ってくれ」

「―――、はい」

 

ヒュドラの巨大化した頭部の上に降り立った鹿は、地面に降り立つと、再び地を蹴り突撃の準備をする。その真っ直ぐな敵意は、当然のようにエミヤの方へと向いていた。

 

「彼への攻撃を防ぐ。そのための足止めが最優先だ。ピエール。私たちの行動速度を上げろ」

「仰せの通りに」

 

ピエールがスキルを使用する。軽快な音調により吟じられた歌は、私たちの反応速度と神経を強化して、敵の速度に鹿の速度と私たちの速度が僅かながら近くなる。

 

「――――――! 」

「くるぞ! 」

 

ヒュドラが地に置いていた頭部をのたりと微かに持ちあげて、咆哮した。透明な体を持つ敵の眼球があるあたりから睥睨の視線が送られ、憎悪の意図が我々に向けられたと感じる。地面を這っている敵は、しかしその巨体さ故に、顔面を構成する要素の全ての位置は高く、我らよりも高い場所より口腔より毒液が飛び散った。

 

すでに敵の体を中心として三百メートルほどにまで広がったそれは、間違いなく引き込まれたのなら、即座に絶命してしまいそうな禍々しい気配を漂わせている。なるほど、エミヤが言っていた、世界の全てを溶かす毒液というのはあながち誇大広告ではないのだろうと直感する。見る間に広がる敵固有の領域。

 

「Unknown to Death./ただ一度の敗走もなく」

 

その死毒の領域を切り裂くかのようにエミヤの宣言が続く。己が神聖な領分を不快にも侵された敵は、その事実に怒り狂ったかのようにして、巨大な首を彼に伸ばして排除を試みた。

 

そうして部屋の天井を打ち破らんとばかりの大きさにまで巨大化した首は、もはや己の筋力では天高く持ち上げることも叶わないのか、奴は蛇が這い迫るかのように頭部を地面に数度も打ちつけながら、攻撃を仕掛けてくる。頭部の持つ巨大という概念があまりにも肥大化しすぎていて、一見して、防ぐことが不可能だと感じられてしまう。

 

「今度こそ! 」

 

そんな大なる敵の進行方向に、ピエールの歌と装備品によって身体能力と速度を強化されている響が真っ先に躍り出た。彼女は再びバッグから縺れ糸を取り出すと、解いてその進行方向に投げる。鹿は響の上げた声に一瞬反応を見せたが、援護の動きを見せなかった。

 

ヒュドラの巨大な頭の上にてそのつぶらな瞳は、一瞬だけ眼下のヒュドラの巨大な頭に視線を落とすと、忌々しげに目線を細めた。鹿の視線をヒュドラの巨体を貫通させたその先では、響という少女が攻撃体制に入っている。

 

恐らく今奴は、援護に入れないが故に不快を発露したのだろうと私は推測した。おそらく今しがた、鹿は先と同じようにして援護に入ろうと考え、しかしその直線上にある味方の巨体が邪魔をしていて援護に入り込めない事を悟り、味方のその愚行に腹を立てつつ、こちらのとった行動の小賢しきを不快に思ったのだ。

 

なるほど、その味方の動きが邪魔で援護に入れないという悩みはよくわかるとも。皮肉な事に、私も盾役だ。憎きはずの敵に不思議な共感を覚えると、自然、敵の動きから、私はさらに、鹿という存在がその速度を発揮し己が身を反射の盾として捩じ込むには、攻撃のする対象とされる対象の間に一定距離がある場合のみであると推測できた。

 

加えて一度その動きをした後は、何秒間かの間隔が必要であるとも予測できる。でなければ、奴が、ああも不安定な動く巨体という足場の上で待機している理由が見つからないからだ。

 

そうして鹿の邪魔を受けずに済んだ響の糸は、ここにきてようやくその威力を正しく意図通りに発揮する。敵の頭部に触れた糸は、すぐさま効力を発揮して、その巨大な頭に巻きついてゆく。瞬間的に大きく開いた口が閉じられて、頭部の進行の勢いが多少衰えた。

 

「Nor known to Life./ただの一度も理解されない」

 

だが、そうして縛して封じられたのは頭部が以降数秒動く事であり、それ以前に蓄えられていた奴の保有する運動量は多少の減衰を見せながらもその威力を発揮して、敵の巨体はこちらへと迫り来る。その様に、私は旧迷宮四層の番人、巨大怪鳥の突撃を幻視した。

 

「パリング! 」

 

慌ててすぐさま彼女の首根っこ引っ張って後ろに放ると、前に踊り出て、スキルを発動する。アイギスの盾の前に、薄い膜がはられ、直後、激突。口元を窄めた奴の巨大な唇が、女神の顔を嬲るように接吻をした。激突の運動量をスキルが消滅させ、巨体が眼前にて静止する。

 

盾が唇の間から、紫の煙が漏れる腐臭が漂う。同時に、ふれた場所から縺れ糸が撓み始めた。巨体に巻きついた糸の効力はすでに切れかけている事に気が付ける。仮にこの巨体がこの状態からでも動くというのなら、正直、止める手立てがない。

 

口が開き舌にでも巻き取られたら、その時点で終了だ。いや、そんな手間をかけずとも、軽く呼吸をするだけで呑み込まれるかもしれん。かといって味方が後ろにいるこの状況、盾を引いて一度体勢を立て直すのも難しい。こうして逡巡する間に鹿もやってくるかもしれん。

 

「―――どけ、ダリ! 」

 

どうする、と難問の選択を迫られ悩んでいると、眩い光が身体の背後より横を駆け抜けて、頼もしい声と共に私の懊悩をごと切り裂いた。

 

「サガ! 」

「へっ、へ、こっちからなら効くんだろうぉ! 」

 

どうやらサガも鹿の特性を見抜いていたらしく、彼はヒュドラの巨大な頭部を中心として、奴の頭上に乗る鹿と対角線になるよう位置を確保すると、先程不発に終わった核熱の術式を籠手より放っていた。私はその熱線が奴に直撃する寸前で響を抱えて離脱する。

 

直後、白光の柱が赤の空間を割いて、敵の巨大な顔の上半分を飲み込む。その際、生じた光はその場の全てに眩暈を生じさせるほど輝いて見せて、直後、爆裂。

 

「――――――! 」

 

火の術式とは違い、核熱の術式は対象と接触した瞬間、熱量を加速度的に増やして、周囲の目に見えぬ塵芥と反応し、大爆発を起こす。後方から続く光が連鎖的に反応を生み、サガに言わせれば、品のない爆発がその透明な皮膚を焼き、抉り、その内部を焦がして、ヒュドラは初めて苦しそうに身を悶えさせた。

 

「Have withstood pain to create many weapons./彼の者は常に独り、剣の丘にて勝利に酔う」

 

傷を負ったヒュドラは巨体を無理やり動かして鎌首をもたれさせると光の範囲外から離れたのを見て、サガはすぐさま術式の発動を取りやめて、放出していた光を消す。

 

照射し続ければいつまでもどこまでも爆発を起こし続ける光は、発動し続けるにはあまりに消耗が大きく、また、そうして連鎖する爆発によって生まれる土煙は視界を妨げる要因となり、巨大な敵との継戦の際には特に不利となる場合が多いからだ。

 

「―――がぁ! 」

 

そうして攻撃をやめたサガは、しかしいきなり苦痛の声を大きくあげた。苦しみ悶えるその声に驚き視線をむけると、彼の服は一切傷ついていないにもかかわらず、その体表の大部分が爛れて倒れ込んでいた。その現象に、私は心当たりがあった。すぐさま振り向いて、現象を引き起こした下手人の方を向く。

 

すると、収まりつつある灰色の煙の中から、予想通り、傷一つない鹿が現れた。風を纏いて煙を掻っ捌いて現れた鹿は、しかしその美しき金色の毛皮に灰一粒もなく、火傷の一つも負っていない存在しない状態である。おそらく、サガの起こしたその爆発の余波の炎熱を攻撃として認識し、反射という行動の糧としたのだ。

 

「サガ! 」

 

彼の悲鳴により異常を知覚した響が手に持っていた薄緑色の剣を投げ出して、慌てて叫びながらメディカⅲを使用した。瞬間的に普段より眩い大量の光の粒子が彼の体を覆い、次の瞬間には、サガの体を元の状態に戻す。サガは、すぐさま現状を認識したらしく、その負けん気を十二分に発揮して起き上がると、響に礼を言って、前を向く。

 

「ピエール、属性防御」

 

私の指示に、返事もなく、ピエールが属性防御の歌、聖なる守護の舞曲を歌う。体の皮膚を鈍色の物理防御壁と、赤青黄の三つの混合が、しかし混じり合わないまま我々の体を覆い、優しく包み込む。

 

あの反射の仕組みが如何なるものかは知らないし、核熱の術式は無色の力故、やつに直撃し反射された場合はその限り出ないだろうが、少なくとも余波による炎熱の傷や細かい傷はこれで多少軽減できるはずだ。

 

二の轍は踏んでやる気はない。

 

やがてサガの起こした爆発の煙が収まる事、ヒュドラは、その透明な双眸に、しかし怒りの感情を確かに携えながら、こちらを睥睨して、大きく咆哮した。巨大な身を大きく揺るがしての蠕動は、発生というよりも、衝撃波に近いものとなり、周囲の全てにその憤怒を分け与えた。壁に揺籃された大地と空気が撹拌され、肌と足元より奴の憎悪が伝わってくる。

 

そうして怒りに身を震えさせる奴は恐るべき事に、サガがつけた核熱と余波の傷の大半を再生していた。天地を揺るがす咆哮とともに、敵の毒領域が一気に広がる。もはや我らの五十メートル先の足元までが死の色に染まっていた。

 

「エミヤ、まだか! 」

 

サガが叫んだ。焦燥の声を聞いて、エミヤはしかし何も答えず、瞑目したまま続ける。

 

「Yet,those hands will never hold anything./故に、その生涯に意味はなく」

 

詠唱を続ける彼に焦燥の様子はない。彼は外界からの情報を完全に断ち切っていた。己という強敵との戦闘中、その存在をまるきり無視して己の内面に立ち篭る彼のその姿に腹を立てたのか、ヒュドラがエミヤに現実を教えてやろうかとするかのように、巨大な頭部を振り下ろした。口の端から漏れる毒の領域が宙までを侵し、尾を引きながら、彼に迫る。

 

同時に、着地し硬直の様子を見せていたのだろう鹿がその縛りから解き放たれ、四肢で地面を軽く蹴ってみせた。脚線美に満ちた細い四つ足が伸びるその先の胴体では、すでに筋繊維が隆起しており、力がこめられているのが理解できる。

 

「エミヤさん! 」

 

次に瞬きした間、敵はエミヤに向かって殺意を叩きつけるだろうその絶体絶命の危機を感じ取った響が叫ぶ。掠れるほど大なる悲鳴が響いたと思った次の瞬間、敵二体の意思が結果に反映されるその前に、彼はもう一節の言葉を発声した。

 

「So as I pray,unlimited blades works./その体は、きっと剣で出来ていた」

 

エミヤが呼応するかのように宣言。そして赤い牡丹雪と紫毒雨の降る、龍が吼え、金鹿駆け回る、死の気配に満ちた世界は一瞬にして瓦解し、新たな光景へと変貌した。

 

 

茜色の空。地平の彼方に浮かぶ巨大な歯車。世界の端まで続く剣の突き立つ荒野。他人の正義と願いを抱えてに、ただただ無意味に生涯を走り抜けた、贋作たる英霊エミヤと言う存在のもつ、唯一真作と呼べる、しかし皮肉の象徴のような宝具。

 

禁忌の大魔術、固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。

 

地面に突き立つ剣は、その全てが、私が生涯において一目見た際、この世界に登録され生まれ落ちた贋作に過ぎず、しかしこの世界においては真作に等しい存在である。

 

とはいえ、ただ剣を登録し贋作を生み出すだけなら、ただただ剣を無限にコピーし保管する世界を作り上げるというに過ぎなかったチンケで大業なだけの魔術は、生前と死後、私が、多くの英霊が集う神話世界をも含む戦場を渡り歩いてきたことで、聖剣、宝剣、魔剣等の、かつての人間世界におけるほぼ全ての伝説の武器を内包する、まさに大魔術と呼ぶにふさわしい奇跡となっていた。

 

しかして、世界を己の心象風景にて書き変える大魔術を、その、かつての世界に生きた多くの人の願いが込められた希望と絶望の力を借り受けて贋作として再現し、宝具本来の所有者当人すら、真なるものと勘違いせしめるほどの再現をして見せる、いかにも他人の想いを借りなければ所詮は空っぽの自らの心を見せ付けなければならないこの不遜な大魔術を、私は好ましく思っていない。

 

だからこそ、出し渋っていたわけだがともあれ、己の心象風景にて世界の一定範囲を書き換える魔術は、「異邦人」の全員と敵意を露わにする番人、その全てを飲み込んでいた。己の変化無き事の象徴を無言で眺めていると、空間に満ちる威と圧に呑まれたかのように、全員が動きを止めている事に気が付ける。

 

さて、何を思っているのかは知らないが、そんな彼らには目もくれず、私はただ、久方ぶりに使用した己の世界を、ようやく自らの目で見渡した。瞼を開ければ、以前と変わらぬ景色が広がるこの心象世界を見て、私は落胆する。

 

―――ああ

 

変わらない。変わろうと決心しようが、負の感情を食われようが、知人の死に立ち会おうが、世界の真相を知ろうが、この光景は今も昔も何一つ変わっていない。

 

生の気配がまるでない生命の変化を拒むかのごとき一面枯れ果てた野も、荒野に犠牲にしてきた人を偲ぶ墓標の如く並ぶ剣群も、正義の味方になりきれず、されとて諦めきれない慚愧の境地にあることを示すかのような後悔色の黄昏空も、その空の中で必死に正義の味方として寸分狂い無く行動する機械たらんとの心がけを象徴するような歯車も、何一つ、昔のままだ。

 

―――ああ……、どんなに変化の決意をしても、やはりまるで、この風景は変わらない

 

残念の言葉を内心にて呟くとともに、周囲を一瞥して静かに目を閉じた。胸に到来する無念と寂寞と荒涼の思いに呼応して、荒野に一つの疾風が吹き抜ける。風に含まれる微熱の正体は、おそらく諦めきれない情念の証だろう。

 

感傷は一瞬。胸の裡に生じた切なきを薄れさせるかの如く大きく息を吸い込むと、到来した風に載せるかのようにして思いごと世界に言葉を生む。

 

「―――、これが私のもつ切り札。固有結界「無限の剣製/unlimited blades works」。己の心象風景であるこの世界において、私は文字通り、世界の支配者となる」

 

宣言に意味はない。詳しく説明してやる義理もない。ただ、これから死出の旅路に向かう敵に対して、己にトドメをさす魔術の名前くらいは教えてやってもいいかな、と思ったが故の、発言だった。

 

「――――――」

 

無言で片手をあげる。呼応して荒野より数百本もの剣が宙に浮かび、ヒュドラとケリュネイアの鹿の周囲だけが空白となる。地面より姿を表した刀身には、けれど土に塗れておらず、全ての刃先にも刀身にも、一切の曇りが見当たらない。そうして磨き上げられた裸身を晒す剣の群れは、次の命令を待って、宙に浮いていた。

 

「―――さて」

 

告げる。そのたった一言で、二匹の獣は止まっていた時を取り戻した。ヒュドラは首を振り下ろし、鹿は今度こそ力を発揮せんと、もう一度四肢に力を込めようと前傾姿勢を取ろうとする。恐らくは体当たりにてこの世界の主人たる私をぶちのめそうという魂胆だろう。

 

「―――では始めようか」

 

だが当然させない。私は瞬時に世界へと号令をかけて、鹿の周囲に棒を生み出す。柄なく反りなく刃なく。地面より逆しまに生えてきた単なる直線的な棒は、敵を傷つけることを目的としない、単なる棒切れであり、だからこそ、この場面においてはとても有効だ。

 

「――――――! 」

 

その棒切れを鹿の周囲に寸分なく配置する。単に囲いを作るのではなく、その優美な四肢の足元より一切の挙動を封じるべくグルグルと一部を体に沿わせ、その上で棒の側面を地面に差し込んだまま生み出し、体の線を覆ってゆく。一瞬の時すら経過しない間に、敵は棒により全身を固定されて、針金細工のような有様となった。

 

「いかに素晴らしい挙動と反射能力があろうが、マイクロ単位で挙動を制限してやれば、その身体能力は生かしきれまい」

 

敵はそれでも動こうと、体にぴったりと張り付く檻の中で、足掻き出す。鹿の皮膚が針金を押すたび、私の体において該当しているのだろう箇所が押されたむず痒き感覚を覚えるが、それだけだった。全身のどこかが常に押されるだけの感覚など、こそばゆいばかりでまるで脅威などではない。

 

―――ふむ?

 

と思ったのもつかの間、身体中のこそばゆさが瞬時に消えてゆく。棒に囲まれた内部の気配を探ってみれば、鹿の姿は跡形もなく消えて消滅していた。私は瞬時に理解する。

 

―――なるほど、捕縛されれば消える、か

 

どうやら鹿は、伝承の通り、一度捉えてしまえば、その無敵に近い能力を喪失し消滅するようだった。魔術もスキルも、基本は等価交換だ。さてはその不傷の伝承を再現しようとしたあまり、そうした己の不利になる特性まで再現せざるを得なかったのだろうと予測する。

 

そうして消えた奴の行き先が、果たしてアルテミスのもとなのか、はたまた魔のモノと呼ばれる存在のもとなのかは知らないが、一つの厄介ごとを消してまずは一息ついた。

 

―――これで鹿は無効化できた。後は……

 

見渡すと、鹿とともに時間を取り戻したヒュドラは、鹿が消える予想外に呆然としたのか、巨体の動きを止めていた。味方の消滅にしかし気を取り直した奴がもう一度その巨体を振りかぶると、その大なる首を振り下ろす。私はその透明な巨鉄槌をゆるりと見上げると、紫の死毒を口の端より尾を引かせながら迫る敵の重撃を、宙に出現させていた剣で迎撃した。

 

「――――――! 」

「チェックだ」

 

宙より射出された数百の剣が一つとなった敵の喉腹に突き刺さり、ヒュドラの首はその巨体が空中で動きを止めた。巨体の持つ質と重き質量の単体は、無数の剣群が持つ軽き軽量の群れと激突し、そこに秘められた正負のスカラー量の天秤が釣り合った結果である。

 

透明を貫いて体内に減り込んだ剣によりその場に縫いとめられた龍は、しかし攻撃を諦めず、力を込めた。突き刺さった停止の状態は解除され、敵の持つ力と位置エネルギーを伴った大質量の攻撃が頭上より降り注ごうとする。

 

その足掻きを、再び空中に出現させた多量の剣の突撃により防いで見せると、敵の堅牢な皮膚の防御を突き破った場所から紫色の毒液が空中より垂れ落ちた。遅れて、赤い血液が紫に混じって、紫檀色の液体が地面に滴れる。いかなる原理なのかは知らんが、向こう側すら見通せる体内のその中にはきちんと内臓や器官があるようだった。

 

ついでのように、傷口の一部から炎が漏れて、敵が自らの攻撃にて己の体内を焼いたのを見て、おそらく目の前の奴がラドンと呼ばれる怪物の特性も備えていると推測する。先の予測が正しければ、ヒュドラは炎に弱くなくてはならない。それを覆すために、おそらくラドンの特性を混ぜたのだ。

 

とはいえ、血縁の結びつきがあろうと、弱点を打ち消すにはヒュドラという規格外の力が優れすぎていて、せいぜい外皮に耐火の能力を有するのが限界だったのだろう。

 

ともあれ、この場にてやつが炎を用いなかったのは、周囲に散る細かい粉塵に反応して爆発が生じ、己が攻撃により体内より焼かれるのを恐れたのか、あるいはその広がる火炎と爆発の威力が鹿の反射により己が身へと降りかかり、自身が傷つくのを恐れたのかは知らんが、とにかくその透明の向こう側に、やはり中身があると言うのなら、話は早い。

 

「―――後、数手か」

 

勝利までの手筋の数を見直して、右手を振り上げる。ヒュドラの周辺の中空に再び現れる剣群は、その群れた剣の全ての刀身が、敵を切り殺すに最も適した、いわゆる西洋剣の太くたくましい形をしていた。伝承によれば、ヒュドラは全ての首を叩き落としてその傷口を焼いた後、不老不死の核となる部分に岩を乗せたことで退治されたと言う。

 

―――ならば、まずは素っ首を叩き落としてやるのが順当と言うものだろう

 

「―――」

 

無言で手刀を振り下ろすと、浮いた剣が宙を進軍。空を裂き、透明な首の背から侵入を果たした無機物たる剣は、全ての生物を殺すと称される毒など気にも止めず、血も肉も骨も神経も、その毒を発する器官を断ち切って、喉元に突き刺さった剣とかち合いながら反対側へと抜けてゆく。

 

「―――、――――――、―――、――――――――! 」

 

ヒュドラは喉元に異物が入り込んでくるその違和感に悶え、絶え絶えに息と悲鳴と毒と血液を撒き散らしながらその痛みから逃れようとして長い首に力を込めて動かそうとするが、しかし全方向より飛びかかってくる剣の群にて宙に動きを固定されてまともに動けない。

 

そんな奴の苦痛を逃れる逃避の願いを込めた行動は、その真摯の悲願とは裏腹に、己の肉が削れて死地への邁進を促す手助けとなってしまう。奴の透明な顔に、初めて絶望の色が塗りたくられたのが見えた。

 

「―――、―――」

 

そうして十秒ほどもそうして首元へ死刑執行ためにの鋭い刃を叩きつけていると、千切れつつあった肉が己が巨体の重さを支えきれなくなり、自然と首が大きく二分されてゆく。千切れた肉の破片とともに荒野の地面へと落ちる寸前になったのを見て、私は悟った。

 

―――これでチェックメイト

 

「サガ! 」

「――――――、え」

 

声を上げると、呆けた声が返ってきた。戦闘の最中であるのに、あまりにも気の抜けたその声に思わず視線を向けると、逃げの体勢を取ったまま固まっている彼と目があった。その弛緩具合から察するに、どうやら彼はこの世界が姿を現した時から、ただただ呆けていたらしかった。

 

「奴の首が落ちる! 直後、露わになる傷口に向けてフォーススキルをぶち込め! 」

「あ、ああ! 」

 

指示を出すと、さすがは一流の冒険者、呆けていたサガはすぐさま意識を正しく取り戻して、己の体内にて溜め込んでいた力を解放するべく、機械籠手を展開させて準備を始める。

 

籠手の外装が剥がれて露わになった内装の、その展開した円扇より伸びた五指の線が交わる場所に白光玉が生まれ、その大きさを増してゆく。準備にかかる時間はおよそ十秒と言っていた。ならばその間に、最後の一仕事の準備を終えておかねばならない。

 

「―――」

 

もはや呪文の詠唱など必要ない。己の心象たるこの世界では、私が思うだけでこの世界に在る全ての武器は我が意のままに操れる。そうして思った瞬間、現れたのは、使い慣れたいつものカーボン製の黒塗り洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」、だ。

 

私は矢を弓に番えると、鏃の狙いを定めるべく、正面を向きなおす。

 

「―――! 」

 

すると敵の瞳が私を捉えた。その透明な瞳には、予定外の事態を驚く気持ちと、自らをこんな目に合わせる敵に対する憎悪とが綯い交ぜにした気持ちが如実に現れていた。

 

―――はっ

 

「許さんときたか。いや、全く、さすがは最もヘラクレスの生涯に深く関与した獣は、プライドが高い。いや、その誇り高さ、見習いたいくらいだよ、全く」

 

吐き捨てると、敵の視線が強まる。その末期の一瞥を見届けると、敵の首は剣が待ち針の如く刺さった部分から見事に折れて地面へと落下を開始する。伝承によれば、ヒュドラは首を落とした後傷口を焼き、そして核となる部分を巨岩の下に敷く事で、無力化できるという。

 

―――だから

 

「サガ! 」

「おう! くらえ、超核熱の術式! 」

 

サガの咆哮共に、彼の手の前で直径一メートルほどにもなっていた球の形が崩れる。楕円はやがて潰れて生まれた平面より白柱を放出して、直進した光線が瞬時にヒュドラの体を包み込む。破壊の力を浴びた透明な肉を形作る液体は、瞬時のうちに反応し己の体を焼くエネルギーとなり、次の瞬間には蒸発してゆく。

 

落ちた首の断面の毒と液体とが熱によって焼成と気化とを繰り返し、灰と紫色の噴煙を周囲に撒き散らした。やがて十秒ほどしてサガのフォーススキルがその発動を終え、それにより引き起こされた毒々しい二色の煙が消えた時、渦巻く煙の隙間に、透明な敵の体の中に、核と思わしき物体が微かに目に映る。その一瞬で十分だった。

 

―――これでトドメだ

 

「―――偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ! 」

 

固有結界を解除すると同時に、過去、いつか時、墓地で大英雄の命を一つ屠った一撃をヒュドラの頭上めがけて放つ。手持ちの武器の中で最も貫通力の在るその改良型宝具は、竜巻の如き暴威周囲に振りまいて煙を引き裂いて突き進むと、迷宮の天井へと侵入した。

 

宝具により天井の削岩が進み、時の止まったような状態の砂土に減り込んで行く。刹那ののちに十分を認識すると、同時に放った幻想めがけてその威力の発散を命じた。

 

「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」

 

天井に穿たれた点より、噴煙が吹き出る。直後、点より広がった線が歪な円の亀裂が生じさせ、点と点がぶつかり合った瞬間、空間の断裂は時間にまで影響を及ぼして、平らなはずの天井の一部に段差が生じた。

 

「――――――! 」

 

もはや肉体の異常を感じ取れぬはずの断たれたヒュドラの首が、そのあり得ぬ光景を見て吠える。繋がっていない肉体の末路を拒んでの咆哮は、雄叫びを上げ続ける空気が足りず、すぐさま無音となり、音の発する機能を失った喉元は無意味に蠕動するだけの肉の塊に成り果てた。

 

「―――、くるぞ、備えろ!」

 

私は直後の光景を想定して、皆に注意を促した。一様に唖然とした顔を見せる一同の中で、すぐさま反応してみせたのは、ダリだ。彼はすぐさま私の叫んだ言葉の意味を理解したらしく、慌てて盾を前に構えてくれた。素晴らしい反応だ。

 

直後、天井に生じた段差はすぐさま大なるものへとなり、切り取られた大地、すなわち巨岩塊が重力の勢いを味方につけ、宙に浮いていたヒュドラの体とあっという間に接触すると、その巨体で敵を押しつぶさんと下の大地へ向かい、そして噴煙切り裂き落着した。

 

「―――ッ、大河を堰き止めるに相応の巨岩が必要なのは道理だが、これは流石に……! 」

 

自らが作った巨岩が大地に及ぼした影響は予想よりもずっと大きく、接地の際に生じた衝撃は迷宮の地面を数十センチも上下させる程の振動を生み、我々の体どころか世界樹の大地を大きく揺るがした。

 

同時に、破砕と衝突により生じた暴風により巻き上がった赤の土煙が、紫の毒の色など瞬時に吹き飛ばして、大小のカケラとなった石くれ、岩石が周囲に飛散する。

 

「うぉおおおおおおい、なんだぁああああ!」

「きゃあああああああ!」

「いやぁ、この事態は予想していませんでしたねぇ……!」

 

この光景を想定して踏ん張った私とダリはともかく、他の三人は迷宮の天井を破砕すると言う禁じ手を易々と行った暴挙に驚いた時から変わらぬ状態だったため、振動に耐えることができずに、地面に両手両足を踏ん張って、なんとかへばりついるような状態で悲鳴と文句を紡いでいる。また、この期に及んで楽器を離さないピエールの執念を、無駄に感心した。

 

「出来るだけ寄れよ! フルガード! 」

 

三人の近くに寄っていたダリは、味方がスキル「フルガード」の射程圏内にいることを確認すると、迷わずそれを発動した。光が周囲の味方に降り注ぎ、ダリは仲間を全ての攻撃からカバーする盾となる。私もその恩恵を受けるべく、踏ん張っていた足の方向を彼の方へと向けて、跳躍。

 

が。

 

「―――しまっ……! 」

 

揺れと暴風により多少の着地予定ポイントがずれ、あやうく彼のスキル範囲外に吹っ飛びかける。しかし次の瞬間、その事態を見こしてだろう、彼が差し出してくれていた槍の穂先が煙を切り裂いて体の横を抜けて行く。

 

私がその指標をしっかりと捕まえると、かかった過重に反応して彼が私を引き寄せ、そして私は無事にそのスキルの中に収まると同時に、彼は穂先を地面に突き刺して自らの体の固定を強固にした。

 

「助かった……、感謝する……! 」

「礼はいい……。が、無茶と馬鹿をやりすぎだ! あとで一発殴らせろ……! 」

「は……! 」

 

彼にしては珍しく激情を伴った殴打の許可を求める宣言に、ニヤリと笑って承諾の返事を返してやると、彼はそれを心底不愉快そうに背中で受け取りながら前方からやってくる全ての障害を防ぐべく、槍の穂先を地面に突き刺して完全に防御の体勢へと移行した。

 

周囲に颶風と礫と岩石の暴力が舞う中、眼前にて防御を一身に引き受ける彼の姿は、まさしくパラディンの名に恥じぬ素晴らしき堅牢の象徴のように見えた。

 

 

「や、ったのか」

「おそらくヒュドラは、な……」

 

やがて彼の守りが解けて土の煙が晴れた頃、先程フォーススキルをぶっ放したサガは、未だに周囲の光景を気にしながら、呆然と問う。私はその感情のない言葉に一応の同意を返しながら、しかし、心中には敵を倒したという確信があった。その中で考える。

 

―――さて、これで残るは

 

記憶の中で伝承を漁る。これで十二の試練のうち、十。残るは二つ。後は―――

 

噴煙が揺らぐ。ちり、と全身に熱を伴う痛みが走った。違和感は即座に直感に異常を訴え、瞬間的に体が戦闘体勢へと移行する。やがて脳内の記録の中よりその存在を思い出せたのと、敵がその噴煙の中より姿を現したのは同時だった。

 

三つ首に、黒い体躯。三叉にわかれたその姿が、黒百合が斃れた姿を想像させる、麗しさの中にも恐怖を含んだ姿は、プラトンによればそれぞれの首が保存、再生、霊化を表し死後、魂が辿る順序を示すという獣は、まさしく地獄の代名詞と呼ぶに相応しい外見をしていた。

