うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜 第七話 揺れる天秤の葛藤

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

第七話 揺れる天秤の葛藤

正義も悪も所詮は人の感じ方次第だ。
悩んだところで正しい答えなんかでやしない。

疲れてふと立ち止まり、さて一休みしようかと座り込んだ時、辿ってきた旅路の足跡をうたた寝の中で自由に思い返す作業こそが、夢であるとするならば、その揺蕩う意識の中で、体に刻まれた過去の痛みに悶え精神を苛まれる作業こそが、悪夢である。

血の色にまみれた悪夢の中で、もはや何度目になるかわからない忘却の救いによって、誰にも責められる事のなくなった己の罪が刻まれた墓標の前で、咎を求めて白面に語りかけて見ても、刻まれた苦痛の証は悲しげに顔を歪ませるだけで、何の熱も返してはくれなかった。

何度目かの悪夢を見た後、私は正義の味方になりたいという目的を、自ら再び否定した。そうして我が胸に戻った熱へ誓ったはずの想いを拒絶してしまったのは、忘却の中に過去の罪悪感を忘れてゆくという行為が、思った以上に自分の中に空白という名前の救済を与え、そうして虚無になってゆく過去と引き換えに手に入る安寧という名前の救いに癒される己が、あまりに醜く感じたからである。

その醜悪さは、かつて己が正義の味方として断罪してきた身勝手な人々が持っていた無関心という名前の罪であり、再び正義の味方を目指す己が持ち得ていては決していけないものだった。だから私は、あの日、あの時、自らの心中の歪みに耐えきれず、正義の味方になるという願いを、再び、自らの心中にて握りつぶした。

己の心中の変化によって続いているのだろう現象から、逃げるようにして徹夜の強行軍を繰り返し、醜さから目を背けるために赤死病の解決の為と名目を掲げ、果てには二層の迷宮を攻略達成をしてみせたが、しかし、そうして他者の救いを優先したところで、私が自らの救いを求めて過去を忘れたがっているという事実を形にする、悪夢が正しく夢に変わってゆく忘却の救済はいっこうにその手を止めてくれない。

己の理想を握りつぶし、自らの醜さから目を背けて他者の救いを優先に活動したところで、個人の救いと他者の救い、その比重をどの程度にすれば、果たして正義の天秤は正しく釣り合っていると言えるのか、その答えはいまだ出てきてくれなどしない。

―――きっと、今後も出ることがないのかもしれない

二層の番人を倒した後のことだ。私が鉛を埋め込まれたかのように重たくなった体をなんとか動かして、足を引きずるかのように己が打ち貫いた蛇と羊の様子を見に行くと、二匹の獣は、体の大半を消し飛ばされながらも、二度とは離れぬと主張するかのように仲睦まじく並んで地面の上に果てていた。

その骸に、神前にて愛を誓った夫妻のそれを見つけて、魔物とはいえ、私は思わず二匹の死骸を引き剥がすのを躊躇ってしまった。結局、その死骸の周囲に散らばる、己の射出した剣が散らした、まだ肉の引っ付いた金の羊毛を適当にある程度拾い集めると、これでも討伐の証明には十分だろうと、骸を放置して私は彼らの元へと向かう。

「響、ということは、君、あの虫の三連続が同時だったというのか? 」
「あ、はい……、その……、私にはそう見えましたけれど」

そうして玉虫の死骸の山を避けて彼らの方へと近づくと、言い合いをしている男女の姿を見つける。一人は、裸の上半身の上に、長く伸ばした黒髪を一つに纏めて腰まで伸ばした、刀身が幅広い刀を腰に携える、ギルド「異邦人」のギルドマスター、シンという男だ。

もう一人の、茶色い髪をセミロングに纏めた、まだ発達途上の最中にある体躯の響と呼ばれた彼女は、シンという男に両肩を掴まれた状態で詰め寄られていて、困惑しているようだった。長身の男性が覗き込むようにして響に詰め寄る姿は、少しばかりよくない想像を掻き立てる光景に見えて、私は思わず仲裁のために口を出していた。

「どうかしたのかね? 」
「あ、エミヤ……さん」
「エミヤ。もういいのか? 」
「ああ。必要なものは回収した。ところでどうしたんだ? まだ幼い面影を残す少女に対して半裸の男性がそのように詰め寄るなど、あまり感心のできる光景ではないが」

皮肉を聞いてシンは少しぽかんとしたが、すぐに己がいかなる状態か認識したらしく、「確かにその通りだ、すまなかったな」と、手を離して素直に謝罪を行なった。

一方、眉をひそめながら釈然としない表情を浮かべていた響は、少しばかり頬をむくれさせたまま、こちらを向くと、顔を大きく見上げさせて私の胸から首元あたりまでを眺めて困惑の表情を浮かべた。さて、おそらくむくれたのは、子供扱いされたのがきにくわないのだろうとして、なぜ私を見て困惑の表情を浮かべたのだろうか。

「いや、聞いてくれ、エミヤ。先の戦闘で玉虫が三連続の攻撃をしてきただろう? 」
「そうだな。それが? 」
「いや、君があの虫の死骸の中に突っ込んだ直後、飛び散ったその骸の中から生き残りが数匹ばかり飛び出したのだ。虫はつい先程君が戦っていた状態とは違って、なんというか、正気を取り戻したような状態で、尋常な勝負を挑んでいるような雰囲気を出すものだから、その望み通り一騎打ちを受けたのだ。その際、奴はやはり三連の素早い攻撃を仕掛けてきたのだが、それがこの子には、三連続ではなく、三つ同時の刃に見えたらしい」
「ふむ? 」

説明を受けて私は響の顔を覗き込んだ。シンよりもさらに長身の男に覗き込まれると言う事態に怯えたのか、彼女は一瞬肩をうかせると、しかし、長い説明の間に冷静さを取り戻していたらしく、彼女はおずおずとした態度で、しかしはっきりゆっくり頷くと、言う。

「はい。その、見間違えかもしれないですが、私には三つ同時に見えたのです」
「いや、彼女の言うところの一撃が私には三連続にしか見えなかったものでな。だか
こうして、確認していたわけだが……」

先程の自らの醜態を思い出したのか、シンはそこで押し黙り、そして静かに続ける。

「結局、誰の目にどのような風に見えたかなど、確認しようがないからな。まぁ、認識の違いとして納得するしかないか」
「ふむ、まぁ、あの虫は群体だったのだ。例えばその一撃が意思統一された元に繰り出されたものなら、彼女の言う通り、同一の瞬間に三つ同時の刃、ということもありえるだろうよ」
「ああ、なるほど」

シンは納得したのか目をつぶり、そして大きく首を数度上下に動かすと、響に向かって頭を下げた。「すまなかった」、と謝罪する彼のそれを、しかし響は気にしないでくださいと、手を振りながら気にしていない事を主張する。

シンはそれを見て頷くと、「それでは失礼する」と言って、仲間たちが群がる、虫の山の方へと向かった。そして響という少女は私の方を見ると、首元を指して言った。

「あの、ところで、それ、大丈夫ですか? 」
「うん? 」
「あの、頬から首からにかけて、その、すごい、血の跡が」

言われて片手で頬を撫ぜると、パリ、とひび割れる感触がした。直後、乾いたものが落ちたと思うと、皮膚につけられた幾つもの傷跡がようやく痛みを取り戻して、抉るような、ひりつくような感覚を訴えてくる。私は自分の体の状態を思い出して、ああ、と声をあげた。

