うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜   第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

 

属性、気質、性格が己と大いに違う相手とぶつかり合う。

つまるところ、大なる変化はその果てにしか現れない。

 

 

人一人を失っても、世界はいつもと変わらないで、気の向くままに寒暖の間を行き来する。家を出ると、今日は機嫌が悪いのか、多少の蒸し暑さを取り戻した街を突っ切ってヘイの道具屋を一人で訪れると、いつもと変わらぬ鈴の音が私を迎え入れてくれた。

 

カランカランと鳴り響く清涼さに招かれる様にして中へと足を踏み入れると、すぐさまその軽快とは相容れない重い地響きが上層階より階下にまで響いて、音とともに奥よりこの店の主人が現れた。

 

「やぁ、響。いらっしゃい」

 

そうして奥より現れたヘイは私を見て、いつもの様な朗らかな笑顔を向けてくれる。

 

「どうもこんにちは」

 

彼の言葉にわたしもいつものようにぺこりと頭を下げて応対する。

 

「珍しいな。嬢ちゃん一人でここに来るのは」

「ええ、そうですね。基本的には両親と一緒か、ギルドの仲間と一緒に来ることばかりでしたから」

 

答えると、彼はしまった、と言う顔をして、けれど、以前私がやった、気にしないでくださいという態度を思い出してくれたのか、すぐさまいつものにこやかさを顔に貼り付けると、再びわたしに問いかけてきた。

 

「それで、何の用だい? こちらで預かっていた分の武器防具の修繕ならもう終えたから、あいつらに返したはずだけど」

「ああ、ええ、はい。その、じつは、例の武器を受け取りに……」

 

おずおずと答えると、ヘイは首を傾げながら言う。

 

「んん? 響、お前さん、シンの刀を引き継いだんじゃあなかったのか? 」

 

シン。さらりと述べられたその名前に胸がちくりと痛む。この痛みこそが未だに自分が彼を事を忘れていないでいられる証しだとしても、やはり未だに違和感を覚えてしまう。ままならないものだ。

 

「ええ。たしかにそうなんですが、ここ数日素材を集める合間でエミヤさんに刀を振る様子を見てもらったところ、あの刀身が太く重量もそこそこある剣を私が振り回すには、まだ力も経験も足りないと言われまして。そこでみんなに相談したところ、この前出来た刀を使えばいいんじゃないかと言う事になりまして」

「ははぁ、なるほど」

 

ヘイは軽く何度も頷いて見せると店の奥に引っ込み、そしてすぐさま戻ってくる。彼の太い手には、すらりと直線の袋麻が握られていた。彼はそれを木の机台に置くと、袋の帯紐を解いてその中身を取り出した。

 

「これが、以前お前さんたちが持ち込んだ虫の薄羽を鋳造、加工して作り上げた品だ。羽の量が大した枚数なかったから小刀になったが、たしかに今のお前になら丁度いいだろう」

 

言ってヘイは小刀をとりだすと、鞘から引き抜いて、布地の上に刀身を置いた。反りは無く、直刃。切る、と言うよりも突く事に特化したような作りの六十センチの刀身は、通常の打刀というより、脇差、ナイフに近いように見えるが、しかし、短くなろうと決して刀身から斬るという機能が失われていない事を主張するかのように、棟区から切っ先までを冷たく輝かせ、その怜悧さと機能美を主張していた。

 

「これがご所望の品だ。銘は「薄緑」とした」

 

言うと、彼は昼間なのにランプの光を用意して、刀身の近くに配置する。すると光の一部を受けた刀身は、七色のうち緑の色だけを選定したかのように地金で反射して、刀身の周囲に綺麗な薄緑色を纏って輝いている。ああ、なるほど由来が一目でわかるいい名前だと思う。

 

私はその誘うような刀身の光の眼差しに吸い込まれるように柄へと手を伸ばすと、手にとって感触を確かめる。

 

「……軽い」

「だろう? しかし、その軽さとは裏腹に、驚くほど良く斬れる。……ちょっとまってろ」

 

いうとヘイは近くにある鍛冶場の炉付近から適当な薄い鉄の塊を持ってきて机の上に置くと、こちらを見て顎を軽く振ってその塊に注意を送るように指示を出す。私は彼の言わんとしている事が理解できて、思わず呟いた。

 

「正気ですか? 」

「力を入れなくていい。軽く押すだけのつもりでやってみな」

 

彼の迷いのない指示に戸惑いを覚えながらも、恐る恐る指示通り塊に刃を当てて、押し込む。すると触れた刃は予想とはまるで異なる動きを見せて、けれど彼の想定通りなのだろう、するりと一体化してゆくかのように刀身が残らず鉄塊の内部に吸い込まれたかと思うと、抵抗というものを忘れたかのようにすとんと落ちて、鉄塊と机との接点までを分断した。

 

あまりの予想外に思わず勢いよく刃から手を離すと、刃はそのまま木製の机に上に柄の部分だけを残して吸い込まれた。ヘイはおいおい、店の備品を壊すなよと笑いながら、剣を机より引き抜いた。そうして現れた刀身には刃毀れも曇りもなく、ランプの光を浴びて先程と全く変わらない姿を晒し続けている。

 

「……すごい」

「だろう? まぁ、なんでも、とは言わないだろうが、少なくともウチで扱っている武器のどれよりも軽く、硬く、そして鋭い。……、入門編の代物として扱うにしちゃ上等すぎるが、そんな素人同然の腕前ながら今後もあの新迷宮深層に潜る嬢ちゃんにはうってつけかもな」

 

ヘイはぼやきながらも薄緑の刀身を鞘に収め、こちらへと押し出した。私はそれをおっかなびっくりながらも手に取ると、鞘を握りしめてその感触を確かめる。羽のように軽すぎて。ともすれば重さすら失ってしまいそうなそれは、シンという男が命を賭して手に入れた品を加工した品だ。その見た目の重さに惑わされて込められた真の重量を忘れないように、ぎゅっと握りしめると、腰のベルト部分に差し込んで、固定してやる。

 

普段は何も詰め込んでいない部分に物を突っ込んだ事で、刀と触れた体の部分が当然のように違和感を主張したが、その感触が刀本来の主人である彼の事を忘れないという決意のように思えて、今は有難いと思う。

 

「ありがたく……、頂いていきます」

「ああ」

 

断言して頭を下げると、彼は短く了承の返事をくれる。その迷いのない断言はヘイが私をシンの後継者として認めてくれているように思えて、私は少しばかり落ち込みかけていた気分を上向きにしてくれた。

 

多少向上した気分を胸に宿すと、もう一度深々と頭を下げて、店から立ち去ろうとする。そうして扉に取り付けられた鈴の音が鳴り響く直前、彼は思い出したかのように机を叩いて、なぁ、と声をかけてくる。

 

振り向いて彼の顔を確認すると、熊のような大柄な体型に似合わない、太い眉をひそめて、口を窄め、優柔不断の顔をしながら、しかしはっきりと聞いてきた。

 

「なぁ、お前さんから見て、エミヤの調子はどうだい? 」

「……、いつもと変わらず、冷静で調子を崩さず、しっかりとした感じで―――」

 

そこまで言って、言い淀む。口籠もりに現れた心中の戸惑いは、エミヤの最近を知らぬのだろうヘイにも、彼の現在の様子を雄弁に伝えたようだった。彼は重苦しくため息をついて、ぼやく。

 

「やっぱり、焦っている感じか」

「……、ええ。理由はわかりませんが、新迷宮の奥へ早く到達してやろうという意思が感じられます。多分、今回私にさっさと助言をくれたのも、それが原因だと思います」

 

付け加えるならエミヤは多分、自分が過去の人間であるという事実が原因で、焦りと迷いを抱いているのだろうと私は思っている。ただ、彼に私の考えが正しいのかどうかを聞いて確かめたわけでない以上、そんな私の勝手な妄想をさも事実であるかのように語るのは失礼だと思ったため、私はそれ以上のことをヘイには語らなかった。

 

「この前、ダリと一緒に犬の頭を持ち込んだ時も、だいぶ思いつめた様子だったからな。多分、シンの事が原因になっているんだとはおもうが―――まぁ、あんまり一人で思いつめないように気を使ってやってくれ」

 

シン。そういえばエミヤも彼がいなくなった事を気にかけていたな、と思い出すと同時に、そうしてエミヤの事を気にするくせに、さらりとシンのことを流すヘイの態度が少しばかり気に食わなくて、つい余計な言葉が口をついて出た。

 

「……、そうですね。誰かさんと違って、あの人、繊細そうですから」

 

言って後悔する。こんなつもりはなかったのに、気にくわないと思うと、すぐにイラっとした感情が言葉へと変換されて心から漏れてしまう。シンのことが話題に出てきて、相手が彼の死を気にしていないという態度を取られると、シンのことを好きだったという感情がすぐさま別の負の感情に転じて、文句となってしまう。

 

そんな己の所業を恥じての葛藤と懊悩と羞恥が顔に出ていたのか、ヘイは私の嫌味を何一つ気にしないという体で、巨体を揺らせて気さくに笑うと、低くしっかりした声で続ける。

 

「まぁ、そうだな。それは間違いなくその通りだ。奴はとてつもなく繊細で臆病で自分に厳しく、だからこそ、強く、そして孤高だ。今のあいつには、まるでお前さんとつるむ前のシンと今のダリの不安定な部分をくっつけたような、両極端な危うさがある。―――だから、まぁ、今の嬢ちゃんも大変かもしれないが、気にかけてやってくれ」

 

いって小さな私に向かって大きな頭を下げるヘイの姿はとてつもなく優しさに溢れていた。同時に、彼もまた、何も言わないがきちんと他人の事を見ていて、それでも他の人が触れて欲しくないと思っている部分に触れないだけの思いやりを持った人物なのと思い知る。それだけに疑問が浮かんだ。なぜ、ヘイという男は、始めから自分で彼に言う事を諦めてしまうのか。

 

「それなら、ヘイがそのままの言葉を思いと一緒に伝えたらいいんじゃないですか? 」

「……俺みたいな年寄りが言っても、真剣みの熱がたりんからなぁ。……もう無理なんだよ。歳をとるとな、ただでさえ体の中から抜け落ちていく熱が拍車をかけてあぶくに消えてくんだ。矜持を定めて、ちょっとでも興味のひくものに必死になって、そうやって色んなことに奮いたてるような努力をしてやっとこさ生まれる熱で自分の平生を保つので精一杯なのさ。……新しい事を試して、いろんな楽しい事をして、一日をいい日にして毎日栄養を与えてしがみついていないと、退屈な昨日を生きたという後悔すら明日の朝には消えちまう。案外辛いもんなんだよなぁ、苦労したってぇのに、その時の苦しみがないのって。気がつくと魂が幸せの中に溶け込んじまわないように、自分を保つので手一杯なんだ。だから苦労してるやつに、何て声をかけていいかよくわかんねぇ」

 

だから無理なんだよ、と小さく言って後ろを向いた彼の背中は、哀愁と自己嫌悪が染み付いた、小さな背中に見えた。過去に色んな出来事があったけれど、出来事によって生じた悲しみや苦しみを気がつくと忘却の彼方に失い続けて、結局直近で一番楽しい事から順にしか思い出せなくなってしまったそんな後悔が、背中には張り付いていた。そして、その後悔すらも、明日には忘れてしまうのだと、彼は経験的に知っているのだ。

 

その背中には、見覚えがあった。そう、あれはつい最近。シンが死んだすぐ後のことだった。そうだ。彼のその縮こまった巨大な背中は、まるで私が泣き叫ぶ部屋から出ていく際のダリの様だと思った。

 

―――、そういえば、彼も大丈夫、明日になれば元に戻るから、と言っていた。だとすればおそらく、彼もまた、ヘイと同じく、悲しいとか苦しいとかの記憶を忘れてしまう事を知っており、受け入れてきた人だと言うのだろうか。……だとしたら私は、知らぬとはいえ、どれだけダリに対して、そしてヘイに対して、失礼な態度を取ってしまったのだろうか。

 

「だからすまねぇ。多分、俺じゃ無理だ。俺じゃ無理なんだよ。だから、頼むよ」

 

言うと彼は拳を両の固く握り締めてこうべを垂れて、両の腕とともに机の上にズシリと乗せた。己の限界を悟り、無力である事を知っているからこその独白は、彼の中に今ある鬱屈を全て吐き出しているのだろうにも関わらず、たしかに彼の言う通り、決意の言葉はどこか軽い様に感じられた。それの実感を伴わないと言う軽妙さがまた、彼の苦しみを生んでいるのだと思うと、なんとも悲惨だと感じてしまう。

 

禿頭目立つ程いい歳をした年老いてさまざまな経験を積んできただろう男性が、自分の半分に満たない年齢の女に向かって、自分では無理だ、と言葉を絞り出すのにどれだけの勇気が必要なのだろうか、どれだけの覚悟が必要なのか、わたしにはさっぱりわからない。多分、性差と年齢差いうものの所為もあるのだろうが、きっと永遠にわからないかもしれないというという予感がした。

 

けれど、きっと彼の悩みの本質と痛みを真に理解する日は来ないかもしれないけれど、その己の感情を正しく制御ができずに苦しんでいるという部分だけは、痛いほどに理解ができた。悪口を正面から受け取り、その上でさらに他人への配慮を忘れないヘイのその態度は、自身の都合を優先にして文句を垂れる己の矮小さに気付かせてくれ、私は萎縮した気分ながらも、しかしはっきりと答えた。

 

「―――、はい、やってみます」

 

未だに自分の中の気持ちですら制御できず持て余す私だけど、それでもエミヤという超然たる存在の彼が、冷静に突っ走れる彼が、己の体を省みることなく無茶や我武者羅を押し通さない様に気を使ってみます、という返事に、ヘイが歓喜と悲痛の混じった複雑な顔で頷いてくれたのを見て、私は店の外へと足を踏み出す。

 

湿気が満ちる街中に降りる晴天の光は、肌に纏わりつく生温さを伴って私の体を包み込み、私が一歩を踏み出す邪魔をする。手に入れた剣の斬れ味をもってしても両断出来そうにない全身を舐める不快な感触は、まるで今後私たちの行く道の困難を暗示しているかのように思えて、私はその不穏を払拭するかのように、虚勢の態度で気味の悪い空気を無理やり引きちぎりながら、我が家への帰路を急いだ。

 

 

シンの死亡した日より一週間の時間が経過した。仲間の無残な死に直面した彼らはしかし、彼の死亡した次の日から早々に新迷宮で活動を行うための準備を始め、前回三層に潜った時の装備の修繕と新たな道具の用意を終えて再び石碑の前までやってきた。

 

本来なら彼の死に多大なショックを受けていたサガという青年と、響という少女あたりは、戦意喪失や精神的外傷によりトラウマを抱えてもおかしくないと思っていたが、まるで何事もなかったかのような振る舞いを見せることに、一週間という時の中で死という出来事の処理を終えたことに一抹の寂しさを覚えてしまうのは、やはり旧世界の人間の感傷なのだろうか。

 

―――いかんな、なんと傲慢な考えだ

 

勝手に他人の心中を推し量り判断を下した無礼を心中で詫びながら、私は探索の準備を終えたギルド「異邦人」の四人と合流を果たして正式に合同パーティーを組み、共同で新迷宮の入り口より新迷宮の三層番人階へと転移を行う。

 

石碑を触り場所をイメージすると、すぐさま体の浮かび上がる感触がしたかと思うと、次の瞬間には体を強く押され、赤く染め上げられた迷宮の中へと私の体は移動させられる。後ろを振り向いてみれば樹海磁軸とは異なる色合いで青く屹立する柱は、響という少女が一時的に設置した携帯磁軸という転移装置だ。

 

携帯磁軸とは、樹海磁軸とはまた別の、ツールマスターという職業のみが迷宮に設置することのできるもので、迷宮の任意の場所を転移の先に設定できる優れた道具だ。これのおかげで私たちは余計な往復や戦闘をすることなく迷宮内部を進み、私たちはすぐに番人の部屋の前までたどり着くことが出来るというわけである。

 

但し、この携帯磁軸という道具は、樹海磁軸とは異なり、敵味方の区別なくあらゆる物を運んでしまうため、設置の場所を厳密に定められており、また、設置した際には、その場所を守る専用の衛兵を執政院から借りて配備する必要がある。

 

維持と設置に多くのコストを必要とする携帯磁軸はおいそれと設置することができないものではあるが、迷宮という危険と未知なる魔物の闊歩する場所において、探索開始地点を、決まった階層にしか設置されていない樹海磁軸前ではなく、各階の階段前にする事ができるそれは、余計な探索にて生じるリスクを避ける道具として、ある程度以上の実力を持つギルドは必ずといっていいほど利用されている。

 

そんな便利を利用して、私たちはこの度迷宮の十五階へと転移すると、すぐさま目的地の前までとやってくる。目の前にあるのは、新迷宮の番人の部屋の前に共通して存在する、遠目にもすぐさまわかる白く巨大な壁とそれに備え付けられた二枚の扉とその横に伸びる壁。

 

ゆうに高度百メートルはあろうかという天井までを塞ぐ壁は、圧倒的な威圧感をもってしてここより先が足を踏み入れてはならない禁足地である事を雄弁に告げ、迷宮の奥へと進もうとする人間の意思をぐらつかせる確かな効果を持っているように見受けられた。

 

私は首だけ振り向かせて、後ろに続いている一同の様子を眺める。この先で彼らは仲間を失った。この先にある番人の部屋は、彼らにとって忌まわしき場所であるはずだ。悲しみを溜め込めない世界とはいえ、流石にこの場所を前にすれば多少の動揺くらいは見せるかもしれない。

 

もしそこで一人でも動揺があったのならば、それを理由に私一人で先行するか、もしくはその人間を追い返して平生保つ人間のみで進むか、あるいは揃って引き返す事を提案しようと思っての確認作業だったわけだが、幸か不幸か、その行為は杞憂のうちに終わった。

 

彼らのうち誰一人として心折れている人間がいなかった。そのいつもと変わりない様子に頼もしさを感じると共に、やはり少しばかり、不安を抱く。彼の死からそんなに時間も経過していないのに、仲間の死という出来事に対して何の心理的ダメージを抱いていない彼らは、やはり自分とは違う生き物なのではないか。

 

そこまで考えて、しつこく浮かんだ考えを振り払う。そんな彼らの性質に不安を感じたのは、やはりおそらく私が彼らと違う時を生きた人間である、ということを端に発するのだろう。価値観の違いから、勝手に自己と他者の間に壁を作るなど、我ながらなんとも度し難い狭量さだ。

 

たとえ負の感情を溜め込めないというバックボーンがあろうと、その切り替えの早さと胆力は、一歩踏み外せば死が隣り合わせに存在するこの迷宮という場所を攻略するに当たって長所となり得るものであり、賞賛に値するものだ。そういった個人の感性の違いに基づく気質性質のあれこれは、決して己の尺度だけで善し悪しを判断していいものではない。

 

「開けるぞ」

 

ただそれでも、負の感情を溜め込まない、というのはここまで人間の性質を変えるものなのかと我が感性の内より勝手に湧き出てくる驚きは止められず、心中に湧いた傲慢さと狭量を誤魔化すかのように、私は力強く宣言した。

 

一同が頷くのを見て、私は扉の前まで進み、二枚扉の両方を押して開ける。巨大な二つの扉は一度奥へ壁と水平な向きのまま進み、そして部屋の内側に向かって開かれてゆく。

 

樹木が自由闊達な意思を露わにして乱立する赤い林は、以前訪れた時と同じような静けさで私たちを出迎えた。一歩を踏み出す。踵と靴先が湿った地面に埋もれて、ずむずむと水気を含む音を生む。静寂の空気を戸惑わせぬよう、一歩、もう一歩、と周囲を密に警戒しながら前に進むも、以前とは違い、刺すような殺気が、周囲を取り囲むまとわりつく視線がない。

 

確証はないが、新迷宮三層の番人はやはり、その一層、二層と同じように、倒してしまえば復活しないのだろう。これも聖杯戦争とサーヴァントをモチーフにしているからなのだろうか。

 

ともあれ、あれだけの苦戦を強いられた相手が復活していたのならば、シンという男がいない事を勘定に入れると、最悪、こちらも私の持つ真の切り札/宝具を最初から使用する事も視野に入れなければならないかと思っていたため、まずはその予想が外れてくれたことに一息漏らす。少しばかり気負いが薄れ、心理的重圧が軽くなった。

 

多少軽くなった気分の中、しかし警戒を解かず静々と前に進む。私に遅れて、後ろから四人は一丸となって前進してくる気配。多少気分の軽くなった私と違って、彼らの足音からは緊張の気配が伺えた。疑問はしかし、すぐに納得に変わった。もうすぐ彼の亡くなった場所だ。

 

まっすぐと奥へと進む。あと少し進めば、光が差し込んで視界が一気に開け、番人が座していた石とひらけた空間が見えるだろう。そんなおり、周囲の光景が変わった事に反応して意識を下へと向けてやると、周囲に赤く光る珊瑚や、微かに発光している海藻やキノコが一切生えていない、掘り返したばかりのような真新しさ残る地面が広がっている事に気がつく。

 

多少地形の変わったとはいえ因縁深きその場所を、私はもちろん、彼らも当然忘れてはいなかったのだろう。背後で彼らが足を止める気配を感じ取り、同じように立ち止まって彼らに視線を向けると、ダリが言った。

 

「エミヤ、少しだけ待っていてくれ」

 

背の高い彼が向ける赤銅の瞳には、なんと返事を返されようと、己はここでやるべき事をやるという意思が宿っていた。ダリは装備していた槍盾を地面に突き立てて、リュックを下ろそうとしていた。そうして彼が背負うリュックにはいつもと違うものが入っているのを見かけて、私は無言で頷く。

 

「ありがとう」

 

彼は深々と頭を下げると、体の前に持ってきたリュックの中から小さな白い花を取り出して、その地面に置いた。続けて瓶を取り出すと、栓を抜いて中身をその場所に振りまく。散った透明な液体は空気に触れると、少しばかり無念さを帯びたまま地面に落下して、土と触れた瞬間、液体は微かな光だけを放って赤色の中に吸い込まれてゆく。

 

後で知ったのだが、彼が衛兵として活動していた際、五層で入手した素材を使用して作られたネクタルⅱという名の、瀕死の重傷でもたちどころに快癒するという薬であり、今の時代滅多に手に入らないもであったらしい。

 

噂によれば死人すら蘇らせるとうそぶかれる、今後の冒険において瀕死の重症者が出た時に役立つだろうそれを、彼は一切惜しむことなく効果を発揮しない地面に振りまき、しかしその行為に対して文句を言う者はいなかった。

 

その現象の発露から、おそらくネクタル系列であろうと誰もが悟っていながら、いや、その効力とダリの意図を悟ったからこそ、誰一人として文句を言うものはいなかった。

 

ダリの所作を見た一同は、そのままその場所で瞼を閉じて、黙祷を捧げる。しばしの沈黙が辺りの静寂と一体化して、落ち着きのない色で囲まれた場を清浄なものへと変化させた。

 

「あの時、これがあればな……」

 

一番先に目を開けたダリは、ため息とともに後悔の言葉を吐き出した。つられて皆が垂れていた頭をあげる。戦闘と探索の空気が薄れるのを恐れて、私はわざと空気を読まず、通る声で短く呼びかけた。

 

「―――いこう」

 

一同は各々が抱く未練をそれぞれに断ち切るかの様に頷く。振り返って歩を進めると、皆が荷物を背負い直して私の後に続くのがわかった。静寂な森の中で聞こえて来るのは、私たちの足音と風が葉を揺らす音のみ。やがて番人がいた場所を超え、その先にある階段を下り、私たちは悲劇の起こった場所を通り過ぎて新迷宮の四層と呼ばれる場所へとたどり着いた。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十六階「神に運命を翻弄されし赤子」

 

 

新迷宮の四層は翠緑に溢れた一層、原始の生命力が漲る二層、海中の息吹を感じさせる三層とは一転して、生命の気配を感じさせない構造をしていた。赤い土埃が空気中を舞い、光が散乱を余儀なくされた輝度の落ちた場所において、一際目を引くのは赤の空間を貫いて屹立する樹木だ。

 

地面より長く伸びた樹木はどれだけの年月をかけて成長したのであろうか、見上げれば赤い霧霞に曇った視界の更に先、百メートルはあろうかという天井にまで到達する大きさのそれは、十人が輪になっても囲みきれない幹に、目算十数メートルはあろうかという巨大な赤い琥珀がその幹の所々に精製されている。

 

三層の海底よりさらに地の底、深海の光すら届かぬその場所を無理やり掘り抜いて作り上げたかのように、生命の気配が枯れ果てた地獄のごとき空間において、地より天に向かって身を捩らせながら樹木が屹立し必死に天井を支えている様は、まるでパルテノンの重厚な石天井を支える巨大な石柱のそれにも幻視できて、私に、この冥界のような層に出てくる敵が何の英霊をモチーフにして再構成されたものであるかを、容易に想像させてくれた。

 

―――ヘラクレス

 

花霞というよりは逆しまな玄冬を思わせる、紅錦の礫が粉雪の如く舞い、そうして敷き詰められた薄布の向こう側に、碧羅の大地が荒涼と広がる様は、なるほど、狂いの枷を嵌め込まれながらも裡に秘めた苛烈な激情を厳と制し、確かな意志を以ってして森林の奥の居城に住まう可憐なお姫様を守らんと命を賭した、偉大な巨漢の大英雄を表すに相応しい荘厳さと峻烈さと静寂さを同時に内包していた。

 

「あ、ここは少し違うんですね」

「……、なに? 」

 

ギリシャ神話において最も著名な、かつての聖杯戦争においても強敵として立ち塞がった、あの半神半人の大英雄が再び私の行く手を阻むのかと、早々にして多少の鬱屈と億劫を抱いた瞬間、響が漏らした彼女の方を振り向く。彼女は己の漏らした言葉に対して私がいち早く反応したことに少し驚いた所を見せたが、すぐに冷静さを取り戻して、首を小さく傾げた。

 

「何でしょうか? 」

「ああ、いや、違う、とはどういう事なのだろうかと思ってね」

 

尋ねると彼女は、ああ、と掌を叩き合わせて答える。

 

「あそこのですね。あの、太い木の根の赤い塊あるじゃないですか」

「……琥珀の事か? 」

「はいはい、多分それです。あれ、旧迷宮の方では樹液の塊なんですよ。それなのにこっちじゃなんか固まってるなーて、思って。今までの一から三層は色が赤である以外は全く変わらなかったのに、ここは少し違うんだなって思って」

「―――そうなのか」

「はい、でも」

 

それがどうしたのでしょうか、と彼女いう風には首を傾げた。私はただの興味本位だ、と言って誤魔化すと、再び彼女が指摘した部分を眺めた。……、樹木にはまっているのはどう見ても、赤い琥珀のようだった。

 

私は眼球に強化を施してその物体を眺めるが、やはり表面に流動性はなく、粘性があるようにも見受けられない。枯れ木にも見えるほど生気を失った樹木の幹にはまり込んでいるのは、じっくり眺めたところで、やはり流動性はまるでなく、年月をかけて精製された琥珀のようにしか見えなかった。

 

奴にじくりと侵食された証が残る赤い場所において、まるで時を幾億年も加速した後、ピタリと停止させたかのように動きを止めているその琥珀は、あちらとこちらの迷宮で異なる様相の証明に他ならず、魔のモノというものがなんらかの意図をもってしてこの場所を作り上げたのだろうと思わせる効果を持っていた。

 

―――ともあれ敵の領域に長居は無用か

 

「少し急ごう」

 

宣言の後歩みの速度を早めると、一同が反応して頷き、私の後に続く。私は後ろの彼らがついてこれるよう歩く速度を調整しながら、神殿の内部のごとき枯れた森の中を突き進む。一歩踏み出すごとに無抵抗に道を譲ってくれる空気中の粉礫が醸し出す雰囲気は、罠を仕掛けた猟師の殺気にも似ていて、何とも不穏な気配を六感へと訴えてきた。

 

 

うざい赤煙が舞う中を飛び交って、鋼の翼と爪と嘴を持つ鳥が飛来する。目にも見えない速さで飛んでくる鳥の嘴はとんでもない威力を持っている上に、躱そうが防ごうがねちっこく攻撃を繰り返し、また、よくわからない音がなったかと思うと、いきなり地面に斬撃の跡が残るような攻撃を飛ばしてくる。敵の攻撃手段は突撃か見えない斬撃かのたったの二つ。でもこの二つの攻撃がとてつもなく厄介だ。

 

突進はスキルを使ったダリの盾でないと防げない程の威力を持っている。ダリが盾で器用に敵の攻撃を逸らして突撃の方向を地面に逸らしてやった時、これで身動きが止まるだろうと思ったんだけど、地面に奴の嘴が吸い込まれたかと思った直後、地面にすくっと穴が空いて、すぐに少し先の地面から奴は平然と出てきた。まぁ、便利。こりゃ、一匹いれば工事や掘削する時に困らないね、ってか?

 

―――勘弁してくれ。

 

「―――おわっ」

 

愚痴っている間にも一撃が繰り出される。我ながら俊敏な反応と同時に、金属音と地面が擦れる音。ピエールのスキルで回避能力を上げてもらっていなければ、ダリの盾が俺を庇ってしてくれていなければ、俺はこの場で風通しの良い体となって死んでいただろう。

 

そうやってなんとかそいつの攻撃を死ぬ気で躱しても、防いでもらっても、鳥はすぐさま宙で体勢を立て直して、同じように突っ込んでくるのだ。少しくらい休ませろよ、疲れたそぶりを見せろよ。

 

―――ほんと、やな性格の奴だ。

 

もう一個のよくわからない攻撃はそうして攻撃を躱している際、気がつくと食らっている。切り傷っぽいし、多分すれ違う際、爪とか羽とかの鋭いもので攻撃されてるんだろう。こっちはダリでなくとも俺やピエール、響が装備しているような軽鎧の防具でも防ぐことはできるんだけど、なにせ攻撃が見えないもんだから、本当に対処がしにくい。

 

奴らの突撃をギリギリで躱すと生身の部分に傷が増えてるんだから、たまったもんじゃない。多少の怪我は自己治癒と響の回復薬でなんとかできるけど、今後シンの時みたいに万が一が起こるかもって考えると、大盤振る舞いは避けておきたい。

 

―――お前がいたら、こんなことにはならなかったかもなぁ

 

もしそのシンが生きていたなら、やつとすれ違いざまに首を切りつけるくらいの事はやってのけたかもしれない。などと考えると、少し胸が痛んだ。なんというか、喉元まで出かかっているのに言葉が出ない、くしゃみが出てくれない感じの悪さというか、そんな感じだ。

 

あいつがいなくなった、ということに対するどうこうじゃなくて、あって当然だったものがいつのまにかない物悲しさというか、いや、いなくなったから当然なんだが……。

 

―――ああもうわからん。

 

適当を信条とする俺がこんな感傷を抱くなんて、昔ならともかく、今の俺らしくもない。

 

「おいおい、まじか」

 

なんてそんな悠長な事を考えている間に、飛び回る五体の敵が一斉にこっちを向いたのがわかる。やめろよ、お前らに好かれても全く嬉しくないんですけど。ただでさえ太れないちっこい体なのに、物理的な減量を強いるなんて、お前らマジ鬼畜だな。

 

などと悪態つく間にも敵は行動を開始していて、すでに宙を羽ばたいて勢いをつけている最中だ。あれを防ぐにゃ、ダリのパリングかフォーススキル「完全防御」じゃないと無理だな。

 

でも、ダリのパリングは物理攻撃に万能だけど肝心のダリがあんなに早い奴らの連撃に対応できる程反射神経良くないし、素早くもない。完全防御なら耐えられるだろうけど、フォーススキルを使えるほどまだ力が溜まってないはずだ。

 

―――……あれ、詰んでね?