 

ケルベロス! 」

 

叫ぶと同時に双剣を容易。その両手に握り、真っ直ぐ直進するやつを切り裂こうとする。だが剣を握った途端、全身を刷毛で撫ぜられるかのようなくすぐったさを感じ、瞬時にその行為を中断する。

 

―――まて、伝承によれば確かケルベロス

 

「ハデスにより殺傷を禁じられている……! 」

 

慌て直進する獣を捉えようと、再び鹿を捕縛した棒を生み出し、その全身を覆ってやろうと試みる。しかし、鹿の時とは違い、固有結界下にない状態での投影という行為は、通常世界に現出するまでの間に微かな一瞬の隙が生まれてしまう。また、先の鹿とは違い、すでに最大の速度での挙動を許しているというその差異が、その後の結果に大きな違いを呼んだ。

 

「―――ッ! 」

 

投影により生まれた棒が奴の体と接した瞬間、頭部と肩部に殴打の痛みが走る。棒と敵がぶつかった部分のダメージがフィードバックしてこちらへと帰ってきたのだ。その衝撃は凄まじく、全身を巨大なハンマーで殴られたかのような痛みに、私は思わずよろめく。

 

「――――――!」

「――――くぉっ! 」

 

次の瞬間、跳躍した敵は私の肩を押して上にのしかかり、その三つある口の牙を全て私に向けてくる。瞬時にその三つの口の撃を防げるほどの巨大なダリの盾を彼我の間に投影して、なんとかその三撃を防いだ。

 

「―――ちぃっ……! 」

 

高い金属音が鳴り響く。金属の盾の向こうでは、獣が憎々しげに特有の獣臭と腐敗臭を漂わせながら、牙をかち鳴らして、こちらの喉元を噛み切ろうと、盾の隙間に口をねじ込んで来ようとする。

 

「小汚い口を近づけないでもらいたいものだがな……! 」

「エミヤ! 」

 

悪態を着くと、ダリが叫びながら近寄り援護に入ろうとする。彼は私の投影した盾を見て、一瞬驚いて見せたが、瞬時に知識の採集などよりも現状の打破を優先して、その獣に体当たりをかます。だが。

 

「がぁ! 」

「いかん! こいつに手を出すな! こいつは鹿と同じく、攻撃を反射する! 」

 

ダリはケルベロスに攻撃を仕掛けた瞬間、それ以上の勢いで元来た方向へと吹き飛ぶ。忠告が荒野に吹き荒れる風に乗って全員の耳に届いた頃、私は必死に現状を打破すべく、ケルベロスの伝承を思い出していた。

 

―――思い出せ。何がいい。伝承だと、どうやってヘラクレスはこの試練を乗り越えた

 

伝承では、ハデスに生け捕りのみを許可されたヘラクレスは、素手でその首を絞めて太陽の元に引きずり出したという。記憶の中にあるあの鉛色をした巨体の大英雄なら、確かに己の肉体に反射のダメージがあろうと、平然と無視してそんな偉業をやってのけるのかもしれないが、あいにく彼のような丸太のような腕脚と、巨木のような鋼の体を持たない私には、そんな剛勇ぶりを発揮するなど、到底真似できそうもない。

 

「――――――、――――――、―――! 」

「く……そ……」

 

考えている間に、盾が押し込まれる。盾にこめた必死の抵抗の力はそのまま、私の方へと跳ね返り、いつもの倍以上の速度で私の肉体は疲労してゆく。固有結界という世界を書き変える大技の反動で魔力は空っぽに近く、強化魔術の限界時間もすぐそこまで迫っている。

 

「ダリ……!? お、おい、エミヤどうすりゃいいんだよ! 」

 

吹き飛んだダリの側に寄って、彼の体を起こしたサガが、こちらに言葉を投げかけてきた。

 

「反射する……って、あ、あれ? さっきの眩しい鹿は? 」

 

反射という言葉でその存在を思い出したのか、サガが状況にそぐわない間抜けな声を漏らし、煙の散る周囲を見渡した。すぐさま失せた煙の中に、目当ての獣がいないことを確認すると、一層困惑して、見渡しては、こちらの様子を伺ってとを繰り返す。

 

「―――くっ、くくっ……」

 

その、戦闘とは似つかわしくない様があまりにおかしく、危機的状況であるにもかかわらず、私は思わず失笑を漏らしてしまう。瞬間、ぶれた視線の先、煙の晴れた広間に黄昏色の光が広がった。

 

見覚えのある明かりに、思わず目がそちらを向く。迷宮を照らす光は戦闘直前と違い、すでに暗く部屋の片隅を照らすばかりだった。途端、盾を揺らす衝撃が少しだけ軽くなる。

 

違和感に眼前の獣を見やると、目の前の障害を無視して私が別の場所に視線を向けたのが気になったのか、ケルベロスの三つの首のうち、一つが私と同じ方を向いていた。そうして太陽の光を見つけた獣は、闇色の瞳の中に嫌悪の感情を露わにして、睨め付けている。

 

そして私は天啓を得た。

 

―――太陽の光か……!

 

確かヘラクレスは、首を締め上げた状態で、ケルベロスを太陽の元へと連れ出した。する途端、奴は悶え苦しんだというそれは打倒、殺傷の伝承ではなかったが、今この無敵の獣に通じる唯一の手段であるように思われた。

 

―――だがどうする……!

 

ケルベロスに押し倒された現状、あの太陽の光が照りつける場所まで奴を引きずり出す手段が思いつかない。運動エネルギーの反射を行うという無敵の鎧を纏った猛獣を、縛り付けて首根っこ引きずるための鎖を私は持ち合わせていなかったのだ。

 

ケルベロスは一向に力を弱めないまま私を地面に抑えつけ、己を追い込んだ下手人を食い散らかそうと臭い口を開閉して牙を鳴らし、盾の向こうで歯を鳴らす。敵は余裕の態度だった。敵は己の絶対的優位を知って、動こうとはしていない。

 

そうして奴の吐く吐息に、唾液が混じった。途端、投影品の縦にヒビが入り、そこから植物の球根のような根が伸びてくる。信じがたいことに、その植物は金属の盾の上に発芽し、分厚い金属をかち割って、根っこをその金属板の中に伸ばしたのだ。

 

―――植物……!? なんだ、なんの―――

 

ヒビの入った盾の向こう側に、紫色の烏帽子が見えた。かつての日本の貴族が被っていた折れた冠に似た紫色の花を持つ植物といえば、思い当たるものは一つしかない。

 

―――トリカブト

 

そうか、そういえば太陽に当たって悶え苦しんだケルベロスの唾液が地面に触れた瞬間、そこから生えた植物がトリカブトになったとい伝説があった。記憶の続きが現実で再現された事実に思わず舌打ちをする。

 

―――くそ、こんな隠し球を持っていたのか……!

 

そうこうしている間にも盾は植物によって次々とその領域の侵攻を受けていた。盾という特性ゆえか、ある程度の傷が入っても投影品のそれは崩れて消えはしないが、それでももう、半分以上は植物により役目をはたせない状態に陥っている。おそらくはあと十数秒も持たないだろう。

 

そして盾が砕けたあと、再投影する時間がないのは、先のケルベロスという魔物が見せた速さから考えても明らかだ。かといってこの攻防を繰り広げている最中、投影という余計な工程に意識を割けば、その時点で私の喉元にその牙は突き立てられるだろう。

 

唾液が即効性の効力を持つ猛毒の植物を生むとわかった今、即座に引き剥がしたところで、牙を突き立てられた場所からそれが発芽し、根を張り、体内に侵食する。猛毒の根が体内に根を張ってしまえば、毒を防ぐアクセサリーがあったとしても高確率で死は免れまい。

 

そうこうしている間に、部屋の隅を照らす希望の光は失せてゆく。絶望の闇は周囲に広まりつつあり、夜はすぐ背後にまで迫っていた。この時私は、やがて時計の長針が一つ二つ進む間にあの光が完全に失せてしまう事を悟りながら、しかし何もできずにいた。

 

―――絶体絶命か……!

 

この時点で、私たちは詰みに近い。倒すには太陽の光が必要であるだろうに、数百メートル離れた部屋の隅に落ち込む光が失せかけている今、もはや倒すには、そこから千、二千メートルに上空の大地に足を運んで、直接光を当てるしかない。

 

しかし敵は攻撃を反射するのだ。それが拘束であってもその力を反射する相手を、どうやれば地上まで運べるというのだ。まさか大英雄のように、いく日もかけて洞穴をひたすら逆走してやれとでもいうのか。

 

―――そんなところまで伝承通りにしなくとも良かろうに……!

 

悪態を吐くも、状況は変わらない。押し迫る敵は、その絶対的優位を知って自分を嬲っている。例え己の身を捕らえたところで、倒す手段がないと知っているのだ。その愉悦を多分に含んだ憎たらしい表情を見たとき、思わず言峰綺礼という男のことを思い出した。

 

―――なるほど、ここまで奴の筋書き通りか……!

 

おそらく奴は、私が鹿やヒュドラという相手に固有結界を使用することを読んでいた。そうしてどうにかしてヒュドラを倒し、鹿を捕縛し、そうして精魂疲れ果てたところで、本命の獣を登場させる。

 

獣を登場させるタイミングが今であるのも、奴の思惑通り出る気がした。そうして、やった、倒した、と安堵したところに、討伐の手段がない獣を送り込み、一転して最高の状況から絶望の底に叩きこむ手腕は、なるほど、人が何をすれば一番嫌がるかを驚くほど正確に読み取る奴だからこその手練れの嫌がらせだで。

 

―――本当に、あの、言峰綺礼という男はどこまでも性格が捻じ曲がっている……!

 

「エミヤ、どうすればいいんだよ! 」

「……! 」

 

近くでサガが叫んでいる。ダリはこちらの様子を観察したまま手が出せずに戸惑い、ただ見に徹している。何とかしようとはしているが、心底手出しができずに悔やんでいるのが、彼の巨体が起こす憤怒の発露の揺れから見てとれた。

 

「弱点は……、恐らく、太陽だ……! そこまで連れて行けば、悶え苦しむはず……! 」

「た、太陽って……ここでかぁ!? 」

 

解決手段を求めての言葉に答えをやると、サガが頓狂な声をあげて天井を見上げた。口をぽかんと開けて間延びした声をあげたのは、策として提案された手段があまりにも非現実的だったからだろう。

 

―――私だってそう思うとも

 

などと考える間にも、獣の口が迫っていた。その勢いは先ほどのものよりも強く素早くなっている。おそらく己の弱点を露わにされたことで怒ったのだろう、怒気にその勢いを増す三つ口を防ぐ盾をどかそうと、龍頭のついた尾っぽまでを動員して敵は一枚盾の向こう側で暴れている。

 

私がそうして盾で敵の行動を阻害する抵抗すら反射の対象とみなされているようで、先程からもう両手ともに掌の感覚は殆ど残っていない。もう後数十秒も持たない。

 

「エミヤ、太陽が弱点なんだな? 」

「―――ああ! ダリ、どうにかできるのか! 」

 

聞くと彼は静かに頷いて、響の方を見た。彼の視線の先にいる、ピエールとともに戦況をお見守っていた彼女の方へと向けられた。私は彼の視線を見て、ここにくる際、直前に使用したアイテムの存在を思い出した。

 

「携帯磁軸か! 」

 

必死の叫びが一帯に木霊し、彼女の小さな体がびくりと震えた。

 

 

「携帯磁軸か! 」

 

深みのある重低音の叫び声が周囲に鳴り響いた。その声に、あまりの非現実的な光景に停止していた思考が再稼働を果たす。

 

―――携帯磁軸……?

 

「響! 」

 

ダリが叫んだ。白紙の思考とは裏腹に、体が勝手に低い声に反応して上下する。

 

「響! 磁軸だ! 携帯磁軸を使ってくれ! 」

「じ、磁軸を? 」

 

いきなりすぎる提案に、思わず聞き返してしまう。

 

―――何を言っているのだ。なんでこの戦闘の非常事態の際に、そんなことをいきなり言い出すのだ。だって、そんな、できるわけがないだろう? 携帯磁軸は。

 

「だ、だめです! 携帯磁軸の設置は安全な場所でないと! 」

 

そう、携帯磁軸は設置場所が厳密に決められている。層の出入り口の、衛兵が見張っている場所。それ以外に設置した場合は、設置した人間と、所属する団体に厳しい罰則が与えられるのだ。

 

「ましてやここは、番人部屋ですよ!? 」

「その番人を倒すための手段がそれしかないから言っている! 」

 

ダリはこちらに近寄ってくると、声を荒げて言った。常に冷静を基本とする彼の顔には珍しく焦燥の色が混じっていて、まさに必死、という体で両肩を強く掴んでくる。痛みを振り払うように彼の手を払いのけると、悲鳴を上げるかのように叫んだ。

 

「じ、磁軸でどうやって倒すんですか!? 」

「わからんがエミヤが言うには太陽の光が弱点らしく、ここでは倒せないというんだ! 」

 

ダリは叫ぶと私のバッグの方へと目線を向けた。あの中には、彼のいう携帯磁軸が入っている。もしも彼が自分で使えたのなら、迷わず使用していただろうと思わせるその視線には、必死以外の余分な感情はなくて、真剣さだけが彼の中を占めていた。けれど。

 

「わ、わからない……、らしく、って……」

 

返ってきたあやふやさを含む答えに躊躇する。携帯磁軸の規定場所以外での使用は、無断での土を掘削するレベルの禁則事項だ。

 

迷宮を故意に破損させたという現状、ただでさえ、危うい立場の私たちが、番人の部屋で、それも戦闘中に使用すれば間違いなく私は追放を免れないし、おそらく所持ギルドの彼らも、それと協力したエミヤも追放を間違いなく同じ処分を受けるだろう。

 

―――そうなれば、私たちは二度とエトリアの土地を踏むことができなくなる

 

いや、あるいはそれ以上の罪が―――つまりは処刑の判決が私たちに下されるかもしれない。死を命ぜられた罪人になるかもという怖気が、全身を貫いた。犯罪者と可能性の未来を恐れて体が震える頼りない全身を支えてくれる止まり木を探して周囲を見渡すと、今まさに敵に食い殺されそうなエミヤの姿が目に映った。

 

いつも傍若無人なくらいに自信満々で、でも実際にそうするだけの強さと頭の良さを兼ね備えて、先程などは破天荒にも、世界というものを変貌させて、そして平然と禁忌を破ってみせた彼は、しかし今、弱々しくけれど必至に抗っていた。

 

そうして迫り来る敵の牙をなんとか避けている彼の姿を見て、私は初めてエミヤが一人で平然となんでもこなせる超越者なんてものでなく、私と同じ人間であることに気付かされた。彼もまた私と変わらぬ人で、今私の力を必要としてくれている人なのだ。場違いで不謹慎ながらも、私は今更ながらに気づいたその事実が嬉しいと感じた。

 

「響! 」

 

私の躊躇を煩わしいと言わんばかりに、ダリが叫ぶ。彼は心底怒っていて願っていた。そんな彼の態度も、私に罪を犯す決意を促すための材料となる。

 

「―――わかりました! 」

 

そして私はエミヤがいう、今後を賭けるにはあまりに不確定すぎる、倒せる「らしい」という言葉を、素直に信じることにした。よくよく考えてみれば、エトリアを追放されるから、死刑になるかもだからなんだというのだ。

 

―――そうだ。どうせエトリアにほとんど未練なんてない

 

父母は死んでしまったし、いつものみんなとヘイ以外の知り合いは赤死病を恐れてだろう、最近まで店に寄ろうともしないかった。いまじゃ私の知り合いは「異邦人」のみんなと、ヘイとエミヤとヘイだけだ。

 

仮に追放されて店を畳むことになっても、他でやっていけるだけの経験と技量も付いている。それに死ぬかもなんて、嫌という程味わった感覚だ。そうだ、追放も死ぬこともまるで怖くない。なにより―――

 

―――シンが生きていたら、彼らを救うために迷わず掟などは無視しただろうから

 

胸を締め付けられる思いに浸るのも一瞬。そうして天秤の針は記憶に浮かんだ彼の意志に導かれ、片側に振り切った。カバンに手を突っ込むと、必要と言われる装置を取り出す。

 

携帯磁軸。迷宮の内外の移動を可能とする、一部の許可が降りている人間にしか利用する事のできない本当に特殊な道具。設置や使い方自体はとても簡単だ。縦横五十センチの四角い箱の蓋を適切な方法に則って解き放ってやれば、収められた機材が自動的にその場に磁軸を生み出してくれる。

 

ただし、樹海磁軸が登録した人間が移動の意志を示した場合にしか起動しないそれと違って、この簡易的な装置は、起動させた際、一定範囲内にいる生物と、その生物が身につけている物を全て巻き込んでの転移を引き起こす。

 

勿論使い方次第ではとても便利利なのだが、仮に悪意を持った人物が悪用した場合、例えば、己らの手に負えない魔物を石碑の前に送り込むという事も可能なそれは、あまりに危険すぎるということで、執政院ラーダの初代院長ヴィズルが使用を厳しく制限されていた。

 

そして今、私たちは、そのヴィズル元院長が危惧した通りの使い方をしようとしている。

 

「それだ! 響、早く! 」

「エミヤがもうもたねぇ! 」

 

ダリに急かされて視線を彼に向けると、エミヤは必死でダリの盾―――の複製品?―――を使ってその攻撃を防いでいる。だが、彼がそうして三つ首の獣の攻撃を抑えていられる時間も、もう限界だ。

 

彼の盾には涎が垂れ落ちた部分から、植物が生えて、半分以上の部分に茎と根が絡まっている。よく見てみれば、それは附子と呼ばれる、猛毒の植物であることまで見て取れた。

 

道具屋の娘である私は、当然その危険性はよく知っている。シンの意志と、エミヤの危機と、植物の危険性は合わさることで、私のぼやっとしていた頭を高速で再起動させる。

 

慌ててバッグを持ち直すと、磁軸を持ったまま、エミヤと敵から少し離れた場所に携帯磁軸の蓋を取り外し、多少弄って地面に設置した。途端、内部の仕掛けが飛び出して、瞬時にその性能を発揮しようと作動する。

 

「十秒ほどで転移します! 必要な持ち物は身につけておいてください!」

 

装置がみせたいつもの所作に、お決まりの台詞が口から飛び出る。そんな暇などないのがわかっていながらも、身についた習慣というものはふと出てしまうものだな、と呑気に思う。己の言葉に反応して見渡せばダリもサガもピエールも装置に目線を向け、そして必死のエミヤも、多分はその装置に意識を向けているのがわかった。

 

―――あ

 

彼らの動きにつられて周囲を見渡すと、先の振動でこちらの方まできたのか、先程サガの治療の際、放り出してしまった刀「薄緑」が近くに転がっていることに気がついた。幸運に感謝しつつ、慌てて刀の元へと駆けつけ、その軽い刀を拾いあげると、再び転移の範囲内へ戻るために振り返る。

 

すると獣は私と同様に、あるいは私の動きによって周囲を見渡そうという気になったのか、エミヤにのしかかっていたケルベロスは、一つの首で周囲の三人をそれぞれ一瞥して彼らの意識の先を確認すると、意地悪く口角を上にあげて嫌らしい笑みを浮かべ、エミヤを抑え付けていた体をのそりと動かした。嫌な予感。全身に悪寒が走った。

 

―――まずい

 

「―――おい、なんかやべぇぞ……! あいつ、どこを見てやがる」

「あれはこちらではなく―――、いけない、ダリ! 装置を守って! 」

 

―――なんて迂闊をやらかしてしまったんだろう……!

 

そうしてケルベロスは、転移装置に向けて疾走の準備をし、そして駆け出そうと試みる。初速こそ遅いが、その速度だと、数秒もしないうちに装置へとたどり着くだろう。

 

「ダリ! 」

「任せろ! パリング! 」

 

そうしてダリは装置と犬との間に立ちふさがり、スキルを発動させた。どのような物理攻撃も数回は防ぐ光の粒子が彼の盾を覆い、その効力の発揮の時を待つ。私も慌てて装置に近づくべく、呼吸をやめて限界以上の速度を出した。

 

「―――っ。ぐぅ」

「ダリ! 」

 

ダリの呻き声とピエールの叫び声。前傾姿勢からすこしだけ顔を上げて声の方を見ると、ケルベロスの三つ首の攻撃を防御のスキルで防いだ彼は、しかし、その後の奴が動く事を防ぐことができずに押し倒されていた。

 

おそらくは、ケルベロスの反射によって、奴の突進の勢いを押し付けられたのだ。獣が憎々しげに唸り、その際に飛び散った涎が彼の盾にかかり、戦いの中も清廉の雰囲気を保っていた盾に亀裂が生じた。直後、破損。

 

これでもう守りの力を発揮するのは不可能だ。しかし、そんなダリの献身の甲斐あって、三秒ほどは稼げている。見た感じ装置の軌道まであと五秒ほど。それだけの時間があれば、装置は起動するはずだが―――

 

「ダメだ、間に合わねぇ」

 

サガが叫んだ。ケルベロスはすでに押し倒したダリの体の前で装置に飛びかかるべく、力をその黒々とした逞しき四肢に溜めている。そう、その通りだ。このままでは間に合わない。

 

五秒という時間があれば、携帯磁軸が起動する前に奴は間違いなく装置に到達する。起動前に破損の不具合があれば、もちろん転移は起こらない。そうすれば、私たちの負けは確定だ。

 

すると私はもちろん、彼らは死ぬ。そう、まるでシンのように―――

 

「―――! 」

 

気がつくと私は限界を超えた走りのさらに限界を超えて、手にした「薄緑」を振りかぶっていた。その足先は、迷うことなく装置の前に向かっている。すでに最高速に達しているこの体なら、奴が装置と接触する前に、装置とダリの間に体を滑り込ませる事が可能だろう。

 

「―――響!? 」

「いかん、だれか彼女を止めろ! 」

 

ピエールが驚きの声を上げ、ケルベロスの後ろで立ち上がり、そいつの行動を止めるためにだろう、体勢を整えていたエミヤが大きく叫んだ。多分、私の意図に気がついたんだと思う。

 

ケルベロスは奴の背後から発せられたエミヤの声を聞いた瞬間、その三つの口を大きく開けながら、装置に向かって駆け出した。だが、一度ダリにその勢いを止められているため、先程までの速さは奴にない。

 

―――大丈夫だ、間に合う

 

冷静な理性は熱さを保つ感情と協力して、私の体は今までにないくらい最高の状態を保ってくれている。このままいけば、奴の口が装置に触れる前に、この体を装置の前に持っていくことが可能なはずだ。そうすれば、ダリのようにスキルは無くとも、血飛沫と捩じ込んだ体は多少の時間を稼ぐことができるだろう。それで十分、装置は起動してくれるはずだ。

 

反射をする相手に対して迷わず刀を振りかぶれたのは―――、多分、シンだったらこうしたのだろうと思ったからだと思う。

 

今の私と同じように、彼がどのような恐ろしい敵にだって、自分のため、ひいては仲間のために迷わず突っ込んでいくのを私はすぐ近くで見ていたからこそ、同じように剣を振りかぶって、恐ろしい敵との間に身をねじ込ませる覚悟ができたのだ。

 

敵が磁軸と接するまであと二秒。限界以上の速度での全力疾走をしていた私は、奴と装置との間に体をねじ込ませた。飛び込んだ瞬間、右足を先に地面につけて、遅れてついた左足にもその衝撃を分担させてやり、両足で地面をしっかりと踏みしめる。

 

一秒。瞬時に肩口を占めて、左の肩を前に出す。奴が跳躍の姿勢をとった。その身を縮こめて次の瞬間には全力で飛びかかってくるだろう。私は迷わず振り上げた刀をさらに振りかぶった。

 

零秒。奴は飛びかかる寸前、その対象を確認すべく前を向いた。六つの瞳が機材の前にいた私に向けられ、奴は地面スレスレから私を注視する。その睨め付ける視線には、愚か者を見下す視線が含まれていて、少しばかり腹が立った。

 

―――反射の鎧を纏った相手に攻撃をしようとするなんて、愚かな奴

 

そんな、こちらを見下す考えが読み取れた。だが知った事か。時間さえ稼げれば、お前の負けだ。私は迷わず刀を振り下ろしてやろうと、真っ直ぐその漆黒の瞳を見つめて両手に力を込めた。少しでも時間が稼げればいい。

 

反射に体が切れて、そして血飛沫が舞って、それが目くらましにでもなれば、装置が動くまでの一秒くらいは稼げるかもしれない。

 

そんな、私にしては似つかわしくない決死の覚悟を決めて、奴の嘲笑に真正面からの視線を返してやると、私と視線があった瞬間、驚くことに奴はその場で跳躍の動きを一瞬だけ躊躇って、停止してみせた。

 

私の動作の中に奴の苦手とする成分が含まれていたのだろうか、奴の瞳からはこちらに対する嫌悪の感情が見て取れる。何が原因かはわからないが、止まってくれたのだ。文句はない。これで転移装置は間違いなく作動する時間は稼げただろう。

 

だが―――

 

「―――よせっ! 」

 

エミヤがこちらに手を差し出して叫んだ時、私はすでに奴に向けて全力で刀を振り下ろしている最中だった。わずかな時間だけ足止めた代償を踏み倒すにはもう遅い。奴の動きを少しでも止めようと振りかぶった両腕に溜めてあった力はすでに解放されている。

 

この剣の軌跡だと、間違いなく、敵の首元に剣はその刀身を吸い込まれるだろう。そして首元への攻撃がそのまま反射されるとすれば、それはおそらく―――

 

―――あぁ、死んじゃうのか、私

 

直前に起こった意外な出来事は決死の覚悟など霧散させていて、私はいつもの思考を取り戻していた。研鑽を重ねて鋭くなった己の振り下ろした一撃は、皮肉な事に間違いなく私の首くらいなら軽くすっ飛ばす威力を秘めているのがわかった。

 

―――最後の死に方がこれとは、なんともしまらないなぁ

 

馬鹿げた死に様だと思ったけれど、不思議なことにまるで恐怖はなかった。最初に旧迷宮の四層に潜った時は、凄く死ぬのが怖くて、何度も泣いたけど、何もわからなかったあの時とは違って、今、私は私の意思で、こうして自分で決めて死に向かっている。

 

だからだろうか、私は、自らの手で自らの人生に幕を下ろそうとしているのに、まるで恐怖というものが心に湧いてこなかった。これは私が強くなった証なのだろうか。それともあるいは、シンのように、仲間を守って死んでゆけるという思いが心中の不安を麻痺させたからなのだろうか。

 

―――ああ、あの人も、こんな気持ちだったのかな

 

そんなことを考えながら刀を振り下ろす。さなか、後ろにあった転移装置は直ちに作動してみせて、私たちは敵ごと光の中に包み込まれていった。

 

 

夜を間近に控えた黄昏時。一面を雲の絨毯が覆い尽くし、一条の光すら帳より落ちてこない空の下、エトリアより一時間ほど歩いた郊外にあるこの染め上がれた紅の森林地帯は、以前ほどではないにしろ、確かな賑わいを見せていた。通常なら多くとも十人から十五人程度の冒険者しかいないその場所には、今、百に近い数の冒険者が押し寄せている。

 

冒険者たちの多くは手練れの雰囲気を漂わせていたが、同時に、迷宮の深部へと探索の足を延ばし一線級として活躍する彼らとはまた別の、ギラギラとした屍肉を貪る獣のような空気を纏っているものも多かった。

 

そうして死地に赴く覚悟よりも、好奇心や射幸心、義務感の様なものを優先して心の裡に抱え込んだ彼らの正体は、番人討伐という面倒を避けて、誰よりも先に深部階層を探索してやろうと企んでいる、所謂、屍肉を漁るような連中だ。

 

最近に至るまで一層すら攻略されることなく謎とされていた迷宮も、三層までが完全攻略され、四層も現在のところ、残すは番人がいるだろう状態になっている。そして現在、件の番人の層もアタックをかけられている最中だ。

 

攻略を試みているのは、新迷宮の番人どもを悉く駆逐してきた二つのギルドの同盟軍だ。ならば、この度も当然番人を討伐して帰ってくるに違いないと信じた輩が、今、新迷宮の周りには多くうろついているというわけだ。

 

彼らが番人討伐を終えて帰ってきた途端、彼らに先んじて五層へと足を踏み入れてやろうと企んでいる。そうして一足早く彼らが帰ってきた瞬間、あるいは、糸を使って戻ってきたよとの連絡が入った瞬間、我先に入ってやろうと考えているのだ。

 

「―――ん?」

 

卑の属性を帯びた緊張感が辺りに満ちる中、異変に気がついたのは、珍しくも正しく己の実力を発揮するため迷宮に挑まんとしているギルドの冒険者だった。彼は四層への冒険を控え、後数分もすれば石碑を使用して迷宮にゆくという状況だったが故に、石碑が淡い光を発していることに気がついたのだ。それは誰かが戻ってくる合図だった。

 

彼がそれに気がついたことを皮切りに、周囲にいた人間もその変化に気づき、少し遅れて兵士たちが一定の区画への出入りを制限する。転移し戻ってくる人間との接触を防ぐためだ。

 

やがて淡い光は通常よりも濃い光を発して、周囲に白光りをばら撒く。この通常よりも明るい光は、樹海磁軸ではなく、携帯磁軸が利用された証だ。加えて、今現在、新迷宮において携帯磁軸の登録許可が下りているグループは数少なく、現在アタックをかけているのは、たった二組のみ。すなわちギルド「正義の味方」と「異邦人」の二つのみである。

 

つまりこの目をつぶさんばかりの眩い光は、番人討伐に出向いていた彼らが戻ってくるという証であり、同時に彼らが番人討伐を終えて戻ってくるという証明に他ならないはずなのだ。その事実を悟った辺りの人間が勇者の帰還を察知して緊張に身を固め、周囲を支配する緊張感が濃くなる。

 

そんな周囲を取り巻く欲望の霧を払うようにして、光の密度も、うんと濃さを増してゆく。

 

やがてそうして石碑の光が収まる直前、隔離された空間の中に現れたのは、まず地獄の奥より響いてくるような獣の唸り声と、必死の怒号だった。遅れて地面を叩くと金属の砕け擦れる音が聞こえ、光の幕が上がった先に、信じがたい光景が彼らの目に飛び込んだ。

 

それは人を三人ほども束ねた胴回りを持つ巨大な三つ首の獣だった。周囲にある生きる者全てが呪われてあれと憎々しげなに声を上げるその魔獣は、全身の機能の全てを一心に利用して、小さな少女を食い殺さんと飛びかかっていた。

 

対立する少女は、今まさにその獣めがけて剣を振り下ろそうとしている。区画の中、周囲に散らばる他の四人の面子は、それぞれに驚愕と絶望の表情を浮かべて彼女の行動を止めようとする挙動を見せている。

 

しかし、そんな彼らの制止も虚しく、決意を秘めた薄緑の波紋美しい刀は見事な所作で振り下ろされ、そして、遠心力の乗った切っ先が体当たりをしかける獣の鼻先を見事に捉えた。

 

そうして獣の体を纏う漆黒と刀の緑光が接触を果たした次の瞬間、見事に刃先は獣の鼻先に切り傷をつけたが、直後、体当たりを仕掛けてくる獣の勢いと少女の振り下ろした刀自身に込められた少女の膂力と伴われた遠心力の勢いに負けて、甲高い音をたてて鍔元からポキリと折れてしまう。

 

やがて勢いのままに獣と少女は激突。少女は左の肩当を用いて咄嗟の防御体制をとったが、体の薄い少女は巨体の突進に耐えられず、数秒ほども地面と水平に吹き飛ばされると、樹木の幹へと叩きつけられる。激突の際骨が折れ血肉に刺さる音が不気味なほど周囲に響き渡った。

 

やがて獣が唸り声をあげた途端、襲いかかってきた現実が一帯を通り抜けて、隔離された空間以外の止まっていた時間を動かした。空の雲間から時計の針の如き鋭き光がその空間を照らして、眩さに遅れて怒号が舞う。

 

「―――ま、魔物だ! 」

「逃げろ! 」

 

押すも引くもできない大混乱。我先にその悍ましい姿の敵から遠ざかろうと、有象無象の衆が離散する。騒ぎが拡大する中、その中心部にいる獣と対峙する彼らの動きに異変が起こっていた。

 

冒険者の一人を軽々と吹き飛ばし優位を確保したはずの獣が、身悶えだしたのだ。獣は全周囲にあるその全てが己の苦痛を齎すのだといわんばかりに身を捩り、捻り、悶え、苦しむ。吹き飛ばされた少女は、伏した状態でなんとか上半身だけを起こして見せると、獣の苦悶を見た瞬間、少女に似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべて、血を吐きながらも言ってのけた。

 

「ざまあみろ……!」

 

気がつくと、空の雲は何処かへと姿を隠していて、切れ間から太陽の光が周囲を黄昏色に染め上げている。やがてその光が再び雲間に消える前に、硬直していた彼らの時は完全に再起動を果たしていた。

 

 

白い光の輝きが私たちを包み込んだかと思った次の瞬間、飛び込んできたのは世界樹の深層に満ちている霞がかった偽りの光が散乱する光景ではなく、同じ様に赤の着色が広がる中、しかし雲の繚乱する黄昏の天と、赤光が裾野の遠くまでを支配する光景だ。

 

そうして出現した澄んだ空気と絢爛な陽光により、私は転移の成功を確信する。と同時に、飛び込んできた五感の変化は戦闘の現状をすぐさま把握させて、私は慌てて迫る激突の場面へと目を向ける。

 

そうして視覚が二者を捉えるのと、彼らの接触は同時だった。彼女の振り下ろした刀は彼女の予定外に獣の鼻先に切り傷を生じさせ、次の瞬間、そうして獣に傷跡を刻みこんだ彼女はケルベロスの体当たりを受けて吹き飛んだ。

 

「響! 」

 

―――よくやってくれた……!

