うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
両者が背水を背負うなら、より死を恐れず足を踏み出す方が、勝つ。

赤い部屋の色が白くなってゆく。心中に溜め込んだ感情を伴った記憶が失われていく。そうして白くなってゆく部屋を前に、私はしかし、以前のように残念の感情を抱くけなくなってきていた。

一角を見渡す。白く清潔なこの部屋の、その病的なまでな空白には見覚えがある。あれは……、そう、あれは、生前。かつて己がまだ無垢に正義の味方という存在になれると信じきっていた頃、そうして過ごした武家屋敷の中にあった己の部屋だ。

誰かに空っぽの部屋と称された、そのいっそ己は何も得てはいけないのだという執念すら感じられる、余計という言葉とは無縁の部屋は、今この白く漂白されつつある部屋のあり方とよく似ていた。

赤い部屋。他人が向ける感情を自分の裡に押し込めて、そうして部屋が血の色に染まってしまうくらい、目に見えない憎悪と悔恨と絶望とを蒐集してきただけの部屋は、そういった他人の感情を失ってしまえば、己というものが感じられないくらいに、無謬に自己の不在を証明し尽くしていた。

この先に一体何がある。他人の残念の想いだけを蒐集してきた部屋が空っぽになった時、果たして己の中には一体何が残ってくれるというのか。先のことなど考えたくはない。しかし、その答えを見せつけられてしまう時はすぐそこまで迫っている。

時計の針を無理やり進める、己の無様をとことん露わにしてゆく怪物を見る。奴はこの世界に来てから二ヶ月近くでそのだらしない体を大きく肥大化させている。単眼携えた脳からは、頭足類の足ばかりの巨体が出来上がってきている。赤を吸い込んでばかりのそいつの体は、その赤に秘められた真の感情を反映してか、驚くほどに真っ黒く染まってきている。

あれが己の理性の顕現だとしたら、あまりにも醜悪すぎる肥大化した体には果たして、己はどんな寓意を込めているのか。あるいは自己嫌悪の象徴こそがその醜悪な外見に現れているというのか。

部屋はもうほとんどが白くなっている。後どれくらいの時が残っているのだろうかはわからないが、限界は近いと思えた。この赤い部屋が、まるでかつての自分の部屋のような世界が再び空に満たされた時、果たしてその無情の部屋の中で、私は何を、誰を思えるのか。

限界は近い。ああ、もういっそ、このまま、奴の与えるこの忘却の救済に身を任せてやるのが正しいとすら思えてくる。そんな弱気を抱く自分に怒りを感じることすら出来なくなってきている。なら。そう、ならいっそ―――

―――ふむ、薬が効きすぎたか

そうして全てを諦観の彼方に追いやろうかと考えた時、混濁した頭の芯にすら滑り込んで不快を呼び起こす、そんな、醜悪さを兼ね添えた低い声が聞こえた。相変わらず、望んでいない時にばかり現れる奴だ。

「―――何の用だ」

抱いた不快を吐き捨てるようにいうと、影はその様を愉快とばかりに笑い、そして言う。

―――何、悩める仔羊の告解でも聞いてやろうかとおもってな

不快。それ以外で表現するのも憚られるその影は、やはり不快な声で、不快な事を言う。

「は、貴様に心の裡を明かすくらいなら、壁にでも語りかけた方がまだ建設的というものだ」
―――良く言う。先ほどまでよりもよほど饒舌になったではないか。
「貴様にだけ喋らせておくと碌な事がないからな。その機会を損失させるためには、いやでも自らから語りかけるしかあるまい。全く、余計な手間だけ増やしてくれる」
―――減らず口を。

なるほど悪意の記憶が失せてゆく部屋で、相手を否定する言葉を交わし合うその不毛は、しかし自身の気持ちを苛立たせ抵抗の意思を奮い起こさせる効果は持っていたようで、私は自然と饒舌を取り戻していた。

「―――改めて聞こう。貴様、何者だ? 何の目的でこの場所にいる? 私の分身ではないのだろう? 」

やはり吐き捨てるように言うと、その言葉を聞いた男は、それが心底おかしいとでも言うかのように、哄笑し、嘲笑し、そして痛烈に言ってのけた。

―――くく、いやいや、そんなことはないとも。私と貴様は方向性こそ真逆だが、そのあり方は同一の存在だよ、エミヤシロウ。―――そうだな……

その黒い影の男は心底愉快そうに私の名前まで述べると、少しだけ輪郭を露わにした。その長身で、背筋に芯の通った、ガタイのいい体格に私はどこか見覚えがある気がした。

―――お前が私の名を当てたのなら、そうだな、その時は、報酬の代わりに講話のひとつでもくれてやろう

哄笑。反転。

久しぶりに最悪の気分で目がさめる。起き上がり窓より覗く空を見上げれば、昨夜に引き付き暗雲が立ち込めていて、糸雨がはらはらと空を舞っている。窓に近寄って地面を見下ろしてやると、すでに一雨がきていたらしく、石畳のあちこちに水たまりが生まれていた。

どうやら一晩の間続いた雨はよほどひどかったようで、この時間、常ならそれなりの人で溢れている表通りは、驚くほどに人の姿がなく、街の静けさに誘われるようにして狭い枠から覗ける漆喰の壁と壁面を見てやれば、温度を失った街はいつになく暗鬱な色を携えている。人気を失って殺風景を体現した空っぽの街が、そうして別の色で染め上げられていく様は、まるで今の私の状態をそのまま映し出したかのようだった。

赤い部屋を白に侵食する、化け物と影。影と化け物に重点を置くならフロイト論で考えるのが正しいだろうか。もはや理性の化け物ではなどではない、影のことが過去の何かの象徴であるとするならば、あの影が言っていた言葉そのものがヒントであり答えの筈だ。

―――方向性こそ異なるが、似て日なる存在

方向性。英霊エミヤの方向性。在り方。正義の味方。他者の救いに比重の重きをおく、人格破綻者。それと同一かつ、真逆の存在。悪の味方。悪の容認する、人格破綻者。ならそれは。

「……まさか」

そんなはずはない。そもそもここがあの時より何年先の未来の話だと思っている。否、そもそもかつては英霊であった私の精神という場所に、ただの人間であったあの男が、巣食えるはずもない。ありえない。そうだあり得るはずがない。そんなことあり得るはずがないのだ。

―――しかし

言峰綺礼―――? 」

疑念を形にした瞬間、雨風が強く窓を叩く。一度その勢いを弱めていた雨足が元の強さを取り戻し、盆地であるはずのエトリアに嵐のごとき風雨が逆巻き、街の温度をさらに下げてゆく。天空を覆う灰色がその色の濃さに比例して、一層街の雨化粧も過剰を増してゆく。

虚空に問いかけを漏らしても、疑念の答えは出ない。光彩の薄れた孔雀緑の屋根から落ちる雨だれがその数を増やしてゆく中、湧き上がる疑念は雨樋を流れる水量の如く増えてゆく。

夕刻。答えの出ない問いの答えを探すなど無駄と知っていながらも、思考は勝手に余計の袋小路に迷い込みたがる。気分を晴らすために外を彷徨こうにも、己を宿に閉じこめるかのように、太く重い間断のない雨の檻が外出の選択を奪っていた。

―――結局、時間を無意味に消費してしまったか

ため息混じりにベッドから腰を浮かすと、首を左右に振る。姿勢を強要されていた骨が悲鳴をあげ、硬くなっていた繊維が伸びる音がした。どうやら昨夜、迷宮より帰還したばかりの疲労は一日では取れなかったらしい。疲労を露わにする音は、疲れを自覚させるきっかけとなって、もう一度重苦しいため息が漏れる。

同時に午後五時を告げる鐘の音がなった。雨中を切り裂いて鳴り響く金属同士のぶつかる音は、多少の重苦しい空気を払う効果を持っていて、誘われるようにして扉をあけ、いつもよりも機嫌の悪い木造の床を軋ませながら階下へと降りる。

「やぁ、寝坊助だね」

すると、受付にて女将のインがいつものように話しかけてきた。青みがかった緑色の瞳を携えた顔が意地悪く歪む。

「ああ、そうだな」

皮肉を返してやる気分でもなかったので素直に返答してやると、女将は異常を見つけたとばかりに片唇を捻じ曲げて、

「エミヤ。今日は随分とまた素直じゃないか。さては今日のこの雨はあんたの仕業だね」

などと返してくる。私のお株を奪うその行動は、なるほど、多少は落ち込んだ気分を発揮する効果を表して、私に何かしら言い返してやらないといけないなと思わせる効力をも発揮した。

「おや、心外だな。私の記憶が正しければ、この雨は昨夜から続いていたはずだが。昨日のことも思い出せぬほど耄碌したというのなら、施薬院に行くのをオススメするが」

多少強めに言ってやると、女将は「それでこそエミヤだ」と言って顔に皺の数を増やして見せて、上機嫌に椅子より立ち上がり、食堂の方へと向かう。ついてこいという無言の指示を飛ばすその背中に続くと、やがて様々な料理が所狭しと立ち並ぶ机の光景が現れた。

十品目ほども小皿に並ぶ包子や焼売、炒飯などの中華は、おそらくは鐘の音がなる頃には出来上がっていたのだろう、すでに少しばかり温かさを失っていたが、それでも製作者の腕の良さを示すかのように、整った姿を保っていた。

「うっかり作りすぎたのさ」

彼女は言うと、奥のイスに腰掛けると、机に伏せて顔を隠した。彼女が照れた時に見せる所作だ。おそらくは、昨日、宿屋に帰還した途端、倒れこむようにして部屋に入ったのを見て、気を利かせてくれたのだろう。

「感謝する」

料理に端をつける。並ぶ中華の品々は、多少の熱を失ってべたついたが、それでも女将の気遣いと言う熱で温められて美味しく仕上がっている。

「美味い」
「当然よ」

短く交わすと食事に戻る。しばらく時間をかけて片付けると、彼女は空いた小皿を纏めて奥へと持っていき、しばらく水の音を響かせたかと思うと、小さな平たい急須を多少深い皿の上に乗せて、ひとつの壺に二つの、とお湯の入ったヤカンを持ってやってきた。茶壺に、茶海に茶筒。どうやら今日の食後の一杯は台湾茶と決めたらしい。

聞香杯はいらないね」

言うと、乱雑に湯を皿の上の急須に注ぎ、その淵まで溢れたのを見て頷くと、蓋をして、そしてもう一度湯をかける。湯が皿の上に外と内より温められて、中の茶葉が空いた蓋の隙間から零れ落ちた。甘い香りが漂う。

一、二分ほどして余った湯で器を温めると、湯を壺に捨てて小さな茶杯に茶を注ぐ。器に注がれたほんの一口ほどの薄緑の液体を口に含めると、ちょうど良い甘さが考え事で疲れていた頭を解してゆく。

しばしの無言。手のひらで遊ばせていた湯杯は、すでに部屋の中へとその温かさを共有している。話すきっかけを失って、手持ち無沙汰になった頭で呆然外の様子を眺めていると、インが呟くように言った。

「雨、やまないねぇ」
「ああ」

言うと再び無言の帳が落ちる。外に降る雨は二人から会話の熱までも奪うかのように、闇色に染まりつつある地面を打ち付けていたが、外の冷えた温度に反して、二人の間にある沈黙は、不思議と柔らかなものだった。

「よぉ、エミヤ」

柔らかな沈黙の時を破ったのは、受付に現れた「異邦人」の一行だった。迷宮より脱出直後、強く打ち付ける雨の中をやってきたのだろう、五人の体は頭から足元までが新迷宮三層に潜った証であるかのように濡れていた。

女将が小さな悲鳴をあげながら奥へと引っ込むと、大きなタオルも持ってきて、四人の男に文句を言いながら乱雑に一つずつ投げつけると、入り口近くで服の水気を絞っている響にだけにだけは優しさを発揮して、濡れた頭を拭ってやっていた。

「どうした、こんな時間に」

受付に備え付けられた機械式の時計を見る。もう時刻は八時を回っていた。電気文明の世界なら、まだ宵の口とも言えないような時間だったが、早朝と夕刻の五時を基準に動き出す冒険者たちにとっては、そろそろ迷宮へと旅立つか、寝る準備をする時間帯だ。

「いや、その、なんだ」

他の男三人が大荷物の水分を拭う中、体が小さい分だろう、真っ先に手隙となったサガは、ひどく体を悶えさせた後、決心したかのように頷いて、口を開く。

「エミヤ。ちょっと、相談があるんだが、いいか」
「なんだ」
「あー、いや、あんまり人に聞かれたくない」

言うと彼は、目線を階上の部屋へと移した。密談がお望みということか。

「私は構わんが……」

少女の面倒を見ている女将の方に目線をやると、彼女はため息を吐いて受付から宿帳を出すと、めんどくさそうに言った。

「宿泊するってんなら、中で何をされようと私は関与しないよ。後、エミヤ。やるってんなら、その間、あんたの部屋の掃除をすませちまうがいいかね」

私は静かに頭を下げて、彼女の提案に感謝を返した。

案内された部屋は、冒険者用の広い部屋だった。私が常の寝床としている一人用の部屋とは違い、部屋の中央端にはダブルのベッドが二つ並び、一人がけの椅子と机は、三人がけのソファと丸椅子と三個の金属椅子に変化していた。

また、部屋の端っこにあった鎧がけも、大きな棚と箪笥に変化しており、窓の数とカーテンの数とその大きさも約二倍ほどに増えていた。机の上に聖書がない事だけが、あるいはこの世界における全ての部屋における共通項だろう。

これが一泊百イェンと、三百五十イェンの部屋の違いということか。

「あー、やっと、落ち着けるー」

言いながらサガがシーツへと飛び込んだ。真っ白なシーツは体重を受けた場所からシワを作り、無礼者を受け止める。ダリはそれを咎めるような視線を送りながら棚に鎧兜を置くと、盾を壁に立てかけて奥のソファへ腰掛け、ピエールは竪琴を持ったまま静々ともう一つのベッドの端に腰掛けた。響は無手で、シンは刀を持ったまま、仲良く並んで、丸机前の椅子に腰掛けている。

「それで、なんだ」

改めて問うと、一同は見合わせて、そして無言の帳を下ろす。いつもなら率先して話しかけてきそうなサガや、ダリ、シンまでもが口を噤んで黙っていた。

「……らちがあきませんね」

ピエールがため息を吐いた。薄い唇から漏れた吐息が、明るさを帯びて宙をゆく。

「エミヤ。単刀直入にいかせていただきましょう。―――私たちと組みませんか? 」
「――――――」

突然の申し出に驚愕。その衝撃を受けた所作をどう捉えたのか、ピエールを除く男三人は顔を見合わせて、そうしてそれぞれに歪めた。

「なぁ、ほら、やっぱり。こういう反応になるだろ」
「うむ。この申し出は、あまりにも不躾が過ぎるというものだ」
「まぁ、突然すぎたからな」

どうやら一同は、己のそれを拒絶の反応と捉えたらしく、それぞれに失敗の予感を口にする。そんな中で、ピエールと響だけが、違った反応を見せていた。

「それで、どうです、エミヤ」

ピエールが問う。私は一瞬その提案を聞いて思考を停止させたが、すぐさま脳の血の巡りを良くすると、反応して聞く。

「一体、どういう意図があってその結論に達したのかね? 」
「ええ。実は、私たち、三層の番人の部屋の前までたどり着いたのですが、まぁ、ちょうど手持ちの道具などが心許無くなりましてね。そこでダリとサガが撤退して準備を整えてから番人に挑もうと提案したのですが、シンは貴方に先を越されたくないからさっさと挑みたいと聞かなくて」

ピエールはそこまでいうと、一気に喋りすぎたとばかりに喉元をさすって、咳払い一つ。

「まぁ、そうして二人と一人。特にダリとシンが互いの意見を押し通そうとして譲らない。ダリは一週間は準備に欲しい。シンはそんな期間あったら、貴方が三層番人を倒して突き進むという。まぁ、どっちのいうことも最もなので、折衷案として、私が最初から協力を要請して一緒に倒してしまえばいいじゃないですかと頼んだわけですよ」
「……」

折衷というにしては、あまりに明後日の方角を向いている案のように思える、とりあえずは二人の意見を確かに汲んではいる。要は、こういうことだろう。

「つまりあれか? 君たちは、一週間という期間の後、私とともに番人の部屋に挑みたいということか? 」

口から出した言葉に反応して、ランプの光が揺れた。まるで、一同の意思を問うかのようにその身を震えさせると、彼らの影をゆっくりと順に伸縮させてゆく。

「ええ、その通りです」

ピエールが最初に反応した。

「私としましては、ついでにその後の、多分あるだろう四層、五層の探索も協力してもらえればと思っているんですがねぇ」
「お、お前何をバカな」
「ピエール、それは流石にいくらなんでも……」

ダリとサガが続いた。シンだけは一切反応せず、こちらの出方を伺うような視線を向けている。おそらくは、間違いなくその通りなのだろう。

「なぁ、やっぱあれだって、こんな寄生みたいな真似良くないって」

サガが眉をひそめて言う。

「まぁ、我々も何度か同じような輩に辟易とさせられてきたわけであるしなぁ」

ダリがしみじみと言う。

そして。

「――――――、了解だ。その提案、受けよう」

二人の懸念をバッサリと断ち切って、私が提案を受託する。答えた瞬間、二人の反応は劇的だった。二人ともピエールに抗議の姿勢をとったまま動かない。まるで石像にでもなってしまったかのようだ。

「おや、よろしいので? 」

ピエールは少しばかりの驚きを顔に貼り付けて言ってのける。その、いかにも一応礼儀として驚いておきましたよという態度からは、実のところ、私の回答が彼の予想通りだったのだろうことが読み取れた。

「良く言う。その反応から察するに、私が受けるのは君には読めていただろう? 」
「ええ、まぁ。これでも、人を見る目は持ち合わせているつもりですよ」

ピエールはやはりいつものように涼しげに笑い、意地悪く目元を逆三日月にして、誇らしげにそう述べた。

「―――、いいのか、エミヤ」

結論を述べると、ようやくシンが訪ねてくる。黒曜石のように済んだ瞳には真意を図ろうとする意思に満ちていた。

「エミヤ。悔しいが、今の私たちより、君個人の方が、実力は上だ。だからこれは、言ってみれば、格下が、格上である君を、利用したいという宣言だ。私たちは、以前響を利用しようとした彼らとやろうとしたことを、以前、そんなことはやらないといったことを、我らは今、進んで行おうとしている。唾棄に値する行為だ。他人の情を見込んですがり、自分の実力以上のことをなしとげようなど、あまりに厚顔無恥な提案だと思いはしないのか? 」

シンはなんともまっすぐ、饒舌に、馬鹿正直に聞いてくる。多分、何か過去の経験で、実力が格上だの格下だのといった事で嫌なことがあったのだろうか、己を乏す原因になっていることが読み取れる。

しかしなにが琴線に触れているのかは知らないが、ともあれ、私は言ってやる。

「ふむ……悪いがシン。私としては、正直、そういう、誇りだのなんだのは、どうでも良いことでね。この身を誰に利用されようが、誰がをどんな結果だそうが、私にはあまり関係ない。私にとって重要なのは、謎が解明されて、人が死なないようになってくれれば、それでいいのだよ」

述べた言葉は、シンにとって相当意外だったのか、雷を打たれたかのように彼は停止した。良く分からぬが、おそらくは名誉を重んじず、実利を優先する私の態度が以外だったのだろう。その黒曜の瞳には、明らかな動揺の色が浮かんでいた。そんな彼の様子を見てピエールがクスクスと笑いながらいう。

「だから言ったでしょう、シン。みんながみんな、貴方みたいに潔癖な考えの持ち主じゃあないんですよ。その表向きバッサリとしている癖に、何が出来る何が出来ないだけに価値の重きを見出して、わかりやすく他人の上下を評価する癖をやめた方がいいですよ」

言われてシンは、目を見開いてピエールの顔を注視した。高い戦闘能力に見合った威圧が周囲に撒き散らされて、隣に座っていた響がまるで極寒の吹雪の中にいるかのように、体を縮こめた。

普段のバトルマニアと称される彼からでは、とても想像もできないその動揺は、おそらくはピエールの言ったことが真実なのだろうことを何よりも如実に告げているようだった。

周囲の、特にダリとサガはピエールの言った言葉とシンの応対を見て、さも意外そうに驚いている。おそらくは、シンがそんな人間だとは夢にも思っていなかったのだろう。だが、私はそんな彼らとは逆に、ピエールが暴いたシンという人間の性質に、少しばかりシンパシーを感じていた。

―――ふむ、この世界の人間も、案外闇を抱えているものだ

入り口の衛兵や、ヘイだの、クーマだの、ばかりと接していたから、安穏で平和ボケしたような人間しかいないと思ってたが、ピエールといい、シンといい、この世界の人間の中にも、案外、かつての旧世界にいたようなひねくれ者や、鬱屈、侮蔑の感情を抱えた人間もいるらしい。

そうして隠していたところを暴かれた彼は、しばらくの間、燃え盛る炎のような気配を周囲に撒き散らしていたが、突如、ふっ、とその猛炎を鎮火させて、ピエールに言った。

「ああ―――、まいったな。さすがだよ、ピエール」

必死に心の中に押し込めて隠していた醜いものを晒しあげられたシンが、しかし顔に貼り付けていた無表情の仮面を落とし、全身から力を抜き、肩を落として述べたその言葉からは、気負いというものがまるで感じられない、まさに、まさに憑き物が落ちたという表現が合うものになっていた。

世界樹の新迷宮
第三層「疾走の朱樹海」
第十五階「誓約と闘争に満ちた生涯を駆け抜けた英雄」

番人が待機する広場は樹木も岩石も滝も湖も浅瀬も無い、本当になにもない単なる広い空間であることが多い。だが今回、扉の向こうにあった光景はその常識とかけ離れた空間であった。ただしく「樹海」と表現するのが正しいのだろうか。いや、樹木が所狭しとばかりに視界どころか行く手も遮り、上下左右斜めの方向へ無造作に幹と枝葉を伸ばす様は、大樹海とか、密林樹海とか形容するのが正しく思える。

「まともに進めないな」

シンが鉈を振るって、樹木の上より垂れ下がっている蔦を切り払った。蔦はバサバサと地面に落ちて青臭い匂いが周囲に広がり、鼻腔に入り込んで不快を引き起こす。シンはそのまま身を屈ませて作業によって現れた樹木の幹と幹の下の通路を通ると、再び鉈をふるってバサバサと蔦を落として視界と進路を確保する。私達はそうして作ってもらった青臭い小さな通路に続く。そうして少しばかり進むと、シンが突如作業の手を止めた。

「どうしたんだよ、シン」
「……見ればわかる」

サガの質問に素っ気なく答えると、前に進み、膝を伸ばして背筋をピンと伸ばした。立ち上がったというからには、ついにはひらけた場所に出たのだろう。ダリ、サガ、ピエールに続けて樹木同士が重なってできた洞穴から抜け出すと、縮めていた身を伸ばして体の硬くなっていた部分をほぐした。自分の体からぼきりと鳴る感覚が、なんとも快感だ。

そうして呑気をした後、視線を前に戻した時、見えた光景に私は驚いた。

門の場所より四百メートルほど続いた閉鎖的空間の先にあったのは、先程よりずっと視界の開けた空間だった。半径五十メートルにも満たないその空間は、相変わらず幹が自由に振る舞うのを許容しているものの、それ以外の、例えば苔だとか蔦だとか、役割を終えた葉が落下するのさえ許容しておらず、地面は一様に茶色い砂と幹だけが自由に姿を晒している。砂地に樹木の絨毯が敷き詰められた様は、まるで人が歩くに適していない。

そうして砂と樹木の地面を追っていくと、その先にある、少しだけひらけている小さな広場の中心は、樹木と砂で構成された小高い丘の形に地面が盛り上がっている。樹木をさけて視線を送った先、丘の頂には一匹の身体の大きな獣が横たわり、彼を取り囲むようにして六匹の獣がこちらに視線を向けている。頂に寝そべる体の大きな獣は彼らの主人だろうか。

こちらに視線を送る獣たちの身体は中心に寝そべる獣よりは多少小さいが、それでも今まで戦ってきた多くの奴らよりも大きな体躯を持っていて、すぐさきに起こるだろう戦闘が苛烈なものになるだろうことを暗示しているようだった。

六匹の獣は皆同じ見た目をしている。全身を覆う短い黒毛は、彼らの呼吸ごとに光の反射方向を変えて、その滑らかの在り処を移している。水面に映ったかの如く反射する光の動きの滑らかは、毛並みが持つの滑らかさと艶やかさを証明するに一躍買っている。

敵であるというのにもかかわらず、思わず見とれてしまう美しさを持つ獣は、私の後ろからエミヤが現れた瞬間、ギルド「異邦人」の一同に注がれていた視線を一斉に彼の姿に集中させた。

「……、犬、か」

エミヤは一言漏らした。彼は明らかに目の前に何かしらの特別な思いを抱いている。言葉の抑揚から読み取れたが、それが何かまでは窺い知ることが出来ない。だが、その少しばかりうんざりした様子からは、私は犬に何か嫌な思い出でもあるのだろうか、と思う。

「――――――!」

エミヤが姿を表して呟くと同時に伏せていた犬が一斉に立ち上がる。お尻より伸びた赤い毛のウィップテールをピンと直立させてクネクネと左右に振らしていることから、犬たちがエミヤに対してただならぬ警戒を抱いていることがわかった。

「私達は眼中になし、か」

シンが不機嫌そうに、呟く。ああ、なるほど。たしかにエミヤを見た途端警戒を露わにしたということは、私たちは警戒に値する存在でないと思われていたことになる。シンはそれが気に食わないのだろう。でも仕方ないと思う。だって実際、彼はとんでもなく強いのだから。

周囲の獣どもの異変を感じ取ったのか、寝そべっていた犬がようやく動きを見せた。のっそりとした所作で身を起こすと、全貌を露わにして丘の頂からこちらを睥睨する。体躯の全身を露わにしたボス犬は、しなやかさを彫像化したかの如く美しい姿をしていた。

周囲の美しい毛並みの獣が霞んで見えるほど、全身を覆う毛並みは絹糸のような滑らかさと艶やかさを併せ持っている。巨大な体躯はだからといってゴツゴツとした雄々しさに満ちているわけでなく、引き締まった胴体と四足はすらりと伸びていて、犬が素早く動ける事を容易に想像させた。

下顎から頭部にまで繋がる透明に見えるほど細く薄い毛は、周囲の光を取り込んで七色に美しく輝き、周囲の獣との隔絶を表現している。七色に覆われた毛の中心にある顔にある瞳は同じように光を取り込み、七色に輝き雄々しい視線をこちら……否、エミヤの方へと向けようとしていた。

ボス犬の所作はとても自然で洗練された動きで、私は思わずその一挙手一投足に見惚れる。やがてボス犬とエミヤの視線がぶつかる。七色に輝く瞳がエミヤの向ける鷹の如き鋭い視線を捉えた瞬間、美しい瞳は獰猛さをも兼ね備えた凶暴なものへと変化する。

獣の瞳の変化は見惚れる私の気持ちを瞬時に萎えさせて、薄くなりつつあった敵に対する恐怖心が沸き、無かったはずの闘争心をも湧きあがらせる。変化は数秒後に始まる戦闘の予感となり、身を強張らせる。

「この場で誰が一番危険かを本能的に察知し、警戒態勢に入るか。なるほど迷宮を守る番犬に相応しい態度。まずは流石といっておこう」

だが敵意を向けられたはずのエミヤは、敵の意思など知った事かと言わんばかりの態度で、のんきに敵を褒める。エミヤは少し先、高い場所にいる犬を、高さの低い場所から大いに見下していた。その態度が気に食わなかったのか、ボス犬は大きく低い声で嘶くと、口を上に向け、口先をすぼめて吠える。遠吠えが広間大きく反響した。

後ろから扉の閉まる音が聞こえる。番人との戦いが始まったのだ。私たちは五人と一人のグループに分かれて戦闘体制をとる。続けて六匹の獣三匹づつに分かれて丘より駆け下りてくる。そして大きなボス犬が頂から一直線に、二つのグループの間を直進した。ボス犬が攻撃対象に選んだのは、嘲笑の表情を向けたエミヤだった。

「――――――! 」
「ボス格自ら率先して強敵の対処に当たる心構えは見事。だが驕るなよ、駄犬―――! 」

エミヤは言って前に身を乗り出した。遅れて私たちも続く。加勢しようとした私たちは残りの六匹に動きを邪魔される。六匹は今まで戦ってきた犬達よりも格段に早く、そして力強い。その上、乱立する樹木の間を飛び回り多角的な攻撃をしかけてくるので、毒が使えない。

飛び回る犬達に有効な量の毒を吸い込ませようとするならば、空気中に広く散布する必要がでてくる。それだけの量をあたりにばらまくと、間違いなく味方にまで被害が出てしまう。毒は一定量を体内に取り込むだけで、骨肉を溶かす猛毒だ。間違っても味方が吸入する事態は避けなければならない。ならどう動くべきか。私は答えを求めて周囲を眺めた。

「ではまず、体をリラックスさせましょうか」

真っ先に目に入ったのは、敵から殺意を一身に浴びせられているピエールだ。ピエールは敵がエミヤに突撃をかました瞬間に、スキル「軽業の戦慄」をを歌い上げていた。楽器が奏でる高低音は、喉元を細く白い喉元から生まれる声に調律されて、周囲の味方の反射神経を上昇させ、回避力を引き上げる力のある音色となる。ピエールの生み出す音色は、地面に生えた樹木が行く手を遮る場所においても、あたりを賑わすだけの力を持っていた。

大きな音を立て、そして声を張り上げるピエールは、他の人よりもよりいっそう犬の注意を引く。おそらく人間よりも高い可聴領域を持つ彼らにとって、ピエールの出す音色は不快なものを含んでいるだろう、ピエールが歌うと犬どもはこぞって彼を狙った行動をとる。目を閉じて一心に歌い上げるピエールに前方の六方向から少しずつ時間を空けて不快を露わにした殺意を纏った犬の攻撃が迫るも、彼はその場から一歩たりと動こうとしない。

「ピエール!」

牙爪が彼の柔肉に食い込む直前、ダリはスキル「フルガード」を発動した。物理防御を高める光がダリの周囲を包み込み、同時にピエールのに向けられた獣の攻撃がその光によってダリの方へと誘導され、彼はそれを盾と全身に着込んだ鎧兜で受け止める。

金属音。そうして己の攻撃が不発に終わったことを知ったやつらに対して、ダリがダマスカス製の大身槍を振りまわすと、と、奴らは素早く跳躍してその場から離脱する。ダリを全身に攻撃を受けながらも、予定通りに攻撃を防げて満足気だ。

これまでの戦いで犬達は歌い上げるピエールを率先して狙うことを、私たちは知っている。彼らはその不快な音を生み出す輩を始末してしまおうと躍起になるのだ。だからこそ、私たちは、ピエールは率先して歌い出す。そして、敵より最優先の排除目標として認識された彼をダリが守ることで、被害を彼らにのみ集中することができるのだ。

先ほどまでの戦闘において、私は彼らがそうして生み出した隙を狙って、毒を散布することができた。攻撃を防がれた犬達は、大抵警戒心を強めて、少しばかり距離をとってこちらを観察する行動に移行する。その隙を狙い、毒を地に伏せる犬達にのみ有効な程度地面に向けて適当に撒き散らせば、敵はすぐさま狂ったように悶えて死に絶えてくれた。

だが、今回はその手段が使えない。一番の障害は、周囲の地形だ。鬱蒼と上下左右に向けて生える樹木の幹が、地面に無造作に生えているそれが、平坦な地面を立体的な場所へと変えている。断絶する空間と空間の間を縫うようにして攻撃を仕掛けてくる犬達は、今までのように地面を絶対の待機場所としていない。

また、立体的な動きで縦横無尽に駆け回る彼らは、樹木と樹木の間に一定でない風を生み出して、不均一な空気の流れを生み出している。改めて、このような環境において、今の自分の力量では毒を犬達にのみ有効となるように散布するのは不可能だ、思い知る。

この場をどうにか出来るなら、多分現状最高戦力のエミヤか、と思って周囲を見渡すも、彼はいつのまにか私たちのそばから消えていた。引き離してくれたのか、引き離されたのかは知らないが、遠くで断続的な、不規則な剣戟の音が聞こえる。どうやら彼は、私たちと少し離れた場所で、一人で戦っているらしい。私たちが付いていくのがやっとの犬と、たった一人で対等に戦えている彼が羨ましい。

自らの力量不足を悔しく思っていると、ピエールに群がっては、ダリに蹴散らかされている犬が突然、不自然な挙動を見せた。犬の予定していただろう進路上に赤茶の月光が数度煌めいたかと思うと、犬は連続した弱い悲鳴をあげながら体を何度も折り、予定進路とまるで別の方向へと吹き飛ばされる。

「シン!」

犬のいなくなった後には、刀を振り下ろした状態のダリが名を呼んだシンが立っている。ブシドーのスキル、「ツバメ返し」を繰り出したのだ。繰り出した連撃を全て当てたシンは、だが、苦々しい表情を浮かべて犬の方向を見ていた。

「今までのようにはいかんか」

視線の先を追うと、シンが完全に不意をうって繰り出した刀技を体で受け止めた犬は、ピンピンとした状態で樹木の上に衝撃を殺しながら着地しているのが目に入った。犬は全身を大きく身震いさせて状態を確認すると、忌々しい、と言わんばかりの視線をシンに送り返している。

シンの一撃が効いていない。その事実に驚き、シンの方を見ると、彼の刃先は珍しく足元の地面、この場合は樹木へとめり込んでいる。さらに注視すれば、彼の足元の樹木の表面の茶色が剥がれて落ちて、瑞々しい樹木内部が見えているのもわかった。

―――なるほど、滑ったのか

シンは足場が悪くて、力を発揮しきれなかったのだ、崩れた体勢で繰り出した一撃は、敵に有効打を与えることができなかった。樹木の地面の高低差と周囲の地形に苦戦しているのは自分だけでないというわけだ。

「またか!」

シンは続けてピエールに向かう敵めがけて一直線に向かうと、上段に構えた刀を振り降ろす。が、敵は近くに生える樹木を利用してその姿を隠す。敵の姿が見えなくなった事を確認したシンは、剣と体の軌道を無理矢理変更すると、身を翻して構え直す。

彼はいつものように追撃を加えることができず、やりにくそうだ。しかめっ面からと喜色の混じった顔からは、苦戦はいいが、全力を出せないのはいただけないという、彼らしい複雑な思いが読み取れる。

「なら、その樹ごと吹っ飛ばしてやる!」

そうしたシンをサガはフォローすべく、シンの一撃で体勢を崩した敵に対して、シンの攻撃に続けて「核熱の術式」を放っている。当たれば敵を分解して、超高温を生み出す光の柱は、三属性が効かない敵にも有効な一撃となって、敵にダメージを与える……はずだった。だが、やはり目の前にいる犬達相手には通用しなかった。

サガの籠手より直進した光の柱は、多量の水分を含んだ樹木にぶつかるまでの空間を白光で満たし樹木を巻き込んで爆発の柱を生み出すが、果たしてその時、すでにその場に犬の姿はないのだ。シンの一撃受けて、あるいは回避して体勢を崩しているはずの敵は、しかし、サガが攻撃を受ける前に、その場所から身を退けている。

「だぁ、くそちょこまかと!」

敵はこれまで私たちが倒してきたどの犬よりも、頑強で、速く、強い。歴戦の彼らが苦戦する中、私には一体何ができるのか。毒以外に持ってきているのは大量の回復薬と、麻痺や盲目の状態異常を引き起こす香。それと各種採取ツールに、敵の体を縛るための道具だ。

敵の動きが早すぎて捉えられていない現状、有効な援護として思いつくのは、敵の動きに制限をかける香を使うか、足を縛る糸を使うかだ。だが、麻痺は毒と同じ理由で周囲に有効な分量をばらまくことができないし、足を縛る糸もうまく当てる方法が思いつかない。

だが、援護の可能性があるとしたら、縛る糸の方だと思った。糸は使用すると、鞠となった糸玉から一直線に長く手を伸ばして敵の拘束を試みる。また、香とは違い、糸は敵味方を選別してくれるうえ、糸の一部でも引っかかってくれれば効力を発揮する。そうして敵の行動を制限してくれる糸は、この状況下においてうってつけだと思う。

けれど、粒子の集まりである香とは違い、塊で、発動後も目測可能である縺れ糸は、俊敏な敵や警戒心の高い敵には回避されやすいという弱点を持つ。敵は私たちのパーティでもっとも速いシンが捉えきれないのだから、なお当たる可能性は低いように思える。

私のフォーススキル「イグザート・アビリティ」を使用すれば、真価を発揮した糸は、広範囲に糸を飛ばして普通より長い間追いかけてくれるけれど、糸がきちんと真価を発揮するためには、この環境が邪魔だと感じた。速い敵を追いかける糸が生い茂る樹木に絡め取られて、効力を失う未来まで幻視できる。

どうすればいい。どうしたらいい。繰り返し頭の中に響く言葉は結論を出すことをせかす。焦りは悩みとなり、脳の邪魔をする。焦燥と懊悩を排除して集中を試みるも、過敏になった感覚がピエールの歌声やダリの盾が生み出す衝突音を拾い、音に反応した体はとっさに周囲の様子を探ろうとして、鬱蒼と茂る風景ばかりを目に写す。

―――ああ、なぜ、樹木はこうも鬱陶しく茂っているのだろう。樹木があんな縦横斜めの方向に伸びて空間を狭く制限していなければればもっと楽に戦えるのに

一方的な怒りを樹木に対して向ける。思い通りにいかないという事に対して怒りを覚えた。

―――樹木も自由気ままに生えるなら、いっそのこと空間を満たして、私たちと敵を隔絶する位に生えてくれていればいいのに

……空間を、満たす――――――、これだ!