「そういえば、敵に削られていたな。すっかり忘れていた」
「すっかり、って……、あの、すごい顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか? 」
「ああ、問題ない。この程度の傷、こうして……」

いってバッグよりメディカを取り出すと、自らの体に振りかける。すると回復の効力を秘めた薬は、いつも通り皮膚に触れた途端、液体を光の粒子へと変えて傷を癒してゆく。そうして首と頬の傷が塞がったかと思うと、続けて強化の魔術により酷使を強要されていた全身の細胞が歓喜に震えながらその疲れを癒されてゆく。

「これで解決だ」

やがて全身の張りや痛みが取れた頃、それでもまだ少し重い体を動かし、すっかり治った傷跡をなぞり残っていた瘡蓋のなりかけなどを引っ掻いて落として、万全の状態になった皮膚を見せつけてやるも、彼女は顔をしかめさせたまま、動こうとしなかった。

その不安の混じった瞳が平静に戻らない事を不思議に思いながら、顎に当てた手を動かすと、じょり、と一週間放置されて生え出した不精の証が皮膚を微かに上下に動かす。さてはあの顔は、この髭の醜態に不快感でも抱いた証なのだろうか。

やがて彼女は、おずおずとした様子ながらも言う。

「あの、メディカは確かに傷を治して、疲労を取ってくれますけれど、失った血液までは元の通りになおしてくれませんよ? 」

彼女の言葉に、私は、「そういえば魔術解析の結果でもそのような特性を読み取ったな」と今更ながらに思い出して、頷く。そうして魔術にて知っていた、という所業により生じた不自然さを打ち消そうと、言葉を付け加えた。

「……、ああ、そうだったな 」
「はい。メディカなどのスキルはあくまで、傷や怪我を元の通りに戻すことはできますけれど、失った部分の補填はしてくれません。だから、その、先程の戦闘でエミヤさんが失った血液はそのままなんです」
「……なるほど、貧血か」

疲労の取れたはずの全身に残る倦怠感の正体を言い当ててやると、響は「おそらく」と言ってこくりと頷いた。なるほど、顔色が悪いと言われるわけだ。私の言葉に意を読み取ってもらえたことで満足を得た彼女は、腰に引っ掛けてあるバッグに手を突っ込むと、メディカとは別の、少しだけ大きい瓶を取り出して言う。

「はい、だから、次からは、その、このネクタルを使うといいですよ」

ギリシャ神話に登場する不死の薬の名を冠する薬を受け取ると、そういえば投影をした中に血液を増やす効果の薬があった事を今更ながらに思い出す。天上の神々をも蕩けさす甘さで魅了したというその薬は、製造のために一層の「蜜のかけら」という素材を必要とする薬であり、それ故に私の場合は、ヘイの店で購入してやろうとすると、一手間かけないと購入することができない薬であるため、すっかり失念していた。

「ああ、たしか、気付けと造血の効果があるんだったか」
「ご存知だったんですね」
「ああ。だが、私の場合、素材が足りなくて購入できなくてな。すっかり忘れていたよ」

正直に事情を告げると、眼下の彼女は息を呑んで背筋を仰け反らせて、驚いて見せる。

「あ、の、この蜜、新迷宮の一層でも取れるものなんですけれど」
「む、そうなのか? 」
「え、ええ。その、普通に迷宮に潜る時みたいに、そのあたりで採取していれば、一つくらいは手に入れていてもおかしくないんですけれど……、その、売るだけでも幾らかのお金にもなりますし」

小さくなってゆく言葉尻には、多分に疑問の要素が含まれていた。そこでようやく、この世界の冒険者というものは、単に迷宮を踏破して功名心を満たすためだけに生きる存在でないことに思い至る。なるほど、迷宮より素材を回収して誰かに売り払い、その儲けで生活するという生き方もあるのか。

「いや、なんだ。その、素材の見分けがつかなくてな」

冒険者という人間の在り方を傭兵のそれに似た生き方だと勘違いしていた私は、その羞恥を隠すかのように、別の事実で上書きして、答える。すると、彼女は先程と同じように驚いた様子を見せて、言った。

「え、っと、あの、初心者の方は、最初、転職とかの際にギルド長のところである程度の教育を受けさせてもらえる筈ですけれども」
「……、そうなのか? 」

そうして彼女が三度目の驚愕を顔の上に貼り付けた時、愉快な気分を多量に含んだ笑い声が近づいてきた。先程サガと名乗った大きな籠手を装着した彼は、その鳶色の瞳に涙を浮かべ、腹を抱えながら我々の近くにやってくると、言う。

「大方、あんたが初心者に見えなくて、その辺の説明を省いたんだろうぜ。いやぁ、実にあの面倒くさがりらしいミスだぁ」

言われて、ギルド長―――たしかゴリン―――と呼ばれた人物が、自分のことを戦闘経験者であることを見抜いたことを思い出した。おそらくはそのあたりから、こちらが迷宮探索においてもある程度の経験があり、だから別に言う必要ない、と判断したと言うことなのだろうか。いや、まったく、ゴリンという男は、億劫そうな外見通りに、怠惰な男である。

「まぁ、文句は後で直接あいつに言ってもらうとして、エミヤ。こっちの準備は完了したぜ。お前の方はどうだい? 」
「大丈夫だ。問題ないよ」

響の小さな手のひらに礼と共にネクタルを返して、サガの方を振り向いて言う。そうして向いた先ではすでにサガが地面の上に麻袋を置き、そして彼以外の三人は少し離れた場所で体に見合った大きさの袋を手にした状態で、待機しているのが見えた。

そうして彼らが持つ袋の周囲がジグザグに刺々しい状態であるのに気がついて、一瞬不思議に思ったが、彼らの足元に広がる虫の死骸を見て、すぐにその原因に思い至り、袋の内容物の悍ましさ状態を想像し、少しばかりげんなりした。佃煮でも作る気か。

「まぁいい。では行こうか」


番人部屋奥に秘されていた通路を通り、肌にまとわりつく熱と湿気が漂う暗い洞窟を進むと、やがて徐々に不快な温度だけが下がってゆく。そうして進んだ洞穴の先、暗闇の中に飛び込んでくる光の色合いが、やはり先程まで見かけていたような赤である事を確認して、予想と変わらない現実に少しばかりうんざりしながらも、先頭を行く。

そうして洞穴を抜けた先、広がっていたのは、一層、二層に広がっていた現実に則した光景とはまるで異なる、幻想的な風景だった。例えるなら、南国の海、赤潮の中、浅瀬に広がるサンゴ礁の海底。

一層の樹海、二層の密林とはまるで異なるその風景は、二層の密林の中を漂う湿気が、柔らかい地面に染み込み、三層との間の地面に置いて結露と解凍を繰り返した結果、濾過された水気が集まって、三層を海底の様相へと変化させているような純粋さと清潔さがあった。

また、これまでの赤と違い、周囲を照らしている光の成分は、水分の中に吸収されてしまったのかのように、少々暗い。光を拒み出した深海にて、足元の確かさも認識できなくなる程の暗闇を進む助けとなっているのは、方々で明るく存在を主張する珊瑚と海藻だ。