 

声では心配の言葉を叫びながら、しかしそうして彼女がやられながらも反撃の一撃を加えた光景を眺め、私は己の思惑の正しさと、我らの勝利を確信した。太陽の元に引きずり出された冥府の番犬は、見事にその反射の力を失っていたのだ。

 

かくて領分を超えた事で冥界の加護を失った魔獣は、薄緑色の刃を見に受けた瞬間、己の身に起こった不幸を察した様で、一瞬の戸惑いを見せたのち、太陽神の怒りを一身に受けて苦痛を全身で味わう事となる。

 

ギリシャ神話において残酷と称される太陽神の恵みたる陽光は、なるほど奴にとっては伝承通りの残酷さを存分に発揮して、魔獣は金の一矢の元に即死させてもらう事も出来ずに、その身を触れて哀れにも飛び回り、身を悶えさせて苦しみを周囲に訴えていた。

 

地獄の番犬はそうして身体中を反する属性の光に焼かれながらも、しかし死ぬ事が出来ずに苦しんでいる。おそらくは魔獣らしく超回復能力か不死性でも備えているのだろう、奴の体は焼かれ燻り皮膚が剥ける端から、次々と新たな皮膚が生まれえては、黒く焦げたそれが垢の如く落ちて、周囲に黒塵をばら撒いていた。

 

今まで我らを苦しめてきた敵にかける情けなどないのが当然と思いながらも、そうして灼熱の痛みに苦しむケルベロスを哀れにも思い、思わず眉をひそめた。同時に遠くから小さな声がソプラノボイスが耳朶を打つ。

 

「ざまあみろ……! 」

 

そのあどけない声色とは裏腹に、心底、奴のその様はひどいものではなく、当たりまえの報いを受けているのだという残酷な感情を多分に含む台詞を聞いて、私は即座にあの獣を仕留めて介錯してやろうという気分になった。それは苦痛に悶える獣への情けではなく、あの年若い少女に憎悪の仮面は似合わないと判断しての行動だった。

 

「―――投影開始/トレース・オン」

 

そうして私が不死の特性を持つ獣を処刑する道具として自然と投影したのは、ハルペーという鎌の宝具だった。ギルガメッシュの宝物庫に収められていたそれは、ケルベロスと起源を同じくして、ギリシャ神話においてペルセウスメデューサという女怪を葬り去る際に使用した、「屈折延命」の効力を持つ神剣……の贋作だ。

 

かつてケルベロスと近しい親族を屠るならこれ以上ない剣を投影した私は、しかし、そうやって神造兵装を大した反動もなしに容易く投影してみせた己の所業に驚き、自ら投影した品を見つめ直した。

 

―――これほどの格を持つ剣をこうもあっけなく投影できるとは、どういう理屈だ

 

長柄の先にくの字に折れ曲がった刃がついた、鎌とも剣とも区別のつけにくいそれは、刃先から内側に入ったものの命を枯れ草のように摘まみ取る冷淡な光を携えて、妖艶に光を放っている。

 

そうして内側から醸し出された気品と風格は、名を高らかに叫び使用してやれば、伝承の通りの効果を発揮するだろう気配を伴っていて、此度の投影が姿形ばかりを真似た張りぼてのそれではない事を告げている。

 

真作、というには内包する神秘と輝きがちと足りないが、かといって贋作と断ずるには、神剣が持つ奇跡の成分は真に迫り過ぎている。神々と呼ばれるような超越者達のみが生み出せる輝きは、通常、己の使用する投影魔術ではなし得ないものだった。

 

私の使用する投影魔術とは、あくまで真作の代替たる贋作を作り出す魔術。その魔術は、矛盾を嫌う世界の特性上、真作と同一のものを作り上げるのは不可能とされている。

 

それは通常の世に生み出されてから数分で霞の如く投溶けて消える投影魔術とは違い、魔力の続く限り永久に残る事という特性を持つ、投影魔術の中でも異端、異常、異様と称される私のそれも例外ではない。

 

材質構成から内包する歴史に至るまでがまるで同一のものが同じ時間軸において同時に存在するという矛盾を世界は許さない。そのため、投影魔術において架空のそれを現実に持ち込むためには、世界からの修正を避けるため、真作と異なる証明のために必ず劣化か改良かの道を選ばねばならぬのが、常である。

 

そうして、世に数多存在する単なる一振りの剣でしかないものにすら、そうやって細かすぎるほどの気を配らなくては存在を許容しない狭量の持ち主たる世界が、ましてやその己自身たる世界のあり方すらを変革しうる神造兵装の投影などを認めるはずはない。

 

それに何より、このような人の手以外にて作り上げられた、それ自体が一個の神格を保有するような宝具、私は自滅覚悟でもなければ投影が出来ないはずである。しかし今、その伝説上に置いて不死殺しを体現する神具は、確かにこの手の中で鋭利に、己の存在は現実のものであると、声高らかに主張していた。

 

―――いったいどうして……

 

己の魔術によって生み出しされた神造兵装を前に、私はしばし呆然とする。やがてそうして彼方にいた意識をこちらの側に引き戻したのは、男達の叫び声だった。

 

「エミヤ! 何をしている! 早くトドメを! 」

「エミヤ! 」

 

ダリとサガの声が響き渡る。重低音と中音の二つに正気を取り戻した私は、慌てずその矢を投影した弓に番え、曲がった刃の峰を悶える敵に向けた。その刃先は常とは異なる使用方法を拒否するかのように、地面を捉えて離さない。

 

その、出来る事なら同郷の出身者を害したくはないとでもいうようなささやかな抵抗を踏みにじって、私は弦を思い切り引き、極限の状態にまで到達させる。引き絞られた細い糸は、カーボン製の西洋弓の剛性の弾性限界を試すかのように、キリキリと横溢して解放の時を待っていた。

 

やがて狙いを暴れまわる獣の心の臓あたりに定めて細かく位置を調整していると、雲間より山の端に身を隠しつつあった太陽の残光が、ケルベロスの姿を一層明るく照らした。残照は勢いを止め、燐光に変わりつつある。この日が途切れる前にこの一矢で奴を仕留めねば、この場にいる全ての人間が餌食となってしまう。

 

外せない理由が明確化したことにより、覚悟は完全に決まった。彼と我。赤に染まった世界はその二つだけの成分となり、時の流れすらも排して狙いを定める手が止まる。あとは弦と剣の関係を断ち切り、名を叫べば、動作は完了する。

 

「不死身殺しの鎌/ハルペー! 」

 

息を吸い、必殺の意思を込めて言葉と共に放たれた神造兵装の魔弾は、赤紫を纏う銀矢となりて真っ直ぐに進み、悶える獣の胴体を直撃した。下向きに放たれた刃は獣の体を貫通すると、その鏃たる鎌の峰が地面に突き刺さるのを抵抗して、鎌の柄は獣の体を通り抜けきらず、その場に縫い止めるに終わる。

 

しかし、そうして抵抗を受けながらも奴の体を通り抜けた刃は、たしかに臓器の最大重要部分、すなわち心の臓府をごと貫いていて、全身に血液を送る機能を潰された獣は、その代わりと言わんばかりに、溢れんばかりの血潮を貫通部分より地面へと垂れ落として、ハルペーによって宙に固定されているケルベロスの体の下に血の海を生成する。

 

直後、そうして毒々しい色を撒き散らす赤潮から、烏帽子が天を目指して生えてきた。陽の光と血潮を浴びて赤紫色に映える植物は、神族の一員たる己が高貴さを誇るかのように高貴の色を高らかに主張して、ケルベロスの体を覆い尽くし、奴の死を彩った。

 

やがてすぐさま稜線よりの残照も途切れ、アポロンがアルテミスに出番の時を譲る頃、死闘の跡地には、戦士達の健闘を讃えるかのように、紫色の花畑がそこには生まれていた。

 

天空に輝く月の光を浴びて輝くトリカブトは、藤色の柔らかさに似た穏和さを周囲に散らしていて、その場にいる誰もが息を飲む。地獄の門番がその死と引き換えに出現させた花畑は、しばしの間、戦いに疲れた私たちを慰めるかのように、静かに夜の闇に咲き誇っていた。

 

 

天に広がる星々が辺りを彩りはじめた頃、そんな夜花見の中、命の花散る末期の別れの時を破って無粋にもいち早く動いたのは、私でなく、仲間四人の誰でもない、兵士たちだった。

 

彼は我らと番人の間にある関係などまるで知らぬとばかり、無遠慮に突き進むと、五人それぞれの前に立ち、手に持った鋭い刃先を我々に突きつけて、告げる。

 

「―――、魔物を連れての転移は、重大な規約違反です。例えどのような理由があろうと、見逃す訳には参りません。―――ご同行願います。どうぞ無駄な抵抗は致しませぬよう、よろしくお願いします」

 

兵士たちは丁寧に言うと、夜の闇の中で刃先をこちらに向けて淡々とした態度で、我らの反応を待っていた。私はそんな彼らの規律違反者に対する敵対の態度に、この善性を基本の軸とする世界においてもきちんと法が敷かれ機能しているのだという証明を見つけて、なんとも場違いなことに、頼もしさを感じていた。

 

―――さて、どうなることやら

 

私は両手にはめられた手錠の感触を確かめながら、せめて彼らの無実だけでも証明してやらねばならぬと思い、空を眺めた。天に近い場所に輝く夜空は、雲一つなくなっている。そうして浮かぶ月だけが目立つ夜空の向こうにエトリアの街の灯を見つけて、私はいつぞや彼女と共に駆け抜けた運命の夜を思い出す。

 

私は静かに物思いにふけるとともに、今だ騒動を知らぬ街は月が天の頂に達しないうちにこの度騒がしくなるだろうことを予測して、私は、如何にすれば冒険者の元締めたる彼に無謬性のある説明ができるかと、疲労の溜まった頭を働かせるはめになった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十三話 迫る刻限、訪れる闇夜

 

終了

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜   第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

 

属性、気質、性格が己と大いに違う相手とぶつかり合う。

つまるところ、大なる変化はその果てにしか現れない。

 

 

人一人を失っても、世界はいつもと変わらないで、気の向くままに寒暖の間を行き来する。家を出ると、今日は機嫌が悪いのか、多少の蒸し暑さを取り戻した街を突っ切ってヘイの道具屋を一人で訪れると、いつもと変わらぬ鈴の音が私を迎え入れてくれた。

 

カランカランと鳴り響く清涼さに招かれる様にして中へと足を踏み入れると、すぐさまその軽快とは相容れない重い地響きが上層階より階下にまで響いて、音とともに奥よりこの店の主人が現れた。

 

「やぁ、響。いらっしゃい」

 

そうして奥より現れたヘイは私を見て、いつもの様な朗らかな笑顔を向けてくれる。

 

「どうもこんにちは」

 

彼の言葉にわたしもいつものようにぺこりと頭を下げて応対する。

 

「珍しいな。嬢ちゃん一人でここに来るのは」

「ええ、そうですね。基本的には両親と一緒か、ギルドの仲間と一緒に来ることばかりでしたから」

 

答えると、彼はしまった、と言う顔をして、けれど、以前私がやった、気にしないでくださいという態度を思い出してくれたのか、すぐさまいつものにこやかさを顔に貼り付けると、再びわたしに問いかけてきた。

 

「それで、何の用だい? こちらで預かっていた分の武器防具の修繕ならもう終えたから、あいつらに返したはずだけど」

「ああ、ええ、はい。その、じつは、例の武器を受け取りに……」

 

おずおずと答えると、ヘイは首を傾げながら言う。

 

「んん? 響、お前さん、シンの刀を引き継いだんじゃあなかったのか? 」

 

シン。さらりと述べられたその名前に胸がちくりと痛む。この痛みこそが未だに自分が彼を事を忘れていないでいられる証しだとしても、やはり未だに違和感を覚えてしまう。ままならないものだ。

 

「ええ。たしかにそうなんですが、ここ数日素材を集める合間でエミヤさんに刀を振る様子を見てもらったところ、あの刀身が太く重量もそこそこある剣を私が振り回すには、まだ力も経験も足りないと言われまして。そこでみんなに相談したところ、この前出来た刀を使えばいいんじゃないかと言う事になりまして」

「ははぁ、なるほど」

 

ヘイは軽く何度も頷いて見せると店の奥に引っ込み、そしてすぐさま戻ってくる。彼の太い手には、すらりと直線の袋麻が握られていた。彼はそれを木の机台に置くと、袋の帯紐を解いてその中身を取り出した。

 

「これが、以前お前さんたちが持ち込んだ虫の薄羽を鋳造、加工して作り上げた品だ。羽の量が大した枚数なかったから小刀になったが、たしかに今のお前になら丁度いいだろう」

 

言ってヘイは小刀をとりだすと、鞘から引き抜いて、布地の上に刀身を置いた。反りは無く、直刃。切る、と言うよりも突く事に特化したような作りの六十センチの刀身は、通常の打刀というより、脇差、ナイフに近いように見えるが、しかし、短くなろうと決して刀身から斬るという機能が失われていない事を主張するかのように、棟区から切っ先までを冷たく輝かせ、その怜悧さと機能美を主張していた。

 

「これがご所望の品だ。銘は「薄緑」とした」

 

言うと、彼は昼間なのにランプの光を用意して、刀身の近くに配置する。すると光の一部を受けた刀身は、七色のうち緑の色だけを選定したかのように地金で反射して、刀身の周囲に綺麗な薄緑色を纏って輝いている。ああ、なるほど由来が一目でわかるいい名前だと思う。

 

私はその誘うような刀身の光の眼差しに吸い込まれるように柄へと手を伸ばすと、手にとって感触を確かめる。

 

「……軽い」

「だろう? しかし、その軽さとは裏腹に、驚くほど良く斬れる。……ちょっとまってろ」

 

いうとヘイは近くにある鍛冶場の炉付近から適当な薄い鉄の塊を持ってきて机の上に置くと、こちらを見て顎を軽く振ってその塊に注意を送るように指示を出す。私は彼の言わんとしている事が理解できて、思わず呟いた。

 

「正気ですか? 」

「力を入れなくていい。軽く押すだけのつもりでやってみな」

 

彼の迷いのない指示に戸惑いを覚えながらも、恐る恐る指示通り塊に刃を当てて、押し込む。すると触れた刃は予想とはまるで異なる動きを見せて、けれど彼の想定通りなのだろう、するりと一体化してゆくかのように刀身が残らず鉄塊の内部に吸い込まれたかと思うと、抵抗というものを忘れたかのようにすとんと落ちて、鉄塊と机との接点までを分断した。

 

あまりの予想外に思わず勢いよく刃から手を離すと、刃はそのまま木製の机に上に柄の部分だけを残して吸い込まれた。ヘイはおいおい、店の備品を壊すなよと笑いながら、剣を机より引き抜いた。そうして現れた刀身には刃毀れも曇りもなく、ランプの光を浴びて先程と全く変わらない姿を晒し続けている。

 

「……すごい」

「だろう? まぁ、なんでも、とは言わないだろうが、少なくともウチで扱っている武器のどれよりも軽く、硬く、そして鋭い。……、入門編の代物として扱うにしちゃ上等すぎるが、そんな素人同然の腕前ながら今後もあの新迷宮深層に潜る嬢ちゃんにはうってつけかもな」

 

ヘイはぼやきながらも薄緑の刀身を鞘に収め、こちらへと押し出した。私はそれをおっかなびっくりながらも手に取ると、鞘を握りしめてその感触を確かめる。羽のように軽すぎて。ともすれば重さすら失ってしまいそうなそれは、シンという男が命を賭して手に入れた品を加工した品だ。その見た目の重さに惑わされて込められた真の重量を忘れないように、ぎゅっと握りしめると、腰のベルト部分に差し込んで、固定してやる。

 

普段は何も詰め込んでいない部分に物を突っ込んだ事で、刀と触れた体の部分が当然のように違和感を主張したが、その感触が刀本来の主人である彼の事を忘れないという決意のように思えて、今は有難いと思う。

 

「ありがたく……、頂いていきます」

「ああ」

 

断言して頭を下げると、彼は短く了承の返事をくれる。その迷いのない断言はヘイが私をシンの後継者として認めてくれているように思えて、私は少しばかり落ち込みかけていた気分を上向きにしてくれた。

 

多少向上した気分を胸に宿すと、もう一度深々と頭を下げて、店から立ち去ろうとする。そうして扉に取り付けられた鈴の音が鳴り響く直前、彼は思い出したかのように机を叩いて、なぁ、と声をかけてくる。

 

振り向いて彼の顔を確認すると、熊のような大柄な体型に似合わない、太い眉をひそめて、口を窄め、優柔不断の顔をしながら、しかしはっきりと聞いてきた。

 

「なぁ、お前さんから見て、エミヤの調子はどうだい? 」

「……、いつもと変わらず、冷静で調子を崩さず、しっかりとした感じで―――」

 

そこまで言って、言い淀む。口籠もりに現れた心中の戸惑いは、エミヤの最近を知らぬのだろうヘイにも、彼の現在の様子を雄弁に伝えたようだった。彼は重苦しくため息をついて、ぼやく。

 

「やっぱり、焦っている感じか」

「……、ええ。理由はわかりませんが、新迷宮の奥へ早く到達してやろうという意思が感じられます。多分、今回私にさっさと助言をくれたのも、それが原因だと思います」

 

付け加えるならエミヤは多分、自分が過去の人間であるという事実が原因で、焦りと迷いを抱いているのだろうと私は思っている。ただ、彼に私の考えが正しいのかどうかを聞いて確かめたわけでない以上、そんな私の勝手な妄想をさも事実であるかのように語るのは失礼だと思ったため、私はそれ以上のことをヘイには語らなかった。

 

「この前、ダリと一緒に犬の頭を持ち込んだ時も、だいぶ思いつめた様子だったからな。多分、シンの事が原因になっているんだとはおもうが―――まぁ、あんまり一人で思いつめないように気を使ってやってくれ」

 

シン。そういえばエミヤも彼がいなくなった事を気にかけていたな、と思い出すと同時に、そうしてエミヤの事を気にするくせに、さらりとシンのことを流すヘイの態度が少しばかり気に食わなくて、つい余計な言葉が口をついて出た。

 

「……、そうですね。誰かさんと違って、あの人、繊細そうですから」

 

言って後悔する。こんなつもりはなかったのに、気にくわないと思うと、すぐにイラっとした感情が言葉へと変換されて心から漏れてしまう。シンのことが話題に出てきて、相手が彼の死を気にしていないという態度を取られると、シンのことを好きだったという感情がすぐさま別の負の感情に転じて、文句となってしまう。

 

そんな己の所業を恥じての葛藤と懊悩と羞恥が顔に出ていたのか、ヘイは私の嫌味を何一つ気にしないという体で、巨体を揺らせて気さくに笑うと、低くしっかりした声で続ける。

 

「まぁ、そうだな。それは間違いなくその通りだ。奴はとてつもなく繊細で臆病で自分に厳しく、だからこそ、強く、そして孤高だ。今のあいつには、まるでお前さんとつるむ前のシンと今のダリの不安定な部分をくっつけたような、両極端な危うさがある。―――だから、まぁ、今の嬢ちゃんも大変かもしれないが、気にかけてやってくれ」

 

いって小さな私に向かって大きな頭を下げるヘイの姿はとてつもなく優しさに溢れていた。同時に、彼もまた、何も言わないがきちんと他人の事を見ていて、それでも他の人が触れて欲しくないと思っている部分に触れないだけの思いやりを持った人物なのと思い知る。それだけに疑問が浮かんだ。なぜ、ヘイという男は、始めから自分で彼に言う事を諦めてしまうのか。

 

「それなら、ヘイがそのままの言葉を思いと一緒に伝えたらいいんじゃないですか? 」

「……俺みたいな年寄りが言っても、真剣みの熱がたりんからなぁ。……もう無理なんだよ。歳をとるとな、ただでさえ体の中から抜け落ちていく熱が拍車をかけてあぶくに消えてくんだ。矜持を定めて、ちょっとでも興味のひくものに必死になって、そうやって色んなことに奮いたてるような努力をしてやっとこさ生まれる熱で自分の平生を保つので精一杯なのさ。……新しい事を試して、いろんな楽しい事をして、一日をいい日にして毎日栄養を与えてしがみついていないと、退屈な昨日を生きたという後悔すら明日の朝には消えちまう。案外辛いもんなんだよなぁ、苦労したってぇのに、その時の苦しみがないのって。気がつくと魂が幸せの中に溶け込んじまわないように、自分を保つので手一杯なんだ。だから苦労してるやつに、何て声をかけていいかよくわかんねぇ」

 

だから無理なんだよ、と小さく言って後ろを向いた彼の背中は、哀愁と自己嫌悪が染み付いた、小さな背中に見えた。過去に色んな出来事があったけれど、出来事によって生じた悲しみや苦しみを気がつくと忘却の彼方に失い続けて、結局直近で一番楽しい事から順にしか思い出せなくなってしまったそんな後悔が、背中には張り付いていた。そして、その後悔すらも、明日には忘れてしまうのだと、彼は経験的に知っているのだ。

 

その背中には、見覚えがあった。そう、あれはつい最近。シンが死んだすぐ後のことだった。そうだ。彼のその縮こまった巨大な背中は、まるで私が泣き叫ぶ部屋から出ていく際のダリの様だと思った。

 

―――、そういえば、彼も大丈夫、明日になれば元に戻るから、と言っていた。だとすればおそらく、彼もまた、ヘイと同じく、悲しいとか苦しいとかの記憶を忘れてしまう事を知っており、受け入れてきた人だと言うのだろうか。……だとしたら私は、知らぬとはいえ、どれだけダリに対して、そしてヘイに対して、失礼な態度を取ってしまったのだろうか。

 

「だからすまねぇ。多分、俺じゃ無理だ。俺じゃ無理なんだよ。だから、頼むよ」

 

言うと彼は拳を両の固く握り締めてこうべを垂れて、両の腕とともに机の上にズシリと乗せた。己の限界を悟り、無力である事を知っているからこその独白は、彼の中に今ある鬱屈を全て吐き出しているのだろうにも関わらず、たしかに彼の言う通り、決意の言葉はどこか軽い様に感じられた。それの実感を伴わないと言う軽妙さがまた、彼の苦しみを生んでいるのだと思うと、なんとも悲惨だと感じてしまう。

 

禿頭目立つ程いい歳をした年老いてさまざまな経験を積んできただろう男性が、自分の半分に満たない年齢の女に向かって、自分では無理だ、と言葉を絞り出すのにどれだけの勇気が必要なのだろうか、どれだけの覚悟が必要なのか、わたしにはさっぱりわからない。多分、性差と年齢差いうものの所為もあるのだろうが、きっと永遠にわからないかもしれないというという予感がした。

 

けれど、きっと彼の悩みの本質と痛みを真に理解する日は来ないかもしれないけれど、その己の感情を正しく制御ができずに苦しんでいるという部分だけは、痛いほどに理解ができた。悪口を正面から受け取り、その上でさらに他人への配慮を忘れないヘイのその態度は、自身の都合を優先にして文句を垂れる己の矮小さに気付かせてくれ、私は萎縮した気分ながらも、しかしはっきりと答えた。

 

「―――、はい、やってみます」

 

未だに自分の中の気持ちですら制御できず持て余す私だけど、それでもエミヤという超然たる存在の彼が、冷静に突っ走れる彼が、己の体を省みることなく無茶や我武者羅を押し通さない様に気を使ってみます、という返事に、ヘイが歓喜と悲痛の混じった複雑な顔で頷いてくれたのを見て、私は店の外へと足を踏み出す。

 

湿気が満ちる街中に降りる晴天の光は、肌に纏わりつく生温さを伴って私の体を包み込み、私が一歩を踏み出す邪魔をする。手に入れた剣の斬れ味をもってしても両断出来そうにない全身を舐める不快な感触は、まるで今後私たちの行く道の困難を暗示しているかのように思えて、私はその不穏を払拭するかのように、虚勢の態度で気味の悪い空気を無理やり引きちぎりながら、我が家への帰路を急いだ。

 

 

シンの死亡した日より一週間の時間が経過した。仲間の無残な死に直面した彼らはしかし、彼の死亡した次の日から早々に新迷宮で活動を行うための準備を始め、前回三層に潜った時の装備の修繕と新たな道具の用意を終えて再び石碑の前までやってきた。

 

本来なら彼の死に多大なショックを受けていたサガという青年と、響という少女あたりは、戦意喪失や精神的外傷によりトラウマを抱えてもおかしくないと思っていたが、まるで何事もなかったかのような振る舞いを見せることに、一週間という時の中で死という出来事の処理を終えたことに一抹の寂しさを覚えてしまうのは、やはり旧世界の人間の感傷なのだろうか。

 

―――いかんな、なんと傲慢な考えだ

 

勝手に他人の心中を推し量り判断を下した無礼を心中で詫びながら、私は探索の準備を終えたギルド「異邦人」の四人と合流を果たして正式に合同パーティーを組み、共同で新迷宮の入り口より新迷宮の三層番人階へと転移を行う。

 

石碑を触り場所をイメージすると、すぐさま体の浮かび上がる感触がしたかと思うと、次の瞬間には体を強く押され、赤く染め上げられた迷宮の中へと私の体は移動させられる。後ろを振り向いてみれば樹海磁軸とは異なる色合いで青く屹立する柱は、響という少女が一時的に設置した携帯磁軸という転移装置だ。

 

携帯磁軸とは、樹海磁軸とはまた別の、ツールマスターという職業のみが迷宮に設置することのできるもので、迷宮の任意の場所を転移の先に設定できる優れた道具だ。これのおかげで私たちは余計な往復や戦闘をすることなく迷宮内部を進み、私たちはすぐに番人の部屋の前までたどり着くことが出来るというわけである。

 

但し、この携帯磁軸という道具は、樹海磁軸とは異なり、敵味方の区別なくあらゆる物を運んでしまうため、設置の場所を厳密に定められており、また、設置した際には、その場所を守る専用の衛兵を執政院から借りて配備する必要がある。

 

維持と設置に多くのコストを必要とする携帯磁軸はおいそれと設置することができないものではあるが、迷宮という危険と未知なる魔物の闊歩する場所において、探索開始地点を、決まった階層にしか設置されていない樹海磁軸前ではなく、各階の階段前にする事ができるそれは、余計な探索にて生じるリスクを避ける道具として、ある程度以上の実力を持つギルドは必ずといっていいほど利用されている。

 

そんな便利を利用して、私たちはこの度迷宮の十五階へと転移すると、すぐさま目的地の前までとやってくる。目の前にあるのは、新迷宮の番人の部屋の前に共通して存在する、遠目にもすぐさまわかる白く巨大な壁とそれに備え付けられた二枚の扉とその横に伸びる壁。

 

ゆうに高度百メートルはあろうかという天井までを塞ぐ壁は、圧倒的な威圧感をもってしてここより先が足を踏み入れてはならない禁足地である事を雄弁に告げ、迷宮の奥へと進もうとする人間の意思をぐらつかせる確かな効果を持っているように見受けられた。