心の中で吐いた己の愚痴に、天啓の稲光が走る。思いつきを実行すべく、カバンに入れていた手が思考の最中から握っていた糸を取り出すと、いつかのように大きな声で叫んだ。

「フォーススキルを使用します! 」

干将・莫耶を振るう。鍛え上げられた白の刀身で獣の攻撃を捌き、黒い刀身は獣の肉を裂いて戦場に血が舞った。獣は唸り声をあげながら、身を翻して後方へ跳躍する。反射的に繰り出したであろうその反応の動作と速度は俊敏。あっという間に数十メートルの距離が開く。

目線を手元から前方、獣の跳躍した方向へとやると、獣の体から煙が上がるのが見えた。煙は傷口から上がっている。そうして獣の上へと昇った煙が元より赤い空間をより濃い血の赤で染め上げたかと思うと、すぐさま煙は収まり、獣の体から傷が消えていた。

獣は自己回復スキルを身につけているらしい。なんとも生き汚い奴だ。戦闘が予想より長引くと確信して思わず舌打ちをする。

犬の如き姿をした四足の獣は、世界樹と呼ばれる迷宮の中で出会ってきたどの敵よりも早い。強化魔術を叩き込み、味方のスキルでさらに強化された眼球ですらその姿をはっきりと捉えきれず、眼球の表面にぼやけた像を残しては消えてゆく。その速度たるや、あの神速の槍兵の動きに匹敵するかもしれない。

敵は強い。移動速度は一流の英霊に匹敵し、力は私に拮抗し、動作と反応速度に至っては私を超えている。加えて自己回復の能力。なるほど、強敵である。

だが。だがそれでも。

「それでも貴様ごときでは、私の脅威にはならんな」

呟き、挑発的な視線を送り、隙を作る。挑発に怒りを沸騰させた敵は、私の隙を見つけたと喜んでは死角から攻撃してくる。敵の動きには迷いがなく、最短の距離を最速の速度で駆け抜けてくる一撃は、どれもが必殺と呼んで過言でない威力を秘めている。

私は己の反応速度を大きく上回っている攻撃に反応しきれず、目線などはまだ、獣が攻撃の寸前までいた場所から動かせていない。戦いの最中、一方的に敵を見失うなど、死に体も良いところだ。獣はおそらく、仕留めたと確信して会心の笑みを浮かべたことだろう。

しかし。

「――――――!」
「動きが直線的、かつ短絡的に過ぎる」

好き放題に敵の弱点を述べる。獣が私の言葉を介していないだろうことは、その後も繰り返される直線的な連続攻撃からわかっていた。だから、あえて言葉にして私自らに言い聞かせる。五感より感じ取った情報は言語化され、私の脳内が認識したその言語は、私の中から挑発の姿勢と見下しの態度を引き出してくれる。

獣は言葉こそ感じ取らないが、私の向ける嘲笑を五感で不快と感じ、奴は怒りを抱く。そうして敵の攻撃はいっそう怒りに支配された単純なものへとなり、私はよりいっそう簡単に敵の攻撃を避けられるようになるのだ。

繰り出された、敵にとって最速の、私にとって致命的な視界外からの速撃を私は防ぐ。固いもの同士がぶつかる高い音が瞬間だけ鳴り、続けて金属同士が身を削りあった際に発生する不快さを含む音が聞こえた。

背後からの一撃を、右手剣を盾として配置し防いだのだ。獣の前足から伸びた爪を折らぬように方向を調整して置かれた剣は、その薄い剣腹で見事に五爪を受け流し、身を守ると共に獣の体勢を崩す役目を果たしていた。

胴から上を捻じ曲げて上半身だけ振り向かせると同時に、無防備を曝け出しただろう獣の胴体向けて一閃を振るう。確実に胴を切断すると思った横薙ぎの一撃は、しかし、虚空を通過するに終わる。後ろに向いた私の眼球は、敵が地面に両手の爪を突き刺した状態で伏せているのを見た。

敵は胴体が刃に裂かれるのを避けるため、両手の爪が地面に深く突き刺さったのを逆手に取り、腕力と膂力を利用して胴の進行方向を無理矢理に地面へと変えたのだろう。その行動は、敵にとって不服な選択であったことが、睨め付ける視線から見て取れた。

視線がかち合う。虚空を切った左腕に乗せられた回転の勢いを殺すことができず、私は傾いた竹とんぼのような姿勢を取ることとなった。無防備な胸が敵の正面にさらされる。敵はその隙を好機とみたらしく、敵は笑みを浮かべると、地面突き刺さった爪をさらに深く埋めて、力を溜めた。きっと地面にめり込んだ爪が自由になった瞬間、胸に爪を突き立てる気だ。

そうして私の上半身の勢いが腰の回転に影響を与えた次の瞬間、敵は先程深々と地面に突き刺さっていた爪は攻撃の用意を完了していて、既に半分程も姿を現していた。もはや一拍を置く猶予も残されていない。

ならばこうだ。腰に移った回転の勢いを殺さないまま、右足を浮かせて左足の踵を軸足とする。そうして左足の踵を軸としてグルンと下半身を反時計周りに回転させると、左足の指先がちょうど敵の真正面を捉えた時、左のつま先に力を込めて地面を踏みしめ、勢いが乗った右足に殺意を込めて敵の体めがけて思い切り振りぬいた。

一般の状態でなら敵の方が速いとはいえ、敵は未だ攻撃の体勢に移行している状態で、攻撃の速度は最高速に達していない。対して私は己の出すことのできる最高速度を繰り出した状態から、その勢いを加えての攻撃だ。どちらが速く敵を捉えることができるかといえば、それは間違いなく―――

―――私だ

鉄鋼靴の右足が敵の腹に突き刺さる。鉄板に保護されたつま先が柔らかいものを押し分けて、蹴りの衝撃を接触地点から敵の体へと伝えた。手応えを感じた瞬間、迷わずそのまま右足を振り抜く。敵の体が大きく折れ曲り、蹴足の先の方向へ飛んでいった。

「……浅いか」

見た目派手な飛び方をしたが、右足の甲と脛を通じて伝わってきた感触は途中から、まるでぬいぐるみを蹴っ飛ばした時のような軽い感触に変わっていた。血肉詰まった塊を蹴り飛ばした時特有の重みのなさは、蹴りの衝撃が十全に伝わっていないことを告げている。

蹴り上げた足の外側から爪の抜けた地面を見ると、敵の前足と後ろ足の後部の跡が残っていた。つまりは蹴りの衝撃が伝わりきるまえに、自ら後ろに飛んで逃げたのだ。素晴らしい反射速度だ、と敵ながら思わず賞賛の言葉が浮かぶ。

すぐさま気を引き締めて、振り上げた右足を下ろし、両手の力を抜いてだらりと垂らし、獣の吹き飛んだ方向へと正面を向ける。戦闘の構えをとって地面へ微かに残った血の跡を追ってやると、平然と体を起こす獣の姿が目に映った。

一撃を防がれ、なおかつ反撃まで食らった獣は、しかし七色の目を先程までより爛々と輝かせて、口元を凶暴に歪めている。閉じた口元の端から蒸気が漏れた。どうやら内臓系のダメージも回復できるらしい。そうして窄めた口元から血の塊を地面に吐き出すと、再び低く構えて闘志を削ぐどころか、火に油を注いでしまったようだ。なんとも面倒な性格をしている。

獣は七色の目を細め上半身を低く構えると、間をおかず再び突進。相変わらず愚直で単純な線の動きだ。一撃を防ぎ迎撃するも、やはり返しの一手は深手を負わす事は出来ず、敵に距離を開けられて仕切り直しとなってしまう。攻防は一進一退のまま停滞していた。

鋭い一撃を強化した身体能力と投影した剣で防ぐ。実際と予測の攻撃は軌道や威力が違うことが多い。ズレが生じる都度に、強化を施して、予想外を受け流すために使用する。

―――まずいな……

余分な魔力の消費が、思った以上に多い。状況が好転しないことに少しばかり焦りを覚える。三層の番人は予想外に強い。一層の様に巨大な体と特殊な能力を持つわけでなく、二層の番人の様に億千万にも群れているでもない。敵は単純に素早く、硬く、そして回復能力を持っているだけである。

だが私は、身体能力が低いため、搦め手と予想外と状況に応じた的確な判断を主な武器として使用する私は、強靭な身体能力を真正面から押し付けてくる相手を苦手とする。

ピエールの身体能力向上スキルの恩恵を授かっているからこそ、常より魔力消費を抑えてながら若干有利に立ち回れているが、スキルの効果が切れてしまえば、戦闘の流れの天秤が敵に傾く可能性の高くなる。一旦身体能力が自らより上の相手に戦いの流れを持って行かれれば、仕切り直しをするのは難しくなる。

―――多少無理してでも強引に仕留めに行くべきか

行くか引くかの判断に悩んでいたその時だ。

「フォーススキルを使います! 」

離れた場所から少女の声が戦闘の音に割り込んで聞こえてくる。何をするかをわからないが硬直した状況を打破できるという確固たる確信が、断言した言葉には含まれていた。天秤がどちらに傾くかはわかならいが、彼女がフォーススキルを使った瞬間、確実に状況が動く。

停滞した状況が進展するその時を確信して、私は周囲の変化にいっそう意識を集中させた。

「フォーススキルを使います! 」

断言して糸玉を取り出す。糸玉の名前は「縺れ糸」といって、使用すれば玉より解けた糸が周囲一帯の敵に向かって自動で追跡し、頭、胴体、足などの自由を奪ってくれるという便利な道具だ。しかしこの道具にはひとつ欠点があった。

「あいつら速いぞ! その上この地形だ。当てられるのか!? 」

すぐ近くで戦況を見守っていたサガが問いかけてくる。そう。自動で追尾する糸は、最短の距離で敵の体まで到達する作りとなっているため、素早い敵や、ゴチャゴチャと障害物の多い場所で使うために向いていない。サガの心配はもっともだ。でも。

「大丈夫です! 当てます! 」

宣言して糸玉に意識を集中させた。体内を巡っていた見えない力が両手を通じて縺れ糸の中へと移動する。そうして体内から残さず力を移し終えると、糸は周辺に微かな淡い橙光を放つ様になっていた。

特別化した糸玉片手で握り、周囲の状況を確認する。ピエールの周囲を飛び回る犬。犬を追い払うダリ。犬を追いかけるシン。そしてあたりに広がる鬱蒼とした樹海と、ついでに少し離れた場所で戦うエミヤ。敵味方の立ち位置と地形を把握すると、これだ、と思う場所めがけて思いっきり縺れ糸を投擲する。

「おい、響! なんでそんな明後日の方向に……! 」
「これでいいんです! 」

天井めがけて投擲した糸玉は、樹木に重なる枝と葉を突き抜けてすぐに見えなくなった。これでいい。サガは姿を消した糸玉の方向と私とを交互に見返しては困惑している。そうして彼が口を開こうとしたその瞬間、戦況は動いた。

「――――――!! 」
「―――!!」
「―――――――――!!」

犬達が吠える。複数入り混じる鳴き声にどの様な意図が込められているのかは知らないけれど、多分、今のサガと同じ様に困惑してのことだろうと予想する。そうして風切り音の代わりに、咆哮がいくつか響いたかと思うと、犬達はピエールの周囲で飛び回るのをやめた。

直後、犬達は統率を乱してめたらやったらに飛び回る。サガが不思議そうにその光景を眺めていた。犬はチラチラと後方を確認しながら、周囲を駆ける。犬の後ろでは橙の線がキラキラと輝きながら、犬の後ろを追いかけていった。

光の速さは遅く、今にも消えてしまいそうだが、全ての犬達は後ろから追いかけてくる足を縛る効力を持つ縺れ糸の存在を無視できず、逃げ惑っている。

「―――そうか、糸か! 響、君は、糸を敵の体を縛るためでなく――― 」
「はい、敵の行動を制限するために使いました。障害物にぶつかるごとに効力を失ってゆく縺れ糸ですが、あの糸には私がフォーススキルを使用しましたから……」
「質と精度が高まる分、少しの間なら持つ、か」

サガは言うと目線を犬達に戻した。橙に輝く糸は犬達を追いかけるが、犬の速度に到底及んでいない。そのうち力尽きて地面に落ちるだろう。でもそれでいい。重要なのは、今、犬がそれに気を取られて意識を糸に回しているという点だ。

「シン! 」

サガが叫んだ。呼応して樹木の間からシンが顔を出す。顔には凶暴な笑みが浮かんでいる。獲物に飛びかかる寸前の猛獣のようだ。彼はもう目の前の敵しか見えていない。

彼は動き回る一匹の犬に狙いを定めると、赤い地面に足跡を残してその場から跳躍した。疾風となった彼は、目にも止まらぬ速度で犬に迫り、真横より犬の意識の埒外の攻撃を加える。

防御の意が込められていない硬いだけの毛と皮と肉は、必殺の意思を込めた一撃の前にあえなく道を譲る事となる。

シンの攻撃の対象として選ばれた敵の首から先が、犬自身が保持していた速度と比例した勢いで前方に飛んで行く。司令塔を失った犬の体は、すぐさま力の抜けた前足から崩れて、地面を転がった。

首を失った胴体は、失くしたものを求めるかのごとく、ぬかるんだ地面をゴロゴロと転がって、少し先に落ちていた頭部へ接触するとその動きを止めた。ようやく一匹。まだ先は長い。

犬達は己の戦力が低下したことに気がついてか、連続攻撃の手を止めて距離を開けた周囲の樹木の上に立ち、固まっている私たちとシンを交互に眺め、睨めた視線を送ってくる。やがて視線は親しげなものに変わった。背筋に冷たいものが走る。それは恐怖だった。

私たちは、敵に親愛の情を抱かれた。だが、味方を殺した敵に対してなぜそのような感情を送るのかがわからない。不可解極まりない疑問が不安となり、不安が恐怖へと変わる

「次ぃ! 」

いつのまにか近寄って来ていたシンが剣先を犬の一匹に向けて雄叫びをあげると、彼の言葉を合図に犬達は私たちに飛びかかって来る。対処のために少しばかり体の大きな一匹の瞳を覗くと、七色に輝く瞳孔は爛々と闘志を燃やしていた。戦闘はまだ終わりそうにない。

「―――倒したか」

敵を思い切り蹴り飛ばした。直後の雄叫び。反応し、樹海の鬱蒼を避けて味方に目線を送ると、獣の一体が地面に胴と首が別れた状態で倒れている。ようやく戦況が動いたか。彼らの能力では一匹を仕留めるのも厳しいかもと考えていたが、存外やるものだと再評価を行う。

視線を外したのもつかの間、直後、番人に意識を戻すと、敵の動きに乱れが生じていた。最短の距離を最速で駆け抜けて攻撃を仕掛けるスタイルに変わりはないが、構え、跳躍し、攻撃し、離脱するその一連の動作が鈍くなっている。

―――部下の死に動揺しているのだろうか。なんにせよこれはチャンスだ。

なおも続く連続攻撃をいなしつつ時を待つ。やがて後ろから閃光が走ったかと思うと、耳をつんざく爆音が続き、砂埃と樹木と風が私と奴の身を叩いた。互いの姿が土煙の中に消える。
敵は襲いかかってこなかった。その隙をついて宝具の設計図を脳裏に描き出す。

設計図は、偽・螺旋剣。それに少しばかり手を加え、今回の使用に適した形にする。これで準備は整った。

風が弱まり煙が薄れて行く。周囲に解析の魔術をかけて、煙の空白地帯を把握。

―――そこか

先程までの敵の速度を思いかえし、互いの距離を割って接触までの時間を算出する。身を丸めている敵はまだ動かない。単に気がついていないのか、意図して動いかないのか判別つかない。なんにせよこちらから動くわけにはいかない。動いたところで私の速力では過剰な強化を施さないと敵に追いつけないし、何より、立てた目論見がご破算になる。

じっと敵の動きを待つ。数秒もしないうちに煙はほとんど消えた。周囲に広がる見慣れた赤色の光景に距離感が狂いそうだ。

―――来るか

敵はピクリ、と耳を動かした。すんと鼻を数度ひくつかせて索敵と確認をすませると、ジロリとこちらに首を動かして、私の方を向く。ニヤつき、伏せた。攻撃の体勢。大丈夫だ。余裕はある。落ち着いて計画通りにまずは宝具を投影しようとする。

―――投影開……!?

そうして頭にイメージを浮かべた瞬間、敵の牙が目前に見えた。その速度や今まで繰り出していたそのどれよりも速い。今までの速度の低下が嘘のようだ。まるで誓約や縛りから放たれたが如く速い。否、真実嘘だったのかもしれない。この速度を今まで温存していたのかと驚く。敵も敵で私を仕留めるべく策を練っていたのだ。やられた。だが迷っている暇はない。

計画の範疇外からねじ込まれた一撃を防ぐためには、重い双剣を振り上げたのでは防御が間に合わない。確信からその速さに少しでも追いつくために、両の手に握った双剣を放棄して両腕を頭の前で交差させる。頭と首を守るためのとっさの判断。悪くはない。だが。

――――――っ!

違和感が左腕に走った。平時と異なる感覚の訴えは神経を駆け巡り脳内に到達すると、脳は違和感を灼熱の痛みとして捉え、左腕の異常を知らせている。ぼとりと何かが地面に落ちた。赤い布に包まれた浅黒いものに私は見覚えがある。長い間使い込み続けた己の肉体なのだ。見覚えあって当然だ。そう。地面に転がっていたのは、私の五指が生えた手腕部だった。

―――もっていかれたか……!

そうして私は己が左前腕部から先を失ったことを知る。あって当然のものがなくなった、という喪失感は思ったほどなかった。代わりに胸に去来したのは、間抜けな選択の結果、彼女に与えられた彼の肉体を失ってしまったという己の未熟に対する怒りと失意。

瞬間的に沸き上がった二つの想いが体を支配するのを自制心で抑え込む。腹の中に生まれたエネルギーは感覚を通常より過敏にして、聴覚に微かな風切り音を拾わせた。感覚に導かれて首を上に傾ける。そうして私は、私の腕を噛み切った獣と目を合わせた。視線が交錯する。奴は私の視線に気がつくと、赤い瞳孔に喜色を浮かべて閉じた口を少し開いた。

一連の動作はスローモーながらもはっきりと見えた。口元の白い牙が上下に離れて行き、生暖かい吐息の煙が漏れ、見えた口腔には、赤い布に包まれた肉の切断面が見える。そうして獣は舌の上にのったそれを喉へと送ると、見せつけるようにゆっくり嚥下した。

喉元が大きく動いて、胃の中に私の一部が落ちて行く。一連の動作を素早く終えた獣は、口を大きく横に開けて、まるで人間の笑みのような顔をしてみせる。

己の牙が敵の守りを崩せた事がよほど嬉しいのだろう。これで戦況は大きく一変する。腕を一つ失った私は、間違いなく今までのように敵の攻撃を捌けない。いや実に見事だ。ギリギリまで己の力量を隠し、私の眼を見誤らせ、慢心につけ込んむその戦術はまさに見事の一言に尽きる。作戦成功の祝儀代わりに腕の一本くらいくれてやるとも。その代わり。

「腕の代価は貴様の命で支払ってもらう! 」

頭上を通過しながら地面に身を近づけつつある敵の方を向いて姿を視界に収めた私は、雄叫びをあげながら「偽螺旋剣/カラドボルグⅡ」を投影した。左腕部の消失により魔術回路の一部が欠損した状態での魔術行使と、過程をいくつかすっ飛ばした投影の影響で神経がひどく痛む。

加えて、不完全かつ粗雑な手順に従って生み出された投影は結果に影響を及ぼし、通常貫くことに特化させた姿で現れるはずの「偽・螺旋剣/カラドボルグⅡ」は、あちこち粗だらけの姿で生み出される。先端に向かって細くなる円錐状の刀身からは鉄の棘が奔放に伸びて返しのようになっていた。これでは対象を貫くどころか、途中で止まってしまう可能性もある。だが、知ったことか。

「――――――つぁあっ!」

背後に移動しつつ宙に浮かんで身動きの取れない敵の胴体中心軸をめがけて逆手に握ったなまくら剣を叩き込んだ。鋭くない剣の切っ先が四足獣の左前腕部にめり込む。肉を抉る感覚が手を通じて伝わってくる。

同時に、肉体に負荷がかかる行為をとったことで、左腕の傷口から血が噴出した。噴出した血液と体液は、周囲の残った神経を刺激して、痛みの信号で肉体の異常を訴える。喪失に伴う痛みを無視して奥歯を噛み締めると、思い切り力を込めてさらに刀身をねじ込む。地面に近づきつつあった敵の体が、私の加えた力により、奴の予定より早く地面へと向かった。

獣の腹が地面に接触した瞬間する。その衝撃を感じた瞬間、切れ味の鈍い刃に体重を乗せて獣の肉体を無理矢理押し分けて貫通させると、刃の先端を地面に突き立てた。大地を穿つ衝撃が私と獣の全身に別れて走る。

獣は受けた衝撃に耐えきれず、体内の空気と体液を撒き散らすと同時に、胃の中へ収めつつあった私の前腕の一部も吐き出した。液に塗れた腕は少しばかり地面の上を転がると、砂を被りながら少しばかり離れた場所に落ちる。己の肉体が粗末に転げて行く姿に少し感じるものがあったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

続けて地面に刀身を隠していた干将を右腕で引き抜くと、文字通り胸を貫いた衝撃に、目を白黒させる獣の脳髄めがけて叩き込む。強化の魔術が限界以上にかけられている一撃は敵の硬い毛、皮膚、肉、骨を見事に貫通して、敵の頭を地面へ縫い付けた。手先から感じる感触と液体を浴びて敵の死を確信する。

「これでもはや動けまい……」

地面に縫い付けた獣の体を一瞥すると息も絶え絶えに一言呟く。一応反撃に備えて双剣の片割れ、莫耶を拾って右手に構えるが、敵は動きを見せない。敵の肩から腹にかけては、螺旋剣が突き立ち、頭部には干将が刺さっている。

―――即死だとは思うが……

予感を確信に変えるため解析の魔術を使って確かめたいが、あいにく腕の魔術回路が千切れている今の状態での魔術行使は危険度が高い。魔術の発動を自動車を動かす行為と例えるなら、一部魔術回路の千切れた今の状態での魔術行使は、いってしまえばガソリンが漏れ、CAN信号伝達が不完全な状態で自動車を動かすに等しい危険な行為である。

そして私は、進んで二度も危険な橋を渡ろうと思えるほど危うい性格をしていない。敵が動きを見せない今は、まずは傷の対処を済ませてしまおうと考える。確信のためにもう一撃加えてやろうかと思ったが、やめた。敵が生きていようが死んでいまいが、あの状態ではまともな動きはできないだろうと考えたからだ。

無駄に費やす時間があるのなら、怪我の手当てに割いた方がよほど建設的である。そうして改めて傷口を確認すると、切断面は獣の牙で切断されたと思えないほど予想外に綺麗で驚く。まるで達人が研磨された刃で切り落としたかのような切り口。

―――これならメディカとネクタルの使用でなんとか繋がるかもしれない

一縷の希望を抱いた私は、傷口を直接止血するのをやめて、脇の下の動脈を強く圧迫した。左腕の出血が少し収まる。多少の止血を確認した後、代わりにバッグを脇下に挟み、圧迫を続けたまま近くに落ちていた手腕部を拾う。垂れる指がぷらぷらと人形のように垂れる不気味を無視して切断面を見ると、こちらもやはり綺麗な断面。

―――いいぞ、希望が持てそうだ。

さらに続けて獣の頭の先に転がっている唾液と消化液にまみれたの残りの前腕部を拾い上げて切断面を見る。あいにくとこちらは獣のさまざまな体液と砂埃に汚染されているが、断面はやはり綺麗で滑らかなものだった。消化酵素が働く前に回収できたのが功をそうしたか。いける、と確信してバックに手をやる。

救急キットの中から水を取り出すと切断面に振りかけ、汚れを払った。水が足りなくなったので、水筒から飲み水もふりかけて切断面から目に見える汚れが取り除かれたことを確認すると、獣が吐き出した前腕部を傷口とくっつけてメディカをふりかけた。

一時的に感覚が麻痺していた傷口から白煙と肉の焼けるような音が生じ、切断箇所の神経が痛みとむず痒さを同時に訴える。回復の促進を行う際の疼痛だ。少しして切り離された肉同士がくっついたのを確認すると、続けて前腕部と手腕部の切断面を接いでメディカをかける。

先ほどと同様の痛みとむず痒さを感じたのち、力なく垂れ下がっていた指は五本が同時に跳ね上がる。唐突に送られてきた二度と送られてこないだろう信号が伝達されたことに驚いたのだ。腕を動かすと、多少麻痺の感覚が残っているが、きちんと動くことを確認して、まず一息。

そうして肉体の回復を見届けると、続けて魔術回路の状態を確認する。魔力を千切れた部位に流し強化を行う。滞りなく魔術が発動されるのを確認して、珍しくホッと二息目をついた。ああ、よかった。こちらには一切の異常がない。

安心して魔術回路を起動させると、地面に縫い付けてある獣の方へ解析の魔術を含んだ視線を向ける。魔力は滞りなく奴の体に入り込んで、その情報を持って来る。間違いない。死んでいる。奴は動かない。一応いつ起き上がって襲いかかられても問題ないように警戒はしていたが、やはり先の一撃で死んでいたのだろうか。

「―――なんだと……! 」

そうして魂のなくなった死骸にかけた解析魔術の結果を見て私は驚く。

―――どういうことだ……

瞳を開けると、先ほど見た赤い瞳の瞳孔が閉じている。七色ではなく、赤。やはりこの獣は、先ほど自分が戦っていた獣ではない

―――まさか影と入れ替わったとでも言うのか。

混乱する脳の思考を中断したのは、聞こえてくる戦闘音と、爆裂、そして歌。慌てて鳴り響く方を向くと、バッグに一つだけ詰め込んであったネクタルを使用して血液を増やし、地面に突き刺さった干将・莫耶を拾い上げて駆け出す。

なにが起こったのかはわからない。だがここにある偽・螺旋剣/カラドボルグⅡが刺さった死体が番人のものでないという事実は、未だ戦いが終わっていないという事を残酷に告げていた。

番人の取り巻きたちとの戦闘は最終局面を迎えつつあった。敵の数は最初の半分、三匹にまで減っている。響が策を練って仕留めたのが一。ダリがシールドスマイトを使用して敵を吹き飛ばすとともに退路を断ち、サガのフォーススキル「超核熱の術式」を上手く直線上にまとめて当てて仕留めたのが二。

対してこちらは一切の被害は出ていない。今のところは五人ともに五体満足で敵の攻撃を上手に捌けている。そう。今のところは、だ。だが近いうちにこの優位は崩れることとなるだろう。……認めたくはないが、敵と私たちの継戦能力の違いが原因だ。

敵は数こそ減ったが未だ無傷で、最初の頃と変わらぬ速度を維持するほど万全な状態である。いや、むしろ、六匹の時よりも、より速くなっている。たいして、私たちはもはや燃え尽きる寸前の蝋燭のような状態。

私はまだしも、サガは直前に消耗の激しいスキルを連発したのが原因で、もう立っているのが精一杯。身体能力の向上などを行なっているピエールの声には掠れが生じ始めているし、足止めと回復を担当していた響は、ほとんど道具を使い切ってしまっている。

三人をかばい続けているダリはまだ余裕がありそうな、すました顔をしているが、あれは自らの疲労に気がついていないだけだろう。敵の行動を予測して動くのではなく、視界に入った襲いかかる敵の攻撃を反射的に防ぐようになっているあたり、ダリの頭はもはや限界寸前なのがわかる。追い詰められると余裕をなくし視野狭窄に陥る。ダリの悪い癖だ。

一か八かの賭けに出るべきか。私はフォーススキルの解放を考える。ブシドーのフォーススキル「一閃」は、私が敵として認識している全ての敵対象に首刈りの一撃を放つスキルだ。スキルは相手が自分より弱いほど効力を発揮しやすい。

自分より強い敵と戦いたいと考えるお前の癖とは合わないスキルだな、とサガには茶化されたが、私は案外、この自らより弱いものの首を刈り取るスキルを気に入っている。そもそも憧れの彼が放ったスキルであったし、憧れを取り戻させてくれたスキルであり、そして、強い敵に「一閃」を放って通用してくれれば、敵より私の方が強いことの証明となるってくれるからだ。

だから私はFOEや番人など強敵との戦いにおいて、最後の一撃を放つ際には、どれほど死にかけの相手であろうと必ずフォーススキルを使うと決めている。そうして「一閃」が通用し、敵の首が刈り取られるのを見て、私は強敵を超えたという実感を得ることができるのだ。

そんなことを幾度となく繰り返してきた私だからこそ、直感できる。今「一閃」を放っても敵の首を落とせない事を。否、それどころか、繰り出した「一閃」の攻撃が当たってくれれば御の字だろう。だが、皆が消耗したこの状況で、万が一にでも勝てる可能性があるとすれば、即死を狙えるその一撃しかないのも確かだ。

―――どうする

迷っている間にも、味方の限界の刻限は迫りくる。直感はやめろと言っている。理性はやれと言っている。進退窮まる状態に陥るのは久しぶりだった。迷いは剣先を鈍くし、隙を生む。敵は迷いなく、隙へつけ込んでくる。

繰り出される爪の一撃をかわしきれず、防具の一部が壊れて落ちた。もう後は無い。覚悟を決めるしか無い。決死を思い定めた時、敵の攻撃の間隙を縫うようにして、森の奥から雄叫びが聞こえてきた。

「腕の代価は貴様の命で支払ってもらおう! 」

エミヤだ。彼の力強い声を聞いた時、私はエミヤの勝利を確信した。そして思う。あちらの戦闘が終了すれば、彼が助けにきてくれるだろう。死を覚悟するにはまだ早い。そうして敵の攻撃に集中していた意識を拡散させて周囲の様子を改めて見渡すと、一同も同様に希望を見出した表情を浮かべていた。

すぐさま来襲する敵に気を向けなおす。敵はエミヤの咆哮に気を取られたのか、代わる代わるに間隙ない一、二、三の連携は、一、二、の三へと攻撃の感覚を変化させていた。三匹目が来る寸前に三匹目の軌道を予測して、剣の軌跡を獣の進路上に合わせてやると、敵は慌てて引っ込み、距離を置く。

「さぁ、突撃を! 迷うなんて貴方らしくもない! 」

隙をついてピエールは最後の力を使って高らかに詩を歌い上げた。最後の力を振り絞っての歌唱は魂を震わせる熱演だった。フォーススキル「最終決戦の軍歌」が乗せられた旋律は、一定時間の間、敵に攻撃と防御を上げてくれる。

つまり彼はこう言っているのだ。やってしまえ、と。胸がざわついた。サガと響が武器を構えながら後ろに下がる。彼らの行動に迷いは見えない。ダリは彼らとは逆に、ピエールから離れて私の側へと寄った。ダリの行動は明らかに私だけを守ることを意識していた。

「好きにしろ。尻拭いはしてやる」

ぶっきらぼうなダリの言葉。笑みを返礼とすると、再び来襲した一匹目の獣めがけて剣を上段に構えて思い切り地面を踏みしめ、真正面から突っ込む。最高の威力を出すために脱力を必要とする上半身には、一切余計な力が入っていない。味方の最高の援護もあって、身体の能力も反応もこれまでの中でも最高の出来だ。もはや迷いはなかった。

腹筋から背筋にかけて思い切り力を込めて振り下ろす。脱力は最大の瞬発を生み、余計な力の発生を退けていた。上段の構えより繰り出すのは、ブシドー最大の威力を誇る「ツバメ返し」 。その威力は単体を相手とするなら、間違いなくフォーススキルよりも上だ。

刃が炎の吹き荒ぶ音を立てて振るわれる。遅れて甲高い金属音が響いた。それ以外の一切は静寂を保っていた。確信とともに刃の軌道を変えて、もう一度振り抜く。再び炎音と金属音。最後にもう一度無理やり軌道を変えて一閃。結果は見るまでもなくわかっていた。

突撃の刃に裂かれた敵は、体が跳躍の頂点に達すると、その勢いのまま直進し、後方頭上の樹木の幹にぶつかった。血肉が爆ぜる音。これは間違いなく即死だろうと言い切ることができる。まさに一刀両断、いやこの場合は三刀四断とでもいうえば良いのだろうか。ともかくこれまでで最高のツバメ返しが繰り出せたのは確かだ。我ながら見事な一撃。

だが私は攻撃の代償として隙だらけだった。これまで味わったことのない弛緩から緊張の急激な落差を経験した肉体は素直に驚き、戸惑っていた。想像を超えた肉体の稼働は脳が現在認識している肉体位置と実際に存在している位置に差異を生む結果となり、想像上と現実の齟齬を擦り合わせようと必死に稼働する脳は、思考より送る動けという命令を無視して、腕も胴体も脚も硬直を保っている。

舌打ちの一つでもしてやりたいが、それすら上手くいかない。経験から、硬直した体が元に戻るのにたったの数秒もかからないだろうと予測が出来た。だが、前方より迫り来る敵は、私が自由を取り戻すよりも前に、硬くなっている肉に食らいつくだろう。後ろからダリの気配を感じたが、援護には間に合うまい。いや、仕方ないか。むしろ鈍重な鎧盾を装着しながら、身軽かつ仲間内で最速の私に食らいついただけ、凄いと言える。

死の脅威が迫り来ているのに頭はやけに冷静だった。私の体は動かない。味方の援護は間に合わない。敵の攻撃は私と味方の行動より早い。だというのに自分は決してまだ死なないという確信があったからだ。ここはまだ自分の死ぬべき時でないという確信が。

死を恐れぬ心持ちが脳の回復を促したのか、眼球だけが動くことに気がつく。刃先に伸びていた視線を前方より迫り来る敵の方へと移すと、敵の爪がもうすぐそこまで迫っていることに気がついた。次に瞬きをすれば瞼を開けた瞬間自分の体はいくつかの肉片に切り裂かれているだろうという、自分での回避は不能。ダリでさえ防御も不能。そんな一撃だった。

「……、ッ―――!? 」

だが迫る致死の一撃を放つ敵は、私を裂く直前に突然真横へと吹き飛び、目の前より去っていった。代わりに少し先の視界を遮るようにして現れたのは、そこらに生える樹木の幹……ではなく、土煙にまみれた黒く強靭な足だった。エミヤだ。

姿を確認した瞬間、熱いものが胸に広がった。やはりこの男は期待を裏切らない、それどころか私の想像の上をゆく。まるであのブシドーのようだ。姿を重ねたのは一瞬。だが瞬間起こった現実からの乖離は脳を現実と空想の差異による混乱を鎮め、私の体は再び思い通りに動かせるようなっていた。

私が少しふらつく様を眺めたのち、エミヤは足を引っ込めて地面に下ろす。通った視線の先に後ろからやって来ていたもう一匹の敵が、即座に後方へと身を翻して距離を開けたのが見えた。挙動が他のやつよりも素早く見えたのは、まだ頭がうまく働いていない証拠だろう。

「間に合ったようだな。全く、後先考えないで限界を超えた一撃を放つなど無茶が過ぎる」

エミヤはやれやれ、と首を振りながら、私の行動を咎めた。

「いや、それは違う。ちゃんと考えていたとも」
「ほぉ……、それは興味深い」

目線はどのような案があったのか、と問うている。だから私は迷わず答えた。

「君が助けてくれるとな」
「……それは思考の放棄だ。そのような他人任せ、考えていたなどと言わない」

呆れたように言ってエミヤはそっぽを向いた。だが少しばかり照れが混じっているのを私は見逃さなかった。意外だがこの男にもまるで幼子のようなところがあるのだな、と思うとなんとも微笑ましく感じた。

「―――なぁ。言葉の定義を議論するのは後にして、番人に対処しようぜ」

いつのまにか近くにまで来ていたサガが口を挟んだ。他の仲間も追いついて周囲に固まっている。ピエールとダリと響は周囲を注意深く見回して視線を張り巡らせていた。自ら身を引いた敵のみならず、エミヤに蹴り飛ばされた方もいつのまにか姿を隠している。

敵の消えた森は静けさを取り戻していたが、あたりに広がる不穏な空気と肌のひりつく感じは健在だ。閉鎖空間に生え散らかされた樹木のせいで敵の正確な居場所はわからないが、残り二匹の獣はこの近くにいて攻撃の隙をうかがっているのが気配でわかる。

現状三人とエミヤが密な警戒をしているため何も起こっていないが、剣呑な状況は続いている。確かに、悠長におしゃべりをしている暇はなさそうだ。

「その通りだな、サガ。……皆の現状は? 」

ピエールは喉もとを数度指で叩くと、小さく首を振った。もう声も出ない、と言うことか。サガに視線を移すと、舌を出して両手を大業に上げながら肩をすくめた。

「悪いが俺もすっからかんだ」
「私の方はフォーススキルが一回。シン。お前は」
「ツバメ返しが数回とフォーススキルが一回。それで打ち止めだ。響。道具の残りは」
「あ、っと、アムリタ系と縺れ糸が無くなりました。メディカ系は三割。ネクタル系は五、あとは殆ど残っています」
「承知した。響。プレイナードを私とエミヤに頼む」

行って話題にあげると、エミヤは警戒を解かないまま問うてきた。

「プレイナード? 」
「一時的に攻撃の威力をあげる薬だよ」
「ああ、ギルド長が言っていたな。了解だついでにネクタルをくれ。血が足りん」

了承の返答を合図に、響が金属の筒を二本取り出して、エミヤに中身をふりかけた。即座に中身は揮発して赤い霧と白光の粒子になり、紅白入り交じらない状態で彼の体に纏わりついて消える。続けて彼女は私にもプレイナードを同じようにふりかけた。効力により高揚感と興奮が誘発され、刀を握る手に力がはいる。

「……来るぞ! 」

敵の気配が濃くなる。木の葉と枝が激しく揺れだした。おそらく敵が頭上を飛び回っているのだ。耳をすませて位置を探る。木の葉が擦れ合う音に加えて、徐々に近くなる足音。敵はもうすぐそこまで迫っている。

獣共は全身のしなやかな筋肉をバネのように使用して、まるで流星の如き速さで樹木の幹を蹴って周囲を飛び回る。赤い獣二匹はこちらの隙を見つけては、死角より飛来して命を刈り取る弾丸となる。まるで流星群の落つる夕空の檻に閉じ込められたようだ。

だが私は牢獄の中で死刑を待つ罪人のように、大人しく死刑の執行を待つ程、行儀はよろしくない。両手の剣を用いて敵の攻撃逸らす。百キロは優に超えているだろう敵の体重が乗せられた体当たりは、たとえ強化を施したこの身体でも真正面から相手などしていられない。

攻撃をいなした後、不自然に見えないよう、身体の姿勢を崩す。体制の立て直しに手間取り、焦ったかのような風を装って、意識的に頭、首、胸などの急所に意識の隙を作る。獣は喜んで隙に一撃をねじり込んでくる。予定通りの一撃をいなし、そうして生まれた敵の隙に反撃を叩き込むのが私のやり方なのだが……あいにく今回の敵の場合、反撃に転じることは不可能だった。