赤く燃える色の珊瑚は透明度の高い周囲よりも赤さを誇って枝を伸ばし、海藻の如き植物は水の中を揺蕩う様に赤い身を揺らして、周囲を照らし出すとともに、一面の海底らしさを演出するに一役買っている。彼らの放つ柔らかな光は空間の明度を調整して三層の空中に薄紅のヴェールを生み出して周囲の濃さを和らげに、海中の透明感を与えているのだ。

「新迷宮の三層も、色を除けば同じ見た目ですね」

後ろから聞こえたトーンの高い舌足らずな声が耳に届く。確か、響、と言う少女だったか。

「ああ、見た目はな。だが、一層、二層もそうだったように、おそらく、出現する魔物の種類と頻度は決定的に違うはず。警戒は怠らないように」
「わかっています。私だって油断しない程度には成長したつもりです」

ダリ、と言う男の言葉に鼻息荒く主張する響の言葉は、少しばかり早口になっている。

「そうそう、つい一ヶ月前の頃よりはずっと格段に成長してるって。最近じゃ、戦闘に手出しも出来るようになったしなぁ」
「いかんせん本当に最初の頃は置物でしたからねぇ。まぁ、勝手な動きをされない分、他の有象無象な人よりも筋は良かったですが」
「ピエール。お前は、ほんと素直に褒められないなぁ」

死地にいるとはとても思えない軽快な会話が続く。察するに体躯小さく、細身で肉付きの薄く、茶髪を短く整えた、幼さ残る見た目の響という少女は、迷宮という魔物の闊歩する場所に足を踏み入れ出したばかりの新入りらしい。わざわざ望んで危険に身を晒すこともなかろうに、と思い余計な言葉が口元まで出かかったが、しかし己も生前は若い頃から無謀を繰り返していた事を思い出して、人のことは言えないか、と口を塞いだ。

そうしてしばらくの間、話す彼らを背後に無言で迷宮探索の先頭を歩くと、やがて何事もなく、屹立する光の柱の元へとたどり着く。海中の赤い様相を切り裂いて地上から天井まで屹立する青色の円柱は、相変わらず蜘蛛の糸のような、荘厳かつ優美な迫力を周囲に撒き散らしている。

―――この樹海磁軸が紫ではなく青色なのは、ここが海底に似た場所だからであろうか。

周囲の赤を切り裂いて青く光る柱は、樹海磁軸。樹海を探索する際の目印であり、樹海内部と地上の行き来を可能とする移動装置である。聞いたところによると、層と層の境に必ずあるらしいそれが、はたしていかなる技術によって転移を可能としているのか、いかなる意図によって設置されているのかはわからないが、樹海に存在するこの柱に触れて登録とやらを行うと、樹海入り口にある石碑との移動が可能となる。

樹海磁軸は、樹海攻略速度を著しく上昇させる。なにせ磁軸を利用しない場合は、例えば樹海の一層からこの場所に来るためには、それまでに進んできた十の階層を再度進み、そこに出現する魔物どもをさばきながら進まねばならないのに対し、樹海磁軸を利用する場合は、ただ石碑の前でこの場所のことを考えれば良いだけなのだ。

「あ、樹海磁軸ですね」

などと考えていると、背後でガヤガヤと騒いでいた一行のうち、真っ先に響がその存在に気づいた。彼女は会話を打ち切り、早速柱に駆け寄ろうとする。が。

「まて、響」
「ぐぇっ! 」

走る姿勢を見せた響の服の後ろをシンが引っ張った。気管が押しつぶされて、響の口から少女のものと思えない蛙の潰れたような声が漏れた。思いのほか両者の力はしっかりしていたらしく、ピクリとも動かないシンの体に対して、勢いよく響の体が、首を中心として横にしたへの字のように折れ曲がる。もはやくの字に近い。

人体の限界への挑戦を無理やりさせられた彼女は、一瞬で、透明な壁との間でバネに押し返されたかのように体をシンの方に引き戻されると、喉元を抑えて、ひどくむせこんだ。

「―――っほ、……ごほっ、な、何で……」

響は咳き込みながら抗議の声を上げる。シンは批判のこもった視線を真正面から見据えると、はっきりと首を振って断言する。

「彼が先だ」

シンは言って掌を上にこちらに差し出して、私の方へと向けた。忠告を受けた響は咳き込みながらも、なるほど確かに、と思ったのか鷹揚に頷いて、呼吸を整え終えると、バツが悪そうに口元をきゅっと結ぶと、謝罪の言葉と共に頭を下げてきた。

「失礼しました。ごめんなさい」

なんと返していいものか。私は反応に困った。ただ、彼と彼女の真意は理解出来ずとも、多分、ヘイの言っていた、番人を倒した時の優先権とやらが絡んでいるのだろうと考えながら、私は適当にお茶を濁したような返事を返す。

「ん……、なに、次は気をつけてくれればいいさ」
「はい、ありがとうございます」

当たり障りのない答えに帰ってきた素直な返答を、しかし素直に受け取れず、やはり適当に流すと、彼女以外の異邦人のメンバーに視線を送って確認を取り、彼らに先んじて磁軸の前に進む。

光の柱に手をかざす。周囲に撒かれた光の薄膜を破るようにして指先を突き入れると、柱の光に触れた周囲、指先から情報が吸われた感覚がある。光の柱は触れた部分から明るさを増して上下に広めて行き、来訪者の歓迎を全身で表現しているようだった。

拍動する光の収斂は柱の全体に範囲を広げると、ようやく落ち着きを見せて光の点滅を小さくさせ、太平へ状態を戻してゆく。光の色は気がついた時には、青から紫色へと変わっていた。どうやらこの色の変化が登録完了の合図であるらしい。さて、先日衛兵と共に潜った際、柱が紫だったのは、すでに潜ってあった彼と一緒に潜ったからなのだろうか?

そうして登録の仕組みに考察をしながら完了を確信すると、後ろの彼らに順番を譲ろうと、柱から一歩引いて振り向き、彼らの方を見る。すると、彼らのうち、特にシンという男が満足げに頷いているのが目に入り、なんとなく彼に声をかけた。

「どうぞ、ミスター」
「ありがとう」

恭しく左手をくるりと回して磁軸を示し言ってやると、シンが丁寧に一礼して前に進み出る。その後ろに異邦人の一行が続いた。彼らはわいわいと軽口を叩き会いながら光の柱に手を触れて登録を行なっている。

誰かが軽口でからかい、軽口に対して皮肉を返し、皮肉に対して真面目を返し、会話は続いて行く。迷宮の中では気が抜けば死につながる、と、警戒を続ける自分が馬鹿らしくなるほど、彼らは自然体で軽快だった。

その様に、かつての駆け抜けた聖杯戦争の日々を思い出す。実力伴わぬ大言を口にする未熟者がいて、完璧を気取るくせ肝心な場面でミスをする揶揄い甲斐のあるマスターがいた。

万能の願望器を求めて開催された戦争に参加する彼らは、戦争という非日常の中において変わらぬ日常を歩む事を忘れず、学生らしく学校に行き、勉学に励み、友と会話を交わす日々を過ごし、彼らは日常と非日常の境を当たり前の様に行き来しながら、青い春を謳歌していた。譲れない日常は彼らの強さの源だったのだ。