 

私は首だけ振り向かせて、後ろに続いている一同の様子を眺める。この先で彼らは仲間を失った。この先にある番人の部屋は、彼らにとって忌まわしき場所であるはずだ。悲しみを溜め込めない世界とはいえ、流石にこの場所を前にすれば多少の動揺くらいは見せるかもしれない。

 

もしそこで一人でも動揺があったのならば、それを理由に私一人で先行するか、もしくはその人間を追い返して平生保つ人間のみで進むか、あるいは揃って引き返す事を提案しようと思っての確認作業だったわけだが、幸か不幸か、その行為は杞憂のうちに終わった。

 

彼らのうち誰一人として心折れている人間がいなかった。そのいつもと変わりない様子に頼もしさを感じると共に、やはり少しばかり、不安を抱く。彼の死からそんなに時間も経過していないのに、仲間の死という出来事に対して何の心理的ダメージを抱いていない彼らは、やはり自分とは違う生き物なのではないか。

 

そこまで考えて、しつこく浮かんだ考えを振り払う。そんな彼らの性質に不安を感じたのは、やはりおそらく私が彼らと違う時を生きた人間である、ということを端に発するのだろう。価値観の違いから、勝手に自己と他者の間に壁を作るなど、我ながらなんとも度し難い狭量さだ。

 

たとえ負の感情を溜め込めないというバックボーンがあろうと、その切り替えの早さと胆力は、一歩踏み外せば死が隣り合わせに存在するこの迷宮という場所を攻略するに当たって長所となり得るものであり、賞賛に値するものだ。そういった個人の感性の違いに基づく気質性質のあれこれは、決して己の尺度だけで善し悪しを判断していいものではない。

 

「開けるぞ」

 

ただそれでも、負の感情を溜め込まない、というのはここまで人間の性質を変えるものなのかと我が感性の内より勝手に湧き出てくる驚きは止められず、心中に湧いた傲慢さと狭量を誤魔化すかのように、私は力強く宣言した。

 

一同が頷くのを見て、私は扉の前まで進み、二枚扉の両方を押して開ける。巨大な二つの扉は一度奥へ壁と水平な向きのまま進み、そして部屋の内側に向かって開かれてゆく。

 

樹木が自由闊達な意思を露わにして乱立する赤い林は、以前訪れた時と同じような静けさで私たちを出迎えた。一歩を踏み出す。踵と靴先が湿った地面に埋もれて、ずむずむと水気を含む音を生む。静寂の空気を戸惑わせぬよう、一歩、もう一歩、と周囲を密に警戒しながら前に進むも、以前とは違い、刺すような殺気が、周囲を取り囲むまとわりつく視線がない。

 

確証はないが、新迷宮三層の番人はやはり、その一層、二層と同じように、倒してしまえば復活しないのだろう。これも聖杯戦争とサーヴァントをモチーフにしているからなのだろうか。

 

ともあれ、あれだけの苦戦を強いられた相手が復活していたのならば、シンという男がいない事を勘定に入れると、最悪、こちらも私の持つ真の切り札/宝具を最初から使用する事も視野に入れなければならないかと思っていたため、まずはその予想が外れてくれたことに一息漏らす。少しばかり気負いが薄れ、心理的重圧が軽くなった。

 

多少軽くなった気分の中、しかし警戒を解かず静々と前に進む。私に遅れて、後ろから四人は一丸となって前進してくる気配。多少気分の軽くなった私と違って、彼らの足音からは緊張の気配が伺えた。疑問はしかし、すぐに納得に変わった。もうすぐ彼の亡くなった場所だ。

 

まっすぐと奥へと進む。あと少し進めば、光が差し込んで視界が一気に開け、番人が座していた石とひらけた空間が見えるだろう。そんなおり、周囲の光景が変わった事に反応して意識を下へと向けてやると、周囲に赤く光る珊瑚や、微かに発光している海藻やキノコが一切生えていない、掘り返したばかりのような真新しさ残る地面が広がっている事に気がつく。

 

多少地形の変わったとはいえ因縁深きその場所を、私はもちろん、彼らも当然忘れてはいなかったのだろう。背後で彼らが足を止める気配を感じ取り、同じように立ち止まって彼らに視線を向けると、ダリが言った。

 

「エミヤ、少しだけ待っていてくれ」

 

背の高い彼が向ける赤銅の瞳には、なんと返事を返されようと、己はここでやるべき事をやるという意思が宿っていた。ダリは装備していた槍盾を地面に突き立てて、リュックを下ろそうとしていた。そうして彼が背負うリュックにはいつもと違うものが入っているのを見かけて、私は無言で頷く。

 

「ありがとう」

 

彼は深々と頭を下げると、体の前に持ってきたリュックの中から小さな白い花を取り出して、その地面に置いた。続けて瓶を取り出すと、栓を抜いて中身をその場所に振りまく。散った透明な液体は空気に触れると、少しばかり無念さを帯びたまま地面に落下して、土と触れた瞬間、液体は微かな光だけを放って赤色の中に吸い込まれてゆく。

 

後で知ったのだが、彼が衛兵として活動していた際、五層で入手した素材を使用して作られたネクタルⅱという名の、瀕死の重傷でもたちどころに快癒するという薬であり、今の時代滅多に手に入らないもであったらしい。

 

噂によれば死人すら蘇らせるとうそぶかれる、今後の冒険において瀕死の重症者が出た時に役立つだろうそれを、彼は一切惜しむことなく効果を発揮しない地面に振りまき、しかしその行為に対して文句を言う者はいなかった。

 

その現象の発露から、おそらくネクタル系列であろうと誰もが悟っていながら、いや、その効力とダリの意図を悟ったからこそ、誰一人として文句を言うものはいなかった。

 

ダリの所作を見た一同は、そのままその場所で瞼を閉じて、黙祷を捧げる。しばしの沈黙が辺りの静寂と一体化して、落ち着きのない色で囲まれた場を清浄なものへと変化させた。

 

「あの時、これがあればな……」

 

一番先に目を開けたダリは、ため息とともに後悔の言葉を吐き出した。つられて皆が垂れていた頭をあげる。戦闘と探索の空気が薄れるのを恐れて、私はわざと空気を読まず、通る声で短く呼びかけた。

 

「―――いこう」

 

一同は各々が抱く未練をそれぞれに断ち切るかの様に頷く。振り返って歩を進めると、皆が荷物を背負い直して私の後に続くのがわかった。静寂な森の中で聞こえて来るのは、私たちの足音と風が葉を揺らす音のみ。やがて番人がいた場所を超え、その先にある階段を下り、私たちは悲劇の起こった場所を通り過ぎて新迷宮の四層と呼ばれる場所へとたどり着いた。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十六階「神に運命を翻弄されし赤子」

 

 

新迷宮の四層は翠緑に溢れた一層、原始の生命力が漲る二層、海中の息吹を感じさせる三層とは一転して、生命の気配を感じさせない構造をしていた。赤い土埃が空気中を舞い、光が散乱を余儀なくされた輝度の落ちた場所において、一際目を引くのは赤の空間を貫いて屹立する樹木だ。

 

地面より長く伸びた樹木はどれだけの年月をかけて成長したのであろうか、見上げれば赤い霧霞に曇った視界の更に先、百メートルはあろうかという天井にまで到達する大きさのそれは、十人が輪になっても囲みきれない幹に、目算十数メートルはあろうかという巨大な赤い琥珀がその幹の所々に精製されている。

 

三層の海底よりさらに地の底、深海の光すら届かぬその場所を無理やり掘り抜いて作り上げたかのように、生命の気配が枯れ果てた地獄のごとき空間において、地より天に向かって身を捩らせながら樹木が屹立し必死に天井を支えている様は、まるでパルテノンの重厚な石天井を支える巨大な石柱のそれにも幻視できて、私に、この冥界のような層に出てくる敵が何の英霊をモチーフにして再構成されたものであるかを、容易に想像させてくれた。

 

―――ヘラクレス

 

花霞というよりは逆しまな玄冬を思わせる、紅錦の礫が粉雪の如く舞い、そうして敷き詰められた薄布の向こう側に、碧羅の大地が荒涼と広がる様は、なるほど、狂いの枷を嵌め込まれながらも裡に秘めた苛烈な激情を厳と制し、確かな意志を以ってして森林の奥の居城に住まう可憐なお姫様を守らんと命を賭した、偉大な巨漢の大英雄を表すに相応しい荘厳さと峻烈さと静寂さを同時に内包していた。

 

「あ、ここは少し違うんですね」

「……、なに? 」

 

ギリシャ神話において最も著名な、かつての聖杯戦争においても強敵として立ち塞がった、あの半神半人の大英雄が再び私の行く手を阻むのかと、早々にして多少の鬱屈と億劫を抱いた瞬間、響が漏らした彼女の方を振り向く。彼女は己の漏らした言葉に対して私がいち早く反応したことに少し驚いた所を見せたが、すぐに冷静さを取り戻して、首を小さく傾げた。

 

「何でしょうか? 」

「ああ、いや、違う、とはどういう事なのだろうかと思ってね」

 

尋ねると彼女は、ああ、と掌を叩き合わせて答える。

 

「あそこのですね。あの、太い木の根の赤い塊あるじゃないですか」

「……琥珀の事か? 」

「はいはい、多分それです。あれ、旧迷宮の方では樹液の塊なんですよ。それなのにこっちじゃなんか固まってるなーて、思って。今までの一から三層は色が赤である以外は全く変わらなかったのに、ここは少し違うんだなって思って」

「―――そうなのか」

「はい、でも」

 

それがどうしたのでしょうか、と彼女いう風には首を傾げた。私はただの興味本位だ、と言って誤魔化すと、再び彼女が指摘した部分を眺めた。……、樹木にはまっているのはどう見ても、赤い琥珀のようだった。

 

私は眼球に強化を施してその物体を眺めるが、やはり表面に流動性はなく、粘性があるようにも見受けられない。枯れ木にも見えるほど生気を失った樹木の幹にはまり込んでいるのは、じっくり眺めたところで、やはり流動性はまるでなく、年月をかけて精製された琥珀のようにしか見えなかった。

 

奴にじくりと侵食された証が残る赤い場所において、まるで時を幾億年も加速した後、ピタリと停止させたかのように動きを止めているその琥珀は、あちらとこちらの迷宮で異なる様相の証明に他ならず、魔のモノというものがなんらかの意図をもってしてこの場所を作り上げたのだろうと思わせる効果を持っていた。

 

―――ともあれ敵の領域に長居は無用か

 

「少し急ごう」

 

宣言の後歩みの速度を早めると、一同が反応して頷き、私の後に続く。私は後ろの彼らがついてこれるよう歩く速度を調整しながら、神殿の内部のごとき枯れた森の中を突き進む。一歩踏み出すごとに無抵抗に道を譲ってくれる空気中の粉礫が醸し出す雰囲気は、罠を仕掛けた猟師の殺気にも似ていて、何とも不穏な気配を六感へと訴えてきた。

 

 

うざい赤煙が舞う中を飛び交って、鋼の翼と爪と嘴を持つ鳥が飛来する。目にも見えない速さで飛んでくる鳥の嘴はとんでもない威力を持っている上に、躱そうが防ごうがねちっこく攻撃を繰り返し、また、よくわからない音がなったかと思うと、いきなり地面に斬撃の跡が残るような攻撃を飛ばしてくる。敵の攻撃手段は突撃か見えない斬撃かのたったの二つ。でもこの二つの攻撃がとてつもなく厄介だ。

 

突進はスキルを使ったダリの盾でないと防げない程の威力を持っている。ダリが盾で器用に敵の攻撃を逸らして突撃の方向を地面に逸らしてやった時、これで身動きが止まるだろうと思ったんだけど、地面に奴の嘴が吸い込まれたかと思った直後、地面にすくっと穴が空いて、すぐに少し先の地面から奴は平然と出てきた。まぁ、便利。こりゃ、一匹いれば工事や掘削する時に困らないね、ってか?

 

―――勘弁してくれ。

 

「―――おわっ」

 

愚痴っている間にも一撃が繰り出される。我ながら俊敏な反応と同時に、金属音と地面が擦れる音。ピエールのスキルで回避能力を上げてもらっていなければ、ダリの盾が俺を庇ってしてくれていなければ、俺はこの場で風通しの良い体となって死んでいただろう。

 

そうやってなんとかそいつの攻撃を死ぬ気で躱しても、防いでもらっても、鳥はすぐさま宙で体勢を立て直して、同じように突っ込んでくるのだ。少しくらい休ませろよ、疲れたそぶりを見せろよ。

 

―――ほんと、やな性格の奴だ。

 

もう一個のよくわからない攻撃はそうして攻撃を躱している際、気がつくと食らっている。切り傷っぽいし、多分すれ違う際、爪とか羽とかの鋭いもので攻撃されてるんだろう。こっちはダリでなくとも俺やピエール、響が装備しているような軽鎧の防具でも防ぐことはできるんだけど、なにせ攻撃が見えないもんだから、本当に対処がしにくい。

 

奴らの突撃をギリギリで躱すと生身の部分に傷が増えてるんだから、たまったもんじゃない。多少の怪我は自己治癒と響の回復薬でなんとかできるけど、今後シンの時みたいに万が一が起こるかもって考えると、大盤振る舞いは避けておきたい。

 

―――お前がいたら、こんなことにはならなかったかもなぁ

 

もしそのシンが生きていたなら、やつとすれ違いざまに首を切りつけるくらいの事はやってのけたかもしれない。などと考えると、少し胸が痛んだ。なんというか、喉元まで出かかっているのに言葉が出ない、くしゃみが出てくれない感じの悪さというか、そんな感じだ。

 

あいつがいなくなった、ということに対するどうこうじゃなくて、あって当然だったものがいつのまにかない物悲しさというか、いや、いなくなったから当然なんだが……。

 

―――ああもうわからん。

 

適当を信条とする俺がこんな感傷を抱くなんて、昔ならともかく、今の俺らしくもない。

 

「おいおい、まじか」

 

なんてそんな悠長な事を考えている間に、飛び回る五体の敵が一斉にこっちを向いたのがわかる。やめろよ、お前らに好かれても全く嬉しくないんですけど。ただでさえ太れないちっこい体なのに、物理的な減量を強いるなんて、お前らマジ鬼畜だな。

 

などと悪態つく間にも敵は行動を開始していて、すでに宙を羽ばたいて勢いをつけている最中だ。あれを防ぐにゃ、ダリのパリングかフォーススキル「完全防御」じゃないと無理だな。

 

でも、ダリのパリングは物理攻撃に万能だけど肝心のダリがあんなに早い奴らの連撃に対応できる程反射神経良くないし、素早くもない。完全防御なら耐えられるだろうけど、フォーススキルを使えるほどまだ力が溜まってないはずだ。

 

―――……あれ、詰んでね?

 

一縷の希望を託すかのように周囲を見渡すと、事態を把握してダリが駆け寄ってくるのが見えたが、その顔にはどうしょうもない不吉の未来を予想して絶望していることがわかる。ああ、お前もおんなじ結論に達したんだな。いや、しょうがないよ。だって、無理だもん。

 

敵の強さがあまりに尋常じゃない。空を飛び回る発生するような旧迷宮の四層までの敵ならFOEだろうが番人だろうが、ワイバーンという一体の化け物を除いて簡単に倒せる俺たちですら、あんな速さと硬さとしつこさを持った敵とは戦った事がない。

 

さて、どうすると思ったが、よく考えれば今まで俊敏に飛び回っている時はその攻撃を避けるに必死で、術式を当てるどころか発動を試みるのすら無理だったけど、敵の全部がこっちにまっすぐ突っ込んできてくれている今なら、発動するどころか当てるのも簡単じゃん、と思いなおし、咄嗟に籠手を展開する。

 

もはや千回以上は行っただろう慣れた作業は、敵が動きを見せる寸前のたった一瞬でその挙動を終えてくれて、素早い奴よりもさらに上の速度で術式を発動する事ができていた。さて、こういう硬い外殻を持つ奴には雷が効くと俺の経験では相場が決まっている。少なくとも旧迷宮ではそうだった。

 

籠手の先に雷球が生まれ、放電の光が周囲に走る。放電した雷が空気中の塵芥と反応して、火花を生んだ。とりあえず雷なら金属に向かって吸い込まれるだろうし、飛び込んでくるやつに向けて撃つのであれば、外れるということもないだろう。これを食らって一匹でも死ぬか、あるいは食らった奴が多少なりとも体勢を崩してくれれば、儲けものだ。あとはダリがなんとかしてくれるだろうと期待しておこう。

 

「大雷嵐の術式! 」

 

籠手は俺の意思を読み取って生み出した雷を周囲に拡散させ、あたりは光の網目が張り巡らされる。ちなみにこの攻撃は、俺たちの武器や体を外れて飛んでくれるようにしてあるので、味方には安心安全の雷撃網だ。敵味方を選別する為、俺たちの周囲に一瞬だけ待機してみせた雷は、すぐさま敵を見つけてそちらの方へと腕を伸ばす。

 

バリバリと音を立てながら伸ばされる手は五本。敵は目の前に現れた雷に驚いたのか、少しだけ躊躇して見せたけど、そのまま突っ込んでいく。

 

―――お、これなら一匹と言わず、全部始末できるかも。

 

「……はぁ? 」

 

なんて甘い考えは、早々に打ち破られた。敵はなんと、雷を嘴で弾きながら突っ込んでくるではないか。いや、効かないのかよ。じゃあなんでお前は驚いてみせたんだよ。インチキ過ぎんだろ、この嘘つきめ。なんて愚痴っている間にも敵は迫っている。

 

―――ああ、こりゃ死んだな

 

遺言でも捻り出すかと我ながら録でもないことを考えていると、横からなんかが飛んできて、敵の体を貫いて方向を別に向けてくれた。進行方向を強制、かつ、急激に曲げられた敵たちは飛来物の強制に逆らうことができずに、枯レ森の彼方に吹っ飛んでいく。

 

その中の、一体だけが手近にあった樹木の幹にぶつかって動きを止めた。悲鳴と共に、樹木に鳥が縫い付けられる。そうして俺は、ようやく飛来した物体の正体を知ることができた。それは矢だった。多くの返しがついた矢が敵の体内に食い込んでいる。

 

助かった、なんてと考えることもできずに呆然と敵の体を眺めていると、弓矢の刺さった場所から煙が上がったかと思うと、その肉体がドロドロと煙を立てながらとろけてゆく。あ、これ見覚えがある。三層で響が無茶やった時にすごい仰天した、蛇から抽出した毒の効能だ。

 

どうやらこの雷すら弾く外殻がクソ硬くすばしっこい敵は、反面、体内が繊細な作りの様で、内部に毒を打ち込まれると即死する、三層の犬と同じ体の作りをしていたらしい。まぁ、特化したタイプの敵の宿命だな。それにしてもこの飛び回る敵のクソ硬い外殻を見事に当てて、その上貫くなんて一撃を放つ芸当ができるのは―――

 

「間に合ったか」

 

―――このパーティー内では一人しかいないか

 

言って登場したのは、弓を持ったエミヤだ。エミヤの後ろ腰、バッグと反対の方には、矢筒に数十本の矢が入っている。しかし直前までは無手だったと思ったけど、あの弓と矢は一体どこから出したのだろうとか、もしかしてあの毒塗った矢を飛ばしたのかよ、よく弓も矢も溶けなかったな、毒液飛び散らない? とか、色々な疑問が湧いたけど、まずは。

 

「助かったー! ありがと! 」

 

飛び上がってわざとらしいくらいの笑顔で礼を言う。すると、エミヤは警戒を解かないまま静かに頷いた。返答には驚くほど感情が伴っていなくて、まだ敵が死んだのを確認できていないから警戒を解く訳にはゆかないという決意が見て取れた。うーん、ダリ以上に真面目なやっちゃ。

 

「それにしても、よくもまぁ、こんなん思いついたし、やってのけたな。普通考えないし、できないぜ? あんな馬鹿速いのが攻撃する瞬間、毒矢を当てて仕留めようなんてさ」

 

ふとそんな事を言うと、エミヤは少しばかりバツが悪そうな顔をして、まぁな、と答えた。はて、褒めたつもりだったが、何かまずいことでも言ったのだろうか。うーん、わからない。この手のダリと同じタイプの人間は成果を褒められると喜ぶものだと思ったが、違ったかー、残念。

 

「ダリとピエールもあんがとなー、助かったよ」

 

続けて二人に礼を言うと、息を切らしたダリはそれでも盾を掲げて。相変わらず落ち着いた様子のピエールは竪琴を鳴らして、素直に礼を受け取った合図を返してくる。渋々と呆れの成分を含んでいるが、うん、これが普通の反応だよなぁ。

 

―――……ま、いいか

 

「エミヤ。戦いは終わったと思っていいのか? 」

「多分な。目の前の鳥があの様なザマになったのだ。おそらくは毒矢を突き刺した他の四匹も同様の結果になっただろう。皆中の上、確実に奴らの胴体を貫いてやったからな」

 

答える顔にはやはり感情がなくて、残心というものが解かれていない。戦闘終了と言いながらも、警戒を解いていないのが丸わかりだ。少しばかり過剰すぎる気もするが、まぁ、今こいつはこの合同パーティー唯一の物理アタッカーだし、色々と気負って、気を張ってしまっているのだろう。ダリと同じで糞真面目なタイプっぽいし、きっとそうだ。ならこっちとしては出来るだけ、いつも通りに振舞って、慣れてくれるのを待つしかないよな。

 

「あいよー、……というわけで響、あれ、剥ぎ取りよろしく」

 

俺はダリとピエールの間に響を見つけると、両手で指差した先にある樹木の下には、エミヤが撃って毒殺した敵の残骸が転がっているそれを指差した。肉の部分は大半が残らず溶けてなくなってしまっているので、無事に残っているのは鋼っぽい素材だった、翼と爪と嘴のみだ。

 

「あ、はい、わかりました」

 

響はその指示を聞いて素直にそちらへと向かった。うん、自分で言っといてなんだけど、胆力あるなぁ。俺なら少なくともあんな、ぐちょぐちょで、べちょべちょで、うにょんうにょんの赤い塊、とてもじゃないけど触る気にならないよ。グロいし、なにより毒かかってるし。

 

「彼女だけに任せて大丈夫なのかね? 」

 

エミヤが尋ねてくる。その顔には、少女一人に解体の重労働を任せるのは如何なものかという非難の声が浮かんでいた。

 

―――ああ、そういえば、こいつが加入してから初めての剥ぎ取りだったっけか。

 

「むしろ、響だけのがいいんだよ。あれは響が一番の活躍ができる場面だからさ」

「……、なるほど、彼女は道具の扱いと素材の取り扱いを専門とする職業だったな」

 

返すとエミヤは脳内の記録から、響の職業の特徴を引き出したらしく、何度も頷いて納得の反応を返してきた。戦闘が終わった直度にサッと切り替えて思い出せるあたり、さすがは手練れの人間だと思う。俺はいらぬ世話かなと思いながらも、一応の補足を付け加える。

 

「ツールマスター。迷宮に行く機会も多いから、一応戦えない事もないように戦闘や探索のスキルも習得出来るようになっているけど、本当はああいった冒険者の持ち帰った素材の解体とか、道具の力を引き出していいもの作ったりするのが専門なんだよなー、あの子」

「ほう、その様な職業の女性が、なぜまた、冒険者に? 」

「その辺は事情があるんだよ。俺からは言えねぇ。知りたきゃあの子に直接聞いてくれ」

 

ひらひらと手を振って話を打ち切ろうとすると、エミヤは真面目な顔で頷いた。

 

「なんだよ」

「いや、軽薄な言動だが、中々に他人の事を考えているのだな、と思ってね」

「……あれあれ、もしかして、馬鹿にされてる? 」

「まさか。私の見る目が曇っていた故、反省せねばならんなという自省さ」

 

その自嘲は、エミヤが今まで俺のことを軽薄で考えなしに見ていたと告げる言葉だったけど、別にそんなに腹は立たなかった。昔から、失敗した時の雰囲気に耐えられず茶化すことで場を和ませてきた俺にとって、自覚のある悪癖の点だったからだ。

 

「まぁ、いいや。じゃ、とりあえず響の回収が終わるまで、情報整理しとこうぜ」

 

そういって俺が筆と墨、紙を取り出すと、エミヤも続けて腰のバッグから同じものを取り出す。俺たちは揃ってダリとピエールに近づくと、先ほど戦った敵の特徴などを話し合う。

 

会談する中でエミヤという男は、今さっき相対した敵の特徴のほとんど全てを正確に言い当てた。一番驚いたのは、やはり毒が鳥に有効と一目で見抜いて実行した点だ。一体どのようにして敵の弱点を見抜いたのだろうか。うーん、エミヤは相変わらず謎が多い。

 

もしかしたらクーマのいう、過去の人間というのも本当で、その知識に基づくものなのかもなぁ。もう少し、ばかり時間にゆとりがあったら色々と突っ込んだ所を質問して仲良くなれるかもだけど、ああまで切羽詰まった様子のあいつには聞きにくいし、まぁ、そのうち話してくれるのを待っていればいいか。

 

 

「エミヤ、ところで、君、その武器はどうやって取り出したんだ?」

 

今更といえば今更すぎる質問をすると、彼は弓を持った手を下ろし、反対側の手で少し躊躇いがちに口元を覆い考え込む。そうして少しの間逡巡して見せると、言った。

 

「どうやって、というのは説明しづらいな……、そうだな、質問を返す形で悪いが、君たちは、君たちがスキルと呼ぶ力が、どういった一連の流れでその現象を引き起こすのかを知っているか? 」

 

私は返答に困った。スキルはなんとなくで使える便利なもの、と言う感覚で使用していたので、どういった仕組みであるかなど考えたこともなかった。助けを求めるかのように眉をひそめて周囲を見渡すと、唯一サガだけがニヤニヤとした表情でこちらを見ているのがわかった。

 

あれはおそらく、いつもなら嬉々として知識を披露する私がすぐに返答をしない事から、私が知らぬ事を見抜いて、尋ねてくるのを待っているのだ。普段色々と気を使っている反動か、奴は所々の部分でこうした意趣返しを行うことがある。私は知らぬは恥でないと言い聞かせながら、おそらくはサガの思惑通り、奴に尋ねる。

 

「……、サガ、わかるか? 」

「おおとも。万物の神秘を解き明かし、あらゆる力の流れを自在に操るのがアルケミストの役目でありますれば、当然わかりますとも。……ダリ、スキルの始動から発動までの一連の流れはよく店の酒の注文に例えて説明される。俺らが酒、すなわちスキルを発動したいと考えると、その注文内容は瞬間的にその女将へと伝わって、受付から内容に応じた酒の種類と量が俺たちの元へと寄越される。この時、俺たちがどのくらいの酒量を頼めるかは、財布の中身、つまりは精神力によって決定されるし、どんな種類を頼めるかは個人のアルコール耐性、つまりは職業によって左右されるし、どのくらい度数の酒を頼めるか、つまりはスキルレベルは、院への貢献度によって上下幅があるってわけだ―――こんな感じだろ? エミヤ」

 

サガはニヤリとして彼に尋ねる。エミヤは少しの逡巡の後、やがて咀嚼し終えたのか数度軽く頷き、小柄なサガの顔の方を向いて納得したと言わんばかりに深く一度頷いた。

 

「そうだな。―――、そう、おそらくはその通りだ。いや、驚いたよ。まさかその様な喩えで返ってくるとは思わなんだ」

「なにぃ? やっぱりお前も俺を侮ってた口かぁ? 」

 

サガが不服そうに、態とらしく口を窄めて文句を述べる。エミヤはその大業の態度に苦笑しながら手を横に振ると言う。

 

「いや、違う。ああ、いや、そうだな。まさかその様な比喩の答えが広まっているとは思っていなかったんだ。なんというか、川の流れや大海のそれに例えられると思ってばかりいた……、ああ、しかし、そうか、そういえば、ここはそういう土地だったか。なるほど、そうだとすれば、より身近な物でわかりやすく例えられるのが自然というものか。言うなれば、冒険者の多くを侮っていた形になるかもしれん」

「……よくわからんが、エミヤ、お前、ピエールみてぇにいい性格してんな」

 

一人勝手に納得して見せたエミヤに対してサガは呆れた表情を返すが、当の本人は悪びれる事もなく、手の平をひらひらと振りながら嘲りに似た鼻息を一つもらすと、こちらを向いてニヤリと笑ってみせて、口を開こうとする。

 

多分彼にしてみればそれは別に相手を見下す意図を持たない自然の反応なのだろうが、その自嘲にも似た前置きの態度が妙に板についていて、私はなんとなく、彼という人間は私に似て、他者の評価などをどうでもいいと思っている点があるのかもしれないと思った。

 

「ダリ。先ほどのサガの例えに倣うなら、私も君たちと同様に、女将に酒を注文する事で剣や弓矢、盾を生み出している。ただ、その注文方式や、注文の発注先が君たちと同じ場所ではないのだ。そうだな、言ってみれば、店の中で出前の注文している様なものだ。そうやって私は「私の世界」に注文を出す事で、様々なものを取り出していると言うわけだ」

「ふぅん、なるほどね? 」

 

サガが生返事を返す。私は何も返事ができずに、ただ首を傾げるばかりだった。エミヤは多分彼なりに気を使ってサガの話になぞらえてくれたのだろうが、結局どうやって剣を生み出しているのか、どこから剣を生み出しているのか、という問いの具体的な答えになっていない。流れでなく仕組みを知りたかったわけだが、その理屈屋の彼らしくないあやふやな答え方から、私は、多分彼はこの辺りの話題をはぐらかしたいのだなと直感した。

 

「まぁ、ようは、気にすんな、ってことさ。同じような理屈で俺もこいつも戦闘出来てるんだし、だったら別に誰がどんな原理でどんなスキルで戦おうが、どーでもいい事だろ? 」

 

そんなエミヤの気持ちを私同様汲み取ったのだろう、サガが言う。

 

「まぁ、そうなのかもしれんが……、いや、ああまで見事に、剣、弓、盾を状況に応じて使い分けるのだ。他にもどんな事が出来るのか知っておいた方が、戦術が組み立てやすいと思ってな」

 

そこまで言って、ついこの間の話し合いのことを思い出す。本来なら協力者となった時点でそういった能力などを明かし合い、戦術を組み直すのが冒険者としては普通なのだが、

 

