うさヘルブログ

気持ちの整理のために開設。うさまるとデスヘルが好き。最近は、気持ちの整理とダイエット報告がメインになってきています。

世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜   十七話 己の醜さを見つめた先にある世界 (B:世界樹 root)

第十七話 己の醜さを見つめた先にある世界 (B:世界樹 root)

 

彼らは遂に己の醜さと真正面から対峙した。

過去を乗り越え、目の前にある今という現実を生きていくために。

 

 

「聖杯を使え! 」

 

エミヤの咆哮が大きく鼓膜を揺らした。掠れ、潰れたその声に反応して、足の動く速度が加速する。なんでも一人で解決しようとしたがる人が、窮地に私の手を必要としたという事実に、ようやく心の底から仲間になれた気がして、そんな事態でないのはわかっているが、嬉しい気持ちが溢れた。そして気持ちが限界を超えて体を突き動かす原動力となったのだ。

 

「そして魔のモノの封印を願え! 完成した聖杯ならばきっと――― 」

「させるものか! 」

 

別方向から襲いかかる言峰は、凄まじい勢いで聖杯との距離を詰めてくる。先程の飛び回る火竜にも劣らないだろう速度だ。息を止め、心臓が破けんばかりの無茶を強いて、体を前に倒しながら走る私より、ずっと速い。そして私を即座に追い抜いた言峰は、聖杯へと手を伸ばし、確保の姿勢へと移行する。

 

―――ダメだ、間に合わない……!

 

「取った―――」

「させるか! 」

「何……、ぐぉ! 」

 

言峰の手が聖杯に触れる寸前、赤い塊が彼に激突した。エミヤだ。そして二人は赤と黒の塊となって湖底を転げてゆく。勢いや凄まじく、おそらくいましがたの体当たりは、エミヤにとって、全身全霊を込めての行動だったのだろう事が伺えた。彼の行動を無駄にしないためにも、私は指先を必死に伸ばして聖杯へと伸ばし―――なんとか聖杯をこの手に収める。

 

「っ……貴様、この死に損ないがぁ! 」

「そうとも! だが、死に損ないの状態であっても、貴様の行動を阻害する程度の力は残っているさ! 」

 

けれど、聖杯取得と同時に聞こえてきた雄叫びに、思わず彼らの方を振り向いた。地面を転がる赤と黒の塊になっていた二人は、やがて黒の色を纏った言峰が素早く立ち上がったことで、完全に分離していた。そして続くエミヤの挑発の言葉に反応して、言峰の拳が振り上げられる。

 

漆黒の闇に染まる周辺よりも色濃く、奴が纏った暗黒よりもさらに濃厚な、黒い瘴気を纏った拳を目にした途端、悪寒が走った。拳に致死の力が秘められている事を本能が嗅ぎ取り、近寄るなと警告を促した証だろう。

 

まともに喰らえば致死は確実の威力が秘められた拳の一撃を、けれどエミヤはただまっすぐ見据えているだけだった。上半身だけを起こした彼は、両腕をあげて抵抗しようとも、その場から動いて攻撃を回避しようともしていない。おそらく先ほどの体当たりに使用した力が、本当に最後の力を振り絞ったものであったのだろう。彼のその鋭い目つきには、徐々に諦観の色が宿りつつあった。

 

「よかろう!そんなに早く地獄へいきたいというのなら、まずは貴様から死ぬがいい! 」

「―――」

 

振り下ろされそうになる拳。あれがエミヤの頭に直撃した瞬間、彼の頭はまるで風船を破裂させるが如く、弾けて中身は散逸してしまうだろう。せっかく彼という人物と信頼関係を結べたというのに、このままではその彼の命が消えてしまう。

 

聖杯を使い、魔のモノを封印しないといけない事なんてもう頭になかった。頭の中は、目の前の彼を助けることだけを考えている。だから私は、願望器を掲げて思い切り叫んだ。

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

心から叫ぶと、聖杯は願いに呼応するかのように銀の体から光を発した。同時に体から力が抜けてゆく。胸元が熱い。体が言う事を聞いてくれない。まるでフォーススキルを使用した際の疲労みたいだと思った。瞬間的に広がった光は影の生まれる隙間にすら侵入して、大空洞を完全に白の空間へと塗り替える。そして―――

 

 

体が動かない。動いてくれない。脳が目の前で次々と起こる非現実的な光景を受け止めきれないためだろう。理解を放棄した頭の生み出す様々な感情が、出鱈目な指令を出す元となり、無茶苦茶な信号が絶え間なく出力されることで、命令系統が大混乱を起こしているのだ。

 

目の前に広がる光景から、許容限界量以上の負の感情が、脳髄へと叩き込まれ、神経内をめちゃくちゃにする。自分に対する、他人に対する、怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ。暴走して湧き出てくる感情は、どれも日々感じ続けていたものばかりだった。

 

思いかえしてみれば、私は、日々さまざまなことに不満を抱いていた。そうだ。私は感受性に鈍く、人の気持ちが理解できなかったのではない。豊かな感受性を、多くの場面で自らの不満を感じるために使っていたからこそ、日々己の裡より生じる不満にうんざりとして、いつしか自己の気持ちも他者の気持ちも正しく理解する事が出来ない魔境に自ら迷い込んでいたのだ。

 

そして私は表意識の面では気が付かなかったが、無意識のうちにおいては、自ら魔境に迷い込んだ醜態に気づいていたからこそ、日々、己に出来る事を淡々とこなし、感じる悶々としたものは、全て心の奥底に封じ込め、一日を過ごすようになったのだ。と考えれば、何かを『守る』職業に就いたのも、必然であったのかもしれない。そう。私は、変化という事象から、己を守り、不変の状態を保つために、パラディンという職業に就いたのだ。

 

表意識では変わりたいと願いながら、その実、変わらないまま受け入れてほしいと思う矛盾。それこそが私の歪みだ。まるで変わらない日々を漫然と生きる中、思考や気質が変化する人を見かけ、何度羨ましく思ったかわからない。

 

変化というものは、人間が得た知識や置かれた環境に適応した結果に過ぎないのだと私は考えていた。元々持つ本質まで変わってしまうような人間は見たことがなかった。

 

勇敢だった人間が死にかけて極端に臆病な性格に変わる場面や、粗暴な点が目立つ人間が自分よりはるか格上の実力をもつ人間の側に置かれることで大人しくなったのを目撃したこともあるが、そんな負の方面の変貌ですら、まるで変化というものと無縁であった私にとっては、羨望の対象であった。

 

だから私のこの他人の都合よりも自分の感情を優先する醜い気質も、きっと私がもつ本来の気質であるのだろうと思っていた。こんな醜い本質、晒してしまえば嫌われると思っていた。衛兵として冒険者に接する中、私同様に、身勝手な人間との接触も少なくなかったが、私の周囲にいる人間は、他人の事を慮り、気を配ることのできる人間ばかりだったから、余計にそう感じていた。

 

だから心の奥底に封じ込めて、常識と良識で封印し、蓋をした。そして衛兵という職についた背景として、「他者を守ることこそ、己の信念である」という都合の良い行動理念を生み出すことで仮面とした。とどのつまり、私の信念とは、ありのままの自分を受け入れてもらいたいが、ありのままの他人を受け入れたくないという鬱屈した想いを隠すための化粧にすぎなかったのだ。

 

だが今、長年使い続けてきた厚化粧の仮面は、膨大な質と量の悪意の感情を前に剥がれおちた。侵入した負の感情は、心の奥へと溜め込んできた鬱屈な想いと合わさると、感情の濁流となり私の体を駆け巡る。

 

「―――あ……」

 

耐えられたのは一瞬。そしてのちに、咆哮。抑え切れなくなった感情は滂沱の涙となり、絶叫となり、外部へと排出されてゆく。身体中の水分が涸れる勢いで泣き、喉が痛くなるほど叫ぶと、不変を楔として冷静を保っていた私は、感情のままに叫ぶという醜態をさらした。

 

痛い。怖い。傷つきたくない。死にたくない。自分だけでも助かりたい。溢れ出てくるのは自己の保全を望む思いばかりで、口からこぼれ出るのはその感情に基づいた原始的な悲鳴ばかりだった。他人のことを慮る思いなど、一辺たりとも存在しなかった。醜い。あまりにも醜い。こんな人間、獣と何一つ変わらないではないか。

 

……しかし、理性が醜いと断じる感情が大いに発散されていくにつれて、不思議と胸の裡のつかえが失せていくことに気がついた。やがて私を常に苛つかせていた沈殿物が失せてゆくとともに軽くなってゆく頭は、暗闇の向こう側、起こる現実の一瞬を捉えた。

 

それは一人の男と二人の男女が戦う光景だった。三人は思いの丈を吐露し、叫びながら、思うがまま動いている。抑圧をやめ、ただ己の心に従うがまま行動する彼らを眺めた時、羨ましく思った。場違いなのはわかっている。そんな事態でないのは承知の上だ。それでも醜い美しい、敵味方関係なく、本心を隠さずぶつけ合う光景は、私の胸を打ち、見惚れさせた。身体中がざわつく。

 

―――私も、ああやって、己を偽ることなくさらけ出してみたい

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

溢れてきた感情が心を満たす直前、唐突に耳朶を打った助けを求める声は、恍惚の感情で満たそうとする脳内に響く喝となり、私の思考は、今までとは別の、たった一つの感情により生み出されたものにて支配された。

 

―――仲間を助けたい

 

そんな気持ちが胸の奥底より自然と湧き出たことに、我が心情でありながら驚いた。醜さを隠すため使い続けた仮面の如き信念でも、年月を積み重ねたのならば、本物の様になるのだという事にも気がつかされる。どこまでも自分勝手だと思いもするが、悪くないと思う自分もいた。誰かを守りたいという建前が本心と合致する事によって、これまで以上の力が湧き上がってくる。

 

―――全身に力が満ちてくる

 

では、いつも通りに、しかしいつもと違う一歩を踏み出し、味方を守るとしようか!

 

 

振り下ろされる拳。魔力と、加えて別種何らかの力が込められたそれは、私の頭を砕くには十分すぎるほどの威力が秘められていることが風切る音でわかる。おそらく拳と頭部が接触した瞬間、風船が弾けるように、私の頭も破裂するだろう。余りにも一瞬過ぎて痛みを感じないだろうことが唯一の救いといえるかもしれない。食らえば即死は免れないそれを、しかし私はただ見つめる事しかできないでいた。体が動かないからだ。

 

首から上のうち、動くのは眼球だけで、肩から先は一切の感覚がない。足は筋繊維が千切れているのだろう、高熱の感覚を伝えてくるばかりで、まるで命令に反応してくれない。もう腕も脚も、指先一つ動かすことも叶わなかった。

 

先ほどの一撃は正真正銘、最後の力を振り絞ったものだった。心臓という循環機関を失った大穴空いた胴体は、当然のように動かすことができない。上半身を起きあがらせることが出来ただけでも奇跡の所業と入れるだろう。

 

襲いかかる死の具現を前に、頭はやけにクリアだった。上半身を起こした際、響が聖杯を手にしたのを、視界の端に捉えることができたからだと思う。私がここで殺されようと、彼女が聖杯を用いて魔のモノを封印できれば、私という最小の犠牲で彼女らは最大の目的を達成することができる。おそらく魔のモノの手先である言峰も消えるだろう。そして彼女らは生き残り、世界は救われる。つまり、収支はトントンどころか黒字。ベストではないが、ベターな結果ということが出来るだろう。―――そんな考えがあったのだ。

 

しかし―――

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

予想に反して、響は世界の敵の封印ではなく、私の救済を望んだ。彼女の予想外の判断に驚く間もなく、瞬間的に光が周囲に散らばり、奴と私の間にも入り込む。視界を塞いだ白光に、唯一自由に動く目元が反応し、瞼の裏の黒で眩さの中和を試みる。奴の靴裏が地面をこすり、削る音が聞こえ、そして停止した。

 

「なに……! ―――なんだ、これは!」

 

突如襲来する光に、困惑する言峰の大きな声があたりの空間に響いた。奴が振りした拳は、私のすぐ目の前に現れた、私と奴の空気中に細かく光を散らす白く細かい粒子に阻まれ、動きを止めていた。この光景には見覚えがある。これは―――

 

「―――完全防御……! 間に合ってくれたか! 」

 

―――ダリのフォーススキル、「完全防御」……!