敵の重たく鋭い一撃をきちんと受け流すためには、とてもでないが片手ではこと足りない。強化の魔術でもどうにもならない。なぜなら足りないのは腕力ではなく、体重だからだ。まともに受ければ大樹すら粉々にしてしまうだろう一撃は、とても一刀と半身では受け流しきることができない。何より先程、くっつけたばかりの左腕の反応が鈍い。

仕方なく二刀と全身を用いる。二刀にて敵の差し出す爪が急所に突き立つのを防ぎ、しかし敵の勢いを受け止めないよう、全身を使って力の向かう方角だけを変えてやる。すると敵は来た時の勢いのままに疾走し、再び樹木の中へと消えてゆく。通常、交差の瞬間にどちらかの刀を叩き込んでやるの常だが、両手を使っての作業をしている今、反撃のしようがない。

ちらりとすぐ隣を見た。そこでは私と同じように、ギルド「異邦人」のメンバーが敵の攻撃に耐えている。彼らは私のように単体で敵を捌くでなく、集の力で攻撃にたちむかっていた。

敵が彼らに襲いかかる。ダリという盾を持ったとなる男が見事にこれに反応して前に出た。彼の後ろに控えていた三人の男女が機敏に反応して続く。彼らが動くその間にも敵はすぐ近くまで迫っている。接触の寸前、盾を構えた男が地面に足腰を踏ん張り衝撃に備えた。同時に後ろについて来ていた三人がその身体に纏わりつき、支える。

自動車同士がぶつかったかのような衝突音。そして盾一枚を挟んで四人と一匹は対峙する。四人は地面に靴の擦ったを跡を残して後退させられながらも、見事に敵の攻撃に耐え抜いていた。彼らは集まり一つの塊になることで、重く早い敵の一撃を受け止められるだけの体重を補ったのだ。なんとも見事な機転である。

加えて注目すべきは、盾を構えたダリの技術だ。彼らが攻撃に耐えられているのは皆で体重の帳尻を合わせているからなのは事実だが、しかし、敵の突撃はその程度で止めることが可能なほどやわなものでない。

大樹を砕くほどの一撃を秘めた衝撃を、彼が接触の瞬間、前方からの衝撃と後方からの支えの力をうまく利用して相殺しているからこそ、彼らの被害は地面を削る程度ですんでいるのだ。素晴らしい才能と技術に感嘆させられる。

とはいえあれも長くは持たないだろう。一回の衝突ごとに彼の体は、前後から受ける衝撃によって大きなダメージを蓄積しつつある。攻撃を防いだ直後にシンが放つ神速の三連撃は、敵の体を捉えるも全身を固くした敵の命を奪うには至らない。そして敵は離脱し、傷を回復して再び襲いかかってくる。まさに徒労だ。

そんなことを繰り返しているうちにダリの疲労はさらに溜まりつつあるのが見てとれる。あと十も繰り返さないうちに彼の体に限界がくるだろう。そうなれば、彼らの運命がどうなるかは火を見るよりも明らかだ。考えている間にまた一匹と四人は衝突。そして離れる。

敵の攻撃は交錯ごとに苛烈さを増してゆく。敵は徐々になりふり構わず速度を上昇させて、体当たりを仕掛けてくるようになってくる。それはあきらかに、己の出す一撃がこちらの弱体を生むことを見抜いての行動だった。強化魔力の消費が激しい。長く叩くほどに不利になるのを実感して、決着を急く気持ちが湧く。それを冷徹な意思で胸の奥底に押し込めた。

ただでさえ敵の攻撃は苛烈で徐々に鋭さを増しているのだ。余計な考えは死を招く。私はただいつものように、敵の攻撃を正確にさばいて攻撃のチャンスを待つ機械となればよい。いつも通り。そう、いつものように、一人で、機会を待ち、耐え忍ぶ。私はこれまでそうやってチャンスをモノにしてきた。私にはそれが出来る。

―――しかし彼らの限界を計算に入れるなら、もう時間はない

ダリの守りが瓦解すれば、私は生き残れるだろうが、彼らは間違いなく死ぬ。他人の確定している不幸な未来を黙って見逃せる性分をしていたなら、私はもとよりこんな迷宮に潜ってなどいない。

彼らを助けるためには、勝負に出る必要がある。目算はすでに立てている。勝算は低いが、分の悪い賭けを強いられるのは、いつものことだ。僅かでも勝率があるのなら、この命をベットに勝利への扉をこじ開けてみせよう。

私は敵が離脱した僅かな隙を狙い、ダリに声をかけた。

「賭けに乗らないか」
「なんだ」

ダリは響に薬を浴びせられながら、ぶっきらぼうに答える。回復と問答の隙をついて、二匹の獣は再び攻撃を仕掛けてきた。二匹は私と彼らの集団をそれぞれ一つの敵として扱っているのか、常に一人と五人に攻撃を仕掛けてくる。獣は几帳面というか馬鹿正直な性格らしく、私と彼らを真正面から力ずくでキチンと叩き潰したいらしい。好都合だ。

「一度だけ、奴らの攻撃が私に到達するのを防いでほしい」
「奴“ら”? 」
「そうだ」

奴らに悟られないためにも、それ以上は言わない。ダリは周囲の気配を怠らないまま、一瞬だけこちらの方を向いた。真剣な表情には私の意図を推し量ろうとする意思が籠められている。私は黙って返答を待った。彼はすぐに周囲の警戒に戻り、そして言う。

「一回。それで奴らをどうにか出来るんだな」
「少なくとも片方くらいは仕留めてみせよう」

断言。彼は鼻を鳴らすと、そっぽを向いたまま答えた。

「一回だけなら何とかしてみせよう」

ダリはそれだけ言うと、押し黙った。私と彼のやり取りを聞いていた彼の仲間たちは、ダリの言葉を聞いて体勢を整えた。彼らはダリの判断と私の言葉を疑っていない。甘いと思う。だが、状況打破のために差し出された提案を受け入れた味方の意思を尊重し、迷う事なく彼の判断に命を預ける覚悟は嫌いでない。

―――だから期待には結果で応えさせてもらうとしよう。

先程と同じように双剣を構える。しかし今度は一切の隙を見せてやらない。呼吸や脈動により生まれる隙にすら、都度意識を割いて対応する。私が一切の隙を排除した結果、敵は戸惑い、攻撃のタイミングを逃したようで、彼らは姿を見せることなくしかし、意識だけは立派に向けて、こちらを牽制しよう試みている。

今、敵と味方の間にある空間では、互いの視線と意図が何度も交錯していた。意識の戟による無音の戦いを続けながら、私たちはジリジリと出口に向かって歩を進める。そうして繰り広げられた無数の矛先が千をゆうに超えた時、私たちは敵が最初寝転んでいた場所に到達し、瞬間、敵意が途端に濃厚なものへと変化した。

周囲より降り注ぐ敵意から牽制の意を含むものがなくなり、全てが直接的な殺意に変わる。体を突き刺すような殺意はこれまで送られていたものと比べて、あまりに直線的だ。無遠慮に叩きつけられる殺意は、私たちの本能を強く刺激し、敵の居場所を知らせる。

「――――――――――――!! 」

そうして敵の方向を振り向いた瞬間、敵はすでに攻撃を開始していた。私の強化した眼球ですら光の突進としか映らない敵影。それはまさに、防御も回避も捨てた、捨て身の一撃。我が身がどうなろうと敵を仕留めるとの覚悟が込められているようで、これまでの攻撃が児戯に等しく思える速度のものだった。

そうだ。部屋の番人たる貴様らにとって、侵入者をこれ以上先に進ませることは、耐え難く、許容出来ないことなのであろう。だからこそ、私たちが貴様らを無視して先に進もうとすれば、阻止のために攻撃を繰り出すことは読めていた。だが。

―――しかし、この速さはあまりに予想の範疇外だ。

痺れを切らした敵が攻撃に転じるまでにかかった時間と、その後の繰り出された攻撃の速度が速すぎる。英霊であった私すら咄嗟に反応して投影の詠唱をするので手一杯だ。

不安がよぎる。対応に遅れる一撃を、果たして人間たる彼が認識し、そして神速の二撃から私を守護することが果たして出来るのか。そうして湧き出た余計な疑念は、次の瞬間、目の前に現れた光の粒子の壁により取り除かれた。

これが何かはわからない。だが、これがどういう効果を及ぼすものであるかは、自らを包み込む光の放つ柔和さと暖かさにより直感できた。これはおそらく、ダリの言っていた一回だけの防御手段なのだ。

獣たちはそのような薄い光の靄など知ったことかとばかりに直進する。光は瞬時に獣たちと接触。そして二匹はまるで映像の一時停止のごとくその動きを止めた。変わらず背筋を極寒に叩き込む殺意を向けたままの姿で空中に停止した姿は、滑稽にすら思える。

そうして私は、直前抱いた懸念が非礼に等しいものだと知らされた。

「完全防御! 」

ダリの低い声がスキルの発動と敵の到来に遅れて聞こえてきた。声には微塵の迷いも憂いも含まれていない。彼は敵が攻撃に転じると察知した瞬間、自らのスキルが敵の攻撃を完全に防ぐことを確信してスキルを使用したのだ。

―――見事だ

彼は見事に私の要望に応えてみせた。ならば今度はこちらの番である。私は当初の予定を変更して、思い描いていたものと違う武器を投影した。空中に現れたのは、人間一人の正面姿よりも大きな斧剣。それは、かつてギリシャの神殿の一柱から切り出した、ただただ巨大で無骨な、敵の肉を斬って殺すよりもむしろその重量をして敵の肉を潰し殺す事を目的とした、まさに圧殺のための道具である。

二匹の獣は目の前にいきなり現れた異常事態を前に驚いた様子を見せたが、すぐに現実を受け入れ、抗いを試みていた。光の粒子に捕らえられた獣たちの体が細かく震えた。離脱を試みているのだ。そんな事は許さない。お前らはここ仕留めきる。回避などさせない。回復可能な傷も与えない。

獣の驚異的な回復力の源は、獣の胸に収められている特殊な器官である。私は先の戦闘において、偶然にも敵を地面に縫い付けるつもりの一撃がそれを打ち砕いたが故に、生き残れたのだ。おそらくこの二匹の獣も同様の身体構造のはず。であれば、この一撃で頭部も胸部の器官も押しつぶす。それで決着だ。

私は申し訳程度に巻きつけられた滑り止めの布の上から柄を両手で握りこむと、己の身長よりも大きな斧剣を持ち上げて振り上げ、二匹の真横に回り込む。そして彼らを睥睨できる位置に跳躍すると、二匹の横幅を補って余りある長さの斧剣を大きく振りかぶり、刃の重さに自重を加えながら思い切り刃を振り下ろしつつ落下した。重い斧剣が鈍重な唸り声をあげながら空気を掻き分けながら無防備な頭部に向かってゆく。

獣の体は揺れる。筋肉が小刻みに震え、硬い体毛同士がぶつかり、耳障りな音を立てた。その行動が功を奏したのか、はたまた、単に完全防御とかいうスキルの限界時間だったのか、光の粒子は薄れて消えてゆく。敵の体が落下を開始した。このままでは一秒もしないうちに敵は地面に着地するだろう。無論、そんなことは許さない。

私は握り込んだ両手を強化して振り下ろしの速度を上げた。すると刃先の方が一匹の獣の頭部に触れた。敵は抵抗を見せたが、上からやってくる重さを躱す術を持っていないようで、遠心力の乗った刃先から逃れる事は叶わない。振り下ろされる斧剣の勢いが加わり、刃先に接触している敵の落下速度が増した。

斧剣の刃は続けて手前にいる獣にも迫った。敵は斧剣の刃先がもう一匹と戯れている間に体を捻っていた。

―――何をする気なのかしらんが、もう地面はすぐそこだ。諦めて死ぬがいい。

一瞬の攻防の後、遠心力の乗った刃先が最初に地面に到達した。地面は過重を受け止めきれず爆ぜ、刃の両側に土石を撒き散らす。続けて肉の詰まった腸詰に切れ味の悪い包丁を叩きつけた時のような感触がして、赤とピンクと白色が飛沫が宙に舞う。一匹の獣を仕留めたという確信。だが浮かれるのはまだ早い。勝利に酔ってよいのは、もう一匹を仕留めた後だ。

意識をもう一匹に集中すると、根元近くの刃は四足中の抵抗により頭上より首の根元にずれている事に気がつく。たが、問題ないと判断する。要は敵の胸にある回復機構を破壊できれば、頭部の破壊など、回復不能な手傷を負わせたその後で良い。

刃が地面にめり込む領域が私の手元へ近づき、もう一匹の獣の頭上と地面の距離が狭まる。センチはミリになり、マイクロからより小さくなってゆく。そして、ゼロ。超重の斧の刃が獣の体の抵抗を強引に突破して……ゆかない。

獣は刃によって地面に押し付けられた瞬間、四足にて思い切り地面を蹴り飛ばして、斧剣の根元の方、すなわち剣を振り下ろす私の方へと逃げようとしていた。斧剣が地面に姿を隠してゆく速度は、満足いく状態での四肢の力の解放が出来なかった獣の離脱速度よりも上であり、獣の体は少しずつ剣に圧し広げられてゆく。それでも敵は死んでたまるかと足掻いていた。何という本能。何という生き汚なさだ。

剣を振り下ろして敵を圧し潰す事に全身全霊で注力していた私は、獣の抵抗を目で追う事はできても、動きに対応する事が出来なかった。柄を握っている両手は地面を砕いた衝撃を逃がすために働かせ、両足は着地の衝撃を逃すべく硬直と弛緩を繰り返している。

やがて敵は右半身を断たれながらも剣の根元にまで到達し、剣を握る私にぶつかった。勢いは凄まじく、敵の傷口より多くの血飛沫が宙に舞う。衝撃は私の硬直していた手を柄から引き剥がし、体当たりの勢いに負けた私は背中より地面に大きく打ち付けられた。

「―――ぁっ、は、あ」

肺の空気が漏れる。敵の突撃に続けて、地面との衝突による衝撃が背中より全身を貫いた。衝撃は背骨を通じて脳に到達すると、異常の信号を出して脳裏に光と音のノイズを発生させる。眼球の中で光が明滅した。続けて耳鳴り。遅れて脳は痛みを訴えた。

痛みは無意識の境に旅立ちかけていた私を現実に引き戻し、私はすかさず腹筋のバネを利用して起き上がる。急激な位置変化は脳を揺らして平衡感覚と視界が揺れたが、即座に喝を入れて周囲を見渡す。仕留め損ねた敵はどこへ行ったのだ。

そうして意識を周囲に拡散させると、離れた地面の上に構えていた目標を視界内へ収める事に成功する。獣は胸部の右側を断たれて動かなくなった右足をぶらりとさせながらも、残りの三足で地面に伏して構えていた。獣は息を荒げている。傷口からは、微かな回復煙を上げているものの、その傷が瞬時に癒える事はない。こちらの目論見は成功を確信する。

「やったな、エミヤ!」

シンが仲間と共に称賛の言葉と共に駆け寄ってきた。ダリは無言ながらもこちらの肩を叩き、笑顔で攻撃の成功を祝ってくれている。サガとピエール、響の三人は三者三様に感嘆したり呆れた声をあげたり、目を白黒させて驚いたりしていた。

「これで残るは一匹。エミヤ。行けるか? 」
「勿論だ」

私は深く呼吸をして体の状態を整えると、獣に視線を送った。もはや死に体に等しいだろう姿。しかし、それでも獣は今のこの状況が楽しくて仕方ないとでも言うかのように、獰猛な笑みを浮かべて、未だ衰えぬ敵意を向けてくる。その表情からはこの状況下において未だ己の勝利を疑っていない事が読み取れた。

敵はいっそう深く地面に体を傾けた、敵はただ体を地面に近づけただけである。だがたったそれだけの動作は、私の体に悪寒を走らせ、本能に警鐘を鳴らさせた。いかん。何かはわからないが、このままでは全滅する。最悪の結末が、強化し千里眼に近い機能を持つ眼球を通して見えた。即座に防御用宝具の設計図を心の裡より引っ張り出す。

獣の低く伏せられた頭とは逆に、高く天を貫くかのごとく掲げられた赤い尾がゆらりと揺れた。すると獣の周囲に五つの死骸が現れた。宙に浮く骸のうち、二つには見覚えがある。先程己が仕留めた奴なのだ。も覚えがあって当然だ。

それらは先程この部屋で私たちが倒した獣どもの骸だった。彼らの死骸は傷口から体液を地面に垂らしながら、宙にじっと待機している。何が起こるのか、と頭が結論を求めて回転しだしたが、やめた。現状、とにかく情報が足りない。ただ一つ、何が起ころうと、おそらくはろくな事にならないだろう予感を信じ、いつでも動ける様に意識を集中させる。

私と同じ結論に至ったのだろう、シンらも警戒を強め、構えた。私たちがそれぞれに構えたのを見て、地上に伏せた獣は笑う。敵は回復器官を損傷し、傷口の治癒が望めない状態になりながら、それでもなお、こちらを真正面から叩き潰そうとしているのだ。野生の獣とは思えないバトルジャンキーっぷりである。

獣が獰猛な笑みを浮かべると共に、宙に浮いていた死骸の群れに異変が起こった。胴体より頭部と四肢が離れたのだ。頭部と四肢は宙に浮いたまま動かない。

一方、胴体はこちらに射出された。だがその速度は遅い。どういう意図があるのかは知らないが、近接職の三人が迎撃を試みた。すると、寸前で胴体は内部より爆発。私たちは内臓と血肉と骨片と体液の散弾を浴びる。

血肉は対したことがないが、細かく散った骨片は多少の痛みを与え、私たちのからだに傷を作った。骨は頬と首元にいくつかの赤い筋が走り、ダリは瞬時に反応して盾で防ぎきるも盾の表面に傷を作り、上半身を露わにしていたシンはもろに食らって、体のあちこちに傷を負っていた。骨片が刺さっている部分もある。敗血症にならなければいいが。

そうして改めて敵の方を見てやると、嫌がらせが成功して嬉しいのか、獣がニヤリと笑みを深める。その動作が多少カンに触る。

赤の空間に突如として起こった血肉の散乱により、さらに私たちはひどい臭気と不快感を与えられる。血と肉と骨片と内臓のかけらは大半が地面にぶちまけられるも、勿論いくらかは私たちの体にも付着し、熱気と湿気、生暖かい感触と臭気が辺りに拡散される。

悍ましい。そんな言葉では表しきれない光景が広がった。

「うぇ、なんだよ、これ……」
「生ぬるい感触と、臭さが……」

サガと響が不快に顔を歪める。獣はそれを見て笑う。そうして尻尾の先端が指揮棒の様にくるりと一回転させると、こちらに向けた。同時に宙に浮いていた頭部の牙と手足の指先がこちらに向く。頭部だけとなった獣の口が開き、爪が伸びた。まずい。これはまさか―――

悪寒は脳内を駆け巡り、攻撃よりも防御を優先させた。瞬時に魔術回路を励起。最大限の強化を全身に施すとともに、右手を前に掲げて敵に半身を向ける姿勢となり、両足で地面を硬く踏ん張る。そして脳裏の投影設計図から、私の持つ中でも最大の防御用宝具の物を引っ張り出す。

―――そうして引き出したのは、ギリシャ神話はトロイア戦争の大英雄「アイアス」が所持していた、ヘクトールの投擲攻撃を防ぎきった盾

そうして敵の頭部と四足は予想通り、宙より私たちに向けて弾丸の様に射出された。血飛沫の尾を引いて彗星の様に飛来する合計三十の魔弾は。どれも当たれば必殺の威力を秘めている事が一目で理解できる。牙や爪の鋭さはいうまでもないが、あの質量と速度はまずい。直撃を食らわずと、掠めただけで我々の体を抉ってゆくに違いない。

私は敵の攻撃と同時に右腕を前方に掲げ、防御用宝具を投影した。

―――その名は

「熾天覆う七つの円環/ロー・アイアス! 」

投影により生まれた七枚の花弁が、我々の身を守るべく差し出した右手の向こうに展開される。向こう側が見えるほど薄く儚く見える人間大の大きさの桃色は、その一枚一枚が古代の城壁の防御力に匹敵するという、私の持ちうる中で最も堅牢な防御手段だ。

宝具を投影した直後、掲げた腕のすぐ前方の空間で、アイアスが飛来した大きな彗星群と激突した。桃色の壁に牙や爪が散弾の如く突撃したその衝撃は凄まじく、掲げた右腕を伝わって全身に広がった衝撃は私の体を激しく揺さぶる。

桃色の壁が甲高い悲鳴をあげながら一枚砕けて散った。膝をつきそうになる程の衝撃を、大地をさらに強く踏みしめることで抵抗する。なんという威力だ。だが最大の威力であろう攻撃の最初の一撃は防げた。あとは牙と爪が威力の速度が落ちるのを待てば良い。

―――
――――――
――――――――――――?

馬鹿な……、―――威力が落ちないだと!?

腕より伝わる感覚は初撃の時から変わらぬ力強さを保って、私たちに喰らいつこうと前進を続けている。私はわずか数秒もしないうちに、自らの楽観的期待が大いに外れたことを知らされた。二枚目の花弁が散る。しかし牙と爪は威力を一切落とさないまま前に進み、私たちに食らいつこうと試みる。

続く勢いに押され、私は地面を削りながら後退させられる。靴で地面を抉る感触は
いつもと違うぬるりとした感触。……まずい、先ほどの血飛沫が地面の摩擦係数を低下させている。このままでは踏ん張りが効かなくなる。そうすれば待っているのは、死だ。

先ほどの無意味に見えた胴体の爆破はもしやこれが狙いか。ずるずると後退させられる体。血と体液でぬかるんだ地面を踏みしめる足裏には泥が付着し、いっそう踏ん張りを効かなくする。

「力を貸そう、エミヤ 」

そうして後退させられる体を後ろから支える者がいた。ダリだ。彼は盾を地面に放り出すと、半身となっていた私の体に片手で抱きつくと、もう片方の手に握っていた槍を逆手に地面へと突き刺して支えとした。支点が増えたことにより私の体は衝撃の逃げ場が増え、安定性を増す。

「わ、私たちも! 」
「手伝いますよ」
「無論だ! 」
「当然! 」

ダリの後ろに四人がひっつく。ダリの後ろにはシンが背中合わせにひっつき、地面に刀を突き立てる。ダリの鎧が大きすぎて、シンの回した片手が彼の胴体を掴みきれないための処置だ。ピエールはダリとシンが離れないよう、二人をしっかり固定するように腰を抱きとめながら地面に膝をつけている。背の低い響とサガはダリの足にしがみき、地面に足と膝をついて接地面積を増やしていた。

「助かる……! 」

五人がそれぞれ衝撃を受け持ってくれたおかげで体を伝わる衝撃は軽減し、後退速度は低下する。だが、そこまでだった。結局、牙と爪の威力が低下しないので、手詰まりなのに変わりはない。

―――どうすればいい。何をすれば止められる? 仮に魔術でこれほどの力を発揮するとしたら、何が必要か。考えろ。思いつかなければ近似する攻撃手段から解決案を見出せ。敵は直前、何をした?

考える間に三枚目の盾に亀裂が走り、その身を散らせてゆく。それを見て敵は笑みを深める。迫る魔弾。近く死期。焦燥を誘う行動をしかし、無理やり抑え付けて思考を続ける。

―――さっと思いつくのは、二つの行動。尾っぽを振るう行動と、胴体を爆発させたそれ。前者はこの攻撃を操るものだとして、後者には何の意味がある? ただ地面との摩擦を奪うだけのものか? 本当に?

四枚目の盾が悲鳴をあげている。敵の悍ましい魔弾は衰えを見せない。その牙で、その爪で敵の体を食い破ってやろうと変わらぬ殺意を讃えて薄板の向こうで暴れている。ギシギシと全身が揺さぶられ、意識が中断させられそうになる。

瞬間、敵の攻撃の力に負けて盾をかざす方向が微かにずれた。正面に掲げられた盾にできた一瞬の斜めの空間に、アイアスの盾の端にて力を発揮していた五爪が滑り込んで、盾の内部に入り込む。必殺の一撃の一部を通したことに、悪態の一つが漏れる。

「―――くそ! 」

―――やられる

思った瞬間、しかしその牙は我々六人をまるきり無視して先程ダリが放り投げた盾の表面に直進すると、その堅牢な盾に突き刺さった。理解不能の行動に、我々は揃って混乱。しかし、そうして盾を食い破った爪が満足そうにその動きを止めたのを見て、天啓を得る。

―――感染呪術

「それか! 」

思わず声をあげた。同時に三枚目の花弁が散った。

―――奴の血肉によって生まれた傷こそが、呪いの源か。胴体を割いて血肉をばら撒いたのは、足元から摩擦を奪うためではなく、呪いの発動条件を整えるためだったのか!

だがどうする。呪いの発動条件がわかったとして、感染呪術であるとするならば、接触してしまった時点で、傷をつけられた時点でどうしようもない。ほかに方法があるとすれば、呪いを発動している術者の命を絶つあたりだろうが、そのような強硬手段を取る暇などない。多重投影に力を回そうものなら、瞬間、今の守りは砕けるだろう。

もはや花弁は残り二枚。ヒビの進行が少しでも送れるよう強化の魔術を重ねがけするが、硬度を増したところで死ぬ迄の時間稼ぎができるだけで、事態の解決が図れるわけでない。最後の一枚ははそれまでの六枚よりやや硬くできているが、だからといって発動し続ける呪いを解呪するような機能はついていない。まさに絶体絶命の窮地というやつだ。

「エミヤ。なにか気がついたのか? 」

誤魔化すように溜息を吐くと、すぐ後ろを支えるシンが問うてきた。言葉は真剣みを帯びていて、彼はこの状況下において、未だに諦めていないことがわかる。そしてまた、彼は私なら何か突破口を見つけてくれるかもしれないと思っている節がある。面映ゆさを感じながらも、私は出来る限り正直に現状を伝えることにした。私は踏ん張りを一層強めながら言う。

「この攻撃は、おそらく呪いの類だ。おそらく先程散布された獣の血肉がつけた傷に到達するまで、この一撃は止まらん。呪いの詳しい内容はわからんが、牙や爪が指定した場所に到達するまで一定の威力を保ち、止まらない、という条件は含まれていそうだな」
「傷に、呪いか。一般的な呪いならテアリカβで治るものだが……」

呪いが一般的に存在するのかと驚く間も無く、シンの言葉でダリの足元にしがみついていた響が素早く動いた。彼女は地面に投げ出されていた己の鞄を引き寄せると、二つの瓶を取り出して直上めがけて中身の液体を振りまいた。

散布された白い液体はきらきらと光を反射して薬液の霧雨が頭上より落ちる。液体が触れた途端、体に張り付いていた血生臭さが薄れ、傷が癒され、幾分か楽になった。しかし。

敵の攻撃は止まらない。

「ダメです! 効果がありません! 」
「おい、呪いじゃないのかよ! 」

傷を治しても、呪いを解除する道具を使用しても、敵の攻撃は止まらない。支え役が一人減ったことで、少しばかり後退の速度が早まった。慌てて響は再びダリの足にしがみつき、地面に跪く。私たちが地面を抉る速度は低下したが、やはり牙と爪の勢いは変わらない。

「おそらく既に発動してしまっている呪いには効果がないのだろう」
「エミヤ。呪いに詳しいようだが、この呪いを解除する方法はわかるか? 」

シンは、再び尋ねてくる。私は踏ん張りながら、少し考えたのち、答えた。

「発動している呪いに対処する手段はいくつかある。例えば、呪詛返し。呪詛の儀式を中断してやれば、契約の違反により、呪いは発動させた本人の元へ戻り、当人を呪う。他にも、例えば、発動している術者を殺せば、儀式の不成立ということで呪詛の発動が止まる事が多い。あとは呪具の道具、この場合だと牙や爪を破壊や…… 」
「なるほど。十分だ」

言ってシンは私の言葉を遮った。彼は地面に突き刺していた剣を引き抜き、体を起こす。大きく負担を受け持っていた一人分の支えが減ったことにより、私は少しバランスを崩した。慌てて全身の力配分を調整し、倒れぬよう魔力配分を調整する。

「おい、シン。十分って何がだよ! 」

サガが悲鳴のような声をあげて問う。

「やるべき事が分かったという事だ」

シン静かな表情を浮かべると、今までとは違う、剣を冗談ではなく、横に構えた居合の構えをとる。薄手となった彼は剣を握ると、私の横に並び立った。

「……おい、シン、まさか」
「儀式の邪魔をしてやるか、術者の殺傷、呪具の破壊でどうにかなるのだろう? ならこれが一番手っ取り早い」

シンが何を行おうとしているのか察したらしいサガが呆然と言うや否や、シンは身体を地面の方向に傾け、腰を落として前傾姿勢に構える。しなやかな蛸足の指先が地面をがっちりと捉えており、シンの体はぬかるんだ地面の上でも安定した姿勢を保っていた。私は彼の姿に獲物を求めて飛び出す直前のチーターの姿を想起した。

「何をするつもりだ」

ダリが礼儀のように聞いてやると、彼も礼儀のように義務的に返してくる。

「一閃を使用する。弱ったあれ相手ならいける」
「……この際、結果を楽観するのには目を瞑ろう。だとして、目の前のあれはどうする気だ。あの速度と威力を見ただろう? 断言してやる。かいくぐって攻撃するのはお前でも不可能だ。私の援護をあてにしているならやめておけ。いまの私では、あの数は防げん」

シンは無言で告げる私の方に目を向けてきた。少しばかり眉間にしわを寄せた顔には、お前ならなんとかできるのではないか、という期待が混じっている。私は逡巡した。

確かに牙爪の侵攻を止める手段は思いついている。だがそれは呪いの前にどれほど通用するかわからないし、通用したとしてどのくらいの時間有効かもわからない。そんな無い無い尽くしの手段を、私は命を賭ける者に献上する策として提案したくはなかった。だから迷う。

しかしシンは言った。

「進言を迷う程度の効果しか望めないにしろ、突撃を止める手立てがあるんだな? 」
「……、効くかわからん。もっても一瞬から数秒だろう」
「了解した」

それだけ言うと、シンは正面を見据えて、下半身に力を入れた。袴の裾から、肉が隆起して太くなっているのが見てとれる。彼の中ではもはや私がその手段を実行するのは決定事項で、おそらく何を言っても止まる気はないのだろう。私は今日何度目になるかわからない溜息を吐いた。

「諦めろ。こいつはそういうやつだ」
「……苦労を察するよ。―――カウントから五秒で盾を消す。同時に大量の剣をあれにぶつける。一瞬くらいは拮抗が望めるだろう。その隙にシンが仕留めれば勝ち。出来なければ、その後どうなるかは分からん。せいぜい自分の身を自分で守る覚悟を決めておけ。……五秒後にカウントを開始する」

断言した直後、背後を支える力が弱まるのを感じた。彼らもシン同様準備に入ったのだ。私は全身の力のバランスを調整しながら、盾に注力していた魔力の一部を別の投影に回す。

――ー体は剣でできている/I am the born of my sword

剣を盾の前方に射出するイメージ。質ではなく数を重要視して、百を超える数の剣の投影を準備する。いかに威力と速度を一定に保つ呪いといえど、ある程度以上の堅牢さを持つ物体の前にしたとき、その進行を止めることができる事は、アイアスが目の前で明らかにしてくれた。

ならば、別方向から力を与えてやれば、その矛先を逸らすことが出来る可能性もある。と、考えたわけである。巨大な質量のものを一つ用意するのではなく、一般的なサイズの剣を多数用意したのは、単純に私の魔力が尽きかけているからである。アイアスの強度を保ち続け、かつ全身に強化を使用し続けているという行為は、私から悉く魔力を奪っていた。

魔力が尽きれば、当然私を待つ運命は死である。もはやシンの一撃が通用することに賭けるしかない状況なのだ。運の悪さを自覚している私としては、完全に運否天賦な勝負は避けたかったが、仕方ない。

「―――五、四、三」

こうなればベットの対象である彼が、間違いなく敵を仕留められるという確信を持っている事に希望を見出すしかないかと思いながら、私はカウントの数字を進めた。さて、ご破算にならなければ良いのだが。

すでに準備は万端だ。力を込めた下半身は力の解放を今や遅しと待っている。

「―――二、一、―――全投影連続層射/ソードバレルフルオープン! 」

エミヤの勘定が進み、零の言葉が発せられる時を前にして、エミヤが前方に突き出す腕と桃色の壁の前の十メートルほど上空に無数の剣が出現した。数を数える暇はないが、目算ざっと百は超えていると思われる。剣群は壁が消えるよりも早く上空より壁の前に陣取る敵の牙と爪に猛然と襲いかかり、口を大きく開けた頭部と爪の伸びた四肢を地面に叩きつけた。

衝撃により生じた爆風は目の前の壁によって上空と敵へと向かい、桃色の壁の前に巻き上げられた土砂が舞う。同時に壁が消えた。私は風と土砂が私たちの元へ到達する前、迷わず下肢より力を解放し、煙の中に飛びこんだ。肌の晒してある部分を、土と風が強く刺激する。

一足飛びで煙の中を抜け、着地。牙と爪が密集する危険地帯を飛び越えると、力の勢いが全て地面と平行の方向へ向くようにして地面を蹴る。鉛直方向への力が最低限であることを確認すると、抵抗を少しでも減らすため地面に向けていた顔を上げて、敵を見る。

敵は変わらず尻尾を立てたまま地面に伏せていたが、煙より飛び出して近寄る私を見て少し仰け反らせた。警戒を露わにしているが動く気配はなく、エミヤがつけた首の傷は未だ健在である。素晴らしい。これなら間違いなく首を落とせる。私は勝利を確信した。

直後、背後から聞こえると無数の金属音と男女の悲鳴。加えて、背後から殺意が迫っている。多くの牙と爪がこちらに迫っているのがわかる。恐らく残り二十九のうち、その大半がこちらに向かっている。先ほどのエミヤの説明から聞くに、最も多く傷を負った私が、最も多くの呪いを受けているからだろう。だが知ったことか。

腰の力だけで上半身を起き上がらせると、多少胸板に風の抵抗がかかるのを無視して剣を上段に構え、大きく息を吸い込みながら腕を振り上げた。そうして剣の腹が背中に着く直前まで振りかぶると、次の着地の際、右足で地面をおもいきり踏み込み、肺の中の息を全て吐き出しながら技の名前を叫ぶとともに、必殺の意思を込めて剣を振り下ろした。

「一閃! 」

体の中に溜め込まれていた力が腕を通じて振り下ろした刀に伝わると、剣は微かに発光する。刀身より生まれた光は瞬時に周囲一帯に広がり、敵近くの空間に断裂が生じた。断裂より現れるのは、私の刃そのものだ。振り下ろした刃は彼我の距離をゼロにして、切り上げの一撃となる。

フォーススキル「一閃」は使用すると、一定範囲内の敵全てに対して使用者の刃の一撃をおみまいする事の出来るスキルだ。刃は幾重にも分裂して、敵のすぐ近くの場所に現れる空間の断裂から敵を狙う。空間の断裂が出現する場所はスキル発動者の認識に依存する。私の場合、敵の急所を死角から切断できる場所を常に意識するようにしている。

例えば今回のように首と胴を切り離せば死んでくれる獣相手の場合は、敵の視界範囲外となる真後ろから無防備なうなじに刃を叩き込める位置に空間の断裂を出現させて、頭部と胴体を切り離す一撃が首元めがけて放つようのが常のやり方だ。

だが今回、私はあえて通常の場合とはイメージをずらして、刃の出現位置を変えた。今回空間の断裂が現れたのは、右胸部にぱっくりと開いた切り傷の近くだ。エミヤがつけた傷は未だに煙を上げながらは血を滴らせながら周囲の肉が蠢いている。硬い毛も外皮も脂肪も筋肉も快癒していない部分は、まさに敵の急所と言えるだろう。

この一撃がうまく傷口から刃が侵入してくれたならば、敵の傷口から体内入り込んだ刃が内部より外部に向けて直進し、侵入と真反対の部分までを切り裂いて敵の体を両断してくれる確信がある。そうなれば私たちの勝利である。当然私の狙いはそれだ。

当たれば勝ちの勝負にはしかし懸念もあった。敵は私を見て構えてみせた。ならば敵がこちらを警戒して動く可能性もある。動けば当然、傷口の位置はズレてしまう。そうなれば、攻撃は敵の硬い皮膚や毛にあたり、弾かれる可能性が高くなってしまう。

そう。敵が動くか否か。それが問題だ。敵が警戒して見に徹してくれれば私の勝ち。敵が警戒してその場からの離脱を試みた場合、勝負の決着はお預けの可能性が高くなる。

考えている間にも振り下ろした刃は空間の断裂の向こう側に現れ、傷口に迫っている。さぁ、どうする。どう動く。迫る刀身に動かない敵。意識のほとんどが両手とその先に集中する中、微かに残っている五感は視覚が敵の口元の歪みを捉えた。

敵の七色の瞳は怪しく輝き、覚悟と殺意に満ちている。間違いない。敵は私の狙いに気がついている。先の先を取ったことに気がついている。だが敵は動かない。なぜ。どうして。嫌な予感。心に陰りが生まれた。

刹那よりも短い時の中で、疑問が湧く。疑問は不安となり、敵への斬気で満たされていた心中に落ちて動揺の波紋を生む。間違いなく敵はなにかを狙っている。それはこちらにとってロクでもない事であるのは想像だに容易い。だがもはや手遅れだ。振り下ろした刃の勢いは止まらない。心中に生まれた動揺は焦りとなり、剣を振る速さは上昇すらしている。

直感は己の命の危機を訴えて、懸命に停止の警鐘を鳴らす。しかしもう遅い。

敵の胸元の傷口に剣が吸い込まれた。敵の数に呼応して多重に分裂する刀身の先から感触が伝わる事はない。刀身が敵と衝突したさいの衝撃と感触が伝わるようなら、私の手は先の番人戦において鋼のごとき硬さの虫共億匹を斬り裂いた際に使い物にならなくなっている。

だが断裂した空間の先で刀身が敵を裂いたと直感が告げた。生まれてこのかたこの感が外れた事はない。勝った、と私は確信した。硬い敵の柔らかい内側への侵入を果たした刃は肉と骨を切り裂き、反対の肉体より抜け出る。

剣を振りながら、しかし視線をまっすぐ敵に向けて見守っていると、遠目に敵の硬いが盛り上がったかと思うと、見覚えのある形をした刀身が皮を突き破って現れ、消えた。

骨肉を断たれた敵の胸元から上側が、ずるりと新たに生まれた傷口に沿って下方向へ滑る。支えを失った首はあとは落ちるが定めである。後ろから迫る殺意が消えている事からも、結果など見なくともわかりきっている。だが先程胸に湧いて生まれた悪寒は、敵の首が落ちて動かなくなるまで視線をそらすなと告げていて、私は敵から目が離せない。

赤一色で見にくい視界の中、敵の挙動を注視する。司令塔からの命令を失った敵の四肢から力が抜けたのがわかった。地面に低く伏せた胸と腹はすでに地面へ向かって落下を開始している。脳から一番遠い尻尾だけが、未だ雄々しくピンと天を向いていた。

視線をもう一度敵の頭部へと戻す。敵の頭部は胴体に先んじて落下を開始しており、先程ついたばかりの傷口から肉と骨が見えた。敵の鼻先から頰、目元を見ると敵の生気を失った赤い瞳が私の眼に映る。

―――赤い瞳……?