 

一縷の希望を託すかのように周囲を見渡すと、事態を把握してダリが駆け寄ってくるのが見えたが、その顔にはどうしょうもない不吉の未来を予想して絶望していることがわかる。ああ、お前もおんなじ結論に達したんだな。いや、しょうがないよ。だって、無理だもん。

 

敵の強さがあまりに尋常じゃない。空を飛び回る発生するような旧迷宮の四層までの敵ならFOEだろうが番人だろうが、ワイバーンという一体の化け物を除いて簡単に倒せる俺たちですら、あんな速さと硬さとしつこさを持った敵とは戦った事がない。

 

さて、どうすると思ったが、よく考えれば今まで俊敏に飛び回っている時はその攻撃を避けるに必死で、術式を当てるどころか発動を試みるのすら無理だったけど、敵の全部がこっちにまっすぐ突っ込んできてくれている今なら、発動するどころか当てるのも簡単じゃん、と思いなおし、咄嗟に籠手を展開する。

 

もはや千回以上は行っただろう慣れた作業は、敵が動きを見せる寸前のたった一瞬でその挙動を終えてくれて、素早い奴よりもさらに上の速度で術式を発動する事ができていた。さて、こういう硬い外殻を持つ奴には雷が効くと俺の経験では相場が決まっている。少なくとも旧迷宮ではそうだった。

 

籠手の先に雷球が生まれ、放電の光が周囲に走る。放電した雷が空気中の塵芥と反応して、火花を生んだ。とりあえず雷なら金属に向かって吸い込まれるだろうし、飛び込んでくるやつに向けて撃つのであれば、外れるということもないだろう。これを食らって一匹でも死ぬか、あるいは食らった奴が多少なりとも体勢を崩してくれれば、儲けものだ。あとはダリがなんとかしてくれるだろうと期待しておこう。

 

「大雷嵐の術式! 」

 

籠手は俺の意思を読み取って生み出した雷を周囲に拡散させ、あたりは光の網目が張り巡らされる。ちなみにこの攻撃は、俺たちの武器や体を外れて飛んでくれるようにしてあるので、味方には安心安全の雷撃網だ。敵味方を選別する為、俺たちの周囲に一瞬だけ待機してみせた雷は、すぐさま敵を見つけてそちらの方へと腕を伸ばす。

 

バリバリと音を立てながら伸ばされる手は五本。敵は目の前に現れた雷に驚いたのか、少しだけ躊躇して見せたけど、そのまま突っ込んでいく。

 

―――お、これなら一匹と言わず、全部始末できるかも。

 

「……はぁ? 」

 

なんて甘い考えは、早々に打ち破られた。敵はなんと、雷を嘴で弾きながら突っ込んでくるではないか。いや、効かないのかよ。じゃあなんでお前は驚いてみせたんだよ。インチキ過ぎんだろ、この嘘つきめ。なんて愚痴っている間にも敵は迫っている。

 

―――ああ、こりゃ死んだな

 

遺言でも捻り出すかと我ながら録でもないことを考えていると、横からなんかが飛んできて、敵の体を貫いて方向を別に向けてくれた。進行方向を強制、かつ、急激に曲げられた敵たちは飛来物の強制に逆らうことができずに、枯レ森の彼方に吹っ飛んでいく。

 

その中の、一体だけが手近にあった樹木の幹にぶつかって動きを止めた。悲鳴と共に、樹木に鳥が縫い付けられる。そうして俺は、ようやく飛来した物体の正体を知ることができた。それは矢だった。多くの返しがついた矢が敵の体内に食い込んでいる。

 

助かった、なんてと考えることもできずに呆然と敵の体を眺めていると、弓矢の刺さった場所から煙が上がったかと思うと、その肉体がドロドロと煙を立てながらとろけてゆく。あ、これ見覚えがある。三層で響が無茶やった時にすごい仰天した、蛇から抽出した毒の効能だ。

 

どうやらこの雷すら弾く外殻がクソ硬くすばしっこい敵は、反面、体内が繊細な作りの様で、内部に毒を打ち込まれると即死する、三層の犬と同じ体の作りをしていたらしい。まぁ、特化したタイプの敵の宿命だな。それにしてもこの飛び回る敵のクソ硬い外殻を見事に当てて、その上貫くなんて一撃を放つ芸当ができるのは―――

 

「間に合ったか」

 

―――このパーティー内では一人しかいないか

 

言って登場したのは、弓を持ったエミヤだ。エミヤの後ろ腰、バッグと反対の方には、矢筒に数十本の矢が入っている。しかし直前までは無手だったと思ったけど、あの弓と矢は一体どこから出したのだろうとか、もしかしてあの毒塗った矢を飛ばしたのかよ、よく弓も矢も溶けなかったな、毒液飛び散らない? とか、色々な疑問が湧いたけど、まずは。

 

「助かったー! ありがと! 」

 

飛び上がってわざとらしいくらいの笑顔で礼を言う。すると、エミヤは警戒を解かないまま静かに頷いた。返答には驚くほど感情が伴っていなくて、まだ敵が死んだのを確認できていないから警戒を解く訳にはゆかないという決意が見て取れた。うーん、ダリ以上に真面目なやっちゃ。

 

「それにしても、よくもまぁ、こんなん思いついたし、やってのけたな。普通考えないし、できないぜ? あんな馬鹿速いのが攻撃する瞬間、毒矢を当てて仕留めようなんてさ」

 

ふとそんな事を言うと、エミヤは少しばかりバツが悪そうな顔をして、まぁな、と答えた。はて、褒めたつもりだったが、何かまずいことでも言ったのだろうか。うーん、わからない。この手のダリと同じタイプの人間は成果を褒められると喜ぶものだと思ったが、違ったかー、残念。

 

「ダリとピエールもあんがとなー、助かったよ」

 

続けて二人に礼を言うと、息を切らしたダリはそれでも盾を掲げて。相変わらず落ち着いた様子のピエールは竪琴を鳴らして、素直に礼を受け取った合図を返してくる。渋々と呆れの成分を含んでいるが、うん、これが普通の反応だよなぁ。

 

―――……ま、いいか

 

「エミヤ。戦いは終わったと思っていいのか? 」

「多分な。目の前の鳥があの様なザマになったのだ。おそらくは毒矢を突き刺した他の四匹も同様の結果になっただろう。皆中の上、確実に奴らの胴体を貫いてやったからな」

 

答える顔にはやはり感情がなくて、残心というものが解かれていない。戦闘終了と言いながらも、警戒を解いていないのが丸わかりだ。少しばかり過剰すぎる気もするが、まぁ、今こいつはこの合同パーティー唯一の物理アタッカーだし、色々と気負って、気を張ってしまっているのだろう。ダリと同じで糞真面目なタイプっぽいし、きっとそうだ。ならこっちとしては出来るだけ、いつも通りに振舞って、慣れてくれるのを待つしかないよな。

 

「あいよー、……というわけで響、あれ、剥ぎ取りよろしく」

 

俺はダリとピエールの間に響を見つけると、両手で指差した先にある樹木の下には、エミヤが撃って毒殺した敵の残骸が転がっているそれを指差した。肉の部分は大半が残らず溶けてなくなってしまっているので、無事に残っているのは鋼っぽい素材だった、翼と爪と嘴のみだ。

 

「あ、はい、わかりました」

 

響はその指示を聞いて素直にそちらへと向かった。うん、自分で言っといてなんだけど、胆力あるなぁ。俺なら少なくともあんな、ぐちょぐちょで、べちょべちょで、うにょんうにょんの赤い塊、とてもじゃないけど触る気にならないよ。グロいし、なにより毒かかってるし。

 

「彼女だけに任せて大丈夫なのかね? 」

 

エミヤが尋ねてくる。その顔には、少女一人に解体の重労働を任せるのは如何なものかという非難の声が浮かんでいた。

 

―――ああ、そういえば、こいつが加入してから初めての剥ぎ取りだったっけか。

 

「むしろ、響だけのがいいんだよ。あれは響が一番の活躍ができる場面だからさ」

「……、なるほど、彼女は道具の扱いと素材の取り扱いを専門とする職業だったな」

 

返すとエミヤは脳内の記録から、響の職業の特徴を引き出したらしく、何度も頷いて納得の反応を返してきた。戦闘が終わった直度にサッと切り替えて思い出せるあたり、さすがは手練れの人間だと思う。俺はいらぬ世話かなと思いながらも、一応の補足を付け加える。

 

「ツールマスター。迷宮に行く機会も多いから、一応戦えない事もないように戦闘や探索のスキルも習得出来るようになっているけど、本当はああいった冒険者の持ち帰った素材の解体とか、道具の力を引き出していいもの作ったりするのが専門なんだよなー、あの子」

「ほう、その様な職業の女性が、なぜまた、冒険者に? 」

「その辺は事情があるんだよ。俺からは言えねぇ。知りたきゃあの子に直接聞いてくれ」

 

ひらひらと手を振って話を打ち切ろうとすると、エミヤは真面目な顔で頷いた。

 

「なんだよ」

「いや、軽薄な言動だが、中々に他人の事を考えているのだな、と思ってね」

「……あれあれ、もしかして、馬鹿にされてる? 」

「まさか。私の見る目が曇っていた故、反省せねばならんなという自省さ」

 

その自嘲は、エミヤが今まで俺のことを軽薄で考えなしに見ていたと告げる言葉だったけど、別にそんなに腹は立たなかった。昔から、失敗した時の雰囲気に耐えられず茶化すことで場を和ませてきた俺にとって、自覚のある悪癖の点だったからだ。

 

「まぁ、いいや。じゃ、とりあえず響の回収が終わるまで、情報整理しとこうぜ」

 

そういって俺が筆と墨、紙を取り出すと、エミヤも続けて腰のバッグから同じものを取り出す。俺たちは揃ってダリとピエールに近づくと、先ほど戦った敵の特徴などを話し合う。

 

会談する中でエミヤという男は、今さっき相対した敵の特徴のほとんど全てを正確に言い当てた。一番驚いたのは、やはり毒が鳥に有効と一目で見抜いて実行した点だ。一体どのようにして敵の弱点を見抜いたのだろうか。うーん、エミヤは相変わらず謎が多い。

 

もしかしたらクーマのいう、過去の人間というのも本当で、その知識に基づくものなのかもなぁ。もう少し、ばかり時間にゆとりがあったら色々と突っ込んだ所を質問して仲良くなれるかもだけど、ああまで切羽詰まった様子のあいつには聞きにくいし、まぁ、そのうち話してくれるのを待っていればいいか。

 

 

「エミヤ、ところで、君、その武器はどうやって取り出したんだ?」

 

今更といえば今更すぎる質問をすると、彼は弓を持った手を下ろし、反対側の手で少し躊躇いがちに口元を覆い考え込む。そうして少しの間逡巡して見せると、言った。

 

「どうやって、というのは説明しづらいな……、そうだな、質問を返す形で悪いが、君たちは、君たちがスキルと呼ぶ力が、どういった一連の流れでその現象を引き起こすのかを知っているか? 」

 

私は返答に困った。スキルはなんとなくで使える便利なもの、と言う感覚で使用していたので、どういった仕組みであるかなど考えたこともなかった。助けを求めるかのように眉をひそめて周囲を見渡すと、唯一サガだけがニヤニヤとした表情でこちらを見ているのがわかった。

 

あれはおそらく、いつもなら嬉々として知識を披露する私がすぐに返答をしない事から、私が知らぬ事を見抜いて、尋ねてくるのを待っているのだ。普段色々と気を使っている反動か、奴は所々の部分でこうした意趣返しを行うことがある。私は知らぬは恥でないと言い聞かせながら、おそらくはサガの思惑通り、奴に尋ねる。

 

「……、サガ、わかるか? 」

「おおとも。万物の神秘を解き明かし、あらゆる力の流れを自在に操るのがアルケミストの役目でありますれば、当然わかりますとも。……ダリ、スキルの始動から発動までの一連の流れはよく店の酒の注文に例えて説明される。俺らが酒、すなわちスキルを発動したいと考えると、その注文内容は瞬間的にその女将へと伝わって、受付から内容に応じた酒の種類と量が俺たちの元へと寄越される。この時、俺たちがどのくらいの酒量を頼めるかは、財布の中身、つまりは精神力によって決定されるし、どんな種類を頼めるかは個人のアルコール耐性、つまりは職業によって左右されるし、どのくらい度数の酒を頼めるか、つまりはスキルレベルは、院への貢献度によって上下幅があるってわけだ―――こんな感じだろ? エミヤ」

 

サガはニヤリとして彼に尋ねる。エミヤは少しの逡巡の後、やがて咀嚼し終えたのか数度軽く頷き、小柄なサガの顔の方を向いて納得したと言わんばかりに深く一度頷いた。

 

「そうだな。―――、そう、おそらくはその通りだ。いや、驚いたよ。まさかその様な喩えで返ってくるとは思わなんだ」

「なにぃ? やっぱりお前も俺を侮ってた口かぁ? 」

 

サガが不服そうに、態とらしく口を窄めて文句を述べる。エミヤはその大業の態度に苦笑しながら手を横に振ると言う。

 

「いや、違う。ああ、いや、そうだな。まさかその様な比喩の答えが広まっているとは思っていなかったんだ。なんというか、川の流れや大海のそれに例えられると思ってばかりいた……、ああ、しかし、そうか、そういえば、ここはそういう土地だったか。なるほど、そうだとすれば、より身近な物でわかりやすく例えられるのが自然というものか。言うなれば、冒険者の多くを侮っていた形になるかもしれん」

「……よくわからんが、エミヤ、お前、ピエールみてぇにいい性格してんな」

 

一人勝手に納得して見せたエミヤに対してサガは呆れた表情を返すが、当の本人は悪びれる事もなく、手の平をひらひらと振りながら嘲りに似た鼻息を一つもらすと、こちらを向いてニヤリと笑ってみせて、口を開こうとする。

 

多分彼にしてみればそれは別に相手を見下す意図を持たない自然の反応なのだろうが、その自嘲にも似た前置きの態度が妙に板についていて、私はなんとなく、彼という人間は私に似て、他者の評価などをどうでもいいと思っている点があるのかもしれないと思った。

 

「ダリ。先ほどのサガの例えに倣うなら、私も君たちと同様に、女将に酒を注文する事で剣や弓矢、盾を生み出している。ただ、その注文方式や、注文の発注先が君たちと同じ場所ではないのだ。そうだな、言ってみれば、店の中で出前の注文している様なものだ。そうやって私は「私の世界」に注文を出す事で、様々なものを取り出していると言うわけだ」

「ふぅん、なるほどね? 」

 

サガが生返事を返す。私は何も返事ができずに、ただ首を傾げるばかりだった。エミヤは多分彼なりに気を使ってサガの話になぞらえてくれたのだろうが、結局どうやって剣を生み出しているのか、どこから剣を生み出しているのか、という問いの具体的な答えになっていない。流れでなく仕組みを知りたかったわけだが、その理屈屋の彼らしくないあやふやな答え方から、私は、多分彼はこの辺りの話題をはぐらかしたいのだなと直感した。

 

「まぁ、ようは、気にすんな、ってことさ。同じような理屈で俺もこいつも戦闘出来てるんだし、だったら別に誰がどんな原理でどんなスキルで戦おうが、どーでもいい事だろ? 」

 

そんなエミヤの気持ちを私同様汲み取ったのだろう、サガが言う。

 

「まぁ、そうなのかもしれんが……、いや、ああまで見事に、剣、弓、盾を状況に応じて使い分けるのだ。他にもどんな事が出来るのか知っておいた方が、戦術が組み立てやすいと思ってな」

 

そこまで言って、ついこの間の話し合いのことを思い出す。本来なら協力者となった時点でそういった能力などを明かし合い、戦術を組み直すのが冒険者としては普通なのだが、

 

―――手札を全て明かしてもいいが、やれる事が多すぎて語りきれん。それにダリ。君はいざという時にやれる選択肢が多いと、どれを選んでいいか分からず混乱するタイプだろう? 出来る事を一々語り、無駄に選択肢を増やして君や君たちを混乱させるよりも、状況に応じて私が適切な対応をしたほうがスマートだ。なに、損はさせないさ―――

 

などと、実力差を盾にした上でのこちらを思っての提案なのだと言われては反論のしようもなく、特に己の欠点を槍玉にあげられた私は、強くでられなかったというわけだ。

 

とはいえ、いざ戦闘に直面すると、予想以上に彼はなんでも出来る事に気付かされる。少しでも足手まといにならず、その背中に追いつくために、だからこそ出来る事ならこの場で彼の戦闘手段を少しでも知っておきたかったのだが―――

 

「……、そうだな、まぁ、そのうちな」

 

彼はそれだけ言うと、再び口を閉ざし、何も語ってくれようとはしなかった。やはり未だに実力差のある私達を信頼しきれていないのだろう。その頑なさに私は何も聞ける事がなくなって、そのまま彼とは閉口の関係を保つ事となる。

 

その理屈屋で頑としていて、他人の都合に左右されず己の意見を貫くあたりから、おそらくやはりは、彼という人間は私に近いのだろうと感じ取る。

 

何かきっかけがあったのならば、もう少し何か話せるかもしれないが、おそらく今の彼の様子から察するに、それが余程の事情でない限り、話してはくれないだろう。その頑なさにまるで鏡を見ているかのような気分を味わった私は、ふと考える。

 

―――しかし、私と言うものは、周囲からすると、こうも扱いづらい人間だったのか

 

そうして同一視する事は彼にとって失礼と思いながらも己と同じような性質を持つ人間を前に、私は響が解体作業を終えるまでの間、これまでの所業を振り返り己の未熟と傲慢さを反省するという、彼にとって無礼となる行いを止めることは出来なかった。

 

 

ダリとサガ、そしてエミヤのやり取りを見て、私はひどく複雑な思いを抱いていました。多少硬くはありましたが、和気藹々とする彼らの様子がかつてシンが生きていた頃を思い出させたからです。かつては、シンが聞き、ダリが答え、サガがそのサポートをするという役割を、今では、ダリ、エミヤ、サガが、そのままバトンを受け継いでいました。

 

以前のダリは秘密主義なところがあり、己の事を語りたがらないところがありましたが、おそらくその秘密とは、第五層についてのあれこれだったのでしょう、以前のクーマとの会談にてその事を隠さなくても良くなったことによって、彼は以前よりもずっと素直な人間になりました。おそらくその内、もっと素直になりも、明朗になり、付き合いやすい人間になることでしょう。

 

サガは……、まぁ、良くも悪くも変わっている様には見えません。あれだけ懐いていた相手が消えたのですからだいぶ影響があるだろうと考えていたのですが、誤算でした。その変化のなさは、いい意味、とも悪い意味、とも今のところは言えません。まぁ、要注意、程度でしょうかね。

 

問題は―――

 

「素材の回収が終わりました」

「ご苦労様」

 

響とエミヤの二人でしょうか。

 

まず響です。素材を持って戻ってきた彼女の顔には、三人のやり取りを見てシンの生きていた頃の光景を思い出したのか、当時を懐かしみながらも、彼の欠如に悲しみを抱く、郷愁哀悼無常の入り混じった、複雑な表情が浮かんでいます。

 

この世界において悲しみの感情を記憶と共に抱え続ける為には、喜びの感情と共に抱え続けなければいけないとはいえ、結果、歓喜と相反する思いから生じる、えもいえぬ矛盾の苦しみを抱えたまま常日頃を過ごさねばならず、しかも、その心苦しさを処理することもできないという、まるで凪いだ海の上でただひたすら小舟にのって耐えざるをえないでいるような行き場のない痛み、わたしにはよくわかります。

 

このままでは彼女もわたしの如くに、処理しきれない感情の発露から物事を素直に受け取る事が出来なくなり、鬱屈とした思いから性格が捻じ曲がって行き、皮肉という形で悲哀を発散する事の出来ない歪みを表に出すようになってしまうようかもしれません。

 

ああ、吟遊詩人として多くの悲劇を収集し、知らぬ人の悲しみを抱え込んできましたが、直近味わった、近しい人の死の悲哀が齎す苦痛は格別でした。多少の苦痛なら刺激にもなるのですが、あの破滅的な苦痛は、とても刺激と呼べるものではありませんでした。

 

あれは痛苦の烙印そのものです。心に焼印として傷を与えられてしまったが最後、常にじくじくと痛み続ける熱情を抱えて生きる事を強いられるのです。私はもうこれ以上、あの親しい知人が死んだ際の引き裂かれる思いを味わいたいとも、増やしたいとも思いません。

 

吟遊詩人としてそのような生き方を覚悟した私ならともかく、シンという男がその思いを託したまだ多くの部分に無垢色を残す白百合が、手折られ、摘み取られ、悲劇色に染め上がってゆく様など見たくはありません。これは早急に対策を考える必要がありますね。

 

「どの程度回収できた? 」

「金属骨格の部分だけです。それ以外は全部溶けちゃってました」

「了解だ。では、先を急ごうか」

 

また、エミヤの方も問題です。平然と強敵を屠って見せる彼は、未だに実力の底も、隠している過去の秘密も、その全てを隠し通そうとしたまま新迷宮を攻略してやろうといい気概に満ちていて、誰も彼も信頼していない節があります。

 

信じて用任するが、信じて頼りはしない。己の能力が抜きん出ている事を知っているから一人でなんでも解決しようとして、そしてその通りにやり遂げてしまう。

 

その傲慢ながらも、しかしそれに見合った実力を持つ様は、まるでエミヤの活躍を知る前までのシンを見ているかのようです。何でもかんでも出来てしまう分、あらゆる事象を自分で処理してしまおうとして全てを抱え込み、気が付かぬうちに許容量を超えてしまう。

 

本人は気付いているのかいないのか知りませんが、側から見れば、彼の有り様はまるで風船を用いて肝試しをしているかのようです。幸いなことに、本人の問題処理能力が高い故に未だ破裂には至っていませんが、不幸なことに、本人の処理能力が優秀すぎる上、心身の耐久力も高すぎる故に、彼自身、破裂の限界がどこにあるのかを知らないように見受けられます。

 

しかして、そうして能力の高い彼にとっても、現在抱えている新迷宮の踏破という目的は、彼にとって処理の分水嶺を超えた望みであることは、彼が無意識のうちに発する焦燥感から読み取ることができます。

 

そうやって結果を求めて生き急ぐのは彼の性分のようですし、他人であるわたしにはその生き方にどうこう文句をつける権利はありませんが、そうして結果を急いて求めた結果、シンのように死なれてしまっては、なんとも目覚めが悪い事になります。

 

とはいえ今すぐにその点を指摘したところで、聞かせたところで、彼は先ほどのように誤魔化してしまうでしょう。あるいは、優秀な彼の事ですから、己の中に焦燥がある事を指摘すれば自覚し、一時は歩みを緩めてくれるかもしれません。

 

ですが、その後すぐに歩幅を戻して注意を促した周囲どころか己すらも誤魔化す振る舞いをするようになる可能性が高い。いえ、きっとそうなるでしょう。だからまだ話せない。

 

そう、まだ彼の内面に踏み込む為には、私たちは彼と過ごした時間が少なすぎ、共に積み重ねた経験が少なすぎます。まだ。そう、まだダメです。焦ってはなりません。交渉を切り出す際は、適切でもっとも効果的な時を狙わないといけません。とはいえ遅すぎてもいけない。

 

―――もし、彼の内面にもっと踏み込む事の出来る存在がいれば、あるいは、もう少しじっくりと仲良くなる時間があれば、我々の関係も違ったものになったかもしれない

 

そう思うと、残念でなりません。このまま互いを知らぬままの関係を保った状態で新迷宮を進んでいると、必ずどこかで歪な状態で信に命を預け合っている代償を払う羽目になる可能性が高い。すると結末は歪みを保ってきた代償としては死という代価を求めてくるかもしれません。

 

しかしまだ希望はあります。彼は新迷宮の四層だろうと出現する魔物を歯牙にかけないほどの実力を持ち合わせていますし、少なくとも四層の番人の部屋に到達するまで、生死に関わる自体は起きないでしょう。実力的な面で言えば、おそらく、番人の待ち受ける部屋までは安全を保てる可能性が高い。

 

が、反面、時間的な余裕はありません。この調子で行けば、あと数週間もしないうちに迷宮四層最奥まで辿り着いてしまう事でしょう。彼の実力と我々の協力があれば、それは全くたやすい事であることは自明です。

 

―――さて、ではそれまでの間になんとか彼と親交を深められる出来事が起こってくれる事を祈りましょうか。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十七階「剛勇無双を発揮した青春の日々」

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十八階「狂気の代償を支払うべく神託を求めた朱夏の日」

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十九階「神与え給うた苦難を歩んだ白秋の道」

 

 

これで四度目の遠征。

 

広く空を覆う、赤い天井。どのくらいの高さなのか、その天井までその身を捻らせながら伸びる樹木は、色さえ無視してしまえば、旧迷宮の四層、枯レ森と変わらない。

 

そう、天井より落ちてくる砂がどこかから入り込んでくる光を反射してキラキラとひかる光景も、グネグネと歪んだ渇いた砂の地面も、その地面に生える刺々しい植物も、そのあまりの太さ故に幹が途中で己の成長を支えきれず折れてしまった樹木も、まるで一緒。

 

ここはまるで、旧迷宮の四層を完全にそのまま持ってきて着色の度合いだけを変えたかのような景色。そんな中、光彩の差異を除けば、違うのは、二点。一つは、樹木の幹より漏れ出していた樹液が、琥珀という物質に変わっている事。もう一つは、出現する魔物が、旧迷宮の四層のとは比べものにならないくらい、強い魔物に変化した事だ。

 

旧四層に出現する魔物のうち、火炎ネズミは、斬撃も刺突も打撃も一切効かない、巨大な猫の化け物に。ゴールドホーンは、とんでもない素早さで逃げ回るように。ブラックボアは元々の数回りは大きくなり、スナトビデメキンは素早く飛び回る鳥に、ヒュージモアは四足の馬になっていた。

 

後ろの二体は種族が違うのだから、変化というのは正しくないのだろうけれど、倒した後の体を解体すると、内部の作り、つまりは体組織から、血液の色、内部臓器、その他構造までがとてもよく似通っていて、そうとしか表現できないのだ。

 

「――――――! 」

 

しかしそんな、四層の魔物が可愛く見えるほどの強さを持った魔物たちは今、私たちの編み出した戦術によって次々と死に絶えてゆく。巨大な猫の化け物は、大きく口を開いた瞬間を狙ってサガが炎の術式をぶち込むことで、窒息死させる事ができる。

 

大猪はその巨体での体当たりをダリがパリングで防いだ次の瞬間、エミヤがさくりと切り捨てて終わりだし、素早く飛び回る鳥はエミヤが毒を塗った矢で撃ち落として終わりだし、馬と牛はその細い足を折るだけで地面に倒れこんで行動不能になるから論外だ。

 

「よーし、いいぞー、やっちまえー、エミヤー」

「気楽に言ってくれる……」

 

ちなみに、これらの魔物の対処法を見出したのは、今こうしてサガに気楽な掛け声を投げかけられた男、エミヤだ。彼はこの未知だった魔物の特性を見抜き、すぐさま臨機応変に見事な応対を編み出しては惜しみなく教えてくれたので、私たちは大した労力を費やすこともなく、魔物を難なく撃破する事ができているのだ。

 

今回の敵は、多分メディーサツリーと呼ばれる植物の魔物が変化したのだろう奴だ。元が樹木の形をした魔物だったそいつは、胴体にあった人の顔が牛の顔になった上で三つになり、頭部から生えた腕が六つに増え、沢山あった根の足が減って六つだけになっていた。

 

また、頭部にあった髪の毛の先に生えていた石化をもたらす四つの目は失せていたけれど、代わりに元々は樹木であったため炎が弱点であった特性が消えていて、ついでに炎どころか氷も雷も効かないようになり、驚くほどの俊敏性と腕力、回復力をも備えるようになっていた。

 

けれど。

 

「ほら、敵さんこちらっと」

 

それでもサガのこの余裕。サガはニヤニヤと意地の悪い顔を浮かべながら、数度無効化された経験から効かないことを承知なんだろうけど、雷を放つ。機械仕掛けの籠手により威力を強化された雷は、三つの顔を持つ敵の、その一つの顔面を見事に捉えて包み込む。直撃の瞬間、元メデューサツリーの体からは少しばかり火花が散り、側雷撃が近くの樹木を貫通する。

 

やがて雷光が晴れて敵が上げた顔は、やはり予想通り、まったく傷が付いていない。代わりに見えたのは、怒りに眼を輝かせた様子だ。そいつはサガの方を見ると、攻撃の対象をエミヤからサガへと変えて、そして怒りに任せたまま、突進する。

 

「おっと、予想通り」

「任せろ、パリング! 」

 

サガめがけて繰り出された巨体の前にダリが躍り出た。掛け声とともに生み出された物理攻撃の威力を完全に遮断する膜がダリの構えた盾の前に出現し、ダリは巨体の突進を事もなさげに受け止めた。ダリの前に現れた光の壁が役目を薄れてゆく。

 

「響! 」

「あ、はい。縺れ糸」

 

エミヤの指示で私は足用の縺れ糸を使う。私が敵めがけてぶん投げた糸は、ダリの盾の前の壁が消える前にシュルシュルと形を崩していくと、敵の足に巻きつき、その足を絡めとる。敵はその六本足を絡め取られて、窮屈さから解き放たれようと、必死の抵抗をしてみせた。

 

その抵抗や激しく、縺れ糸は数秒も持たないだろうことは簡単に見て取れたけれど、それで十分だ。少なくともこれで、その数秒は先の突進は使えないし、それどころか動くことすらままならないはず。一応、六本の腕と口から吐き出される石化のブレスはまだ脅威で危険だけれど、そんなもの近寄らなければいいだけの話だ。

 

「よくやった」

 

そうして少し離れた場所から聞こえる賞賛の言葉を投げつけてきたエミヤは、すでに矢を弓に番えていた。ああ、終わったな、と直感。彼がその弓を取り出すその時は、一度だって外す事なく敵を打ち貫き、見事に敵を仕留めてきた。だからもうあとは、彼がその矢を離してしまえば、この戦いもおしまいなのだろうと私は確信した。

 

「そしてさらばだ」

 

ヒュン、と風切り音がしたかと思うと、赤の霧を切り裂いてエミヤの矢が敵の頭部を貫通した。一層の蛇から取れた毒を加工して作った毒を塗った矢の一撃は敵の顔面が引っ付いた胴体に見事な穴を開け、続けて音も重なるほどの直後に放たれた第二射が胸の心臓があっただろうあたりを突き抜けていく。

 

頭部と胸を矢によって破壊された敵は、そのさらに直後、傷跡から毒が巡って全身が融解してゆく。驚くほど有効に働いた毒の効力により、赤の埃が舞う中に、樹木と毒が混じった化粧水がばら撒かれて、その敵は瞬時に背丈を縮めさせられていた。

 

これでもう戦闘終了だ。正直、ここまで一方的だと、謎の罪悪感が湧いて、必死にこちらを仕留めようと襲いかかってくる的に哀れの感情を抱いてしまうほどの一方的さだった。

 

とはいえ一応、常にどんな敵でもこんな風に簡単に仕留められるというわけではなくて、例えば、金色の鹿はこちらの姿を見かけた瞬間、目にも止まらない速度で私たちから逃げていってしまうから未だに倒せていないし、今みたいに初見のやつ相手だと多少手間取る……事もある。

 

でも、言っても、多少手間取るだけで、結局簡単に倒せてしまうのだ。

 

「さて、これで手仕舞いか」

 

これだ。この強さ。正直、私の援護などなくとも、彼はきっと同じように敵を打ち貫いていただろうと私は確信する。別に私の道具がなくても、ダリの防御がなくても、サガの援護がなくても、彼は間違いなく、同じように敵を仕留めてしまうだろう。多分、彼は同行者である私たちに気を使って、一人で簡単に敵を倒し切らないようにしてくれているのだ。

 

直接的な援護が必要ないというのなら、今後、彼の役に立てそうなのは、彼の身体能力を引き上げることのできるピエールだけだ。ああいやでも、そういえば、前回の戦いではダリがいなければ死んでいただろうから、彼もきっと必要とされている。

 

そしてようよう考えてみれば、ここまでの戦いの中で、サガが気を逸らしたからこそ、その隙に彼が敵を楽に仕留められた場面も多々あった。つまりはサガもエミヤに必要な人員として捉えられているのだろう。

 

しかし、三人とは違って、自分だけはそうでない。

 

先の場面を思い返せばそれは明らかだ。先ほども、ダリが敵の足を止めた時点で、こちらに指示をする暇があれば、彼ならその間隙を使って弓と矢で敵を仕留めることが出来たはずなのだ。それが意味するところはとどのつまりは、私は多分、出番がないという事で僻んだりする事のないようにとのお情けとお零れにて、活躍の機会を与えられただけに過ぎないのだろう。

 

頼りにされていない。お荷物扱いだ。そういう風にされる理由は、己自身の未熟さを以ってして、嫌という程理解できている。そうして早く己の未熟を理解できるのは優秀の証ではなくて、私はここ数週間の間、迷宮に潜らない間、暇さえあれば彼の元を訪ねて、彼の鍛錬に付き合わせてもらっている経験に基づくものだ。

 

シンが最後に私に託した、最期の願い。刀を三竜に突き立てて欲しいという彼の遺言に導かれるようにして、あの日以来、私は暇さえあれば剣を振るうようになった。エミヤのアドバイスで刀より剣に生まれ変わった、この二振りの刀を、だ。

 

使うなら折れた方をメインに鋳造しなおすがいい。刀は鍔の一センチ程の部分が弱い。素人が遠心力に頼って振り回すと、大抵そこから折れる。鋳型に流し込んで刀身の強度を均一に造りあげる西洋剣の方が負担は少ないだろう。そんなアドバイスをもらって以降、助言通りの両刃の剣として生まれ変わった彼の剣「カムイランケタム」を、「薄緑」と共に振るう。

 

シンが最後につげたアドバイスの通りに体を動かし、背筋を伸ばし、毎日毎日、剣を振る。そんな努力の結果として、この四度の遠征までの数週間の時の経過の最中で、私は己でも驚くほど上手く剣を振るえるようになっていた。無茶の証に潰れた血マメはすっかり固くなって、タコにまでなっている。

 

そしてなるほど、やはりシンの見込んでくれた通り、わたしには剣の才能があったようで、やればやるほどうちにその剣筋は鋭くなっていくのを実感できた。それでもまだ、彼らには、彼には届かない。届かない。どれだけ振るっても、わたしはシンのいう、シン以上の剣を振るう私になれる気がしない。

 

私がシンから受け継いだ剣の二振りを、どうにか交互に持ち替えながら振り下ろして動きを叩き込んでいる傍ら、エミヤという男は、文字通り目にも霞む速度で腕を脚を動かして、地を蹴り、宙を舞い、仮想の強敵との戦いに勤しんでいる。

 

その上で、彼はこちらの様子を完全に無視しているわけでなく、時折、私の修行がうまくいかない時には助言をくれたりするのだ。彼は己の内面の世界に敵を生み、思考内で強敵との苛烈な戦いをこなしながらも、周囲に意識を飛ばして俯瞰する事をやってのけるのだ。

 

そんな日々を過ごすうちに、私は彼の中に、シンという男の真っ直ぐさとダリという男の冷徹を見つけて、きっと彼はヘイの懸念したような、感情と理性の暴走を起こさないのではないだろうかと思うようになっていた。

 

こう言ってはヘイや歳を経た人に失礼かもしれないが、エミヤという男は、この世界における誰よりも精神が老成していると感じられる。彼はきっともう既に人として完成しているのだ。

 

多分彼は、おそらくは誰よりも色々な経験をして、多くの人々の完成形を知っているからこそ、未熟な私に適切な情けをかけてくれいて、無意識のうちに成長の機会を与えてくれているのだろうと思う。

 

加えて、己の益は全くないのに訓練を見守ってくれているのは、シンという男との約束があるからというのもあるのだろう。そういう、冷静な表面と冷徹を基本とする基本態度とは裏腹に、情に厚い部分と義理堅さがエミヤという男にはある。

 

その心遣いはありがたい事だと思う。思うけれど、ただ、不安と不満がないわけではない。そんな優しくも優秀な彼が私をこの旅路に同行させてくれている理由が、別に自分の能力が必要だからではなく、私が可哀想だから、連れていってもらえているのだと思うと、その必要のされていないという境遇が、かつて赤死病の噂が広まっていた頃の自分と重なり、正直、結構辛い。

 

迷宮は彼らがいれば、エミヤとあの三人がいればきっと迷宮は攻略されるだろう。そう、彼がいればきっと、シンの最期の願いだって叶えさせてもらえるだろう。シンの最期の願い。彼の剣を、強敵に突き立てて欲しいという願い。そう、それだって、彼の手に託してしまえば、間違いなく叶えてもらえるだろう。

 

死者の最期の思いを叶えてやる。それはきっととても喜ばしい事だ。でも、別に私の協力や努力がなくてもそれが達成されると思うと、胸が千切れるほどに痛い。私なんかいなくとも、そうやって彼の願いを成し遂げられてしまうだろうという事が、私にとってなにより辛い。

 

シンの最期の願いが叶う事は嬉しい事のはずなのに、それが私なしでも成し遂げられる事だと思うと、願いなんて叶って欲しくないと思ってしまう。この矛盾した感情をどう処理すればいいのだろうか。それとも、このわけのわからない感情は、やがてシンや両親を失った後のように、消えていってしまうのだろうか。

 

それは嫌だな、と思う。彼のことを思い出すと、胸が痛むけれど、同時に湧き出てくる暖かい気持ちが、それは嫌だと主張する。でもどうすればいいかわからない。わからない。わからない。シンが死んだ時から、あの日から、私の目的は最下層の番人に刃を突き立てる事だけだった。彼の代わりに刃を。

 

―――君ならば、私以上に剣を振るえるようになれる

 

―――本当に? なら、それはいつ?