 

「面倒な事を……!」

 

言峰は憎悪の視線をこの現象を引き起こしたダリに向ける。彼は自らに向けられた憎悪の視線をまっすぐ受け止め、こちらへと向かっている。怨嗟を含む瞳は、しかしダリの歩調を乱す要因にはなりえなかったようで、彼は速度を落とすことなくこちらへと近づいてくる。

 

「―――だが、短い間しか効力がないようだな……!」

「くそっ! 」

 

だが奴はダリが接近するよりも前に本懐を果たすべく、止まった拳を再度振り上げた。フォーススキルは連続して使えないという欠点を見抜かれたダリは悪態づき速度を上げるも、全身に鎧を纏い、重たい盾を装備した彼の速度では、到底、言峰が拳を振り下ろす速度に間に合うまい。―――そして。

 

「残念だけど、その一瞬の隙があれば十分なのよ! 」

 

やがて奴の拳に命が刈り取られる寸前、かつての時代、戦場で嫌になる程耳にした火薬の炸裂音が響き、頭上にて硬質なモノ同士がぶつかる甲高い音がした。

 

「ぬぅっ……! 」

「アームスナイプ……、たしかに命中させたのに、まさか弾くなんて……!」

 

もはや何度目になるかわからない驚きを得る。幼さを残した声に続けて、二発、三発と銃声が鳴り響く。頭上を通過した空気を切り裂く音は、言峰が直前まで存在したあたりを通過すると、そのまま遠方へと去っていく。同時に目の前にあった言峰の気配が消えた。

 

「小娘……、貴様……! 何者……!」

「私は子供じゃない! 」

 

続く銃声が、別の場所へと移動した言峰の声が聞こえた位置へと放たれる。異色を纏っているのは、放たれた弾丸に火炎と氷結と電撃の性質が宿っている証拠だ。言峰を無力化するべく放たれた三属性の弾丸は、しかし、先ほど同様に聞こえた甲高い金属音を立てるに威力を発揮するだけにとどまった。数発の銃撃はまるで奴にダメージを与えることなく、奴の体術とスキルと魔術によって迎撃されたのだ。

 

「まったく、属性弾も防ぐとか、あいつほんとに人間なの!? アーサー! 」

「任せろリッキィ! 雷撃の術式! 」

 

帯電した空気が孕んで膨張した音色が周囲に鳴り響く。つづけて液体が飛び散る音が聞こえ、破裂音と、肉の焼ける匂いが一帯に広がった。さらに、雷撃に空気がイオン化したのか、独特の臭気までもが鼻を擽る。あたりは刺激のデパートの様相を為していた。

 

「増援か……、流石にこの数を相手にするには、少々手持ちの駒が足りん……ならば―――」

 

銃弾に続く雷撃の攻撃を魔のモノを犠牲にすることで避けた言峰は、連続攻撃に己の不利を悟ったようだった。先ほどまでの強気な態度から一転、冷静な口調に戻り言ってのけると、地面を思い切り蹴って別方向へと駆け出す。

 

―――この方向は……、響……、いや聖杯か!

 

離脱を決心した言峰は真っ直ぐ、地面に転がっている聖杯へと向かっていた。聖杯の近くにいる響は、自らが引き起こした発光現象の衝撃により、聖杯を手放して放心している。

 

「させない! 」

 

しかし、体勢を崩し地面に手をついていた響は、言峰の接近に素早く反応すると、震えていた体を抑え、気丈にも立ち上がり、剣を正面に構えると、言峰の行動を阻止するべく前へと踏み出した。青眼の構えの姿勢に移行する姿には、常の彼女にはない自然な流麗さがあった。

 

だが、それでも言峰という男を止めるために腕力や膂力と技術に不足がある事は歴然で、一秒先に彼女が吹き飛ばされる未来が見える。いや、それどころか、奴が突進に伴っているエネルギーを全て攻撃の威力へと変換させたのなら、彼女の細い体に大きな穴が空くほどの威力になるかもしれない。

 

「邪魔だ! 」

「リッキィ! 」

「ダメ! 射線があの子と被ってる! 跳弾でも―――間に合わない! 」

 

 

全身が動かない。冷え切っている。目の前に広がる悪意の濃度に、体ではなく、心が凍えていた。今までも命をかけた敵から殺意や害意をぶつけられる事はあったけれど、目の前のこれは、それらとはまた違った、別種のドロドロとしたものだった。

 

気持ちが悪い。一言で表すならそれが最も適している言葉だと思った。濃厚な黒色が目の中へと飛び込んでくるたび、頭は締め付けられる様に痛むし、心臓は血液の送る速度を過剰にはやめて、不整脈を引き起こす。首元をビリビリとする感覚も、腕や脚に鳥肌が出来るのも一向に治らない。肺は酸素を求めて伸縮を繰り返すし、乱れた自律神経が呼吸をかき乱すのを助長する。

 

必死こいて地面にしがみついてないと、ただでさえ軸のない自分というものが押し寄せる悪意の奔流の中に消えてしまいそうな気がした。だから目を閉じて、耳を塞いで、自分の体を抱きかかえて懸命に己を守る。そんな時、声が聞こえた。

 

「お願い! だれか、エミヤを助けて! 」

 

必死の感情に満ちたその声は、いろんな負の感情が入ってこない様、自衛だけを試みているみっともない俺の中にするりと入り込んできて、俺の心を刺激した。その必死さは、基本、俺とは無縁のもので、けれどだからこそ、欲していたものだったからだ。

 

俺は特に何も考えずここまでやってきた。エミヤには、ここに行こうと決めたのは自分の意思だ、なんて偉そうな事を言ったが、実際は、なんとなくっていうのが正しい。多分、カッコつけたかったんだと思う。いや、違うな。俺は、俺を守りたかっただけなんだ。

 

俺にはあいつらみたいに胸に燃えたぎる様な目的ってものがないから、自分より大きな度量と実力を持つ人間に、懐の大きさまで見せつけられたから、自分は人よりも小さな人間だという事に異様なまでに反応して、悔しかっただけなんだ。嫉妬しただけなんだ。

 

そうだ。冒険者になると決めたのはそんな、やけくそ気味の鬱屈した思いからだった。その後、冒険者という命を掛け金とする職業を続けられたのはシンの熱情に影響されたからで、大した才能がないのにこうも名が売れる様になったのは、周りの人が優秀だったからだ。

 

優秀な周りの手が俺を押し上げてくれなかったら、俺はずっと下の方で燻っていただろう。みんなと違って、俺はまるで全く大した人間じゃない。そんなことは、俺自身が他の誰よりも知り尽くしていることだ。俺は、優秀というには、あまりにいろんなものが足りていない。それでも優秀でありたいと願うだけの、ただの小さな人間に過ぎなかったんだ。

 

言い訳になるかもしれないけど、多分、それは特別なことじゃないと思う。ここにくるまでわりかし多くの人と接してきたけれど、大半の人間は、なんとなく生き方を選んで、なんとなく他人の言動に反応して、なんとなく適当な努力をして自分を大きく見せようとして生きている。それが普通の人間ってやつなんだろう。

 

でも、そんな人間の中に、時たま、才能にあふれていたり、情熱に満ちていたり、ってやつもいる。悔しいけど、そんな奴らは、下の方でうごめく俺らなんて気にもしないで、まるで普通なんてものにかかわることなく、一足飛びに上の方へいってしまう。いちいち細かいことを気にして悩む俺とは大違いだ。ゆえに、初めからそういう気質は決まっていて、変える事は出来ないんだろうと思っていた。

 

だからこそ俺は、シンが、ピエールが、ダリが、エミヤが羨ましかった。俺には、シンのように一途な熱情も尖った才能もないし、ピエールの様な自分の感情に身を捧げる覚悟をしたわけでない。ダリの様に確固として貫いてきた信念もないし、エミヤのような他の人と隔絶するほどの力があるわけじゃなかった。だから俺は、あいつらと一緒にいてもどこか近寄りがたいところがあった。あいつらは俺と違って立派すぎるから、どうしても気後れする。

 

その点、響は俺と同類だと思った。冒険者になろうと思いついたから、即座にギルドに入ろうと思うなんて、まさに典型的な楽観的で深く考えない人間の行動だ。だから彼女は俺と同種の人間で、適当に生きる型の人間だと思ったんだ。

 

信念があるわけでも、実力があるわけでも、どうしても叶えたい願いがあるわけでもない。俺と同じ、なんとなく惰性で生きている人間。けれど、そんな響は、気がつくと俺とはまるで別種の、才能や熱情あふれる人間のようになっていた。

 

シンが死んでからというもの、それは顕著になった。呑気さと純真さの裏側に何かを抱え込み、気がつくと一本芯が通っている言動をするようになっていた。俺と同じだった彼女は、いつのまにか、真剣に物事に取り組み、驚くほどの早さで成長する人間になっていた。

 

「させない! 」

 

その響の声が聞こえる。声色はやっぱり真剣そのもので、不純なものなんて一切入り込んでいなかった。俺みたいな凡人の側にいる人間でも変わることが出来るんだって事を、俺は初めて目の当たりにした。それは俺にとって、救いそのものだった。

 

―――だから今、俺は、あいつを助けたい

 

ひどく自分勝手な理由だ。我ながら醜くて嫌になる。けれど、こんな俺でも変われるんだと示してくれたあいつを助けることが出来たなら、少しでも自分が変わったと言えるんじゃないかって思えたんだ。だから―――

 

 

「雷撃の術式! 」

「むぅっ―――」

 

籠手から飛び出した雷撃は、一瞬のうちに俺と奴の間の距離を詰めて、攻撃のための剣となる。突然飛び出してきた雷撃に、言峰綺礼という男は驚いて攻撃のために振り上げていた拳を防御のために使い、崩れた体勢を瞬時に整えると身を翻し、突撃してきた響をいなした。

 

「くそ、雷を避けるとか、どういう反射神経してるんだよ! 」

「サガ! 」

「おう! 響、待たせたな! ちょっとまってろ―――、もういっぱぁつ! 」

 

飛び出してきたサガは再び雷撃を言峰めがけて放つ。だが響のいた場所からすでに遠ざかっていた奴は、後ろ手に構えて余裕の表情で周囲にいた触手どもを盾に使うと、その一撃を防いで見せた。

 

水分をたっぷりと含んだ魔のモノの肉は誘導体とも絶縁体ともなり得る様で、高電圧高電流の一撃は、奴に届くことなく、接地部分より地面へと吸い込まれていった。魔のモノである触手の群れは、悲鳴の代わりに焼ける音を立てて崩れ落ちてゆく。

 

「くそ、味方を盾に……、あの分厚い防御を貫くにゃあ、超核熱でもなきゃ無理か……!」

「いや、行ける! よくあの嬢ちゃんとの距離を離してくれた! 大雷嵐の術式!」

 

そしてアーサーという男の籠手から放たれた雷撃は言峰を覆う魔のモノ付近の二点間に収束し、雷光球となる。やがてその球は光を放って消えたかと思うと、魔のモノの奥に潜む言峰の短い呻き声が聞こえ、魔のモノの隙間から赤い血飛沫が舞い散った。

 

「ちぃ、放電切断か! 」

「へ、味方を盾とする様な奴と戦う時の対策くらい練ってあらぁ! 」

「ふん……」

 

言峰は吐き捨てると、周囲に蔓延らせていた魔のモノを展開し、後方に向けて撤退を開始した。奴の不自然な体制に注目すると、後ろ手には銀の器―――すなわち、此度の聖杯が握られていることがわかる。おそらく奴は、あれをつかって魔のモノの完全復活を試みるつもりなのだろう。

 

「くそっ、逃すかよ!」

 

言峰に傷を負わせた背の低い少年が叫び、拳法家スタイルの着衣が示すように、軽い身のこなしで。籠手を解放したまま追跡の姿勢へと移行する。首元のマフラーが大きく翻った。

 

「前に出過ぎないで、アーサー! 」

「ぐぉっ……! 」

「あ、ごっめーん……」

 

少年の追撃行動を、彼より背の高い、チェインメイルとクロースアーマーの上にブレストプレートを纏った赤毛の女性が嗜め、マフラーを掴んで引き止めた。アーサーと呼ばれた少年の首元に巻き付けてある布によって首を締め付けられることとなり、思い切り咳き込んだ。

 

「いや、アーサーの判断は間違っていない。奴がこの事態を引き起こした原因というのなら、ここで奴を逃すわけにはいかない。―――すでにチャージは済ませてある。アーサー、ラグーナは援護を。サイモンとリッキィは彼の治療と護衛を頼む」

「……くそっ、あとで覚えてろよ、ラグーナ!」

「わざとじゃないんだから、蒸し返さないでよ、小さいわね! 」

 

引き止めた女性を制した茶色い長髪を独特の纏め方で束ねた少年はアーサーの行動を肯定すると、言峰の追撃を宣言し、槍を抱えたまま奴の後を追った。アーサーという少年は籠手を解放したまま、ラグーナという女性は自らの背丈ほどもあるカイトシールドから片手剣を取り出すと、後に続く。