何かおかしい。疑問に思った瞬間、私の体は後ろからの衝撃を受けた。敵に向いていた視線が頭上の樹木と枝葉を捉える。なぜ、と思う間も無く、続けて胸元から飛び出した毛と肉と骨の塊が直進するのが見えた。

直前までの集中は、塊が先程まで自分が散々見ていた獣の頭部であることに気がつかせる。頭部の開かれた口と思わしき部分からはピンク色の脈動する管が伸びていた。管を追って目線動かすと、自分の腹より伸びている。

私は一瞬の間だけ馬鹿みたいに惚けると、唐突にそれの正体に気づいた。私はそしてなにが起きたのかを悟った。

―――ああ、胸元と腹を持っていかれたのか。

よく見ると右腕の一部も途中から断裂している。無事なのは、頭部と左腕と両足だけだった。さらに軽い衝撃のち、伸びていた腸の一部が切れた。振り下ろしている最中の右前腕は剣の柄を固く握ったままぐるりと半回転して私の左脇腹を叩いた。

右前腕の外側部分が左半身に触れるという異常は、止まっていた時を動かす働きを持っていたようで、私の体は地面に吸い込まれる。まず無事だった腰部から下の部分が八の字を描いて地面に倒れこんだ。そして肩部から上の部分が傷口の部分よりきれいに着地して泥を跳ね上げる。

息が喉元より漏れた。肺が機能停止しているため、空気は漏れていく一方だ。いやそもそもこの有様では肺が生きていたとして、酸素が全身に運ばれる事もないだろう、とどこか他人事のように思う。遅れて地面との激突により生じた衝撃が脊髄を通って脳内に到達し、胸より下と右腕を失った事実を認めて痛みの信号を脳内に発した。痛みの直前訪れたのは酷い喪失感。そして他には例えようもないほどに冷たく鋭い痛みが走る。

痛みは感覚を鋭敏にして、視界の先が自身の体内の光景を通り越して、宙にある回転する敵生首の横目を捉えた。

―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる

そんな言葉を幻聴した。憎々しげに歪む口元は私のことなんて見ていない。それがひどく悔しくて、私は自らに致命の一撃を与えた敵がやったように、にやりと笑って同じ意思を返してやると、敵は少しばかり不服の感情を深めたように見えた。

―――ざまあみろ

意趣返しの言葉を思ったと同時に視界が暗くなってゆく。頭はもうぼんやりだ。呼吸ができない。苦しい。急速に感覚が失われてゆく。視界がぼやけてゆく。痛みだけがはっきりと今の自分の意識を保たせていた。

失せてゆく視界の代わりに嗅覚と聴覚が敏感に反応した。すんと鼻を動かすと血と鉄と土の匂いが痛みを柔らげた。そして静寂を切り裂いて前方から大きなものが地面に落ちる音が聞こえた。続けて後方から聞こえる悲鳴と私の名前と泥の跳ねる音。

彼らの声を聞いて私は最後に何を言い残すべきかを考えていた。

シンという青年によって撹拌され広範囲に拡散した、世界樹特有の赤い土砂と敵の血肉のかけらが混じった煙がが薄れてゆく。多重投影によって生まれた視界がクリアになってゆく中、地面には突如として動きを止めた敵の牙と爪が散乱している。もう動く様子はない。どうやら完全に活動を停止しているようだ。私はシンという青年が上手くやったことを直感する。土煙がさらに薄れて、ぼんやりとした視界の向こうに彼のシルエットが現れた

そして気づく。赤い煙の向こうに見える彼の形の不自然さに。なぜ彼は浮いているのか。なぜぼやけた彼の体の真ん中から遠くの敵の首切り死体が見えているのか。思いつく限り最悪の想像が頭の中を駆け巡る前に答えは目の前に提示され、光景を目にして私は戦慄した。

シンの土手っ腹には大穴が開いている。半ば体を斜めに傾けた彼は、頭部と腰部から下が完全に分離して宙に浮いていた。彼の斜角からして、何か硬いものが一瞬だけ彼を背中から上方向に押し上げて、その直後突き抜けていった、というのが予想できる。私は彼が向ける視線の先を追うと、先程我々と相対していた敵のその頭部を見つける事に成功した。

奴は目元に微かな不快を浮かべながらも、血肉を食んだ口元には不遜な笑みを浮かべている。凶暴な笑みを浮かべる口元から覗く人の内臓の千切れた端が、この惨状の下手人が奴であることを明確にしていた。宙に浮いた彼の体が浮遊の不自然に耐えきれず落下する。

―――あの野郎の捨て駒にされたのは気にくわねぇが、必殺の看板をおろさずにすんだ事だけは、感謝してやる

さっぱりとした声の、そんな幻聴を聞いた。聞き覚えのあるセリフに頭が硬直する。まて、そのセリフ。忘れもしない、私の盾を打ち破り腕をズタズタに引き裂いた一撃を放った男の言い放った言葉になぞった文句。まさか、では、もしやお前は―――

「―――ランサー?」

呟いた瞬間、どん、という間抜けな音が響き、私達の時間が動き出す。浮いたシンの体が落着していた。思考を現実に戻し、真っ先に響が耳をつんざく程の悲鳴をあげた。ダリが声がかすれるほど大きな声をあげてシンの名を呼び、駆け出す。私は彼の後に続いた。遅れて二人が地面を蹴る音が後方で聞こえる。

彼はばっさりと断たれた胸部の傷口が綺麗に地面と接触しているため、まるで胸像のようだった。私に先んじて近寄ったダリは、もはやどう対処していいのかわからないと言った体で視線と両腕を虚空に彷徨わせている。

私はその脇を抜けて彼の体を噛みちぎった敵の頭部の元へと駆け寄った。敵は瞼を落として満足気な表情で口角を上げて死んでいた。瞼をグイと押し上げると七色に輝いていた瞳は光彩を失い瞳孔が拡大して対光反射をなくしていた。

死亡を確認。意を決してすぐさま閉じられた口元を開けてやる。そしてその口腔に唾液にまみれ現れた破損した人体を見つけて、思わず眉をひそめて唇を噛んだ。シンの体と内臓は噛みちぎられた際の衝撃で大きく損傷したのち、更に何度か咀嚼されグズグズになっている。

この世界の技術と私の魔術があればなんとかなるかも、という淡い期待を抱いていた私は、ようやく彼はもはや手遅れである事を悟った。重苦しいものが胸に去来する。見知った誰かがもうすぐ死ぬという事実は、思った以上に今の自分にとってショックな出来事であるようだった。さて、いつからこんな感傷を抱くようになったのだろうか。

獣の口元を閉じて両手で抱きかかえる。そうしてその中身が崩れない様に注意を配ると、抱えた状態で地面についた自らの足跡を逆走した。物言わぬ骸になりかけている彼の周りでは四人の人間が地面に膝をついてどうしたものかと喧喧諤諤に言い合いをしている。

「おい、どうするんだ! どうすればいいんだ!? 」
「響! 喚いてないで回復薬を使え! どうにかなるんだろう!? 」
「傷は塞ぎます! 塞ぎますけど、こんなんじゃ傷が塞がらないじゃないですか! 」
「ネクタルはどうなんだ? 」
「真っ先に使いましたよ! もうありません! ダメなんです! 体がないんです! 顔が血の気を取り戻した端から白くなっていくんです! 血も止まらないし、そもそもこんな状態じゃどうすればいいっていうんですか! 」
「……シン、聞こえますか。まだ大丈夫ですか? 」

三人が騒ぎ立てる中、殊更冷静にピエールだけが彼の頬を叩いて意識を保たせる努力をしていた。ピシピシと頬を叩く行動は死体に鞭打つようであるが、効果はあったらしく、シンは閉じていた瞼を開けて、顎を微かに上下に動かした。

まだ息がある。そのことを確認すると、私は彼の周りにたむろった人を退けて、シンの眼前に狼の頭を置いた。一同、特に三人が息を呑む。私はもはや魔術を使うことを一切気を使うことなく剣を投影すると、狼の口を開けて、片側を大きく切り裂いた。

剣は口腔を抜けて口の端から後頭部まで通り抜けて、その間にある障害物を全て斬り裂く。そうしたのち平坦に伸びた前頭部から頭頂部までを掴み、眼球のあたりに親指を引っ掛けると、力任せに肉を引きちぎりながら敵の上顎と下顎を開口させた。

無理やりの衝撃に頬骨が破砕する音が聞こえたが無視する。周りが息を飲んだのがわかった。そうして現れたのがシンの失った体の一部は唾液でベトベトになり、内臓は腰側の胴体から飛び出して口腔内に飛び散っている。惨状に目を逸らす気持ちもわかるつもりだ。だが。

「シン。横にするぞ」

今は一分一秒も惜しい。返事も待たずに美術室に屹立する胸像めいた身体と頭部になった彼を抱きかかえて、獣の舌の上に乗っている彼の体の切断面に合わせる。上半身はバウンドした際、内臓がこぼれ落ちて土にまみれていたが、切断部分の敗血症や感染症の心配をしている暇などない。とにかく繋げることがまず第一だ。

汚れた面と唾液に塗れた面を強引に押し付けて、見た目の体裁だけ整えると、響に向けて言う。

「響。薬を彼に」
「……え、あ、うぅ」
「やれ! 死なせたいのか! 」

叱咤すると、響は慌てて地面に投げ出されていたバッグから薬の入った細長い金属瓶を取り出してふりかけた。瓶の口より溢れた光の粒子が宙を舞い、重力に従って彼の傷口に殺到する。光の粒子は傷口に触れる直前強く発光してみせると、彼の傷口から音と煙が上がり、薄いピンクの肉が盛り上がった。白くなりつつあった彼の顔が微かに血色を取り戻す。信号を取り戻した心臓は再稼働を果たし、腰部あたりからの出血が再開した。

……指示しておいてなんだが、この結果に驚いた。まさか動脈静脈神経骨その他の部分が綺麗に吻合されたということなのだろうか。切断面の汚染があるにもかかわらず、切断された両者の部位が重力に負けて多少のズレを生じているにもかかわらず、回復薬は傷を治癒してみせたというのか? なんという奇跡。何という威力なのだ。

驚愕をして疑問を考察しようと試みていた頭は彼が咳き込んだのを聞いて現実を思い出した。肺が機能を取り戻したのだ。呼吸の再開は生存の可能性が見えてきた証明であるとはいえ予断を許さぬ状況であることに変わりはない。

急いで獣の頭部顎下にあったシンの下半身を引きずり出すと、同様にすぐさま切断面同士をくっつけようと試みる。しかし。

「っつ、厄介な……」

こちらは上半身のように簡単に出来なかった。飛び散った内臓はぐちゃりと潰れ、あるいは牙にちぎられている。特にひどいのは腸だ。無造作に飛び散った消化器官はどれがどれだか区別がつきにくい。そうして内臓立体パズルを解いている間にも、出血は続き、血の気を取り戻した顔は再び白さを帯びてゆく。内臓を弄っているにもかかわらず血まみれにすらならない事態に焦りながらも、なんとか無理やり形を整えると、再び指示を飛ばす。

「響! 薬! 」
「はい! 」

すると今度は待ってましたとばかりに彼女は一瞬の間も置かないで先程から手にしていた薬剤を振りまいた。どうやらこちらが何をする気なのか理解して待機していたようだ。

薬剤がシンの体にかかり効力を発揮しだして傷口がざわめき出すのを見届けると、長く深いため息が自然に口より漏れる。荒く断面を合わせるだけの作業はしかし、先程までの戦闘とは別種の精神的な疲労をもたらして、全身から汗を吹き出させていた。肌にまとわりつくぬめりとした感触が周囲の湿気と入り混じって酷く不快な気分だ。

せめて顔の部分だけでも拭ってやるかと片手を持ち上げると今更ながらに両手が汗と血と脂に塗れて生温さとどろりとした不快さを帯びていることに気がついた。仕方なく右手の裾で額、頬、口元、顎と順に拭ってゆく。その間にもシンの体は傷口から再び煙を上げて塞がれつつあった。

響とダリとサガは期待に満ちた目でシンの肉体が修復されてゆく様子を見守っている。シンの肉体の傷口から見える内臓は、まるで収まるべき場所と帰る場所を知っているかのように勝手に蠢いては接合してゆく。治癒というより再生。再生というより復元、時間の巻き戻しに近いものであるように見受けられた。

ふと自らの左腕を上げて掌を覗く。狼の牙によって落とされた左腕は魔術回路まできちんと治療が及んでいた。メディカの効用が半霊的な器官にまで効果を及ぼすとなると、やはりこの薬は科学的な理論に基づいたものでなく、非科学の領域に足を突っ込んで作り上げられたものなのだ。

回復薬とは一体どういう成分なのだろうかと真剣に悩む。解析の魔術をかけてもわかるのは花蜜と蜜結晶と岩サンゴを砕いて混ぜて作られたという事実がわかるだけで、それ以外の事はさっぱりわからない。だがその不明な成分が先程私の左腕を繋ぎ、今瀕死の淵にいるシンの命を拾い上げようとしているのだ。効用ばかりは信頼できるな、と左腕の傷口を見て独り言つ。その時だ。

「失礼 」

ピエールは短く言ったと思うとすぐに私の左腕をジロジロと眺め、言葉を続けた。

「エミヤさん。もしかして左腕は一度千切れたのを回復薬で治したのですか? 」
「……その通りだ」
「やっぱり。でしたら、一度地上に戻った際、施薬院に行ったほうがよろしいでしょう。繋がっているように見えて、案外、応急手当て的なぞんざいさが残っていたりしますし、多分、転移の直後間違いなく、傷の影響が出ますから」
「そうだな、そうするとしよう。忠告感謝するよ。しかしなぜ見抜けた? 」

彼は飄々とした笑みの中に少し悲しげな雰囲気を加えて、答える。

「羽織っていらっしゃる外套の左腕の前部分だけ綺麗に破れています。この敵の攻撃でぐるりと腕を一周するような外傷ができるとしたら、先程シンが受けた噛みつきの攻撃しかないでしょうし、加えて、あの胴体を裂くレベルの攻撃をその細い腕の部分に食らったのなら、いかにあなたが強靭な肉体を持っていても、腕が千切れて落ちるが道理かと思いまして」
「よく見ているな」
「観察は楽師の性分ですから。後に物語る時、見て聞いて感じての出来事を自らの言葉と感性で語れないようでは楽師失格ですからね」

なるほど聞いてやればもっともらしい事をいう。しかし疑問が湧いた。

「なら私よりもシンの方を観察したほうがいいだろうよ。窮地に陥った仲間を颯爽と救った英雄だ。彼を主役にしたほうが話も盛り上がるというものだろう」

口から出た言葉には、私の事を物語にして欲しくないという考えも混じっていた。彼の職業柄、私の所業がその口から多少の誇張や華美な表現で語られるのは許容できるとしても、彼の語りによって名声が上がり以前のように一挙手一投足に注目を浴びるような事態になるのは避けたかったからだ。

「そう……そうですね」

私が言った懇願も含めた言葉を聞くと、彼の整った顔に含まれていた悲しみの色になんらかの決意が加わり、悲壮へと変化した。私は自らの吐いた言葉のうち、何が彼の胸の裡に変化を起こしたのか理解できず、尋ねた。

「……なにか気に触ることでも言ったかな? 」
「いえ。ただ、そう。あなたのおっしゃる通り、臆病を殺してでもシンを観察したほうが良いだろうな、と思っただけです。……多分これが最後の機会になるのでしょうから」
「……何? 」

聞き間違いか。そう思って彼の顔を覗き込むと先程よりも悲壮感が強くなっている。固く結び付けられた口元からは、覚悟と決意の現れが見て取れる。私は今の彼と似たような顔を何度も見たことがある。それは近しい人間の死を覚悟した人間が浮かぶべる表情だった。

「どういうことだ? 」

具体性を書く質問に、しかし彼はニコリと笑って意を汲み答えてくれる。

「そのままの意味です。シンはもう助かりません」

確かな断言は静けさの残る森の中によく通ったように思えた。言葉につられてちらりとシン方へ目をやると、傷の治療が行われている彼と、彼の側でその様子を見守る彼らが視界に入った。ピエールの言は彼らの耳には入らなかったようで、少し安堵する。私は振り返り反論を試みた。

「そうはいうが、怪我は治り、傷口は小さくなりつつある」
「ええ。怪我は治ります。傷も小さくなりそのうち完全に塞がってくれるでしょう。ですがそれだけです。薬は肉体の損傷を治してくれますが、失ったもののは補填してくれません」

言ってピエールはシンの横たえられている地面の周囲に視線を送った。そして理解する。元より赤く湿り気のある状態であった地面が黒く固く染めあげられた状態は、明らかに異物が土壌を侵食した証であった。地面の赤黒さは血液の乾いた後である。なるほど、血液が足りないのか。

「ネクタルは?」
「ああ、あなた見ていませんでしたね。彼に近寄った響が真っ先に手持ちのネクタルを全て使用したのです。過剰に注ぎ込まれた生命力の源は、上半身の一部だけの状態の彼が旅立つのを引き止めてくれました。彼女がそうして素早く対処してくれたからこそ、心臓も肺も破損した状態でも貴方が治療を行うまでの間生きて入られたのです。普通は即死ですよ、あんなの。しかし……、残念です。もう少しだけでもネクタルを持ってきていれば、あるいは残っていれば、彼も助かったかもしれないのに」
「まて。ならば今すぐ糸を使って施薬院で治療を受けさせればよかろう 輸血でも生理食塩水でも造血剤でも使ってやれば……」
「それも無理ですよ。糸が使えないのです。御覧なさい。あなたの的確な指示と対応で傷は塞がりつつあります。中も多分完治しつつあるのでしょうが、未だに顔に血の気が戻らない。おそらくあの状態で糸を使うと、彼はエトリアに到着と同時に死ぬ」
「……わからんな。なぜそう言い切れる」
「おや、ゴリンからお聞きになりませんでしたか? 転移の際、土や砂は自動回収されるのですよ。貴方のその左腕ぐらいならまだしも、シンは重要機関から臓器から神経、血管に至るまで、全てに砂が入った状態で切断面がくっつけられています。聞いたことありませんか? 世界樹の地面を構成する砂土は転移することが不可能なのですよ。あれでは恐らく、砂の入った部分は転移と同時に穴が開く。エトリアに着いた途端、失血死か、ショック死かでしょう。それにあの繋がったばかりの肉体じゃあ、そもそも、転移の際にかかる衝撃にも耐えられない可能性の方が高い。転移の最中に物を失うと、それはどこかに失せてしまいます。だから無理なのです」

私は土の話と転移の際の衝撃を思い出して、思わずエトリアに来た日ばかりの日の事を思い出していた。五人いた彼らは、足がもげ、腕がもげ、体の一部が欠損していた。

―――あれは、瀕死の状態で、なんとか糸を使って離脱したが故のものだったのか。

なるほど彼らは、そうして迷宮に体を忘れてきたのか。かつて見た光景に、彼の言った言葉が信用するしかないものだと、不承不承も納得する。しかし、いちいち大業な所作をとるピエールの言動に少しばかり腹を立てながら聞く。

「ではどうすれば彼を助けられるというのだ! 」
「だから無理だといっているでしょう! シンを助けたければ、この場から転移を使わず脱出するか、ネクタルの一つでも出して見なさい! さぁ、はやく! 」

ピエールが顔に陰りが生まれた。吐き捨ているように述べられた最後の愚痴は重苦しい。己の準備不足や不手際に対する慚愧の感情が多分に含まれているようだった。彼が生まれた感情を隠すかのように目元を片手で覆いしゆっくりと首を左右に振るのを見ていると、金属の筒が地面を叩く鈍い音が背後より聞こえた。

音に誘われて顔を向けると、地面に跪いた響が顔を真っ青な状態で体を震わせている。彼女の震える眼差しは、先程己が振りまいたネクタルの瓶の群に向けられている。

―――しまった……!

「あ、……、あ、あぁ……、あ、う……」

シンの容体を見るのを投げ出した彼女は頭を抱えて地面に蹲った。かたかたと震える小さな体をさらに小さく丸める様は、まるで感じる悪意から身を守ろうと必死な幼子のようだ。

「――――――シ、シンさん、助からないんですか? ネク、ネク、ネ、ネクタルが足りないから? 私。私が、使い切ったから? 」

絞り出された声には気の毒なほどに悲痛と後悔が混ざっていた。その有様を見て、私はピエールと目線を交わすと、互いに苦い顔を浮かべて己らの不注意と迂闊さを呪った。

「わた、わ、わた、私がもっと上手、う、上手く、く、やって、や、やれれば……」
「それは違います、響さん。シンが今まだこうして生きているのは、貴方があの時適切な処置をしてくれたおかげです。あの即死にも等しい状態のシンを前に、ネクタルを使うという判断を下せたのは貴方だけです。むしろ熟練を自称しているにもかかわらず、あの場面で動けなかった私たちこそ、罪深いというべきでしょう。貴方は何も間違ってなどいないし、下手を打った訳でもありません。ただ……、そう、ただ、彼の運が悪かっただけなのです」
「う、うぅ、うぁ、うぇ、う、うぅぅーーー! 」

ピエールの慰めは響の心に聞こえる事なく、彼女は大きな声を上げて喚き始めた。静かな森の中、死にゆく定めにある彼の傷が塞がる無意味な音と彼女の大きな泣き声が響く。呼吸困難に陥りながらも続けられる嗚咽は、その場にいる全ての人間の感情を刺激するように、周囲に残響しては消えてゆく。悲鳴にも似た声を聞いて私は思わず彼女から目をそらした。

そして。

「ずいぶんと、―――っ、……うるさいな、は、ぁっ―――」

甲高い声は死の淵に瀕していたシンの意識を刺激したらしく、咳き込みながらもゆっくりと目を開けた。ようやく繋がった胸は酸素を求めて小刻みに上下に動かされている。

「シン! お前! 」
「シン! 」

ダリとサガが揃って名を呼ぶ。響は大きく泣くのを止めて、呼気を荒げながらも顔を上げて恐る恐ると言った体で彼の方を振り向いた。

「……っく、ひっ、ひっく、シ、シン、さん」

そして、シンの顔を見た響は体をゆっくりとシンの方を向きなおして膝で地面を擦りながら前進すると、彼のもとに近づいた。

「だ、だ、だ、大丈夫、だいじょ、大丈夫ですか」

響の言葉を聞くと、シンは剣を握って離さぬ左腕を動かしてみせて、そして肩と首元付近を動かして、止まった。彼は左腕を動かして自らの体をペタペタと撫でて見せると、乱暴に叩きながら、上半身の傷口より上の部分だけを身悶えさせた。

彼の顔は必死の形相で脂汗がにじみ出ている。彼は頭を一回りさせると大きく天を仰いだ。瞳を静かに閉じると、小さく息を吸って、弱々しくもらした息で天を突く。顔に覚悟と諦めの混じった表情が浮かんだ。

その所作で私は彼の体の状態を悟った。己の不甲斐なさが怒りとなり腹の中で蠢いた。憐憫に似た情が心中に湧き、目の前の悲惨を嘆いて目線を逸らしてしまいそうになったが、弱気の湧いた自分を叱咤するとともにあえて彼の体に視点を固定する。いかに望まぬ、希望が無いものでも、これは彼の出した結論が生んだ結果であり、私の選択した判断の結末だ。

一度きり、いや、前回の番人戦を勘定すればたった二度の戦闘を行っただけの短い付き合いではあるが、数度ほどの日常でのやる取りと合わせて、彼が後ろ暗い部分を持ちながらも、真っ直ぐな性質を併せ持つことは理解できている。そして彼は今、己の行いのその結果を確認し、そして受け入れた。

ならば、私も関わって生まれてしまったその結果を受け入れないのは、彼の行いに対する侮辱であると感じたのだ。

「ああ……うん、……いや、これは、ダメだな 」

彼の声はどこまでも冷静だった。そして冷徹な口調で横たわっている己の体にダメ出しをした。ピエールが目をそらした。ダリが唇を噛み、サガが親指を咥えて爪を齧る。響は彼の言葉をどう捉えたのか、呆然とした顔でシンの全身を上から下まで眺めていた。

「腹から下が動かん。胸から下は叩いても感触がない。目の前はぼやけて黒い。呼吸をするのも一苦労だ。右腕は肘から先が動かない。だが痛みはない。静かで、ひどく眠い。眠いんだ。―――、ああ、これが死、か」

彼はどこまでも透明で、なんの感情ものせず、ただ近い将来に起こるだろう淡々と事実を告げた。開かれた彼の目は、その黒い瞳孔がただただ虚空をさまよっているだけで、もうどこも見ていない。

「ば、か、をいうな! 」
「もう薬はないんだろう? 」

彼は静かに聞き返した。響がびくりと震えた。彼女の様をいかなる感覚で感じ取ったのか、シンは力なく笑うと、

「そら見ろ」

と言った。笑いはもう息が漏れているだけのものだった。ひと笑いごとに生命が抜けていくかのように、息が弱まっていく。サガが地面を叩いて憤慨した。

「今すぐ戻れば助かるに決まってるだろぉ! 」
「そのとおりだ! おい、糸! 」

ダリが荒く叫ぶ。だが道具を管理している響は全身を震わせながら泣きじゃくり、そしてしゃっくりを含めた呼吸を繰り返すばかりで彼の指示に従わない。未だに現実の咀嚼ができていないようだった。

ダリはイラつきを露わに舌打ちをして響を押けのけると、ひったくったバッグに手を突っ込み、そして漁り、糸を取り出した。ダリの押した反動により後ろから地面に倒れそうになった響をピエールが抱きとめる。

「やるぞ! 」

そうして糸先を摘み解こうとしたダリの手から、ピエールが糸をさっと取り上げた。

「何をする! 」
「やめておきなさい。どうせ助かりません」
「お前! シンが死んでもいいってのか! 」
「いいわけないでしょう! 」

ピエールは大きな、しかし掠れた声をあげた。その行動は彼の声帯を傷つけたようで、大きく咳き込んだ。楽師の命とも言える豊かな高音重低音を生み出す喉を傷ついてまでの叫び声は、その事をよく知るダリとサガの行動を止める効果を持っていた。

「……、いいわけ、ないでしょう」

ピエールは掠れる声で小さく漏らし、そして喉を痛めたのか、激しく咳き込んだ。ピエールは片手で口を抑えながら唾液が飛散する防ぐ。ダリとサガは吟遊詩人がその喉を痛めてまで吠えるその所作を見て、ピエールは自分たちに知らない何かを知っているからこそ、糸を取り上げる強行を取ったのだと事情を悟ったようだった。

「――――――、この状態で糸を使うと、シンはエトリアに戻った途端、全身に穴が開いて失血死するかか、あるいはそれ以前に、五体が迷宮と転移室にバラバラに撒かれることとなるかもしれません。今すぐ彼にトドメを刺したいと言うのでしたら、どうぞおやりになってください」

ピエールはシンを一瞥して少し躊躇っていたが、短い間瞼を閉じて意を決っしたらしく、掠れたしかしはっきりと通る声でシンの死を告げる。サガとダリは狼狽えて視線を泳がせた。

「―――本人を前にはっきり言ってくれるな、ピエール」
「ええ。小賢しいのと回りくどいのは、貴方、お嫌いでしょう? 」
「そうだな。助かるよ。残り少ない時間を無駄に使わなくてすむ」

シンは言うと、視線の先を天井に移した。

「いや、しかし相討ちか。途中までは良かったんだが、最後で油断してしまった。……いやしかし、エミヤという男の片腕を損傷せしめる相手と引き分けに持ち込めたと考えれば、戦果としては悪くないか」

シンは左腕に固く握られた剣を持ち上げて眼前に持ってくると、刀身を眺めながらしみじみと言った。唇から漏れた彼の呼気で刀身が曇る。持ち上げられている剣の刀身、その反り返った部分から剣に付着していた血液が集結して雫となり、彼の顔に落ちた。

一滴の雫は彼の瞼に落ちて端から端正な顔立ちを伝い地面へと紅涙のごとく流れるが、彼は一切の反応を見せなかった。ああ、もう触覚すらも失せてしまっている。仲間の男性陣も私と同様に死期が近い事を感じ取ったらしく、目を伏せて、あるいは目線を逸らさず、静かに彼の言葉に傾聴の姿勢を正す。場にいる全ての人物の挙措が全て彼に支配されていた。

「うん、なるほど。そう考えると、まぁ、最期の相手として不足はなかったが……、しかしダリの用意してくれたこの剣と、今作ってくれているもう一本を伝説の三竜に叩き込めなかった事は残念だ。倒せるかどうかは別として、せめて一閃がどこまで通じるかどうかくらいは試してみたかった。……、ああそうだ」

シンはくるりと剣を回して刃先を地面向けると、ぐさりと刀身を突き立てた。仲間に対して、何より、剣に対してあまりに遠慮がない。もうそれが限界なのだろう。刀身に付着していた血と脂が飛び散り、近くにいた仲間達の服と、彼の一番近くで両手をついていた響の顔を汚した。刺激に驚いてか、彼女は背を軽く浮き上がらせて、ひっ、と声を漏らす。

「響。いるか」
「――――――、え、は、はい!! ここに!! 」

声をかけられた響は顔の血を拭うと、周囲に残響するほどの大声で反応して見せた。やかましいくらいの大声はだが、今の五感が失せつつあるシンにとっては丁度良い位の声量だったのか、微笑を浮かべて静かに続ける。

「君はこのメンバーの中で一番剣の才能がある、と私は思っている。だから、もしよければこれと上のを使ってやってくれないだろうか」

彼は突き立てた剣の腹を拳で叩いて、刀身を軽く打ち鳴らす。金属の撓んだ音が響いた。

「あ、え」

申し出に困惑した様子の響。意味ある言葉を返せずにいると、シンは優しく続けた。

「無理にとは言わない。邪魔だったら売り払ってもらって構わない。ただ、まあ、できるなら、この先迷宮でやっていくというなら、受け取ってもらえないだろうか。私とサガとダリと、君のご両親で集めた素材を鍛えて作り上げてもらった剣だ。きっと君の役に立つ」

そこまで言って彼は大きく咳き込んだ。体内に残された血液量では十分量の酸素を循環させることが出来ていないからだろう、力なく胸を上下させて必死に呼吸をするシンの顔は死人のように白い。しかし彼はまだ果てるわけにはいかないと、必死に耐えている。彼は響の返事を待って耐えている。

「――――――」

その台詞は卑怯だ、と他人事ながらも思った。言葉は地面に突き立てた刃の代わりと言わんばかりに、彼女の心に突き立ったようだった。彼女は幽鬼のようなシンとは対照的な赤ら顔を動かして、彼の横にしっかりと身を立てている刀剣へと視線を移す。

刀身は柄から刀身にかけての表面が赤い血液で濡れそぼり、重力に従って地面へと向かっている。あの血液全てが貪婪に地面へと吸収されるよりも早く、シンの命は消えて無くなるだろう。血液の砂時計が刻限を告げるのを否定するかのごとく、響は立ち上がり、両手で刀身の柄を握ると、地面より引き抜いて泣き叫ぶように宣言した。

「はい! 」

威勢のいい返答は薄れつつあった意識の中にも明朗に聞こえてきた。声は夕霧の中へと隠れつつあったぼんやりとした意識を痛みに満ちた此岸へと引き戻してくれる。瞼を開けると、薄暗くぼやけた視界に柄を両の手で逆手に握った姿勢で固まっている響の姿が映った。

その姿はまるで、死にかけた私を楽にしてくれる執行人のように見えて、私の笑いを誘ってくれた。その震えた状態ではまともな死刑執行は行えまい。

「響、刃を人に向けるのは良くない」

口からそんな言葉が漏れた。かつてサガに言われた言葉を言うと、バカヤロウ、とサガの小さな声が聞こえた。かつてその対象であった響は慌てて柄を握りなおして刃先を天へと向け、両手でぎゅっと絵を握って剣を天高く掲げた。ああ、いやそうではなくて。

「構えるなら八相か正眼に。迷宮での乱戦なら八相の方を基本にした方が良かろう。右足を引いて、刀を右に振りかぶって」
「え、あ、はい」

足が地面を引きずる音が聞こえた。響の足が生じさせた音は、彼女が腕と胴を動かした際に生じた空気の揺らぎと合わさって、赤と黒に霞む視界の先に剣を構える彼女の姿を幻視させてくれた。

「ああ、力を入れすぎた。左足はもうすこし前に。肩口をしっかりと締めて左の肩当で攻撃を受け止めるイメージを……ああ、そうだ、いいぞ、さすがだ」

多少の口出しで彼女は見事な構えをとって見せる。自然体、には程遠いが、最初に剣を握ったにしてはなかなか様になっている。ああ、やはり私の目に狂いはなかった。彼女こそ私の剣を有効活用してくれるに違いない。

安堵は全身に広がりつつある痛みを和らげて、瞼が落ちてゆく。視界が徐々に狭まってゆく。だが、懸念が湧いた。彼女は素晴らしい才をもつかもしれないが、私がいなければ師となる人物がいなくなってしまう。サガもピエールもダリもダメ……ああ、そうか。彼がいた。

澌尽し霧散しかけていた意識が、少しだけ役目を思い出したかのように脳みそを動かしてくれる。最後のひと踏ん張りだ。このままでは瞑目することができなくなる。

「―――、エミヤ。一つ、頼まれてくれないか」

彼は多分、少し驚いたのだろう、私の言葉に少し遅れて反応した。

「なんだ」
「彼女を頼む。剣の才能があるんだ。指導して欲しいとは言わない。ただ、使えるようになるまで見守ってやってくれないか」

彼が息を呑んだのがわかった。突然すぎる不躾な願いに戸惑ったのか、うんともすんとも帰ってこない。ああ、でも、この頼みだけは、聞いて欲しい。遠くへ旅立とうと急かす意識を宥めて返事を待つ。あと少し。あと少ししたら行くから待っていてくれ。これで本当に最後だから―――

「了解した。最後の依頼、承ろう」
「―――ああ、安心した」

また彼の息を呑むのがわかる。いつもより過敏な感じがしたが、一体なんだというのか。靴が地面を引っ掻く音まで聞こえた。

―――ああ、なんだ、何に反応したというのか。……まぁ、いいか。今更…………、知ったところで…………、む、い、み……――――――

旅立ちを急かしていた意識がついに待ちきれなくなって、彼岸へ向けて走り出す。制御はもはや不可能だった。駆け出した意識に手を引きずられて白い霞の中に飛び込むと、かつての旅路の光景が走り去ってゆく。

彼に憧れ、彼らと出会い、彼らと共に歩んだ刺激と苦節の道は、彼と彼女との別れという忸怩と苦難と挫折へと続き、やがて縁による出会いは三か月の期間における満足と誉の旅路へと自らを導いた。生涯からすればたった三か月に満たないだろう、この期間を生きられただけでも、悔いはない。

「サガ、ピエール、ダリ、エミヤ」
「―――――――――」
「――――――」
「―――、―――――――――、―――」

呼ばれた三人は三様に反応したのだろう。一人だけ無言なのがなんとも彼らしいと思った。だがもう言葉を捉えることはできなかった。ただ、込められた言葉から熱を感じることだけはできた。暖かい。ああ、この暖かさに包まれて逝けるのならば、冒険者の死に様としては上等すぎる。

命の燃料が尽きてゆく。だから、しかし、こんな身勝手な私を受け入れ続けてくれた仲間たちに対して最後に万感の想いを込めて言う。

「あ、……………と……」

最後の言葉は紡げなかった。ただそれだけが残念だと思った。霞を抜けた先は、冥とした澹蕩の闇だった。導かれるままに闇に身をまかせると、どこまでも暗く深く静かなところへと落ちてゆく。光なく、音なく、匂いなく、刺激なく。

―――ああ

「――――――」

闇の中、誰かの声が聞こえた気がした。聞き覚えのない声であるのは、感覚が機能を放棄しているためだろう。最後、冥漠の闇を貫いてまで聞こえたのは誰の声なのだろうと思いながら、返事くらいしてもいいかと考えた私は、ああ、とだけ返して、とうとう意識を手放した。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第九話 迷宮に響くは、戦士への鎮魂曲

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜 第七話 揺れる天秤の葛藤

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

第七話 揺れる天秤の葛藤

正義も悪も所詮は人の感じ方次第だ。
悩んだところで正しい答えなんかでやしない。

疲れてふと立ち止まり、さて一休みしようかと座り込んだ時、辿ってきた旅路の足跡をうたた寝の中で自由に思い返す作業こそが、夢であるとするならば、その揺蕩う意識の中で、体に刻まれた過去の痛みに悶え精神を苛まれる作業こそが、悪夢である。

血の色にまみれた悪夢の中で、もはや何度目になるかわからない忘却の救いによって、誰にも責められる事のなくなった己の罪が刻まれた墓標の前で、咎を求めて白面に語りかけて見ても、刻まれた苦痛の証は悲しげに顔を歪ませるだけで、何の熱も返してはくれなかった。

何度目かの悪夢を見た後、私は正義の味方になりたいという目的を、自ら再び否定した。そうして我が胸に戻った熱へ誓ったはずの想いを拒絶してしまったのは、忘却の中に過去の罪悪感を忘れてゆくという行為が、思った以上に自分の中に空白という名前の救済を与え、そうして虚無になってゆく過去と引き換えに手に入る安寧という名前の救いに癒される己が、あまりに醜く感じたからである。

その醜悪さは、かつて己が正義の味方として断罪してきた身勝手な人々が持っていた無関心という名前の罪であり、再び正義の味方を目指す己が持ち得ていては決していけないものだった。だから私は、あの日、あの時、自らの心中の歪みに耐えきれず、正義の味方になるという願いを、再び、自らの心中にて握りつぶした。