願いを叶えるには余分、と、必死の後ろに置き去りにしてきた青臭く緩やかな日常は、梅雨の季節に肌にまとわりつくような悪夢に思い悩む私の苦悩を、微かにだけ吹き飛ばして行く効果を持っていた。

後少しばかり風の強弱が違ったなら、彼らと共に歩む未来もあったのだろうか、と空想してしまうのは、現実目の前の彼らが奇しくも、かつてと同様の状況で見せた、非日常の中の日常のせいなのだろうかと考え、私に自然と笑みをこぼさせる。

「お待たせしました」

暢気さに気持ちを緩ませられていると、作業の終了した響が話しかけてきた。

「エミヤさんはどうされます? 」

どう、とはどういうことだろうか、と考えたが、すぐさま思い当たって答える。

「戻るよ。流石に消耗したからな。疲労困憊の状態で進もうと思えるほど、私は自信家ではないよ」
「さすがに実力者は良い事をいう。回復もすまないうちに番人に突っ込んだどこぞの猪武者とは違う。……なぁ、シン」
「ん……、ああ、そうだな」

ダリに番人に見せた際の突進を責められるが、シンは気にしたそぶりも見せずに答える。わかっていたのか、気の無い返事にダリは諦観の念を見せた。サガがそんなダリの背を叩いて、同情を露わにしながら、慰めた。

「どう諭そうと、あの性質は変わらないさ。さぁ、帰ろう」

言って糸を取り出すと、周囲を見渡して解く。糸より発した光は少し離れていたこちらまで光を伸ばすと、磁軸に負けぬ強さの明るさを撒き散らして、一同をエトリアへと移動させた。

エトリアの転送受入施設より外に出ると、夜である事に気がつく。眼前に広がる満点の星空には、忘却の悪夢が生み出す赤の不安の中に、昔日の青い思い出が混ざりこんだ、そんな矛盾の鬱屈を吹き飛ばすかのような、濃い紫の爽快の上に煌めきが広がっている。

天より落ちる星の光に伸びた、少しばかり石畳の暗がりを照らす外灯の橙は、星空の下で柔らかに輝いて、冒険者たちの足元に濃い影を落としていた。そうして伸縮する影が遊ぶ様を眺めながら数十歩ほども歩くと、ベルダの広場へと出る事ができる。

エトリア中央に位置する広場の夜は、いつものように、職務を終えて帰路につく人間で賑わっていた。周囲にある酒場は軒先の椅子机まで客で埋まり、客たちは気分良く酔いに浸って赤ら顔をしたものばかりが集っている。

上機嫌の雰囲気が満ちる中を突っ切り、執政院に向かうと、夜の執政院は、星とランプの光にて建物の陰影の濃淡をはっきりとさせられて、厳かな雰囲気さを増していた。

やがてその中を進み、愛想よさの中にも貞淑さを前面に押し出しながら、半ば義務的に笑いかけてきた、以前とは違うプロ意識の高い受付の人間に番人を倒した事を告げ、証拠として回収した素材と地図を差し出すと、少々お待ちを、と言って彼は慌てて奥へ引っ込んだ。

受付の前からどいて、しばらく「異邦人」のメンツと新迷宮についての考察や、ギルド長への不満などを交え、共通の知り合いであるヘイについての共通認識項を増やしていると、引っ込んだ職員が再び慌ただしく駆け寄ってくる。彼は再び受付にやってくると、乱れた襟元を正して髪を整え、胸元のポケットチーフを整えると、背を正して言う。

「申し訳ありませんが、現在、担当のクーマは席を空けておりますため、依頼達成の確認が取れない状況でございます。また、地図の正誤率も、番人の討伐確認も出来ておりませんので、この場で報酬をお渡しする事も、素材の保証をすることも出来ません。ご面倒でしょうが、明朝以降、こちらの地図と素材をお持ちになって、再び執政院へお越しください」

どうやらこの度目の前にいる綺麗なお辞儀をする職員は、以前の職員とは違って、随分とまたお堅く、法律に忠実な人間であるらしい。しかし、彼のいうことはいちいちもっともなので、彼の態度に付き合って、律儀にお堅く了解の旨を伝えると、惜しむ彼らと別れて、インの宿に向かった。

そうして、疲労感を携えた状態で街中を歩き、宿屋に戻ると、切符の良い女将は迷宮より帰還した私をいつも通りの笑顔で迎え入れてくれた。促されるままに風呂で汗を流して、服の洗濯を任せて、食事を胃に入れて床に入る。やがて遠くにキジバトの鳴き声が規則正しく響く声を聞きながらベッドに倒れこむと、意識は素早く現実から乖離し、私は悪夢の中へと誘い込まれていく。

もはやお馴染みとなった悪夢を前に、鬱々とした諦観の念を持った状態であたりを眺める。忘却を強要する存在によって、広大だった部屋の赤色はすでに半分近くまでが白に染まっている。

赤い部屋の中で心が漂白されてゆく恐怖を振り払うため、一週間の徹夜にて強行軍を繰り返したり、あるいは体力と魔力回復の時間以外を鍛錬に当てて深い眠りを保とうとしたが、そんな私の苦労を嘲笑うかのように、悪夢は睡眠ごとに現れ、そして理性の象徴だろう脳の化け物は、いつもノソノソと壁を壊してやってくる。

化け物はもはや抵抗は無意味と察して動こうとしない私を見て、その脳前方中心の単眼にある瞼を一瞬だけ薄くすると、己の中に生じた残念の意を振り払うかのように、眼球より赤を喰らい、白へと変えて行く。

いつかこの赤の部屋が白の意匠で覆い尽くされた時、その感情の一辺倒までもが凍結した様を見て、私は何を思うのだろう。忘れないでくれと叫ぶ彼らを見た際に、しかしそんな彼らに哀悼も激情をもいだけぬ、感情が理性で押しつぶされた平穏さを保つような部屋の中で、私はいったいどんな存在になるのだろう。

その、己の犯してきた罪に対して何の感慨も抱かない、理性に殉じる機械のような存在になった時、私は果たして正義の味方として己の存在を誇れるようになるのだろうか。

―――何を迷う。主のあわれみに給わらずとも、己が罪が取り除かれるのだ。そうして永遠の安息を得られる事を幸福と呼ばず、訪れる恒久の平穏を嫌うなど、それこそとても正義の味方と呼べる存在ではなかろうよ

いつのまにかやってきていた黒い影の言葉に、心臓を掴まれたような思いで振り向く。聖句を引用する影は、赤と白の支配する世界において、どこまでも黒く、まるでこの世の全ての悪を容認しているかの如く、暗い喜びに満ちていた。

「貴様―――」

何者だ。言葉を喉元まで出しかけると、その黒は思考を先読みしたようで、その塗りつぶされた頭部に嘲笑の三日月を顕現させて、薄く笑い、そして私の脳裏に直接に答えかけてきた。

―――私はお前と同じだよ。お前と同じく、見捨てられた仔羊に手を差し伸べる者だ

言いすてると、影は高笑いとともに去って行く。多分に愉悦を含んだ、その胸糞の悪くなる気色の悪い声は、部屋の片隅に置かれた記憶を刺激して、赤い壁面が蠢く。その正体を確かめてやろうと近づいた時、赤い部屋に溺れる視界がぼやけてゆき、私は、満足を得たのか理性の顕現だろう脳みそが消えていたことに気がついた。