 

「了解した。任せておけ、ハイランダー

「わかったわ」

 

ハイランダーと呼ばれた青年の指示に応じて、グレーの髪に白衣をたなびかせた青年と小柄な銃を握った金髪の少女が返事を返し、私の近くへと寄ってくる。

 

「出遅れたか……。アリアンナ。俺たちはどうする? 」

「そうですね……えっと、どうしましょうか……?」

「おいおい、困っている人の呼び声がするっていって、座から俺たちを引きずり出したのはお姫様だろ? 俺たちに聞かれても困るってもんだぜ」

「―――そうですねぇ……。外から悪しき気配がします。しかもどうやらここのとは比べ物にならない数がいる様です。ここは彼らに任せて、そちらの対処に向かいましょうか」

「ノーブレスオブリージュってやつか! 流石カレドニア公国のお姫様は言うことが違いますなぁ! ―――って、いってぇ! 何すんだ! フラヴィオ! クロエ! 」

「言い過ぎだぞ、おっさん!」

「ん、フラヴィオの言う通り」

「ちょっとした親愛表現だろうがよぉ、―――ったく」

 

どこに潜んでいたのやら、賑やかな一団の気配も遠ざかって行く。わけがわからない。何が起こったのか理解できずあっけにとられていると、触感を失っていた全身が、暖かさに包み込まれてゆき、弛緩する。

 

身に覚えのある感覚は、間違いなく回復の光だと判断できた。それも、響などが使用するどこか無機質な感覚の残る回復のそれではなく、施薬院で数度ほど体験した、人為的な暖かさを伴ったものだ。瞬時に傷だらけの全身に作用して、あちらこちらの傷を塞いでゆく。

 

「これは……」

「動かない方がいい。ヒーリングをかけてはいるが、それでも君の傷は重い。―――完全に怪我の快癒が済むまで……、と、悠長なことは言わないが、少なくとも骨や血の補填が済むまでは、そのまま身を光に預けておけ」

「―――だが、そうも言ってはいられまい」

 

彼が私の治療を行っている間も、闇の奥からは次々と魔のモノたちが姿を現している。ダリやサガ、響と、リッキィという少女が奮闘しているが、数が多すぎて、対処しきれていない。なにせ奴らは、聖杯や宝石いうモノの守りを失った我らを打倒し、元々の住処であるこの場所を取り戻してやろうとするかのごとく、全方位から殺気を露わに押し寄せてくるのだ。

 

「サガやダリ、響にリッキィ―――であっているようだな。……彼らが抑えているが、手が足りていないのは、明らかだ。何か一手、この場すべてに蔓延る奴らを殲滅する手段がないのであれば、この際それが猫の手であろうと、対処の手を増やすのが得策というものだろう」

「―――だが」

 

起き上がろうとすると、男の手が私の体を押す。あまり力が入れられていないにもかかわらず、私はそれに抵抗できず、地面へと倒れこんでしまった。地面に接触する直前、男の手が私の体を支えたので無傷ではあるが、その事実に私は、未だに己の体には力が戻ってきていないことに気がつかされる。

 

「そんな体で何ができるというのか。怪我人はゆっくりと休んでいるのが、一番周りの人のためになるというものだ」

「確かにそれはそうだが、しかし―――」

「それに、心配ない」

 

私の言葉を断ち切って、闇の奥、聖杯の安置されていたあたりを指差して彼は断言する。

 

「きっと君らの賴もしき仲間がなんとかするからさ」

 

 

「くそっ、どんだけの数がいやがるんだ!」

「文句を言う暇があったら、スキルで敵の数を減らせ! 」

「やってるだろうが! 少なくともお前よか口減らしには貢献してらぁ!」

「言ってくれる……! 」

 

サガが文句と皮肉と攻撃を垂れ流し、ダリは味方の言葉の流れ弾を含めた全ての攻撃受け止める。二人は、暗闇の中から押し寄せる大群が纏う、鬱屈とした闇を見た際に起こる負の感情の奔流に対して、いつもの軽口を叩きあえるくらいには慣れているようだった。

 

「喧嘩する暇があったら手を動かす! ―――ちょっと、あなた、大丈夫? 」

「……っ、はいっ、まだいけます! 」

「そう……、わかったわ」

 

一方で、私はというと、初めて最前線に立って継続的に味方を守るという立場になったという責任感も混じっているのだろう、後方にいる手負いの味方を守りながら戦線を維持するという慣れない戦い方を強いられていて、ひどく疲労困憊の状態だった。

 

倒しても、倒しても、絶える事なく出現する敵。敵はその身や瞳に負の感情を宿しながらも、命をまるで惜しまない程の突撃にはどこか機械じみた無機質さがあり、なんともちぐはぐな感じだ。例えるなら―――そう、例えるなら、目の前の敵は二層で出会った、虫の大群に似ている。

 

敵が虫であると考えるなら、巣がどこかにあるはずだ。そしてこれまでの経緯を考えるに、奴らの中核とは、言峰綺礼か、魔のモノであるに違いない。きっと、目の前の群れは、そのどちらかの敵を倒すか、あるいは両方を仕留めないと、延々と出てくるような魔物なのだ。

 

そんな、どのくらいの数がいるのかわからない敵を相手にする状況だと、道具の使いどころが難しいのが辛いところだ。一面を覆い尽くすこの数だから、香でも、糸でも、使えば当たるという状況ではあるが、倒したところで状況が良くなるわけではない。

 

そんな末端相手に、無駄遣いはできない。そう思うからこそ、ようやく構えが様になったばかりの剣を振るって敵をさばいているわけだが、とにかく奴らは固くて、俊敏で、狡猾だ。

 

例えば、突撃と撤退を規則正しく繰り返していたかと思うと、突如として一斉に攻撃をやめて身を引いたりするのだ。目の前の敵の攻撃を対処するのに必死な私は、大抵その攻撃の間隔調整に気づくのが遅れ、気がつくと敵に囲まれかけたりすることがしばしばある。

 

それを助けてくれるのがリッキィだ。彼女という優れたガンナーが、広い視野と素早い反射神経で的確に私の援護に入ってくれていなかったら、とっくに私という穴からエミヤを守る戦線は崩壊していただろう。彼女はエミヤを中心とした円の領域うち、半分の守護を受け持っているにもかかわらず、私に気を配る余裕まであるのだから、本当に凄い人だ。

 

「―――ジリ貧ね」

「言うなよ、リッキィ! ただでさえ気が滅入ってるんだから!」

「リッキィ言うな! フレドリカ! 馴れ馴れしい! 」

「いま指摘するところかぁ、それ!? 」

「……だが、リッ―――フレドリカの言う通りだ。正直、この状況はまずい」

 

私たちが敷いた円の戦線を押しつぶすかのように仕掛けられる敵の波状攻撃が一旦収まったのを見計らって私たちは大声で意思の疎通を行った。サガとリッキィ―――フレドリカのやり取りを無視して、ダリが話を戻し、彼の言葉に意識を眼前から全体へと引き戻すことのできた私は、彼らに遅ればせながら周囲を見渡して、状況の把握に努めた。

 

敵はサガの大雷嵐の術式と、フレドリカのバルカンフォームによる援護射撃で一旦は結構な数の味方を失ったため、身を引いたようだった。だが、再び数が揃えば、すぐさま攻撃を仕掛けてくるだろう事は、未だに全方位から伝わってくる気配に理解させられる。この一旦の小休止は、奴らが攻撃体勢を整えるための準備期間でしかないのだ。

 

「それで、どうなのだ。サイモンという男とエミヤが戻れば、なんとかなると思うか? 」

「んー、正直わからないわ。サイモンはあくまでメディック。味方を癒すのが仕事。私はエミヤっていう奴の職業を知らないからなんとも言えないけど、彼、指を失っていたじゃない? 人差し指と中指なくても戦闘可能な職業なの? 」

「―――彼が以前の状態に戻ってくれるのなら、固有結界とかいうス……、魔術で目の前の敵の殲滅程度、簡単に行ってくれるだろう。だが、彼は基本的に、剣と弓が主とする戦闘を行う、近接戦闘職だ。体術も心得があるようなので、戦えないことはないだろうが、指を失ったとなれば、戦闘能力の低下は否めないな」

「あ……、そうだ、これ」

 

ダリの、エミヤの戦闘力低下という発言を聞いて、私は拾っておいた彼の指をポケットからとりだした。

 

「ちょっと、なによそれ―――、もうぐちゃぐちゃじゃない。そんなん、この場ですぐに治るようなもんじゃないわよ」

 

肯定でも否定でもない玉虫色の答えに顔をしかめていたフレドリカは、覗き込んだ一瞬で私の差し出したモノの正体を見破ると、いっそう顔のシワの数を増やして、身を引き、文句を言った。

 

「はい、そうかもしれません。ですが、肉体の一部があるのとないのでは、怪我の治療速度が大違いだと思います」

「―――まぁ、そうね。ええと、あなた、さっさと彼にそれを届けてくるといいわ」

「はい! 」

 

返事をすると鞘に刀を納め、布に包んだ二本の指を軽く握りしめる。敵に囲まれた絶体絶命の状況だが、彼が再び立ち上がってくれたのなら、この状況だってひっくり返してくれるに違いない。そう、例えば、以前の戦いの時に見せたようなあの固有結界とかいう魔術スキルで―――

 

「―――っ、危ない! 避けなさい!」

「えっ?」

 

思い馳せていたところに聞こえてきた大声の警告に、思わず声の方を向く。その無駄が決定的な隙となったようだった。遅れて獣の唸り声が耳朶を打つ。頭上を見上げると、ポタリと顔へ落ちてきた水滴―――獣の涎の生臭さと生暖かさを感じて、ようやくフレドリカの忠告の内容に気がついた。

 

闇色と同化した敵は、現在の場所が洞窟の奥地という周囲が見えづらい暗所であること利用して、私たちを照らす松明の光が届いていない天井付近からの奇襲を行なったのだ。

 

幸いというか、奇襲のために数を絞ったのか、一人当たりに襲い掛かる敵の数は少なく、フレドリカやサガたちは奇襲に対処できていたようだった。けれど、体勢を崩し、意識が別のところへと向いているこの状態で、さらに、唯一戦闘職でなく身体能力の低い私は、咄嗟の忠告に反応して上を向くのが精一杯だった。

 

「―――あ」

 

見上げた場所にあったのは、開かれた獣の口。その中に生えそろった迫り来る死の牙に、思い浮かんだのは、なぜかシンの事だった。この迷宮の三層において、彼はこんな風に、大きな獣の口に噛み千切られて死んだのだ。彼は横三つに捌かれたけれど、私は二つに分けられそうだな、なんて、呑気な考えが浮かぶ。

 

死を目前にしてやけに冷静でいられるのは、彼と同じ死に方をしかけているからだろうか。同じ死に方をしたら、死んだ後、彼と同じ場所に行けるかも、なんて思っているのかもしれない。

 

―――ああ、でも

 

彼は最後まで抗って死んだけれど、私はこのままだと敵の牙の前に、無抵抗に殺されることになる。それは果たして、シンと同じような死に方と言えるのだろうか。

 

―――このままでは、彼と同じ場所へといけないのではないだろうか?