己の心中の変化によって続いているのだろう現象から、逃げるようにして徹夜の強行軍を繰り返し、醜さから目を背けるために赤死病の解決の為と名目を掲げ、果てには二層の迷宮を攻略達成をしてみせたが、しかし、そうして他者の救いを優先したところで、私が自らの救いを求めて過去を忘れたがっているという事実を形にする、悪夢が正しく夢に変わってゆく忘却の救済はいっこうにその手を止めてくれない。

己の理想を握りつぶし、自らの醜さから目を背けて他者の救いを優先に活動したところで、個人の救いと他者の救い、その比重をどの程度にすれば、果たして正義の天秤は正しく釣り合っていると言えるのか、その答えはいまだ出てきてくれなどしない。

―――きっと、今後も出ることがないのかもしれない

二層の番人を倒した後のことだ。私が鉛を埋め込まれたかのように重たくなった体をなんとか動かして、足を引きずるかのように己が打ち貫いた蛇と羊の様子を見に行くと、二匹の獣は、体の大半を消し飛ばされながらも、二度とは離れぬと主張するかのように仲睦まじく並んで地面の上に果てていた。

その骸に、神前にて愛を誓った夫妻のそれを見つけて、魔物とはいえ、私は思わず二匹の死骸を引き剥がすのを躊躇ってしまった。結局、その死骸の周囲に散らばる、己の射出した剣が散らした、まだ肉の引っ付いた金の羊毛を適当にある程度拾い集めると、これでも討伐の証明には十分だろうと、骸を放置して私は彼らの元へと向かう。

「響、ということは、君、あの虫の三連続が同時だったというのか? 」
「あ、はい……、その……、私にはそう見えましたけれど」

そうして玉虫の死骸の山を避けて彼らの方へと近づくと、言い合いをしている男女の姿を見つける。一人は、裸の上半身の上に、長く伸ばした黒髪を一つに纏めて腰まで伸ばした、刀身が幅広い刀を腰に携える、ギルド「異邦人」のギルドマスター、シンという男だ。

もう一人の、茶色い髪をセミロングに纏めた、まだ発達途上の最中にある体躯の響と呼ばれた彼女は、シンという男に両肩を掴まれた状態で詰め寄られていて、困惑しているようだった。長身の男性が覗き込むようにして響に詰め寄る姿は、少しばかりよくない想像を掻き立てる光景に見えて、私は思わず仲裁のために口を出していた。

「どうかしたのかね? 」
「あ、エミヤ……さん」
「エミヤ。もういいのか? 」
「ああ。必要なものは回収した。ところでどうしたんだ? まだ幼い面影を残す少女に対して半裸の男性がそのように詰め寄るなど、あまり感心のできる光景ではないが」

皮肉を聞いてシンは少しぽかんとしたが、すぐに己がいかなる状態か認識したらしく、「確かにその通りだ、すまなかったな」と、手を離して素直に謝罪を行なった。

一方、眉をひそめながら釈然としない表情を浮かべていた響は、少しばかり頬をむくれさせたまま、こちらを向くと、顔を大きく見上げさせて私の胸から首元あたりまでを眺めて困惑の表情を浮かべた。さて、おそらくむくれたのは、子供扱いされたのがきにくわないのだろうとして、なぜ私を見て困惑の表情を浮かべたのだろうか。

「いや、聞いてくれ、エミヤ。先の戦闘で玉虫が三連続の攻撃をしてきただろう? 」
「そうだな。それが? 」
「いや、君があの虫の死骸の中に突っ込んだ直後、飛び散ったその骸の中から生き残りが数匹ばかり飛び出したのだ。虫はつい先程君が戦っていた状態とは違って、なんというか、正気を取り戻したような状態で、尋常な勝負を挑んでいるような雰囲気を出すものだから、その望み通り一騎打ちを受けたのだ。その際、奴はやはり三連の素早い攻撃を仕掛けてきたのだが、それがこの子には、三連続ではなく、三つ同時の刃に見えたらしい」
「ふむ? 」

説明を受けて私は響の顔を覗き込んだ。シンよりもさらに長身の男に覗き込まれると言う事態に怯えたのか、彼女は一瞬肩をうかせると、しかし、長い説明の間に冷静さを取り戻していたらしく、彼女はおずおずとした態度で、しかしはっきりゆっくり頷くと、言う。

「はい。その、見間違えかもしれないですが、私には三つ同時に見えたのです」
「いや、彼女の言うところの一撃が私には三連続にしか見えなかったものでな。だか
こうして、確認していたわけだが……」

先程の自らの醜態を思い出したのか、シンはそこで押し黙り、そして静かに続ける。

「結局、誰の目にどのような風に見えたかなど、確認しようがないからな。まぁ、認識の違いとして納得するしかないか」
「ふむ、まぁ、あの虫は群体だったのだ。例えばその一撃が意思統一された元に繰り出されたものなら、彼女の言う通り、同一の瞬間に三つ同時の刃、ということもありえるだろうよ」
「ああ、なるほど」

シンは納得したのか目をつぶり、そして大きく首を数度上下に動かすと、響に向かって頭を下げた。「すまなかった」、と謝罪する彼のそれを、しかし響は気にしないでくださいと、手を振りながら気にしていない事を主張する。

シンはそれを見て頷くと、「それでは失礼する」と言って、仲間たちが群がる、虫の山の方へと向かった。そして響という少女は私の方を見ると、首元を指して言った。

「あの、ところで、それ、大丈夫ですか? 」
「うん? 」
「あの、頬から首からにかけて、その、すごい、血の跡が」

言われて片手で頬を撫ぜると、パリ、とひび割れる感触がした。直後、乾いたものが落ちたと思うと、皮膚につけられた幾つもの傷跡がようやく痛みを取り戻して、抉るような、ひりつくような感覚を訴えてくる。私は自分の体の状態を思い出して、ああ、と声をあげた。

「そういえば、敵に削られていたな。すっかり忘れていた」
「すっかり、って……、あの、すごい顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか? 」
「ああ、問題ない。この程度の傷、こうして……」

いってバッグよりメディカを取り出すと、自らの体に振りかける。すると回復の効力を秘めた薬は、いつも通り皮膚に触れた途端、液体を光の粒子へと変えて傷を癒してゆく。そうして首と頬の傷が塞がったかと思うと、続けて強化の魔術により酷使を強要されていた全身の細胞が歓喜に震えながらその疲れを癒されてゆく。

「これで解決だ」

やがて全身の張りや痛みが取れた頃、それでもまだ少し重い体を動かし、すっかり治った傷跡をなぞり残っていた瘡蓋のなりかけなどを引っ掻いて落として、万全の状態になった皮膚を見せつけてやるも、彼女は顔をしかめさせたまま、動こうとしなかった。

その不安の混じった瞳が平静に戻らない事を不思議に思いながら、顎に当てた手を動かすと、じょり、と一週間放置されて生え出した不精の証が皮膚を微かに上下に動かす。さてはあの顔は、この髭の醜態に不快感でも抱いた証なのだろうか。

やがて彼女は、おずおずとした様子ながらも言う。

「あの、メディカは確かに傷を治して、疲労を取ってくれますけれど、失った血液までは元の通りになおしてくれませんよ? 」

彼女の言葉に、私は、「そういえば魔術解析の結果でもそのような特性を読み取ったな」と今更ながらに思い出して、頷く。そうして魔術にて知っていた、という所業により生じた不自然さを打ち消そうと、言葉を付け加えた。

「……、ああ、そうだったな 」
「はい。メディカなどのスキルはあくまで、傷や怪我を元の通りに戻すことはできますけれど、失った部分の補填はしてくれません。だから、その、先程の戦闘でエミヤさんが失った血液はそのままなんです」
「……なるほど、貧血か」

疲労の取れたはずの全身に残る倦怠感の正体を言い当ててやると、響は「おそらく」と言ってこくりと頷いた。なるほど、顔色が悪いと言われるわけだ。私の言葉に意を読み取ってもらえたことで満足を得た彼女は、腰に引っ掛けてあるバッグに手を突っ込むと、メディカとは別の、少しだけ大きい瓶を取り出して言う。

「はい、だから、次からは、その、このネクタルを使うといいですよ」

ギリシャ神話に登場する不死の薬の名を冠する薬を受け取ると、そういえば投影をした中に血液を増やす効果の薬があった事を今更ながらに思い出す。天上の神々をも蕩けさす甘さで魅了したというその薬は、製造のために一層の「蜜のかけら」という素材を必要とする薬であり、それ故に私の場合は、ヘイの店で購入してやろうとすると、一手間かけないと購入することができない薬であるため、すっかり失念していた。

「ああ、たしか、気付けと造血の効果があるんだったか」
「ご存知だったんですね」
「ああ。だが、私の場合、素材が足りなくて購入できなくてな。すっかり忘れていたよ」

正直に事情を告げると、眼下の彼女は息を呑んで背筋を仰け反らせて、驚いて見せる。

「あ、の、この蜜、新迷宮の一層でも取れるものなんですけれど」
「む、そうなのか? 」
「え、ええ。その、普通に迷宮に潜る時みたいに、そのあたりで採取していれば、一つくらいは手に入れていてもおかしくないんですけれど……、その、売るだけでも幾らかのお金にもなりますし」

小さくなってゆく言葉尻には、多分に疑問の要素が含まれていた。そこでようやく、この世界の冒険者というものは、単に迷宮を踏破して功名心を満たすためだけに生きる存在でないことに思い至る。なるほど、迷宮より素材を回収して誰かに売り払い、その儲けで生活するという生き方もあるのか。

「いや、なんだ。その、素材の見分けがつかなくてな」

冒険者という人間の在り方を傭兵のそれに似た生き方だと勘違いしていた私は、その羞恥を隠すかのように、別の事実で上書きして、答える。すると、彼女は先程と同じように驚いた様子を見せて、言った。

「え、っと、あの、初心者の方は、最初、転職とかの際にギルド長のところである程度の教育を受けさせてもらえる筈ですけれども」
「……、そうなのか? 」

そうして彼女が三度目の驚愕を顔の上に貼り付けた時、愉快な気分を多量に含んだ笑い声が近づいてきた。先程サガと名乗った大きな籠手を装着した彼は、その鳶色の瞳に涙を浮かべ、腹を抱えながら我々の近くにやってくると、言う。

「大方、あんたが初心者に見えなくて、その辺の説明を省いたんだろうぜ。いやぁ、実にあの面倒くさがりらしいミスだぁ」

言われて、ギルド長―――たしかゴリン―――と呼ばれた人物が、自分のことを戦闘経験者であることを見抜いたことを思い出した。おそらくはそのあたりから、こちらが迷宮探索においてもある程度の経験があり、だから別に言う必要ない、と判断したと言うことなのだろうか。いや、まったく、ゴリンという男は、億劫そうな外見通りに、怠惰な男である。

「まぁ、文句は後で直接あいつに言ってもらうとして、エミヤ。こっちの準備は完了したぜ。お前の方はどうだい? 」
「大丈夫だ。問題ないよ」

響の小さな手のひらに礼と共にネクタルを返して、サガの方を振り向いて言う。そうして向いた先ではすでにサガが地面の上に麻袋を置き、そして彼以外の三人は少し離れた場所で体に見合った大きさの袋を手にした状態で、待機しているのが見えた。

そうして彼らが持つ袋の周囲がジグザグに刺々しい状態であるのに気がついて、一瞬不思議に思ったが、彼らの足元に広がる虫の死骸を見て、すぐにその原因に思い至り、袋の内容物の悍ましさ状態を想像し、少しばかりげんなりした。佃煮でも作る気か。

「まぁいい。では行こうか」


番人部屋奥に秘されていた通路を通り、肌にまとわりつく熱と湿気が漂う暗い洞窟を進むと、やがて徐々に不快な温度だけが下がってゆく。そうして進んだ洞穴の先、暗闇の中に飛び込んでくる光の色合いが、やはり先程まで見かけていたような赤である事を確認して、予想と変わらない現実に少しばかりうんざりしながらも、先頭を行く。

そうして洞穴を抜けた先、広がっていたのは、一層、二層に広がっていた現実に則した光景とはまるで異なる、幻想的な風景だった。例えるなら、南国の海、赤潮の中、浅瀬に広がるサンゴ礁の海底。

一層の樹海、二層の密林とはまるで異なるその風景は、二層の密林の中を漂う湿気が、柔らかい地面に染み込み、三層との間の地面に置いて結露と解凍を繰り返した結果、濾過された水気が集まって、三層を海底の様相へと変化させているような純粋さと清潔さがあった。

また、これまでの赤と違い、周囲を照らしている光の成分は、水分の中に吸収されてしまったのかのように、少々暗い。光を拒み出した深海にて、足元の確かさも認識できなくなる程の暗闇を進む助けとなっているのは、方々で明るく存在を主張する珊瑚と海藻だ。

赤く燃える色の珊瑚は透明度の高い周囲よりも赤さを誇って枝を伸ばし、海藻の如き植物は水の中を揺蕩う様に赤い身を揺らして、周囲を照らし出すとともに、一面の海底らしさを演出するに一役買っている。彼らの放つ柔らかな光は空間の明度を調整して三層の空中に薄紅のヴェールを生み出して周囲の濃さを和らげに、海中の透明感を与えているのだ。

「新迷宮の三層も、色を除けば同じ見た目ですね」

後ろから聞こえたトーンの高い舌足らずな声が耳に届く。確か、響、と言う少女だったか。

「ああ、見た目はな。だが、一層、二層もそうだったように、おそらく、出現する魔物の種類と頻度は決定的に違うはず。警戒は怠らないように」
「わかっています。私だって油断しない程度には成長したつもりです」

ダリ、と言う男の言葉に鼻息荒く主張する響の言葉は、少しばかり早口になっている。

「そうそう、つい一ヶ月前の頃よりはずっと格段に成長してるって。最近じゃ、戦闘に手出しも出来るようになったしなぁ」
「いかんせん本当に最初の頃は置物でしたからねぇ。まぁ、勝手な動きをされない分、他の有象無象な人よりも筋は良かったですが」
「ピエール。お前は、ほんと素直に褒められないなぁ」

死地にいるとはとても思えない軽快な会話が続く。察するに体躯小さく、細身で肉付きの薄く、茶髪を短く整えた、幼さ残る見た目の響という少女は、迷宮という魔物の闊歩する場所に足を踏み入れ出したばかりの新入りらしい。わざわざ望んで危険に身を晒すこともなかろうに、と思い余計な言葉が口元まで出かかったが、しかし己も生前は若い頃から無謀を繰り返していた事を思い出して、人のことは言えないか、と口を塞いだ。

そうしてしばらくの間、話す彼らを背後に無言で迷宮探索の先頭を歩くと、やがて何事もなく、屹立する光の柱の元へとたどり着く。海中の赤い様相を切り裂いて地上から天井まで屹立する青色の円柱は、相変わらず蜘蛛の糸のような、荘厳かつ優美な迫力を周囲に撒き散らしている。

―――この樹海磁軸が紫ではなく青色なのは、ここが海底に似た場所だからであろうか。

周囲の赤を切り裂いて青く光る柱は、樹海磁軸。樹海を探索する際の目印であり、樹海内部と地上の行き来を可能とする移動装置である。聞いたところによると、層と層の境に必ずあるらしいそれが、はたしていかなる技術によって転移を可能としているのか、いかなる意図によって設置されているのかはわからないが、樹海に存在するこの柱に触れて登録とやらを行うと、樹海入り口にある石碑との移動が可能となる。

樹海磁軸は、樹海攻略速度を著しく上昇させる。なにせ磁軸を利用しない場合は、例えば樹海の一層からこの場所に来るためには、それまでに進んできた十の階層を再度進み、そこに出現する魔物どもをさばきながら進まねばならないのに対し、樹海磁軸を利用する場合は、ただ石碑の前でこの場所のことを考えれば良いだけなのだ。

「あ、樹海磁軸ですね」

などと考えていると、背後でガヤガヤと騒いでいた一行のうち、真っ先に響がその存在に気づいた。彼女は会話を打ち切り、早速柱に駆け寄ろうとする。が。

「まて、響」
「ぐぇっ! 」

走る姿勢を見せた響の服の後ろをシンが引っ張った。気管が押しつぶされて、響の口から少女のものと思えない蛙の潰れたような声が漏れた。思いのほか両者の力はしっかりしていたらしく、ピクリとも動かないシンの体に対して、勢いよく響の体が、首を中心として横にしたへの字のように折れ曲がる。もはやくの字に近い。

人体の限界への挑戦を無理やりさせられた彼女は、一瞬で、透明な壁との間でバネに押し返されたかのように体をシンの方に引き戻されると、喉元を抑えて、ひどくむせこんだ。

「―――っほ、……ごほっ、な、何で……」

響は咳き込みながら抗議の声を上げる。シンは批判のこもった視線を真正面から見据えると、はっきりと首を振って断言する。

「彼が先だ」

シンは言って掌を上にこちらに差し出して、私の方へと向けた。忠告を受けた響は咳き込みながらも、なるほど確かに、と思ったのか鷹揚に頷いて、呼吸を整え終えると、バツが悪そうに口元をきゅっと結ぶと、謝罪の言葉と共に頭を下げてきた。

「失礼しました。ごめんなさい」

なんと返していいものか。私は反応に困った。ただ、彼と彼女の真意は理解出来ずとも、多分、ヘイの言っていた、番人を倒した時の優先権とやらが絡んでいるのだろうと考えながら、私は適当にお茶を濁したような返事を返す。

「ん……、なに、次は気をつけてくれればいいさ」
「はい、ありがとうございます」

当たり障りのない答えに帰ってきた素直な返答を、しかし素直に受け取れず、やはり適当に流すと、彼女以外の異邦人のメンバーに視線を送って確認を取り、彼らに先んじて磁軸の前に進む。

光の柱に手をかざす。周囲に撒かれた光の薄膜を破るようにして指先を突き入れると、柱の光に触れた周囲、指先から情報が吸われた感覚がある。光の柱は触れた部分から明るさを増して上下に広めて行き、来訪者の歓迎を全身で表現しているようだった。

拍動する光の収斂は柱の全体に範囲を広げると、ようやく落ち着きを見せて光の点滅を小さくさせ、太平へ状態を戻してゆく。光の色は気がついた時には、青から紫色へと変わっていた。どうやらこの色の変化が登録完了の合図であるらしい。さて、先日衛兵と共に潜った際、柱が紫だったのは、すでに潜ってあった彼と一緒に潜ったからなのだろうか?

そうして登録の仕組みに考察をしながら完了を確信すると、後ろの彼らに順番を譲ろうと、柱から一歩引いて振り向き、彼らの方を見る。すると、彼らのうち、特にシンという男が満足げに頷いているのが目に入り、なんとなく彼に声をかけた。

「どうぞ、ミスター」
「ありがとう」

恭しく左手をくるりと回して磁軸を示し言ってやると、シンが丁寧に一礼して前に進み出る。その後ろに異邦人の一行が続いた。彼らはわいわいと軽口を叩き会いながら光の柱に手を触れて登録を行なっている。

誰かが軽口でからかい、軽口に対して皮肉を返し、皮肉に対して真面目を返し、会話は続いて行く。迷宮の中では気が抜けば死につながる、と、警戒を続ける自分が馬鹿らしくなるほど、彼らは自然体で軽快だった。

その様に、かつての駆け抜けた聖杯戦争の日々を思い出す。実力伴わぬ大言を口にする未熟者がいて、完璧を気取るくせ肝心な場面でミスをする揶揄い甲斐のあるマスターがいた。

万能の願望器を求めて開催された戦争に参加する彼らは、戦争という非日常の中において変わらぬ日常を歩む事を忘れず、学生らしく学校に行き、勉学に励み、友と会話を交わす日々を過ごし、彼らは日常と非日常の境を当たり前の様に行き来しながら、青い春を謳歌していた。譲れない日常は彼らの強さの源だったのだ。

願いを叶えるには余分、と、必死の後ろに置き去りにしてきた青臭く緩やかな日常は、梅雨の季節に肌にまとわりつくような悪夢に思い悩む私の苦悩を、微かにだけ吹き飛ばして行く効果を持っていた。

後少しばかり風の強弱が違ったなら、彼らと共に歩む未来もあったのだろうか、と空想してしまうのは、現実目の前の彼らが奇しくも、かつてと同様の状況で見せた、非日常の中の日常のせいなのだろうかと考え、私に自然と笑みをこぼさせる。

「お待たせしました」

暢気さに気持ちを緩ませられていると、作業の終了した響が話しかけてきた。

「エミヤさんはどうされます? 」

どう、とはどういうことだろうか、と考えたが、すぐさま思い当たって答える。

「戻るよ。流石に消耗したからな。疲労困憊の状態で進もうと思えるほど、私は自信家ではないよ」
「さすがに実力者は良い事をいう。回復もすまないうちに番人に突っ込んだどこぞの猪武者とは違う。……なぁ、シン」
「ん……、ああ、そうだな」

ダリに番人に見せた際の突進を責められるが、シンは気にしたそぶりも見せずに答える。わかっていたのか、気の無い返事にダリは諦観の念を見せた。サガがそんなダリの背を叩いて、同情を露わにしながら、慰めた。

「どう諭そうと、あの性質は変わらないさ。さぁ、帰ろう」

言って糸を取り出すと、周囲を見渡して解く。糸より発した光は少し離れていたこちらまで光を伸ばすと、磁軸に負けぬ強さの明るさを撒き散らして、一同をエトリアへと移動させた。

エトリアの転送受入施設より外に出ると、夜である事に気がつく。眼前に広がる満点の星空には、忘却の悪夢が生み出す赤の不安の中に、昔日の青い思い出が混ざりこんだ、そんな矛盾の鬱屈を吹き飛ばすかのような、濃い紫の爽快の上に煌めきが広がっている。

天より落ちる星の光に伸びた、少しばかり石畳の暗がりを照らす外灯の橙は、星空の下で柔らかに輝いて、冒険者たちの足元に濃い影を落としていた。そうして伸縮する影が遊ぶ様を眺めながら数十歩ほども歩くと、ベルダの広場へと出る事ができる。

エトリア中央に位置する広場の夜は、いつものように、職務を終えて帰路につく人間で賑わっていた。周囲にある酒場は軒先の椅子机まで客で埋まり、客たちは気分良く酔いに浸って赤ら顔をしたものばかりが集っている。

上機嫌の雰囲気が満ちる中を突っ切り、執政院に向かうと、夜の執政院は、星とランプの光にて建物の陰影の濃淡をはっきりとさせられて、厳かな雰囲気さを増していた。

やがてその中を進み、愛想よさの中にも貞淑さを前面に押し出しながら、半ば義務的に笑いかけてきた、以前とは違うプロ意識の高い受付の人間に番人を倒した事を告げ、証拠として回収した素材と地図を差し出すと、少々お待ちを、と言って彼は慌てて奥へ引っ込んだ。

受付の前からどいて、しばらく「異邦人」のメンツと新迷宮についての考察や、ギルド長への不満などを交え、共通の知り合いであるヘイについての共通認識項を増やしていると、引っ込んだ職員が再び慌ただしく駆け寄ってくる。彼は再び受付にやってくると、乱れた襟元を正して髪を整え、胸元のポケットチーフを整えると、背を正して言う。

「申し訳ありませんが、現在、担当のクーマは席を空けておりますため、依頼達成の確認が取れない状況でございます。また、地図の正誤率も、番人の討伐確認も出来ておりませんので、この場で報酬をお渡しする事も、素材の保証をすることも出来ません。ご面倒でしょうが、明朝以降、こちらの地図と素材をお持ちになって、再び執政院へお越しください」

どうやらこの度目の前にいる綺麗なお辞儀をする職員は、以前の職員とは違って、随分とまたお堅く、法律に忠実な人間であるらしい。しかし、彼のいうことはいちいちもっともなので、彼の態度に付き合って、律儀にお堅く了解の旨を伝えると、惜しむ彼らと別れて、インの宿に向かった。

そうして、疲労感を携えた状態で街中を歩き、宿屋に戻ると、切符の良い女将は迷宮より帰還した私をいつも通りの笑顔で迎え入れてくれた。促されるままに風呂で汗を流して、服の洗濯を任せて、食事を胃に入れて床に入る。やがて遠くにキジバトの鳴き声が規則正しく響く声を聞きながらベッドに倒れこむと、意識は素早く現実から乖離し、私は悪夢の中へと誘い込まれていく。

もはやお馴染みとなった悪夢を前に、鬱々とした諦観の念を持った状態であたりを眺める。忘却を強要する存在によって、広大だった部屋の赤色はすでに半分近くまでが白に染まっている。

赤い部屋の中で心が漂白されてゆく恐怖を振り払うため、一週間の徹夜にて強行軍を繰り返したり、あるいは体力と魔力回復の時間以外を鍛錬に当てて深い眠りを保とうとしたが、そんな私の苦労を嘲笑うかのように、悪夢は睡眠ごとに現れ、そして理性の象徴だろう脳の化け物は、いつもノソノソと壁を壊してやってくる。

化け物はもはや抵抗は無意味と察して動こうとしない私を見て、その脳前方中心の単眼にある瞼を一瞬だけ薄くすると、己の中に生じた残念の意を振り払うかのように、眼球より赤を喰らい、白へと変えて行く。

いつかこの赤の部屋が白の意匠で覆い尽くされた時、その感情の一辺倒までもが凍結した様を見て、私は何を思うのだろう。忘れないでくれと叫ぶ彼らを見た際に、しかしそんな彼らに哀悼も激情をもいだけぬ、感情が理性で押しつぶされた平穏さを保つような部屋の中で、私はいったいどんな存在になるのだろう。

その、己の犯してきた罪に対して何の感慨も抱かない、理性に殉じる機械のような存在になった時、私は果たして正義の味方として己の存在を誇れるようになるのだろうか。

―――何を迷う。主のあわれみに給わらずとも、己が罪が取り除かれるのだ。そうして永遠の安息を得られる事を幸福と呼ばず、訪れる恒久の平穏を嫌うなど、それこそとても正義の味方と呼べる存在ではなかろうよ

いつのまにかやってきていた黒い影の言葉に、心臓を掴まれたような思いで振り向く。聖句を引用する影は、赤と白の支配する世界において、どこまでも黒く、まるでこの世の全ての悪を容認しているかの如く、暗い喜びに満ちていた。

「貴様―――」

何者だ。言葉を喉元まで出しかけると、その黒は思考を先読みしたようで、その塗りつぶされた頭部に嘲笑の三日月を顕現させて、薄く笑い、そして私の脳裏に直接に答えかけてきた。

―――私はお前と同じだよ。お前と同じく、見捨てられた仔羊に手を差し伸べる者だ

言いすてると、影は高笑いとともに去って行く。多分に愉悦を含んだ、その胸糞の悪くなる気色の悪い声は、部屋の片隅に置かれた記憶を刺激して、赤い壁面が蠢く。その正体を確かめてやろうと近づいた時、赤い部屋に溺れる視界がぼやけてゆき、私は、満足を得たのか理性の顕現だろう脳みそが消えていたことに気がついた。

今宵の逢瀬は終わりの時間だ。眠りの魔法はもう解けてしまう。

鐘の音が朝の到来を告げる。鐘の音が響く朝五時になると冒険者は問答無用で荷物を持って叩き出されるものだが、前金で一月分を前払いしている私はその範疇に入らない。女将が起こしに来ないのをいいことに、窓より差し込む光を避けて寝返りを打つと、シーツを頭に被り直して二度寝を開始する。

久方ぶりの全力戦闘と、悪夢を見た後の醜悪な気分は、自分を律する程度の気力すらも脳裏から奪い尽くして、体は正直に、怠惰を堪能して体力の回復をしようと訴えていた。

誘惑に負けてしまった私が結局起床したのは、それから四時間後の事だった。役場の業務開始を告げる二度目の小さな鐘の音を聞いて、もぞもぞと寝床から這い出ると、部屋の入り口近くに設置された鏡面台に向かう。

鏡に映る、見慣れた浅黒い顔は、疲労の色が混ざってその濃さを増し、いつもの体裁を保てていない。特に、敵の近寄りつつある三連の動きを見切るべく、強化を乱発した目元が酷かった。酷使を重ねられた瞳周辺の組織は色素が沈殿して黒ずみ、仏頂面と称される我が顔をさらに人避けするものへと変えている。

我ながらひどい面だと自重しながら顎に手をやると、短く伸びていた無精髭に、再び気がつく。カミソリを投影して肌に石鹸を塗りたくると、皮膚を押し分けて生えた彼らを一切刈り取って、せめてもの身だしなみを整える。英霊となってからご無沙汰だったこの作業も、今ではすっかり習慣となっていた。

階下へと降りてダイニングへ行くと、女将が再び笑顔で迎えてくれた。睡眠を妨げない心遣いに礼を述べると、彼女はやはり笑って、暖かい食事を提供してくれる。どうやら階上の足音を聞いて起床を確信し、調理を行なって用意してくれていたようだ。

素直に感心したので再び礼を言い、雑談をしながら皿を空にすると、異邦人の彼らが宿を訪れていない事を女将に確認して、外に出る。密林の湿気を帯びたかのような空気の中、見上げた曇天は、しかし迷宮とは異なり、驚くほどの霧と寒気に満ちていた。

どれほどの差異があるかは知らないが、世界樹の上という常識外の場所にあるエトリアの大地は、生前を生きた土地より確実に標高が高い。百メートルはあろうかという冬木センタービルの屋上もこれほどの寒さではなかった筈だ。吐く息が白く濁るが常になるのは冬の風物詩だが、春も半ばをすぎたこの時期に味わうことになろうとは。

「……冷えこむな」

吐いた吐息の行き先を追ってやると、身にまとった黒のボディアーマーに結露が浮かんでいる事に気がつく。黒いボディアーマーは防御に優れるが、温度の変化にまでは対応していない。体の芯にまで貫通する寒さを防ぐために、投影してあった生地の厚い羽毛の仕込まれた外套を羽織ると、街中へと足を踏み出す。

石畳と煉瓦の街であるエトリアは、霧がよく発生する。霧の発生が大気汚染による黒いスモッグ由来ではなく、寒さを由来とするもの透明なものであるのは、大気汚染を原因とし滅亡の道を歩んだ旧人類に対してのせめてもの救いだろう。

石畳を叩きながら霧中を分断しながら歩くと、割く刺激が記憶の扉を叩いて、生前、ロンドンに滞在していた時のことを思い出させる。あの頃は正義の味方を目指しての鍛錬に、魔術の勉強に、同居人の彼女や茶坊主の真似事にと忙しかったが、充実していた時期だった。

さて記憶の彼方に忘却していた充実の記憶を思い出せたということは、もしや今の自分はあの時と同じくして喜色の感情を抱いているのだろうか、と、ふと思う。思い返せば、他者の不幸を払うために自らの身に着けた力を存分に振るい、結果として誰かに認められる日々というものは、生前なによりも切望していた正義の味方という生き方に近い気がする。

正義の味方が正義であるためには、悪の存在が必要である。そんな事を語ったのは、いけ好かない神父の存在だったか。あの神父は他者の不幸にのみ愉悦を感じる破戒的な男だった。人の幸福に幸せを見出すこの身とは立場が正反対といえど、他者に生きる意味を見出すという点において、エミヤシロウと言峰綺礼はやはり同一なのだと再確認する。

自らの業の深さを改めて思い知らされると、それは今朝方見たばかりの悪夢と混じりあい、心の裡を黒き霧の如きものが、もやもやと覆い出すのを感じる。先程得た爽快なる感覚は、忘却の悪夢がもたらした者だと思うと、素直に喜べない。忘却の悪夢は、徐々にその救済を形にして、現実を侵食しつつある。それが何よりも不安だ。

―――いかん、もう着いたか

余計の浮かぶ心中は時間の経過を忘れていたようで、気づくと私は目的地であるラーダの前、ベルダの広場までやってきていた。これより先の事を考えると、こうも仏頂面ばかりを浮かべてはいられない。

目元をほぐし、心中を覆いつつあった霧を払拭すべく、強く念じながら片手を大きく顔の前でふるい現実にあるごと霧を散らしてやると、余計な事を考える隙を与えぬため、霧中を少しばかり足早に歩いて、知覚に負荷をかける。

結露に濡れた路面を大の字に歩き、視神経と聴覚と肌をいじめながら肩で風を切り、はや数秒もすると、執政院ラーダの前にたどり着く。昼に近いラーダは通常空いているのが相場だが、今日はまた一段とひどい混み具合を見せていた。

あたりに群れている彼らはほとんどが冒険者で、一様に一定以上の興奮を見せている。ざわめきに耳を傾けると、どうやら自分たちが二層の番人を討伐したこと話題が、あたりを賑わせている事がわかる。それを認識した途端、宿屋で一度、広場で一度味わった記憶が蘇り、離脱の決心が働いた。

「あの、もしやエミヤ様でしょうか」

そうして人目を避けようとした際に、背後よりボソリとかけられた声を受けて、しまった、遅かったか。と後悔する。騒乱に巻き込まれる覚悟を瞬時に決めて振り返ると、そこにいたのはエトリアの衛兵だった。

「クーマ様から案内を仰せ仕りました。「異邦人」の皆様もお待ちです。どうぞこちらへ」

兵士は囁き、返事も聞かずに身を翻し群衆から離れる。どうやらすでに「異邦人」のギルドメンバーはクーマと会談を始めているようだった。出遅れたことに少々の反省をしながら兵士を見てやると、ぐるりと広場の外側へと向かう彼を見て、なるほど混乱を避けるためか、と納得すると、配慮がなっているのを感心して、彼の後に続く。

そうして執政院の横に回ると、白い壁にぽつねんと取り付けられた職員用の出入扉を開いて手を招く。裏口から侵入を果たすと、兵士の案内の元、常と違う質素な道を辿り、やがてクーマの部屋の中まで辿り着く。衛兵は扉を閉める前に一礼をして、閉めて去って行った。

にこやかな笑みを持って迎え入れられたクーマの部屋の中には、すでに「異邦人」の五人がいる。机の上に並んでいた六つの紅茶の減り具合と湯気の立たないことから察するに、大分話し込んでいたようだ。

「待たせたようだな……」

詫びの言葉の一つでも必要か、と続けようとした時、遮ってクーマがうわずった声を上げる。

「いやいや、そんなことはないよ! 君の活躍を聞いて楽しませてもらっていたところさ!……あ、ええと―――、うわ、もうこんな時間なのか! どうやらいやしかし、これは信じられないような報告ばかりだ! 胸が踊るよ! 」

その知的な外見に似合わず、興奮を露わにまくし立てるクーマは、幼い子供のように見えた。普段の彼を知る者なら、好奇心旺盛を前面に押し出して興奮する彼を見て仰天の一つでも見せてくれただろう。

そうして湧き出る感情に身を委ねていた彼は、自らの勢いに私が背を微かに仰け反らせるのを確認すると、恥ずかしそうに頭から首までを撫ぜて、咳払いをし態度を改めると続けた。

「流石に吟遊詩人は語りが上手いね。引き込まれて夢中になってしまったよ」
「お褒めに預かり恐縮です」
「うん、本当にお見事だった。―――さて、エミヤ。彼らと受付の彼から一応の報告を聞いたけれど、君の口からはっきりとした報告をもらいたい」

一転しての真剣な眼差しに、姿勢を正しめる。背筋を伸ばすと、努めて真面目な態度で、樹海磁軸を用いて迷宮二層へと潜入し、探索の後に番人の部屋にたどり着き、彼らの協力を得て番人を討伐した、と成し遂げた事実を、魔術の説明を省いて淡々と述べてやった。

話の内容は、信じ難い事象の羅列でした。森の上を駆け抜けて、千万を超える羽虫からの逃走の後、億の数を超える敵と彼らの統率者を相手にして打ち勝った内容は、しかし、その程度の結果は当然だ、という淡々とした口調から真実であることが感じ取れます。

彼は、誇張なくただ起きた出来事を淡々と語っているだけ。しかしその内容は事実として粛々と受け止めるには、あまりにエトリアの一般の常識からは、遠くかけ離れていました。

一層の番人を一人で倒したという報告を、衛兵から紙面と口頭にて淡々と聞かされた際はあまり感じなかった興奮が、胸の中で湧き踊ります。そうして彼の真剣な瞳を見ていると、その静かな雰囲気の中に、ある種の超然としたものを見つけて、なるほど、彼ならばやってのけるだろうという確信を得ることができました。

そうして数十分ほどかけてひとしきり語り終えると、エミヤは「以上だ。何か質問は? 」といって、報告を終えてくれます。報告に偽りがない事は、嘘を語る軽薄さを持たない赤銅色の瞳が雄弁に語っていました。

とはいえ質問はいくらでも思いつきます。どうやって倒したのか、どうやってそれだけの技量を身につけたのか、どうすればその職につけるのか。どこの出身で、どこの土地で育ったのか。

執政者の一人としても、個人としても、聞きたいことは山のようにあります。けれど、偉業をなした人物に対して、矢継ぎ早に疑いを含んだ質問を投げつける事を無粋だと思った私は、しばらく逡巡をすると、静かに首を横にふりました。焦る必要はありませんよね。いつか話したくなれば、彼は語ってくれるでしょうから。

「いや、いや、ないよ。期待以上の活躍です。本当にご苦労様でした」
「そうか。期待に添えたのならなによりだ」

緊張を少しは解いたのか、ふっ、と、柔らかい笑みを浮かべます。私はそれを見て、彼を信じた己の直感の正しさを確たるものにすると、客人用に置いてあるソファから腰をあげ、己の作業机へと足を運びました。そうして収納と一体型の机の最下段の棚から膨らんだ袋を取り出すと、彼らの方に差し出します。

「では、まずはこちらをどうぞ。番人討伐の報酬です」

差し出したそれらを眺めた一人と五人は、差し出されたそれらを目にした後、取りに行こうとせぬ互いを不審に思って見つめ合いました。目線の交錯ののち、サガが首をくいと顎を使って机を指したのを見ると、エミヤは首を傾げて言ってのけます。

「……、番人の討伐に、報酬なんてあったのか? 」

帰ってきた予想外すぎる答えに、私はみっともなく顎をがくんと垂らして、大口を開けて驚きを表現してしまいました。どうやらその驚きを感じたのは私だけではなかったようで、一同もそれぞれの方法で、驚きを露わにしていました。

「え、っと、エミヤさん? あなた、一層の番人を討伐したんですよね? 」

響という少女が、私の気持ちを代弁して尋ねてくれました。

「ああ、だが、その際は受付で報告をしてから十日ほど後に、訪ねてきた彼から討伐の証を受け取っただけだった」

言葉を受けて私は雷スキルを食らったかのような衝撃を受けて、慌てて机をひっくり返すと一層攻略の書類を取り出して、目を通します。そうしたのちに、果たしてその書類の一部に、報酬金の受領印が無い事を確認すると、堅く硬直した体を無理やり動かして、言葉を絞り出しました。