―――手札を全て明かしてもいいが、やれる事が多すぎて語りきれん。それにダリ。君はいざという時にやれる選択肢が多いと、どれを選んでいいか分からず混乱するタイプだろう? 出来る事を一々語り、無駄に選択肢を増やして君や君たちを混乱させるよりも、状況に応じて私が適切な対応をしたほうがスマートだ。なに、損はさせないさ―――

 

などと、実力差を盾にした上でのこちらを思っての提案なのだと言われては反論のしようもなく、特に己の欠点を槍玉にあげられた私は、強くでられなかったというわけだ。

 

とはいえ、いざ戦闘に直面すると、予想以上に彼はなんでも出来る事に気付かされる。少しでも足手まといにならず、その背中に追いつくために、だからこそ出来る事ならこの場で彼の戦闘手段を少しでも知っておきたかったのだが―――

 

「……、そうだな、まぁ、そのうちな」

 

彼はそれだけ言うと、再び口を閉ざし、何も語ってくれようとはしなかった。やはり未だに実力差のある私達を信頼しきれていないのだろう。その頑なさに私は何も聞ける事がなくなって、そのまま彼とは閉口の関係を保つ事となる。

 

その理屈屋で頑としていて、他人の都合に左右されず己の意見を貫くあたりから、おそらくやはりは、彼という人間は私に近いのだろうと感じ取る。

 

何かきっかけがあったのならば、もう少し何か話せるかもしれないが、おそらく今の彼の様子から察するに、それが余程の事情でない限り、話してはくれないだろう。その頑なさにまるで鏡を見ているかのような気分を味わった私は、ふと考える。

 

―――しかし、私と言うものは、周囲からすると、こうも扱いづらい人間だったのか

 

そうして同一視する事は彼にとって失礼と思いながらも己と同じような性質を持つ人間を前に、私は響が解体作業を終えるまでの間、これまでの所業を振り返り己の未熟と傲慢さを反省するという、彼にとって無礼となる行いを止めることは出来なかった。

 

 

ダリとサガ、そしてエミヤのやり取りを見て、私はひどく複雑な思いを抱いていました。多少硬くはありましたが、和気藹々とする彼らの様子がかつてシンが生きていた頃を思い出させたからです。かつては、シンが聞き、ダリが答え、サガがそのサポートをするという役割を、今では、ダリ、エミヤ、サガが、そのままバトンを受け継いでいました。

 

以前のダリは秘密主義なところがあり、己の事を語りたがらないところがありましたが、おそらくその秘密とは、第五層についてのあれこれだったのでしょう、以前のクーマとの会談にてその事を隠さなくても良くなったことによって、彼は以前よりもずっと素直な人間になりました。おそらくその内、もっと素直になりも、明朗になり、付き合いやすい人間になることでしょう。

 

サガは……、まぁ、良くも悪くも変わっている様には見えません。あれだけ懐いていた相手が消えたのですからだいぶ影響があるだろうと考えていたのですが、誤算でした。その変化のなさは、いい意味、とも悪い意味、とも今のところは言えません。まぁ、要注意、程度でしょうかね。

 

問題は―――

 

「素材の回収が終わりました」

「ご苦労様」

 

響とエミヤの二人でしょうか。

 

まず響です。素材を持って戻ってきた彼女の顔には、三人のやり取りを見てシンの生きていた頃の光景を思い出したのか、当時を懐かしみながらも、彼の欠如に悲しみを抱く、郷愁哀悼無常の入り混じった、複雑な表情が浮かんでいます。

 

この世界において悲しみの感情を記憶と共に抱え続ける為には、喜びの感情と共に抱え続けなければいけないとはいえ、結果、歓喜と相反する思いから生じる、えもいえぬ矛盾の苦しみを抱えたまま常日頃を過ごさねばならず、しかも、その心苦しさを処理することもできないという、まるで凪いだ海の上でただひたすら小舟にのって耐えざるをえないでいるような行き場のない痛み、わたしにはよくわかります。

 

このままでは彼女もわたしの如くに、処理しきれない感情の発露から物事を素直に受け取る事が出来なくなり、鬱屈とした思いから性格が捻じ曲がって行き、皮肉という形で悲哀を発散する事の出来ない歪みを表に出すようになってしまうようかもしれません。

 

ああ、吟遊詩人として多くの悲劇を収集し、知らぬ人の悲しみを抱え込んできましたが、直近味わった、近しい人の死の悲哀が齎す苦痛は格別でした。多少の苦痛なら刺激にもなるのですが、あの破滅的な苦痛は、とても刺激と呼べるものではありませんでした。

 

あれは痛苦の烙印そのものです。心に焼印として傷を与えられてしまったが最後、常にじくじくと痛み続ける熱情を抱えて生きる事を強いられるのです。私はもうこれ以上、あの親しい知人が死んだ際の引き裂かれる思いを味わいたいとも、増やしたいとも思いません。

 

吟遊詩人としてそのような生き方を覚悟した私ならともかく、シンという男がその思いを託したまだ多くの部分に無垢色を残す白百合が、手折られ、摘み取られ、悲劇色に染め上がってゆく様など見たくはありません。これは早急に対策を考える必要がありますね。

 

「どの程度回収できた? 」

「金属骨格の部分だけです。それ以外は全部溶けちゃってました」

「了解だ。では、先を急ごうか」

 

また、エミヤの方も問題です。平然と強敵を屠って見せる彼は、未だに実力の底も、隠している過去の秘密も、その全てを隠し通そうとしたまま新迷宮を攻略してやろうといい気概に満ちていて、誰も彼も信頼していない節があります。

 

信じて用任するが、信じて頼りはしない。己の能力が抜きん出ている事を知っているから一人でなんでも解決しようとして、そしてその通りにやり遂げてしまう。

 

その傲慢ながらも、しかしそれに見合った実力を持つ様は、まるでエミヤの活躍を知る前までのシンを見ているかのようです。何でもかんでも出来てしまう分、あらゆる事象を自分で処理してしまおうとして全てを抱え込み、気が付かぬうちに許容量を超えてしまう。

 

本人は気付いているのかいないのか知りませんが、側から見れば、彼の有り様はまるで風船を用いて肝試しをしているかのようです。幸いなことに、本人の問題処理能力が高い故に未だ破裂には至っていませんが、不幸なことに、本人の処理能力が優秀すぎる上、心身の耐久力も高すぎる故に、彼自身、破裂の限界がどこにあるのかを知らないように見受けられます。

 

しかして、そうして能力の高い彼にとっても、現在抱えている新迷宮の踏破という目的は、彼にとって処理の分水嶺を超えた望みであることは、彼が無意識のうちに発する焦燥感から読み取ることができます。

 

そうやって結果を求めて生き急ぐのは彼の性分のようですし、他人であるわたしにはその生き方にどうこう文句をつける権利はありませんが、そうして結果を急いて求めた結果、シンのように死なれてしまっては、なんとも目覚めが悪い事になります。

 

とはいえ今すぐにその点を指摘したところで、聞かせたところで、彼は先ほどのように誤魔化してしまうでしょう。あるいは、優秀な彼の事ですから、己の中に焦燥がある事を指摘すれば自覚し、一時は歩みを緩めてくれるかもしれません。

 

ですが、その後すぐに歩幅を戻して注意を促した周囲どころか己すらも誤魔化す振る舞いをするようになる可能性が高い。いえ、きっとそうなるでしょう。だからまだ話せない。

 

そう、まだ彼の内面に踏み込む為には、私たちは彼と過ごした時間が少なすぎ、共に積み重ねた経験が少なすぎます。まだ。そう、まだダメです。焦ってはなりません。交渉を切り出す際は、適切でもっとも効果的な時を狙わないといけません。とはいえ遅すぎてもいけない。

 

―――もし、彼の内面にもっと踏み込む事の出来る存在がいれば、あるいは、もう少しじっくりと仲良くなる時間があれば、我々の関係も違ったものになったかもしれない

 

そう思うと、残念でなりません。このまま互いを知らぬままの関係を保った状態で新迷宮を進んでいると、必ずどこかで歪な状態で信に命を預け合っている代償を払う羽目になる可能性が高い。すると結末は歪みを保ってきた代償としては死という代価を求めてくるかもしれません。

 

しかしまだ希望はあります。彼は新迷宮の四層だろうと出現する魔物を歯牙にかけないほどの実力を持ち合わせていますし、少なくとも四層の番人の部屋に到達するまで、生死に関わる自体は起きないでしょう。実力的な面で言えば、おそらく、番人の待ち受ける部屋までは安全を保てる可能性が高い。

 

が、反面、時間的な余裕はありません。この調子で行けば、あと数週間もしないうちに迷宮四層最奥まで辿り着いてしまう事でしょう。彼の実力と我々の協力があれば、それは全くたやすい事であることは自明です。

 

―――さて、ではそれまでの間になんとか彼と親交を深められる出来事が起こってくれる事を祈りましょうか。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十七階「剛勇無双を発揮した青春の日々」

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十八階「狂気の代償を支払うべく神託を求めた朱夏の日」

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十九階「神与え給うた苦難を歩んだ白秋の道」

 

 

これで四度目の遠征。

 

広く空を覆う、赤い天井。どのくらいの高さなのか、その天井までその身を捻らせながら伸びる樹木は、色さえ無視してしまえば、旧迷宮の四層、枯レ森と変わらない。

 

そう、天井より落ちてくる砂がどこかから入り込んでくる光を反射してキラキラとひかる光景も、グネグネと歪んだ渇いた砂の地面も、その地面に生える刺々しい植物も、そのあまりの太さ故に幹が途中で己の成長を支えきれず折れてしまった樹木も、まるで一緒。

 

ここはまるで、旧迷宮の四層を完全にそのまま持ってきて着色の度合いだけを変えたかのような景色。そんな中、光彩の差異を除けば、違うのは、二点。一つは、樹木の幹より漏れ出していた樹液が、琥珀という物質に変わっている事。もう一つは、出現する魔物が、旧迷宮の四層のとは比べものにならないくらい、強い魔物に変化した事だ。

 

旧四層に出現する魔物のうち、火炎ネズミは、斬撃も刺突も打撃も一切効かない、巨大な猫の化け物に。ゴールドホーンは、とんでもない素早さで逃げ回るように。ブラックボアは元々の数回りは大きくなり、スナトビデメキンは素早く飛び回る鳥に、ヒュージモアは四足の馬になっていた。

 

後ろの二体は種族が違うのだから、変化というのは正しくないのだろうけれど、倒した後の体を解体すると、内部の作り、つまりは体組織から、血液の色、内部臓器、その他構造までがとてもよく似通っていて、そうとしか表現できないのだ。

 

「――――――! 」

 

しかしそんな、四層の魔物が可愛く見えるほどの強さを持った魔物たちは今、私たちの編み出した戦術によって次々と死に絶えてゆく。巨大な猫の化け物は、大きく口を開いた瞬間を狙ってサガが炎の術式をぶち込むことで、窒息死させる事ができる。

 

大猪はその巨体での体当たりをダリがパリングで防いだ次の瞬間、エミヤがさくりと切り捨てて終わりだし、素早く飛び回る鳥はエミヤが毒を塗った矢で撃ち落として終わりだし、馬と牛はその細い足を折るだけで地面に倒れこんで行動不能になるから論外だ。

 

「よーし、いいぞー、やっちまえー、エミヤー」

「気楽に言ってくれる……」

 

ちなみに、これらの魔物の対処法を見出したのは、今こうしてサガに気楽な掛け声を投げかけられた男、エミヤだ。彼はこの未知だった魔物の特性を見抜き、すぐさま臨機応変に見事な応対を編み出しては惜しみなく教えてくれたので、私たちは大した労力を費やすこともなく、魔物を難なく撃破する事ができているのだ。

 

今回の敵は、多分メディーサツリーと呼ばれる植物の魔物が変化したのだろう奴だ。元が樹木の形をした魔物だったそいつは、胴体にあった人の顔が牛の顔になった上で三つになり、頭部から生えた腕が六つに増え、沢山あった根の足が減って六つだけになっていた。

 

また、頭部にあった髪の毛の先に生えていた石化をもたらす四つの目は失せていたけれど、代わりに元々は樹木であったため炎が弱点であった特性が消えていて、ついでに炎どころか氷も雷も効かないようになり、驚くほどの俊敏性と腕力、回復力をも備えるようになっていた。

 

けれど。

 

「ほら、敵さんこちらっと」

 

それでもサガのこの余裕。サガはニヤニヤと意地の悪い顔を浮かべながら、数度無効化された経験から効かないことを承知なんだろうけど、雷を放つ。機械仕掛けの籠手により威力を強化された雷は、三つの顔を持つ敵の、その一つの顔面を見事に捉えて包み込む。直撃の瞬間、元メデューサツリーの体からは少しばかり火花が散り、側雷撃が近くの樹木を貫通する。

 

やがて雷光が晴れて敵が上げた顔は、やはり予想通り、まったく傷が付いていない。代わりに見えたのは、怒りに眼を輝かせた様子だ。そいつはサガの方を見ると、攻撃の対象をエミヤからサガへと変えて、そして怒りに任せたまま、突進する。

 

「おっと、予想通り」

「任せろ、パリング! 」

 

サガめがけて繰り出された巨体の前にダリが躍り出た。掛け声とともに生み出された物理攻撃の威力を完全に遮断する膜がダリの構えた盾の前に出現し、ダリは巨体の突進を事もなさげに受け止めた。ダリの前に現れた光の壁が役目を薄れてゆく。

 

「響! 」

「あ、はい。縺れ糸」

 

エミヤの指示で私は足用の縺れ糸を使う。私が敵めがけてぶん投げた糸は、ダリの盾の前の壁が消える前にシュルシュルと形を崩していくと、敵の足に巻きつき、その足を絡めとる。敵はその六本足を絡め取られて、窮屈さから解き放たれようと、必死の抵抗をしてみせた。

 

その抵抗や激しく、縺れ糸は数秒も持たないだろうことは簡単に見て取れたけれど、それで十分だ。少なくともこれで、その数秒は先の突進は使えないし、それどころか動くことすらままならないはず。一応、六本の腕と口から吐き出される石化のブレスはまだ脅威で危険だけれど、そんなもの近寄らなければいいだけの話だ。

 

「よくやった」

 

そうして少し離れた場所から聞こえる賞賛の言葉を投げつけてきたエミヤは、すでに矢を弓に番えていた。ああ、終わったな、と直感。彼がその弓を取り出すその時は、一度だって外す事なく敵を打ち貫き、見事に敵を仕留めてきた。だからもうあとは、彼がその矢を離してしまえば、この戦いもおしまいなのだろうと私は確信した。

 

「そしてさらばだ」

 

ヒュン、と風切り音がしたかと思うと、赤の霧を切り裂いてエミヤの矢が敵の頭部を貫通した。一層の蛇から取れた毒を加工して作った毒を塗った矢の一撃は敵の顔面が引っ付いた胴体に見事な穴を開け、続けて音も重なるほどの直後に放たれた第二射が胸の心臓があっただろうあたりを突き抜けていく。

 

頭部と胸を矢によって破壊された敵は、そのさらに直後、傷跡から毒が巡って全身が融解してゆく。驚くほど有効に働いた毒の効力により、赤の埃が舞う中に、樹木と毒が混じった化粧水がばら撒かれて、その敵は瞬時に背丈を縮めさせられていた。

 

これでもう戦闘終了だ。正直、ここまで一方的だと、謎の罪悪感が湧いて、必死にこちらを仕留めようと襲いかかってくる的に哀れの感情を抱いてしまうほどの一方的さだった。

 

とはいえ一応、常にどんな敵でもこんな風に簡単に仕留められるというわけではなくて、例えば、金色の鹿はこちらの姿を見かけた瞬間、目にも止まらない速度で私たちから逃げていってしまうから未だに倒せていないし、今みたいに初見のやつ相手だと多少手間取る……事もある。

 

でも、言っても、多少手間取るだけで、結局簡単に倒せてしまうのだ。

 

「さて、これで手仕舞いか」

 

これだ。この強さ。正直、私の援護などなくとも、彼はきっと同じように敵を打ち貫いていただろうと私は確信する。別に私の道具がなくても、ダリの防御がなくても、サガの援護がなくても、彼は間違いなく、同じように敵を仕留めてしまうだろう。多分、彼は同行者である私たちに気を使って、一人で簡単に敵を倒し切らないようにしてくれているのだ。

 

直接的な援護が必要ないというのなら、今後、彼の役に立てそうなのは、彼の身体能力を引き上げることのできるピエールだけだ。ああいやでも、そういえば、前回の戦いではダリがいなければ死んでいただろうから、彼もきっと必要とされている。

 

そしてようよう考えてみれば、ここまでの戦いの中で、サガが気を逸らしたからこそ、その隙に彼が敵を楽に仕留められた場面も多々あった。つまりはサガもエミヤに必要な人員として捉えられているのだろう。

 

しかし、三人とは違って、自分だけはそうでない。

 

先の場面を思い返せばそれは明らかだ。先ほども、ダリが敵の足を止めた時点で、こちらに指示をする暇があれば、彼ならその間隙を使って弓と矢で敵を仕留めることが出来たはずなのだ。それが意味するところはとどのつまりは、私は多分、出番がないという事で僻んだりする事のないようにとのお情けとお零れにて、活躍の機会を与えられただけに過ぎないのだろう。

 

頼りにされていない。お荷物扱いだ。そういう風にされる理由は、己自身の未熟さを以ってして、嫌という程理解できている。そうして早く己の未熟を理解できるのは優秀の証ではなくて、私はここ数週間の間、迷宮に潜らない間、暇さえあれば彼の元を訪ねて、彼の鍛錬に付き合わせてもらっている経験に基づくものだ。

 

シンが最後に私に託した、最期の願い。刀を三竜に突き立てて欲しいという彼の遺言に導かれるようにして、あの日以来、私は暇さえあれば剣を振るうようになった。エミヤのアドバイスで刀より剣に生まれ変わった、この二振りの刀を、だ。

 

使うなら折れた方をメインに鋳造しなおすがいい。刀は鍔の一センチ程の部分が弱い。素人が遠心力に頼って振り回すと、大抵そこから折れる。鋳型に流し込んで刀身の強度を均一に造りあげる西洋剣の方が負担は少ないだろう。そんなアドバイスをもらって以降、助言通りの両刃の剣として生まれ変わった彼の剣「カムイランケタム」を、「薄緑」と共に振るう。

 

シンが最後につげたアドバイスの通りに体を動かし、背筋を伸ばし、毎日毎日、剣を振る。そんな努力の結果として、この四度の遠征までの数週間の時の経過の最中で、私は己でも驚くほど上手く剣を振るえるようになっていた。無茶の証に潰れた血マメはすっかり固くなって、タコにまでなっている。

 

そしてなるほど、やはりシンの見込んでくれた通り、わたしには剣の才能があったようで、やればやるほどうちにその剣筋は鋭くなっていくのを実感できた。それでもまだ、彼らには、彼には届かない。届かない。どれだけ振るっても、わたしはシンのいう、シン以上の剣を振るう私になれる気がしない。

 

私がシンから受け継いだ剣の二振りを、どうにか交互に持ち替えながら振り下ろして動きを叩き込んでいる傍ら、エミヤという男は、文字通り目にも霞む速度で腕を脚を動かして、地を蹴り、宙を舞い、仮想の強敵との戦いに勤しんでいる。

 

その上で、彼はこちらの様子を完全に無視しているわけでなく、時折、私の修行がうまくいかない時には助言をくれたりするのだ。彼は己の内面の世界に敵を生み、思考内で強敵との苛烈な戦いをこなしながらも、周囲に意識を飛ばして俯瞰する事をやってのけるのだ。

 

そんな日々を過ごすうちに、私は彼の中に、シンという男の真っ直ぐさとダリという男の冷徹を見つけて、きっと彼はヘイの懸念したような、感情と理性の暴走を起こさないのではないだろうかと思うようになっていた。

 

こう言ってはヘイや歳を経た人に失礼かもしれないが、エミヤという男は、この世界における誰よりも精神が老成していると感じられる。彼はきっともう既に人として完成しているのだ。

 

多分彼は、おそらくは誰よりも色々な経験をして、多くの人々の完成形を知っているからこそ、未熟な私に適切な情けをかけてくれいて、無意識のうちに成長の機会を与えてくれているのだろうと思う。

 

加えて、己の益は全くないのに訓練を見守ってくれているのは、シンという男との約束があるからというのもあるのだろう。そういう、冷静な表面と冷徹を基本とする基本態度とは裏腹に、情に厚い部分と義理堅さがエミヤという男にはある。

 

その心遣いはありがたい事だと思う。思うけれど、ただ、不安と不満がないわけではない。そんな優しくも優秀な彼が私をこの旅路に同行させてくれている理由が、別に自分の能力が必要だからではなく、私が可哀想だから、連れていってもらえているのだと思うと、その必要のされていないという境遇が、かつて赤死病の噂が広まっていた頃の自分と重なり、正直、結構辛い。

 

迷宮は彼らがいれば、エミヤとあの三人がいればきっと迷宮は攻略されるだろう。そう、彼がいればきっと、シンの最期の願いだって叶えさせてもらえるだろう。シンの最期の願い。彼の剣を、強敵に突き立てて欲しいという願い。そう、それだって、彼の手に託してしまえば、間違いなく叶えてもらえるだろう。

 

死者の最期の思いを叶えてやる。それはきっととても喜ばしい事だ。でも、別に私の協力や努力がなくてもそれが達成されると思うと、胸が千切れるほどに痛い。私なんかいなくとも、そうやって彼の願いを成し遂げられてしまうだろうという事が、私にとってなにより辛い。

 

シンの最期の願いが叶う事は嬉しい事のはずなのに、それが私なしでも成し遂げられる事だと思うと、願いなんて叶って欲しくないと思ってしまう。この矛盾した感情をどう処理すればいいのだろうか。それとも、このわけのわからない感情は、やがてシンや両親を失った後のように、消えていってしまうのだろうか。

 

それは嫌だな、と思う。彼のことを思い出すと、胸が痛むけれど、同時に湧き出てくる暖かい気持ちが、それは嫌だと主張する。でもどうすればいいかわからない。わからない。わからない。シンが死んだ時から、あの日から、私の目的は最下層の番人に刃を突き立てる事だけだった。彼の代わりに刃を。

 

―――君ならば、私以上に剣を振るえるようになれる

 

―――本当に? なら、それはいつ?

 

ああ、なんでシンは、私なんかに願いを残していってしまったのだろうか。なんで。剣を代わりに突き立てて欲しいと私に頼んだのは本心だったのだろうか。もしや、もっとも近くにいたから、今際の際に口をついてそんな言葉が出ただけなのではないだろうか。

 

そんな風に思う自分がすごく嫌だった。結局私は、私の事情でばかり悩んでいる。それがすごく醜く見えて、嫌だった。醜悪な疑念の答えを求めて過去の彼に問うても、過去の記憶となってしまった彼は、当然のように何も答えてはくれない。

 

「おーい、響―、何してるんだよー、解体―」

「あ、はーい、いま行きます」

 

もう少し悩む時間があれば、あるいは、私が役に立てるような場面があれば、私もこの気持ちに決着をつける事ができたのかもしれないが、ともあれこんな所で、こんな時に、無い物ねだりをしても仕方ない。

 

どうしてシンが私に剣を託したのか、とか、ヘイがエミヤに対して心配している気配りは無用のものではないか、という疑念などの問題はひとまず置いておいて、私は今この時、私を必要としてくれる人の元へ向かう。

 

私はそうして腰から解体用のナイフを取り出すと、必要とされた役目を果たすべく、融解してほとんど残っていない敵の体へと刃を突き立てた。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十九階「十二の試練に挑んだ白秋の道」

 

 

ここまでに出来上がった地図を広げ、印をつけた部分を見る。FOEと刻まれた印の端には獅子に鹿、大猪に鳥、多数の牛、馬とゲリュオンと牡牛の文字が刻まれている。それはこれまでに現れた魔獣どもの外見と名前である。

 

これで八。その中で、鹿はその雷の如き速度についていけないため、捨て置いた。伝承によれば一年の時がかかるというアレを追ってまで捕縛するメリットがあるとも思えないので、一旦は保留。八引く一は七。

 

つまりはこれまでの四つのフロアで討伐できた魔獣の数は、七。十二から七を引くと、五。ならばおそらく、残りの二フロアには五つの試練、すなわち、五種類の魔獣が待ち受けているのだろう。

 

討伐できていないのは鹿、ヒュドラにアマゾネス、ラドンケルベロス。鹿はその速度での撹乱、ヒュドラは毒と再生能力、アマゾネスは数が脅威として、ラドンは炎と百の頭、ケルベロスは……はてさて、厄介な特徴はなんだったか。

 

過去の記憶より伝承を引っ張り出してきては、思い出してため息を吐く。残っている連中はどれも一筋縄ではいかない奴らばかりだ。不幸中ながらも幸いなのは、この新迷宮という場所は、五人という人数で攻略を行なっている場合、敵は最大で五体までしか同時に現れない事か。

 

どうやらこれは旧迷宮と共通するルールのようで、雑魚だろうが番人だろうが関係なくこの法則に縛られるらしい。唯一の例外はあの玉虫どもだが、まぁ、ルール破りはあの魔女の得意とする所だし、ひとまず置いておく。

 

ともあれ、この法則のおかげで、三千頭いるとされる牛どもや、湿地帯を覆うほど存在したとされる鳥たちと、真正面から戦う事なくすんでいるわけであるが、とすればもしや、今後、先の思い浮かべた五つの試練が同時に襲いかかってきたりする事態もあり得るのだろうか。

 

ああ、それは是が非でも勘弁してもらいたい。半神半人のギリシャの英雄と違い、私は正真正銘、元々はただの一般人なのだ。あの大英雄ヘラクレスですら一つ一つに苦戦した試練を五つも同時に受ける羽目になるだなんて、考えたくもない。

 

しかし、言峰か魔のモノ、どちらの思惑なのかは知らないが、なぜこんな悪趣味なものを作り上げたのだ。そう、こんな、第五次聖杯戦争に呼び出された参加者と関連の深い魔物や動物に、出典を同一とする第五次サーヴァントの能力を埋め込んで、迷宮内に出現するモンスターとして採用するという迷宮などを。

 

 

さて、改めて思い返せば、一層のあの巨大な石化を自在に操る蛇の魔物が、同様に、第五次聖杯戦争にライダーのクラスで呼び出されたメデューサの能力と似た外見と、因縁ある姿をしている事に気がつける。

 

二層の番人は虫を自在に操り転移と復活まで自在に操る、空を飛ぶ蛇であった。転移、復活、蛇、とくれば、思い浮かぶのは、セネカのメディアだ。

 

メディア。復活や蛇遣いの魔術を巧みに用いるほどの腕前から、ギリシャ神話において魔女と呼ばれたコルキスの王女たる彼女は、第五次聖杯戦争においてキャスターのクラスで呼び出され、手合わせした折りには、彼女は自身を自在に空間転移させる術を持っていた。

 

転移という偉業もさながら、空を飛んでいた事も、蛇の抜け殻を纏っていた事も、二人の息子をイアソンの眼前で殺害し、空へと逃げる際に戦車を引かせた蛇の存在を想起させる。二層の番人は、第五次聖杯戦争に呼び出された彼女と共通点を持っていたのだ。

 

また、同時に現れた玉虫の正体にも大雑把ながら予測は立ててある。おそらくあれは、イレギュラー的にアサシンとして呼び出された「佐々木小次郎」の代理なのだろう。

 

佐々木小次郎という英雄の伝承より生じる魔物はいないはずで、その生涯において関係するのは、宮本武蔵や鐘巻自斎、伊藤一刀斎といった人間たちであり、魔物や動物と同行したという伝承は耳にした記憶に覚えがない。

 

ただ、江戸初期時代に活躍した伝承がある事と、第五次聖杯戦争においてメディアに操られていた事実から察するに、恐らくは、あの本丸への守りを担当する門番の役目を強いられていた雅な玉虫こそが、風雅を愛する彼だったのだろうと考えた訳だ。

 

彼があの姿を取ったのは、あるいは彼の生きた時代と場所において、虫という存在こそが最も身近な脅威であったからかもしれない。私は目撃できなかったが、最期に一騎打ちを所望したという態度も、あの飄々とした侍の在り方を思えば、とてもらしい最期と思える。

 

ともあれこれで三体。

 

そして、第三層。あそこに現れた魔物は、犬、猪、牛と言った、同じく第五次聖杯戦争にランサーとして呼び出されたアイルランドの大英雄、クーフーリンに因縁深き魔物であった。

 

また、三層の番人たる猛犬が、非常に好戦的かつ、体に傷を負っても倒れず、己の死など知らぬといわんばかりに、苛烈な攻撃を仕掛けるその継戦能力に優れた雄々しい姿は、なんとも腹の中身をブチまけようと倒れずに最期の時を迎えた彼らしい生き汚い様であり、加えて最期として放った一撃は、クーフーリンの持つ呪いの魔槍ゲイボルクの「投げれば三十の鏃となって降り注ぎ、つけば三十の棘となって破裂する」特性と似通っていた。

 

奴の吐いた捨て台詞という決定打もあるし、言峰綺礼という男の言もある。間違いない。この新迷宮においては、第五次時聖杯戦争に呼び出されたサーヴァントの能力を持った、五次のサーヴァントと関係のある魔物、動物が、番人として、あるいは迷宮を彷徨う魔物として呼び出されているのだと確信した。

 

その法則に則って考えれば、あとは簡単な話だった。残るは四層と五層だけ。第五次聖杯戦争に呼び出された英霊のうち、私を除外すれば、残る英雄は、二人。すなわち、セイバーとして呼ばれた「キング・アーサー」と、バーサーカーとして呼び出された「ヘラクレス」だ。

 

そうして挑んだ四層は果たして予想通り、片割れのヘラクレスをモチーフにした魔物が襲いかかってきている。これまでの傾向とあの大英雄の生涯を考えるに、ヘラクレスの層では十二の試練と関連した魔物が出てくるのだろうという予想もまた的中し、それ故に私は記憶の中のギリシャ神話より情報を引き出す事で、容易に対処ができているという訳だ。

 

さて、幸いというか、不幸にもというか、これまでに出てきた魔物は、どれも伝承の中では彼が難なく葬り去った魔物ばかりで、あまり歯ごたえのない魔物ばかりであった。

 

だからこそこうして我々は、大した被害もなくこの十九階という奥地までスムーズにやってこられたわけであるが、そうして楽を堪能したと言う事実は、つまりこれ以降の番人のいる階までおいて、神話の大英雄が挑み特に苦戦した五つの試練を一気に乗り越えねばならないということを意味している。