 

それはダメだ。死ねない。そんな死に方は認められない。胸の中に湧き出た目の前の獣の身体の暗黒よりもどす黒い疑念が、私の心を染め上げ、満たしていく。負の感情は驚くほどの俊敏さでの攻撃を可能とした。わたしは鞘から鈍色の刀を解き放つと、上へ向けて剣を突き立てる。

 

本能と心情の一致は、瞬間だけシンのように動くことを可能として、私は彼に負けない剣筋の鋭さを得た。居合の構えからの、貫突。獣は今までまるで反応を見せなかった私が行った一瞬の反撃に対処し切ることができずに、突き出した剣を喉元の奥まで飲み込む事となる。私は敵の胃袋から腹の奥まで貫通した手応えが伝わってくるよりも早く、そのまま刃を振り上げた。

 

「――――――、―――……」

 

やがてそいつは、刀の鍔が喉奥に引っかかったあたりで牙と口の動きを止めた。分厚い肉を切る手応えもあったし、多分、心臓でも貫いたのだろう。ガバリと開かれた口の向こうは何も見えない。牙や口腔内から垂れてくる涎と体液と血液は生臭く、生暖かく、私をとても不快な気分へと誘った。

 

―――はやく抜かないと

 

一刻も早く、この不快感を取り除きたい。私は思ったよりも軽い獣の体内の奥深くまで突き刺さったままの剣を横に下ろすと、趣味の悪い傘のような姿となった敵から刀を引き抜こうと獣の体に足を引っ掛けた。そして硬直して固まった体より刀身が多少姿を見せたところで―――

 

「――――――!」

「―――え?」

 

聞こえてきた唸り声に反応して上を向き、倒した獣の後ろにさらにもう一匹の獣が迫っているのを視界に収めて、思わず放心した。剣に突き刺さった敵からゴボリと液体が漏れる音がしたので反射的にそちらを向くと、刀が突き刺さった獣の瞳には、死にゆく者が浮かべるには不釣り合いな、喜悦の色が含まれているのを見て、私は自らの失態に気がついた。

 

ハナから最初に落ちてきた敵の体は囮だったのだ。対処出来ればよし。対処できなくても、後ろ詰がなんとかするという二段構えの作戦。もう使い古されてどれほどになるかわからない、浅知恵の戦術だが、命を捨てる覚悟が相手にあり、こちらの気が回っていない時には絶大な効果をもたらす連携だ。獣だと思って侮ったのがまずかった―――

 

慌てて剣を引き抜こうとするも、死にかけた方の獣は、刀身に噛みつき、口を固く閉ざして、内臓深くまで突き刺さった剣を己の体内に押しとどめようとしていた。闇色の血の気が失せてゆく顔には、愉悦の色が滲んでいる。

 

剣を引き抜くことはできない。かといって、剣を諦めてそれ以外で対処しようとすれば、目の前の魔物は嬉々として剣に入れている力を私の攻撃のために使うだろう。

 

つまり私は、片手、それも素手で、上の獣を対処しなければならない。―――ああ、今度こそ無理だ。不安定な格好。片手は獣に封じられているし、体勢が悪くて道具袋に手を突っ込むこともままならない。

 

対処の手段を探している間にも、敵は迫ってきている。姿を隠すためなのか、先ほどよりも小柄な敵は、しかし私をかみ殺すには十分な大きさの口腔を開けて落ちてくる。

 

―――今度こそ駄目、か

 

諦めの言葉が浮かぶと、反応して瞼が下がってゆく。もうどれほど考えても、先ほどのような奇跡の一瞬は起きてくれそうにない。全霊は尽くした。一撃には見事に対処した。けれど二度は無理だ。もう手がない。ああ、ついに。

 

―――私も死ぬのか

 

無力感が体を巡った時、ふっと、体から力が完全に抜けた。無抵抗を悟ったのか、剣を咥え込んだ獣は一瞬力を弱めたが、奴はすぐに思い直したようで、四肢を地面に押し付け、歯をくいしばり、刀を離そうとしなかった。死に瀕していながらその態度は見事なものだ、などと考えるのは、きっと、彼の影響だろう。上から迫る音はもうすぐそこだ。

 

―――ああ、本当にこれで

 

「シン―――私も貴方のところに……」

「残念だが、今、私はそこに不在でな。以前のように君を迎えることはできないのだ」

「――――――え?」

 

聞こえてきた声は、鼓膜を通り越して頭へと即座に入り込み、衝撃が雷となって即座へと全身に伝えられ、痺れる感覚が体を支配した。誰がその声を聞き間違えるものか。だって、それは、私が今、ここにいる理由であり、私がここで剣を握る理由であり、私が好きだった人の声―――

 

「見事な反応だったぞ、響。腕を上げたな。だが、状況予測と残心がまだ甘い。死兵というものは大抵ロクでもないことを企むものだ。敵が命を投げ出しそうなら、連続攻撃を覚悟するのが心構えというものだ。……まぁ、その油断で死んだ私が偉そうに言えることではないが―――」

「―――――――――、シン!! 」

「だが、しかし、本当に、よくこの短期間でここまで腕前を上げたものだ。初っ端、咄嗟にだした居合からの一撃は、構え、体捌き、速度ともに、本当に見事なものだった。やはり私の目に狂いはなかったな」

 

呑気にいってのける彼は、言う間に頭上の敵なんて三枚おろしにしてしまっていた。いや、それどころか地面にいる、刀に食いついていた敵も滅多切りにしてしまっている。たぶんツバメがえしを連続して放ったのだろう。私の剣が児戯に等しく思える、目にも止まらない速度と精度だ。私は目の前の敵とシンから目と意識を離せずにいた。

 

「―――ぬ、どうした、固まって。もう敵はいないのだぞ? 残心を解いても―――」

「シン。貴方、自分が先ほどまで死人だったということをお忘れですか? あれは残心ではなく、放心と言うのです。死人が蘇るなんて事態、普通、まともに受け止められませんよ」

「―――そうだな。だが、訂正がある。私は蘇ったのではなく、英霊として一時的にだな」

「はいはい、その辺りは終わってから詳しく聞きますよ。―――とにかく、まずは周囲の掃討をしてしまいましょう」

「―――了解だ」

 

ピエールと会話を交わす彼は、間違いなく以前のままのシンだった。血の通ったその顔を思い出して、私は何度夢見たことかわからない。死んだ後の冷たくなった顔ではない、固くなって動かなくなった皮膚ではない、筋肉も、血管の動きも、生前のまま状態の彼が今、目の前にいる。私の頭は、その奇跡を受け止めきれず、完全に停止してしまっていた。

 

そしてそれは私だけではなかった。戦線の立て直しよりも私の援護を優先しようとしてこちらに近寄ってきていたダリとサガですら、口をあんぐりと開けて、目の前に現れた死者の姿を注視している。

 

「―――ふむ、二刀か」

 

だが彼は、そんな視線などまるで気にせず、自らが持っていた刀に加え先ほどまで私が使っていた刀を片手ずつに持つと、間合いを確かめるように柄の握り位置を調整しながら刀を振るった。

 

数度ほど茶色い光を放つ刀身が空を連続して切り裂いた時、シンはついに己が二刀を振るうにあたって都合のいい位置を見つけたようだった。深く頷くと、両手に持った刀の刃先を地面に向けて、肩から力を抜いてだらりと両手を垂らした、構えへと移行する。

 

「―――あ、それ」

「うむ、エミヤの構え―――ではなく、無双の構えという奴だ。いつか試してみようと思っていたのだが、生憎この刀と釣り合うものがなくてな。まさか死後こうしてその機会に巡り会えると思わなかったが―――、これもまた縁というやつなのだろう」

 

彼はそうして両手に剣を構えたまま一歩前に足を踏み出す。すると、止まっていた時間が動きだしたかのように、あたりから獣の叫び声が輪唱して聞こえてきた。その咆哮は、自らの企みを打破され、味方を無為に失ったことに対する怒りを含んでいるようだった。

 

「―――痺れを切らしたか。ちょうどいい。我が新技の錆にしてくれよう」

 

いうと彼は凄まじい密度の殺気をあたりにばら撒いた。敵味方の区別なく殺すという意思を周囲に散らしたシンによって、即座に全ての生き物の意識が彼へと向くことが強要される。向けられる視線に対して平然と剣を持ったまま構えるシンは、暴風が吹く直前の状態を思わせる、静かながらも不気味な迫力を秘めていた。

 

「――――――! ―――! ――――――……」

 

輪唱は極限に達し、しかしある時を境にピタリと止まる。代わりに、地面を擦る音が、先程よりも近くの位置から、こちらを取り囲むように聞こえてきた。多分、声とともに距離を詰め終えていた敵が、攻撃の体勢に入ったのだ。もちろん目標は、先ほど気をばら撒いたシンに違いない。

 

「―――!」

 

張り詰めた空気。後何か一つの刺激が発生すれば、戦いの火蓋は切られるだろう。呼吸がしづらい。胸が苦しい。ピリピリと肌が痛む。喉の奥はカラカラだ。唾液もないのに嚥下が出た。でも不快なはずのこの感覚が懐かしい。極限まで研ぎ澄まされた純粋な殺意同士がぶつかるこの感覚。殺し合いの相手に敬意を抱けるものしか、発する事のできない敵意。ああ、それは、シンがそこに生きている証だ。

 

「―――シン?」

 

そんな気配を感知して、治療を終え見た目がいつもと変わらない状態に戻ったエミヤが、呆然と彼の名を読んだのを合図として、張り詰めた空気は爆発を起こした。

 

「――――――!」

「―――!」

「―――――――――!」

「――――――――――――!」

 

多くの咆哮が重なり、閉鎖空間にこだまする。その全てが、シンの命を狙っているのだ。咆哮は瞬時に全周囲から彼へと近づく。間にいる私やサガ、ダリ、ピエール、フレドリカ、サイモン、エミヤは全無視だ。敵は、先ほど自らたちを挑発した男を殺してやると、ムキになっての突撃を行なっていた。

 

しかし魔物の大群に命を狙われた彼は、そんなことは些細なことだと言わんばかりに、両手をだらりと垂らした構えのまま動かない。涼やかな横顔は、敵の攻撃が自らに届くことは絶対にないと確信しているようだった。

 

「―――」

 

やがてシンの体がゆらりと動く。微かに刃先が動いたかと思うと、刀身が鈍色に光り、すっと真正面に持ち上げられた二つの刀は、一刀が天地をさかしまに切り裂き、もう一刀が彼の眼前を貫いた。

 

「一閃、改! 」

「―――!? 」

 

直後、周囲全ての空間に異常が起きた。飛びかかってきていた敵は、空間の断裂より生じた白刃に首を刈り取られ、また同じように断裂から飛び出した刀の刃先によって心臓をえぐられていた。また、心臓に突き立てられた刃は地面まで食い込み、体が場に固定されているため、支えを失った首と同じ方向に進めず、その場にて足止めを食らっていた。

 

結果、体をその場に固定された幾千もの獣の首が、シンに向かって飛んで行くというおぞましい光景を目の当たりにすることとなる。敵は何が起こったのかわからなかったのだろう、胴体より切り離された目をパチパチとさせていた。首からの出血が激しくなったのを見るに、もはや動く事叶わない首部を動かそうと懸命に試みている様子もうかがえる。必死の抵抗という奴を笑う気にはなれないが、ここまでくると滑稽に見えてしまうし、憐憫すら湧き上がってくる。

 

「抜刀氷雪! 」

 

しかしシンは、己の技が起こした変化を意にも介さない様子で続けてブシドーのスキルを繰り出すと、飛びかかってくる首を全て切り落とす。無双の構えから繰り出される二振りの刀は氷の力を伴って一振りされ、いくつもの水色の円弧を空中を突き進んだ。飛翔する氷の斬撃は、敵に触れた途端に切り口を凍りつかせ、敵の頭は見事な氷塊となりはてる。

 

そして全ての獣は、シンの剣技にて完全に殺害され、地面へと落着した。幸運にも刃の切れ味があまりにも鋭すぎたゆえ、顔の原型が残った者もいるが、シンの剣技が直撃した時点でもはやその時点で意識までも完全に断ち切られていたようで、他の有象無象と同じように地面へと転がっている。

 

出血は抑えられているため、私たちの服や地面が血に染まる事はなかったが、シンを中心とした一定区域からある特定の場所に至るまで、ばらけた魔物の頭部だけが転がり、特定の場所以降は敵の胴体が、心臓と首のあった場所より血を噴出させている光景というものは、ひどく不気味な光景だとしか言いようがない。

 

「うむ、やはり二刀でもいけるな。むしろこちらの方がしっくりとくる。早く試せばよかった。しかし、一閃改では叫びづらいな……、一閃のままでいいか。―――ああ、いかん。だが、片付けの手間が二倍になってしまった」

 

闇に胴体と首が転がる煉獄の中、そんな光景を作り出した本人は、大した感慨もないような様子で構えた剣に片方ずつ目利きを行い、その後、片方の剣の柄を逆手に持ち直すと、私の方へと差し出して平然と言った。

 

「響。すまない。飛んで来た血飛沫で刀身に血糊が付着した。落とすのを手伝ってくれ」

 

呑気な声が、獣の体散らばる空間にこだまする。シンは私に危害がないよう気遣って柄の方を差し出したようだった。死んで生き返った彼が見せる、生前とまるで変わらない調子に、私の頭はいま、目の前で何が起こっているのか理解できないと悲鳴をあげて、ひどく混乱を起こしていた。彼はじっと私が剣を受け取るのを待っている。結局私がそれを受け取れたのは、こちらへと寄ってきたエミヤがシンと談笑を行う直前であった。

 

 

「英霊?」

「ああ、その通りだ。どうやら私はその、「英霊」という存在になってしまったらしい」

「その、英霊っていうのはどう言う存在なんですか……?」

「ふむ、説明が難しいが……、エミヤ。君なら上手く説明出来るのではないだろうか? 」

「―――なぜそんなことを? 」

「だって、君、元英霊だろう? 」

 