 

ああ、なんでシンは、私なんかに願いを残していってしまったのだろうか。なんで。剣を代わりに突き立てて欲しいと私に頼んだのは本心だったのだろうか。もしや、もっとも近くにいたから、今際の際に口をついてそんな言葉が出ただけなのではないだろうか。

 

そんな風に思う自分がすごく嫌だった。結局私は、私の事情でばかり悩んでいる。それがすごく醜く見えて、嫌だった。醜悪な疑念の答えを求めて過去の彼に問うても、過去の記憶となってしまった彼は、当然のように何も答えてはくれない。

 

「おーい、響―、何してるんだよー、解体―」

「あ、はーい、いま行きます」

 

もう少し悩む時間があれば、あるいは、私が役に立てるような場面があれば、私もこの気持ちに決着をつける事ができたのかもしれないが、ともあれこんな所で、こんな時に、無い物ねだりをしても仕方ない。

 

どうしてシンが私に剣を託したのか、とか、ヘイがエミヤに対して心配している気配りは無用のものではないか、という疑念などの問題はひとまず置いておいて、私は今この時、私を必要としてくれる人の元へ向かう。

 

私はそうして腰から解体用のナイフを取り出すと、必要とされた役目を果たすべく、融解してほとんど残っていない敵の体へと刃を突き立てた。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第十九階「十二の試練に挑んだ白秋の道」

 

 

ここまでに出来上がった地図を広げ、印をつけた部分を見る。FOEと刻まれた印の端には獅子に鹿、大猪に鳥、多数の牛、馬とゲリュオンと牡牛の文字が刻まれている。それはこれまでに現れた魔獣どもの外見と名前である。

 

これで八。その中で、鹿はその雷の如き速度についていけないため、捨て置いた。伝承によれば一年の時がかかるというアレを追ってまで捕縛するメリットがあるとも思えないので、一旦は保留。八引く一は七。

 

つまりはこれまでの四つのフロアで討伐できた魔獣の数は、七。十二から七を引くと、五。ならばおそらく、残りの二フロアには五つの試練、すなわち、五種類の魔獣が待ち受けているのだろう。

 

討伐できていないのは鹿、ヒュドラにアマゾネス、ラドンケルベロス。鹿はその速度での撹乱、ヒュドラは毒と再生能力、アマゾネスは数が脅威として、ラドンは炎と百の頭、ケルベロスは……はてさて、厄介な特徴はなんだったか。

 

過去の記憶より伝承を引っ張り出してきては、思い出してため息を吐く。残っている連中はどれも一筋縄ではいかない奴らばかりだ。不幸中ながらも幸いなのは、この新迷宮という場所は、五人という人数で攻略を行なっている場合、敵は最大で五体までしか同時に現れない事か。

 

どうやらこれは旧迷宮と共通するルールのようで、雑魚だろうが番人だろうが関係なくこの法則に縛られるらしい。唯一の例外はあの玉虫どもだが、まぁ、ルール破りはあの魔女の得意とする所だし、ひとまず置いておく。

 

ともあれ、この法則のおかげで、三千頭いるとされる牛どもや、湿地帯を覆うほど存在したとされる鳥たちと、真正面から戦う事なくすんでいるわけであるが、とすればもしや、今後、先の思い浮かべた五つの試練が同時に襲いかかってきたりする事態もあり得るのだろうか。

 

ああ、それは是が非でも勘弁してもらいたい。半神半人のギリシャの英雄と違い、私は正真正銘、元々はただの一般人なのだ。あの大英雄ヘラクレスですら一つ一つに苦戦した試練を五つも同時に受ける羽目になるだなんて、考えたくもない。

 

しかし、言峰か魔のモノ、どちらの思惑なのかは知らないが、なぜこんな悪趣味なものを作り上げたのだ。そう、こんな、第五次聖杯戦争に呼び出された参加者と関連の深い魔物や動物に、出典を同一とする第五次サーヴァントの能力を埋め込んで、迷宮内に出現するモンスターとして採用するという迷宮などを。

 

 

さて、改めて思い返せば、一層のあの巨大な石化を自在に操る蛇の魔物が、同様に、第五次聖杯戦争にライダーのクラスで呼び出されたメデューサの能力と似た外見と、因縁ある姿をしている事に気がつける。

 

二層の番人は虫を自在に操り転移と復活まで自在に操る、空を飛ぶ蛇であった。転移、復活、蛇、とくれば、思い浮かぶのは、セネカのメディアだ。

 

メディア。復活や蛇遣いの魔術を巧みに用いるほどの腕前から、ギリシャ神話において魔女と呼ばれたコルキスの王女たる彼女は、第五次聖杯戦争においてキャスターのクラスで呼び出され、手合わせした折りには、彼女は自身を自在に空間転移させる術を持っていた。

 

転移という偉業もさながら、空を飛んでいた事も、蛇の抜け殻を纏っていた事も、二人の息子をイアソンの眼前で殺害し、空へと逃げる際に戦車を引かせた蛇の存在を想起させる。二層の番人は、第五次聖杯戦争に呼び出された彼女と共通点を持っていたのだ。

 

また、同時に現れた玉虫の正体にも大雑把ながら予測は立ててある。おそらくあれは、イレギュラー的にアサシンとして呼び出された「佐々木小次郎」の代理なのだろう。

 

佐々木小次郎という英雄の伝承より生じる魔物はいないはずで、その生涯において関係するのは、宮本武蔵や鐘巻自斎、伊藤一刀斎といった人間たちであり、魔物や動物と同行したという伝承は耳にした記憶に覚えがない。

 

ただ、江戸初期時代に活躍した伝承がある事と、第五次聖杯戦争においてメディアに操られていた事実から察するに、恐らくは、あの本丸への守りを担当する門番の役目を強いられていた雅な玉虫こそが、風雅を愛する彼だったのだろうと考えた訳だ。

 

彼があの姿を取ったのは、あるいは彼の生きた時代と場所において、虫という存在こそが最も身近な脅威であったからかもしれない。私は目撃できなかったが、最期に一騎打ちを所望したという態度も、あの飄々とした侍の在り方を思えば、とてもらしい最期と思える。

 

ともあれこれで三体。

 

そして、第三層。あそこに現れた魔物は、犬、猪、牛と言った、同じく第五次聖杯戦争にランサーとして呼び出されたアイルランドの大英雄、クーフーリンに因縁深き魔物であった。

 

また、三層の番人たる猛犬が、非常に好戦的かつ、体に傷を負っても倒れず、己の死など知らぬといわんばかりに、苛烈な攻撃を仕掛けるその継戦能力に優れた雄々しい姿は、なんとも腹の中身をブチまけようと倒れずに最期の時を迎えた彼らしい生き汚い様であり、加えて最期として放った一撃は、クーフーリンの持つ呪いの魔槍ゲイボルクの「投げれば三十の鏃となって降り注ぎ、つけば三十の棘となって破裂する」特性と似通っていた。

 

奴の吐いた捨て台詞という決定打もあるし、言峰綺礼という男の言もある。間違いない。この新迷宮においては、第五次時聖杯戦争に呼び出されたサーヴァントの能力を持った、五次のサーヴァントと関係のある魔物、動物が、番人として、あるいは迷宮を彷徨う魔物として呼び出されているのだと確信した。

 

その法則に則って考えれば、あとは簡単な話だった。残るは四層と五層だけ。第五次聖杯戦争に呼び出された英霊のうち、私を除外すれば、残る英雄は、二人。すなわち、セイバーとして呼ばれた「キング・アーサー」と、バーサーカーとして呼び出された「ヘラクレス」だ。

 

そうして挑んだ四層は果たして予想通り、片割れのヘラクレスをモチーフにした魔物が襲いかかってきている。これまでの傾向とあの大英雄の生涯を考えるに、ヘラクレスの層では十二の試練と関連した魔物が出てくるのだろうという予想もまた的中し、それ故に私は記憶の中のギリシャ神話より情報を引き出す事で、容易に対処ができているという訳だ。

 

さて、幸いというか、不幸にもというか、これまでに出てきた魔物は、どれも伝承の中では彼が難なく葬り去った魔物ばかりで、あまり歯ごたえのない魔物ばかりであった。

 

だからこそこうして我々は、大した被害もなくこの十九階という奥地までスムーズにやってこられたわけであるが、そうして楽を堪能したと言う事実は、つまりこれ以降の番人のいる階までおいて、神話の大英雄が挑み特に苦戦した五つの試練を一気に乗り越えねばならないということを意味している。

 

あの大英雄が助力を求め、他の英雄と共になんとか踏破した試練を、五つ。それも、同時に出現するという事態もありうるという予想は、先を急ぐ私をなんとも心底億劫にさせる、懸念の種となっていた。

 

 

一度大きく息を吸って、吐く。悩み事の成分を大いに含んだ吐息は、空気中に散乱する赤い霧と反応して、一部の空気を濃く染めた後、地面へと落ちてゆく。いっそ、この吐息の行方のように、私も落ちて溶けて地面に吸い込まれ、その成分が地面を貫通してくれるのであれば、試練とやらを受けなくてもすむのだろうか、と非現実的な考えが浮かぶ。

 

―――は、試練を前にして臆病風に吹かれるとは、なんとも凡人らしい悩みだな

 

ともあれ今は探索中だ。こんなくだらぬ現実逃避をしている場合ではないと思い直して頭を振って考えを振り払おうと試みるが、湧き出た不安は過敏に神経を刺激して、私を余計に疲れさせる。あと五つも大英雄が苦戦した試練が残るという状況は、私をとても憂鬱な精神状態に陥らせていた。

 

神経昂り、無駄な消極的思考に走りたがる己の頭を戒めるべくもう一度頭を振ると、唇を軽く噛んでやる。すると硬い歯を破れんばかりに押し付けられた薄い皮膚と肉が鋭い痛みを訴え、私の頭で空想の中に散らばった意識を現実へと引き戻してくれる。

 

そして私は再び意識を外側へと拡散し、索敵と警戒を行う。未だに試練は現れる気配を見せない。安堵と不安が混ざったため息を漏らす。

 

―――しかし、死と隣り合わせの場所にいながら、随分と悠長に事を考えるようになった

 

油断の証とも言えるその余裕は、少なくともこの迷宮に一人で初めて潜入した際にはなかったものだ。果たしてこの余裕は、私が常に気を配り、常駐戦場を心がける事が出来なくなったほど弱くなった証なのか、それとも―――

 

―――多少なりと誰かを信じて、人に頼る事を覚えた証なのだろうか

 

ちらりと目線を後ろの四人に送る。彼らはこの命の危機と隣り合わせの赤き異界において、初めて踏み入れた場所に出現する敵の特性を知っていると豪語する私の言を素直に信用し、そして無邪気に受け入れ、肩肘を張る事なく、しかし密に索敵を行いながら私についてくる。

 

彼らは私に詳しく過去を尋ねない。彼らは人を無闇に疑わない。そう、彼らが正体を明かそうとしない私に寄せるのは、赤子が親に向けるような、無垢で透明な信頼だ。その、あまりよく知りもしない他人に全ての判断を、己の命を含む判断をも手放しに預けてしまう甘さは、まるでかつての未熟な己を見ているようで少しこそばゆい気持ちを抱かせる。

 

かつての私であったなら、その無邪気さを未熟と断言して忠告していただろう。その甘さは命取りになるといって、彼らを諌めていただろう。だがむしろ今は、そうして信を預けられている事を頼られている証と考え、心地よいとすら感じている。

 

考えてみれば、大した戦闘力を持たぬものばかりだったとはいえ、あの大英雄の試練をこうもやすやすと七つも踏破できたのは、ひとえに己以外の存在が私の後ろを守ってくれるという、安心感あってのものだ。彼らの存在は、今や迷宮探索に欠かせない存在ともなっている。

 

そう思うと七つの試練だろうが、負けて彼らを死なせるわけにはいかないという思いが湧いて出た。赤死病という広まる死病を消すため知らぬ誰かのために戦う、という抽象的な願いより始まった他人の為に戦いたいという思いは、守るべき誰かの具体例を得た事で濃度を増し、決意と覚悟を新たに褌を締め直そうと思わせる効力を持っていた。

 

最悪、切り札/私自身の宝具の使用も視野に入れながら、私は再び意識を外側に集中する。宙を舞う赤の粒子が一塊になって牡丹雪の如く地面に落ちて消えてゆく様は、最近整頓され露わになりつつある胸の裡にて思い返される過去の記憶の行方と重なって、妙な既視感を覚えさせられた。

 

 

「それではお疲れ様です」

「ああ、ではまた」

 

ぺこりと頭を下げて去ってゆく響を見送って、踵を返す。頭をあげて天を見上げれば、朱夏の匂いが息づく夜空は蒸し暑さを持って私の視線に返事を返してきた。過去を懐かしんでむせ返るには少しばかり足りない熱と湿度を全身で受け止めながら、帰路を緩やかに進む。

 

「―――ただいま」

 

言い慣れなかった台詞を、ようやく歯の浮く思いをせずに繰り出せるようになったそんな場所へ、足を踏み入れる。しかし、常なら対となる言葉を返してくれる相手はいつも通りに受付におらず、人気のない宿屋はその役目とは裏腹の静寂を返事として返すばかりだった。

 

「――――――? 」

 

いや、よく耳をすませてみれば、宿の奥、食堂の方から二人分の声が聞こえてくる。私という異物を受け入れて以来、久しく客を受け入れていないというそこから声が聞こえてくることに不思議の念を抱きながらも、私はか細い音に招かれるようにして歩を進める。

 

「―――はい、その通りです」

「そう……やっとなのね」

 

近寄るに連れて、意識せずとも会話が耳朶に飛び込んでくる。片方が重苦しい声色のソプラノであるのにたいして、もう片方は軽やかであるにもかかわらずしゃがれているという矛盾がなんとも印象深く、その濃淡がより一層会話の内容をより明朗に耳へと届かせた。

 

「それで、どのくらい保つのかしら? 」

「はっきりとはわかりませんが―――、おそらく保って一ヶ月から半年……」

「あら、大分振れ幅があるじゃない」

「ごめんなさい……、その、赤死病のことは詳しくはまだわかっていなくって……」

「そ……、ああ、ごめんなさい。別に貴女を責めたわけじゃないのよ」

「それでもごめんなさい」

 

冗談の通じない子ねぇ、と呆れたような声が聞こえ、やはり、ごめんなさい、という声が続いた。かつての世で聞き飽きたくらい耳にした、謝罪の言葉。その台詞に含まれている重み。

 

そうして空気の中に溶けてゆく微かな声には、峻烈な程の悔いと己を責める意思が込められていた。ああ、それは、他者の死を嫌になる程看取ってきた私が幾度となく聞き、あるいは聞かされた、死の運命を決定づけられた者へと向けられる、惜別と自責の言葉。

 

「―――なぜ」

 

気がつくと私は聞き耳の無礼の言い訳を考える暇も無く、食堂へと踊り込み、二人の会話に割り込んでいた。驚愕の表情を見せたのは同時で、その後の反応はまるで別だった。

 

一人の若人は居心地の悪さを隠そうともせず態度に表し、一人の老女はいつものように健啖にからからと微笑んで、気持ちのよい笑顔を返してくれた。

 

「―――あら、おかえり」

 

問いかけなどまるで無視しての呑気な掠れた声に、思わずいつものように返答をしそうになって、唇を噛んだ。ここで常と同じ挨拶を返せば、聡賢な彼女と、強引な態度に弱い己の気質が合わさって、話が有耶無耶の彼方へ無かったことになってしまう予感がした。だから、言葉を発することはしなかった。

 

しばらくの無言。かつて雨降る中、この部屋で過ごした時と同様の、しかしあの時とは真逆の性質を持った静寂が部屋中を支配して空気を淀んだものへと変化させている。身体中に纏わりつくような漠とした空気を切り裂いたのは、やはり、軽やかではっきりとしたしゃがれた声だった。

 

「―――まったく、しょうがないわね」

 

私、重っくるしいのは嫌いなのよ、と言わんばかりのため息と共に生み出された言葉は若々しく、被っていた猫を取っ払った彼女の声は沈黙を振り払う祓いの剣となり、止まっていた時を動かす効力を秘めていた。

 

「サコ。ありがとう。また一ヶ月後、懲りずに尋ねてきて頂戴。お願いね」

 

先ほどの死の宣告などあてにもしていないから気にするとの成分を含んだ物言いは、インという彼女の目論見通り、狼狽えていたサコという小さな医師の冷静を取り戻す役目を十分に果たして、少女はぺこりと小さな頭をインに下げると振り返り、同様に私に対して深々と頭を下げながら、横を通り抜けていった。

 

その、臆病と焦燥が多分に混じった態度から、彼女が頭を垂れたのは謝罪の意を私に投げかけたかったからでなく、視線が合う事で疑問の念を投げつけられるのを嫌ってのものだと読み取ることができた。

 

逃げるようにして去ったサコの手によりやがて玄関の扉の音が静まり、取り残された私と彼女は対峙して見つめ合う。宵闇の中、私たちの背景は橙に光る洋燈の明かりを受けて黄昏時のような雰囲気に包まれている。山の端に消えゆく陽光を受けて背の低い彼女を見下ろしたかのようなその様は、私にいつぞやの忘れられぬ別離の瞬間を思いださせた。

 

―――凛

 

「まったく、盗み聞きとはやってくれるわね。エトリアの英雄様はプライバシーと言うものを知らないのかしら?」

「――――――」

 

見た目に反してそのなんとも若く強気で気丈な台詞は、余計にかつての主人を思い出させて、私に閉口の状態を保たせた。そうして口を閉ざす私を前にして彼女は優雅に鼻息を漏らし、腹を小さく抱えて笑って見せると、こちらの堅気を削ぐべく、片手を振った。

 

「もう、少しは反応してよ。まるで壁に向かって独り言を呟いているみたいじゃない」

 

からりからりと笑う。笑い声は、寿命を宣告されたとは思えないほどの軽妙さに満ちていた。

 

「―――なぜ」

「―――ん?」

「なぜ、黙っていた」

 

ようやく絞り出した一言。胸の奥を捻って生まれ出た雫の言葉には、短いながらも全ての想いが込められている。なぜ貴女は、自らの死期を私に隠していたのか。

 

「んー」

 

重苦しく吐き出した言葉に対して、彼女は年若い少女がやるように唇に手をあてて考える仕草をして見えると、しばらくののちに、悪戯っぽく笑って、言った。

 

「なんとなく? 」

「―――! 」

 

その自分の命の終わりなどどうでもいいだろうと言わんばかりの態度がなんとも気に食わなくて、思わず片足で床板を踏み鳴らしていた。同時に周囲の空気に重苦しいものが混じり、あたりを照らす炎が激情に反応したかのように激しく揺れた。

 

発火した感情の中にはそれでも冷静さが保たれていて、木製の床は悲鳴をあげるに留まってくれたのだけが、救いだった。彼女は未だに私の中の感情の天秤が揺らいでいるに留まっているのを見抜いたのだろう、愉快そうに笑って、言う。

 

「あら怖い」

「茶化さないでほしい。今の私はすこぶる機嫌が悪い」

 

素直に心情を述べると、やはり彼女は気さく柔和な笑顔で、真面目なんだから、とやはりからかう態度をやめようとはしなかった。その幼さを含んだ笑顔には癇癪を起こした子供を見守るような母性があって、老若合わさった矛盾さが、えもしれぬ魅力を醸し出していた。

 

「―――、ねぇ、エミヤ」

「――――――」

 

語りかけてきた彼女の言葉に無言の視線を返す。すると、飄々と笑みを浮かべるその碧眼の奥に秘められた真剣さを見つけて、どうにか文句返してやろうという気勢は折れてしまった。こちらの変化を見据えたかのように静かな笑みを携えて彼女は続ける。

 

「べつに、隠そうと思って黙ってたわけじゃないわ。ただ、そう、言うタイミングがなかっただけよ。だってそうでしょう? 考えてもみてちょうだい。私と貴方の関係は、宿の主人と逗留している客のそれに過ぎないわ。薄氷とまではいかないにしろ、厚い関係でもない貴方に向かって、あと少ししたら私死にますなんて、そうそう言えるわけないでしょう? 」

「……、それは、そうかもしれないが」

 

言われてみればその通りだ。私と彼女の関係は、所詮、店の客と主人のそれに過ぎない。金の繋がりがせいぜいの接点である。そうして客人が戸惑うのを考慮してなにも告げなかった彼女の感性は、まったくもって正しい。正しいが、ただ、それだけの関係と認めたくない想いが、私の中にはあった。それは私にしては珍しい執着という感情だった。

 

「……、それでも、もう季節が一つ巡るくらいの時を共に過ごしていたのだ。事情を話してくれても良かったのではないか? それくらいの友誼を重ねてきたつもりではあったが」

「そうね、それはそうかもしれないわ」

 

ごめんなさいね、と小さく認めて彼女は黙り込んだ。素直な謝罪の言葉に、私はなにも言えなくなる。再び沈黙が辺りを支配する。しかし、先ほどとは打って変わって無言の空気は、木漏れ日の下で固まった体を解したかのような穏和さを帯びていて、私の冷たく凍り付いていた心中をゆるゆると溶かすと、続く言葉を発せさせてくれた。

 

「―――原因を聞いてもいいだろうか? 」

「さぁ? 未だに解明されていない病のことだし、わからないわ。ああでも、冒険者はかかりやすいっていうくらいだから、案外、昔のツケが回って来たのかもね。私、こんな見た目に反して、服の下はびっくりするくらい怪我や手術の跡が残っているの。多分、若い頃は無茶苦茶やってたんでしょうね」

「……そうか」

「やだ、そう暗くならないでよ。もう、ほんと、調子が狂っちゃうわ。まったく、いつもの傍若無人で皮肉屋な貴方はどこへ言っちゃったのかしら? 」

「―――、ふ、大方、貴女の殊勝な態度に驚いて、どこか迷子になっていたのだろうよ」

 

無理やり絞り出してそんな事をいってやると、ようやく調子が戻ってきたわね、と彼女は満足げに笑って見せた。その快活さに励まされて、私はようやくどうにか己を律して、常と変わらぬ態度をとってやろうという気概が心中へと舞い戻る。

 

彼女は落ち着きを取り戻した私の様子を見て、慕情に満ちた晴れ晴れとした笑みを浮かべると、椅子に深く腰掛けて体を預け、天井を仰ぎ見て体の中の残りの重さを全て吐き出した。そして静かに目を瞑ると、口を一度大きく開いて胸の奥にしまい込みように外気を取り込み、やがて新たに取り込んだ空気と共に語り出した。

 

「―――、そうね。エミヤ。私がハイラガードからやってきたことは話したかしら? 」

 

少しばかり瞑目して記憶の底を探ると引っかかる項目を思い出す。

 

「……、そうだ、確か、以前そんな事を言っていたな。貴女はそこのレジィナという女性のレシピを受け継いだと言っていた」

「あら、よく覚えているじゃない。……じゃあ、それ以前の話、ご存知かしら? 」

「―――いや」

 

確か、聞いていないはずだ。彼女もそれは理解していたようで、やはり小悪魔のように意地悪く悪びれなく微笑んで見せると、私の返事に同意した。

 

「そうね。だって私、貴方に過去のこと話してないもの」

「ではなぜ―――」

「そして同じように、私も貴方の事をよく知らないわ。だって貴方、私に過去のことを何も話してくれてないもの」

「……」

「だから、私は貴方の事情を知らない。多分、貴方、そうやって誰にも自分の過去を語ろうとはしないんでしょう? 語らないってことは、多分、貴方にとって、過去は辛い事ばかりだったんでしょうね。そうやって過去に触れようとすると、貴方が剣呑な空気を発散して聞いてくれるなと主張する。だから、多分貴方の周りの人も、貴方を慮って踏み込んでこない」

 

私は押し黙る。その通りだ。私はこの世界に落着してから、誰にも己の事情を語ったことはない。以前の会談の後、真実に近いところまで迫られても、沈黙を貫き通した。

 

「この世界の人は、悲しいとかの感情を溜め込めない分、自分の心の傷にも、他人の傷にも、とても敏感に反応するわ。そうした痛みに敏感ということは、痛みをとても恐れやすい性質を持つということでもある。だから彼らは本心を曝け出して、自分と異なる感性を持つ他人と生の心をぶつけ合うなんて傷つく行為、自ら望んで行おうとは思わないのよ。だって嫌じゃない。生の感情をそのままにぶつけ合って、傷ついてそれで互いに嫌な思いをするなんて」

 

滔々と告げる彼女の態度には、まるでそんな彼等と己は違うから私は容赦しないわよ、と言わんばかり圧力があって、ならば彼女が心傷を厭わないのは何故だろうと私に疑問を抱かせた。

 

「だから私も踏み込む事を避けていたのよ。きっと、貴方もこの世界の人たちと同じように、優しくて臆病な人だと思っていたから。……でも、違ったのね」

 

彼女は言うと、この広い世界において始めて同類を見つけたと言わんばかりの、眩しいばかりの満面の笑みを浮かべて、続けた。

 

「貴方はそうと知っても踏み込んできた。質問が私と貴方とを傷つけるかもと知っていて、それでもなお踏み込んできた。……、ほんと、なんとも英雄らしい豪胆さよね」

「……」

 

それは。それは違うと思う。ただ私は制御出来なかっただけだ。目の前で誰かが死にゆくと言う事実にただ耐えられなかっただけ。鋼どころか、ガラスの如き心中の脆さだからこそ、相性の悪い思いはすぐに許容を超えて心に亀裂を生み、我慢の立ちいかなくなった心より溢れ出て、口よりそれが零れ落ちただけのこと。

 

そんな彼女の指摘を受け入れがたい、と言う想いが表に出てしまったようで、彼女は私の渋面を見て苦笑いをすると、「全く頑固なんだから」、と言って、静かに笑って見せた。

 

「……、私はね。若い頃の過去の記憶がないの」

「……は? 」

 

唐突な告白に私は思わず嘲りに似た声色を返してしまう。彼女はそれすらも笑って受け入れて、独白を続けた。

 

「気がついたらハイラガードの街の医療機関で寝ていたわ。しわくちゃのおばあちゃんがボロボロの体の状態でね。それが私の最初の記憶。私の最も古い、過去の記憶」

「――――――」

 

まるきり白紙の過去を持つ。その、世界でも類を見ないだろう奇妙な相似に、私は初めて同情の気持ちを覚えると共に、まるでそんな過去がないなんて事どうでも良い、と言わんばかりにあっさりと告白する彼女の態度に、なんとも言えない劣等感のようなものを抱いた。

 

彼女はなぜ―――

 

「なぜ、貴女はそうして、笑ってその事を話せるのだ? 」

「ん? 」

「だってそうだろう? 起きた時にはすでに青春どころか朱夏も白秋も過ぎて、玄冬の時期を迎えていて、過去に繋がる一切の事象がなくなっているのだ。だと言うのに、なぜ貴女は愚痴一つ溢さずにいられるのか」

 

思い返すまでもなくどう聞いても失礼な、しかし率直な物言いを、彼女は心底おかしいと言わんばかりに夜の闇を引き裂くほどの声で笑ってみせると、苦笑をこぼしながら言う。

 

「そう、普通そうよね。貴方の反応、きっととても自然なものだわ。……、そうね。じゃあ、老婆心ながら、いまだに迷いを断ち切れぬ若者に、年寄り臭い説教でもさしあげるとしましょうか」

 

彼女は一転して体を預けていた背もたれから己の重さを取り戻して見せると、曲がった背骨をしゃんと伸ばして、真っ直ぐな視線でこちらを見る。その翡翠色の瞳には、迷いというものが一切ない、凛としたものだった。

 

「多分ね、私は過去にやり遂げたのよ」

「……やり遂げた? 」

「そう。記憶はないけれど、過去の私はきっと、やりたいと思う事をやり通して、私の生涯の欲を私自身の望み通り、全部叶えて見せた。もうこれ以上ないってくらいやり遂げて、きっとその時点で私は私の生涯に満足したのよ。だから……、そうね、なんていうのかしら。今のこれは、きっとおまけみたいなものなのよ。そうやって頑張って生き抜いた私が、最後の一時に見ている、泡沫の夢。その淡い夢の中で、本来ありえなかった、自分が胸を張って生涯を生き抜いた、その後の世界がどうなっているか、なんてものを見る事が出来ているの。だから、感謝こそすれ、恨むとか悲しむとか、愚痴るとかそういうのは一切ないわ」

 

迷いなどない、と言い切る彼女の笑顔の中には絶望も諦観もなく、ただ希望に満ちていた。その煌々と輝く宝石のような笑みを見て、私は眩さのうちに目の潰れるかの錯覚を覚える。強靭な意思と覚悟をもってして生き抜いた女傑は、その強靭さを持ってして凛とした生涯を魂の内に刻みつけていた。