 

あの大英雄が助力を求め、他の英雄と共になんとか踏破した試練を、五つ。それも、同時に出現するという事態もありうるという予想は、先を急ぐ私をなんとも心底億劫にさせる、懸念の種となっていた。

 

 

一度大きく息を吸って、吐く。悩み事の成分を大いに含んだ吐息は、空気中に散乱する赤い霧と反応して、一部の空気を濃く染めた後、地面へと落ちてゆく。いっそ、この吐息の行方のように、私も落ちて溶けて地面に吸い込まれ、その成分が地面を貫通してくれるのであれば、試練とやらを受けなくてもすむのだろうか、と非現実的な考えが浮かぶ。

 

―――は、試練を前にして臆病風に吹かれるとは、なんとも凡人らしい悩みだな

 

ともあれ今は探索中だ。こんなくだらぬ現実逃避をしている場合ではないと思い直して頭を振って考えを振り払おうと試みるが、湧き出た不安は過敏に神経を刺激して、私を余計に疲れさせる。あと五つも大英雄が苦戦した試練が残るという状況は、私をとても憂鬱な精神状態に陥らせていた。

 

神経昂り、無駄な消極的思考に走りたがる己の頭を戒めるべくもう一度頭を振ると、唇を軽く噛んでやる。すると硬い歯を破れんばかりに押し付けられた薄い皮膚と肉が鋭い痛みを訴え、私の頭で空想の中に散らばった意識を現実へと引き戻してくれる。

 

そして私は再び意識を外側へと拡散し、索敵と警戒を行う。未だに試練は現れる気配を見せない。安堵と不安が混ざったため息を漏らす。

 

―――しかし、死と隣り合わせの場所にいながら、随分と悠長に事を考えるようになった

 

油断の証とも言えるその余裕は、少なくともこの迷宮に一人で初めて潜入した際にはなかったものだ。果たしてこの余裕は、私が常に気を配り、常駐戦場を心がける事が出来なくなったほど弱くなった証なのか、それとも―――

 

―――多少なりと誰かを信じて、人に頼る事を覚えた証なのだろうか

 

ちらりと目線を後ろの四人に送る。彼らはこの命の危機と隣り合わせの赤き異界において、初めて踏み入れた場所に出現する敵の特性を知っていると豪語する私の言を素直に信用し、そして無邪気に受け入れ、肩肘を張る事なく、しかし密に索敵を行いながら私についてくる。

 

彼らは私に詳しく過去を尋ねない。彼らは人を無闇に疑わない。そう、彼らが正体を明かそうとしない私に寄せるのは、赤子が親に向けるような、無垢で透明な信頼だ。その、あまりよく知りもしない他人に全ての判断を、己の命を含む判断をも手放しに預けてしまう甘さは、まるでかつての未熟な己を見ているようで少しこそばゆい気持ちを抱かせる。

 

かつての私であったなら、その無邪気さを未熟と断言して忠告していただろう。その甘さは命取りになるといって、彼らを諌めていただろう。だがむしろ今は、そうして信を預けられている事を頼られている証と考え、心地よいとすら感じている。

 

考えてみれば、大した戦闘力を持たぬものばかりだったとはいえ、あの大英雄の試練をこうもやすやすと七つも踏破できたのは、ひとえに己以外の存在が私の後ろを守ってくれるという、安心感あってのものだ。彼らの存在は、今や迷宮探索に欠かせない存在ともなっている。

 

そう思うと七つの試練だろうが、負けて彼らを死なせるわけにはいかないという思いが湧いて出た。赤死病という広まる死病を消すため知らぬ誰かのために戦う、という抽象的な願いより始まった他人の為に戦いたいという思いは、守るべき誰かの具体例を得た事で濃度を増し、決意と覚悟を新たに褌を締め直そうと思わせる効力を持っていた。

 

最悪、切り札/私自身の宝具の使用も視野に入れながら、私は再び意識を外側に集中する。宙を舞う赤の粒子が一塊になって牡丹雪の如く地面に落ちて消えてゆく様は、最近整頓され露わになりつつある胸の裡にて思い返される過去の記憶の行方と重なって、妙な既視感を覚えさせられた。

 

 

「それではお疲れ様です」

「ああ、ではまた」

 

ぺこりと頭を下げて去ってゆく響を見送って、踵を返す。頭をあげて天を見上げれば、朱夏の匂いが息づく夜空は蒸し暑さを持って私の視線に返事を返してきた。過去を懐かしんでむせ返るには少しばかり足りない熱と湿度を全身で受け止めながら、帰路を緩やかに進む。

 

「―――ただいま」

 

言い慣れなかった台詞を、ようやく歯の浮く思いをせずに繰り出せるようになったそんな場所へ、足を踏み入れる。しかし、常なら対となる言葉を返してくれる相手はいつも通りに受付におらず、人気のない宿屋はその役目とは裏腹の静寂を返事として返すばかりだった。

 

「――――――? 」

 

いや、よく耳をすませてみれば、宿の奥、食堂の方から二人分の声が聞こえてくる。私という異物を受け入れて以来、久しく客を受け入れていないというそこから声が聞こえてくることに不思議の念を抱きながらも、私はか細い音に招かれるようにして歩を進める。

 

「―――はい、その通りです」

「そう……やっとなのね」

 

近寄るに連れて、意識せずとも会話が耳朶に飛び込んでくる。片方が重苦しい声色のソプラノであるのにたいして、もう片方は軽やかであるにもかかわらずしゃがれているという矛盾がなんとも印象深く、その濃淡がより一層会話の内容をより明朗に耳へと届かせた。

 

「それで、どのくらい保つのかしら? 」

「はっきりとはわかりませんが―――、おそらく保って一ヶ月から半年……」

「あら、大分振れ幅があるじゃない」

「ごめんなさい……、その、赤死病のことは詳しくはまだわかっていなくって……」

「そ……、ああ、ごめんなさい。別に貴女を責めたわけじゃないのよ」

「それでもごめんなさい」

 

冗談の通じない子ねぇ、と呆れたような声が聞こえ、やはり、ごめんなさい、という声が続いた。かつての世で聞き飽きたくらい耳にした、謝罪の言葉。その台詞に含まれている重み。

 

そうして空気の中に溶けてゆく微かな声には、峻烈な程の悔いと己を責める意思が込められていた。ああ、それは、他者の死を嫌になる程看取ってきた私が幾度となく聞き、あるいは聞かされた、死の運命を決定づけられた者へと向けられる、惜別と自責の言葉。

 

「―――なぜ」

 

気がつくと私は聞き耳の無礼の言い訳を考える暇も無く、食堂へと踊り込み、二人の会話に割り込んでいた。驚愕の表情を見せたのは同時で、その後の反応はまるで別だった。

 

一人の若人は居心地の悪さを隠そうともせず態度に表し、一人の老女はいつものように健啖にからからと微笑んで、気持ちのよい笑顔を返してくれた。

 

「―――あら、おかえり」

 

問いかけなどまるで無視しての呑気な掠れた声に、思わずいつものように返答をしそうになって、唇を噛んだ。ここで常と同じ挨拶を返せば、聡賢な彼女と、強引な態度に弱い己の気質が合わさって、話が有耶無耶の彼方へ無かったことになってしまう予感がした。だから、言葉を発することはしなかった。

 

しばらくの無言。かつて雨降る中、この部屋で過ごした時と同様の、しかしあの時とは真逆の性質を持った静寂が部屋中を支配して空気を淀んだものへと変化させている。身体中に纏わりつくような漠とした空気を切り裂いたのは、やはり、軽やかではっきりとしたしゃがれた声だった。

 

「―――まったく、しょうがないわね」

 

私、重っくるしいのは嫌いなのよ、と言わんばかりのため息と共に生み出された言葉は若々しく、被っていた猫を取っ払った彼女の声は沈黙を振り払う祓いの剣となり、止まっていた時を動かす効力を秘めていた。

 

「サコ。ありがとう。また一ヶ月後、懲りずに尋ねてきて頂戴。お願いね」

 

先ほどの死の宣告などあてにもしていないから気にするとの成分を含んだ物言いは、インという彼女の目論見通り、狼狽えていたサコという小さな医師の冷静を取り戻す役目を十分に果たして、少女はぺこりと小さな頭をインに下げると振り返り、同様に私に対して深々と頭を下げながら、横を通り抜けていった。

 

その、臆病と焦燥が多分に混じった態度から、彼女が頭を垂れたのは謝罪の意を私に投げかけたかったからでなく、視線が合う事で疑問の念を投げつけられるのを嫌ってのものだと読み取ることができた。

 

逃げるようにして去ったサコの手によりやがて玄関の扉の音が静まり、取り残された私と彼女は対峙して見つめ合う。宵闇の中、私たちの背景は橙に光る洋燈の明かりを受けて黄昏時のような雰囲気に包まれている。山の端に消えゆく陽光を受けて背の低い彼女を見下ろしたかのようなその様は、私にいつぞやの忘れられぬ別離の瞬間を思いださせた。

 

―――凛

 

「まったく、盗み聞きとはやってくれるわね。エトリアの英雄様はプライバシーと言うものを知らないのかしら?」

「――――――」

 

見た目に反してそのなんとも若く強気で気丈な台詞は、余計にかつての主人を思い出させて、私に閉口の状態を保たせた。そうして口を閉ざす私を前にして彼女は優雅に鼻息を漏らし、腹を小さく抱えて笑って見せると、こちらの堅気を削ぐべく、片手を振った。

 

「もう、少しは反応してよ。まるで壁に向かって独り言を呟いているみたいじゃない」

 

からりからりと笑う。笑い声は、寿命を宣告されたとは思えないほどの軽妙さに満ちていた。

 

「―――なぜ」

「―――ん?」

「なぜ、黙っていた」

 

ようやく絞り出した一言。胸の奥を捻って生まれ出た雫の言葉には、短いながらも全ての想いが込められている。なぜ貴女は、自らの死期を私に隠していたのか。

 

「んー」

 

重苦しく吐き出した言葉に対して、彼女は年若い少女がやるように唇に手をあてて考える仕草をして見えると、しばらくののちに、悪戯っぽく笑って、言った。

 

「なんとなく? 」

「―――! 」

 

その自分の命の終わりなどどうでもいいだろうと言わんばかりの態度がなんとも気に食わなくて、思わず片足で床板を踏み鳴らしていた。同時に周囲の空気に重苦しいものが混じり、あたりを照らす炎が激情に反応したかのように激しく揺れた。

 

発火した感情の中にはそれでも冷静さが保たれていて、木製の床は悲鳴をあげるに留まってくれたのだけが、救いだった。彼女は未だに私の中の感情の天秤が揺らいでいるに留まっているのを見抜いたのだろう、愉快そうに笑って、言う。

 

「あら怖い」

「茶化さないでほしい。今の私はすこぶる機嫌が悪い」

 

素直に心情を述べると、やはり彼女は気さく柔和な笑顔で、真面目なんだから、とやはりからかう態度をやめようとはしなかった。その幼さを含んだ笑顔には癇癪を起こした子供を見守るような母性があって、老若合わさった矛盾さが、えもしれぬ魅力を醸し出していた。

 

「―――、ねぇ、エミヤ」

「――――――」

 

語りかけてきた彼女の言葉に無言の視線を返す。すると、飄々と笑みを浮かべるその碧眼の奥に秘められた真剣さを見つけて、どうにか文句返してやろうという気勢は折れてしまった。こちらの変化を見据えたかのように静かな笑みを携えて彼女は続ける。

 

「べつに、隠そうと思って黙ってたわけじゃないわ。ただ、そう、言うタイミングがなかっただけよ。だってそうでしょう? 考えてもみてちょうだい。私と貴方の関係は、宿の主人と逗留している客のそれに過ぎないわ。薄氷とまではいかないにしろ、厚い関係でもない貴方に向かって、あと少ししたら私死にますなんて、そうそう言えるわけないでしょう? 」

「……、それは、そうかもしれないが」

 

言われてみればその通りだ。私と彼女の関係は、所詮、店の客と主人のそれに過ぎない。金の繋がりがせいぜいの接点である。そうして客人が戸惑うのを考慮してなにも告げなかった彼女の感性は、まったくもって正しい。正しいが、ただ、それだけの関係と認めたくない想いが、私の中にはあった。それは私にしては珍しい執着という感情だった。

 

「……、それでも、もう季節が一つ巡るくらいの時を共に過ごしていたのだ。事情を話してくれても良かったのではないか? それくらいの友誼を重ねてきたつもりではあったが」

「そうね、それはそうかもしれないわ」

 

ごめんなさいね、と小さく認めて彼女は黙り込んだ。素直な謝罪の言葉に、私はなにも言えなくなる。再び沈黙が辺りを支配する。しかし、先ほどとは打って変わって無言の空気は、木漏れ日の下で固まった体を解したかのような穏和さを帯びていて、私の冷たく凍り付いていた心中をゆるゆると溶かすと、続く言葉を発せさせてくれた。

 

「―――原因を聞いてもいいだろうか? 」

「さぁ? 未だに解明されていない病のことだし、わからないわ。ああでも、冒険者はかかりやすいっていうくらいだから、案外、昔のツケが回って来たのかもね。私、こんな見た目に反して、服の下はびっくりするくらい怪我や手術の跡が残っているの。多分、若い頃は無茶苦茶やってたんでしょうね」

「……そうか」

「やだ、そう暗くならないでよ。もう、ほんと、調子が狂っちゃうわ。まったく、いつもの傍若無人で皮肉屋な貴方はどこへ言っちゃったのかしら? 」

「―――、ふ、大方、貴女の殊勝な態度に驚いて、どこか迷子になっていたのだろうよ」

 

無理やり絞り出してそんな事をいってやると、ようやく調子が戻ってきたわね、と彼女は満足げに笑って見せた。その快活さに励まされて、私はようやくどうにか己を律して、常と変わらぬ態度をとってやろうという気概が心中へと舞い戻る。

 

彼女は落ち着きを取り戻した私の様子を見て、慕情に満ちた晴れ晴れとした笑みを浮かべると、椅子に深く腰掛けて体を預け、天井を仰ぎ見て体の中の残りの重さを全て吐き出した。そして静かに目を瞑ると、口を一度大きく開いて胸の奥にしまい込みように外気を取り込み、やがて新たに取り込んだ空気と共に語り出した。

 

「―――、そうね。エミヤ。私がハイラガードからやってきたことは話したかしら? 」

 

少しばかり瞑目して記憶の底を探ると引っかかる項目を思い出す。

 

「……、そうだ、確か、以前そんな事を言っていたな。貴女はそこのレジィナという女性のレシピを受け継いだと言っていた」

「あら、よく覚えているじゃない。……じゃあ、それ以前の話、ご存知かしら? 」

「―――いや」

 

確か、聞いていないはずだ。彼女もそれは理解していたようで、やはり小悪魔のように意地悪く悪びれなく微笑んで見せると、私の返事に同意した。

 

「そうね。だって私、貴方に過去のこと話してないもの」

「ではなぜ―――」

「そして同じように、私も貴方の事をよく知らないわ。だって貴方、私に過去のことを何も話してくれてないもの」

「……」

「だから、私は貴方の事情を知らない。多分、貴方、そうやって誰にも自分の過去を語ろうとはしないんでしょう? 語らないってことは、多分、貴方にとって、過去は辛い事ばかりだったんでしょうね。そうやって過去に触れようとすると、貴方が剣呑な空気を発散して聞いてくれるなと主張する。だから、多分貴方の周りの人も、貴方を慮って踏み込んでこない」

 

私は押し黙る。その通りだ。私はこの世界に落着してから、誰にも己の事情を語ったことはない。以前の会談の後、真実に近いところまで迫られても、沈黙を貫き通した。

 

「この世界の人は、悲しいとかの感情を溜め込めない分、自分の心の傷にも、他人の傷にも、とても敏感に反応するわ。そうした痛みに敏感ということは、痛みをとても恐れやすい性質を持つということでもある。だから彼らは本心を曝け出して、自分と異なる感性を持つ他人と生の心をぶつけ合うなんて傷つく行為、自ら望んで行おうとは思わないのよ。だって嫌じゃない。生の感情をそのままにぶつけ合って、傷ついてそれで互いに嫌な思いをするなんて」

 

滔々と告げる彼女の態度には、まるでそんな彼等と己は違うから私は容赦しないわよ、と言わんばかり圧力があって、ならば彼女が心傷を厭わないのは何故だろうと私に疑問を抱かせた。

 

「だから私も踏み込む事を避けていたのよ。きっと、貴方もこの世界の人たちと同じように、優しくて臆病な人だと思っていたから。……でも、違ったのね」

 

彼女は言うと、この広い世界において始めて同類を見つけたと言わんばかりの、眩しいばかりの満面の笑みを浮かべて、続けた。

 

「貴方はそうと知っても踏み込んできた。質問が私と貴方とを傷つけるかもと知っていて、それでもなお踏み込んできた。……、ほんと、なんとも英雄らしい豪胆さよね」

「……」

 

それは。それは違うと思う。ただ私は制御出来なかっただけだ。目の前で誰かが死にゆくと言う事実にただ耐えられなかっただけ。鋼どころか、ガラスの如き心中の脆さだからこそ、相性の悪い思いはすぐに許容を超えて心に亀裂を生み、我慢の立ちいかなくなった心より溢れ出て、口よりそれが零れ落ちただけのこと。

 

そんな彼女の指摘を受け入れがたい、と言う想いが表に出てしまったようで、彼女は私の渋面を見て苦笑いをすると、「全く頑固なんだから」、と言って、静かに笑って見せた。

 

「……、私はね。若い頃の過去の記憶がないの」

「……は? 」

 

唐突な告白に私は思わず嘲りに似た声色を返してしまう。彼女はそれすらも笑って受け入れて、独白を続けた。

 

「気がついたらハイラガードの街の医療機関で寝ていたわ。しわくちゃのおばあちゃんがボロボロの体の状態でね。それが私の最初の記憶。私の最も古い、過去の記憶」

「――――――」

 

まるきり白紙の過去を持つ。その、世界でも類を見ないだろう奇妙な相似に、私は初めて同情の気持ちを覚えると共に、まるでそんな過去がないなんて事どうでも良い、と言わんばかりにあっさりと告白する彼女の態度に、なんとも言えない劣等感のようなものを抱いた。

 

彼女はなぜ―――

 

「なぜ、貴女はそうして、笑ってその事を話せるのだ? 」

「ん? 」

「だってそうだろう? 起きた時にはすでに青春どころか朱夏も白秋も過ぎて、玄冬の時期を迎えていて、過去に繋がる一切の事象がなくなっているのだ。だと言うのに、なぜ貴女は愚痴一つ溢さずにいられるのか」

 

思い返すまでもなくどう聞いても失礼な、しかし率直な物言いを、彼女は心底おかしいと言わんばかりに夜の闇を引き裂くほどの声で笑ってみせると、苦笑をこぼしながら言う。

 

「そう、普通そうよね。貴方の反応、きっととても自然なものだわ。……、そうね。じゃあ、老婆心ながら、いまだに迷いを断ち切れぬ若者に、年寄り臭い説教でもさしあげるとしましょうか」

 

彼女は一転して体を預けていた背もたれから己の重さを取り戻して見せると、曲がった背骨をしゃんと伸ばして、真っ直ぐな視線でこちらを見る。その翡翠色の瞳には、迷いというものが一切ない、凛としたものだった。

 

「多分ね、私は過去にやり遂げたのよ」

「……やり遂げた? 」

「そう。記憶はないけれど、過去の私はきっと、やりたいと思う事をやり通して、私の生涯の欲を私自身の望み通り、全部叶えて見せた。もうこれ以上ないってくらいやり遂げて、きっとその時点で私は私の生涯に満足したのよ。だから……、そうね、なんていうのかしら。今のこれは、きっとおまけみたいなものなのよ。そうやって頑張って生き抜いた私が、最後の一時に見ている、泡沫の夢。その淡い夢の中で、本来ありえなかった、自分が胸を張って生涯を生き抜いた、その後の世界がどうなっているか、なんてものを見る事が出来ているの。だから、感謝こそすれ、恨むとか悲しむとか、愚痴るとかそういうのは一切ないわ」

 

迷いなどない、と言い切る彼女の笑顔の中には絶望も諦観もなく、ただ希望に満ちていた。その煌々と輝く宝石のような笑みを見て、私は眩さのうちに目の潰れるかの錯覚を覚える。強靭な意思と覚悟をもってして生き抜いた女傑は、その強靭さを持ってして凛とした生涯を魂の内に刻みつけていた。

 

そして私は、その華々しくも味のある笑顔の裏に、衛宮切嗣という男が浮かべた満足の笑みを見つける。今にも首落ちて散りゆく運命が眼前に迫っている花であっても、己が生涯を誇れるのであれば、こうも凛然としていられるのかと羨望の思いを覚える。

 

「―――、あ、ごめん、ちょっち訂正。そうね、やな事はないって言ったけど、一つだけ、すごく残念に思う事があるわ」

「―――それは? 」

 

そうして常に笑顔でいた彼女を曇らせた残念の正体を短く尋ねると、彼女は今までとは違い、満足の中に寂寥を含んだ笑顔を浮かべて、告げた。

 

「私、すごく愛していた人がいたの。この人となら一緒に地獄へ落ちたって後悔しないってくらい、その人のことを愛していた。多分青春の頃からずっと一緒に駆け抜けてきた人で、馬鹿で、無鉄砲で、人の言うことなんてきいてくれない、餓鬼みたいな所もあるやつだったけど、私の半身でもある人だった。……そんな大事な人のことを、私はなんでか、今、まったく覚えていない。―――今、あの人が隣にいてくれない。それがすごく悲しくて、寂しくて、辛い」

「――――――」

 

彼女の悲痛を露わにする叫びに、私はかけるべき言葉を失った。やがてそうして頼りにならない言葉の代わりにじっと視線を送っていると、戸惑いの視線に気がついた彼女は力強く言ってのけた。

 

「やだ、そんな顔しないで頂戴な。こっちまで鬱屈がうつっちゃうでしょ。……でも、そうね。ありがとう。そんな風に思ってくれて、ありがたく思っているわ」

「……わたしは」

「それにね。私、貴方に感謝しているのよ? 」

「私に? 」

「ええ。そうして天にまで聳えるハイラガードの世界樹を見るたびに、彼を失ったんだなと思い出しちゃうから、ハイラガードを離れてエトリアに移り住んで、それでも私は、やっぱり生きたような、でも死んだような生活をしていたわ。さっきはあんな事言ったけど、宿屋を営んでいろんな人と接していても、どうもみんないい子ちゃんで張り合いがなくて、あの人がいないから灰色の世界で、困っていたのよ。―――でも、そんな時、貴方が現れた。貴方は無茶をするし、かっこつけだし、皮肉屋で、どうしょうもなく意地っ張りだけど、私、そんな貴方がこの場所に来てくれてから、とても生活が充実しているわ。まるで失った過去の中で過ごしているかのよう。多分ね、貴方、あの人に良く似ているのよ」

「――――――」

「ごめんなさいね、勝手にあの人と重ねちゃって。面影を見るだけならともかく、誰かの代わりを求めるなんて、あまりにも勝手だわ。……ふふ、でも、過去なんて、って言いながら、やっぱり昔のことを思い出して楽しんでいるんだから勝手よね。まったく、我ながらほんと、自分勝手でやんなっちゃうわ」

 

らしいっちゃらしいんだけどね、と自嘲する彼女は、しかしなんとも楽しげで、殆どの負の感情を吹き飛ばしたかのような笑顔で告げる。彼女はそんな自分勝手な自分をこよなく愛しているのだろう。そしておそらく、彼女の伴侶も、そんな自由気ままを体現する彼女だからこそ、彼女の事を愛したのだろうな、と私は思った。

 

「うん、きっと、私、私の愛したあの人に会っていなかったら、貴方のこと、好きになっていたかもしれない。いいえ、きっと、好きになってたわ。そのなんとも不器用なまでに、自分の正義に従って、真っ直ぐに生きる様、私、ぜんぜん嫌いじゃないもの」

「――――――」

 

貴方の正義、嫌いじゃない。不意に齎された言葉は、頑なに閉ざしていた心の中心まで一直線でやってくると居座り、内より外へと向かって温かいもので満たされてゆく。身体中の神経に張り巡らされていた冷たいものは瞬時に溶けて、眼球と涙腺を通して体の外へと放出された。みっともないと思うこともできず、私はただ、呆然と言葉の意味をゆっくりと咀嚼しながら、言葉のもつ魔力が身体中に染み入ってくるのを受け入れる。

 

正義の味方なんていうものは、どこまでいっても、所詮は自分の正しさと思うことを相手に押し付けるだけの、独善に過ぎないものだ。若い頃は、その独善を、一般的に善と呼ばれる行為と重ね合わせることで、それでもいつかは全ての人を救えるようになると思っていた。

 

けれど、結局そんなことはなくて、世界中で普遍的に広がっている善というものは、それでも誰にとってもの善ではなくて、結局は多くの人を救える最小公倍数的な善性を汲み取って最大公約数となる人間を拾い上げることしかできなかった。

 

最初こそは悩んだその行為も、数を重ねるごとに慣れが生じて、やがてはおなざりな作業と成り下がる。やがて淡々と最大の人数を拾い上げるために最小の犠牲を強いるやり方は、最大数より零れ落ちた人たち、最大数である零れ落ちなかった人たち、そのどちらの目からも異端として映るようになる。

 

当然だ。そのような、普遍的な正義の歯車と成り果てた感情の枯れた機械のような男、誰が己と同種の生物として認められたりするものか。故に弾かれる。私という人間は、誰をも助ける正義の味方になると謳いながら、その実、誰からも疎まれる存在だった。

 

それを。その誰からも疎まれてきた、歪な己が正義を貫き通そうとする存在を、彼女はしかし、否定をせずに受け入れた。たったそれだけの行為が、他人のためにと心と命を削り、継ぎ接ぎだらけとなったガラスの心を暖かさで修復して、その中身までを溢れさせてゆく。

 

許容という行為が、共通点を持つ他人と弱さや経験を分かち合う行為が、これほどまでに己の心情を癒してくれるものだとは、思いもよらなかった。この誰もが私と違う背景に生まれ育った世界において、彼女だけは私と同様に、過去を失った事を悔やみ、嘆いている。

 

そして私はそんな彼女に憐憫し、同情し、そうして鏡を見るような行為は、私に共感の思いを抱かせて、私は己を存分に哀れと思って、体の中に理性の冷徹をして心中に溜め込んでいた激情の裡を表に解放してやることが出来た。そう、この涙はおそらく、私が生前と死後、さらにその後という長き渡る奇妙な生涯において、初めて純粋に私自身の為に流した、熱き咆哮の証だった。

 

 

ひとしきり両の眼から思いの丈を吐き出し終えると、彼女は静かに続けた。

 

「ねぇ」

「―――……、なんだろうか」

「さっきも言ったけどね。この世界の人たちは、優しくて、臆病で、痛みに敏感で、だからこそ、他人の痛がるような行為を避けたがる傾向にあるの。だから、多分、貴方が抱え込んでいるいろんな事も、こちらから話してあげない限り踏み込んで聞いてこないと思うわ」

「……そうか」

 

突然振り返された話をしかし私は、彼女が何を言わんとしているかを話の中身を予測できたが、静かにその続きを拝聴する事とした。それこそがこの、たった一人だけ過去に取り残されたような世界で、初めて己と同じ境遇を自ら語ってくれた女性に対する礼儀だと思ったから。

 

「ええ。だから、もし機会があったら、貴方の方から彼らに歩み寄ってやってくれないかしら? 貴方の過去がどんなものか私は知らないけれど、そう信じて、理解を求める想いを乗せて手を差し出せば、彼らは喜んで握り返してくれるはずよ」

 

受け取ったバトンを、次の人たちへ。自分という存在はそのうちいなくなるけれど、そうして差し出された想いになにかを感じ取ったのなら、そうして得たものを他の人へと渡して脈々と思いやりの連鎖を続かせて欲しいと、彼女は暗に告げている。

 

「ああ―――、承知した」

 

彼女が出した命の答えを、私はいつかの時のように受け取り、継承した。そう、私はようやく、この世界の人たちと同じ高さの座標軸に立てたのだ。長い旅路の果て、心中という名前の小舟は、漣一つたたない凪いだ状態で行く当てを失っていたけれど、そうして陸地の見えない大海の上に一人ポツンと佇んでいた頼りないそれの搭乗員は、ようやく陸に近付こうとする努力を始めて動き出した。

 

エトリアに来たばかりの日、空想の中で思い描いていた理想から受け渡されたものでなく、現実に存在する他人から渡された聖火は、かつて生前に衛宮切嗣という存在から受け継いだ種火と、死後に凛という女性が加えた燃料と合わさって、颶風の中でも決して消えぬ業火となる。

 

そうして私は一つの季節を過ごした後、ようやく真の意味でこの世界の人たちと同じ目線で付き合い、傷つけ合いながら生きてゆく覚悟を決めることができたのだ。まったく、歴史に学べないのは、愚者の性というが、なるほど、死後長きの時を得て己の過ちに気づくなど、愚鈍な己らしい劣等の証明である。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第二十階「死を得て星空を抜け儚い命と聖域を守護する大英雄」

 

 

二十階入り口近く配置してあった携帯磁軸に転移するところから、五度目の遠征は始まった。枯れはてた森の中、視界の開けた、しかし地面が上下にうねる荒涼とした大地を、しばらく歩く。敵がいつ現れても対処できるように気を張っているせいで周囲の光景に気を配る余裕はない。

 

だが、このまだ姿を現さぬ敵に対する気配りが杞憂に終わるだろうことは、この第四層二十階に降りたってからすでに半日近くの時が流れているのに、十六から十九階の時とは異なり、未だ一度たりと敵の気配を感じられない事から、薄っすらと予測ができていた。

 

やがて異邦人の一同と共に探索を行っていた私は、一から三層までと同じ外側構造を持つ番人の部屋の前にまでたどり着く。番人の部屋までの道はL字の曲がり角が続き長いだけの一本道で、その長い道のりをここまでくる中において、やはり予想通り、敵は一切姿を見せなかった。

 

―――ということはおそらく、この中に……

 

おそらくは四つ、あるいは五つの試練がまとめて放り込まれている。鹿、ヒュドラにアマゾネスの群れ、ラドンケルベロス。名前を聞くだけで引き返したくなるような魔物が、群をなして襲いかかってくる。

 