シンの言葉に周囲がざわつく。

 

「どうして、そう思ったのかね? 」

「なんとなくだ。不思議な繋がりというか、既視感というか、こうなった体が、君に親近感を覚えるのだ。目の前にいる君は、私の同類であると、魂が告げている」

「―――そうか」

 

なるほど、英霊同士の共鳴か。魂の格が上がったことで、同種の感知ができるようになったということなのだろう。納得し、右腕にて口元を覆って頷くと、いつもより鼻息の通りが良いことに気が付ける。すると私の仕草を見たシンは、眉をひそめて、ため息を吐いた。

 

「だから先輩である君に説明を―――と思ったが、やめておいたほうがいいな。エミヤ。一旦君はその傷の治療に専念したほうがいい。―――響。彼に渡すものがあるのだろう?」

「あ、はい」

 

シンの言葉を受けて、響はハンカチに包まれた二本の細長いものを差し出してきた。浅黒い茶色と肉塊に包まれた白い棒は、よく見てやれば、まごうことなき、自らの二本指であることに気が付ける。差し出されたそれは、骨が原型を保っているのがせいぜいの救いで、肉も血管も神経もズタボロで、食べかけのチキンのような有様となっていた。

 

「―――どう見ても手遅れなのだが、これくっつけるというのか? 」

「ああ。……通常なら不可能かも知れんが、そこにいる彼―――サイモンもまた、我らと同じく英霊だ。普通は無理な案件だろうが、彼ならば、或いは道理を無茶で押し通してくれるかも知れん」

「あまり過剰な期待はしないでくれよ。持ち上げられても、できないものはできないのだから。―――見せてくれ」

 

シンに無茶振りをされたサイモンというメディックの英霊は、指の残骸を手に取ると、眉をしかめながら、しかし真剣な目でそれらを観察し、触診する。

 

「―――酷い。ああ、確かにこれは酷い。毛細血管の大半が砂を吸っているし、神経は半分以上がくっついて瘻みたいになってしまっている。肉は再生可能としても、これをいちいち剥がして元どおりにするとなると、少しばかり手間がかかるな」

「……手間がかかるだけで、治療は可能なのか?」

「まぁ、ね。無理だ、とは言わないけれど、治療に三十分は時間をいただくことになるよ」

 

サイモンは私、フレドリカ、そして、シン達を見回したのち、闇の奥へと目線を向ける。光すら吸収するかのような暗黒の向こう側から物音一つ聞こえてこない。その静寂さが、暗闇の持つ不気味さをひどく助長していた。

 

「先行した彼らなら問題ない……、とは思うが、相手があの魔のモノとそれの協力者だ。協力者である言峰綺礼という男からは、ヴィズル院長とおなじ、策略を練るタイプの匂いがする。油断していい相手ではないだろう」

「ならば尚更、エミヤの治療を済ませてもらわねば困る。彼はこのパーティー内において、最も総合戦闘力の高い男だ。彼がいるのといないのでは、今後の戦いにおいて、進行が天と地との差にもなる。何せ彼は、このエトリアにおいて最も強い男であり―――」

「―――シン。水を差すようで悪いが、今の私は、指が治ったところで、単なる足手まといにしかならないよ」

「そんなはずはあるまい。確かにあの状態の指だ。元の場所に収まったとしても、完全に馴染むまでに時間はかかるかも知れない。だがそれを差っ引いても、君の戦闘力は―――」

「違うんだ、シン。……火竜の吐息にやられた時に大半の、そして、その後言峰に捕まっていた際に、魔術―――すなわち、君たちで言うところのスキルを使うための器官をさらに大きく破壊されてしまったんだ。響が私の救済を聖杯に祈ってくれたお陰だろう、失った心臓は復元され、最低限の活動が出来る程度に肉体を修復してくれたが、私の戦闘の要である魔術回路の完全復元をしてはくれなかったのだ。―――すなわち、私は今、ほとんどの魔術を使えない、足手まといの負傷者に過ぎないのだ」

 

告げると、シンはなぜかひどく面食らった顔をして私の顔と全身を眺めると呼吸を乱し、目を瞑った。そして数度深呼吸をして荒れた吐息を整えることに集中すると、大きく息を吐き出して、瞼を開けて希望のこもった瞳でサイモンの方を見て、そして私へと視線を移した。

 

「だが、サイモンがいる。彼ならばその傷も―――」

「いや、おそらく無理だ。これはどちらかというと霊的な器官でな。必要なのは、肉体の修理修復ではなく、復元が必要だ。―――そしておそらく、スキルで行えるのは、細胞分裂と増殖によるは補填だ。私の場合神経と癒着しているゆえに幾分かは魔術回路が治るにしても、霊的器官であるそれの完全な治療は難しかろう」

「そうか。―――それは、―――非常に、残念だ。……いや、しかし、それでもエミヤの戦闘経験と奴に対する知識はあてにできるものだ。頼りにさせてもらいたい。是非とも、万全の―――、あ、いや、完治―――でもなく」

 

シンは癒えない傷を負った私に対して言葉を必死で選び、戦闘への協力を請求しようとしている。なんとも不器用にこちらを気遣う様子に、少しばかり心が和らぐ。無論、彼に言われずとも、戦闘には協力するつもりであったが、是非にでも協力したいと言う気分になる。

 

「心配するな。最悪、解析や投影と言った魔術が使えずとも、培ってきた戦闘術がある。今の言峰を相手にするに不足だろうが、そこらの魔のモノ相手に遅れを取らない程度の働きはして見せるよ」

 

答えると、シンは珍しく安心した表情を浮かべて、安堵のため息をついた。よくわからないが、彼にとって私が戦う、戦わないというのは、重要な部分であるらしい。

 

「それはですね。シンは貴方に憧れていたからですよ」

「―――! ……ピエール。驚かさないでくれ」

 

シンの顔面七変化を奇妙に思っていると、後ろから聞こえてきた、囁くような声色に、驚き思わず喉元から声にならない声を漏らしてしまう。ピエールは私が驚く様子を、いつも以上に上機嫌な態度でいやらしく笑って見せると、私の抗議など気にも留めない様子で続けた。

 

「英霊となり、ようやく憧れの人物と肩を並べ、背中を預けあい、共闘できる。守護される、ではなく、守り守られる間柄! それは己と並び立つものがいなかったシンにとって、まさに至福の瞬間となるはずだった! 幸福が目の前にあるはずだった! だが、何という悲劇なのか、エミヤという英雄は、ここに来るまでの間、敵に不意打ちをくらい、囚われの身となってしまったことで以前の様な力を振るう事が出来なくなっているという! ああ、何というすれ違い! 何と報われぬ思いなのか! 悲劇ですねぇ、ロマンスですねぇ。―――ああ、詞曲がどんどん浮かんで来る!」

 

テンションを上げるピエールはもはや楽器をかき鳴らして作詞作曲するのに夢中で、周りの様子などまるで気にしていないようだった。ここまでテンションが上がった彼を見るのは初めてなので、少しばかり気圧されてしまう。

 

だが、彼の異常行動を気にしている場合ではない。この場合、気を配らなければならないのは、ピエールではなく、シンだ。ピエールの言が正しいのか間違っているのかは置いておいて、自らの心中を語られた上で、己の秘めていた所を暴かれたのだ。

 

目線を異常者から彼へと向けると、彼は身を静かに震わせて静かに佇んでいた。纏う空気は重く、とても話しかけにくいオーラが彼の周りを取り巻いている。本心を暴かれて、不快になったのだろうか?

 

―――いや、違うな。あれは、自らの気づかぬ本心を教授されて、納得しているのだ。

 

ああ、そういえば彼はそういう人間だったな、と思い出す。ひどく懐かしい気分を味わい、同時に、少しばかり彼に対して罪悪感を抱いた。期待を裏切ってしまってすまないと思う。……そうだな―――

 

「せめて、私がスキルを使えていたのなら、君と肩を並べて戦えたかも知れないが―――」

「あれ? スキルなら貴方、使えるはずですけれど」

 

そして唐突に聞こえてきたそんな男の声に、私は思わず声の主の方を向く。するとサイモンは涼しげな顔をして、眼鏡の縁を持ち上げて、疑問顔を浮かべていた。

 

「―――どう言うことだ?」

「言葉通りの意味ですよ。少なくとも、今の貴方の体は我々のモノと大差ない作りをしていますから、問題なくスキルを使えるはずです。疑う様でしたら、火を出したいと心の中で願ってみてください。なんとなくそれが出来る感覚がやってくるはずです。あとはやってきた感覚に従うまま体を動かせば、簡単なスキルはそれで発動します」

「ふむ……」

 

―――火よ、指先に灯れ

 

サイモンの言葉を受けて、早速試してみる。心中にてそんな事を意識すると、たしかに不思議な感覚が頭から指先にかけて伝わった。経路を意識して、指先を見つめると、たったそれだけのシングルアクションにて指先に火が灯る。

 

「む……、ぅ……」

 

私は自らが世に生み出した灯火を見て、仰け反ってしまい、意識の集中を切らしたことにより小さな炎はすぐさま空気に溶けて消えていく。

 

「子供みたいな反応ですねぇ」

 

失礼な事をサイモンに言われるが、気にしない。なにせ、たったそれだけのことでこれまでは使えなかったスキルが発動するとは、夢にも思っていなかったからだ。だがしかし、これでサイモンの言っていることが正しいと証明されたわけだ。

 

魔術に変わり新たな力を得たのは良いのだが、なぜいきなりこの様な事態になったのか検討つかないでは気持ちが悪い。自らの体に何の変化が起きたのか。一体、何故私は……

 

「―――急に、スキルを使える様になったのだ」

「それについては私から説明しよう」

「ヴィズル院長……! 」

 

フレドリカが男の名を呼ぶ。突如として独り言に割り込んできたのは、がっしりとした体格の男だった。豊かな顎髭を蓄えた老年の男は、ダブルのコートに身を包み、その両肩にアーマーを着込んでいる。そして四角四面の顔の中心にある瞳には、一度決めた道であれば、いかなる困難が待ち受けていようと成し遂げるという意思の込められた眼光が宿っていた。

 

「周辺の掃討が終わったのだ。レン、ツクスル。お前たちは先に進んで、彼らの手伝いを」

「承知しました」

「ん、わかった」

 

ヴィズルが命ずると、彼の背後より二人の人物が現れた。一人は着物に袴を着用し、その上に胸当、肩当を身につけ、大きな籠手と刀を装備した、いかにも侍であるといった格好の細身の麗人だった。怜悧な瞳と額の傷が目立つ顔は、しかし美貌を引き立てるアクセントになっている。

 

その姿を目に収めた途端、シンがほう、と感心のため息を吐いた。おそらく剣士同士、目の前の人物の強さを一目で理解したのだろう。隙のない構えを見て喜ぶ様は、まさに彼らしい。

 

ヴィズルの後ろから出てきたもう一人は、先の人物とは異なり、とても小さな少女だった。彼女はその小さな体躯に黒い布を纏い、胸元にウサギのぬいぐるみを抱えている。それだけならまさに年相応の姿といえるだろうが、しかし、その布は彼女の両腕と足の代わりに稼働し、彼女の身を動かしている。

 

布がはだけるたびに覗くのは、彼女のあられもない素肌と、両足をバンド縛り付け、足錠で自らの足を拘束している姿だ。加えて下着の類は一切つけていないらしい。その奇天烈な格好には見覚えがあった。おそらくはカースメーカーという、呪いを取り扱う職業だ。呪詛を扱う人間は様々な制約により多くの肌をさらした格好をしなければならないと聞くが、それにしても恥じらいというものを投げ捨てたあの姿は、いささかファンキーすぎると思う。

 

ともあれ、ヴィズルの命を受けた彼女たちは、我々に一礼だけして闇の奥へと消えてゆく。

 

「エミヤ、と言ったな」

 

それを見届けたヴィズルは、私に向かって話しかけて来た。

 

「ああ」

「貴様の格好と言動から察するに、旧世界の人間―――いや、受肉化した英霊だな? 」

「―――ああ。そうだが」

「そして聖杯の光を浴びる直前までスキルを使う事が出来なかった」

「……そうだ」

「聖杯、というのは、いわゆる伝承にあるホーリーグレイルのことで間違いないな? 」

「その通り」

「ならば話は早い。おそらく貴様の体は、聖杯によって作り変えられたのだ」

「―――その根拠は?」

「元々、かつての世界では、魔のモノの環境汚染から世界を救うために様々な研究がなされていた。その研究の一つに、『諸王の聖杯』を作り出すという物があった。それは、今後地上を捨ててはるか上空の大地にて住まねばならない人間を、高度環境に適応させるために開発された道具だったのだが、同時に、スキルが使えない人間を、スキルが使えるように変化させる道具でもあったのだ。」