今宵の逢瀬は終わりの時間だ。眠りの魔法はもう解けてしまう。

鐘の音が朝の到来を告げる。鐘の音が響く朝五時になると冒険者は問答無用で荷物を持って叩き出されるものだが、前金で一月分を前払いしている私はその範疇に入らない。女将が起こしに来ないのをいいことに、窓より差し込む光を避けて寝返りを打つと、シーツを頭に被り直して二度寝を開始する。

久方ぶりの全力戦闘と、悪夢を見た後の醜悪な気分は、自分を律する程度の気力すらも脳裏から奪い尽くして、体は正直に、怠惰を堪能して体力の回復をしようと訴えていた。

誘惑に負けてしまった私が結局起床したのは、それから四時間後の事だった。役場の業務開始を告げる二度目の小さな鐘の音を聞いて、もぞもぞと寝床から這い出ると、部屋の入り口近くに設置された鏡面台に向かう。

鏡に映る、見慣れた浅黒い顔は、疲労の色が混ざってその濃さを増し、いつもの体裁を保てていない。特に、敵の近寄りつつある三連の動きを見切るべく、強化を乱発した目元が酷かった。酷使を重ねられた瞳周辺の組織は色素が沈殿して黒ずみ、仏頂面と称される我が顔をさらに人避けするものへと変えている。

我ながらひどい面だと自重しながら顎に手をやると、短く伸びていた無精髭に、再び気がつく。カミソリを投影して肌に石鹸を塗りたくると、皮膚を押し分けて生えた彼らを一切刈り取って、せめてもの身だしなみを整える。英霊となってからご無沙汰だったこの作業も、今ではすっかり習慣となっていた。

階下へと降りてダイニングへ行くと、女将が再び笑顔で迎えてくれた。睡眠を妨げない心遣いに礼を述べると、彼女はやはり笑って、暖かい食事を提供してくれる。どうやら階上の足音を聞いて起床を確信し、調理を行なって用意してくれていたようだ。

素直に感心したので再び礼を言い、雑談をしながら皿を空にすると、異邦人の彼らが宿を訪れていない事を女将に確認して、外に出る。密林の湿気を帯びたかのような空気の中、見上げた曇天は、しかし迷宮とは異なり、驚くほどの霧と寒気に満ちていた。

どれほどの差異があるかは知らないが、世界樹の上という常識外の場所にあるエトリアの大地は、生前を生きた土地より確実に標高が高い。百メートルはあろうかという冬木センタービルの屋上もこれほどの寒さではなかった筈だ。吐く息が白く濁るが常になるのは冬の風物詩だが、春も半ばをすぎたこの時期に味わうことになろうとは。

「……冷えこむな」

吐いた吐息の行き先を追ってやると、身にまとった黒のボディアーマーに結露が浮かんでいる事に気がつく。黒いボディアーマーは防御に優れるが、温度の変化にまでは対応していない。体の芯にまで貫通する寒さを防ぐために、投影してあった生地の厚い羽毛の仕込まれた外套を羽織ると、街中へと足を踏み出す。

石畳と煉瓦の街であるエトリアは、霧がよく発生する。霧の発生が大気汚染による黒いスモッグ由来ではなく、寒さを由来とするもの透明なものであるのは、大気汚染を原因とし滅亡の道を歩んだ旧人類に対してのせめてもの救いだろう。

石畳を叩きながら霧中を分断しながら歩くと、割く刺激が記憶の扉を叩いて、生前、ロンドンに滞在していた時のことを思い出させる。あの頃は正義の味方を目指しての鍛錬に、魔術の勉強に、同居人の彼女や茶坊主の真似事にと忙しかったが、充実していた時期だった。

さて記憶の彼方に忘却していた充実の記憶を思い出せたということは、もしや今の自分はあの時と同じくして喜色の感情を抱いているのだろうか、と、ふと思う。思い返せば、他者の不幸を払うために自らの身に着けた力を存分に振るい、結果として誰かに認められる日々というものは、生前なによりも切望していた正義の味方という生き方に近い気がする。

正義の味方が正義であるためには、悪の存在が必要である。そんな事を語ったのは、いけ好かない神父の存在だったか。あの神父は他者の不幸にのみ愉悦を感じる破戒的な男だった。人の幸福に幸せを見出すこの身とは立場が正反対といえど、他者に生きる意味を見出すという点において、エミヤシロウと言峰綺礼はやはり同一なのだと再確認する。

自らの業の深さを改めて思い知らされると、それは今朝方見たばかりの悪夢と混じりあい、心の裡を黒き霧の如きものが、もやもやと覆い出すのを感じる。先程得た爽快なる感覚は、忘却の悪夢がもたらした者だと思うと、素直に喜べない。忘却の悪夢は、徐々にその救済を形にして、現実を侵食しつつある。それが何よりも不安だ。

―――いかん、もう着いたか

余計の浮かぶ心中は時間の経過を忘れていたようで、気づくと私は目的地であるラーダの前、ベルダの広場までやってきていた。これより先の事を考えると、こうも仏頂面ばかりを浮かべてはいられない。

目元をほぐし、心中を覆いつつあった霧を払拭すべく、強く念じながら片手を大きく顔の前でふるい現実にあるごと霧を散らしてやると、余計な事を考える隙を与えぬため、霧中を少しばかり足早に歩いて、知覚に負荷をかける。

結露に濡れた路面を大の字に歩き、視神経と聴覚と肌をいじめながら肩で風を切り、はや数秒もすると、執政院ラーダの前にたどり着く。昼に近いラーダは通常空いているのが相場だが、今日はまた一段とひどい混み具合を見せていた。

あたりに群れている彼らはほとんどが冒険者で、一様に一定以上の興奮を見せている。ざわめきに耳を傾けると、どうやら自分たちが二層の番人を討伐したこと話題が、あたりを賑わせている事がわかる。それを認識した途端、宿屋で一度、広場で一度味わった記憶が蘇り、離脱の決心が働いた。

「あの、もしやエミヤ様でしょうか」

そうして人目を避けようとした際に、背後よりボソリとかけられた声を受けて、しまった、遅かったか。と後悔する。騒乱に巻き込まれる覚悟を瞬時に決めて振り返ると、そこにいたのはエトリアの衛兵だった。

「クーマ様から案内を仰せ仕りました。「異邦人」の皆様もお待ちです。どうぞこちらへ」

兵士は囁き、返事も聞かずに身を翻し群衆から離れる。どうやらすでに「異邦人」のギルドメンバーはクーマと会談を始めているようだった。出遅れたことに少々の反省をしながら兵士を見てやると、ぐるりと広場の外側へと向かう彼を見て、なるほど混乱を避けるためか、と納得すると、配慮がなっているのを感心して、彼の後に続く。

そうして執政院の横に回ると、白い壁にぽつねんと取り付けられた職員用の出入扉を開いて手を招く。裏口から侵入を果たすと、兵士の案内の元、常と違う質素な道を辿り、やがてクーマの部屋の中まで辿り着く。衛兵は扉を閉める前に一礼をして、閉めて去って行った。

にこやかな笑みを持って迎え入れられたクーマの部屋の中には、すでに「異邦人」の五人がいる。机の上に並んでいた六つの紅茶の減り具合と湯気の立たないことから察するに、大分話し込んでいたようだ。