「も、もうしわけない。どうやら、手違いで、処理が行われていなかったみたいですね」

震えた声でいうと、彼は「ああ、そうなのか」、と対して興味ないような素振りで返事を返してくれました。そのまるで気にしていない様子が私の罪悪感を刺激して、私は慌てて部屋の隅の置かれた金庫を開けると、中から一定額を取り出し麻袋に詰め、書類と共に前に差し出します。

「本当に、申し訳ありません。これが前回の報酬、一万イェンです」

彼は差し出たそれを、心底興味ないかのように一瞥しました。その瞳のあまりの冷たさに、私の心はさらに締め付けられて、思わず言い訳がこぼしてしまいます。

「すみません。その、深く反省しております。あなたの報告を処理した担当の者共にも、言い聞かせておきますので」
「……、ああ、いや、いい。別にそう、強く言ってやらないでくれ」

処理した担当、という言葉に彼はピクリと反応を見せると、苦笑とともにそう言ってくれて、袋を受け取りと書類にサインをしてくれます。そういってくれたことに感謝をしながら、こちらの失態により硬直してしまった空気を弛緩させるべく、わざと大きめに何回か咳払いをすると、努めて柔和な笑みを浮かべて机に深く腰掛けました。

「で、では改めて。こちらが今回の二層番人討伐の報酬、一万五千イェンです」

そういって二つの袋を差し出すと、近くにいた再び彼はそれを受け取って、書面を見てサインをしようとし、しかしその途中で袋の重さに違和感を持ったらしく、先程受け取った一万イェンの袋と両手の天秤に乗せて交互に動かしてその重さを測ると、袋を両方とも机に戻し、書類の一部分を指差しながら尋ねてきます。

「クーマ。どうやら提示された額面通りの額が入っているようだが」
「ええ、その通りです。額面に書かれている通り、の額を袋に入れましたから」
「だが、これでは、額面の倍額を君は支払うことになる。番人を倒した者たちに一万五千の褒賞を与える、というのがこの契約書の文には書かれているが」
「ええ、ですから、番人を倒したギルドの人たちに、それぞれ、一万五千を払うのですから、何も問題はないでしょう? 」

いうと、エミヤは驚いた表情で問い返してきました。

「契約書の文言と違うがいいのかね? 」
「ええ、解釈は担当者の自由裁量に任されていますから。一人と五人のギルドが協力して倒す事態は正直想定外でしたが、以前もこのようなことがなかったわけではありませんし、その場合もこうして報酬を支払いましたから。何の問題もありません」

返答にエミヤは先程までの精悍さとは打って変わって呆気にとられた顔を浮かべると、なにか言おうと口を開きかけ、しかし飲み込むようにして口を固く結びなおすと、やはり呆れたような、しかし取り繕いのない自然な苦笑を浮かべ、言いました。

「は、まったく、平和な世界だ」

そうして吐き捨てられた罵倒の言葉には、けれど驚くほど毒気が含まれていませんでした。

―――彼らなら、新迷宮の謎を解明してくれるかもしれません

踵を返すと、彼と彼らは立ち去って行きます。双方の苦労に報いたいという意図をくみ取り、その他諸々の証明書と報酬を受け取って立ち去った彼が扉を閉める音を聞きながら、私は己の判断の正しさをさらに深く確信しました。

やがて彼らが帰った後、驚くほどの静寂さを思い出した部屋の中で、私は本棚から取り出したボロボロになった一冊の本を握りながら、物思いに耽りました。表紙が擦り切れ、背の印字は掠れ、小口が手垢にまみれた本をめくると、本扉には「英雄譚 エトリア編」と、とても簡単な銘が記載されています。

幼き頃、己を冒険者達に憧憬を抱かせた両親からの秘密の贈り物には、かつて五人の冒険者達が、どのようにしてエトリアの旧世界樹の迷宮を初踏破したのかを事細かに記しされています。英雄たちに直接会って話を聞いたという記者によって記されたその内容は、あまりに旧迷宮五層以降の冒険を克明に書き上げていたため、発売前に回収されてしまった代物でした。

そうして禁書となった本を開いた私は、古ぼけたページを捲ってある所で指の動きを止めました。そこより以降に記されているのは、ある一人の冒険者の情報です。本気か嘘か、旧世界の出身と嘯く彼女は、本の作者曰く、まるでたしかに、初めてこの世界に足を踏み入れたかのように、さまざまな一般常識に欠けている部分があったと言います。

―――そんなのまるで、彼のようじゃないですか

私は目の前に突如現れた白紙のような彼と、過去の世界に生きた旧世界の英雄の間に不思議な一致を見つけて、背筋から湧き上がるぞくりとした感触に、思わず身震いして、我ながら気持ちの悪い、だらしない笑い声を静けさの中へと響かせました。

正体を知らぬ二層の番人を、共同とはいえ倒した事実に、私たち、ギルド「異邦人」の名声はエミヤに負けず劣らず高まっていた。実際のところ、ギルドの活躍と言うよりはシン一人が手を貸しただけに過ぎないわけだけど、端的にエミヤのギルド「正義の味方」と私たち「異邦人」のギルドが共同で倒したと言う結果しか語らない執政院ラーダ前の立て札は、嘘ではないが事実を誇張して伝えたらしい。

エミヤと別れ、祝杯をあげた次の日の早朝、鐘の音がなる響く前に、私は窓の外からきこえてくる異常を察知して、なんとか寝床より這い出した。天空を支配している月の光が未だに煌々と輝き、その凍えるような冷たさが一晩中エトリアを照らして、大気は暖気を奪われたかのように、日が稜線より顔を出す直前、最も冷気が強くなる。

身を切り裂くような寒さに小声、思わずベットから布団を剥がして羽織る。中に潜んでいた温もりが湿り気とともに拡散して、ふわふわと空気の中に消えていった。部屋の中は、暖気を保つ羽毛布団と、ベットの下に仕込まれた、旧迷宮産の発熱する輝石がなければ凍死してしまいそうな冷たさでいっぱいだった。

けど、かつて迷宮の存在を知らなかったエトリアの住人は、どうやってこの寒波に耐えていたんだろう。そんな他愛もないことを考えながら、蝶番を弄って、窓を開けようとして。

「……はぁ?」

窓の外、ぶら下げた道具屋の看板の下に、人の群れを見つけて、上擦った声が漏れ、ビックリに心臓が悲鳴をあげた。灯りの影が映し出す陰影から彼らの正体読み取るに、多分、冒険者なんだろうと思う。

なら彼らの目的はきっと、冒険者用の素材や道具も一応は扱う、響道具店が目的なんだろう。けど、一体なんで、呪いの噂で客のこなかった道具屋に、彼らはわざわざ足を運んでくれる気になったんだろう。あるいは今更、預けてあった道具でも取りに来たんだろうか。

混乱する頭だけど、客が来ているのであれば店を開かない理由はない。とにかく着替えて階下に向かうべきかな、と考えたその時、廊下の路地裏側の窓から小さな音が聞こえた。なんだろうと部屋から首を出してみると、窓に粒ほどの小石が連続してぶつけられていた。

知らぬ間に、恨み事でも買ってしまったのか、と怯えていると、透明なガラスの向こう側に黒い影がぬっと現れた存在に驚く。

―――な、生首……!

微かに白んだ夜空の黒を遮った陰影は、私を驚愕させるのに十二分な効果を発揮して、思わず仰け反り、首を後ろの扉枠にぶつけて、四つ這いになった。強打したらしく、ひどく涙目になりながら、嗚咽が漏れた。

痛みは混乱と混じり合い、極まった感情は眼より熱いものとして漏れ出して、頬を伝い、床へと落ちてった。一体なんだと言うのだ。私が何をしたと言うのか。

伏して羽織った布団にくるまって、身の守りを固めながらハラハラと涙を流していると、今度は路地裏のガラス窓を強く叩く音が聞こえた。そうして私は問題が何一つ解決しておらず、十数メートル先の空間では、何者かがこちらを見据えている現実を思い知らされる。

二階の窓先に生首を浮かべる輩は、何を思ってか、あるいは伏したこちらを気にしているのかはしらないが、音を鳴らすのをやめてはいるが、その気配は未だに消えてくれていない。とりあえずはこれだけの隙を見せても襲い掛かってこない事実とこちらを気に掛けて音を止ませた事実から、多分は、相手はこちらに危害を加える意思がなんだろうな、と、半ば逃避気味に予測。

楽観混じった結論に達した時、予想外と理不尽を突きつけられていた私の脳内は己の思考の危機的状況を打破するため、脳内にて渦巻いていた思考の全てを一つのものに集約させた。すなわち、二階の窓を叩く不届き者の正体を確かめてやる、だ。

覚悟さえ決まれば、行動に移るのは早かった。頭からすっぽり被っていた布団を部屋のなかへと跳ね除けると、ずんずんと大足で歩いて大胆に窓へと近づく。すると、私は、すぐさま影の正体を知ることが出来た。見覚えのある艶やかな黒髪と細身ながらしっかりとした骨格と肉を備えた上半身。それは、ここ一ヶ月ほどで飽きるほどに見続けた肉体だ。

蝶番を捻り窓を開けると、外枠に両手の指先の力だけで器用に張り付いている人物めがけて、努めてにこやかに、商売用の笑顔を浮かべて、冷静に問いかけた。多分、生まれてから一番の、会心の作り笑いだった。

「……なにをやっているんですか、シンさん」

先程まで体内を巡っていた熱は肺の中の空気を圧縮するためにすべて使われたらしくって、驚くほど冷たく抑揚のない声が、するんと口から出た。

「うむ、君を迎えに来たのだ。響」

突きつけられた言葉の冷刃をまるで無視して、シンは呑気に理由を答えてくれた。時と場所と気持ちさえ整っていればまるで告白のように聞こえただろう言葉は、残念ながらこの度は鋭い刃となり、私の中に残されていた理性の綱をまとめて簡単に断ち切った。直後、私は迷わず窓の外にいたシンの額目掛けて拳を突き出す。

無意識のうちに繰り出された拳は、近接職のシンにすら知覚のできない不可視の攻撃となって彼の頭を撃ち抜き、真正面に加えられた横の力に耐えられなくなった彼の指先は窓枠から離れ、彼の体は重力に負けて落下する。

一撃に魂を込めてしまったのか、その後、黎明の知らせを告げる鐘の音が脳を刺激するまで、私は糸の切れた操り人形のようにへたり込んでいた。

曇天。薄い雲間から時折姿を覗かせる月光はエトリアの大地を全て照らすに足りず、大地には依然として静かな暗さが残っている。響達の騒動が騒ぎになるより更に前の時刻では、未だに宵闇と閑静さが領域の大部分を支配するエトリア郊外の森中では風切る音が、場所を移動させながら、時に不規則に、時に規則正しく響いていた。

やがて月は一日の最後の力を振り絞って雲間の切れ目より森の一部を照らした。襲来した月光を二振りの黒白の刀身が切り裂く。繰り出された刃は、突如身を引いて、光の奥へと消えた。そして現れたのは、黒いボディアーマーに身を包んだエミヤである。

エミヤは重厚に足元を蹴りながら、移動しては片手ごとの刀身を振り抜かず止めて、別の場所へとまた振るい、そして振り抜かず戻す。手腕だけを見れば不可思議にも見えるこの作業は、しかし動きの全体を見てやればその意図がつかめる。彼の動かす刀身の先は、常に一定の距離を移動すると、戻る軌道を描いている。切っ先の通過した場所に色をつければ、それが彼を中心とした球を形作っていることに気がつけるだろう。

形作った厚い殻は、すなわちエミヤの支配する領域だ。今、エミヤは先日戦った敵の動きをを脳内にて再現し、模擬戦を行なっている最中であった。虫の繰り出す鋭い群撃に刃の腹を当て、いなして、再び繰り出される群撃に刃を合わせる。繰り返し双剣を振るう彼の手は動きが不規則に乱れる。想定の中で敵の攻撃を捌き切れなかったのだ。

動きが乱れるたびに、彼の呼吸が乱れ、証額に吹き出た玉の汗の量が増える。汗は飛び散り、乱れた吐息に、エミヤの周囲は熱を帯びて空気をゆらゆらと歪ませた。草木も眠る時刻より迷惑にも激しく森の空気を裂き大地を荒らしていた音は、稜線より現れた陽光が周囲を照らし朝を知らせると同時に動きを止めた。エミヤは額の汗を腕で拭い、忌々しげに呟く。

「……何もしなければ、衰える。使いすぎれば、壊れる、か。なんとも贅沢な悩みだな」

彼にとって、己の理想とする身体能力といえば、英霊時代のそれが基準である。生前生身で過ごすよりも死後英霊として過ごした時間の長い彼にとって、それが準拠となるのは当然のことだ。英霊時代は、魔力さえ注ぎ込んでおけば、肉体は劣化も老化もしない。だが、生身の体を得た現在、何もしなければ筋肉は萎むし、時の経過と共に神経反射の速度は衰える。そして過剰に使用すればどちらも壊れるのだ。

全身に強化を多用して、筋肉と神経と血管と筋と内臓、その他各部位に過剰な負荷を強いるのはエミヤにとって常である。すなわち生身の肉体を得たという事実は、彼にとって贅沢でありながらも深刻な悩みであった。

幸いにして、この世界にはスキルという便利な存在があり、エトリアの施薬院を訪ねれば、スキル治療により体調を万全な状態に戻してもらうことが出来る。造血剤だって投与してもらうことが可能だ。だから、エトリアに戻ってさえ来れれば、悩みは解消される。

そうなれば問題は一つ。エトリアで治療を受けられない環境に身を置いている時、すなわち迷宮に一人潜った時、体調の万全を保つのが難しいという事にあった。一応、スキル同様の効果を発揮する薬を使用することによって身体の回復は望める。だがそれは敵との非遭遇時に限る事であり、つい先日あったような強敵との戦闘時おいてはそんな暇など、ない。

例えば、自動で回復が発動するような仕掛けがあればいいが、ヘイに聞いたところ思い当たらないという。一応自ら作り上げるのも不可能ではないだろうが、剣から形が離れるほどに劣化する我が魔術では、不死不老に近い効果を与える武装など投影できるものではない。

噂によれば、世界樹の迷宮は階層を深く潜るごとに、魔物の強さの質が上がるという。二層で苦戦を強いられた現実を省みれば、怪我の回復をある程度の判断のもと、自動的に行うような道具が用意できないのであれば、己以外の誰かに協力を仰ぐことが必要だ。ただし、その誰かというのは、己に匹敵するほどの手練れ出なくてはならない。

そうして思い浮かぶのは、つい先日、短い間行動を共にした彼らのことだ。シンとかいうブシドーの彼が放った一撃は、自分の苦戦していた玉虫を、フォーススキルという切り札を持って全て切り伏せるという結果を残し、己の実力を私に知らしめた。

彼の引き連れる仲間のうち、一人は素人臭い動きを残していたが、彼女を除く彼らは、隙の少ない良い立ち居振る舞いをしていた。

―――彼らなら、もしや、協力者足り得るかもしれない。

思ったが、彼らと私にあの時以外の接点などないのを思い出して、かぶりを振った。一見の出会いでしかない手練れの彼らが、私に協力してくれる理由などないだろう。彼らの話を聞く限り、彼らの目的は己らの手で新迷宮を踏破してやること。

己の目的を他者の意思によって邪魔されることほど、腹立たしいことはない。ならばそれを邪魔するかのような協力の要請など、恐らく聞いてくれないに違いない。しかし、それなら金銭ではどうだろうか。いや、先の彼らの態度から察するに、彼らは名誉を重んじるタイプだ。恐らく金では動かんだろう。

―――いかんな、気が急いている

己の焦りを認識し、継続して働かせていた思索が途切れを見せた瞬間、芯に冷える寒さが身を包みつつあることに気がついた。森に潜む夜の間に溜め込まれた冷気は、周囲に撒き散らされた温度と太陽の陽光の暖かさを下回って、皮膚より熱を奪い去ってゆく。

軽く全身の汗を拭うと、汗の蒸発が体温を奪い切る前に外套で熱の逃げ場を制限し、賑わいを見せるエトリアの門に向けて足早に向かう。そうして門の前まで辿り着いた時には、周辺は春も半ばの気温を取り戻していた。

見上げれば暁の空には、刷毛で書いたような灰色の雲が、乱雑を形にしたかのように茜色と混じる青色の上にぶちまけられ、東雲の光景を半分以上覆い隠している。その夜明けに黒白混じった色が広がる様はまるで、心中の懊悩を表すかのような光景だった。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

第七話 揺れる天秤の葛藤

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

一撃で断つのが難しい?
ならできるまでやれ。

赤い部屋の悪夢は続いている。平穏を享受する私を責め立てるように、部屋は血の赤で満たされ、六方向の壁面には苦痛と憎悪の顔が浮かんでいる。普通の人間なら避けたいと思うだろう罪悪感の発露なのだろう悪夢を、しかし私は毎夜に望んで、彼らとの逢瀬を繰り返す。

私はまだ、君達の事を忘れてはいない。私はまだ、卑怯者に落ちていない。私はまだ、過去に行った己の行いの罪深さを忘れていない。私はまだ、己の原点を忘れてなどいない。私はまだ、なぜ己がそれを目指しているのか忘れてなどいない。

誰一人として知り合いのいなくなったこの未来世界において、この悪夢だけが、私という存在が、たった一時、胡蝶の見た夢幻でない事を保証してくれている。この胸を軋ませる痛みがなくならない限り、私はいつまでも私であり続ける事ができる。

そう。この痛みは、誰もかれもがあまりにも優しいこの未来の世界において、はるか別の場所からやってきた己が、確固として存在しているという証明なのだ。だから私は、この悪夢を見るたびに、己の過去を思い出して、安寧の気持ちを得る事が出来る。

―――だが。

夢はいつだって儚いものだ。どれだけ恋い焦がれようとも、一度夢より覚めてしまえば、その内容は泡沫の中に冷めていってしまう。どれだけ同じ夢を見ようとしても、脳裏の中より壁面に映し出された過去の刻印を思い出そうとしても、目覚めてしまえば、二度と同じ夢を見る事が出来ない。二度と、同じ悪夢の続きが見られない。

赤い部屋の壁面に張り付く顔は、私が犠牲にしてきた人々のモノだ。しかし、その苦悶の表情の中には、一つとして見覚えのある顔はいないのだ。いや、ないのではない。はるか夢幻の先にまで続く壁面は、よくよく見てやれば、一部が白に染まっている事に気が付ける。


その清潔に切り分けられた白の領域をさらにまじまじと眺めてやると、輪郭のはっきりとしなくなった壁面に、昨日やそのさらに前日の悪夢の主役であった人々の顔を見つける事ができる。彼らは変わらずさまざまに目元口元を歪ませて、己の味わった苦痛を、それを与えた張本人である私に伝えようとしているが、私はそれを見ても、何も思えないのだ。

そう、ここにいるのは、私の悪夢での演劇の役割を終えた人々の墓標だった。過去の中でさらに記憶の片隅に追いやられた彼らは、感情より切り離された場所に隔離されていた。

墓標に刻まれたデスマスクは、過去になった我らの痛みすら忘れようというのかと訴えている。眺めた私は、せめてその最後の遺言を果たしてやろうと、必死に、彼らの末期を思い起こす。しかし、そうして思い出した記憶の中身は、もはや完全に感情というものが漂白されていて、脳裏の中で一切の化学反応をしてくれない。

過去に置き去りにした亡霊の切なる願いをせめて叶えてやろうと苦慮していると、やがて、赤の壁は崩れて、再び、何者かが私の夢の中へと足を踏み入れたことに気がついた。以前ははっきりと見えなかったその姿は、人間の脳味噌のような形をしていた。

その存在は、脳の正面中心に携えた赤色の単眼の周りに触手としか表現しようのない棘を伸ばすと、大きくその脳体を揺さぶらせた。直後、壁面の赤は奴の蠢く眼球の中へと吸い込まれ、忘却の色へと変貌してゆく。

私はその所業をどうにか止めてやろうと、体を動かそうとしたが、背後より現れた黒い人影に邪魔されて、その場から一歩も体を動かす事が叶わなかった。解放を求めて暴れる私を、後ろの影が慈愛に満ちた優しい力強さで引き止める。

―――あれはお前の苦悩を処分してくれる、お前の味方だ。なぜそうまでして、苦痛の記憶を抱えたがるのかね? やり直しを望むのなら、罪など不要なものだろう?

影は、どこまでも優しい口調で、諭すように私に話しかけてくる。その反吐が出そうなほどの説教を無視して抗ってやろうとしたところで、私は、一向に動く事が出来ない。そうしている間にも、私の罪は奴の蠢く瞳の中へと吸い込まれてゆく。

やがて部屋の一角の赤をある程度吸い込んだそいつは、げっぷ、と満足したかのように体を揺らすと、部屋より離れてどこかへと消えてゆく。気がつくと、後ろで私を抑えていた影も、もとよりいなかったかのように消え去っていた。

望み通り解放された私は、赤の部屋の中の一角が清潔になってしまった光景を眺めて、重くため息を吐く。もう何も感じない。奴が息を吸い込んだその一角だけが、まるで再誕の門出を祝うかのように、曙光に満ち溢れていた。

夢の侵食は終わらない。悪夢もまだ、終わりでは、ない。

―――終わらせてたまるものか。

さて、十日前のことである。騒ぎからの避難先として新迷宮の一層一階の行き止まりを選んだ私は、望み通り誰とも会う事なく、一日をやり過ごす事が出来ていた。おそらく、新迷宮の二層に進もうという連中は、そもそも一層一階の地図は完成させている連中で、一層一階の行き止まりには目もくれない輩なのだろう、という私の予想が当たったのだと推測。

ともあれ一日を魔物の暗殺と処分と解体という作業に費やした私は、明朝、迷宮の隙間から日が昇るのを確認するとともに、アリアドネの糸を使用してエトリアに戻り、一応は身を隠しながら転移所より執政院に出向くと、受付で確認作業と手続きが終わったのかを尋ねた。

だが受付の彼は、廊下の暗闇の中に私の顔を見つけた途端、申し訳なさそうにペコペコと、「なにぶん、四層分もの地図をこちらが持っていない状態で未踏の迷宮が攻略された前例がありません。また、ギルド長率いる調査隊の方も戻ってきていないので、もう少々お待ちください」と、深々と頭を何度も下げてくるだけで、結局、執政院への訪問は、事態が何の進展もしていない事だけを理解するに終わった。

私が「では、とにかく何か進展があったら連絡をくれ」と言うと、青年は再びペコペコと頭を下げながら、「おそらく番人復活の調査も兼ねているでしょうから、一週間ほどお待たせする事になります」と返してきた。

私はまず、調査の期間などよりも、あれほどの死闘を繰り広げて倒した番人が復活する、という情報を聞いて大いに驚き、「一週間!? 」と多少大きな声を荒げてあげる事となった。

その番人復活に対する驚愕によって生み出された言葉を、しかし受付の青年は期間の長さに対する憤怒の念が籠もった罵倒と捉えたのか、「お待たせして申し訳ありません。すみません、すみません」、と、水の勢いの調整を誤ったししおどしのように、そのぎゅっと閉じた瞳の端に微かな涙を漏らしながら、音の聞こえてきそうな勢いで謝罪を行うのだ。

急かす脅すの意図がなかったとはいえ、別段なんの責任もない彼をこれ以上何度も怯えさせてしまったわけだし、調査隊が戻るまでの間、私の来訪毎にいちいち恐縮させるのも不憫だと思ったので、結局私は、受付の彼より報告があるまでの間を大人しく宿で待つ事を決心した。我ながら甘っちょろいとは思う。

そうして謝罪を続ける受付の彼に対して、多少強引に今日の探索の処理を行ってもらうと、「では何か進展があったら連絡を頼む」、と伝え、その場を後にする。素材の処分ついでに番人復活の剣をヘイにでも尋ねるか、などと考えながら執政院よりベルダの広場に出ると、院の入り口には野次馬が大いに集まっていた。

さては先ほどの己があげた大声に反応したのだろうか、と思ったが、遠慮なく向けられる視線の中にあるのが、おっかないもないものを見るそれではなく、物珍しいものに対する好奇心が多分に含まれているのを見つけて、昨日より己が彼らより注目を浴びる存在になっていた事を思い出した。

迂闊に舌打ちの一つでも漏らしたい気分の中、勧誘大会でも始まるか、と失態に眉をひそめながら身構えたが、視線を送る彼らは執政院の前に立てられた立て看板とこちらの様子を交互に見比べるだけで、結局何もしてこようとはしなかった。

彼らの視線から立て看板を見つけた私は、一瞬あれに何が書かれているのだろうかと思い悩んだが、少しばかり歩いて立て看板の前まで進み、それを覗き込んだ際に、そこに書かれている「お触書」とその内容を見て、ヘイが望み通り依頼を果たしてくれた事に感謝した。

しかし、私が生前の頃の社会であるなら、このような罰のないお触れなんてもの、無視してでもすり寄ってこようとする輩がいたものだが、どうもこの未来世界では、きちんと嫌と言った者に対しては、無理強いをしないという事が常識として浸透しているらしい。いやはや、抜け駆けを考える輩がいないとは、なんとも甘く、しかし平穏な世界だ。

その後、ヘイに礼をいうことを目的に追加して、私は彼の道具屋へと向かったが、その入り口に貼られた「留守にします」の文字を見て、すごすごと宿屋へ引き返す事になる。初めての無駄足に、少しばかり時間が無駄に動く。

宿に戻ると、集った冒険者が散った宿では、女将がニンマリとした喜色の笑みを浮かべて、「やったね、アンタ」と迎えてくれた。年季の入った笑顔にさらなる喜びの線を増やして無邪気に喜んでくれる様に、多くの歓喜とやはり一抹の居心地の悪さを感じながら、私は女将の歓待を受けて、その後、衛兵からの連絡のあるまでの間、数日の大半の時間を共に過ごす事となった。

私がそうして足止めを食らっている間に、何組もの冒険者が二層へと到達したとの噂を聞いたが、私には正直どうでもよかった。新迷宮の謎を解けば正義の味方になれるかもと思ってはいたが、同時に、別に死病の謎なんてものは誰かが解いてもいいと思っていたからだ。

―――そう、私はあくまで、人が赤死病などという病で理不尽に死ぬのがいやだから新迷宮に潜るのであって、正義の味方になりたいが為に誰よりも先に新迷宮踏破を成し遂げたいのではない

何日か前に自らが抱いた早く踏破したいという願いが、またもや贖罪を求めて身勝手より生じた願いなどでないと強く否定するかのように、私は自らに強くそう言い聞かせる。そうして心中のどこかで燻る熱を、理性の冷静で無理やり抑え付けて過ごす日々は、しかし胸を軋ませる矛盾の思いとは裏腹に、静寂に満ちた日々だった。

おそらくこの、平穏の時の流れの中に痛みが癒されてゆく事象に逆らおうとする、氷炭の相容れぬ理性と感情の鍔迫り合いこそが、忘却の救済を押し付けられる悪夢の正体ではないかと私は推測している。人の身に堕ちたこの私に、もはや無限に等しい罪科を抱え続けるなど不可能だという理性の忠告こそが、あの脳の化け物で、影はその手先なのだろう。

身勝手さに身を震わせ、どうか忘れさせてくれるなと己の身に強く呼びかけても、悪夢が強制的に塗りつぶされていく忘却の日々は、一向に変わってくれなかった。

宿屋のインという白髪の彼女は、元々ハイラガードという場所で料理屋を営んでいたらしく、和洋中と実に様々なレパートリーを毎日披露してくれる彼女の腕は実に見事な味で、私の三食を喜びで満たしてくれていた。

そうして彼女の作る豪勢な料理が、ちゃんこ風の鍋だったり、味噌を使った煮しめだったり、桜肉のしゃぶしゃぶだったり、猪肉の豚汁だったり、くるみ羊羹だったり、いちご大福だったりしたことから、もしやハイラガードとは元は日本のあった場所なのだろうか、と考えた。

しかし、その次の日に出てくる料理が栗月餅だったり、野牛肉拉麺だったり、包子だったり、回鍋肉だったりするで、すわもしやそのハイラガードというのは日本と中国の狭間あたりにあるのだろうか、などと考えて、しかしさらに次の日に出てくるメニューがステーキのリンゴソース添えだったり、タルタルステーキだったり、鹿肉のステーキだったり、ストーンガレットだったりと、一転して洋風に切り替わったのをみて、そのハイラガードとやらが旧世界に当てはめるとどこにあるのかと推測する事をとうとう諦めた。

ただ、そのあまりにも節操のないメニューが、かつての相方と妹分と私の得意料理と重なり過去の記憶を刺激したようで、女将は果たしてどこで節操なく料理を修めたのだろうかという疑問がむくむくと湧いてきた。

考えたところでわかろうはずもないので、三種類の料理の特徴に触れながら、女将に「いったいあなたはどこで修行したのだろうか」と素直に尋ねると、

「私はハイラガードのレジィナという女性が、迷宮料理を家庭でも提供出来るように改良してくれたレシピの通りに作っているだけだよ」

という回答をくれた。

やがて己の技術に興味を持った事に機嫌をよくした女将は、「料理の手順や作り方、素材に着目して興味を持つ冒険者は珍しい。アンタもやってみるかい? 」と、私に包丁と鍋を差し出してきたが、私はその突き出された鍋にコイルが巻きついているのを見つけて、非常に心揺さぶられる提案ではあったのだが、丁重にお断りした。スキルを使用する事前提の料理なんて、私には出来そうもないからだ。

そうして辞退する私の顔の中に何を見つけたのかは知らないが、女将は少しばかり気の毒そうな顔を見せて、以降、私はそれより一週間と少しほどの時を、鍛錬から戻った途端、満漢全席を思わせるような料理の群れに遭遇したり、彼女の調理を見て思うところを指摘させられたりと、さまざまな形で料理に携わりながら過ごす事となった。

それはまさに平穏を形にしたかのような日々だった。

エトリアの街が一時の騒がしさを見せてから、一週間と三日の時が経過した。

ようやく調査が終わったようで、インの宿屋に「迷惑をかけた」とラーダの受付がわざわざ詫びにやってきた。彼は相変わらずクーマが不在で担当の者と直接会えない事を丁寧に告げると、番人討伐の認定証を置いて、ようやく胸のつかえを下ろせた、と言った顔で帰ってゆく。

彼を見送りがてら、街中を歩くと、エトリアの街が不穏な空気に包まれている事に気がついた。街をゆく人々のうち、特に手練れの冒険者と思わしき人ほど、その様々な装束の上に乗る顔に等しく焦燥と不安を浮かべながら無言で街角に消えてゆく。

そのようにエトリアに暗澹の雰囲気が漂っているのは、一週間で復活すると噂の、層ごとの門番、すなわち今回の場合、一層の番人であった巨大蛇が復活の兆候を見せておらず、未だに層の境界は沈黙を保っているのが主な理由であった。

私としては、命懸けで倒した敵が復活するという理不尽が起こらずに胸をなでおろしてやりたい気分だったのだが、番人が復活しないという事態は、熟練の冒険者や彼らに関わってきた街の人々からするとただらなぬ異常であるらしく、彼らの行動に多大な影響を及ぼしたのだ。

験を担ぐ彼らの間では、この事態が「不吉な現象」、「悪い事が起こる予兆」として扱われ、新迷宮の一層番人の部屋が敬遠の対象とされるようになっているという。また、彼らの放つ鬱屈とした感情や、未知に対する怯えを敏感に感じ取った現役や新米冒険者たちの間でも同様に、その出来事を縁起の悪いものとして扱う者が出てくるようにもなっているらしかった。

一応、「そんな迷信は信じぬ」と、意気揚々に迷宮二層へと向かう冒険者もいなかったわけではなかったのだが、勇敢な彼らも帰ってくる頃には精魂共にくたびれ疲れ果てて帰ってきては、「もう二度と新迷宮の二層なんぞに行きたくない」という輩が続出するようになり、結局、つい十日前に気炎を上げた迷宮二層探索の情熱は、たった三日の間で早くも最低温度にまで下げられていた。

今、エトリアは、死病以外に、新迷宮の探索者が減るという、新たな悩みを抱えつつあった。

今朝のメニューは、「鹿肉と樹海野菜のすき鍋」と「東国伝来の煮しめ」だった。朝からボリュームのありすぎる食事だと思ったが、体が資本なんだからしっかり栄養をつけておきな、という女将の言葉も最もだと思ったので、ありがたく全てを平らげることとした。

迷宮の鹿より切り出したという鹿肉のツミレはそのままだと独特の臭みがあったが、その野性味はお椀に鍋の汁と共に入れた途端、味も匂いも程よくスープとマッチして口の中で気持ちよく崩れてゆく。

また、煮込んだ後に時間を置いたカボチャと肉厚のキノコ、レンコンは、口の中に放り込むと、あっさりとした食感と共に胃の中へと落ち込んでくれ、安心した味を提供してくれる。最後に鍋のスープを長ネギと共に飲み込むと、不思議と体が軽くなった気さえした。

女将の料理に背を押されるようにして、街が抱える一切の不安を無視しながら、揚々とエトリアを出立する。轟々と水色を垂らしていた空は、十日前に見かけたような積乱雲がいつのまにか方々に散っていた。

生ぬるい空気の中、彼らが湿らせた地面に靴の跡を残しながら進むと、やがて晴れた空に天気雨が振るのを見かけて、今回の旅路の不安定を感じ取る。

―――さてこの雨を、狐の嫁入りと取るべきか、悪魔の嫁入りと見るべきか。

晴れた空に迷信を見つけて不安に陥る私を、以前よりも大口開けて嘲笑うかのような赤さで私を出迎えてくれた新迷宮の入り口は、一時の騒ぎが嘘のように人気が少なかった。屯所の付近にたむろっていた微かばかりの冒険者たちは、一人でやってきた私を見つけると、珍しい生き物を見つけたかのように、少し離れた場所から霧雨のようなはっきりとしない視線をちらちらと送ってくる。

体を濡らす不快の視線を無視してやって私は衛兵へと地図と証明証を出すと、彼らは次に入り口へ行こうとしていた冒険者たちを押しのけて、私を最優先で迷宮へと案内してくれる。兵士はついでとばかりに、「この先、二層の樹海磁軸までご同行いたしましょうか」と問うてきた。

さて、樹海磁軸とはなんぞや、と思い、彼らに尋ねてみると、まず私が樹海磁軸を知らないことに驚き、けれどすぐにその無礼を詫びて、それの説明をしてくれた。

彼らの説明によると、なんでもその樹海磁軸というのは、いわゆる迷宮内に設置された転移装置であるらしかった。青く屹立する柱に手をかざしてやれば、次からは屯所近くの石碑からそこへの移動が可能だとか。いやはや、なんとも便利な代物である。

そうして迷宮の内部にある攻略を楽にするだろう設備を考え、果たして迷宮は攻略されたくないのか、攻略されたいのだろうか、どちらなのだろうか、などと考えていると、衛兵たちは恐縮したかのようにもう一度、「それで、どう致しましょうか」と尋ねてくる。

一瞬ぽかんと首を傾げて、しかしすぐさまそれが自分を連れてその二層の磁軸に連れて行ってやろうかという提案だと気づく。しかしなぜそうも親切にしてくれるのか、と尋ねると、こちらの事情で足止めをしてしまったお詫びです、と答えられた。

私は考え、そしてなんとなく受付の彼のことを思い出した。おそらく、彼の指示なのだろう、と勝手に思う。断る理由もないが、もし断った時彼が恐縮する姿を幻視して、私は静かに頷いた。直後、一人の衛兵が前に足を踏み出して、恭しく案内をしてくれる。

衛兵から特別扱いされた事で、冒険者たちから向けられる視線に羨望が混じった気がしたが、その全てを無視して、私は都合三度目になる迷宮踏破の旅を、衛兵という見知らぬ誰かと共に踏み出す。

衛兵が石碑に触るとすぐさま効力を発揮して、赤い光を放った。衛兵は、こちらの手を強く握ったまま放さない。その多少汗ばんでいる感触を頼りに赤い光の輝きに身を任せていると、一瞬の浮遊感の後、全身を強く押される、アリアドネの糸を使った時の感覚がこの身を襲いかかり、やがて瞬間的にその場から消え去った。

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

体を押す力が全身のあちこちに影響を与えたかと思うと、一瞬の浮遊感の後、私は誰かに背を押されるようにして迷宮の中へと押し出される。すると途端、重力は正常に働いて、肉体を地上へとおろしてくれる。その勢いは思ったよりも強く、私はつんのめらないように、思い切り両足に力を入れて踏ん張って見せる。

降り立ちまず感じたのは、肌に生ぬるい水を塗りたくったような蒸し暑さ。一層を攻略されて迷宮も多少の焦りを見せた証拠なのか、二層は体を火照らせたかのような温度と湿度を保っている。粘っこい空気には、濡れた薄布を口元に当てているかのような錯覚を覚えさせる程だ。梅雨の時期を思わせる不快さに、思わず苦笑い。

その不快に耐えて軽く一歩を踏み出すと、足裏から伝わってくる湿潤の粘土が靴裏に纏わりつく感覚に、さらに不快さを煽られる。もしこの高い不快指数が、迷宮が侵入者を拒む仕掛けなのだとしたら、なるほど、集中を欠かせる効果を覿面に発揮しているといえるだろう。

やがて目が樹海磁軸とやらが放つ紫の光に慣れた頃、瞼を何度かしぱたたかせながら、ぼやけていく視界の中身を吟味すると、眼前に広がったのは、今までと変わらぬ赤き異界だった。

何処かより侵入した寂寞の光は、赤に染まった亜熱帯風の樹木と草花が萌ゆる一面を暗く照らし、地面より生えた触手のような樹木は、見上げれば高い土の天井にまですらりと伸びて、樹々の枝が重なりできる林冠よりさらに先端、すなわち樹木の頂では、大地と接した幹と枝と葉が地面の中にまでその手を伸ばして突き刺さり、天井の支えとなり、天井の崩落を防いでいる。

その大樹が天地を支える光景だけ見てやれば、なるほど、ここが世界樹と呼ばれる場所で、周囲一帯に鬱蒼と茂る樹木が大地を支える偉大さを保有していることを十分に理解できるが、だが偉大だからといって目の前の光景に敬意や好意を抱けるかというと、決してそんなことはない。一層同様、赤死病の「赤」の侵食によるものだろうか、一面に広がる赤の景色というものは、見るものの神経を昂らせ、苛立たせる効力を持っている。