「諸王の―――聖杯? 」

「ああ。噂によれば、それは、魔術師によってもたらされた聖杯という魔術用具のデータを参考にして作られたのだという。本来の用途は奇跡を起こし人を癒す機能しか持たないそれを、癒すの解釈を拡大し、人間の体を弄り、改造するための道具にしたと聞く。―――ある研究者はそれをさらに改良して、不老不死を得ようと試みたり、他者より生命力を奪う呪銀の盃を作り出したようだが……まぁ、この度は関係ないか。ともあれ、もし―――先ほど黒衣の男が持ち去った聖杯が、同様の改造を施された聖杯を参考にした部分があるのだとしたら―――」

「なるほど、同様の機能を発揮した聖杯が、響の「私を助ける」という願いによって、スキルが使えない体である私のそれを異常と判断し、私の体をスキルが使える様、作り変えた可能性もあるというわけか」

 

ヴィズルは静かに頷く。なるほど、彼の話には一定の説得力がある。魔術や科学の両方について造詣が深い様であるし、おそらくその線で間違っていないのだろう。

 

「そうか、スキルが使える様になったのか」

 

ヴィズルと私の会話を聞いていたシンは、己のことでもないのに、なぜか感慨深そうに呟く。その恍惚とした表情を見るに、やはりピエールの語りは正しいのだろうと思う。

 

「しかし、エミヤ。君はエトリアで転職をしていないだろう? それでは基礎的なスキルしか使えないのではないか?」

「あ、確かに。戦闘職系列のスキルを使うにゃ、上で登録しなきゃならないもんな」

 

しかしそんなシンの喜びに正しい意見で水を差す輩がいた。ダリとサガだ。

 

「あ、そういえば、エミヤさんの職業、アーチャーとかいう特殊な独自職でしたもんね」

「ああ。だから、彼はエトリアに貢献してはいるものの、ポイントは加算されていないし、今更転職したところで、本当に一からだ。そもそも、追放された我々は転職が出来ないから、こんな話をしたところでなんの意味もないのだが」

「だよなぁ」

 

響が受けて、ダリが続ける、アーサーが同意する。話は私と―――、シンを落胆させる内容だったが、いちいちもっともな意見で、反論のしようがなかった。頷くサガに対して、シンは再び大きく肩を落として落胆をあらわにする。今更気がついたが、このシンという男、案外感情を豊かに表現する男だ。

 

「いや、それについてなら私がなんとかしよう」

「―――なに? 」

「仮にも、世界樹の世界が出来上がって以降、一千年以上もの間、エトリアが成長するのを見守り、守護して来たのだ。ならば、それがたとえ離れた場所であろうと、世界樹の内部であれば、エトリアのシステムに介入することなんて、たやすく行えて当然だろう? ついでに君たちの貢献度も最大にして、スキルの割り振りを行ってやろう。……私自らこれをやるのは久しぶりだな―――、さて、エトリアの地にて冒険者を目指すものよ。君はどんな冒険者になる事を望むのかね? 」

 

 

真っ暗な闇を駆け抜ける。先頭を走るダリの掲げる炎は通過する一瞬だけ周囲を明るく照らすが、瞬間の後には暗闇の中へと貪欲に吸い込まれて光は消えてゆく。お陰でいつまでたっても周囲の地形を把握する事は叶わず、私はただ先頭に続く彼らの後ろに続くことしかできない。

 

「―――近いな」

 

けれど黒雲母のような光を閉ざす暗闇といえども、音までは遮断することはできないようで、シンの呟きに私も耳をすませると、サガのいうところの品のない爆発音や、瓦礫の崩れる音などが確かに耳朶を打つ。

 

「狭い洞窟に反響してわかりづらいが、大分戦線が伸びているようだな」

「ああ。でなきゃこうも連続して大爆炎の術式の音が聞こえてくるはずねぇ」

「閉鎖した空間でむやみやたら燃焼を伴う現象を起こすのは色々と自殺行為ですからねぇ。―――しかしこの回数……。広域殲滅術式を連続してもう十は使っている。つまりは……」

「それだけの広範囲に敵が分布しているか、デカく耐久力のある敵がいるか、はたまた広域でないと当たらないようなすばしっこい敵がいるのか、ということだな」

「うむ、その通りだ」

 

四人の会話は空白の期間があったと思えないほど流暢で、やはり共に過ごした年月の長さというものは、多少の空きがあっても一瞬でそれを埋めてしまうものなのだなと思う。彼らのやり取りを見ていると、あるべきものがあるべき姿に戻った感じがある。

 

ブシドーたる彼が戻ったこのパーティーは、まさに元の鞘に収まったが如き、冒険者の自然体の姿がそこにはあった。二度と見れないと思っていた光景なだけに、すごく胸が弾み、心が落ち着く。

 

「エミヤ。問題はない? 」

「―――ないとは言い切れん。だが、フレドリカ。君の仲間の治療のおかげで、強化、解析、投影の魔術が最低限使用可能な状態にまでは体調が復活した。固有結界の使用は不可だが、先程覚えたスキルと併用すれば、万全の時と同じようにはいかないだろうが、足手まといにならない程度の活躍は見込めるだろう。サイモン、そしてヴィズル。感謝する」

「ああ」

「礼はいい。―――それよりも、言峰という男について、いくつか聞いておきたい点がある」

「なんなりと」

 

一方、先程召喚されたばかりの英霊一行は、しかし違和感なくエミヤを中心として固まり、この先に待ち受けている敵の情報の共有をしていた。その隙のなさ、その真剣さはまさに歴戦の英雄と言った荘厳峻険な雰囲気を醸し出している。なんという安心感。敵地のど真ん中にいながら、私の心はかつてないほど平穏な気持ちに満ちていた。

 

―――なんかちょっと、楽しいかも

 

そして二つのパーティーのちょうど中心に挟まれた私は、不謹慎にも、現役の冒険者たちと過去の英雄たちに囲まれたこの状況に、胸を躍らせていた。気がつくと、いつもより頭も肩も軽くなっていて、胸の奥にあったガチガチとした固いものが消えた感じがする。

 

思えば、シンが死んでから、私はずっと気を張って過ごしていた。死んだ彼の代わりにギルドのメンバーとして活躍しなければならないと、日常を過ごす中でも、神経が昂ぶっていた。どれだけ今までの自分を超えた出来事を達成しても、死んでしまったシンの功績が立ちふさがり、私の身を満たすのは、満足ではなく、焦燥感ばかりだった。

 

多分どうにかして居なくなった彼の代わりを務めなくてはならないと思い込んでいたんだろうと思う。だからこそ、彼の代わりを務めきれない私は、色々なことに気を揉んで、イラついて、余裕をなくして、そして、理想と現実の差に苦しめられていた。それこそが、あのモヤモヤとした胸の苦しみの正体だったんだ。

 

思い返せば、そのせいで、ギルドの仲間やエミヤ、ヘイやサコといった人物にまで随分と失礼な態度を取ったものだ。この戦いを終えてエトリアへ帰ったら、まずはそのことを彼らに謝らなくてはならない。そう。この戦いを終えて、みんなでエトリアへ戻ったら―――

 

「―――見えたぞ、正面だ! 」

 

非日常の中、日常を思い返してかつての己がとった無礼な態度に反省をしていると、シンの声が洞穴の中に響いた。突き進む彼と異邦人の一同に続いて、私も光の差し込む側へと足を踏み出す。すると―――

 

「クロスチャージ! 」

 

大声がひらけた空間の中に響き渡り、大型の敵魔物の巨体に大穴が開いた。直後、槍の刺突攻撃により体に開いた穴から波が巨体の全身に広がったかと思うと、敵の体は空気中の塵と化して消えてゆく。さらに遅れて、パン、という音が、あたりに響き渡った。おそらくは攻撃の音が、現象に遅れてやってきたためだろう。

 

今の一撃はおそらく、周囲にいる人間の血液の流れを操作することで一定の時間だけ攻撃の威力をあげるスキル『ブラッドウェポン』と、力を貯めることで次の一撃の威力をあげるスキル『リミットレス』、そして、攻撃に振動を乗せることで一撃の威力をあげるスキル『ディレイチャージ』を併用して、ハイランダー最大の攻撃スキル『クロスチャージ』を放ったが故の威力なのだろう。

 

けれど、それにしても、二十メートルはあろうかという巨大な敵の体を消滅させるのほどの威力を持った物理攻撃なんてデタラメなものを見たのは初めてで、その凄まじい威力に、私は思わず足を止めて、一撃を放ったハイランダーの彼の姿を呆然と眺めていた。

 

「―――ああ、もう、やっぱりダメなの!? 」

 

しかし、そうして消滅したはずの敵は、すぐさま別の場所にて一片の傷をも負っていない状態で瞬時に復活し、最大の一撃を放ったばかりで隙のできたハイランダーの青年へと襲いかかる。ラグーナというパラディンの女性は、ハイランダーをかばってカバーリングに入ると、身の丈ほどもある盾を前に突き出してその攻撃を防ぐとともにいなし、彼と共にその場を離脱。敵と距離を大きく開けた。

 

ラクーナ、ナイス! ―――仕切り直しだ。もっぺん焼き払うぞ! 大爆炎の術式! 」

 

生じた隙を見計らって、アーサーというアルケミストが炎術スキルを使用する。機械籠手から放たれた炎は、空気中の酸素を喰らい尽くしながら瞬時に彼の前方へと広がり、塵からの復活を果たした敵を飲み込み、周囲を爆発の光で照らしあげた。

 

離れたこの場所にまで耳をつんざく音を伝えてくるその炎術の威力や凄まじく、サガの放つ一撃が児戯に見えるほどの勢いで、前方の空間全てを炎と煙で覆い尽くしていた。しかし。

 

「―――そして再びふりだしにもどる、か」

「……、けど、耐性が元に戻るのは、助かる。弱法師の呪言、使っとくね」

 

やがて煙が晴れる頃、灰色に燻出された空間から悠々と姿を現した、二十の数に増えた敵の姿を見て、レンという剣士はため息を吐きながら腰を低く落とし、居合の姿勢に構えた。

 

すかさずツクスルというカースメーカーが呪いの言葉を呟き、なんらかのスキルが発動した光が彼女の体より放たれ、敵の体を取り巻く。聞いたことのないスキルだが、名前的に敵が仕掛けてくる物理攻撃や属性攻撃の威力を軽減するか、あるいは敵の物理、属性耐性を下げるスキルだろう。

 

「もうこれで六十近くは倒したのよ!? いい加減、限度ってもんがあるでしょう!? 」

「だからって文句を俺に向かって言うなよ、ラグーナ! 」

「言い合っていてもしかたないだろう―――、ああ、来たのか、リッキィにサイモン」

「ええ。みんな、大丈夫? 」

「ああ。敵は数こそうんざりするほど出てくるが、強さは大したことない奴らばかりだ。―――とはいえ、いい加減、キリがないのにはうんざりだ。サイモン。何かわかるか?」

「ふむ。この手のタイプは大抵、核となる敵を倒せば、取り巻きごと消えると相場が決まっているものだが―――」

 

サイモンは眼鏡中央を押し上げて位置を直すと、目の前に群れる敵の集団を観察する。鋭い眼光が広大な空間の一部を大きく占有する人型の巨体の群れに向けられ、敵の集団は己の全てを見透かすかのような視線に、怯えるかのようにしてたじろいだ。

 

「―――どうやら全て同一個体のようだな。おそらくあそこに中心核はいないのだろう」

「その通りだ」

 

サイモンの結論に、ヴィズルが頷いて前へと進み出る。その場にいる全ての人の視線が彼へと集まった。同時に、彼のそばへとレンとツクスルが歩み寄って、周囲の守りを固める。敵の視線を警戒しての事だろう。

 

「人型の白い体躯。人面の額にある第三の目。鱗に覆われた下半身。魚のヒレに似たゼリー状の頭髪部。異様に発達した手腕部。肋骨部分にあるエラの切れ目。―――はるか過去の時代に、あれと似た姿の敵を見たことがある。おそらくあれは、魔のモノと呼ばれた宇宙怪獣が、己の体を地球環境へと適応させて生み出した奉仕種族、『フカビト』だ」

 

ヴィズル元院長がその名を述べた途端、己が正体を言い当てられたフカビトたちはピタリと震えを止めた。まるで微動だにしなくなった全身とは裏はらに、けれど頭部に生えた触手のような髪だけがざわざわと不自然に動き、剣呑な気配を発している。