 

そして私は、その華々しくも味のある笑顔の裏に、衛宮切嗣という男が浮かべた満足の笑みを見つける。今にも首落ちて散りゆく運命が眼前に迫っている花であっても、己が生涯を誇れるのであれば、こうも凛然としていられるのかと羨望の思いを覚える。

 

「―――、あ、ごめん、ちょっち訂正。そうね、やな事はないって言ったけど、一つだけ、すごく残念に思う事があるわ」

「―――それは? 」

 

そうして常に笑顔でいた彼女を曇らせた残念の正体を短く尋ねると、彼女は今までとは違い、満足の中に寂寥を含んだ笑顔を浮かべて、告げた。

 

「私、すごく愛していた人がいたの。この人となら一緒に地獄へ落ちたって後悔しないってくらい、その人のことを愛していた。多分青春の頃からずっと一緒に駆け抜けてきた人で、馬鹿で、無鉄砲で、人の言うことなんてきいてくれない、餓鬼みたいな所もあるやつだったけど、私の半身でもある人だった。……そんな大事な人のことを、私はなんでか、今、まったく覚えていない。―――今、あの人が隣にいてくれない。それがすごく悲しくて、寂しくて、辛い」

「――――――」

 

彼女の悲痛を露わにする叫びに、私はかけるべき言葉を失った。やがてそうして頼りにならない言葉の代わりにじっと視線を送っていると、戸惑いの視線に気がついた彼女は力強く言ってのけた。

 

「やだ、そんな顔しないで頂戴な。こっちまで鬱屈がうつっちゃうでしょ。……でも、そうね。ありがとう。そんな風に思ってくれて、ありがたく思っているわ」

「……わたしは」

「それにね。私、貴方に感謝しているのよ? 」

「私に? 」

「ええ。そうして天にまで聳えるハイラガードの世界樹を見るたびに、彼を失ったんだなと思い出しちゃうから、ハイラガードを離れてエトリアに移り住んで、それでも私は、やっぱり生きたような、でも死んだような生活をしていたわ。さっきはあんな事言ったけど、宿屋を営んでいろんな人と接していても、どうもみんないい子ちゃんで張り合いがなくて、あの人がいないから灰色の世界で、困っていたのよ。―――でも、そんな時、貴方が現れた。貴方は無茶をするし、かっこつけだし、皮肉屋で、どうしょうもなく意地っ張りだけど、私、そんな貴方がこの場所に来てくれてから、とても生活が充実しているわ。まるで失った過去の中で過ごしているかのよう。多分ね、貴方、あの人に良く似ているのよ」

「――――――」

「ごめんなさいね、勝手にあの人と重ねちゃって。面影を見るだけならともかく、誰かの代わりを求めるなんて、あまりにも勝手だわ。……ふふ、でも、過去なんて、って言いながら、やっぱり昔のことを思い出して楽しんでいるんだから勝手よね。まったく、我ながらほんと、自分勝手でやんなっちゃうわ」

 

らしいっちゃらしいんだけどね、と自嘲する彼女は、しかしなんとも楽しげで、殆どの負の感情を吹き飛ばしたかのような笑顔で告げる。彼女はそんな自分勝手な自分をこよなく愛しているのだろう。そしておそらく、彼女の伴侶も、そんな自由気ままを体現する彼女だからこそ、彼女の事を愛したのだろうな、と私は思った。

 

「うん、きっと、私、私の愛したあの人に会っていなかったら、貴方のこと、好きになっていたかもしれない。いいえ、きっと、好きになってたわ。そのなんとも不器用なまでに、自分の正義に従って、真っ直ぐに生きる様、私、ぜんぜん嫌いじゃないもの」

「――――――」

 

貴方の正義、嫌いじゃない。不意に齎された言葉は、頑なに閉ざしていた心の中心まで一直線でやってくると居座り、内より外へと向かって温かいもので満たされてゆく。身体中の神経に張り巡らされていた冷たいものは瞬時に溶けて、眼球と涙腺を通して体の外へと放出された。みっともないと思うこともできず、私はただ、呆然と言葉の意味をゆっくりと咀嚼しながら、言葉のもつ魔力が身体中に染み入ってくるのを受け入れる。

 

正義の味方なんていうものは、どこまでいっても、所詮は自分の正しさと思うことを相手に押し付けるだけの、独善に過ぎないものだ。若い頃は、その独善を、一般的に善と呼ばれる行為と重ね合わせることで、それでもいつかは全ての人を救えるようになると思っていた。

 

けれど、結局そんなことはなくて、世界中で普遍的に広がっている善というものは、それでも誰にとってもの善ではなくて、結局は多くの人を救える最小公倍数的な善性を汲み取って最大公約数となる人間を拾い上げることしかできなかった。

 

最初こそは悩んだその行為も、数を重ねるごとに慣れが生じて、やがてはおなざりな作業と成り下がる。やがて淡々と最大の人数を拾い上げるために最小の犠牲を強いるやり方は、最大数より零れ落ちた人たち、最大数である零れ落ちなかった人たち、そのどちらの目からも異端として映るようになる。

 

当然だ。そのような、普遍的な正義の歯車と成り果てた感情の枯れた機械のような男、誰が己と同種の生物として認められたりするものか。故に弾かれる。私という人間は、誰をも助ける正義の味方になると謳いながら、その実、誰からも疎まれる存在だった。

 

それを。その誰からも疎まれてきた、歪な己が正義を貫き通そうとする存在を、彼女はしかし、否定をせずに受け入れた。たったそれだけの行為が、他人のためにと心と命を削り、継ぎ接ぎだらけとなったガラスの心を暖かさで修復して、その中身までを溢れさせてゆく。

 

許容という行為が、共通点を持つ他人と弱さや経験を分かち合う行為が、これほどまでに己の心情を癒してくれるものだとは、思いもよらなかった。この誰もが私と違う背景に生まれ育った世界において、彼女だけは私と同様に、過去を失った事を悔やみ、嘆いている。

 

そして私はそんな彼女に憐憫し、同情し、そうして鏡を見るような行為は、私に共感の思いを抱かせて、私は己を存分に哀れと思って、体の中に理性の冷徹をして心中に溜め込んでいた激情の裡を表に解放してやることが出来た。そう、この涙はおそらく、私が生前と死後、さらにその後という長き渡る奇妙な生涯において、初めて純粋に私自身の為に流した、熱き咆哮の証だった。

 

 

ひとしきり両の眼から思いの丈を吐き出し終えると、彼女は静かに続けた。

 

「ねぇ」

「―――……、なんだろうか」

「さっきも言ったけどね。この世界の人たちは、優しくて、臆病で、痛みに敏感で、だからこそ、他人の痛がるような行為を避けたがる傾向にあるの。だから、多分、貴方が抱え込んでいるいろんな事も、こちらから話してあげない限り踏み込んで聞いてこないと思うわ」

「……そうか」

 

突然振り返された話をしかし私は、彼女が何を言わんとしているかを話の中身を予測できたが、静かにその続きを拝聴する事とした。それこそがこの、たった一人だけ過去に取り残されたような世界で、初めて己と同じ境遇を自ら語ってくれた女性に対する礼儀だと思ったから。

 

「ええ。だから、もし機会があったら、貴方の方から彼らに歩み寄ってやってくれないかしら? 貴方の過去がどんなものか私は知らないけれど、そう信じて、理解を求める想いを乗せて手を差し出せば、彼らは喜んで握り返してくれるはずよ」

 

受け取ったバトンを、次の人たちへ。自分という存在はそのうちいなくなるけれど、そうして差し出された想いになにかを感じ取ったのなら、そうして得たものを他の人へと渡して脈々と思いやりの連鎖を続かせて欲しいと、彼女は暗に告げている。

 

「ああ―――、承知した」

 

彼女が出した命の答えを、私はいつかの時のように受け取り、継承した。そう、私はようやく、この世界の人たちと同じ高さの座標軸に立てたのだ。長い旅路の果て、心中という名前の小舟は、漣一つたたない凪いだ状態で行く当てを失っていたけれど、そうして陸地の見えない大海の上に一人ポツンと佇んでいた頼りないそれの搭乗員は、ようやく陸に近付こうとする努力を始めて動き出した。

 

エトリアに来たばかりの日、空想の中で思い描いていた理想から受け渡されたものでなく、現実に存在する他人から渡された聖火は、かつて生前に衛宮切嗣という存在から受け継いだ種火と、死後に凛という女性が加えた燃料と合わさって、颶風の中でも決して消えぬ業火となる。

 

そうして私は一つの季節を過ごした後、ようやく真の意味でこの世界の人たちと同じ目線で付き合い、傷つけ合いながら生きてゆく覚悟を決めることができたのだ。まったく、歴史に学べないのは、愚者の性というが、なるほど、死後長きの時を得て己の過ちに気づくなど、愚鈍な己らしい劣等の証明である。

 

 

世界樹の新迷宮

第四層「試練の枯レ森」

第二十階「死を得て星空を抜け儚い命と聖域を守護する大英雄」

 

 

二十階入り口近く配置してあった携帯磁軸に転移するところから、五度目の遠征は始まった。枯れはてた森の中、視界の開けた、しかし地面が上下にうねる荒涼とした大地を、しばらく歩く。敵がいつ現れても対処できるように気を張っているせいで周囲の光景に気を配る余裕はない。

 

だが、このまだ姿を現さぬ敵に対する気配りが杞憂に終わるだろうことは、この第四層二十階に降りたってからすでに半日近くの時が流れているのに、十六から十九階の時とは異なり、未だ一度たりと敵の気配を感じられない事から、薄っすらと予測ができていた。

 

やがて異邦人の一同と共に探索を行っていた私は、一から三層までと同じ外側構造を持つ番人の部屋の前にまでたどり着く。番人の部屋までの道はL字の曲がり角が続き長いだけの一本道で、その長い道のりをここまでくる中において、やはり予想通り、敵は一切姿を見せなかった。

 

―――ということはおそらく、この中に……

 

おそらくは四つ、あるいは五つの試練がまとめて放り込まれている。鹿、ヒュドラにアマゾネスの群れ、ラドンケルベロス。名前を聞くだけで引き返したくなるような魔物が、群をなして襲いかかってくる。

 

その光景を想像した時、柄にもなく体が震えた。頭部から生まれた悪寒は背筋を駆け抜けて、心臓から指先にまで冷たい感覚が伝わる。武者震え、と言い切れたのなら格好良かったのだろうが、これは違う。これは目の前に置かれた箱が絶望だけを詰め込まれたパンドラの箱であると悟った時に生じる、未知と恐怖に対する、生物の根源的な部分が鳴らす警鐘だ。

 

そう、私の頭は、これより先に繰り広げられるだろう地獄を予測し、私の体はその地獄の中に身を投じ、踏破しなくてはいけないという恐怖に怯えたのだ。

 

戦いにおいては恐怖に体を支配された方が負ける。戦闘を行う者にとって恐怖を克服するのは、最初に乗り越えなければならない壁だ。しかし私は今、その恐怖を抑え切れずに表にだしてしまった。

 

戦闘を生業とする者にあるまじき失態だ。仮にとはいえ、あのヘラクレスと同じ場所に保管されていた英霊とは、とても思えないほどの臆病さ。怖い。苦しい。逃げ出したい。これが、生身の体、まともな神経を持つ人間が持つ感覚。

 

この震えは、かつての己の全てを投げ出してでも他者のために戦うエミヤシロウが、生涯を終えたその先、英霊となった後も持つことが出来なかった、己が世界から失せてしまうかもしれないという恐怖を体験している証。

 

―――まぁ、まともな人間の感覚を取り戻せていると考えれば、悪くはないのかもしれん

 

おそらくは私の生身の体を作るにあたって、人間「衛宮士郎」が素体にされているために生じる生理現象なのだろう。ふむ、だとすると、あの唐変木で鈍感な男も人並みの感覚を取り戻せていたのか。私と同じく、自己を失う恐怖を持っていなかったあの男が。

 

―――そう思うと、少し、感慨深い感じするな

 

「―――、エミヤさん? 」

 

などと考えていると、後ろから聞こえてきた軽やかな少女の声が私の意識を現実に呼び戻した。振り向けば、声の主人は心配そうな視線をこちらに向けている。そのさらに後ろでは、三人の男が三様の意外そうな顔を浮かべて、彼女と同じようにこちらへ視線を送っていた。

 

「いや、意外だな。あんたがそんな、普通の反応を見せるなんて思わなかった」

「確かに。なんというか、もう少し超然とした存在だとばかり……」

「まぁ、お陰で親近感は湧きましたがねぇ。……、ところでエミヤ」

 

ピエールは飄々とした雰囲気を一転させ、常とは異なる、厳しい表情をして言う。

 

「そろそろ、この部屋にいる番人の事を教えていただけませんかね」

 

空気が凍った。惚けた表情だったサガも、困惑顔だったダリも、同じように纏う雰囲気を剣呑なものに変え、真剣な目をして、こちらを見ている。誤魔化しは通じそうにない。射抜くような視線を受け流しながら、私は答える。

 

「なぜ知っている、とは聞かないのだな」

「聞いたら、答えてくれるのですか? 」

「…………さてね。案外素直に喋るかもしれんが」

「しかし、その口から語られる内容が真実であるという保証もないでしょう? そのあたり貴方ははぐらかしますから。そんなことより、私たちが知りたいのは、この先にいる番人の情報です」

「それすら真実とは限らんだろう? 」

「いえ、それはないでしょう。過去に関することは別として、これまでの四層に出てくる敵に対しての対処はどれも適切なものでした。貴方は、こと命がかかった事に関しては一切はぐらかさない、ある意味で真っ正直なお人です。……これから足を踏み入れた先にいる敵のことを考えて震えが出る程度には、正確な予測と把握をしておられるのでしょう? ですからそれを教えていただきたい。そうすれば、私たちが揃って無事に戻ってこれる確率も少しは上がるでしょう」

 

―――まいったな、これは

 

己の性格と白状の線引きを見抜かれていた事に、両手を上げて目をつむり、降参のポーズを取ってみせると、腕を組み直して首を傾げる。さて、どこからどこまでの情報をどの程度話していいものか……

 

―――いや

 

「―――、そうだな。知りたいと言うのなら、君たちには全て教えてやろう。私の生涯、私の過去、私の持ちうる戦術、その他諸々全て叩き売りだ。興味があるのなら聞くといい。今ならどれも特別価格で教授してやる」

「――――――、へぇ、大盤振る舞いじゃないか」

 

サガがにんまりと笑った。ダリは困惑気に、ピエールは竪琴を鳴らしながら上機嫌に笑い、そして響はなぜか少し寂し気に、笑った。彼らがそれぞれ見せた笑みの裏側を考察してやろうかと一瞬思ったが、無粋だと思いなおして止めた。なに、そんな疑問、あとで素直に聞いてやればよいのだ。

 

「とりいそぎ、この向こう側にいる奴らのことを教えてやろう。それ以上のことが知りたければ、そうだな、エトリアに帰った後、酒の肴にでも飽きる程に聞かせてやる。だから―――、どうか、死んでくれるなよ」

 

告げると彼らは、一転して濁っていた目を輝かせて、私の話を傾聴してやろうと、体を前に乗り出してきた。私はその素直さを好ましく思いながら、推論を語り出す。他者を信じて己の過去を話そうと思うこんな気持ちにさせてくれたインに最大限の感謝を送ると、私は門の奥に潜む魔物についての予想を彼らに語り聞かせることとなった。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

 

第十二話 高波は風水の交流にて引き起こされ

 

終了

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第十一話 「生き方を選べ」

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第十一話 「生き方を選べ」

ねぇ、士郎。
今更だけど、あなたはどんな正義の味方になりたいの?

正義の味方、と聞くと多くの人はテレビやアニメ、小説の中に出てくる戦隊モノのヒーローや仮面を被って正体を隠し悪と戦う彼らの事を思い出すのではないだろうか。あるいは、ドラマや映画の中に出てくるような、困難に陥っている人を助ける主人公だったり、現実で言えば、日常の平穏を守る警察や有事の際に活躍する自衛官や軍隊の人々を思い出すかもしれない。

どうしても自分の手では解決不可能な出来事が目の前に立ちふさがった時、颯爽と現れて問題を解決してくれる存在。大した見返りも何も求めず当たり前のように他人の祈りの為に命をかけて、知らぬ間に問題を解決しても名乗り出ず、人知れず世界の平和を守るそんな存在。

正義の味方。あの性悪神父はその存在をこう言い表した。「悪がいないと成り立たない」存在だ」、と。非常に腹立たし事だが、なるほど真理だ。悪とは例えば、大きなものでは、人類の支配を企む悪の組織が現れたり、地球崩壊の危機に陥ったりであったり、あるいは小さなもので行けば、なにかを落としたとか、喧嘩をしている人を目撃したとか、彼らはそういった人々の悩みを解決する事で、大衆に正義の味方として認識されるようになる。

悪とはつまり、可視化された、あるいは不可視の状態の問題だ。放置しておけば何処かで誰かが困るものを処理するからこそ、彼らは正義の味方として扱われる。つまり「正義の味方」が万人にとっての迎え入れられるには、その問題が万人にとって迷惑となる問題であり、解決する事で誰もが喜ぶものでなくてはならない。

はるか昔、私は藍色に輝く夜空に浮かぶ満月の下、養父、衛宮切嗣の前で正義の味方になると誓った。それは決して、正義の味方になりたかったと後悔を露わに独白した彼に対する同情だけではなく、また私が置き去りにしてきた過去の亡霊に対する贖罪の為だけではなく、衛宮切嗣という男の純粋な願いを受けて私の心に動かされるものがあったからこそ、私は正義の味方になると誓ったのだ。

けれど、この悲惨と苦痛に満ちた世界から来た私は、一日の終わりに負の感情を失い誰もが他者への優しさを継続することが容易になった世界で、今更ながらに思う。果たして。この残酷な法則が蔓延する優しい世界において、私は誰のどんな問題を解決すれば、私の目指した正義の味方になれるのだろうか。

……目覚めは驚くほどあっさりだった。もはや窓ガラスを軽く揺らすほどの鐘の音に耳朶を打たるのも随分と慣れたようで、寝床より起き上がれば、もはや鐘の音は頭の中を反芻したりはしないようになっていた。

寝ぼけた頭で窓の方へ目をやれば、昨夜あれほどの灼熱を放っていた太陽はその傍若無人な矛先を収めているようで、窓より飛び込んできた緩やかな光が床を平行四辺形の形に淡く切り取っているのが見える。

そうして飛び込んだ光が部屋の中に漂う埃と反応して煌びやかに輝くのを暫くの間眺めていると、眠りの間に部屋の中へと拡散されていた意識が光に導かれて頭の中へと戻ってきたようで、ようやく何かを考えようという気になった。

―――あの男の狙いは一体なんだ?

言峰綺礼。かつて、第五次聖杯戦争にて監査役という地位を隠れ蓑に裏で暗躍し、聖杯に潜んでいたゾロアスター教の悪神「この世全ての悪/アンリマユ」が生誕することを望んだ、万人が美しいと思うモノを美しいと思えず、他者の苦痛に愉悦を感じる破戒神父。

だが奴のその野望は、かつての我がマスター遠坂凛と、その伴侶衛宮士郎によって阻止され、彼らの手によって命を失った。もう、千年単位で昔の話だ。あの影が真実奴であるとするならば、奴はなぜ、今、この時代に蘇ったのだ?

……一つずつわかっている情報から推測するしかないか。さて、まずは……奴はどうやってこの世界に復活したのか、だ。

―――神によって再び命を授かった

神。奴の進行する神。通常、聖堂教会というカソリック系列の一派である奴が言うなれば、それはもちろん、唯一神のことだろう。だがあそこの神は、死者の復活という神の子レベルの存在しか成し得ないような奇跡を安売りするような軽薄を許容しないはずだ。

となれば、奴の言う神というのはこの場合、死者の蘇生を可能とする唯一神と同等の力を持つ存在のことを示しているとかんがえるのが妥当なのだろう。また、奴が魔のモノと呼ばれる存在の話を嬉々として話していた事と合わせて考えるに、おそらく神=魔のモノと呼ばれる存在と考えて間違いないはずだ。捻くれ者の腐れ外道に相応しい捻じ曲がった解釈かもしれんが、まあよかろう。

さて、神=魔のモノと仮定した際、次に問題になるのはその魔のモノが何を考えているかだが―――

―――これはあの聖杯戦争の再現なのだ! 戦争を最後に勝ち抜いた勝者には、万能の願望器が与えられる! その再現! それこそが、我が主の望み! それこそが私が心底望むものなのだ! ―――

再現。あの物言いから察するに、もしやすでに聖杯戦争は再開していて、己は参加者として盤上に乗っているのだろうか。この世界に来てから己がやったことといえば、迷宮の番人を倒したくらいだ。

ふむ、そういえば、シンが三層の犬にとどめを刺した際、、私はランサーの声を幻聴した。最後に使ってきた技も、ランサーの宝具「ゲイボルグ」の投擲に似た、三十に分かれる魔弾であったし、おそらくあれがランサー「クーフーリン」という存在の再現であると見て間違いあるまい。とすれば……

おそらく、一層の石化能力を使用する輩はライダー「メデューサ」で、二層の転移を使いこなす黄金の羊はキャスター「メディア」、あの三連を繰り出す虫の群れはアサシン「佐々木小次郎」か。彼らが人型をしていない理由はさておき、この仮定があっているとすれば、これでこの聖杯戦争からはすでに四騎のサーヴァントが脱落していることになる。

となると、残っているのは―――

「アーチャーである私、「エミヤシロウ」。そして、バーサーカーである「ヘラクレス」に、セイバーである「アーサー王」か」

やれやれ面倒な奴ばかり残っている。クーマが、新迷宮にも四層、五層があるだろう、といっていたことから考えるに、どちらの階層かは知らんが、どちらかをモチーフとした敵が出てくるかのだろう。かつての陣営ごとに切り分ける馬鹿みたいな律儀さには感心するが、どのみち一筋縄ではいかないだろうことにため息が漏れる。

しかし、待てよ。もしやそうして、六騎のサーヴァントの代理を倒したとして、最後に私が死ななければ、聖杯は完成しない。いや、そもそも。

―――魔のモノは、なぜ聖杯戦争の再現をしようとしているのだ?

聖杯戦争。あらゆる願いを叶える万能の願望器「聖杯」を巡って行われる魔術儀式。もしやつが聖杯を欲しているといのならば、奴は聖杯を利用してまで叶えたい願いがあるということなのだろうか?

……いや、だが、奴の話によれば、魔のモノは霊脈と一体化しているはず。それならば、霊脈の力を六十年もの間を溜めこみ、その膨大な魔力量の方向性を定めてやる事で現実の壁をぶち破り改変を行う、という聖杯のシステムから考えるに、地球そのものとも言える魔のモノに聖杯なんぞ必要ないと思うのだが……。

―――だめだ、材料が足りん。この方向からのアプローチは一旦保留。残るは……

―――もちろん、あの冬木の教会でだよ
―――今頃あるいは、文字通り天の国に召されているかもしれんぞ

―――っ!

奴に対する考察を深めようと記憶を掘り起こすと、そこから関連した奴のやった悪行が紐付きで思い出され、腑が煮え繰り返りそうになるのをなんとか抑えこむ。腹の中に溜め込めないだけで、思い返した際に脳が生み出す灼熱の怒りの源は一日経っても消えないのだな、とどこか他人事のように考える。

―――だめだ。落ち着け。今は必要ない情報だ。凛の骸がどのように扱われたかは、一旦、保留にしておけ。その報いは、次に奴と合間見えた時に、必ず叩きこんでやる

将来必ずあの腐れ外道は滅してやるから今は我慢しろ、と胸板を強くかきながら己に言い聞かせる。ともすれば奴への殺意で一杯になりそうな胸の裡からなんとかその思いを追い出すと、胸の奥に生じた猛火をなんとか沈静して、もう一度推察を再開する。

―――冬木の教会

たしかに奴はそういった。……冬木。エミヤシロウという存在にとって、大きな運命の転機となったあの土地が、未だこの数千年も未来の世界にその姿を残していて、奴はそこで復活したということなのだろうか。

冬木。数千年前に地下に消えた街があるとすれば、おそらくは同様にこの大地の遥か地下なのだろうが、それだけの時を経ても未だに教会は原形を残していたということなのだろうか? 一体どうやって?

それに、なぜ、奴は私を生かして地上に転移させたのだ? 不倶戴天といってもいい存在である私をなぜ殺さずに生かしたまま地上に送ったのか。聖杯戦争を再開すると言うのなら、元サーヴァントたる私は真っ先に殺し、聖杯に捧げて然るべきと思うのだが……。

まさかとは思うが、夢の中で私が見せた醜態に愉悦したいがためとは言わないだろうが……、いや、奴の場合、ありえるかもと思えしまうのが、なんとも辛いところだ。

「ちっ、煮詰まったか」

舌打ちをして、ベッドに半身を横たえる。与えられた情報から導き出した情報を整理したことで導き出せた結論は三点。その内確定しているのは二点。神―――おそらくは魔のモノ―――が聖杯戦争の再開を望んでいるという事と、この世界のどこかに冬木と言う土地があって、その教会が残っている事。

そして、確定ではないが、おそらくは七騎の英霊が覇を争うその聖杯戦争がすでに再開しており、現状残るは三騎にまで減っているだろう事も判明している。

―――あとは、奴に真意を問いたださねばならないか

億劫な未来を思い浮かべてため息をつく。あの人格破綻の極悪な外道神父と会話をしなければいけないと言う面倒は、想像するだけで気分を不快に陥らせた。鬱憤を吐き出してやろうと、長いため息を吐くと、床に落ちた光の四辺形がその面積を減らしているのに気がつく。

窮屈そうに身を縮こめさせている窓を解放させると、溜まった鬱屈を散らすかのように涼しげな風が部屋の中に飛び込んで、縦横無尽に遊びまわり駆け抜けてゆく。開けた視界に広がるのは、私がやってきてから三ヶ月間変わる事のないエトリアの光景だ。

孔雀緑の屋根、木造と白漆喰の混ざった壁、街と外を区切る壁の外に広がる肥沃な森林地帯。円を描く街のちょうど狭間あたりに位置するインの宿屋から見える景色は、その全てがなにもかも変わっていない。だというのにもかかわらず、この同じ場所から見える景色は、私にとって昨日までとまるで違う光景として私の目には映っていた。

―――負の感情をとどめておけない世界、か

街行く人々の顔を眺める。昼間のエトリアを行き交う人々。その三割ほどは冒険者で、残りが町人やそれ以外だ。冒険者の方へと注視すると、迷宮という場所で命のやりとりをしている彼らの顔は、しかしまるでそんな気概を感じられないほど、いつも変わらず笑顔に包まれている。

つい先日まで、私はそれが長い年月をかけて人が自ら変化の道を辿った結果だと思っていた。スキルという技術を得た人類が、数千年の時をかけて己の性質を変えてきた結果だと思っていた

しかし、現実は違った。最初こそ一方的だったかもしれないが、彼らは、魔のモノという存在と、負の感情を代価とした契約を結んだ結果、出来たのがこの世界だ。

負の感情を吸収する魔のモノと契約したものの子孫が住む世界。一眠りすると、負の感情を全て失ってしまう人々の住む世界。人々は自ら変化したのではなく、おおいなる存在によって、その性質を変化させられてきたのだ。

理不尽や不幸に直面するたび胸の裡に堆積してゆく負の感情の澱という害悪を知らずに育ったからこそ、彼らは他人を憎まない、恨まない、妬まない。人に悪意を抱き続けないからこそ、警戒心が薄く、見知らぬ他人をすぐに信用する。

世界に住む人間の全てがそんな性質を持っているというのなら、なるほど、この世界の住人の多くが、あそこまで他人と無邪気に接することができるようになる理由もわかる。いつの日か感じた、自分と彼らは違う、という思いは、ある意味で正しかったのだ。

彼らと私は違う。考えた途端、不穏な疎外感が胸に押し寄せる。馬鹿げた妄想だと切り捨て、空を見上げた。ぱっと見一面に広がる、吹き抜けるような青い空。空の端では、風が山の稜線の向こうに雲を追いやろうとしていた。まるで蒼穹の景色に余計な色は要らぬと言わんばかりの風の所業は、そう、例えてみれば魔のモノのやっていることのようだと思う。

人の心は言ってみれば真っ白なキャンバスみたいなものだ。人は生きていく中で、感情の絵の具を使って、記憶という絵を心中のキャンバスに書き込んでゆく。歓喜に満ちた記憶なら、色鮮やかで華やかな絵が刻まれるだろう。その記憶が悲哀や苦痛に満ちたものなら、暗澹とした色合いになるかもしれない。

出来上がっていく絵に手を加えるのが魔のモノだ。奴はその暗澹たる属性の色は己のものだと主張し、パンくずで、ペンチングナイフで暗い色を削って白のキャンバスに戻して去ってゆく。そうしたやり方をこの世界の人々は知らずのうちに、あるいは知りながらも、迎合し、暮らしている。

そうして魔のモノとの共同作業により完成するのが、暖かい色しか使われていない絵だ。この世界に生きる彼らは、知ってか知らずか、魔のモノと協力して「生涯」という題名の一枚絵を見事なまでに平穏の作風に仕立て上げる。

その色使いと作風は周りのものに伝播させ、やがて世界からは一層暗澹の色と気配が消えてゆく。その末が、明るい絵ばかりを収集する美術館のごときこの世界だ。

そして、その中に一枚混じり込んだ異物こそが私。光明満ちた真作だらけの世界に、一枚紛れ込んだ、タッチも色使いも衛宮切嗣という男の正義の味方という夢を模倣して書きあげられただけの、陰鬱な贋作者の書き上げた絵こそが、私だ。

思う。このままいけばおそらくは聖杯を巡って魔のモノとやらと戦うことになるわけだが、仮に、負の感情を食って成長する魔のモノを倒してしまったのなら、負の感情が奪われるという出来事はなくなるというのだろうか? あるいは、スキルというものが無くなるのだろうか?

そうして人が今まで当たり前のように使用していたエネルギー確保の手段を失った時、果たして世界はどのように変化してゆくのだろうか? 世界は再び、エネルギーの利権などを巡って争いだらけの状態に戻るのだろうか?