その光景を想像した時、柄にもなく体が震えた。頭部から生まれた悪寒は背筋を駆け抜けて、心臓から指先にまで冷たい感覚が伝わる。武者震え、と言い切れたのなら格好良かったのだろうが、これは違う。これは目の前に置かれた箱が絶望だけを詰め込まれたパンドラの箱であると悟った時に生じる、未知と恐怖に対する、生物の根源的な部分が鳴らす警鐘だ。

 

そう、私の頭は、これより先に繰り広げられるだろう地獄を予測し、私の体はその地獄の中に身を投じ、踏破しなくてはいけないという恐怖に怯えたのだ。

 

戦いにおいては恐怖に体を支配された方が負ける。戦闘を行う者にとって恐怖を克服するのは、最初に乗り越えなければならない壁だ。しかし私は今、その恐怖を抑え切れずに表にだしてしまった。

 

戦闘を生業とする者にあるまじき失態だ。仮にとはいえ、あのヘラクレスと同じ場所に保管されていた英霊とは、とても思えないほどの臆病さ。怖い。苦しい。逃げ出したい。これが、生身の体、まともな神経を持つ人間が持つ感覚。

 

この震えは、かつての己の全てを投げ出してでも他者のために戦うエミヤシロウが、生涯を終えたその先、英霊となった後も持つことが出来なかった、己が世界から失せてしまうかもしれないという恐怖を体験している証。

 

―――まぁ、まともな人間の感覚を取り戻せていると考えれば、悪くはないのかもしれん

 

おそらくは私の生身の体を作るにあたって、人間「衛宮士郎」が素体にされているために生じる生理現象なのだろう。ふむ、だとすると、あの唐変木で鈍感な男も人並みの感覚を取り戻せていたのか。私と同じく、自己を失う恐怖を持っていなかったあの男が。

 

―――そう思うと、少し、感慨深い感じするな

 

「―――、エミヤさん? 」

 

などと考えていると、後ろから聞こえてきた軽やかな少女の声が私の意識を現実に呼び戻した。振り向けば、声の主人は心配そうな視線をこちらに向けている。そのさらに後ろでは、三人の男が三様の意外そうな顔を浮かべて、彼女と同じようにこちらへ視線を送っていた。

 

「いや、意外だな。あんたがそんな、普通の反応を見せるなんて思わなかった」

「確かに。なんというか、もう少し超然とした存在だとばかり……」

「まぁ、お陰で親近感は湧きましたがねぇ。……、ところでエミヤ」

 

ピエールは飄々とした雰囲気を一転させ、常とは異なる、厳しい表情をして言う。

 

「そろそろ、この部屋にいる番人の事を教えていただけませんかね」

 

空気が凍った。惚けた表情だったサガも、困惑顔だったダリも、同じように纏う雰囲気を剣呑なものに変え、真剣な目をして、こちらを見ている。誤魔化しは通じそうにない。射抜くような視線を受け流しながら、私は答える。

 

「なぜ知っている、とは聞かないのだな」

「聞いたら、答えてくれるのですか? 」

「…………さてね。案外素直に喋るかもしれんが」

「しかし、その口から語られる内容が真実であるという保証もないでしょう? そのあたり貴方ははぐらかしますから。そんなことより、私たちが知りたいのは、この先にいる番人の情報です」

「それすら真実とは限らんだろう? 」

「いえ、それはないでしょう。過去に関することは別として、これまでの四層に出てくる敵に対しての対処はどれも適切なものでした。貴方は、こと命がかかった事に関しては一切はぐらかさない、ある意味で真っ正直なお人です。……これから足を踏み入れた先にいる敵のことを考えて震えが出る程度には、正確な予測と把握をしておられるのでしょう? ですからそれを教えていただきたい。そうすれば、私たちが揃って無事に戻ってこれる確率も少しは上がるでしょう」

 

―――まいったな、これは

 

己の性格と白状の線引きを見抜かれていた事に、両手を上げて目をつむり、降参のポーズを取ってみせると、腕を組み直して首を傾げる。さて、どこからどこまでの情報をどの程度話していいものか……

 

―――いや

 

「―――、そうだな。知りたいと言うのなら、君たちには全て教えてやろう。私の生涯、私の過去、私の持ちうる戦術、その他諸々全て叩き売りだ。興味があるのなら聞くといい。今ならどれも特別価格で教授してやる」

「――――――、へぇ、大盤振る舞いじゃないか」

 

サガがにんまりと笑った。ダリは困惑気に、ピエールは竪琴を鳴らしながら上機嫌に笑い、そして響はなぜか少し寂し気に、笑った。彼らがそれぞれ見せた笑みの裏側を考察してやろうかと一瞬思ったが、無粋だと思いなおして止めた。なに、そんな疑問、あとで素直に聞いてやればよいのだ。

 

「とりいそぎ、この向こう側にいる奴らのことを教えてやろう。それ以上のことが知りたければ、そうだな、エトリアに帰った後、酒の肴にでも飽きる程に聞かせてやる。だから―――、どうか、死んでくれるなよ」

 

告げると彼らは、一転して濁っていた目を輝かせて、私の話を傾聴してやろうと、体を前に乗り出してきた。私はその素直さを好ましく思いながら、推論を語り出す。他者を信じて己の過去を話そうと思うこんな気持ちにさせてくれたインに最大限の感謝を送ると、私は門の奥に潜む魔物についての予想を彼らに語り聞かせることとなった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

 

終了

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第十一話 「生き方を選べ」

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第十一話 「生き方を選べ」

ねぇ、士郎。
今更だけど、あなたはどんな正義の味方になりたいの?

正義の味方、と聞くと多くの人はテレビやアニメ、小説の中に出てくる戦隊モノのヒーローや仮面を被って正体を隠し悪と戦う彼らの事を思い出すのではないだろうか。あるいは、ドラマや映画の中に出てくるような、困難に陥っている人を助ける主人公だったり、現実で言えば、日常の平穏を守る警察や有事の際に活躍する自衛官や軍隊の人々を思い出すかもしれない。

どうしても自分の手では解決不可能な出来事が目の前に立ちふさがった時、颯爽と現れて問題を解決してくれる存在。大した見返りも何も求めず当たり前のように他人の祈りの為に命をかけて、知らぬ間に問題を解決しても名乗り出ず、人知れず世界の平和を守るそんな存在。

正義の味方。あの性悪神父はその存在をこう言い表した。「悪がいないと成り立たない」存在だ」、と。非常に腹立たし事だが、なるほど真理だ。悪とは例えば、大きなものでは、人類の支配を企む悪の組織が現れたり、地球崩壊の危機に陥ったりであったり、あるいは小さなもので行けば、なにかを落としたとか、喧嘩をしている人を目撃したとか、彼らはそういった人々の悩みを解決する事で、大衆に正義の味方として認識されるようになる。

悪とはつまり、可視化された、あるいは不可視の状態の問題だ。放置しておけば何処かで誰かが困るものを処理するからこそ、彼らは正義の味方として扱われる。つまり「正義の味方」が万人にとっての迎え入れられるには、その問題が万人にとって迷惑となる問題であり、解決する事で誰もが喜ぶものでなくてはならない。

はるか昔、私は藍色に輝く夜空に浮かぶ満月の下、養父、衛宮切嗣の前で正義の味方になると誓った。それは決して、正義の味方になりたかったと後悔を露わに独白した彼に対する同情だけではなく、また私が置き去りにしてきた過去の亡霊に対する贖罪の為だけではなく、衛宮切嗣という男の純粋な願いを受けて私の心に動かされるものがあったからこそ、私は正義の味方になると誓ったのだ。

けれど、この悲惨と苦痛に満ちた世界から来た私は、一日の終わりに負の感情を失い誰もが他者への優しさを継続することが容易になった世界で、今更ながらに思う。果たして。この残酷な法則が蔓延する優しい世界において、私は誰のどんな問題を解決すれば、私の目指した正義の味方になれるのだろうか。

……目覚めは驚くほどあっさりだった。もはや窓ガラスを軽く揺らすほどの鐘の音に耳朶を打たるのも随分と慣れたようで、寝床より起き上がれば、もはや鐘の音は頭の中を反芻したりはしないようになっていた。

寝ぼけた頭で窓の方へ目をやれば、昨夜あれほどの灼熱を放っていた太陽はその傍若無人な矛先を収めているようで、窓より飛び込んできた緩やかな光が床を平行四辺形の形に淡く切り取っているのが見える。

そうして飛び込んだ光が部屋の中に漂う埃と反応して煌びやかに輝くのを暫くの間眺めていると、眠りの間に部屋の中へと拡散されていた意識が光に導かれて頭の中へと戻ってきたようで、ようやく何かを考えようという気になった。

―――あの男の狙いは一体なんだ?

言峰綺礼。かつて、第五次聖杯戦争にて監査役という地位を隠れ蓑に裏で暗躍し、聖杯に潜んでいたゾロアスター教の悪神「この世全ての悪/アンリマユ」が生誕することを望んだ、万人が美しいと思うモノを美しいと思えず、他者の苦痛に愉悦を感じる破戒神父。

だが奴のその野望は、かつての我がマスター遠坂凛と、その伴侶衛宮士郎によって阻止され、彼らの手によって命を失った。もう、千年単位で昔の話だ。あの影が真実奴であるとするならば、奴はなぜ、今、この時代に蘇ったのだ?

……一つずつわかっている情報から推測するしかないか。さて、まずは……奴はどうやってこの世界に復活したのか、だ。

―――神によって再び命を授かった

神。奴の進行する神。通常、聖堂教会というカソリック系列の一派である奴が言うなれば、それはもちろん、唯一神のことだろう。だがあそこの神は、死者の復活という神の子レベルの存在しか成し得ないような奇跡を安売りするような軽薄を許容しないはずだ。

となれば、奴の言う神というのはこの場合、死者の蘇生を可能とする唯一神と同等の力を持つ存在のことを示しているとかんがえるのが妥当なのだろう。また、奴が魔のモノと呼ばれる存在の話を嬉々として話していた事と合わせて考えるに、おそらく神=魔のモノと呼ばれる存在と考えて間違いないはずだ。捻くれ者の腐れ外道に相応しい捻じ曲がった解釈かもしれんが、まあよかろう。

さて、神=魔のモノと仮定した際、次に問題になるのはその魔のモノが何を考えているかだが―――

―――これはあの聖杯戦争の再現なのだ! 戦争を最後に勝ち抜いた勝者には、万能の願望器が与えられる! その再現! それこそが、我が主の望み! それこそが私が心底望むものなのだ! ―――

再現。あの物言いから察するに、もしやすでに聖杯戦争は再開していて、己は参加者として盤上に乗っているのだろうか。この世界に来てから己がやったことといえば、迷宮の番人を倒したくらいだ。

ふむ、そういえば、シンが三層の犬にとどめを刺した際、、私はランサーの声を幻聴した。最後に使ってきた技も、ランサーの宝具「ゲイボルグ」の投擲に似た、三十に分かれる魔弾であったし、おそらくあれがランサー「クーフーリン」という存在の再現であると見て間違いあるまい。とすれば……

おそらく、一層の石化能力を使用する輩はライダー「メデューサ」で、二層の転移を使いこなす黄金の羊はキャスター「メディア」、あの三連を繰り出す虫の群れはアサシン「佐々木小次郎」か。彼らが人型をしていない理由はさておき、この仮定があっているとすれば、これでこの聖杯戦争からはすでに四騎のサーヴァントが脱落していることになる。

となると、残っているのは―――

「アーチャーである私、「エミヤシロウ」。そして、バーサーカーである「ヘラクレス」に、セイバーである「アーサー王」か」

やれやれ面倒な奴ばかり残っている。クーマが、新迷宮にも四層、五層があるだろう、といっていたことから考えるに、どちらの階層かは知らんが、どちらかをモチーフとした敵が出てくるかのだろう。かつての陣営ごとに切り分ける馬鹿みたいな律儀さには感心するが、どのみち一筋縄ではいかないだろうことにため息が漏れる。

しかし、待てよ。もしやそうして、六騎のサーヴァントの代理を倒したとして、最後に私が死ななければ、聖杯は完成しない。いや、そもそも。

―――魔のモノは、なぜ聖杯戦争の再現をしようとしているのだ?

聖杯戦争。あらゆる願いを叶える万能の願望器「聖杯」を巡って行われる魔術儀式。もしやつが聖杯を欲しているといのならば、奴は聖杯を利用してまで叶えたい願いがあるということなのだろうか?

……いや、だが、奴の話によれば、魔のモノは霊脈と一体化しているはず。それならば、霊脈の力を六十年もの間を溜めこみ、その膨大な魔力量の方向性を定めてやる事で現実の壁をぶち破り改変を行う、という聖杯のシステムから考えるに、地球そのものとも言える魔のモノに聖杯なんぞ必要ないと思うのだが……。

―――だめだ、材料が足りん。この方向からのアプローチは一旦保留。残るは……

―――もちろん、あの冬木の教会でだよ
―――今頃あるいは、文字通り天の国に召されているかもしれんぞ

―――っ!

奴に対する考察を深めようと記憶を掘り起こすと、そこから関連した奴のやった悪行が紐付きで思い出され、腑が煮え繰り返りそうになるのをなんとか抑えこむ。腹の中に溜め込めないだけで、思い返した際に脳が生み出す灼熱の怒りの源は一日経っても消えないのだな、とどこか他人事のように考える。

―――だめだ。落ち着け。今は必要ない情報だ。凛の骸がどのように扱われたかは、一旦、保留にしておけ。その報いは、次に奴と合間見えた時に、必ず叩きこんでやる

将来必ずあの腐れ外道は滅してやるから今は我慢しろ、と胸板を強くかきながら己に言い聞かせる。ともすれば奴への殺意で一杯になりそうな胸の裡からなんとかその思いを追い出すと、胸の奥に生じた猛火をなんとか沈静して、もう一度推察を再開する。

―――冬木の教会

たしかに奴はそういった。……冬木。エミヤシロウという存在にとって、大きな運命の転機となったあの土地が、未だこの数千年も未来の世界にその姿を残していて、奴はそこで復活したということなのだろうか。

冬木。数千年前に地下に消えた街があるとすれば、おそらくは同様にこの大地の遥か地下なのだろうが、それだけの時を経ても未だに教会は原形を残していたということなのだろうか? 一体どうやって?

それに、なぜ、奴は私を生かして地上に転移させたのだ? 不倶戴天といってもいい存在である私をなぜ殺さずに生かしたまま地上に送ったのか。聖杯戦争を再開すると言うのなら、元サーヴァントたる私は真っ先に殺し、聖杯に捧げて然るべきと思うのだが……。

まさかとは思うが、夢の中で私が見せた醜態に愉悦したいがためとは言わないだろうが……、いや、奴の場合、ありえるかもと思えしまうのが、なんとも辛いところだ。

「ちっ、煮詰まったか」

舌打ちをして、ベッドに半身を横たえる。与えられた情報から導き出した情報を整理したことで導き出せた結論は三点。その内確定しているのは二点。神―――おそらくは魔のモノ―――が聖杯戦争の再開を望んでいるという事と、この世界のどこかに冬木と言う土地があって、その教会が残っている事。

そして、確定ではないが、おそらくは七騎の英霊が覇を争うその聖杯戦争がすでに再開しており、現状残るは三騎にまで減っているだろう事も判明している。

―――あとは、奴に真意を問いたださねばならないか

億劫な未来を思い浮かべてため息をつく。あの人格破綻の極悪な外道神父と会話をしなければいけないと言う面倒は、想像するだけで気分を不快に陥らせた。鬱憤を吐き出してやろうと、長いため息を吐くと、床に落ちた光の四辺形がその面積を減らしているのに気がつく。

窮屈そうに身を縮こめさせている窓を解放させると、溜まった鬱屈を散らすかのように涼しげな風が部屋の中に飛び込んで、縦横無尽に遊びまわり駆け抜けてゆく。開けた視界に広がるのは、私がやってきてから三ヶ月間変わる事のないエトリアの光景だ。

孔雀緑の屋根、木造と白漆喰の混ざった壁、街と外を区切る壁の外に広がる肥沃な森林地帯。円を描く街のちょうど狭間あたりに位置するインの宿屋から見える景色は、その全てがなにもかも変わっていない。だというのにもかかわらず、この同じ場所から見える景色は、私にとって昨日までとまるで違う光景として私の目には映っていた。

―――負の感情をとどめておけない世界、か

街行く人々の顔を眺める。昼間のエトリアを行き交う人々。その三割ほどは冒険者で、残りが町人やそれ以外だ。冒険者の方へと注視すると、迷宮という場所で命のやりとりをしている彼らの顔は、しかしまるでそんな気概を感じられないほど、いつも変わらず笑顔に包まれている。

つい先日まで、私はそれが長い年月をかけて人が自ら変化の道を辿った結果だと思っていた。スキルという技術を得た人類が、数千年の時をかけて己の性質を変えてきた結果だと思っていた

しかし、現実は違った。最初こそ一方的だったかもしれないが、彼らは、魔のモノという存在と、負の感情を代価とした契約を結んだ結果、出来たのがこの世界だ。

負の感情を吸収する魔のモノと契約したものの子孫が住む世界。一眠りすると、負の感情を全て失ってしまう人々の住む世界。人々は自ら変化したのではなく、おおいなる存在によって、その性質を変化させられてきたのだ。

理不尽や不幸に直面するたび胸の裡に堆積してゆく負の感情の澱という害悪を知らずに育ったからこそ、彼らは他人を憎まない、恨まない、妬まない。人に悪意を抱き続けないからこそ、警戒心が薄く、見知らぬ他人をすぐに信用する。

世界に住む人間の全てがそんな性質を持っているというのなら、なるほど、この世界の住人の多くが、あそこまで他人と無邪気に接することができるようになる理由もわかる。いつの日か感じた、自分と彼らは違う、という思いは、ある意味で正しかったのだ。

彼らと私は違う。考えた途端、不穏な疎外感が胸に押し寄せる。馬鹿げた妄想だと切り捨て、空を見上げた。ぱっと見一面に広がる、吹き抜けるような青い空。空の端では、風が山の稜線の向こうに雲を追いやろうとしていた。まるで蒼穹の景色に余計な色は要らぬと言わんばかりの風の所業は、そう、例えてみれば魔のモノのやっていることのようだと思う。

人の心は言ってみれば真っ白なキャンバスみたいなものだ。人は生きていく中で、感情の絵の具を使って、記憶という絵を心中のキャンバスに書き込んでゆく。歓喜に満ちた記憶なら、色鮮やかで華やかな絵が刻まれるだろう。その記憶が悲哀や苦痛に満ちたものなら、暗澹とした色合いになるかもしれない。

出来上がっていく絵に手を加えるのが魔のモノだ。奴はその暗澹たる属性の色は己のものだと主張し、パンくずで、ペンチングナイフで暗い色を削って白のキャンバスに戻して去ってゆく。そうしたやり方をこの世界の人々は知らずのうちに、あるいは知りながらも、迎合し、暮らしている。

そうして魔のモノとの共同作業により完成するのが、暖かい色しか使われていない絵だ。この世界に生きる彼らは、知ってか知らずか、魔のモノと協力して「生涯」という題名の一枚絵を見事なまでに平穏の作風に仕立て上げる。

その色使いと作風は周りのものに伝播させ、やがて世界からは一層暗澹の色と気配が消えてゆく。その末が、明るい絵ばかりを収集する美術館のごときこの世界だ。

そして、その中に一枚混じり込んだ異物こそが私。光明満ちた真作だらけの世界に、一枚紛れ込んだ、タッチも色使いも衛宮切嗣という男の正義の味方という夢を模倣して書きあげられただけの、陰鬱な贋作者の書き上げた絵こそが、私だ。

思う。このままいけばおそらくは聖杯を巡って魔のモノとやらと戦うことになるわけだが、仮に、負の感情を食って成長する魔のモノを倒してしまったのなら、負の感情が奪われるという出来事はなくなるというのだろうか? あるいは、スキルというものが無くなるのだろうか?

そうして人が今まで当たり前のように使用していたエネルギー確保の手段を失った時、果たして世界はどのように変化してゆくのだろうか? 世界は再び、エネルギーの利権などを巡って争いだらけの状態に戻るのだろうか?

そうやって魔のモノを倒すことが、世界の混乱を引き起こすことだとすれば、それは正義の味方として正しい行いなのだろうか。果たして、この世界の為になるのだろうか。

―――魔のモノと言峰綺礼を倒す。それは本当に、私の独り善がりではないのだろうか? 所詮は贋作でしかない私に、果たしてこの世界の当たり前の法則をどうこうする資格があるのだろうか? 果たして、これから自分がやろうとしている行為は、正義の味方として正しいものなのだろうか

「―――は、何をバカなことを」

そこまで考えて自嘲する。魔のモノという存在が現在の人々に影響を与えているというのはどうあれ、あの破滅思考の男が神として崇めるような存在なのだから、どうせろくなやつではあるまい。ならば、倒してしまったところでなんの問題もないはずだ。

「―――私も魔のモノの影響を受けたか……」

理性の化け物が忘却を強いる悪夢。否、魔のモノという存在によって己の抱いていた負の感情を食われる現象は、つい先ほどまでの眠りの中で、ついにその姿を消していた。そう、おそらく奴は、数千数万年以上における憎しみの収集の結果を見事に食い尽くしたのだ。

忘却の救済は為されてしまった。そうして胸の裡に溜め込んでいた負の感情が澱まで残さず元の色を取り戻した時、心中に残っていたものは、見事なまでにかつて己が大切としてきた記憶だった。

地獄の中で養父に助けられた瞬間。養父と誓いを交わした夜。土蔵で彼女と契約を交わした瞬間。彼女とともに運命の夜を駆け抜けた日々。決着をつけた後の彼女との別離。正義の味方を目指して活動した日々の中にあった平穏。助けた人々から礼を言われた瞬間。

そして、再び巡ってきた運命の夜、凛とした彼女とともに駆け抜けた日々。

それらの悲喜交々の感情を伴って思い出せる、今の自分を作り上げた原点の記憶はどれも色褪せず残り、キャンバスの上で鮮やかに輝きを放っている。それが。その絶望の着色をこそげ落とされた状態の心地よさが、今の私の葛藤を生み、迷いとなったのだろう。

「―――時間か」

エトリアの蒼穹を鐘の音が切り裂いた。長い間隔を置いて鳴り響いた三度の大きな音色に続いて、テノールの小さな鐘の音が三連打で三度鳴らされた。埋葬の予告と、死亡した人間の性別を告げる鐘の音が、漆喰と石畳の街に反響して路地裏の方まで通り抜ける。

東欧風の街に住まう人々は、その西欧式の鐘の合図を受けて、立ち止まり、静かに瞑目する。誰とも知らぬ人間のために、黙祷を捧げるその光景を見て、やはりこの魔のモノと契約をかわした人々が住まう世界には、しかし優しさが満ちていると思う。

「……いくか」

そのまま眺めていると、先ほどの禅問答のごとき堂々巡りに陥りそうだと考え、私は黒服を纏い、ノブを握って扉を開けた。

途端、階下の宿屋の入り口より昇ってきた風が、窓の空いた部屋を通り抜けてゆく。懊悩と苦悩により陰鬱な空気を漂わせていた部屋は、蒼穹広がる空から運ばれてくる快活な風によって驚くほどの爽やかさを取り戻す。その爽快な様は、まるで、真っ白な地塗りすら施されていないキャンバスのようだった。

葬儀の帰り道、合流した「異邦人」一同と共に執政院に向かう。私と同じく黒服を纏う彼ら四人のうち、響とピエールの二人は消沈気味で、ダリとサガの二人は多少落ち込みを見せていたが、ほぼ常と変わらない平生の態度だった。

その悲しみを未だ持ち得る者達と、すでにそれを忘れ去った者達の対比が先ほどの己の葛藤の比喩に見えて、私は思わず眉をひそめた。どうやら過去を引きずる癖はこんなところでも発揮されてしまうらしい。

そんな彼らの内に先ほどまでの懊悩を見つけて、辟易とした気分を抱えながら、彼らの後ろについて行く。やがて高い壁面の雨樋までが真っ白く塗られた壁沿いを静かに歩くと、以前、混乱を避けるために使用した裏口に辿り着く。

裏口を守っている兵士は私たちの姿を見ると、静々と綺麗な一礼をして見せて。門を解放してくれる。何も聞かずに通してくれるあたり、クーマが事情を説明していてくれたのだろう。

開かれた職員用の小さな扉を潜り、質素で殺風景な通路を進む。通常なら人に見せる場所でないためだろう飾り気のない廊下を五分ほども進み、突如として現れる華美な廊下に足を踏み入ると、すぐに目的地へと到達する。

ノックをすると、聞き慣れた声が入室の許可を告げて、私たちは中へと足を踏み入れた。

「……やぁ。事情は聞いたよ。彼のことは残念だったね。まさに青天の霹靂というやつだ。」

遠慮せずに座ってくれ、と着席を勧める彼の言に従い素直に腰を下ろすと、柔らかな素材のクッションがこれまでの疲労を労わるかのように、全身で優しく迎え入れてくれる。位置を調整して背を預けると、先ほどまでの気怠さと気まずさが溶け込んでいくかのような柔和さをそのソファは持っていた。

「……、それでは、早速で悪いのだけれど、番人討伐の報告をお願いできるかな」

「以上です」

ダリが三層番人戦における始まりから終わりまでの流れを一通り話し終えると、クーマは伸ばしていた背筋から力を抜いて、豪奢な装飾の椅子に深く背を預けてため息を吐いた。そうして天井を見上げる彼の顔には、疲労の色の他に、後悔の感情が混じっているように見受けられる。恐らく、特別調査の許可を出した事を後悔しているのだろう、と勝手ながら思う。

「そう、そうですか……。ご苦労様でした」
「いえ……」

彼の疲弊具合に、私たちは誰も続く声をかけられない。瀟洒で整った静かな空間は、謎の緊張感に包まれていた。壁にかけられた時計の時を刻む音だけが、やけに大きく部屋の中に鳴り響く。

「―――」

クーマが口を開きかけ、しかし躊躇して、口を遊ばせるだけに終える。再び訪れる沈黙。おそらくは誰かが舵取りをしないと進まないだろうな、と誰もが思っているのだろうが、クーマは葬儀直後のこちらに遠慮して。異邦人のメンツは疲弊の様子が見て取れる彼を慮ってだろう、己から口火を切ろうとしない。

「―――、クーマ。申し訳ないが、見ての通り、私たちは葬儀の直後で精神的に参っている人間が多い。なにもないのであれば、事務手続きを行ったのち、速やかに退散したいのだが」

仕方なしに、クーマとの顔を合わせた回数が少なく、最もシンという男と関係の薄かった私が口を開く。視線がこちらに集中した。彼らの目には、揃って安堵の色が浮かんでいた。よくやってくれた、よくやった、と言わんばかりのその瞳の群れを眺めて、私は行いの正しさを確信した。

「……ああ、すまない。ええと、そうだな……」

私の急かす言葉にいち早く反応したクーマは、しかしやはり少し躊躇して、けれど意を決したよう一つ大きく頷いて見せると、一転して迷いを捨てて真剣な目をしてその口を開いた。

「―――、皆さん。まずは改めて、お疲れ様でした。あなた方二つのギルドの活躍、および、合同調査により、見つかってから一年以上のも間、一層すら攻略されなかった新迷宮は、多大な犠牲を払いながらも、たった三ヶ月の間に三層までが攻略されたことになりました。本当に感謝しています」

ありがとうございます、と言ってクーマは丁寧に頭を下げた。多大な犠牲、という言葉に響が体を震わせた。体を上下させたのは一瞬。努めて己の意思でその後の反応を抑えたようだが、しかし彼女の反応を空気の振動から感じ取ったのだろう、彼は数秒程もかけて謝罪の意を示し続けたのち、頭の位置を元に戻すと、背筋を整え、一拍を置いてから再び口を開く。

「さて、言うまでもないことですが、我々が皆さん冒険者の方々に迷宮探索の依頼を行い、褒賞金を用意しておりますのは、迷宮の最も奥にある謎を説き明かして欲しいからです。かつて英雄達が旧迷宮の謎を解いたように、誰かに新迷宮の最も奥にある謎を解いて欲しい。それが私たち執政院の願いであります」

一度喋り出すと調子が出たのか、クーマは饒舌に話を続ける。

「さて、その謎についてですが……ところで皆さん。新迷宮の奥地に秘められた謎がなんだかご存知ですか? 」
「えっと……、あの、今さっき、謎だから調査を依頼しているって……」

響が馬鹿真面目に聞き返す。確かに最もだが、そんなことは彼も百も承知だろう。しかし、だからこそ聞いてきたのだ、と考えれば、おそらくは。

「ふむ、具体的にはわからんが、街や冒険者の間の噂では、赤死病の原因はあそこにあるのではないかと言われているな」
「赤くなって死ぬ。周囲の森や地面が赤く染まる。その辺りの共通点が判明した直後、執政院が謎に対して褒賞金をかけたから、そんな噂が立った、と言われているな」

私の言葉にダリが続く。私たちの言葉を聞いてクーマはニコリと笑みをうかべると、頷いて、私たちの言葉の後に続いた。

「はい。仰る通りです。正式には発表をしておりませんが、仰る通り、その認識で大まかには問題ありません」

やはり単なる認識のすり合わせのためか。

「なぁ、でも、街中に流れている噂と一緒だってんなら、なんでまたさっさと認めちまわないんだ?」
「ああ、それは確かにそうだ。正体がわかっているというなら、その方がエトリアに住むみんなも安心するだろう」

サガの疑問にダリが同意する。二人の様子を見ていたピエールは雅やかな金髪を揺らしながら大きく首を振って、苦笑を漏らした。

「やれやれ、わかっていませんねぇ」
「あ、何がだ? 」

サガがその挑発じみた言葉に反応して喧嘩ごしでつっかかり、顔を彼の方に突き出した。そうして差し出された鳶色の瞳の視線をピエールはさらりと避けると、やはり嘲笑じみた顔を崩すことなく答えを返す。

「人、特に冒険者を動かすのは未知です。未知の場所、未知の領域、未知のモノ。この先に何があるのか、この先にどんな魔物が待ち受けているのか、この先にゆけば今まで経験したことのないことが経験できるかもしれないからこそ、彼らは、私たち冒険者は、その未知がなんであるかを確認するために、命を賭して未知なる場所に出向くのです。なのにいきなり、
「答え」を提示されちゃあやる気が削がれるというもの。そんな場所に挑もうとする冒険者は減ってしまうでしょう。つまりは、挑戦者の母数を増やしたいがために、執政院はあえて、答えがわかっているのに、提示しない。……違いますか? 」