 

「しかしあれは、末端に過ぎない。以前に調査隊を送り込んだときは、奴らを束ねる真祖と呼ばれる存在がいたと聞く。確か当時報告で聞いた奴の名前は、災禍王―――」

「それは人の子が勝手につけた名だ。本来、我に名はない。我は、我らが神に奉仕する種族を生み出し束ねるための、父にして母なる座にすぎん」

「―――誰だ! 」

 

ヴィズルの言葉を遮った者の出現に、レンが咄嗟の反応を示し、構えを深くしながら叫び尋ねる。すると、眼前、大型の巨人たちが祭祀のように群がる暗闇の中心、少し盛り上がった地面部の祭壇の上空に、それは突如として現れた。

 

「……うぇ、気持ちわる……」

「……、なんだ、それは」

 

フレドリカとサイモンの疑問も最もだと思う。そいつは、体表が真っ赤なクラゲに、ソフトシェルクラブの甲殻を被せ、足となる部分を、イソギンチャクの触手や、エビの足、サメの歯をあちこちに生やした様な、海の生物の特徴的な部分だけを片っ端から混ぜこぜにしたような外見をしていた。百メートルはある巨体の中心には魚と人を合成した様な顔が備え付けられており、それが一層の不気味さを煽る要素となっている。

 

「―――ヒトという種族に討伐されて以降、ヒトを憎み、嫌い、ヒト型を生み出さなくなったかのお方が、コトミネというヒトの協力の元、力を取り戻し、奴と同一化したというのはなんとも奇妙な感覚であるが……、まぁ良い。かのお方が目覚め、私をこの場に呼び出し、復活させたというのであれば、求められた役割を果たすのが従僕の使命―――」

 

『父にして母なる座』と名乗ったそいつは、二人の質問に答えることなく周囲の巨人が小さく見えるほどの体を大きく揺らすと、地面に垂れていた食虫植物の先端のような触手を動かし、持ち上げた。奴のあまりの大きさと遠近感が狂ったのだろう、触手の動きは緩慢に見える。だが、一秒とかからないであれだけの巨体が百メートル近くも持ち上がるのは、尋常な速度と力ではない。

 

「―――さぁ、子らよ。食事の時間だ。共に、目の前の供物を存分に喰らうとしよう」

 

そして振り下ろされる触手。同時に、下にて恭しく待機していた巨人どもがこちらにむけて突進してきた。ぱっと見、五百メートルはある距離を瞬時に詰めてくる様は、なんとも壮大な光景だと、どこか他人事の様に思う。これでは敵との接触に十秒もかかるまい。

 

「……、パーティーを二つに分ける! リッキィ、ラグーナ、アーサー、サイモンは俺と一緒にここで奴を倒す! それ以外のメンバーは奥へ進み、元凶を討て! いいな!」

 

茶色い髪を特徴的な髪型にまとめた細身のハイランダーの彼は、戦況を判断し、戦場によく通る声で、戦力の分断を指示した。彼の宣言の如き一喝と同時に、名を呼ばれた一同が気色を伴った、歓喜の、苦笑の、満面の、渋面の顔を浮かべて、次々に死地へと飛び出した。

 

「ええ、もちろんよ! 」

「ま、いつも通りってことね」

「へへっ、わかりやすくて好きだぜ、そういうの」

「そして苦労を背負うのは僕の役目というわけか……」

「あら、ご不満なら、あとで私の手料理で労ってあげましょうか? 」

「やめてくれ……、祝いの席で呪いの毒物を好んで経口摂取する被虐趣味は、僕にはない」

「なぁんですってぇ! 」

「事実だ、受け入れろ! 」

「―――なぁ、リッキィ。なんでラグーナって、腕前がああなのに料理好きなんだ?」

「知らない。呪いと毒の合わさった劇物を作り上げる人の気持ち、私に聞かないでよ」

 

そして彼らは緊張感なく、文句を言う暇を私たちに与えないまま、それぞれの獲物を構えて突進する。その気負いなく自然体な様は、しかしなんとも今の時代の冒険者が纏う雰囲気に似通ったところがある。そんな共通点は、彼らはかつて古き時代、最初に迷宮踏破者として名声を築き上げた英雄なのだと、不思議な安心感を抱かせてくれた。

 

「―――ならば期待に応えて、私達は奥へと進むとしよう」

 

勇敢に巨大な敵へと迷わず向かった彼らの判断を尊重して、シンが宣言する。言葉に反対するものはなく、誰もが無言のうちに、奥に潜む敵討伐の意思を固めていた。遅れて、暗闇を染め上げる閃光と爆音が戦闘開始の合図として鳴り響く。

 

「―――ところで、その、奥、とやらへ行くためには、どこに向かえばいいのかね? 」

 

空気中から伝わってくる戦闘の余熱が伝播してみんなの神経を昂らせる中、エミヤは冷静に不明点を指摘して尋ねた。あ、と誰かの声が漏れたのを皮切りに、私たちの視線の多くは、自然とヴィズル元院長に集まる。多分私同様、先程までの博識に期待してのものだろう。

 

「……、ご期待に添えず申し訳ないが、私は知らんぞ」

 

しかしその強面から発せられた言葉に、少しばかり落胆の空気が流れる。勝手だが、期待していた回答が得られなかった時のそれは、少しばかり大きかった。

 

「ご安心を。それならば私たちが存じております」

 

しかしそんな身勝手な思いに答える声があった。涼やかな声は、微かに弛緩した空気に緊張感を与え、私達の視線は一転して声の主の方へと向けられる。

 

「レン」

「はい。構造こそ少々異端ではありますが、この地下に沈んだフユキという街も、結局のところ造りは通常の迷宮と変わりありません。階層には迷宮があり、番人がおり、そして、その先にはさらに下層へと通じる階段がある。すなわち―――」

 

言葉に所作が続き、私たちはその白魚の様な指先を眺める。爪の先は先程突撃した彼らが戦闘を繰り広げている場所―――、のさらに奥にある暗闇の空間を指し示していた。

 

「番人の部屋の最奥です。先程、戦闘中に起きました爆発の最中、穴を確認致しました」

「―――ふむ」

「―――奥か」

 

レンの言葉に、ヴィズル元院長とエミヤが苦い顔をした。遅れて私たちもその言葉の意味に気がついて、個々の顔が曇ってゆく。

 

「なるほど。という事は、私たちもあの戦場を突っ切る必要があるというわけか」

 

しかし周囲の暗さに呑まれてゆくかのような雰囲気の只中にあって、ただ一人、シンだけがあっさりと言いのけた。彼はいい笑顔を浮かべ、瞳を爛々と輝かせ、両方の腰に携えた剣の柄握りしめて、体を疼かせている。

 

―――ああ、なんとも、シンらしい

 

彼は、目の前に広がる困難を喜んで、全身を震わせていた。そうとも。彼の本質は、衛兵ではなく、錬金術師ではなく、詩人ではなく、正義の味方ではなく、統治者ではなく、従者でなく、もちろん道具屋でないのだ。

 

進んで困難の道を選ぶ、勇敢とも、場合によっては蛮勇とも受け取られるその気質。犠牲や痛みを怖がって慎重や利を選ぶ私たちとは真反対のその資質は、まさに真の冒険者であり、英雄である人間が持つ資質と言って過言でないだろう。言うなれば、彼はまさになるべくして英雄の霊、とやらになったのだ。

 

「―――は、はは、あははははは。うん、ああ、シンの言う通りだな」

「うむ。洞穴の端を行こうにも、この大人数で天井の大部分を陣取り全体の様子を俯瞰出来る親玉と、大地を暴れまわる三十の敵の目をかいくぐって、というのは現実的ではないな」

「ならばいっそ、戦火飛び散る中を最短距離で一気に駆け抜けるのが上策ということですか。敵陣の中央突破! いやぁ、胸が高鳴りますねぇ……」

 

そして英雄であるシンの言葉に、ギルドの昔馴染み三人は笑いながら答える。シンの言動はいつだって無茶振りばかりだけれど、結果は大抵正しいのだ。彼らはそのことをよく知っているがゆえ、迷わずシンの提案に賛成した。そしてエミヤはその様子を眺めて苦笑し、ヴィズル元院長とレン、ツクスルは困惑顔を浮かべていた。

 

「……、彼らはいつもああなのかね? 」

「―――はい。あれが、シンと、彼を中心としたギルド「異邦人」という、私にとって最高の英雄と仲間たちです」

 

ヴィズル元院長の問いに私が最高の笑顔で答えると、彼とお付きの二人は一瞬あっけにとられた顔へと表情を浮かべたが、すぐにエミヤと同じような、慈愛と納得と諦観を織り交ぜたような複雑な、しかし受容の笑みへと変化させて、数度頷いた。

 

「なるほど、困難を前にして、気高く胸を張り、喜び勇む。そしてその向こう見ずとも思える勇気は、周囲を鼓舞し、弱気に陥った仲間を奮い立たせる。……あれが正しい英雄の姿、というやつ、か。―――ふ、では、今代最高のエトリアの英雄殿の指示に従うとしよう」

 

 

「悪いな、通るぞ! 」

「―――!? 」

 

私たちの先頭を疾風となり走り抜けるシンは跳躍すると、エミヤさんに似た構えから二本の剣を用いて器用に、『小手討ち』を繰り出して巨人の両腕を半分ほど断ち切り、腕の動きを封じた上で首の前面部を『ツバメがえし』で切り刻み、さらにすれ違いざまにその首の後ろ側に『首討ち』を叩き込んだ。シンは最後に巨人の後頭部を蹴って勢いをつけると、空中より地面へと降り立った。

 

言葉を発する間も無く先制攻撃を仕掛けられた巨人は、シンの連続攻撃により首と胴体を別けられ、蹴りの勢いにて頭部が地面に落下する。私たちは頭部を失った巨人の胴体のすぐ横を駆け抜けてゆく。

 

「先の先にて機先を制し、無双の構えから技の連撃を繰り出すか。二刀を容易く扱うセンスといい、成る程、彼のブシドーとして才能は底が知れないな……」

 

確かにその通りだ。しかも、彼の場合、おそらく初めて二本の刀を握って、あれなのだ。まさに才能の塊。シンと同じ職、ブシドーであるレンの独り言に内心同意を返しながら、けれど振り向きもせずに前を見て進む。死して成長を果たし強くなった彼の実力に驚きはしたが、今、それは重要なことではない。

 

「―――次のがくるぞ! 」

 

サガが叫んだ。仲間の死に反応してか、二匹目の巨人がこちらへと向かってきている。シンは攻撃の直後の着地や硬直などで若干体勢を崩しており、まだ次の攻撃に移れない状況だ。

 

「しかし私も負けん」

 

そこで前に出たのはレンだった。居合の構えをとって前傾姿勢気味に走っていたレンは、姿勢を保ったまま二番手として飛び出すと、通常の居合の姿勢よりも多少体を捻りつつ、目にも止まらぬスピードで剣を鞘から振り抜いた。青い刀身に鞘走りの際に生まれる火花が乱反射し、小粒の閃光が宙を舞う。

 

「抜刀氷雪改! 」

 

シンの攻撃が流麗な一連の動作の組み合わせによるものであるなら、こちらの攻撃は、一撃に全てをかける剣術だ。レンの放った氷の力を伴う斬撃は、刃先が鞘より完全に姿を現した瞬間より、空中に刀と同じ青の色をした力が形成され、超広範囲に青の軌跡を描きながら敵へと向かってゆく。

 

空中を進んだ斬撃は、とっさにガードをしてみせた巨人の腕と接触すると、その防御を無駄な足掻きと嘲笑うかのようにするりと体内への侵入を果たし、突き進み、背中側より抜けてゆく。遅れてギシギシと空気が歪む音が聞こえたかと思うと、レンの斬撃が通り抜けたその部分は氷で覆い尽くされた。

 

やがて私たちが身動きしなくなった敵の横を通り抜けた後、背後にて地面を揺らす衝撃が大きな落着音とともに周囲へと伝播し、私たちの行く手を微かばかりに拒む役割を果たした。命をかけた割には余りに僅かすぎる、巨人が末期に行った妨害を無視して、私たちは前へと進む。

 

「レン、やるな」

 

行く手を遮った敵を一手で始末してみせたレンの手際に、追いついたシンは短く褒める言葉をかけると再び先頭へと返り咲く。レンは自らの全速力を軽々と追い越していったシンの身体能力を見て、少しばかり悔しそうに眉をひそめると、しかしすぐさま平生の顔へと戻して、後ろ姿を見つめながら、言う。

 

「君のような才能に恵まれなかったものでね。一つの特技だけを極めた結果さ」

「そうか。しかし、見事な研鑽と腕前だ」

 

己を卑下する言葉をシンは真正面から受け取って、けれど取り合わず、再び賞賛の言葉をレンへと返す。あっけらかんとした態度に、レンは、ふぅ、とため息を漏らして、苦笑しながら無言にてその言葉を受け取ると、迷いを断ち切った様子で再び居合に構える。

 

どうやらたったそれだけのやりとりで二人は互いの理解を深めたようだった。近接職同士の同調という奴だろうか。シンとすぐに理解し合えるレンが少しばかり羨ましい。もやっとしたものが胸に湧いてきた。―――嫉妬だ。

 

「―――今度は集団で来たぞ! 」

「全方位からハイランダー達をガン無視して迫ってきていますねぇ」

「……どうやら上から本命もご登場のようだ」

 

しんがりをつとめるダリとピエールから警告を飛ばし、さらにエミヤが続けた。立て続けに二匹を始末した敵が自分たちを無視し真っ直ぐ進んでいる事から、私たちの目的を察したのだろう。だからこそ今度は、私たちの行動を阻害するように、徒党を組んで襲いかかって来たのだ。しかも、番人格の敵までもが、こちらへと近づいてきている。

 

「―――上の奴、体の割に速いぞ! 」

「このままでは、出口を体で塞がれる! 」

「……任せて」

 

サガとダリの叫びに、小さく反応した声があった。全力疾走している現在、ともすれば聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声を発したツクスルは、ボソボソと何事かをつぶやいた。

 

―――……!!