そうやって魔のモノを倒すことが、世界の混乱を引き起こすことだとすれば、それは正義の味方として正しい行いなのだろうか。果たして、この世界の為になるのだろうか。

―――魔のモノと言峰綺礼を倒す。それは本当に、私の独り善がりではないのだろうか? 所詮は贋作でしかない私に、果たしてこの世界の当たり前の法則をどうこうする資格があるのだろうか? 果たして、これから自分がやろうとしている行為は、正義の味方として正しいものなのだろうか

「―――は、何をバカなことを」

そこまで考えて自嘲する。魔のモノという存在が現在の人々に影響を与えているというのはどうあれ、あの破滅思考の男が神として崇めるような存在なのだから、どうせろくなやつではあるまい。ならば、倒してしまったところでなんの問題もないはずだ。

「―――私も魔のモノの影響を受けたか……」

理性の化け物が忘却を強いる悪夢。否、魔のモノという存在によって己の抱いていた負の感情を食われる現象は、つい先ほどまでの眠りの中で、ついにその姿を消していた。そう、おそらく奴は、数千数万年以上における憎しみの収集の結果を見事に食い尽くしたのだ。

忘却の救済は為されてしまった。そうして胸の裡に溜め込んでいた負の感情が澱まで残さず元の色を取り戻した時、心中に残っていたものは、見事なまでにかつて己が大切としてきた記憶だった。

地獄の中で養父に助けられた瞬間。養父と誓いを交わした夜。土蔵で彼女と契約を交わした瞬間。彼女とともに運命の夜を駆け抜けた日々。決着をつけた後の彼女との別離。正義の味方を目指して活動した日々の中にあった平穏。助けた人々から礼を言われた瞬間。

そして、再び巡ってきた運命の夜、凛とした彼女とともに駆け抜けた日々。

それらの悲喜交々の感情を伴って思い出せる、今の自分を作り上げた原点の記憶はどれも色褪せず残り、キャンバスの上で鮮やかに輝きを放っている。それが。その絶望の着色をこそげ落とされた状態の心地よさが、今の私の葛藤を生み、迷いとなったのだろう。

「―――時間か」

エトリアの蒼穹を鐘の音が切り裂いた。長い間隔を置いて鳴り響いた三度の大きな音色に続いて、テノールの小さな鐘の音が三連打で三度鳴らされた。埋葬の予告と、死亡した人間の性別を告げる鐘の音が、漆喰と石畳の街に反響して路地裏の方まで通り抜ける。

東欧風の街に住まう人々は、その西欧式の鐘の合図を受けて、立ち止まり、静かに瞑目する。誰とも知らぬ人間のために、黙祷を捧げるその光景を見て、やはりこの魔のモノと契約をかわした人々が住まう世界には、しかし優しさが満ちていると思う。

「……いくか」

そのまま眺めていると、先ほどの禅問答のごとき堂々巡りに陥りそうだと考え、私は黒服を纏い、ノブを握って扉を開けた。

途端、階下の宿屋の入り口より昇ってきた風が、窓の空いた部屋を通り抜けてゆく。懊悩と苦悩により陰鬱な空気を漂わせていた部屋は、蒼穹広がる空から運ばれてくる快活な風によって驚くほどの爽やかさを取り戻す。その爽快な様は、まるで、真っ白な地塗りすら施されていないキャンバスのようだった。

葬儀の帰り道、合流した「異邦人」一同と共に執政院に向かう。私と同じく黒服を纏う彼ら四人のうち、響とピエールの二人は消沈気味で、ダリとサガの二人は多少落ち込みを見せていたが、ほぼ常と変わらない平生の態度だった。

その悲しみを未だ持ち得る者達と、すでにそれを忘れ去った者達の対比が先ほどの己の葛藤の比喩に見えて、私は思わず眉をひそめた。どうやら過去を引きずる癖はこんなところでも発揮されてしまうらしい。

そんな彼らの内に先ほどまでの懊悩を見つけて、辟易とした気分を抱えながら、彼らの後ろについて行く。やがて高い壁面の雨樋までが真っ白く塗られた壁沿いを静かに歩くと、以前、混乱を避けるために使用した裏口に辿り着く。

裏口を守っている兵士は私たちの姿を見ると、静々と綺麗な一礼をして見せて。門を解放してくれる。何も聞かずに通してくれるあたり、クーマが事情を説明していてくれたのだろう。

開かれた職員用の小さな扉を潜り、質素で殺風景な通路を進む。通常なら人に見せる場所でないためだろう飾り気のない廊下を五分ほども進み、突如として現れる華美な廊下に足を踏み入ると、すぐに目的地へと到達する。

ノックをすると、聞き慣れた声が入室の許可を告げて、私たちは中へと足を踏み入れた。

「……やぁ。事情は聞いたよ。彼のことは残念だったね。まさに青天の霹靂というやつだ。」

遠慮せずに座ってくれ、と着席を勧める彼の言に従い素直に腰を下ろすと、柔らかな素材のクッションがこれまでの疲労を労わるかのように、全身で優しく迎え入れてくれる。位置を調整して背を預けると、先ほどまでの気怠さと気まずさが溶け込んでいくかのような柔和さをそのソファは持っていた。

「……、それでは、早速で悪いのだけれど、番人討伐の報告をお願いできるかな」

「以上です」

ダリが三層番人戦における始まりから終わりまでの流れを一通り話し終えると、クーマは伸ばしていた背筋から力を抜いて、豪奢な装飾の椅子に深く背を預けてため息を吐いた。そうして天井を見上げる彼の顔には、疲労の色の他に、後悔の感情が混じっているように見受けられる。恐らく、特別調査の許可を出した事を後悔しているのだろう、と勝手ながら思う。

「そう、そうですか……。ご苦労様でした」
「いえ……」

彼の疲弊具合に、私たちは誰も続く声をかけられない。瀟洒で整った静かな空間は、謎の緊張感に包まれていた。壁にかけられた時計の時を刻む音だけが、やけに大きく部屋の中に鳴り響く。

「―――」

クーマが口を開きかけ、しかし躊躇して、口を遊ばせるだけに終える。再び訪れる沈黙。おそらくは誰かが舵取りをしないと進まないだろうな、と誰もが思っているのだろうが、クーマは葬儀直後のこちらに遠慮して。異邦人のメンツは疲弊の様子が見て取れる彼を慮ってだろう、己から口火を切ろうとしない。

「―――、クーマ。申し訳ないが、見ての通り、私たちは葬儀の直後で精神的に参っている人間が多い。なにもないのであれば、事務手続きを行ったのち、速やかに退散したいのだが」

仕方なしに、クーマとの顔を合わせた回数が少なく、最もシンという男と関係の薄かった私が口を開く。視線がこちらに集中した。彼らの目には、揃って安堵の色が浮かんでいた。よくやってくれた、よくやった、と言わんばかりのその瞳の群れを眺めて、私は行いの正しさを確信した。

「……ああ、すまない。ええと、そうだな……」

私の急かす言葉にいち早く反応したクーマは、しかしやはり少し躊躇して、けれど意を決したよう一つ大きく頷いて見せると、一転して迷いを捨てて真剣な目をしてその口を開いた。

「―――、皆さん。まずは改めて、お疲れ様でした。あなた方二つのギルドの活躍、および、合同調査により、見つかってから一年以上のも間、一層すら攻略されなかった新迷宮は、多大な犠牲を払いながらも、たった三ヶ月の間に三層までが攻略されたことになりました。本当に感謝しています」

ありがとうございます、と言ってクーマは丁寧に頭を下げた。多大な犠牲、という言葉に響が体を震わせた。体を上下させたのは一瞬。努めて己の意思でその後の反応を抑えたようだが、しかし彼女の反応を空気の振動から感じ取ったのだろう、彼は数秒程もかけて謝罪の意を示し続けたのち、頭の位置を元に戻すと、背筋を整え、一拍を置いてから再び口を開く。

「さて、言うまでもないことですが、我々が皆さん冒険者の方々に迷宮探索の依頼を行い、褒賞金を用意しておりますのは、迷宮の最も奥にある謎を説き明かして欲しいからです。かつて英雄達が旧迷宮の謎を解いたように、誰かに新迷宮の最も奥にある謎を解いて欲しい。それが私たち執政院の願いであります」

一度喋り出すと調子が出たのか、クーマは饒舌に話を続ける。

「さて、その謎についてですが……ところで皆さん。新迷宮の奥地に秘められた謎がなんだかご存知ですか? 」
「えっと……、あの、今さっき、謎だから調査を依頼しているって……」

響が馬鹿真面目に聞き返す。確かに最もだが、そんなことは彼も百も承知だろう。しかし、だからこそ聞いてきたのだ、と考えれば、おそらくは。

「ふむ、具体的にはわからんが、街や冒険者の間の噂では、赤死病の原因はあそこにあるのではないかと言われているな」
「赤くなって死ぬ。周囲の森や地面が赤く染まる。その辺りの共通点が判明した直後、執政院が謎に対して褒賞金をかけたから、そんな噂が立った、と言われているな」

私の言葉にダリが続く。私たちの言葉を聞いてクーマはニコリと笑みをうかべると、頷いて、私たちの言葉の後に続いた。

「はい。仰る通りです。正式には発表をしておりませんが、仰る通り、その認識で大まかには問題ありません」

やはり単なる認識のすり合わせのためか。

「なぁ、でも、街中に流れている噂と一緒だってんなら、なんでまたさっさと認めちまわないんだ?」
「ああ、それは確かにそうだ。正体がわかっているというなら、その方がエトリアに住むみんなも安心するだろう」

サガの疑問にダリが同意する。二人の様子を見ていたピエールは雅やかな金髪を揺らしながら大きく首を振って、苦笑を漏らした。

「やれやれ、わかっていませんねぇ」
「あ、何がだ? 」

サガがその挑発じみた言葉に反応して喧嘩ごしでつっかかり、顔を彼の方に突き出した。そうして差し出された鳶色の瞳の視線をピエールはさらりと避けると、やはり嘲笑じみた顔を崩すことなく答えを返す。

「人、特に冒険者を動かすのは未知です。未知の場所、未知の領域、未知のモノ。この先に何があるのか、この先にどんな魔物が待ち受けているのか、この先にゆけば今まで経験したことのないことが経験できるかもしれないからこそ、彼らは、私たち冒険者は、その未知がなんであるかを確認するために、命を賭して未知なる場所に出向くのです。なのにいきなり、
「答え」を提示されちゃあやる気が削がれるというもの。そんな場所に挑もうとする冒険者は減ってしまうでしょう。つまりは、挑戦者の母数を増やしたいがために、執政院はあえて、答えがわかっているのに、提示しない。……違いますか? 」

ピエールは己の推測を披露し、サガにやり込めてやったと言わんばかりの熱が込められた視線を返すと、一転して涼しげな表情でクーマに問いかけた。緑水の瞳を投げかけられたクーマはニコリと笑うと、口を開く。

「よくご存知です。―――ええ、もちろんそれもあります。特に旧迷宮においては、初代院長のヴィズルが貴方と同じ思考に至り、迷宮奥の謎を知っているにもかかわらず、知らぬふりをして謎に褒賞金をかけることで、冒険者を集め、人の交流を盛んにし、この街を発展させたと言います」
「―――それも?」

帰ってきたクーマの言葉にダリが素早く反応した。彼はその大柄な巨体をのそりと動かすと、クーマの机の方に乗り出して、尋ねる。

「その言い方だと、他にも理由があるということか」
「ええ。その通りです。―――、この際ですからはっきりと述べましょう。私たちは、ああして周囲の地形が赤く染まった場合、そこでは赤死病に関わる問題が起きているのだという事実を知っていた。だから、見つけてすぐに迷宮へ懸賞金をかけたのです」

赤死病。罹患した人間は、体が赤く染まったかと思うと、すぐに死んでしまうという病気。私が迷宮に潜ることを決めた原因となった病。ああ、そうだ。私は目の前で誰かが理不尽に死んでいくのが見たくなくて、迷宮に潜っていたのだった。

悪夢と焦燥に突き動かされていて考える暇がなくてすっかり忘れていたな、と今更ながらに初志を思い出して、内心でそっと自分の馬鹿さ加減を笑う。

「―――、それで、なぜ、今そんなことを明かすのです? 」
「ええ。じつは、皆様に依頼をお願いしたく思っておりまして。その依頼というものが先の事と関係しているのです―――、お引き受けいただけるのでしたら、踏み込んだことも含めまして、お話しいたしましょう」

クーマは柔和な目元にいくつもの真剣の証を刻んで、鋭い目線で私たちを一瞥した。なるほど、未知の事象に魅力を感じるという冒険者の琴線を擽っての交渉は、見事だと思う。

「……、ちなみに、受けなかった場合、クーマさんは私たちに執政院がその事実を隠していたということを知るだけ知って帰る事となるわけですが、よろしいので? 」
「構わないよ。どうせ市井にまで広がっている噂だ。今更君達がそのことを広めたところで、不確定な噂が信頼性の高い不確定な噂になるだけで、確定するわけじゃあない。結局のところ、私たち執政院が発表しない限り、真実はグレーなわけですから」

なるほど。いや、この世界の住人はこういった腹芸をしないと思っていたものだから、少しばかり驚いた。ああ、しかし、そういえばヘイも組合のカルテルを誤魔化すための手段を取っていたな。まぁ、負の感情が有ろうと無かろうと、為政者がこうした含んだ手段を取るのは変わらないらしい。

「―――私としては、受けてもよろしいと思いますが……」

言いながらピエールはゆっくりと首を回してゆく。彼と目があった異邦人のメンバーが彼の意思確認に頭を縦に振ることで答え、そうしてサガ、ダリ、響と続けたのち、体を私の真正面に向けなおして、続けた。

「いかがでしょうか? 」

彼の言葉に部屋の視線が私に集結する。後はお前の意思次第だ、という空気に、ともすればその提案への同意が正しい選択肢のように思えてしまう。さて、どうするか……。

「……双方に一つだけ聞きたい」
「はい、なんでしょうか? 」
「なんなりと」
「ではまずクーマ。聞くが、その依頼とやらは無茶なものでないのだろうな? 機密に抵触するから具体的な内容を言わないという点には目を瞑るとしても、依頼の簡単な難易度傾向位は教えてもらえないと、とてもでないが受領などできん」

これでもだいぶ甘い条件だが、この世界の住人に悪人はいないとの仮定の元、最低限の確認をする。クーマは質問を受けて、失礼、と少しの間額に手をやり考え込むと、数度側頭部を軽く叩き、結論を脳から捻り出して告げる。

「―――具体的な内容はまだ明かせませんが、何をしていただきたいかだけ言ってしまえば、基本的には今まで皆さんがやってきた事と変わらないことを改めてお願いする事になるとおもいます。まぁ、つまりは、新迷宮の未踏の場所の探索と調査と戦闘ですね」
「―――なるほど、了解した。さて、ピエール。クーマのいう、それを仮にわたしだけ受領しなかった場合、君たちはどうするつもりなんだ? 」

返す刀で彼に質問を浴びせかける。すると彼はその薄い唇を奥に引っ込めて、目元を緩めてニコリと笑うと、楽器を鳴らそうとして、しかしないことに気がつき、少しばかり不満の様相が混じった表情で答えた。

「まぁ、当然、私たちも受領を断念するしかないでしょうねぇ。―――、最大戦力が抜けたパーティーで、物理アタッカーの要が抜けた状態であの新迷宮の詳しい探索や調査、戦闘なんか、できるわけがないんですから」

ピエールは話の途中で少し言葉を詰まらせながらも、断言した。最大戦力、のあたりで悲痛の表情を浮かべたのは、おそらくシンという男のことを思い出したからだろう。

「というわけで、できることなら、貴方にも依頼を受託していただきたいのですが」

しかし己の感傷など今は関係ないと言わんばかりに、飄々とピエールは続ける。彼の言動を受けて一同を見渡すと、ダリもサガもピエールの言う通りだと言わんばかりの表情でこちらを見ている。

そうして男三人を見渡したのち、最後に響という少女に目を落とす。紅一点の彼女は、その小さな体の上でセミロングの茶髪を揺らしながら、綺麗な青の瞳を私の方に向けてくる。その真っ直ぐな瞳から、貴方がどんな選択をしようが、私は恨まないし憎みませんという純粋さが見て取れて、少しばかり罪悪感が生まれた。

……、さて、よく考えれば、私の命を救ったあの男と彼女が一人前になるまで見守ってやると言ってしまったわけであるし、まぁ、仕方あるまいか。

「了解だ。この話、私も受けよう。ただし、その話を聞いてあまり無茶なものだと判断したならば、規約がどうあれ断らせてもらうが―――」
「―――、ああ! もちろん、それで構わないよ! 」

エトリアが無茶をおしつけるなら、私は私の好きにやるという宣言を、しかしクーマは快く受け入れて、喜んで手を叩きあわせて答えに対して歓迎の意を示す。さて、この辺りの甘さはやはり不安だの悩みだのの感情を溜め込めない部分からきているのだろうか。

そうして腰を椅子から浮かしかけて喜んだクーマは、己の状態を省みて少し恥ずかしそうに咳払いをして座り直して腰の位置を調整すると、背筋を正して改めて告げる。

「では早速―――、あ、ところで皆さん。旧迷宮の五層について、何か知っていることはおありですか?」

依頼を話すと思いきや、やはり話を脱線させるクーマ。こちらがどこまで情報を知っているのかを確かめてから、足りない部分だけを語るのが彼のやり方らしい。無駄を嫌うその様は、為政者らしい几帳面の現れといえばそうなのだが、そもそも私は何も知らないのだから、最初から全てを語ってくれればそれで済むのにと、回りくどさを感じてしまう。

「ああ、いや、多分、三竜がいるんじゃねーの、くらいしかしらね」
「サガと同じく。噂では三竜や、それに相当する危険な生物だらけで、生半可な冒険者では生きて帰るのも困難だから封鎖していると聞きましたが……」
「私もサガやピエールと同じくらいしか知りません」

サガ、ピエール、響はそう返す。対して、ダリは少し戸惑った様子でクーマに問いかけた。

「私は知っているが……」

いいのか、と彼は視線でクーマに問いかける。そういえば、彼は元衛兵だったな、と今更ながらに思い出す。背の高い彼からの鋭い目線を受けてクーマは静かに頷くと、ダリは所作から了承と説明の依頼の意を読み取って、咳払い一つで場を整えると静かに語り出した。

「旧迷宮五層。今や腕利きの冒険者や有名な冒険者ですら滅多に潜入の許可がおりないその場所。その理由は市井では諸説様々な噂が流れているが、実の所、たった一つの理由なんだ」

ダリは言って、再びクーマに目線を送る。本当に言って良いのか、と問いかける視線に、やはり頷き一つで了承の意を示す。ダリは彼のその所作を見て、 唾を嚥下する音を鳴らすと、意を決して口を開いた。

「―――、その階層の……、第五階層で取れる遺物を持ち帰って欲しくない。あそこにあるのは、かつて世界を滅ぼした道具がゴロゴロと眠っているんだ。そう、あの第五層、「遺都シンジュク」には」

「新宿……、だと……! 」

ダリの言葉に、今までほとんど己は無関係である、という体裁を貫いていたエミヤが過剰に反応する。いつものすました顔は何処へやら、目を見開いて、腕を組んだ体を前に乗り出して、その言葉を発した人物の方へと一歩を踏み出していた。

彼のその言葉に、みなの視線が集中する。すぐさま冷静さを取り戻した彼は、己の醜態にたいしてしくじった、というバツが悪そうな顔で視線を斜め下にそらすと、

「いや……、なんでもない」

と言って、再び腕を組んだ姿勢に戻る。多分本人としては、ごまかしたい話だから気にしないでほしいとの意思表示の態度なのだろうけれど、今度の依頼と深く関わるのだろう旧迷宮の五層に関する情報を知っている反応をみせておいて、放っておかれるわけがないだろうと思う。

「……エミヤ。あの反応を見せておいて、流石にそれはどうかと思うぞ」
「なぁ、エミヤ。お前何か知ってんのか? 」

予想通り、ダリとサガが突っ込んだ。そうして追求の視線と言葉を向けられるエミヤは、しかし聞いてくれるなと言わんばかりの態度で、目を閉じて、腕を組んで、壁に背を預けてこちらとの交信にたいして一切の途絶の意思を貫いている。

やがて一分としないうちにダリとサガが頑なな彼の態度に追求の手を諦めた頃、三人の様子をじっと眺めていたクーマは、静かに息を吐くと、微笑んで告げた。

「エミヤ。貴方やはり、過去からの来訪者ですね? 」
「――――――」

クーマの言葉に、無言と無反応を貫いていた彼が始めて体を揺らした。多分、動揺したのだろう。彼は閉じていた瞼をゆっくりと開けると、その鷹のような鋭い目をクーマに向けて、静かにじっと見つめる。その射抜く視線は、お前は何を知っているのか、と問うているように見えた。その視線をじっと見返したクーマは、一切怯むことなく空中で彼のそれと激突させると、やはり静かに、しかし部屋に響く声で告げる。

「――――――、エミヤ。かつてこのエトリアの旧迷宮を救った五人の一人に、フレドリカという女性がいました。当時はまだ少女に過ぎなかった彼女は、エトリアに来た当初、当時のギルド長ガンリュウの元で職業システムについて深い知識を披露し、しかし執政院でいくつもの常識外れの行動を取って問題を起こして当時のオレルスを怒らせ、金鹿の酒場ではハンバーガーが食べたいといって当時の女将のサクヤを辟易させるひと騒動を起こす問題児であり、この世界では滅多に出回らない銃という武器を使用する、ガンナーという特殊職だったと言います」
「―――、銃……、ガンナー……」

エミヤはクーマのいった一言をつぶやくと、絶句、という表現が相応しい、口を半開きにした顔をする。クーマはその様子を見てにこりと笑うと立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。クーマは表紙が手垢で擦り切れる程読み込まれた本をパラパラとめくると、あるページでピタリと止めて、机の上に置き、差し出した。

「そんな貴方とよく似た彼女は、嘘か真か、この街に現れた当初、千十六歳を名乗っていました。なんでも、この本の記録によると、なんでも、旧世界の遺跡でずっと眠っていて、当時のオレルスに招聘されたハイランダーの方と、ハイラガードからの調査隊によって目覚めさせられたとか」
「――――――」

無言を貫くエミヤは落ち着きを取り戻したようで、身じろぎ一つしないまま、クーマの話を静かに傾聴している。だが、決して気を許したわけではない、というのが、その剣呑な態度から読み取ることができた。クーマはそんな彼の態度を見て、しかし変わらず笑みを浮かべたまま続ける。

「そんな彼女も、エトリアに来てから数ヶ月の間は、必要以上に警戒を怠らない態度だったと聞きます。まぁ、いきなりあの技術の栄えていた世界から、千年以上も後の、彼女の生きていた当時からすれば不便な世界にやってきたのなら、当然といえば当然の態度なのでしょう。……、ですから、エミヤ。私は、過去からやって来たのだろう貴方が、同じように警戒を露わにしていても仕方のないことだと思います。、ですから、私からはこれ以上は何も聞きません。話したくなったら話してくだされば結構です―――さて、話を戻しますが……」

言って、クーマはエミヤから視線を外して私たちを見回すと、本当にそこで話を打ち切って全員にたいして語りかけてくる。クーマの態度にエミヤは、やはり彼にしては珍しく呆気にとられた顔をして、クーマの方に呆然の視線を返していた。

彼の事情が気にならないといえば嘘になるが、たしかに人間、語りたくない事情の一つや二つはあるだろう。なら、わざわざ傷を抉るようなことをしないほうがいいだろうと思った。多分、そうして語りたがらないということは、彼にとって、それは喜びと悲しみが入り混じった複雑な記憶なのだろう、と思えるくらいには、今の私には同情の心と分別があるつもりだ。

「ダリが説明してくれたように、私たちが旧迷宮五層の出入りを制限しているのは、過去の時代の旧異物を持ち帰って欲しくないからです。あそこにある過去の技術の塊は、どれも使っていると、世界樹―――すなわち、この大地の基礎となる環境を悪化させる要因になるものだからです。環境の悪化は、世界樹にダメージを与え、フォレストセルと呼ばれる魔物が生まれる原因となったり、悪食の妖蛆と呼ばれる存在を活性化させたり、あるいは意思を持つに至った世界樹自体が暴走する原因になり、そして―――」

クーマはそこで一旦話を切ると、長い話で乾いたのか、失礼、と言って近くの水差しからコップに水を入れ、それを飲んで息を整えて続けた。

「そうして世界樹が弱まると、世界樹が抑えている魔のモノと呼ばれる存在が活性化し、やがて周囲は、魔のモノが侵食した証として、旧迷宮第六層、「真朱の窟/まそおのいわむろ」のように赤に染まってゆく。そしてその魔のモノの侵食こそが、赤死病の正体なのです」
「―――、……」

エミヤは魔のモノ、という言葉に少しだけ反応して、身じろぎをして見せたが、先ほどの醜態は二度と晒さぬと言わんばかりに両腕を強く握りしめて、不動の姿勢を保っている。なんというか、案外わかりやすい反応をする人なのだな、と思う。

しかし、今はそれどころではない。クーマはとんでもないことを言った。

「魔のモノが……、赤死病の正体……? 」

私はクーマの言った事を復唱する。それは私が追い求めていた謎。私を冒険者へと導いた病気。両親が赤死病で死んで心としまったからこそ、私はこうして今この場にいるのだ。その謎がこうしてあっさりと明かされたということは、私の心に多大な影響を及ぼして、思考は停止へと追いやられた。

「おい、クーマそれはどういうことだ。そんな話は衛兵の頃に聞いた覚えはないぞ」
「ええ、それはそうでしょう。魔のモノの存在と赤死病の正体は、執政院の中でも更に一部のモノにしか知らされていませんから。知っているのは、私とゴリン、今は不在の院長といった、旧迷宮六層の存在をしる人間くらいでしょう」
「魔のモノってぇのは、そんなにすげーやつなのか?」
「ええ。なにせ、奴はかつて一度世界が滅びた原因ですから。その存在を知られたくないが故に、私たちは新迷宮周辺が赤く染まった原因、つまり赤死病の原因が魔のモノと知りながら、それでも知らないふりをして、新迷宮の謎を解いてくれ、とお触れを出して懸賞金をかけたのです」
「赤死病の正体が魔のモノ由来のモノと知られたくないから、ですか」
「ええ。魔のモノの事を話すとなると、五層の事も話さなくてはなりませんし、五層の事を話すと、まぁ、他にも色々な事を明かさないといけなくなりますから。とはいえ皆さんの場合もうこちら側ですし、興味がおありでしたら、魔のモノについてだろうと、第五層についてだろうと今度詳しくお話しして聞かせますよ」
「ああ、それは是非。いやぁ、心が踊りますねぇ」

彼らの会話だけが耳に入ってくる。だが、その様子を観察しようという気にはならなかった。不思議なことに、両親を赤死病で亡くした際にあった悲しいとかの感情は消え去っているはずなのに、彼らが死んだ原因を隠していたという事実に対する怒りがこみ上げてくる。由来もわからないその憤怒の感情は、目の前で朗らかに会話を続ける彼らを目の前にして、グツグツと煮立ったスープのように、その温度を上げ続けていた。

―――じゃあ、そんな貴方達の都合で、シンは死んでしまったのか

「――――――、あ……! 」
「―――、ご歓談中悪いのだがね。そろそろ本題に入ってくれないか? 」

喉元まで出かかっていた沸騰した思いを吐き出そうとした瞬間、我関せずを貫いていたエミヤが口を開いた。彼は普段通りを装ってはいたが、まるで感情というものが抜け落ちたかのような様はどうにも不自然で、それが逆に、彼が冷静を努めているのだなと直感させた。

「クーマ、結局依頼とはなんだ。君は私と彼らに何をさせたいのだ」

そういえば、話の焦点はもともとクーマの依頼であった事を思い出す。逸れていた話の熱に冷や水がかけられた事で、煮沸していた気持ちもまるで蒸気のように霧散してゆく。彼の冷たい一言は、私の煮立った気持ちを冷めさせてくれる効果を持っていた。

ダリやサガ、ピエールに魔のモノの説明を行なっていたクーマは、エミヤの一言を聞いて、またやってしまったか、といった感じのバツが悪そうな顔を浮かべると、いつものように咳払いをして、姿勢を正し、そして告げた。

「はい、私たちの依頼とは、つまりはこうです。新迷宮の奥へと挑み、その奥にいるのだろう魔のモノを鎮めて欲しい。―――、これを使用する事で」
「――――――」

クーマの差し出した赤い石を見た瞬間、エミヤは今度こそ目元から肩に至るまでの間の全ての力を抜いて、愕然という言葉が似合う姿で、その宝石を指差した。

「―――、それは」
「珍しいでしょう? シンジュクの更に地下、真朱の窟の更に深いところで見つけた、世界樹の上という環境では滅多に手に入らない宝石、天然のルビーです。……多分、貴方の生きていた時代でも相当珍しいものだったのでしょうね」

差し出されたそれは、たしかに非常に綺麗な赤い石だった。オーバルカットされたそれは、カッティングされてなお、手のひらに乗せて余るほどの大きさの石で、その縁を彩る金属の造形も素晴らしい。おそらくは一流の職人の仕事だろう。

そうして周囲の光を取り込んで光輝を振りまく宝石は、たしかに気品と風格があったけれど、何故それをクーマは珍しいというのか、なぜそれを見てエミヤが驚いているのかはまるで検討もつかない。だって、あのくらいの大きさのものなら、旧迷宮の三層で取れる鋼石、コランダム原石から造れるルビーやサファイアの方が、よほど大きいものが手に入る。

その答えを求めて周囲を見渡すと、同じような疑問を抱いていたのは私だけでないようで、ダリもサガも疑問を顔に浮かべて首を傾げている。ただ一人、ピエールだけが好奇の視線でその赤い宝石を眺めていた。どうやら彼だけは事情を知っているようだ。

「へぇ、本物の宝石なんて久しぶりに見ましたよ。実家を出て以来です」
「あの……、ピエール? ルビーのどこがそんなに珍しいの? 」

尋ねると彼は、まずは驚いた顔をしてみせて、次に意地悪く口角を上げると、にこやかにクーマに話しかけた。

「クーマ。手にとって見てもよろしいですか? 」
「ええ、もちろん。でも、扱いには気をつけてくださいね」
「ええ。傷をつけてインクルージョンを増やすような真似はしませんよ」

いうと彼はクーマの手のひらから、恭しくハンカチを用いてその宝石を己の手にして、大事に布で包み込むと、両手の平で優しく包み込んで私の前まで持ってきて、広げた。

「覗き込んで御覧なさい」
「―――わぁ……! 」

途端、その透明度に見惚れた。いつものルビーと違って表面に現れる六条の光はぼやけた輝きであるのにだからといって頼りないわけでなく存在感を主張し、そして宝石の中に閉じ込められた光は、いつものとは比べものにならないくらい内部でキラキラと乱反射を繰り返して、宝石の周りに真紅の色をばら撒いていた。

「これが本物の宝石です。私たちが日頃アクセサリーなどに用いる人造のものとは違う、天然の宝石。私の家にあった、六爪の指輪に支えられた透明なダイヤなどより、よっぽど品があり、美しい……」
「これが本物……」

なるほど、たしかに目の前のルビーには、今まで自分が取り扱ってきたもの全てが贋作であると思えるほど、内部は星空の光をそのまま閉じ込めたかのような流動性に満ちていて、決して人の意思が介在しては作り出すことのできない、天然の優雅さと高貴さがあった。

「―――あ」
「―――――――――」

そうして天然の鉱石の内部に作り出された万華鏡の光を楽しんでいると、やがて突然、鑑賞は浅黒い肌によって遮られた。エミヤの大きな手はそっとルビーの縁を掴むと、くるりと回して背面を確認し、そしてもう一度表面にすると、宝石を手にした時と同じように、呆然と驚愕の感情を使い切ったような表情で佇む。

「心配しなくとも、片面半分だけの贋作なんかじゃあありませんよ」

ピエールが言ったそんな言葉も、今の彼には届いていないらしく、ルビーを持った時の姿勢のままで固まっている。目の前に出現した赤のたくましい彫像は、その固定化された外面とは裏腹に、その内面ではルビーの中の光の乱反射もかくやという勢いでいろんな思いが錯綜しているに違いない。一体何がそんなに彼の琴線にふれたというのだろうか。

「―――クーマ、君は一体、これをどこで手に入れたと言った? 」

エミヤは滅多に崩さないその仏頂面を珍しく崩していた。その質問も、思わず素直に口から出てきたという風に見受けられる。どうやらそのルビーの登場は冷静を常の態度と彼の仮面を剥がしてしまうほど、よほどの重大な予想外であったらしい。

「旧迷宮、第五層シンジュクの最下層にある建物から、さらに地下に潜った場所にある、第六層「真朱の窟」の一番下のある部屋に置かれていました。初代院長ヴィズルの記録によりますと、このトオサカの宝石は、魔のモノの侵食を抑制する効果があるらしいのです」

トオサカ。その名前に、今度こそエミヤは感情抑制の臨界点を超えたようで、体内に残っていた分の驚愕を余さず使い切ったかのように、取り繕うのを忘れて、息を呑んで目を見開き仰け反って、愕然とした表情で手にしていた宝石を布の上からそっと握りしめた。

エミヤのその宝石を握る動作は無意識だったのだろうが、しかし宝石に対しての優しさを秘めていて、決して手荒なものではなかった。その思慮と遠慮の入り混じった所作からは、ルビーに対する特別の思いが見て取れて、私は直感する。

―――間違いない。エミヤは、このトオサカの宝石について、何か知っている。

シンジュク、魔のモノ、トオサカの宝石についてなど、エトリアの相当上層部の中でも、さらに限られた一部しか知り得ない、遥か昔に滅びた過去の知識を知っているなんて、普通じゃない。多分彼は、おそらく先ほどクーマが言っていた、過去からやってきた人間、という推測が正しいのだろうな、と勝手に思い始めていた。

しかし不思議だ。

一体、なぜ彼はそんなにも頑なに、そんなどうでもいい事を隠そうとするのだろうか。

木目の扉を開けて部屋の中へと入ると、満たされていた温熱の空気を突き進んで窓を解放する。窓から吹き込んでくる風は、あっという間に部屋と扉の通り道を駆け抜けて、部屋の隅々まで森羅の香りが満ちてゆく。

おそらくそろそろ夏の季節だからだろう、部屋を駆け抜け体を撫ぜる風は、涼しさの中にもどこか生暖かさを秘めていた。部屋の扉が風に押されて、大きな音を立てて自然と閉じる。

女将の文句が飛んでくる前に扉を閉めてくれた一瞬の颶風に感謝すると、胸元より赤い宝石を取り出して夜空に掲げた。すると真紅の宝石は、天空より落ちてくる淡い光と、街中に満ちる街灯の光を表裏より取り込んで、これ以上ないくらいに存在感を主張した。

宝石は月光と燭光を吸収し、その周囲の空間との間に真紅の壁を作り出して内外の関わりを断絶している。己の周囲にオーラを纏うようにして存在感を撒き散らすその所業は、宝石の内部に魔力という余分が蓄えられた状態でしか起きない現象だ。