ピエールは己の推測を披露し、サガにやり込めてやったと言わんばかりの熱が込められた視線を返すと、一転して涼しげな表情でクーマに問いかけた。緑水の瞳を投げかけられたクーマはニコリと笑うと、口を開く。

「よくご存知です。―――ええ、もちろんそれもあります。特に旧迷宮においては、初代院長のヴィズルが貴方と同じ思考に至り、迷宮奥の謎を知っているにもかかわらず、知らぬふりをして謎に褒賞金をかけることで、冒険者を集め、人の交流を盛んにし、この街を発展させたと言います」
「―――それも?」

帰ってきたクーマの言葉にダリが素早く反応した。彼はその大柄な巨体をのそりと動かすと、クーマの机の方に乗り出して、尋ねる。

「その言い方だと、他にも理由があるということか」
「ええ。その通りです。―――、この際ですからはっきりと述べましょう。私たちは、ああして周囲の地形が赤く染まった場合、そこでは赤死病に関わる問題が起きているのだという事実を知っていた。だから、見つけてすぐに迷宮へ懸賞金をかけたのです」

赤死病。罹患した人間は、体が赤く染まったかと思うと、すぐに死んでしまうという病気。私が迷宮に潜ることを決めた原因となった病。ああ、そうだ。私は目の前で誰かが理不尽に死んでいくのが見たくなくて、迷宮に潜っていたのだった。

悪夢と焦燥に突き動かされていて考える暇がなくてすっかり忘れていたな、と今更ながらに初志を思い出して、内心でそっと自分の馬鹿さ加減を笑う。

「―――、それで、なぜ、今そんなことを明かすのです? 」
「ええ。じつは、皆様に依頼をお願いしたく思っておりまして。その依頼というものが先の事と関係しているのです―――、お引き受けいただけるのでしたら、踏み込んだことも含めまして、お話しいたしましょう」

クーマは柔和な目元にいくつもの真剣の証を刻んで、鋭い目線で私たちを一瞥した。なるほど、未知の事象に魅力を感じるという冒険者の琴線を擽っての交渉は、見事だと思う。

「……、ちなみに、受けなかった場合、クーマさんは私たちに執政院がその事実を隠していたということを知るだけ知って帰る事となるわけですが、よろしいので? 」
「構わないよ。どうせ市井にまで広がっている噂だ。今更君達がそのことを広めたところで、不確定な噂が信頼性の高い不確定な噂になるだけで、確定するわけじゃあない。結局のところ、私たち執政院が発表しない限り、真実はグレーなわけですから」

なるほど。いや、この世界の住人はこういった腹芸をしないと思っていたものだから、少しばかり驚いた。ああ、しかし、そういえばヘイも組合のカルテルを誤魔化すための手段を取っていたな。まぁ、負の感情が有ろうと無かろうと、為政者がこうした含んだ手段を取るのは変わらないらしい。

「―――私としては、受けてもよろしいと思いますが……」

言いながらピエールはゆっくりと首を回してゆく。彼と目があった異邦人のメンバーが彼の意思確認に頭を縦に振ることで答え、そうしてサガ、ダリ、響と続けたのち、体を私の真正面に向けなおして、続けた。

「いかがでしょうか? 」

彼の言葉に部屋の視線が私に集結する。後はお前の意思次第だ、という空気に、ともすればその提案への同意が正しい選択肢のように思えてしまう。さて、どうするか……。

「……双方に一つだけ聞きたい」
「はい、なんでしょうか? 」
「なんなりと」
「ではまずクーマ。聞くが、その依頼とやらは無茶なものでないのだろうな? 機密に抵触するから具体的な内容を言わないという点には目を瞑るとしても、依頼の簡単な難易度傾向位は教えてもらえないと、とてもでないが受領などできん」

これでもだいぶ甘い条件だが、この世界の住人に悪人はいないとの仮定の元、最低限の確認をする。クーマは質問を受けて、失礼、と少しの間額に手をやり考え込むと、数度側頭部を軽く叩き、結論を脳から捻り出して告げる。

「―――具体的な内容はまだ明かせませんが、何をしていただきたいかだけ言ってしまえば、基本的には今まで皆さんがやってきた事と変わらないことを改めてお願いする事になるとおもいます。まぁ、つまりは、新迷宮の未踏の場所の探索と調査と戦闘ですね」
「―――なるほど、了解した。さて、ピエール。クーマのいう、それを仮にわたしだけ受領しなかった場合、君たちはどうするつもりなんだ? 」

返す刀で彼に質問を浴びせかける。すると彼はその薄い唇を奥に引っ込めて、目元を緩めてニコリと笑うと、楽器を鳴らそうとして、しかしないことに気がつき、少しばかり不満の様相が混じった表情で答えた。

「まぁ、当然、私たちも受領を断念するしかないでしょうねぇ。―――、最大戦力が抜けたパーティーで、物理アタッカーの要が抜けた状態であの新迷宮の詳しい探索や調査、戦闘なんか、できるわけがないんですから」

ピエールは話の途中で少し言葉を詰まらせながらも、断言した。最大戦力、のあたりで悲痛の表情を浮かべたのは、おそらくシンという男のことを思い出したからだろう。

「というわけで、できることなら、貴方にも依頼を受託していただきたいのですが」

しかし己の感傷など今は関係ないと言わんばかりに、飄々とピエールは続ける。彼の言動を受けて一同を見渡すと、ダリもサガもピエールの言う通りだと言わんばかりの表情でこちらを見ている。

そうして男三人を見渡したのち、最後に響という少女に目を落とす。紅一点の彼女は、その小さな体の上でセミロングの茶髪を揺らしながら、綺麗な青の瞳を私の方に向けてくる。その真っ直ぐな瞳から、貴方がどんな選択をしようが、私は恨まないし憎みませんという純粋さが見て取れて、少しばかり罪悪感が生まれた。

……、さて、よく考えれば、私の命を救ったあの男と彼女が一人前になるまで見守ってやると言ってしまったわけであるし、まぁ、仕方あるまいか。

「了解だ。この話、私も受けよう。ただし、その話を聞いてあまり無茶なものだと判断したならば、規約がどうあれ断らせてもらうが―――」
「―――、ああ! もちろん、それで構わないよ! 」

エトリアが無茶をおしつけるなら、私は私の好きにやるという宣言を、しかしクーマは快く受け入れて、喜んで手を叩きあわせて答えに対して歓迎の意を示す。さて、この辺りの甘さはやはり不安だの悩みだのの感情を溜め込めない部分からきているのだろうか。

そうして腰を椅子から浮かしかけて喜んだクーマは、己の状態を省みて少し恥ずかしそうに咳払いをして座り直して腰の位置を調整すると、背筋を正して改めて告げる。

「では早速―――、あ、ところで皆さん。旧迷宮の五層について、何か知っていることはおありですか?」

依頼を話すと思いきや、やはり話を脱線させるクーマ。こちらがどこまで情報を知っているのかを確かめてから、足りない部分だけを語るのが彼のやり方らしい。無駄を嫌うその様は、為政者らしい几帳面の現れといえばそうなのだが、そもそも私は何も知らないのだから、最初から全てを語ってくれればそれで済むのにと、回りくどさを感じてしまう。

「ああ、いや、多分、三竜がいるんじゃねーの、くらいしかしらね」
「サガと同じく。噂では三竜や、それに相当する危険な生物だらけで、生半可な冒険者では生きて帰るのも困難だから封鎖していると聞きましたが……」
「私もサガやピエールと同じくらいしか知りません」

サガ、ピエール、響はそう返す。対して、ダリは少し戸惑った様子でクーマに問いかけた。

「私は知っているが……」

いいのか、と彼は視線でクーマに問いかける。そういえば、彼は元衛兵だったな、と今更ながらに思い出す。背の高い彼からの鋭い目線を受けてクーマは静かに頷くと、ダリは所作から了承と説明の依頼の意を読み取って、咳払い一つで場を整えると静かに語り出した。

「旧迷宮五層。今や腕利きの冒険者や有名な冒険者ですら滅多に潜入の許可がおりないその場所。その理由は市井では諸説様々な噂が流れているが、実の所、たった一つの理由なんだ」

ダリは言って、再びクーマに目線を送る。本当に言って良いのか、と問いかける視線に、やはり頷き一つで了承の意を示す。ダリは彼のその所作を見て、 唾を嚥下する音を鳴らすと、意を決して口を開いた。

「―――、その階層の……、第五階層で取れる遺物を持ち帰って欲しくない。あそこにあるのは、かつて世界を滅ぼした道具がゴロゴロと眠っているんだ。そう、あの第五層、「遺都シンジュク」には」

「新宿……、だと……! 」

ダリの言葉に、今までほとんど己は無関係である、という体裁を貫いていたエミヤが過剰に反応する。いつものすました顔は何処へやら、目を見開いて、腕を組んだ体を前に乗り出して、その言葉を発した人物の方へと一歩を踏み出していた。

彼のその言葉に、みなの視線が集中する。すぐさま冷静さを取り戻した彼は、己の醜態にたいしてしくじった、というバツが悪そうな顔で視線を斜め下にそらすと、

「いや……、なんでもない」

と言って、再び腕を組んだ姿勢に戻る。多分本人としては、ごまかしたい話だから気にしないでほしいとの意思表示の態度なのだろうけれど、今度の依頼と深く関わるのだろう旧迷宮の五層に関する情報を知っている反応をみせておいて、放っておかれるわけがないだろうと思う。

「……エミヤ。あの反応を見せておいて、流石にそれはどうかと思うぞ」
「なぁ、エミヤ。お前何か知ってんのか? 」

予想通り、ダリとサガが突っ込んだ。そうして追求の視線と言葉を向けられるエミヤは、しかし聞いてくれるなと言わんばかりの態度で、目を閉じて、腕を組んで、壁に背を預けてこちらとの交信にたいして一切の途絶の意思を貫いている。

やがて一分としないうちにダリとサガが頑なな彼の態度に追求の手を諦めた頃、三人の様子をじっと眺めていたクーマは、静かに息を吐くと、微笑んで告げた。

「エミヤ。貴方やはり、過去からの来訪者ですね? 」
「――――――」

クーマの言葉に、無言と無反応を貫いていた彼が始めて体を揺らした。多分、動揺したのだろう。彼は閉じていた瞼をゆっくりと開けると、その鷹のような鋭い目をクーマに向けて、静かにじっと見つめる。その射抜く視線は、お前は何を知っているのか、と問うているように見えた。その視線をじっと見返したクーマは、一切怯むことなく空中で彼のそれと激突させると、やはり静かに、しかし部屋に響く声で告げる。

「――――――、エミヤ。かつてこのエトリアの旧迷宮を救った五人の一人に、フレドリカという女性がいました。当時はまだ少女に過ぎなかった彼女は、エトリアに来た当初、当時のギルド長ガンリュウの元で職業システムについて深い知識を披露し、しかし執政院でいくつもの常識外れの行動を取って問題を起こして当時のオレルスを怒らせ、金鹿の酒場ではハンバーガーが食べたいといって当時の女将のサクヤを辟易させるひと騒動を起こす問題児であり、この世界では滅多に出回らない銃という武器を使用する、ガンナーという特殊職だったと言います」
「―――、銃……、ガンナー……」

エミヤはクーマのいった一言をつぶやくと、絶句、という表現が相応しい、口を半開きにした顔をする。クーマはその様子を見てにこりと笑うと立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。クーマは表紙が手垢で擦り切れる程読み込まれた本をパラパラとめくると、あるページでピタリと止めて、机の上に置き、差し出した。

「そんな貴方とよく似た彼女は、嘘か真か、この街に現れた当初、千十六歳を名乗っていました。なんでも、この本の記録によると、なんでも、旧世界の遺跡でずっと眠っていて、当時のオレルスに招聘されたハイランダーの方と、ハイラガードからの調査隊によって目覚めさせられたとか」
「――――――」

無言を貫くエミヤは落ち着きを取り戻したようで、身じろぎ一つしないまま、クーマの話を静かに傾聴している。だが、決して気を許したわけではない、というのが、その剣呑な態度から読み取ることができた。クーマはそんな彼の態度を見て、しかし変わらず笑みを浮かべたまま続ける。

「そんな彼女も、エトリアに来てから数ヶ月の間は、必要以上に警戒を怠らない態度だったと聞きます。まぁ、いきなりあの技術の栄えていた世界から、千年以上も後の、彼女の生きていた当時からすれば不便な世界にやってきたのなら、当然といえば当然の態度なのでしょう。……、ですから、エミヤ。私は、過去からやって来たのだろう貴方が、同じように警戒を露わにしていても仕方のないことだと思います。、ですから、私からはこれ以上は何も聞きません。話したくなったら話してくだされば結構です―――さて、話を戻しますが……」

言って、クーマはエミヤから視線を外して私たちを見回すと、本当にそこで話を打ち切って全員にたいして語りかけてくる。クーマの態度にエミヤは、やはり彼にしては珍しく呆気にとられた顔をして、クーマの方に呆然の視線を返していた。

彼の事情が気にならないといえば嘘になるが、たしかに人間、語りたくない事情の一つや二つはあるだろう。なら、わざわざ傷を抉るようなことをしないほうがいいだろうと思った。多分、そうして語りたがらないということは、彼にとって、それは喜びと悲しみが入り混じった複雑な記憶なのだろう、と思えるくらいには、今の私には同情の心と分別があるつもりだ。

「ダリが説明してくれたように、私たちが旧迷宮五層の出入りを制限しているのは、過去の時代の旧異物を持ち帰って欲しくないからです。あそこにある過去の技術の塊は、どれも使っていると、世界樹―――すなわち、この大地の基礎となる環境を悪化させる要因になるものだからです。環境の悪化は、世界樹にダメージを与え、フォレストセルと呼ばれる魔物が生まれる原因となったり、悪食の妖蛆と呼ばれる存在を活性化させたり、あるいは意思を持つに至った世界樹自体が暴走する原因になり、そして―――」

クーマはそこで一旦話を切ると、長い話で乾いたのか、失礼、と言って近くの水差しからコップに水を入れ、それを飲んで息を整えて続けた。

「そうして世界樹が弱まると、世界樹が抑えている魔のモノと呼ばれる存在が活性化し、やがて周囲は、魔のモノが侵食した証として、旧迷宮第六層、「真朱の窟/まそおのいわむろ」のように赤に染まってゆく。そしてその魔のモノの侵食こそが、赤死病の正体なのです」
「―――、……」

エミヤは魔のモノ、という言葉に少しだけ反応して、身じろぎをして見せたが、先ほどの醜態は二度と晒さぬと言わんばかりに両腕を強く握りしめて、不動の姿勢を保っている。なんというか、案外わかりやすい反応をする人なのだな、と思う。

しかし、今はそれどころではない。クーマはとんでもないことを言った。

「魔のモノが……、赤死病の正体……? 」

私はクーマの言った事を復唱する。それは私が追い求めていた謎。私を冒険者へと導いた病気。両親が赤死病で死んで心としまったからこそ、私はこうして今この場にいるのだ。その謎がこうしてあっさりと明かされたということは、私の心に多大な影響を及ぼして、思考は停止へと追いやられた。

「おい、クーマそれはどういうことだ。そんな話は衛兵の頃に聞いた覚えはないぞ」
「ええ、それはそうでしょう。魔のモノの存在と赤死病の正体は、執政院の中でも更に一部のモノにしか知らされていませんから。知っているのは、私とゴリン、今は不在の院長といった、旧迷宮六層の存在をしる人間くらいでしょう」
「魔のモノってぇのは、そんなにすげーやつなのか?」
「ええ。なにせ、奴はかつて一度世界が滅びた原因ですから。その存在を知られたくないが故に、私たちは新迷宮周辺が赤く染まった原因、つまり赤死病の原因が魔のモノと知りながら、それでも知らないふりをして、新迷宮の謎を解いてくれ、とお触れを出して懸賞金をかけたのです」
「赤死病の正体が魔のモノ由来のモノと知られたくないから、ですか」
「ええ。魔のモノの事を話すとなると、五層の事も話さなくてはなりませんし、五層の事を話すと、まぁ、他にも色々な事を明かさないといけなくなりますから。とはいえ皆さんの場合もうこちら側ですし、興味がおありでしたら、魔のモノについてだろうと、第五層についてだろうと今度詳しくお話しして聞かせますよ」
「ああ、それは是非。いやぁ、心が踊りますねぇ」

彼らの会話だけが耳に入ってくる。だが、その様子を観察しようという気にはならなかった。不思議なことに、両親を赤死病で亡くした際にあった悲しいとかの感情は消え去っているはずなのに、彼らが死んだ原因を隠していたという事実に対する怒りがこみ上げてくる。由来もわからないその憤怒の感情は、目の前で朗らかに会話を続ける彼らを目の前にして、グツグツと煮立ったスープのように、その温度を上げ続けていた。

―――じゃあ、そんな貴方達の都合で、シンは死んでしまったのか

「――――――、あ……! 」
「―――、ご歓談中悪いのだがね。そろそろ本題に入ってくれないか? 」

喉元まで出かかっていた沸騰した思いを吐き出そうとした瞬間、我関せずを貫いていたエミヤが口を開いた。彼は普段通りを装ってはいたが、まるで感情というものが抜け落ちたかのような様はどうにも不自然で、それが逆に、彼が冷静を努めているのだなと直感させた。

「クーマ、結局依頼とはなんだ。君は私と彼らに何をさせたいのだ」

そういえば、話の焦点はもともとクーマの依頼であった事を思い出す。逸れていた話の熱に冷や水がかけられた事で、煮沸していた気持ちもまるで蒸気のように霧散してゆく。彼の冷たい一言は、私の煮立った気持ちを冷めさせてくれる効果を持っていた。

ダリやサガ、ピエールに魔のモノの説明を行なっていたクーマは、エミヤの一言を聞いて、またやってしまったか、といった感じのバツが悪そうな顔を浮かべると、いつものように咳払いをして、姿勢を正し、そして告げた。

「はい、私たちの依頼とは、つまりはこうです。新迷宮の奥へと挑み、その奥にいるのだろう魔のモノを鎮めて欲しい。―――、これを使用する事で」
「――――――」

クーマの差し出した赤い石を見た瞬間、エミヤは今度こそ目元から肩に至るまでの間の全ての力を抜いて、愕然という言葉が似合う姿で、その宝石を指差した。

「―――、それは」
「珍しいでしょう? シンジュクの更に地下、真朱の窟の更に深いところで見つけた、世界樹の上という環境では滅多に手に入らない宝石、天然のルビーです。……多分、貴方の生きていた時代でも相当珍しいものだったのでしょうね」

差し出されたそれは、たしかに非常に綺麗な赤い石だった。オーバルカットされたそれは、カッティングされてなお、手のひらに乗せて余るほどの大きさの石で、その縁を彩る金属の造形も素晴らしい。おそらくは一流の職人の仕事だろう。

そうして周囲の光を取り込んで光輝を振りまく宝石は、たしかに気品と風格があったけれど、何故それをクーマは珍しいというのか、なぜそれを見てエミヤが驚いているのかはまるで検討もつかない。だって、あのくらいの大きさのものなら、旧迷宮の三層で取れる鋼石、コランダム原石から造れるルビーやサファイアの方が、よほど大きいものが手に入る。

その答えを求めて周囲を見渡すと、同じような疑問を抱いていたのは私だけでないようで、ダリもサガも疑問を顔に浮かべて首を傾げている。ただ一人、ピエールだけが好奇の視線でその赤い宝石を眺めていた。どうやら彼だけは事情を知っているようだ。

「へぇ、本物の宝石なんて久しぶりに見ましたよ。実家を出て以来です」
「あの……、ピエール? ルビーのどこがそんなに珍しいの? 」

尋ねると彼は、まずは驚いた顔をしてみせて、次に意地悪く口角を上げると、にこやかにクーマに話しかけた。

「クーマ。手にとって見てもよろしいですか? 」
「ええ、もちろん。でも、扱いには気をつけてくださいね」
「ええ。傷をつけてインクルージョンを増やすような真似はしませんよ」

いうと彼はクーマの手のひらから、恭しくハンカチを用いてその宝石を己の手にして、大事に布で包み込むと、両手の平で優しく包み込んで私の前まで持ってきて、広げた。

「覗き込んで御覧なさい」
「―――わぁ……! 」

途端、その透明度に見惚れた。いつものルビーと違って表面に現れる六条の光はぼやけた輝きであるのにだからといって頼りないわけでなく存在感を主張し、そして宝石の中に閉じ込められた光は、いつものとは比べものにならないくらい内部でキラキラと乱反射を繰り返して、宝石の周りに真紅の色をばら撒いていた。

「これが本物の宝石です。私たちが日頃アクセサリーなどに用いる人造のものとは違う、天然の宝石。私の家にあった、六爪の指輪に支えられた透明なダイヤなどより、よっぽど品があり、美しい……」
「これが本物……」

なるほど、たしかに目の前のルビーには、今まで自分が取り扱ってきたもの全てが贋作であると思えるほど、内部は星空の光をそのまま閉じ込めたかのような流動性に満ちていて、決して人の意思が介在しては作り出すことのできない、天然の優雅さと高貴さがあった。

「―――あ」
「―――――――――」

そうして天然の鉱石の内部に作り出された万華鏡の光を楽しんでいると、やがて突然、鑑賞は浅黒い肌によって遮られた。エミヤの大きな手はそっとルビーの縁を掴むと、くるりと回して背面を確認し、そしてもう一度表面にすると、宝石を手にした時と同じように、呆然と驚愕の感情を使い切ったような表情で佇む。

「心配しなくとも、片面半分だけの贋作なんかじゃあありませんよ」

ピエールが言ったそんな言葉も、今の彼には届いていないらしく、ルビーを持った時の姿勢のままで固まっている。目の前に出現した赤のたくましい彫像は、その固定化された外面とは裏腹に、その内面ではルビーの中の光の乱反射もかくやという勢いでいろんな思いが錯綜しているに違いない。一体何がそんなに彼の琴線にふれたというのだろうか。

「―――クーマ、君は一体、これをどこで手に入れたと言った? 」

エミヤは滅多に崩さないその仏頂面を珍しく崩していた。その質問も、思わず素直に口から出てきたという風に見受けられる。どうやらそのルビーの登場は冷静を常の態度と彼の仮面を剥がしてしまうほど、よほどの重大な予想外であったらしい。

「旧迷宮、第五層シンジュクの最下層にある建物から、さらに地下に潜った場所にある、第六層「真朱の窟」の一番下のある部屋に置かれていました。初代院長ヴィズルの記録によりますと、このトオサカの宝石は、魔のモノの侵食を抑制する効果があるらしいのです」

トオサカ。その名前に、今度こそエミヤは感情抑制の臨界点を超えたようで、体内に残っていた分の驚愕を余さず使い切ったかのように、取り繕うのを忘れて、息を呑んで目を見開き仰け反って、愕然とした表情で手にしていた宝石を布の上からそっと握りしめた。

エミヤのその宝石を握る動作は無意識だったのだろうが、しかし宝石に対しての優しさを秘めていて、決して手荒なものではなかった。その思慮と遠慮の入り混じった所作からは、ルビーに対する特別の思いが見て取れて、私は直感する。

―――間違いない。エミヤは、このトオサカの宝石について、何か知っている。

シンジュク、魔のモノ、トオサカの宝石についてなど、エトリアの相当上層部の中でも、さらに限られた一部しか知り得ない、遥か昔に滅びた過去の知識を知っているなんて、普通じゃない。多分彼は、おそらく先ほどクーマが言っていた、過去からやってきた人間、という推測が正しいのだろうな、と勝手に思い始めていた。

しかし不思議だ。

一体、なぜ彼はそんなにも頑なに、そんなどうでもいい事を隠そうとするのだろうか。

木目の扉を開けて部屋の中へと入ると、満たされていた温熱の空気を突き進んで窓を解放する。窓から吹き込んでくる風は、あっという間に部屋と扉の通り道を駆け抜けて、部屋の隅々まで森羅の香りが満ちてゆく。

おそらくそろそろ夏の季節だからだろう、部屋を駆け抜け体を撫ぜる風は、涼しさの中にもどこか生暖かさを秘めていた。部屋の扉が風に押されて、大きな音を立てて自然と閉じる。

女将の文句が飛んでくる前に扉を閉めてくれた一瞬の颶風に感謝すると、胸元より赤い宝石を取り出して夜空に掲げた。すると真紅の宝石は、天空より落ちてくる淡い光と、街中に満ちる街灯の光を表裏より取り込んで、これ以上ないくらいに存在感を主張した。

宝石は月光と燭光を吸収し、その周囲の空間との間に真紅の壁を作り出して内外の関わりを断絶している。己の周囲にオーラを纏うようにして存在感を撒き散らすその所業は、宝石の内部に魔力という余分が蓄えられた状態でしか起きない現象だ。

溜め込まれた内部の魔力が絶え間なく流動することによって生じる独特のこの光の反射がなければ、たとえその姿と宝石が関する名前が、かつて彼女が持っていたものと同じだとしても私はこの宝石が凛のものであると確信はしなかっただろう。それくらいには、この宝石が目の前にあるという奇跡は信じがたいものだった。

「―――、魔のモノを封じる力、か」

そう、これは、間違いなく、凛という彼女が持っていた、遠坂家秘伝の切り札となる宝石だ。かつて己を死の淵から救いあげた宝石が、今この手の中にある。数千年の時を超えた邂逅は、驚愕の事実伴って私を興奮の坩堝に叩き込んだが、夜風と月夜に晒されて淡い光を放つその宝石は、興奮の余熱が収まらぬ私の意識を冷静の状態へと変化させる効力を持っていた。

私は部屋にそよそよと侵入する涼やかな風の移動を邪魔するように窓辺に腰かけると、胸の内に大切に宝石をしまいこんで腕を組む。そうしてそのまま何をするでも無く部屋の中に飛び込む月と街の明かりが生むコントラストの変化を楽しんでいると、部屋の明るさが先の会談の場所のそれと一致したためか、ぼうっとした頭はとつぜん先程のクーマと異邦人一同との話し合いをの事を思い出すこととなった。

―――しかし、醜態を晒してしまったな

新宿、魔のモノ、赤死病の正体、提供された情報はどれも私の裡の琴線をかき乱して胸の底までを混沌に叩き込む十分な破壊力を秘めていたが、特に実体のあるこの宝石を目の前にした際は、逆波渦巻く心中の内部を混乱もろとも欠片も残さず吹き飛ばすほどの威力で、私の余所行きの仮面を全て吹き飛ばしてしまったのだ。

その結果があの無様だ。彼が魔術という存在を知らなかったが故に、己がこの世界にやってきた詳細な理由などを予測して的中させられることはなかったが、それでもだいぶ私の正体と近いところまで勘付かれている。加えて、トオサカという名が過去の記録に残っている事から考えるに、このまま調査が進むと、いつかは己の隠し事全てが暴かれてしまうかもしれない。

―――……、ふむ

そう考えて、喉に骨が引っかかったような違和感を覚えた。……、そもそも、なぜ己の正体が暴かれることにこうも抵抗を覚えるのだろうか。どうせもはや誰も己の事を知らぬ世界だ。また、この世界では、魔術の代わりとなるスキルという技術が隠匿されることも無く一般の隅々にまで広がっている。さらに一部の人間は、過去から来た人間というものを受け入れる度量すら持ち合わせていることが此度の会見で判明した。

そんな世界において今更、己が元英霊で過去の存在であるだとか、魔術という異能を異端者であるとかは、己の正体を隠す言い訳にもならない。ならばわたしは一体、なぜ―――

「―――む」

疑惑を思考しようとしたその時、部屋ごと吹き飛ばすかのような風が吹いた。小さな窓よりその威力を強めながら部屋に入り込む颶風は、窓辺に腰掛ける私の背を強く押して、立ち上がることを強要する。

私はその要望に素直に従って両の足で木板の地面を踏みしめると、背後より不躾な振る舞いをした輩の顔を拝んでやろうとするかのように、振り向いて四角い窓の外へと視線を移した。

「―――ああ」

瞬間、視界いっぱいに広がる、平穏の光景。夜空と街との狭間で自然と人工の光が衝突を起こして、淡い光の霧を生み出している。霧は我を主張することなく、静かにエトリアの街を包み込むオーロラとなりて、森林に囲まれた夜の街に光の帳を下ろしていた。

視線を街から外してみれば、雲一つない夜空、その中心で煌々と輝く満月は、その嫋やかな光彩を惜しげもなく街近くの森林から草原を辿り、山の稜線にまでその領域を広げて、月下は美しきに溢れている。

そこだけ切り取れば、寂寞と雀躍の色を引き裂く様にして希望が塗りたくられたような景色は、まさに負の感情というものと無縁という世界を象徴するかのような寓意に満ちていて、私は、己がなぜこうも己の正体を明かすことに躊躇しているのかを悟らせる効力を存分に発揮していた。

―――果たして。この負の感情が一夜で失われる未来の世界において、私という、もはや別世界と言っていいほど異なる環境にて気質性質を培ってきた人間が考える正義とは、本当にこの世界においての正義と呼べるのか

とどのつまり私は、私の目指す正義の味方というものが、この世界において独善でないかを心配しているのだ。昼間の葛藤と同じだ。私の独善というタッチも色合いも違う異物が、優しさをモチーフにして書きあげられた絵画のようなこの世界に加わることで、絵が元の美しさを損ない、粗野で野卑な贋作めいた作品になることを、なによりも恐れている。

―――私は……

A.いや、こんなことを考えている暇はない。
B.一旦、時間をかけてこの世界のことを深く知る必要があるかもしれない。

→ A:選択

いや、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。クーマはまだ余裕があるとは言っていたが、言峰の言動から察するに、魔のモノは今こうしている時も、負の感情を糧として力を蓄え、なにかを企んでいるに違いない。

宝石を用いて封印作業を行うなら、相手の力は少しでも万全でない内に処理を行った方がいいに決まっている。雑事を考え懊悩するのは、奴らの処分が全て終わってからでも遅くはないはずだ。

私は決心して、一歩を踏み出すと、扉を開けて階下へと向かう。主人を失った部屋の中は、主人の心の伽藍堂を象徴するかのように空虚に満ちていて、扉が静かに閉じられた後はすきま風ひとつ起こらない静寂さを取り戻していた。

―――この部屋に夜明けの光が差し込む時は、まだ遠い。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第十一話 「生き方を選べ」