「待たせたようだな……」

詫びの言葉の一つでも必要か、と続けようとした時、遮ってクーマがうわずった声を上げる。

「いやいや、そんなことはないよ! 君の活躍を聞いて楽しませてもらっていたところさ!……あ、ええと―――、うわ、もうこんな時間なのか! どうやらいやしかし、これは信じられないような報告ばかりだ! 胸が踊るよ! 」

その知的な外見に似合わず、興奮を露わにまくし立てるクーマは、幼い子供のように見えた。普段の彼を知る者なら、好奇心旺盛を前面に押し出して興奮する彼を見て仰天の一つでも見せてくれただろう。

そうして湧き出る感情に身を委ねていた彼は、自らの勢いに私が背を微かに仰け反らせるのを確認すると、恥ずかしそうに頭から首までを撫ぜて、咳払いをし態度を改めると続けた。

「流石に吟遊詩人は語りが上手いね。引き込まれて夢中になってしまったよ」
「お褒めに預かり恐縮です」
「うん、本当にお見事だった。―――さて、エミヤ。彼らと受付の彼から一応の報告を聞いたけれど、君の口からはっきりとした報告をもらいたい」

一転しての真剣な眼差しに、姿勢を正しめる。背筋を伸ばすと、努めて真面目な態度で、樹海磁軸を用いて迷宮二層へと潜入し、探索の後に番人の部屋にたどり着き、彼らの協力を得て番人を討伐した、と成し遂げた事実を、魔術の説明を省いて淡々と述べてやった。

話の内容は、信じ難い事象の羅列でした。森の上を駆け抜けて、千万を超える羽虫からの逃走の後、億の数を超える敵と彼らの統率者を相手にして打ち勝った内容は、しかし、その程度の結果は当然だ、という淡々とした口調から真実であることが感じ取れます。

彼は、誇張なくただ起きた出来事を淡々と語っているだけ。しかしその内容は事実として粛々と受け止めるには、あまりにエトリアの一般の常識からは、遠くかけ離れていました。

一層の番人を一人で倒したという報告を、衛兵から紙面と口頭にて淡々と聞かされた際はあまり感じなかった興奮が、胸の中で湧き踊ります。そうして彼の真剣な瞳を見ていると、その静かな雰囲気の中に、ある種の超然としたものを見つけて、なるほど、彼ならばやってのけるだろうという確信を得ることができました。

そうして数十分ほどかけてひとしきり語り終えると、エミヤは「以上だ。何か質問は? 」といって、報告を終えてくれます。報告に偽りがない事は、嘘を語る軽薄さを持たない赤銅色の瞳が雄弁に語っていました。

とはいえ質問はいくらでも思いつきます。どうやって倒したのか、どうやってそれだけの技量を身につけたのか、どうすればその職につけるのか。どこの出身で、どこの土地で育ったのか。

執政者の一人としても、個人としても、聞きたいことは山のようにあります。けれど、偉業をなした人物に対して、矢継ぎ早に疑いを含んだ質問を投げつける事を無粋だと思った私は、しばらく逡巡をすると、静かに首を横にふりました。焦る必要はありませんよね。いつか話したくなれば、彼は語ってくれるでしょうから。

「いや、いや、ないよ。期待以上の活躍です。本当にご苦労様でした」
「そうか。期待に添えたのならなによりだ」

緊張を少しは解いたのか、ふっ、と、柔らかい笑みを浮かべます。私はそれを見て、彼を信じた己の直感の正しさを確たるものにすると、客人用に置いてあるソファから腰をあげ、己の作業机へと足を運びました。そうして収納と一体型の机の最下段の棚から膨らんだ袋を取り出すと、彼らの方に差し出します。

「では、まずはこちらをどうぞ。番人討伐の報酬です」

差し出したそれらを眺めた一人と五人は、差し出されたそれらを目にした後、取りに行こうとせぬ互いを不審に思って見つめ合いました。目線の交錯ののち、サガが首をくいと顎を使って机を指したのを見ると、エミヤは首を傾げて言ってのけます。

「……、番人の討伐に、報酬なんてあったのか? 」

帰ってきた予想外すぎる答えに、私はみっともなく顎をがくんと垂らして、大口を開けて驚きを表現してしまいました。どうやらその驚きを感じたのは私だけではなかったようで、一同もそれぞれの方法で、驚きを露わにしていました。

「え、っと、エミヤさん? あなた、一層の番人を討伐したんですよね? 」

響という少女が、私の気持ちを代弁して尋ねてくれました。

「ああ、だが、その際は受付で報告をしてから十日ほど後に、訪ねてきた彼から討伐の証を受け取っただけだった」

言葉を受けて私は雷スキルを食らったかのような衝撃を受けて、慌てて机をひっくり返すと一層攻略の書類を取り出して、目を通します。そうしたのちに、果たしてその書類の一部に、報酬金の受領印が無い事を確認すると、堅く硬直した体を無理やり動かして、言葉を絞り出しました。

「も、もうしわけない。どうやら、手違いで、処理が行われていなかったみたいですね」

震えた声でいうと、彼は「ああ、そうなのか」、と対して興味ないような素振りで返事を返してくれました。そのまるで気にしていない様子が私の罪悪感を刺激して、私は慌てて部屋の隅の置かれた金庫を開けると、中から一定額を取り出し麻袋に詰め、書類と共に前に差し出します。

「本当に、申し訳ありません。これが前回の報酬、一万イェンです」

彼は差し出たそれを、心底興味ないかのように一瞥しました。その瞳のあまりの冷たさに、私の心はさらに締め付けられて、思わず言い訳がこぼしてしまいます。

「すみません。その、深く反省しております。あなたの報告を処理した担当の者共にも、言い聞かせておきますので」
「……、ああ、いや、いい。別にそう、強く言ってやらないでくれ」

処理した担当、という言葉に彼はピクリと反応を見せると、苦笑とともにそう言ってくれて、袋を受け取りと書類にサインをしてくれます。そういってくれたことに感謝をしながら、こちらの失態により硬直してしまった空気を弛緩させるべく、わざと大きめに何回か咳払いをすると、努めて柔和な笑みを浮かべて机に深く腰掛けました。

「で、では改めて。こちらが今回の二層番人討伐の報酬、一万五千イェンです」

そういって二つの袋を差し出すと、近くにいた再び彼はそれを受け取って、書面を見てサインをしようとし、しかしその途中で袋の重さに違和感を持ったらしく、先程受け取った一万イェンの袋と両手の天秤に乗せて交互に動かしてその重さを測ると、袋を両方とも机に戻し、書類の一部分を指差しながら尋ねてきます。

「クーマ。どうやら提示された額面通りの額が入っているようだが」
「ええ、その通りです。額面に書かれている通り、の額を袋に入れましたから」
「だが、これでは、額面の倍額を君は支払うことになる。番人を倒した者たちに一万五千の褒賞を与える、というのがこの契約書の文には書かれているが」
「ええ、ですから、番人を倒したギルドの人たちに、それぞれ、一万五千を払うのですから、何も問題はないでしょう? 」