加えて一層の赤を「鮮烈な」と表現するなら、こちらの赤は「暗い」と表現するのが正しい。そう、例えていうなら、その紫が混じったような燻んだ赤は、緋色に近いものだった。一層の突き放すような赤さとは異なって、二層の赤は多少柔らかさを帯びていたけれども、二層に来ても赤の光景が変わらなかったという事実は、この先三層、四層に進もうが、同じような赤の光景が広がっているだろう事を想像させ、少しばかり気が滅入らせる。

「エミヤさん、まずは磁軸に登録を行いましょう」

そうして周囲の光景に観察の視線を送っていると、私をこの場所へと導いた衛兵は私の手を引いて、そう告げた。彼の言葉に従い後ろをふりむくと、まずその周囲の樹木に負けない勢いで天井にまで届かんとする勢いで屹立する光の柱に視線を奪われる。

屹立するその柱は、紫の光の粒子によって構成されていた。地面よりするりと生まれ出でた光の粒子が、その頼りなさを保ちながらゆらゆらと天井に向かって進み、しかしやがて力尽きたかのようにか細く虚空に消えてゆく光景に、まさに釈迦尊より垂らされた蜘蛛の糸が罪人の重みに千切れた光景というものを見つけて、私はまさに死病の蔓延する地獄に相応しい光景であると、不謹慎ながらに考えた。

「エミヤさん」

冥々のうちに柱へと近寄っていた私の腕を衛兵が引く。私は馬鹿な考えを霧散させて、彼の方を向くと、彼は「アレに触れれば登録完了です」と言ってのけた。彼が指差したのは、もちろんその光の柱である。

私は光の柱に、魂を抜かれるかもという覚悟をしながら、そっと触れてやる。すると光の柱は、思った以上の暖かさで私の手をその身の内に迎え入れて、触れた場所から表面の粒子をその全身に向けて漣立たせた。

「はい、これで登録完了です。あとは戻りたいと考えるだけで、今のところへと戻ります」

兵士は言うと、「では実演しますね」といって同じように手を触れて、光の柱に消えてゆく。私は彼の後に続いて、同じようにすると、先ほどまでいた石碑の前に転移し、そして、一連の事の礼を彼に告げると、もう一度石碑に触り、熱気と不快さが支配する大密林へと戻ってきた。大きく息を吸うと、吸った以上の量を吐いて、全身を戦闘、探索用へと切り替える。

―――さて、では、二層探索を始めようか

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」
↓ ↑
世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
七階「愛に狂った王女が弟をばら撒いた海辺」/「雅を覚えた青年が修行をした山中」
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世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
八階「旅路の果て裏切りの報いを受ける女王」/「剣士が飛燕を捉えた瞬間」
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世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
九階「愛に絶望した魔女が蛇竜に乗り消えた空」/「満足に剣を振る機会を得られなかった剣聖が生涯を終えた場所」

探索を開始してから早一ヶ月が経過し、私は都合四度目となる探索を行っていた。天空に広がる地面の中にある二番目の迷宮である大密林は、非常に意地の悪い構造をしている。謎の解明を求むなら地下深くを目指すべし、と謳われるその場所は、しかし地面に地下へと続く無数の穴が空いており、一見して階下を目指すのは容易く思えるだろう。

しかし嬉々としてその穴を潜ってやると、その先にあるのは、周囲を土砂で囲まれた猫の額程の空間であったり、あるいは水たまりの洞穴だったり、または結局どこにも繋がっていない行き止まりの空洞であったりするので、引き返さざるをえなくなる場合が多い。

これが例えば寺院の山門前によくある急な階段の上り下り程度であるならまだしも、湿気った地面に広がる直径二メートル程の穴の中の斜度は、七十度から九十度はあるだろう絶壁で、かつ、ホールドできる岩もなく、掴める樹木の根もなく、その上で柔らかい土を相手にしてやる必要があるので、心底たまらない気分になる。

下りは柔らかく不安定な両側面に投影した剣を突き刺して、土の柔らかさにて速度を調整しながら滑るようにして降り、登りは英霊としての身体能力を遺憾無く発揮して、湿り気を帯びた柔らかい地面が崩れないうちに、両手に持った剣をピッケルのごとく交互に突き刺しては、足で壁を鉛直方向へと蹴って、崩れる前に駆け上がるよう登攀してやる必要がある。

そしてまた、そのどこに続くともしれぬ穴は浅かろうと深かろうと、先が見えないのだ。一度は二十メートルで次の層の天井に出たこともあれば、百メートルほども無意味に降り登りをしたことすらある。

一度や二度ならともかく、流石にそれが数十回も続くとなると、もう、気の利いた例えを使ってやろうという気にすらならないくらいに、私は体力と精神を消耗する羽目になるのだ。

しかしそれでもめげずに、私はこの一月の間で、二層大密林の五階から九階までの四フロアにおいて、地面の上から天井の下までを駆け抜けて、この絶壁とも言える洞穴の中を含めた地形の往復を繰り返し、二層九階までの八割近くを地図にしてやる事が出来ていた。

とはいえ、すでに一週間近くに渡る強行探索を三度も繰り返して、数十度もクライミングを繰り返す羽目になったというのに、それでもまだ次の番人の部屋は見つかっていない。

この暑さ、この湿度、この高低差、この広さ。広大な山の中、馬鹿みたいに敷き詰められた熱帯林を延々と歩かせ体力を奪い、そして見つけた穴を苦労して進んだ先に、しかし道はどこにも繋がっていないという状況を作る事で精神を疲弊させるこのやり方。

刑罰の中に延々と穴を掘っては繰り返すことで、己のやっていることがいかに無意味であるか、転じて、己がいかに無意味な存在であるかを悟らせるやり方があるらしいが、この徒労感はまさにその刑罰のそれ等しいだろう。いや、なるほど、きっとこれが、探索しようと考える冒険者が少なくなり、さらにはその後、その原因を語らないで口を閉ざす理由なのだ。

さてはこの新迷宮というものが如何なる理由で生じたのかは知らないが、少なくともこの新迷宮二層を作り上げただれかは、人の苦労や不幸を見ると暗い喜びのうちに甲高い声で哄笑する、性格の捻じ曲がった魔女のような性格をしているに違いない。

「―――来たか」

異変を感じた瞬間、穴より上に飛び出て、腐葉の入り混じった土を靴で叩く。意識を集中させ、地面から帰ってくる柔らかく神経を刺激する余分な感覚を取り除くと、必要な感覚だけを研ぐように細く鋭くして周囲にはりめぐらせる。

そうして周囲一帯の異変を感じ取ることだけに殊更意識を集中させると、湿気を帯びた空気の中、周囲に散らばっている、ヴンヴンと重なる羽音が、私の鼓膜を絶え間なく叩き続けている事に気が付ける。いかにも不愉快さを想起させる、蚊蝿のごとき輪唱の音色は、大量の薄羽根が自らのすぐ近くで細かく振動している証拠だ。

これだ、この不愉快に満ちた密林での活動不快指数を跳ね上げる、もう一つの要因である。

全身を嬲る合唱は段々とその数を増やしてゆき、体の内部にまで侵食した不協和音が脳髄もろとも攪拌を始め、やがて私の三半規管内である程度の音色の統一がなされると、不快を増幅させる音波となる。湧き出る不愉快と煩わしさを余計と断じて努めて落ち着くよう心がけていると、プゥン、と一層大きい音が頭の中に鳴り響いた。

苛つきに片目を痙攣させながら多少足を前に出しつつ嫌々の視線を向けてやると、待ってましたとばかりに、やがて一帯の草葉の陰から飛び出したものが集まり、密林の隙間を埋め尽くす巨大な醜い虹色の霧となってこちらに敵意を向けてくる。

子供が絵の具をかき混ぜたかのようなその七色の霧は、胴体が人の頭ほどもある巨大な羽虫の集まりだ。色とりどりの羽の蝶々、七色の斑点を持つてんとう虫、針が複数回使える構造をした熊蜂、爪を携えた蛾、オニヤンマと蟷螂が合体したかのような名称不明の敵が、その巨大な姿を密集させながら、うぞうぞ、うぞうぞ、と湿気が蔓延る密林の空中を蠢く様は、とても醜悪の一言では表せない。

また、百を超える虫共の揺れる色とりどりの表皮に注目してやると、警告を与えるには十分過ぎるほどの悍ましさに満ち溢れていて、なんとも汚らわしく毒々しく見える。実際、その奴らの人の頭ほどもある肢体には、侵入者に対する悪意が融解や麻痺、睡眠や混乱、盲目を引き起こす効力の毒が多く溜めこまれているのだ。

その悪意を無視して歩を進めようとすると、奴らは近寄ってきて、こちらにさまざまな攻撃を仕掛けてくる。昆虫の無機質な複眼からはその意図が読めないが、こちらを挑発して怒らせ、行動を単純化させようとする意図を含んでいるのか、その鋭い初撃は必ず私の頸や胸、急所などを掠めるようにして放たれる。その一撃はまるで熟練の剣士のそれだった。

行為に反応して、投影してあった登攀に使用した剣を投げつけると、剣は勢いよく刃先より飛びかかり、直線上にいた虫を数匹切り落とし、瞬間だけ霧に切れ間を作ってくれる。だが、虫は私の霧払いの反撃を確認すると、一気にその上下運動を早めて、無機質さの中に殺意を露わにして本格的に襲いかかってくるのだ。

嫌悪色をしている虫霧が、その体積を大きく膨らませながら、包囲するようにして迫ってくる。色とりどりの蝶々共がその羽を広げてやるたび、周囲を焼き尽くさんばかりに炎が、樹木を打ち倒さんばかりの氷が、森の隙間を縫うようにして雷が広範囲にわたって撒かれ、青蜂が薄羽を高速で動かすたび、生まれた風は蝶々どもが巻いた毒鱗粉を周囲に撒き散らし、進路と退路塞ぎ、蜂どもは攻撃の隙間を縫うようにして毒々しい尾針を飛ばしてくる。

―――まともに相手などやってられん

いつも通りに撤退を決意した私の身が翻される直前、視界に収めた悍ましい彼らの数は、そろそろ目算で数えられなくなっていた。見るに密林の隙間を埋め尽くす勢いで増える、通常の虫よりも巨大な奴らは、もう百を越す勢いだ。

あの数程度、倒しきれない、などと言うことは間違いなくないが、双剣、弓矢のどちらの手段を使おうと、あの数を悉く殺し尽くすとすれば、相当の手間と時間がかかってしまうだろう。かといって宝具の爆裂を使用して消し飛ばしてやるのも悪手だ。

多少高度を下ってきたとはいえ、ただでさえこの場所は高度が高く、酸素の薄い場所なのだ。加えてこの穴ぼこだらけとはいえ、虫だらけの閉鎖空間の中で燃焼や爆発を起こす魔術なんぞ使えば、やがて酸欠になるのが目に見えている。

―――だれが自らの首を絞めるような真似をしてやるものか

増殖する敵を前に、自らの刻んだ足跡を追って道を引き返すと、色取り取りの警戒色に塗れた霧は、逃げた獲物たる私を追い詰めてやろうと相変わらず集団で迫ってくる。感受と反射しかないはずの昆虫は、しかし、私を排除すべき敵として認識してか、迷宮に対して悪影響を及ぼす敵であると評価してか、逃げた私を延々と追いかけながら攻撃を仕掛けてくる。

虫どもはそんなどこか人間じみた行動をする割には、けれど見た目通り感情というものが感じられなく執拗で粘着質なのだ。どこまでも獲物を追いかけて敵を殺す、まさに冷徹な始末屋。などと考えて、自らの思考より染み出て来た言葉に養父とかつての自身を思い起こさせた事実が、煩わしさの熱にて沸騰しかけていた頭を、蒸発せん勢いで湯立たせる。

逃走の最中、一人勝手に敵に対する怒りを高めていると、周囲の敵対的な気配が加速度的に増えていくのを感じた。おそらく奴らが仲間に敵愾心を伝播させたのだろう。どれだけ来られようが敗北などあり得ないが、細かい敵を一々相手にするのも馬鹿らしい。数の暴力を前に退散するのを歯がゆく感じながらも撤退の判断を下すと、速度を早めて密林を駆け抜けて、奴らとの距離をあけると、糸を解いて迷宮九階より離脱する。

昆虫たちはエミヤがいなくなったのを確認すると、蜘蛛の子のように霧散していった。

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
九階「愛に絶望した魔女が蛇竜に乗り消えた空」/「満足に剣を振る機会を得られなかった剣聖が生涯を終えた場所」

「敵、出ないなー」

サガが呟く。気の抜けた一言にダリが戒めの視線を投げかけるが、サガは気にすることなく地図に情報を書き込んでいた。ダリという男の視線は感情に欠けているようなところがあり、私なんかは見つめられると震え上ってしまうような冷たく鋭い視線をしているが、それを気にしないサガの胆力は大したものだと思う。

「シン、お前もそう思うだろ?」
「そうだな。二層に潜り始めてからはや一ヶ月と十日。既に両の手を超える程探索に出ているが、未だにFOEを除けば、魔物と遭遇したのは十回に満たない。いつもなら、一回の探索でいく数……。いや、これはあまりにも少な過ぎる」

いや、普通の冒険者は一ヶ月に十回近くも探索に向かわないし、一回の探索で十回も魔物との戦闘を重ねないだろう。そんな言葉が喉元まで出かかったが、なんとか飲み込む。その普通でない事をやるのが彼らなのだ。彼らの常識は世間の一般とかけ離れている事を、私、すなわち響は、この四十日で嫌という程思い知らされている。

「良いじゃないですか。その分探索が順調なんですから。それに、この順調と呼べるペースで進んでいるのにも関わらずまだ十階への通路が見当たらないのです。はしゃぐのはそれを見つけてからにしましょうよ。でないと、彼にまた先を越されますよ」

しんがりを務めていたピエールが上機嫌に言う。ピエールのいう「彼」というのは、エミヤという人物のことだ。単独で一層攻略をした事で有名人となり、そして勧誘の禁止令が出るほどの人気ものであり、そして新迷宮に長く潜入し、しかし戻ってくる際、常に無傷の彼と、噂に欠かない彼は、今やエトリアで一番有名な冒険者である。

「そう、そうだな。その通りだ」

彼の名前を聞いて、シンが少しばかり悔しそうな表情を浮かべる。目の奥に宿る自省の念から察するに、エミヤという男が自分より活躍しているのが気にくわない……というわけでなく、これほど順調に進んでいるのに彼に追いつけていないという事実が自分の未熟さを露わにしているように感じて、恥じる気持ちを抱いているのだ。うん、きっと間違いない。

ピエールはそんなシンの懊悩を見て、さらに機嫌を良くする。彼は誰かの感情が動くのを見て、刺激を喜ぶのだ。とてつもなく性格が悪いが、あれが彼の平常運転である。

「しかし私たちも、もう四階も階層を進めて地図も結構埋まってきたというのに、未だに彼と遭遇していないな。はたしてエミヤは一体、今、どこにいるのだろうか? 」

シンはふと思いついたかのように言った。ああ、それは確かにそうだ。たしかに今エミヤという男も、この迷宮にいるはずなのに。そう思ってサガの書いている地図を覗き込む。

歩きながらの記入で少し文字や線がぶれているが、それでも半分くらいが綺麗に埋められた地図には、密林の下の方に生える低い庭木の中に隠されていた獣道や、深い濁った湖の向こう側に見える行き止まりの壁面や、落ちれば死んでしまいそうなほどぽっかり地面に空いた落とし穴など、今までの足跡が几帳面に記されている。

そんな地図を見直せば、たしかに多少見つけにくい道や、出てくる魔物が気持ち悪くて怖い思いをする場所、ちょっとした仕掛けみたいなのもあったけれど、いくつかの障害を除けば割と綺麗な一本道が浮かび上がってくる。

旧迷宮四層にある、流れる砂の上を行くことや、転移装置だらけでどこにいるのかわからなくなる仕掛けを思えば、ずっと単純な道なのだが、颯爽と現れてて一層を疾風の如く駆け抜けた彼は、いまこの地図のどこらへんをうろついているのだろうか?

もしや。

「エミヤも私たちと同じく魔物があんまりでないのなら、もしかしてもう、二層の番人がいるところまで到達しちゃったんですかねぇ」
「いや……いや、それはどうだろうか。エミヤはむしろ、大量の魔物が出現して困っているらしい。入ってしばらくすると処理しきれない数の敵が出現するから、対処できなくなって撤退せざるをえなくなる。お陰でまだ九階から先に進めていない、とぼやいていたらしい」

疑問を呈すると、シンがさらりとそんなことを言った。誰から聞いたのだろう、と一瞬思ったが、ピエールが口を挟んで答えを言ってくれた。

「ヘイが口を滑らせましたか。あの人は、しっかりしてるようで、案外間の抜けたところがありますからねぇ。……しかし不思議ですねぇ。私たちはあまり魔物と遭遇しないのに」

いやはや、同じ迷宮を探索しているのにもかかわらず、一方ばかり集られるとは不可解な現象だ。もしやエミヤは魔物に好かれそうな匂いでも出しているのだろうか。そうだとしても、一方に集中しすぎている気がするけれど。

「他のギルドはどうなのでしょうか? やはり、魔物と遭遇しないので?」
「うん、そうらしい。ただ、魔物はいなくても、道が見つけづらかったり、落とし穴が多かったり、強い魔物が群れている場所とか、行き止まりにぶつかって、全然先に進めないし、地図作成も捗らないんだと」

ピエールが言うと、サガが己の持つ地図の広範囲にぐるぐると円を描くと、適当に指差して言う。それは当然だと思う。だってこの新迷宮の二層は、旧迷宮の四層を攻略し尽くした「異邦人」というこのギルドの彼らですら、少し手こずるような場所だ。私はサガ持つ地図の、狭い範囲を指で囲って、続ける。

「多分その強い魔物って、この辺の虫のFOEだらけの場所ですかね。たしかにあそこはFOEの動きの法則性を見つけるまでちょっと怖かったです」
「まぁ、近づいても一切攻撃しなければ素通りさせてくれるとはいえ、初見でああも狭くて近い通路の奥からいきなり威嚇射撃を飛ばされると、つい反撃したくなりますよねぇ。まぁ、私は攻撃手段に乏しいのでそもそもそんな野蛮なことできませんが、……ねぇ」

ピエールは言いながらサガを見た。やろう、よくもやったな先手必勝だ、と勇ましく属性攻撃を虫に仕掛けて、その周囲にいたFOE全てに追いかけられ、逃げ帰る羽目になったことを、未だに根に持っているのだ。

サガが少し恨みがましそうな、しかし自分のミスなので何も文句を言えないでいるのを見て、ピエールは楽しそうに竪琴をかき鳴らそうとして、しかし糸が湿り気を帯びていていい音が鳴らないことに気がつくと、ため息を吐いた。

サガはその様子を見て、ザマアミロ、と大人気なく上機嫌に笑うと、こちらを向いて先ほどの話題を続ける。

「しかし、響。お前、あれが転移装置だなんてよく一目でわかったな」
「ああ、そうだ。あれは響のお手柄だったな。あれがなければ二層は階層の移動も出来んのだから、この迷宮の二層は、なんとも意地の悪い仕掛けをしている。しかし、石碑以外の転移装置など旧迷宮の十九階にしか存在していないし、ともすれば見落としがちなのだが、響、よくわかったな」

サガの言葉を受けて、シンが褒めてくる。彼の言葉は他の人が言うような回りくどさがなく、真っ直ぐなので、すごく照れ臭くなる。私はおもわず口元をにやけさせた。

「いえ、だって、地面に不自然にあった、あれ、携帯磁軸と同じようなつくりでしたから」
「ふむ、そういえば君、本職はツールマスターだったか」
「あー、そうだった、そうだった。戦闘中はふつーに道具使うし、なんか採取とか解体ばっかの活躍だったから、ちと勘違いしていたわ……」

地図を弄りながらサガがそんなことを言う。うん、その点は指摘しないでほしい。私も最近、自分の職業がツールマスターなのか、補助専門のファーマーなのかわからなくなってきているのだから。などといじけていると、サガは持っている地図を広げて言った。

「地図といえば、エミヤの地図はすげーらしいな。受付の兄ちゃんから聞いたんだが、なんでも広い範囲を俯瞰視点ですげー細かい所まで作り込んであるとかで、落とし穴がどこに繋がっているかまで書いてあるらしいぜ。いやぁ、ご苦労な事だよなぁ。歩ける場所だけでいいのにさ」
「それはすごいな。戦いだけでなく、空間把握にも秀でているのか。大したものだ」
「サガの地図は几帳面な割に字と線がぶれていて見にくい――――、いえ、醜いすからねぇ」
「ピエール、おい、お前、今わざわざなんで言い換えた」

サガとシン、ピエールは本格的に雑談を始め、命がかかった真剣な場面とは思えないほど軽薄な空気が漂う。もはやまじめに迷宮探索を行おうという空気は完全に死んでいた。会話は二転三転としてゆき、結局、魔物はなぜエミヤにばかり集中するのか、という議論に発展する。以前、迷宮のでおしゃべりを自制した人たちとは思えない現状だ……、うん?

―――そういえば、以前、誰がこの状態を断ち切って彼らを進ませたのだっけか?

過去が脳裏をよぎった途端、ぬたぬた、ガチャガチャと金属が地面をめり込む音が近くで聞こえた。大きな声の会話に負けぬくらい大きな不穏な音につられて目を向けると仁王立ちをしたダリが不機嫌そうに三人を注視していた。新調した兜の伸びた板金から覗く視線は感情が抜け落ちたかのように冷たく、怖い。

―――ああ、何故こういう事に真っ先に気がついてしまうのか。

細かいところに気がつくのは命がかかっている冒険者として優れた点で、母譲りの良い癖だとよく褒められるが、こういった要らぬ所まで気がついてしまうのも早いので、結局、利害の収支はトントンだと思う。万事塞翁が馬というが、こんな場合、馬でなくとも逃げ出したくなるものだ。

「―――お前ら……」

耐えかねたダリが口火を切ろうとする。

「なぁ、ダリはどう思う?」

直前に、滾る炎に向けて、サガが平静の声をかけた。突如話題を振られたダリは、怒りの眼に戸惑いを浮かべながら、驚いた表情でサガを見つめ返す。

「……どう、とは? 」
「だから、魔物がエミヤばっかに集中する理由。衛兵の経験も合わせりゃ、ギルドの中で一番迷宮経験の長いだろ、お前。ギルドしかしたことない俺らと違って、知識豊富じゃん。お前なら何かわかるかとおもってさ? 」

突然の質問とお褒めの言葉は好奇心と自尊心を擽って、怒りの火種が、別の種類の焔に変えてゆく。そうして考え込みだしたダリは、すっかり溜め込んだ感情を思考のエネルギーへと変換させて、激しく燃え盛りあたりを焼き尽くすほどの怒りの業火が、その燃やす対象がそれた事で、私は、はぁ、と大きくため息をつく。

サガが悪戯っぽい笑みを浮かべてシシッ、と笑った。どうやら狙ってのものらしい。普段のくだらないやりとりにも不満を抱き、鬱憤を溜めてゆくダリのガス抜き……、なのだろう。多分。シンは他人の機敏を気にするタイプでないし、ピエールは溜め込んだ感情が爆発するのを見て楽しむタイプなので、自然とサガがダリの手綱を取るようになったに違いない。しかしサガは気配りが本当に上手い。

上手いと思うが、出来る事ならもう少しこちらがハラハラとしない方法でやって欲しい。こう、彼的に重要なこと以外は、普段から小まめに処理するのでなく、溜め込んで一気に処理する乱雑さは、なんともそれらしいんだけれども、非常に心臓に悪い。そうして私が心臓の動悸を乱れさせていると、私の臆病になど露ほども気づかない様子のダリが口を開いた。

「―――迷宮が発見された当初の頃のことだ。当時はまだ、未開の場所だった旧世界樹の迷宮の奥に秘められたその謎を自分たちの手で解くために、執政院は大量の人間―――百人単位の人間を一度に調査隊として送り込んだ」
「ああ、そうだったみたいだな。なんでも謎を解明すれば、当時はしょぼかったらしい林業の町エトリアがすげー発展するかもって、張り切って送り込んで全滅したってやつだろ? 」
「その後、めげずに幾度か小規模な調査隊を送って、それでも謎は解明されず、結局極端に人手が足りなくなったため自分たちで謎を解き明かすのを諦めて、お触れを出して他の国の人間に迷宮の謎を解いてもらおうと冒険者を集ったのが、その後のエトリアの発展に繋がったとは、なんとも皮肉ですよねぇ」
「ふむ、そういえば旧迷宮は当時の冒険者たちに踏破されたという話ではあるが、未だにその謎とやらは具体的には開示されていないな」

ダリの話を聞いて、各々が追加で情報を述べる。私はあまりその辺り詳しくないので、黙って聞いていることにした。

「まぁ、皆のいうことはどれもその通りだ。未だにラーダが明かそうとしない謎の内容も気になるだろうが、今回重要なのは、そこではない。大事なのは、何故、それだけの戦力を持った調査隊が全滅したのか、という点だ」

ダリは一旦そこで切って、咳払いをすると、指を上に向けて、くるくると回しながら続ける。

「調査隊が全滅した理由は簡単だ。最初に送り込んだ大量の調査隊の戦力を上回るだけの敵戦力が彼らの前に現れたのだ。探索の当初は大規模の人数を送り込み、普通に歩ける迷宮の部分はもちろん、上は天井から下は地面を掘りぬいてでも調べようとしたらしいが、そうして道無き道を切り開き、樹木の上に登れば敵が殺到するし、地面を掘って調べてやろうとすればある程度掘り進めてみると、そのうち魔物が迷宮の外にまで出てきてしまうほど湧き出てくる始末で、精鋭だった筈の彼らはあえなく全滅したのだ」

ああ、それで、「迷宮内で無闇に人の通れない道を無理やり通る事を禁ずる」とか、「無闇に迷宮を傷つける事を禁ずる」とか言った内容の不思議な探索のルールがあったのか。

「以後、数度の小規模な調査隊の投入と帰還を経て、六人だろうと七人だろうと、それこそ百人以上だろうと、帰ってくるのが五人以下、という経験から、「最大五人」という人数で、「徒歩で移動できる場所」を最低限だけ探索するのが、迷宮を長く探索する際の鉄則になったという。冒険者を目指す初心者にたいして、最初に「徒歩で歩ける場所」の地図だけでよいと指示するようになったのもこれが原因だとか」
「へぇ、なるほど。五人の方は知っていたが、地図の製作範囲が限定されている理由がそんなだったのは知らなかったな。確かに、「歩ける部分だけでいい」って最初に強調して言っときゃ、わざわざ他の部分を歩いてまで面倒な部分を書き出そうとする奴はいないだろうからなぁ」
「土の掘削なんていうのは元々、エトリアどころかどこの地域でも許可制ですから普通やりませんしねぇ。いやぁ、上手いやり方だ」

サガとピエールはダリの言葉にしきりに感心の声を上げる。私もおもわず、「はぁぁぁ……」と長く間延びした声を上げさせられた。いや、歴史というものは何処にでもあるものだなぁ。

「……ダリ、それで、その「探索人数限定」と「迷宮探索範囲指定」のルールが、エミヤだけに魔物が集中する状況と、どう関係しているのだ?」

そんな中、ただ一人、シンが疑問の声をあげた。ああ、そういえば、元々は魔物が一人に集中する理由を尋ねていたのだった。ダリの答えは、調査隊が魔物によって全滅させられた事実よりいくつかのルールが生まれた説明にはなっているが、エミヤにだけ魔物が群がり、ほかの冒険者がほとんど無視されている理由になっていない。シンの疑問はもっともだ。

「わからないか、シン。先程サガが、言っていただろう? エミヤの地図はまるで俯瞰したかのように、精巧なものであったと。加えて、単独で魔物を避けてさっさと進もうとしているというの仮定が正しいなら、答えはおそらく……」

ダリは静かに上を指差した。それの指し示す意味は、私にも読み取れた。

「なるほど、あいつ、まさか、木の上を行っているのか」
「おそらくな。一般に魔物は多くの場合、地上近くに現れる。蛇や羽虫はともかく、狼、土竜、鹿などの四足動物は地をゆくからな。加えて、エミヤは迷宮初心者と聞く。そしてこの新迷宮の一層において、襲いかかってくる魔物は殆ど地面からだった。その事実から考えるにおそらくこうだ。彼は敵と戦う煩わしさを避けるため、樹木の上を進む事にした。しかしその行動が先の「歩行可能範囲」ルールに抵触し、だからこそ、迷宮内の多くの魔物が彼の方へと寄って行ってしまう。その恩恵を受ける形で、私たちの方へは魔物が寄ってきていないのではないか、というのが私の推測だ」
「はぁー、なるほどなぁ……。しかしこりゃ思いつかんわ」

サガが大きく感心の声を上げる。シンもピエールも、もちろん私も同じく感心して彼の話を聞いていた。頭でっかちで理論先行の部分もあるが、思考は彼の得意分野だ。疑問を投げかけると、豊富な知識から、それらしい結論を導き出してくれる。他人の感情が絡まなければ、彼はとても頼りになる男なのだ。

ダリの返答に、シンは深く何度も頷いて納得を露わにする。

「なるほど、あるいは単独で番人を倒す実力のある男だからこそ、なのかもしれないな」
「……どゆこと?」
「それだけの実力があるのだ。もしかしたら彼はその説明を受けていて、しかしなお、樹木の上を行っているのかもしれんと思ってな。そう、その場合、おそらく彼にとって、その程度のことは「普通の人間が出来る範疇」なのだろう。実力が高く、木の上を軽々と行けるだろう事を、しかしそれが異常だと把握できていない。だから、そうだとしたら、上をいくという選択肢を取ったとしても納得が出来るだろう?」
「なるほど、無茶苦茶だけど、お前らしい結論だわ」

サガが違った意味での納得を見せる。その時だ。

「――――――来たか」

シンは呟き、静かに気配を鎮めた。彼の意を察知して一同が一斉に戦闘体制へと移行する。サガは巨大な鉄籠手を解放させ、ピエールは乱れた服装を整え帽子を深くかぶり直し、喉元を何度か優しく摩った。シンはパチンと鍔を鳴らして刀身を微かに露わにし、ダリは盾を構えながら猫背気味の前傾姿勢になる。

わたしは彼らに少しばかり遅れながらも、すぐさま道具を取り出せるように袋の口を解放させて、手を突っ込んだ。道具の配置を確認するためそれぞれの感触を確かめながら周囲に注意を配っていると、サガと目があった。彼は白い歯を見せつけるようにニッカリと笑う。

「動き、滑らかになったな」

褒められた。認められたという感覚が胸の中を擽って、こそばゆい。

「まだまだ、だがな」
「まだまだですけれどねぇ」

ダリとピエールが気の削がれるような事をいう。一聞にして嫌味のように聞こえるが、ダリにとってそれは悪気あって言っているのでなく、前よりは成長していると認めてくれているのであり、ピエールもやはり同様なのだ。私は最近、ようやく彼らの裏に隠された感情が読み取れるようになって来た。……気がする。

「響。フォーススキル、行けるか? 」

シンが流れを気にせず、そんな事を聞いてきた。相変わらずシンは戦闘のことしか頭にないが、その徹底して空気を読まない態度でこちらを頼りにしてくる態度はとても潔く、心地よかった。私は体の調子を確かめると、今まさに最高の状態であることを確認して頷いた。

「はい……、はい大丈夫です。やってみます。お望みとあれば、最初にぶっ放します」
「ではそれで行こう。羽虫系統、小さいのメインだったら香で状態異常。大きい場合は糸で行動阻害。判断が難しい場合は、ピエールに聞いてくれ」
「わかりました」
「ピエール、聞いての通りだ。サガ、ダリ。彼女のフォローは任せた」
「お任せを」
「あいよ、了解」
「承知した」

皆の言葉は力に満ちていて頼もしかった。期待に背を押されるようにして、各種香と縺れ糸を撫でる。敵の来るだろう方向に当たりをつけて、シンが視線と柄の先を向けた。意識を集中させると、羽が空気に擦れる音が重複して聞こえてくる。

―――そうか、羽虫の群れか。
―――なら香で

鞄の口を開けて複数の香を取り出すと、意識を集中させて能力を引き出す準備をする。人をはるかに上回る大きな体躯の魔物であっても、一息吸えば盲目、麻痺、睡眠、混乱の混じった調合の香は、人よりもはるかに小さい羽虫に対してであれば、驚くほどの効果を発揮し、敵を確実に石化させてくれるだろう。

ただし、敵を石化させる香は複雑な調合により非常に不安定な状態であり、それゆえに風向きを読んでの調整は難しく、また、身体能力の低い私では、基本広範囲の対象に向けての使用はできない。そう、それこそがツールマスターが準戦闘職である理由。

ツールマスターは集中してやる事で、一つの道具が確実に効力を発揮するように使うことはできるけど、その反面、身体能力や反応速度が低いから、戦闘中に道具を適切に使うことができず、例えば戦闘職の彼らが使えば広範囲に効果を及ぼすようなものであっても、一つの対象にしか使ってやることができない。

その身体能力と反応速度の違いが、戦闘職と準戦闘職を分ける確固たる証明。だから、常に複数の魔物に対処しなければならない迷宮において、ツールマスターという職業は、転移装置の手入れや、携帯磁軸の調整などの場合以外ではお呼ばれがない、準戦闘職なのだ。

けれど、今、私の神経は他人の感情の機敏に気が付けるほどに研ぎ澄まされているし、真意を見抜けるほどに落ち着いている。本当に初めの頃、最初に行われた旧迷宮四層における戦闘の連続で私はそこいらの冒険者に負けない身体能力を手に入れた。

そして、よほど、集中できている時―――いわゆる、フォーススキルを使える状態であれば、私はどんな道具だって、その効力を最大限に、適切に発揮させてやることができるのだ。

―――いける!