溜め込まれた内部の魔力が絶え間なく流動することによって生じる独特のこの光の反射がなければ、たとえその姿と宝石が関する名前が、かつて彼女が持っていたものと同じだとしても私はこの宝石が凛のものであると確信はしなかっただろう。それくらいには、この宝石が目の前にあるという奇跡は信じがたいものだった。

「―――、魔のモノを封じる力、か」

そう、これは、間違いなく、凛という彼女が持っていた、遠坂家秘伝の切り札となる宝石だ。かつて己を死の淵から救いあげた宝石が、今この手の中にある。数千年の時を超えた邂逅は、驚愕の事実伴って私を興奮の坩堝に叩き込んだが、夜風と月夜に晒されて淡い光を放つその宝石は、興奮の余熱が収まらぬ私の意識を冷静の状態へと変化させる効力を持っていた。

私は部屋にそよそよと侵入する涼やかな風の移動を邪魔するように窓辺に腰かけると、胸の内に大切に宝石をしまいこんで腕を組む。そうしてそのまま何をするでも無く部屋の中に飛び込む月と街の明かりが生むコントラストの変化を楽しんでいると、部屋の明るさが先の会談の場所のそれと一致したためか、ぼうっとした頭はとつぜん先程のクーマと異邦人一同との話し合いをの事を思い出すこととなった。

―――しかし、醜態を晒してしまったな

新宿、魔のモノ、赤死病の正体、提供された情報はどれも私の裡の琴線をかき乱して胸の底までを混沌に叩き込む十分な破壊力を秘めていたが、特に実体のあるこの宝石を目の前にした際は、逆波渦巻く心中の内部を混乱もろとも欠片も残さず吹き飛ばすほどの威力で、私の余所行きの仮面を全て吹き飛ばしてしまったのだ。

その結果があの無様だ。彼が魔術という存在を知らなかったが故に、己がこの世界にやってきた詳細な理由などを予測して的中させられることはなかったが、それでもだいぶ私の正体と近いところまで勘付かれている。加えて、トオサカという名が過去の記録に残っている事から考えるに、このまま調査が進むと、いつかは己の隠し事全てが暴かれてしまうかもしれない。

―――……、ふむ

そう考えて、喉に骨が引っかかったような違和感を覚えた。……、そもそも、なぜ己の正体が暴かれることにこうも抵抗を覚えるのだろうか。どうせもはや誰も己の事を知らぬ世界だ。また、この世界では、魔術の代わりとなるスキルという技術が隠匿されることも無く一般の隅々にまで広がっている。さらに一部の人間は、過去から来た人間というものを受け入れる度量すら持ち合わせていることが此度の会見で判明した。

そんな世界において今更、己が元英霊で過去の存在であるだとか、魔術という異能を異端者であるとかは、己の正体を隠す言い訳にもならない。ならばわたしは一体、なぜ―――

「―――む」

疑惑を思考しようとしたその時、部屋ごと吹き飛ばすかのような風が吹いた。小さな窓よりその威力を強めながら部屋に入り込む颶風は、窓辺に腰掛ける私の背を強く押して、立ち上がることを強要する。

私はその要望に素直に従って両の足で木板の地面を踏みしめると、背後より不躾な振る舞いをした輩の顔を拝んでやろうとするかのように、振り向いて四角い窓の外へと視線を移した。

「―――ああ」

瞬間、視界いっぱいに広がる、平穏の光景。夜空と街との狭間で自然と人工の光が衝突を起こして、淡い光の霧を生み出している。霧は我を主張することなく、静かにエトリアの街を包み込むオーロラとなりて、森林に囲まれた夜の街に光の帳を下ろしていた。

視線を街から外してみれば、雲一つない夜空、その中心で煌々と輝く満月は、その嫋やかな光彩を惜しげもなく街近くの森林から草原を辿り、山の稜線にまでその領域を広げて、月下は美しきに溢れている。

そこだけ切り取れば、寂寞と雀躍の色を引き裂く様にして希望が塗りたくられたような景色は、まさに負の感情というものと無縁という世界を象徴するかのような寓意に満ちていて、私は、己がなぜこうも己の正体を明かすことに躊躇しているのかを悟らせる効力を存分に発揮していた。

―――果たして。この負の感情が一夜で失われる未来の世界において、私という、もはや別世界と言っていいほど異なる環境にて気質性質を培ってきた人間が考える正義とは、本当にこの世界においての正義と呼べるのか

とどのつまり私は、私の目指す正義の味方というものが、この世界において独善でないかを心配しているのだ。昼間の葛藤と同じだ。私の独善というタッチも色合いも違う異物が、優しさをモチーフにして書きあげられた絵画のようなこの世界に加わることで、絵が元の美しさを損ない、粗野で野卑な贋作めいた作品になることを、なによりも恐れている。

―――私は……

A.いや、こんなことを考えている暇はない。
B.一旦、時間をかけてこの世界のことを深く知る必要があるかもしれない。

→ A:選択

いや、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。クーマはまだ余裕があるとは言っていたが、言峰の言動から察するに、魔のモノは今こうしている時も、負の感情を糧として力を蓄え、なにかを企んでいるに違いない。

宝石を用いて封印作業を行うなら、相手の力は少しでも万全でない内に処理を行った方がいいに決まっている。雑事を考え懊悩するのは、奴らの処分が全て終わってからでも遅くはないはずだ。

私は決心して、一歩を踏み出すと、扉を開けて階下へと向かう。主人を失った部屋の中は、主人の心の伽藍堂を象徴するかのように空虚に満ちていて、扉が静かに閉じられた後はすきま風ひとつ起こらない静寂さを取り戻していた。

―――この部屋に夜明けの光が差し込む時は、まだ遠い。

 

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第十一話 「生き方を選べ」

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜 第十話「悲しみは留められなくて」

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第十話 悲しみは留められなくて

とても悲しいんです、明日も泣かせてください。
どうか、この気持ちを奪わないで。

幼い頃から、小さい身体のせいで人より体力がなかった。人一倍頑張って人並みなんてことはざらだった。ただ、別にそのことを責めるやつがいなかった。誰もが優しく、仕方のないことだと俺を笑って許してくれていた。その優しさが「お前になんて期待していない」っていう宣言に聞こえて、いつだって俺は腹を立てていた。みんなが優しいから次の日には忘れるくらいのどうしょうもないものだったけれど、たしかにあれは怒りという感情だった。

期待されないっていうのは、案外辛い。立派な目標を掲げて、達成できなくっても、返ってくるのが許容の言葉ばかりだと、気が狂いそうになるくらい悔しかった。お前には出来なくて当然だ、っていう言葉に聞こえるんだ。ただ、それを素直に述べると、あの優しい人たちを傷つけてしまうだろうな、と思える程度には、空気の読める人間でもあった。

だから何も言わない。言わないで躍起になって、もっと高い目標を立てて、そして当然のごとく失敗する。そうしてまた慰められて、腹をたてて、そして次の日にはそれを忘れる。いつしか俺は、高い目標を掲げては未達成に終わるのが当たり前になっていた。熱し易く冷め易い。気がつくと俺は、自分が一番信用できない人間になっていた。

それがとてつもなく嫌だった。自分を信用出来ない自分も、そんな自分を受け入れてくれる環境も、とにかく全てが嫌だった。優しさに溺れて腐ってゆく。漫然とした日々の中で、ある日ふと思った。このままここにいたらダメになる。とにかく、もう後のないような所で発奮しないといけない、と思った。だから冒険者を選んだ。

冒険者ってのは、一歩間違えば命を落とす危険な職業だってのはわかってた。だから、選んだ。人一倍頑張って、ダメならそこでバサッと、諦めさせてくれる存在がいる。そう、言ってしまえば、俺が冒険者になるっていうのは、遠回しな自殺を選んだだけだった。

登録をした後、三竜の素材が欲しいなんて口にしたのに理由なんてない。ただ、三竜なんて言葉が出てきたのは、まぁ、それくらい言っておけば、迷惑かけても問題ない仲間と組ませてもらえると思ったのと、直前に有名なシリカ雑貨店で実物を見たからだろう。

そんとき、ゴリンは、ふぅん、と言って、興味なさそうだったから、ああ、失敗したな、くらいには思ったかな。そしたらあいつは、ちょっと待ってろと言って、ギルド長の部屋から出て言った。

その後だ。シンと出会ったのは。部屋を出ていったゴリンは割とすぐに戻ってきて、シンを連れてきて、「お前と同じく三竜討伐を口にしたバカだ」とか言ってたっけか。俺は、ああ、こいつも冗談に失敗した口か、と思って、まぁ、適当な言葉をかけてやろうとして、その隣にいたあいつの目を見て、結局何も言い出せなかった。

なんていうか、あいつはただまっすぐだった。難しい目標を当たり前のように掲げて、一心に曲げない。難しい事に挑むのが、当然って顔で、ただまっすぐこっちを見ていた。ゴリンの横に立っていたあいつはズカズカとやってきて、目をキラキラと輝かせて、言った。

「これからよろしく」

その、俺のことを同じ目的を持つ同士と信じてやまない目を曇らせるのが怖くって、断ろうなんて気になんてなれなかった。今でもそのことは間違いじゃなかったと信じている。多分その時からずっとサガという人間は、シンという男のまっすぐなあり方に惚れていた。

「あ、……………と…」

言いきらず、シンが目をつぶった。その顔は安らかで、まるで。いや。間違いなく。

「―――おい、おい。嘘だよな? 」

死んでいた。体を揺さぶるもなんの反応も返ってこない。こいつがタチの悪い冗談をつけるような人間でないことは、俺がこの場にいる誰より知っている。だって、俺はこいつとエトリアで初めて出会った相棒なのだ。

「おい、おい、おい! 」

体を大きく揺すった。首が上下左右に大きく揺れる。その動きに意思は感じられない。瞑目した瞳を思いきり開く。瞳孔が拡散していて、光が入ったというのに一切の反射が見られない。その様に腹が立って胸を叩いた。拳の先から伝わって来るのは、解体した動物の生肉を叩いた時のような、命の失せた肉独特の、柔らかく、抵抗のない、気持ちの悪い感覚。

だがまだ暖かい。それだけは救いだった。この拳から伝わってくる感触が、彼の命がまだそこにあるような感覚を肌身より与えてくれる。この薄くしっかりとした胸板を撫でてやれば、生き返るのではないかと思い、拳を開いてシンの胸に手をあてて、そして絶望する。

心臓が動いていない。こんな現実あってたまるものか、と、砕けそうなほどに奥歯を強く噛み締めて、胸に拳を振り上げて思い切り力を込めた。掌に爪が食い込む。肩から先が落ち着きを忘れたかのように激しくぶれている。

「―――っああ……っ!! 」

そしてそのまま真下に振り下ろして、地面に思いきり打ち付けた。血と泥が弾けてあたりにいる人間の服を汚す。鈍い衝撃と鋭い痛みが同時にはしった。持ち上げると指の背の皮が砂つぶとの接触に耐えきれずいくつもの擦過傷が出来ている。

痛みが余計に昂ぶった感情を苛立たせて、俺は思いきり地面を殴りつけた。汚泥が舞うがそんなことは知った事でない。次から次へと湧き上がる持って行き場のわからない感情を発散してやるべく、駄々をこねる幼子のように連続して地面を殴打する。

「――――――っ、ぁ、あっ…! あっ! ああっ……! ああああああああ……!! 」

わからない。なぜシンが死んでいる。死んでなどいるものか。いや、死んでいるとも。嘘だ、デタラメだ。そんな事は信じない。信じなくとも真実だ。なんなら鬱憤のぶつける先を奴の体としてやるがいい。死んでいないのなら存外その一撃で起きるかもしれないぞ。そんなことできるものか。必死で戦って俺らを守って逝った男の遺骸だぞ。そんな尊厳を貶すようなことできるわけないだろう!

―――ああ、なんだ。お前、認めているじゃぁないか。
―――何をだ!
―――その男が死んでいるということをだよ

「…………っ! 」

理性は現実を指摘する。感情は必死に現実を否定する。しかし今、感情は理性に矛盾を指摘され、目を逸らしていた事実に直面させられた。振り上げた拳が止まる。指の皮はズル剥けて血と泥に塗れている。息が苦しい。胸が圧迫され、肺は空気を求めて必死で呼吸を試みるが、肝心の命令が筋肉に届いていない。

脳は痛みを訴えて拳の治療を命令する。脳は呼吸の再開を命令する。本能は冷静に、目の前の現実を受け入れて、自らが生きるための活動を行えと、命令を出す。その冷徹さが気に食わなかった。目の前で親友が死んでいるというのに、己のことを優先にするその根性が癇に障った。

「―――っくしょぉおおおお……!! 」

最後に思いきり振りかぶった拳を地面に振りおろすと、肺の中の空気を吐ききった。拳の勢い泥の摩擦の少なさに負けて、体が地面に向かって傾く。そこまでだった。頭がかっと燃えるような熱さを帯びたかと思うと、視界がぼやけて黒く染まる。

消え失せてゆく視界が最後に捉えたのは、シンの力の入っていない両腕が出鱈目に投げ出された姿を見かねたピエールが、彼の腕を組み直し、瞼を閉じた状態へと整える場面。

―――シン。俺が悪かったよ。手荒にしちまってごめんな。ピエールも、ありがとうな。

そんなことを考えた瞬間、頬が冷たさと生温さを感じ、意識は闇に消えていった。

シンは本当に純粋だった。三竜討伐を目指して、本当にまっすぐだった。あいつにはいうだけの才能もあった。あいつは出来ると思うと突っ込むタイプで、本当にやってのけるタイプだった。ただその分、俺らに求める目標も高くって、ダメだと思うと割と素直にダメというやつだった。

自分でもダメだと思ったところをダメだと指摘するやつは初めてだった。俺はその今まで誰も向けてくれなかった言葉が嬉しくて発奮した。自分をきちんと見てくれるやつだと思った。才能が無いなりに、必死で食らいついていこうと頑張っている時が一番幸せだった。

唯一シンの欠点は、人の気持ちに疎いところだった。それを指摘してやれるのがちょっとばかり優越感を感じる出来事だった。そうして空気の読めない発言をするあいつをやり込めるのは、すごく気分が良くなれた。あいつがそうしてそうだったのか、というって頭を下げてくれるのが、内心、すごく嬉しかった。

ああ、ごめんな、シン。俺がこんなんだから、お前を死なせちまった。才能ないのに、冒険者なんてやってから、お前に迷惑かけちまった。ごめんな。悪かったよ。お願いだから戻ってきてくれ。シン。

頼むよ。

頼む。

シン。

出会った時は気づきませんでした。シンは特別でした。あれは、天才という部類の人間です。強すぎて、並び立つものがいない人間でした。誰も彼を追いかけない。そんな彼に追いつこうと必死だったのが、唯一サガでした。

サガが必死で食らいつく。それでも追いつけなく、でもサガは己のダメな部分をはっきりと指摘するシンの横にいて、不貞腐れたように文句を返していましたが、それでもサガは嬉しそうにその隣に並び立とうと努力していました。才能という点でも、性格という点でも、彼らはいい凸凹コンビでした。

シンとダリは決定的に反りが合いませんでした。シンが無茶を邁進しようて、ダリがそれを首根っこ掴んででも止めようと立ち塞がる。ブシドーとパラディンという職業面で言えば、互いの能力が恐ろしく噛み合う二人は、性格面ではまさに水と油という程でした。

ただ、彼らは二人とも互いのことを認めていました。ダリはシンの能力についていける稀有な能力を持つ人間だったのです。彼は才能を補う経験を持っていました。ダリとシンは互いのやり方を嫌いながらも認め合い、いざとなればその相手のやり方にぴったりと息を合わせることのできる、矛盾を形にしたかのような関係でした。

シンが鬱屈としたものを抱えているとわかったのは、響という少女を連れてきた後、エミヤという男が一層を攻略した時のことです。彼は、その時からかつて出会った頃の彼に戻り出しました。二年という長い時間が彼のことを変化させていたのだ、ということに、私はその時初めて気がつきました。

彼は自分より先に迷宮を攻略されたのに嬉しそうでした。目的が遠のいたのに嬉しそうでした。自分より上位の存在の出現に瞳を輝かせていました。そのとき瞳は、初めて迷宮に潜る際、彼が見せたもので、なんとも純粋な色をしていました。私は初めて、彼がずっと孤独を抱えていた人間だということに気がついたのです。

あとは記憶から彼の言動を思い返すだけで、私は彼の抱える闇は簡単に気がつきました。彼という純粋に見える人間にも、別の顔があるのだな、と思うと、そんな秘密を私だけが知っているということが、さらに私の胸を高鳴らせました。その時、私は改めて、私はシンという男を好きなのだな、と思わされたのです。

赤く燃えた様な樹木が鬱蒼と地面に波濤を作る中、静寂な空間を引き裂いて、サガの咆哮が響いています。大小安定しない音には、返せ、シンを返せと痛切に叫ぶサガの心中に響く無言の叫びが。乱れた音階には情の様々が現れていて、なんとも悲しい鎮魂曲を奏でていました。

サガの悲痛な号泣の様子は私を冷静にさせました。サガがシンの体を揺らし、死を認識したのち、喚いて叫んで地面を殴って繰り返しています。咆哮と号泣より伝わる悲嘆に共感するのが辛くて、目を逸らすと、シンの体が悲惨な状態になっていることに気がつきました。

白くなった体は、両の瞼が開いているとも閉じているとも取れない状態で、両腕はそれぞれあらぬ方を向いています。その壊れた人形のような様はいかにも命の喪失を想起させ、不憫をと思いました。だから、せめて全力で生き抜いた男の死に様としてふさわしい様に戻してやろうと考えたのです。

シンの尊厳を守る。それを目的として、私は泣きじゃくるサガと両手に持った剣を地面に向けて呆然としている響の間を通り抜けて彼に近寄りました。彼の骸の頭部部分へ回り込むと、楽器を地面に敷いた布の上に下ろし、その頭部に触れ、そして肩を持って持ち上げ、正しました。

力の入っていない人間の上半身は、それなりに重いものでした。斜めに傾いていた彼の体を直線に整えてやると、乱れた髪を整えて、中途半端に開いた瞼をきちんと閉じてやり、あらぬ方向に曲がっている腕と指先を取ると、胸の上で指を絡ませ、両手組ませてやりました。

ようやく彼はきちんと尊厳を持った体裁を取り戻します。顔をじっと見ていると、今にも起き上がってきそうな笑顔を浮かべる彼は、しかしやはり物言わぬ骸のまま横たわっています。ああ、死んでいる。そこで私はようやく、シンが死んだのだという実感を得ました。

彼の死を悼んで、彼の生き様を振り返って、思わず涙を流しました。彼の目標に向かってまっすぐと進む姿は、私にとって頼れる指針そのものでした。彼と一緒にいれば、まだ見ぬ世界を見ることができる。彼は私に最高の刺激を与えてくれる、無二の親友でした。

サガとの凸凹っぷりも、マギとアムにだけは頭の上がらない様子の彼も、ダリとの反りの合わなさも、響という少女とのドタバタも、エミヤという男に憧れる彼も、その全てが、かけがえのない、日々でした。

――――――だ、だから、わ、わたしは、こ、こ、こんな、こんな。

「こ、こんな、……っ、ところで、まだ、っ……ひっ……う、もく、もく、も、もくてきの、あ、さ、さんりゅうもたおしてないのに、ま、ま、まんぞくげに、いく、なんて……っあ」

帽子を伏せて、顔を隠します。痛んだ声帯はそれでも彼の死を悼んで、掠れた声を絞り出しまて、嗚咽が止まりません。滔々と溢れる涙はとめどなく頬を伝って彼の顔元に垂れました。水滴が彼の顔に落ちると、彼の汚れた顔を伝い涙は流れて行きました。

どうか今一度と立ち上がってその無礼を怒ってくれと祈っても、蘇るのはシンと迷宮を旅した日々の追憶ばかりで、彼は横たわったままピクリともしません。しかして悲嘆に染まる脳裏に浮かぶ記憶の中では、彼は誰よりも早く戦場を自在に駆け回って敵を斬り伏せ、そして、いつもの様に不遜に笑って見せるのです。それが一段と追憶を色付けて、胸に痛みを呼び起こすのです。

記憶と痛みに顔を隠していた帽子を浮き上がらせると、彼の死に顔が目に移りました。閉じたその瞳の奥にあった純粋さと潔癖な部分が生む、真っ直ぐな視線。自分が下手を打っても当然別のメンバーが尻拭いをしてくれると信じてやまない感性は、性格も性質もバラバラな私たちを強く結びつける硬い絆の象徴でした。

移ろいゆく世の中でも不変を貫こうとする強さを彼は持っていました。このままいつまでも、変わらぬ彼の側で活躍を見続けることができるのなら、それはなんて幸せな日々なのだろうと懸想していました。

しかし、今、もう、彼はいなくなりました。強かった彼は地面に臥してしまい、真の意味で永遠に変わらぬ存在になりました。零れ落ちた精神は天に帰りました。やがて肉体も地に帰るのでしょう。見上げると、あたりを照らす光量が徐々に減り、夜の闇が到来しつつあることに気がつきました。

世界はシンがいようといまいと変わらず時を進めて、空の色を刻々と変化させてゆきます。そろそろ太陽と月が役目を交代する時刻です。私は太陽のことは嫌いでないですが、全ての影を白日のもとにさらけ出してしまう太陽の光が好きではありません。

変化の中で不変であろうとする存在は好きですが、真に不変なものは嫌いなのです。

煌煌と輝く強い光は、いつも完成したパズルの様な完璧さを見せ付けます。雲があろうと、地面を端から端まで照らすことを可能とする太陽の光の強さはかわることはありません。永遠に変わらぬという存在であるという不遜さが、私は気に食わないのです。

対して月とその光、そして、太陽と月の二人が主役として舞台に上がる、この茜色のあやふやな瞬間を好んでいます。不変の存在であるはずの太陽の光がしかし、力を使い果たして舞台を月の光に明け渡します。

月の光は頼りなく、雲がその姿を遮った途端、地面は闇の中に消えてしまいます。その、なんとも頼りなく弱々しいけれど、しかし姿を表した瞬間、意地でもはるかのように天と地を明るく照らしてやろうと儚く光る強情さが、素晴らしいと思うのです。

例えて言うなれば、シンは月で、シンの足跡は月の光でした。私たちは彼の照らす光に従って歩く旅人だったのです。彼の放つ光は弱々しくともすれば見失ってしまいそうな程のものでした。

しかし、だからこそ、旅人である私たちも積極的に光を見失わないよう努力をし、そして彼と私たちは彼の照らす仄かに明るい未来の地図を辿ることで、迷宮という暗闇を踏破して来れたのです。彼と私たちの間には、確かな協力関係がありました。

しかしそこに、エミヤという太陽が現れました。太陽が光で全ての場所を露わにするように、彼はその確かな実力を持って、単独にて新迷宮へ挑み、番人を倒し、地図を作りあげました。そう、いわば彼は完成した地図なのです。

その地図を見てしまったが最後、もうそれ以外の答えは得られないと周囲の人間を納得させてしまう完璧で絶対的なものでした。それほどまでに彼の実力は隔絶しており、出した結果は非の打ち所がない理想的な功績でした。

実力と功績に遠く及ばぬなら諦めてしまうのが凡人の性分ですが、しかし我々の中でも飛び抜けて高い才能と実力を持っていたシンという月は、強情っぱりの彼は、己もその高みに登りたいと望みました。だからこそ、番人討伐の共同戦線をあれほど拒んだのでしょう。

シンはエミヤという男に憧れていました。エミヤという男が、どんな実力で、どんな戦い方で、どのようにしたら単独で迷宮に潜ろうと考えられるのかを知りたがっていました。単独での迷宮攻略を試みて結果を出しただけの彼に罪はありません。弱かった私たちに、彼がいなければ先の番人戦でただ無残に殺されていただろう私たちに、文句を言うことなどできません。

ありませんし、できませんが、それでも、それでも、なぜは彼はそこまで強く、私たちが五人がかり倒せる番人を一人で倒せる実力がありながら、それでも、なぜ、シンを助けてくれなかったのかと思うのを止めることはできませんでした。

八つ当たりでしかない感情の名前は、理不尽極まりない身勝手な憤怒。エミヤという恩人に対してそのような感情を抱くなど、彼に憧れたシンが誰よりも望まないことはわかっていながら、しかし、私は輝かしい功績と高い実力を持つ彼に醜い感情が溢れてきます。

醜い。あまりにも醜い。こんな刺激はいらない。だれか。こんな私に罰を与えてほしい。

ああ、シン。どうか、出来ることなら、もう一度起き上がって、この不甲斐ない私を殴り飛ばし、叱りつけてください。切に願ったところで、死人は蘇る事など無く、私はシンが永遠に失われてしまった事実に、涙と嗚咽をあげて哀悼を捧げ続けていました。

ああ、そうだ。この胸を裂く痛みが薄れて消えてしまう前に、せめて今回のシンの活躍を見た際に感じた想いに、歓喜の感情を乗せて、歌に残しておかないといけない。どれだけ胸を裂く痛みだろうと、このままだと明日にはこの悲しみは、色褪せて鮮やかさを失ってしまうのだから。

あの男が死んだ。私をこの道に引きずり込んだ男が死んだ。彼の三つに切り分けられた体が一つになり、息を吹き返したのを見てしまったためか、未だに彼が死んだという実感がない。いや、違う。死んだという確信はあるのに、その事実を淡々と受け止められてしまっている。

うつ伏せに倒れこんだサガを仰向けにしてやると、シンの遺骸の前に進み、手を合わせて冥福を祈る。祈りをすませて立ち上がると、他のメンバーの様子を見て立ち上がる。普段は飄々としているピエールも流石に仲間の死は堪えたようで未だに嗚咽が続いており、響は口を開いて呆然としたままだ。気持ちを整理する時間も必要だろうと、目線を切って立ち上がる。そうして槍盾を構えて両の足で大地にしっかりたつと、周囲を警戒する。その挙動を取った時、己があまりに冷徹な対処を取っている事に驚いた。

悲しいのは悲しいのだが、彼らほど過剰な反応を見せられるほど、気持ちが湧き上がってこない。ああ、死んでしまったか、と残念に思い、悲しいと思うだけ。死んでしまったものは戻らない。そう思ってしまう自分がいる。そう理解して、取り乱すのをやめた自分がいる。

私はサガやピエールの様に外聞も何も捨てて泣き喚き取り乱す程、響の様に、呆然と思考停止の状態で固まる程、彼の事を親しく思っていなかったという事なのだろうか。そう考えると胸が痛い。

去来したのはのは疎外感だ、自分だけが彼らと違うという事実はたまらなく自分の裡を刺激した。ああ、私は自分の事はこんなにも哀れむ事ができるのに、人の死に対して何故こうも希薄にしか反応できないのだろうか。己を哀れと思う気持ちは自らを余計に惨めにする。

「君は冷静なのだな」

エミヤという男が尋ねてくる。そういえば、彼だけはシンの死に対して過剰な反応を見せていない。共に過ごした時間が短いためだろうか。もしや彼も他人に情を抱きにくい人間なのだろうか。

「そうだな。自分でも不思議なくらいだ。涙の一つでも出るかと思ったが、そんな事もない。悲しくないわけではないのだが、あそこまで大業に反応ができない」

己に対して情けないと思うたび、去来する胸を刺すような痛み。こんな風に自分ごとでしか悲しみの感情を生み出せない自分がなんとも惨めに思えて、泣きたい気持ちになる。その泣きたいと思うのすら、自分のためだと思うと、余計に惨めになる。

―――ああ、ほんと、なんという無様さだ。

「……なるほどな。……ダリとか言ったか。君、元々は別のギルドに所属していたか、あるいは冒険者でなく、医者とか、兵士とか、墓守とか、そういう職種だっただろう? 」
「……確かに私は以前エトリアの衛兵だったが、どうしてそう判断した? 」
「冷めている、というより、割り切れている風に見えたからだ。誰かが死ぬという事態に死に慣れているからこそ、親しいものが死んでも割り切った態度が自然と取れてしまう。多分、君は彼ら以上に人死に接してきたのだろう。人死には残念と思っているが、喚いたところで死人は蘇らない。このエトリアでその絶対的な理を腹に落とし込める事ができるほど、人の死に接する経験のがありそうな職業というと、私の知る限り、先の三つだったというわけだ」

死に慣れている。彼の言った言葉は私の胸の中へすんなりと落ち込む。なるほど、的確だ、と思った。確かに衛兵だった頃、私は自分の実力以上の場所に挑んで死した冒険者たちの遺体を何十人も回収して来た。初めて死体を見たのはもう何年前のことだったか……、あれは衛兵になり、半月ほど経った頃のことだったはず。

酷いものだった。仲間の遺骸を回収したいとの連絡を受けて減った人間の一時的な補填として同行した私は、やがて見つけたかつて仲間だったモノを前に泣き叫ぶ彼らの感情に引きずられるようにして、涙を流しながら嘔吐した。

迷宮の獣共に食い散らかされた彼らの亡骸があまりにも無残な残骸に成り果てていたからだ。そう、彼らの死を悼んで無様を晒したのではなく、晒された跡の凄惨さが齎す嫌悪感と己の目の前にある残酷な現実を否定したいとの恐怖によって大いに泣き、吐瀉したのだ。

―――ああ、なんだ。私は初めから、そうだったのか。

そうして初めは無様を晒した私は、任務を終えて帰ったのち、私の様子を見て心配してくれた先任の衛兵に「大丈夫。明日になれば、きっと、もう平気になってるさ」と優しく声をかけられた。その時は、何を言っているんだ、そんなことあるわけないだろう、と反感を抱いたものだったが、実際のところは、たしかにそう、その通りだった。

そう、あの時も、なぜだろう、と考えた。他人の結果より齎されたものとはいえ、自分の裡から湧いて出た己への憐憫という強い感情がたった一日で消えてくれる理由がどうしてもよくわからなかった。

言葉をくれた衛兵の彼に聞いても、彼は苦笑いして、「俺もそうだった。俺の前のやつも、同じ時期に衛兵になったやつもそうだった。そういうものなんだ」
と、答えるばかりで、はっきりとした答えは結局でなかった。

二度目、私は吐くのを堪えた。夜に怯えるのは止められなかった。三度目、私は泣くのも堪えられた。負の感情は夜寝る前には消えていた。四度目でからは平気になっていた。そうだ、私はそうして慣れていったのだ。

五度目からは細部を覚えていない。持ち帰った遺骸を前に泣き崩れる彼らの側でその様を見守ったのも、共に出向いて遺骸を回収しに言った時、迷宮の中で敵を呼び寄せるかの様に大声をだして泣き喚く彼らが魔物に襲われない様に見張っていた事もある。

ああ、なるほど、慣れか。確かに私は彼らより死に慣れている。慣れてきたのだ。エミヤという男の言葉は、胸の裡でもやもやとしていた霧の一部を晴らしてくれた。自責の念が少しばかり薄れる。すると現金なもので、余裕は疑問を呼んだ。

「何故私が最初は冒険者でなかったと見抜けたのだ? 」
「なに、彼らが知人の死にああも反応しているのに、君だけは冷静だったからな。一度結成したのなら解散をする事が滅多にないと言われるギルドの、その集団の人間が仲間の死に慣れていない反応をするものだらけの中、一人だけ割り切った反応を見せる男がいるのなら、それはそいつが元々は違うところに所属していたと考えるのが自然だろう? 」

私は頷いて返すと、そこで再びシンの遺骸に縋りつく仲間達の様子を眺めた。彼らは未だに現実を受け入れられずにいた。彼らの様を羨ましく思いながらも、私は周囲を見渡した。静けさを保っている森は変わらず葉から樹木に至るまで赤く染まっているが、その影が薄くなっている事に気付ける。樹木の間を縫って差し込む光の量が少なくなっているのだ

「エミヤ。そろそろ夜が近い」
「……その様だな。それで? 」
「夜になると迷宮はまた違った姿を見せる。魔物が活性化する事も少なくない。安全を考えるなら、そろそろ引くべきだろう」

彼はさもありなんという様に肩をすくめると、視線をシンらの方へと投げかけた。その顔は、わかったが彼らはどうするのだ、と問うている。私は少し戸惑い心中で覚悟を決めると、多少落ち着きを見せたピエールに話しかける。

「……ピエール。いいだろうか」
「……ええ。聞こえていました。……っく、戻るのでしょう? ええ、大丈夫です。……っく、今のシンなら、体がばらばらになる事もないでしょう。……っ、死んでいますからね……」

己の口から出た言葉に、ピエールが再び静かに涙を流した。私はきっとこれが普通の感性なのだろうなと考え、彼らの様に素直に悲しさを表現出来ない事を少し寂しく思った。そして結局、自己憐憫しか出来ていない自分の事を、やはり惨めだと強く感じる。