いうと、エミヤは驚いた表情で問い返してきました。

「契約書の文言と違うがいいのかね? 」
「ええ、解釈は担当者の自由裁量に任されていますから。一人と五人のギルドが協力して倒す事態は正直想定外でしたが、以前もこのようなことがなかったわけではありませんし、その場合もこうして報酬を支払いましたから。何の問題もありません」

返答にエミヤは先程までの精悍さとは打って変わって呆気にとられた顔を浮かべると、なにか言おうと口を開きかけ、しかし飲み込むようにして口を固く結びなおすと、やはり呆れたような、しかし取り繕いのない自然な苦笑を浮かべ、言いました。

「は、まったく、平和な世界だ」

そうして吐き捨てられた罵倒の言葉には、けれど驚くほど毒気が含まれていませんでした。

―――彼らなら、新迷宮の謎を解明してくれるかもしれません

踵を返すと、彼と彼らは立ち去って行きます。双方の苦労に報いたいという意図をくみ取り、その他諸々の証明書と報酬を受け取って立ち去った彼が扉を閉める音を聞きながら、私は己の判断の正しさをさらに深く確信しました。

やがて彼らが帰った後、驚くほどの静寂さを思い出した部屋の中で、私は本棚から取り出したボロボロになった一冊の本を握りながら、物思いに耽りました。表紙が擦り切れ、背の印字は掠れ、小口が手垢にまみれた本をめくると、本扉には「英雄譚 エトリア編」と、とても簡単な銘が記載されています。

幼き頃、己を冒険者達に憧憬を抱かせた両親からの秘密の贈り物には、かつて五人の冒険者達が、どのようにしてエトリアの旧世界樹の迷宮を初踏破したのかを事細かに記しされています。英雄たちに直接会って話を聞いたという記者によって記されたその内容は、あまりに旧迷宮五層以降の冒険を克明に書き上げていたため、発売前に回収されてしまった代物でした。

そうして禁書となった本を開いた私は、古ぼけたページを捲ってある所で指の動きを止めました。そこより以降に記されているのは、ある一人の冒険者の情報です。本気か嘘か、旧世界の出身と嘯く彼女は、本の作者曰く、まるでたしかに、初めてこの世界に足を踏み入れたかのように、さまざまな一般常識に欠けている部分があったと言います。

―――そんなのまるで、彼のようじゃないですか

私は目の前に突如現れた白紙のような彼と、過去の世界に生きた旧世界の英雄の間に不思議な一致を見つけて、背筋から湧き上がるぞくりとした感触に、思わず身震いして、我ながら気持ちの悪い、だらしない笑い声を静けさの中へと響かせました。

正体を知らぬ二層の番人を、共同とはいえ倒した事実に、私たち、ギルド「異邦人」の名声はエミヤに負けず劣らず高まっていた。実際のところ、ギルドの活躍と言うよりはシン一人が手を貸しただけに過ぎないわけだけど、端的にエミヤのギルド「正義の味方」と私たち「異邦人」のギルドが共同で倒したと言う結果しか語らない執政院ラーダ前の立て札は、嘘ではないが事実を誇張して伝えたらしい。

エミヤと別れ、祝杯をあげた次の日の早朝、鐘の音がなる響く前に、私は窓の外からきこえてくる異常を察知して、なんとか寝床より這い出した。天空を支配している月の光が未だに煌々と輝き、その凍えるような冷たさが一晩中エトリアを照らして、大気は暖気を奪われたかのように、日が稜線より顔を出す直前、最も冷気が強くなる。

身を切り裂くような寒さに小声、思わずベットから布団を剥がして羽織る。中に潜んでいた温もりが湿り気とともに拡散して、ふわふわと空気の中に消えていった。部屋の中は、暖気を保つ羽毛布団と、ベットの下に仕込まれた、旧迷宮産の発熱する輝石がなければ凍死してしまいそうな冷たさでいっぱいだった。

けど、かつて迷宮の存在を知らなかったエトリアの住人は、どうやってこの寒波に耐えていたんだろう。そんな他愛もないことを考えながら、蝶番を弄って、窓を開けようとして。

「……はぁ?」

窓の外、ぶら下げた道具屋の看板の下に、人の群れを見つけて、上擦った声が漏れ、ビックリに心臓が悲鳴をあげた。灯りの影が映し出す陰影から彼らの正体読み取るに、多分、冒険者なんだろうと思う。

なら彼らの目的はきっと、冒険者用の素材や道具も一応は扱う、響道具店が目的なんだろう。けど、一体なんで、呪いの噂で客のこなかった道具屋に、彼らはわざわざ足を運んでくれる気になったんだろう。あるいは今更、預けてあった道具でも取りに来たんだろうか。

混乱する頭だけど、客が来ているのであれば店を開かない理由はない。とにかく着替えて階下に向かうべきかな、と考えたその時、廊下の路地裏側の窓から小さな音が聞こえた。なんだろうと部屋から首を出してみると、窓に粒ほどの小石が連続してぶつけられていた。

知らぬ間に、恨み事でも買ってしまったのか、と怯えていると、透明なガラスの向こう側に黒い影がぬっと現れた存在に驚く。

―――な、生首……!

微かに白んだ夜空の黒を遮った陰影は、私を驚愕させるのに十二分な効果を発揮して、思わず仰け反り、首を後ろの扉枠にぶつけて、四つ這いになった。強打したらしく、ひどく涙目になりながら、嗚咽が漏れた。

痛みは混乱と混じり合い、極まった感情は眼より熱いものとして漏れ出して、頬を伝い、床へと落ちてった。一体なんだと言うのだ。私が何をしたと言うのか。

伏して羽織った布団にくるまって、身の守りを固めながらハラハラと涙を流していると、今度は路地裏のガラス窓を強く叩く音が聞こえた。そうして私は問題が何一つ解決しておらず、十数メートル先の空間では、何者かがこちらを見据えている現実を思い知らされる。

二階の窓先に生首を浮かべる輩は、何を思ってか、あるいは伏したこちらを気にしているのかはしらないが、音を鳴らすのをやめてはいるが、その気配は未だに消えてくれていない。とりあえずはこれだけの隙を見せても襲い掛かってこない事実とこちらを気に掛けて音を止ませた事実から、多分は、相手はこちらに危害を加える意思がなんだろうな、と、半ば逃避気味に予測。

楽観混じった結論に達した時、予想外と理不尽を突きつけられていた私の脳内は己の思考の危機的状況を打破するため、脳内にて渦巻いていた思考の全てを一つのものに集約させた。すなわち、二階の窓を叩く不届き者の正体を確かめてやる、だ。

覚悟さえ決まれば、行動に移るのは早かった。頭からすっぽり被っていた布団を部屋のなかへと跳ね除けると、ずんずんと大足で歩いて大胆に窓へと近づく。すると、私は、すぐさま影の正体を知ることが出来た。見覚えのある艶やかな黒髪と細身ながらしっかりとした骨格と肉を備えた上半身。それは、ここ一ヶ月ほどで飽きるほどに見続けた肉体だ。

蝶番を捻り窓を開けると、外枠に両手の指先の力だけで器用に張り付いている人物めがけて、努めてにこやかに、商売用の笑顔を浮かべて、冷静に問いかけた。多分、生まれてから一番の、会心の作り笑いだった。