確信を抱いた数旬の後、果たして敵は現れた。威嚇的な形状と不愉快にさせる容貌が混ざった彼らを視界に収めた瞬間、私は香をカバンより取り出してフォーススキルを発動させた。

「イグザート・アビリティ!」

声高にフォーススキル名を叫ぶと同時に、発揮した石化の力は広範囲に散って魔物の群れに襲いかかる。それは開戦の狼煙となって、私たちは一斉に行動を開始した。

世界樹の新迷宮
二層「蠱毒の大密林」
六階「偽りの愛を植え付けられた少女が裏切りを犯した場所」/「土と共に生きる少年が剣聖に魅了された場所」

視界が赤に染まる。石碑より転移した体が、世界樹の迷宮二層六階に屹立する紫柱の前に広がる大地を踏みしめると、即座に足を動かして探索を開始する。探索は二層だけに限定しても、これでちょうど四回目。此度こそはなんとしてでも迷宮の番人を倒し、三層へと突き進んで見せようと、他でもない己の心に誓ってみせる。

脳裏に広げた皮算用ではとうの昔に三層を攻略しているはずだったが、なるほど、やはり世界樹について狐狸程度の知識しか持たぬ私では、予定通り上手くいかないのも無理はない。

例え獣であろうとも、かのギリシャの大英雄や気に食わぬケルトの英雄、絶望的にソリの合わぬメソポタミアの英雄王が持つような神性でも得て、正一位にでもなれるのなら話は別なのだろうが、あいにく元々、裏技的な手段で単なる人より英霊へと昇格しただけのこの身は、彼らの様に信仰を得られるほどの華々しい活躍を世に残せていない。

あるいはこれより奮起して、剣の解析と投影に秀でた魔術の特性を活かし、武器職人の道でも進み極めてみれば、あるいは金屋子神の末席には加えてもらえるかもしれないが、まぁ、こんな穢れた魂の男は、精錬という金属の純粋さを極める神聖な領域に相応しくはないし、荒ぶる神として禁足地に祭り上げられるのが精々の末路だろう。

「――――――ちっ、早いな」

くだらぬことを考えんがら、樹々の間を縫う様にして迷宮を翔ぶが如く進んでいると、すぐさま知覚が邪魔者の存在を感知した。五感と六感を発端とする信号は正常な進行を妨げるノイズとなり、肉体は否が応でも探索より戦闘の体制へと移行させられる。

魔術回路を強めに励起させて、進路を塞ぐ様にして陣取る敵の詳細を感知すると、いつもの毒虫が前後左右上下天地にまで群れて待機している事を理解させられた。

半球状に群れなす毒虫共はまるで茹で上がった釜の様だ。具材となる素材は飛び込んで仕舞えば、後は捕食者に喰われるまで身を任せるがままにするしかない。食材をいかにして調理してやろうと考えるのは得意分野であるが、己が調理をされる側に回るのは御免被る。

ぞっとしない結末を避けるために、強めに強化を施した足で太い木の幹を強く思い切り蹴り飛ばす。前方に進む運動エネルギーがそのまま負荷となり、内臓が押され、気持ちの悪い浮遊感が体を襲う。胃袋の内容物をぶちまけるほど柔な作りの体ではないが、強化された肉体でも体内を漂う空気は抑える事が出来ず、食い縛った口の端から、しぃぃぃぃ、と呼吸が漏れていく。

空中でくるりと身を翻して体の前後の向きを逆転させると、一目散に前進する。一瞬の後、背後より先ほどまで自分がいた場所の空気を何かが通り抜けた音が聞こえた。探索当初は初撃に挑発を挟んできた奴らも、最近は遠慮というものを忘れてしまったようで、こちらの姿を見つけると、嬉々として己の誇る武器をぶつけてやろうとしてくるようになっていた。

無作法の行いを無視しながら、脳裏に刻まれた地図の情報を最新に更新して、使用不可能となったルートに大きくバツをつけると、儃佪を避けるため、即座に迷宮奥地へ向かう次の探索進路を定め、迷わずそちらの方向へ身体を転換させる。

敵は多く、密林の隙間を埋め尽くすほど、まるで進路を塞ぐ様に湧き出てくるが、広大な空間体積を誇るラビリンスの隙間を全て埋める事ができるほどの数はいない。いや、もとより、そんな生態系を壊すほどの数がいるはずもないし、一気に出現するわけもない。はずだ。

ともあれ、迷宮が広く大きい、という事は、それは私にとって長い旅路を約束する不幸な事実であり、敵との戦闘を避けやすい幸運な事実でもあった。私は多大な不幸と幸運を携えながら、迷宮を進撃する。

世界樹の新迷宮
第二層「蟲毒の大密林」
第十階「全てを失った女が出会った伴侶と愛を誓い合った教会」/「空位に至った亡霊が望みをかなえた山門」

視界に痛い赤の密林と、肌に粘りつく空気を裂いて、迷宮の九層を飛び回る事を丸一日ほど続けると、密林の低い場所にある短い木の下に隠されていた水路を抜けた先に、ようやく十階との出入り口を発見する。そこをくぐると、二層十階というものは思ったより狭く、二時間ほども逃走と疾走を繰り返すと、すぐさま最奥に位置する、番人の部屋の前の白無地の門と壁にたどり着く事が出来た。

そうして周囲の赤との協調を拒む病的なまでの白き扉の前まで来てやると、今までの喧騒と乱痴気騒ぎが嘘の様に門前は静けさを保っていて、疲れた体を休ませるに適した場所へとなっていた。

……門の向こう側よりひしひしと伝わってくる、不愉快を隠そうとしない気配が漂っているのを無視すれば、の話であればだが。

門の向こう側から番人だろう相手がこちらに飛ばしてくる敵意は、女の妬み恨みを思わせる粘着質を保有していて、そのドロドロとした怨念が門と壁より一定の距離の空気を澱ませ、群がっていた魑魅魍魎を祓ってくれているようだったのだ。

その凄まじく恐ろしい冥漠とした感覚は、無生物であるはずの蔦も苔も埃塵もが情念を嫌って、門も壁もが汚れひとつ見当たらほどの潔癖さで白さを保っているといえば伝わるだろうか。

とはいえ、そのおどろおどろしい様が群がる敵を退け、門前に安全な空白地帯を作り出しているのだから、番人戦に備えて薬などを使い、準備を整えている今この瞬間だけは、門の向こうにいる奴が放つ気配の迷惑有難さに感謝せざるを得ないだろう。

―――まぁ、これからそのありがたい存在の排除を積極的に試みるわけではあるが。

さて、一層の番人が層の中で一番強い魔物の長である様な姿をしていたのだから、此度もおそらくは同じだろう。とすれば二層の番人の姿として一番あり得そうなのは、巨大な羽虫だろうか。なら装備は、道中と同じこれでよかろう。

そうして胸元にしまいこんである品の表面を撫でる。この度身につけてきた装備品は、鬼の護符、と言う名の状態異常を防ぐアクセサリーだ。符には大きな角と牙を持つ四角顔の鬼が厳つく口を開けて威嚇しているのが、紅を用いて白紙に刻まれている。

紋様を変えれば攻撃の力を上げてくれるときいたが、この毒虫蔓延る迷宮においてはこちらの方がいいと判断ししたため、そうしてもらった。

護符は双剣に刻んだ魔除けと聖骸布の加護とが持つ魔除けの効力と合わさる事で、大抵の状態異常、すなわち、盲目、毒、麻痺、石化、混乱などの異常を防いでくれるありがたい代物だ。タリスマンやバングルと同じく値は張る代物だったが、命に代えられる程ではない。

魔を払う護符は、よくある姿として効力とは対称的に禍々しい姿をしているが、威嚇的な姿で悪を祓おうとするのはよくある手法である。悪をもってして悪を討つ、という点に、似た者同士というシンパシーを感じて表面を撫でると、頑固さと異常を拒む性質を表しているかの様にごわごわした紙質が、同類を歓迎するかのように優しく皮膚を擦る。

戯れも程々に、番人と対峙する前に道中で乱れた身だしなみを整え汗を拭き、体の疲れを持ち込んだ薬剤で取り除き、事前にいくつかの装備品を投影する。生み出した双剣を腰に携え異常に対する守りの備を強化すると同時に一手分の短縮を行う。

そうして守りが万全である事を確認すると、一層の番人を倒した際に使用した黒塗の洋弓と宝具「偽・螺旋剣/カラドボルグ」を投影し、番えて構えた。前回は馬鹿正直に門の中に踏み込んでしまったため苦戦を強いられたが、此度はそうはいかない。番人の姿が何であれ、門の外から、速攻の一撃で決める。

決心とともに、はしたなく扉の下側に足をひっかける。ここに来るまでに溜まった鬱憤を晴らすかのように、少し強めに足裏で押してやると、ピタリと閉じられた門が両扉ごと綺麗に後ろに引くのを確認。

同時に、此方も身を引いて弓の弦を引く力を強める。改めてノッキングポイントに捻れ剣を番えなおすと、魔力を込めて射の構えをとる。一度経験した作業は、スムーズな行動を可能としていて、以前より手間取る事なく、滑らかな動きで作業は完了した。限界ギリギリ迄魔力の込められた矢は力を撒き散らす事なく身を震わせ、雷霆鳴り響く直前の気配だけを漂わせている。

「――――――、ふん、やはりか」

そうして開いた扉の向こう、はるか先に現れたのは、曲線に尖った身体を様々な色で雅に彩った、玉虫の群れだった。その大きさは私の常識の範囲内に収まる小さなものだったが、その数があまりにも異常だった。

部屋の中心に浮く、直径三、四十メートルの球体の表面が色鮮やかに蠢く様から想定するに、千万匹を下らない数がそこに潜んでいるのだろう。中までぎっしりと詰まっていると考えると、下手をすれば億すらも越しているかもしれない。あれが如何なる手段でその生態系を保っているのかはしらないが、あの数が敵に一斉に襲いかかる姿を想像すると、それだけで身のあちこちが痒くなる。まさに蝗害だ。

だがこれなら殲滅は容易である。濃淡鮮やかな緑水色に光る奴らが、たとえその色と等しくエメラルドほど硬度持っていたとしても、宝具と呼ばれる兵装の一撃を耐えられるはずはないし、範囲外に半径百メートル程度までなら宝具の崩壊による熱の一撃、すなわち、「壊れた幻想/ブロークン・ファンタズム」による追撃で焼き払う事が可能だ。

また、仮に奴らが鮮やかな警戒色が示している様に即効性の毒を持っていて、爆発により離散するだろう毒液、体液が、護符と魔術的防護による守りを貫けるほどの強毒や強酸を持つとしても、五百メートルほども距離があるここからであれば、大した余波を受けずにすむはずだ。後はこの距離から射撃と宝具の織り交ぜにより潰してゆけば、手間かもしれないが安全に戦闘を終わらせる事ができる。

算盤を弾いて利害を算定すると、自然と決意も固まった。後は一撃でかいのを叩き込んで、さっと瓦礫を除去するだけの作業に過ぎない。

「――――――、……ぅ」

宝具の真価が発揮するには名を呼ぶため必要がある。発音のため少しばかり息を大きく吸い込むと、瞬間、敵の群意がこちらに向いた。だが遅い。

己に近づきつつある死の気配に気がついた彼らは、開きつつある扉のはるか向こうで、球体となっていた緑球体の表面を激しく波打たせる。私は攻撃の瞬間がわからないよう、濃厚に殺意だけを放ちながら、しかし攻撃の気配を殺してやる。

濃密な殺意を球体に叩きつけるは風船に突き立った針を引くに等しい行為であった。殺意の針により空いた大穴から、玉虫が硬い羽音を立てて飛び出した。その光景に屍肉に群がる蝿群のそれを思い出して、多少集中が害される。

―――だが、問題はない。こちらの一撃を止めるべく最短の距離を進む敵群の動きは直線的で、矢を放てば巨大蛇の如く薙ぎ払えるだろう。ならば……!

「偽・螺旋剣/カラドボルグ!」

切っ先を進軍する群の先端に向けて真名と共に一撃を放つと、弓より放たれた雷霆をあげる極細の竜巻が、周囲の空間を捻る切りながら、迫る虫をもかき消して進んだ。刹那の後、球体の中心に到達するだろう宝具を崩壊させ、虫をもろとも焼き払うべく、世界に意を伝えようと声をあげる。

「壊れた/ブロークン―――!」

口より溢れた声が意思を伝え切る直前の瞬間、強化された眼球は、虫の密度が薄れた球体の奥に、異端を見つけた。それは七色に輝く玉虫色の中にあって、毒々しくも柔らかな高貴さを放つ藤色の何か。正体不明の悪寒が背筋を貫く。直感が攻撃の中止を訴えて信号を発するが、喉元は既に意に反して震えて、残る音声を世に生み出していた。

「幻想/ファンタズム―――!」

直後、爆発。―――そして背後に気配。

「なぁ―――」

前方に向けて大きく跳躍。背後より虚空を切り裂く三条の光を避けられたのは、偏に、異変を察知した感覚が警戒を密にして、周囲の空間の異常を捉えたからだ。戦闘経験が導き出した警告が遅れて頭に鳴り響く。だが、その正体がわからない。

考える間もなく続けて背筋を悪寒が襲い、自然と体を前に逃走させる。背後より追いかけてくる空気を裂く音が、足を止めてその正体を確かめるべく振り向くことを不許可し続けていた。

―――まずはこの連撃をやり過ごさねばなるまい……、あれだ!

己の起こした爆風によって生じた土砂入り混じった風が、部屋の中央から迫りつつある。数秒後、迷わず前方より風に運ばれ来やる土砂壁の中に飛び込み、砂塵に身を隠した。宙に吹き荒ぶ石土は己にとっては小さな障害に過ぎぬが、僅か数センチの体積しか持たぬ敵にとっては、巨岩が舞うに等しい嵐なのだろう、そこで漸く敵の目を撒けたようで、背後より迫っていた攻撃が一時的に止んだ。

安堵の息が漏れる。呼吸と共に、散布する土砂が口に飛び込んで、味蕾が要らぬ土の味を感知する。血潮の鉄気を帯びていなかっただけでも有難いと思うべきなのだろうが、不快だ。腕布を口元周辺に当てて、鼻と口元からの侵入を防ぐも、面倒見きれない耳孔に砂が侵入し、鼓膜を掻きならす。不快さが増した。

しばらくそうして呼気を整えていると、土煙が薄れて行く。晴れてゆく砂塵に中で、気を入れ直して周囲の気配を探ると、己の周囲に緑の線が幾重にも張り巡らされていることに気が付いた。球を解いた虫どもが、獲物を逃さぬようする為、煙を中心として半球に取り囲んでいたのだ。

「―――ちぃ!」

互いが土煙より敵の姿を視認した途端、玉虫たちは攻撃を再開した。地を蹴り、即座に現所より離脱。蠢く球内殻の面から玉虫が針の如く次々飛び出たかと思うと、直前の瞬間まで私のいた空間を弧なる翡翠色の刃が軌跡を残して、土煙に跡を残しながら去って行く。先程の攻撃はこれか!

回避をするも、避けた先に次なる刃が置かれていた。強化した筋繊維と反射神経に任せて強引に身を捻り躱す。しかし、その先には更に飛燕の如き速さで飛ぶ刃が配置されていた。

―――避けきれんか!

腰に当てていた双剣を逆手に握り、首元を狙う玉虫色の刃の進行に合わせて黒白の双剣を交差の比翼にして突き出し、防御を試みる。楔型を取った双剣は敵とかち合った刃は耳障りな鈍重音を立てて幾分かの玉虫の流れを逸らすことに成功し、幾ばくかの敵を切り裂くが、散弾となった敵を防ぎきるにはとてもではないが、面積が足りなかった。鍛え上げられた細き刀身の真横を数センチの弾丸通り過ぎ、流れの先にあった両手の聖骸布に亀裂が走り、素肌の頰と左右の首筋に赤の線が幾筋も走る。

直線に走ったが線は、失態の代償の痕だ。遅れてやってきた痛みに続けて、痕を撫ぜるように痒みが走るが、それは傷口が生きている証だ。毒も……、ない。大丈夫だ。

どれほどの裂傷がついたのか確認する間も無く、三つの刃が再び同時に繰り出され、散弾で構成された刃は再びこちらの命を刈り取ろうと、車のエンジン音にも似た羽音を立て迫りくる。

―――だが、遅い

同じように繰り出される三つの連撃を最小の動きで回避する。繰り出される玉虫の刃は決して早いわけでなく、忠実に同じ行動が繰り返されるばかり、かつ、体崩しと不意打ちが組み合わさった心の隙を突く攻撃で、それはまるで意思のない暗殺者の一撃のように機械じみていた。

―――なるほど、大したものだが、相性が悪かったな。

体を崩し上下の回避方向を固定するため繰り出される横薙ぎを身を沈めて避け、左右の回避方向を決定付けるための唐竹を地を這うような格好で避け、死角から繰り出される首への刺突を剣に突き立てた刃の制動によって避ける。敵の動きを計算に入れての連撃は見事だが、私を仕留めるには速度の見積もりが甘すぎる。

敵の戦術は、質を補うため数の優位と未来予測に頼った、いわば弱者の戦い方だ。見下すつもりなど毛頭ない。隙を作り出して活路を見出す戦術は私もよくやる手法であり、敵ながらに親近感すら覚えてしまう。だからこそ、相手の行動の予測が手に取るようにわかるし、そのような相手に負ける気はしない。

―――とはいえ

回避は可能だが、有効となる反撃の手が思いつかない。おそらく、あの異端たる宙を飛ぶ藤色の蛇がこの玉虫どもの親玉であり、あれをどうにかすれば硬直した状況を好転させられる予感がある。

だが。

「ち、届かんか」

攻撃の隙を見て投影した剣を蛇目掛けていくつも投擲するも、大抵は玉虫の壁に敗れて弾かれるし、通り抜けた所で、蛇は転移をして別の場所に消えてしまう。なるほど、突如として玉虫の群れが私の背後に現れたのは、こやつの仕業かと直感する。

攻撃の正体と敵の情報が揃ってきた所で、対策が思いつかない。いかんせん、飛燕の連撃を避けながら、視界すら遮る厚さの敵の虫条網を抜けて、飛翔に、恐らくは転移までこなす敵を攻撃する有効な手段が思い浮かばない。

―――どうするか……、ん?

悩む間にも敵の一撃の速度が上がっていることに気がついた。先ほどまで避ける事の出来た速度での回避が叶わない。強化を重ねがけしながら識を巡らせると、敵の敷いた陣が縮こまっている事に気がついた。

―――やってくれる。

己を中心とした半径二十メートルの空間は、内部の核となる敵を確実に仕留めるべく、距離を詰めていた。惨殺か、圧死か。手をこまねいているままでは、運命が決まってしまう。全方向の敵との距離が狭まる中、縮まる半円空間内部を三筋の緑光が煌めいた。

両手の甲と頰と首にさらにいくつもの筋が走って、赤の雫が溢れて舞う。痒みはもう痛みを帯びて、頬と首より流れる服の胸の方にまで血が流れ込んでいる。もはや猶予はない。近づく刻限と極限の状況は、己の魔術の真髄を思い起こさせた。あまりにも想定外であるが、仕方ない。

―――切り札を使用する

数秒後、雄叫びとともに空間を割く鈍色の光が一面を走りぬけ、世界はその姿を一変した。

私は近くに穏やかな水源があり、周辺を腐らぬ程度に草木が足元の一帯を覆い、少し離れた場所に行けば樹木林の広がる山が広がる環境で生まれ育った。天気が荒れることはほとんどなく、凪の様な静けさが特徴といえば特徴になるだろう、これといって特筆することの無い、閑静な村だった。エトリアという街から、迷宮という余分を引っこ抜けば、ああなるのだろう。

辺鄙な場所に位置し、近くに迷宮も何もない静かな村には、冒険者が訪れることはまず無い。穏和な人格の者ばかりである為日々は穏やかに過ぎて行く。諍いは少なく、勃発したとしても、スキルという日常発生しうる全ての不足をカバーする存在が、決定的な損失になりうる取り返しのつかない事態が発生させないので、諍いの原因はその内なくなってしまう。互いに気の置けない人間が集まっているのも大きかったのだろう。

―――障害がない。幼い頃よりそれが不満だった。

私は、スキルと身体能力において、他者より秀でた才があった。ただでさえ不満のない生活に過剰な能力が与えられたならば、それは余裕を通り越して退屈となる。同種の経験と苦労があるからこそ、相互理解に繋がる。周囲より優れた能力を持つ私は、優れているが故に他者と話が合う筈もなく、十になる以前に手の届く全ての範囲の雑事をこなせる様になっていた私は、十になるより以前、早々にして人生に飽いていた。

さて、飽いたとはいえ、残りの生涯を文句だけで過ごすのも馬鹿らしいと考えた私は、己の進行を妨げる障害を求めて、あえて物事に力一杯取り組むという事を生活の退屈を紛れさせる趣味として生きていた。

退屈の中、いつかは自らの力では解決不能である難題に出会えるだろう事を懸想する日々。転機は数年に一度ほどの頻度で発生する、草食動物の大量発生時期に訪れた。

増えすぎた動植物は、放っておくと翌年以降の食糧事情に影響を出す。同年代の中でも身体能力に優れていた私は、村長より、増えた草食動物を処理する為に訪れる数人の冒険者たちの補助を依頼されていた。

普段おとなしい相手とはいえ、争いとなれば荒々しい抵抗を見せるし、数増えて群をなせばその分脅威度は更に増す。数人の人間で、数百越す動物を狩る。それは明らかに、無理難題なものだった。だが、村長は彼らならそれが出来ると信じてやまない態度だった。

難題を求めていた私は、村長の信頼を不思議に思った私は、当時、冒険者という職ではなく戦闘用スキルというものを使用出来なかったが、それでも狩りも、解体も、食肉加工も、鞣しの経験も持ち合わせていたため、十分やれると判断し、承知の返事を返す。

次の日、村長に指定された村の広場に行くと、いたのはブシドー、パラディンアルケミスト、メディック、カースメーカーが一名ずつだった。彼らは弓も銃も持たず、杖と剣と刀と盾ばかりを持った、とても狩り人に見えない集団だったが、彼らを目にした瞬間、村長が信頼して任せた理由が理解できた。

彼らならやれる。およそ一度たりと外した事のない自らの直感がそう告げたのだ。合流直後、外部より招き入れた彼らとともに草食動物の狩りを始める。

雌の気をひくための装飾角や、重い身体を支えている強靭な四足の一撃を避けるためには、不意の一撃で全員を仕留められるのが一番効果的だ。だが群れている場合は、その手法は不可能だ。少しずつおびき出して処理する事も可能であるが、警戒心を抱かれて途中からうまく行かなくなるに違いない。

平原を呑気に歩く草食獣の群れを前にして、さて彼らはどうするのだろう、と期待を込めた視線を送っていると、我々の殺意に敏感に反応した獣が、一斉に立ち上がった。

私はその時、初めて絶望というものを知った。

平原を黒に覆い尽くす獣は、数百どころか、三千―――数は後で知った―――を超える数がいたのだ。私が見たのは、その一部でしかなかった。

そうして私が当時は理解不能だった感情に襲われていると、怯える私の頭をその籠手を装着した腕でガシガシとなでて、ひとりのブシドーが前に出た。彼は刃を腰鞘に収めたまま、中腰の姿勢で構える。

―――何をする気だ

答えはすぐに示された。彼の放った一撃によって、眼前にいた草食動物は全て死に絶えた。それが私の原点。冒険者という職業を目指すきっかけ。そう、あの時彼の放った強烈な一撃は、私の寤寐に塗れた日常をも切り裂いて、私を俗界に引き戻してくれたのだ。

「――――――」

在りし日を思い出したのは、私の常識が再び切り裂かれたからだろう。言葉が出なかった。眼前にて繰り広げられている戦いは、それほどまでに私の知識にある戦闘とかけ離れたものだった。

ウォンウォンと耳障りな低音を上げる百万を優に越えるだろう翡翠虫の球の中は、土砂の赤と弧の緑の光に満ちている。光は才ある近接職がようやっと追いつけるほどの速さで動く玉虫が繰り出す体当たりが連続して起こっているものだった。加えるなら、瞬間の光が実は三連であると捉える事が出来るのは、この場において私以外にいないだろう。

この場にいるのは、一人を除けば、歴戦の強者である。エトリア中を探しても、私たちほど熱心に迷宮探索に取り組んでいるものはいないだろうし、熱心に取り組む輩の中でも飛び出たギルドという自負もあり、事実として、私と彼らは強い。

だが、その我らをしても対応出来ないかもしれない程の戦いが目の前で繰り広げられている。その事実は、私をひどく興奮させ、そして、彼らと彼女の意識を奪っていた。

緑球の檻の向こうで強者が舞う。彼は繰り広げられる連撃を軽々といなしている。周囲全方向から繰り出される斬撃を、一度たりと正面から受けることなく、身のこなしと予測にて最小の動きで避けるその様は、「見事」の一言以外で表現する事が出来ない。

ブシドーとして頂に近い実力を持つ自負はあるが、その私がピエールや響に強化されたとて、彼のような動きはできない。私の動きは動物のそれに近く、己の直感を完全に頼り、反射に任せたからこその動きであるが、彼のそれは、どちらかといえば、ダリのような、思考に基づき計算されつくしたものである。

肉体の反射のみで戦う利点は迷いを捨てられることにあり、欠点として一切の迷いがないので行動を見切られやすい性質を持つ。対して、思考を中心に戦闘を組み立てる戦闘方法は、行動を見切られにくい安定の利点を持つが、思考にて迷いが生まれた瞬間や、戦術を切り替える最中に隙が出来るという欠点を持つ。二つの戦闘方法は氷炭なのだ。

通常相反する性質の戦闘方法を、しかし彼は見事に融合させた戦いを行なっている。ダリの思考が直接反映された状態で私が動いている様なものなのだから、なるほど、強くて当然だ。

「……ん?」

どれほど呆然としていたのかわからぬが、眺めているうちに異変に気がつく。中で剣を振るう男が焦燥の様を見せている。何故だろう、と考える前に、気がついた。彼の姿が見えにくくなっている。球が縮小をしているのだ。

助けなければ、彼は死ぬ。思った時には体が動いていた。前に出た肉体は自然と鞘から刀を抜き、上段に振りかぶった状態で突撃をしている。なるほど、直前に見た過去は、これを予兆していたのだ。

思考を排除して、感覚を研ぎ澄ます。エネルギーを余すことなく行動へと回すと、丹田に溜まっていた力に気がつく事が出来る。フォーススキル使用可能を示す合図だ。

気付きと瞬きの間に、既に体は数十メートルも進んでいる。上半身より力を解いて、弛緩させる。必要なのは繊細な体捌きではなく、心持ち。己は必ずその現象を起こせるという確信があってこそ、フォーススキルは現に絶大な現象を発揮する。

かつて百を越す草食動物の群れを一刀の元に斬り伏せたブシドーがいた。彼は今の私よりも劣る実力と、はるかに劣る武装しかもちえず、とても三千の獣を倒せるだけの条件など整っていなかった。

しかし、彼は、いや、だからこそ、己の実力以上を必要とする難題に挑める事を喜び、にぃ、と両の口角をあげ、楽しんだのだ。あの時、あの瞬間、彼が魅せた快楽を抑えきれぬ表情は、今でも私の心底に張り付き、褪せぬ指標となっている。

羨ましい、と今でも思う。冒険者になってから、彼を上回る実力を身につけた私は、しかし、一度たりと、百を超える群れを一刀の元に斬り伏せる所業を越す事が出来ていない。

だが、今、その機会が転がり込んできたのだ。眼前に群がる玉虫の軍勢は質こそたいした事ないが、量はあの時を遥かに凌駕する。如何なる理由があればこれ程までの数が集まれるのかは知らぬが、おそらく球中にいる彼が関係しているのだろう。

―――確か、エミヤという名だったか。

心中で最大限の感謝送りつつ、次の瞬間にはそれすら排して、身体の燃料と化す。

あとは数歩。球体は近づく私を脅威と認識したらしく、球外殻の表面に高波が生まれ、羽虫たちは円錐状のトゲとなりつつある。だがその程度、何の問題にもならない。いける。確信は力となり、極限まで研磨された感覚は、私と敵以外の紛たる存在を排除し、世界は窮屈さを無くして光闃たる姿を取り戻す。

身体中が不思議な感覚とともに光になる。体は空のように軽い。これだ。この感覚を求めていたのだ。さあ、いくぞ。今こそ望みの時。眼前に存在する全ての魔物の首を叩き落とし、過去に見た憧れの光景を我が手で再現してみせよう。

「一閃! 」

発声と共にダマスカスの刀身を静かに振り下ろすと、黒白の世界に幾万星霜の赤金色が宙を飛び交い、私を俗界に呼び戻す。数秒後に広がるだろう光景を幻視して満足を得た私は、愚昧にも己が振り下ろした剣の柄を離して、心ごと地面に預けてしまった。

「一閃! 」

誰かの叫びと共に、空中に閃光が走る。赤銅色の線は宙に在った玉虫と混じって深碧色の光景を辺りに広めると、次の瞬間、頭部と胴体の意思疎通を不可とされた羽虫が粛々と落下し、半球のあった場所には翡翠色の村雨が起こる。

―――何事だ。誰の仕業だ。助かったのか。

浮かんでは消える懸念を中断させたのは、落下する幾百万の複眼と目があったからだ。私の体は攻撃を避けた直後の予想外についてこれておらず、硬直してしまっている。

―――非常にまずい。

虫の手足は頭部をもいでもしばらく動き続ける。それはすなわち、億万匹の玉虫の胴体が、うぞうぞと手足を無意味に蠢かせながら落ちてくる事を示していた。

なによりその数がまずい。四、五階程の高さから落ち来る厚さ二メートルの内外殻は、間違いなく小高い丘程も積もり、二メートルに満たないこの体を埋もれさせるだろう。

圧死か、窒息死か。理想に溺れたこの身であるが、蠢く虫共に溺れて無様を晒すのは御免だ。大きく息を吸い込み肺に溜め込むと、覚悟を決めて、落下物の霰に身を飛び込ませる。身体に叩きつけられる虫の身体は豪雨の如く、多分の不快さと共に私の体を流れてゆく。

重い。加えて戦闘の相に変態していた玉虫どもの体は硬く、接触部分が石壁に体当たりをかましたように痛む。手足が聖骸布や繊維の上を刷毛で撫ぜながら落ちて行くので、痛みに加えて、背筋にぞわりとしたむず痒さが混じる。最後に、頭部と同の断面より青臭い汁が身体の其処彼処を染めて肌に張り付き、痛し痒し所に臭気、纏わりつき、不快さが混じった状態になる。

一秒を零で割ったかのような無限大の不快を我慢しながら、数秒ほどかけて虫の霧を抜ける。感覚が途切れた瞬間を頼りに顔を覆う布を取り払うと、赤い世界が目に飛び込んだ。目に痛い筈の赤をなんとも好意的なものに感じる。開放感が着色されたためだろう。

すぐさま視線を下に移すと、足元を落下する虫の死骸が山となり、積もって行くのが映った。あの様子だと、全て死んだか。意識を辺りに配ると、晴れた視界の先、冒険者一行と、藤色の蛇を見つける事ができた。意識的に冒険者達を排除して、いまや眼下となった空中の蛇の方へと注目する。

すると、何者かの攻撃によって配下を全滅させられた女王蛇は、なんとその蛇口の中から金毛の羊が姿を表したではないか。驚いたが、そうして真の姿を晒した彼女が己の身に起こった事の理解に努めているのか、配下の全滅に気を取られているのかしらんが、空中でつんのめったまま停止しているのを見て、これはチャンスだと悟る。

「投影開始/トレース オン」

詠唱と同時に手中へといつもの黒洋弓を生み出す。まだ蛇は動かない。続けざまに、もう一度同じ詠唱をして、一メートルほどの真っ黒い刀身を持つ捻れた外見の剣を生み出した。

刺突に適した中心の芯に幾重にも巻き付けた鉄板の意匠は、貫いた敵の部位を少しでも多く抉り取るためのものである。弓に番えて剣に魔力をこめると、矢となった剣に秘められた力が解放されてゆき、余剰が血の赤となり零れ出た。赤は魔術回路の熱が冷やされた際に現れる赤銅色と混じって、空中に緋色の尾を垂れさせる。

ゆっくりとした跳躍が頂点に達した頃、空中に撒き散らした熱が伝播し覚醒を促したのか、金の羊があたりを見回して冒険者たちを一瞥した。かぶりを振って辺りを見回したのち、柔らかい上顎を見上げさせて、眠たげな細い瞳に驚愕が現れる。

自らの身に迫る脅威を今更悟った所で、もう遅い。十秒程をもかけてチャージした魔力は貴様を射殺すに十分な量を上回っている。此度投影した剣はイングランド叙事詩に登場する英雄、ベオウルフが使用した剣。

銘は―――

「赤原猟犬/フルンディング! 」

叫び、魔弾を射出する。同時に敵が空間より消え去った。落下の最中、つい、と首を動かして視線を上げれば、先より三百メートルほど彼方の後方の空間に姿を現したのが映る。入り口の時、虫どもを転移させたよう、己の不利を知った羊は矢による攻撃を回避するべく転移したのだ、と直感した。

強化した視線は、羊の口元がニヤリと上がるのを捉える。それは思惑が上手くいって勝ち誇っている女の笑みを思い起こさせた。かのようだった。此方の必殺を回避し、仕切り直しに成功したと確信できたのが余程嬉しいのだろう。

―――だが甘い

赤光を纏った矢は音速を超えた速さで敵のいた空間を食い破ると、地面に接触する寸前で、カクンと折れて遠くへ逃げた敵に鏃の先を向けなおすと、再び一直線に羊の元へと突き進む。一度放たれた矢にあるまじき挙動を見せた宝具は、射手が生存する限り、籠められた魔力が空っぽになるまで追跡し続ける特性を持っている。

折れ曲がる異常に気がついた羊は、再び何処かへ姿をくらました。直後、刃は再び奴のいなくなった虚空を通り抜けると、切っ先を羊の転移した先へと姿を転身させて突き進む。曲がった刃の先を目で追うと、四百メートル程離れた位置で、羊は驚いていた。

意趣返しが上手くいった子供のような、気分を抱く。すなわち、ざまあみろ、だ。一度目の転移から距離が落ちた事実から察するに、もう長くは持たないだろう、という予想は的を射ていたようで、十秒としないうちに追いかっこは終了し、放たれた猟犬は獲物を食い破り、脳髄に突き立った刃は頭部から上を消しとばす。

はずだった。

やがて予想外にも蛇の抜け殻が、羊の前に立ち塞がる。まるで身を呈して伴侶を守るようなその姿。蛇の抜け殻の行動に、なぜか羊まで驚いているようだった。

抜け殻に迫る緋色の刃。羊は慌てて己の身をその前に転移させると、直後、二匹の獣は仲良く刃に貫かれて、体の半分を消滅させ、空中より落下してゆく。

―――今回は、一緒にゆけるか
―――ええ、あなた

なぜかそんな幻聴を聞いた。

羊の絶命を見届けると、それでも獲物にしつこく絡みつく剣を消滅させて、自然に任せて落下してゆく。下を眺めれば、動かなくなった玉虫の死骸の山が勝者の私を出迎える。少し後に虫山の中に埋もれるだろう未来を想像して、私は深いため息とともに空目した。

番人の部屋の中にあった、高さ二十メートル程の表面波立つ蠢く緑虫の半球体を見て、私達の思考が停止したのも束の間に、シンが抜刀しながら駆け出した。慌てて皆で追いかけると、次の瞬間には、シンがフォーススキルを発動させていた。疾る一閃は瞬きの間だけ球の緑を深く染めあげて、薄さを取り戻した緑の球が崩れてゆく。瓦解始めの直後、円の中心から赤い男―――多分エミヤという人だろう―――が飛び出した。

跳躍した彼は部屋の半分ほどの高さまで飛び上がると、何処よりか弓と矢を取り出して、一矢を発射する。彼の射た矢は、まっすぐと飛び出して、数度の不自然な角曲がりを見せると、遠くで何か……多分、敵を撃ち抜いた。

使ったのは「一度放った矢の方向を変化させる」スキル……だろうか。聞いたことがないけれど、きっと他の国の職業スキルなのだろう。

敵を葬り去ったエミヤは、地面に落ちてゆく。五十メートルほどの高さから落ちるにしても、落下地点に広がるのは十メートルほど積み上がった虫の死骸の丘なのだから、まぁ、即死はしないだろうが、あの骸の山に全身を埋もれた時の心境を考えると、いっそ死んだ方がましと思わないでもない。自己に置き換えて、少しばかり鳥肌が立つ。

たった三秒ほどで彼は虫の山に落着した。虫の骸が空中に舞って散る。虫の死骸は光を反射して綺麗な雫のようにも見えたが、彼の衝撃を受け止め切れず砕けた虫体の破片が飛散して私の顔を叩いたのを切っ掛けに思い直した。綺麗というか、悲惨だ。

皆で呆然としていると、突如、その死骸のうちより、数匹の玉虫が飛び出した。その中から彼らはボロボロの小さな体に、けれど静かな意思を携えて、宙に浮かんでいる。

「―――下がっていろ、みんな」

刀を地面より抜いたシンが上段に剣を構える。それを見て虫の群れは嬉しそうに上下に震えると、やがて静かに空中で停止した。

緊張が走る。ブシドーと虫の群れは、なぜか武芸者同士の対峙に見えた。二人はそれぞれ口元と、身振りで薄く喜びを交わし合ったかと思うと、瞬時に風となり交錯する。

「ツバメ返し!」

シンが叫んだ。焔をまとった剣が目にも見えない三連続で繰り出される。その刃は同様に虫群が瞬間の間に放った薄緑の三連とぶつかり、火花を散らし、あたりに光をばら撒いた。

やがて瞬間の光が消える頃、虫は全ての体を燃やされて消えてゆく。勝者であるはずのシンの体には、二つの傷跡がついていた。首から血が流れ、右肩当が半分の大きさになって地面に落下する。

―――いやはや、同じ技の撃ち合いに負けるとはな

涼やかな声が迷宮の中に消えてゆく。シンもその幻聴を聞いたのか、とても悔しそうに敵を仕留めた刃の柄を握りしめると、宙に向かって呟いた。

「何を言う。貴方が万全であったなら、負けていたには私の方だ」

誰に向かっての哀悼の言葉かは知らないが、その言葉を笑うかのように、周囲から戦闘の熱が消えていく。やがてその光景と出来事を理解できずに、呆然と周囲を眺めていると、凄惨な死骸の中心からひょいと赤い影が飛び出した。

中央抉れた分端が高くなった周りの壁をこともなげなに飛び越えると、私たちの近くへと着地する。音を殺して地面に降り立つまでの一連の動きは洗練されていて、少し見惚れてしまった。

赤い外套。黒い軽鎧。白髪を刺々しく固め、鷹のような鋭い視線を持つ、浅黒い肌の長身の男性。纏う雰囲気は、シンなどが持つ歴戦の冒険者のそれで、なるほど、彼が一人で番人を倒したといわれても納得の出来るものだった。

「―――、これは君たちの仕業か?」

半信半疑、より、警戒態勢に寄っている問いかけ。虫の全滅という現象を引き起こしたのは私たちかと問う声には刺々しさを多大に含んでおり、一切の油断が感じられない。

「そうだ、私がやったのだ。―――すまない、邪魔をしてしまったか」

寒気すら感じさせる意思がぶつけられる中、シンが平然と一歩前に進み出て言った。邪魔とはどういう事だろうか、と疑問に思ったが、彼の性格から察してにすぐに納得した。彼の戦人としての価値観では、あの場面での手助けは、余計なお世話なのだろう。

「―――いや、そんな事はない。君の行動で硬直していた状況が好転したのは確かだ……そうだな、助かった。礼を言う」

エミヤは帰ってきた言葉が予想外だったのか、戸惑いながらも礼を述べた。

「そうか、それなら良かったよ。エミヤ……で、よかっただろうか」
「……なぜそうだと思った? 」
「何、我らより先に単独で迷宮を攻略しようとする御仁など、一人しか思い浮かばなかっただけだよ。エミヤは、今やエトリアで一番の有名人―――その様子だと、自覚もしているようだが……」
「嫌という程にな」

エミヤは腕を組むと、重苦しいため息をつく。気負いが全て徒労に終わった、と心中から吐く仕草はダリのそれに似ていて、なんとなく理知的な人間なのだろうな、と感じた。

「私の名はシン。ギルド「異邦人」のギルドマスターで、ブシドーだ」
「エミヤ。……アーチャーだ」
「聞かない職だな。だが先ほどの技といい、練度が凄まじい。何処で修練を積まれたのだ?」
「ん……、まぁあちこちを転々としてな。……そういう君の技こそ見事だった。あれだけの数の玉虫を瞬間に葬り去るとは、並みの手際ではない。鮮やかなものだった」
「そうだろう。私も初めてだったが、結果が出て満足だ。そも、あれだけの敵が集まるなどそうはない事であるし、おそらくあの規模に対して「一閃」のスキルを繰り出す機会を得られたのは私が初めてやもしれないからな。いや実にめでたい。こちらこそ礼を言うとも。それに、その後の一騎打ちも心躍るものだった……いや、負けたのは少し悔しいが、とりあえずは生き残れたのだ。実にめでたい」

エミヤは少しばかり困った様子で喜んだり悔しがったり、また喜んだりするシンから目線を外すと、こちらを見た。真っ直ぐにこちらを見る視線には、戸惑いが混ざっている。

「あー、エミヤ。気にする事ないからな。そいつのそれ、正常なんだから」
「……バトルマニア、戦闘狂というわけか、了解した。心中察するよ。手綱を握るのにはさぞかし苦労するだろう。……ええと」
「はは、ありがとう。サガだ、よろしく。ところで察しついでに相談があるんだがいいか」
「……内容次第だが」
「んじゃ、単刀直入に」

サガはニンマリと口角を上げると、階段の方を指差して言った。

「この先多分、樹海磁軸があると思うんだけどさ。俺たちも一緒についてって構わないか?」

腕を組んだ彼はサガの目をじっと見つめた後、少しばかり考えこむ仕草を見せると、シンを見て、こちら含む他のメンバーを見て、答える。

「好きにするといい。その程度で借りを返せるならお安い御用だ」
「よっしゃ、なら話は早い。あんたの素材回収が終了し次第進もう……、こっちも準備を整えておくからさ」

あれよあれよという間に話が決まってしまったが、文句を言うものは誰もいなかった。ダリはエミヤの職を聞いてから顎に手を当てて考え込んでいるし、ピエールも先ほどの戦いか感銘を受けたらしく、目を開いたまま口をぱくぱくと動かして考え込んでいる。シンは何か言いたげな様子だったが、エミヤが賛同したのを見て、何も言わなかった。

「わかった。そうさせてもらおう」

言ってエミヤは己が撃ち落とした敵の方へと向かう。向けられた彼の背は、鬼神の活躍を見せたと思えないほど、普通のものだった。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第六話 蠱毒のさざめき断つ、快刀乱麻の一閃

終了