「そうだな。その通りだ」

己の疚しさを誤魔化すよう私は努めて冷静に言ってのけると、使う予定などまるでなかった人の大きさほどの柔らかい皮袋を取り出し骸となった彼を入れてやり、槍と盾を背中に回して自由になった両手でシンの遺体を抱きかかえた。力の入っていない彼の体は、その細身の外見に反して重く、しかし彼のかつての力強い言動からは考えられないほど軽かった。

「ピエールは響を頼む。エミヤ。悪いが、サガを頼めるだろうか」
「ええ、わかりました」
「了解した」

ピエールは地面に目線を固定させたまま呆然している響の頬を何度か叩くが、彼女はまるで反応を見せない。ピエールは彼女の腕を持ち上げると、自らの首に回し、無理やり立ち上がらせ、そして少し顔をしかめた。彼女がシンの剣を片手で固く握りしめたまま無反応で、己の体重を支える意思すら見せないので、予想以上に負荷がかかったからだろう。

エミヤは、仰向けで気絶しているサガを持ち上げると、肩に引っ掛けた。サガが身につけている籠手を回収すると、少し考え込み、そして上下が切り裂かれた番人の巨大な頭部に剣を突き立てて上下の顎が離れぬよう固定すると、それを持ったまま涼しげな様子でこちらに顔を向けて言う。

「番人を倒したと言う証は必要だろう? ……それで、戻ってどうする? 」
「まずはシンの遺体と気絶した彼らを施薬院に運ぶ。預けた後、発行される証書を持って、執政院でシンの死亡と番人討伐の報告と手続きを行う。エミヤ。悪いが、執政院まではご同行願いたい。番人討伐の報告には当人がいたほうがいい」
「了解だ」
「ピエール。糸を頼む」
「……はい」

ピエールは回収した響の鞄を漁るとアリアドネの糸を取り出して、その糸を解く。力が解き放たれ、効力が発揮される。飛ばされる寸前、抱きかかえたシンの遺骸をもう一度眺める。
彼の活躍を見る事はもうないのだな、と思うと、不思議と今まで気配も見せなかった感情が胸中に襲来して、涙が溢れた。

この感情は、この涙は彼と共に戦えなくなった自分を憐れむ身勝手がもたらすものなのか、真に彼の死の悲しみを押し殺していた事によるものなのか。

―――できれば後者であってほしい。

判断を下す間も無く、私たちの体は光の中に消えてゆく。

エトリアに戻った私とダリたちは、驚く転移所の衛兵に番人の頭部を預けると執政院までの運搬を頼み、シンの遺骸と動かない二人を施薬院に運びこんだ。

薬院の人間は淡々と彼の遺骸を受け取ると、死亡証明書を発行し、ダリがそれを受け取る。そうして発行された証明書を持ってダリは受け取ると、ピエールにその場を任せて私とダリは執政院に向かった。

私たちが施薬院の扉を潜り表に出ると、賑やかだった広場は一転して不自然なまでの静けさに包まれた。音の代わりに痛いほどの多くの好奇の視線が私たちに注がれる。少しばかり怪訝に思ったが、己らの姿を顧みて納得した。大半が獣のものとはいえ、血と脂と異臭とに塗れた人間が突如として出現すれば、この様な反応の一つをされても仕方があるまい。

一歩を踏み出す。聴衆は黙って一歩引く。海を真っ二つにしたモーセがやった様に、一歩ごとに人波が割れてゆく。その様を無視して進む。嫌悪や畏怖で進む道が拓かれてゆく様は
かつての己の生涯を思い起こさせて、余計な感傷を抱かせた。無様だ。

無音の空間に石畳を叩く靴音と人の散してゆく音だけが響く。陽は落ちてすでに辺りは暗い。広場中央に設置された灯籠が私たちの影を町の外に向かって生み出していた。暗い道に生まれた影を追う様にして執政院に向かう。

そして執政院の前までやってくると、院の前で警護しているにいる衛兵と目があった。彼らは私たちを見て少しばかり目を背けようとしたが、思い直したかの様に頭を振ると真っ直ぐ正面より無言で敬礼をして構えた。

「番人の討伐、お疲れ様です。持ち帰られました証拠の品はすでに鑑定所の方に運び込まれております。どうぞ中へ」
「ありがとう」

横にやってきたダリが礼を述べると、兵士たちは再び姿勢を正して敬礼して見せた。その横を通り抜けて執政院の巨大な門を潜る。すると背後から重苦しく鈍い音が聞こえ、そして広場より入り込んできていた光が途絶え、一切の音が聞こえなくなる。門が閉められたのだ。

「珍しい事もあるものだ」

ダリがポツリと漏らした。

「何がだ」
「門だよ。昼夜問わず終始開かれているあれが閉じられるなんて滅多にない。雨風が余程強い時くらいだ。余程の事情がなければあの門は閉じられない」
「なら、そういう事なのだろうよ」
「ん? 」
「私たちの来訪が余程の事情であるのだろう」

彼は荒げた鼻息を一つ出して、納得の返事としたようだった。静かな暗がりの廊下を歩くと、すぐに受付までたどり着く。緊張の面持ちで私たちを出迎えてくれた受付の人間は上擦った声で「ようこそ」と言ってのけると、「どのようなご用件で」、と続けた。

「番人の討伐。それとギルドメンバーの死亡報告だ。担当者に話を通してもらいたい」

ダリの言葉に受付の青年は体をびくりと浮かせた。全身に緊張が走り、少し強張った様子を見せる。おっかなびっくりとしながら、青年は口ごもり、しかし、質問をした。

「あ、っと、その、死亡の? 」
「ああ。番人戦は討伐したが、一人死亡者が出た」
「……その、ご愁傷様です。……施薬院の方へは……」
「遺骸は既に運び込んだ。これが証明だ」

受付の青年はダリの差し出した書類を恭しく受け取ると、具に紙面の上から下までに目を通す。文字をなぞる指先が紙片の一番下まで到達した時、一度目を瞑り、小さく頷き、言う。

「はい、確かに受領いたしました。番人の討伐も含めまして、担当の者に伝えておきます。すぐにお会いになられますか? 」

受付の青年はダリと私を交互に見て、告げる。ダリがこちらを向いた。

「エミヤ、どうする? 」
「私はどちらでも、……とは言いたいが、いささか消耗が激しい。左腕を施薬院で見てもらいたいというのもある。後日に改めてということにしてもらえるとありがたいが」
「そうか、わかった。そうしてもらえると、こちらとしても助かる」

ダリは頷くと、受付の青年に言う。

「というわけだ。すまないが、後日改めて担当の方へ報告ということでお願いしたい」
「承知しました。日時はいつ頃ご都合よろしいでしょうか? 」
「……いや、すまない、それもわからない。施薬院に運び込んだ生き残りの仲間の事情がある。……そうだな、二、三日中に来るようにはする。すまないがそれでよろしいだろうか? 」「承知しました。そういたしましたら、この受付票をどうぞ。受付の者に渡せば話が通るようにしておきます。ご都合よろしい時においでください。あとこちらは、皆様が持ち帰った素材の受領証です。合わせてどうぞ」

青年は恭しく二つの書類を差し出してきた。ダリは受け取ると、礼を述べ、こちらを向く。

「さて、エミヤ。では施薬院に戻ろう。細かい話は向こうで」
「了解した」

返事をすると、彼は書類を胸元にしまいこみ、先んじて歩き出す。その足取りは仲間を失ったばかりとは思えないほどしっかりとしたものだった。

一同と別れた後、宿へと戻った私は、出迎えた女将に仰天されながらも着ていたものを剥ぎ取られ、風呂桶の中に叩き込まれた。張り替えられたばかりの汚れの浮いていない湯に、私の血と汗と疲労が溶け込んでゆく。湯に浸かりながら、今日ついたばかりの傷跡が一つとしてなくなった左腕を眺めた。

番人との戦闘の際、千切れた左腕でも違和感なく戦えていたのは、己の全身にかけていた強化の魔術と昂ぶった精神のおかげだったのだろう、番人戦において地面と唾液に塗れた傷口を多少洗浄した直後、無理やり接合した腕は、当然というか傷口に残留物が残っていた。

そして、迷宮から戻った直後、無理やり接合した私の腕は痛みによりその違和感を訴えていた。その悩みをまるごと取り除いてくれたのが、ケフト施薬院の医者だ。医者のスキルによる治療は、迷宮で千切れた部分の違和感を見事に無くしてくれていた。見事なものだと思う。

ただ、痛みもなく、腕の中から、皮膚と繊維と神経と血管の間をすり抜けるようにして、残っていた異物が体内より音もなく出てくる所は、まるで死体よりずるりと蛆が這い出てきたような悍ましさがあった。あの傷口を蛆が這い回る、マゴット治療のようなむず痒い感覚は、慣れられるものでないと今でも思う。

湯船より腕をあげて傷のあった場所をさする。無骨な腕の指先より垂れた滴が湯に落ちて、瞬間だけ水面に波紋を作り、すぐ消えた。雫の消える様を見て、施薬院で別れる際に交わした会話を思い出す。

「悪いが、明日、私たちのギルドハウスまでご足労願えないだろうか。今後のことについてみんなで話し合いたい」
「構わないが……、大丈夫か?」

狂乱の果てに気絶した一人と、治療が完了しても未だに放心状態の人間が、半日もしないうちに話し合いのできるまともな状態に戻れるとは思えなかったのだ。

「大丈夫だ。明日にはこいつらも、きちんとした状態で、ギルドハウスにいるよ」
「……、そうか。了解した」

だが、ダリはそう断言する。断言には確信に近いものがあった。言い切る彼の真剣みに押しきられて了承の返事を返すと、彼は頷いて、メモを取り出すと鉛筆でサラサラと記載し、こちらに差し出した。

「ありがとう。では、よろしく頼む。道はこれに記しておいた」
「では、私もこれで」

一言も発しなかったピエールは、一人先にどこかへと消えていった。ダリは彼とは別の方向へと歩を進め、気絶した一人を背負い、放心状態の一人の手を引いて、夜の闇に消えてゆく。

彼らは一体どうするつもりなのだろうか。――――――、やめた。

どうせ考えたところで解決しないのだ。こういう時はさっさと寝るに限る。大きくため息を吐いて、湯船より立ち上がる。ざぁ、と自らの体から流れ落ちた余分が湯に混じって流れ、排水口に吸い込まれていく。

風呂場に用意されていたローブをありがたく借りて、インに礼を述べ、明日の朝、寝ていたら起こしてほしいと伝えて部屋に戻る。インは何かを察していたようで、何も言ってこない。それがとても有り難い気遣いだと思った。疲れた体をベッドに放り出して瞼を閉じる。意識を手放すことは、宵闇の中、ありもしない答えを求めて彷徨うよりもずっと容易だった。

ベッドに乱暴に投げ込まれる。ベッドのバネが体を空中に押し返して、数度、跳ねた。押し上げられた部分と、硬さが残る寝床とに挟まれた皮膚が痛みを訴えるが、血と汗で汚れた体はそれでも動いてくれなかった。ずっと。ずっとだ。意識はあの時からずっとあったけれど、心がどうしてもあの場、あの瞬間と、あの場所から離れてくれていない。

ダリは同じようにしてベッドにサガを投げ込む。ベッドは私の時と同じように跳ねて、気絶しているサガを受け入れた。ダリは長く重い息を吐きだすと、誰にいうわけでもなく、言う。

「明朝、鐘がなっても起きてこない場合、昼前には起こしにくる。昼以降、エミヤが来たら、今回の配分と、今後のことを話し合う。話は彼との共同戦線についてが主題になるだろう。今後、迷宮を潜る際にはシンに変わって、彼を主軸において進むことになるだろうからな」

指先がピクリと反応を見せた。今までまるで動こうともしなかった頭と体は急速に血の気を巡らせて、体に熱が戻って来る。跳ねるようにして起き上がった。私とサガの横に私たちの装備を置いていたダリが驚く様子が目に入る。だが今はそんなこと、どうでもいい。ああ。

「ダリさん。今、なんていいました? 」

口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。ダリは少し気圧された感じ後ろに一歩下がったけれど、しっかりと姿勢を正して顎に手を当てて考え込み、言う。

「明日、昼、エミヤが来る。それまでに起きてこなかったら、起こしにくる。議題は今回の探索の報酬の配分と共同戦線についての二つ。後者が主になるだろう。今後はシンの代わりに彼がメインのアタッカーになるだろうから……」
「シンさんの! 」

おそらくは整理してくれたのだろう話の内容を遮って、叫んだ。気遣いを発揮してくれるのはいいが、ダリというこの男は、サガのいう通り、やはり人と少しずれているところがある。

「シンさんの代わりなんて、いません……。いないんです……っ! 」

それだけいうと、止まっていた時がようやく全て動き出した。涙が溢れて、抑えきれなかった声が漏れる。しゃっくりが止まらない。ただ泣き続けた。街はもう眠る時間だということも気にせず、ただただ泣きじゃくった。シーツを握りしめて、握りしめたシーツが破けそうなくらい張り詰めさせて、わけもわからず頭から被って、くるまった。

「――――、――――、――、―――――、――――、――――」

口元を布団に押し付けて大声を上げる。布に吸収された泣き声は拡散され、変換され、消えてゆく。消えた。そうだ。シンは死んでしまったのだ。あの、馬鹿みたいに直情で、わざわざ私を心配して馬鹿をやってぶん殴ってやって、それでも元気が出たようだなと笑って見せた彼は、もう死んでしまったのだ。

「――――――っはぁ! 」

息苦しさに顔をあげて、うつ伏せの上半身を軽く起こすと、傍にシンに託された剣が目に入った。思わず寄せて、抱く。鞘の革の匂い。剣の脂の匂い。柄の部分からは汗の匂いと、少しばかりの酸い臭気がした。その不快ささえ、彼がまだそこにいる証のようで、愛おしかった。抱いて、再び泣き、嗚咽を漏らし、やはり泣く。止まらない。あそこからここにくるまでの間に感情の奔流を押し留めていた堰は壊れてしまったのだ。もうだめだった。

「―――っ、ぁっ―――、――――――、―――っ」

声すらうまく出ない。ただ、悲しさだけが口と目から漏れていく。ひとしきり泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。剣を抱き、ひたすら泣く。ダリはその様子ずっと見守ってくれていた。いや、違う。彼はきっと戸惑っていたのだ。彼はこのような場面で、どんな行動を取るのが最善の選択であるのかわからず、選べずに動けないのだ。その慎重さが、臆病な部分がシンの死に繋がったのかもしれないと感じて、ひどく腹が立った。

ダリは己に対して向けられた敵意や害意を敏感に感じ取って、言う

「……どうやら今、私は歓迎されていないようだな。……また明日起こしにくる。おやすみ、響。大丈夫。明日になればきっと、大丈夫だから」

大丈夫。その言葉は魔法の言葉のように頭の中へ入り込むと、不思議にその通り、明日にはこの悲しみがなくなってしまう予感がした。ああ、それは悲しいことだと思いながら、私はずっと泣き続けた。

どのくらいの時間が経ったのだろうか。涙も声も枯れ、ただ彼が存命して一緒に迷宮を探索していた頃のことを振り返っていると、剣をふと彼の剣のことを思い出した。鞘から引き抜いて刀身をとって、ダマスカス鉱特有のマーブル模様の波紋を見てみる。

その茶色い刀身にはまだ血糊と脂がべっとりで、そこにはシンの血も混じっているのだ。刃先に怪しく光る紅涙の輝きに魅せられて、己の顔にその切っ先を向ける。

―――「響、刃を人に向けるのは良くない」―――

そんな彼の言葉が思い出されて、また泣きたい気分になった。もう会えない。考えるだけで胸が痛い。あれだけ好き勝手やって、あんなにあっさりと退場するなんてひどいと思う。悲しい。悲しい。悲しい。会えない。いやだ。寂しい。

―――嫌だよ

一緒に過ごすようになってから三ヶ月。たった三ヶ月だったけれど、シンという男は、わけのわからないくらいのまっすぐさで、私の中に入り込んできて、影響を与えるだけ与えて消えて言った。まだ、知りたい事があった。教わりたい事があった。一緒に旅をして見たかった。活躍を見ていたかった。まだ―――

―――歌?

共に過ごした日々を思い返していると、眠りについたはずの街中から聞こえてくる音色があることに気がついた。耳をすませると、それが誰かの歌声であることに気がつく。一人の人間が即興で歌っているのだろうか、楽器の伴奏に乗った独唱は一小節ごとに途切れて、緩やかなスタッカートみたいな演奏となっている。その音色と声に私は聞き覚えがあった。

だが、歌は歌とわかるだけで、肝心の歌詞がまるでわからない。気になった私は、音色の詳細を確かめようと考え、ベッドから身を起こすとノソノソと窓枠に近づいた。

―――「うむ、君を迎えにきたのだ。響」―――

―――っ!

記憶が胸を締め付ける。胸を締め上げるその感情が苦しくて、逃れるように半開きの窓を全開にした。それでもまだ締め付ける痛みから逃げるようにして耳をすますと、音色は少しばかり大きく聞こえるようになったが、それでもまだ弱く、頼りない。

歌詞はまだわからない。ただ、その声に秘められている切な感情は今の私の想いと重なり、心臓を締め付ける。カンパネラのような音色は、文字通り、屍人に対する弔いの鐘の音だ。堪らなくなって、私はギルドハウスを飛び出ると、夜の街に繰り出した。

歌声に誘導されるようにして汚れた服のままフラフラと街中を歩くと、やがてベルダの広場の一角にある灯りのついた場所へとたどり着く。そうして私はようやくお目当てと対面することができた。

宵もすっかり深まり、宵張を得意とする酒場すらその営業を終えて休息した頃、月明かりすら一朶の雲に休息を強いられた夜の闇の中、広場の中央では外周に沿って設置された街灯の微かな灯りを浴びて照らされる集団。その中心、天に向かって屹立するオベリスクの前で、ピエールは世界の全ての注意をその一身に浴びながら、滔々と歌を吟じていた。

「―――、……―――――、…………―――――――、……。―――」

いや違う。歌はやはり途切れ途切れで、一小節ごとに止まり、そして、楽器の音に乗せられていた。それを途切れない歌と思ったのは、歌詞が私の頭の中ですぐさま場面に変換されて連続した物語となっていたからなんだ。

ピエールの感情が乗せられた一つ一つの言葉が、私の記憶から彼と過ごした日々を思い出させる。一つの場面が薄れる前に、彼の言葉は再び別の場面を思い出させて、私の頭の中では立て板に水が流れるような流麗さで、途切れた歌詞は繋がった物語になっている。

歌は途切れ途切れのスタッカートではなく、一連に切れ目がなく続いているレガートであり、彼と共に日々を過ごしたものにのみ、それとわかる、鎮魂の物語だったのだ。彼の歌は、シンと出会えた喜びと、彼を失った悲しみの二律背反を含んでいた。

夢うつつの気分でピエールの語りを全身で聴く。やがて場面は佳境に突入し、彼の死の場面へと突入する。シンは敵へと勇敢に立ち向かい、そして、敵の一撃によって倒れ、地に没する。楽器の音が途切れた。しかし、無音というわけでない。

空間に静かに響くのは、ピエールの涙の音色だ。それまでの合唱に比べれば無音に等しい微音は、言葉と音色にて他者に彼の活躍を伝える役目を放棄した彼は、しかし沈黙と涙を最高の手段として、彼の言葉に出来ぬ程の濃密な歓喜と悦楽と雀躍と、悲哀と絶望と無音の慟哭を切に表現していた。

動けない、動かない。誰もその無音の演奏を止められる者はいなかった。やがて流れていった雲の端から月明かりが漏れて、彼の姿をひそやかに照らし出した。静々と滔々に涙を流す彼は、月明かりの合図を受けて、楽器を脇に抱えると帽子を脱ぎ、終曲の一礼をした。

聴衆は誰一人として動けない。終幕下にもかかわらず拍手を貰えない演者は、それでも不満を漏らすことなく、オベリスク前の舞台から立ち去ろうとする。不意にこちらへと目線が向けられた。

赤く腫れた目には、シンに対する哀悼の他に、何か別の悲しみを伴っているように見えた。その嘆きの色に魅了されるようにして、私は彼の後ろについて行く。私たちがベルダの広場を去ろうとする時、それでも聴衆は一歩たりと動くことはなかった。

ギルドハウスに辿りついた私とピエールは、机の前で対面する形に座ると、何も語らないまましばらくの間を過ごした。やがて沈黙に耐えかねた私は何かを喋ろうとして虚空に手を彷徨わせた。目線が彼と机との間を行き来する。

「……その」
「はい」
「――――――……、よかったです」
「そうですか。それはよかった」

再び沈黙。違う、そうじゃない。聞きたいことがあるけれど、うまくまとまらない。いや、何が聞きたいのか、自分でも把握しきれていないのだ。何か聞きたい。聞きたいことがある。胸元が気持ち悪いくらいざわついている。

ただ、それをなんと表現していいのか、なんという感情で、何という言葉で表せばいいのかがわからない。それが悔しい。悔しいという事はわかるのに、何を聞こうとしているのかわからないのが余計に気を急かして、私の頭の中はぐるぐると意味のない考えが巡っている。

「あの……」
「…………一度眠ると、悲しみだけの痛みは忘れてしまうからですよ。だから私は、ああして相反する思いを同時に吟じていたわけです。まぁ、言ってみれば、私なりの、彼への手向けです」

彼は悲しげな口調で言った。私は何も返せなかった。

「私がシンのレクイエムを歌う際、なぜ、悲しみ以外の感情を私が歌に乗せて吟じあげたのか。多分、それでしょう。あなたの知りたかったのは」

彼の言葉に気がついた。それだ。私は、それが知りたかった。私は、ピエールという人が、なぜ瞳に悲しみの色以外を携えていたのかを知りたかったのだ。なぜ、必死に、無理やり辛い記憶の中にねじ込むようにして、喜びを着色していたのか。それが知りたかったのだ。

しかしなぜわかったのか。驚いた顔で彼の瞳を見つめると、彼はようやく柔らかく微笑んでを見せて、言った。その笑みは、いつものような皮肉げなものでなく、他者を悼むような哀切の感情に満ち溢れていた。

「わかりますよ。なにせ、吟遊詩人ですからね。人の、環境の、その細やかな変化を観察し、意図や変化を言語化出来ないようでは、バード失格です」

涼やかに笑って見せる顔には自信に満ちていた。なるほど、そんなものかと思う。再びの沈黙。さて困ったぞ。こうして先回りで自分の欲しかった回答を与えられてそこで会話を終わらせられてしまうと、何を話していいのかわからなくなる。

何か話題はないものかとあちらこちらに視線を彷徨わせていると、窓より差し込んでいた月明かりの光量が減って、周囲が闇に落ちた。

「ここは暗いですね」

言ってピエールは立ち上がって灯りをつける。そうして彼がランプに火を灯すと、橙色の柔らかな光が周囲をゆらゆらと不規則な光で照らし出す。私はその挙動に注目していると、先程は月明かりと暗がり、そして歌と演奏に夢中であったため気がつかなかったが、人一倍見た目を気にする彼にしてはあまりに酷い格好だ。当然か。だって、彼は先程まで私達と共に迷宮の中で死闘を繰り広げていたのだから。

大事に抱えている楽器の弦は切れた部分を無理やり調律した跡があるし、羽帽子は羽が殆ど落ちてつばが広いだけのチロリアンハットになっているし、服には汗染みと塩の吹いているのが目立ち、端正な顔に薄く施された化粧は落ちて崩れている。私はなんとなく、彼なら服や楽器の修繕が終わるまで人前に出ないイメージがあったので、なぜ彼はそんなボロボロの格好であるのに人前で歌う気になったのだろうという疑問を抱いた。

「それはですね。明日になれば忘れてしまうからですよ」
「え……」
「どれだけ悲しいことがあっても、どれだけ苦しいことがあっても、ただその気持ちを沈ませるような感情だけだと、この世界では一晩眠れば大抵の痛みは癒されてなかったことになってしまうのです。だから、シンのため真剣に鎮魂を願って祈りを捧げ、彼が居たという事を、どうしても覚えていたいというのなら、彼が亡くなり、その痛みと悲しみが心中に残っている、今日、無理にでも浮き上がるような感情と混ぜてやらないといけなかったのです」

ピエールはひどく悲しげな諦観の表情で言った。目には哀愁が漂っていて、なんとも背徳的な魅力を伴っている。少しだけどきりとしながら、聞く。

「……、それだけだと、痛みを忘れてしまうんですか? 」
「ええ。エトリアは、この世界は、私たちの体は、どういうわけかそうなっているのです。例えば、小指をぶつけてイラついたとか、人にぶつかって嫌な思いをしたとか、そう言った軽いすぐさま無くなってしまうものは当然として、大事な人を失って悲しいとか苦しいとか、あるいは自分にないものを持っている他人が憎いとか妬ましいとか、そう言った人間や生物を対象とした、負の感情も、それだけだと次の日にはさっぱり消えてしまう。……覚えがありませんか? 例えば、そう、ご両親が亡くなった後の事とか」
「――――――――――――、はい」

絶句した。ああ、確かにその通りだ。私は両親が死んだと知って、世界がひっくり返るかのような衝撃を受けて意識を失って、けれど起きた時には、すでに落ち着いていた。そしてその時から私の心の中は、両親が死んだ悲しみよりも、死んだ後、彼らなしでどうやって店を経営してゆくかの心配に興味が移っていた。

「以前、遠い昔はそんな事なかったらしいですけれどもね。過去の英雄譚を漁ると、例えば、何かに対する恨み辛み妬み嫉みによって見返しや復讐から物語が始まったり進展したりするもの沢山あります。けれど、ある一定の時期から、それが一切なくなってしまうんです。物語は他の命に対する興味と好奇心だけのものとなり、山場と、山場と、山場だけが物語の構成要素になりました。よくわかりはしませんが、ある時から、私たちは、そう言った苦しみや悲しみを、それだけでは次の日にもちこすことが出来なくなったのです。まるで誰かに食べられてしまったかのように、綺麗さっぱり消えてなくなってしまうのです」
「――――――、それは」

なんて、残酷なまでに優しい現象なのだろう。

「昔、人と人の間で争いが頻発していた頃、争いの原因は負の感情によって引き起こされたと聞きます。無用な諍いが起きないという点では、なるほど私たちは幸運なのでしょう。しかし、それと同時に、私たちは亡くなった、失った命を次の日以降悼むことができなくなりました。おそらく私が今感じているこの悲しみと苦しみと、それより生まれ出た焦がれる気持ちも、さらにそこから派生した様々な複雑な想いも、寝床で瞼を閉じれば泡沫のように消えてしまう。感情が消えるという事を知っている私は、シンを失った際に感じた心の臓を掴み取られたような気持ちが消えていくという事実を、知っていながら何もしないという事実に耐えられない。この痛みもそれだけだと、明日になれば消えてしまうのでしょう。その事実が、なんとも耐え難い。でもどれだけ耐え難くとも、負の感情だけだと休めば消えてしまうという事実は覆せない。理由はわかりませんが、正の感情を混ぜて、矛盾する思いとしてやらねば消えてしまう。だから、今日でないといけないのです」

それがあの演奏か。あの正と負の入り混じった一拍ごとに立ち止まる歌は、ピエールが矛盾する感情を必死に押さえ込みながら、シンの生きていた頃の喜びを歌い上げるオラトリオであり、シンの死に対する悲しみを悼んだレクイエムであり、同時に、己の消えてしまう痛みが最後に訴えた遺言でもあったのだ。

だからこそあの途切れ途切れで単純な歌は、孕んだ矛盾が心を軋ませる悲鳴のように聞こえて、だからこそ、みんなの心を捉えたのだろうと思う。

彼の歌を思い出して、胸が締め付けられるが戻ってくる。早まる鼓動はシンの死に直面した時よりも遥かに強くなって、頭が熱くなる。ああ、そうだ。忘れてしまっていた。私はこの感覚を一度だけ味わったことがある。記憶にはある。でも感情が残っていない。両親が死んだと聞かされたあの時、私は確かに、この胸を貫き抉るような痛みに意識を消失させられたのだ。

シンの死は、失ったはずの両親の死が死んだ際の痛みまで思い出させて、私は机に突っ伏した。目頭は熱くなり、喉は呼吸を乱し始める。口はへの字に曲がって、唇を食む。ああ、忘れたくない。無くしたくない。この想いに消えて欲しくない。

「…………」
「ふふっ」

ピエールは小さく笑った。その違和感につられて彼の方を見る。

「ピエールさん? 」
「いえ、あの戦バカ、案外、ドンファンなところもあるなと思いまして」

……、どういう意味だろう?