「……なにをやっているんですか、シンさん」

先程まで体内を巡っていた熱は肺の中の空気を圧縮するためにすべて使われたらしくって、驚くほど冷たく抑揚のない声が、するんと口から出た。

「うむ、君を迎えに来たのだ。響」

突きつけられた言葉の冷刃をまるで無視して、シンは呑気に理由を答えてくれた。時と場所と気持ちさえ整っていればまるで告白のように聞こえただろう言葉は、残念ながらこの度は鋭い刃となり、私の中に残されていた理性の綱をまとめて簡単に断ち切った。直後、私は迷わず窓の外にいたシンの額目掛けて拳を突き出す。

無意識のうちに繰り出された拳は、近接職のシンにすら知覚のできない不可視の攻撃となって彼の頭を撃ち抜き、真正面に加えられた横の力に耐えられなくなった彼の指先は窓枠から離れ、彼の体は重力に負けて落下する。

一撃に魂を込めてしまったのか、その後、黎明の知らせを告げる鐘の音が脳を刺激するまで、私は糸の切れた操り人形のようにへたり込んでいた。

曇天。薄い雲間から時折姿を覗かせる月光はエトリアの大地を全て照らすに足りず、大地には依然として静かな暗さが残っている。響達の騒動が騒ぎになるより更に前の時刻では、未だに宵闇と閑静さが領域の大部分を支配するエトリア郊外の森中では風切る音が、場所を移動させながら、時に不規則に、時に規則正しく響いていた。

やがて月は一日の最後の力を振り絞って雲間の切れ目より森の一部を照らした。襲来した月光を二振りの黒白の刀身が切り裂く。繰り出された刃は、突如身を引いて、光の奥へと消えた。そして現れたのは、黒いボディアーマーに身を包んだエミヤである。

エミヤは重厚に足元を蹴りながら、移動しては片手ごとの刀身を振り抜かず止めて、別の場所へとまた振るい、そして振り抜かず戻す。手腕だけを見れば不可思議にも見えるこの作業は、しかし動きの全体を見てやればその意図がつかめる。彼の動かす刀身の先は、常に一定の距離を移動すると、戻る軌道を描いている。切っ先の通過した場所に色をつければ、それが彼を中心とした球を形作っていることに気がつけるだろう。

形作った厚い殻は、すなわちエミヤの支配する領域だ。今、エミヤは先日戦った敵の動きをを脳内にて再現し、模擬戦を行なっている最中であった。虫の繰り出す鋭い群撃に刃の腹を当て、いなして、再び繰り出される群撃に刃を合わせる。繰り返し双剣を振るう彼の手は動きが不規則に乱れる。想定の中で敵の攻撃を捌き切れなかったのだ。

動きが乱れるたびに、彼の呼吸が乱れ、証額に吹き出た玉の汗の量が増える。汗は飛び散り、乱れた吐息に、エミヤの周囲は熱を帯びて空気をゆらゆらと歪ませた。草木も眠る時刻より迷惑にも激しく森の空気を裂き大地を荒らしていた音は、稜線より現れた陽光が周囲を照らし朝を知らせると同時に動きを止めた。エミヤは額の汗を腕で拭い、忌々しげに呟く。

「……何もしなければ、衰える。使いすぎれば、壊れる、か。なんとも贅沢な悩みだな」

彼にとって、己の理想とする身体能力といえば、英霊時代のそれが基準である。生前生身で過ごすよりも死後英霊として過ごした時間の長い彼にとって、それが準拠となるのは当然のことだ。英霊時代は、魔力さえ注ぎ込んでおけば、肉体は劣化も老化もしない。だが、生身の体を得た現在、何もしなければ筋肉は萎むし、時の経過と共に神経反射の速度は衰える。そして過剰に使用すればどちらも壊れるのだ。

全身に強化を多用して、筋肉と神経と血管と筋と内臓、その他各部位に過剰な負荷を強いるのはエミヤにとって常である。すなわち生身の肉体を得たという事実は、彼にとって贅沢でありながらも深刻な悩みであった。

幸いにして、この世界にはスキルという便利な存在があり、エトリアの施薬院を訪ねれば、スキル治療により体調を万全な状態に戻してもらうことが出来る。造血剤だって投与してもらうことが可能だ。だから、エトリアに戻ってさえ来れれば、悩みは解消される。

そうなれば問題は一つ。エトリアで治療を受けられない環境に身を置いている時、すなわち迷宮に一人潜った時、体調の万全を保つのが難しいという事にあった。一応、スキル同様の効果を発揮する薬を使用することによって身体の回復は望める。だがそれは敵との非遭遇時に限る事であり、つい先日あったような強敵との戦闘時おいてはそんな暇など、ない。

例えば、自動で回復が発動するような仕掛けがあればいいが、ヘイに聞いたところ思い当たらないという。一応自ら作り上げるのも不可能ではないだろうが、剣から形が離れるほどに劣化する我が魔術では、不死不老に近い効果を与える武装など投影できるものではない。

噂によれば、世界樹の迷宮は階層を深く潜るごとに、魔物の強さの質が上がるという。二層で苦戦を強いられた現実を省みれば、怪我の回復をある程度の判断のもと、自動的に行うような道具が用意できないのであれば、己以外の誰かに協力を仰ぐことが必要だ。ただし、その誰かというのは、己に匹敵するほどの手練れ出なくてはならない。

そうして思い浮かぶのは、つい先日、短い間行動を共にした彼らのことだ。シンとかいうブシドーの彼が放った一撃は、自分の苦戦していた玉虫を、フォーススキルという切り札を持って全て切り伏せるという結果を残し、己の実力を私に知らしめた。

彼の引き連れる仲間のうち、一人は素人臭い動きを残していたが、彼女を除く彼らは、隙の少ない良い立ち居振る舞いをしていた。

―――彼らなら、もしや、協力者足り得るかもしれない。

思ったが、彼らと私にあの時以外の接点などないのを思い出して、かぶりを振った。一見の出会いでしかない手練れの彼らが、私に協力してくれる理由などないだろう。彼らの話を聞く限り、彼らの目的は己らの手で新迷宮を踏破してやること。

己の目的を他者の意思によって邪魔されることほど、腹立たしいことはない。ならばそれを邪魔するかのような協力の要請など、恐らく聞いてくれないに違いない。しかし、それなら金銭ではどうだろうか。いや、先の彼らの態度から察するに、彼らは名誉を重んじるタイプだ。恐らく金では動かんだろう。

―――いかんな、気が急いている

己の焦りを認識し、継続して働かせていた思索が途切れを見せた瞬間、芯に冷える寒さが身を包みつつあることに気がついた。森に潜む夜の間に溜め込まれた冷気は、周囲に撒き散らされた温度と太陽の陽光の暖かさを下回って、皮膚より熱を奪い去ってゆく。

軽く全身の汗を拭うと、汗の蒸発が体温を奪い切る前に外套で熱の逃げ場を制限し、賑わいを見せるエトリアの門に向けて足早に向かう。そうして門の前まで辿り着いた時には、周辺は春も半ばの気温を取り戻していた。

見上げれば暁の空には、刷毛で書いたような灰色の雲が、乱雑を形にしたかのように茜色と混じる青色の上にぶちまけられ、東雲の光景を半分以上覆い隠している。その夜明けに黒白混じった色が広がる様はまるで、心中の懊悩を表すかのような光景だった。

世界樹の迷宮 〜 長い凪の終わりに〜

第七話 揺れる天秤の葛藤