 

途端、私の全身を、つい先ほど味わった嫌悪感が走り抜けた。思わず振り向いて彼女の方を見ると、顔を伏せてと、口元を小さく動かしているツクスルの体を包む黒いローブから、さらに漆黒の色をした身の毛よだたせる瘴気が漏れて、彼女の小さな体を覆い尽くしていく。この感覚には覚えがある。これは先ほど、あの涸れた湖底で味わったばかりの―――

 

「上位者たる我の言葉に従え。『悶え、苦しめ、動くな』」

 

そしてツクスルが使用したカースメーカーのスキルは、敵に異常な変化を齎した。私たちに迫りつつあった敵は、瞬間まさに、完全にその動きを止めたのだ。

 

空中を浮遊していた巨大な核となる敵は、一瞬だけピタリと停止した。周囲より迫りつつあった敵は、駆けている姿勢そのままでの硬直したため、体勢を崩して地面に勢いよく転がってぶつかった。巨体がぶつかった衝撃に、地面より凄まじい量の土埃が舞い上がり、私たちに迫り来る。敵は苦悶の表情を浮かべてこちらに怨嗟の視線を送っていた。

 

「な、何が……」

「『禍神の呪言』。この世界に存在する、呪いの親玉の力を借りて、敵に命令する。基本的にどんな相手にでも通用するし、呪い、麻痺、石化に睡眠、混乱に恐怖といったいろんな状態異常を一気に起こすことが可能。……肉体に直接的影響を及ぼす必要のある毒だけは無理だけれど」

「は、はぁ……」

 

あっさりといってのけるが、それは物凄いスキルなのではないかと思う。どんな敵にでも複数の状態異常を引き起こすことが見込めるスキルなんて、まさに切り札といって過言でないスキルだ。シンといい、レンといい、ツクスルといい、どうやら英霊となる人物の身のこなしや修得しているスキルは、今の時代を生きる私たちが覚えているものよりもずっと協力であるらしい。

 

出来た隙を利用して、私たちは洞穴の奥へと駆け抜ける。そうしてツクスルが呪言を連続使用してくれたおかげで、私たちは全員は、空中を凄まじい速度で迫る砂埃が私たちを覆い尽くす前に、なんとか洞穴の端までたどり着くことができた。

 

しんがりをダリと入れ替わり、ツクスルの前に進み出て、周囲への警戒を密にする、シンとレン。二人の後ろに続いていたサガは洞穴の入り口に走り寄ると、壁面にぽっかりと空いた穴を潜ろうとして、しかしその入り口直前にて勢いよく跳ね返され、地面に尻餅をついた。

 

「―――くそっ、なんか障壁みたいなのがあるぞ!」

「地下への階段とは、本来なら番人を倒さねば通れぬ道だからな。―――奴め、世界樹の特性をここまでコピーしていたのか」

「院長。貴方、今、なんて……? 」

 

舌打ちをするヴィズル元院長に、ピエールが尋ねる。問いかけを無視したヴィズルはサガの横を通り抜けると、入り口の空中にあるのだろう障壁に手を差し出すと、黒眼鏡の奥の瞳を閉じて、集中の態度をとった。

 

「―――解除」

 

そして発せられた短い言葉。同時に、空中にて停止していたヴィズル元院長の腕が、するりと前へと押し出される。ヴィズルによって障壁が解除されたのだ。

 

「……ヴィズルでいい。今の時代、すでにエトリアを束ねる人間は私ではないのだから」

 

自虐ともつかない言葉を述べつつ、彼はたくましい体を横に退けた。壁面にあいた地下への入り口があらわになり、土煙に汚れた空気が現れた空間に飲み込まれてゆく。汚染された空気を取り込む様は、まるで、この地下に潜むものの特性を表しているかのようだと思った。

 

「ヴィズル」

「ん? 」

「私はここに残って彼らに協力する。私のスキルは多分、下にいるやつには通用しないから」

 

ツクスルが述べた言葉の意味を考えて、なるほど、と納得した。先ほど、カースメーカーである彼女は、自らのスキル『禍神の呪言』は、呪いの親玉の力を利用して敵に状態異常を引き起こすものであると言っていた。彼女のいう呪いの親玉とは、すなわち魔のモノであるに違いはあるまい。

 

だからこそ、その眷属である奴らには、目の前の敵には驚くほどその力が通用したのだが、けれど、だからこそ、その力が、呪いの親玉そのものに有効である可能性は低いだろうと推測し、彼女は自らの力を最大限に活かすため、この場に残る選択をしたのだ。

 

「―――そうか。……ここまでご苦労だったな」

「ん」

「ヴィズル。彼女が残るというのであれば、私もここに残り、彼女を守ろうと思う」

「……わかった」

 

レンの宣言にヴィズルは小さく頷いて肯定の意を返した。レンはそれに丁寧に頭を下げて返礼とすると、ツクスルの前に躍り出て、彼女を守る意思をあらわにする。二人の細い背中には、この場は何があろうと死守するし、敵は打倒するという、絶対の意思が宿っているかのように、頼もしいものだった。

 

「―――では、私たちは地下へ向かうとしようか」

「ああ」

 

エミヤの進言に、シンが頷き、狭い暗闇の空間へと飛び込んでゆく。エミヤ、ダリ、サガ、ピエール、私と続き、最後のヴィズルが背後の守りを固める。そして松明の光すら一瞬

無へと帰す暗闇の中、私たちは味方の意思を継ぐかのように、急ぎ前へと足を進めた。

 

 

「―――これが」

「最奥地……、か」

 

強化した身体で一時間以上も駆けて、奈落へと続いていた暗闇を抜けた先、広がっていた光景は壮大であり、幻想的であり、しかし、同時にひどくおぞましいものでもあった。抜けた先には広大な平原が広がっていた。見凝らせば、どこまでも続く広い大地は、おそらく過去の時代には、太陽の光を浴びて成長した青葉広がる草原だったのだろう。

 

しかし今、その原を、触手が覆い尽くしていた。遠く、平原の中心では、人の脳みその形をした魔のモノが鎮座している。まるで縄を全身に巻きつけられ、身動きを封ぜられたような姿は、まさに、祭り上げられた、という言葉がしっくりと当てはまるような出で立ちだった。

 

やがて巨大な空間の地面の大半を触手で埋め尽くす存在、すなわち、魔のモノである脳みそを覆う触手の密度は高くなってゆく。そして人の頭部のように変貌すると、続けて、顔面の形状が浮かび上がり、もう少しで顔に穴が空いて顔面の体裁が整う寸前、しかし奴は形状を変え、宙へと浮かび上がってゆく。

 

やがて魔のモノの親玉が潜んでいた部分の上空には、巨大な球体が浮かんでいた。それは球体でありながら、不定形でもあり、また、触手でもあった。先ほどの脳みそに触手が集まって、出来上がったのが、あの悍ましく蠢く星であるということだ。

 

『―――ようやく、ここまでたどり着く事が出来た』

 

敵を観察していると、広大な空間に静かな声が響く。老人でなく、子供でなく、男でなく、女でない、人ならぬものが人の声を真似ただけのような、どこか機械的な不自然さがあるその声は、目の前にいる縛り上げられた脳みそから発せられていた。

 

直後、暗闇に光が満ち溢れる。朝焼けの光に照らされたようだった。目も眩むような光に、思わず瞼と腕を用いて遮光を行う。そして。

 

「―――」

 

やがて構えを解いた時、眼前に現れた光景を見て、私は言葉を失った。触手を束ね、人の頭部の形へと変貌した奴は、全身からほのかな光を発し、一旦触手の集合を離散させ、平たいアメーバ状になっていた。

 

奴という光源があるものの、周囲の暗さと奴自身の明るさが邪魔をして正確な距離は計測できないが、軽く十キロ平方は超えているだろう天井の半分以上を覆い尽くし、一キロは軽く越しているだろう天井の高さの半分以上を埋めている事実から、奴のなんとも途方も無い巨大さが理解できる。

 

『思えば、腹を空かせたからと言って、追われていたからと言って、この星に着地したのがそもそもの間違いだった。―――お陰で数千年もの間、力を封ぜられ、我の力を利用し打倒され大半以上の肉体を失い逃げ回るという、恥辱に満ちた日々を過ごす羽目となった』

 

続けて、外周が不定形に蠢き、中央には巨大な亀裂が生じた。同時に奴の不定形の体に同じような亀裂がいくつも生じる。やがてそれらは、ゆっくりと上下に開くと、その奥より、黒白の入り混じった、大きな人間の瞳が無数に現れた。瞳は奴の巨大な体に見合った大きさで、横幅は一つ一つが百メートルにも達しようかという、巨大なものだった。

 

『しかし、その屈辱の日々もようやく終わりを告げた。まさか、我と同じ性質を持つ人間がこの星にいるとは思ってもいなかったが、奴の献身により、私はかつての力を取り戻すことができた』

 

奴の触手の一部が蠢く。暗闇の中、千メートルは優に距離があるはずなのに、私は奴のその場所に埋め込まれている存在に気がついた。見紛えるはずもないその姿は―――

 

―――言峰綺礼

 

奴に自らと同じ性質であると断言されたその男は、魔のモノの胸の内で満足げな顔を浮かべて眠っているかのように目を瞑り、穏やかな顔を浮かべていた。魔のモノは触手の足でその部分を静かに優しく撫でたかと思うと、一転、全身を痙攣させた。

 

『―――もはやこの星に未練はない。私は此度の来迎により得た得難き新たな客人を手土産に、この地を去ろう。―――しかし』

 

奴の言葉が途切れると同時に、空気が重くなる。細められた瞼が痙攣を起こしたかのように震えている。巨体の引き起こす振動は、奴の周囲の空気より私たちの周りまで伝播し、奴の感情を伝えてくる。―――それは、全てを焦がし尽くさんとするほどの、怒りだ。

 

やがて魔のモノは、己の自身の裡より生じたその負の感情を表すかのように、全ての瞳を大きく振盪させると、やがて静かに瞳を閉じ、そして再び瞼を開けた。巨大すぎる触手の体の上へと形成された無数の瞳の瞳孔が、全て私たちに向けられる。その瞳の奥に秘められた激憤の感情は、推し量ることも出来ないほどのプレッシャーとなり、私たちに襲いかかる。

 

『究極の個に等しい存在であるこの私が、矮小な存在の群れ相手にこうまでコケにされたまま、というのは勘弁ならない。―――私は、この地に存在する、私を封じ込めしオリジナルを消滅させることで直接的に復讐を果たし、同時に、間接的に貴様らへの復讐も済ませ、晴れ晴れとした心持ちで、この憎々しい大地から立ち去るとしよう』

 

地球上の生物全ての殲滅を宣言したそいつは、瞼をかっと開くと、溜め込んでいた感情を漏らす吐息を吐いたかのごとく、全身を震わせて、尊大に宣言した。

 

『我が名は『向こう側にあるもの/クラリオン』。すべての食物連鎖の頂点にして、生物の悪意を糧とし、喰らい尽くすものなり』

 

世界樹の迷宮 〜長い凪の終わりに〜

 

十七話 己の醜さを見つめた先にある世界 (B:世界樹 root)

 

終了