「あの」
「ねぇ、響さん」

ピエールは先ほどまでとはうって変わって、慈愛に満ちた静かな口調で言う。

「ひどいやつでしたよねぇ。最初の頃は、貴女に切りかかっても謝罪もしないで」
「……そうでしたね」
「敵と見れば、とにかく真っ直ぐに突っ込んで、カバーは大抵サガかダリ」
「道具の使い方もまともに覚えてなくて、だいたい私がやる羽目になってました」
「文句を言った際、嫌味に苛立ちの一つでも見せてくれればまだ可愛げがあるのに、粛々と受け止めるばかりで」
「どこかずれていて、まさか、殴ったことを褒められるとは思ってませんでした」

愚痴を言い合う。シンのこと。たった三ヶ月しかまともに一緒にいる事のなかった彼だったけれど、驚くほど話題は尽きなくて、いかに彼が変で妙な変わった人物だったかを思い知らされた。うん、でも。

「でも、バカだけど、いいやつでしたよねぇ」
「……はい、真っ直ぐで、いい人でした」
「私、あのバカのこと、好きでしたよ」

まっすぐの好意を告げる言葉。その言葉を聞いて、私は胸の奥底で燻っていた思いをようやく自覚させられた。胸が高鳴った。限界だった。今日は色々な事があったけど、何にも増して、残酷な事実を今更思い知らされる。ああ、そうだ、私は―――

「―――はい。私も、シンのこと、好きでした」

言葉にすると、遅れて感情が湧き上がってきた。腹の底より上がってきた熱は、喉元と涙腺でそれぞれ音と水に変換されると、嗚咽と涙へと生まれ変わる。この悲しみが明日消えてしまうとかもうどうでもよくって、ただ、彼と出会えた事が嬉しくて、でも居なくなって悲しくて、そんな胸の奥をぐちゃぐちゃにする思いをただひたすらに大事にして、愛でていたい。

「―――、――――――、―――――――、―――」

―――死んじゃった。死んじゃったよ。もう会えないんだ。ごめんなさい。さっきまでただ自分のために涙を流すばかりで、ごめんなさい。貴方の事を思っての涙じゃなくてごめんなさい。シン。シン。シン。シン。ああ。あぁ。

視界の端でピエールが私を一瞥だけして去っていくのが見えた。向けてすぐに伏せたその目には気遣いがあった。邪魔はしないから存分に自分の気持ちとの別れを惜しめと言うことだろう。素直にありがたいと思った。

私は仲間を失ったこの日、初めて両親の死を想って泣いた。シンの死を悼んで、今更ながら、両親の死を嘆いて、この気持ちとの別れを惜しんで、泣いた。

多分、両親を思って出た涙は、彼らの死をまともに悼んでやる間も無くしてしまった自分に対する憐れみの感情が生んだものだったが、それでも、ただの一つの落涙もなく過去を思うよりはずっとマシだろうと、身勝手に思う。

惜別の涙は口の中にはいると、すぐに微かな塩気を残して消えてゆく。それが明日という日、儚く消えてゆく記憶の運命を表しているようで、余計に悲しくなって泣いた。やがてランプの油も切れて、黎明を迎えた時、私は窓より差し込んでくる太陽の光に起こされた。

そして気がついた。昨日感じた、彼を失った際の千切れるような痛みはもうどこにも残って居なかったけれど、かつて共にいたシンが、でも、もういないという、愛しさと喪失の混ざった胸を締め付ける気持ちだけは残っていた。

ああ、これが、ピエールの言っていた、「矛盾する気持ちだけが残せる」と言うことなのか。私は彼の言葉を今更ながらに理解して、彼に感謝した。彼はこの感情を私の中に残すために、昨日ああして語ってくれたのだ。

そうして残す手助けをしてくれたピエールに感謝を送りながら、差し込む朝日の匂いに包まれながら、思う。

―――シン。私、貴方のことが、好きでした。だから、いま、すごく悲しい

朝日の中に溶けて消えてしまった昨日より薄れてしまった悲哀の感情は、それでも私の心を刺激するのに十分な熱量を残してくれていた。

―――ほう、いい面構えになったではないか

悪夢の、もはや殆どが白になりかけている部屋の中、出会い頭、開口一番に黒い影はそんな事を言ってのけた。黒の影の口はいびつな三日月を浮かべて、ないはずの両目には喜色が浮かんでいるように見える態度。ああ、やはり不快だ。

「ほう。どうやら貴様にはその外見通り、人を見る目というものがついていないらしいな」
―――外見で人を判断するとは、まだまだ未熟だな。とても正義の味方の台詞とは思えん
「はっ、貴様がまだ人の範疇に収まっているなら、中身で判断してやっても良かったのだがね。いや、外見で判断しようが、中身で判断しようが、どのみち貴様と言う男は、最悪という以外に体現しようがないから一緒ではあるか。―――そうだろう、言峰綺礼
「―――ふ」

そうしてその影の正体を暴いてやると、言峰綺礼は、輪郭を露わにして、無限に広い部屋の中を覆い尽くさんほどの声量で、心底愉快そうに哄笑した。高笑いには、愉悦と愉快の感情が多分に含まれていて、それが心底私の脳裏を刺激して、不快を生み出す成分となる。

「よくぞ気づいたな、アーチャー。いや、あれだけのヒントをくれてやったのだから当然か」
「ふん、よくもまあ、ああも聖句を胸糞悪い様に引用できるものだ」
「いやいや、説教は神父の嗜みだからな。しかし、神の教えを聞いて胸糞を悪くするとは、アーチャー、貴様やはり、その属性は中立などではなく悪の側に近いのではないのかね? 」

悪意の応酬は終わらない。放っておけばいつまでもこの不毛な争いが続くだろうと予感した私は、舌打ちを一つ大きく打つと、無理やり話を打ち切って、本題を叩き込む。

「それで、なぜだ」
「なぜとはなんだね? 何が疑問なのか具体化してもらわないと理解が出来ん」
「ほう、では言ってやろう。なぜ貴様は存命している。なぜ貴様がここにいる。何のために貴様はここにいる。何を求めてランサーを再び手駒として用いた」

立て続けに質問を浴びせると、やつはそれが心底可笑しいといったように、体をくの字に曲げ、腹を抱えながら失笑を漏らす。その様がまた、ひどくこちらの癪に触る態度なものだから、私は影を思い切り殴りつけてやったが、拳は黒い影の中を通過するだけで、その威力を発揮してはくれなかった。

「―――ちっ」

舌打ちと共に通過した拳を拭う。手についた汚物を払うかのような態度を見て、さらに言峰はさらに気分を良くしたらしく、一秒間あたりの笑いの数を増やして、言ってのける。

「ふむ、その質問にいちいち答えてやってもいいが……ああ、そうだ前回、約束を交わしていたな。講話の一つでもくれてやろうと。ちょうどいい。では今回は夢の終わりまでそれを語ってやるとしよう」
「貴様、私の質問に……」
「そうだな、あれは遥か昔。凛という女がまだ生きていた頃の話だ」

こちらの意思を完全に無視しての態度を注意してやるが、やつは一向に気にした様子を見せずにそのまま滔々と語り出す。物理的に止める手段がないのは証明されてしまったし、こうなったやつは何があろうと己の語りたい事を語り終えるまで、何一つこちらと応答する事がないだろうから、私は早々に諦めて、その不快な講話とやらに耳を傾けることにした。

「第五次聖杯戦争集結から、約十年後。かつて天国の鍵を持つお方が崩御されたその地の近くの海に、隕石が静かに落下、着水した。その隕石というものが曲者でな。実は“魔のモノ“と呼ばれる宇宙生物だったのだ」
「……はぁ?」

素っ頓狂な声を出すと、やつはその驚いた様が心底可笑しいと言った態度で失笑を漏らすので、私は唇を噛んで口をへの字にしてやり、再度聴講の体勢を取ってやる。

「くく、いい反応だ。さて、その魔のモノは、魔と言う名を冠するだけあって、一つの特徴を兼ね備えていた。それが、人の負の感情を己の糧にするというものだ。見事なものでな。そこに正の感情という不純が混ざったものはいらんという、偏食家っぷりを見せる。奴は、真に悪意のみを食らう、名前に反してまさに正義の味方のようなことをやらかすのだよ」

どうだ、という顔でこちらを見てくるので、努めて無表情で続きを促してやる。そうすると、やつはその無理しての態度もまた面白いと言った顔で笑いを漏らすので、やはり不快の感情が生まれる。ああ、やはり、この男と私は氷炭の様に相性が最悪だ。

「……」
「無視かね……、くく。さて、この“魔のモノ“という宇宙生物であるが、実はあるものに追いかけられた結果、この星に着陸したのだ。そのあるものこそが、我々が世界樹と呼ぶ、現在の世界を支える巨木のオリジナルだ」

“オリジナル“? ということは、現在世界中を支える世界樹はコピーであり、また、世界樹とかいう巨木は複数あるということか。

「さて、その世界樹だが、“魔のモノ“の活性を抑える能力を持っていた。いわゆる正義の味方というやつに相当するのだろうな。そうして追いかけきた世界樹は、魔のモノの活動を抑えるためだろう、やがて魔のモノが落ちた場所とまるで同じ場所に降り立った」
「……どれほどかしらんが、この世界を支えるだけの巨木が着水すれば、それだけでも相当の被害が生まれそうなものだが」
「いやいや、その様なことにはならなかったとも。さすが正義の味方の世界樹様はそのあたり心得ていた様で、魔のモノが落ちたその海の真上にやってくると、勢いを緩やかにして、漣すら起きないほどの速度で海の中へと落ちて言ったらしい」
「……」
「くく、しかし、流石にそれだけの巨体を倒れない様にするためには、深く根を下ろしてやらなければならない。やがて魔のモノと接触した世界樹は、己の体でやつを封じ込めるため、魔のモノを深海の地中深くに埋め込んでから、さらに何千メートルも押し込む事となった」
「……」
「それが全ての始まりだ。そうして地中深くに押し込まれた“魔のモノ“は、やがてその身を地中を流れる龍脈と接触した」
「……なに? 」

だんまりを決め込んでいた所に聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、思わず聞き返す。

「龍脈だと? 」
「そうだ。龍脈、霊脈、レイライン。呼称が千差とある世界中を流れる魔力の川と接触した“魔のモノ“は、龍脈という荒々しい力の奔流に耐えきれず、龍脈にその身を浸しながら、その身の表面を少しずつ削られていった。だがそうして削られた”魔のモノ“の体は、やがて龍脈の流れに乗って、世界中へとばら撒かれることになる」
「……」
「くっくっ、そうして負の感情を食らう“魔のモノ“の分身は細分化されて、世界中にばら撒かれることになったのだ。いやはや、正義の味方というものは実に余計なことしかしないものだな」
「……」

挑発を努めて無視してやる。悪態の一つでも返しても、無視しようがどのみち喜ばせるだけなら、少しでもエネルギーを使わない方を選択してやろうと思ったのだ。だが、やつはやはりそんな私の抵抗を見抜いているのだろう、口元の喜色を濃くしながら続ける。

「ばら撒かれた“魔のモノ“のかけらは、当時は世界中に繁栄していた彼ら旧人類の持つ、憎悪や悔恨、嫉妬といった心中に溜め込んでいた悪意と正しく共鳴し、反応を起こした。そして誕生したのがスキルだ」
「……、なに? 」
「魔のモノは龍脈を通じて己の分身を全世界の人間にばらまく。宿主となった人間が持つ悪意を吸収するために、己と人間との間にパスを繋げる。人が魔のモノと繋がるという事は、すなわち、魔のモノが身を委ねている龍脈と直結するということでもあるのだ。本来、龍脈などという大河の流れにそのまま身を委ねれば溺れ死ぬだけの矮小な存在である人類は、魔のモノという変換器/インバーターを介する事で、地球という強大な存在と間接的ながらも、しかし今まで以上に直接的に繋がることが出来るようになったのだ。加えて、魔のモノが感情を回収するということは、ともすれば、人が感情を龍脈に伝える手段でもある。くくっ、変換器を用いて世界と繋がり、己の意思を伝えることが出来る。まるで魔術のようだとは思わないかね」
「―――、そうか、魔術とは、魔力を用いて己の要望を世界に伝え、魔術回路/変換機に応じた望む現象を引き起こす術理。つまりスキルとは―――」

やつの与えた情報から導き足した結論を聞いた言峰は、生徒の出来の良さを誇るかのように、己の伝達能力の高さに満足するかのように、慈愛と恍惚に満ちた笑顔で頷き、言葉を継いだ。

「そう、つまり、スキルとは魔術と同じ仕組みなのだよ。人類は総じて、ある意味で魔術師になったのだ。いや、己の意思を伝えるだけである程度の現象を引き起こせる、変換効率無視のその有様は、魔法使いといっても過言ではないかもしれないがな。ともあれ、やがて己の意思だけで現象を引き起こせる事に気がついた人類は、その方向性をある程度体系化してやることで、万人が魔のモノの力を使える様に研鑽した。その正体に気づくこともなくな。この努力の末に生まれたのが、スキルだ。当時は科学と組み合わせて使うスキルが多く開発されていたが、そういったモノは電気機械文明の崩壊を経て消えてゆく。そして残ったのが、いわゆる現在も残っている日常的に使われるスキルや、戦闘の際に使用されるスキルだ」
「―――」

言峰という男が語った話の、そのスケールのあまりの大きさに驚いて言葉が出ない。なにかをいってやらねばその荒唐無稽な話を、脳が真実として受けとってしまいそうだ。必死に反論を考えるが、馬鹿げた話と断じてやることもできない。彼らが、スキルが、エネルギー保存則や変換効率無視の技術であることは、この三ヶ月の間に嫌というほど見せられている。

―――いや、まて

「まて、魔術に例えるというのなら、それはおかしい。魔術の原則は等価交換だ。それだけのエネルギーを生み出すというなら、一体なにを代価に―――」
「鈍いな、貴様も。これはある意味で、人と神との間に交わされた契約なのだ。人は一日の終わり、眠りの中で魔のモノに純粋な負の感情を捧げる。神はそれを受け取るかわり、道を繋げ、そこから逆流しようとする余分を全て肩代わりする。こうして、荒ぶる神は人の捧げる供物を代価に、己の信者たちに龍脈と繋がる力を加護として与えているというわけだ」

返答は一分の隙もなく正しいものだった。等価交換は成立していた。人と魔のモノが結んだ、負の感情を取引材料に力を得る契約。スキルの正体が悪魔の契約に等しいものだと知って、私はもはや、やつになにを尋ねようとしていたのかすら忘却して、呆然とする。

「くくっ、いい顔だ。そんな反応をしてくれると、聞かせた甲斐があったというものだ。……、さて、そんなスキルという新たな力を得た人類だが、その代償は大きかった。負の感情を失う。簡単に言ってしまえばそれだけのことだが、踏み込んでいえば、例えば、不安や臆病の要素をも飲み込むという事でもある。すなわち、多くの人々は躊躇というものをなくし、消費と浪費の文化をさらに邁進させた。それにより生じたエネルギーの浪費は、もはや地球の自然環境を悪化の一報を辿らせ、しかし、その変化により生じる環境の悪化がもたらす不安や臆病は、すべて魔のモノに吸収されるため、人々は等比級数的な速度で、滅びの道を駆け抜けていったのだ」
「―――ああ」

なるほど。不快な奴の言うことは、しかし、なんとも人類の歩んできた歴史を数千年分も凝縮したかの様な愚かしさを体現していて、ひどく納得のいく内容として腹の中に落ち込んだ。それは、そんな人類を愚かと断言して見限った自分ならではの思考だろう、とも思う。

「やがて環境の悪化は、世界樹という魔のモノを封じていた巨大な樹木にも悪影響を及ぼす様になり、弱った世界樹の力は人々の負の感情により力を取り戻しつつあった魔のモノの力を下回り、抑圧を上回った魔のモノは龍脈を通じて世界に顕現しかけた。それこそが、かつて旧人類が迎えた落日の時」
「―――しかけた? 」

質問に、滔々と話す奴の口が、わずかに歪む。私がふと口に出した言葉は、よほど言峰という男の機嫌を損ねる力を持っていた様で、奴は愉悦ばかりを浮かべていた顔に珍しく憎々しげなの様相を浮かべて、しかし吐き捨てる様に続けた。

「そう。魔のモノがその姿を表しかけた時、しかし、世界のそんな異変に気がついていた当時の人間の一部は、そんな終末を避けるべく、世界樹のコピーを生み出していた。世界樹のコピーはオリジナルほどでないにしろ、魔のモノを抑える効果をもち、また、その巨大さに見合った環境濾過機能を兼ね備えていた。そうしてやがて奴らは魔のモノが世界に姿をあらわす直前、その該当箇所に世界樹のコピーを植え込み、霊脈の力を利用して過剰成長させ、成長した魔のモノを封じた。その後、彼らは汚染された地上の上に大地を作り、汚染された環境を地下へと封じ込めるとともに、環境の改善を世界樹に任せ、自分たちは空の上に逃げたこうして、貴様が今存在している、「世界樹の上の大地」という世界が出来上がったのだ」

……、信じがたい。奴の言うことは、スケールが大きすぎて、まるで空想話の中の出来事だ。しかし、奴の言う、急速な環境の悪化による人類の滅亡という話は、凛の残した手紙に書かれていた旧人類滅亡の理由と合致していて、一概に否定を突きつけてやることができない。いや、そも、それが真実だとしたら、なぜ彼女は―――

「くくっ、その顔は、なぜ凛が残した手紙にはその事が書かれていなかったのか、と考えている顔だな」
「―――貴様……! 」

努めて冷静を保っていた精神に皹が入る。不快の源が恩人の名を語ったと言う事実に抑えきれなくなった感情は、裡に出来た亀裂をあっという間に広げると、全てを殺意という名前の意思に変換されて、表へと噴出した。

「貴様、なぜ、それを知っている……! 」

言葉に質量が言峰綺礼の体を両断するだろうほどの圧を含んだ言葉を、しかし、奴は涼しげに受け流して、直前のまで不機嫌とは一転した、しかし再び、愉悦の顔で続ける。

「くく、いや、なに、決まっているだろう? 私も読んだからだよ。ああ、いや焦ったよ。照れ隠しか知らんが、一度手紙を読むと、文字も写真も消えるような処置が施してあってなとは思わなんだ。まぁ、エミヤシロウという英霊の魔術特性ならばそうであろうと問題なかろうと思ったのかも分からん。ともあれ、消えたものは仕方があるまい。かかっていた魔術の鍵だけかけなおして、貴様と同じ場所に送ったわけだが……、その様子だと、再現の際に、そのことまでは読み取らなかったようだな」
「―――……っ! 」

そうか。あの写真にだけ防護の魔術がかかっていなかったのは、彼女のうっかりではなく、貴様の悪意に満ちた行為の結果だったというわけか。私は目の前の悪意の塊に像を抱くとともに、彼女の思いを汲み取って、詳しい経歴までを解析しなかった己の迂闊さを呪った。

「ああ、いいぞ、その殺意。その憎悪。己の大切であるものが実は己の嫌悪する人間の手で汚されていたものであったと知った時の、その絶望。くく、いや、随分といい反応を見せてくれるものだ。それでこそ、教えたかいがあると言うものだ」

こうして記憶の傷口を切開し、過去の大切な部分に土足で踏み込み、心の臓に毒を塗って相手が悶えて苦しむのを見るのが、奴が一番好みとするシチュエーションである。憤怒も憎悪も、奴を愉悦させるだけの単なる不毛な感情にすぎぬと知りながら、私はそれでも裡より溢れるそれを抑えきれず、言葉の端々に余剰の感情を漏らしながら、なんとか尋ねる。

「……、貴様、どこで……、いや、いつだ」
「神父が他人の秘密を知る場所といえば決まっているだろう? ―――もちろんあの、冬木の教会で、だ。―――そう、私は、神によって再び命を授かったあの日、己の教会の隠し部屋で見つけたのだ。かつて貴様が一人その犠牲から逃れたあの場所で、未来に希望を託されて眠る貴様と、その隣で眠る凛の残骸を、だ。いや、なんとも皮肉ではないかね? かつて受肉化した英霊を存続させるために多くの子供が機材に繋がれ生命力を搾り取られていた場所には、その事実を否定し憎んだ貴様らが、同じように、英霊たる貴様を存続させるために己らの体を機材として改良した凛の残骸と、そんな機材と化した彼女と繋がれた貴様がいたのだからな」
「―――凛……が……、あの教会で? 」
「その通り。ああ、そこには手紙と、転移装置もあったよ。その装置の座標は常に変動する高さの地表の高さを観測する装置と繋げてあり、起動すればオートで地上に出られるよう、設定されていた。転移装置の傍らには、もう一通、機械オンチの彼女が必死に勉強して解読したのだろう結果の説明が記載された手紙が置かれていた。いやはや、健気で用意周到だとは思わんかね? ……まぁ、そちらは別段役に立たぬ素人の気遣いでしかなかったので、いらぬと思って燃やしてしまったが」
「――――――っ! 」

感情は奴の一言一言ごとに一々反応して、激しく躁鬱を繰り返す。その鬱屈と驚愕の間で揺れ動く感情を見物して愉悦に浸るのが奴の目的とは知っていながら、しかし私は、奴の言葉に反応するのをやめられない。凛という恩人の事を乏しめられ、侮辱され、それでも平然としていられるほど、私は出来た人間ではないのだ。

「どういうことだ! 答えろ、言峰綺礼! 」
「ははっ、主語がない質問に答えられるものか……、と言ってやりたいところだが、特別に気持ちを汲み取って答えてやろう。―――なに、そうして貴様と凛を見つけた私は、彼女の望み通り、貴様を地上に送ってやったのだよ。ああ、もちろん、試運転をした上でな」
「試運転……? ―――まさか、貴様! 」

思いつく限り最悪の想像。決してあって欲しくない想像をしかし奴は読み取ったようで、告解を終えて罪の赦しを乞う信者に向けるような、なんとも朗らかな笑顔で言ってのける。

「生きているものを送る前に、命のない存在で安全性を試すのは当然のプロセスだろう? ちょうど貴様の側に、同じような人型をした装置があったから、先に地上に送ってやったのだよ。―――適当な座標軸に合わせてな。さて、彼女の方は確か、大幅に数値大きく変化させて空の上に転送したから、今頃あるいは、文字通り天の国に召されているかもしれんぞ」
「――――――!」
「おお、主よ、永遠の安息を衛宮凛に与え、絶えざる光を彼女の上に照らし給え。衛宮凛の安らかを憩わんことを」

アーメン、と奴はわざわざ丁寧に十字まで切る。それが限界だった。もはや触れる触れないの縛りなど関係ない。この男は、こいつは、この場で殺しておかねばならぬ男だと、肉体も、魂も、精神も、この体を構成するすべての要素が叫んでいた。

目の前に佇む黒い影に思い切り振りかぶった拳をぶつけようとして、しかしやはり予定通り空を切る拳を、けれどそんなことは知らぬとばかりに振り抜いて、その影をどうにかこの世から消し去ってやろうと、何度も拳を宙に空振らせる。

「言峰! 貴様ァ! 」
「はははははっ、そうだ、いいぞ、アーチャー、否、エミヤシロウ! 貴様のその、世界の全てを感情の発露の対象としてもまだ余りあるような、憤怒、憎悪、嫌悪、殺意! その全てが何とも心地よい! 」
「貴様! 言峰綺礼! なぜだ! なぜそんなことをした! 」

口から出た問答に意思は伴っていない。ただ怒りのままに飛び出しただけの定型文に、しかし奴は笑いながら、心底愉快そうに、笑って答える。

「はは、聖堂教会の神父が英霊たる男の参戦を祝福し、手助けする理由は決まっているだろう? すなわち、聖杯戦争の幕開けだ」
「なにを! 」
「そうだ、エミヤシロウ! これはあの聖杯戦争の再現なのだ! 戦争を最後に勝ち抜いた勝者には、万能の願望器が与えられる。その再現。それこそが、我が主の望み! それこそが私が心底望むものなのだ! 」

言峰はもはやこちらの意思など御構い無しに、ただ己の言いたいことを喚き散らすだけの、狂人に成り果てていた。いや、狂気に陥っているのは、元からであるが、ともあれその様に心底憤怒と嫌悪をしながら、しかしそんな奴を排除できぬ己の身を呪いつつ、私はやがてその最悪の悪夢から、これまででも最も最悪な事実を土産に、現実へと引き戻される事となる。

「―――言峰綺礼! 」

咆哮とともに、体を起こす。虚空を切った腕は体の上に乗っかっていた掛け布団を、遠慮なく壁の方に吹き飛ばし、薄い窓に悲鳴をあげさせた。殺意の発露として荒げていた呼気が、空気中の水分と反応して、宙に白い靄を生む。

「―――はぁ、はぁ、っ、はぁ、っ、はぁ」

治らない。悪夢の中、呼吸のでる暇を与えず叩き込んだ意味のない連撃は、現実の体にも影響を与えて、疲労の回復しつつあった体を、昨夜の状態へと戻していた。

「――――――、くそっ! 」

ベッドに思い切り拳を振り下ろす。白のシーツに吸い込まれた拳は、瞬時に布を引き裂いて、中に仕込まれていた羽と、綿と、バネとが勢いよく飛び出てくる。三つの異なる素材のそれらは、綯い交ぜに宙を舞って、己の醜態を形にした。

「―――言峰綺礼……! 」

腹の底から湧き上がる心底の怒気とともに生まれた言葉が、部屋の空気を揺らす。散らばった三種の異物は、私の声を恐れるかのように、離れた地面の上でその身を震わせていた。

「――――――」

怒りが収まらない。彼女を利用したという事実が、彼女の覚悟を汚したという事実が、胸に残る彼女の記憶と笑顔、手紙の言葉と混ざり合い、過剰な化学反応を起こして、ニトログリセリンの爆発どころか、核の融合に匹敵するエネルギー量を生んでいた。

「――――――っ! 」

収まらぬ怒りのまま、握っていた破けたシーツを持った手を頭上高くゆっくりと持ち上げると、もう一度、感情の発露として物に八つ当たる無様を晒す。英霊の渾身の力を一身に浴びたベッドは、拳が叩きつけられた瞬間、その部分から見事に割れて、二つに身を分けた。

「――――――言峰ェ! 」

それでも発散しきれぬ思いが心中を飛び出して、喉元を震わせて言葉となる。我が身を焦がし、周囲を破壊して、なおも収まらぬ猛り狂う灼熱の憤怒を撒き散らす醜態は、やがて異変に気がついた女将が部屋を訪れて、しゃがれた高い悲鳴をあげるまで晒し続けることとなった。

「――――――」

三層番人を倒した、その次の日の昼。怯えさせてしまったことを詫び、それでも今までと変わらぬ態度で接してくれるインに感謝をしながら、壊した物の代金を払った私は宿を出て、しかし未だ収まらぬ怒りを胸の内に携えながら、エトリアの街を歩いていた。

天空で燦々と輝く太陽は、未だ収まらぬ私の腹の灼熱の猛火を反映したかのような熱量を周囲にばらまいて、街の中から水気を悉く奪い、熱と蒸気を提供する石畳の地面は、焦熱地獄の様相を呈している。

その、負の感情に浸る私を許さない、と言わんばかりのあっけらかんとした陽光は、今の怒りに満ちた私にとって、文字通り火に油を注ぐような不愉快な説教以外の何者でもなく、私はその鬱陶しい日照を拒み跳ね除けるよう、肩を切って街をゆく。

人気は不機嫌を露わにする私を前にすると、葦の海の如く割れてゆく。そうして生まれた人波の壁の中を歩いていると、三層攻略の情報が出回った街は、やはり以前番人を倒した時のように、どこもいつもより賑わい、冒険者のばら撒く噂話で溢れている事に気が付ける。

やがてそうして怒りに身を任せながら、街中を歩いていると、纏った怒気を貫いて、大きな話し声が鼓膜に響いてきた。

「な、知ってる? 今回三層の番人を倒すにあたって、六人で行って、一人死んだんだと! 」
「あー、やっぱり、六人っていうのがダメだったのかなぁ」

知らずの事とはいえ、知人を失い、そうして不愉快な悪夢に苛立つ私を前に、無神経にも声を大にして不機嫌な話題を提供する無遠慮な輩に苛立ち、今の鬱憤全てをぶつけるかのように威圧をばら撒いてやると、遠慮ない会話をしていた冒険者たちは即座にその感覚を敏に捉え、こちらをみて、そして腰を抜かしてへたり込んだ。

「―――っひ」
「……お、おに」

その無様すらも腹が立ったので、わざわざ立ち止まり、じっくり睥睨してやると、彼らは意味をなしていない言葉の羅列を喚きながら、無様に走り去っていく。その様を見ていた周囲の見物人どもは、彼らの様子を呆然とした様子で見てそして私の方へと視線を移し替えると、途端同じような硬直してその場で立ち止まり、即座に目線をそらす。

―――懸命だ。おそらくは、少しでも私と目があっていたのなら、彼らも先ほどの二人と同様の運命を辿ることとなっていただろう。

そんな彼らの動作すらも、怒りの感情を再燃させる燃料となる事実が我ながら鬱陶しく、私は表通りを離れて裏路地へと体を滑り込ませた。そうして太陽の熱が未だに伝わりきっていない影の街を歩いていると、周囲の怜悧は私の発散する熱量を収めるのに一躍買ったようで、私はようやく徐々に普段通りの平静を徐々に取り戻してゆく。

落ち着いた頭は冷静を命じて、その作業に注力せよと命じてくる。気化していた気持ちを冷却させて状態を安定化させる作業に努めるべく、陽光に照らされて出来た影の中の部分、その淀んだ空気に身を浸しながら進む。影の壁面にこびりついた湿ったカビ臭さは、周囲に八つ当たりをぶちまけていた無様な自分にはふさわしい、鬱屈さの象徴である気がした。

言峰から得られた情報をまとめて整理しようと試みるが、まるで頭に焼けた石が入っているかのように、頭の中がかっかとし続けていて、まるきり考えがまとまらない。

このザマでは、まともに推論はできなかろうと、一旦は思考の余計を取り除いて空っぽになった頭で、光の照らす道を避け暗がりの中を選んで街中を歩いていると、いつの間にやら、街のはずれにあるギルドハウスに辿り着いていた。入り口に飾られている看板を見ると、漢字で「異邦人」との名が刻まれている。

影の中から覗く、未だに違和感を覚えることもある未来世界の中に混ざる見覚えのあるその三文字は、さまざまな疑念渦巻く暗中に差し込む光となり、私は誘われた蛾のように影より足を踏み出した。途端。

―――眩しい

影から顔を出した瞬間、日差しが暗闇に慣れていた瞳に襲いかかり、暗澹たる気分までかき消された気がした。まともになった頭と眼でもう一度漢字三文字を眺めると、影の中からでは眩しく見えた三文字は、光の中においては見事に周囲の光景と平凡に溶け込んでいた。

光に背を押されるようにして、ギルド「異邦人」のハウスの扉を何度か叩く。すぐさま扉は大男に開かれ、彼に招かれて、私は家の中へと足を踏み入れる。ダリの案内に従って一つ扉の向こうにある部屋に足を踏み入れると、そこには犠牲一人を除く、「異邦人」全てのメンバーが勢揃いしていた。

「まぁ座ってくれ」

言われるがままに座ると、

「まずは礼を。エミヤがいてくれたおかげで、私たちは多いに助けられた。感謝する」

ダリは言って座ったまま頭を下げた。仲間が死んだというのに、なんとも冷静な男だ。周りの三人は、ダリを倣って頭を下げた。私は何と返していいか困った。私がいなければ彼らは死んでいただろうことは確かだ。だが、私は彼らに対して最高の望むべき結果を提供できたわけではない。一人の尊い犠牲のもとに、運良く帰ってこられただけなのだ。

「いや……、ああ、そうだな」

躊躇は結局、横柄な態度での返事を生んだ。しまったと思うがもう手遅れだ。口から出た言葉を取り消すことはできない。私がその後の返答に窮していると、窓辺に立っていたサガが口を開いた。

「まぁ、ある意味であいつらしい死に様だったよな」

そのあっさりとした物言いに驚愕し、思わず目を見張りサガの顔を眺めた。彼は小さな体
にとぼけた表情で、こちらの視線は一体何が原因だろうかと首を傾げていた。

その顔からは一切の悲壮感が感じられず、昨日シンという人物の死にあれだけの狂乱を見せた人間が、こうもあっさり彼の死を認める言葉を口にするというその異常は、あまり付き合いのなかった私ですら異常と感じ取れる、強烈な違和感を生んでいた。

「うむ、確かにそれは一理あるかもしれん」

ダリが平然と頷く。確かに冷静を形にしたかのような彼ならいうかもしれないが、それにしても、こうも仲間の死んだ翌日に平然とそんなことをいってのける良識のない人物には見えなかっただけに、私は二度目の驚きを得て、隠しきれない思いを露わにした。

そうして固まっていると、やがて二人はお茶と菓子を用意してくると呑気に言い放って、台所へと消えた。その鼻歌でも歌いだしそうなあまりの陽気さは、私は昨日のシンの死が何かの間違いであったかと思ったほどだった。

驚愕のまま、ほかの二人を眺める。すると、ピエールと響は、一瞬、理解者を得て、喜び、しかし、困ったような、そして哀切をも含んだ、複雑な笑みを浮かべて返してくる。どうやらあの男女は男二人のようなことはなく、シンの死をきちんと認識しているらしい。私がそうして驚愕の視線を向け続けていると、響はおずおずと、そしてなんとも悲しげに言った。

「エミヤさん。この世界は、一度寝ると、悲しいとか、寂しいとか、苦しいとか、痛いとかだけの感情は消え去ってしまうんです」

言われた言葉に絶句する。私は瞬時に夢の中における望まぬ会談の内容を思い出した。

―――魔のモノは人の負の感情を己の糧にする

負の感情。それは殺意、憎悪、悔恨、嫉妬、苦痛といった、要素だけではなく、悲哀、悲嘆、痛切、哀切、不憫も、憂鬱も、消し去ってしまうというのか。言峰の話が事実であるということを見せつけられて放心に近い心持ちでいると、ピエールがその後に続く。

「サガは、シンが死んでしまった直後、気を失ってしまいましたからね。そのせいでしょう。ダリは、まぁ、元々、他人に対して冷徹なところがありますから……」

ピエールは珍しく、寂寞を携えた表情で尻すぼみにいう。おそらくは、皮肉ばかりの彼にしては珍しく、二人のことを真に庇いだてしているのだ。そうして意外な面を見せた彼の言葉に、しかし疑問を抱いて、聞き返す。

「まて、それが事実だとして、何故君達は、そのことを覚えている。いや、まて、そうだ、おかしい、確か、シンはそんな負の感情に基づく闇のようなものを抱えていた。そうした負の感情が残らず消えるなら、彼がああも鬱屈としたものを抱え込んでいたのはおかしい」

私は必至の否定を行う。思うに、昨晩言峰より聞かされた話がよほど受け入れ難かったのだろう、奴の言ったことは真実であると裏付けるような事実なぞデタラメだと、子供のような言い訳をしてみせる。

しかし。

「ええ、ですが、おそらく彼の場合は、鬱屈の中にも、どこか憧れのようなモノが混ざっていたのでしょう。そうして、気分を優れさせる感情が混ざった負の感情は、なぜか消えることなく残ってくれるのです」
「私もピエールにそのことを聞いて驚きました。でも、そうして彼が教えてくれたおかげで、私は彼の事を想って、嬉しいの中に悲しいという事を混ぜているから、そんな悲しさを残していられるのです」

―――見事なものでな。そこに正の感情という不純が混ざったものはいらんという、偏食家っぷりを見せる。奴は、真に悪意のみを食らう、名前に反してまさ正義の味方のようなことをやらかすのだよ

「―――っ」

己が否定として出した問題の答えは、言峰の言葉と符合するという結果をもってして、現実の刃を突きつける。信じぬ信じないではない。もはやそうだという事を信じざるを得ない証拠を突きつけられて、背筋に冷たいものが走る。

と、同時にこの世界の住民が、人に他人に対して無遠慮であったり、素直であったり、優しすぎる住人の多い理由を見つけた気がして、ひどく納得した。彼らの多くは、そうした凝縮した負の感情がもたらす悪影響を受けていないのだ。

彼らは憎しみを溜め込まない。彼らは怒りを溜め込まない。彼らは不安を溜め込まない。彼らは、周囲の環境の状況を肌で感じ取ったままに表現し、街や周囲に発散する。

そう、そして、彼らは、悲しみを溜め込まない。溜めておけない。ああ。

―――この世界の住民は、そんな切ない世界に生きているのか

「―――よぉ、あったかいのと冷たいの、どっちがいい? 」

奥から投げかけられるそんな無邪気なサガの言葉が、これ以上現実を否定する事は許さないとばかりに、私にトドメの一撃を投げつけた。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに 〜

第十話「悲しみは留められなくて」

終了